青空文庫アーカイブ

備忘録
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)修善寺日記《しゅぜんじにっき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)菓子屋|駄菓子屋《だがしや》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)相※[#「門<兒」、146-13]《あいせめ》ぐような

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チリギクチリギク/\
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     仰臥漫録

 何度読んでもおもしろく、読めば読むほどおもしろさのしみ出して来るものは夏目先生の「修善寺日記《しゅぜんじにっき》」と子規《しき》の「仰臥漫録《ぎょうがまんろく》」とである。いかなる戯曲や小説にも到底見いだされないおもしろみがある。なぜこれほどおもしろいのかよくわからないがただどちらもあらゆる創作の中で最も作為の跡の少ないものであって、こだわりのない叙述の奥に隠れた純真なものがあらゆる批判や估価《こか》を超越して直接に人を動かすのではないかと思う。そしてそれは死生の境に出入する大患と、なんらかの点において非凡な人間との偶然な結合によってのみ始めて生じうる文辞の宝玉であるからであろう。
 岩波文庫の「仰臥漫録」を夏服のかくしに入れてある。電車の中でも時々読む。腰かけられない時は立ったままで読む。これを読んでいると暑さを忘れ距離を忘れる事ができる。
「朝 ヌク飯三ワン 佃煮《ツクダニ》 梅干《ウメボシ》 牛乳一合ココア入リ[#「ココア入リ」は本文より小さいサイズの文字] 菓子パン 塩センベイ……」こういう記事が毎日毎日繰り返される。それが少しもむだにもうるさくも感ぜられない。読んでいる自分はそのたびごとに一つ一つの新しき朝を体験し、ヌク飯のヌクミとその香を実感する。そして著者とともに貴重な残り少ない生の一日一日を迎えるのである。牛乳一合がココア入りであるか紅茶入りであるかが重大な問題である。それは政友会《せいゆうかい》が内閣をとるか憲政会《けんせいかい》が内閣をとるかよりははるかに重大な問題である。
 昼飯に食った「サシミノ残リ」を晩飯に食ったという記事がしばしば繰り返されている。この残りの刺身《さしみ》の幾片かのイメージがこの詩人の午後の半日の精神生活の上に投げた影はわれわれがその文字の表面から軽々に読過するほどに希薄なものではなく、卑近なものでもなかったであろう。
 この病詩人を慰めるためにいろいろのものを贈って来ていた人々の心持ちの中にもさまざまな複雑な心理が読み取られる。頭の鋭い子規はそれに無感覚ではなかったろう。しかし子規は習慣の力でいろいろの人からいろいろのものをもらうのをあたかも当然の権利ででもあるかのようにきわめて事務的に記載している。この事務的散文的記事の紙背には涙がある。
 頭が変になって「サアタマランサアタマラン」「ドーシヨウドーシヨウ」と連呼し始めるところがある。あれを読むと自分は妙に滑稽《こっけい》を感じる。絶体絶命の苦悶《くもん》でついに自殺を思うまでに立ち至る記事が何ゆえにおかしいのか不思議である。「マグロノサシミ」に悲劇を感じる私はこの自殺の一幕に一種の喜劇を感得する。しかし、もしかするとその場合の子規の絶叫はやはりある意味での「笑い」ではなかったか。これを演出しこれを書いたあとの子規はおそらく最も晴れ晴れとした心持ちを味わったのではないか。
 夏目先生の「修善寺日記」には生まれ返った喜びと同時にはるかな彼方《かなた》の世界への憧憬《どうけい》が強く印せられていて、それはあの日記の中に珠玉のごとくちりばめられた俳句と漢詩の中に凝結している。子規の「仰臥漫録《ぎょうがまんろく》」には免れ難い死に当面したあの子規子《しきし》の此方《こなた》の世界に対する執着が生々しいリアルな姿で表現されている。そしてその表現の効果の最も強烈なものは毎日の三度の食事と間食とのこくめいな記録である。「仰臥漫録《ぎょうがまんろく》」から「ヌク飯」や「菓子パン」や「マグロノサシミ」やいろいろの、さも楽しみそうに並べしるしたごちそうを除去して考える事は不可能である。
「仰臥漫録《ぎょうがまんろく》」の中の日々の献立表は、この命がけで書き残された稀有《けう》の美しい一大詩編の各章ごとに規則正しく繰り返されるリフレインでありトニカでなければならない。

     夏

 近年になって、たぶん大正八年の病気以来の事と思うが、毎年夏の来るのが一年じゅうのいちばんの楽しみである。朝起きると寒暖計が八十度近くに来ているようになると、もう水で顔や頭髪を洗っても悪寒《おかん》を感ぜず、足袋《たび》をはかなくても足が冷えない。これだけでもありがたい事である。自分のからだじゅうの血液ははじめてどこにも停滞する事なしに毛細管の末梢《まっしょう》までも自由に循環する。たぶんそのためであろう、脳のほうが軽い貧血を起こして頭が少しぼんやりする。聴覚も平生よりいっそう鈍感になる。この上もなく静寂で平和な心持ちである。
 昼間暑い盛りに軽い機械的な調べ仕事をするのも気持ちがいい。あまり頭を使わないで、そしてすればするだけ少しずつ結果があがって行くから知らず知らず時を忘れ暑さを忘れる。
 陶然として酔うという心持ちはどんなものだか下戸《げこ》の自分にはよくわからない。少なくも酒によっては味わえない。しかし暑い盛りに軽い仕事をして頭のぼうっとした時の快感がちょうどこの陶然たる微酔の感と同様なものではないかと思われる。そんなとき蝉《せみ》でもたくさん来て鳴いてくれるといいのであろうが、このへんにはこの夏のオーケストラがいないで残念である。
 喫茶店《きっさてん》の清潔なテーブルへすわって熱いコーヒーを飲むのも盛夏の候にしくものはない。銀器の光、ガラス器のきらめき、一輪ざしの草花、それに蜜蜂《みつばち》のうなりに似たファンの楽音、ちょうどそれは「フォーヌの午後」に表わされた心持ちである。ドビュッシーはおそらく貧血性の冷え症ではないかと想像される。
 夜も夏は楽しい。中庭へ籐椅子《とういす》を出して星をながめる。スコルピオン座や蟹座《かにざ》が隣の栗《くり》のこずえに輝く。ことしは花壇の向日葵《ひまわり》が途方もなく生長して軒よりも高くなった。夜目にも明るい大きな花が涼風にうなずく。
 人のいやがる蚊も自分にはあまり苦にならない。中学時代にひと夏裏の離れ屋の椅子に腰かけて読書にふけり両足を言葉どおりにすきまなく蚊に食わせてから以来蚊の毒に免疫となったせいか、涼み台で手足を少しぐらい食われてもほとんど無感覚である。蚊のいない夏は山葵《わさび》のつかない鯛《たい》の刺身《さしみ》のようなものかもしれない。
 夕立の来そうな晩ひとり二階の窓に腰かけて雲の変化を見るのも楽しいものである。そういう時の雲の運動はきわめて複雑である。方向も速度も急激に変化する。稲妻でもすればさらにおもしろい。いかなる花火もこの天工のものには及ばない。
 来そうな夕立がいつまでも来ない。十二時も過ぎて床にはいって眠る。夜中に沛然《はいぜん》たる雨の音で目がさめる。およそこの人生に一文も金がかからず、無条件に理屈なしに楽しいものがあるとすれば、おそらくこの時の雨の音などがその一つでなければならない。これは夏のきらいな人にとってもたぶん同じであろうと思う。
 冬を享楽するのには健康な金持ちでなければできない、それに文化的の設備が入用である。これに反して夏は貧血症の貧乏人の楽園であり自然の子の天地である。

     涼味

 涼しいという言葉の意味は存外複雑である。もちろん単に気温の低い事を意味するのではない。継続する暑さが短時間減退する場合の感覚をさして言うものとも一応は解釈される。しかし盛夏の候に涼味として享楽されるものはむしろ高温度と低温度の急激な交錯であるように見える。たとえば暑中氷倉の中に一時間もはいっているのは涼しさでなくて無気味な寒さである。扇風機の間断なき風は決して涼しいものではない。
 夏の山路を歩いていると暑い空気のかたまりと冷たい空気のかたまりとが複雑に混合しているのを感じる。そのかたまりの一つ一つの粒が大きい事もあるし小さい事もある。この粒の大きさの適当である時に最大の涼味を感じさせるようである。しかしまだこの意味での涼味の定量的研究をした学者はない。これは気象学者と生理学者の共同研究題目として興味あるものであろう。
 倉庫や地下室の中の空気は温度がほとんど均等でこのような寒暑の粒の交錯がない、つまり空気が死んでいる。これに反して山中の空気は生きている。温度の不均等から複雑な熱の交換が行なわれている。われわれの皮膚の神経は時間的にも空間的にも複雑な刺激を受ける。その刺激のために生ずる特殊の感覚がいわゆる涼しさであろう。
 暑中に灸《きゅう》をすえる感覚には涼しさに似たものがある。暑い盛りに熱い湯を背中へかける感じも同様である。これから考えられる一つの科学的の納涼法は、皮膚のうちの若干の選ばれた局部に適当な高温度と低温度とを同時に与えればわれわれはそれだけで涼味の最大なるものを感じうるのではないか。あるいは一局部に適当な週期で交互に熱さと寒さを与えるのがいいかもしれない。これは実験生理学者にとって好箇《こうこ》の研究題目となりそうなものである。
 この仮説を敷衍《ふえん》すれば、熱い酒に冷たい豆腐のひややっこ、アイスクリームの直後のホットカフェーの賞美されるのもやはり一種の涼味の享楽だという事になる。
 皮膚の感覚についてのみ言われるこの涼味の解釈を移して精神的の涼味の感じに転用する事はできないか、これもまた心理学者の一問題となりうるであろう。

     向日葵

 中庭の籐椅子《とういす》に寝て夕ばえの空にかがやく向日葵《ひまわり》の花を見る。勢いよく咲き盛る花のかたわらにはもうしなびかかってまっ黒な大きな芯《しん》の周囲に干《ひ》からびた花弁をわずかにとどめたのがある。大きくなりそこなってまね事のように、それでもこの花の形だけは備えて咲いているのもある。大きな葉にも完全なのは少なく、虫の食ったのや、半分黒くなって枯れしぼんだのもある。そういう不ぞろいなものを引っくるめたすべてが生きたリアルな向日葵の姿である。しおれた花、虫ばみ枯れかかった葉を故意にあさはかな了簡《りょうけん》で除いて写した向日葵の絵は到底リアルな向日葵の絵ではあり得ない。
 精巧をきわめたガラス細工の花と真実の花との本質的な相違はこういう点にもある。写実を尊んで理想を一概に排斥する極端論者の説にも一理はある。実際ある浅薄な理想主義の芸術はまさにしんこ細工の花のようなものである。しかしそうかと言って虫食いや黴菌《ばいきん》のために変色した葉ばかりを強調した表現主義にも困る、ドイツあたりの近ごろの絵画にはそんな傾向が見えるのもありはしないか。
 物理学上の文献の中でも浅薄な理論物理学者の理論的論文ほど自分にとってつまらないものはない。論理には五分もすきはなく、数学の運算に一点の誤謬《ごびゅう》はなくても、そこに取り扱われている「天然《ネチュアー》」はしんこ細工の「天然」である。友禅の裾模様《すそもよう》に現われたネチュアーである。底の知れない「真」の本体はかえってこのためにおおわれ隠される。こういう、たとえば花を包んだ千代紙のような論文がドイツあたりのドクトル論文にはおりおり見受けられる。
 ほんとうにすぐれた理論物理学者の論文の中には、真に東洋画特に南画中の神品を連想させるものがある。一見いかに粗略でしかも天然を勝手にゆがめて描いてあるようでも、そこにつかまれてあり表現されてあるものは生きた天然の奥底に隠れた生きた魂である。こういう理論はいわゆる fecund な理論でありそれに花が咲き実を結んで人間の文化に何物かを寄与する。
 理想芸術でもすぐれた南画まで行けば科学的にも立派であるように理論物理学もいいものになるとやはり芸術的にも美しい。
 純粋な実験物理学者は写実主義の芸術家と似通った点がある。自分の目で自分の前のむき出しの天然を観察しなければならない。それが第一義でありまた最大の難事であるのに、われわれの目は伝統に目かくしされ、オーソリティの光に眩惑《げんわく》されて、天然のありのままの姿を見失いやすい。現在目の前に非常におもしろい現象が現われていても、それが権威の文献に現われてない事であると、それはたぶんはつまらない第二義の事がらのように思われて永久に見のがされてしまう。われわれの目はただ西洋のえらい大家の持ち扱い古した、かびのはえた月並みの現象にのみ目を奪われる。そして征服者の大軍の通り去った野に落ちちらばった弾殻《たまがら》を拾うような仕事に甘んじると同じような事になりがちである。
 写実画派の後裔《こうえい》の多数はただ祖先の目を通して以外に天然を見ない。元祖の選んだ題材以外の天然を写すものは異端者であり反逆者である。
 向日葵《ひまわり》の花を見ようとするとわれわれの目にはすぐにヴァン・ゴーホの投げた強い伝統の光の目つぶしが飛んで来る。この光を青白くさせるだけの強い光を自分自身の内部から発射して、そうして自分自身の向日葵を創造する事の困難を思うてみる。それはまさにおそらくあらゆる科学の探究に従事するものの感ずる困難と同種類のものでなければならない。

     線香花火

 夏の夜に小庭の縁台で子供らのもてあそぶ線香花火にはおとなの自分にも強い誘惑を感じる。これによって自分の子供の時代の夢がよみがえって来る。今はこの世にない親しかった人々の記憶がよび返される。
 はじめ先端に点火されてただかすかにくすぶっている間の沈黙が、これを見守る人々の心をまさにきたるべき現象の期待によって緊張させるにちょうど適当な時間だけ継続する。次には火薬の燃焼がはじまって小さな炎が牡丹《ぼたん》の花弁のように放出され、その反動で全体は振り子のように揺動する。同時に灼熱《しゃくねつ》された熔融塊《ようゆうかい》の球がだんだんに生長して行く。炎がやんで次の火花のフェーズに移るまでの短い休止期《ポーズ》がまた名状し難い心持ちを与えるものである。火の球は、かすかな、ものの煮えたぎるような音を立てながら細かく震動している。それは今にもほとばしり出ようとする勢力《エネルギー》が内部に渦巻《うずま》いている事を感じさせる。突然火花の放出が始まる。目に止まらぬ速度で発射される微細な火弾が、目に見えぬ空中の何物かに衝突して砕けでもするように、無数の光の矢束となって放散する、その中の一片はまたさらに砕けて第二の松葉第三第四の松葉を展開する。この火花の時間的ならびに空間的の分布が、あれよりもっと疎であってもあるいは密であってもいけないであろう。実に適当な歩調と配置で、しかも充分な変化をもって火花の音楽が進行する。この音楽のテンポはだんだんに早くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の矢の先端は力弱くたれ曲がる。もはや爆裂するだけの勢力のない火弾が、空気の抵抗のためにその速度を失って、重力のために放物線を描いてたれ落ちるのである。荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで、哀れにさびしいフィナーレに移って行く。私の母はこの最後のフェーズを「散り菊」と名づけていた。ほんとうに単弁の菊のしおれかかったような形である。「チリギクチリギク/\」こう言ってはやして聞かせた母の声を思い出すと、自分の故郷における幼時の追懐が鮮明によび返されるのである。あらゆる火花のエネルギーを吐き尽くした火球は、もろく力なくポトリと落ちる、そしてこの火花のソナタの一曲が終わるのである。あとに残されるものは淡くはかない夏の宵闇《よいやみ》である。私はなんとなくチャイコフスキーのパセティクシンフォニーを思い出す。
 実際この線香花火の一本の燃え方には、「序破急」があり「起承転結」があり、詩があり音楽がある。
 ところが近代になってはやり出した電気花火とかなんとか花火とか称するものはどうであろう。なるほどアルミニウムだかマグネシウムだかの閃光《せんこう》は光度において大きく、ストロンチウムだかリチウムだかの炎の色は美しいかもしれないが、始めからおしまいまでただぼうぼうと無作法に燃えるばかりで、タクトもなければリズムもない。それでまたあの燃え終わりのきたなさ、曲のなさはどうであろう。線香花火がベートーヴェンのソナタであれば、これはじゃかじゃかのジャズ音楽である。これも日本固有文化の精粋がアメリカの香のする近代文化に押しのけられて行く世相の一つであるとも言いたくなるくらいのものである。
 線香花火の灼熱《しゃくねつ》した球の中から火花が飛び出し、それがまた二段三段に破裂する、あの現象がいかなる作用によるものであるかという事は興味ある物理学上ならびに化学上の問題であって、もし詳しくこれを研究すればその結果は自然にこれらの科学の最も重要な基礎問題に触れて、その解釈はなんらかの有益な貢献となりうる見込みがかなりに多くあるだろうと考えられる。それで私は十余年前の昔から多くの人にこれの研究を勧誘して来た。特に地方の学校にでも奉職していて充分な研究設備をもたない人で、何かしらオリジナルな仕事がしてみたいというような人には、いつでもこの線香花火の問題を提供した。しかし今日までまだだれもこの仕事に着手したという報告に接しない。結局自分の手もとでやるほかはないと思って二年ばかり前に少しばかり手を着けはじめてみた。ほんの少しやってみただけで得られたわずかな結果でも、それははなはだ不思議なものである。少なくもこれが将来一つの重要な研究題目になりうるであろうという事を認めさせるには充分であった。
 このおもしろく有益な問題が従来だれも手を着けずに放棄されてある理由が自分にはわかりかねる。おそらく「文献中に見当たらない」、すなわちだれもまだ手を着けなかったという事自身以外に理由は見当たらないように思われる。しかし人が顧みなかったという事はこの問題のつまらないという事には決してならない。
 もし西洋の物理学者の間にわれわれの線香花火というものが普通に知られていたら、おそらくとうの昔にだれか一人や二人はこれを研究したものがあったろうと想像される。そしてその結果がもし何かおもしろいものを生み出していたら、わが国でも今ごろ線香花火に関する学位論文の一つや二つはできたであろう。こういう自分自身も今日まで捨ててはおかなかったであろう。
 近ごろフランス人で刃物を丸砥石《まるといし》でとぐ時に出る火花を研究して、その火花の形状からその刃物の鋼鉄の種類を見分ける事を考えたものがある。この人にでも提出したら線香花火の問題も案外早く進行するかもしれない。しかしできる事なら線香花火はやはり日本人の手で研究したいものだと思う。
 西洋の学者の掘り散らした跡へはるばる遅ればせに鉱石の欠けらを捜しに行くもいいが、われわれの足元に埋もれている宝をも忘れてはならないと思う。しかしそれを掘り出すには人から笑われ狂人扱いにされる事を覚悟するだけの勇気が入用である。

     金米糖

 金米糖《こんぺいとう》という菓子は今日ではちょっと普通の菓子屋|駄菓子屋《だがしや》には見当たらない。聞いてみるとキャラメルやチョコレートにだんだん圧迫されて、今ではこれを製造するものがきわめてまれになったそうである。もっとも小粒で青黄赤などに着色して小さなガラスびんに入れて売っているのがあるが、あれは少し製法がちがうそうである。
 この金米糖のできあがる過程が実に不思議なものである。私の聞いたところでは、純良な砂糖に少量の水を加えて鍋《なべ》の中で溶かしてどろどろした液体とする。それに金米糖の心核となるべき芥子粒《けしつぶ》を入れて杓子《しゃくし》で攪拌《かくはん》し、しゃくい上げしゃくい上げしていると自然にああいう形にできあがるのだそうである。
 中に心核があってその周囲に砂糖が凝固してだんだんに生長する事にはたいした不思議はない。しかしなぜあのように角《つの》を出して生長するかが問題である。
 物理学では、すべての方向が均等な可能性をもっていると考えられる場合には、対称《シンメトリー》の考えからすべての方面に同一の数量を付与するを常とする。現在の場合に金米糖が生長する際、特にどの方向に多く生長しなければならぬという理由が考えられない[#「考えられない」に傍点]、それゆえに金米糖は完全な球状に生長すべきであると結論したとする。しかるに金米糖のほうでは、そういう論理などには頓着《とんちゃく》なく、にょきにょきと角を出して生長するのである。
 これはもちろん論理の誤謬《ごびゅう》ではない。誤った仮定から出発したために当然に生まれた誤った結論である。このパラドックスを解く鍵《かぎ》はどこにあるかというと、これは畢竟《ひっきょう》、統計的平均についてはじめて言われうるすべての方向の均等性という事を、具体的に個体にそのまま適用した事が第一の誤りであり、次には平均からの離背が一度でき始めるとそれがますます助長されるいわゆる不安定の場合のある事を忘れたのが第二の誤りである。
 平均の球形からの偶然な統計的異同 fluctuation が、一度少しでもできて、そうしてそのためにできた高い所が低い所よりも生長する割合が大きくなるという物理的条件さえあればよい。現在の場合にこの条件が何であるかはまだよくわからないが、そのような可能性はいくらも考え得られる。
 おもしろい事には金米糖の角の数がほぼ一定している、その数を決定する因子が何であるか、これは一つのきわめて興味ある問題である。
 従来の物理学ではこの金米糖の場合に問題となって来るような個体のフラクチュエーションの問題が多くは閑却されて来た。その異同がいつも自働的に打ち消されるような条件の備わった場合だけが主として取り扱われて来た。そうでない不安定の場合は、言わば見ても見ぬふりをして過ぎて来た。畢竟《ひっきょう》はそういうものをいかにして取り扱ってよいかという見当がつかなかったせいもあろうが、一つにはまた物理学がその「伝統の岩窟《がんくつ》」にはまり込んで安きを偸《ぬす》んでいたためとも言われうる。
 物理学上における偶然異同の現象の研究は近年になっていくらか新しい進展の曙光《しょこう》を漏らし始めたように見えるが、今のところまだまだその研究の方法も幼稚で範囲もはなはだ狭い。
 そういう意味から、金米糖の生成に関する物理学的研究は、その根本において、将来物理学全般にわたっての基礎問題として重要なるべきあるものに必然に本質的に連関して来るものと言ってもよい。
 同じ意味で将来の研究問題と考えられる数々の現象の一つは、リヒテンベルクの放電図形である。これも従来はほとんど骨董的《こっとうてき》題目《だいもく》として閑却され、たまたまこれを研究する好事家《こうずか》は多くの学者の嘲笑《ちょうしょう》を買ったくらいである。ところが皮肉な事には最近に至ってこの現象が電気工学で高圧の測定に応用される可能性が認められるようになって、だんだんこの研究に従事する人の数を増すように見える。しかし今までのところまだだれもこの現象の成因について説明を試みた人はない。しかるにこの現象はその根本の性質上おのずから金米糖の生成とある点まで共通な因子をもっている。そしておそらく将来ある「一つの石によって落とさるべき二つの鳥」である。
 生物学上の「生命」の問題に対しては、今のところ物理学はなんら容喙《ようかい》の権利をもたない。ロード・ケルヴィンは地球上の生命の種子が光圧によって星の世界から運ばれたという想像を述べた。しかしそれは生命そのものの起原に対しては枝葉の問題である。今のままの物理学ではおそらく永久に無力であろうが、もし物理学上の統計的異同の研究が今後次第に進歩して行けばこの方面から意外の鍵《かぎ》が授けられて物質と生命との間に橋を架ける日が到着するかもしれないという空想が起こる。
 街上を往来している人間の数についてある統計を取ってみると、その結果は、個々の人間もあたかも無生のガス分子ででもあると同様な統計的分布を示す事が証明される。もし人間以外のあるものが他の世界からこれら街上の人間についてただこのような統計的分布に関係した事がらのみを観察していたならば、そのものの目には、人間は無生の微分子としか見えないであろう。そうして、その同じ微分子が、一方で有機的な国家社会的の機関を構成しているのを見てその有機体の生命の起原を疑い怪しむに相違ない。
 このアナロジーから喚起される一つの空想は、もしや生命の究極の種が一つ一つの物質分子の中にすでに備わっているのではないかという事である。物理学者はおそらくただその統計的の現われのみを観察しているのではないだろうか、そうして無生の微粒と思っているものが生物という国家を作り社会を組織しているのに会って驚き怪しんでいるのではないだろうか。
 同一元素の分子の個々のものに個性の可能性を認めようとした人は前にもあった。ついでに原子個々にそれぞれ生命を付与する事によって科学の根本に横たわる生命と物質の二元をひとまとめにする事はできないものだろうか。
 金米糖の物理から出発したのが、だんだんに空想の梯子《はしご》をよじ登って、とうとう千古の秘密のなぞである生命の起原にまでも立ち入る事になったのはわれながら少しく脱線であると思う。近年の記録を破ったことしの夏の暑さに酔わされた痴人の酔中語のようなものであると見てもらうほうが適当かもしれない。
 それにしてもこのおもしろい金米糖が千島《ちしま》アイヌかなんぞのように滅びて行くのは惜しい。天然物保存に骨を折る人たちは、ついでにこういうものの保存も考えてもらいたいものである。

     風呂の流し

 風呂《ふろ》の流しいわゆる三助《さんすけ》というものはいつの世に始まったものか知らないが考えてみると妙な職業である。大きな宿屋などの三助ででもあれば、あたりまえなら接近する事も困難なような貴顕のかたがたを丸裸にしてその肢体《したい》を大根かすりこぎででもあるように自由に取り扱って、そうしておしまいには肩や背中をなぐりつけ、ひねくり回すのである。また昔西洋の森の中にすんでいたサティールででもなければ見られなかったはずの美しいニンフたちの姿を、なんら罰せらるる事なしに日常に鑑賞し賛美する特権をもっているわけである。
 西洋にも同じような職業があったと見えて、古い木版画でその例を見た事がある。大きな青竜刀《せいりゅうとう》の柄《え》を切ったようなものをさげていて、これでごしごし垢《あか》でもこするのではないかと思われた。やはり褌《ふんどし》のようなものをしているのがおもしろかった。
 私は銭湯へ通《かよ》っていた時代にも、かつてこの流しをつけた事がない。自分でも洗えば洗われる自分の五体を、どこのだれだかわからぬ男に渡してしまって物品のように取り扱われる気にどうしてもなれなかったのである。
 しかし、困った事には旅行をして少し宿屋らしい宿屋に泊まると、きっと強制的にこの流しをつけられる。これは断わればいいのかもしれないが、わざわざ断わるのもぐあいが悪いので観念して流させる事にしている。非常に気持ちが悪い。ことにいちばん困るのは、按摩《あんま》のつもりでやせた肩をなぐりつけ捻《ひね》りつけられる事である。頭や腹へ響いて苦痛を感じる。もうたくさんであると言っても存外すぐにはやめてくれない。誠に迷惑である。丁寧なのになると、流しが終わってもいつまでもそばについていて、最後にタオルまですすいでくれる。監視されながらの入浴はなんとなく気づまりでこれも迷惑である。
 友人たちにこの事を話してみるに、自分に同情する人はまだない。ある人は流しがなるべく念入りで按摩も十二分にやらないと不愉快であるという。また一人は旅行中宿屋の風呂《ふろ》の流しで三助からその土地の一般的知識を聞き出すのが最も有効でまた最も興味があるというのである。
 そうしてみると、世の中には、多くの人に喜ばれる流しをはなはだしく嫌忌《けんき》する人間もまれにはあるという事実を一つの事実として記録しておく事もむだではないかもしれない。
 ついでながら精神的の方面でこの風呂の三助に相当する職業もあるようである。心の垢《あか》を落とすのも、からだの垢を落とすのも、商売となれば似たものではないだろうか。この心の三助に対しても私は取捨の自由を与えらるる事を希望するものである。

     調律師

 種々な職業のうちでピアノの調律師などは、当人にはとにかく、はたから見て比較的きれいで品の悪くないものである。だんだん西洋音楽の普及するに従ってこの仕事に対する要求が増加するので、従業者の数もこれに応じて増加しつつあるにかかわらず、いつも商売が忙しそうである。
 ピアノでもすえてあろうという室ならばたいていあまり不愉快でないだけの部屋《へや》ではあるだろうと思う。そうして応接する人間もたぶんはそれほど無作法に無礼でもなさそうに想像される。
 たくさんな弦線の少しずつ調子の狂ったのを、一定の方式に従って順々に調節して行く。鍵盤《けんばん》のアクションのぐあいの悪いのを一つ一つたんねんに検査して行く。これは見ていても気持ちのいいものである。かゆい所をかくに類した感じがある。すっかり調律を終わってから、塵埃《じんあい》を払い、ふたをして、念のために音階とコードをたたいてみていよいよこれで仕事を果たしたという瞬間はやはり悪い気持ちはしないであろうと想像される。
 夏目先生の「草枕《くさまくら》」の主人公である、あの画家のような心の目をもった調律師になって、旅から旅へと日本国じゅうを回って歩いたらおもしろかろうと考えてみた事もある。
 狂ったピアノのように狂っている世道人心を調律する偉大な調律師は現われてくれないものであろうか。せめては骨肉|相食《あいは》むような不幸な家庭、儕輩《さいはい》相※[#「門<兒」、146-13]《あいせめ》ぐようなあさましい人間の寄り合いを尋ね歩いて、ちぐはぐな心の調律をして回るような人はないものであろうか。
 物語に伝えられた最明寺時頼《さいみょうじときより》や講談に読まれる水戸黄門《みとこうもん》は、おそらく自分では一種の調律師のようなつもりで遍歴したものであったかもしれない。しかしおそらくこの二人は調律もしたと同時にまたかなりにいい楽器をこわすような事もして歩いたかもしれない。
 調律師の職業の一つの特徴として、それが尊い職業であるゆえんは、その仕事の上に少しの「我」を持ち出さない事である。音と音とは元来調和すべき自然の方則をもっている、調律師はただそれが調和するところまで手をかして導くに過ぎない。
 いわゆるえらい思想家も宗教家もいらない。ほしいものはただ人間の心の調律師であると思う時もある。その調律師に似たものがあるとすればそれはいい詩人、いい音楽者、いい画家のようなものではないだろうか。
 しかし世の中にはあらゆる芸術に無感覚なように見える人があり、またこれを嫌悪《けんお》する人さえあるように見える。こういう人たちは「心のピアノ」を所有しない人たちである。従って調律師などには用のない人である。そういう人はいわゆる「人格者」と称せられる部類の人種の中に多いように見受けられる。これはむしろ当然の事であろう。もたないピアノに狂いようはない。咲かない花に散りようはないと同じわけである。

     芥川竜之介君

 芥川竜之介《あくたがわりゅうのすけ》君が自殺した。
 私が同君の顔を見たのはわずかに三度か四度くらいのものである。そのうちの一度は夏目先生のたしか七回忌に雑司《ぞうし》が谷《や》の墓地でである。大概洋服でなければ羽織袴《はおりはかま》を着た人たちのなかで芥川君の着流しの姿が目に立った。ひどく憔悴《しょうすい》したつやのない青白い顔色をしてほかの人の群れから少し離れて立っていた姿が思い出される。くちびるの色が著しくあかく見えた事、長い髪を手でなで上げるかたちがこの人の印象をいっそう憂鬱《ゆううつ》にした事などが目に浮かんで来る。参拝を終わってみんなが帰る時にK君が「どうだ、あとで来ないか」と言った時に黙ってただ軽く目礼をしただけであったと覚えている。そんな事まで覚えているのは、その日の同君が私の頭に何か特別な印象を刻みつけたためかと思われる。
 もう一度はK社の主催でA派の歌人の歌集刊行記念会といったようなものを芝公園《しばこうえん》のレストーランで開いた時の事である。食卓で幹事の指名かなんかでテーブルスピーチがあった。正客の歌人の右翼にすわっていた芥川《あくたがわ》君が沈痛な顔をして立ち上がって、自分は何もここで述べるような感想を持ち合わさない。ただもししいて何か感じた事を述べよとならば、それは消化器の弱い自分にとって今夜の食卓に出されたパンが恐るべきかたいパンであったという事であると言って席についた。その夜の芥川君には先年|雑司《ぞうし》が谷《や》の墓地で見た時のような心弱さといったようなものは見えなかった。若々しさと鋭さに緊張した顔容と話しぶりであった。しかし何かしら重い病気がこの人の肉体を内側から虫ばんでいる事はだれの目にもあまりに明白であった。「恐るべきかたいパン」、この言葉が今この追憶を書いている私の耳の底にありあり響いて聞こえる。そしてそれが今度の不慮の死に関する一つの暗示ででもあったような気がしてならない。
 あの時同じ列にすわった四五人の中でもう二人は故人となった。そのもう一人は歌人のS・A氏である。

     過去帳

 丑女《うしじょ》が死んだというしらせが来た。彼女は郷里の父の家に前後十五年近く勤めた老婢《ろうひ》である。自分の高等学校在学中に初めて奉公に来て、当時から病弱であった母を助けて一家の庶務を処理した。自分が父の没後郷里の家をたたんでこの地へ引っ越す際に彼女はその郷里の海浜の村へ帰って行った。彼女の家を立てるべき弟は日露戦争で戦死したために彼女はほんとうの一人ぽっちであったので、他家に嫁した姉の女の子を養女にしてその世話をしているという事であった。
 母の存命中は時々手紙をよこしていたが、母の没後は自然と疎遠になっていたので今度の病気の事も知らないでいた。年とってからはいろいろの病気をもっていたそうであるから、たぶんはそのうちのどれかのために倒れたものであろう。
 彼女はあらゆる意味で忠実な女であった。物事を中途半端にすることのできないたちであった。その性質は自然に往々「我」の強さの形をとって現われた。また一方無学ではあるが女には珍しい明晰《めいせき》なあたまと鋭い観察の目をもっていた。だれでもかまわず無作法にじっと人の顔を見つめる癖があった、その様子が相手の目の中からその人の心の奥の奥まで見通そうとするようであった。実際彼女にはそういう不思議な能力が多分にあったように見える。人間の技巧の影に隠れた本性がそのままに見えるらしかった。そういう点で彼女は多くの人からはむしろはばかられあるいは憎まれたようである。たださすがに女であるだけに自分自身の内部を直視する事はできなかったらしい。
 ある時ある高い階級の婦人が衆人環視の中で人力車を降りる一瞬時の観察から、その人の皮膚のある特徴を発見してそれを人に話したので、実に恐ろしい女だと言ってそれが一つ話になった。
 彼女は日本の女には珍しい立派な体格の所有者であった。容貌《ようぼう》も醜くないルーベンス型に属していた。挙動は敏活でなくてむしろ鈍重なほうであったが、それでいて仕事はなんでも早く進行した。頭がいいからむだな事に時を費やさないのである。そうして骨身を惜しむ事を知らないし、油を売る事をしらなかったせいであろう。
 自分は彼女の忠実さに迷惑を感ずる事も少なくなかった。かまわないで打っちゃっておいてもらいたい事を決してそうはしてくれなかった。つまり二つの種類のちがったイーゴイストはこの点で到底|相容《あいい》れる事ができなかったのであろう。
 妙な事を思い出す。父の最後の病床にその枕《まくら》もと近く氷柱を置いて扇風器がかけてあった。寒暖計は九十余度を越して忘れ難い暑い日であった。丑女《うしじょ》はその氷柱をのせたトタン張りの箱の中にとけてたまった水を小皿《こざら》でしゃくっては飲んでいた。そんなものを飲んではいけないと言って制したが、聞かないで何杯となくしゃくっては飲んでいた。彼女の目の周囲には紫色の輪ができていた事をはっきり思い出す事ができる。
 昨年母の遺骨を守って帰省した時に、丑女はわざわざ十里の道を会いに来てくれた。その時彼女の髪の毛に著しく白いものが見えて来たのに気がついた。自分の年老いた事を半分自慢らしく半分心細そうに話した。たぶんことしで五十二三歳であったろうと思う。
 自分の若かった郷里の思い出の中にまざまざと織り込まれている親しい人たちの現実の存在がだんだんに消えてなくなって行くのはやはりさびしい。たとえ生きていてももう再び会う事があるかどうかもわからず、通り一ぺんの年賀や暑中見舞い以外に交通もない人は、結局は思い出の国の人々であるにもかかわらず、その死のしらせはやはり桐《きり》の一葉のさびしさをもつものである。
 雑記帳の終わりのページに書き止めてある心覚えの過去帳をあけて見るとごく身近いものだけでも、故人となったものがもう十余人になる。そのうちで半分は自分より年下の者である。これらの人々の追憶をいつかは書いておきたい気がする、しかしそれを一々書けば限りはなく、それを書くという事はつまり自分の生涯《しょうがい》の自叙伝を書く事になる。これは容易には思い立てない仕事である。そうしておそらくそれを書き終わるより前に自分自身がまただれかの過去帳中の人になるであろう。
 身近い人であればあるほどその追憶の荷はあまりに重くて取り上げようとする筆の運びを鈍らせる。ただ思い出の国の国境に近く住むような人たちの事だけが比較的やすらかな記録の資料となりうるようである。
 自分の過去帳に載せらるべくしてまだ載せられてないものには三匹の飼い猫《ねこ》がある。不思議な事には追懐の国におけるこれらの家畜は人間と少しも変わらないものになってしまっている。口もきけば物もいう。こちらの心もそのままによく通ずる。そうして死んだ人間の追憶には美しさの中にも何かしら多少の苦《にが》みを伴なわない事はまれであるのに、これらの家畜の思い出にはいささかも苦々《にがにが》しさのあと味がない。それはやはり彼らが生きている間に物を言わなかったためであろう。

     猫の死

「玉《たま》」は黄色に褐色《かっしょく》の虎斑《とらふ》をもった雄猫であった。粗野にして滑稽《こっけい》なる相貌《そうぼう》をもち、遅鈍にして大食であり、あらゆるデリカシーというものを完全に欠如した性格であった。従って家内じゅうのだれにも格別に愛せられなかった。小さい時分は一家じゅうの寵児《ちょうじ》である「三毛《みけ》」の遊戯の相手としての「道化師《クラウン》」として存在の意義を認められていたのが、三毛も玉も年を取って、もうそう活発な遊戯を演ずる事がなくなってからは、彼は全く用のない冗員として取り扱われていた。もちろんそれに不平らしい顔もなく、空々寂々として天命を楽しんでいるかのようにも思われた。
 ただ一つ困った事にはこの僧侶《そうりょ》のような玉にもやはり春の目さめる日はあった。さかり[#「さかり」に傍点]がつくと彼は所かまわず尿水を飛ばして襖《ふすま》や器具をよごした。あまりやっかいをかけるから家族のほうから玉を追放したいという動議が出た。そうしないでこの悪癖を直す方法はないかと思って獣医に相談すると、それは去勢さえすればよいとの事であった。いくら猫《ねこ》でもそれは残酷な事で不愉快であったが、追放の衆議の圧迫に負けてしまってとうとう入院させて手術を受けさせた。
 手術後目立っておとなしく上品にはなったが、なんとなく影の薄い存在となったようである。それからまもなくある日縁側で倒れて気息の絶え絶えになっているのを発見して水やまたたびを飲ませたら一時は回復した。しかしそれから二三日とたたないある朝、庭の青草の上に長く冷たくなっているのを子供が見つけて来て報告した。その日自分は感冒で発熱して寝ていたが、その死骸《しがい》をわざわざ見る気がしなかったから、ただそのままに裏の桃の木の根方に埋めさせた。目で見なかった代わりに、自分の想像のカンバスの上には、美しい青草の毛氈《もうせん》の上に安らかに長く手足を延ばして寝ている黄金色の猫の姿が、輝くような強い色彩で描かれている。その想像の絵が実際に目で見たであろうよりもはるかに強い現実さをもって記憶に残っている。
「三毛」はいろいろの点において「玉」とはまさに対蹠的《たいせきてき》の性質をもった雌猫であった。だれからもきれいとほめられる容貌《ようぼう》と毛皮をもって、敏捷《びんしょう》で典雅な挙止を示すと同時に、神経質な気むずかしさをもっていた。もちろん家族の皆からかわいがられ、あらゆる猫へのごちそうと言えばこの三毛のためにのみ設けられた。せっかく与える魚肉でも少し古ければ香をかいだままで口をつけない。そのお流れをみんな健啖《けんたん》な道化師の玉が頂戴《ちょうだい》するのであった。
 満七年の間に三十匹ほどの子猫の母となった。最後の産のあとで目立って毛が脱けた。次第に食欲がなくなり元気がなくなった。医師に見てもらうとこれは胸に水を持ったので治療の方法がないとの事であった。この宣告は自分たちの心を暗くした。そのころはもう一日ほとんど動かずに行儀よくすわっていて、人が呼ぶとまぶしそうな目をしばたたいて呼ぶ人の顔を見た。そうしていつものように返事を鳴こうとするが声が出なかった。
 最後の近くなったころ妻がそばへ行って呼ぶと、わずかにはい寄ろうとする努力を見せたが、もう首がぐらぐらしていた。次第に死の迫って来る事を知らせる息づかいは人間の場合に非常によく似ていた。
 遺骸《いがい》は有り合わせのうちでいちばんきれいなチョコレートのあき箱を選んでそれに収め、庭の奥の楓《かえで》の陰に埋めて形ばかりの墓石をのせた。
 玉が死んだ時は、自分が病気で弱っていたせいかなんとなく感傷的な心持ちがした。だれにもかわいがられずに生きて来てだれにも惜しまれずに死んで行くのがかわいそうであった。しかし三毛の死はみんなが惜しんでいるという自覚が自分の心の負担をいくぶん軽くするように思われるのであった。三毛の死後数日たって後のある朝、研究所を出て深川《ふかがわ》へ向かう途中の電車で、ふいと三毛の事を考えた。そして自然にこんな童謡のようなものが口ずさまれた。「三毛のお墓に花が散る。こんこんこごめの花が散る。芝にはかげろう鳥の影。小鳥の夢でも見ているか。」それからあとで同じようなものをもう三つ作って、それに勝手な譜をつけていいかげんの伴奏をもつけてみた。こんな子供らしい甘い感傷を享楽しうるのは対象が猫《ねこ》であるからであろう。
 一月ぐらいたって塩原《しおばら》へ行ったら、そこの宿屋の縁側へ出て来た猫が死んだ三毛にそっくりであるのに驚いた。だんだん見慣れるに従って頭の中の三毛の記憶の影像が変化して眼前の生きたものに吸収され同化されて行く不思議な心理過程に興味を感じた。われわれが過去の記憶の重荷に押しつぶされずに今日を享楽して行けるのは単に忘れるという事のおかげばかりではなくまた半ばはこれと同じ作用のおかげであろうと思われた。
 その後妻が近所で捨てられていた子猫《こねこ》を拾って来た。大部分まっ黒でそれに少しの白を交えた雌猫であった。額から鼻へかけての対称的な白ぶちが彼女の容貌《ようぼう》に一種のチャームを与えていた。著しく長くてしなやかなしっぽもその特徴であった。相当大きくなっていながら通りがかりの人に捕えられるくらいであるから鷹揚《おうよう》というよりはむしろ愚鈍であるかと思われた。しかしまた今までうちにいたどの猫にもできなかった自分で襖《ふすま》を明けて出はいりするという術を心得ていた。しっぽを支柱にしてあと足で長く立っていられるのもまたその特技であった。この「チビ」は最初の産褥《さんじょく》でもろく死んでしまった。その後|仙台《せんだい》へ行ってK君を訪問すると、そこにいた子猫がこれと全く生き写しなのでまた驚かされた。
 今では「三毛」の孫に当たる子猫の雌を親類からもらって来てある。容貌のみならずいろいろの性格に祖母の隔世遺伝がありあり認められるのに驚かされる事がしばしばある。
 自分はこれまでにもうたびたび猫の事を書いて来た。これからもまだ幾度となくそれをかくかもしれない。自分には猫の事をかくのがこの上もない慰藉《いしゃ》であり安全弁であり心の糧《かて》であるような気がする。
 Miserable misanthrope この言葉が時々自分を脅かす。人間を愛したいと思う希望だけは充分にもっていながら、あさはかな「私」にさえぎられてそれができないで苦しんでいるわれわれが、小動物に対してはじめて純粋な愛情を傾けうるのは、これも畢竟《ひっきょう》はわれわれのわがままの一つの現われであろう。自分は猫《ねこ》を愛するように人間を愛したいとは思わない。またそれは自分が人間より一段高い存在とならない限り到底不可能な事であろう。しかしそういう意味で、小動物を愛するという事は、不幸な弱い人間をして「神」の心をたとえ少しでも味わわしめうる唯一の手段であるかもしれない。

     舞踊

 死んだ「玉」は一つの不思議な特性をもっていた。自分が風呂場《ふろば》へはいる時によくいっしょにくっついて来る。そして自分が裸になるのを見てそこに脱ぎすてた着物の上にあがって前足を交互にあげて足踏みをする、のみならず、その爪《つめ》で着物を引っかきまたもむような挙動をする。そして裸体の主人を一心に見つめながら咽喉《のど》をゴロゴロ鳴らし、短いしっぽを立てて振動させるのであった。
 この不思議な挙動の意味がどうしてもわからなかった。いかなる working hypothesis すらも思いつかれなかった。むしろ一種の神秘的といったような心持ちをさえ誘われた。遠い昔の猫《ねこ》の祖先が原始林の中に彷徨《ほうこう》していた際に起こった原始人との交渉のあるシーンといったようなものを空想させた。丸裸のアダムに飼いならされた太古の野猫《やびょう》のある場合の挙動の遠い遠い反響が今目前に現われているのではないかという幻想の起こることもあった。
 猫が人間の喜びに相当するらしい感情の表現として、前足で足踏みをするのは、食肉獣の祖先がいい獲物を見つけてそれを引きむしる事をやったのとある関係があるのではないかという荒唐な空想が起こる。また一方原始的の食人種が敵人をほふってその屍《しかばね》の前に勇躍するグロテスクな光景とのある関係も示唆される。空想の翼はさらに自分を駆って人間に共通な舞踊のインスティンクトの起原という事までもこの猫《ねこ》の足踏みによって与えられたヒントの光で解釈されそうな妄想《もうそう》に導くのであった。
 赤ん坊の胴を持ってつるし上げると、赤ん坊はその下垂した足のうらを内側に向かい合わせるようにする。これは人間の祖先の猿が手で樹枝からぶら下がる時にその足で樹幹を押えようとした習性の遺伝であろうと言った学者があるくらいであるから、猫の足踏みと文明人のダンスとの間の関係を考えてみるのも一つの空想としては許されるべきものであろう。
[#地から3字上げ](昭和二年九月、思想)



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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