青空文庫アーカイブ

あひると猿
寺田寅彦

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(例)信州《しんしゅう》

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(例)夏|信州《しんしゅう》

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(例)[#地から3字上げ](昭和九年十二月、文学)
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 去年の夏|信州《しんしゅう》沓掛《くつかけ》駅に近い湯川《ゆかわ》の上流に沿うた谷あいの星野温泉《ほしのおんせん》に前後二回合わせて二週間ばかりを全く日常生活の煩《わずら》いから免れて閑静に暮らしたのが、健康にも精神にも目に見えてよい効果があったように思われるので、ことしの夏も奮発して出かけて行った。
 去年と同じ家のベランダに出て、軒にかぶさる厚朴《ほおのき》の広葉を見上げ、屋前に広がる池の静かな水面を見おろしたときに、去年の夏の記憶がほんの二三日前のことであったようによみがえって来た。十か月以上の月日がその間に経過したとはどうしても思われなかった。信州における自分というものが、東京の自分のほかにもう一つあって、それがこの一年の間眠っていて、それが今ひょっくり目をさましたのだというような気がするのであった。
 このように、すべてのものが去年とそっくりそのままのようであるが、しばらく見ているとまた少しずついろいろの相違が目について来るのであった。たとえば池のみぎわから水面におおいかぶさるように茂った見知らぬ木のあることは知っていたが、それに去年は見なかった珍しい十字形の白い花が咲いている。それが日比谷公園《ひびやこうえん》の一角に、英国より寄贈されたものだという説明の札をつけて植えてある「花水木《はなみずき》」というのと少なくも花だけはよく似ているようである。しかし植物図鑑で捜してみるとこれは「やまぼうし」一名「やまぐわ」(Cornus Kousa, Buerg.)というものに相当するらしい。
 とにかく、わずかな季節の差違で、去年はなかったものが、今突然目の前に出現したように思われるのであった。不注意なわれわれ素人《しろうと》には花のない見知らぬ樹木はだいたい針葉樹と扁葉樹《へんようじゅ》との二色《ふたいろ》ぐらいか、せいぜいで十種二十種にしか区別ができないのに、花が咲いて見るとそこに何か新しい別物が生まれたかのように感じるものらしい。無理な類推ではあるが人間の個性も、やっぱり何かしらひと花咲かせてみないと充分にその存在がはっきりしない、あれと同じだというような気がするのである。
 去年の七月にはあんなにたくさんに池のまわりに遊んでいた鶺鴒《せきれい》がことしの七月はさっぱり見えない。そのかわりに去年はたった一匹しかいなかったあひるがことしは十三羽に増殖している。鴨《かも》のような羽色をしたひとつがいのほかに、純白の雌《めす》が一羽、それからその「白」の孵化《ふか》したひなが十羽である。ひなは七月に行った時はまだ黄色い綿で作ったおもちゃのような格好で、羽根などもほんの琴の爪《つめ》ぐらいの大きさの、言わば形ばかりのものであった。それでも時々延び上がって一人前らしく羽ばたきのまね事をするのが妙であった。麦笛を吹くような声でピーピーと鳴き立ててはベランダの前へ寄って来て、飯の余りやせんべいの欠けらをねだるのである。それからまた池にはいったと思うとせわしなく水中にもぐり込んでは底の泥《どろ》をくちばしでせせり歩く。その水中を泳ぐ格好がなかなか滑稽《こっけい》で愛敬《あいきょう》があり到底水上では見られぬ異形の小妖精《しょうようせい》の姿である。鳥の先祖は爬虫《はちゅう》だそうであるが、なるほどどこか鰐《わに》などの水中を泳ぐ姿に似たところがあるようである。もっとも親鳥がこんな格好をして水中を泳ぎ回ることは、かつて見たことがない。この点ではかえって子供のほうが親よりも多芸であり有能であるとも言われる。親鳥だと、単にちょっと逆立《さかだ》ちをしてしっぽを天に朝《ちょう》しさえすればくちばしが自然に池底に届くのであるが、ひな鳥はこうして全身を没してもぐらないと目的を達しないから、その自然の要求からこうした芸当をするのであろうが、それにしても、水中にもぐっている時間を測ってみるとやはりひな鳥のほうが著しく長い、大概七秒か八秒ほどの間もぐって水底を泳ぎ回っているのに、親鳥のほうはせいぜい三四秒ぐらいでもう頭を上げる。これはたしかにひなと親鳥とではその生理的機能にそれだけの差があることを意味するのではないかと思われる。
 鴨羽《かもは》の雌雄夫婦はおしどり式にいつも互いに一メートル以内ぐらいの間隔を保って遊弋《ゆうよく》している。一方ではまた白の母鳥と十羽のひなとが別の一群を形づくって移動している。そうしてこの二群の間には常に若干の「尊敬の間隔」が厳守せられているかのように見えていた。ところがある日その神聖な規律を根底から破棄するような椿事《ちんじ》の起こったのを偶然な機会で目撃することができた。いつものように夫婦仲よく並んで泳いでいたひとつがいの雄鳥のほうが、実にはなはだ突然にけたたましい羽音を立てて水面を走り出したと思うとやがて水中に全身を没してもぐり込んだ。そうしてまっしぐらに水中をおそらく三メートル以上も突進して行って、静かに浮かんでいる白の親鳥のそばに浮き上がったかと思うと、いきなりその首筋に食いついて、この弱々しい小柄の母鳥のからだを水中に押し沈めた。驚いて見ていると、この暴君はまもなくこの哀れな俘虜《ふりょ》を釈放して、そうしてあたかも何事も起こらなかったように悠々《ゆうゆう》とその固有の雌鳥の一メートル以内の領域に泳ぎついて行った。善良なるその妻もまたあたかもこの世の中に何事も起こらなかったかのように平静な態度でこの不倫の夫を迎えたのであった。一方ではまた、突然の暴行の後に釈放された白い母鳥も、ほんのちょっとばかり取り乱した羽毛をくちばしでかいつくろって、心ばかりの身じまいをしただけで、もう何事もなかったように、これも瞬間の驚きから回復したらしい十羽のひなを引率してしずしずと池の反対の側へ泳いで行くのであった。離婚問題も慰藉料《いしゃりょう》問題も鳥の世界には起こり得ないのである。
 自分の到着前には雄が二羽いたそうである。その中の一羽がむやみに暴戻《ぼうれい》で他の一羽を虐待する。そのたびに今もいる鴨羽《かもは》の雌《めす》は人間で言わば仲を取りなし顔とでもいったような様子でそば近く寄って行って、いつもとは少しちがった特殊な低い鳴き声を発していたそうであったが、そのうちにある日突然その暴君の雄鳥の姿が池では見られなくなったそうである。たぶん宿の廚《くりや》の料理人が引致して連れて行ったものらしく、ともかくもちょうどその晩宿の本館は一団の軍人客でたいそうにぎやかであったそうである。そうしてそのときに池に残された弱虫のほうの雄が、今ではこの池の王者となり暴君となりドンファンとなっているのである。
 七月末に一度帰京してちょうど二週間たって再び行って見て驚いたのはあひるのひなの生長の早いことであった。あの黄色いうぶ毛はいつのまにか消えうせて、もうそろそろ一人前の鴨羽に近い色彩の発現が見える。小さなブーメラング形の翼の胚芽《はいが》の代わりにもう日本語で羽根と名のつけられる程度のものが発生している。しかしまだ雌雄の区別が素人目《しろうとめ》にはどうも判然としない。よく見るとしっぽに近い背面の羽色に濃い黒みがかった縞《しま》の見えるのが雄らしく思われるだけである。あひるの場合でもやはりいわゆる年ごろにならないと、雌雄の差による内分泌の分化が起こらないために、その性的差別に相当する外貌上《がいぼうじょう》の区別が判然と分化しないものと見える。それだのに体量だけはわずかの間に莫大《ばくだい》な増加を見せて、今では白の母鳥のほうがかえってひなの中の大柄なのよりはずっと小さく見えるくらいであった。一方で例のドンファンの雄鳥はと見るとなんとなく羽色がやつれたようで、首のまわりのあの美しい黒い輪も所まだらにはげちょろけているのであった。なんだか急に年を取ったように見える。こうした変化がたった二週間ばかりの間に起こったのである。浦島《うらしま》の物語の小さなひな形のようなものかもしれない。
 植物の世界にも去年と比べて著しく相違が見えた。何よりもことしは時候が著しくおくれているらしく思われた。たとえば去年は八月半ばにたくさん咲いていた釣舟草《つりふねそう》がことしの同じころにはいくらも見つからなかった。そうして九月上旬にもう一度行ったときに、温泉前の渓流《けいりゅう》の向こう側の林間軌道を歩いていたらそこの道ばたにこの花がたくさん咲き乱れているのを発見した。

 星野《ほしの》滞在中に一日|小諸城趾《こもろじょうし》を見物に行った。城の大手門を見込んでちょっとした坂を下って行くのであるが、こうした地形に拠《よ》った城は存外珍しいのではないかと思う。
 藤村庵《とうそんあん》というのがあって、そこには藤村氏の筆跡が壁に掛け並べてあったり、藤村文献目録なども備えてある。現に生きて活動している文人にゆかりのある家をこういうふうにしてあたかも古人の遺跡のように仕立ててあるのもやはりちょっと珍しいような気がする。
 天守台跡に上っているとどこかでからすの鳴いているのが「アベバ、アベバ」と聞こえる。こういうからすの声もめったに聞いたことがないような気がした。石崖《いしがけ》の上の端近く、一高の学生が一人あぐらをかいて上着を頭からすっぽりかぶって暑い日ざしをよけながら岩波文庫らしいものを読みふけっている。おそらく「千曲川《ちくまがわ》のスケッチ」らしい。もう一度ああいう年ごろになってみたいといったような気もするのであった。
 園内の渓谷《けいこく》に渡した釣《つ》り橋を渡って行くとき向こうから来た浴衣姿《ゆかたすがた》の青年の片手にさげていたのも、どうもやはり「千曲川《ちくまがわ》のスケッチ」らしい。絵日傘《えひがさ》をさした田舎《いなか》くさいドイツ人夫婦が恐ろしくおおぜいの子供をつれて谷を見おろしていた。
 動物園がある。熊《くま》にせんべいを買って口の中へ投げ込んでやる。口をいっぱいにあいて下へ落ちたせんべいのありうる可能性などは考えないで悠然《ゆうぜん》として次のを待っている姿は罪のないものである。自分らと並んで見物していた信州《しんしゅう》人らしいおじさんが連れの男にこの熊は「人格」が高いとかなんとかいうような話をしていた。熊の人格も珍しい。
 猿《さる》の檻《おり》はどこの国でもいちばん人気がある。中に一匹腰が抜けて足の立たないのがいて、他の仲間のような活動を断念してたいていいつも小屋の屋根の上でごろごろしている。それがどうかして時おり移動したくなるとひょいと逆立《さかだ》ちをして麻痺《まひ》した腰とあと足を空中高くさし上げてそうして前足で自由に歩いて行く。さすがに猿だけのことはあるのであるが、とにかくこれもオリジナルである。
 吸っていた巻き煙草《たばこ》の吸いがらを檻の前に捨てたら、そこにしゃがんで見物していた土地の人らしいじいさんが、そのまだ火のついているままの吸いがらをいきなり檻の中へ投げ込んだ。すると、地べたにすわっていた親猿が心得顔に手を出して、手のひらを広げたままで吸いがらを地面にこすりつけて器用にその火をもみ消してしまった。そうしてその燃えがらをつまみ上げ、子細らしい手つきで巻き紙を引きやぶって中味の煙草を引き出したと思うといきなりそれを口中へ運んだ。まさかと思ったがやはりその煙草を味わっているのである。別にうまそうでもないが、しかしまたあわてて吐き出すのでもなく、平然ときわめてあたりまえなような様子をしてすましているのであった。これも実に珍しい見ものであった。ここの猿はおそらくもうよほど前からこうした「吸いがら教育」を受けているのであろうと想像された。
 絶壁の幕のかなたに八月の日光に照らされた千曲川《ちくまがわ》沿岸の平野を見おろした景色には特有な美しさがある。「せみ鳴くや松のこずえに千曲川。」こんな句がひとりでにできた。
 帰りに沓掛《くつかけ》の駅でおりて星野《ほしの》行きの乗合バスの発車を待っている間に乗り組んだ商人が運転手を相手に先刻トラックで老婆がひかれたのを目撃したと言って足の肉と骨とがきれいに離れていたといったようなことをおもしろそうに話していた。バスが発車してまもなく横合いからはげしく何物かが衝突したと思うと同時に車体が傾いて危うく倒れそうになって止まった。西洋人のおおぜい乗った自用車らしいのが十字路を横から飛び出してわれわれのバスの後部にぶつかったのであった。この西洋人の車は一方の泥《どろ》よけがつぶれただけですみ、われわれのバスは横腹が少しへこんでペイントがはがれただけで助かった。肥《ふと》った赤ら顔の快活そうな老西洋人が一人おり立って、曲がった泥よけをどうにか引き曲げて直した後に、片手を高くさしあげてわれわれをさしまねきながら大声で「ドモスミマシェン」と言って嫣然《えんぜん》一笑した。そうして再びエンジンの爆音を立てて威勢よく軽井沢《かるいざわ》のほうへ走り去ったのであった。

 九月初旬三度目に行ったときには宿の池にやっと二三羽の鶺鴒《せきれい》が見られた。去年のような大群はもう来ないらしい。ことしはあひるのコロニーが優勢になって鶺鴒の領域《テリトリー》を侵略してしまったのではないかと思われる。同じような現象がたとえば軽井沢のような土地に週期的にやって来る渡り鳥のような避暑客の人間の種類についても見られるかどうか。材料が手に入るなら調べてみたいものである。
[#地から3字上げ](昭和九年十二月、文学)



底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1993(平成5)年10月15日第61刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
1999年11月17日公開
2003年10月22日修正
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