青空文庫アーカイブ
野狐
田中英光
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)同棲《どうせい》して、
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)作家|飢饉《ききん》で、
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ひとのいう、(たいへんな女)と同棲《どうせい》して、一年あまり、その間に、何度、逃げようと思ったかしれない。また事実、伊豆のM海岸に疎開のままになっている妻子のもとに、度々戻ったこともある。
しかし、それはいつも完全に逃げられなかった。(たいへんな女)が恋しく、女房の鈍感さに堪えられなかったのである。たいへんな女、桂子の過去を私はよく知らない。私は桂子と街で逢った。けれども普通の夜の天使と違った純情さと一徹さがあると信ぜられた。
私との商取引ができた後、私は四、五人の逞《たくま》しい、異国人たちに取囲まれ、喧嘩《けんか》になった時、彼女は最後まで私の味方だった。また一緒にホテルにいった後、彼女は包まず、自分の恥ずかしい過去を語り、流涕《りゅうてい》し、しかも歓喜して私の身体を抱いた。私は生れて初めて、肉欲の喜びを知ったと思った。彼女がいっさい、包まず、自分の過去を語ったと思ったのは私の錯覚である。しかし少しでも、自分の醜悪な過去を私にみせてくれたのは、私にとって救いであった。
いわば憐憫《れんびん》の情から結婚してしまった私の妻は処女でなかった。しかも、それは自転車に乗ったためだと嘘を吐《つ》き、自分の過去を神聖そのもののようにみせようと、いつまでも私に対して冷たかった。私も童貞で、妻と一緒になった訳ではない。けれども私は自分の過去を包みかくさず、彼女に語った。そして、彼女にもそのようにして貰いたかった。だが、妻は、(汚された処女の復讐《ふくしゅう》)を私に対して、行なったのである。私はそれに対して、放蕩《ほうとう》をもって対抗していた。
その頃から、第二次世界大戦が激しくなってゆき、私は度々、出征した。殺人と放火の無慈悲な戦場にいると、そんな甲羅《こうら》をかぶったような妻でも、天使のように恋しく、私は帰還する度に、妻に子供を産ませた。
戦争が済むと、私は会社を馘《くび》になり、子供は四人もあった。インフレはたちまち激しくなり、六千円ほどの退職金は三日ももたなかった。私は昔から文学志望だったけれど、その時は、資本主義社会の邪悪さを身にしみて感じていただけに、新しい正しい世の中を作りたい希望をもって共産党に入っていった。
けれども一年ばかりで、私は現在の共産党に幻滅を感じた。それはボス中心の私利私欲を追求する連中だけに利用されているように思われたからである。それでも私は内部に踏みとどまって、戦うのが正しかったのだろう。だが私は一時の感情にかられて、党に脱党届を叩きつけた。そして党を憎むよりも自分を憎んだ。自分が裏切者、不義士の張本のように思われ、醜悪にみえて仕方なかったのである。
そして家に帰って、文学三昧《ぶんがくざんまい》に戻ってみたが、すでに終戦後の作家|飢饉《ききん》で、多くの流行作家が世に出た後では、私は、いわゆる、バスにのりおくれた形で、持込みの原稿もなかなか売れなかった。その私の悪戦苦闘に対しても、妻は一向、同情しなかった。ヤケになった私は将来、私に余裕ができたら、別に愛人を作ってもよいかと、妻に尋ねると、妻は冷然と、(ええ、お金さえ下さればお父さんなんか家にいなくてもいいわ)といった。
ところが、その幾らかの余裕のできるようになった頃、私は前のような事情で、桂子と知り合いになった。桂子は、前に同棲《どうせい》していた異国人のおかげで、バラックながら一軒の家を持っていた。私はそこに転がりこんだ形になったのである。
桂子も私に幾つかの嘘を吐《つ》いていた。年も五つばかり若く言い、学校も女学校を出ているなぞいったが、例えば十二の八倍が幾つになるかの暗算さえできなかった。彼女は貧農の娘、しかも不義の子として生れたのである。幼時、煙草畑の草取りがいかに苦しかったか、一晩中、叱責《しっせき》され、土間に立たされていて、蚊に責められた思い出なぞを私に語ったこともある。男や金のことでも、時々、嘘をついていた。しかし彼女の嘘は、例えば幼女の嘘のようにすぐバレ易く、それだけ、妻の頑固な嘘よりは、私にとって可憐《かれん》に思われた。妻は、肉体の喜びさえかくし勝ちなのだが、桂子はすべてが開《あ》けっぴろげのようで、私には可愛い女だった。
そこで私は、桂子と、夜昼なしの愛欲生活を送りながら、カストリ雑誌なぞにしきりに書きはじめた。そうした雑誌の編集者たちと飲みあかす晩も少なくなかった。生活の乱れに筆の荒れるのを感じるようになる。また金だけ送って疎開先におき放しになっている妻子、特に子供たちに良心的|呵責《かしゃく》も感じるようになる。更に共産党、人民の党と考えていたものを裏切ったと思う、苦痛もある。
私は眠れないまま、しきりに催眠剤を用いるようになった。はじめはカルモチンなら十錠、アドルムなら二錠で眠られたのが、しまいには、カルモチン五十錠から百錠の間、アドルム十錠ほど、一気にのまなければ眠られなくなった。それも飲むと眠たくなる代りに気持よい昂奮状態《こうふんじょうたい》が訪れる。そして桂子との交合。その疲労を忘れるため、昼間もアドルムを飲んでは、原稿を書く。
私は前から酒好きで、その酒も強いほうだったが、催眠剤を連用しはじめると、酒だけではまるで酔えなくなった。私は昔のボート選手で六尺、二十貫。それでも一升飲めばいい気持になったのだが、そのうち、焼酎《しょうちゅう》一升飲んでもケロリとしているので、酒と一緒に催眠剤を飲むようになる。また、そのほうが安上りというサモシイ気持もあったのだ。そのおかげで私は、桂子の肉体と催眠剤の中毒患者になった。そのどちらもが一日でもないと、禁断症状がおこり、私は口を利く気力さえない半死半生の病人のようになる。
そのままでは、私の健康も才能も、また疎開先の妻子もダメになると思って、私はやりきれない気持だった。そこで私は酔うと酒乱になる桂子と喧嘩《けんか》する度に、それをよい機会と思い、妻子の田舎に逃げ帰るのだが、そこで、妻の表情のかたい、甲羅《こうら》をかぶった無言の軽蔑《けいべつ》に出あうと、死ぬほど桂子が恋しくなり、また彼女のもとに逃げ帰ってしまう。
また桂子が酔って見境がなくなり、遊びに来ていた他の男たちと夜の町にとびだしてゆくと、私も嫉妬《しっと》を起して、他の男たちと夜の町にとびだし、よからぬ場所に泊り、娼婦《しょうふ》と共に寝たこともあるが、そんな場合、私は桂子の肉体を思って、どうしても、その他の女に触れる気になれない。皮肉なことに少なくとも、結婚後は私のために貞操を守ってきたらしい妻に対し、私は少しも貞操を守りたくなかったのだが、私と一緒になる前、夜の天使同様だった桂子に、私は期せずして貞操を守るようになった。
桂子は前に同棲していた異国人から、縞馬と呼ばれていたという。色の浅黒い、手足の小さい、小柄の女で、顔は平べったく、低い鼻の穴が大きく天井を向いている。化粧すれば、そうみっともない女でもなかったが、素顔の時は呆れるほど平凡な泥臭い百姓の娘さんだった。けれども、その疲労を知らぬ、太股《ふともも》に薄い縞模様のある肉体が、私を圧倒した。私は彼女によって初めて、肉体の恋を知らされたといってよい。
ところで私は、俗物たちが妾《めかけ》をもって平然としているように、一夫多妻主義で納まっていることはできない。道徳的には妻子のもとに帰るのが正しいと思われたし、新しい私の道徳からいえば、たとえ前身がなんであろうと、前の妻と別れ、より愛している女、桂子と一緒になることが正しいように感じられた。しかし、そこに四人の子供の問題がある。十八の六倍が容易にできないような桂子に、子供たちの育てられないのは、私にも分っていた。
そこで最後に昨年の暮、バカな私にも、桂子が異国製の菓子と煙草をかくし持っていたり、おまけに当時、ジフリーズで、ペニシリンの注射をさせてやっていた頃、彼女の浮気というより、その淫奔さに薄々、気づいていたので、また催眠剤を飲んで彼女と喧嘩の末、伊豆の妻子のもとに逃帰った。だが、催眠剤は勿論、沼津からも酒を飲みはじめ、夜中の十二時になっても、わが家に帰る気がしない。妻のぷッと膨れた冷たい顔をみるのが辛いのである。十二時頃、千二百円でハイヤーを雇い、M海岸まで帰ったが、そこでわが家を指呼の間に望みながらも帰る気になれない。家の下に、淫売宿をかねた飲み屋のあったのを幸い、そこの框《かまち》に腰かけたままで、酒を飲みはじめ、夜中の三時ごろになって、やっと、わが家に帰った。
帰る途中、畑に顛落《てんらく》して、つき指をしたり、苦心惨憺《くしんさんたん》、やっとの思いで妻子のもとに帰ったのだが、妻は尋常の夫の放蕩《ほうとう》とのんきに思いこんでいるらしく、チクチク皮肉をいうばかりか、子供たちにも私を悪者と教えこんでいた。そこで私の気持は急転直下、妻子を棄てて、桂子と一緒になろうと思い、そのことを妻子に宣言して、再び、東京の桂子のもとに帰った。
すると妻は子供たちを連れ、すぐ東京の実家に泣きこみにいった。そこで親戚会議《しんせきかいぎ》のようなものが始まる。その席上に、桂子は催眠剤をのんでいった。彼女は私よりも少量でもっとベロベロになる。だから私の姉たちが、子供たちの将来を思い、私のすぐ上の姉の離れの十畳間に、私の妻子を引取ろうというのも承知しないし、五十万円の離縁金で、すぐに妻を離籍しろと強硬にいいはる。そこに、私は自分の子供たちの無心にオドオドしている姿をみた。それで私の決心は再び変ったのである。私は子供たちの犠牲になろうと思い、再度、桂子と別れた。
そして妻子はすぐ上の姉の離れに住まわせ、私自身は近くに仕事部屋を借りて貰った。けれども、そうしていても始終、妻のふくれた顔が私のまぢかにある。また私と別れてヤケになっているという桂子が、社交喫茶に勤めだしたというのも気にかかる。といって、もう一度、桂子に顔を合せるのも苦しい。私は集金できる出版社をあてにして、黙って仕事部屋をとびだした。
催眠剤と酒の数日間が続く。眠ったのは、浅草のいまは廃業しているお好み焼屋とか、親しい編集者や作家の家。実に多くの人たちに言いようのない迷惑をかけた。淫猥《いんわい》で滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に勘定が高く、白痴のヤミ屋がゆくものと決めていた社交喫茶というものにも、桂子が勤めているときき、二、三度場所をかえ、顔を出してみた。
浅草のある社交喫茶に桂子に似ている女給がいたので、彼女を連れ、一度だけホテルにいった。けれども、私は、桂子の肉体と違う女と交合する欲望はない。丁度、桂子との同棲中《どうせいちゅう》、よくしていたように、彼女のスベスベした両足を、私の両足の上にのせて貰っただけで催眠剤を多量に呷《あお》って、死んだように眠った。滑稽《こっけい》なことに、私は桂子に対してまだ貞操を守っていたのである。
そして桂子も私に対して同様な気持でいると信じていた。二十貫もあった私の肉体はやせおとろえて、二貫目もやせ、アバラ骨さえ出る始末。そうした夜昼なしの放浪の間、私は浅草でも、新橋でも、横須賀でも、鎌倉でも、ところかまわず、酒と催眠剤を飲み歩いていたが、絶えず夢うつつのように桂子の幻が浮んでいた。きっと桂子も私と同じように不幸なのであろう。
それで、ある日、思いあまって、私は新宿のいわゆる愛の古巣に戻っていった。午後三時頃、台所から、こっそり声をかけ、上ってもいいか、桂坊がいままだ不幸な気持かと尋ねた。クスクスいう含み笑いと、「あたし、うれしいわ」という甘ったるい桂子の色っぽい声。「あたし勿論、不幸よ。帰ってきて下さって嬉しいわ」
こんな言葉に私は有頂天になって、懐しい六畳間に台所から入っていった。彼女はしきなれた布団の上に、なまめかしい寝巻姿で寝ており、その枕元に、私たちのいた頃から使っていた、近所の人のいい老婆が、優しく笑っていた。私はどこよりも、桂子の家で、家庭的なあたたかさをもって迎えられたのだ。私はとっさに情欲よりも、もっと高い愛情にうちのめされた気になった。私の帰るべきところは結局、ここより他にないともう一度、信ぜられた。
私はオバさんを帰してから、桂子を膝の上に抱いて、雨アラレと色々なことをきいた。
「ぼくがいないんで、本当に淋しかった」
「誰も好きなひとができなかった」
「一度ぐらい浮気をしてみた」
私には桂子が別れた時より、ずっとポッチャリ肥ってしまったのが、ちょっと、気になった。私がこんなに痩《や》せるほど、桂子を思っていたのに、桂子は、その半分も私を思ってくれなかったのであろうか。しかし桂子の次のような甘い言葉の数々が、充分、私のそうした疑念を打消したのだった。
桂子はハリキッた肉体を身もだえさせ、こんなに言った。
「さびしかったわ。時々、夜中に靴の音が聞えると、ひょっとあなたが帰ってきて下さったかと思って目が覚めるのよ」
「勿論、誰も好きなひとなんかできるはずがないじゃないの」
「浮気」彼女は柳眉《りゅうび》を逆立てていう。「笑談《じょうだん》じゃないわ。あんなところに、お勤めしていても、あたしだけは真面目で通したのよ。だから、日に四百円ぐらいしか、平均の収入なかったのよ」
その前、彼女が私に逢いたく、姉の許《もと》に来た時には、日に二百円の収入しかないとこぼしていたと私は聞いていた。けれど、それも彼女のみえっぱりの罪のない嘘だろうと、私はなにもいわなかった。金がなくなって前に関係していた異国人から貰った時計のエルジンを千五百円で売ったとも、いま七、八百円の金しかないともいった。私は彼女と別れる時、置いていった金から推量して、まだ一月ほどしか経たぬのに、それも嘘に違いないと思った。
けれど私はなにもいわずに、その夜は自分の本を売って金を作り、ふたりで酒をのみ、肉鍋をつついて、楽しく遊んだ。一月もむなしかった私の欲情も、その夜から執拗《しつよう》なものになった。さすがの桂子も痛がって、それを厭《いや》がるほどだった。いつになく、局部を痛がる桂子にお人好しの私はなんの疑念も持たなかった。ただ依然として、彼女は無知で純情で、可憐《かれん》そのもののように、私には感じられた。
はじめの約束では、私は、月に時々そうして桂子に逢う積りだった。その度に、金を持ってこようと思っていた。すると桂子は、「そんなに来るたんびにお金なんかいらないわよう」といった。彼女も、勤めを継続しながら、私に時々、逢う積りでいたのだ。
翌日、私は集金の予定のある出版社に出かけていった。そこで都合が悪く、先づけ小切手を渡されると、私はそれを近くの、いつも迷惑ばかりかけている、ある出版社の社長に現金にかえて貰いにいった。そして酒を御馳走になってしまうと、桂子と約束の時間に帰れなくなった。その夜、彼女は勤めを休むとはいっていたが、私の帰りが遅いのに腹を立て、きっと勤め先に出かけたに違いない。
それで私は、ひとり多分、社長から貰ったに違いない一升瓶を抱え、本郷から自動車をとばし銀座に出た。彼女の勤め先は、西銀座の「うらら」という店である。
運転手に探して貰うとすぐ分った。これもやはり第三国人の経営だという、ビルの二階の大きな酒場だった。下にボーイが二、三人、白い制服で頑張っていて、怪しげな客は通さないようにしている。私は、本名で出ているという桂子の名前をいうと「ケイコさん」と呼ぶ、けたたましい指名で二階に通される。これが桂子のいう上品な酒場か。
青い照明の下で、鳴りひびくバンド。踊っている客と女給たち。ここに上ったら最後、最低三千円は取られるのを覚悟しなければならない。ところが桂子の話だと、どんな客でも鞄《かばん》の中に五万から十万の金を持っており、少なくても一万円の金は使ってゆくという。お客の種類は土建か貿易関係の連中の接待が多いという。酔っ払って女給の腰に抱きつきながら、尻ふりダンスをしている老人客、ジッと抱き合ったまま動かない、怪しげなシミダンス。私はそれで、「上品な酒場」の正体が分った気がする。
私がいわゆる、桂子の旦那だと分ると、私は店の奥の、外人客が通されるという、特別な囲いに案内され、四、五人の女給たちが私をとり囲んだ。桂子にはとにかく、まじめになりたいという気持が感じられるが、その四、五人の女たちは、全く典型的な娼婦《しょうふ》のように私には思われた。ただ金と男と、うまいものと、酒が欲しいという顔であり、話である。私は、桂子がこんな女たちのひとりと、客の取り合いをして泣いたという話を思いだし、たちまち、彼女にこうした勤めをさせたくなくなった。
全てか、然らずんば無か、私のこうした極端な気持が一度、共産党と喧嘩《けんか》すると、今度は淫売婦《いんばいふ》のふところに飛びこませた。私は再び、そのような極端な気持になったのである。私はもう一度、妻子を棄て、桂子を自分の妻にしようと思った。それは勿論、彼女に勤めを止めさせてである。
桂子と同棲中、私は彼女から逃げようと思い、彼女のため、池袋にマーケットを買ってやったことがある。そのマーケットを月三千円で、桂子は友達のリリーに貸してやっていた。リリーは芸者上りの、桂子よりはいわゆる、美貌だが同じようにヒステリックらしい女である。今の世には、異常な男女が刻々とふえつつあるのだ。そのリリーが、桂子のいないため、最後まで私につきそっていてくれた。
私は持ってきた一升瓶を飲み、女給たちは店のビールを飲む。そして結局、看板まで私は居残ることになった。酔いと遅くなって面倒なのとで、私はリリーとハイヤーで新宿まで帰ることにした。
店を出ると、その角に中華料理屋がある。リリーが何か食べたいというので、入って、私のためにはチキンカレー、リリーのためには、焼そばと卵のスープを取った。私は充分に酔っているので、もはや、食欲がない。ぼんやり、リリーの食べかつ飲むのを眺めていると、彼女は瞬く間に、自分の分を平らげてしまい、「私は面倒なのはキライよ」と絶叫しながら、私のカレーまで飲みほすように食べてしまった。まるで餓鬼である。地獄の女たちのひとりだ。私は桂子が、逢いはじめにやはりこのように怖るべき食欲を発揮したのを思いだす。彼女たちは愛情にも、金銭にも、食欲にも、あらゆるものに飢えているのだ。
銀座から新宿までの車代が一千円。車は外国団体の所有のものらしい高級車で、運転手のサイドワークらしい。
「早く、乗って下さい」とせかし立てる。車の内でリリーも酔ったらしく眼を据え、私のチップの払い方が少ないなぞ文句を言いだす。そして新宿の家についても、桂子に対して、「あなたの旦那を送ってきてやった」と恩を着せ、またチップのことをゴタゴタ言い出し、おまけに池袋のマーケットの家賃が高いなぞと言い始める。酔っている時の桂子は、決してリリーなぞに負けるような弱気ではないが、素面《しらふ》なので温和《おとな》しく、言われる通りに、リリーにチップを出してやったようだ。
私は遠慮して、女たちふたりを炬燵《こたつ》のある大きな布団に寝せ、ひとりで隅の小さいボロ布団にねたが、淋しくて寒くて仕方がない。大声で桂子を呼びたて、彼女のピチピチした身体をしっかと抱いたまま眠る。桂子の話だと、世の中には、そうして他人が横に寝ていることに刺激を感じ、交合を好む男女がいるそうだが、私はふたりだけの時は、思い切って開放的で恥知らずの交合を好む癖、誰かに見られていると思うと、それだけで、まるで勇気を失ってしまう男なのだ。
私は帰ってきた蕩児《とうじ》として、前以上に桂子が好きだった。彼女のためなら、自分の文学も、自分の一生も、不憫《ふびん》な子供たちも、いっさい、失ってもよいとまで思いつめていた。しかし、前回と違い、桂子の物欲の強くなっているのにはかなり悩まされた。彼女は再び私と一緒になることを喜んで承知したが、その代り、
「わたし、お店に出て、いろんなことを覚えたわ、愛情は物質と平行するものよ、わたし、着物も欲しいし、うんと贅沢《ぜいたく》させてくれなくてはイヤ、ネ、女の虚栄というものを理解して頂戴」
ああ、これが私との逢いはじめに、私が、ボロボロのジャンパーに軍靴をはき、「ぼくは身なりをあまりかまわない男ですよ。それに貧乏作家で、あなたに贅沢をさせられないかもしれない」といったのに対し、やさしく、「ええ、あなたの愛情さえあれば、わたし、なんにもいらない」と答えた女なのだろうか。
一カ月の社交喫茶勤めという悪習が、桂子を急速に堕落させたのだろうか。イヤ、元来彼女はそうした虚栄心の芽のあった女ではある。それが私に対しては慎ましく、「なにを買ってくれ」というのも遠慮していたのが、私には余計、可憐《かれん》に思われたのである。
けれども、今は、店の同僚の女たちの衣裳がみんな数十万円のものを身につけてると羨《うらや》ましがり、自分にも、そうした装身具を買ってくれとねだるのだ。私は死にたいほど悲しい気持で、彼女を抱いて眠っていたのに。
その翌日、私は彼女とともに、近くの先輩作家のもとにいった。先輩といっても、五十を過ぎ、平和な落着いた家庭を持っているひとなのだ。そのひとを仮にYさんと呼んでおこう。Yさんは、久し振りの私を歓迎して下さって、お酒の御馳走をしてくれた。
Yさんの小さい子供たちの無心に遊んでいるさまをみるのが、私には、自分の子供たちが思い出されて、身を切られるように辛い。それで殊更、元気をだし、その子供さんたちに校歌を教え、優しい奥様に、よく知りもしない禅の講釈などをしていた。私は彼女と別れて放浪中、偶然、古本屋で買った、「無門関」を愛誦《あいしょう》していた。その中でも、「百丈|野狐《やこ》」という公案が好きだった。それには、あのボードレールの、(あきらめよ、わが心、けだもの、眠りを眠れ)といった嘆声に共通したものがあるように思われた。いま、ここにその公案の全文を写してみよう。
百丈和尚、凡《およ》ソ参ズルツイデ一老人アリ、常ニ衆ニシタガッテ法ヲキク。衆人シリゾケバ老人モマタシリゾク。忽《たち》マチ、一日シリゾカズ、師ツイニ問ウ。面前ニ立ツ者ハマタコレ何人ゾ。老人イウ。ソレガシハ非人ナリ、過去、迦葉仏《かしょうぶつ》ノ時ニ於《おい》テ、カツテコノ山ニ住ス。因《ちなみ》ニ学人問ウ。大修行底ノヒト、因果ニ落チルヤ、マタナキヤ。ソレガシ答エテイウ。因果ニ落チズト。五百生、野狐ノ身ニ堕ス。今コウ。和尚、一転語ヲカエテ、ネガワクハ野狐ヲ脱セシメヨト。ツイニ問ウ。大修行底ノヒト、カエッテ因果ニ落チルト、マタナキヤ。
師イウ。因果ヲクラマサズ。老人、言下ニオイテ大悟シ、作礼シテイウ、ソレガシ已《すで》ニ野狐ノ身ヲ脱ス。山後ニ在住セン。敢エテ和尚ニ告ゲ、乞ウ、亡僧ノ事例ニヨレト。
師、維那ヲシテ白槌シテ衆ニ告ゲシム。食後ニ亡僧ヲ送ラント。大衆、言議スラク、一衆ミナ安シ。涅槃堂《ねはんどう》、マタ人ノ病ムナシ、何故ニ、コノ如クナルト。食後タダ見ル。師ノ衆ヲ領シ、山後ノ巌下《がんか》ニ至リ、杖ヲモッテ、一死野狐ヲ挑出シ、スナワチ火葬ニヨラシム。師、晩ニ至リテ上堂シ、前ノ因縁ヲ挙《こ》ス。
黄蘗《おうばく》スナワチ問ウ、古人、アヤマッテ一転語ヲ祇対シテ、五百生、野狐ノ身ニ堕ス。転々、アヤマラザレバ、コノナニヲ作ルベキ。師イウ、近前ニ来レ。カレノ為ニイワン。黄蘗ツイニ近前シ、師ニ一掌ヲアタウ。師、手ヲウッテ笑ッテイウ。マサニ謂エリ、胡鬚《こしゅ》赤シト。更ニ赤鬚ノ胡アリト。
無門|曰《いわ》ク、不落因果、ナンノ為ニ野狐ニ堕《お》ツ。不昧《ふまい》因果、ナンノ為ニ野狐ヲ脱スル。モシ、者裏ニ向ッテ、一隻眼ヲ著得セバ、スナワチ、前百丈(野狐ノコト)風流五百生ヲカチ得タルヲ知リ得ン。
頌《じゅ》ニ曰ク、不落不昧、両彩|一賽《いっさい》、不昧不落、千錯万錯。
私はこの公案に自己流の解釈を下そうとは思わない。ただ懸命に人生を生きぬき、修行しさえすれば、よい作家になれると単純に信じている私に、この公案が、(あきらめよ、わが心、けだもの、眠りを眠れ)と話しかけるのである。
私がこの禅の話で、夢中になっている間、桂子はひとりでコップ酒をがぶがぶ飲みはじめたようだ。私のハッと気づいた時には桂子は、ベロベロに酔って、眼を据えていた。そして、先輩のYさんと口喧嘩《くちげんか》を始めている。Yさんもかなり酔われているようだ。桂子が大声で、「こんな酒、飲めるものか。ビールとチーズを持ってこい」と、店で大見えを切るように威張れば、Yさんが震え声でどもりどもり、
「君、なにを失礼なことをいうんだ。もういいから帰ってくれ給え」
「帰るとも、ロクなものを食わせもしないで大きなことをいうな」
桂子がフラフラ立上るのに、Yさんが、「この女、生意気な」と組みついていかれて、奥さんに引きとめられ、奥に寝かされに連れてゆかれてしまった。私も酔眼朦朧《すいがんもうろう》として、その様子を眺めていたが、早く、桂子を連れださねばならぬと思い、彼女をせかして玄関に出たが、桂子はもはや、ひとりで草履《ぞうり》をはけないほど酔っている。
私とても薬と併用しているから腰が切れない。ふたりでよろめきながら、崖上のYさんの家を出てゆくのに、彼女は足をすべらせ、真っ逆様に、前の溝に落ちてしまった。臭い、すえた溝の中から、はでな湯文字がみえ、暗闇には薄白くみえる、桂子の両股があらわである。才能《テクニック》と身体を張り、一身代作って、勘当された親や身内を見返そうとしている、彼女もまた一匹の野狐。野狐、溝に堕ちる、風流五百生、なぞといった感情が取りとめなく胸に湧いたが、しかし、早く彼女を助けねばならない。
私は自分も尻餅をつきながら、やっとの思いで、彼女の身体を溝から引っ張り上げたが、泥のおびんずる様みたいになっている。そして周囲にいつの間にか、多くの弥次馬。
「やア女の酔っ払いだ。みっともない」
「水をかぶせて、そこに寝かせておけば治ってしまうよ」
私は桂子がそんな風に醜悪で、みんなに侮辱されれば、されるほど、いとしくてならない。仕方がないからYさんの玄関にでも、ねかせて戴こうと頼みにゆくと、奥さんが手拭に金盥《かなだらい》をもって出てこられ、桂子の顔や身体を一通り、綺麗《きれい》にしてくれた。
桂子は幾らか正気づき、自分でフラフラ立上る。着物の前ははだけ、裾からは真黒な足袋跣足《たびはだし》。通りがかりの少年が、「やあ、女のお化け」といったのをムキになって怒り、「この野郎」と絶叫しながら追いかけていった。私はその後ろ姿を眺め、彼女が幼女時代、農村でそんな風にお転婆だったろうと想像し、微笑してしまう。
私も少年時、鎌倉の農村に育ち、桂子のような少女たちに、しきりに好奇心と淡い恋情を感じたことがある。都会に出ていって、悪い病気をうつされ、まだ若くして死んでいった、そうした多くの娘たち。その娘たちに感じていた愛情が、桂子の上に爆発したのだ。
十六、七の頃、近くの老農に犯されようとしたり、医者の息子に追いかけ回されたという彼女。十九の年、田舎碁打ちに誘惑されて処女を失い、二十一の時、身内の勧めで、気に入らぬ結婚をし、姑や小姑たちと仲が悪く、カフェの勤めに出たり、夫の出征した後では、印刷工場に入って自立し、敗戦後、帰還した夫を嫌って、離籍し、ある異国人と同棲《どうせい》し、その異国人が、ブラック・マーケットで本国に帰された後は、女給勤めのかたわら夜の天使のようなことをしていた彼女。そんな桂子に、私は敗戦日本の悲しい女性の運命の象徴を感じる。なんとかして、彼女と一緒に自分も助かりたい、浮び上りたいと思っていたのだが。
私は彼女のハンドバッグと草履《ぞうり》を持ち、酔って少年のあとを追いかけていった桂子のあとを追っていった。少年は近くのS駅の事務員らしく、事務室に逃げこんだのを、桂子は後を追う。そして事務室でクダを巻いているところに、私が入っていって、みんなに謝まり、新宿まで電車で帰る。
昨夜、そこの溝板の上に、短刀で一突きにされたという青年の死体の転がっていたマーケット。その溝板の上を彼女は足袋跣足で、髪をぼうぼうと乱し、平目に似た眼を吊り上げて、平然と歩いてゆく。その醜骸を、私はどんなに熱愛していたことか。途中、警官の不審尋問にあったが、私がついていたので、なんでもなく済んだ。
彼女の家に帰る途中に、支那ソバ屋がある。桂子は勤めに出ていた頃、時々お腹がへるとここに寄ったという。ある時は、送ってくれた酒場のボーイを連れて。それはお客かもしれぬと一瞬、邪推したが、その時、私はまだ過去の恥ずかしいことでも、隠さず語ってくれると思う桂子を信じていた。そして桂子は玉子を入れたラーメンを二杯も食べる。昨夜のリリーに見た時のような恐るべき食欲。
帰って私たちは死んだように抱き合って寝る。朝、目がさめると、途端に私のほうからしかけてゆく抱擁《ほうよう》。酒場に勤めていた時、まるで浮気をしなかったかどうかを私は知りたい。それで色々に白状させようとするが、彼女はそのことに関すると、穿山甲《はりねずみ》が全身の毛を逆立てたような表情になるので、私は彼女を信じるよりほかない。私はこのようにして段々、嫌いになっていったのを桂子は忘れているのだ。
それは男だけに浮気の権利があって、女にはないというのではない。一度、私が桂子を棄てた以上、その間に、彼女が売春をしたことがあっても仕方がない。ただ、そうしたお互の恥ずかしいところを全部、見せ合うところに、お互の愛情と信頼が生れると思う。それがなかったために、私は妻が厭《いや》になったのだ。けれども、桂子は、それを私のカマかワナのように思っているらしい。
翌日は、彼女に勤めをやめさせる日。最後の晩、気持よく勤め、みんなにも挨拶したいというので、私は銀座|界隈《かいわい》、顔見知りの編集者に厚かましくタカって、十時半頃になってから、「うらら」に出かけてゆく。
青い照明の、他の厚化粧した女たちと、酔った男たちのいる店でみる桂子は別人のようだ。他の女たちに比べ、わざとらしく肩を張っているのも、田舎っぽいのも、小柄なのも、私には可憐《かれん》にみえた。彼女は私が四、五百円の現金しか持ってゆかなかったのが不快らしく、一分と落着いて、私の席に坐っていない。私のことを、ひどい焼餅やきと桂子の宣伝が利いているので、他の女給たちが心配し、何度も、「桂子さアん」と呼んでくれるのだが、桂子は故意に、小さい身体をチョコマカと動かし、客たちの間をぬって、ダンスしている。私はその彼女の利かぬ気を微笑で眺め、他の女給とダンスを始める。
曲がタンゴでもブルースでもかまわず、トロットのボックスを踏んでいればよい怪しいダンス。戦前、やかましいダンスを覚えた私には、それがまるで気ぬけしたみたい。しかし、結局、音痴でダンス嫌いの私には、このほうが気楽でよい。
一曲、踊って席に戻ると、桂子の組長だという、しっかりした美貌の女給が私の前に坐る。一目みて、江戸っ子と分る、垢《あか》ぬけした化粧に歯ぎれのよい口調。暫く話し合っているうち、私は彼女が、私の学生時代、合宿していた艇庫の近くのある料理屋の娘と分る。それは昔、とにかく、カフェにある種の義理人情や、エチケットの存在していたのを知っている女給さんである。
彼女に比べると、私の桂子はひどく泥臭く、もの欲しげな女にみえた。私は数日前の放浪時代、浅草のレビューの女優さんたちとものを食べ、酒を飲んだこともあったが、彼女らも敗戦前の彼女らに比べ、夢やヴァニティがなく、ただ物欲的なのに失望した。そして、それよりも失望したのが、この新興喫茶というものの女給たち。そこに、一口にいえば、こんな風にガッツいていないタイプの組長に逢って、私は嬉しかった。
その夜も酔ってしまうと、省線に乗るのが面倒になり、ハイヤーで帰る。これは日本の木炭自動車で八百円。帰って、ふたりで寝ると、習慣となった摩擦行為が繰返される。私は自分の肉体の衰えと、彼女の身体のハリキリ方を身にしみて感じる。
翌日から私は仕事を始める積りだったが、朝、ふっと彼女の身体に触ってしまうと、前夜の酔いも残っていて、私には仕事ができない。オバさんに頼み、近くの薬局からアドルムを買って来て貰うと、朝から二錠、四錠とのみ出し、終日、布団の中でうつらうつらしている。そうすると稼がない私に対して、彼女の仮借ない憤怒《ふんぬ》。私はアドルムを飲むと、羊が狼に代り、絶対君主の彼女をなぐったり、蹴ったりするのを、桂子は極端に恐れているのだ。
だから、私はアドルムを制限され、その夜、五錠しか与えられない。すぐに高鼾《たかいびき》で眠ってしまう彼女の横で、私は苦しくてならぬ。これでは明日も、明後日も、永遠に仕事ができぬであろう。それに一銭の金も置いてこなかった妻子たちのことを思うと、私は尚更、眠れぬ。彼女が折角、勤めに慣れだしたところにとびこんできた私は重々、悪いが、なんにしても仕事ができなければ仕方がないから、その妻子の問題と、薬の中毒が解決するまで、また桂子と別れ、姉のもとに行っていようと思う。
彼女は米を買う金もないと言いだしたから、私は大切にしていたクロポトキンの「ロシア文学の理想と現実」、ジョイスの「ダブリンの人々」他二、三冊の洋書を、訪ねてきた編集者に頼み、一面識だけある本屋の社長に図々しくも売ってきて貰う。しかもその後で、私は彼女に万という貯金のあるのも分った。
昔、彼女と同棲《どうせい》していた頃、私は彼女からやかましく飲み代を制限されるのに困り、また妻子のもとに送る金のことでも煩《うるさ》く言われるのに閉口し、金を方々にかくしたことがある。いまは、その復讐《ふくしゅう》をされているのだと思えば、バカな私は少なくとも、このことに関して桂子を責める気になれない。
しかし、彼女がその一月の間に三夜ほど外泊し、その度に、分厚い札たばを持ってきて、貯金したという話をきいて、私は愕然《がくぜん》とした。彼女は悪い病気を持っていて、それが私のとび出したあと、殆ど治療していないといっている。それならば、桂子はそうして自分で自分の身を亡ぼしているようなものではないか。私はあれを思い、これを思い、殆ど居たたまれぬ思いで、もう一度、桂子の家を出て、姉のもとにいった。
そこには妻の勝ち誇ったような顔がある。妻は、私が桂子の家にいっている時、四人の子供を連れ、私たちの留守に、桂子の家を襲った。そして留守番のオバサンから、彼女が三度、外泊した話と、分厚い札たばを持返った話をきき、胸がスッとしたというのだ。その妻は、私の留守中、一張羅《いっちょうら》の着物を質に入れたという。世間の常識からいっても、誰にきかせても、与論は妻の味方であろう。
だが、その妻の勝ち誇った顔は、私の胸の傷をなお深くえぐった、私はその時から、妻子の顔をみているのが堪《たま》らなくなった。姉が泣きながら止めたが、私は妻と別れると言い張ってきかず、とうとう、妻や幼い子供たちを、姉の家の近くの、長兄の家に追いやってしまった。そして子供たちの養育費は出すが、妻は家政婦として働かせるようにした。
私は妻の泣き顔をみたようにおもう。だが、それは私の悪いマノン、桂子の泣顔ほどにも、私の胸に残らなかった。
そして私は姉の離れの十畳を借り、いちばん上の十二の子と、味気ない生活を始めるようになった。朝十時頃、起き、午後の四時頃まではなんとか机に向って仕事を続けていられるが、五時、六時頃になると、死にたいほどの孤独感にふいと襲われ、台所で食事の仕度をしている姉のもとにアドルムを貰いに出かけてゆく。
二、三時間ほど禁断症状が起ったのを我慢した後だから、四錠ほど飲んでも、いつもの十錠分ほどの効目がある。天国に上昇してゆくような爽快感《そうかいかん》。一日、ひとりで机に向っていた後での無闇に、お喋《しゃべ》りをしたい気持。私は忙がしそうな姉に向って、幼い時の思い出を色々と話しかける。私はひどく愛情に飢えているのだ。それで私に愛情を持っていると感ぜられる唯ひとりの姉に、甘えるようにお喋りする。三十七歳の私が、子供の時、「ちょれから、ちょれから」といつも三つ上の姉をからかったような喋り方。
それでも姉には、多くの子供たちや、夫があり、私だけに愛情を注いで貰えぬ淋しさがある。その思いが、二十年間、仲むつまじく連れそってきた姉の夫、義兄の帰宅してきた時から一層、ひどくなる。義兄は、財界を動かす「ニューフェース」の中に数えられる、ある経済団体の所長代理、すでに五十歳。その彼に私はインフェリオリティ・コンプレックスを感じる。その淋しさをまぎらせるため、私は姉の子供たちと将棋なぞやって気を紛《まぎ》らわせる。
その間にも、私は桂子に手ひどく騙《だま》されたのを思いだす。彼女の浮気をしている時の姿態が悩ましく、瞼《まぶた》にちらついて、私は大抵、将棋に負けてしまう。もっとも私は、将棋があまり好きでないのだ。
そうしたある朝、九時頃でもあろうか、アドルムを飲み、ぐっすり熟睡していた私を、姉がけたたましく揺り起す。枕元にはどうも見覚えのある老人が坐っている。いつも桂子の家に手伝いに来ているオバさんの年老《としと》った夫。私は、桂子に万一のことでもあったのかと、ギョッとして一度に目が覚めてしまう。幸い桂子の身体に異状はない、ただ泥棒に見舞われたという話なので私は安心する。私はこと財産に関しては、昔から本来無一物、何レノ処ニカ塵挨《じんあい》ヲ惹《ひ》カン、といった暢気《のんき》な気持なのだ。
それで落着いて、昨夜、二度も、近くの長兄の家を訪れて引返し、三度目、深更二時頃、警官の手を借り、長兄の家にたどりつき、その夜、長兄のもとに一泊し、こちらに回ったという、オジさんの話をきく。
オジさんの話では、私に、二度目に家をとび出された桂子は、その日、アドルムを買ってきて熟睡し、翌日の昼頃まで死んだように眠った後、フラフラ表に出、見知らぬ若い男と帰ってきた。そしてふたりで夕食を食べた後、桂子は勤めに出ると言い、その男とふたりで外に出た。間もなく、若い男がひとりだけで帰ってきて、友人と約束の時まで休ませて欲しいと、家に上りこんだ。
人のいいオバさんは、その男を信用し、男に勧められるまま、近くの自宅に御飯を食べにゆく。そして約一時間後、帰ってきて愕然とした。箪笥《たんす》の中から、桂子と私と、私の友人から預った衣類数十点、それに現金五千円ばかり盗まれている。時間は丁度、薄暗闇迫る頃、風呂敷でしょい、私のオリンピック記念のトランクを右手にぶらさげ、うまうま持出したものらしい。私は衣類に執着があまりないしロクなものもなかったから、最大の被害者はアストラカンのオーバーまで盗まれた桂子だし、次に気の毒なのは、事情があって家を追われ、荷物を預けていった私の不幸な友人だった。そして、その後、桂子は帰宅せず、翌日の午後、帰ってきて大騒ぎになり、私を迎えるため、オジさんを郊外の長兄の家まで走らせたものという。
嫉妬深《しっとぶか》い私には、その桂子外泊という一事が、前の三日外泊と相まって、いちばん胸にこたえた。私は二度、桂子の家を出たいちばんの理由を、そのことにしているのだから、もし桂子が正《まさ》しく私に愛情があれば、そうした事件を機会にして、私のほうに来てくれればよいと思った。勿論、彼女の身体に被害でもあれば、私は気違いみたいになって飛んでいったろう。けれども、衣類を取られただけということ、私も締切間近な仕事に追われているということが、(ゆっくりお話したいから、こちらに来てください)という手紙を書かせ、私はそれをオジさんに渡した。
ボツボツ家政婦に出だした妻がまだ一張羅の晴着を質屋から出してないのを私は知っている。それでも私には、桂子の盗難のほうが気になり、ゆっくり相談したい気持になるのだった。なんという不道徳漢と誰に罵《のの》しられても仕方がない。その日、姉の家に移転してから、初めて、二つの雑誌社から、小説註文の編集者がみえた。私は旧臘《きゅうろう》からのゴタゴタで、満足な仕事もせず、世の中から忘れられたと僻《ひが》んでいたときだけに、その客たちが嬉しく、桂子が二時間経っても、まだ来ない気持の苛立《いらだ》ちも紛らすことができた。
黄昏《たそがれ》、例によってアドルムと人が恋しくなる頃、私は台所の姉に薬を貰いにゆき、その時、新宿の桂子を見舞にゆきたいと言いだした。姉はそれを止めはしなかった。しかし、私がああいう手紙を書いて、桂子がやってこないのには他に理由もあろう。更に、翌日、私の老母が見舞にゆくことになっているから、お見舞はそれからでもいいだろうと言った。私も気づけば、すでに桂子は勤めに出た後の時間である。それで翌日、老母の行ってくれた後のことにしようと思い、いつものようにアドルム五錠を貰ってから、子供たちと、離れの十畳にゆき、将棋をやっていた。
夜の九時頃になり、そのうち玄関を激しくノックする音。「誰」ときけば、「あたし」という独特のしわがれた声が桂子である。私は一面、嬉しく、一面、気まりが悪く、大急ぎで子供たちを退散させてから、優しく桂子を部屋に迎え入れた。先日までピチピチ肥って、とても元気そうにみえた桂子が、いまはアドルムの酔いもあるらしく、ひどくやつれてみえる。女性にとって、衣類はそれほど顔をやつれさすほど貴重なものらしい。ほどよく酔っている桂子はしきりに、(女にとり第一に大切なものは衣裳、第二が生命、第三が恋人よ)という。
私はまた彼女がそのように、いっさいをハッキリいう時の、お転婆の童女のような顔が好きなのだ。いつの間にか戸外には、いまの時代を思わせるような激しい風が、ピュウピュウ吹きはじめ、私は幾らかでも酔っている彼女を、そんな夜、ひとりで新宿まで帰すことが不安になった。
どちらかいえば、妻子のある私と関係しただけでも、桂子に好意の持てぬような姉までが、その夜は、彼女に同情し、彼女の災難をともに心配し、風が強いから、泊っていったらどうか、これからも昼間、時々、遊びに来るように勧めていた。そう勧められると駄々っ子の桂子は、どうしても帰ると言い張る。私はそんな風に酔った桂子が、深夜おそく、新宿のマーケット街を放浪する光景を想像すると慄然《りつぜん》となる。酔うとバカに気が強くなり、警官でも与太者でも見境なく食ってかかる彼女。その揚句、交番に留置されるならまだしも、与太者に撲《なぐ》られた上、身体を自由に弄《もてあそ》ばれたりしたら大変だ。
また彼女の過去に、そのような事件があるのを私は度々、目撃しているし、仄聞《そくぶん》したこともある。それ故、私は姉よりも強固に、彼女をひきとめ、その夜、一緒に寝た。けれども、私は姉にいわれ、医者に見て貰い、その日までペニシリンの注射を続けていたので、その夜は、彼女の身体に触る元気はなかった。翌朝、妙に悄然《しょうぜん》とみえる彼女を送って、近くの駅までゆく。
途中の喫茶店にチョコレートを飲みに入ったが、そこで彼女にせがみ、アドルムを三錠、十錠のみはじめると、私は丁度、麻薬中毒患者が薬にありついたような、ただ本能の奴隷となる。私は再び、もはや、彼女と別れたくない気持。彼女が前に三度、外泊したというのは一度の誤り、それも銀座から帰る途中、リリーとふたりで輪タクの運転手と喧嘩《けんか》し、K町の交番に保護検束を受けただけ、分厚い札たばというのも、十日毎位の店の収入を、纏《まと》めてみただけという、彼女の話をなんでもかんでも信じたい気持になる。
また泥棒に入られる前夜、外泊したのは事実だが、それは国際文化社という歴《れっき》とした雑誌社の編集者で、男がふたりで、女は桂子ひとり。新橋の近くの待合で一夜を飲み明かし、指一本も触れさせなかった、という桂子の話まであっさり信じてしまう。その泥棒にしても、桂子がフラフラと出て、連れてきたのではなく、マーケットで一度、逢っただけの男が、彼女の家を探りあて、麻雀《マージャン》で夜明しした後でつかれているから休ませてくれ、とノコノコ上りこんできたのだという、桂子の話も信じる。そして、桂子に頼んで、アドルムを更に十錠。そのために心気ますます朦朧《もうろう》としてきて、桂子が酒を飲みましょうか、というのに、締切間近の仕事も忘れ、ふたりで近くの中華料理店に上りこむ。
そして熱い酒を飲みだすと、私はなにがなんだか分らなくなる、いっさいの恥も外聞も忘れ、まるで自制心がなくなる。散々飲んだり食べたりした後、その店に払う勘定がないと、店の子供を使いにやり姉を呼ばせる。姉はいちばん下の五つの女の子を連れ、やってきたが、私の醜態をみると泣いてしまったようだ。そして意見がましいことをいうのに、虎狼《ころう》のような心になっている私は、床の間の置物を掴《つか》んで、姉に投げつけようとした。
どうして姉の離れの十畳に帰ったかよく分らぬ。ただ煙草を買いにゆくと出た桂子のなかなか帰ってこないのが気になる。大学の試験を明日に控えている姉の長男を何度も、表に走らせ、桂子をみにやったが、どこにもいないという。それで私は大暴れ、妻の唯一の財産の箪笥《たんす》をひっくり返し、背広を着、オーバーを纏い、外出する仕度までしたが、まだ桂子が帰ってこないので、その場に大の字になり寝てしまう。そして寝小便までしてしまった塩梅《あんばい》。
ふと気がつけば、私は離れの十畳に寝ており、姉がかいまきをかけてくれている。桂子のハイヒールもハンドバッグも残っているが、すでに彼女が出て三時間にもなる。私は諦めて寝てしまう積り。姉の手からアドルム十錠、奪いとるようにして取り、それを飲んで、うつらうつら眠くなった頃。
突然、酔っ払った桂子が夜叉《やしゃ》のような形相で帰ってきた。私の顔をみるのもイヤだと言い、髪の毛をひきむしり、顔を打つ。そして新宿に帰るというが、もう終電車もなく、そんな桂子を表に出す気持になれない。それで姉の困りきった顔をみながらも、桂子をもう一晩、その離れに泊めようとする。しかし酔うと、酷薄無慙《こくはくむざん》な気持になる桂子は、そんな私の心づかいなど鼻で笑う。そして、近くに昔、知合いの立派な家があるから、そこに行きたいと言い張ってきかない。
私はそんなに言うのなら、そこにやるのもよかろうと思った。だが、ひとりでは不安なので、また姉の長男に警官を呼んで来て貰い、桂子を警官に送らせようとする。しかし警官の顔をみる頃から桂子は温和《おとな》しくなった。一通り、私の悪口を警官に喋《しゃべ》ってから、その部屋に寝ることを承知する。
朝、酔って乱暴したいつもの朝のように、桂子は、私の胸に泣き崩れてきた。肉体をかすかに揺動かす、彼女のテクニック。私は醜い哀れさに堪《たま》らなくなり、彼女に肉体の欲望があるかどうかを訊《き》く。「たまらないのよう」と彼女はなお身をくねらせ、その太股《ふともも》を私の上にのせる。また、病気になる。ペニシリン代一本二千三百円と頭にひらめく。その親切な医者の診察室でみせて貰った、いくつかの猛烈なジフリーズの写真。鼻が落ち、椿の花片のような痕《あと》が残る。両唇に無数の吹出物、殊に女の局部の一面にビランした惨状。しかし私はその写真を瞼《まぶた》に描きながら、女に身を任せる。済んだ後の、またかという悔い。
そこに七十三になる私の老母が泣き崩れ、半狂乱になり、呶鳴《どな》りこんでくる。とんでもないことをしてくれた。婿に対して面目が立たぬから、すぐに、ここから出て行って欲しい、という。アドルムの酔いの切れている私は、無意志の人形のようなもの。老母に叱られるまま、桂子と身仕度をして立ち上る。そこに姉の優しい泣声、「道ちゃん、いつでも帰っていらっしゃい。意志をハッキリさせてね」
姉は、私の桂子に対する本当の気持を薄々、知っているのだ。愛と憎しみの間。醜い哀れなものに対する、どうにもならぬ憐憫《れんびん》。私は桂子とともにズルズル泥沼の底に落ちてゆく光景を知りながら、彼女とともに新宿の家に帰る。
盗まれた品物を桂子は私に説明しながら、ふっと出てきた貯金帳を、そっと右手にかくす。私はそれを無言で奪いとって調べ、ギョッとする。私が飛び出した日の日付で、彼女は二万五千円の貯金をしている。それから、三回にわたり、五千円|宛《ずつ》の貯金。その貯金の前夜が恐らく、彼女の家に帰らぬ日であろう。私はなにも言わない。急いで貯金帳を取ろうとする桂子にそれを返し、ヒョイと苦笑に似たものが浮ぶ。一張羅《いっちょうら》を質屋に入れた妻。桂子と別れた後の苦しい放浪の日々、短靴を酔って溝に落し、ひとから貰ったボロ軍靴に、一枚の破れYシャツしか残っていない私。それに昨年の税金さえまだ払わず、姉に二、三千円の借金さえしている。
それに引替え、三万円の貯金と、バラックながら二軒の家持ちの桂子、私は子供の頃、ひとから(おまんこ倉)と綽名《あだな》される、美貌の未亡人の白塗りの倉を持った家が近くにあったのを思いだす。私はそれでも黙って、桂子に次の日の朝、「金瓶梅《きんぺいばい》」を書き引替えで稿料を持ってきてくれた雑誌社の金を全部渡す。私にも数々の桂子のデタラメがはっきり分る。そして呆れたことに、分れば分るほど不憫《ふびん》なのである。私は桂子とともに情死することさえ不自然でない気がする。
不落不昧、両彩|一賽《いっさい》、不昧不落、千錯万錯。
野狐《やこ》風流五百生、私は転々|悶々《もんもん》として、永遠に野狐であるらしい。
底本:「昭和文学全集第32巻」小学館
1989(平成元)年8月1日
底本の親本:「田中英光全集第7巻」芳賀書店
1965(昭和40)年
入力:kompass
校正:林 幸雄
2001年2月22日公開
2003年9月21日修正
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