青空文庫アーカイブ
俳句の型式とその進化
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)凌駕《りょうが》して
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(例)[#地から3字上げ]
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三十年ほどの間すっかり俳句の世間から遠ざかって仮寝をしていた間に、いろいろな「新型式俳句」が発生しているのを、やっとこのごろ目をさましてはじめて気がついて驚いているところである。二十二字三字四字から二十五字六字というのがあるかと思うと三十四字五字というのもある。文字数においてすでに短歌の三十一文字を凌駕《りょうが》しているのであるが、一方ではまた短歌のほうでも負けていないで、五十文字ぐらいは普通だし六十字ぐらいまではたいして珍しくもないようである。
こういう新型式についていろいろ是非の議論もあるようである。そういう新型式を俳句とか短歌とかいう名前で呼んでよいか悪いかというような問題もあるが、それは元来議論にならない問題であって、議論をしても切りのない水掛け論に終わるほかはない。それと同様に、そういう形式の詩を作ってはいけないとか作ってもいいとかいうことも議論にならない事である。作りたい人はいくらでも勝手に作り、鑑賞したい人はいくらでも随意に鑑賞すればそれでよいわけであろうと思われる。
そういう議論のいかんにかかわらず新型式俳句というものが現に存在しており、それを主張する人と支持する人があるという事は否定することのできない事実である。科学者流の目で見れば、これも一つの文化的自然現象であって可否の議論を超越したものであるとも考えられる。むしろわれわれはこの現象がどうして発生したかを研究し、またその将来がどうなるであろうかということを考察した上で、これに対する各自の態度を決めるのが合理的ではないかと思われるのである。
それにはいろいろの研究が可能であるが、たとえば進化論的な立場からこの問題を考えてみるのも有益ではないかと思われる。
古い昔の短い詩形はかなり区々なものであったらしい、という事は古事記などを見ても想像される。それがだんだんに三十一文字の短歌形式に固定して来たのは、やはり一種の自然淘汰《しぜんとうた》の結果であって、それが当時の環境に最もよく適応するものであったためであろう。それには、この詩形が国語を構成する要素としての語句の律動《リズム》の、最小公倍数とか、最大公約数とかいったようなものになるという、そういう本質的内在的な理由もあったであろうが、また一方では、はじめはただ各個人の主観的詠嘆の表現であったものが、後に宮廷人らの社交の道具になり、感興や天分の有無に関せずだれも彼もダンスのステップを習うように歌をよむことになって来たために、自然に一定の型式を必要とすることになったのではないかと想像される。
こういうふうにいったん固定してしまうと、それが他のあらゆる文化の伝統と連鎖を成してあたかもクロモソームのように結合し、そうして代から代へと遺伝されて来たものであろう。
しかしまた遺伝のほうでいわゆる「突然変異《ミューテーション》」が行なわれるように、時々はいろいろな奇形児が生まれたであろうということは想像し難いことではない。しかしまた、そうした奇形児がいくらできてもその当時の環境に適合しなければその変形は存続することができなくて死滅したであろうと考えられる。
短歌から連歌への変遷もやはり一種の進化と見られる。たとえば一個のポリプを二つにちぎって、それぞれに独立の生命を持たせ、そうしてあとでそれを次々に接枝して行って一つの群体を作ったというふうにも見られなくはない。俳句はそのようなものの頭だけが分離し固定したものと言われないこともない。もちろん生物界でそういうふうの進化をしたものはないかもしれないが、そういう仮想的な変遷もやはり一種の進化と見られないことはないであろう。
そういうふうにして一度固定した俳句の型式が環境に適応したために何百年も遺伝されて伝わって来たのが、近代になって急に何かの原因で盛んに「突然変異《ミューテーション》」を生じて新型式を濫発せしめたというふうに考えられる。
生物の突然変異を生ずる原因が何であるかについてはそのほうの専門家でない自分のよく知るところでないが、しかし少なくもその一つの因子としては外界の物理的化学的条件が参与していることは疑いもないことである。地質時代でもある時代におけるこうした環境条件が特に突然変異の誘発に好適であったために、特にその時代に新しい型式の生物が多数に発生したであろうということも想像できるのであるが、それと同じように文化的要素の進化の道程における突然変異もまたその時代におけるいろいろな外的条件に支配されるものであって紫外線X線の放射、電流の刺激、特殊化学成分の過剰あるいは欠乏といったようなものに相当する環境の変化のために特にある時代において急激に促進されるであろうということはむしろ当然のことと思われる。
現代俳句の新型式を生んだ原因となるものは多様であろう。拙劣な譬喩《ひゆ》をかりて言えば外国のいろいろな詩形から放散する「輻射線《ふくしゃせん》」の刺激もあるであろうし、マルキシズムの注入によって周囲の媒質の「酸度」に変更を生じたためもあろうし、また一般文化の進歩のために思想の内容が豊富複雑になったために一種の「滲透圧《しんとうあつ》」が増大して伝統詩形の外膜を押し広げようとする力が働いたためもあるかもしれない。
とにかく、こういうふうに考えて来ると現在のいろいろさまざまな新型式の中にはあるいは将来の新種として固定し存続する資格をもったものがあるかもしれないし、またその中の多くは自然淘汰《しぜんとうた》で一代限りに死滅すべき運命をもっているかもしれない。しかし、現在のわれわれの知識でこれらの中のどれが永存しどれが死滅すべきかを予測することはなかなか容易なことではない。むしろ冷静な観察者となって自然の選択淘汰の手さばきを熟視するほかはないようにも思われるのである。
しかし、ここで一つ問題が起こる。それは、こういう変異の各相の中に未来の好適種の可能性が存するとすれば、われわれはむしろこの際できる限りの型式のヴェリエーションを尽くして選良候補者のストックを豊富にして、それらを生存競争の闘技場に送り込むのも時宜に適するものではないか、ということである。
いかにオリジナルな変異の産物でも当代の多数の観賞者が見てちっともおもしろくなかったり、ひとり合点で意味のわからないようなものは、わざわざ勦絶《そうぜつ》に骨を折らなくても当代の環境で栄えるはずはないであろう。全く死滅しないまでも山椒魚《さんしょううお》か鴨《かも》の嘴《はし》のような珍奇な存在としてかすかな生存をつづけるに過ぎないであろう。そのかわりまた、ちょっと見ると変なようでも読んでいるうちにだんだんおもしろくなって来るようなものがあれば、だれがなんと批評しようが自然に賛美者の数を増してくるであろう。それで、志のある人はなんの遠慮もなく、ありとあらゆる新型式をくふうして淘汰のアレナに投げ出すほうがいいわけであろうと思われる。
こういうふうに考えて来ると、ある一人が創成した新型式をその創成者自身が唯一絶対のものであるかのごとく固執しているのに対する、局外者の批判の態度のおのずから定まって来るであろうと思われる。
新型式中でも最も思い切った新型式としては、モザイックのような表象を漢字交じりで並べたテキストに、そのテキストとはだいぶかけ離れたルビーを並立させたものがある。これらになるともう単に俳句としての型式だけの変異ではなくて、詩というものの本質に関する変異である。音としての言語の時間的構成でなく、視覚に訴える文字としての言語の幾何学的構成だからである。これもおもしろい試みであろうが、どうせここまで来るくらいなら、いっそのこと、もう一歩進んで、たとえば碁盤目に雑多の表象を配列してクロスワード・パズルのようなものを作るとか、あるいは六面体八面体十二面体の面や稜《りょう》に字句を配置してそれをぐるぐる回転するとかいうところまで行ってはどうかと思うのである。そういうものがこの方面の行く先でありユートピアであるかもしれない。
そういう、現在のわれわれには夢のような不思議な詩形ができる日が到着したとして、そのときに現在の十七字定型の運命はどうなるであろうか。自分の見るところでは、たぶんその日になっても十七字俳句はやはり存続するであろうと思われる。生物の進化で考えてみると、猿《さる》や人間が栄える時代になっても魚は水に鳥は空におびただしく繁殖してなかなか種は尽きそうもない。それにはやはりそれだけの理由があるからである。芸術のほうで考えてみてもなおさらのこと一時は新しいものが古いものを掩蔽《えんぺい》するように見えても、その影からまたいちばん古いものが復活してくる。古くからあったという事実の裏には時の試練に堪えて長く存続すべき理由条件が具備しているという実証が印銘されているからである。
以上は新型式の勃興《ぼっこう》に惰眠《だみん》をさまされた懶翁《らんおう》のいまださめ切らぬ目をこすりながらの感想を直写したままである。あえて読者の叱正《しっせい》を祈る次第である。
[#地から3字上げ](昭和九年十一月、俳句研究)
底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年3月6日作成
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