青空文庫アーカイブ
知と疑い
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)燭《しょく》を
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|欠レ[#「レ」は返り点]知《しるをかく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](大正四年ごろ)
[#…]:返り点
(例)欠[#レ]知
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物理学は他の科学と同様に知の学であって同時にまた疑いの学である。疑うがゆえに知り、知るがゆえに疑う。暗夜に燭《しょく》をとって歩む一歩を進むれば明は一歩を進め暗もまた一歩を進める。しかして暗は無限大であって明は有限である。暗はいっさいであって明は微分である。悲観する人はここに至って自棄する。微分を知っていっさいを知らざれば知るもなんのかいあらんやと言って学問をあざけり学者をののしる。
人間とは一つの微分である。しかし人知のきわめうる微分は人間にとっては無限大なるものである。一塊の遊星は宇宙の微分子であると同様に人間はその遊星の一個の上の微分子である。これは大きさだけの事であるが知識の dimensions はこれにとどまらぬ。空間に対して無限であると同時に時間に対しても無限である。時と空間で織り出した Minkowski の Welt にはここまで以上には手の届かぬという限界はないのである。
疑いは知の基である。よく疑う者はよく知る人である。南洋孤島の酋長《しゅうちょう》東都を訪《と》うて鉄道馬車の馬を見、驚いてあれは人食う動物かと問う、聞いて笑わざる人なし。笑う人は馬の名を知り馬の用を知り馬の性情形態を知れどもついに馬を知る事はできぬのである。馬を知らんと思う者は第一に馬を見て大いに驚き、次に大いに怪しみ、次いで大いに疑わねばならぬ。
寺院の懸灯の動揺するを見て驚き怪しんだ子供がイタリアピサに一人あったので振り子の方則が世に出た。りんごの落ちるを怪しむ人があったので万有引力の方則は宇宙の万物を一つの糸につないだというのは人のよく言う話である。基礎的の原理原則を探り当てる大科学者は常に最も無知な最も愚かな人でなければならぬ。学校の教科書を鵜《う》のみにし、先人の研究をその孫引きによって知り、さらに疑う所なくしてこれを知り博学多識となるものはかくのごとき仕事はしとげられないのである。
しかれども大いに驚き大いに疑う無知者愚者となるためにはまたひろく知り深く学ばねばならぬのである。上述のガリレー、ニュートンの発見に関する逸話はその実信ずるに足らぬ俗説であるが、しかしこれらの発見をするためにはまた非凡な準備素養を要した事は言うまでもない。ルベリエが海王星を発見したのも、天王星の運動を精細に知りその運動の説明しがたき小不規則を怪しんだからの事である。近年力学物理学を根底より改造する気運を生じたいわゆる相対率の原理のごときも、もし電子の運動に関する実験上の事実が知られなかったならばおそらく今日のごとき進境を示す事もなかったであろう。
知るにはまた種々多様の知るがある。地球上の物体が地面に向かって落ちる事は三尺の童子もこれを知る。これも知るである。空気の抵抗その他をなくすればほぼ一秒間九・八メートルの加速度をもって落つる事は中等教育を受けた者はともかくも一度物理学教科書に教えられる。しかしこれだけの簡単な方則の意味をほんとうに理解していつでも応用しうる程度までに知る人ははなはだまれである。さらにこの方則を実際に応用するに当たって空気の抵抗がいかなる程度の影響を及ぼすやを知る人はさらに少ない。さらにまた自ら器械を取ってこれを実験し、自然その物から確実の知識を得ようとする人はさらにさらにまた少ないのである。
古来邦画家は先人の画風を追従するにとどまって新機軸を出す人は誠に寥々《りょうりょう》たる晨星《しんせい》のごときものがあった。これらは皆知って疑わぬ人であったとも言われよう。疑って考えかつ自然について直接の師を求めた者にいたって始めて一新天地を開拓しているの観がある。
読書もとよりはなはだ必要である、ただ一を読んで十を疑い百を考うる事が必要である。人間の知識を一歩進めんとする者は現在の知識の境界線まで進むを要する事はもちろんである。すでに境界線に立って線外の自然をつかまんとするものは、いたずらに目をふさいで迷想するだけではだめである。目を開いて自然その物を凝視しなければならぬ。これを手に取って右転左転して見なければならぬ。そうして大いに疑わねばならぬ。この際にただ注意すべき事は色めがねをかけて見ない事である。自分が色めがねをかけているかいないかを確かめるためには、さらに翻って既知の自然を省みまた大いに疑わなければならぬ事はもちろんである。
疑わぬ人ははなはだ多い。|欠[#レ]知《しるをかく》のはなはだしきものでまた無知のはなはだしきものである。雨の降る日は天気が悪いというのは事実である、雨が降って天気のよい日のある事を知る人の少ないゆえんである。一に一加えて二となるはあたりまえである。それだから一に一加えて二にならぬ事を知る人が少ない。
ある老人に液体空気の事を語る。老人いわく「空気が水になるのは何も珍しい事はない。夏コップに井水を盛れば器外に点滴のつくのはすなわちそれではないか」と。
疑う人におよそ二種ある。先人の知識を追究してその末を疑うものは人知の精をきわめ微を尽くす人である。
何人も疑う所のない点を疑う人は知識界に一時機を画する人である。
一人にしてその二を兼ぬる人ははなはだまれである、これを具備した人にして始めて碩学《せきがく》の名を冠するに足らんか。[#地付き](大正四年ごろ)
底本:「日本の名随筆 別巻76 常識」作品社
1997(平成9)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1960(昭和35)年10月
入力:もりみつじゅんじ
校正:多羅尾伴内
2003年4月1日作成
2004年2月16日修正
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