青空文庫アーカイブ
藤の実
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)藤棚《ふじだな》
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(例)一|間《けん》ぐらい
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和八年二月、鉄塔)
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昭和七年十二月十三日の夕方帰宅して、居間の机の前へすわると同時に、ぴしりという音がして何か座右の障子にぶつかったものがある。子供がいたずらに小石でも投げたかと思ったが、そうではなくて、それは庭の藤棚《ふじだな》の藤豆《ふじまめ》がはねてその実の一つが飛んで来たのであった。宅《うち》のものの話によると、きょうの午後一時過ぎから四時過ぎごろまでの間に頻繁《ひんぱん》にはじけ、それが庭の藤も台所の前のも両方申し合わせたように盛んにはじけたということであった。台所のほうのは、一|間《けん》ぐらいを隔てた障子のガラスに衝突する音がなかなかはげしくて、今にもガラスが割れるかと思ったそうである。自分の帰宅早々経験したものは、その日の爆発の最後のものであったらしい。
この日に限って、こうまで目立ってたくさんにいっせいにはじけたというのは、数日来の晴天でいいかげん乾燥していたのが、この日さらに特別な好晴で湿度の低下したために、多数の実がほぼ一様な極限の乾燥度に達したためであろうと思われた。
それにしても、これほど猛烈な勢いで豆を飛ばせるというのは驚くべきことである。書斎の軒の藤棚から居室の障子までは最短距離にしても五|間《けん》はある。それで、地上三メートルの高さから水平に発射されたとして十メートルの距離において地上一メートルの点で障子に衝突したとすれば、空気の抵抗を除外しても、少なくも毎秒十メートル以上の初速をもって発射されたとしなければ勘定が合わない。あの一見枯死しているような豆のさやの中に、それほどの大きな原動力が潜んでいようとはちょっと予想しないことであった。この一夕の偶然の観察が動機となってだんだんこの藤豆《ふじまめ》のはじける機巧を研究してみると、実に驚くべき事実が続々と発見されるのである。しかしこれらの事実については他日適当な機会に適当な場所で報告したいと思う。
それはとにかく、このように植物界の現象にもやはり一種の「潮時」とでもいったようなもののあることはこれまでにもたびたび気づいたことであった。たとえば、春季に庭前の椿《つばき》の花の落ちるのでも、ある夜のうちに風もないのにたくさん一時に落ちることもあれば、また、風があってもちっとも落ちない晩もある。この現象が統計的型式から見て、いわゆる地震群の生起とよく似たものであることは、すでに他の場所で報告したことがあった。
もう一つよく似た現象としては、銀杏《いちょう》の葉の落ち方が注意される。自分の関係しているある研究所の居室の室外にこの木の大木のこずえが見えるが、これが一様に黄葉して、それに晴天の強い日光が降り注ぐと、室内までが黄金色《こがねいろ》に輝き渡るくらいである。秋が深くなると、その黄葉がいつのまにか落ちてこずえが次第にさびしくなって行くのであるが、しかしその「散り方」がどうであるかについては去年の秋まで別に注意もしないでいた。ところが去年のある日の午後なんの気なしにこの木のこずえをながめていたとき、ほとんど突然にあたかも一度に切って散らしたようにたくさんの葉が落ち始めた。驚いて見ていると、それから十余|間《けん》を隔てた小さな銀杏《いちょう》も同様に落葉を始めた、まるで申し合わせたように濃密な黄金色の雪を降らせるのであった。不思議なことには、ほとんど風というほどの風もない、というのは落ちる葉の流れがほとんど垂直に近く落下して樹枝の間をくぐりくぐり脚下に落ちかかっていることで明白であった。なんだか少し物すごいような気持ちがした。何かしら目に見えぬ怪物が木々を揺さぶりでもしているか、あるいはどこかでスウィッチを切って電磁石から鉄製の黄葉をいっせいに落下させたとでもいったような感じがするのであった。ところがまた、ことしの十一月二十六日の午後、京都大学のN博士と連れ立って上野《うえの》の清水堂《きよみずどう》の近くを歩いていたら、堂のわきにあるあの大木の銀杏《いちょう》が、突然にいっせいの落葉を始めて、約一分ぐらいの間、たくさんの葉をふり落とした後に再び静穏に復した。その時もほとんど風らしい風はなくて落葉は少しばかり横になびくくらいであった。N博士も始めてこの現象を見たと言って、おもしろがりまた喜びもしたことであった。
この現象の生物学的機巧についてはわれわれ物理学の学徒には想像もつかない。しかし葉という物質が枝という物質から脱落する際にはともかくも一種の物理学的の現象が発現している事も確実である。このことはわれわれにいろいろな問題を暗示し、またいろいろの実験的研究を示唆する。もしも植物学者と物理学者と共同して研究することができたら案外おもしろいことにならないとも限らないと思うのである。
これとはまた全く縁もゆかりもない話ではあるが、先日|宅《うち》の子供が階段から落ちてけがをした。それで、近所の医師のM博士に来てもらったら、ちょうど同じ日にM氏の子供が学校の帰りに道路でころんで鼻頭をすりむきおまけに鼻血を出したという事であった。それから二三日たってから、宅の他の子供がデパートでハンドバッグを掏摸《すり》にすられた。そうして電車停留場の安全地帯に立っていたら、通りかかったトラックの荷物を引っ掛けられて上着にかぎ裂きをこしらえた。その同じ日に宅の女中が電車の中へだいじの包みを置き忘れて来たのである。これらは現在の科学の立場から見ればまるで問題にもなにもならないことで、全く偶然といってしまうよりほかはないことである。しかし、これが偶然であると言えば、銀杏《いちょう》の落葉もやはり偶然であり、藤豆《ふじまめ》のはじけるのも偶然であるのかもしれない。またこれらが偶然でないとすれば、前記の人事も全くの偶然ではないかもしれないと思われる。少なくも、宅《うち》に取り込み事のある場合に家内の人々の精神状態が平常といくらかちがうことは可能であろう。
年末から新年へかけて新聞紙でよく名士の訃音《ふいん》が頻繁《ひんぱん》に報ぜられることがある。インフルエンザの流行している時だと、それが簡単に説明されるような気のすることもある。しかしそう簡単に説明されない場合もある。
四五月ごろ全国の各所でほとんど同時に山火事が突発する事がある。一日のうちに九州から奥羽《おうう》へかけて十数か所に山火事の起こる事は決して珍しくない。こういう場合は、たいてい顕著な不連続線が日本海から太平洋へ向かって進行の途中に本州島弧を通過する場合であることは、統計的研究の結果から明らかになったことである。「日が悪い」という漠然《ばくぜん》とした「説明」が、この場合には立派に科学的の言葉で置き換えられるのである。
人間がけがをしたり、遺失物をしたり、病気が亢進《こうしん》したり、あるいは飛行機がおちたり汽車が衝突したりする「悪日」や「さんりんぼう」も、現在の科学から見れば、単なる迷信であっても、未来のいつかの科学ではそれが立派に「説明」されることにならないとも限らない。少なくもそうはならないという証明も今のところなかなかむつかしいようである。
[#地から3字上げ](昭和八年二月、鉄塔)
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
1999年11月17日公開
2003年10月22日修正
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