青空文庫アーカイブ

オリンポスの果実
田中英光

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)可笑《おか》しい

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)神経|衰弱《すいじゃく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)起上り《レカバリー》[#「起上り」にルビ]

底本のダブルミニュートは、「“」と「”」に置き換えた。
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     一

 秋ちゃん。
 と呼ぶのも、もう可笑《おか》しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈《はず》だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房《にょうぼう》を貰《もら》い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃《ちかごろ》風の便りにききました。
 時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶《ついおく》をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
 恋《こい》というには、あまりに素朴《そぼく》な愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念の財布《さいふ》のなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、杏《あんず》の実を、とりだし、ここ京城《けいじょう》の陋屋《ろうおく》の陽《ひ》もささぬ裏庭に棄《す》てました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。
 これはむろん恋情《れんじょう》からではありません。ただ昔《むかし》の愛情の思い出と、あなたに、お聞きしたかったことが、聞けなかった心残りからです。
 思わせぶりではありますがその言葉は、この手記の最後まで、とっておかして下さい。

     二

 あなたにとってはどうでしょうか、ぼくにとって、あのオリムピアヘの旅は、一種青春の酩酊《めいてい》のごときものがありました。あの前後を通じて、ぼくはひどい神経|衰弱《すいじゃく》にかかっていたような気がします。
 ぼくだけではなかったかも知れません。たとえば、すでに三十近かった、ぼく達のキャプテン整調の森さんでさえ、出発の二三日前、あるいかがわしい場処へ、デレゲェション・バッジを落してきたのです。
 モオラン(Morning-run)と称する、朝の駆足《かけあし》をやって帰ってくると、森さんが、合宿|傍《わき》の六地蔵の通りで背広を着て、俯《うつむ》いたまま、何かを探していました。
 駆けているぼく達――といっても、舵《かじ》の清さんに、七番の坂本さん、二番の虎《とら》さん、それに、ぼくといった真面目《まじめ》な四五人だけでしたが――をみると、森さんは、真っ先に、ぼくをよんで、「オイ、大坂《ダイハン》、いっしょに探してくれ」と頼《たの》むのです。ぼくの姓は坂本ですが、七番の坂本さんと間違《まちが》え易《やす》いので、いつも身体《からだ》の大きいぼくは、侮蔑《ぶべつ》的な意味も含《ふく》めて、大坂《ダイハン》と呼ばれていました。
 そのとき、バッジを悪所に落した事情をきくと、日頃いじめられているだけに、皆《みんな》が笑うと一緒《いっしょ》に、噴《ふ》き出したくなるのを、我慢《がまん》できなかったほど、好《い》い気味だ、とおもいましたが、それから、暫《しばら》くして、ぼくは、森さんより、もっとひどい失敗をやってしまったのです。
 出発の前々夜、合宿引上げの酒宴《しゅえん》が、おわると、皆は三々五々、芸者買いに出かけてしまい、残ったのは、また、舵の清さん、七番の坂本さん、それと、ぼくだけになってしまいました。ぼくも、遊びに行こうとは思っておりましたが、ともあれ東京に実家があるので、一度は荷物を置きに、帰らねばなりません。
 その夜は、いくら飲んでも、酔《よ》いが廻《まわ》らず、空《むな》しい興奮と、練習|疲《づか》れからでしょう、頭はうつろ、瞳《ひとみ》はかすみ、瞼《まぶた》はおもく時々|痙攣《けいれん》していました。なにしろ、それからの享楽《きょうらく》を妄想《もうそう》して、夢中《むちゅう》で、合宿を引き上げる荷物も、いい加減に縛《しば》りおわると、清さんが、「坂本さん、今夜は、家だろうね」とからかうのに、「勿論《もちろん》ですよ」こう照れた返事をしたまま、自動車をよびに、戸外に出ました。
 そのとき学生服を着ていて、協会から、作って貰った、揃《そろ》いの背広は始めて纏《まと》う嬉《うれ》しさもあり、その夜、遊びに出るまで、着ないつもりで手をとおさないまま、蒲団《ふとん》の間に、つつんでおいた、それが悪かったんです。はじめから、着ていればよかった。
 運転手と助手から、荷物を運び入れてもらったり、ぼくは、自動車の座席にふんぞりかえり、その夜の後の享楽ばかり思っていました。なにしろ、二十《はたち》のぼくが、餞別《せんべつ》だけで二百円ばかり、ポケットに入れていたんですから――。
 その頃《ころ》、ぼくは、銀座のシャ・ノアルというカフェのN子という女給から、誘惑《ゆうわく》されていました。そして、それが、ぼくが好きだというより、ぼくの童貞《どうてい》だという点に、迷信《めいしん》じみた興味をもち、かつ、その色白で、瞳の清《すず》しい彼女《かのじょ》が、先輩Kさんの愛人である、とも、きかされていました。その晩、それを思い出すと、腹がたってたまらず、よし、俺《おれ》でも、大人|並《なみ》の遊びをするぞと、覚悟《かくご》をきめていた訳です。が、さすがにこうやって働いている運転手さん達には、すまなく感じ、うちに着いてから、七十銭ぎめのところを一円やりました。
 宅《うち》に入ると、助手が運んでくれた荷物は、ぐちゃぐちゃに壊《こわ》れている。が、最初のぼくの荷造りが、いい加減だったのですから、気にもとめず、玄関《げんかん》へ入り、その荷物を置いたうしろから顔をだした、皺《しわ》と雀斑《そばかす》だらけの母に、「ほら、背広まで貰ったんだよ」と手を突《つ》ッこんで、出してみせようとしたが手触《てざわ》りもありません。「おやッ」といぶかしく、運んでくれた助手に訊《たず》ねてみようと、表に出てみると、もう自動車は、白い烟《けむ》りが、かすかなほど遥《はる》かの角を曲るところでした。「可笑《おか》しいなア」とぼやきつつ、ふたたび玄関に入って、気づかう母に、「なんでもない。あるよ、あるよ」といいながら、包みの底の底までひっくり返してみましたが、ブレザァコオトはあっても、背広の影《かげ》も形もありません。なにしろ明後日、出発のこととて、外出用のユニホォムである背広がなくなったらコオチャアや監督《かんとく》に合せる顔もない、金を出して作り直すにも日時がないとおもうと根が小心者のぼくのことである。もう、顔色まで変ったのでしょう。はや、キンキン声で、「お前はだらしがないからねエ」と叱《しか》りつける母には、「あア、合宿に忘れてきたんだ。もう一度帰ってくる。大丈夫《だいじょうぶ》だよ」といいおき、また通りに出ると車をとめ、合宿まで帰りました。
 艇庫《ていこ》には、もう、寝《ね》てしまった艇番|夫婦《ふうふ》をのぞいては、誰《だれ》一人いなくなっています。二階にあがり、念の為《ため》、押入《おしい》れを捜《さが》してみましたが、もとより、あろう筈《はず》がありません。
 もう、先程《さきほど》までの、享楽を想《おも》っての興奮はどこへやら、ただ血眼《ちまなこ》になってしまった、ぼくは、それでも、ひょッとしたら落ちてはいないかなアと、浅ましい恰好《かっこう》で、自動車の路《みち》すじを、どこからどこまで、這《は》うようにして探してみました。そのうち、ひょッとしたら、合宿の戸棚《とだな》のグリス鑵《かん》の後ろになかったかなアと、溝《みぞ》のなかをみつめている最中、ふとおもいつくと、直《す》ぐまた合宿の二階に駆けあがって、戸棚をあけ、鉄亜鈴《てつあれい》や、エキスパンダアをどけてやはり鑵の背後にないのをみると、否々《いやいや》、ひょッとしたら、あの道端《みちばた》の草叢《くさむら》のかげかもしれないぞと、また周章《あわて》て、駆けおりてゆくのでした。
 捜せば、捜すだけ、なくなったということだけが、はっきりしてきます、頭のなかは、火が燃えているように熱く、空っぽでした。もう、駄目《だめ》だと諦《あきら》めかけているうち、ひょッとしたら、さっき家で、蒲団を全部、拡《ひろ》げてみなかったんじゃなかったか、という錯覚《さっかく》が、ふいに起りました。そうなると、また一も二もありません。一縷《いちる》の望みだけをつないで、また車をつかまえると「渋谷《しぶや》、七十銭」と前二回とも乗った値段をつけました。
 と、その眼のぎょろっとした運転手は「八十銭やって下さいよ」とうそぶきます。場所が場所だけに、学生の遊里帰りとでも、間違えたのでしょう、ひどく反感をもった態度でしたが、こちらは何しろ気が顛倒《てんとう》しています。言い値どおりに乗りました。
 ぼくは、車に揺《ゆ》られているうち、どうも、はじめの運転手に盗《と》られたんだ、という気がしてきました。(彼奴《あいつ》に一円もやった。泥棒《どろぼう》に追銭とはこのことだ)と思えば口惜《くや》しくてならない。たまりかねて、「ねエ、運転手君。……」と背広がなくなったいきさつを全部、この一癖《ひとくせ》ありげな、運転手に話してきかせました。
 すると、彼は自信ありげな口調で、「そりやア、やられたにきまっているよ。こんな商売をしているのには、そんなのが多いからね」とうなずきます。ぼくは、「そうかねエ」と愚《ぐ》にもつかぬ嘆声《たんせい》を発したが、心はどうしよう、と口惜しく、張り裂《さ》けるばかりでした。が、その運転手は同情どころかい、といった小面憎《こづらにく》さで、黙りかえっています。
 それでいて、家につくと、彼は突然《とつぜん》、ここは渋谷とはちがう、恵比寿《えびす》だから、十銭ましてくれ、ときりだしました。てッきり、嘗《な》められたと思いましたから、こちらも口汚《くちぎたな》く罵《ののし》りかえす。と、向うは金梃《レバー》をもち、扉《ドア》をあけ、飛びだしてきました。「喧嘩《けんか》か。ハ、面白《おもしろ》いや」と叫《さけ》び、ええ、やるか、と、ぼくも自棄《やけ》だったのですが、もし血をみるに到《いた》ればクルウの恥《はじ》、母校の恥、おまけにオリムピック行は、どうなるんだと、思いかえし、「オイ、それじゃア、交番に行こう」と強く言いました。「行くとも! さア行こう」たけりたった相手は、ぼくの肩《かた》を掴《つか》みます。振りきったぼくは、ええ面倒《めんどう》とばかり十銭|払《はら》ってやりました。「ざまア見ろ」とか棄台詞《すてぜりふ》を残して車は行きました。ぼくは、前より余計しょんぼりとなって玄関の閾《しきい》をまたいだのです。
 気の強い母は、ぼくの顔をみるなり、噛《か》みつくように、「あったかえ」と訊ねました。ぼくは無言で、荷物のところへ行くと、蒲団はすでに畳《たた》んで、風呂敷《ふろしき》が、上に載《の》っています。どうしていいか分らなくなったぼくは、空の風呂敷をつまんで、振って、捨てると、ただ、母の怒罵《どば》をさける為と、万一を心頼みにして、「やっぱり合宿かなア。もう一度、捜してくらア」と留める母をふりきり、家を出ました。勝気な母も、やっぱり女です、兄が夜業でまだ帰りませんし、「困ったねエ」を連発していました。
 ぼくはまた、自動車で、渋谷から向島《むこうじま》まで行きました。熱が出たようにあつい額を押え、憤《いきどお》りと悔《く》いにギリギリしながら、艇庫につき、念を入れてもう一回、押入れなぞ改めてはみましたが夜も更《ふ》け、人気《ひとけ》のない二階はたださえ、がらんとして、いよいよ、もう駄目だ、という想いを強めるだけです。
 ぼくは二階の廊下《ろうか》を歩き、屋上の露台《ろだい》のほうへ登って行きました。眼の下には、鋭《するど》い舳《バウ》をした滑席艇《スライデングシェル》がぎっしり横木につまっています。そのラッカア塗《ぬ》りの船腹が、仄暗《ほのぐら》い電燈に、丸味をおび、つやつやしく光っているのも、妙《みょう》に心ぼそい感じで、ベランダに出ました。遥か、浅草《あさくさ》の装飾燈《そうしょくとう》が赤く輝《かがや》いています。時折、言問橋《ことといばし》を自動車のヘッドライトが明滅《めいめつ》して、行き過ぎます。すでに一|艘《そう》の船もいない隅田川《すみだがわ》がくろく、膨《ふく》らんで流れてゆく。チャップチャップ、船台を洗う波の音がきこえる、ぼくは小説《ロマンス》めいた気持でしょう、死にたくなりました。死んだ方が楽だと、感じたからです。
 大体が、文学少年であったぼくが、ただ、身体の大きいために選ばれて、ボオト生活、約一箇年、「昨日も、今日も、ただ水の上に、陽が暮《く》れて行った」と日記に書く、気の弱いぼくが、それも一人だけの、新人《フレッシュマン》として、逞《たくま》しい先輩達に伍《ご》し、鍛《きた》えられていたのですから、ぼくにとっては肉体的の苦痛も、ですが、それよりも、精神的なへばりのほうが我慢できなかった。
 ぼくは、ボオトのことばかりでなく、日常生活でも、することが一々|無態《ぶざま》だというので、先輩達にずいぶん叱られた。叱られた上に馬鹿にされていました。ぼくみたいに、弱気な人間には、ひとから侮辱《ぶじょく》されて抵抗《ていこう》の手段がないと諦《あきら》め切る時ほど、悲しい事はありません。なにをいっても、大坂《ダイハン》は怒《おこ》らない、と先輩達は感心していましたが、怒ったら、ボオトを止《や》めるよりほかに手段がない。また、そうしてボオトを止めるのは、ぼくのひそかに傲慢《ごうまん》な痩意地《やせいじ》にとって、自殺にもひとしかった。
 それで、背広を失くした苦痛に、加えて、こうした先輩達の罵声が、どんなに辛辣《しんらつ》であろうかと、思っただけでもたまりません。蔭口《かげぐち》や皮肉をとばす、整調森さんの意地悪さ、面とむかって「ぶちまわすぞ」と威《おど》かす五番松山さんの凄《すさ》まじさ、そうした予感が、堪《た》えがたいまでに、ちらつきます。またそうした先輩達の笞《むち》から、いつも庇《かば》ってくれるコオチャアやO・B達に対しても、ぼくの過失はなお済まない気がします。
 悶《もだ》え悶え、ぼくは手摺《てすり》によりかかりました。其処《そこ》は三階、下はコンクリイトの土間です。飛び降りれば、それでお終《しま》い。思い切って、ぼくは、頭をまえに突き出しました。ちょうど手摺が腰《こし》の辺に、あたります。離《はな》れかかった足指には、力が一杯《いっぱい》、入っています。「神様!」ぼくは泣いていたかもしれません。しかし、その瞬間《しゅんかん》、ぼくが唾《つば》をすると、それは落ちてから水溜《みずたま》りでもあったのでしょう。ボチャンという、微《かす》かな音がしました。すると、ぼくには、不意と、なにか死ぬのが莫迦々々《ばかばか》しくなり、殊《こと》に、死ぬまでの痛さが身に沁《し》みておもわれ、いそいで、足をバタつかせ、圧迫されていた腸の辺《あた》りを、まえに戻《もど》しました。いま考えると、可笑しいのですが、そのときは満天の星、銀と輝く、美しい夜空のもとで、ほんとに困って死にたかった。
 そんな簡単に、自殺をしようと考えるのには、多分、耽読《たんどく》した小説の悪影響《あくえいきょう》もあったのでしょう。ぼくは冷たい風が髪《かみ》をなぶるのに、やッと気がつきかけたが、もうなんとしても、背広は出てこないという点に、考えがぶつかると、やはり死の容易さに、惹《ひ》かれてゆきます。ぼくは、なにか、ほかの方法で死にたいと、思いました。身投げは泳げるし、鉄道自殺は汚い、ああ、もう、と目茶苦茶な気持に駆りたてられ、合宿横にある交番に、さしかかると、「オイ」と巡査《じゅんさ》に呼び咎《とが》められました。それ迄《まで》は、これから、向島の待合に行って、芸者と遊んだ末、無理心中でもしようかという虫の良い了見《りょうけん》も起しかけていたのですが、ハッと冷水をかけられた気が致《いた》しました。
 こんな夜|遅《おそ》く、学生がへんな恰好《かっこう》でうろついていたからでしょう。巡査は、ぼくの傍《そば》にきて、じっとみつめてから、なんだという顔になり、「ああ君はWの人じゃないか」といい、大学の艇庫ばかり並んでいる処《ところ》ですから、ボオト選手の日頃の行状を知っていて、「いいねエ、君等は、飲みすぎですか」と笑いかけます。ぼくの蒼《あお》ざめた顔を、酒の故《ゆえ》とでも思ったのでしょう。照れ臭《くさ》くなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。
 家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、床《とこ》をしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕《まくら》もとの障子《しょうじ》一面に、赫々《あかあか》と陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした途端《とたん》、襖《ふすま》ごしに、舵手《だしゅ》の清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯に塞《ふさ》がりました。
 もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、聴《き》きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、また眠《ねむ》ってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、坊主《ぼうず》、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼくを、坊主なぞ呼ぶのは、可笑しいのですが、早くから、父を失い、いちばん末ッ子であったぼくは、家族中で、いつでも猫《ねこ》ッ可愛《かわい》がりに愛されていて、身体こそ、六尺、十九貫もありましたが、ベビイ・フェイスの、未《ま》だ、ほんとに子供でした。
 ぼくの蒲団をまくった兄は、母から事情をきいたとみえ、叱言《こごと》一ついわず、「馬鹿、それ位のことでくよくよする奴《やつ》があるかい。さア、一緒に、洋服を作りに行ってやるから、起きろ、起きろ」とせかしたてるのです。ぼくは途端に、「ほんと」と飛び起きました。兄は会社関係から、日本毛織の販売所に、親しいひとがいて、特に、二日で間に合うように頼んでやる、というので、ぼくは大慌《おおあわ》てに、支度《したく》を始めました。
 あとになって、判《わか》ったのですが、この朝、老いた母は、六時頃に起きて、合宿まで行ってくれ、また合宿では、清さんがひとり、明方に帰って来ていて、母から話をきくと、一緒に、家まで様子を見にきてくれたとのことでした。清さんは、ぼくを落着くまで、静かにほって置いたほうが好いだろう。背広のことは、コオチャアや監督に、よく話をしておきます。災難だから、仕方がない。明朝、出発のときは、ブレザァコオトをきて颯爽《さっそう》と出て来るように言って下さい。なアに、学生服で、あちらに行ったって、差支《さしつか》えないでしょう、と言い置いてくれた由《よし》。兄は、その頃、すでに、共産党のシンパサイザァだったらしいのですから、ぼくや母の杞憂《きゆう》は、てんで茶化していたようでしたが、さすがに、一人の弟の晴衣《はれぎ》とて心配してくれたとみえます。母といい、兄といい肉親の愛情のまえでは、ひとことの文句も言えません。
 服は仮縫《かりぬ》いなしに、ユニホォムと同色同型のものを、出帆《しゅっぱん》の時刻までに、間に合してくれることになりましたが、やはり出来てきたのは少し違うので、ぼくはこの為、旅行中、背広に関しては、いつも顔を赤らめねばなりませんでした。

     三

 出発の朝、ぼくは向島《むこうじま》の古本屋で、啄木《たくぼく》歌集『悲しき玩具《がんぐ》』を買い、その扉紙《とびらがみ》に、『はろばろと海を渡《わた》りて、亜米利加《アメリカ》へ、ゆく朝。墨田《すみだ》の辺《あた》りにて求む』と書きました。
 それから、合宿で、恒例《こうれい》のテキにカツを食い、一杯《いっぱい》の冷酒に征途《せいと》をことほいだ後、晴れのブレザァコオトも嬉《うれ》しく、ほてるような気持で、旅立ったのです。
 あとは、御承知《ごしょうち》のようなコオスで、大洋丸まで辿《たど》りつきました。文字通りの熱狂《ねっきょう》的な歓送のなか、名も知られぬぼくなどに迄《まで》、サインを頼《たの》みにくるお嬢《じょう》さん、チョコレェトや花束《はなたば》などをくれる女学生達。旗と、人と、体臭《たいしゅう》と、汗《あせ》に、揉《もま》れ揉れているうち、ふと、ぼくは狂的な笑いの発作《ほっさ》を、我慢《がまん》している自分に気づきました。
 勿論《もちろん》、こんなに盛大《せいだい》に見送って頂くことに感謝はしていたのです。ことに、京浜間に多い工場という工場の、窓から、柵《さく》から、或《ある》いは屋根にまで登って、日の丸の旗を振《ふ》ってくれていた職工さんや女工さんの、目白押《めじろお》しの純真な姿を、汽車の窓からみたときには、思わず涙《なみだ》がでそうになりました。
 しかし、例の狂的な笑いの発作が、船に乗って、多勢の見送り人達に、身動きもならないほど囲まれると、また、我慢できぬほど猛烈《もうれつ》に、起ってきて、ぼくは教わったばかりの船室《ケビン》にもぐりこみ、思う存分、笑ってから、再びデッキに出たのです。
 昔《むかし》、教えて頂いた中学、学院の諸先生、友人、後輩《こうはい》連も来ていてくれました。銅鑼《どら》が鳴ってから一件の背広を届けに、兄が、母の表現を借りると、スルスルと猿《ましら》のように、人波をかきわけ登ってきてくれました。これは帰朝してから、聞いたことですが、故郷|鎌倉《かまくら》での幼馴染《おさななじみ》の少年少女も来ていてくれたそうです。なかでも、波止場《はとば》の人混《ひとご》みのなかで、押し潰《つぶ》されそうになりながら、手巾《ハンカチ》をふっている老母の姿をみたときは目頭《めがしら》が熱くなりました。周囲に、家の下宿人の親切な人が、二人来ていてくれたので安心しながら、ぼくは、兄が買ってくれたテエプを抛《ほう》りましたが、なかなか母にとどきません。
 女学生の一群にとび込《こ》んだり、学校の友人達の手にはいったりしても、母にはとどかないのです。その内、漸《ようや》く、一つが、母の近くの、サラリイマン風の人に取られたのを、下宿人のHさんが話して、母に渡してくれました。少しヒステリイ気味のある母は、テエプを握《にぎ》り、しゃくり上げるように泣いていました。あまり泣くのをみている内、なにか、ホッとする気持になり、左右を見廻《みまわ》すと、大抵《たいてい》の選手達が、誰《だれ》でも一人は、若い女のひとに来て貰《もら》っている、花やかさに見えました。
 ぼく達のクルウでも、豪傑《ごうけつ》風な五番の松山さん迄が、見知り越しのシャ・ノアルの女給とテエプを交《かわ》しています。殊《こと》に美男《ハンサム》な、六番の東海さんなんかは、テエプというテエプが綺麗《きれい》な女に握られていました。肉親と男友達の情愛に、見送られているぼくは幸福には違《ちが》いありません。が、母には勿体《もったい》ないが、娘《むすめ》さんがひとり交《まじ》っていて、欲《ほ》しかった。
 その淋《さび》しい気持は出帆《しゅっぱん》してからも続きました。見送りの人達の影《かげ》も波止場も霞《かす》み、港も燈台も隔《へだ》たって、歓送船も帰ったあと、花束や、テエプの散らかった甲板《かんぱん》にひとり、島と、鴎《かもめ》と、波のうねりを、見詰《みつ》めていると、もはや旅愁《りょしゅう》といった感じがこみあげて来るのでした。
 出発時の華《はな》やかな空気はそのまま、船を包んで――ぼく達のクルウにも残っていました。朝のデンマアク体操も、B甲板を廻るモオニング・ランも、午前と午後のバック台も棒引も、隅田川にいるときとは比べものにならないほど楽だったし、皆《みんな》も、向うに着くまではという気が、いくらかはあったのでしょう。東海さんや、補欠の有沢さんを中心とする惚《のろ》け話や、森さんや松山さんを囲んでの色《エロ》話も、盛《さか》んなものでした。
 合宿の頃から、ずうッと一人ぼっちだったぼくは、多勢の他テイムのなかに雑《まざ》ると、余計さびしく、出帆してから二三日、練習以外の時間は、ただ甲板を散歩したり、船室で、啄木を読んだり、船室が、相部屋の松山さん、沢村さんに占領《せんりょう》されているときは、喫煙室《きつえんしつ》で、母へ手紙を書いたりしていました。
 故国を離れてから三日目、ぼくは恥《はず》かしい白状をしなければなりません。無暗《むやみ》に淋しくなったぼくはスモオキング・ルウムの片隅《かたすみ》で、とても非常識な手紙を書こうとしていたのです。無論、書きかけただけで、実行はしませんでしたが、その前年の夏、鎌倉の海で、一寸《ちょっと》遊んだ、文化学院のお嬢さんに、ラブレタアを書いてやろうと思ったのです。返事は多分、向うに着いて貰えるだろうと思いましたが、その、円《つぶ》らな瞳《ひとみ》をした、お嬢さんには、すでに恋人《こいびと》があったかも知れないとおもうと、気恥かしくなって来て、止《や》めにしました。

     四

 やはり、あなたと初めてお逢《あ》いした晩のことは、はっきり憶《おぼ》えています。
 例の、食事中にはネクタイをきちんと結べ、フォオクをがちゃつかすな、スウプを飲むのに音を立てるな、頭髪《とうはつ》に手を触《ふ》れるな、といった食卓作法《テエブルマナア》も、まだ出発して一週間にならない、あの頃《ころ》はよく守られていました。
 そうした夕食後の一刻《ひととき》を、やはり新人《フレッシュマン》の為《ため》、仲間はずれになっている、KOのフォアァの補欠で、銀座ボオイの綽名《あだな》のある、村川と、一等船客専用のA甲板《かんぱん》を――Aデッキを練習以外には使うな、などという規則が守られていたのは、初めの二三日でした。――ぶらついていると、「オーイ、活動が一等の食堂にあるぞオ」と誰《だれ》かが叫《さけ》んで、四五人、駆《か》けて行きました。「行って見ようや」とぼくは村川を誘《さそ》い、KOの二番の柴山《しばやま》、補欠《サブ》の河堀とも一緒《いっしょ》になって、デッキを降り、食堂に入って行きますと、映画は始まっていて、代表選手の練習を集めた実写物らしく女子選手のダイビングが、空中に美しい弓なりの弧《こ》を描《えが》いているところでした。
 ぼく達、ボオトの場景が最後《ラスト》を飾《かざ》り、観《み》ていれば、撮影《さつえい》された覚えもある荒川《あらかわ》放水路、蘆《あし》の茂《しげ》みも、川面《かわも》の漣《さざなみ》も、すべて強烈《きょうれつ》な斜陽《しゃよう》の逆光線に、輝《かがや》いているなかを、エイト・オアス・シェルの影画《シルエット》が、キラキラする水を鋭《するど》く切り、凄《すさ》まじい速さで、進んでゆくのでした。影画のようなオォルでも、上げれば、水泡《すいほう》と、飛沫《しぶき》が、同時に光ります。「いいなア」と誰かが溜息《ためいき》をついていました。漕《こ》いでいれば、あんなに辛《つら》いものでも、見ていれば綺麗《きれい》に違いありません。
 映画が済んでから、またAデッキに出てみますと、太平洋は、けぶるような朧月夜《おぼろづきよ》でした。霧《きり》がすこしたれこめ、うねりもゆるやかな海面を、眺《なが》めながら、Bデッキヘの降り口にまで来たときです。甲板の反対側から、廻《まわ》ってきた、あなた達と、ぱったり一緒になってしまいました。雀《すずめ》のように喋《しゃべ》りあっているあなた達に、村川は、「どうぞお先に」とふざけて、言いました。女子ハアドルの内田さんが、先に進みでて、「おおきに」と澄《す》ましたお辞儀《じぎ》をしたので、あなた達は笑い崩《くず》れる。
 そのとき、全く偶然《ぐうぜん》で、すぐ前にいたあなたに、ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたは驚《おどろ》いたように顔をあげて、ぼくをみた、真面目《まじめ》になった、あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女の貌《かお》と、成熟した女の貌との混淆《こんこう》による奇妙《きみょう》な魅力《みりょく》でした。
 みじんも化粧《けしょう》もせず、白粉《おしろい》のかわりに、健康がぷんぷん匂《にお》う清潔さで、あなたはぼくを惹《ひ》きつけた。あなたの言葉は田舎《いなか》の女学生丸出しだし、髪《かみ》はまるで、老嬢《ろうじょう》のような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか微笑《ほほえ》ましい魅力でした。
 あなたは、薄紫《うすむらさき》の浴衣《ゆかた》に、黄色い三尺をふッさりと結んでいた。そして、「ボオトはきれいねエ」と言いながら、袖《そで》をひるがえして漕《こ》ぐ真似《まね》をした。ぼくは別れるとき、「お名前は」とか、「なにをやって居られるんですか」とか、訊《き》きました。そしたら、あなたは、「うち、いややわ」と急に、袂《たもと》で、顔をかくし、笑い声をたてて、バタバタ駆けて行ってしまった。お友達のなかでいちばん背の高いあなたが、子供のように跳《は》ねてゆくところを、ぼくは、拍子抜《ひょうしぬ》けしたように、ぽかんと眺めていたのです。その癖《くせ》、心のなかには、潮《うしお》のように、温かいなにかが、ふツふツと沸《わ》き、荒《あ》れ狂《くる》ってくるのでした。
 船室に帰ってから、ぼくは大急ぎで、選手|名簿《めいぼ》を引き出し、女子選手の処《ところ》を、探してみました。すると、あなたの顔ではありますが、全然、さっきの魅力を失った、ただの田舎女学生の、薄汚《うすぎたな》く取り澄ました、肖像《しょうぞう》が発見されました。そこに (熊本秋子、二十歳、K県出身、N体専に在学中種目ハイ・ジャムプ記録一|米《メエトル》五七)と出ているのを、何度も読みかえしました。なかでも、高知県出身とある偶然さが、嬉《うれ》しかった。ぼくも高知県――といっても、本籍《ほんせき》があるだけで、行ったことはなかったのですが、それでも、この次、お逢いしたときの、話のきっかけが出来たと、ぼくには嬉しかった。

     五

 翌朝から、ぼくは、あなたを、先輩達に言わせれば、まるで犬の様につけまわし出しました。船の頂辺のボオト・デッキから、船底のCデッキまで、ぼくは閑《ひま》さえあると、くるくる廻り歩き、あなたの姿を追って、一目遠くからでも見れば、満足だったのです。
 その晩、B甲板の船室の蔭《かげ》で、あなたが手摺《てすり》に凭《もた》れかかって、海を見ているところを、みつけました。腕《うで》をくんで背中をまるめている、あなたの緑色のスエタアのうえに、お下げにした黒髪《くろかみ》が、颯々《さつさつ》と、風になびき、折柄《おりから》の月光に、ひかっていました。勿論《もちろん》ぼくには、馴々《なれなれ》しく、傍《そば》によって、声をかける大胆《だいたん》さなどありません。只《ただ》、あなたの横にいた、柴山の肩《かた》を叩《たた》き、「なにを見てる」と尋《たず》ねました。それは、あなたに言った積りでした。柴山は、「海だよ」と答えてくれました。ぼくも船板《ふなばた》から、見下ろした。真したにはすこし風の強いため、舷側《げんそく》に砕《くだ》ける浪《なみ》が、まるで石鹸《シャボン》のように泡《あわ》だち、沸騰《ふっとう》して、飛んでいました。
 次の晩、ぼくが、二等船室から喫煙室《きつえんしつ》のほうに、階段を昇《のぼ》って行くと、上り口の右側の部屋から、溌剌《はつらつ》としたピアノの音が、流れてきます。“春が来た、春が来た、野にも来た”と弾《ひ》いているようなので、そっとその部屋を覗《のぞ》くと、あなたが、ピアノの前にちんまりと腰をかけ、その傍に、内田さんが立っていました。
 二人は、覗いているぼくに気づくと、顔を見合せ、花やかに、笑いだしました。その花やいだ笑いに、つりこまれるように、ぼくは、その部屋が男子禁制のレディスルウムであるのも忘れ、ふらふらと入り込《こ》んでしまいました。あなた達は、怪訝《けげん》な顔をして、ぼくを見ています。ぼくも入ったきり、なんとも出来ぬ、羞恥《しゅうち》にかられ、立ちすくんでしまった。
 すると、あなた達はそそくさ、部屋を出て行きました。ぼくも、その後から、急いで逃《に》げだしたのです。
 翌晩、船で、簡単な晩餐会《ばんさんかい》があって、その席上、選手全員の自己紹介が行われました。なにしろ元気一杯な連中ばかりですから、溌剌とした挨拶《あいさつ》が、食堂中に響《ひび》き渡《わた》ります。槍《やり》の丹智《タンチ》さんが女にしては、堂々たる声で、「槍の丹智で御座《ござ》います」とお辞儀《じぎ》をすると、TAをCHIと聴《き》き違《ちが》え易《やす》いものですから、男達は、どっと笑い出しました。ぼくには、大きな体の丹智さんが、呆気《あっけ》にとられ、坐《すわ》りもならず、立っているのが、その時には、ほんとうにお気の毒でした。いつもなら、無邪気《むじゃき》に笑えたでしょう。が、あなたの上に、すぐ考えて、それが如何《いか》にも、女性を穢《けが》す、許されない悪巫山戯《わるふざけ》に、思えたのです。
 ぼくの番になったら、美辞|麗句《れいく》を連ね、あなたに認められようと思っていたのに、恥《はず》かしがり屋のぼくは、口のなかで、もぐもぐ、姓《せい》と名前を言ったら、もうお終《しま》いでした。
 あなたの番になると、あなたは、怖《お》じず臆《おく》せず明快に、「高飛びの熊本秋子です」と名乗って着席しました。ぼくには、その人怖じしない態度が好きだった。
 それから何日、経《た》ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。前にも言ったとおり、恥かしがりで孤独《こどく》なぼくには、なにかにつけ、目立った行為《こうい》はできなかった。
 ある夜、船員達の素人芝居《しろうとしばい》があるというので、皆《みんな》一等食堂に行き、すっかりがらんとしたあとぼくがツウリスト・ケビンの間を歩いていますと、仄明《ほのあか》るい廊下《ろうか》の端《はず》れに、月光に輝いた、実に真《ま》ッ蒼《さお》な海がみえました。と、その間から、ひょいと、あなたの顔が、覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に頬杖《ほおづえ》ついた、あなたが、一人で月を眺《なが》めていました。月は、横浜を発《た》ってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど十六夜《いざよい》あたりでしたろうか。太平洋上の月の壮大《そうだい》さは、玉兎《ぎょくと》、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりする程《ほど》です。満々たる月、満々たる水といいましょうか。澄《す》みきった天心に、皎々《こうこう》たる銀盤《ぎんばん》が一つ、ぽかッと浮《うか》び、水波渺茫《すいはびょうぼう》と霞《かす》んでいる辺《あた》りから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない縮緬皺《ちりめんじわ》をよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、誠《まこと》に、もの凄《すさ》まじいばかりの景色でした。
 ぼくは一瞬《いっしゅん》、度胆《どぎも》を抜《ぬ》かれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の邂逅《かいこう》が、こんなにも、海を、月を、夜を、香《かぐ》わしくさせたとしか思われません。ぼくは胸を膨《ふく》らませ、あなたを見つめました。
 その夜のあなたは、また、薄紫《うすむらさき》の浴衣《ゆかた》に、黄色い三尺帯を締《し》め、髪を左右に編んでお下げにしていました。化粧《けしょう》をしていない、小麦色の肌《はだ》が、ぼくにしっとりとした、落着きを与《あた》えてくれます。顔つき合せては、恥かしく、というより、何も彼にもが、しろがね色に光り輝く、この雰囲気《ふんいき》のなかでは、喋《しゃべ》るよりも黙《だま》って、あなたと、海をみているほうが、愉《たの》しかった。
 随分《ずいぶん》、長い間、沈黙《ちんもく》が続いた後で、ぽつんとぼくが、「熊本さんも、高知ですか」と訊《たず》ねました。あなたは頷《うなず》いてから、「坂本さんは、高知の、どこでしたの」と言います。「いや、高知は両親の生れた所ですけれど、まだ知りません。ずっと東京です」「そう。高知は良い国よ。水が綺麗《きれい》だし、人が親切で」「ええ、聴《き》いています。母がよく、話してくれます。ほら、よさこい節ってあるんでしょう」「ええ、こんなんですわ」とあなたは、悪戯《いたずら》ッ児《こ》のように、くるくる動く黒眼勝《くろめがち》の、睫《まつげ》の長い瞳《ひとみ》を、輝かせ、靨《えくぼ》をよせて頬笑《ほほえ》むと、袂《たもと》を翻《ひるが》えし、かるく手拍子《てびょうし》を打って『土佐は良いとこ、南を受けて、薩摩颪《さつまおろし》がそよそよと』と小声で歌いながら、ゆっくり、踊《おど》りだしました。
 ぼくが可笑《おか》しがって、吹出《ふきだ》すと、あなたも声を立てて、笑いながら、『土佐の高知の、播磨屋《はりまや》橋で、坊《ぼう》さん、簪《かんざし》、買うをみた』と裾《すそ》をひるがえし、活溌《かっぱつ》に、踊りだしました。文句の面白《おもしろ》さもあって、踊るひと、観《み》るひと共に、大笑い、天地も、為《ため》に笑った、と言いたいのですが、これは白光|浄土《じょうど》とも呼びたいくらい、荘厳《そうごん》な月夜でした。
 しかし、その月光の園《その》の一刻《ひととき》は、長かったようで、直《す》ぐ終ってしまいました。それは、あなたの友達の内田さんが、船室の蔭から、ひょッこり姿を、現わしたからです。内田さんも、あなたの様子にニコニコ笑って来るし、ぼく達も、笑って迎《むか》えましたが、ぼくにとっては月の光りも、一時に、色褪《いろあ》せた気持でした。

     六

 それから、三人|揃《そろ》って、芝居《しばい》を見に行きました。なにをやっていたか、もう忘れています。多分、碌々《ろくろく》、見ていなかったのでしょう。ぼくは別れて、後ろの席から、あなたの、お下げ髪《がみ》と、内田さんの赤いベレエ帽《ぼう》が、時々、動くのを見ていたことだけ憶《おぼ》えています。
 それからの日々が、いかに幸福であったことか。未《ま》だ、誰《だれ》にも気づかれず、ぼくはあなたへの愛情を育てていけた。ぼくはその頃《ころ》あなたと顔を合せるだけで、もう満ち足りた気持になってしまうのでした。朝の楽しい駆足《かけあし》、Aデッキを廻《まわ》りながら、あなた達が一層下のBデッキで、デンマアク体操をしているのが、みえる処《ところ》までくると、ぼくはすぐあなたを見付けます。
 なかでも、長身なあなたが、若い鹿《しか》のように、嫋《しな》やかな、ひき緊《しま》った肉体を、リズミカルにゆさぶっているのが、次の一廻り中、眼にちらついています。今度、Bデッキの上を駆ける頃になると、あなたは、海風に髪を靡《なび》かせながら、いっぱいに腕を開き、張りきった胸をそらしている。その真剣《しんけん》な顔付が、また、次の一廻り中、眼の前にある。その次、Bデッキの上まで来るとあなたは腕をあげ脚《あし》を思い切り蹴上《けあ》げている、というように、以前は、嫌《きら》いだった駆足も、駆けている間中、あなたが見えるといった愉《たの》しさに変りました。
 それからすっかり腹を空《す》かした朝の食事、オオトミイルに牛乳をなみなみと注いで、あなたを見ると、林檎《りんご》を丸噛《まるかじ》りに頬張《ほおば》っているところ、なにかふっと笑っては、自分に照れ、俯《うつむ》いてしまいます。(よく、食うなア)と、あなたに言った積りですが、案外、自分のことでしょう。
 朝飯を食うと午前中の練習で、八時半から十一時頃まで、ボオト・デッキと体育室《ギムナジウムルウム》の前に置いてあるバック台を、まず、三百本以上は、定《き》まって引きました。大体、三番の梶《かじ》さんと、四番のぼくは並《なら》んで引くのが原則ですが、下手糞《へたくそ》な為《ため》、時々、五番の松山さんや整調の森さんとも引きます。ぼくは、胴《どう》が長くて、上体が重く、いつも起上り《レカバリー》[#「起上り」にルビ]が、おくれて、叱《しか》られるのですが、あの数日は、すばらしい好調でした。
 いつもは隣《となり》のバック台に、合わそうとすればする程《ほど》合わないのが、その頃は合わそうとしないでも、いつの間にかチャッチャッとリズムが出てくるのです。身も心も浮々《うきうき》していて、普段《ふだん》は音痴《おんち》のぼくでも、ひどく音楽的になれたのでしょう。そのリズムに乗ってしまえばしめたもので、カタンと足で蹴り身体を倒《たお》した瞬間《しゅんかん》、もう上半身は起き上がり、スウッと身体は前に出てゆきます。手首をブラッと突《つ》きだし、全身が倒れた反動で、ひとりでに進むのをゆるくセエブしながら、みはるかす眼下ひろびろと、日に輝く太平洋が青畳《あおだたみ》のように凪《な》いでいるのを見るのは、まことに気持の好《よ》いものです。
 そんな時、監督《かんとく》に廻って来た総監督の西博士が、コオチャアの黒井さんに、「みんな、坂本君位、身体があれば大したものだなア」と褒《ほ》めて下さるのを聞くと、いつもクルウの先輩《せんぱい》連からは、「大きな身体を、持てあましていやがって――」など言われているだけに、思わず、ハッとあがってしまい、又《また》、普段の地金が出るのではないかと固くなるのでした。
 ある日、バック台を引いたあとで、腕組みをしながら、あとの人達のやるのを見ていて、ひょいと眼をあげると、あなたの汗《あせ》ばんだ顔が、体育室の円窓越しに、此方《こちら》を眺《なが》めていました。ぼくは直《す》ぐ、恥《はず》かしくなって、視線をそらせようとすると、あなたも、寂《さび》しいくらい白い歯をみせ、笑うと、窓|硝子《ガラス》をトントン拳《こぶし》で叩《たた》く真似《まね》をしてから、身をひるがえし逃げてゆきました。
 それからと云《い》うものは、ぼくは、バック台をひきながらも、背後の体育室のなかで、かすかに、モーターの廻り出す音でも、聞えると、あなたが来ているかなと、胸が昂《たか》まるのでした。
 いつでしたか、いちばん後まで残り、バック台を蔵《しま》ってからも、皆、降りて行ってしまうまで海を眺めるふりをし、誰もいなくなってから、体育室に入ってみました。
 すると、あなたと、内田さんが、木馬に乗って、ギッコンギッコンと凄《すさ》まじい速さで、上がったり下がったりしています。おまけに、あなた達はパンツ一枚なのですから、太股《ふともも》の紅潮した筋肉が張りきって、プリプリ律動するのがみえ、ぼくはすっかり駄目《だめ》になり、ほうほうの態《てい》で、退却《たいきゃく》したことがあります。
 午後は、ぼく達の棒引が終ってから、あなたがたの練習をみるのが、また楽しみでした。
 殊《こと》に、あなたのアマゾンヌの様な、トレエニング・パンツの姿が、A甲板の端から此方まで、風をきって疾走《しっそう》してくる。それも、ひどく真剣な顔が汗みどろになっているのが、一種異様な美しさでした。
(視《み》よ、わが愛する者の姿みゆ。視よ、山をとび、丘《おか》を躍《おど》りこえ来る。わが愛する者は※[#「※」は「けものへん」の右に「章」、31-11]《しか》のごとく、また小鹿のごとし)
 紫紺《しこん》のセエタアの胸高いあたりに、紅《あか》く、Nippon と縫《ぬ》いとりし、踝《くるぶし》まで同じ色のパンツをはいて、足音をきこえぬくらいの速さで、ゴオルに躍りこむ。と、すこし離《はな》れている、ぼくにさえ聞えるほどの激《はげ》しい動悸《どうき》、粒々《つぶつぶ》の汗が、小麦色に陽焼《ひや》けした、豊かな頬《ほお》を滴《したた》り、黒いリボンで結んだ、髪の乱れが、頸《くび》すじに、汗に濡《ぬ》れ、纏《まつわ》りついているのを、無造作にかきあげる。
 七番の坂本さんが、ぼくの肩《かた》を叩いて、「すごいなア」という。あなたの真剣さに、感動したのでしょう。「ええ」と領《うなず》きながら、ぼくはふいと目頭が熱くなったのに、自分で驚《おどろ》き、汗を拭《ぬぐ》うふりをすると、慌《あわ》てて船室に駆け降りました。
 舷《ふなばた》では、槍《やり》の丹智さんが、大洋にむかって、紐《ひも》をつけた、槍を投げています。ブンと風をきり、五十|米《メエトル》も海にむかって、突き刺さって行く槍の穂先《ほさ》きが、波に墜《お》ちるとき、キラキラッと陽に眩《くる》めくのが、素晴《すばら》しい。と、上の甲板からは、ダイビングの女子選手が、胴のまわりを、吊鐶《つりわ》で押《おさ》えたまま、空中に、さッと飛びこむ。アクロバットなどより真面目《まじめ》な美しさです。
 と、また、男達のほうでも、ボクサアは、喰《く》いつきそうな形相で、サンドバッグを叩いていますし、レスラアは、筋肉の塊《かたま》りにみえる、すさまじさで、ブリッジの練習。体操の選手は選手で、贅肉《ぜいにく》のない浮彫《うきぼり》のような体を、平行棒に、海老《えび》上がりさせては、くるくる廻っています。おおかた上のプールでは、水泳選手の河童《かっぱ》連が、水沫《みずしぶき》をたてて、浮いたり沈《しず》んだり、ウォタアポロの、球を奪《うば》いあっているのでしょう。
 それでありながら、古代ギリシャ、ロオマの巨匠《きょしょう》達が発見した、人間の文字通り具体的な、観念に憑《つ》かれぬという意味での美しさが、百花|撩乱《りょうらん》と咲き乱れておりました。
 しかしながら、その中に育った、ぼく達の愛情は、肉体の露《あら》わにみえる処に、あればあるほど肉体的でない、まるで童話《メルヘン》の恋《こい》物語めいた、静かさでありました。あなたと語り合うことは、恐《おそ》ろしく、眼を見交《みかわ》すことが、楽しく、黙《もく》して身近くあるよりも、ただ訳もなく一緒《いっしょ》に遊んでいるほうが、嬉《うれ》しかったのです。
 夜の食事のときなど、メニュウが、手紙になったり、先の方に絵葉書がついていたりします。ぼくはその上に書く、あなたへの、愛の手紙など空想して、コオルドビイフでも噛《か》んでいるのです。メニュウには、殆《ほとん》ど錦絵《にしきえ》が描《えが》かれています。歌麿《うたまろ》なぞいやですが、広重《ひろしげ》の富士と海の色はすばらしい。その藍《あい》のなかに、とけこむ、ぼくの文章も青いまでに美しい。ところで、あなたはパセリなど銜《くわ》えながら、時々こちらに、ちらっと笑いかけてくれるのでした。
 夜は、概《がい》して平安一路な航海、月や星の美しい甲板で、浴衣《ゆかた》がけや、スポオツドレスのあなたが、近くに仄白《ほのじろ》く浮いてみえるのを、意識しながら、照り輝く大海原《おおうなばら》を、眺めているのは、また幸福なものでした。
 なかでも、わけて愉しかったのは、昼食から三時までの練習休みの時間、大抵《たいてい》のひとが暑さにかまけて、昼寝《ひるね》でもしているか、涼《すず》しい船室を選んで麻雀《マアジャン》でも闘《たたか》わしているのに、ぼくは炎熱《えんねつ》で溶《と》けるような甲板の上ででも、あなたや内田さんと、デッキ・ゴルフや、シャブルボオドをして遊んでいれば、暑さなど、想《おも》ってもみない、楽しさで充実《じゅうじつ》した時間でした。
 飯を食うと、ぼくは直ぐAデッキに出て、コオチャア黒井さんが昼寝している横の、デッキ・チェアに腰《こし》を降し、瀝青《チャン》のように、たぎった海を見ています。暫《しばら》く経《た》ってから、黄色いブラウスに白いスカアトをはいた、あなたと、赤いベレエ帽に、紺の上衣《うわぎ》を着た内田さんとが、笑いながらやって来ます。内田さんは、ぼくに、「ぼんち、デッキ・ゴルフやろう」と言ってから、今度は黒井さんの手をひっぱって、無理に起します。黒井さんは、「ああァ」と大欠伸《おおあくび》をしてから、周囲をみまわし、「大坂《ダイハン》とか、よし、また、ひねってやろう」とゆっくり立ち上がるのでした。
 そこで、あなたと内田さんの組と、ぼくと黒井さんの組が対抗してゲエムを始めます。ぼくにとって、勝負なぞ、初めは、どうでも好いのですが、やはり良い当りをみせて、あなたの持ち輪を圏外《けんがい》の溝《みぞ》のなかに、叩き落したときなぞ、思わず快心の笑《え》みがうかぶ、得意さでした。
 ことに、ぼくをいつも庇護《ひご》してくれる黒井さんが、そういうとき、「うまい」と一言、褒《ほ》めてくれるのが、ふだんクルウの先輩達が、ぼくをまるで、運動神経の零《ゼロ》なように、コオチャアに言いつけているのを知っているだけ、とても嬉しかったのです。
 勿論《もちろん》、あなた達のほうでも、ぼく達を負かしたときには、手を叩いて、嬉しがっていた。勝負の面白さが、純粋《じゅんすい》に勝負だけの面白さで、その時には、恋も、コオチャアも、女も、利害も、過去も未来もなかったのです。
 後年、ぼくは、或《あ》る女達と、もっと恋愛《れんあい》らしい肉体的な交際を結びました。しかし、それが、所謂《いわゆる》恋愛らしい、形を採ればとるほど、ぼくは恋愛を装《よそお》って、実は、損得を計算している自分に気づくのでした。
 おもうに、あのとき、燃える空と海に包まれ、そして、焼きつくような日光をあびた甲板に、勝っているときは嬉しく、負けたときは口惜《くや》しく、遊びの楽しさの他《ほか》には、なにもなかった。ぼくは、本当に、黄金の日々を過していたのでした。
 もう、あの日当りでのデッキ・ゴルフの愉しさは、書くのを止《や》めましょう。もっと、純粋な愉しさがあって、書けば書くほど、嘘《うそ》になる気がします。
 しかし、この黄金の書に、ものを書く時間は短かく、これと殆ど同時に、ぼくには、大きな不幸が忍《しの》びよって来ていました。それは、まず第一に、ほかの人間達が、ぼく等の友情のなかに、影《かげ》を落して来だしたことです。次には、ぼく達が、他の人達に注目されるほど、仲良くなって行ったことです。

     七

 ある日、写真機を持出した村川が、ぼくを呼んで、あなたと内田さんの写真をとるから誘《さそ》うてきてくれ、と言います。ぼくが「いやだ」と断ると、「なんでい、熊本は、お前のいう事なら、きくよ」と笑います。
 結局、あなた達の写真を貰《もら》える嬉《うれ》しさもあり、白地に、紫《むらさき》の菖蒲《しょうぶ》を散らした浴衣《ゆかた》をきたあなたと、紅《あか》いレザアコオトをきた内田さんを、ボオト・デッキの蔭《かげ》に、ひっぱり出し、村川が、写真を撮《と》り、また、ぼくと村川の写真を、内田さんが撮りました。
 二三日|経《た》って、出来上がった写真を、交換《こうかん》し、サインもし合っていました。あなたの顔は、眼が円《まる》く、鼻がちんまりして、色が黒く、いかにも、漁師の娘《むすめ》さんといった風だし、内田さんの顔は、また、色っぽい美人の猫《ねこ》、といった感じに撮れていたので、皆《みんな》で、それを指摘し合っては、騒々《そうぞう》しく笑っていると、東海さんが通りかかり、ものも言わず、写真をとり上げ、一寸《ちょっと》見るなり、「フン」と鼻で笑って、抛《ほう》り出し、行ってしまった。
 その晩でしたか、七番の坂本さんが、女子選手のブロマイドを買い、皆に見せながら、一々名前をきいていましたが、なかに分らないのがあって、誰か、名簿《めいぼ》を取りに立とうとすると、東海さんが、突然《とつぜん》、大声で、「大坂《ダイハン》に聞けよ。大坂は、女の選手のことなら、とても詳《くわ》しいんだ」といいます。昼間の写真のことだなと、ぼくは胸に応《こた》えました。すると、松山さんが、「ほう、大坂《ダイハン》はそんなに、女子選手の通《つう》なんか」といったので、皆、笑いだしたけれど、ぼくには、そのときの、誰彼《だれかれ》の皮肉な目付が、ぞっとするほど、厭《いや》だった。
 又《また》ある日、ぼくが、練習が済み、水を貰おうと、食堂へ降りて行くと、入口でぱったり、あなたと同じジャンパアの中村さんに、逢《あ》いました。と、十六|歳《さい》のこの女学生は、突然、ぼくの顔を覗《のぞ》きこむように、「うちの写真、貰ってくれやはる」といいます。
 驚《おどろ》いて、まじまじしているのに、「ここで待っててね」といいざま、子栗鼠《こりす》のような素早さで、とんで行き、ぼくが椅子《いす》に腰《こし》かける間もなく、ちいさい中村さんは、息をきり、ちんまりした鼻の頭に汗《あせ》を掻《か》き、駆《か》け戻《もど》って来ると、ぼくの掌《て》に、写真を渡《わた》し、また駆けて行ってしまいました。
 あとでみた、写真には、ハアト形のなかに、お澄《すま》しな田舎《いなか》女学校の三年生がいて、おまけに稚拙《ちせつ》なサインがしてあるのが、いかにも可愛《かわい》く、ほほ笑んでしまった。
 当時、すこし自惚《うぬぼ》れて、考え違《ちが》いしていましたが、これは多分、同室のあなた達が、ぼくや村川の写真を、中村さんにみせたので、少女らしい競争心を出し、まず、ぼくに写真をくれたのでしょう。
 その後、暫《しばら》くしてから、「坂本さん、ボオトの写真、うち、欲《ほ》しいわ」と女学生服をきた彼女《かのじょ》から、兄貴にでもねだるようにして、せがまれました。「いやだ」というと、「熊本さんにはあげた癖《くせ》に――」と、口をとがらせ、イィをされたので、驚いたぼくは、バック台を引いている写真をやってしまいました。
 こうした風に、段々、へんな噂《うわさ》がたつのに加えて、人の好《い》い村川が、無意識にふりまいた、デマゴオグも、また相当の反響《はんきょう》があったと思われます。
 未《ま》だ、ませた中学生に過ぎなかった彼としては、自分が、いかに女の子と親しくしているかを、大いに、みせびらかしたかったのでしょう。それだけ、ぼくより、無邪気《むじゃき》だったとも、言えますが、ぼくにしてみれば、彼が、あなた達、女子選手をいかにも、中性の化物らしく批評《ひひょう》し、「熊本や、内田の奴等《やつら》がなア」 と二言目には、あなた達が、村川に交際を求めるような口吻《こうふん》を弄《ろう》し、やたらに、写真を撮らしたり、ぼく達四人の交友を、針小棒大《しんしょうぼうだい》に言い触《ふ》らすのをきいては、癪《しゃく》に触《さわ》るやら、心配やら、はらはらして居《お》りました。
 しかし、これは、人間の本能的な弱さからだと、ぼくには許せる気になるのでしたが、同時に、誰でもが持っている岡焼《おかや》き根性とは、いっても、クルウの先輩連が、ぼくに浴《あ》びせる罵詈讒謗《ばりざんぼう》には、嫉妬《しっと》以上の悪意があって、当時、ぼくはこれを、気が変になるまで、憎《にく》んだのです。
 その頃《ころ》、整調でもあり主将もしている、クルウでいちばん年長者の森さんは、ぼくをみると、すぐこんな皮肉をいうのでした。「大坂《ダイハン》は、熊本と、もう何回|接吻《せっぷん》をした」 とか 「お尻《しり》にさわったか」とか、或《ある》いは、もっと悪どいことを嬉《うれ》しそうにいって、嘲笑《ちょうしょう》するのでした。
 七番のおとなしい坂本さんまでが、「大坂《ダイハン》は秋ちゃんと仲が良いのう」とひやかし半分に、ぼくの肩《かた》を叩《たた》きます。六番の美男の東海さんは「螽※[#「※」は「虫へん」に「斯」、39-6]《きりぎりす》みたいな、あんな女のどこが好いのだ。おい」と、ぼくの面をしげしげとのぞいて尋《たず》ねます。五番の柔道《じゅうどう》三段の松山さんは、「腐《くさ》れ女の尻を、犬みたいに追いまわしやがって――」とすごい剣幕《けんまく》で睨《にら》みつけます。三番の、もとはぼくを正選手《レギュラア》に引張ってくれた、沢村さんまでが、「あんな女のどこが好いかのう。女が珍《めずら》しいのじゃろう。不思議だのう」と、みんなに訊《たず》ねるようにするのが癖《くせ》でした。二番の虎《とら》さんは、広い胸幅を揺《ゆす》りあげ、その話をするときは、ぼくを見ないようにして、「でれでれしやがって」と、忌々《いまいま》しそうに、痰《たん》を吐《は》きとばします。この態度が、むしろ、好きでした。
 舳手《バウ》の梶さんは、ぼくの次に、新しい選手ですし、それに、七番の商科の坂本さん、二番の専門部の虎さんと共に、クルウの政経科で固めた中心勢力とは、派が合わぬだけ、別に何んともいわず、皆と一緒《いっしょ》にいるときは、軽蔑《けいべつ》した風をしていますが、ひとりで逢うと、時々、「おおいに、若いときの想《おも》い出《で》をつくれよ」とか、文科の学生らしく、煽動《せんどう》してくれました。こうして、好意とまでゆかないでも、気にしないでいてくれる、梶さん、清さんのような人達もありましたが、前述したような、クルウ大方の空気は、ひがんでいるぼくにとって、もはや、クルウのなかばかりでなく、船中の誰も彼もが、白眼視しているような気になり、切なくてたまらなかったのです。
 例《たと》えば、船に、横浜|解纜《かいらん》の際、中学の先生から紹介して貰った、Kさんという、中学で四年先輩のひとが、見習船員をしておりました。Kさんは、未だ高等商船を出たばかりで、学生気の抜《ぬ》けない明るい青年で、後輩のぼくの面倒《めんどう》をよくみてくれて、船の隅々迄《すみずみまで》、案内もしてくれるし、一緒に記念|撮影《さつえい》などもしていました。
 ところが、その頃、船の前端にある彼の部屋に、夜遊びに行ってみると、何かのきっかけで、Kさんが、「女子選手ッて、みんな、凄《すご》いのばかりだね」といいだしました。ビクッとしたのになおも、「あれで、男の選手へ、モオションをかけるのが、いるっていうじゃないか。アッハッハ……」と大口あいて笑うのです。
 その時は、てッきり、ぼくにあてこすっているのか、忠告していると取り、早々に逃げ出したのですが、それからは、なるべく、Kさんにまで逢わないようにしていました。しかし、いま考えれば、これも、ぼくのひがみだったのです。

     八

 横浜を出てから一週間も経《た》った頃《ころ》、朝の練習が済むと、B甲板《かんぱん》に、全員集合を命ぜられました。役員のひとりで、豪放磊落《ごうほうらいらく》なG博士が肩幅《かたはば》の広い身体《からだ》をゆすりあげ、設けの席につくと、みんなをずっと見廻《みまわ》したのち、
「諸君。ぼくはこんなことを、日本選手でもあり、立派な紳士《しんし》、淑女《しゅくじょ》でもある皆《みな》さんに、お話するのは、じつに残念であるが、止《や》むを得ん。とにかく、本日|只今《ただいま》から、男子と女子の交際は、絶対にこれを禁止する。
 遊ぶのは勿論《もちろん》ならんし、話をしても不可《いか》ん。今後、この規則を破るものがあったら、発見次第それぞれの所属チイムの責任者によって、処分して貰《もら》う。尚《なお》、その程度によっては、ホノルルなり、サンフランシスコなりに、船が着いたら、下船させてしまうぞ。スポオツマンとしての資格の欠けるものに、日本は選手として、出場して貰いたくないのだ」
 日頃、太ッ腹な氏としては、珍《めずら》しく、話すのも汚《けが》らわしいといった激越《げきえつ》ぶりでした。ぼくにしてみれば、話の最中ふりかえって此方《こちら》をみる、クルウの先輩達《せんぱいたち》もいるし、それでなくとも、氏の一言一句が、ただ、ぼくに向っての叱声《しっせい》に聞え、かあッと、あがってしまうのでした。氏は語をついで、
「だいたい、この前のアムステルダム行の時は、このことを怖《おそ》れ、男子船と女子船とを別々に立たせたものだ、今回も前に比べれば、人数も増えているし、万一のことがあってはと心配して『男女七歳にして席を同じうせず』式の議論から、別々に立たせるのを主張する人もあったが、ぼくは、『厳粛なる自由』《スタアンリバティ》を称《とな》え、笑って、その議論を一蹴《いっしゅう》した。諸君、もう一度、君達の胸のバッジをみたまえ。光輝《こうき》ある日の丸の下に、書かれた Japanese Delegation の文字は、伊達《だて》では、ねエんだろ。俺《おれ》は今朝、ある忌《いま》わしい場面を、この船の事務員が見たとか、いう話をきいたときは、初めは話のほうが信用できなかった。否《いや》、今でも、そんな話は信用しとらん。
 しかし、こういっただけで、若《も》し、その事実ありとしても、その当人達は、充分《じゅうぶん》、自戒《じかい》してくれると思う。頼《たの》むから諸君、二度と俺にこんなことを、言わさないでくれ。終りッ」
 そういい棄《す》てると博士をはじめ、幹部連はさっさと引揚《ひきあ》げてしまいましたが、そうなると、今度はかえって、あとの騒《さわ》ぎが大変。どこにでもいる噂《うわさ》好きな人達が、大声で、見てきたような嘘《うそ》をいいあったり、猥褻《わいせつ》な想像をしあっては喜んでいる。そのなかで、ぼく一人、また一人ぼッち、茫然《ぼうぜん》と身動きもできませんでした。
 ボオトの連中はてっきり、ぼくとあなたをこの醜聞《スキャンダル》にあて嵌《は》めてしまったのでしょう。森さんなんかは血相かえ、「俺達のなかで、困るのは、まあ大坂《ダイハン》一人位のものだな」と皮肉をいいます。松山さんは、「大坂《ダイハン》だけ困るんじゃねえぞ。ボオト部全体の恥《はじ》だからな」とぼくを睨《にら》みつけます。と、東海さんが、「Gさんも、ああ言うんだし、皆でよく今後を打合せたらどうだい」と横目でぼくを見ながらいう。日頃、寡黙《かもく》なKOの主将、八郎さんまで、「よかろう」と積極的に嘴《くちばし》をだします。結局、それからぼくの査問会らしきものが、皆で開かれることになりました。
 尤《もっと》も、あとで考えると、G博士のいった醜聞は、子供ッぽいぼく等の友情などは、問題としておらず、先夜、ある男女が、ボオト・デッキの蔭《かげ》で、抱擁《ほうよう》し合っていたのを、船員にみられたという噂からだったのを、すでに連中は知っていたかとも思われますが――。
 皆はぞろぞろ二等のサロンに入りました。ぼくは、勢い、衆目の帰する処《ところ》です。出帆《しゅっぱん》前からの神経異常が、あなたとの愉《たの》しい交わりに、紛《まぎ》らわされてはいたが、こうした場合一度に出て来て、頭の芯《しん》は重だるく、気力もなくなり、なにをいわれても聞いてはいずに肯《うなず》くばかりでした。
 ぼくは前から、左側の瞼《まぶた》だけが二重《ふたえ》で、右は一重瞼なのです。それを両方共、二重にする為《ため》には、眼を大きく上に瞠《みは》ってから、パチリとやれば、右も二重瞼になる。それを、あなたと逢《あ》う前には、よくやって、顔を綺麗《きれい》にしようと思ったものです。その癖《くせ》がちょうど、皆から査問を受けている最中、ひょっくり出て、瞳《ひとみ》をパチリと動かす。
 と、森さんが、「おい大坂《ダイハン》、止《よ》さんか」と真ッ赤になって怒りだした。しまった。ぼくは取返しのつかない思いにうつむく。と、「どうしたんだ」松山さんが、面白《おもしろ》がり、声を荒げて聞いた。森さんが「否《いや》、厭《いや》らしいッたら、ありゃしない。此奴《こいつ》ったら」と、ぼくのほうを顎《あご》でしゃくって、「ウインクの真似《まね》をしてやがるんだ。こんなにしてな」と、さも厭らしく三白眼《さんぱくがん》をむいてみせます。「ハハア、それがウインクてんだな。新式の――」と補欠《サブ》の佐藤が、憎《にく》らしく、お節介《せっかい》な口を出すと、皆がどッとふきだしました。
 その笑いのなかで、ぼくはもう死にたい、という気がする程《ほど》、弱虫でした。まだ、松山氏は、沢村さんに向って、「こんなにするんだとよ。気味が悪い」とやって見せています。こんなふうに、皆から扱《あつか》われるのには慣れていますが、あなたのことが、有るだけに、たまらなかったのです。
 結局さんざん嘲弄《ちょうろう》されてから、解放されましたが、それからまた、バック台練習は、以前のように口喧《やかま》しく、先輩達から怒鳴《どな》られるようになるし、怒鳴られるほど、またギゴチなくなって行きました。
 こう書くと、いかにもぼくが、弱々しいだけに見えますが、先輩達だとて、ぼくが本当に弱く降参しきっていれば、あれ迄《まで》いじめなかったでしょう。加えて、ぼくには、文学少年にありがちな孤独癖《こどくへき》がありました。それも生意気だとか、図々しいとか見られていたのでしょう。実際、図々しい処もありました。あなたから、この手記の初めに書いた、杏《あんず》の実を貰ったのは、その問題があった日の昼のことでしたから――。
 とにかく、その日の昼は、もうあなたと遊べなくなった淋しさと、口惜《くや》しさから、殆《ほとん》ど飯も食べずに、トレイニング・パンツに着更《きが》え、誰《だれ》もいないB甲板をうろついていると、ひょッくりあなたと小さい中村|嬢《じょう》に逢いました。
 中村さんは、小さい唇《くち》をとがらせ、「うち、つまらんわア、もう男のひとと、遊んではいけない言うて、監督《かんとく》さんから説教されたわ。おんなじ船に乗ってて、口|利《き》いてもいかん、なんて、阿呆《あほ》らしいわ」ぼくも、合槌《あいづち》うって「すこし、変ですね」と言えば、あなたも「ほんとうにつまらんわア」中村嬢は、益々雄弁《ますますゆうべん》に「ほんとに嫌《いや》らし。山田さんや高橋さんみたいに、仰山《ぎょうさん》、白粉《おしろい》や紅をべたべた塗《ぬ》るひといるからやわ」と、なおも小さな唇をつきだします。ぼくは只《ただ》、中村さんに喋《しゃべ》らしておいて、心のなかでは、つまらない、つまらない、と言い続けていました。
 やがて、あなたは、剽軽《ひょうきん》に、「こんなにしていて、見つけられたら大変やわ、これ上げましょ」と、ぼくの掌《てのひら》に、よく熟《う》れた杏の実をひとつ載《の》せると、二人で船室のほうへ駆《か》けてゆきました。ぼくも、杏の実を握《にぎ》りしめ、くるくると鉄梯子《てつばしご》をあがって、頂辺《てっぺん》のボオト・デッキに出ました。
 太平洋は、日本晴の上天気。雲も波もなく、ただ一面にボオッと、青いまま霞《かす》んでいます。ぼくは、手摺《てすり》に凭《もた》れかかって、杏を食べはじめました。甘酸《あまず》っぱい実を、よく眺《なが》めては、食べているうち、ふっと瞼の裏が、熱くなりました。食いおわった杏の種子を、陽にかがやく海に、抛《ほう》ろうとしてから、ふと思い直し、ポケットのなかに、しまいこみました。
 しばらく海をみてから、もう練習かなと、Bデッキを瞰下《みおろ》すと、皆はまだ麻雀《マアジャン》でもしているのでしょう。甲板にいるのはデッキ・チェアに寄りかかったあなたと、船客で羅府《ロスアンゼルス》行の第二世のお嬢さんだけ。二人で、なにか仲良さそうに話している。こちらは、莫迦《ばか》みたいに、頬笑《ほほえ》んで、瞰下していると、あなたは、直《す》ぐ気づき、上をむいて、にっこりした。隣《となり》のお嬢さんも、おなじく見上げる。ぼくは、視線のやりばに困るから、船尾のほうを眺めるふりをしている。とまもなく、第二世のお嬢さんは、眼をつむり、寝《ね》てしまっている様子です。
 思いきって、ぼくが合図に、右手を高くあげると、あなたも右手をあげて振《ふ》る。ほんとうに、片眼をおもいッきり、つぶってウインクをしてみる。あなたの顔は、笑いだす。ぼくも、だらしなくにこにこします。
 一瞬《いっしゅん》、船は停《とま》り、時も停止し、ただ、この上もなく、じいんと碧《あお》い空と、碧い海、暖かい碧一色の空間にぼくは溶《と》け込んだ気がしたが、それも束《つか》の間《ま》、ぼくは誰かにみられるのと、こうした幸福の持続が、あんまり恐《おそろ》しく、身体を翻《ひるが》えし、バック台の方へ逃《に》げて行き、こっとん、こっとん、微笑《びしょう》のうちに、二三回ひいてから、また、手摺まで走って行ってはあなたに手をあげ、あなたも手をあげ応《こた》えると、また、にこにこと笑い交《かわ》して、バック台まで逃げてゆく。そうしているときは愉しく、その想い出も愉しかった。
 翌晩でしたか、ひどい時化《しけ》の最中、すき[#「すき」に傍点]焼会がありました。大抵《たいてい》のひとが出て来ないほど、船が、凄《すさ》まじくロオリングするなか、ぼくは盛《さか》んに、牛飲馬食、二番の虎《とら》さんや、水泳の安《やす》さんなんかと一緒《いっしょ》に、殆ど、最後まで残って、たしか飯を五杯以上は食いました。その飯には、杏の味の甘美《かんび》さが、まだ残っている気がしたのでした。

 そして、いよいよ Blue Hawaii です。

     九

 ハワイの想《おも》い出《で》は、レイの花からでした。
 第一装《だいいっそう》のブレザァコオトに着更《きが》え、甲板《かんぱん》に立っていると、上甲板のほうで、「鱶《ふか》が釣《つ》れた」と騒《さわ》ぎたて、みんな駆《か》けてゆきました。しかし、ぼくは漸《ようや》く、雲影模糊《うんえいもこ》とみえそめた島々の蒼《あお》さを驚異《きょうい》と憧憬《どうけい》の眼でみつめたまま、動く気もしなかったのです。
 未知の国を初めてまのあたり眺《なが》める感動と、あなたへの思慕《しぼ》とがありました。その頃《ころ》、漸くにして、自分の技倆《ぎりょう》の未熟さはさておき、とにかく日の丸の下に戦わねばならぬ、自分の重責を、あなたへの思い深まるに連れて、深く自覚自責するものがありました。ぼくは、あなたへの愛情をどうしても、帰国後まで、大切に、蔵《しま》っておかねばならぬと、おもった。然《しか》し、具体的なことはまだ一言も言わなかったし、言えもしなかった。ぼくの焦躁《しょうそう》はひどいものでした。
 ようやく波止場も見えてきて、全員集合を命ぜられたとき、いつもの様に、ぼくの眼は、あなたの姿を探していました。或《あ》る人達が、わめきちらす、女子選手達のお尻《しり》についての無遠慮《ぶえんりょ》な評言を、ぼくは堪《た》えられないような弱い気になって、聞くともなく聞いていると、いちばん後《おく》れてあなたが、うち萎《しお》れた姿をみせた。
 あなたは、先頃の明るさにひきかえ、一夜の中に、醜《みにく》く、年老《としと》って、なにか人目を恥《は》じ、泣いたあとのような赤い眼と手に皺《しわ》くちゃの手巾《ハンカチ》を持っていました。ぼくは、あなたが、てっきりぼく達のことについて、なにか言われたのではないかと、勝手な想像をして、黯然《あんぜん》となったのです。おまけに、そのとき、あなたはぼくが逢《あ》ってから、初めて厚目に、白粉《おしろい》をつけ、紅を塗《ぬ》っていた。その田舎娘《いなかむすめ》みたいなお化粧《けしょう》が、涙《なみだ》で崩《くず》れたあなたほど、惨《みじ》めに可哀想《かわいそう》にみえたものはありません。
 あたかも、直《す》ぐそのあとで、ぼくの胸には、歓迎|邦人《ほうじん》からの、白い首飾《くびかざ》りの花が掛《か》けられました。有名な選手などは、二つも三つも掛けて貰《もら》っていましたが、ぼくが洋装をした田舎の小母《おば》さん然たる奥《おく》さんに、にこにこ笑いながら掛けて貰ったレイの花は、ひとつでも堪えられないくらい芳烈《ほうれつ》な香《かお》りを放っていました。ぼくは、その匂《にお》いのなかに、恋情《れんじょう》の苦しさを甘《あま》くする術《すべ》を発見したのでした。
 それから、間もなく催《もよお》して頂いた、ハワイの官民歓迎会の、ハワイアン・ギタアと、フラ・ダンス、いずれも土人の亡国歌、余韻嫋々《よいんじょうじょう》たる悲しさがありましたが、ぼくは、その悲しさに甘く陶酔《とうすい》している自分を、すぐ発見して、なにか可憐《いと》しく思ったのです。ハワイでは、あなたと一度も、話し出来ませんでしたが、ぼくは、美しい異国の風景のなかに、あなたの姿を、まぼろしに描《えが》くだけで、満足でした。
 ぼく達が日本語よりも、英語がうまいのを自慢《じまん》にしている運転手君――というのは、ぼく達が波止場から邦人の提供してくれた、自動車に乗りこむと、早速、英語で話しかけて来て、皆が、第二世君と思っていたのに、土人かしらと、些《いささ》か唖然《あぜん》としていると「あなた達、英語出来ないんですねエ」と軽蔑《けいべつ》したように、初めて日本語を使った――その小生意気な運転手君に連れられて一同と共に、奇勝ノアノパリに向う途中《とちゅう》、もの凄《すご》い大雷雨《だいらいう》に、襲《おそ》われました。が、忽《たちま》ち、からりと晴れると、なんとその透《す》き徹《とお》るような碧《あお》い空の見事さ。雨に濡《ぬ》れ、緑のいっそう鮮《あざ》やかに光り輝《かがや》く、草木のあいだに、撩乱《りょうらん》と咲き誇《ほこ》っている、紅紫黄白《こうしこうはく》、色とりどりの花々の美しさ、あなたは何処《どこ》にでもいる気がふッと致《いた》しました。
 ぼくはものを感じるのは、まあ人並《ひとなみ》だろうと、思っていますが、憶《おぼ》えるのは、面倒臭《めんどうくさ》いと考える故《ゆえ》もあって、自信がありません。
 それでも、ノアノパリの絶壁《ぜっぺき》上に立ち、世界で三番目に強いと言われる風速何十|米《メエトル》かの突風《とっぷう》、顔をたえず叩《たた》かれ上衣《うわぎ》をしょっちゅう捲《ま》くられているような烈風を受けつつ、眺めた景色は髣髴《ほうふつ》と、今でも浮《うか》んできます。眼前に展《ひろ》がる蒼茫《そうぼう》たる平原、かすれたようなコバルト色の空、懸垂直下《けんすいちょっか》、何百米かの切りたった崖《がけ》の真下は、牧場とみえて、何百頭もの牛馬が草を食《は》んでいる。その牛馬一|匹《ぴき》々々の玩具《おもちゃ》のような小ささ、でもさすがに、獣《けだもの》の生々しい毛皮の色が、今も眼にあります。
 しかし、後方右側に聳《そび》えたつ、なんとか峰はたえず陽に輝き、左側のなんとか峰はたえず雨に降られている。これは、その昔《むかし》ハワイの王様なんとか一世が、なんとかいう蛮人《ばんじん》の酋長《しゅうちょう》を、火牛の戦法で、この崖から追い落した。で、陽の照っているほうは、なんとか一世の善霊《ぜんりょう》、鎮《しず》まり、雨に降られているほうは、蛮人なんとかの悪霊、鎮まるという、こんな伝説の固有名詞は全部忘れてしまいました。が、折からの驟雨《しゅうう》が晴れて、水々しい山頂をくっきりと披璃《はり》のような青い空に、聳えさせていた峰々のうるわしさは、忘れません。
 あなたはあのとき、びッしょり濡れて、善霊峰の下の洞穴《どうけつ》に、風雨を避《さ》けていた。スカアトの襞《ひだ》も崩れ、手巾《ハンカチ》を冠《かぶ》って強風にあおられている。あなたは、朝の印象もあって、ばかに惨めにみえました。が、その苦しさも、ハワイの素晴しい自然が、すぐ慰《なぐさ》めてくれ、甘いものとする。そう考えるほど、ぼくは自分のなかだけで、恋情を育てていたのです。

 午後から、ハワイのロオイング倶楽部《クラブ》に、招待されて練習に行きました。
 コオスはほんとうに、草花につつまれているのどかさで、小波《さざなみ》ひとつなく、目にみえる流れさえない掘割《ほりわり》でした。隅田《すみだ》川の濁流《だくりゅう》、ポンポン蒸汽、伝馬船《てんません》、モオタアボオト等に囲まれ、せせこましい練習をしていた、ぼく達にとって、文字どおり、ドリイミング・コオスといった感じです。艇《てい》は、固定席《フィックス》が滑席艇《スライデング》に移るまえにあった。ドギュウと日本では称しているような昔|懐《なつか》しいもの。それにオォルの握《にぎ》りも太く、ブレエドの幅《はば》も広く、艇は遅《おそ》いけれど、バランスがよく、舟足も軽い。まっさおい水の上に、艇をポオンと置いてから、約|一月《ひとつき》ぶりに、シャッシャッと漕《こ》ぎだすと、一本々々のオォルに水が青い油のように、ネットリ搦《から》みついて、スプラッシュなどしようと思っても、出来ないあんばい。三十本も漕ぐと、艇はたちまちコオスの端《はし》まで行ってしまう。河幅わずか十米あまり。漕いでいるオォルの先に、ぷうんと熱帯の花々が匂うばかりです。さすがに先輩《せんぱい》たちも感にたえたか、ぼくはいつもの叱言《こごと》一つさえ、聴《き》きませんでした。五番の松山さんが、突然「あーア」とおおきい溜息《ためいき》をつき、「おーイ、みんな、漕ぐのは止《や》めろッ、寝《ね》ろッ寝ろッ」と叫《さけ》びさま、オォルをぽおんと投げだし、ぼくの太股《ふともも》のうえに、もじゃもじゃの頭を載《の》せました。彼の鬼《おに》をも欺《あざむ》くばかりの貌《かお》が、ニコニコ笑うのをみると、ぼくは股の上の彼の感触《かんしょく》から、へんに肉感的《センシュアル》なくすぐッたさを覚え、みんなに倣《なら》って、やはり三番の沢村さんの膝《ひざ》に、頭をのせ仰向《あおむ》けになりました。と、そんな吝《けち》な肉感なんか、忽ちすッとんでしまうほど空はとろけそうに碧く、ギラギラ燃えていた。その空の奥に、あなたの顔の輪廓《りんかく》が、ぼおっと浮んだような気がしました。

 あなたに逢いたい、逢いたいと思っていた。そうしたら、ワイキキ・ビイチに行く途中、凱旋門《がいせんもん》のところで、あなたと内田さん達の一行に、ぱったり逢いました。ぼく達の自動車は、助手席の処《ところ》にぼく、うしろに三番の沢村さん、二番の虎さんなんかが乗っていた。あなたはその日、朝からずうっと萎《しお》れどおしのようでした。ただ、内田さんは、たいへん元気で、あなた達がつけたぼくの綽名《あだな》を呼び「ぼんぼん、アイスクリイムあげよう」と片手に、容器を捧《ささ》げてとんで来ました。ちょうど、車が動きだしたところだったので、はにかみながら腕《うで》を伸《の》ばした。ぼくには届かず、うしろの沢村さんが、ひッたくッてしまった。そして、なにか猥褻《わいせつ》なことを内田さんに言い、自分もすこし照れた様子で、わざと「うまい。うまい」と内田さんのほうに、みせびらかしながら、虎さんと食ってしまいました。虎さんも助平な事を言い、豪傑《ごうけつ》笑いしてから食っていた。
 ぼくは甚《はなは》だ、憤慨《ふんがい》したが、弱いのだから止むを得ません。ただ、半べそを掻《か》きつつ、「ひどいわ。意地悪」と叫んでいる内田さんに、たいへん愛情を感じました。
 しかし、それはその時に、沸《わ》き上がった感情です。あなたに対しては、心の中で、すでに、愛さなければならないという規範《きはん》を、打ち樹《た》てていたと思います。
 ホノルル・ブロオドウェイの十仙店《テンセンストア》で、ぼくは、紅《あか》のセエム革《がわ》表紙のノオトを買いました。初めて、米国の金でした買物、金五十仙|也《なり》。ぼくは、それをあなたとの、日記帳にしようと思って厭《いや》らしく、紅い色のものを買ったのです。しかし、それも後から憶《おも》えば買わなかったほうが、いや買ったにしても、なんにも書かぬ白紙《カイエブランシュ》のなかに、記憶《きおく》だけを止《とど》めておいたほうが、良かった結果になりました。

 翌月の午後は、個人外出を許され、船の出帆《しゅっぱん》時刻は、確か、七時でしたが、ひとりぼっちで歩いていても、面白《おもしろ》くなく、帰ったならば、案外また、あなたに逢えるかとも思うと、四時頃からもう帰船しました。
 午前中の甲板には、銭拾いの土人達が多勢、集まって来ていて、それが頂辺《てっぺん》のデッキから、真ッ逆様《さかさま》に、蒼い海へ、水煙《みずけむ》りをあげて、次から次へ、飛びこむと、こちらで抛《ほう》った幾《いく》つもの銀貨が海の中を水平に、ゆらゆら光りながら、落ちて行く。それを逸早《いちはや》く、銜《くわ》えあげたものから、ぽっかりぽっかりと海面に首を出し、ぷうっと口々に水を吐《は》きながら、片手で水を叩《たた》き、片手に金をかざしてみせる。とまた、忽ち猿《さる》の如《ごと》く甲板に攀《よ》じのぼってきては、同じ芸当を繰返《くりかえ》すのでした。その中に、ぼくは片足の琉球人《りゅうきゅうじん》城間《クスクマ》某《ぼう》という、赤銅色《しゃくどういろ》の逞《たくま》しい三十男を発見し、彼の生活力の豊富さに愕《おどろ》いたものです。
 然し、外出から帰ってみると、甲板には、もう土人達は一人もいず、その代りに第二世のお嬢《じょう》さんたちが、花やかに着飾って、まだ、あまり帰っていない選手達を取り巻いていました。
 真面目でもあるし、殊《こと》にフェミニストの坂本さんが、やはり、五六人のお嬢さん達に取り囲まれていましたが、ぼくの姿をみるなり「ああ坂本君」と呼んで「この人もボオトの選手です。大きいでしょう」とか、紹介《しょうかい》しておいて、自分は歓迎に来ている県人会の人達のほうへ行ってしまいました。ぼくは周囲の女性達をみるなり、坂本さんが、ぼくに委《まか》して、立ち去ったのが、すぐ諒解《りょうかい》できました。美醜《びしゅう》はとわず、とにかく、その頃の言葉で、心臓の強いお嬢さん達でした。
 いずれも二十歳前後の娘さんとみえますが、なかに一人、豊かに肥《こ》えた肩《かた》をむきだした洋装の、だぼ沙魚《はぜ》みたいなお嬢さんが、リイダア格で、「サインして下さいよう」とサイン帳をつきだすと、あとは我も我もと、キャアキャア手帳をつきつけます。「ぼくなんかサインしてもつまりませんよ」と、それでも押《お》しつけられるままに、ぼくが女持の万年筆を借りて、Xth Olympic, Japanese Rowing Team, No.4. S. Sakamoto と書きながら、驚いたのは、そのだぼはぜ嬢、「好《い》いのよ、好いのよ」と嬌声《きょうせい》を発し、「あなた、とても好いわ」とぼくの肩に手を置いた事です。馬鹿です。ぼくは相好《そうごう》崩して喜んだらしい。「チャアミングよ」というお嬢さんもいれば、「日本人で、こんなに大きい。スプレンディッド」という女《ひと》もいる。いよいよ、好い気持になって、ワアワアヘしあってくる娘さん達の、香油《こうゆ》と、汗《あせ》と白粉のムッとする体臭《たいしゅう》にむせていると、いきなり、また吃驚《びっくり》させられました。というのは、そのだぼはぜ嬢が、愈々《いよいよ》、瞳《ひとみ》に媚《こび》をたたえて、「けっして、助平とは思わないでね」とウインクをするのです。失礼! が、ぼくはふき出したい衝動《しょうどう》のあとで、泣き出したいような気になりました。だって、このお嬢さん達は、きっと祖国を知らないんだ。だから日本の礼儀《れいぎ》、日本の言葉もよく知らないのだろう。笑ってはいけない、と思いました。で、「ええ、思いませんとも」真面目に言いきりましたが、そういう口の端《は》から、へんに肉感的な微苦笑《びくしょう》が、唇を歪《ゆが》めるのを、押《おさ》えられませんでした。
 すると、そのだぼはぜ嬢はいきなり、ハンドバッグのなかから、自分の写真を取り出し、サインをしてくれます。と傍《そば》から、「わたしも上げる」とか言いながら、パアスを探すお嬢さんがいます。二三枚、貰った写真は、何《いず》れもブロマイド式に凝《こ》ったものですが、正直|綺麗《きれい》なひとは、一人もいませんでした。
 その上、「あなた、メモ貸して、ミイのアドレス書く」と、だぼはぜ嬢が切り出し、また、続けて、二三人が、達者な英語で、御自分のアドレスを書いてくれました。
「あなた、向うのアドレス、着いたら、教えて」とだぼはぜお嬢さんが言うのを、うんうん肯《うなず》いている中、ぼくは、そのグルッペの隅《すみ》に、ひとりの可憐《かれん》な娘を見つけました。
 美しい顔ではありませんが、色の黒い、瘠《や》せた顔に、子供らしい瞳が、くるくるしていて可愛《かわい》らしい。先刻から、だぼはぜさんの蔭にかすんで、悄然《しょんぼり》しているのが、今朝からのあなたの姿に連想され、「テエプ、この裡《うち》の一人に抛ってね」とだぼはぜ嬢が自信ありげに念を押したとき、よしあの娘《こ》に抛ろうと、とっさに決めたのでした。
 出帆の銅鑼《どら》が鳴りだしたとき、ぼくは白いテエプを、その娘に投げてやりました。淋《さび》しい顔立が、人混《ひとご》みに揉《も》まれ、船が離《はな》れて行けば、いっそう頼《たよ》りなげに見える、そのぼんやりした瞳に、ぼくが、テエプを抛ろうとすると、その瞳は、急に濡《ぬ》れてみえるほど、生々と光りだした気がしました。この娘は、まだ十七で、帰りに寄航したときも逢いましたし、内地に子供らしい手紙を度々《たびたび》くれました。
 あとで、船室に集まった皆が、ハワイでの収穫《しゅうかく》を話しあったとき、坂本さんが、ニヤニヤ笑いながら、ぼくとだぼ沙魚嬢のロオマンスを素《す》ッ破抜《ぱぬ》きました。こんな巫山戯《ふざけ》た話になると、みんなとても機嫌《きげん》よく、森さんが、先《ま》ず、「ほう、大坂《ダイハン》は、最近、大当りだな」とひやかせば、松山さん、「色男は違《ちが》うな」と、大口開いて笑うし、虎さんは、「ドレドレ」とだぼはぜ嬢の写真をとって見ようとする。「俺《おれ》にも貸せ」と梶さんが手を伸《の》ばす。「待て、待て」と横から覗《のぞ》いていた沢村さんが怒る。あとは、ワアッと大笑いでした。
 あなたとの友情も、こんなに巫山戯半分で、皆と共々に笑える余裕《よゆう》があったなら、あんなに皆から憎《にく》まれず、また、ぼくも苦しい想《おも》いをしなくても、済んだ、と思います。

     十

 それまでは皆《みんな》、ぼくを精々、嫉妬《しっと》するくらいで、別に詰問《きつもん》するだけの根拠《こんきょ》はなかったのですが、図《はか》らずも、ハワイで買った紅《あか》いセエム革の手帳が、それに役立つことになりました。
 ハワイを出て、海は荒《あ》れだしました。甲板《かんぱん》に出ても、これまで群青《ぐんじょう》に、輝《かがや》いていた穏《おだ》やかな海が、いまは暗緑色に膨《ふく》れあがり、いちめんの白波が奔馬《ほんば》の霞《かすみ》のように、飛沫《しぶき》をあげ、荒れ狂《くる》うのをみるのは、なにか、胸|塞《ふさが》る思いでした。船の針路を眺《なが》めると、二三間もあるような、大きなうねりが、屏風《びょうぶ》をおし立てたように、あとからあとから続いて来ます。
 さすが、巨《おお》きな汽船だけに、まア、リフトの昇降時《しょうこうじ》にかんじる、不愉快《ふゆかい》さといった程《ほど》のものでしたが、やはり甲板に出てくる人の数は少なく、喫煙室《スモオキングルウム》で、麻雀《マアジャン》でもするか、コリントゲエムでもやっている連中が多かったのです。
 そういう時、ぼくは独《ひと》り、甲板の手摺《てすり》に凭《もた》れ、泡《あわ》だった浪《なみ》を、みつめているのが、何よりの快感でした。あなたとは、もう遊べませんでした。で、ぼくは、あなたとレエスのことばかり、空想していました。ボオトは、勝負はとにかく、全力を出し切らねばならない。全力を出し、クルウが遺憾《いかん》なく、闘《たたか》えたとします。そうしたら日本に帰って、あなたと堂々と結婚《けっこん》できると思う。
 そんな風に楽しい空想を描《えが》いているときでも、絶えず、先輩達の眼、周囲の口が、想われて、それがなにより厭《いや》でした。こうした悪意に対して、ぼくは、それを、じっと受け応《こた》えるだけで、精一杯《せいいっぱい》でした。
 当時、ぼくは二十|歳《さい》、たいへん理想に燃えていたものです。なによりも、貧しき人々を救いたいという非望を、愛していました。だから、その頃《ころ》、なにか苦しい目にぶつかると、あの哀れな人達《プロレタリアアト》[#「哀れな人達」にルビ]を思えと、自分に言いきかせて、頑張《がんば》ったものです。
 それでいながら、例《たと》えば、舷側《げんそく》に沸《わ》きあがり、渦巻《うずま》き、泡だっては消えてゆく、太平洋の水の透《す》き徹《とお》る淡青さに、生命も要《い》らぬ、と思う、はかない気持もあった。
 船室では、同室の沢村さん松山さんが、いないときが多かったので、いつでも、自分の上段の寝室《しんしつ》にあがり、寝《ね》そべって、日記をつけていました。日記の書き出しには、こんなことが書いてありました。
※[#二重かっこ開く]ぼくはあのひとが好きでたまらない。この頃のぼくはひとりでいるときでも、なんでも、あのひとと一緒《いっしょ》にいる気がしてならない。ぼくの呼吸も、ぼくの皮膚《ひふ》も、息づくのが、すでに、あのひとなしに考えられない。たえず、ぼくの血管のなかには、あのひとの血が流れているほど、いつも、あのひとはぼくの身近にいる。それでいて、ぼくはあのひとの指先にさえ触《さわ》ったことはないのだ。むろん触りたくはない。触るとおもっただけで、体中の血が、凍《こお》るほど、厭らしい。なぜだか、はっきり言えないが。
 どこが好きかときかれたら、ぼくは困るだろう。それほど、ぼくはあのひとが好きだ。綺麗《きれい》かときかれても、判《わか》らない、と答えるだろう。利巧《りこう》かいといわれても、どうだか、としか返事できないだろう。気性が好きか、といわれても、さアとしか言えない、それ程、ぼくはあのひとについて、なんにも知らないし、知ろうとも、知りたいとも思わない。
 ただ、二人でよく故里《ふるさと》鎌倉《かまくら》の浜辺《はまべ》をあるいている夢《ゆめ》をみる。ふたりとも一言も喋《しゃべ》りはしない。それでいて、黙々《もくもく》と寄り添《そ》って、歩いているだけで、お互《たが》いには、なにもかもが、すっかり解《わか》りきっているのだ。あたたかい白砂だ。なごやかな春の海だ。ぼくは、その海一杯に日射《ひざ》しをあびているように、そのときは暖かい。
 が目ざめてのち、ぼくはあのひとの幻《まぼろし》だけとともに、まわりはつめたい鉄の壁《かべ》にとりかこまれ漸《ようや》く生きている気がする。
 ぼくみたいな男でも、かりにも日本の Delegation として戦うのだ。自分の全力の砕《くだ》けるまで闘わなければ済まない。恋《こい》なぞ、という個人的な感情は、揚棄《アウフヘエベン》せよ。それが、義務だという声もきこえる。それより、ぼくも棄《す》てたいと望んでいる。が、そう考えているときのぼくに、はや、あのひとの面影《おもかげ》がつきそっている。あのひとが、そう一緒に望んでくれる、と思うのだ。
 これからのぼくは、一心に、あのひとを、どっかに蔵《しま》い込《こ》もう。日本に帰る日まで、一個人に立ち返れるまで、とこの言葉を呪文《じゅもん》として、ぼくは、もう、あのひとの片影なりとも、心に描くまい※[#二重かっこ閉じ]
 そう書いた、次の日の日記に、
※[#二重かっこ開く]かにかくに杏《あんず》の味のほろ苦く、舌にのこれる初恋のこと※[#二重かっこ閉じ]
 もっと、ここに書くのも気恥《きはず》かしいほど、甘《あま》ったるい文句も書いてありました。で、ぼくは大切に、一々トランクの奥底《おくそこ》にしまい込んでいたのです。
 ところが、ある日の午後、例によって、ベッドから、脚《あし》をぶらんぶらんさせ、トランクを台にして日記を書いていると、いま外に出たばかりの松山さんと沢村さんが、カッタアシャツ一枚で、ぬッと入って来ました。
 ぼくは、あなたのことを、感傷的な形容詞で一杯、書き散らしていたところですから、なにか照れ臭《くさ》く、まごまごすると、慌《あわ》てて手帳をベッドの上の網棚《あみだな》に、抛《ほう》りあげ、そそくさ、部屋を出て行きました。
 二十分程してから、もういないだろうと、恐《おそ》る恐る、扉《とびら》をあけると、松山さんは、ぼくのトランクに腰《こし》をかけたままでしたが、沢村さんは、ぼくの顔を見るや、立ち上がって、なにかを、ぼくの寝台に抛りあげ、そのまま、下段の自分のベッドに転がり、松山さんと、意味ありげに顔を見合せ、ぼくのほうを振《ふ》りかえります。
 ぼくは、ばつが悪く、再び扉をしめ、出ようとすると、沢村さんが、「おい、大坂《ダイハン》」と呼びとめました。「え」といぶかるぼくに、「ああ、ぼくはあの女が好きでたまらない、か」と、ぼくの日記の一節を手痛く、叩《たた》きつけた。続いて、松山さんが、にこりともせず、怒《おこ》ったような口調で、「あア、好きで好きでたまらない、か」と言いざま、二人とも、声のない嘲笑《ちょうしょう》を、ぼくの胸にねじこむような眼付で、ぼくの顔をみながら、ドアをばたんと、乱暴に閉め、足音高く、出て行きました。
 ぼくはカアッとなり、屈辱《くつじょく》の思いにひかれ、ベッドの上から、紅いセエム革の手帳を、鷲《わし》掴《づか》みにし、一気に、階段をとんであがり、誰もいない、Cデッキの蔭《かげ》に行ってから、思いッきり手帳をとおくに投げつけました。
 手帳は、空中で風を受け、瞬間《しゅんかん》止まったようでしたが、ふっと吹《ふ》き飛ばされると、もう、遥《はる》かの船腹におちていました。沸騰《ふっとう》する飛沫に、翻弄《ほんろう》され、そのまま碧《あお》い水底に沈《しず》んで行くかと思われましたが、不意と、ぽッかり赤い表紙が浮《うか》び、浮いたり、沈んだり、はては紅い一点となり、消えうせ、太平洋の藻屑《もくず》となった。

     十一

 愚《おろ》かにもその晩、ぼくはよく眠《ねむ》れませんでした。
 翌朝、いつもの様に、朝の駆足《モオラン》[#「朝の駆足」にルビ]をやっているときです。あのときのオリムピック応援歌《おうえんか》(揚《あ》げよ日の丸、緑の風に、響《ひび》け君が代、黒潮越えて)その繰返し《リフレイン》[#「繰返し」にルビ]で、(光りだ、栄《はえ》だ)と歌うべき処《ところ》を、皆《みんな》は、禿《はげ》さんと蔭《かげ》で呼んでいる黒井コオチャアヘのあてこすりから、(光りだ、禿だ)と歌うのです。ぼくは黒井さんが好きでしたし、その若禿の為《ため》に、許婚《いいなずけ》を失ったという、噂話《うわさばなし》もきかされているので、唱《うた》う気にはなれません。
 と号令が速足進めに変り、「一《オイチ》、二《ニッ》、一《オイチ》、二《ニッ》」と、黒井さんが調子を張り上げます。「四番、もっと手を振って」と注意され、ぼくは勢いよく腕《うで》を振り上げようとすると、可笑《おか》しなことに、手と足と一緒《いっしょ》に動き、交互《こうご》にならないのです。例《たと》えば、右脚《みぎあし》をあげると、自然に右腕が上がって、左腕が上がらないのです。無理に、互い違いに動かそうとすると、手が上がらなくなるばかりではありません。歩けなくなるのです。
 その不恰好《ぶかっこう》なざまは、忽《たちま》ち、皆に発見され、どッと笑いものにされて了《しま》いました。
「頼《たの》むぜ、おい、女の尻《しり》追いかけるのもいいが、歩くのだけは一人前に歩いてくれよ」と森さん。「ボオトがろくに漕《こ》げもせんと思ったら、よう歩けもせんのか。それでもよう女だけ、出来るもんじゃ」と沢村さん。「貴様は、あまり女が好きだから、手も動かなくなるんじゃ。しっかり歩け。ぶち廻《まわ》すぞ」と松山さん。「やれやれ、なんと無器用かなア」と東海さん。等々。
 ぼくは、自分の神経が病気なのを、はっきり感じました。なんの為《ため》に。紅《あか》いセエム革《がわ》がちらつく気持でした。眩暈《めまい》が起ればよかったのです。がぼくは、そのまま歩き続けました。その中、黒井さんも手の上がらないのを注意しなくなり、皆のぶツぶツ言うのも聞えなくなりました。
 その日は、バック台も棒引も、目茶苦茶でした。棒引はいつも、腕力のそう違わない沢村さんが相手なのに、その日は、力も段違いな松山さんが、前のバック台に坐《すわ》り、「ほれっ、引いてみろ」と頑張《がんば》り、木株のような腕を曲げ、鼻の穴を大きくして、睨《にら》みつけます。その瞳《ひとみ》には、むしろ敵意さえ感じられました。ちょッと縄《なわ》を緩《ゆる》めてからパッと引くと訳ないのですが、それをやると、ひどく皆から怒《おこ》られ、何遍《なんべん》でも遣《や》りなおしです。黒井さんが、「もう好い」と言うまで、ぼくは油汗《あぶらあせ》をだらだら流しづめでした。
 晩になって、B甲板《かんぱん》の捲揚台《ウインチ》のまわりに、皆が集まっているので、行ってみると、腕角力《うでずもう》の最中でした。初め、KOの八郎さんと、十九歳の美少年上原――彼はぼく同様新人ですが、商工部のときから漕いでいるし、ボオトも上手で、皆から愛されていました。――の二人がやって、八郎さんが負けると、「うん、上原はなかなか強い。俺《おれ》とやろう」と松山さんが節くれだった毛深い腕を出します。「いやア」と上原も顔負けしながら、やっていると、やはり、問題ではなく、松山さんが強い。
 松山さんは機嫌《きげん》よく、上原を賞《ほ》めていましたが、ぼくと視線が合うと、忽ち、不機嫌な顔付になって、「おい、大坂《ダイハン》、上原とやってみい。お前の方が一ツ歳上《としうえ》じゃないか」ときめつけます。ぼくは今朝以来、自信が、少しもないので、「いや、上原君のほうが強いですよ」とべそかき笑いをしますと、「ばか、貴様は、女の尻に喰《く》いつくだけが、得意なんだな」と罵《ののし》り、豪傑《ごうけつ》笑いしてから、上原なんかと行ってしまいました。
 周囲には、女の選手達、殊《こと》にちびの中村さんも居ましたので、ぼくは完全に度を失い、立ち去ろうとすると、中村さんが、少女らしく、傍《そば》にいる七番の坂本さんに、「ぼんちは身体《からだ》が大きいけれど、弱いの」と訊《たず》ねます。坂本さんは、ぼくをからかうように、「大坂《ダイハン》は温和《おとな》しいもんな」と笑います。すると隣《となり》にいた沢村さんが、大きな声で、「青大将なのよ」とぼくのいちばん嫌《きら》う綽名《あだな》を呼んでから、気持よさそうに笑い出しました。「まあ、青大将」誰《だれ》か、女のひとが、そう言って、くすッと笑うのに、羞恥《しゅうち》で消え入りそうになりながら、ぼくは漸《ようや》く、そこから逃《に》げ出したのです。
 ひとりで、暗い海を暫《しばら》くみてから、寝《ね》に帰ろうと、喫煙室《きつえんしつ》のなかを通り抜けていると、一隅《いちぐう》で沢村、森、松山、東海さん達が、麻雀《マアジャン》をやっていましたが、「おい、おい」と河村さんが、ぼくを呼びとめます。
 どうせまた、嘲弄《ちょうろう》されるとおもいましたが、知らん振りもできないので、近よると、「おい、さっき中村がお前のことを、ボンチと呼んでいたが、あれはお前の綽名か」とききます。「さアどうですか」と白ばっくれるのに、「どういう意味か、知ってるか」とニヤニヤ皆と目くばせしてから、尋《たず》ねます。関西弁で、坊《ぼっ》ちゃんという事じゃないですか、と正直に答えようと思いましたが、また反感を買ってもと思い、「知りません」と些《いささ》かくすぐつたい返事をすると、横から、東海さんが、大声で、「あれは関西で、白痴《はくち》のことを言うんだよ」と言えば、沢村さんも、「そうとも、ボンチはつまりポンチと同じことじゃ。阿呆《あほう》のことをいうんだぞ」と大笑い。と、森さんが、したり顔で、「ああ、それで解《わか》った。女の選手達が、大坂《ダイハン》のことをボンチとか、ボンボンとか呼んでいるのは、そういう意味か」と、言えば、松山さんも荒々《あらあら》しく、「大坂《ダイハン》よ、お前は惚《ほ》れている女から、いつも馬鹿と呼ばれているんだぞ」と罵り、そこで皆から、ひとしきり嘲笑の雨。
 ぼくは、しばしポカンとしていましたが、堪《た》え切れなくなると、「そうですか」と一言。泣きッ面《つら》をみられないようにまた暗い甲板に。
 靄《もや》の深い晩なので、Aデッキから、ボオト・デッキに上がり、誰にも見られず、索具《さくぐ》の蔭で悲しもうと、近づいて行くと、向うから、靴音《くつおと》がきこえて来た。
 やがて、靄の底から、ぼんやり現われたのは、立派な白髯《しらひげ》を生《はや》した、紅毛のお爺《じい》さんでした。ぼくのしょんぼりした姿をみると、にこにこ笑いながら「How do you do?」と太い声できく。外人と話し合うのは初めてでしたが、先方の好意が感ぜられて嬉《うれ》しく、「Thank you, Sir. I'm very well,」と、サアをつけました。「That's good.」と、お爺さんは、重々しくうなずいて、「Are you a delegation of Japanese Olympic Team?」と尋ねます。「Yes, I am.」と言ってから、ニッコリ笑ってしまいました。すると、「What's team?」と訊《き》いたような気がするので、「Boat Crew.」と答えますと、「What's?」と小首を傾《かたむ》けます。おや、間違ったかなと想い、出来るだけ叮嚀《ていねい》に、「Please say once more.」と頼むと、からから笑い、サッカアと蹴《け》る真似《まね》をしたり、ボクシング、と撲《なぐ》る真似をします。やはりそうかと、朗《ほが》らかになり、「I am a oarsman Rowing.」と漕ぐ恰好をすると、大袈裟《おおげさ》な身振りで、「Oh! I see. It's really splendid!」とぼくの肩《かた》を叩《たた》いてから、顔を覗《のぞ》き込み、「What's the matter with you?」と気づかってくれる様です。こうなれば、なんでも叮嚀に言うに限ると思いましたから、「Thank you, Sir. Never mind, please. I am very glad to see you. How a lovely night!」とか、こんな靄の深い、厭《いや》な晩なのも忘れ、お世辞をいいました。と、お爺さんは、またアッハーと笑い、「I think so, too.」と答えると、「O.K. boy, good night.」と笑い続け去って行きます。
 暫く、靴音が遠くなってから、とても若々しいハミングが、フウフウフフン、ウフフフフンとか聴《きこ》えて来ました。いつか佐藤が、食堂で、亜米利加《アメリカ》人のハミングの真似をして、事務員に叱《しか》られた事を思い出し、ぼくの出鱈目《でたらめ》英語も可笑《おか》しく、ぼくはプウと噴《ふ》き出すと、すっかり気分がよくなって、寝に帰ったのです。
 しかし、翌日も、またその次の日も同じような皆の悪意が露骨《ろこつ》で、病的になったぼくの神経をずたずたに切り苛《さい》なみます。あなたに、逢《あ》えないまま、海の荒れる日が、桑港《サンフランシスコ》に着くまで、続きました。

     十二

 ぼくは、もう日本に帰る迄《まで》、あなたとは口を利《き》くまいと、かたく心に誓《ちか》ったのです。日本を離《はな》れるに随《したが》って、日本が好きになるとは、誰しもが言う処《ところ》です。幼いマルキストであったぼくですが、――ハワイを過ぎ、桑港《サンフランシスコ》も近くなると、今更《いまさら》のように、自分は日本選手だ、という気持を感じて来ました。
 その頃《ころ》、ぼくは、人知れず、閑《ひま》さえあれば、バック台を引いて、練習をしていました。ようやく静まってきた波のうねりをみながら、一望千里、涯《はて》しない大洋の碧《あお》さに、甘《あま》い少年の感傷を注いで、スライドの滑《すべ》る音をきいていたのも、忘れられぬ思い出であります。
 船が桑港《サンフランシスコ》に入る前夜、ぼくは日本を発《た》つとき、学校の先生から頼《たの》まれた、羅府《ロスアンゼルス》にいる先生の親戚《しんせき》への贈物《おくりもの》、女の着物の始末に困って、副監督《ふくかんとく》のM氏に相談しました。M氏は、それを誰か女の選手に、彼女《かのじょ》の持物として、預かって貰《もら》えと言います。浅ましい話ですが、ぼくはそれをきくと、眼の色が変るほど、興奮しました。あなたに預かって貰えたら、と思ったのです。口を利かずともどんな形にでも、あなたと繋《つな》がっているものが欲《ほ》しかった。ぼくは、その着物に潜《ひそ》ませる、恋文《こいぶみ》のことなど考えて、その夜も、また眠《ねむ》れませんでした。
 もう二時間|程《ほど》で、桑港《サンフランシスコ》に入るという午後、ぼくは、M氏から、誰という名前はきかず、その着物を預かって貰えるからとの話で、着物をお願いしました。
 がっかりすると言うより、ぼんやりして、海を見ていると、舵手《だしゅ》の清さんがやって来て、肩《かた》を叩《たた》きます。「どうしたんだい、坂本さん」微笑《ほほえ》んでいる清さんは、本当に、ぼくを気遣《きづか》ってくれるのでしょう。「いや、別に」とぼくは、だらしなく悄気《しょげ》た声を出しました。「ばかに、元気がないじゃないか」「ええ」とうなずいて、清さんの顔をみていると、このひとに、なにもかにも打明けたら、さっぱりするだろうという、気がふッと致《いた》しました。
 と、清さんは、急に真顔になって、「坂本さん。ちょッと話があるんだ。来てくれませんか」と先に立ち、上甲板《じょうかんぱん》に登って行きます。ああ、そのことかと、胸にギクリ来ましたが、結局、言われたほうが、楽になると思い、ついて行くと、ボオト・デッキから更に階段をあがり、船の頂上、プウルのある甲板にでました。方二間位のプウルには、青々と水が湛《たた》えられ、船の動揺《どうよう》にしたがって、揺《ゆ》れています。周囲にベンチが二つ、置かれてあるだけの狭《せま》い甲板です。「まア、掛《か》けましょう」といわれ、並《なら》んで腰《こし》を降ろしたまま、しばらく沈黙《ちんもく》が続きました。もう港が近いとみえ、鴎《かもめ》が遥《はる》か下の海上を飛んでいるのが見えます。
「少し、話し悪《にく》いことなんですが――」と前置きをして、清さんは切り出しました。「実は、あんたのことで、変な噂《うわさ》があるのを前からきいていましたが、坂本さんに限って、そんな莫迦《ばか》はしないと、ぼくはいつも打消していました。
 ところが、この頃、あんまり、森さんや、松山さん達が、心配するんでね、ぼくも、もう米国に着いたことだし、ここで、坂本さんにしっかりして貰えなきゃ困るんで、今日、改まって、訊《き》く訳ですが、一体、あの噂は、何処《どこ》ら辺までが本当なんです」
 ぼくも、こんな風に言われると、やはり、自分の精神的な、苦悩《くのう》は大切に蔵《しま》っておきたく、それとはあべこべに、あなたとの楽しかった遊びが、次から次へと、走馬燈《そうまとう》のように想《おも》い出され、清さんのそれからの御意見も、いつしか空吹く風と、きき流したくなりました。と、不意に、(意見せられて、さし俯向《うつむ》いて――)という、おけさの一節が、頭に浮《うか》びました。(泣いていながら主《ぬし》のこと)なにか訴《うった》えるものが欲しかった。自然《ネイチュア》よ! と眼をあげた刹那《せつな》、映じた風景は、むろん異国的ではありながら、その癖《くせ》、未生《みしょう》前とでもいいますか、どこかで一回は眺《なが》めたことがあるという感懐《かんかい》が、肉体を痺《しび》れさせるほど、強くおそいました。
 みよ、この時、髣髴《ほうふつ》と迫《せま》ってくるものは、水天青一色、からりと晴れ、さわやかに碧い、みじんも湿《しめ》りッ気を含《ふく》まぬ、おおらかな空気のなかに、真ッ白い国が浮びあがってくる。夢《ゆめ》のような美しさだ。夢がこれほど実感を伴《ともな》って、みえたことはないというのは、オリムピックを通じての感想ではありましたが、それをこの時ほど、如実《にょじつ》に感じたことはありません。
 白い国! 蜃気楼《ミュアジュ》もかくや、――など陳腐《ちんぷ》な形容ですが、事実、ぼくは蜃気楼《ミュアジュ》をみた想いでした。背後には、青空をくっきりと劃《かく》した、峰々《みねみね》の紫紺《しこん》の山肌《やまはだ》、手前には、油のようにとろりと静かな港の水、その間に、整然とたち並んだ、白いビルディング、ビルディング、ビルディング。それがいかにも、摩天楼《スカイスクレエパア》という名にふさわしく、空も山も、為《ため》にちいさくみえる豪華《ごうか》さです。その頭上に、七月の太陽が、カアッと一面に反射して、すべては絢爛《けんらん》と光り輝《かがや》き、明るさと眩《まぶ》しさに息づいているのです。ぼく達の大洋丸は、悠々《ゆうゆう》と、海を圧して、碇泊中《ていはくちゅう》の汽船、軍艦《ぐんかん》の間を縫《ぬ》い、白い鴎に守られつつ、進んで行きます。
 しかし、実のところ、ぼくは鴎も船も港も山も、なに一つ覚えてはおりません。只《ただ》、青い海に浮んだ白い大都市が、燦然《さんぜん》と、迫ってきた、あの感じが、いつもぼくに、ある永劫《えいごう》のものへの旅を誘います。金門湾、桑港《サンフランシスコ》! と、ぼくは、昔《むかし》なつかしい名を口にして、そのときも、今、聞かされている意見より、もっと、悠久なものについて考えていました。清さんも、同じ種類の感動に襲《おそ》われたのか、ぼくに、「ほら、もう桑港《サンフランシスコ》じゃないか。元気をだしなよ」と肩を叩いて話を打ちきり、二人はしばし、唇《くちびる》を噤《つぐ》み、じっと、この新しい大陸をみつめていました。

     十三

 税関の検査も、愛想の好《よ》い税関吏達の笑いの中に済んで、上陸したぼく達の前には、ただ WELCOME の旗の波と、群集の歓呼《かんこ》の声が充《み》ち満ちていました。市長さんから、大きな金の鍵《ゴオルデンキイ》[#「金の鍵」にルビ]を頂くまでの市中行進も、夢《ゆめ》のような眩惑《げんわく》さに溢《あふ》れたものでしたが、そのうち、忘れられぬ一つの現実的な風景がありました。
 桑港《フリスコ》の日当りの好い丘《おか》の下に、ぼく達を迎《むか》えて熱狂《ねっきょう》する邦人《ほうじん》の一群があり、その中に、一人ぽつねんと、佇《たたず》んでいる男がいた。潰《つぶ》れた鼻に、歪《いび》つな耳、一目でボクサアと判《わか》る、その男は、あまりにも、みすぼらしい風体《ふうてい》と、うつろな瞳《ひとみ》をしていました。
 一行中の朴拳闘《ぼくけんとう》選手が、この男をみるなり、「金徳一だ!」と叫《さけ》び、駆《か》けよって手を握《にぎ》っていましたが、その男の表情は、依然《いぜん》、白痴《はくち》に近いものでした。金徳一は、知る人ぞ知る、先のバンタム級の世界ベストテンに数えられた名選手でした。リングでの負傷が祟《たた》って落ち目が続き、帰国の旅費もないとやら。ぼくは、絢爛《けんらん》たる、あの行進の最中、彼《かれ》の幻《まぼろし》が、暗示するものを、打消すことが出来なかったのです。
 桑港《フリスコ》の夜、船から降りたった波止場の端《はず》れに、ガアドがあって、その上に、冷たく懸《かか》っていた、小さく、まん円《まる》い月も忘れられません。斜《なな》め下には、教会堂の尖塔《せんとう》も鋭《するど》く、空に、つき刺《さ》さって、この通俗的な抒情画《じょじょうが》を、更《さら》に、完璧《かんぺき》なものにしていました。
 月の色が、どこで、どんなときにみても、変らないというのは、人間にとって、甚《はなは》だもの悲しいことです。
 黄色《イエロオ》タクシイの運転手に、インチキ英語《ブロオクンイングリッシュ》[#「インチキ英語」にルビ]を使って、とんでもない支那街《シナがい》に、連れこまれたことも、市場通り《マアケットストリイト》[#「市場通り」にルビ]で、一本五十|仙也《セントなり》の赤ネクタイを買ったことも、今は懐《なつか》しい思い出のひとつです。
 しかし、その夜、フォックス劇場《シアタア》できいた『君が代』の荘厳《そうごん》さは、なお耳底にのこる、深刻なものがありました。シュウマンハインクとかいう、とても肥《ふと》ったお婆《ばあ》さんで、世界的な歌手が、我々が入場して行くと、日の丸の旗と、星条旗を両手に持ち、歌ってくれたのです。満場の視線が、明るいライトを浴びた我々に集まり、むずかゆい様な面映《おもは》ゆさでした。が、その明るい光線を横ぎって、身体《からだ》をすぼめ、腰《こし》を降ろした、あなたの黒い影が、焼きつくように、ぼくの網膜《もうまく》に残っていました。あなたは、随分《ずいぶん》、窶《やつ》れていた。
 翌日、南加《サウスカルホルニア》大学で、艇《てい》を借りられるとのことで、練習に行きました。金門湾を廻《まわ》って、オオクランドに出て、一路|坦々《たんたん》、沿道の風光は明媚《めいび》そのものでした。鵞鳥《がちょう》が遊ぶ碧《あお》い湖、羊《ひつじ》の群れる緑の草原、赤い屋根、白い家々。大学もそんなユウトピアの中にあります。
 艇を借りるとき、世話を焼いてくれた、親切な南加大学の補欠漕手《サブそうしゅ》の上背も、六尺八寸はあり、驚《おどろ》かされたことでした。
 練習コオスは流れる淀《よど》み、オォルがねばる、気持よさです。久し振《ぶ》りに、はりきった、清さんの号令で、艇は船台《ランディング》を離《はな》れ、下流に向いました。
 と、突然《とつぜん》、漕《こ》ぎすぎようとする橋の上に、群れていた観衆が、なつかしい母国語で、「万歳《ばんざい》」を叫んでくれます。みれば、顔の黄色い、日本人ばかり。おおかた、聞き伝えて、近在から寄り集まった移民のお百姓達《ひゃくしょうたち》でありましょう。質素な服装《ふくそう》、日に焼けた顔、その熱狂ぶりも烈《はげ》しくて、彼等の朴訥《ぼくとつ》な歓迎には、心打たれるものがありました。
 ぼくは、愈々《いよいよ》、あなたを忘れねば、と繰返《くりかえ》し、オォルに力を入れて、スライドを蹴《け》っていたときです。前のシイトの松山さんが、「止《や》めい、止めろ」と叫びざま、オォルを投げだすや、振返って、ぼくを睨《ね》めつけ、「貴様、一人で、バランスを毀《こわ》していやがる。そんなに女が気になるか」ぼくには一言もない怒罵《どば》でした。森さんがまた、「大坂《ダイハン》、貴様これからあの女と口を利《き》くな。顔もみるな。少しは考えろ」と喙《くちばし》を入れるのに松山さんが続けて、「貴様の為《ため》にクルウの調子が狂《くる》って、もし、負けたら、手足の折れるまで、撲《なぐ》りたおすから、そう思え」それから、なんと叱《しか》られたか忘れました。ただ、河口に並《なら》んだ蒸汽船の林立する煙突《えんとつ》から、吐《は》く煙《けむり》が、濛々《もうもう》と、夕焼け空を暗くしていたのを、なんとなく憶《おぼ》えています。

 翌日、スタンフォド大学に、全米陸上競技大会を、見学に行きました。
 熊《くま》や鹿《しか》が棲《す》むという、幽邃《ゆうすい》な金門公園を抜《ぬ》けて、乗っていたロオルスロオイスが、時速九十|粁《キロ》で一時間とばしても変化のないような、青草と、羊群のつづく、幾《いく》つもの大牧場を通って――途中《とちゅう》でだいぶ自動車を停《と》めた露骨《ろこつ》なランデェブウにもお目にかかりました。――厭《いや》だった。――そしてスタンフォドに着いたら、大学の森中、数千台の自動車で埋《うま》っている人出でした。
 スタンドで、あなたの水色のベレエ帽《ぼう》が、眼の前にあった。それだけを憶えています。競技はろくに憶えていません。ただ、赤いユニホォムを着た、でぶの爺《じい》さんが、米国一流のハムマア投げ、と、きかされ、もの珍《めずら》しく、眺《なが》めていたのだけ記憶《きおく》にあります。
 そのうち、隣席《りんせき》にいた、副監督《ふくかんとく》のM氏が、ぼくに、御愛用《ごあいよう》の時価千円ほどのコダックを渡《わた》して便所に行ったそうです。そうです、というのは、それほど、その時のぼくの頭には、あなたの水色のベレエが、いっぱいに詰《つま》っていたのです。あなたの盗《ぬす》み見た横顔は、苦悩《くのう》と疲労《ひろう》のあとが、ありありとしていて、いかにも醜《みにく》く、ぼくは眼を塞《ふさ》ぎたい想いでした。

 船に帰って、ピンポンをしていると、M氏が来て「坂本君、コダックは」と訊《き》きます。愕然《がくぜん》、ぼくは脳天を金槌《かなづち》でなぐられた気がしました。預かった憶えは、ないと言えばよかったのですが、言われた途端《とたん》、ハッとしたものがあって、――卑劣《ひれつ》なぼくは、「村川君に、じゃなかったのですか」と苦し紛《まぎ》れに嘘《うそ》を吐《つ》きました。M氏は、「そうだったかな」と気軽く言い、小首を捻《ひね》りながら、村川を捜《さが》しに行きましたが、ぼくは、居たたまれず、船室に駆けこみ、頭を押《おさ》えて、七転八倒《しちてんばっとう》の苦しみでした。
 お金持のM氏は、誰に預けたかを、そのまま追求もせず、諦《あきら》めておられたようですが、ぼくは良心の苛責《かしゃく》に、堪《た》えられず、あなたへの愛情へ、ある影を、ずっと落すようになりだしました。
 それから、ぼくの眼は、あなたを追わなくなりました。しかし、心は。

     十四

 ロスアンゼルスヘの外港、サンピイドロの海は、巨艦《きょかん》サラトガ、ミシシッピイ等の船腹を銀色に光らせ、いぶし銀のように燻《くす》んでいました。曇天《どんてん》の故《ゆえ》もあって、海も街も、重苦しい感じでした。
 ぼく達《たち》は、ロングビイチの近くにある、フォオド工場の提供してくれた、V8の新車八台に分乗して、工場の見学後、ロングビイチの合宿に着きました。
 日本人のコックさんが、広島弁丸出しの奥《おく》さんと一緒《いっしょ》に、すぐ、久し振《ぶ》りの味噌汁《みそしる》で、昼飯をくわしてくれました。娘《むすめ》の花子さんは十五|歳《さい》でしたか、豊頬黒瞳《ほうきょうこくとう》、まめまめしく、ぼく達の汚《よご》れ物の洗濯《せんたく》などしてくれる、可愛《かわい》らしさでした。
 翌日、マリンスタジアムに練習始め。ぼく達よりも、近所の邦人《ほうじん》の方々が、張り切って、自家用車で、練習場まで、送って下さるやら、スタンドに陣取《じんど》って声援《せいえん》して下さるやら、それよりも騒《さわ》いでくれたのが、隣《となり》近所のメリケン・ボオイズ、ガアルズ達で、映画のアワア・ギャングもかくや、と思われる顔触《かおぶ》れが、脱衣場《だついじょう》にまで、入りこんで、パンツの世話まで、手伝ってくれるのには顔負けでした。
 コオスは掘割《ほりわり》になっていて、流れは殆《ほとん》どありません。大体、二千|米《メエトル》の長さしかなく、なんども、往復して練習をしました。すでに、ブラジル、英国、独逸、カナダ等、各国の選手達は集まっていて、彼等《かれら》の大きな身体《からだ》には、平均五尺八寸、十六貫六百のぼく達も、子供のように見えるほどでした。
 それに、彼等が奥さんや、恋人御同伴《こいびとごどうはん》なのも、すぐ眼につきました。
 しかし、ぼく達も、隅田川《すみだがわ》での恋人、「さくら」が、一足先きに艇庫《ていこ》に納まり、各国の競艇のなかに、一際《ひときわ》、優美《エレガント》な肢体《したい》を艶《つや》やかに光らせているのをみたときは、なんともいえぬ、嬉《うれ》しさで、彼女のお腹を、ペたペたと愛撫《あいぶ》したものです。

 ある国の選手達は、ロングビイチの海水浴場に入りびたり、ビイチ・パラソルの蔭《かげ》に、いかがわしい娘たちと、おおっぴらな抱擁《ほうよう》をしていたのを、見たこともあります。練習場の入口におしよせる観衆のなかから、唇《くちびる》と頬《ほお》の真《ま》ッ紅《か》な、職業女《プロスチチュウト》を呼びだして、近くの芝生でいちゃついていた、外国の選手達もみました。
 微笑《ほほえ》ましかったのは、米国のスカアル選手のダグラスさん、六尺八寸はあろうと思われる長身|巨躯《きょく》が軽々と、左手にスカアル、右手に、美しい奥さんを抱《だ》いて、艇庫から、船台まで運び、そこで別れの接吻《ベエゼ》などしてから、お互《たが》いに、片手をあげては、スカアルの小さくなるまで、合図を交《かわ》していました。
 独逸クルウの誰《だれ》かの愛人《リイベ》とみえる、一人のゲルマン娘は、いつも毅然《きぜん》としていて、練習時間には、慎《つつ》ましく、ひとり日蔭|椅子《いす》に坐《すわ》り、編物か、読書に耽《ふけ》っていて、その端麗《たんれい》な姿にも、心打たれるものがありました。
 然《しか》し、ぼく達は、向うの新聞に、オォバアワアクであると、批評されたほど、傍目《わきめ》もふらずに練習を重ねるのでした。外国のクルウが、一、二回コオスを引いて、一日の練習を終るのに、ぼく達は午前中に四回、午後に四回とコオスを引き、それでも、隅田川にいた頃《ころ》に較《くら》べれば、軽すぎるほどでした。タイムは、それにも拘《かかわ》らず、遊んでいるような外国クルウに比し、全然、劣《おと》っておりましたが、ぼく達は、努力しすぎて負けることを、少しも恥《はじ》とせぬ潔《いさぎよ》い気持でした。ぼくも今は、ただ、ボオトを漕《こ》ぐことだけに夢中になれたのでした。

 練習帰りのある日。いつもの様に、独りとぼとぼ、歩いていると、背後から、飛ばしてきた古色|蒼然《そうぜん》たるロオドスタアがキキキキ……と止って、なかから、噛《か》み煙草《たばこ》を吐《は》きだし、禿頭《はげあたま》をつきだし、容貌魁偉《ようぼうかいい》な爺《じい》さんが、「ヘロオ、ボオイ」と嗄《しゃが》れた声で、呼びかけ、どぎまぎしているぼくを、自動車に乗れ、と薦《すす》めるのです。遠慮《えんりょ》なく、乗せて貰《もら》うと、目貫《めぬ》きの通りにドライブしながら、ぼくの胸にさした日の丸のバッジを見詰《みつ》め、「俺《おれ》は日本が好きだ。若いとき、船乗りだったから、横浜や、神戸《こうべ》に、度々《たびたび》行ったよ。ゲイシャガアルは素晴しいね」とか言い、皺《しわ》くちゃの顔いっぱいに、歯の疎《まば》らな口を開け、笑ってみせます。とうとう、煙草の脂臭《やにくさ》い鼻息に閉口しながらも、親切な爺さんの怪《あや》し気な日本回想記をきかされ、途中《とちゅう》でアイスクリイムまで奢《おご》って貰い、合宿まで送り届けられたのでした。
 こうして、ぼくはあなたのことを忘れ、只管《ひたすら》、練習に精根を打ちこんでいた頃、日本から、初めての書簡に、接しました。
 合宿前の日当りの好《よ》い芝生《しばふ》に、皆《みんな》は、円く坐って、黒井さんが読みあげる、封筒《ふうとう》の宛名《あてな》に「ホラ、彼女《かのじょ》からだ」とか一々、騒ぎたてていました。東海さんの処《ところ》へは、横浜で、テエプを交した女学生七人から、連名のファン・レタアも来たりしました。松山さんにも、シャ・ノアルの女給さんから、便りがあり、皆に冷かされて、嬉しそうでした。
 その中、ぼくの名前でも一通、「おや、これは日本からとは違《ちが》うぞ」とぼくを見た、黒井さんの眼が、心なしか、光った気がしました。と、坂本さんが、ぼくの肩《かた》を叩《たた》き、「秋子ちゃんからじゃないか」と笑いながら、言います。皆の顔が、一瞬《いっしゅん》、憎悪《ぞうお》に歪《ゆが》んだような気がしました。我慢《がまん》できないような厭《いや》らしい沈黙《ちんもく》のなかで、ぼくは手紙を受取ると、そのまま、宿舎に入り、便所に飛びこんで、鍵《かぎ》を降しました。
 風呂場《シャワルウム》と兼用《けんよう》になっている、その部屋で、ぼくは冷っこい便器に、腰《こし》を掛《か》けると、封筒を裏返してみました。ただ、K生より、となっています。ぼくはてっきり、あなたからだと信じこみ、胸|躍《おど》らせ、封を切る手も、震《ふる》わせ、読み下して行くと、なんだ、がっかりしました。と言っては悪いでしょう。船で知り合った、中学の先輩《せんぱい》、Kさんからの親切な激励状《げきれいじょう》だったのです。再び、表の芝生にでた、ぼくの顔は蒼褪《あおざ》めていたかも知れません。坂本さんから、また、「大坂《ダイハン》、顔色変ったね」とひやかされました。
 二三日|経《た》って、午後の練習を終え、ヘンリイ山本君の運転する、ロオドスタアの踏段《ふみだん》に足を載《の》せ、合宿まで、帰ってくると、庭前の芝生に、花やかな色彩を溢《あふ》れさせた、女子選手の人達が、五六人、来ていて、先に帰ったクルウの連中に、囲まれ、喋《しゃべ》り合っているのが、ハッと眼につきました。ぼくは、もう、途端《とたん》に、自動車から、飛び降りたい位、気持が顛倒《てんとう》しました。
 しかし、直《す》ぐ、あなたの来ていないのに気づくと、笑いかける内田さん、中村|嬢《じょう》の顔にも答えず、真《ま》ッ赧《か》な顔をして、そのまま宿舎にとび込《こ》みました、と、後ろから、花やいだ笑い声が、追い駆けてきて、「ぼんち、秋っペがいないんで、腐《くさ》ってるのね」確か、中村嬢の声でした。続いて東海さんの低音《バス》が、小声でなにか言っています。また、なにかぼくの蔭口ではないかと、焦々《いらいら》している耳に、内田さんの声が、「熊本さん、この頃、とても、しょげているのよ。可哀《かわい》そうよ」「ぼんちのことで」と誰か女のひとが、訊《き》き返している様でした。ぼくは耳を塞《ふさ》ぎ、声を大にして、「煩《うる》さいッ」とでも、怒鳴《どな》りつけてやりたかった。続いて、聞えてきたのは、太い調子のひそひそ声で、なにか陰険《いんけん》な悪口か、猥褻《わいせつ》な批判らしく、無遠慮に響《ひび》いてくる高らかな皆の笑い声と共に、ぼくは又《また》、すっかり悄気《しょげ》てしまったのです。
 女の人達が帰ってから、ぼくの狸寝《たぬきね》をしている部屋に、松山さんと、沢村さんが入って来ました。松山さんは、殊《こと》の他《ほか》、御機嫌《ごきげん》で、「村の祭が、取り持つ緑《えん》で――」という、卑俗《ひぞく》な歌を、口ずさんでいましたが、ぼくの寝姿をみるなり、「オリムピックが取り持つ縁で、嬉しい秋ちゃんとの仲になり」と歌いかえてから、沢村さんと顔見合せ、ゲラゲラ笑いだしました。ぼくは、不愉快《ふゆかい》そのもののような気持で、ベッドに引繰《ひっく》り返ったまま、眼を閉じていると、松山さんは、なおも、手近にあった通俗雑誌を手にとり、ぼくの横にわざと、ごろりと寝て、いかにも精力的らしい体臭《たいしゅう》をぷんぷんさせながら、雑誌をめくり、適当な恋愛《れんあい》小説をみつけると、その一節を、こんな風に読みかえて、ぼくを嘲弄《ちょうろう》しようとしました。
「そう言うと、熊本秋子は、坂本の胸に深く顔をうずめた。その白いうなじに、坂本は接吻《せっぷん》したい誘惑《ゆうわく》を烈《はげ》しく感じたが、二人の純潔《じゅんけつ》のために、それをも差し控《ひか》えて、右の手を伸《の》ばし、豊穣《ほうじょう》な彼女の肉体を初めて抱きしめたのである」
 ぼくは泣きだしたい気持でした。松山さんはなおも、厭《いや》らしく女の声色も使って、「『いやですわ。いやですわ』と秋子は叫《さけ》びながら、坂本の胸を両手でおしつけた。秋子の薫《かお》るような呼吸が感ぜられ、坂本は悩《なや》ましいほど幸福な気がした。
『今ではいけないのでしょうか』
『いいえ、日本にお帰りになってから』」
 あえて、ぼくは神聖な愛情とは呼びません。しかし、子供めいたお互《たが》いの友情を、そんなふうに歪曲《わいきょく》して弄《もてあそ》ばれることは、我慢《がまん》できない腹立たしさでした。

     十五

 翌日、練習休みで、近くのゴルフリンクヘ一同でピクニックに行きました。
 前夜、眠《ねむ》られぬ頭は重く、涯《はて》しないみどりの芝生《しばふ》に、初夏の陽《ひ》の燦然《さんぜん》たる風景も、眼に痛いおもいでした。
 東海さんが、顔|馴染《なじみ》のフォオド会社の肥《ふと》った紳士《しんし》に、ゴルフを教えてもらい、なんども空振《からぶ》りをして、地面を叩《たた》く恰好《かっこう》を面白《おもしろ》がって、みんな笑い崩《くず》れていましたが、ぼくにはつまらなかった。
 みんな、写真機を買いたてで、ぼくも金十八|弗也《ドルなり》のイイストマンを大切に抱《かか》えていましたが、なにを写す元気もなく、ぼんやりしている処《ところ》を、あべこべに何度も写されたりしました。
 結局、朝から夕方まで、ぼんやり坐《すわ》ったり歩いたりしただけで、帰ってきました。帰ってからポケットにふと、手を入れると、全財産百五十弗ばかりを入れた蟇口《がまぐち》がありません。
 ぼくは忽《たちま》ち逆上して、身体《からだ》中や其処《そこ》らを探しまわった揚句《あげく》の果は、恐《おそ》らく、ゴルフ場で落したに相違《そうい》ないときめてしまいました。百五十弗は、当時の為替《かわせ》率で、四百五十円位にあたります。素人《しろうと》下宿をして働いている、母の粒々辛苦《りゅうりゅうしんく》の金とおもえば居ても立ってもおられず、明朝、未《ま》だ皆の起きないうちに抜《ぬ》けだし、ゴルフ場まで探しに行こうと思いました。
 翌朝、未明に合宿を出ると、すぐ表で、ぱったり出逢《であ》ったのは、近所の、小さい友達で、リンキイ君、ぼく達がリンカアンと綽名《あだな》をつけた少年でした。ぼくをみると、鳶色《とびいろ》の瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせ、「どうしたの《ホスマラア》[#「どうしたの」にルビ]」と可愛《かわい》い声で叫《さけ》びます。十歳位の少年ですが、ぼくとは気が合って、彼《かれ》の家にも引張って行かれ、二間位のせせこましい家に、いっぱいに置かれたオルガンで、下手糞《へたくそ》なスワニイ河をきかされたり、やさしいお母さんにも紹介《しょうかい》して貰《もら》いお茶《コオヒイ》[#「お茶」にルビ]を頂いたり、または彼氏|自慢《じまん》の映画スタアのサイン入りのブロマイドを何枚となく、貰ったことがあります。
 その朝、ぼくの様子が気になるのか、彼氏はまた仕草《ジェスチュア》で、ぼくの肩《かた》を叩《たた》き、「なんでも打明けてくれ」というのです。「金をおとした」と答えると「いくら」と訊《き》き、金額を話すと「オウ」と眉《まゆ》を顰《しか》めたり、肩をすぼめたり、おおげさに愕《おどろ》いてみせ、一緒《いっしょ》に捜《さが》しに行く、といいはってきかないのです。
 とうとう、二|粁《キロ》もあるゴルフ場まで、ついて来て、朝露《あさつゆ》に濡《ぬ》れた芝生の上を、口笛吹《くちぶえふ》き吹き、探してくれました。ぼくは勿論《もちろん》、一生懸命《いっしょうけんめい》で、隅《すみ》から隅まで、草の根を押《お》しわけて探してみましたが、処々に遺《のこ》っているコカコラの空瓶《あきびん》、チュウインガムの食滓《たべかす》などのほかには、水滴をつづった青草が、どこまでも意地悪く、羅列《られつ》しているばかりです。
 大体、前の日、歩いた記憶《きおく》を辿《たど》り、さがしてみたのですが、一通り歩いても、どうしてもありません。リンキイ君が、五|仙《セント》玉をひとつ拾っただけで、「チェッ」と舌打ち諸共《もろとも》、銀貨を空に抛《ほう》りあげ、意気なスタイルをみせてくれただけの事でした。
 歩きつかれ、探しつかれて、帰ってくると、みんな朝飯を食いに食堂に行った後のがらんとした寝室《しんしつ》を、コックの小母《おば》さんが、掃除《そうじ》していましたが、ぼくをみるなり「坂本さん。これあんたんじゃろう。随分《ずいぶん》、あんたを探していたのよ」と差出してくれたのは、失《な》くしたとばかり、思っていた蟇口です。ぼくのベッドの下に落ちていたそうで、この様子をぼくについて来て、ぼんやりみていた Mr. Lincoln いきなりぼくの手を握《にぎ》りしめ「ありがと。ありがと」と打振ります。ぼくには、少年の親切が、身に染《し》みて嬉《うれ》しかった。
 これは後の話ですが、ぼく達が帰国する日も迫った頃《ころ》、ぼくは日本への土産《みやげ》に、自動車のナムバア・プレェトが欲《ほ》しく、それをこのリンキイに頼《たの》みますと、その日、子供に借りた自転車で、附近《ふきん》を乗り廻《まわ》していたぼくの瞳に、道路の真中で、五六人の少年少女が集まり、リンキイが先に立って、なに事か、一心不乱に、働いているのがみえました。
 近よってみると、まだ新しいナムバア・プレェトが、アスファルト路の欠けた処を塞《ふさ》ぐために釘《くぎ》づけにしてあるのを、子供達が、各自家から持出した、金槌《かなづち》、やっとこの類で、取りはずすのに、大童《おおわらわ》でした。勿論、警官にみつかれば、叱《しか》られるのでしょうが、このアワア・ギャング達は、おめず臆《おく》せず、堂々と取ってのけ、その場で、ぼくにくれるのでした。
 また、帰国が近づいた頃、うす汚い、真鍮《しんちゅう》のロケットをぼくにくれた、カアペンタアという八つ位のお嬢さんも、ぼくと仲が善《よ》く、再々、彼女の宅にも引張って行かれました。その娘《むすめ》のお母さんは、すこし眼に険のある美人でしたが、恐《おそろ》しく早口で捲舌《まきじた》に喋《しゃべ》るので、なにを言うやら、さっぱり判《わか》らず、いつもぼくは面喰《めんくら》いました。帰国のとき、ぼくは、この少女に、持って行った浴衣《カルナモク》を、一枚上げたところ、早速、その別嬪《べっぴん》のお母さんが着て、見送りに出ていたのには、苦笑させられたものです。

     十六

 練習が終り、みんな、素《す》ッ裸《ぱだか》で、シャワルウムに飛びこみ、頭から、ザアザアお湯を浴びているうち、一人が、当時の流行歌(マドロスの恋《こい》)を※[#二重かっこ開く]赤い夕陽《ゆうひ》の海に、歌うは、恋のうウた※[#二重かっこ閉じ]と歌いだし、皆《みんな》で、賑《にぎ》やかに合唱していると、直《す》ぐ隣《となり》の部屋から、太いバスの仏蘭西《フランス》語が※[#二重かっこ開く]セネ、カル、シャントプウ、アキタルポウ※[#二重かっこ閉じ]と同じ歌を、突然《とつぜん》、謡《うた》いだしたのには、驚《おどろ》きもしましたが、嬉《うれ》しくもなって、皆|一緒《いっしょ》に、両国語の合唱が始まったのでした。
 それは、仏蘭西の選手達でしたが、他《ほか》に、独逸《ドイツ》の選手達も、ずいぶん気持の好い連中で、ぼく達と顔を合せるたびに、直ぐ「オハヨオ」と愛嬌《あいきょう》たっぷりに、日本語で挨拶《あいさつ》してくれます。それが、朝、昼、夕方おかまいなしなのも嬉しく、ぼく達も「グウテンモルゲン」で一日中、間に合せます。
 伊太利《イタリイ》の選手達は、みんな、船乗り上がりかなにからしく、腕《うで》や肩《かた》に刺青《いれずみ》をみせていましたが、人柄《ひとがら》は、たいへん、あっさりしていて気持よく、いつぞやぼくと東海さんと連れだって、彼等《かれら》が女の子達《ヤンキイガアルズ》[#「女の子達」にルビ]と遊んでいる芝生《しばふ》を通りかかると、「ヘエイ、ボオイズ」とか、変なアクセントの英語で呼びとめ、ぼく達と肩《かた》を組み、写真を撮《と》ってくれました。連中のうちで、コオルマン髭《ひげ》を生した色男《ハンサムボオイ》が真中になり、アメリカ娘《むすめ》が、両脇《りょうわき》で、カメラに入りましたが、あとで出来上がったのをみたら、ぼくの鼻がずいぶん低く、厭《いや》だった。
 しかし、この人達も、短い練習の時間だけは、非常に真摯《しんし》に、熱心で、漕法《そうほう》は、英国の剣橋《ケンブリッジ》大学を除《のぞ》いては、皆、レカバリイが少ないのが、目につきました。日本流の漕法では、※[#二重かっこ開く]ボオトは気で漕《こ》げ腹で漕げ※[#二重かっこ閉じ]というのですが、彼等は腕と脚《あし》とだけで猛烈《もうれつ》に漕ぎ、ピッチも五十前後まで楽に上がる様でした。
 殊《こと》に、米国代表南加大学(金色熊《ゴオルデンベア》)クルウが、ロングビイチに姿を現わしたのは、開会式《オオプニングセレモニイ》の二三日前でしたが、彼等の漕法は、殆《ほとん》ど、体を使わないで、ぼく等よりもオォルのスペイスがあり、一糸乱れず、脚のリズムで、スタアトからゴオル迄《まで》、一貫したスパアトで持って入り、しかも、毫《ごう》も、調子が変っていないのには、感心させられました。
 どんな練習にも、全力をあげ、精も根も使い果し、ゴオルに入って「イジョオル(Easyoar)」がかかると、バタバタ倒《たお》れてしまう日本選手の猛練習振りは、彼等には、全然、非科学的にみえるようでした。(A crew of Coxswains.)とぼく達は彼地《あちら》の新聞に、一言で、かたづけられていたものです。
 総《あら》ゆる人種からなる、十三万人の観衆に包まれた開会式《オオプニングセレモニイ》は、南カルホルニアの晴れ渡《わた》った群青《ぐんじょう》の空に、数百羽の白鳩《しろばと》をはなち、その白い影《かげ》が点々と、碧玻璃《へきはり》のような空に消えて行く頃《ころ》、炎々《えんえん》と燃えあがった塔上《とうじょう》の聖火に、おなじく塔上の聖火に立った七人の喇叭手《らっぱしゅ》が、厳《おごそ》かに吹奏《すいそう》する嚠喨《りゅうりょう》たる喇叭の音、その余韻《よいん》も未だ消えない中、荘重《そうちょう》に聖歌を合唱し始めた、スタンドに立ち並《なら》ぶ三千人の白衣の合唱団、その歌声に始まって行ったのでした。
 ぼくは、その風景を、男子の本懐《ほんかい》だと、感動して、眺《なが》めていた。殊に、あの日、塔上に仰《あお》いだ万国旗のなかの、日の丸の、きわだった美しさは、幼いマルキストではあったぼくですが、にじむような美しさで、瞳《ひとみ》にのこりました。身体《からだ》がふるえる程《ほど》、それは強烈な印象でした。
 大きな声ではいえぬことです。その日、フウバア大統領の前を、颯爽《さっそう》と、分列行進をしていった女子選手達のうちに、あなたのりりしい晴れ姿をちらっと垣間見《かいまみ》ました。はるかな美しさで、ぼくは、そッと、瞼《まぶた》のうちに、蔵《しま》っておいた。

     十七

 オリムピックのなかでも、青《ブリュウ》リボンと呼ばれる、壮麗《そうれい》なレガッタのなかで、ぼくには、負けて仰《あお》いだ、南カルホルニアの無為《むい》にして青い空ほど、象徴《しょうちょう》的に思われたものはありません。

 スタアトラインに並《なら》んで「ムッシュ。エティオプレ」「パルテ」という出発の号音を聞いたときは、ただ漕《こ》いだ。並んだ、剣橋《ケンブリッジ》クルウのオォルの泡《あわ》が、スタアト・ダッシュ、力漕《りきそう》三十本の終らないうちに、段々、小さくなり、はては消えてゆく。敵の身体《からだ》がみえていたのは、本当に、スタアト、五六本の間で、忽《たちま》ち、グイグイッとなにかに引張られているような、強烈な引きで彼等《かれら》の身体は、ぼくの眼の前から、消えてゆき、あとには、山のように盛《も》りあがった白い水泡《みなわ》がくるくる廻《まわ》りながら、残っている。それも束《つか》の間《ま》、薄青《うすあお》い渦紋《かもん》にかわり、消えてしまった。しかし、ぼく達は、相手のない、不敵さで、ただ、漕いだ。
 あとで、みていた人達は、もう千|米《メエトル》あったなら、日本クルウは、英国を抜《ぬ》いていたかも知れない、と言ったそうです。それほど、ゴオルでは、へたばっていながらも、気魄《きはく》では、敵を追っていたらしい。四|艇身《ていしん》半の開きも、僅《わず》かにみえるほど、日本人の気魄は、彼等を追い詰《つ》めていたのでしょうか。ゴオル直前で、ブラジル・クルウを三艇身、打《う》っ棄《ちゃ》って、伊太利《イタリイ》に肉迫した、必死の力漕には、凄《すさ》まじいものあり、すでに、英伊二|艘《そう》とも、ゴオルに着いているだけ、外国人は、無駄《むだ》な努力に必死な、ぼく達を呆《あき》れてみていたらしい。最後のスパアト五百米では、日本のクルウは、身体の動きこそ、ちぢまれ、オォルは少しも、他のクルウに比べて、遜色《そんしょく》なかったという。しかし、ゴオルに入った途端《とたん》、ぼく達の耳朶《じだ》に響《ひび》いたピストルは、過去二年間にわたる血と涙《なみだ》と汗《あせ》の苦労が、この五分間で終った合図でもありました。
 そのときのぼく等の様子を、当時の羅府《ロスアンゼルス》新報が、こんなに報告しています。
※[#二重かっこ開く]夕刻のロングビイチは鉛色《なまりいろ》のヘイズに覆《おお》われ、競艇《レギャッタ》コオスは夏に似ぬ冷気に襲《おそ》われ、一種|凄壮《せいそう》の気|漲《みなぎ》る時、海国日本の快男児九名は真紅《しんく》のオォル持つ手に血のにじめるが如《ごと》き汗を滴《したた》らしつつ必死の奮闘《ふんとう》を続けて遂《つい》に敗れた。この日、我が稲門健児《とうもんけんじ》は不幸にも、北側の第一レインを割り当てられ、逆風と逆浪《げきろう》の最も激《はげ》しい難路を辿《たど》らねばならず、且《か》つ、長身に伍《ご》して、短躯《たんく》のクルウを連ね、天候さえ冷え勝ちで、天の利、地の利、人の利、すべて我々に幸いせず。頼《たの》むは、日本男児の気概《きがい》のみ、強豪《きょうごう》伊太利と英国を向うに廻し、スタアトからピッチを三十七に上げ、力漕、また力漕、しかも力|及《およ》ばず、千メエトルでは英国に遅《おく》れること五艇身、伊太利に遅れること三艇身、千五百メエトルに至《いた》るや、懸隔益々甚《けんかくますますはなは》だしく、英国と伊太利が二艇身半の差、日本は三艇身遅れて続き、更《さら》にブラジルが後を追う。
 が、最後の五百メエトルに日本選手は渾身《こんしん》の勇を揮《ふる》って、ピッチを四十に上げ、見る見る中に伊太利へ追い着くと見え伊太利の舵手《だしゅ》ガゼッチも大喝《だいかつ》一声、漕手を励《はげ》まし、五万の群集は熱狂《ねっきょう》的な声援《せいえん》を送ったが、時|既《すで》に遅《おそ》く、一艇身半を隔《へだ》てて伊太利は決勝線に逃《に》げ込《こ》んだ。
 決勝線突入後、他の三国選手が、余裕《よゆう》を示して、ボオトをランデングに附け、掛声《かけごえ》勇ましく、頭上高く差し上げたに引き替え、日本選手は決勝線に入ると同時に、精力全く尽き、クルウ全員ぐッたりとオォルの上に突っ俯《ぷ》し、森整調以下、殆《ほとん》ど失神の状態となり、矢野清舵手は、両手に海水をすくって戦友の背中に浴せ、比較《ひかく》的元気な松山五番もこれに手伝い、坂本四番の介抱《かいほう》に努めるなど、その光景は惨憺《さんたん》たるものがあった。選手は幸いにして、数分後には、気を取り直しボオトを引き上げ、更衣所《こういじょ》に帰るや、一同その場に打ち倒《たお》れ、語るに言葉なく、此所《ここ》にも綴《つづ》るレギヤツタ血涙史《けつるいし》の一ペエジを閉じた※[#二重かっこ閉じ]
 ボオトを漕ぐ苦しさについて、ぼくは、敢《あえ》て書こうとは思いません。漕いだものには書かなくても判り、漕がないものには書いても判らぬだろうと思われるからです。ただ、それほど、言語を絶した苦しさがあるものと思って下さい。

 あのとき、観覧席《かんらんせき》の一隅《いちぐう》に、日本女子選手の娘達《むすめたち》が、純白のスカアトに、紫紺《しこん》のブレザァコオトを着て、日の丸をうち振り、声援していてくれた、と後でききました。しかし、ぼくは、そのとき、あなたの姿なぞ求めようともしない、口惜《くや》しさで負けたレエスに興奮していた。
 負けたという実感より、気持の上では、漕ぎたりない無念さで、更衣所にひき揚《あ》げてきたとき、いちばん若いKOの上原が、ユニホォムを脱《ぬ》ぎかけ、ふいと、堰《せき》を切ったように泣きだしました。
 すると主将の八郎さんが、かつてみない激しさで「泣くな。勝ってから、泣け」と噛《か》みつくように叱《しか》った。
 その激しい言葉に、自己感傷に溺《おぼ》れかけていたぼくは、身体が慄《ふる》えるほど、鞭《むち》うたれたのです。

 第二回戦《セカンドヒイト》は、独逸《ドイツ》、加奈陀《カナダ》、新西蘭《ニュウジイランド》とぶつかり、これも日本は、第三着で、到頭《とうとう》、準決勝戦に出る資格を失ったのでした。

     十八

 レエスも済み、為《な》すべきことを失ったようなぼくは、あなたのことを、やっと具体的に考える機会に恵《めぐ》まれた訳ですが、ぼくの心の卑《いや》しさからか、遠すぎるあなたの代りは、身近くのあてもない享楽《きょうらく》を求めて、彷徨《さまよい》あるき、なにかの幸福を手掴《てづか》みにしたい焦慮《しょうりょ》に、身悶《みもだ》えしながら、遂々《とうとう》帰国の日まで過してしまいました。
 帰国するまでに、約二週間はありましたから、その間、羅府《ロスアンゼルス》のブロオドウェイを、或《ある》いは、ロングビイチの下町を、又《また》はマウントロオの養狐場《ようこじょう》を、ただ訳もなく遊び歩いたのも、ひたすら手近な享楽で、眼の前に蓋《ふた》をしている気持でした。
 夜、ロスアンゼルスからの帰りに、自動車を停《と》めさせ、皆《みんな》が一斉《いっせい》に降りたって、小便をしたとき、故国日本を想《おも》いだすような、蛙《かえる》の鳴声をきいたことも、仄《ほの》かに憶《おぼ》えています。或いは、海水浴場の近くで、六十|歳《さい》前後の老人夫婦から、十五歳位の少年少女のカップルに至《いた》るまで、ダンスを愉《たの》しんでいるホオルを覗《のぞ》いたことも、ダウンタアオンで五|仙《セント》を払《はら》い、メリイゴオランドの木馬に跨《また》がったことも、ボオルを黒ん坊《ニグロ》[#「黒ん坊」にルビ]にぶつけて、亜米利加《アメリカ》美人を落したことも――。
 その黒ん坊が、意外にも日本人だったのです。虎《とら》さんが、ボオルを握《にぎ》って、モオションをつけると、いきなり黒ん坊が鮮《あざ》やかな日本語で、「旦那《だんな》はん、やんわり、頼《たの》みまっせ」と言い、ぼく達が、驚《おどろ》き呆《あき》れていると、「顔は黒う塗《ぬ》ってますが、心は同じ日本人でさア」その言葉の終らないうちに、虎さんの直球が、黒ん坊の額にはずみ、彼が引繰《ひっく》り返ると、そのはずみに仕掛《しかけ》が破れ、右上の鳥籠《とりかご》に腰《こし》かけていた亜米利加美人がばちゃんと、下のプウルに落ちこみました。
 さては、射的場で、兎《うさぎ》を撃《う》ったことも、十仙出して本物のインディアンと腕角力《うでずもう》をしたことも、マジック・タアオンの鏡の部屋で――。
 そうだ、マジック・タアオンで、起ったあなたについての幻想《げんそう》を書いてみましょう。
 金十五仙なりを払って、魔術《まじゅつ》の街の入口の真暗い部屋に入り、その部屋をぬけると、長い廊下《ろうか》がありました。やはり、手探りしながら、歩く暗さで、暫《しばら》くゆくと、突然《とつぜん》、足下の床《ゆか》が左右に揺《ゆ》れだし、しっかり踏《ふ》みしめて歩かぬと、転げそうでした。廊下の行詰りになった壁《かべ》をおすと、薄暗《うすぐら》い寝室《しんしつ》で、ランプがついていて、マントルピイスの上が白く光るので、近よってみると、人骨がばらばらにおいてあるのでした。子供だましみたいなので、微笑《ほほえ》みながら、次の部屋へのドアを開けると、戸口に一人のギャングが立ちはだかり、ピストルをつきつけています。こちらは可笑《おか》しくなってきて、ニヤニヤすると、向うも、毛色の変った、ジャップの少年なので、気抜《きぬ》けしたのか、ニヤッと笑いかえして引込《ひっこ》みました。
 次から、次へ、仕組んであるマジックも、ことさら故意《わざ》とらしくみえ、「つまんないの」と呟《つぶや》きながら、興味なく歩いている、ぼくの瞳《ひとみ》に、ふと映ったのは、薄暗い片隅《かたすみ》でなにもかも忘れ、ぴったり抱擁《ほうよう》しあっている、うら若い男女でした。こればかりは実物で、見ていてもこちらがへんになるくらい熱烈《ねつれつ》なながい接吻《せっぷん》をしています。これには、いちばん駭《おどろ》いて、部屋の端《はし》にあった階段を、むちゃくちゃに駆《か》けあがりました。二三十段も駆けあがり、次の一足を踏みだそうとすると、足に触《ふ》れるものがありません。階段だけで、二階の床がないのです。慌《あわ》てていたこととて、思わず眼下の暗黒のなかに、くらくらっと陥《お》ちかけたとき、足もとの階段が、独りでに、すうっと降りだしました。いっそ、地の底までもと思ったのに、着いたところは、又さっきの部屋で、男女二人は、まだ抱《だ》きあっていて、余計、堪《たま》らなく、飛びだそうとした刹那《せつな》、ふいに、その若い二人が、夢《ゆめ》の中のあなたとぼくのように、錯覚《さっかく》され、もう一度、振りかえり、見定めるため近づいてみようかとさえ思ったことでした。
 日本の選手一同、車を連ねて聖林《ハリウッド》見物に行ったのもその頃《ころ》でした。
 車は全部、在留|邦人《ほうじん》の方々の御好意《ごこうい》で、提供して頂き、スマアトな中級車から、豪奢《ごうしゃ》な高級車ばかり。ぼくの乗せて頂いたのも、華奢《きゃしゃ》な白塗《しろぬ》りのリンカン・ジェフアで、車内に、ラジオも、シガレット・ライタアも装備《そうび》してある豪勢《ごうせい》さでした。
 途中《とちゅう》、サンキスト・オレンジのたわわに実る陽光|眩《まば》ゆい南カルホルニアの平野を疾駆《しっく》、処々に働いている日本人農夫の襤褸《ぼろ》ながらも、平和に、尊い姿を拝見《はいけん》しました。
 有名なパサデナの邸宅街《ていたくがい》を通り、御殿《ごてん》のような建物に、貧富《ひんぷ》の懸隔《けんかく》につき、考えさせられることも多かった。
 聖林《ハリウッド》に入ると、フォオド・シボレエを自動車《カア》ではなく機械《マシン》だと称する国だけあって、ぼく達の車も見劣《みおと》りするような瀟洒《しょうしゃ》な自動車が一杯《いっぱい》で、建物も白堊《はくあ》や銀色に塗られたのが多く、光り耀《かがや》くような街でした。ぼく達はフォックス撮影所《スタディオ》の前で降り、所内の見物からはじめました。セットに、山あり海あり、冬景色あり夏景色あり、汽船あり、汽車あり、支那街《シナがい》あり水の都ナポリありで、ぼくは歩いている中、なにか、サンボリストの詩みたいなものを感じ、ひどく興奮しました。
 昼食を、所長さんの御招待で頂き、サアビスに踊《おど》ってくれたのが、当時のスタア、ロジタ・モレノ嬢《じょう》でした。まるで、人形のような端正《たんせい》さと、牡鹿《めじか》のような溌刺《はつらつ》さで、現実世界にこんな造り物のような、艶《あで》やかに綺麗《きれい》な女のひとも住むものかと、ぼくは呆然《ぼうぜん》、口をあけて見ていました。最後に、ステップ、ウインク、投げキッスと、三拍子《さんびょうし》、続けてやられたとき、その濡《ぬ》れたような漆黒《しっこく》の瞳が、瞬間《しゅんかん》、妖《あや》しくうるんで光るばかりに眩《まば》ゆく、ぼくは前後不覚の酔《よ》い心地でした。
 そのとき、やはり、心持ち唇《くち》をあけてみていた、あなたの小さい黄色い顔が、ちらっとぼくの網膜《もうまく》を掠《かす》めました。

 帰りには、チャイニイズ・グロオマン劇場で、オニイルの奇妙な幕間狂言《ストレンジ・インタアルウド》[#「奇妙な幕間狂言」にルビ]という映画の封切《ふうきり》に招待されました。その時はもう、接吻の長さだけ気になる、ぼくは、痴《うつ》けさでした。

     十九

 また暫《しばら》くして、日本選手一同が揃《そろ》って、ベニスという下町へ遊びに行った日がありました。附近《ふきん》で、いちばん大きなダウンタアオンで、途中《とちゅう》の風光の美しさも類のないものでした。
 碧《あお》い海に沿った、遠くに緑の半島が霞《かす》み、近くには赤い屋根のバンガロオが、処々《ところどころ》に、点在する白楊《はくよう》の並木路《なみきみち》を、曲りまわって行きました。まるで、泰西《たいせい》名画のみごとな版画をみているように、湿《しめ》り気のない空気が、全《すべ》てのものを明るく、浮立《うきた》たせてみせてくれるのでした。
 突然《とつぜん》、ぼくの脇《わき》に坐《すわ》っていた、坂本さんが、ぼくの横腹をこづきます。ひょいとみると、女子選手ばかりを乗せた、前のバスが、おくれて、こちらの車台とくっつきそうになって走っています。その背後の座席に、あなたが坐っていて、人形をかざし、こちらに見せびらかすようにして顔を硝子《ガラス》に押《お》しつけていました。
 硝子窓に潰《つぶ》され、凹《へこ》んだ鼻をしているその顔がまるで、泣きだしそうな羞恥《しゅうち》に歪《ゆが》んでおり、それを堪《た》えて、友達と笑い合っては、道化《どうけ》人形を踊《おど》らせ、あなたは、こちらの注意を惹《ひ》こうとしていました。恐《おそ》らくぼくを笑わそうとして、無理におどけてみせてくれるのだと、ぼくは考えあなたの故意《わざ》とらしさが悲しく、あなたに似合わない大胆《だいたん》さが苦々しくて、ぼくにはそのとき、あなたが大変、醜《みにく》くみえた。
 とうとう、前の車が故障でとまり、みんながぞろぞろ降りだしたのをみたとき、ぼくは顔をまともに合せたら、あなたが、どんな表情になるか、眼に見える心地がして、そればかりが気懸《きがか》りになりました。
 果して、あなたはピエロ人形を片手に、踊らせながら、やはり、泣き笑いみたいな顔で、ぼくのほうをちらっと見たが、ぼくが笑いもせず、反《かえ》って視線のやり場に困った鬱陶《うっとう》しい顔をしているのをみると、あなたは、面を伏《ふ》せ、くるりとうしろを向き、ひとりで、バスに乗ってしまった。車が出て、背後の硝子窓に凭《もた》れかかった人形は、あなたの手と一緒《いっしょ》に再び踊りだした。しかし、顔をみせない、あなたが、友達と笑いあっているのか、ひょっとしたら、泣いて慰《なぐさ》められているのか、想像のつかないまま、あなたの肩《かた》は震《ふる》えていました。
 ぼくは一体、人目を憚《はば》かったのか、それともそうしたあなたが嫌《きら》いだったのか、それも判《わか》らぬ複雑|奇怪《きかい》な気持で、どうでもなれとバスに揺《ゆ》られていました。気の弱い、我儘《わがまま》なぼくも厭《いや》だったし、あなたも厭だった。
 そうして、人形は踊りを止《や》め、バスの後窓に凭れたまま、小さくなり、見えなくなって行くのでした。
 ベニスに着いてから、竜《ドラゴン》の口が出入り道になっているサイクロレエンに乗りました。
 トロッコ様の箱車《はこぐるま》の座席が三段にわけてあり、まえに豪傑《ごうけつ》の虎さんと色男の有沢さんが乗り、真中にぼくと清さん、うしろに柴山と村川が乗りました。前に横たえてある棒をしっかり握《にぎ》っているうち、車は滑《すべ》りだし、深い穴のなかに陥《お》ちてゆきます。再び、登りだしたときは、背も反《そ》るような急角度の勾配《こうばい》でした。あれよ、あれよという間に、いちばん頂辺《てっぺん》にまで出ると、遥《はる》かサンピイドロの海が眼下にかすみ、沖にはキャバレエになっているという豪華船《ごうかせん》――当時は禁酒法《ドライ》でしたから――が豆《まめ》のように、ちいさい。が次の瞬間《しゅんかん》に、車は急転直下、直角にちかい絶壁《ぜっぺき》を、素晴しい速力ですべり落ちてきます。背中を丸くして、横棒にかじりついていても、腰《こし》が浮くすさまじさです。と、すぐ前から、「ヒェーッ」という金属的な悲鳴が、風に流れきこえてきました。色男の有沢さんの声です。実際、声でもたてねばやり切れぬ、気持でした。車はあるいは急角度に横にまがり斜《なな》めにおち、ガッタンガッタンと、登ったかとおもえば、また陥ちる、頭の髪《かみ》が、風にふかれて舞《ま》い上がるのも、恐怖《きょうふ》に追われ逆立つおもいでした。
 もう後では、目をつむってこらえている内、するすると竜の口から再び吐《は》きだされて、おしまいでした。降りたった六人は、今更《いまさら》のように聳《そび》えたつサイクロレエンを眺《なが》めて、感にたえた顔をしていましたが、有沢さんの悲鳴を誰《だれ》かが言いだすと、途端《とたん》に、みんなゲラゲラと大笑いがとまりませんでした。
 それまでに、サイクロレエンに乗っていた酔《よ》っぱらいの水兵が、滑走《かっそう》の途中、立ち上がり、横木にはさまれて頸《くび》を折ったとか、赤ん坊を抱《だ》いた若妻が滑りおちる恐怖にたえかね、子供を手放したので、赤ん坊がおっこち頭を割って死んだとか、そんな話もきかされていたのですが、自分が実際乗ってみると、そんな嘘《うそ》のような話も真実におもわれる物凄《ものすご》さでした。
 ぼくはサイクロレエンから降りたった後、なにもかもが飛び去ったあとのような心地よさで独り、岸にたち、潮風に、髪の毛をなぶらせながら、青黒くひかる海を、虚心《きょしん》に、眺《なが》めていました。

 その後、羅府《ロスアンゼルス》動物園へ、選手一同|赴《おもむ》いた折にも、巨《おお》きな象の二三頭が、放し飼《が》いになって自由に散歩しているあいだを、内田さんと手を繋《つな》ぎ歩いているあなたの姿をお見掛《みか》けしたことがあります。
 その朝、ぼくはデレゲェションバッジをなくなし、皆《みんな》にまた口汚《くちぎた》なくいわれる疑懼《ぎく》と、ひとつは日頃嘲弄《ひごろちょうろう》される復讐《ふくしゅう》の気持もあって、実に男らしくないことですが、手近にあった東海さんの上着からバッジを盗《ぬす》み、東海さんの困却《こんきゃく》をまのあたりみせられ、些《いささ》か後悔《こうかい》の念に駆《か》られ、良心の苛責《かしゃく》もひどかったときなので、ともすれば見失いそうな自分の姿を掴《つか》まえる為《ため》、すっかり茫然《ぼうぜん》としていて、近くにあった、あなたの姿にも、痛いものをみる想《おも》いで眼をそらした。
 その癖《くせ》、そのときでも、あなたが見えなくなると、バッジの件を考える苦しさよりもあなたを想う甘さに惹《ひ》かれるのでした。
 そうしたときでも、いつもあなたには逢いたいような、逢いたくないような気持が、例《たと》えば、『逢わぬは逢うにいやまさる』といった都々逸《どどいつ》の文句のように錯綜《さくそう》して、あなたを慕《した》っていたのです。
 マウントロオで、ケエブルカアから降りて村川と二人、養狐場《ようこじょう》のほうへ行きかけると、すれちがった若い亜米利加娘《アメリカむすめ》が二人、とつぜんぼく達を呼びとめ、ぼくの持っていたカメラで撮《うつ》してくれというのです。たいへん朗《ほが》らかな、可愛《かわい》い娘さん達なので、喜んで、一緒に写真をとったり名刺《めいし》を貰《もら》ったり、手振《てぶ》り身振りで会話をしたりしました。そうしたとき、奇妙《きみょう》に強く、想われるのはやはりあなたの面影《おもかげ》でした。

 ホワイトポイントヘ魚釣《さかなつ》りにも行きましたが、ぼくは釣なぞしたことがないので、無闇《むやみ》やたらにそこいら辺を歩きまわっただけでした。ひとりで、ホテルの裏にでると、ダンス場があって、ちょうどヒリッピン人の会合があり、彼等《かれら》が、勝手放題に、淫《みだ》らな踊り方をしたり、または木蔭《こかげ》で抱擁《ほうよう》し合っているのをみると、急に淋《さび》しく、あなたが欲《ほ》しくてたまらなくなるのでした。

 試合《ゲエム》が済んだあとでは、みんな、各自、県人会のひとに案内して貰ったり、または自分達同士でロスアンゼルスに遊びに行ったりしては、やれ今日は飛行機に乗ったとか、秘密のキャバレエで酒を飲まされたとか、レビュウガアルのアパアトで三十|弗《ドル》もとられたとか、そんな話の種を持って帰っては、面白そうに話しあうのでしたが、ぼくはまた、独りぽっちの仕様ことなしに、近所の子供と遊んだり、子供達から自転車を借りて乗りまわしたり、ただあてもなく散歩したり、そんな無為《むい》な日々をすごすことが多かった。

 いまでも憶《おも》いだす、なつかしい路《みち》は、合宿裏の花壇《かだん》にかこまれた鋪道《ほどう》のことです。
 ジギタリス、アネモネ、グラジオラス、サフラン、そんな花々につつまれて、一日中、陽《ひ》があたっている明るさ暖かさでした。ぼくがその路を、胸に紅《あか》く日の丸のマアクの入ったスエタアを着て、トレエニングパンツのゴムをぱちんぱちんとお腹にはじきながら、ぶらぶら何遍《なんべん》も往復し一体どんな歌をうたっていたと思います。おけさ節に、インタアナショナル、北大校歌に、オリムピック応援歌《おうえんか》、さては浪花節《なにわぶし》に近代詩といった取り交ぜで、興がわくままに大声はりあげ、しかも音痴《おんち》はこの上なしというのですから、他人には見せも聞かせもしたくない、のんびりした阿呆《あほ》らしい風景でした。
 そんなとき、いちばん誰|憚《はば》からず、あなたのことを想って、愉《たの》しいときを過しました。白昼、花々|匂《にお》う小路をさまよい、勝手な空想にふけっていれば、あなたはいつもぼくの身近く、浄《きよ》らかな童女のような相貌《そうぼう》で、ぼくにつき纏《まと》っていたのです。

     二十

 宿舎の近くに、アイスクリイムスタンドがあって、そこに、十八|歳《さい》になる、ナンシイという可愛《かわい》い看板娘《かんばんむすめ》がおりました。
 ぼくなぞは、夜間照明のベエスボオルなどを近所の子供達と見物した帰りに、スマックなぞ噛《かじ》りに立寄るくらいでしたが、KOの柴山や上原などは、よくかよっていて行けばいつも顔を合せるほどでした。ことに美少年の上原などは、ナンシイ嬢《じょう》と仲が良く、いつもスタンドに肘《ひじ》つきあっては話を交していました。
 ある日の事、一緒《いっしょ》に近所の床屋《とこや》まできた柴山と肩《かた》をくんで、その店に入って行くと、上原がもう来ていて、娘さんとなにか笑い話をしています。ぼく達は隅《すみ》っこでチョコレエトクリイムを貰《もら》い、二人でぼそぼそ嘗《な》めているとき、入口のドアを荒々《あらあら》しく押《お》して一人のアメリカの大学生が入ってきて、なにも註文《ちゅうもん》せず、スタンドの前に立ち、腕《うで》を組んだまま、じっと上原とナンシイ嬢の様子をみつめていました。
 やがて上原の傍《そば》につかつかと立ち寄り、彼の肩を押えて、早口になにか言いだします。素破《すわ》とおどろき柴山と立ち上がろうとしましたが、意外にも大学生は、和《なご》やかな表情で、上原にドライブをしないかと誘《さそ》っています。上原はぼく達に一緒に来るかい、と聞き、ぼく達が承諾《しょうだく》すると、それではと、大学生に、行く旨《むね》を返事していました。
 そこで四人が、表においてあった大学生のセダンに乗りこむと、彼《かれ》は、ロングビイチの海岸まで車を走らせて行きました。賑《にぎ》やかで面白《おもしろ》そうな海水浴場のほうは素通りにして、荒涼《こうりょう》とした砂っ原に降りると、大学生は上原の腕をとって、浪打際《なみうちぎわ》のほうへゆきます。さっきから大学生の上原をみる眼が少し変ってるなと思っていたら、大学生はやにわに、上半身、真裸《まっぱだか》になって、上原に角力《すもう》をいどみかけるのです。上原は、はにかんだような微笑《ほほえ》みを浮《うか》べながらも、シャツを脱《ぬ》ぎ裸になりました。
 ナルシサスもかくやと思われる美しい顔立ちに十九歳の若々しい肉体は、アポロのように見事に発育して引き締《しま》っています。大学生も毛深くて逞《たくま》しいヘラクレスみたいな身体をしていましたが、上原のすべすべした小麦色の皮膚《ひふ》を愛情のこもった眼付で、撫《な》でまわしていました。
 二人の相撲《すもう》は力を入れ、むきになっている癖《くせ》に、時々いかにもこそばゆいという風に身悶《みもだ》えしてキャッキャッと笑い興じていました。汗《あせ》ばんで転がるたびに砂|塗《まみ》れになってゆく、上原の肉体も、額に髪が絡《から》みついた顔も、だんだん紅潮してゆくに従って、筋肉の線に、膨《ふく》らみもでて来て美しく、ぼく達でさえ些《いささ》か色情的に悩《なや》ましさを覚えたほどです。しかし何時迄《いつまで》もみているのは莫迦々々《ばかばか》しくなって、ぼくと柴山はその場をはずし、なんとなくそこらを散歩してから歩いて帰りました。
 遅《おそ》く夕方になってから戻《もど》ってきた上原が、その大学生の着ていたレザァコオトを貰ったりしているので、ぼくは人間の愛欲の複雑さがちらっと判《わか》った気がしました。

 帰朝する前日でしたか、ロオタリイ倶楽部《クラブ》での、鐘《ベル》ばかり鳴らしてはその度《たび》に立ったり坐《すわ》ったりする学者ばかりのしかつめらしい招待会から帰ってくると、在留|邦人《ほうじん》の歓送会が、夕方から都ホテルであるとのことで、出迎《でむか》えの自動車も来ていて、直《す》ぐとんで行ったのでした。
 男はタキシイド、女は紋服《もんぷく》かイブニング・ドレスといった豪奢《ごうしゃ》な宴会《えんかい》で、カルホルニア一流の邦人名士の御接待でした。ぼくの坐った卓子《テエブル》は、沢村、松山、虎さんとぼくの四人で、接待して下さる邦人のほうは、立派な御主人夫妻と上品なお祖母様《ばあさま》、それに二十一になる美しいお嬢さんの御一家でした。
 話をしているうちに偶然《ぐうぜん》、そのお嬢さんがぼくの育った鎌倉《かまくら》の稲村《いなむら》ケ崎《さき》につい昨年|迄《まで》、おられたことが解《わか》り、二人の間に、七里ケ浜や極楽寺《ごくらくじ》辺《あた》りの景色や土地の人の噂《うわさ》などがはずみ、ぼくは浮々《うきうき》と愉《たの》しかったのです。その内に始まった饗応《きょうおう》の演芸が、いかにも亜米利加三界まで流れてきたという感じの浪花節《なにわぶし》で、虎髭《とらひげ》を生《はや》した語り手が苦しそうに見えるまで面を歪《ゆが》めて水戸黄門様の声を絞《しぼ》りだすのに、御祖母様は顔を顰《しか》め、「妾《わたし》はどうしても、浪花節は煩《うる》さいばかりで嫌《きら》いですよ」といわれる。お嬢さんとの会話で気が浮立っていたぼくは、また尾鰭《おひれ》について出しゃばり、浪花節を下品だとけなしてから、子供の頃より好きだった歌舞伎《かぶき》を熱心に賞《ほ》めると、しとやかに坐っていた奥《おく》さんが、さも感に堪《た》えたと言わぬばかりに、「そのお若さでお芝居《しばい》がお好きとはお珍《めずら》しい。御感心ですこと」とお世辞を言ってくれるので、ぼくは一層、有頂天になるのでした。お嬢さんはN女子大の国文科を出たとかで、芝居の話も詳《くわ》しく、知ったか振りをしたぼくが南北《なんぼく》、五瓶《ごへい》、正三、治助《じすけ》などという昔《むかし》の作者達の比較《ひかく》論をするのに、上手な合槌《あいづち》を打ってくれ、ぼくは今夜は正《まさ》に自分の独擅場《どくせんじょう》だなと得意な気がして、たまらなく嬉《うれ》しかったのです。
 沢村さん始め皆は、いつになくお喋《しゃべ》りなぼくを呆《あき》れてみつめ(大坂《ダイハン》が、エヘ)とさも軽蔑《けいべつ》したような表情をするのでしたが、その夜は、明らかに教養でみんなを圧倒《あっとう》した態《てい》なのも嬉しく、なおも図にのって、お嬢さんに媚《こ》びるように、「吉右衛門《きちえもん》や菊五郎《きくごろう》はどうも歌舞伎のオオソドックスに忠実だとはおもえません。まア羽左衛門《うざえもん》あたりの生世話《きぜわ》の風格ぐらいが――」など愚《ぐ》にもつかぬ気障《きざ》っぽいことを言っていると、突然《とつぜん》、大広間の奥からけたたましいジャズが鳴り響《ひび》き、続いて、「どうぞ皆さんダンスにお立ち下さい」というマイクロフォンの高声がきこえて来ました。すると奥さんはたいへん丁寧《ていねい》にお嬢さんに向い、「佐保子や、お前坂本さんにダンスをお願いしなさい」と言われたので、ぼくは一遍《いっぺん》に冷汗三斗《れいかんさんと》の思いがしました。改めてお嬢さんの金糸銀糸でぬいとりした衣裳《いしょう》や、指に輝《かがや》く金剛石《ダイヤモンド》、金と教養にあかし磨《みが》きこんだミルク色の疵《きず》ひとつない上品な顔をみると、ぼくはダンスは下手だし、その手をとるのも恐《こわ》くなり、「駄目《だめ》です。ぼくは踊《おど》れないんですから」と消え入りそうな声で、吃《ども》り吃りいいました。お嬢さんはかすかに片頬《かたほお》でほほえむと折からプロポオズして来た陸上のF氏の肩にかるく手をかけ、踊って行ってしまいました。
 急に悄気《しょげ》てしまったぼくが片隅でひとりダンスを拝見していると、いつの間にかぼくの横に、油もつけていないバサバサの長髪《ちょうはつ》を無造作に掻《か》きあげた、血色の悪い小男の青年がやって来て立っていました。袴《はかま》もつけず薄汚《うすよご》れた紺絣《こんがすり》の着流しで、貧乏臭《びんぼうくさ》い懐《ふとこ》ろ手をし、ぼんやりダンスをみているけれど、選手ではないし、招待側の邦人のひとりかとおもい、「今晩は、どうも――」と挨拶《あいさつ》をすると「いやいや」と周章《あわて》て、ぼくの顔をみて哀《かな》しい薄笑いをして、「ぼくは単なる見物人ですよ」と言いました。
 畳《たた》みかけて、「米国はもうながいんですか」ときけば、「いやまだ上陸して一週間位ですよ」「なにか勉強に」と続けると、「いえいえ遊んでいるんです。日本は煩さくって」「こちらに御親類でも」と尚《なお》煩さくいうと、「いやなにもありません。行き当り飛蝗《ばった》とともに草枕《くさまくら》」と最前の浪花節の句をいってから笑いました。ではさっきから何処《どこ》にもぐっていたのかと不審《ふしん》になり、それとなく尋《たず》ねようとした刹那《せつな》、ぼくは彼の懐中《かいちゅう》にねじこまれている本が前田河広一郎《まいだこうひろいちろう》の※[#二重かっこ開く]三等船客※[#二重かっこ閉じ]なのを見て、ハッとして、「文戦はやはり盛《さか》んにやっていますか」ときいてみると、「えッ」と吃驚《びっくり》したように問い返してから、「いや、ぼくは左翼《さよく》は嫌いだから――」と歪んだ笑いかたをしました。
 ぼくはなんだか、その青年にニヒリズムを感じて、寂《さび》しく、そして、それが米国最後のいちばん強い印象となりました。

     二十一

 行きは、よいよい帰りは恐《こわ》い、と子供の頃《ころ》うたう童謡《どうよう》があります。あの歌のように人生、行きと帰りとではずいぶん気持が違《ちが》うものです。再び、サンピイドロの港、春洋丸の甲板《かんぱん》で、見送りに来てくれた在留|邦人《ほうじん》の方々がうち振《ふ》る日の丸の、小旗の波と五色のテエプの雨を眺《なが》めながら、ぼくはなんともいえぬ佗《わび》しさでした。
 勝って還《かえ》る人達はとにかく元気でした。陸上の東田良平が、大きな亀《かめ》の子を二|匹《ひき》、記念に貰《もら》い頸《くび》に紐《ひも》をつけ、朗《ほが》らかに引張って歩いているのが目立っていました。アメリカ人に、「Mayachita, Mayachita」と呼ばれて人気のある水泳の宮下も、船橋《ブリッジ》の上で手を打ちふりながら、いつ迄《まで》も熱狂《ねっきょう》的な歓送に応《こた》えていました。負けて還るほうは、拳闘《けんとう》の某氏《ぼうし》のように責任を感じて丸坊主《まるぼうず》になったひともいましたが、やはり気恥《きはず》かしさや僻《ひが》みもあり張り詰《つ》めた気も一遍《いっぺん》に折れた、がっかりさで、ぼくは雑沓《ざっとう》するスモオキング・ルウムの片隅《かたすみ》にしょんぼり腰《こし》を降ろしていたのです。
 あなたとのことも、往《い》きの船では、帰りの船でこそ話もしよう遊びもできようと、あれやこれや空想を描《えが》いていたのですが、さて眼前、現実にその時が来てみると、最前、船のタラップを、服《ドレス》も萎《しお》れ面《おもて》も萎れて登ってきたあなたの可憐《かれん》な姿が目のあたりにちらつきながら、手も足も出ず心も痺《しび》れ、なるままになれと思うのが、やっと精|一杯《いっぱい》のかたちでした。
 出帆《しゅっぱん》前の華《はな》やかな混雑も煩《うる》さいままに、独りで、ガアデン・ルウムに入って行ってみると、すでに先客がひとり、ひっそりとした青い空気のなかで、硝子《ガラス》越し一杯の陽光を浴びながら、熱帯樹の葉っぱを弄《もてあそ》んでいました。
 その男は百|米《メエトル》の満野でした。かつて吉岡が擡頭《たいとう》するまでの名スプリンタアではありましたが今度のオリムピックには成績も悪く、いまは凋落《ちょうらく》の一途《いっと》にあったようです。彼《かれ》はぼくをみると磊落《らいらく》に笑い、退屈《たいくつ》なまま色々な打明話をしてくれました。彼はKOの予科三年で続いて二度落第していると語り、「こんども駄目《だめ》だから、まア退学は固いね」と他人言《ひとごと》のように笑っていました。小学校のときから駆《か》けてばかりきて歳《とし》を老《と》り、いま学校を追われる様になってもスポオツで食う見込はたたず、「まア国に帰って、兄貴の店でも手伝うか」と言っていましたが、スポオツでなにも掴《つか》み得なかった悔恨《かいこん》が、彼の心身を蝕《むし》ばんでいるさまがありありと感ぜられ、外では歓呼の声や旗の波のどよめきが潮《うしお》のように響《ひび》いてくるままに、なにかスポオツマンの悲哀《ひあい》、身に染《し》みるものがあって、ぼくも心がむなしかったのです。
 浪《なみ》に明け浪に暮《く》れる日々。それから毎日、海をみて暮《くら》していました。誰《だれ》やらの抒情詩《じょじょうし》ではありませんが、ただ青く遠きあたりは、たとうれば、古き思い出。舷側《げんそく》に、しろく泡《あわ》だっては消えて行く水沫《うたかた》は、またきょうの日のわれの心か、と少年の日の甘ったるい感傷に溺《おぼ》れこんでもみるのでした。阿呆《あほう》なぼくは時折、あなたのことを思い出しては、痛く胸を噛《か》む苦さと快さを愉《たの》しんでいました。
 アメリカを発《た》ってから五日目。暖かい陽光をいっぱいに浴びた甲板のデッキ・チェアに腰《こし》を降ろして、蒼々《あおあお》と凪《な》いだ太平洋をみるともなく眺《なが》めていますと、どやどやと下のケビンから十人ばかりの女子選手達があがって来ました。
 内田さんや中村|嬢《じょう》のなかに交ってあなたの姿もみえたとき、ぼくは心が定らないまま逃《に》げだしたい衝動《しょうどう》にかられました。しかし女のひとが好きで且《か》つおっちょこちょいのぼくは、あなた達から好意を持たれているのを意識しているだけ、なにか気の利《き》いた文句を一言聞かせたく、その為《ため》だけでも浮々《うきうき》と皆《みんな》を迎《むか》えるのでした。みんなはお喋《しゃべ》りな小鳥のようにペちゃくちゃ囀《さえず》りながら、附近《ふきん》のデッキ・チェアに群がりましたが、ぼくの顔をみるや、急に内田さんから始まって、ひそひそ話になり、一度にぱっと飛びたって、一瞬《いっしゅん》の間に全部いなくなってしまいました。あとにあなたともう一人、円盤《えんばん》の石見嬢が残っていましたが、石見さんもみんなの俄《にわ》かに席から立ち去って了《しま》ったのに驚《おどろ》くと、きょろきょろ辺《あた》りを見廻《みまわ》して、初めてあなたとぼくに気づくと、こちらが照れてしまうほど真《ま》ッ赧《か》になり、大きな身体《からだ》をもじもじさせ、スカアトの襞《ひだ》を直したりして体裁《ていさい》を繕《つくろ》ってから、大急ぎで駆《か》け去ってしまいました。
 さて、ぼくは、あなたの傍《そば》のデッキ・チェアに坐《すわ》り直してはみましたが、やはり、烈《はげ》しい羞恥《しゅうち》にいじかんだような、堅《かた》いあなたの容子《ようす》をみていると、ぼくも同様あがってしまい、その癖《くせ》、意地悪いうちの連中がやってきて、なにか言うなら言え、とそのときの糞度胸《くそどきょう》はきめていたのですが、愈々《いよいよ》話をする段になるとなにから話そうかと切りだす術《すべ》をさがして、ぼくは外見落着きを装《よそお》ってはいるものの、頭のなかは火のように燃えていました。
 と、自分の靴先《くつさ》きをみるともなく見詰めていたぼくの瞳《ひとみ》に、あなたの脚《あし》が写ってきました。海風が、あなたのスカアトをそよと吹《ふ》く、静かな一瞬です。短かい靴下《ソックス》を穿《は》いていたあなたの脚に生毛《うぶげ》がいっぱいに生えているのがみえました。そのときほど、毛の生えた脚をしているあなたが厭《いや》らしく見えたことはありません。
 男は女が自分に愛されようと身も心も投げだしてくると、隙《すき》だらけになった女のあらが丸見えになり堪《たま》らなく女が鼻につくそうです。女が反対に自分から逃げようとすればするほど、女が慕《した》わしくなるとかきいています。そこに手練手管《てれんてくだ》とかいうものが出来るのでしょう。
 ぼくは羞恥に火照《ほて》った顔をして、ちょこんと結んだひっつめの髪《かみ》をみせ、項垂《うなだ》れているあなたが、恍惚《こうこつ》と、なにかしらぼくの囁《ささや》きを待ち受けている風情《ふぜい》にみえると、再び毛の生えたあなたの脚がクロオズアップされ、悪寒《おかん》に似た戦慄《せんりつ》が身体中を走りました。
 ぼくはそれ迄《まで》あなたへの愛情に、肉慾《にくよく》を感じたことがなかった。然《しか》しこの時、あなたの一杯に毛の生えた脚の、女らしい体臭《たいしゅう》に噎《む》せると、ぼくはぞっとしていたたまれず、「熊本さんは肥《ふと》りましたね」とかなんとか、あなたの萎《やつ》れを気づかっていたつい最前の自分も忘れ、お座なり文句もそこそこに、立ちあがると逃げだしてしまいました。海を眺めに行ったのです。あとに残ったあなたの淋《さび》しい表情が、形容のつかぬ残酷《ざんこく》さで黙殺《もくさつ》できると同時に、あなたの、やるせなさそうな表情は心に残った。ぼくは自分を勝手だとおもいました。膨《ふく》れあがった海をみながら――。

     二十二

 とかく帰りの旅は気もゆるみ易《やす》く、且《か》つ練習がないので、みんなは酒を飲んだり、麻雀《マアジャン》をしたりした無為《むい》の日々を送っていましたが、どうも一種、頽廃《たいはい》の気風がなにか船中に漂《ただよ》いだした感じがしてなりませんでした。
 ハワイに入る前夜、園遊会が盛大《せいだい》に開かれ、会長のK博士夫妻もインデアンの羽根飾《はねかざ》り帽《ぼう》を冠《かぶ》って出場する和《なご》やかさでした。
 ぼくは借り物競争に出て、算盤《そろばん》と女の帽子と草の葉を一枚、集めてくるのにあたり、はじめに近くに見物していた内田さんの頭から、ものもいわずに、紅《あか》いベレエ帽をひったくり、ポケットにねじこむと、ドタドタと階段をおっこちて、事務所に殺到《さっとう》、事務員のひとが、呆気《あっけ》にとられているか、笑っているのか見極《みきわ》めもできぬ素早さで算盤をひったくり、次いで、階段を、大股《おおまた》に、三段位ずつ飛びあがって、頂辺《てっぺん》のガアデン・ルウムに入ろうとすると、ぴったり足がとまりました。緑|滴《した》たる芭蕉《ばしょう》の葉かげに、若い男女が二人、相擁《あいよう》しあって、愛を囁《ささや》いているのです。それだけをみて、ぼくはくるりと引っ返し、競争を廃棄《はいき》しました。算盤をかえして、次にベレエ帽をかえすとき、内田さんは、「ぼんち、どうして止《や》めたの」と訊《き》かれ、「草の葉がなかったんだ」と答えると、「莫迦《ばか》ね。ここにあるじゃないの」と彼女の胸にさしていた、忘れな草の造花を差出してくれました。

     二十三

 再び青きハワイ――。

 ワイキキ。プウルを村川と二人、平泳の競泳をしながら、日本へ帰ったらうんと遊ぼうや、とつまらない約束《やくそく》をし、プウルから上がり、脱衣場《だついじょう》に戻《もど》って行ったら、まんまと五|弗《ドル》入りの財布《さいふ》を盗《ぬす》まれていました。

 ホノルルの日本領事館で、官民合同の歓迎会《かんげいかい》が催《もよお》されたのち、邦人《ほうじん》の方の御好意《ごこうい》で、選手一同ハワイの名勝ダイヤモンド・ヘッドからハナウマイヘかけて、見物させて貰《もら》いました。殊《こと》にハナウマイの涯《はて》しない白砂のなだらかさ、緑葉|伸《の》び張ったパルムの梢《こずえ》の鮮《あざ》やかさ、赤や青の海草が繚乱《りょうらん》と潮に揺《ゆ》れてみえる岩礁《がんしょう》の、幾十|尋《ひろ》と透《す》いてみえる海の碧《あお》さは、原始的な風景というより風景の純粋《じゅんすい》さといった感銘《かんめい》がふかく、ながく心に残っています。
 また、それ迄《まで》みも知らぬ赤の他人の邦人の方が、日本選手という名前だけで、自動車と昼食とアイスクリイムを提供してくれ、その上、細々と御世話を焼いて下さった御好意は、真実、日本人同士ならばこそという気持を味って嬉《うれ》しかった。あれ程《ほど》、損得から離《はな》れた親切さには、その後めったに逢《あ》いません。

 出帆《しゅっぱん》前の船に、またハワイ生れのお嬢《じょう》さん達が集まって、華《はな》やかな、幾分エロチックな空気をふりまいていました。
 往《い》きのときに会った、だぼはぜ嬢さんや、テエプを投げてやった可憐《かれん》な娘《むすめ》も、みんな集まっていて、会えばお互《たが》いに忘れず、なによりも微笑《びしょう》が先に立つ懐《なつか》しさでした。
 だぼはぜ嬢は、相不変《あいかわらず》の心臓もので、ぼく達よりも一船前にホノルルを去った野球部のDさんやHさんに、生のパインアップルをやけに沢山託《たくさんこと》づけました。船室に置いておいたら、いつの間にか誰《だれ》か食ってしまい、ぼくには、そんな空《むな》しい贈《おく》り物をする、だぼはぜ嬢さんが哀《あわ》れだった。Dさんにファン・レタアも頼《たの》まれたのですが、それも結局、次から次へと託づけて行くうちに幾人もの男達に読まれて笑われ、どうにか当人に渡《わた》ったにしても、所詮《しょせん》、真面目《まじめ》には読んで貰えないものにと思われて気の毒だったのです。
 また例の可憐な娘に、テエプを抛《ほう》る約束《やくそく》をしたら、その娘は下船するとき、彼女《かのじょ》の写真と手紙を渡してくれました。船が出てから、便所に持ちこんで読んだらこんな風に書いてありました。
※[#二重かっこ開く]二三日前、新聞でオリムピック選手達が、明日ホノルルに寄航するという記事を読み、坂本さんにも会えると思ったら、その晩|夢《ゆめ》をみました。
 ずっと前、日本に帰って死んだお祖母《ばあ》さんが夢に出てきて、妾《わたし》の手を曳《ひ》いてくれ、「これから坂本さんのお宅に行くんだよ」と言います。「嬉しいなア」と妾は喜んで、冷たくてカサカサするお祖母さんの手に縋《すが》り、どんどん暗い狭《せま》い路《みち》を歩いて行きますと、まだ見たこともない日本の町は、燈火《とうか》が少なくて、たいへん淋《さび》しくありました。
 少し前方に、大きな灯のついた家がひとつあってお祖母さんは指をさし、「あれが坂本さんのホオムだよ」と申されました。
 ところが、お家の前に広い深い河がありまして、お祖母さんは妾の腕を抜《ぬ》けそうに引張り、ジャブジャブ渡って行きましたが、妾の着物はびしょぬれで、皺《しわ》くちゃになりました。すると、お祖母さんは、たいへん怖《こわ》い顔になって、「坂本さんのお宅は、お行儀が煩《うる》さいから、ちゃんとしたなりで、お前が行かないと、花嫁《はなよめ》さんにはなれないよ」と怒ったので、妾はいつ迄もいつ迄も泣いていました※[#二重かっこ閉じ]
 それからなんと書いてあったか忘れましたが、要するに、お兄さんみたいな気がするとか、いつ迄も忘れずにお便りを下さいな、とかそんな手紙の文句でした。でも、その夢の話だけは非常にシムボリックな気がして、感銘ふかく覚えています。異境に培《つちか》われた一輪の花の、やはり、実を結びがたい悩《なや》みと儚《はか》なさが露《あら》わにあらわれていて、ぼくには如何《いか》にも哀れに、悲しい夢だとおもわれたのです。

     二十四

 ハワイをでると、あとはもう横浜まで海ばかりだという気持が、なにかぼくを気抜けさせるものがあって、船室に引籠《ひきこも》って啄木《たくぼく》歌集を読んだり、日向《ひなた》に出ては海を眺《なが》めたり、そんな時を過していました。例《たと》えば、往きの船が、しょっちゅう太陽を感じさせる雰囲気《ふんいき》に包まれていたとすれば、帰りの船はまた絶えず月光が恋《こい》しいような、感傷の旅でした。ぼくは自己批判も糞《くそ》もなく、甘《あま》くて下手な歌や詩を作り、酩酊《めいてい》している時が多かった。
 そうした或《あ》る日のこと、中村さんにプロムナアド・デッキで、ぱったり逢《あ》うといきなりサインブックをつきつけられ、「なにか記念になるものを書いて」と頼《たの》まれました。船室に持って帰って、前の頁《ペエジ》を繰《く》ってみますと、――乙女《おとめ》の君の夢よ、安かれ。――とか、高く強く速く頑張れ《アルティアスアスフォルティアスモルティアズ》[#「高く強く速く頑張れ」にルビ]中村嬢――とか、様々な文句が書いてあるなかに、Y女子監督が――鯨吠《くじらほ》ゆ太平洋に金波照り行方《ゆくえ》知れぬ月の旅かな――とかいう様な歌を書いているので、ぼくも臆面《おくめん》なく――かにかくにオリムピックの想《おも》い出《で》となりにし人と土地のことかな、――と書きなぐり、中村嬢に渡《わた》しておきました。
 すると、二三日|経《た》って、甲板《かんぱん》で逢った内田さんがぼくに、「坂本さん、お願いがあるんやけれど」と珍《めずら》しく改まった調子です。「ハア」とぼくが堅《かた》くなると、今度は笑いだして、うしろに居た百|米《メエトル》のM嬢をふりかえり、「ねエ坂本さんの歌うまかったわねエ」「否《いや》、駄目《だめ》ですよ」と照れるぼくを黙殺《もくさつ》して、「ねエMさんがあなたに歌をかいて下さいって。幾《いく》つでも出来るだけ」Mさんというひとはピチピチとした弾力のある子供っぽい愛くるしい顔をしている癖《くせ》に、コケットの様な濃厚《のうこう》なお化粧《けしょう》をいつもしていました。
 そこでぼくは彼女達《かのじょたち》に婉然《えんぜん》と頼まれると、唯々諾々《いいだくだく》としてひき受け、その夜は首をひねって、彼女の桃色《ももいろ》のノオトに書きも書いたり、――かにかくに太平洋に星多き夜はともすれば人の恋しき――から始まり――海の上《へ》のノオトは浪《なみ》が消しゆきぬこのかなしみは誰が消すらむ――に終る、面皰《にきび》だらけの歌を十首ばかり作りあげ、翌日M嬢に手渡そうとおもいました。
 面皰といえば思いだす、面白い話があります。同船していたブラジル人で十五歳位の女の子がいて、それが大分早熟で、体操のKさんの跡《あと》ばかり追っていました。
 或るときブリッジの蔭《かげ》で、Kさんの名前を呼び喚《わめ》いている女の子が、あまり一生懸命《いっしょうけんめい》に呼び探しているので、「ヘェイ、ぼくと遊ぼう」と覚束《おぼつか》ない英語でからかうと、女の子は急に貴婦人のように取り澄《す》まし、しげしげ、ぼくの顔をみていましたが、いきなり唇《くちびる》をとがらせ「面皰《ピムプルズ》!」と吐きつけると、バタバタ駆《か》け去って行ってしまった。あとでぼくは、練習を止《や》めてから、めっきり増えた面皰づらを撫《な》で、苦く佗《わび》しい想いでした。

 翌日、歌をかいたノオトを返したくM嬢をさがしていると、また甲板で中村さんに出会い、M嬢は船室に内田さんと二人でいるとのことなので、早く渡してあげたく、かつて一度も行ったことのない、女の船室のほうへ行き、名札のかかったドアを軽く叩《たた》くと、中から内田さんの声がものうげに「どうぞ」という。開けたとたんに、ぼくは吃驚《びっくり》しました。内田さんがたった一人で、それもシュミイズ一枚で、横坐《よこずわ》りになり、髪《かみ》を梳《す》いていたのです。白粉《おしろい》と香水《こうすい》の匂《にお》いにむっとみちた部屋でした。
 内田さんは入って来たのがぼくなのをみると、一寸《ちょっと》坐り直し「坂本さんだったの」とみあげます。ぼくは内田さんの女《セックス》に圧倒《あっとう》されて居たたまれない気持で、早々にノオトを渡し、扉《とびら》を開けて出るのと殆《ほとん》ど同時でした。会長のK博士が温顔をきびしく結ばれて、此方《こっち》に洋杖《ステッキ》の音もコツコツとやって来られたのです。ぼくは、びっくり敗亡、飛ぶようにして自分の船室に逃げ帰りましたが、内田さんの小首を傾《かし》げた横坐りの姿は、可愛《かわい》い猫《ねこ》のような魅力《みりょく》と媚態《びたい》に溢《あふ》れていて、ながく心に残りました。
 しかし、それから間もなく、KOのボオトの連中が坊主《ぼうず》になるような事件を惹《ひ》き起したとき、ぼくは、なにか危なかったと胸をなでる気持がありました。
 事件といっても、大したことではなく、村川から聞いた処《ところ》によると、皆《みんな》が酔《よ》っぱらってブリッジにいると、中村さんを始め女のひと達が二三人あがって来た。それをこちらが不良学生みたいに取囲んで、酔った勢いで、ワアワア言っていると、中村さんが、真っ先に泣きだし、それを折悪《おりあ》しく来かかったTコオチャアに見つけられ、みんなはその場で叱責《しっせき》されたばかりでなく、Tさんは主将の八郎さんに告げたので、八郎さんがまたみんなを呼びつけて烈火《れっか》のように怒《いか》り、自分から先に髪を刈って坊主になったので、皆もいさぎよく揃《そろ》って丸坊主になり、謹慎《きんしん》の意を表したとのことでした。

     二十五

 横浜まで、あと一週間という日になった。
 プロムナアド・デッキの手摺《てすり》に凭《よ》りかかって海に唾《つば》を吐《は》いていると、うしろから肩《かた》を叩《たた》かれ、振返《ふりかえ》ると丸坊主《まるぼうず》になりたての柴山でした。
 彼《かれ》はひどく真面目《まじめ》ぶった顔付で「坂本君、熊本さんのことでなにか聞いたか」と訊《たず》ねます。「いや別に」と答えると声をひそめ、「大変なことがあるんだ。これが公《おおや》けになったら熊本さんの一生は台なしだよ。君はあんなにして特に親しいから、君からいっペん忠告してやれよ」と親切にお節介《せっかい》を焼いてくれます。ぼくは息づまるほどのショックを受け柴山をみつめていました。
「昨夜なア、うちの河堀と金沢が、ボオト・デッキで涼《すず》んでいたら、暗い蔭《かげ》になったほうでガサゴソ物音がするんだそうだ。なんだとおもってみてたら、熊本秋子とネルチンスキイの奴《やつ》が二人ッきりで腕《うで》を組んで出てきた。それで、此方《こっち》で見ているとも知らずネルチンスキイが、熊本にながいこと接吻《せっぷん》してけつかったそうだ。汚《きた》ない」
 ネルチンスキイというのは一船|遅《おく》れて日本に遠征《えんせい》に来る筈《はず》の芬蘭《フィンランド》の陸上選手|監督《かんとく》で、一足先きに事務上の連絡旁々《れんらくかたがた》この船に乗った、中年の好紳士《こうしんし》です。背が高く口髭《くちひげ》を蓄《たくわ》え、膏《あぶら》ぎった赭顔《あからがお》をしていました。
 ぼくは頭のなかが熱くなり、嘘《うそ》だ嘘だとおもいながらも柴山の言葉を否定するなんの根拠《こんきょ》もないままに、無性《むしょう》に腹が立ってきました。柴山は続けます。
「それで、金沢が帰ってきて陸上の連中に話したから、みんな怒《おこ》っていたよ。二三人で呼びだして、熊本を撲《なぐ》ろうかとまで言っているんだぜ」
 ぼくはこれは大変だ、と思いました。とにかく河堀と金沢に会ってから真相を確かめ、その上であなたに逢《あ》ってお話をするのだ、と心に決め、柴山の親切に、厚く礼をいってからその場を立ち去りました。
 先《ま》ず、河堀を捜《さが》しに行くとスモオキング・ルウムで、これも丸坊主になりたての頭で、煙草《たばこ》を吹《ふ》かしていました。「ちょっと」と呼びだし、照れ臭《くさ》いのを我慢《がまん》して、あなたの一件を尋《たず》ねますと、KOボオイの標準型で立派な青年紳士の趣《おもむき》のある彼はかるく笑い、
「そりゃア柴山の話が大きいんだ。そこ迄《まで》ぼく達はみなかった。ただ暗い処を二人でごそごそしていたし、出てきたとき熊本が泣いていて、それをネルチンスキイが慰《なぐさ》めていた様子が変だったから、金沢がみんなに話したんでしょう。しかし、ぼくには、なにも他人のことだし、誰《だれ》にも言いふらしたりしませんよ。安心なさい」
 とニヤニヤ笑いながら、ぼくの肩を叩きます。マドロス・パイプを乙《おつ》に銜《くわ》え、落着いて煙《けむり》をくゆらす彼の態度にはなにか信用できるものがあって、ぼくはくれぐれもその噂《うわさ》を打消すように頼むと、こんどは、階段を飛ぶように降りて、金沢の船室を叩いてみました。
 折よく在室とみえ「お入り」と重々しい声です。ドアを開けると、元来禁欲|僧《そう》じみた風貌《ふうぼう》の彼にはよく似合う刈《か》りたての頭をして、寝台《しんだい》にどっかと胡坐《あぐら》をかき、これも丸坊主の村川と、しきりに大声で笑いあって、なにか嬉《うれ》しそうに話をしていました。
 入って行ったぼくをみると、彼は顔をあげて意外らしく、「オウ」と挨拶《あいさつ》します。ぼくが改まって、「金沢君、お願いがあるんだけれど」と切り出すと、「え、なんだい」彼はおおげさに眉《まゆ》を顰《ひそ》めました。ぼくは下劣《げれつ》に流布《るふ》されているぼく達の交友が、ここでもストイックの彼に、誤解《ごかい》されてはと「実は変にとられたら困るけれど」と前置きすれば、「いや別に変に思わないよ」ともう冷たい声で突《つ》っぱなされました。
 ぼくは懸命《けんめい》になればなる程《ほど》、拙劣《せつれつ》なのを知りながら「実はあなたが昨夜、熊本さんについて見たことを、あなたの胸だけに蔵《しま》っておいて貰《もら》いたいのです」と言いかければ、彼は不愉快《ふゆかい》そうにかん高く、ぼくを遮《さえぎ》り「なにも俺《おれ》はそんなことを喋《しゃべ》り歩いたりはしないよ。言ってみたって何の得にもならないし、第一、俺は熊本みたいな女に少しも興味がないもの」と、そこで一寸と口を切ってから、また落着いた嗄《しゃが》れ声にかえり「然《しか》し、実際女の選手ってだらしがねエな」と村川を顧《かえり》みれば、村川も即座《そくざ》に、「じッせえ、女流選手っていうのは、なっちゃいないね」と合槌《あいづち》を打ちます。ぼくは無責任な批評をするな、と腹がたちましたが、金沢は続いて無造作に、「しかし誰かに言い触らすようなことはしないよ。それは約束《やくそく》します」という。その言い方に、ぼくはふッと、彼の大人を感じると、なにか信用して好い気になり、安心すると同時に、一遍《いっぺん》に気恥《きはず》かしくなってきて急いで、彼の部屋を辞しました。
 無茶苦茶に駆《か》けあるきたいような衝動《しょうどう》にかられて、階段をかけ上って行くと、森さん、松山さん、沢村さん達がいずれ麻雀《マアジャン》でも果てたあとか、たくましく笑い合って降りて来かかり、血走ったぼくの様子をみると、顔見合せて、更《さら》にどっと笑いたてました。
 てッきり、あなたの一件で笑われたと、ぼくは尚更《なおさら》、口惜《くや》しがって、あなたを捜しまわりましたが、その晩は遂《つい》に見つからず、また不眠《ふみん》の夜を送りました。
 翌日、海は晴れていた。ぼくは、あなたを探して船の上から下まで馳《は》せめぐった。逢ってなにか一言いわなければ、納まらない気持だったのです。その日も、むなしく海が暮《く》れました。ぼくはスモオキング・ルウムの一隅《いちぐう》に坐《すわ》り、ひとり薄汚《うすよご》れた感傷を噛《か》んでいました。
 その頃《ころ》の流行歌の一節に、※[#二重かっこ開く]花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら※[#二重かっこ閉じ]というのがありました。ぼくは其処《そこ》のところが、奇妙《きみょう》に好きで、誰もいないのを幸い、何遍も何遍もかけ直しては、面をたれて、歌をきいていました。
 逢魔《おうま》ケ時《とき》という海の夕暮でした。ぼくは電燈もつけず、仄暗《ほのくら》い部屋のなかで、ばかばかしくもほろほろと泣いてみたい、そんな気持で、なんども、その甘《あま》い歌声をきいていました。その時ひょいと顔をあげると愕然《がくぜん》としました。あなたの仄白い顔が、窓から覗《のぞ》いているのです。あんなに捜してもみつからなかったのに、一体どこにかくれていたんです、とも言いたく、お元気でなによりですと、喜んでもあげたかった。
 が、驚《おどろ》きのほうが強く、まじまじ目を見開いているぼくの顔にあなたは「ぼんち、今晩は」と笑いかけ、寂《さび》しさに甘えようとしているぼくの表情が判《わか》ると、ふッと身体《からだ》を乗りだし「そんなとこで、なにしてんの。ホホ……」と少しヒステリカルに笑い、顔見合せると急に笑い止《や》んで、やるせない沈黙《ちんもく》の瞬時《しゅんじ》が流れましたが、ふっと表情をかえたあなたは「ぼんち映画みに行かないの」といい棄《す》てたまま、くるりと身を翻《ひるが》えし、甲板《かんぱん》の端《はし》の映画場のほうへ行ってしまいました。
 機械的に、そのあとから、ぼくも跳《は》ねおき、活動を見に急いだのです。
 映画は、むかし懐《なつか》しい大河内伝次郎主演、辻吉朗監督『沓掛《くつかけ》時次郎』でありました。ところは太平洋の真唯中《まっただなか》、海のどよめきを伴奏《ばんそう》にして、映画幕は潮風にあおられ、ふくれたり、ちぢんだりしています。見物人は船客一同に加えて、満天の星と、或《ある》いは、海の鱗族《うろくず》共ものぞいているかも知れません。
 ぼくは、舷側《げんそく》の手摺に凭《もた》れて、みんなの頭越しに、この傷だらけのフィルムを、ぼんやり眺《なが》めていました。
 義理人情に絡《から》まれた男、沓掛時次郎の物語はへんてこに悲しいものでした。それに、説明を買ってでたレスラアB氏の説明が出鱈目《でたらめ》で、たとえば※[#二重かっこ開く]助《すけ》ッ人《と》※[#二重かっこ閉じ]と読むべきところを※[#二重かっこ開く]助人《じょにん》※[#二重かっこ閉じ]と読みあげるような誤《あやま》りが、ぼくには奇妙な哀愁《あいしゅう》となって、引きこまれるのでした。飾《かざ》りのない束《たば》ね髪《がみ》に、白い上衣《うわぎ》を着たあなたが項垂《うなだ》れたまま、映画をまるで見ていないようなのも悲しかった。
 映画が済んで、みんな立ってしまったあと、ぼくは独り、舷縁《ふなべり》に腰《こし》を掛《か》け、柱に手をまいて暗い海をみていた。青白いスクリインは、バタバタと風に煽《あお》られ、そのまえに乱雑に転がったデッキ・チェア、みんな、虚《むな》しい風景でした。
 もう、なんにも、あなたに言いたくなくなって、ぼんやり、一等船室の大広間に足を踏《ふ》み入れると、悚然《しょうぜん》、頭から水を掛けられたようなショックを受け、絨毯《じゅうたん》のうえに身が釘付《くぎづ》けになりました。あなたが、衆人|環視《かんし》のなかで泣いていたのです。
 あとで聞くと、あなたは、その夜映画説明をしたB選手に醜聞《スキャンダル》の件で、面罵《めんば》されたのだといいます。ぼくが傍《そば》に居合せたら恐《おそ》らく、身体の震《ふる》える憤《いきどお》りに気が狂《くる》いそうだったことでしょう。
 このとき、一足なかに踏み込み、その光景をみるなり、ぼくは居竦《いすく》んでしまいました。紺《こん》のベレエ帽《ぼう》に紺のブレザァコオトを着た内田さんが、看護婦のように、あなたに寄り添《そ》って慰めていました。室内にいた二十人ばかりの男女の視線が一斉《いっせい》に、立竦んでいるぼくに注がれた気がして居たたまれず、すぐ表に出てしまいました。
 あなたが災難にあっているのに、何にもしてやれない自分がはがゆく、ぐるぐるデッキを廻《まわ》り歩きました。黒い海だった。走る波でした。
 二三回、プロムナアド・デッキを歩いて、先程の広間の前まで来ると、そこの手摺に凭れてあなたが陸上の川北氏と話をしていました。
 思いきったぼくは臆面《おくめん》もなく、あなた達の間に割りこみました。あなたは泣いたあとの汚い顔はしていたけれど、なにか頼りなげな可憐《かれん》な風がありました。
 ぼくは不作法にも突然《とつぜん》あなたに向い、口を切りました。「どうしたんですか。一体、熊本さん」あなたは顔をあげ、ひどく泣きじゃくりながら、話しだしました。このひとは未《ま》だ少女ではないか、それを汚れた眼鏡でみるなんて、と、ぼくは憤慨《ふんがい》しながら、あなたの話を聞いていました。
「昨夜六時頃、Bデッキを散歩していますとネルチンスキイさんが、笑いながら傍によってきて、よくは判らないんですけれど、光るものと言うから多分夜光虫でしょう、をみせてあげるからボオト・デッキに行こうッて言うのでしょう。わたし一人で、嫌《いや》だったから断ると、無理に、そりゃしつこく誘《さそ》うのでしょ。内田さんがいてくれたら、気が強いんですけれど、心細いのにね。相手が外国のひとで、よく言葉が解《わか》らないから、若《も》し失礼になったら――と思って、ついて行ったんです。そしたら、ボオト・デッキに上って、暗いほうへ、ずんずん行って、隅《すみ》に立っていたの。気味がわるかったけれど我慢《がまん》して一緒《いっしょ》に並《なら》んでいると、訳のわからない早口を言って、わたしの顔をみたり、なんにも見えない暗い海をみたりしていましたが、いきなり、私の手をこうして握《にぎ》ったのでしょ。ぞうっとして、急いで、振《ふ》りきって、帰ってきたんです。それだけなの」
 それだけの事実が、こんなにも歪曲《わいきょく》され拡大されて伝わって行くとはと、ぼくが訳もなく口惜しがっているあいだに、川北氏は考えを纏《まと》め、しずかに意見を述べだしました。
「だから、熊本君、さっきも言ったように、ネルチンスキイ氏に、なにもそれ程の邪意《じゃい》はなかったのじゃないかな。外国人は、女の手を握ったり、接吻したりするのは平気だから、若《も》しかすると単なる親愛の意味からやったに過ぎないのじゃないかとも思う。しかしそういう処へ、男と二人ッきりでいたという、あなたも賢明《けんめい》じゃなかった。これからは、気をつけるんですね。
 けれど、ネルチンスキイ氏にも、一度会って話はしておきましょう。なんでも彼方《あちら》の習慣通りにやられては堪《たま》らない。ぼくが会って、あなたのことも、明瞭《めいりょう》に、あやまらせて置きます」
 ぼくはこんなにテキパキあなたに話ができる川北氏が羨《うらやま》しかった。ぼくには、悔恨《かいこん》と憧憬《どうけい》しかない。しかし、この人には理性と実行力があるのだと、尊敬する気持で、ぼくは、ネルチンスキイを捜す、川北氏のあとについて行きました。
 折よくプウルの傍の手摺によりかかり、海に唾を吐きちらしているネルチンスキイをみつけると、川北氏は傍に近づき巧《たく》みな英語で話しかけます。ぼくは初めから川北氏に無視された形でしたが、ここでも語学の点で、尚更ひっこんでいなくてはならず、それでもなにかの役に立てばと独りで興奮して、二人の会話を傍観《ぼうかん》していました。
 ぼくにはよく解らないながら、川北氏の一言一句はネルチンスキイの肺腑《はいふ》に染《し》み渡《わた》るとみえ、彼はいかにも恐縮《きょうしゅく》した様子で、「I'm sorry.」を繰返《くりかえ》しては頷《うなず》いていました。タイなしのカッタアシャツに灰色の上衣をひっかけた五尺そこそこ無髯《むぜん》の川北氏が、六尺有余、でっぷりした赭顔の鼻下にちょび髭を蓄えた堂々たる紳士のネルチンスキイを説得している有様は、まるで書生が大臣をへこましているような快感がありました。
 その話も結着して、川北氏に別れ独りになって甲板を歩いていると、なんとも言えぬ淋しさがこみあげてきて、なに一つできぬ自分がほんとに厭《いや》になった。自分の意気地なさ、だらしなさ、情けなさが身にしみ、自分の影法師《かげぼうし》まで、いやになって、なんにも取縋《とりすが》るものがないのです。星影あわき太平洋、意地のわるい黒い海だった。
※[#二重かっこ開く]花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら※[#二重かっこ閉じ]と音痴《おんち》の歌をくり返しては口ずさみ、薄暗い廊下《ろうか》を歩いてゆくと、向うの端から、仄白くあなたの姿が浮《うか》んできました。亡霊《ぼうれい》のような儚《はか》なさで、あなたはまた誰にか罵《ののし》られたのか、両掌《りょうて》で顔をおおい、泣きじゃくりながら近づいて来るのです。
 ぼくと向きあっても、あなたは覆《おお》っていた掌《て》を放さず肩をふるわせて泣いているのでした。次の瞬間、ぼくは夢中《むちゅう》であなたの肩を叩《たた》き、出来る限りのやさしさを籠《こ》め、「秋ッペさん泣くのはおよしよ。もう横浜が近いんだ」
 すると、あなたは顔から手を放し、子供みたいに、こっくりして領いた。その時の、あなたの瞳《ひとみ》の柔軟《じゅうなん》な美しさは、今も目にあります。「笑って」といったら、ほんとに、あなたはにっこり笑った。
 ぼくには、それだけが精一杯だったのです。
 あの夜、それだけで別れて横浜まで、お逢いしなかった。けれど、あのときの別れが、今日迄も続いている気がします。

     二十六

 その翌日――横浜に着く四日前――ぼくは酒を飲みました。
 前の夜、あなたに言い足りなかった口惜《くや》しさで、珍《めずら》しく朝から晩まで飲んでいました。そのうち酔《よ》っ払《ぱら》ってしまって、船の酒場に入ってくる誰彼《だれかれ》なしを取っ掴《つか》まえては、管《くだ》をまき盃《さかずき》を強《し》いていました。
 日が暮《く》れると、いつの間にかホッケエ部の船室に入りこみ、ウイスキイの瓶《びん》を片手に、時々|喇叭呑《らっぱの》みをやりながら、「レエスに負けたって仕方がねエよ。だけど負けたのは恥《はず》かしいねエ」とかなんとか同じ文句を繰返《くりかえ》しているうち、監督《かんとく》のHさんから肩《かた》を叩《たた》かれ、「どうも君みたいな酒豪《しゅごう》にはホッケエ部で、太刀打《たちうち》できるものがいないから、頼《たの》むから帰って寝《ね》てくれよ」とにこやかに訓《さと》され、「はい、はい」と素直に立ち上がると、自分の部屋の前まで来ましたが、ちょうど同室の沢村さん、松山さんとそこで一緒《いっしょ》になりました。
「大坂《ダイハン》、いい機嫌《きげん》だな」とか、ひやかされてぼくは嬉《うれ》しそうに、「えエ、えエ」と首を振っていましたが、松山さんが部屋に入ったあと、沢村さんがぼくの首を抱《だ》き、覗《のぞ》きこむようにして、「ぼんち、熊本さんは」と囁《ささや》くのが、てっきり、あなたの醜聞の一件を指しているのだと思うと、ぼくには、これ迄《まで》のこの人達の悪意が一ペんに想《おも》い出され、気のついたときには、もう沢村さんの身体《からだ》を壁《かべ》に押《お》しつけ、ぎりぎり憎悪《ぞうお》に歪《ゆが》んだ眼で、彼《かれ》の瞳《ひとみ》を睨《にら》みつけていました。
 瞬間《しゅんかん》、ア、しまった、と思った時にはすでに遅《おそ》く、その隙《すき》に立ち直った沢村さんが、「貴様やる気だな」と叫《さけ》びざま、ぼくを突《つ》きとばすと、直《す》ぐのしかかって来て、ぼくの頸《くび》を絞《し》めつけました。
 そのとき松山さんが部屋から出て来て、この有様をみるなり、「おい、沢村よせよ、大坂《ダイハン》はだいぶ酔っているぜ」と止めてくれましたが、沢村さんは一度手をはなしたかとおもうと、今度はなんともいえぬ意地悪い眼付で、まじまじぼくを見詰《みつ》めているうち、不意に、平手で、力|一杯《いっぱい》、ぼくの横ッ面《つら》を張った。ぼくはことさら撲《なぐ》られるのも感じないほど酔っている風に装《よそお》い、唇《くちびる》を開けてフラフラして見せているのに、沢村さんは、続けて、ぼくの右頬《みぎほお》から左頬ヘと、びんたを喰《く》わせ、松山さんを顧《かえり》みてはニヤニヤ笑い、「こら、大坂《ダイハン》、これでもか。これでもか」 といくつも撲った。

     二十七

 そうして、横浜に着きました。
 朝靄《あさもや》を、微風《びふう》が吹《ふ》いて、さざら波のたった海面、くすんだ緑色の島々、玩具《おもちゃ》のような白帆《しらほ》、伝馬船《てんません》、久し振《ぶ》りにみる故国日本の姿は綺麗《きれい》だった。鴎《かもめ》とびかう燈台《とうだい》のあたりを抜《ぬ》けて、船が岸壁《がんぺき》に向おうとすると、すでに、満艦飾《まんかんしょく》をほどこした歓迎船《かんげいせん》が、数隻《すうせき》出迎えに来てくれていました。
 埠頭《バンド》を埋めた黒山の群衆のなかから、日の丸の旗がちらちら見えるのに、負けてきた、という感慨《かんがい》が、今更《いまさら》のように口惜《くや》しく、済まないなアと込《こ》みあげて来ました。
 もはやどやどやと上がりこんで来た連中で、甲板《かんぱん》は一杯《いっぱい》になり身動きもできません。新聞記者さんが一人、二人、ぼくのような者にまでインタアビュウに来てくれるのでした。
 しかし色んな事で上気してしまっているぼくには、話といっても別に出来ませんでした。が、その翌日の地方版をみると勇ましく片手を挙げたぼくの写真の下に、※[#二重かっこ開く]坂本君は語る※[#二重かっこ閉じ]として次の様な記事が出ていました。
※[#二重かっこ開く]オォルの折れる迄《まで》、腕《うで》の折れる迄もと思い全力を挙げて戦って参りましたが武運|拙《つた》なく敗れて故郷の皆様《みなさま》に御合《おあわ》せする顔もありません。只《ただ》、心配なのは今度の戦績で、今後日本人がボオトに於《おい》て、果してどれだけの活躍《かつやく》が出来るかと危ぶまれることです。この上は、四年後のベルリンに備えて、明日からでも不断の精進を続け、必ず今日の無念さを晴らしたいと存じます※[#二重かっこ閉じ]
 ぼくは、ぼくの気持通りに書いてくれた、記者さんの御好意に感謝はしましたものの、今更のようにジャアナリズムの魔術《まじゅつ》に呆《あき》れたものです。ぼくの寸言も真実、喋《しゃべ》ったものではありませんでした。

 さて、横浜に着く迄に、あなたに訊《き》いておきたかった一言は、やはり、「あなたはぼくが好きですか」でありました。その返事を聞けなかった事がぼくの心残りだと、この手記の始めに思わせ振りに書いて置きました。然《しか》し、聞いたからとて今思えばなんになろう。今になって残っているのは言葉でも肉体でもなく、ただ愛情の周囲を歩いた想《おも》い出だけです。今のあなたにはお逢《あ》いしたくない。
 あのとき、帰りの船であなたがぼくの啄木歌集の余白に書いて下さった言葉を覚えています。
 ※[#二重かっこ開く]往《い》きの船ではずいぶん面白《おもしろ》く御一緒《ごいっしょ》に遊んで頂きましたわ。真珠《しんじゅ》の夢《ゆめ》のように一生忘れられない思い出になりましょう。日本に帰りましたら是非お遊びにいらして下さい。寄宿舎の豚小屋《ぶたごや》に※[#二重かっこ閉じ]
 そして、その頁《ペエジ》のすぐ裏には、レスラア某氏《ぼうし》の書いてくれたこんな文句がありました。
※[#二重かっこ開く]世界は酒と女と金※[#二重かっこ閉じ]
 横浜|沖《おき》で歓迎船が見えだしてから、ぼくは慌《あわ》てて、あなたの写真を内田さんと一緒に撮《と》らせて貰《もら》いました。あなたの衣裳《いしょう》も顔も皺《しわ》くちゃにレンズのなかにぼけて写っていました。あなたの顔は往きの船の健康さにひきかえ、憂《うれ》いの影《かげ》で深く曇《くも》っていました。ぼくはそれをぼくへの愛情の為《ため》かと手前勝手に解釈していたのです。
 帰朝して三日目、高知県主催の歓迎会が丸の内の中央会館でありました。あなたも同じ高知県なので、勿論《もちろん》お逢いできると思い、慌てて道を歩き交通|巡査《じゅんさ》に叱《しか》られるほどの興奮の仕方で出席しました。しかし、面窶《おもやつ》れしているあなたにお逢いしても、やはりなんにも話せませんでした。
 只《ただ》、エレベエタアを一緒の箱《はこ》で、身体《からだ》が触《ふ》れ合って降りたときと、挨拶《あいさつ》に壇上《だんじょう》に登る際、降りて来たあなたと擦《す》れちがったときとが、限りなく苦しかった。
 帰って床《とこ》に入り目をつむっていると、あなたが船のなかでボクサアのIさんとピンポンをしているときの姿態が浮《うか》んできた。あなたはとてもピンポンが上手で、それだけ汗塗《あせまみ》れになってやっていた。薄《うす》い肌着《はだぎ》がぴったりくっつき、あなたの肉体の線が露《あら》わにみえていました。
 そのうちどうした機勢《はずみ》か、Iさんの強打した直球が、あなたのスカアトから股の間に飛びこんだら、皆もドッと笑ったけれど、あなただけいつまでも体をつぼめて、ヒステルカルに癇高《かんだか》く笑い続けていました。
 笑いが止まるとあなたは直ぐ、真紅《まっか》な顔になって、部屋に帰ってしまいましたが、そのときぼくがあなたを撲《なぐ》りつけたい腹立たしさで、一隅《いちぐう》から笑いもせずに睨《にら》みつけていたのを御存知ですか。
 ぼくはあなたへの愛情に、肉体を考えたことがないと前にも書きました。帰朝してから随分《ずいぶん》色んな歓迎会も催《もよお》して頂き、酔ったあとで友達同士、女遊びをする機会も多かったのですが、ぼくはどんな場合でも、芸者なり商売女に、「ぼくにはだいじな女《ひと》がいるから、悪いけれど気にしないで」とまともな顔で断って、指一本、彼女達《かのじょたち》に触れたことはありませんでした。
 帰って暫《しばら》くして、銀座のシャ・ノアルにクルウが揃《そろ》って行ったことがあります。初めに書いた、嘗《かつ》てぼくの童貞《どうてい》とやらに興味を持ったN子という女給もいれば、松山さんも沢村さんの女達もいるカフエでした。ぼく達が入って行くと、マスタアが挨拶に来るは、女給が総出で取り巻くは、大変なものでした。
 ぼくはその頃《ころ》むやみに酒を飲むようになっていましたから、一人でがぶがぶと煽《あお》り、手近に坐《すわ》っていた京人形みたいな女給をちょっと好きになって、「君の名前は」とか訊いているうち、いきなり背後から生温かい腕《うで》がペたっと頸《くび》のまわりに巻きつきました。振返《ふりかえ》ると熱柿《じゅくし》みたいな臭《にお》いをぷんぷんさせたN子です。「聞いたわよ、坂本さん、船のなかで女のひとと凄《すご》かったんですッてねエ」「ああ」とぼくは素直です。「こんなお婆《ばあ》ちゃんじゃ、嫌《きら》い」とN子はぼくの頸にぶら下がったまま、ぼくの膝《ひざ》に坐り、白粉《おしろい》と紅の顔をぼくの胸におしつけます。
 実をいうとぼくは肉体の快感もあって、こういう酩酊《めいてい》の為方《しかた》も好《い》いなあ、と思いかけていましたが、便所に立った虎《とら》さんが帰って来て、「オイ表に出てみろよ、大変な貼出《はりだ》しが出ているぜ、ハッハッハ」と豪傑《ごうけつ》笑いをするので、清さんと一緒に出てみますと、入口に立てかけた大看板に(只今オリムピックボオト選手一同御来店中)と墨痕《ぼっこん》鮮《あざ》やかに書いてあります。
 しばらく唖然《あぜん》と突っ立っていたぼくは、折から身体を押《お》して行く銀座の人混《ひとご》みに揉《もま》れ、段々、酔いが覚めて白々しい気持になるのでした。もうそのまま、帰りたくもなりましたが、皆で来ているのでそれもならず、再び店内に入ると、もはや、ほろ苦くなった酒を呻《あお》るのも止《や》めてしまった。間もなく、マスタアが出て来て、「お写真をとらせて下さい」という。酔払った連中は、二つ返事で銘々《めいめい》美女を相擁《あいよう》し、威勢《いせい》よくシャムパングラスを左手に捧《ささ》げ立った処《ところ》を、ポッカアンとマグネシュウムが弾《はじ》けて一同、写真に撮られてしまいました。
 所詮《しょせん》、だらしのないぼくが、そんなにも女色が嫌《きら》いだったというのは偏《ひと》えに、あなたからの手紙の御返事を待っていたからです。
 県人会でお逢いした翌日、ぼくは横浜へ着いた日に撮ったあなたの写真を、すぐあなたの寄宿舎のほうへ送っておきました。勿論《もちろん》、あなたの御迷惑《ごめいわく》を考え、あっさりした御手紙を添《そ》えておいたのですが、きっと返事が来るだろうと信じていました。返事が来れば、それからお付合をして、或《ある》いは結婚が出来るかとも思っていました。
 ぼくはその夏、鎌倉《かまくら》の家へ行っていました。
 毎日、夕暮《ゆうぐれ》になるとあなたからの手紙が廻送《かいそう》されているような気がして、姉の子をおぶい、散歩に出た浜辺《はまべ》から、祈《いの》るような気持で、姉の家に帰って行ったものです。
 相模《さがみ》の海の夕焼け空も、太平洋の夕照とかわりありません。到頭《とうとう》あなたの手紙は来なかった。

 それから間もなく、ぼくは兄の指導下に、学内のR・Sを手始めとして、段々本格的な左翼《さよく》運動へと走って行きました。続いて学内サアクルの検挙、一人の母を棄《す》てて地下へ、工場へ。ストライキから掴《つか》まって転向、というヤンガアジェネレェション一通りの経過をへたぼくが、狂熱《きょうねつ》的な文学青年になったのは、オリムピックの翌々年の春でした。
 なにより先に、あなたとの思い出が書きたく、すでに書き溜《だ》めの原稿紙《げんこうし》も五六十枚になった頃、偶然《ぐうぜん》、新宿の一食堂で、中村さんに逢いました。
 暫く見ないうちにすっかり大人になった、来年はまた伯林《ベルリン》に行けると張切っていた中村さんから、先《ま》ず、あなたが中国辺の女学校で、体操の先生をしているとの話を聞きました。同時に、内田さんが有名なスポオツマンの某氏と、恋愛《れんあい》結婚をしたとの話を聞きました。
 そのときの衝動《しょうどう》は強く、帰ってから直ぐ書きかけの原稿紙を全部、破ってしまいました。こんな興奮するようでは、未《ま》だとても書けないと諦《あきら》めたからです。
 次の年、徴兵《ちょうへい》検査で、本籍《ほんせき》のある高知県に帰ったとき、特殊《とくしゅ》飲食店を開いている伯父《おじ》さんから商売|柄《がら》の廃娼《はいしょう》反対演説を聞いたあと、こっちも一杯|機嫌《きげん》で、あなたの話をほのめかすと、伯父さんは、「熊本秋子さんなら直ぐ、隣町《となりまち》の床屋の娘《むすめ》さんじゃきに、伯父さんもよう知っとるし、本当におまはんがその気なら、じき話を決めるがのうし」と大乗気になられ、却《かえ》って此方《こちら》が辟易《へきえき》しました。
 それよりも去年の暮、出征《しゅっせい》していた頃、北京《ペキン》郊外《こうがい》豊台駅前のカフェに入った処が、高知県出身の女給さんばかりが多くいて、あなたの噂《うわさ》が、偶然オリムピックの話から出たのには驚きました。あなたと同じ女学校で三年下だったという其処《そこ》のある女給さんは、なかなか色白|細面《はそおもて》の美人でしたが、あなたのことを「とてもすらりとした可愛《かわい》いお方でしたわ」とお世辞を言っていました。

 そうして、ぼく達のグルウプの人々は――。
 帰朝して間もなくインタアカレッジで漕《こ》がされたエキジビジョンの風景を想い出します。
 真紅《しんく》のオォルに真紅のシャツ。みんな出立《いでた》ちは甲斐々々《かいがい》しく、ラウドスピイカアも、「これより、オリムピック・クルウの独漕《どくそう》があります」と華々《はなばな》しく放送してくれたのでしたが、橄欖《かんらん》の翠《みど》りしたたるオリムピアがすでに昔《むかし》に過ぎ去ってしまった証拠《しょうこ》には、みんなの面に、身体に、帰ってからの遊蕩《ゆうとう》、不節制のあとが歴々と刻まれ、曇《くも》り空、どんより濁《にご》った隅田川《すみだがわ》を、艇《てい》は揺《ゆ》れるしオォルは揃わぬし、外から見た目には綺麗《きれい》でも、ぼくには早や、落莫《らくばく》蕭条《しょうじょう》の秋となったものが感ぜられました。
 そうして二三年|経《た》ってから。
『若き君の多幸を祈る』と啄木歌集の余白に書いてくれた美少年上原が、女に身を持ち崩《くず》し、下関の旅館で自殺をしたときいた。銀座ボオイの綽名《あだな》があった村川が、お妾《めかけ》上がりのダンサアと心中して一人だけ生残ったとの噂もきいた。
 沢村さんは満洲《まんしゅう》へ、松山さんはジャワヘ、森さんは北支《ほくし》、七番の坂本さんはアラスカヘと皆どこかへ行ってしまった。
 東海さんは昨年、戦地で逢いました。補欠《サブ》の佐藤は戦死したと聞きました。
 戦地で、覚悟《かくご》を決めた月光も明るい晩のこと、ふっと、あなたへ手紙を書きましたが、やはり返事は来ませんでした。

 あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。



底本:「オリンポスの果実」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年9月30日発行
   1991(平成3)年11月30日52刷改版
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:伊藤時也
2000年2月7日公開
2001年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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