青空文庫アーカイブ

日光
田山花袋

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)野州《やしう》は

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(例)山|獨活《うど》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まご/\すると
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    一

 野州《やしう》はすぐれた山水の美を鍾《あつ》めてゐるので聞えてゐる。水石の美しいので聞えてゐる。深い溪谷の多いので聞えてゐる。雲煙の多いので聞えてゐる。
 中でも、日光の山水を持つた大谷《だいや》川の谷と鹽原の勝を持つた箒川《はうきがは》の谷とが一番世に知られてゐる。しかし、この他に鬼怒川《きぬがは》の大きな溪谷のあることを忘れてはならない。
 しかし、何と言つても一番すぐれてゐるのは大谷《だいや》の峽谷だ。電車が通じ、凉傘《パラソル》が日に照り、都會の人々を乘せた籠や車が絶えずその谷の岸を通つて行くので、頗る俗化されて了つたやうなところはあるけれども、それでも山の深いために持つた男性的の烈しい氣分は、決してその峽谷を全く平凡化しては了はなかつた。風は凄じく鳴つた。溪は凄じく怒號した。雲霧は時の間に咫尺を辯ぜぬばかりに襲つて來た。一度洪水が出れば、その凄じい烈しい濁流は例の朱塗の橋をも呑まんばかりの勢を呈した。
 それにその持つた輻射谷にもすぐれた谷が多かつた。般若《はんにや》方等《はうとう》の谷、荒澤の谷、田母澤《たもざは》の谷、すべて美しいシインを到る處に開いた。瀧の多いのも無論その峽谷の色彩を複雜にしてゐるが、それよりも何よりも水の美しいのが好かつた。深澤《みさは》の溪橋あたりの水の美しさは、他の溪谷にはとても見ることの出來ないものであつた。瀞潭の美は紀州の北山川にある。奔瀬の美は肥後の玖磨川にある。しかし瀬の水の美しさは實にこの大谷の峽谷を以て最とした。
 水の美しさは、鹽原の谷も多くこれに讓らない。入勝橋《にふしようけう》から福渡戸《ふくわと》に行くあたりは、殊にすぐれてゐる。しかし、箒川の谷は何方《どつち》かと言へば女性的である。奔湍急瀬の壯よりも、寧ろ清淺晶玉の美である。山にも大谷の峽谷に見るやうな烈しい強い男性的の氣分を持つてゐない。線からして既に柔かで瀟洒である。しかしこの谷には大谷の谷にない温泉が處々に湧出した。それに、近頃では軌道が出來た。まご/\すると、箱根もその繁華の半を此處に奪はれるやうにならぬとも限らない。
 この二つの山水の谷に比べると、鬼怒川の溪谷は、平凡ではあるが規模は大きい。何處かと言へば、木曾川、多摩川、久慈川の谷に似てゐる。大谷の谷のやうに岸が迫つてゐない。岩石の奇にも乏しい。しかし中岩橋、籠岩を序幕として、それから瀧の湯附近、更に進んで川治の温泉附近、そこから谷は深く山又山の中に穿つやうに入つて行つて、その源流の鬼怒沼まで十五六里が間、人家は皆山に架し溪に枕《のぞ》み、水の鳴ること佩環《はいくわん》の如く、全く別天地を其處に開いて見せるのであつた。平家の落武者のかくれたといふさびしい山村を……。獵師と岩茸《いはな》採りと鑛山師と熊と岩魚《いはな》とを持つた栗山十三郷の山村を……。
 しかし、鬼怒川の水電工事は、この美しい峽谷をも非常に破壞したといふことであつた。文明の氣分は今はこの深山窮谷の中まで入つて行つた。

    二

 普通遊覽者の通つて行く處から一歩入ると、日光の山は非常に深い。地域もまた廣大である。北は鬼怒川の谷を越して、連山重疊した會津の帝釋《たいしやく》山脈《さんみやく》と相接してゐる。
 從つてその持つた森林帶には、扁柏、栂《つが》、山毛欅《ぶな》などが一面に密生して、深山でなければ見ることの出來ない原始的のカラアに富んでゐる。密林の中にある木小屋、一面に叢生した熊笹、その中を數條の細い裏山道が折れ曲つて通じて行つてゐる。瀧の尾の裏から八風《やつぷう》を越えて女峯《によほう》の七瀧《なゝたき》に登つて行く路、裏見の荒澤の谷からその岸を縫つて栗山へと通じてゐる富士見越の路、大眞名子《おほまなご》、小眞名子《こまなご》の裾を掠めて志津《しづ》の行者小屋に達する路、戰場ヶ原から山王峠を越して西澤金山に行く路、湯本の奧から狩籠《かりごめ》湖の岸に添つて、金田《かねだ》峠を越して、鬼怒川の川俣温泉に行く路、それ等の路はすべて深い深い森林帶の中を通つて行かなければならなかつた。この道路の中で、七瀧の大きな谷、女峰の劍の峰の眺望、富士見越の途中から遙に遠くその髣髴を認めることの出來る三界瀑、大眞名子の千鳥返しといふ難所のあるあたりの眺望、太郎山の御花畑、金田峠の上から見た連山の起伏などが深く私に印象されて殘つてゐた。男體《なんたい》へは私は表からも裏からも登つた。裏から登つた時は、雨の土砂降りに降る日で、山巓まで行つたには行つたが、深い雲霧で、一間先をも辨ずることが出來ず、禪頂小屋に蹲踞《つくな》んでゐて見ても何うすることも出來ないほど寒いので、急いで下りて來て、志津の小屋で一夜を過した。
 この裏山《うらやま》禪頂《ぜんちやう》は、昔は僧侶がよく行をやつたところで、山中到る處に今でも猶その禪頂小屋の殘つてゐるのを見る。私の知つてるだけでも、唐澤、女峰、志津などがある。風雨と年月とに晒されて、ひどくなつてはゐるが、それでもそこで過した一夜は平凡でなかつた。その附近の熊笹の中には屹度清い水が湧き出してゐて、そこで米を炊ぐことが出來た。秋は鹿の聲が月光の搖曳した深い林の中に聞えた。
 谷々から滴り落ちる水が、或は潺々《せん/\》とした小さい瀬を成し、或は人に知られない無名の瀑布を懸け、時には激し時には淀んで、段々世間に流れ落ちて行く形が面白い。その清い流れはをりをり山百合の白い花や八汐の紅い色を※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44]《ひた》した。
 富士見越の峠のところに小屋があつて、そこが物品交換の場所になつてゐたが、今は何うしたか。つまり日光の方から炭とか米とかの日用品を其處に持つて行つて置くと、栗山の方から下駄や細工物の材料を持つて來て、そして人を須《もち》ひずに物品だけで交換して行くのであつた。山の中にはまださうした原始の状態が殘つてゐた。
 女峰の劍の峰は、男體の頂上よりもぐつとすぐれた眺望を持つてゐる。そこで見た男體の雄姿はもとより言ふを待たない、波濤の如く起伏した連山に雲の湧き立つたさまは、日本アルプスの深い山の中でも澤山はないやうな大きな眺望であつた。

    三

 日光の山の中には種々な自然生の食物がまだ澤山に殘つてゐた。山牛蒡[#「牛蒡」は底本では「午蒡」]、山|獨活《うど》、山人參、山|蕗《ふき》、ことに自然薯が旨かつた。秋の十月の末から初冬の頃になると、山の人達は、それを掘つたのを背負籠に負つて、そして町の方へと賣りに來た。寺の坊などではそれを待ちつけて買つた。髮を棕櫚箒のやうにした山の上《かみ》さんが、「そんなことを言つたつて、中々掘るが難儀だでな……」などと言つて、白い衣を着た莞爾《にこ/\》した老僧と相對してゐるさまは到る處で見懸けた。
 たら[#「たら」に傍点]の芽はさうした食物の中で殊に美味であるが、それも山深く入ればかなりにある。山蕗は夏の盛りに行つても、もつと遲く秋になつてからでも、柔かな旨いヤツ[#「ヤツ」に傍点]が食はれる。それと言ふのも、六月に石楠花《しやくなげ》が咲き、七月に躑躅《つつじ》が咲くといふやうな深い山の中から採つて來るからである。漆の芽なども旨い。
 蕨は十二三年前までは寂光へ行く路、霧降へ行く路、裏見へ行く路などでも澤山に採れたが、ぢき手に持てなくなる位採れたが、今は開けて、もうさう手近なところにはなくなつた。その時分になると、矢張寺坊にゐる山に精しい婆さんなどが採りに行つてそして賣りに來た。太い見事な、淺い山などでは見ることの出來ないやうな蕨である。さういふ婆さんは、大抵寂光から裏見へ行く山の中、裏見から慈觀瀑《じくわんのたき》の上一里ほどの處へ出かけて行つてそして採つて來るのであつた。霧降瀑《きりふりのたき》の奧の方でも採れた。
 鳥はつぐみ[#「つぐみ」に傍点]が早くから食へた。鳥小屋が山の處々にかけてあつて、そこに町の人達はよく一日遊びに出かけたりした。運が好いと隨分澤山に獲れるといふことであつた。その他、鳥の種類はかなりに多い。雉子、山鳥なども町の料理屋の膳にいつも上つた。
 茸類では、松茸は早松茸《さまつだけ》だけである。初茸も山にはない。町に賣りに來るのは、皆もつと下の端山や野山で採れるのを持つて來るのである。千茸《ちたけ》は七月頃に旨い。八月すぎると、まひ茸[#「まひ茸」に傍点]なども出る。栗もだし[#「栗もだし」に傍点]、楢もだし[#「楢もだし」に傍点]なども澤山に採れる。椎茸も出る。
 鮎はない。此處で食ふ鮎は、皆|阿久津《あくつ》附近の鬼怒川から持つて來るのである。その代り、岩魚《いはな》がゐる。かじかがゐる。赤腹《あかつぱら》がある。中禪寺湖では大きな驚くやうな鰻が獲れた。鱒は自然生ではないが、秋はかなりに旨い。
 山に住んでゐる獸は、日光の町ではさう多く口にすることは出來ないが、裏山から鬼怒川の谷の方へ行くと、あらゆるものがゐる。熊もゐれば山猪《しゝ》もゐる。夏でも何うかなると、熊に山路で襲はれることなどもある。鹿の肉は澤山にあるが、これはしかしさう大して旨くない。猿は山の人は平氣で食ふ。ひえる體などには非常に暖まつて好いと言ふことである。しかし肉はさう旨い方ではない。兎も澤山にゐる。
 それに栗山蕎麥が有名である。私はあちこちの蕎麥を食つて見たが、この山中の燒畑で穫れたものほど旨く思つたことはない。かをりが非常に高い。その他、栗山の川俣で食つた栗山餠といふうるち[#「うるち」に傍点]の玄米でつくつた餠が旨かつた。造酒家ばかりが知つてゐるひねり餠といふのと同じものだ。

    四

 寺坊の多くは、夏は贅澤な避暑の人達の借りる所となつた。ある寺の二階の欄干からは、若々しい孃さん達の笑聲が聞え、ある寺の一間からは玲瓏としたなつかしい琴の音などが洩れた。新婚の若夫婦、侍女をつれたなにがし侯爵夫人、腕を組んで快活に歩いて行く外國人夫妻、町も山もすべて賑やかな派手な色彩を着けて來た。其頃は夏の日の光線にかゞやいた碧い空が、山と谷との上を蔽うて、電車が明るい快い姿を溪畔から山の町の方へと駛《はし》らせて行つた。
 町は夜は賑やかだ。遊覽の客が浴衣がけでぞろぞろと通る。何處の旅舍にも客がぎつしり詰つてゐる。三味線の音が湧くやうに聞える、「日光ちよいと出りや朱塗の御橋、向河原や含滿《がんまん》の……」などと唄つてゐる聲がする。いかにも世界に聞えた遊覽の町だといふ氣がせずには居られない。殊に月のある夜は好い。神橋の上から見ると、大谷の末流は、すつかり金屬か何かのやうに美しくキラキラと輝きわたつて見えた。
 電車が馬返まで通じたので、大平《おほたひら》まで上つて行く嶮しい舊道は、今は都會の人達に取つて丁度好い山路になつた。かれ等は袒《はだぬぎ》になつたり、尻端折りをしたりして面白がつて登る。女も「はア」などと呼吸をつきつき登つて行く。女學生の團體では、「まだ中々でせうかね」などと言つて立留つて喘いでゐる。中の茶屋から見た谷は頗る好い、やがて不動坂を上り盡すと、大平のさびしい林が來る。山毛欅《ぶな》や榛《はん》や白樺の幹の林立してゐるさまも見事である。つゞいて華嚴の休茶屋が來る。すさまじい瀑は※[#「金+堂」、第4水準2-91-34]然《だうぜん》として深い谷に向つて瀉下してゐる。
 南岸橋の袂に繋いである白いボオト、鮮かな碧い湖はやがて前に展けて、赤い白い競漕の旗の水面に靡いてゐるのも美しければ、三角の帆を張つたボオトが滑らかに湖上に動いて行くのも繪のやうである。
 湖に面した旅舍は、二三年前の火事に燒けて、今や欄干からすぐ湖水を見ることは出來なくなつたが、それでも猶ほ旅客の眼を樂ませるには十分だ。
 湖を渡つて歌ヶ濱に行く。其處の觀音堂にある勝道上人手刻の觀音像は今は國寶になつてゐるが、頗る見事である。私は多く佛像を見たがあんな威嚴を持つた觀音像はついぞ一度も見たことはなかつた。
 湖水の朝は殊に好かつた。水の色が好い。嵐氣の深いのが好い。歌ヶ濱から、上野島《かうづけしま》から、乃至は合潟《あせかた》の岸から見た男體は、殊にその形の端麗なので聞えてゐた。で、舟で菖蒲ヶ濱へと渡る。龍頭《りうづ》の瀑、つづいてさびしい戰場ヶ原、そこには草花が多く、夏は一面美しい毛氈を敷いたやうに見えた。そして其奧にはモウパッサンの『Inn』を思はせるやうな、冬は全く深雪に埋もれて了ふ湯本の温泉場があるのであつた。
 日光の山の町の灯も私にはなつかしかつた。料理屋の軒近くまで夜霧が深くかかつて來て、電燈の光が光鋩もなくぼんやりと濡れてかがやいてゐるのを前にして、東京生れの妓《こ》が靜かに爪彈か何かで三味線を彈いてゐるさまなどがをりをり繪になつて私の眼に映つて見えた。

    五

 日光火山群の前衞を成したやうな都賀山《つがやま》、安蘇山《あそやま》の山地も面白い。山はさう大きなものではないけれど、細い狹い谷が幾條もその間に穿たれてあつて、遠くから望んで見ても非常に襞や皺が多い。そしてその平野に落ちやうとする處には、到る處にすぐれた眺望を持つた山巒《さんらん》が聳えてゐた。
 この山の起伏は關東平野の到るところから見えた。淺草の十二階の上から、信越線の汽車の中から、北埼玉の野から、利根川の土手の上から、更に最も近くはつきりと見えたるのは、東北幹線の小山驛附近からであつた。しかしそこから見えるのは東の一面で、更に全面を見やうとするには、昔の奧羽街道、それもぐつと昔の萬葉時代に旅客の通つた驛遞の道路の線をたどつて見るに越したことはなかつた、其時分の驛遞路は、前橋附近から伊勢崎、境に出て、太田から往昔《むかし》の佐野の渡しのあつた渡良瀬川を渡つて、安蘇山、都賀山の裾を掠めて、そして下野《しもつけ》の室《むろ》の八島《やしま》の方へと出て行つたのであつた。僧道鏡の貶せられた藥師寺の趾やその墓の今日猶その附近に殘つてゐるのを見ても、上野《かうづけ》の國府から下野《しもつけ》の國府へとの路の榮えたさまが想像された。萬葉集にある安蘇山の歌は、皆その時分の旅客がこの山巒に添つて旅行してゐる形をよくあらはしてゐるのである。ことに、一番近く平野に落ちてゐる三|毳山《かもやま》の形が面白い。それは東武線の汽車の館林、佐野間を通る時によく見るが、それが絶海の孤島のやうな筑波の翠微と相對して、いかにもひろ/″\とした眺めを成してゐる。そして佐野から出た路は、この山と岩舟、唐澤の山巒の間を通つてずつと下野の國府へと出て行つてゐた。
 下野國志に、室の八島の夕暮の炊煙に包まれたさまを描いた※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]繪が一枚入つてあるが、それを見ると、昔の旅行のさまが歴々《あり/\》と私の眼の前に浮んで見えるやうな氣がした。佐野附近の渡良瀬川《わたらせがは》の渡津《としん》もその時分はかなりに榮えたらしく思はれた。
 この都賀山、安蘇山は、鹿沼《かぬま》からも入つて行ければ、栃木からも入つて行けた。佐野から入つて行く路は、秋山川の谷を深く溯つて行くやうな位置で、石灰が出る葛生町《くづうまち》があつたり、麻の緑葉の人肩を沒するやうな山畠があつたりした。田沼の近くにある唐澤山は秀郷の古城趾のあつたところで、山は淺いが、眺望は非常に好い。しかし、この奧一里のところに、これよりももつと眺望のすぐれてゐる琴平山がある。琴平の流行祠があつたが今はすたれた。岩舟には天台の古刹があつて、香煙が盛である。
 出流《いづる》の觀音の窟《いはや》のある谷は狹い小さな峽谷だが、山巒が深く入り込んでゐるので、嵐氣が深い。窟はちよつと奇觀だ。しかし、これよりも秋山川の谷を溯つて、山傳ひに足尾の方に出て行く間に、小さくはあるがかくれた山水が二三あつた。
 日光の大谷の谷に添つた大日堂の少し先からこの都賀山に入つて、小來川《こくるがは》に出て、古峰《こぶ》ヶ原、尾鑿山《をさくさん》などを探つて見るのも面白い旅の一つだ。小來川から出流《いづる》の方へ出て來るには、草山を越えたり、溪を渉つたりして、かなりに難儀な迷ひ易い路を一日歩かなければならなかつた。



底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「山水小記」富田文陽堂
   1918(大正7)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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