青空文庫アーカイブ

映画時代
寺田寅彦

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)高知《こうち》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一度|浅草《あさくさ》で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おはこ[#「おはこ」に傍点]
-------------------------------------------------------

 幼少のころ、高知《こうち》の城下から東に五六里離れた親類の何かの饗宴《きょうえん》[#「饗宴」は底本では「餐宴」]に招かれ、泊まりがけの訪問に出かけたことが幾度かある。饗宴の興を添えるために来客のだれかれがいろいろの芸尽くしをやった中に、最もわれわれ子供らの興味を引いたものは、ある大工さんのおはこ[#「おはこ」に傍点]の影絵の踊りであった。それは、わずかに数本の箸《はし》と手ぬぐいとだけで作った屈伸自在な人形に杯の笠《かさ》を着せたものの影法師を障子の平面に踊らせるだけのものであった。そのころの田舎《いなか》の饗宴の照明と言えば、大きなろうそくを燃やした昔ながらの燭台《しょくだい》であった。しかしあのろうそくの炎の不定なゆらぎはあらゆるものの陰影に生きた脈動を与えるので、このグロテスクな影人形の舞踊にはいっそう幻想的な雰囲気《ふんいき》が付きまとっていて、幼いわれわれのファンタジーを一種不思議な世界へ誘うのであった。
 ジャヴァの影人形の実演はまだ見たことがないが、その効果にはおのずからこの田舎大工の原始的な影人形のそれと似通《にかよ》った点がありそうに思われる。踊る影絵はそれ自身が目的ではなくて、それによって暗示される幻想の世界への案内者をつとめるのであろう。
 それはとにかく、もし現代の活動映画が「影の散文か散文詩」であるとすれば、こういう影人形はたとえば「影の俳句」のようなものではあるまいか。
 幻燈というものが始めて高知のある劇場で公開されたのはたぶん自分らの小学時代であったかと思う。箸と手ぬぐいの人形の影法師から幻燈映画へはあまりに大きな飛躍であった。見て来た人の説明を聞いても、自分の目で見るまでは、色彩のある絵画を映し出す影絵の存在を信ずる事ができなかった。そして始めて見た時の強い印象はかなり強烈なものであった。ホワイトナイルの岸べに生まれたある黒んぼ少年の数奇な冒険生涯《ぼうけんしょうがい》を物語る続きものの映画を中学校の某先生が黄色い声で説明したものである。それからずっと後の事ではあるが日清戦争《にっしんせんそう》時代にもしばしば「幻燈会」なるものが劇場で開かれて見に行った。県出身の若き将校らの悲壮な戦死を描いた平凡な石版画の写真でも中学生のわれわれの柔らかい頭を刺激し興奮させるには充分であった。そしてそれらの勇士を弔う唱歌の女学校生徒の合唱などがいっそう若い頭を感傷的にしたものである。一つは観客席が暗がりであるための効果もあったのである。同じ効果は活動写真の場合においても考慮に加えらるべきであろう。
 疾《と》くに故人となった甥《おい》の亮《りょう》が手製の原始的な幻燈を「発明」したのは明らかにこれらの刺激の結果であったと思われる。その「器械」は実に原始的なものであった。本箱の上に釘《くぎ》を二本立ててその間にわずかに三寸四角ぐらいの紙を張ったのがスクリーンである。ほぼこれと同大のガラス板に墨と赤および緑のインキでいいかげんな絵を描いたのをこの小さなスクリーンの直接の背後へくっつけて立てて、その後ろに石油ランプを置くだけである。もっともそのスクリーンの周囲の同平面をふろしきやボール紙でともかくもふさいでしまって楽屋と見物席とを仕切るほうがなかなかの仕事ではあった。観客は亮の兄弟と自分らを合わせて四五人ぐらいはあったが、映画技師、説明者が同時に映画製造者を兼ねるのみならず、肝心のガラス板がやっと二枚ぐらいしか掛け替えがないのだから亮の骨折りは一通りでなかったろうと思われる。後には自分の父に頼んでもう少し大きい板ガラスを、ちゃんとした木箱の前面のみぞにさし入れさしかえるようにしたものを大工に作らせ、映画も十枚か二十枚あらかじめ仕入れておいて、そうしてわれわれのほかに近所じゅうの少年をかり集めてやるようになった。映画のほかに余興とあってまね事のような化学的の手品、すなわち無色の液体を交ぜると赤くなったり黄色くなったりするのを懇意な医者に準備してもらった。それはまずいいとしても、明治十年ごろに姉が東京の桜井学校《さくらいがっこう》で教わった英語の唱歌と称するものを合唱したりしたのは実に妙であった。その文句は今でも覚えているがその意味に至っては今にわからない。思い出しても冷や汗が流れる。しかしとにかくこんな西洋くさい遊戯が明治二十年代の土佐《とさ》の田舎《いなか》の子供の間に行なわれていたということは郷土文化史的にも多少の意味があるかもしれない。それよりも自分の生涯《しょうがい》の上にはこんな事件が思いのほかに大きな影響を及ぼしたのかもしれない。
 その後おもちゃ屋で虫めがねのレンズを買って来て、正式の幻燈器械を作ろうとしたが失敗した。今考えてみると光学上の初歩の知識さえ皆無であり、それに使ったレンズがきわめて粗悪なものであるのみならず、焦点距離が長いのに、原画をあまり近く置きすぎたために鮮明な映像を得られなかったのは当然である。それでもこの失敗した試みが自分の理学的知識欲を刺激する効果のあっただけは確かである。南国の盛夏の真昼間の土蔵の二階の窓をしめ切って、満身の汗を浴びながら石油ランプに顔を近寄せて、一生懸命に朦朧《もうろう》たる映像を鮮明にかつ大きくすることに苦心した当時の心持ちはきのうのことのように記憶に新たである。青と赤のインキで塗った下手《へた》な鳥の絵のぼやけた映像を今でも思い出すことができる。その鳥はさかさまになって飛んでいたのである。
 明治二十三年であったか、父が東京の博覧会見物に行ったみやげにほんとうの幻燈器械と数十の映画を買って帰ったので、長い間の希望はついに実現されたわけであるが、妙なことにこの遂げられた希望の満足に関する記憶の濃度のほうが、かの失敗した試みに伴のうた強烈なる法悦の記憶に比べてかえって希薄である。
 その時の映画の種板はたいてい一枚一枚に長方形の桐製《きりせい》のわくがついていて、映画の種類は東京名所や日本三景などの彩色写真、それから歴史や物語からの抜萃《ばっすい》の類であった。そのほかに活動映画の先祖とも言われるべき道化人形の踊る絵があった。目をあいたり閉じたり、舌を出したり引っ込ませたりするような簡単な動作を単調に繰り返すだけである。また美しい五彩の花形模様のぐるぐる回りながら変化するものもあった。こんな幼稚なものでも当時の子供に与えた驚異の感じは、おそらくはラジオやトーキーが現代の少年に与えるものよりもあるいはむしろ数等大きかったであろう。一から見た十は十倍であるが、百から見た同じ十はわずかに十分の一だからである。今の子供はあまりに新しい驚異に対して麻痺《まひ》させられているような気がある。
 活動写真を始めて見たのはたぶん明治三十年代であったかと思う。夏休みに帰省中、鏡川原《かがみがわら》の納涼場で、見すぼらしい蓆囲《むしろがこ》いの小屋掛けの中でであった。おりから驟雨《しゅうう》のあとで場内の片すみには川水がピタピタあふれ込んでいた。映画はあひる泥坊《どろぼう》を追っかけるといったようなたわいないものであったが、これも「見るまでは信じられなくて、見れば驚くと同時に、やがては当然になる」種類の経験であった。ともかくも、始めて幻燈を見たときほどには驚かなかったようである。
 明治四十一年から三年までの滞欧中には、だれもと同様によく活動を見たものである。当時ベルリンではこれを俗にキーントップと言っていた。常設館はいくつもあったがみんな小さなものでわずかの観客しか容《い》れなかったように覚えている。邦楽座《ほうがくざ》や武蔵野館《むさしのかん》のようなものはどこにもなかったようである。各地に旅行中の夜のわびしさをまぎらせるにはやはりいちばん活動が軽便であった、ブリュッセルの停車場近くで見た外科手術の映画で脳貧血を起こしかけたこともあった。それは象のように膨大した片腕を根元から切り落とすのであった。
 帰朝後ただ一度|浅草《あさくさ》で剣劇映画を見た。そうして始めていわゆる活弁なるものを聞いて非常に驚いて閉口してしまって以来それきりに活動映画と自分とはひとまず完全に縁が切れてしまった。今でも自分には活弁の存在理由がどうしても明らかでないのである。
 自分が活動写真の存在を忘れているうちに、活動のほうでは、そういう自分の存在などは問題にしないで悠々《ゆうゆう》と日本全国を征服していた。長男が中学へ入学したときに父兄として呼び出されて行った。その時に控え室となっていた教場の机の上にナイフでたんねんに刻んだいろいろのらく書きを見ていたら、その中に稚拙な西洋婦人の立ち姿の周囲にリリアン・ギッシュ、メリー・ピクフォードなどという名前が彫り込んであった。自分の中学時代のいたずらを思い出すと同時に、ひどく時代におくれたものだという気がした。
 荒物屋|駄菓子屋《だがしや》の店先に客引きの意味でかかっている写真の顔が新聞やビラの広告に頻繁《ひんぱん》に現われる。聞いてみるとそれがみんな活動俳優のいわゆるスターだそうである。幕末勇士などに扮《ふん》した男優の顔はいかなる蛮族の顔よりもグロテスクで陰惨なものであるが、それが特別に民衆に受けると見えてそれらの網目版が至るところの店先で自分をにらみつけ、脅かし圧迫した。
 長い間縁の切れていた活動映画が再び自分の日常生活の上におりおり投射されるようになったのがつい近ごろのことである。飛行機から爆弾を投下する光景や繋留《けいりゅう》気球が燃え落ちる場面があるというので自分の目下の研究の参考までにと見に行ったのが「ウィング」であった。それから後、象の大群が見られるというので「チャング」を見、アフリカの大自然があるというので「ザンバ」を見た。そのうちにトーキーが始まるというので後学のために出かける。そうしているうちにいつのまにか一通りの新米《しんまい》ファンになりおおせたようである。
 いちばんおもしろいものは実写ものである。こしらえたものにはやはりどこかに充実しない物足りなさがありごまかしきれない空虚がある。そういう意味でニュース映画は自分にとって最もおもしろいものの一つである。たとえばマクドナルドとかフーヴァーとかいう人間が現われて短い挨拶《あいさつ》をする。その短い場面でわれわれは彼らがいかにして、またいかに、英国労働内閣首相であり、北米合衆国大統領であるかを読み取ることができるような気がするのである。世界じゅうの重要不重要な出来事を短い時間に瞥見《べっけん》することによって世界が恐ろしく狭い空間に凝縮されて来る。そうして人類文化の進歩の急速な足音を聞いているような気もする。
「ザンバ」のごとき自然描写を主題にしたものでも、おそらく映画製作者の意識には上らなかったような些事《さじ》で、かえって最も強くわれわれの心を引くものが少なくない。たとえば獅子《しし》やジラフやゼブラそのものの生活姿態のおもしろいことはもちろんであるが、その周囲の環境ならびにその環境との関係が意外な新しい知識と興味を呼び起こす場合がはなはだ多い。たとえばライオンと風になびく草原との取り合わせなどがそうである。このいかにも水に渇したように風にそよぐ草によって始めてほんとうに生きたアフリカのライオンが眼前に現われる。ジラフの奇妙な足取りはそれ自身にもおもしろいが、その背景の珍しい矮樹林《わいじゅりん》によって始めてこの動物の全生命が見られる。驚いて川に飛び込む鰐《わに》は、その飛び込む前に安息している川岸の石原と茂みによって一段の腥気《せいき》を添える。これがないくらいならわれわれは動物園で満足してよいわけである。それだからわれわれはもう少し充分にこれらの背景と環境とを見せてもらいたいのであるが、通例のフィルムではこれが惜しいように節約されている。そのためにせっかくのありがたい体験がややもすれば概念化される恐れがある。
 フーヴァーの演説にしてもそうである。当人の顔だけ写ってしゃべるのよりも、たとえば仮り小屋の壇上に立っておおぜいの老幼男女に囲まれているほうがいかにもアメリカの大統領になっている。周囲のアメリカン・シチズンスの不用意な表情姿態の上に反映したフーヴァーのほうがはるかに多くフーヴァーその人を物語るのである。半分はフーヴァーを写し半分は聴衆のほうにカメラを向けたのを撮《と》ったほうが有効である。
 こういう現実味からいうと演劇フィルムは多くははなはだ空疎なものである。プロットにないよけいなものは塵《ちり》一筋も写さないというのが立て前であるらしい。これは劇の性質上当然のことかもしれないが、舞台で行なわるる演劇とフィルム劇とは必ずしも同じでない以上、フィルムにして始めて生ずる可能性を活用するためには、もう少し天然の偶然的なプロットを巧みに生かして取り入れて、それによって必然的な効果をあげたらよくはないか。
 有名な映画「ベルリーン」のごときはかなりにこの意味の天然を生かしてはいる。早暁の町のアスファルトの上を風に吹かれて行く新聞紙や、スプレー川の濁水に流れる渦紋《かもん》などはその一例である。これらの自然の風物には人間の言葉では説明しきれない、そうして映画によってのみ現わしうるある物があるのである。「銀嶺」のごときは元来実写を主題にしたものであろうが、軒のつららのものうい雫《しずく》に悠久《ゆうきゅう》の悲しみを物語らせ、なべの中に溶け行く雪塊に運命の不思議を歌わせ、氷河の上に映る飛行機の影に山の高さを示揚させたりするのも他の例である。しかし写実を目的としない劇的映画にも、もう少し自在に天然を取り入れることはできないか。おそらくこれはいくらでもできる可能性があるのであろう。なんの映画であったか忘れたが東洋物の場面の間に、毒蛇《どくじゃ》とマングースとの命がけの争闘を写したものをはさんだのがあった。それはあまりたいした成効とは思われなかったが、しかしともかくも人間のドラマのシーンの中間に天然のドラマの短いシーンをはさんで効果を添えるということは、従来よりももっともっと自由に使用してよいわけである。
 これに対する有益なヒントはたとえば俳諧《はいかい》連句《れんく》の研究によっても得られる。連句における天然と人事との複雑に入り乱れたシーンからシーンへの推移の間に、われわれはそれらのシーンの底に流れるある力強い運動を感じる。たとえば「猿蓑《さるみの》」の一巻をとって読んでみても

[#ここから3字下げ]
鳶《とび》の羽も刷《かいつくろ》いぬはつしぐれ
 一ふき風の木の葉しずまる
股引《ももひき》の朝からぬるる川こえて
 たぬきをおどす篠張《しのはり》の弓
[#ここで字下げ終わり]

のような各場面から始まって

[#ここから3字下げ]
うき人を枳殻籬《きこくがき》よりくぐらせん
 今や別れの刀さし出す
せわしげに櫛《くし》で頭《かしら》をかきちらし
 おもい切ったる死にぐるい見よ
[#ここで字下げ終わり]

の次に去来《きょらい》の傑作

[#ここから3字下げ]
青天に有明月《ありあけづき》の朝ぼらけ
[#ここで字下げ終わり]

が来る。ここに来ると自分はどういうものかきっと、ドストエフスキーの「イディオット」の死刑場へ引かれる途上の光景を思い出すのである。これらのシーンの推移のテンポは緩急自在で、実に目にも止まらぬような機微なものがある。試みにこの一巻を取ってこれを如実に表現すべき映画を作ることができたとしたら、かの「ベルリーン」のごときものは実に幼稚な子供の片言に過ぎないものになるであろう。
 しかし、話の筋が通らなくては物足りないという観客が多数にあるかもしれない。それならばかつて漱石《そうせき》虚子《きょし》によって試みられた「俳体詩」のようなものを作れば作れなくはない。
 ほんとうを言えば映画では筋は少しも重要なものでない。人々が見ているものは実は筋でなくしてシーンであり、あるいはむしろシーンからシーンへの推移の呼吸である。この事を多くの観客は自覚しないで、そうしてただつまらない話のつながりをたどることの興味に浸っているように思っているのではあるまいか。アメリカ喜劇のナンセンスが大衆に受ける一つの理由は、つまりここにあるのではないか、有名な小説や劇を仕組んだものが案外に失敗しがちな理由も一つはここにあるのではないかという気がする。
 連句には普通の言葉で言い現わせるような筋は通っていないが、音楽的にちゃんと筋道が通っており、三十六句は渾然《こんぜん》たる楽章を成している。そういう意味での筋の通った連句的な映画を見せてくれる人はないものかと思うのである。
 パラマウント・ニュースのようなものの組み合わせは場合によっては、偶然ではあるが、前述の連句的の効果を持ちうる。近ごろ朝日グラフで、街頭のスケッチを組み合わせたページが出るが、ああいうものを巧みに取り合わせて「連句」にすることもできる。
 器械の活動美を取り入れたフィルムもあるが、やはりこしらえものは実に空疎でおもしろくない。たとえば「メトロポリス」に現われる器械などは幼稚で愚鈍で、無意味というよりは不愉快である。これに反して平凡な工場のリアルな器械の映画には実物を見るとはまたちがった深い味がある。見なれた平凡な器械でも適当に映出されるとそれが別な存在として現われ、実物では見のがしている内容が目に飛び込んで来るのである。
 実物と同じに見せるということは絵画の目的でないと同様に映画の目的でもない。実物を見たのでは到底発見することのできないものを発見させるところに映画の特長があるのではないか。たとえばわれわれが自身でライオン狩りの現場に臨んだとしたら、どうして草原のそよぎなどを味わうことができるであろうか。殺されて行く獅子《しし》を哀れむ心を生じるだけの余裕があるであろうか。「なんの権利があって人間はこの自由な野の住民を殺戮《さつりく》するだろう」たとえばそんな疑いを起こすだけの離れた立場に身を置きうるであろうか。
 映画に下手《へた》な天然色を出そうとする試みなども愚かなことのように思われる。そうして芝居の複製に過ぎないようなトーキーもやはり失敗であるとしか思われない。言うまでもなく独立な芸術としての有声映画の目的は、やはり他にすでにあるものの複製ではなくて、むしろ現実にはないものを創造するのでなければなるまい。おりおり余興に見せられる発声漫画などはこの意味ではたしかに一つの芸術である。品《ひん》は悪いが一つの新しい世界を創造している。これに反して環《たまき》夫人の独唱のごときは、ただきわめて不愉快なる現実の暴露に過ぎない。
 絵画が写実から印象へ、印象から表現へ、また分離と構成へ進んだように映画も同じような道をすすむのではないか。そうして最後に生き残る本然の要素は結局自分の子供のころの田舎《いなか》の原始的な影法師に似たものになるのではないか。
 欧州のどこかの寄席《よせ》で或《あ》るイタリア人の手先で作り出す影法師を見たことがある。頭の上で両手を交差して、一点の弧光から発する光でスクリーンに影を映すだけのことであるが、それは実に驚くべき入神の技であった。小猿《こざる》が二匹向かい合って蚤《のみ》をとり合ったりけんかをしたりするのが、どうしても本物としか思われないのに、それはやはりただなんの仕掛けもない二つの手の影法師に過ぎないのである。そのほかに、たとえば、飲んだくれの亭主《ていしゅ》が夜おそく帰って来て戸をたたくと女房のクサンチペがバルコンから壺《つぼ》の中の怪しい液体をぶっかけ、結局つかみ合いになるという活劇をもわずかな小道具と背景を使って映し出して見せた。この同じ見せものにその後米国へ渡って、また偶然出くわした。これだけの特技があれば世界を胯《また》にかけて食って行けるのだと感心した。これを見ておもしろがる人々はただ妙技に感心するだけではなくて、やはり影絵のもつ特殊の魅惑に心酔するのである。
 これらの原始的の影法師と現在の有声映画には数世紀の隔たりがあるにかかわらず、現在の映画はこのただの影法師から学ぶべきものを多くもっているかもしれない。
 有声映画に取り入れられる音声も、単に話の筋道をはこぶための会話の使用にはたいてい先が見えている。やはり「音の影法師」のようなものに遠い未来があるであろう。
 このごろ見たうちで、アメリカの川船を舞台としたロマンスの場面中に、船の荷倉に折り重なって豚のように寝ているニグロの群れを映じてそれにものうげに悲しい鄙歌《ひなうた》を歌わせるのがあった。これを聞いているうちに自分はアメリカの黒奴史を通覧させられるような気がした。
 砂漠《さばく》でらくだがうずくまっていると飛行機の音が響いて来る、するとらくだが驚いて一声高くいなないて立ち上がる。これだけで芝居のうそが生かされて熱砂の海が眼前に広げられる。ホテルの一室で人が対話していると、窓越しに見える遠見の屋上でアラビア人のアルラーにささげる祈りの歌が聞こえる。すると平凡な一室が突然テヘランの町の一角に飛んで行く。こういう効果はおそらく音響によってのみ得られるべきものである。探偵《たんてい》が来て「可能的悪漢」と話していると、隣室から土人娘の子守歌《こもりうた》が聞こえる。それに探偵が聞き耳を立てるところに一編の山がある。こういう例はあげれば際限なくあげられるかもしれないが、しかし概して自動車の音、ピストルの響きの紋切り形があまりにうるさく幅をきかせ過ぎて物足りない。ほかにいくらでもいいものがあるのを使わないでいるような気がする。試みに自動車とピストルとジャズの一つも現われないトーキーを作ってみたいものである。
 俳句にはやはり実に巧みに「声の影法師」を取り入れた実例が多い。たとえば「鉄砲の遠音《とおね》に曇る卯月《うづき》かな」というのがある。同じ鉄砲でもアメリカトーキーのピストルの音とは少しわけがちがう。「里見えそめて午《うま》の貝吹く」というのがある。ジャズのラッパとは別の味がある。「灰汁桶《あくおけ》のしずくやみけりきりぎりす」などはイディルレの好点景であり、「物うりの尻声《しりごえ》高く名乗りすて」は喜劇中のモーメントである。少なくも本邦のトーキー脚色者には試みに芭蕉《ばしょう》蕪村《ぶそん》らの研究をすすめたいと思う。
 未来の映画のテクニックはどう進歩するか。次に来るものは立体映画であろうか。これも単に双眼《ステレオ》的効果によるものでなく、実際に立体的の映像を作ることも必ずしも不可能とは思われない。しかしそれができたとしたところでどれだけの手がらになるかは疑わしい。映画の進歩はやはり無色平面な有声映画の純化の方向にのみ存するのではないかと思われる。それには映画は舞台演劇の複製という不純分子を漸次に排除して影と声との交響楽か連句のようなものになって行くべきではないかと思われるのである。
 こんな話をしていたらある人がアヴァンガルドという一派の映画がいくらかそういう方向を示すものだと教えてくれたが、まだ実見することができない。
 ここまで書いて後にウーファ社の教育映画で海の浮遊生物を写したものを見た。顕微鏡で見る場合では、眼前の顕微鏡と、その鏡下のプレパラートとの相対的の大きさがちゃんと意識されているのであるが、それがスクリーンの上に大きく写されたのでは全くそのままの大きさの怪物としか思われない。その怪物の透明な肢体《したい》の各部がいろいろ複雑微妙な運動をしている。しかしわれわれ愚かな人間にはそれらの運動が何を意味するか、何を目的としているか全くわからない。わからないから見ていて恐ろしくなりすごくなる。哀れな人間の科学はただ茫然《ぼうぜん》として口をあいてこれをながめるほかはない。これが神秘でなくて何であろうか。この実在の怪物と、たとえばウェルズの描いた火星の人間などを比較しても、人間の空想の可能範囲がいかに狭小貧弱なものであるかを見せつけられるような気がする。
 これを見た目で「素浪人忠弥《すろうにんちゅうや》」というのをのぞいて見た。それはただ雑然たる小刀細工や糊細工《のりざいく》の行列としか見えなかった。ダイアモンドを見たあとでガラスの破片を見るような気がした。しかし観客は盛んに拍手を送った。中途から退席して表へ出《い》で入り口を見ると「満員御礼」とはり札がしてあった。「唐人お吉」にしても同様であった。
 これらの邦劇映画を見て気のつくことは、第一に芝居の定型にとらわれ過ぎていることである、書き割りを背にして檜舞台《ひのきぶたい》を踏んでフートライトを前にして行なって始めて調和すべき演技を不了簡《ふりょうけん》にもそのままに白日のもと大地の上に持ち出すからである。それだから、していることが新米のファンの目には気違いとしか思われない。ちょん髷《まげ》をつけたわれらの祖父母|曾祖父母《そうそふぼ》とはどうしても思われない。第二には群衆の使い方が拙である。おおぜいの登場者の配置に遠近のパースペクチーヴがなく、粗密のリズムがないから画面が単調で空疎である。たとえば大評定の場でもただくわいを並べた八百屋《やおや》の店先のような印象しかない。この点は舶来のものには大概ちゃんと考慮してあるようである。第三にはフィルムの毎秒のコマ数によっておのずから規定された速度の制約を無視して、快速な運動を近距離から写した場面が多い。そういうところはただ目まぐるしいだけで印象が空疎になるばかりでなくむしろ不快の刺激しか与えない。これはフィルムの上における速度の制限を考慮して、快速度のものは適当の距離から撮《と》るべきである。これも舶来ものを参照すればわかるであろう。第四にはセットの道具立てがあまり多すぎて、印象を散漫にしうるさくする場合が多い。たとえば「忠弥《ちゅうや》」の貧民窟《ひんみんくつ》のシーンでもがそうである。セットの各要素がかえって相殺《そうさい》し相剋《そうこく》して感じがまとまらない。これらの点についても、監督の任にある人は「俳諧《はいかい》」から学ぶべきはなはだ多くをもつであろう。それからまた県土木技師の設計監督によるモダーン県道を徳川時代の人々が闊歩《かっぽ》したり、ナマコ板を張った塀《へい》の前で真剣試合が行なわれたりするのも考えものであるが、これはやむを得ないことかもしれない。
 これに比べて現代を取り扱った邦画はいくらか有利な地位にある。前記第一の点の不自然さから免れやすく、第四のセットに関してもおのずから無理のないものになりやすい傾向がある。従って見ていてたまらなく不快な破綻《はたん》を感じる程度が剣劇に比して少ないように思う。それにしても自分の趣味から見るとやはりいったいに芝居をし過ぎる。そうして柄に合わない西洋人の表情をまね過ぎる。もう少しあたりまえの日本人のあたりまえの表情をすることによってかえって真実味を深めるくふうはないものであろうか。われわれの日常生活において日常交渉のあるさまざまな人間の生きたタイプを映出することができないものであろうか。現在ではただ与えられたいわゆるスターの生地《きじ》とマンネリズムとを前提として脚色はあとから生まれるから、スター崇拝者は喜ぶであろうが、できたものは千編一律である。もっともこれは日本の映画に限らない世界的の傾向かもしれないが、自分の不満はこの一般傾向に対する不満である。映画の使命は単に大衆のスター崇拝の礼拝堂を建てるのみではないであろう。
 はなはだ無意味でつまらないようである意味で非常に進歩しているのはアメリカのナンセンス映画やミュージカル・コメディの類である。ある人の説のごとく、芸術は在《あ》るところのものの再出現ではなくて、在ってほしいものへの意欲の演出であるとすれば、これらの映画はヤンキーにとっては最高の芸術である。これらの映画を見ることはすなわち観客みずから踊り歌い、放縦な高速度恋愛をし、やたらにピストルをぶっ放すことなのである。酒の自由に飲めない彼らは、かかる映画の上に自分を投射して、そこに酌《く》みかわされる美禄《びろく》に酔うのである。これらの点でこれらの映画はジャズ音楽とまさに同種類の芸術である。ジャズも客観的に鑑賞するものではなくて、自分で踊り狂うと同価値の活動そのものだからである。その証拠には、街頭を歩いているラッパズボンのボーイらが店頭からもれ出るジャズレコードの音を聞けば必ず安物の器械人形のように踊りだす。それだからこれは野蛮民の戦争踊りが野蛮民に訴えると同じ意味において最高の芸術でなければならないのである。これと同じ意味においてまたわが国の剣劇の大立ち回りが大衆の喝采《かっさい》を博するのであろう。荒木又右衛門《あらきまたえもん》が三十余人を相手に奮闘するのを見て理屈抜きにおもしろいと思わない日本人は少ないであろう。いわゆるプロ芸術のねらいどころもここに共通点を持っているように思われる。
 元来アメリカにジャズ音曲とナンセンス映画とが流行する事実は、かの国に古い意味での哲学と科学と芸術の振るわない事実の半面であって、そのかわりに黄金哲学と鉄コンクリート科学と摩天楼犯罪芸術の発達するゆえんであろう。
 これに反してドイツに古い意味での哲学科学の発達したのは畢竟《ひっきょう》かの国民の「頭の悪い」ため、容易に要領を得ないため、万事オーケーイ式でないためであろう。そのためにドイツの映画においては、やはり一九三〇年以前の芸術と哲学をスクリーンの上に求めんとして努力しているように感ぜられる。
 フランス人は頭のいい人種である。マチスを生みドビュシーを生んだこの国はやがて映画の上にも新鮮な何物かを生み出しそうな気がする。アヴァンガルドというのは未見であるが、ともかくもわれわれはフランス映画の将来にある期待をかけてもいいように思われる。
 われらの祖先にも、少なくも芸術の上では、恐ろしく頭のいい独創的天才がいた。光琳《こうりん》歌麿《うたまろ》写楽《しゃらく》のごとき、また芭蕉《ばしょう》西鶴《さいかく》蕪村《ぶそん》のごときがそれである。彼らを昭和年代の今日に地下より呼び返してそれぞれ無声映画ならびに発声映画の脚色監督の任に当たらしめたならばどうであろう。おそらく彼らはアメリカ式もドイツふうも完全に消化した上で、新しい純粋国民映画を作り上げるであろう。光琳や芭蕉は少数向きの芸術映画、歌麿や西鶴は大衆向きのエロチシズム、写楽や京伝《きょうでん》は社会的な諷刺画《ふううしが》とでもいった役割ででもあろうか。また広重《ひろしげ》をして新東京百景や隅田川《すみだがわ》新鉄橋めぐりを作らせるのも妙であろうし、北斎《ほくさい》をして日本アルプス風景や現代世相のページェントを映出させるのもおもしろいであろう。そうしてこれらの新日本映画が逆にちょうど江戸時代の浮世絵のごとく、欧米に輸出される。こういう夢を見ることはたいした愛国者でなくてもあまり不愉快なことではあるまい。
 こんな空想にふけりながら自分は古来の日本画家の点呼をしているうちに、ひょっくり鳥羽僧正《とばそうじょう》に逢着《ほうちゃく》した。僧衣にたすき掛けの僧|覚猷《かくゆう》が映画監督となってメガフォンを持って懸命に彼の傑作の動物喜劇撮影をやっているであろうところの光景を想像してひとりで微笑したりした。そうしてかの有名な高山寺《こうざんじ》蔵の絵巻物の画面を思い起こしながら、「絵巻物と活動時代」という一つの論題《テーマ》に思い及んだ。
 絵巻物というものの最初のイデーはおそらく舶来のものかもしれないが、ともかくこれはかなりに偉大なイデーである。そうしてある意味で活動映画の先駆者と見なしてもよいものである。実在の三次元の空間の一次元を割愛してただ二次元の断面に限定する代わりに、第四次元たる時間を一次元空間に投射することによって時間の経過をわれわれの任意に支配するという考えは両者に共通のものと考えられる。器械的技巧の点においてはほとんど問題にならないほどの距離があるが、もしこれを芸術的批判の立場から見れば必ずしも容易に両者の優劣を決定することはできないかもしれない。絵巻物では、一つの場面から次の場面への推移は観覧者の頭脳の中で各自のファンタジーにしたがって進転して行く。巻物に描かれた雲や波や風景や花鳥は、その背景となり、モンタージュとなり、雰囲気《ふんいき》となり、そうしてきたるべき次の場面への予感を醸成する。そこへいよいよ次の画面が現われて観者の頭脳の中の連続的なシーンと「コインシデンス」をする。そうして観者の頭の中の映画に強いアクセントを与え、同時に次の進展への衝動と指針を与える。これは驚くべき芸術であるとも言われなくはない。これはともかくも一つの問題である。そうしてこの問題を追究すればその結果は必ず映画製作者にとってきわめて重要な幾多の指針を与えうるであろうと考えられるのである。
 ウェルズの小説に「|時の器械《タイムマシーン》」というのがある。この精妙なる器械によってわれわれは自由に過去にも未来にも飛んで行くことができるというのである。思うに絵巻物と、その後裔《こうえい》であるところの活動映画も言わばやはり一種の「時の器械」である。時の歩みを順にも逆にも速くもおそくも勝手に支配することができる。もっとも物理的機構にたよる活動映画では、物質的実在世界の未来は写されないし、フィルムに固定されなかった過去は永久に映出し得られない。しかし心の世界の過去と未来はいろいろな絵巻物の紙面に自由に展開されているからおもしろい。「世界の一億年」と名づける映画はまだ見ないが、成効不成効は別問題として、製作者の意図はやはりこの「時の器械」をねらったものであろう。
 現代の映画を遠い未来に保存するにはどうすればいいかの問題がある。音声の保存はすでに金属製の蓄音機レコード原板によって実行されている。映画フィルムも現在のままの物質では長い時間を持ち越す見込みがないように思われるから、やはり結局は完全に風化に堪えうる無機物質ばかりでできあがった原板に転写した上で適当な場所に保存するほかはないであろう。たとえば熔融石英《フューズドシリカ》のフィルムの面に還元された銀を、そのまま石英に焼き付けてしまうような方法がありはしないかという気がする。とにかく、なんらかの方法でこの保存ができたとして、そうして数十世紀後のわれらの子孫が今のわれわれの幽霊の行列をながめるであろうということは、おもしろくもおかしくもまたおそろしくも悲しくもあり、また頼もしくも心細くもあるであろう。

 はなはだまとまらないこの一編の映画漫筆フィルムにこのへんでひとまず鋏《はさみ》を入れることとする。
[#地から3字上げ](昭和五年九月、思想)



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:野村裕介
校正:浜野 智
1998年8月25日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ