青空文庫アーカイブ

二つの正月
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)九州の武雄温泉《たけおおんせん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)七五三《しめ》松|飾《かざ》り

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(例)[#地から1字上げ](昭和五年二月『文芸春秋』)
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 九州の武雄温泉《たけおおんせん》で迎えた明治三十年の正月と南欧のナポリで遭った明治四十三年の正月とこの二つの旅中の正月の記憶がどういう訳か私の頭の中で不思議な聯想の糸につながれて仕舞い込まれている。一方を思い出すと必ず他方がくっついて一緒に出て来るのである。
 熊本高等学校に入学した年の冬の休みに長崎から佐世保《させぼ》へかけての見学をした。熊本から百貫《ひゃっかん》まで歩いて夜船で長崎へ渡りそこで島原の方から来る友人四、五名と落ち合ったのである。なにしろ三十年も昔のことで大概のことは忘れてしまっているうちにわずかに覚えていることが妙に官能的なことばかりであるのに気が付く。
 その頃の長崎にはロシアの東洋艦隊の勢力が港町の隅々まで浸潤していた。薄汚い裏町のようなところの雑貨店の軒にロシア文字の看板が掛かっていたりした。そうした町を歩いている時に何とも知れぬ不思議な匂いがした。何の匂いだろうと考えたがついに解らなかったことを思い出す。そうしてその匂いがロシアの東洋艦隊というものと何かの関係があったような気がするのである。
 長崎を立って時津《ときつ》に向かう途中でロシア人専門の遊廓《ゆうかく》だというところを通ったら二階から女どもが見下ろして何かしら分らないことを云って呼びかけた。それがやはりロシア語であったことになっている。そんなことは解るはずがないのに、夢のような記憶では、それがそうであったことになっているのである。当時の露国海軍のブルータルな勢力の圧迫が若い頭に何かしら強い印銘を与えていたかもしれない。
 時津の宿で何とかいう珍しい貝の吸物を喰わされた。ずっと後にかの地における切支丹《キリシタン》迫害の歴史を読んで以来はこの貝の吸物が切支丹と一緒に思い出されるのも不思議であるが、要するにどちらも私にはかなりに官能的なものである。
 時津から早岐《はいき》まで、哀れげな小蒸気船に乗っての大村湾縦走はただうすら寒い佗しい物憂さの単調なる連続としてしか記憶に残っていない。佐世保もただ殺風景な新開町であった。有田については陶器よりも別な珍奇なものが頭の中のスケッチブックに記録されている。村外れの茶店で昼飯を食った時に店先で一人の汚い乞食婆さんが、うどんの上に唐辛子《とうがらし》の粉を真赤になるほど振りかけたのを、立ちながらうまそうに食っていた姿が非常に鮮明に記録されている。こういうのはおそらくその後何かの機会に何遍となく同じ記憶の復習をし修繕を加えて来たために三十年後の今日まで保存されているのであろう。
 その婆さんの鼻の動く工合までも覚えているような気がするのである、これもはなはだ官能的である。
 武雄の温泉宿で泊ったのがちょうど大晦日《おおみそか》の晩であった。明日はここから汽車にのって一と息に熊本へ帰るというので、一同元気づいてだいぶ賑やかに騒いだりした。浴場へ行って清澄な温泉に全身を浸し、連日の疲れを休めていると、どやどやと一度に五、六人の若い女がはいって来て、そこに居たわれわれ男性の存在には没交渉に、その華やかな衣裳を脱いで、イヴ以来の装いのままで順次に同じ浴槽の中に入り込んで来た。霊山の雲霧のごとく立昇る湯気の中に、玲瓏《れいろう》玉を溶かせるごとき霊泉の中に紅白の蓮華が一時に咲き満ちたような感じがしたのであった。これは官能的よりむしろエセリアルであった。
 翌朝は宿で元日の雑煮《ぞうに》をこしらえるのに手まがとれた。汽車の時間が迫ったので、みんな店先で草鞋《わらじ》をはいたところへやっと出来て来たので、上り口に腰かけたまま慌ただしい新春を迎えたのであったが、これも考えてみるとやはり官能的の出来事であった。やっと間に合った汽車の機関車に七五三《しめ》松|飾《かざ》りのしてあったのが当時の自分には珍しかった。

 明治四十二年の暮には南ドイツからウィーンを見物してヴェニスに泊ったのがちょうどクリスマスであった。クリスマスは旅人を感傷的にする夕だと誰かが云った通りである。薄暗い狭い路地のような町をゾロゾロ歩いている人通りを見ただけでああた。フィレンツェ、ローマを経てナポリに着いたのが、ちょうど大晦日であった。妙に生温かい、晴れるかと思うと大きな低い積雲が海の上から飛んで来てばらばらと潮っぽい驟雨《しゅうう》を降らせる天候であった。ホテルのポルチエーが自分を小蔭へ引っぱって行って何かしら談判を始める。晩に面白いタランテラの踊りへ案内するから十時に玄関まで出て来いというらしかった。借りた室の寝台にはこの真冬に白い紗《しゃ》の蚊帳《かや》がかかっていた。日本やドイツの誰彼に年賀の絵端書を書きながら罎詰のミュンシナーを飲んでいるうちに眠くなって寝てしまった。
 明くれば元旦である。ヴェスヴィオ行きの準備をして玄関へ出ると、昨日のポルチエーが側へ来て人の顔を見つめて顔をゆがめてそうして肩をすぼめて両手の掌《てのひら》をくるりと前に向けてお定まりの身振りをした。
 ヴェスヴィオの麓までの馬車には年取った英国人の夫婦と同乗させられた。英国の婆さんは英語のわからぬ御者というものがこの世に存在し得るという事実だけは夢想することも出来ないように見えた。しかし裾野の所々に熟したオレンジの畑は美しく、また日本の南国に育った自分にはなつかしかった。フニクラレの客車で日本人らしい人に出会って名乗り合ったら、それは地質学者のK氏であった。このケーブル線路の上の方の部分は近頃の噴火に破壊されていたので徒歩の外に途はなかった。風があまりに強いために他の乗客は皆登山を断念して引返したので結局この二人の日本人だけが登ることになった。地理学書でもまた物語でも読んで知っていたアトリオ・デル・カヴルロとかソマムとか、こういう名前も何となく嬉しく、また地質学者から教わる色々の岩石の名前も珍しかったと見えてよく覚えている。紺碧のナポリの湾から山腹を逆様《さかさま》に撫で上げる風は小豆大《あずきだい》の砂粒を交えてわれわれの頬に吹き付けたが、ともかくも火口を俯瞰《ふかん》するところまでは登る事が出来た。下り坂の茶店で休んだときにそこのお神さんが色々の火山噴出物の標本やラヴァやカメーの細工物などを売付けようとしたが、こしらえもののいかものだけはわが地質学者を欺く訳に行かないのがおかしかった。片言のイタリア語でお神さんに「コレ、日本の地質学者。……ダメ」と云ったようなことを云ってやったつもりである。
 次の日はポツオリに行って腹立たしくうるさい案内者に悩まされながらセラピスの寺の柱に残る地盤昇降の跡を見、ソルファタラ旧火口の噴煙を調べ、汚い家でスパゲッティの昼食を食って、帰りの電車で、贋銀貨をつかまされた外にはあまり人間味のある記憶が保存されていない。
 異郷で迎えた正月も数ある中でどうしてこの武雄温泉とナポリと二つの正月が割合に鮮明な絵となって、そうして対幅《ついふく》のようになって残っているのか。どちらも南国の旅の正月であったが、単にそれだけのことであるのか。まさか有田の乞食婆の喰っていたあの唐辛子のかかった真赤なうどんと、ポツオリの旗亭のトマトのかかった赤いスパゲッティとの類似のためであろうとも思われない。しかしこの二つの、時間的にも空間的にも遠く距《はな》れた心像をつなぎ合せている何物かがあるだけはたしかでなければならない。そうしてこれはやはり実に恐るべき現象でなければならない。[#地から1字上げ](昭和五年二月『文芸春秋』)



底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
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