青空文庫アーカイブ

銀座アルプス
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)闇《やみ》の中に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)岸田|劉生《りゅうせい》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二分ダーシ、1-3-92]

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(例)シャン/\/\と雪ぞりの鈴が聞こえ
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 幼時の記憶の闇《やみ》の中に、ところどころぽうっと明るく照らし出されて、たとえば映画の一断片のように、そこだけはきわめてはっきりしていながら、その前後が全く消えてしまった、そういう部分がいくつか保存されて残っている。そういう夢幻のような映像の中に現われた自分の幼時の姿を現実のこの自分と直接に結びつけて考えることは存外むつかしい。それは自分のようでもあり、そうでないようでもある。自分と密接な関係のあることは確実であるが、現在の自分とのつながりがすっかり闇の中に没している。その、絶えているかつながっているかわからないようなつながりを闇の中に探り出そうとするときに、われわれは平素頼みにしている自分の理性のたよりなさを感じる。そうして人間の意識的生活というものがほんとうに夢か幻のようなものであるように思われて来るのである。そういう記憶の断片がはたしてほんとうにあったことなのか、それとも、いつかずっと後年になってから見た一夜の夢の映像の記憶を過去に投影したものだか、記憶の現実性がきわめて頼み少ないものになって来るのである。
 自分の幼時のそういう夢のような記憶の断片の中に、明治十八年ごろの東京の銀座《ぎんざ》のある冬の夜の一角が映し出される。
 その映画の断片によると、当時八歳の自分は両親に連れられて新富座《しんとみざ》の芝居を見に行ったことになっている。それより前に、田舎《いなか》で母に連れられて何度か芝居を見たことはあったようであるが、東京の芝居を見たのはおそらくその時がはじめてであったらしい。どんな芝居であったかほとんど記憶がないが、ただ「船弁慶《ふなべんけい》」で知盛《とももり》の幽霊が登場し、それがきらきらする薙刀《なぎなた》を持って、くるくる回りながら進んだり退いたりしたその凄惨《せいさん》に美しい姿だけが明瞭《めいりょう》に印象に残っている。それは、たしか先代の左団次《さだんじ》であったらしい。そうして相手の弁慶はおそらく団十郎《だんじゅうろう》ではなかったかと思われるが、不思議と弁慶の印象のほうはきれいに消えてなくなってしまっている。しかし時の敗者たる知盛の幽霊に対して、子供心にもひどく同情というかなんというかわからない感情をいだいたものと見えて、そういう心持ちが今でもちゃんと残留しているのである。
 芝居茶屋というものの光景の記憶がかすかに残っている、それを考えると徳川時代の一角をのぞいて来たような幻覚が起こる。
 芝居がはねて後に一同で銀座までぶらぶら歩いたものらしい。そうして当時の玉屋《たまや》の店へはいって父が時計か何かをひやかしたと思われる。とにかくその時の玉屋の店の光景だけは実にはっきりした映像としていつでも眼前に呼び出すことができる。
 夜ふけて人通りのまばらになった表の通りには木枯らしが吹いていた。黒光りのする店先の上がり框《がまち》に腰を掛けた五十歳の父は、猟虎《らっこ》の毛皮の襟《えり》のついたマントを着ていたようである。その頭の上には魚尾形《ぎょびけい》のガスの炎が深呼吸をしていた。じょさいのない中老店員の一人は、顧客の老軍人の秘蔵子らしいお坊っちゃんの自分の前に、当時としてはめったに見られない舶来の珍しいおもちゃを並べて見せた。その一つはねずみ色の天鵞絨《びろうど》で作った身長わずかに五六寸くらいの縫いぐるみの象であるが、それが横腹の所のネジをねじると、ジャージャーと歯車のすれ合う音を立てながら走りだす、そうしてあの長い鼻を巧みに屈伸して上げたり下げたりしながら勢いよく走るのである。もう一つは毛深い熊《くま》があと足を前に投げ出してすわっている、それが首と前足とを動かして滑稽《こっけい》な格好をして踊りだすと腹の中でオルゴールのかわいらしい音楽が聞こえて来るのである。
 父がもしかしたら、どれか一つは買ってくれるかと思っていたが、ねだるのにはあまりに立派すぎる貴族的なおもちゃなので遠慮していたら、やはりとうとう買ってくれなかった。それから人力《じんりき》にゆられて夜ふけの日比谷御門《ひびやごもん》をぬけ、暗いさびしい寒い練兵場わきの濠端《ほりばた》を抜けて中六番町《なかろくばんちょう》の住み家へ帰って行った。その暗い丸《まる》の内《うち》の闇《やみ》の中のところどころに高くそびえたアーク燈が燦爛《さんらん》たる紫色の光を出してまたたいていたような気がする。そのころすでにそんなものがあったかどうか事実はわからないが、自分の記憶の映画にはそういうことになっているのである。
 この銀座《ぎんざ》の冬の夜の記憶が、どういうものかひどく感傷的な色彩を帯びて自分の生涯《しょうがい》につきまとって来た。それにはおそらく何か深い理由があるであろうが、それに関する手がかりは、自分の意識の世界からはどうしても探り出すことができないのである。その日の事を特に強い印象として焼き付けるだけの「光線」があったであろう、その光線はとうの昔に消えて、一枚の印画だけが永久に残っているのである。人殺しをした瞬間に偶然机の上におかれてあった紙片の上の文字が、殺人者の脳に焼き付いたような印象となって残ったという話があるが、これに似た現象は存外きわめて普通なことであるかもしれない。幼時の記憶の断片にはたいてい何かしらそういう「光線」があって、そのほうは当時「意識」されなかったために記憶から消えてしまうのではないかと思われる。
 晩年になって母にたびたび聞かされたところによると、当時の自分はひどく鉄道馬車に乗るのが好きで、時々書生や出入りのだれかれに連れられてはわざわざ乗りに行ったものだそうである。雨の降る日に二条の鉄路の中央のひどいぬかるみの流れを蹴《け》たててペンキ塗りの箱車を引いて行く二頭のやせ馬のあわれな姿や、それが時々爆発的に糞《ふん》をする様子などを思い出すことはできる。鉄路が悪かったのか車台の安定が悪かったのか、車は前後におじぎをするように揺れながら進行する。車掌が豆腐屋のような角笛《つのぶえ》を吹いていたように思うが、それはガタ馬車の記憶が混同しているのかもしれない。実際はベルであったかもしれない。しかし角笛であったような気がするというわけはこの馬車の記憶に結びついて離れることのできない妙な連想があるからである。それは、そのころどこかからもらった高価な舶来ビスケットの箱が錠前付きのがんじょうなブリキ製であったが、その上面と四方の面とに実に美しい油絵が描かれていた。その絵の一つが英国の田舎《いなか》の風景で、その中に乗客を満載した一台の郵便馬車《メールコーチ》が進行している。前世紀の中ごろあたりの西洋といえば想像されるような特別な世界が、この方四五寸の彩色美しい絵の中に躍動しているのである。この小さな菓子箱のふたを通してのぞいた珍しい世界がどんなに美しくなつかしいものであったか、ずっと晩年にほんとうの西洋へ行って見ても、この「夢の西洋」はどこにもなかった。この菓子箱のふたは自分の幼時の「緑の扉《とびら》」であったのである。それはとにかく、この絵の中のロンドン、リーディング間の郵便馬車の馬丁がシルクハットをかぶってそうしてやはり角笛を吹いている。そうして自分の「記憶」の夢の中では、この郵便馬車と、銀座《ぎんざ》の鉄道馬車とがすっかり一つに溶け合ってしまって、切っても切れない連想の糸でつながり合っているのである。
 明治十九年にはもう東京を去って遠い南海の田舎に移った。そうして十年たった明治二十八年の夏に再び単身で上京して銀座《ぎんざ》尾張町《おわりちょう》の竹葉《ちくよう》の隣のI家の二階に一月ばかりやっかいになっていた。当時父は日清戦役《にっしんせんえき》のために予備役で召集され、K留守師団に職を奉じながら麹町区《こうじまちく》平河町《ひらかわちょう》のM旅館に泊まっていたのである。
 Iの家の二階や階下の便所の窓からは、幅三尺の路地を隔てた竹葉の料理場でうなぎを焼く団扇《うちわ》の羽ばたきが見え、音が聞こえ、においが嗅《か》がれた。毘沙門《びしゃもん》かなんかの縁日にはI商店の格子戸《こうしど》の前に夜店が並んだ。帳場で番頭や手代や、それからむすこのSちゃんといっしょに寄り集まっていろいろの遊戯や話をした。年の若い店員の間には文学熱が盛んで当時ほとんど唯一であったかと思われる青年文学雑誌「文庫」の作品の批評をしたりしたことであった。中でいちばん年とった純下町型のYどんは時々露骨に性的な話題を持ち出して若い文学少年たちから憤慨排斥された。夜の三時ごろまでも表の人通りが絶えず、カンテラの油煙が渦巻《うずま》いていた。明け方近くなっても時々郵便局の馬車がけたたましい鈴の音を立てて三原橋《みはらばし》のあたりを通って行った。奥の間の主人主婦の世界は徳川時代とそんなに違わないように見えた。主婦は江戸で生まれてほとんど東京を知らず、ただ音羽《おとわ》の親類とお寺へ年に一度行くくらいのものであった。ほとんどわが子のように自分をかわいがってくれたが、話をすることがわからないので困った。自分の世界の事を相手が全部知っているという仮定を置いての話であるからわかりにくいのであった。
 むすこのSちゃんに連れられては京橋《きょうばし》近い東裏通りの寄席《よせ》へ行った。暑いころの昼席だと聴衆はほんの四五人ぐらいのこともあった。くりくり坊主の桃川如燕《ももかわじょえん》が張り扇で元亀《げんき》天正《てんしょう》の武将の勇姿をたたき出している間に、手ぬぐい浴衣《ゆかた》に三尺帯の遊び人が肱枕《ひじまくら》で寝そべって、小さな桶形《おけがた》の容器の中から鮓《すし》をつまんでいたりした。西裏通りへんの別の寄席《よせ》へも行った。伊藤痴遊《いとうちゆう》であったかと思う、若いのに漆黒の頬髯《ほおひげ》をはやした新講談師が、維新時代の実歴談を話して聞かせているうちに、偶然自分と同姓の人物の話が出て来た。Sが笑い出したら、講談師も気がついたか自分の顔ばかり見ながらにやにやして話をつづけた。
 銀座《ぎんざ》の西裏通りで、今のジャーマンベーカリの向かいあたりの銭湯へはいりに行っていた。今あるのと同じかどうかはわからない。芸者がよく出入りしていた。首だけまっ白に塗ってあごから上の顔面は黄色ないしは桃色にして、そうして両方のたぼを上向きにひっくらかえしているのが田舎《いなか》少年の目には不思議に思われた。それから、五丁目あたりの東側の水菓子屋で食わせるアイスクリームが当時の自分には異常に珍しくまたうまいものであった。ヴァニラの香味がなんとも知れず、見た事も聞いた事もない世界の果ての異国への憧憬《どうけい》をそそるのであった。それを、リキュールの杯ぐらいな小さなガラス器に頭を丸く盛り上げたのが、中学生にとってはなかなか高価であって、そうむやみには食われなかった。それからまた、現在の二葉屋《ふたばや》のへんに「初音《はつね》」という小さな汁粉屋《しるこや》があって、そこの御膳汁粉《ごぜんじるこ》が「十二か月」のより自分にはうまかった。食うという事は知識欲とともに当時の最大の要事であったのである。
 父に連れられてはじめて西洋料理というものを食ったのが、今の「天金《てんきん》」の向かい側あたりの洋食店であった。変な味のする奇妙な肉片を食わされたあとで、今のは牛の舌だと聞いて胸が悪くなって困った。その時に、うまいと思ったのは、おしまいの菓子とコーヒーだけであった。父に連れられて「松田《まつだ》」で昼食を食ったのもそのころであったように思う。玉子豆腐の朱わんのふたの裏に、すり生姜《しょうが》がひとつまみくっつけてあったことを、どういうわけか覚えている。父が何かしらそれについて田舎と東京との料理の比較論といったようなものをして聞かせたようであった。
 天狗煙草《てんぐたばこ》が全盛の時代で、岩谷《いわや》天狗の松平《まつへい》氏が赤服で馬車を駆っているのを見た記憶がある。店の紅殻色《べんがらいろ》の壁に天狗の面が暴戻《ぼうれい》な赤鼻を街上に突き出したところは、たしかに気の弱い文学少年を圧迫するものであった。松平氏は資本家で搾取者であったろうが、彼の闘志と赤色趣味とは今のプロレタリア運動にたずさわる人々と共通なものをもっていた。しかしまたピンヘッドやサンライズを駆逐して国産を宣伝した点では一種のファシストでもあったのである。彼もたしかに時代の新人ではあった。
 旧時代のハイカラ岸田吟香《きしだぎんこう》の洋品店へ、Sちゃんが象印の歯みがきを買いに行ったら、どう聞き違えたものか、おかしなゴム製の袋を小僧がにやにやしながら持ち出したと言って、ひどくおかしがって話したことを思い出す。Sは口ごもって、ひどくはにかんだように物を言う癖があったのである。幼い岸田|劉生《りゅうせい》氏があるいはそのころ店先をちょこちょこ歩いていたかもしれないという気がする。
 新橋《しんばし》詰めの勧工場がそのころもあったらしい。これは言わば細胞組織の百貨店であって、後年のデパートメントストアの予想《アンチシペーション》であり胚芽《エンブリオ》のようなものであったが、結局はやはり小売り商の集団的|蜂窩《ほうか》あるいは珊瑚礁《さんごしょう》のようなものであったから、今日のような対小売り商の問題は起こらなくても済んだであろう。とにかく、これは、田舎者《いなかもの》が国へのみやげ物を物色するには最も便利な設備であった。それから考えると、東京市民の全部がことごとく「田舎者」になった今日、デパートの繁盛するのは当然であろう。ただ少数な江戸っ子の敗残者がわざわざ竹仙《ちくせん》の染め物や伊勢由《いせよし》のはき物を求めることにはかない誇りを感ずるだけであろう。しかしデパートの品物に「こく」のある品のまれであることも事実である。
 明治三十二年の夏、高等学校を卒業して大学にはいったのでちょうど四年目に再び上京した。谷中《やなか》の某寺に下宿をきめるまでの数日を、やはり以前の尾張町《おわりちょう》のI家でやっかいになった。谷中へ移ってからも土曜ごとにはほとんど欠かさず銀座《ぎんざ》へ泊まりに行った。当時、昔の鉄道馬車はもう電車になっていたような気がするが、「れんが」地域の雰囲気《ふんいき》は四年前とあまり変わりはなかったようである。ただ中学生の自分が角帽をかぶり、少年のSちゃんが青年のS君になっていつのまにか酒をのむことを覚えていたくらいであった。熊本《くまもと》で漱石先生に手引きしてもらって以来俳句に凝って、上京後はおりおり根岸《ねぎし》の子規庵《しきあん》をたずねたりしていたころであったから、自然にI商店の帳場に新俳句の創作熱を鼓吹したのかもしれない。当時いちばん若かったKちゃんが後年ひとかどの俳人になって、それが現に銀座|裏河岸《うらがし》に異彩ある俳諧《はいかい》おでん屋を開いているのである。
 鍋町《なべちょう》の風月《ふうげつ》の二階に、すでにそのころから喫茶室《きっさしつ》があって、片すみには古色|蒼然《そうぜん》たるボコボコのピアノが一台すえてあった。「ミルクのはいったおまんじゅう」をごちそうすると言ったS君が自分を連れて行ったのがこの喫茶室であった。おまんじゅうはすなわちシュークリームであったのである。シューというのはフランス語でキャベツのことだとS君が当時フランス語の独修をしていた自分に講釈をして聞かせた。
 運命の神様はこの年から三十余年後の今日までずっと自分を東京に定住させることにきめてしまった。明治四十二年から四年へかけて西洋へ行っている間だけがちょっと途切れてはいるが、心持ちの上では、この明治三十二年以後今日まではただひとつながりの期間としか思われない。従って自分の東京と銀座に関する記憶は、※[#二分ダーシ、1-3-92]※[#二分ダーシ、1-3-92]――のような三つの部分から成り立っている。この最後の長線はどこまで続くか不明である。第一の短線と第二の短線との間が約十年でこの二つははっきり分かれている。第二短線と第三長線との間は四年しかないので、第三線の初めごろの事がらがどうかすると第二線内の事がらの中に紛れ込んで混同する恐れがある。第三線の長さは約三十年であるが、事がらによっては三十年前がつい近ごろのように思われ、また事がらによっては去年の事が十年前のようにも思われる。ひとつながりの記憶の蛇形池《サーペンタイン》の中で「記憶の対流《コンヴェクション》」とでもいったようなものが行なわれるらしい。
 第三線にはかなりの幅がある。自分が世間に踏み出してからの全生涯《ぜんしょうがい》がこの線の中に含まれているからである。そうしてこの線を組織するきわめて微細な繊維のようになった自分の「銀座《ぎんざ》線」とでもいったようなものがあり、これが昔の※[#二分ダーシ、1-3-92]※[#二分ダーシ、1-3-92]の中の銀座の夢につながっているのである。この※[#二分ダーシ、1-3-92]※[#二分ダーシ、1-3-92]の中では銀座というものが印象的にはかなり重要な部分を占めていた、それの影響が後年の――の中の自分の銀座観に特別の余波を及ぼしていることはたしかである。
 震災以後の銀座には昔の「煉瓦《れんが》」の面影はほとんどなくなってしまった。第二の故郷の一つであったIの家はとうの昔に一家離散してしまったが家だけは震災前までだいたい昔の姿で残っていたのに今ではそれすら影もなくなってしまい、昔|帳場格子《ちょうばごうし》からながめた向かいの下駄屋《げたや》さんもどうなったか、今|三越《みつこし》のすぐ隣にあるのがそれかどうか自分にはわからない。十二か月の汁粉屋《しるこや》も裏通りへ引っ込んだようであったがその後の消息を知らない。足もとの土でさえ、舗装の人造石やアスファルトの下に埋もれてしまっているのに、何をなつかしむともなく、尾張町《おわりちょう》のあたりをさまよっては、昔の夢のありかを捜すような思いがするのである。
 谷中《やなか》の寺の下宿はこの上もなく暗く陰気な生活であった。土曜日に尾張町へ泊まりに行くと明るくて暖かでにぎやか過ぎて神経が疲れたが、谷中《やなか》へ帰るとまた暗く、寒く、どうかすると寒の雨降る夜中ごろにみかん箱のようなものに赤ん坊のなきがらを収めたさびしいお弔いが来たりした。こういう墓穴のような世界で難行苦行の六日を過ごした後に出て見た尾張町《おわりちょう》の夜の灯《ひ》は世にも美しく見えないわけに行かなかったであろう。今日いわゆるギンブラをする人々の心はさまざまであろうが、そういう人々の中の多くの人の心持ちには、やはり三十年前の自分のそれに似たものがあるかもしれない。みんな心の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている。銀座《ぎんざ》の舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出かける。ちょっとした買い物でもしたり、一杯の熱いコーヒーでも飲めば、一時だけでもそれが満たされたような気がする。しかしそんなことでなかなか満たされるはずの空虚ではないので、帰るが早いか、またすぐに光の町が恋しくなるであろう。いったいに心のさびしい暗い人間は、人を恐れながら人を恋しがり、光を恐れながら光を慕う虫に似ている。自分の知った範囲内でも、人からは仙人《せんにん》のように思われる学者で思いがけない銀座の漫歩を楽しむ人が少なくないらしい。考えてみるとこのほうがあたりまえのような気がする。日常人事の交渉にくたびれ果てた人は、暇があったら、むしろ一刻でも人寰《じんかん》を離れて、アルプスの尾根でも縦走するか、それとも山の湯に浸って少時の閑寂を味わいたくなるのが自然であろう。心がにぎやかでいっぱいに充実している人には、せせこましくごみごみとした人いきれの銀座を歩くほどばからしくも不愉快なことはなく、広大な山川の風景を前に腹いっぱいの深呼吸をして自由に手足を伸ばしたくなるのがあたりまえである。F屋|喫茶店《きっさてん》にいた文学青年給仕のM君はよく、銀座なんか歩く人の気が知れないと言っていたが、考えてみれば誠にもっとも至極なことである。
 アルプスと言えば銀座《ぎんざ》にもアルプスができた。デパートの階段を頂上まで登るのはなかなかの労働である。そうして夏の暑い日にその屋上へあがれば地上百尺、温度の一度や二度ぐらいは低い。上には青空か白雲、時には飛行機が通る。駿河《するが》の富士や房総《ぼうそう》の山も見える日があろう。ついでに屋上さらに三四百尺の鉄塔を建てて頂上に展望台を作るといいと思う。その側面を広告塔にすれば気球広告よりも有効で、その料金で建設費はまもなく消却されるであろう。高い所に上がりたがるのは人間というものに本能的な欲望である。この欲望は赤ん坊の時からすでに現われる。自分が四歳の時に名古屋《なごや》にいたころのかすかな思い出の中には、どこか勝手口のような所にあった高い板縁へよじ上ろうよじ上ろうとしてあせったことが一つの重大な事項になっているのである。これに似た記憶は多くの人に共通なものであろう。この本能を守り立てればアルピニストになれる。エヴェレストの頂上をきわめようとして、それがために貴重な生命をおとしても悔やまないようになる。それで、事によるとデパートのはやる理由のことごとくが必ずしも便利重宝一点張りのものでもないかもしれない。そうでないとすると小売り商の作戦計画にはこの点を考慮に入れなければなるまい。
 デパートアルプスには、階段を登るごとに美しい物と人との「お花畑」がある。勝手に取って持って来ることは許されないが、見るだけでも目の保養にはなる。千円の晴れ着を横目ににらんで二十銭のくけひもを買えば、それでその高価な帯を買ったような不思議な幻覚を生ずる事も可能である。陳列されてある商品全部が自分のもので、宅《うち》へ置ききれないからここへ倉敷料なしのただで預けてあると思えば、金持ち気分になりすますことも容易である。入用なときはいつでも「預かり証」と引き換えに持って帰ることができるのである。ただ問題は、肝心の時にその「預かり証」がなくなっていることである。
 アルプスにも山火事があるように、デパートにも火事がある。山火事は谷から峰へと燃え上がるが、また上から下へも燃えて行く。しかし、デパートの火事は下へは燃えないで、上へばかり燃え抜けるから、逃げ道さえあいていれば下へ逃げればよい。下へ逃げそこなったら頂上の岩山の燃え草のない所へ行けば安全である。白木屋《しろきや》の火事の時に、屋上が焼け落ちるかもしれないと言っておどかす途方もない与太郎があったそうであるが、鉄筋コンクリートの岩山は火には決して焼けくずれない。しかも熱伝導がきわめて悪いから下で半日焼けても屋上でははき物をはいた足の裏を焼けどする心配もない。窓からのぼる煙が渦巻いて来たら床の面へ顔をつければよいかと思われる。しかし、それも何千人と折り重なっては困るであろうし、また満員のデパートに急な火が起これば階段が人間ですし詰めになって閉塞《へいそく》してしまう恐れがある。映画館の火事でそういう実例がたびたびあった。そういう時にいちばんだいじなのは遭難者の訓練であるが、いちばんむつかしいのもまたその訓練である。
 火事は物質の燃焼する現象であるからやはり一種の物理化学的現象である。この現象は日本には特別多い。それだのに日本の科学者で火事の研究をする人の少ないのは不思議である。西洋の大学のどこにもまだ火災学という名前の講義をしている所がないからであるかもしれない。それはとにかく、よほど用心しないと、デパートというものは世にも巧妙な大量殺人機械になる恐れが充分にある。燃料を満載してある上に、しかも発火すると同時に出口が人間で閉塞《へいそく》し、その生きた栓《せん》が焼かれる仕掛けになっているからである。山火事の場合は居合わす人数の少ないだけに、損害は大概|莫大《ばくだい》ではあるが、金だけですむ。
 デパートアルプスの頂上から見おろした銀座《ぎんざ》界隅《かいわい》[#「界隅」はママ]の光景は、飛行機から見たニューヨーク、マンハッタンへんのようにはなはだしい凹凸《おうとつ》がある。ただ違うのはこっちのいちばん高い家の高さがかの地のいちばん低い家の高さに相当する点であろう。このちぐはぐな凹凸は「近代的感覚」があってパリの大通りのような単調な眠さがない。うっかりすると目を突きそうである。また雑草の林立した廃園を思わせる。蟻《あり》のような人間、昆虫《こんちゅう》のような自動車が生命の営みにせわしそうである。
 高い建物《ビルディング》の出現するのははなはだ突然である。打ち出の小槌《こづち》かアラディンのランプの魔法の力で思いもよらぬ所にひょいひょいと大きなビルディングが突然現われる。建物は実は長い間にきわめて緩徐に造り上げらるるのであるが、その薄ぎたない見すぼらしい目隠しがある日に突然取り去られるからである。長い間人目につかない所でこつこつ勉強して力を養っていた人間がある日の運命のあけぼのに突然世間に顔を出すようなものである。
 ネオンサインもあっちこっちとむやみにふえるが、このほうは建築とちがって一夜にでもわずかな費用で取り付けられる。そのかわりにまたわずかに数分間でもはげしい降雹《こうひょう》があれば半分通りはみごとにたたきこわされるであろう。考えてみるとネオン燈がはやり始めて以来、まだ一度も著しい降雹がなかったようであるが、今に四五月ごろの雷雨性の不連続線に伴のうて鳩卵《きゅうらん》大《だい》の降雹がほんのひとしきり襲って来れば、銀座付近が一時はだいぶ暗くなる事であろう。その時が今から的確に予報できればどこかでネオンガスの買い占めが起こるかもしれない。しかし、降雹がなくとも、狂風にあおられた街頭の雑品が飛んで来てぶつかれば結果は同様である。その時のために今から用心したいと思う人は、簡単に金網で囲んでおけばいいと思うが、なんでもあすの用心をするということはおよそ近代的でないらしい。
 暴風の跡の銀座《ぎんざ》もきたないが、正月|元旦《がんたん》の銀座もまた実に驚くべききたない見物《みもの》である。昭和六年の元旦のちょうど昼ごろに、麻布《あざぶ》の親類から浅草《あさくさ》の親類へ回る道順で銀座を通って見たときの事である。荒涼、陰惨、ディスマル、トロストロース、あらゆる有り合わせの形容詞の総ざらえをしても間に合わない光景である。いつもは美しく飾り立てた小売り店の表には、実に見すぼらしい明治時代の雨戸がしめてある。大商店のショウウィンドウにははげさびた鎧戸《よろいど》か、よごれた日除幕《ブラインド》がおりている。死に物狂いの大晦日《おおみそか》の露店の引き上げた跡の街路には、紙くずやら藁《わら》くずやら、あらゆるくずという限りのくず物がやけくそに一面に散らばって、それがおりからのからび切った木枯らしにほこり臭い渦《うず》を巻いては、ところどころの風陰に寄りかたまって、ふるえおののきあえいでいるのである。言わば白粉《おしろい》ははげ付け髷《まげ》はとれた世にもあさましい老女の化粧を白昼烈日のもとにさらしたようなものであったのである。
 これに反してまた、世にも美しいながめは雪の降る宵《よい》の銀座の灯《ひ》の町である。あらゆる種類の電気照明は積雪飛雪の街頭にその最大能率を発揮する。ネオンサインの最も美しく見えるのもまた雪の夜である。雪の夜の銀座はいつもの人間臭いほこりっぽい現実性を失って、なんとなくおとぎ話を思わせるような幻想的な雰囲気《ふんいき》に包まれる。町の雑音までが常とは全くちがった音色を帯びて来る。ショウウィンドウの中の品々が信じ難いような色彩に輝いて見えるのである。そういうときに、清らかに明るい喫茶店《きっさてん》にはいって、暖かいストーブのそばのマーブルのテーブルを前に腰かけてすする熱いコーヒーは、そういう夢幻的の空想を発酵させるに適したものである。
 中学校で教わったナショナルリーダーの「マッチ売りの娘」の幻覚のように、大きなクリスマストリーが、神秘的に光り輝く霧の中に高く浮かみ上がる。あらゆる過去へのあこがれと、未来への希望とがその樅《もみ》の小枝の節々につるされた色さまざまの飾り物の中からのぞいているのである。寺々の鐘が鳴り渡ると爆竹がとどろいてプロージット、プロージットノイヤールという声々が空からも地からも沸き上がる。シャン/\/\と雪ぞりの鈴が聞こえ、村の楽隊のセレネードに二階の窓からグレーチヘンが顔を出す。たわいもない幻影を追う目がガラス棚《だな》のチョコレートに移ると、そこに昔の夢のビスケット箱の中のメールコーチが出現し、五十年前の父母の面影がちらつき、左団次の知盛《とももり》が髪を乱して舞台に踊るのである。コーヒーの味のいちばんうまいのもまたそういうときである。
 雪や寒い雨の日にコーヒーのうまいのはどういうわけであるか気象学者にも生理学者にもこれはわからない。空気が湿っていて純粋な「渇《かわき》」を感じないために、余裕のできた舌の感覚が特別繊細になっているためかもしれないと思われる。
 銀座《ぎんざ》でコーヒーを飲ませる家は数え切れないほどたくさんあるが、家ごとにみんなコーヒーの味がちがう。そうして自分でほんとうにうまいと思うコーヒーを飲ましてくれる家がきわめて少ない。日本の東京の銀座も案外不便なところだと思うことがある。日本でのんだいちばんうまいコーヒーはずっと以前にF画伯がそのきたない画室のすみの流しで、みずから湯を沸かしてこしらえてくれた一杯のそれであった。
 コーヒーに限らず、デパートの商品でも、あのようにたくさんにあるものの中で自分の趣好に適合するものの少ないのに困ることがしばしばある。コーヒー茶わんとか灰皿《はいざら》とかのこわれた代わりを買いに行っても、近ごろのものには、大概たまらなくいやだと思うような全く無益な装飾がしてあってどうにも買う気になれないのである。ネクタイがあまり古ぼけたので一つ奮発しようと思って物色しても、あのたくさんな商品の中にこれをと思って手の出るのはまれである。これは自分の趣味|嗜好《しこう》が時代に遅れたという事実を証明する以外になんらの意味もない些事《さじ》ではあろうが、この一些事はやはりちょっと自分にものを考えさせる。こういう時にわれわれがもしも、自分のいちばんいやなようないちばん新しい傾向の品を買って来て我慢して使ってみていると、おしまいには案外それが好きになるかもしれない。殺風景だと思っていたコンクリートの倉庫も見慣れると賤《しず》が伏屋《ふせや》とはまたちがった詩趣や俳味も見いだされる。昭和模様のコーヒー茶わんでも慣れればおもしろくなるかもしれない。それがおもしろくなるまでの我慢がしきれないで、近ごろの若い者はを口癖にいうのは、畢竟《ひっきょう》もう先が短くなった証拠かもしれない。もしも、これで百歳まで生きる覚悟があったら、自分はやっぱり奮発していやな品に慣れる努力をするであろう。時代のアルプスを登るにはやはり骨が折れる。自分もせいぜい長生きする覚悟で若い者に負けないように銀座《ぎんざ》アルプスの渓谷《けいこく》をよじ上ることにしたほうがよいかもしれない。そうして七十歳にでもなったらアルプスの奥の武陵《ぶりょう》の山奥に何々会館、サロン何とかいったような陽気な仙境《せんきょう》に桃源《とうげん》の春を探って不老の霊泉をくむことにしよう。
 八歳の時に始まった自分の「銀座の幻影」のフィルムははたしていつまで続くかこればかりはだれにもわからない。人は老ゆるが自然はよみがえる。一度影を隠した銀座の柳は、去年の夏ごろからまた街頭にたおやかな緑の糸をたれたが、昔の夢の鉄道馬車の代わりにことしは地下鉄道が開通して、銀座はますます立体的に生長することであろう。百歳まで生きなくとも銀座アルプスの頂上に飛行機の着発所のできるのは、そう遠いことでもないかもしれない。しかしもし自然の歴史が繰り返すとすれば二十世紀の終わりか二十一世紀の初めごろまでにはもう一度関東大地震が襲来するはずである。その時に銀座《ぎんざ》の運命はどうなるか。その時の用心は今から心がけなければ間に合わない。困った事にはそのころの東京市民はもう大地震の事などはきれいに忘れてしまっていて、大地震が来た時の災害を助長するようなあらゆる危険な施設を累積していることであろう。それを監督して非常に備えるのが地震国日本の為政者の重大な義務の一つでなければならない。それにもかかわらず今日の政治をあずかっている人たちで地震の事などを国の安危と結びつけて問題にする人はないようである。それで市民自身で今から充分の覚悟をきめなければせっかく築き上げた銀座アルプスもいつかは再び焦土と鉄筋の骸骨《がいこつ》の砂漠《さばく》になるかもしれない。それを予防する人柱の代わりに、今のうちに京橋と新橋との橋のたもとに一つずつ碑石を建てて、その表面に掘り埋めた銅版に「ちょっと待て、大地震の用意はいいか」という意味のエピグラムを刻しておくといいかと思うが、その前を通る人が皆円タクに乗っているのではこれもやはりなんの役にも立ちそうもない。むしろ銀座アルプス連峰の頂上ごとにそういう碑銘を最も目につきやすいような形で備えたほうが有効であるかもしれない。人間と動物とのちがいはあすの事を考えるか考えないかというだけである。こういう世話をやくのもやはり大正十二年の震火災を体験して来た現在の市民の義務ではないかと思うのである。
[#地から3字上げ](昭和八年二月、中央公論)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年4月9日作成
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