青空文庫アーカイブ

瀧口入道
高山樗牛

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)やがて來《こ》む

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)華冑攝※[#「※」は「たけかんむり+録」、読みは「ろく」、第3水準1-89-79、3-6]《くわちゆうせつろく》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さ/\傍若無人の振舞《ふるまひ》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

※底本では、「愈々」「稍々」「熟々」「只々」「偶々」「唯々」「屡々」「轉々」「抑々」「略々」の「々」は二の字点(面区点番号1-2-22)が使用されている。
-------------------------------------------------------

   第一

 やがて來《こ》む壽永《じゆえい》の秋の哀れ、治承《ぢしよう》の春の樂みに知る由もなく、六歳《むとせ》の後に昔の夢を辿《たど》りて、直衣《なほし》の袖を絞りし人々には、今宵《こよひ》の歡曾も中々に忘られぬ思寢《おもひね》の涙なるべし。
 驕《おご》る平家《へいけ》を盛りの櫻に比《くら》べてか、散りての後の哀れは思はず、入道相國《にふだうしやうこく》が花見の宴とて、六十餘州の春を一夕《いつせき》の臺《うてな》に集めて都《みやこ》西八條の邸宅。君ならでは人にして人に非ずと唱《うた》はれし一門の公達《きんだち》、宗徒《むねと》の人々は言ふも更《さら》なり、華冑攝※[#「※」は「たけかんむり+録」、読みは「ろく」、第3水準1-89-79、3-6]《くわちゆうせつろく》の子弟《してい》の、苟も武門の蔭を覆ひに當世の榮華に誇らんずる輩《やから》は、今日《けふ》を晴《はれ》にと裝飾《よそほ》ひて綺羅星《きらほし》の如く連《つらな》りたる有樣、燦然《さんぜん》として眩《まばゆ》き許《ばか》り、さしも善美を盡せる虹梁鴛瓦《こうりやうゑんぐわ》の砌《いしだゝみ》も影薄《かげうす》げにぞ見えし。あはれ此程《このほど》までは殿上《てんじやう》の交《まじはり》をだに嫌はれし人の子、家の族《やから》、今は紫緋紋綾《しひもんりよう》に禁色《きんじき》を猥《みだり》にして、をさ/\傍若無人の振舞《ふるまひ》あるを見ても、眉を顰《ひそ》むる人だに絶えてなく、夫れさへあるに衣袍《いはう》の紋色《もんしよく》、烏帽子のため樣《やう》まで萬六波羅樣《よろづろくはらやう》をまねびて時知り顏なる、世は愈々平家の世と覺えたり。
 見渡せば正面に唐錦《からにしき》の茵《しとね》を敷ける上に、沈香《ぢんかう》の脇息《けふそく》に身を持たせ、解脱同相《げだつどうさう》の三衣《さんえ》の下《した》に天魔波旬《てんまはじゆん》の慾情を去りやらず、一門の榮華を三世の命《いのち》とせる入道清盛、さても鷹揚《おうやう》に坐せる其の傍には、嫡子《ちやくし》小松の内大臣重盛卿、次男中納言宗盛、三位中將|知盛《とももり》を初めとして、同族の公卿十餘人、殿上三十餘人、其他、衞府諸司數十人、平家の一族を擧げて世には又人なくぞ見られける。時の帝《みかど》の中宮《ちゆうぐう》、後に建禮門院と申せしは、入道が第四の女《むすめ》なりしかば、此夜の盛宴に漏れ給はず、册《かしづ》ける女房曹司《にようばうざうし》は皆々晴の衣裳に奇羅を競ひ、六宮《りくきゆう》の粉黛《ふんたい》何れ劣らず粧《よそほひ》を凝《こ》らして、花にはあらで得ならぬ匂ひ、そよ吹く風毎《かぜごと》に素袍《すはう》の袖を掠《かす》むれば、末座に竝《な》み居る若侍等《わかざむらひたち》の亂れもせぬ衣髮をつくろふも可笑《をか》し。時は是れ陽春三月の暮、青海《せいかい》の簾高く捲き上げて、前に廣庭を眺むる大弘間、咲きも殘らず散りも初《はじ》めず、欄干《おばしま》近く雲かと紛《まが》ふ滿朶の櫻、今を盛りに匂ふ樣《さま》に、月さへ懸《かゝ》りて夢の如き圓《まどか》なる影、朧に照り渡りて、滿庭の風色《ふうしよく》碧紗に包まれたらん如く、一刻千金も啻ならず。内には遠侍《とほざむらひ》のあなたより、遙か對屋《たいや》に沿うて樓上樓下を照せる銀燭の光、錦繍の戸帳《とちやう》、龍鬢の板疊に輝きて、さしも廣大なる西八條の館《やかた》に光《ひかり》到らぬ隈《くま》もなし。あはれ昔にありきてふ、金谷園裏《きんこくゑんり》の春の夕《ゆふべ》も、よも是には過ぎじとぞ思はれける。
 饗宴の盛大善美を盡せることは言ふも愚《おろか》なり、庭前には錦の幔幕を張りて舞臺を設け、管絃鼓箏の響は興を助けて短き春の夜の闌《ふ》くるを知らず、豫《かね》て召し置かれたる白拍子《しらびやうし》の舞もはや終りし頃ほひ、さと帛《きぬ》を裂くが如き四絃一撥の琴の音に連《つ》れて、繁絃急管のしらべ洋々として響き亙れば、堂上堂下|俄《にはか》に動搖《どよ》めきて、『あれこそは隱れもなき四位の少將殿よ』、『して此方《こなた》なる壯年《わかうど》は』、『あれこそは小松殿の御内《みうち》に花と歌はれし重景殿よ』など、女房共の罵り合ふ聲々に、人々|等《ひと》しく樂屋《がくや》の方を振向けば、右の方より薄紅《うすくれなゐ》の素袍《すほう》に右の袖を肩脱《かたぬ》ぎ、螺鈿《らでん》の細太刀《ほそだち》に紺地の水の紋の平緒《ひらを》を下げ、白綾《しらあや》の水干《すゐかん》、櫻萌黄《さくらもえぎ》の衣《ぞ》に山吹色の下襲《したがさね》、背には胡※[#「※」は「たけかんむり+録」、読みは「ぐひ」、第3水準1-89-79、5-8]《やなぐひ》を解《と》きて老掛《おいかけ》を懸け、露のまゝなる櫻かざして立たれたる四位の少將|維盛《これもり》卿。御年|辛《やうや》く二十二、青絲《せいし》の髮《みぐし》、紅玉《こうぎよく》の膚《はだへ》、平門《へいもん》第一の美男《びなん》とて、かざす櫻も色失《いろう》せて、何れを花、何れを人と分たざりけり。左の方よりは足助《あすけ》の二郎重景とて、小松殿恩顧の侍《さむらひ》なるが、維盛卿より弱《わか》きこと二歳にて、今年|方《まさ》に二十《はたち》の壯年《わかもの》、上下同じ素絹《そけん》の水干の下に燃ゆるが如き緋の下袍《したぎ》を見せ、厚塗《あつぬり》の立烏帽子に平塵《ひらぢり》の細鞘なるを佩《は》き、袂豐《たもとゆたか》に舞ひ出でたる有樣、宛然《さながら》一幅の畫圖とも見るべかりけり。二人共に何れ劣らぬ優美の姿、適怨清和、曲《きよく》に隨つて一絲も亂れぬ歩武の節、首尾能く青海波《せいがいは》をぞ舞ひ納めける。滿座の人々感に堪へざるはなく、中宮《ちゆうぐう》よりは殊に女房を使に纏頭《ひきでもの》の御衣《おんぞ》を懸けられければ、二人は面目《めんもく》身に餘りて退《まか》り出でぬ。跡にて口善惡《くちさが》なき女房共は、少將殿こそ深山木《みやまぎ》の中の楊梅、足助殿《あすけどの》こそ枯野《かれの》の小松《こまつ》、何れ花も實《み》も有る武士《ものゝふ》よなどと言い合へりける。知るも知らぬも羨まぬはなきに、父なる卿の眼前に此《これ》を見て如何許《いかばか》り嬉しく思い給ふらんと、人々上座の方を打ち見やれば、入道相國の然《さ》も喜ばしげなる笑顏《ゑがほ》に引換《ひきか》へて、小松殿は差し俯《うつぶ》きて人に面《おもて》を見らるゝを懶《ものう》げに見え給ふぞ訝《いぶか》しき。

   第二

 西八條殿《にしはちでうでん》の搖《ゆら》ぐ計りの喝采を跡にして、維盛・重景の退《まか》り出でし後に一個の少女《をとめ》こそ顯はれたれ。是ぞ此夜の舞の納めと聞えければ、人々|眸《ひとみ》を凝らして之を見れば、年齒《とし》は十六七、精好《せいがう》の緋の袴ふみしだき、柳裏《やなぎ》の五衣《いつゝぎぬ》打ち重ね、丈《たけ》にも餘る緑の黒髮|後《うしろ》にゆりかけたる樣は、舞子白拍子の媚態《しな》あるには似で、閑雅《しとやか》に※[#「※」は「くさかんむり」の下に「月+曷」、第3水準1-91-26、7-1]長《らふた》たけて見えにける。一曲《いつきよく》舞ひ納む春鶯囀《しゆんあうてん》、細きは珊瑚を碎く一雨の曲、風に靡けるさゝがにの絲輕く、太きは瀧津瀬《たきつせ》の鳴り渡る千萬の聲、落葉《おちば》の蔭《かげ》に村雨《むらさめ》の響《ひゞき》重《おも》し。綾羅《りようら》の袂ゆたかに飜《ひるがへ》るは花に休める女蝶《めてふ》の翼か、蓮歩《れんぽ》の節《ふし》急《きふ》なるは蜻蛉《かげろふ》の水に點ずるに似たり。折らば落ちん萩の露、拾《ひろ》はば消えん玉篠《たまざゝ》の、あはれにも亦|婉《あで》やかなる其の姿。見る人|※[#「※」は「りっしんべん+夢」と同義、「夢の夕部分を目に置き換えたもの」、読みは「ぼう」、第4水準2-12-81、7-5」然《ぼうぜん》として醉へるが如く、布衣《ほい》に立烏帽子せる若殿原《わかとのばら》は、あはれ何處《いづこ》の誰《た》が女子《むすめ》ぞ、花薫《はなかほ》り月霞む宵の手枕《たまくら》に、君が夢路《ゆめぢ》に入らん人こそ世にも果報なる人なれなど、袖褄《そでつま》引合ひてののしり合へるぞ笑止《せうし》なる。
 榮華の夢に昔を忘れ、細太刀の輕さに風雅の銘を打ちたる六波羅武士の腸をば一指の舞に溶《とろか》したる彼の少女の、滿座の秋波《しうは》に送られて退《まか》り出でしを此夜の宴の終《はて》として、人々思ひ思ひに退出し、中宮もやがて還御《くわんぎよ》あり。跡には春の夜の朧月、殘り惜げに欄干《おばしま》の邊《ほとり》に蛉※[#「※」は「あしへん+并」、読み「ら」、7-10]《さすら》ふも長閑《のど》けしや。
 此夜、三條大路《さんでうおほぢ》を左に、御所《ごしよ》の裏手の御溝端《みかはばた》を辿り行く骨格|逞《たくま》しき一個の武士あり。月を負ひて其の顏は定かならねども、立烏帽子に綾長《そばたか》の布衣《ほい》を着け、蛭卷《ひるまき》の太刀の柄太《つかふと》きを横《よこた》へたる夜目《よめ》にも爽《さはや》かなる出立《いでたち》は、何れ六波羅わたりの内人《うちびと》と知られたり。御溝を挾《はさ》んで今を盛りたる櫻の色の見て欲《ほ》しげなるに目もかけず、物思はしげに小手叉《こまぬ》きて、少しくうなだれたる頭の重げに見ゆるは、太息《といき》吐く爲にやあらん。扨ても春の夜の月花《つきはな》に換へて何の哀れぞ。西八條の御宴より歸り途《みち》なる侍《さむらひ》の一群二群《ひとむれふたむれ》、舞の評など樂げに誰憚《たれはゞか》らず罵り合ひて、果は高笑ひして打ち興ずるを、件の侍は折々耳|側《そばだ》て、時に冷《ひや》やかに打笑《うちゑ》む樣《さま》、仔細ありげなり。中宮の御所をはや過ぎて、垣越《かきごし》の松影《まつかげ》月を漏らさで墨の如く暗き邊《ほとり》に至りて、不圖《ふと》首を擧げて暫し四邊《あたり》を眺めしが、俄に心付きし如く早足に元來《もとき》し道に戻りける。西八條より還御せられたる中宮の御輿《おんこし》、今しも宮門を入りしを見、最《い》と本意なげに跡見送りて門前に佇立《たゝず》みける。後《おく》れ馳せの老女|訝《いぶか》しげに己れが容子《ようす》を打ち※[#「※」は「めへん+爭」、読みは「みまも」、第3水準1-88-85、8-9]《みまも》り居るに心付き、急ぎ立去らんとせしが、何思ひけん、つと振向《ふりむき》て、件の老女を呼止めぬ。
 何の御用と問はれて稍々、躊躇《ためら》ひしが、『今宵《こよひ》の御宴の終《はて》に春鶯囀を舞はれし女子《をなご》は、何れ中宮の御内《みうち》ならんと見受けしが、名は何と言はるゝや』。老女は男の容姿を暫し眺め居たりしが微笑《ほゝゑ》みながら、『扨も笑止の事も有るものかな、西八條を出づる時、色清《いろきよ》げなる人の妾を捉へて同じ事を問はれしが、あれは横笛《よこぶえ》とて近き頃|御室《おむろ》の郷《さと》より曹司《そうし》しに見えし者なれば、知る人なきも理《ことわり》にこそ、御身《おんみ》は名を聞いて何にし給ふ』。男はハツと顏赤らめて、『勝《すぐ》れて舞の上手《じやうず》なれば』。答ふる言葉聞きも了らで、老女はホヽと意味ありげなる笑《ゑみ》を殘して門内に走り入りぬ。
『横笛、横笛』、件の武士は幾度か獨語《ひとりご》ちながら、徐《おもむろ》に元來し方に歸り行きぬ。霞の底に響く法性寺《ほふしやうじ》の鐘の聲、初更《しやかう》を告ぐる頃にやあらん。御溝の那方《あなた》に長く曳ける我影に駭《おどろ》きて、傾く月を見返る男、眉太《まゆふと》く鼻隆《はなたか》く、一見|凜々《りゝ》しき勇士の相貌、月に笑めるか、花に咲《わら》ふか、あはれ瞼《まぶた》の邊《あたり》に一掬の微笑を帶びぬ。

   第三

 當時小松殿の侍に齋藤瀧口《さいとうのたきぐち》時頼と云ふ武士ありけり。父は左衞門|茂頼《もちより》とて、齡古稀《よはひこき》に餘れる老武者《おいむしや》にて、壯年の頃より數ケ所の戰場にて類稀《たぐひまれ》なる手柄《てがら》を顯はししが、今は年老たれば其子の行末を頼りに殘年を樂みける。小松殿は其功を賞《め》で給ひ、時頼を瀧口の侍に取立て、數多《あまた》の侍の中に殊に恩顧を給はりける。
 時頼|是《こ》の時年二十三、性《せい》濶達にして身の丈《たけ》六尺に近く、筋骨飽くまで逞《たくま》しく、早く母に別れ、武骨一邊の父の膝下《ひざもと》に養はれしかば、朝夕|耳《みゝ》にせしものは名ある武士が先陣|拔懸《ぬけが》けの譽《ほまれ》れある功名談《こうみやうばなし》にあらざれば、弓箭甲冑の故實《こじつ》、髻垂《もとどりた》れし幼時より劒《つるぎ》の光、弦《ゆづる》の響の裡に人と爲りて、浮きたる世の雜事《ざれごと》は刀の柄《つか》の塵程も知らず、美田《みた》の源次が堀川《ほりかは》の功名に現《うつゝ》を拔《ぬ》かして赤樫《あかがし》の木太刀を振り舞はせし十二三の昔より、空肱撫《からひぢな》でて長劒の輕きを喞《かこ》つ二十三年の春の今日《けふ》まで、世に畏ろしきものを見ず、出入《いでい》る息を除《のぞ》きては、六尺の體《からだ》、何處を膽と分つべくも見えず、實に保平《ほうへい》の昔を其儘の六波羅武士の模型なりけり。然《さ》れば小松殿も時頼を末頼母《すゑたのも》しきものに思ひ、行末には御子維盛卿の附人《つきびと》になさばやと常々目を懸けられ、左衞門が伺候《しこう》の折々に『茂頼、其方《そち》は善き悴《せがれ》を持ちて仕合者《しあはせもの》ぞ』と仰せらるゝを、七十の老父、曲《まが》りし背も反《そ》らん計りにぞ嬉しがりける。
 時は治承《ぢしよう》の春、世は平家の盛、そも天喜《てんぎ》、康平《かうへい》以來九十年の春秋《はるあき》、都も鄙《ひな》も打ち靡きし源氏の白旗《しらはた》も、保元《ほうげん》、平治《へいぢ》の二度の戰《いくさ》を都の名殘に、脆くも武門の哀れを東海の隅に留めしより、六十餘州に到らぬ隈《くま》なき平家の權勢、驕《おご》るもの久しからずとは驕れるもの如何で知るべき。養和《やうわ》の秋、富士河の水禽《みづとり》も、まだ一年《ひととせ》の來《こ》ぬ夢なれば、一門の公卿殿上人《こうけいてんじやうびと》は言はずもあれ、上下の武士|何時《いつ》しか文弱《ぶんじやく》の流《ながれ》に染《そ》みて、嘗て丈夫《ますらを》の譽に見せし向ふ疵も、いつの間にか水鬢《みづびん》の陰《かげ》に掩《おほ》はれて、重《おも》きを誇りし圓打《まるうち》の野太刀《のだち》も、何時しか銀造《しろがねづくり》の細鞘に反《そり》を打たせ、清らなる布衣《ほい》の下に練貫《ねりぬき》の袖さへ見ゆるに、弓矢持つべき手に管絃の調《しらべ》とは、言ふもうたてき事なりけり。
 時頼|世《よ》の有樣を觀て熟々《つら/\》思ふ樣《やう》、扨も心得ぬ六波羅武士が擧動《ふるまひ》かな、父なる人、祖父なる人は、昔知らぬ若殿原に行末短き榮耀《ええう》の夢を貪らせんとて其の膏血はよも濺《そゝ》がじ。萬一|事有《ことあ》るの曉には絲竹《いとたけ》に鍛へし腕《かひな》、白金造《しろがねづくり》の打物《うちもの》は何程の用にか立つべき。射向《いむけ》の袖を却て覆ひに捨鞭《すてむち》のみ烈しく打ちて、笑ひを敵に殘すは眼《ま》のあたり見るが如し。君の御馬前に天晴《あつぱれ》勇士の名を昭《あらは》して討死《うちじに》すべき武士《ものゝふ》が、何處に二つの命ありて、歌舞優樂の遊に荒《すさ》める所存の程こそ知られね。――弓矢の外には武士の住むべき世ありとも思はぬ一徹の時頼には、兎角|慨《なげか》はしく、苦々《にが/\》しき事のみ耳目に觸れて、平和の世の中《なか》面白からず、あはれ何處にても一戰《ひといくさ》の起れかし、いでや二十餘年の風雨に鍛へし我が技倆を顯はして、日頃我れを武骨物《ぶこつもの》と嘲りし優長武士に一泡《ひとあわ》吹かせんずと思ひけり。衆人醉へる中に獨り醒むる者は容《い》れられず、斯かる氣質なれば時頼は自《おのづ》から儕輩《ひと/″\》に疎《うとん》ぜられ、瀧口時頼とは武骨者の異名《いみやう》よなど嘲り合ひて、時流外《なみはづ》れに粗大なる布衣を着て鐵卷《くろがねまき》の丸鞘を鴎尻《かもめじり》に横《よこた》へし後姿《うしろすがた》を、蔭にて指《ゆびさ》し笑ふ者も少からざりし。

            *        *
       *        *

 西八條の花見の宴に時頼も連《つらな》りけり。其夜|更闌《かうた》けて家に歸り、其の翌朝は常に似ず朝日影|窓《まど》に差込む頃やうやく臥床《ふしど》を出でしが、顏の色少しく蒼味《あをみ》を帶びたり、終夜《よもすがら》眠らでありしにや。
 此夜、御所の溝端に人跡絶えしころ、中宮の御殿の前に月を負ひて歩むは、紛《まが》ふ方なく先の夜に老女を捉へて横笛が名を尋ねし武士なり。物思はしげに御門の邊を行きつ戻りつ、月の光に振向ける顏見れば、まさしく齋藤瀧口時頼なりけり。

   第四

 物の哀れも是れよりぞ知る、戀ほど世に怪しきものはあらじ。稽古の窓に向つて三諦止觀《さんたいしくわん》の月を樂める身も、一|朝《てう》折りかへす花染《はなぞめ》の香《か》に幾年《いくとせ》の行業《かうげふ》を捨てし人、百夜《もゝよ》の榻《しぢ》の端書《はしがき》につれなき君を怨みわびて、亂れ苦《くるし》き忍草《しのぶぐさ》の露と消えにし人、さては相見ての後のたゞちの短きに、戀ひ悲みし永の月日を恨みて三|衣《え》一|鉢《ぱつ》に空《あだ》なる情《なさけ》を觀ぜし人、惟《おも》へば孰《いづ》れか戀の奴《やつこ》に非ざるべき。戀や、秋萩《あきはぎ》の葉末《はずゑ》に置ける露のごと、空《あだ》なれども、中に寫せる月影は圓《まどか》なる望とも見られぬべく、今の憂身《うきみ》をつらしと喞《かこ》てども、戀せぬ前の越方《こしかた》は何を樂みに暮らしけんと思へば、涙は此身の命なりけり。夕旦《ゆふべあした》の鐘の聲も餘所《よそ》ならぬ哀れに響く今日《けふ》は、過ぎし春秋《はるあき》の今更《いまさら》心なきに驚かれ、鳥の聲、蟲の音《ね》にも心|何《なに》となう動きて、我にもあらで情《なさけ》の外に行末もなし。戀せる今を迷《まよひ》と觀れば、悟れる昔の慕ふべくも思はれず、悟れる今を戀と觀れば、昔の迷こそ中々に樂しけれ。戀ほど世に訝《いぶか》しきものはあらじ。そも人、何を望み何を目的《めあて》に渡りぐるしき戀路《こひぢ》を辿るぞ。我も自ら知らず、只々朧げながら夢と現《うつゝ》の境を歩む身に、ましてや何れを戀の始終と思ひ分たんや。そも戀てふもの、何《いづ》こより來り何こをさして去る、人の心の隈は映《うつ》すべき鏡なければ何れ思案の外なんめり。
 いかなれば齋藤瀧口、今更《いまさら》武骨者の銘打つたる鐵卷《くろがね》をよそにし、負ふにやさしき横笛の名に笑《ゑ》める。いかなれば時頼、常にもあらで夜を冒《をか》して中宮の御所《ごしよ》には忍べる。吁々いつしか戀の淵に落ちけるなり。
 西八條の花見の席に、中宮の曹司横笛を一目見て時頼は、世には斯かる氣高《けだか》き美しき女子《をなご》も有るもの哉と心|竊《ひそか》に駭きしが、雲を遏《とゞ》め雲を※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、14-5]《めぐら》す妙《たへ》なる舞の手振《てぶり》を見もて行くうち、胸怪《むねあや》しう轟き、心何となく安からざる如く、二十三年の今まで絶えて覺《おぼえ》なき異樣の感情|雲《くも》の如く湧き出でて、例へば渚《なぎさ》を閉ぢし池の氷の春風《はるかぜ》に溶《と》けたらんが如く、若しくは滿身の力をはりつめし手足《てあし》の節々《ふし/″\》一時に緩《ゆる》みしが如く、茫然として行衞も知らぬ通路《かよひぢ》を我ながら踏み迷へる思して、果は舞《まひ》終り樂《がく》收まりしにも心付かず、軈て席を退《まか》り出でて何處ともなく出で行きしが、あはれ横笛とは時頼其夜初めて覺えし女子の名なりけり。
 日來《ひごろ》快濶にして物に鬱する事などの夢にもなかりし時頼の氣風|何時《いつ》しか變りて、憂《うれ》はしげに思ひ煩《わづら》ふ朝夕の樣|唯《ただ》ならず、紅色《あかみ》を帶びしつや/\しき頬の色少しく蒼ざめて、常にも似で物言ふ事も稀になり、太息《といき》の數のみぞ唯ゝ増さりける。果は濡羽《ぬれは》の厚鬢《あつびん》に水櫛當《みづぐしあて》て、筈長《はずなが》の大束《おほたぶさ》に今樣の大紋《だいもん》の布衣《ほい》は平生の氣象に似もやらずと、時頼を知れる人、訝しく思はぬはなかりけり。

   第五

 打つて變りし瀧口が今日此頃《けふこのごろ》の有樣に、あれ見よ、當世嫌ひの武骨者《ぶこつもの》も一度は折らねばならぬ我慢なるに、笑止や日頃《ひごろ》吾等を尻目に懸けて輕薄武士と言はぬ計りの顏、今更|何處《どこ》に下げて吾等に對《むか》ひ得るなど、後指《うしろゆび》さして嘲り笑ふものあれども、瀧口少しも意に介せざるが如く、應對等は常の如く振舞ひけり。されど自慢の頬鬢|掻撫《かいな》づる隙《ひま》もなく、青黛の跡絶えず鮮かにして、萌黄《もえぎ》の狩衣《かりぎぬ》に摺皮《すりかは》の藺草履《ゐざうり》など、よろづ派手やかなる出立《いでたち》は人目に夫《それ》と紛《まが》うべくもあらず。顏容《かほかたち》さへ稍々|窶《やつ》れて、起居《たちゐ》も懶《ものう》きがごとく見ゆれども、人に向つて氣色《きしよく》の勝《すぐ》れざるを喞ちし事もなく、偶々《たま/\》病などなきやと問ふ人あれば、却つて意外の面地《おももち》して、常にも増して健かなりと答へけり。
 皆是れ戀の業《わざ》なりとは、哀れや時頼未だ夢にも心づかず、我ともなく人ともあらで只々思ひ煩へるのみ。思ひ煩へる事さへも心自ら知らず、例へば夢の中に伏床《ふしど》を拔け出でて終夜出《よもすがらやま》の巓《いたゞき》、水の涯《ほとり》を迷ひつくしたらん人こそ、さながら瀧口が今の有樣に似たりとも見るべけれ。
 人にも我にも行衞知れざる戀の夢路をば、瀧口何處のはてまで辿りけん、夕とも言はず、曉とも言はず、屋敷を出でて行先は己れならで知る人もなく、只々|門出《かどで》の勢ひに引きかへて、戻足《もどりあし》の打ち蕭《しお》れたる樣、さすがに遠路の勞《つかれ》とも思はれず。一月餘《ひとつきあまり》も過ぎて其年の春も暮れ、青葉の影に時鳥《ほとゝぎす》の初聲聞く夏の初めとなりたれども、かゝる有樣の悛《あらた》まる色だに見えず、はては十幾年の間、朝夕樂みし弓馬の稽古さえ自《おのづか》ら怠り勝になりて、胴丸《どうまる》に積もる埃《ほこり》の堆《うづたか》きに目もかけず、名に負へる鐵卷《くろがねまき》は高く長押《なげし》に掛けられて、螺鈿の櫻を散らせる黒鞘に摺鮫《すりざめ》の鞘卷《さやまき》指《さ》し添ヘたる立姿《たちすがた》は、若《も》し我ならざりせば一月前《ひとつきまへ》の時頼、唾も吐きかねざる華奢《きやしや》の風俗なりし。
 されば變り果てし容姿に慣れて、笑ひ譏《そし》る人も漸く少くなりし頃、蝉聲《せみ》喧《かまびす》しき夏の暮にもなりけん。瀧口が顏愈々やつれ、頬肉は目立つまでに落ちて眉のみ秀で、凄きほど色|蒼白《あを》みて濃《こまや》かなる雙の鬢のみぞ、愈々其の澤《つや》を増しける。氣向《きむ》かねばとて、病と稱して小松殿が熊野參寵の伴《とも》にも立たず、動《やゝ》もすれば、己が室に閉籠りて、夜更くるまで寢もやらず、日頃は絶えて用なき机に向ひ、一|穗《すゐ》の燈《ともしび》挑《かゝ》げて怪しげなる薄色の折紙《をりがみ》延べ擴げ、命毛《いのちげ》の細々と認むる小筆の運び絶間なく、卷いてはかへす思案の胸に、果は太息《といき》と共に封じ納むる文の數々《かず/\》、燈の光に宛名を見れば、薄墨の色の哀れを籠めて、何時の間に習ひけん、貫之流《つらゆきりう》の流れ文字に『横笛さま』。
 世に艷《なまめ》かしき文てふものを初めて我が思ふ人に送りし時は、心のみを頼みに安からぬ日を覺束なくも暮らせしが、籬に觸るゝ夕風のそよとの頼《たより》だになし。前もなき只の一度に人の誠のいかで知らるべきと、更に心を籠めて寄する言の葉も亦|仇《あだ》し矢の返す響もなし。心せはしき三度《みたび》五度《いつたび》、答なきほど迷ひは愈々深み、氣は愈々狂ひ、十度、二十度、哀れ六尺の丈夫《ますらを》が二つなき魂をこめし千束《ちづか》なす文は、底なき谷に投げたらん礫《つぶて》の如く、只の一度の返り言《ごと》もなく、天《あま》の戸《と》渡《わた》る梶の葉に思ふこと書く頃も過ぎ、何時《いつ》しか秋風の哀れを送る夕まぐれ、露を命の蟲の音の葉末にすだく聲悲し。

   第六

 思へば我しらで戀路《こひぢ》の闇に迷ひし瀧口こそ哀れなれ。鳥部野《とりべの》の煙絶ゆる時なく、仇し野の露置くにひまなき、まゝならぬ世の習はしに漏るゝ我とは思はねども、相見ての刹那に百年《もゝとせ》の契をこむる頼もしき例《ためし》なきにもあらぬ世の中に、いかなれば我のみは、天の羽衣《はごろも》撫で盡《つく》すらんほど永き悲しみに、只々|一時《ひととき》の望みだに得協《えかな》はざる。思へば無情《つれな》の横笛や、過ぎにし春のこのかた、書き連《つら》ねたる百千《もゝち》の文に、今は我には言殘せる誠もなし、良《よ》しあればとて此上短き言の葉に、胸にさへ餘る長き思を寄せん術《すべ》やある。情《つれ》なの横笛や、よしや送りし文は拙くとも、變らぬ赤心《まこと》は此の春秋の永きにても知れ。一夜の松風に夢さめて、思寂《おもひさび》しき衾《ふすま》の中に、我《わが》ありし事、薄《すゝき》が末の露程も思ひ出ださんには、など一言《ひとこと》の哀れを返さぬ事やあるべき。思へば/\心なの横笛や。
 然《さ》はさりながら、他《あだ》し人の心、我が誠もて規《はか》るべきに非ず。路傍《みちのべ》の柳は折る人の心に任《まか》せ、野路《のぢ》の花は摘む主《ぬし》常ならず、數多き女房曹司の中に、いはば萍《うきくさ》の浮世の風に任する一女子の身、今日は何れの汀に留まりて、明日《あす》は何處の岸に吹かれやせん。千束《ちづか》なす我が文は讀みも了らで捨てやられ、さそふ秋風に桐一葉の哀れを殘さざらんも知れず。況《まし》てや、あでやかなる彼れが顏《かんばせ》は、浮きたる色を愛《め》づる世の中に、そも幾その人を惱しけん。かの宵にすら、かの老女を捉へて色清げなる人の、嫉ましや、早や彼が名を尋ねしとさへ言へば、思ひを寄するもの我のみにてはなかりけり。よしや他《ひと》にはあらぬ赤心《まこと》を寄するとも、風や何處と聞き流さん。浮きたる都の艷女《たをやめ》に二つなき心盡しのかず/\は我身ながら恥かしや、アヽ心なき人に心して我のみ迷いし愚さよ。
 待てしばし、然《さ》るにても立波荒《たつなみあら》き大海《わたつみ》の下にも、人知らぬ眞珠《またま》の光あり、外《よそ》には見えぬ木影《こかげ》にも、情《なさけ》の露の宿する例《ためし》。まゝならぬ世の習はしは、善きにつけ、惡しきにつけ、人毎《ひとごと》に他《ひと》には測られぬ憂《うき》はあるものぞかし。あはれ後とも言はず今日の今、我が此思ひを其儘に、いづれいかなる由ありて、我が思ふ人の悲しみ居らざる事を誰か知るや。想へば、那《か》の氣高《けだか》き※[#「※」は「くさかんむり」の下に「月+曷」、第3水準1-91-26、19-12]《らふ》たけたる横笛を萍《うきくさ》の浮きたる艷女《たをやめ》とは僻《ひが》める我が心の誤ならんも知れず。さなり、我が心の誤ならんも知れず。鳴く蝉よりも鳴かぬ螢の身を焦すもあるに、聲なき哀れの深さに較《くら》ぶれば、仇浪《あだなみ》立てる此胸の淺瀬は物の數《かず》ならず。そもや心なき草も春に遇へば笑ひ、情《じやう》なき蟲も秋に感ずれば鳴く。血にこそ染まね、千束なす紅葉重《もみぢがさね》の燃ゆる計りの我が思ひに、薄墨の跡だに得還《えかへ》さぬ人の心の有耶無耶《ありやなしや》は、誰か測り、誰か知る。然《さ》なり、情《つれ》なしと見、心なしと思ひしは、僻める我身の誤なりけり。然るにても――
 瀧口の胸は麻の如く亂れ、とつおいつ、或は恨み、或は疑ひ、或は惑ひ、或は慰め、去りては來り、往きては還り、念々不斷の妄想、流は千々に異《かは》れども、落行く末はいづれ同じ戀慕の淵。迷の羈絆《きづな》目に見えねば、勇士の刃も切らんに術《すべ》なく、あはれや、鬼も挫《ひし》がんず六波羅一の剛《がう》の者《もの》、何時《いつ》の間《ま》にか戀の奴《やつこ》となりすましぬ。
 一夜|時頼《ときより》、更闌《かうた》けて尚ほ眠りもせず、意中の幻影《まぼろし》を追ひながら、爲す事もなく茫然として机に憑《よ》り居しが、越し方、行末の事、端《はし》なく胸に浮び、今の我身の有樣に引き比《くら》べて、思はず深々《ふかぶか》と太息《といき》つきしが、何思ひけん、一聲高く胸を叩いて躍り上《あが》り、『嗚呼|過《あやま》てり/\』。

   第七

 歌物語《うたものがたり》に何の癡言《たはこと》と聞き流せし戀てふ魔に、さては吾れ疾《とく》より魅《み》せられしかと、初めて悟りし今の刹那に、瀧口が心は如何《いか》なりしぞ。『嗚呼過てり』とは何より先に口を衝いて覺えず出でし意料無限の一語、襟元に雪水を浴びし如く、六尺の總身ぶる/\と震ひ上りて、胸轟き、息《いき》せはしく、『むゝ』とばかりに暫時《しばし》は空を睨んで無言の體《てい》。やがて眼《め》を閉ぢてつくづく過越方《すぎこしかた》を想ひ返せば、哀れにもつらかりし思ひの數々《かず/\》、さながら世を隔てたらん如く、今更|明《あ》かし暮らせし朝夕の如何にしてと驚かれぬる計り。夢かと思へば、現《うつ》せ身の陽炎《かげろふ》の影とも消えやらず、現《うつゝ》かと見れば、夢よりも尚ほ淡き此の春秋の經過、例へば永の病に本性を失ひし人の、やうやく我に還りしが如く、瀧口は只々恍惚として呆るゝばかりなり。
『嗚呼過てり/\、弓矢《ゆみや》の家に生《う》まれし身の、天晴《あつぱれ》功名手柄して、勇士の譽を後世に殘すこそ此世に於ける本懷なれ。何事ぞ、眞の武士の唇頭《くちびる》に上《の》ぼすも忌《いま》はしき一女子の色に迷うて、可惜《あたら》月日《つきひ》を夢現《ゆめうつゝ》の境に過《すご》さんとは。あはれ南無八幡大菩薩も照覽あれ、瀧口時頼が武士の魂の曇なき證據、眞《まつ》此の通り』と、床《とこ》なる一刀スラリと拔きて、青燈の光に差し付くれば、爛々たる氷の刃に水も滴《したゝ》らんず無反《むそり》の切先《きつさき》、鍔を銜《ふく》んで紫雲の如く立上《たちのぼ》る燒刃《やきば》の匂《にほ》ひ目も覺《さ》むるばかり。打ち見やりて時頼|莞爾《につこ》と打ち笑《ゑ》み、二振三振《ふたふりみふり》、不圖《ふと》平見《ひらみ》に映る我が顏見れば、こはいかに、内落ち色|蒼白《あをじろ》く、ありし昔に似もつかぬ悲慘の容貌。打ち駭きて、ためつ、すがめつ、見れば見るほど變り果てし面影《おもかげ》は我ならで外になし。扨も窶れたるかな、愧《はづか》しや我を知れる人は斯かる容《すがた》を何とか見けん――、そも斯くまで骨身をいためし哀れを思へば、深さは我ながら程知らず、是も誰《た》が爲め、思へば無情《つれな》の人心《ひとごゝろ》かな。
 碎けよと握り詰めたる柄《つか》も氣も何時《いつ》しか緩《ゆる》みて、臥蠶《ぐわさん》の太眉《ふとまゆ》閃々と動きて、覺えず『あゝ』と太息《といき》つけば、霞む刀に心も曇り、映《うつ》るは我面《わがかほ》ならで、烟の如き横笛が舞姿。是はとばかり眼を閉ぢ、氣を取り直し、鍔音高く刃《やいば》を鞘に納むれば、跡には燈の影ほの暗く、障子に映る影さびし。
 嗚呼々々、六尺の體《み》に人竝みの膽は有りながら、さりとは腑甲斐なき我身かな。影も形もなき妄念《まうねん》に惱まされて、しらで過ぎし日はまだしもなれ、迷ひの夢の醒め果てし今はの際《きは》に、めめしき未練は、あはれ武士ぞと言ひ得べきか。輕しと喞《かこ》ちし三尺二寸、双腕《もろうで》かけて疊みしはそも何の爲の極意《ごくい》なりしぞ。祖先の苦勞を忘れて風流三昧に現《うつゝ》を拔かす當世武士を尻目にかけし、半歳前の我は今|何處《いづく》にあるぞ。武骨者と人の笑ふを心に誇りし齋藤時頼に、あはれ今無念の涙は一滴も殘らずや。そもや瀧口が此身は空蝉《うつせみ》のもぬけの殼《から》にて、腐れしまでも昔の膽の一片も殘らぬか。
 世に畏るべき敵に遇はざりし瀧口も、戀てふ魔神には引く弓もなきに呆れはてぬ。無念と思へば心愈々亂れ、心愈々亂るゝに隨《つ》れて、亂脈打てる胸の中に迷ひの雲は愈々擴がり、果は狂氣の如くいらちて、時ならぬ鳴弦の響、劍撃の聲に胸中の渾沌を清《すま》さんと務むれども、心茲にあらざれば見れども見えず、聞けども聞えず、命の蔭に蹲踞《うづくま》る一念の戀は、玉の緒ならで斷たん術もなし。
 誠や、戀に迷へる者は猶ほ底なき泥中に陷れるが如し。一寸|上《うへ》に浮ばんとするは、一寸|下《した》に沈むなり、一尺|岸《きし》に上《のぼ》らんとするは、一尺|底《そこ》に下《くだ》るなり、所詮自ら掘れる墳墓に埋るゝ運命は、悶え苦みて些の益もなし。されば悟れるとは己れが迷を知ることにして、そを脱《だつ》せるの謂《いひ》にはあらず。哀れ、戀の鴆毒《ちんどく》を渣《かす》も殘さず飮み干《ほ》せる瀧口は、只々坐して致命の時を待つの外なからん。

   第八

 消えわびん露の命を、何にかけてや繋《つな》ぐらんと思ひきや、四五日|經《へ》て瀧口が顏に憂の色漸く去りて、今までの如く物につけ事に觸れ、思ひ煩ふ樣《さま》も見えず、胸の嵐はしらねども、表面《うはべ》は槇《まき》の梢のさらとも鳴らさず、何者か失意の戀にかへて其心を慰むるものあればならん。
 一日《あるひ》、瀧口は父なる左衞門に向ひ、『父上に事改《ことあらた》めて御願ひ致し度き一義あり』。左衞門『何事ぞ』と問へば、『斯かる事、我口より申すは如何《いかゞ》なものなれども、二十を越えてはや三歳にもなりたれば、家に洒掃の妻なくては萬《よろづ》に事缺《ことか》けて快《こゝろよ》からず、幸ひ時頼|見定《みさだ》め置きし女子《をなご》有れば、父上より改めて婚禮を御取計らひ下されたく、願ひと言ふは此事に候』。人傳《ひとづ》てに名を聞きてさへ愧《はぢ》らふべき初妻《うひづま》が事、顏赤らめもせず、落付き拂ひし語《ことば》の言ひ樣、仔細ありげなり。左衞門笑ひながら、『これは異《い》な願ひを聞くものかな、晩《おそ》かれ早かれ、いづれ持たねばならぬ妻なれば、相應《ふさ》はしき縁もあらばと、老父《われ》も疾くより心懸け居りしぞ。シテ其方《そなた》が見定め置きし女子とは、何れの御内《みうち》か、但しは御一門にてもあるや、どうぢや』。『小子《それがし》が申せし女子は、然《さ》る門地ある者ならず』。『然《さ》らばいかなる身分《みぶん》の者ぞ、衞府附《ゑふづき》の侍《さむらひ》にてもあるか』。『否《いや》、さるものには候はず、御所の曹司に横笛と申すもの、聞けば御室《おむろ》わたりの郷家の娘なりとの事』。
 瀧口が顏は少しく青ざめて、思ひ定めし眼の色|徒《たゞ》ならず。父は暫《しば》し語《ことば》なく俯《うつむ》ける我子の顏を凝視《みつ》め居しが、『時頼、そは正氣《しやうき》の言葉か』。『小子《それがし》が一生の願ひ、神以《しんもつ》て詐《いつわ》りならず』。左衞門は兩手を膝に置き直して聲勵まし、『やよ時頼、言ふまでもなき事なれど、婚姻は一生の大事と言ふこと、其方《そち》知らぬ事はあるまじ。世にも人にも知られたる然《しか》るべき人の娘を嫁子《よめご》にもなし、其方《そち》が出世をも心安うせんと、日頃より心を用ゆる父を其方は何と見つるぞ。よしなき者に心を懸けて、家の譽をも顧みぬほど、無分別の其方《そち》にてはなかりしに、扨は豫《かね》てより人の噂に違はず、横笛とやらの色に迷ひしよな』。『否、小子《それがし》こと色に迷はず、香《か》にも醉はず、神以《しんもつ》て戀でもなく浮氣でもなし、只々少しく心に誓ひし仔細の候へば』。
 左衞門は少しく色を起し、『默れ時頼、父の耳目を欺かん其の語《ことば》、先頃其方が儕輩の足助《あすけ》の二郎殿、年若きにも似ず、其方が横笛に想ひを懸け居ること、後の爲ならずと懇《ねんごろ》に潛かに我に告げ呉れしが、其方《そち》に限りて浮きたる事のあるべきとも思はれねば、心も措かで過ぎ來りしが、思へば父が庇蔭目《ひいきめ》の過《あやま》ちなりし。神以て戀にあらずとは何處《どこ》まで此父を袖になさんずる心ぞ、不埒者め。話にも聞きつらん、祖先|兵衞《ひやうゑ》直頼殿、餘五將軍《よごしやうぐん》に仕《つか》へて拔群《ばつくん》の譽を顯はせしこのかた、弓矢《ゆみや》の前には後《おく》れを取らぬ齋藤の血統《ちすぢ》に、女色《によしよく》に魂を奪はれし未練者は其方が初めぞ。それにても武門の恥と心付かぬか、弓矢の手前に面目なしとは思はずか。同じくば名ある武士の末にてもあらばいざしらず、素性《すじやう》もなき土民郷家の娘に、茂頼斯くて在らん内は、齋藤の門をくゞらせん事思ひも寄らず』。
 老《おい》の一徹短慮に息卷《いきま》き荒《あら》く罵れば、時頼は默然として只々|差俯《さしうつむ》けるのみ。やゝありて、左衞門は少しく面《おもて》を和《やは》らげて、『いかに時頼、人若《ひとわか》き間は皆|過《あやま》ちはあるものぞ、萌え出《い》づる時の美《うる》はしさに、霜枯《しもがれ》の哀れは見えねども、何《いづ》れか秋に遭《あ》はで果《は》つべき。花の盛りは僅に三日にして、跡の青葉《あをば》は何《いづ》れも色同じ、あでやかなる女子の色も十年はよも續かぬものぞ、老いての後に顧れば、色めづる若き時の心の我ながら解《わか》らぬほど癡《たは》けたるものなるぞ。過ちは改むるに憚る勿れとは古哲の金言、父が言葉|腑《ふ》に落ちたるか、横笛が事思ひ切りたるか。時頼、返事のなきは不承知か』。
 今まで眼を閉ぢて默然《もくねん》たりし瀧口は、やうやく首《かうべ》を擡《もた》げて父が顏を見上げしが、兩眼は潤《うるほ》ひて無限の情を湛《たゝ》へ、滿面に顯せる悲哀の裡《うち》に搖《ゆる》がぬ決心を示し、徐《おもむ》ろに兩手をつきて、『一一道理ある御仰《おんおほせ》、横笛が事、只今限り刀にかけて思ひ切つて候、其の代りに時頼が又の願ひ、御聞屆《おんきゝとゞけくだ》下さるべきや』。左衞門は然《さ》さもありなんと打點頭《うちうなづ》き、『それでこそ茂頼が悴《せがれ》、早速の分別、父も安堵したるぞ、此上の願とは何事ぞ』。『今日より永のおん暇《いとま》を給はりたし』。言ひ終るや、堰止《せきと》めかねし溜涙《ためなみだ》、はら/\と流しぬ。

   第九

 天にも地にも意外の一言に、左衞門呆れて口も開かず、只々其子の顏色打ち※[#「※」は「めへん+帝」、読みは「まも」、28-2]《まも》れば、瀧ロは徐ろに涙を拂ひ、『思ひの外なる御驚《おんおどろき》きに定めて浮《うわ》の空《そら》とも思《おぼ》されんが、此願ひこそは時頼が此座の出來心《できごゝろ》にては露候《つゆさふら》はず、斯かる曉にはと豫《かね》てより思決《おもひさだ》めし事に候。事の仔細を申さば、只々御心に違《たが》ふのみなるべけれども、申さざれば猶ほ以て亂心の沙汰とも思召《おぼしめ》されん。申すも思はゆげなる横笛が事、まこと言ひ交《かは》せし事だになけれども、我のみの哀れは中々に深さの程こそ知れね、つれなき人の心に猶更《なほさ》ら狂ふ心の駒を繋がむ手綱《たづな》もなく、此の春秋《はるあき》は我身ながら辛《つら》かりし。神かけて戀に非ず、迷に非ずと我は思へども、人には浮氣とや見えもしけん。唯々|劒《つるぎ》に切らん影もなく、弓もて射ん的《まと》もなき心の敵に向ひて、そも幾《いく》その苦戰をなせしやは、父上、此の顏容《かほかたち》のやつれたるにて御推量下されたし。時頼が六尺の體によくも擔《にな》ひしと自らすら駭く計りなる積り/\し憂事《うきこと》の數、我ならで外に知る人もなく、只々戀の奴よ、心弱き者よと世上《せじやう》の人に歌はれん殘念さ、誰れに向つて推量あれとも言はん人なきこそ、返す返すも口惜しけれ。此儘の身にては、どの顏|下《さ》げて武士よと人に呼ばるべき、腐れし心を抱《いだ》きて、外見ばかりの伊達《だて》に指さん事、兩刀の曇なき手前に心とがめて我から忍びず、只々此上は横笛に表向き婚姻を申入るゝ外なし、されどつれなき人心、今更靡かん樣もなく、且や素性《すじやう》賤《いや》しき女子なれば、物堅き父上の御容《おんゆる》しなき事|元《もと》より覺悟候ひしが、只々最後の思出《おもひで》にお耳を汚したるまでなりき。所詮天魔に魅入《みい》られし我身の定業《ぢやうごふ》と思へば、心を煩はすもの更になし。今は小子《それがし》が胸には横笛がつれなき心も殘らず、月日と共に積りし哀れも宿さず、人の恨みも我が愛《いつく》しみも洗ひし如く痕なけれども、殘るは只々此世の無常にして頼み少きこと、秋風の身にしみ/″\と感じて有漏《うろ》の身の換へ難き恨み、今更|骨身《ほねみ》に徹《こた》へ候。惟《おもんみ》れば誰が保ちけん東父西母が命《いのち》、誰が嘗《な》めたりし不老不死の藥、電光の裏に假の生を寄せて、妄念の間に露の命を苦しむ、愚《おろか》なりし我身なりけり。横笛が事、御容しなきこと小子《それがし》に取りては此上もなき善知識。今日《けふ》を限りに世を厭ひて誠の道に入り、墨染の衣《ころも》に一生を送りたき小子《それがし》が決心。二十餘年の御恩の程は申すも愚《おろか》なれども、何れ遁《のが》れ得ぬ因果の道と御諦《おんあきらめ》ありて、永《なが》の御暇《おんいとま》を給はらんこと、時頼が今生《こんじやう》の願に候』。胸一杯の悲しみに語《ことば》さへ震へ、語り了ると其儘、齒根《はぐき》喰ひ絞《しば》りて、詰《き》と耐ゆる斷腸の思ひ、勇士の愁歎、流石《さすが》にめゝしからず。
 過ぎ越《こ》せし六十餘年の春秋、武門の外を人の住むべき世とも思はず、涙は無念の時出づるものぞと思ひし左衞門が耳に、哀れに優しき瀧口が述懷の、何として解《と》かるべき。歌詠《うたよ》む人の方便とのみ思ひ居し戀に惱みしと言ふさへあるに、木の端《はし》とのみ嘲りし世捨人《よすてびと》が現在我子の願ならんとは、左衞門|如何《いか》でか驚かざるを得べき。夢かとばかり、一度は呆れ、一度は怒り、老の兩眼に溢るゝばかりの涙を浮べ、『やよ悴《せがれ》、今言ひしは慥に齋藤時頼が眞の言葉か、幼少より筋骨《きんこつ》人に勝れて逞しく、膽力さへ座《すわ》りたる其方、行末の出世の程も頼母しく、我が白髮首《しらがくび》の生甲斐《いきがひ》あらん日をば、指折りながら待侘《まちわ》び居たるには引換へて、今と言ふ今、老の眼に思ひも寄らぬ恥辱を見るものかな。奇怪とや言はん、不思議とや言はん。慈悲深き小松殿が、左衞門は善き子を持たれし、と我を見給ふ度毎《たびごと》のお言葉を常々人に誇りし我れ、今更乞食坊主の悴を持ちて、いづこに人に合《あは》する二つの顏ありと思うてか。やよ、時頼、ヨツク聞け、他は言はず、先祖代々よりの齋藤一家が被りし平家の御恩はそも幾何なりと思へるぞ。殊に弱年の其方を那程《あれほど》に目をかけ給ふ小松殿の御恩に對しても、よし如何に堪へ難き理由《わけ》あればとて、斯かる方外の事、言はれ得る義理か。弓矢の上にこそ武士の譽はあれ、兩刀捨てて世を捨てて、悟り顏なる悴を左衞門は持たざるぞ。上氣《じやうき》の沙汰ならば容赦《ようしや》もせん、性根《しやうね》を据ゑて、不所存のほど過《あやま》つたと言はぬかツ』。兩の拳を握りて、怒りの眼は鋭けれども、恩愛の涙は忍ばれず、雙頬傳うてはふり落つるを拭ひもやらず、一息つよく、『どうぢや、時頼、返答せぬかッ』。

   第十

 深く思ひ決《さだ》めし瀧口が一念は、石にあらねば轉《まろ》ばすべくもあらざれども、忠と孝との二道《ふたみち》に恩義をからみし父の言葉。思ひ設けし事ながら、今更に腸《はらわた》も千切《ちぎ》るゝばかり、聲も涙に曇りて、見上ぐる父の顏も定かならず、『仰せらるゝ事、時頼いかで理《ことわり》と承らざるべき。小松殿の御事は云ふも更なり、年寄り給ひたる父上に、斯かる嘆《なげき》を見參らする小子《それがし》が胸の苦しさは喩ふるに物もなけれども、所詮浮世と觀じては、一切の望に離れし我心、今は返さん術《すべ》もなし、忠孝の道、君父の恩、時頼何として疎《おろそ》かに存じ候べき。然《さ》りながら、一度人身を失へば萬劫還らずとかや、世を換へ生を移しても、生死妄念を離れざる身を思へば、悟《さとり》の日の晩《おそ》かりしに心|急《せ》かれて、世は是れ迄とこそ思はれ候へ。只々是れまで思ひ決めしまで重ね/″\し幾重の思案をば、御知りなき父上には、定めて若氣《わかげ》の短慮とも、當座の上氣《じやうき》とも聞かれつらんこそ口惜しけれ、言はば一生の浮沈に關《かゝは》る大事、時頼不肖ながらいかでか等閑《なほざり》に思ひ候べき。詮ずるに自他の悲しみを此胸一つに收め置いて、亡《なか》らん後の世まで知る人もなき身の果敢《はか》なさ、今更《いまさら》是非もなし。父上、願ふは此世の縁を是限《これかぎ》りに、時頼が身は二十三年の秋を一期に病の爲に敢《あへ》なくなりしとも御諦《おんあきら》め下されかし。不孝の悲しみは胸一つには堪へざれども、御詫《おんわび》申さんに辭《ことば》もなし、只々|御赦《おんゆる》しを乞ふ計りに候』。
 濺《そゝ》ぐ涙に哀れを籠《こ》めても、飽くまで世を背に見たる我子の決心、左衞門|今《いま》は夢とも上氣とも思はれず、愛《いと》しと思ふほど彌増《いやま》す憎《にく》さ。慈悲と恩愛に燃ゆる怒の焔《ほのほ》に滿面|朱《しゆ》を濺げるが如く、張り裂く計りの胸の思ひに言葉さへ絶え/″\に、『イ言はして置けば父をさし置きて我れ面白《おもしろ》の勝手《かつて》の理窟、左衞門聞く耳持たぬぞ。無常困果と、世にも癡《たは》けたる乞食坊主のえせ假聲《こわいろ》、武士がどの口もて言ひ得る語《ことば》ぞ。弓矢とる身に何の無常、何の困果。――時頼、善く聞け、畜類の狗《いぬ》さへ、一日の飼養に三年の恩を知ると云ふに非ずや。匐《は》へば立て、立てば歩めと、我が年の積《つも》るをも思はで育て上げし二十三年の親の辛苦、さては重代相恩《ぢゆうだいさうおん》の主君にも見換へんもの、世に有りと思ふ其方は、犬にも劣りしとは知らざるか。不忠とも、不孝とも、亂心とも、狂氣とも、言はん樣なき不所存者、左衞門が眼には、我子の容《かたち》に化《ば》けし惡魔とより外は見えざるぞ、それにても見事其處に居直りて、齋藤左衞門茂頼が一子ぞと言ひ得るか、ならば御先祖の御名立派に申して見よ。其方より暇乞ふ迄もなし、人の數にも入らぬ木の端《はし》は、勿論親でもなく、子でもなし。其一念の直らぬ間は、時頼、シヽ七生までの義絶ぞ』。言ひ捨てて、襖立切《ふすまたてき》り、疊觸《たゝみざは》りはも荒々《あら/\》しく、ツと奧に入りし左衞門。跡見送らんともせず、時頼は兩手をはたとつきて、兩眼の涙さながら雨の如し。
 外には鳥の聲うら悲しく、枯れもせぬに散る青葉二つ三つ、無情の嵐に搖落《ゆりおと》されて窓打つ音さへ恨めしげなる。――あはれ、世は汝のみの浮世かは。

   第十一

 一門の采邑、六十餘州の半《なかば》を越え、公卿・殿上人三十餘人、諸司衞府を合せて門下郎黨の大官榮職を恣《ほしいまゝ》にするもの其の數を知らず、げに平家の世は今を盛りとぞ見えにける。新大納言が隱謀|脆《もろ》くも敗れて、身は西海の隅《はて》に死し、丹波の少將|成經《なりつね》、平判官|康頼《やすより》、法勝寺の執事|俊寛等《しゆんくわんら》、徒黨の面々、波路《なみぢ》遙かに名も恐ろしき鬼界が島に流されしより、世は愈々平家の勢ひに麟伏し、道路目を側《そばだ》つれども背後に指《ゆびさ》す人だになし。一國の生殺與奪の權は、入道が眉目の間に在りて、衞府判官は其の爪牙たるに過ぎず。苟も身一門の末葉に連《つらな》れば、公卿華胄の公達《きんだち》も敢えて肩を竝ぶる者なく、前代未聞《ぜんだいみもん》の榮華は、天下の耳目を驚かせり。されば日に増し募る入道が無道の行爲《ふるまひ》、一朝の怒に其の身を忘れ、小松内府の諫《いさめ》をも用ひず、恐れ多くも後白河法皇を鳥羽《とば》の北殿に押籠め奉り、卿相雲客の或は累代の官職を褫《はが》れ、或は遠島に流人《るにん》となるもの四十餘人。鄙《ひな》も都も怨嗟の聲に充《み》ち、天下の望み既に離れて、衰亡の兆漸く現はれんとすれども、今日《けふ》の歡《よろこ》びに明日《あす》の哀れを想ふ人もなし。盛者必衰の理《ことわり》とは謂ひながら、權門の末路、中々に言葉にも盡《つく》されね。父入道が非道の擧動《ふるまひ》は一次再三の苦諫にも及ばれず、君父の間に立ちて忠孝二道に一身の兩全を期し難く、驕る平家の行末を浮べる雲と頼みなく、思ひ積りて熟々《つら/\》世の無常を感じたる小松の内大臣《ないふ》重盛卿、先頃《さきごろ》思ふ旨ありて、熊野參籠の事ありしが、歸洛の後は一室に閉籠りて、猥りに人に面《おもて》を合はせ給はず、外には所勞と披露ありて出仕《しゆつし》もなし。然《さ》れば平生徳に懷《なつ》き恩に浴せる者は言ふも更なり、知るも知らぬも潛かに憂ひ傷《いた》まざるはなかりけり。

            *        *
       *        *

 短き秋の日影もやゝ西に傾きて、風の音さへ澄み渡るはづき半《なかば》の夕暮の空、前には閑庭を控へて左右は廻廊[#「廻」は底本のまま]を繞《めぐ》らし、青海の簾《みす》長く垂れこめて、微月の銀鈎空しく懸れる一室は、小松殿が居間《ゐま》なり。内には寂然として人なきが如く、只々簾を漏れて心細くも立迷ふ香煙一縷、をりをりかすかに聞ゆる戞々の音は、念珠を爪繰《つまぐ》る響にや、主が消息を齎らして、いと奧床し。
 やゝありて『誰かある』と呼ぶ聲す、那方《あなた》なる廊下の妻戸《つまど》を開《あ》けて徐ろに出で來りたる立烏帽子に布衣着たる侍は齋藤瀧口なり。『時頼參りて候』と申上ぐれば、やがて一間《ひとま》を出で立ち給ふ小松殿、身には山藍色《やまあゐいろ》の形木《かたぎ》を摺りたる白布の服を纏ひ、手には水晶の珠數を掛け、ありしにも似ず窶れ給ひし御顏に笑《ゑみ》を含み、『珍らしや瀧口、此程より病氣《いたつき》の由にて予が熊野參籠の折より見えざりしが、僅の間に痛く痩せ衰へし其方が顏容《かほかたち》、日頃鬼とも組まんず勇士も身内の敵には勝たれぬよな、病は癒えしか』。瀧口はやゝしばし、詰《きつ》と御顏を見上げ居たりしが、『久しく御前に遠《とほざか》りたれば、餘りの御懷《おんなつかし》しさに病餘の身をも顧みず、先刻|遠侍《とほざむらひ》に伺候致せしが、幸にして御拜顏の折を得て、時頼身にとりて恐悦の至りに候』。言ふと其儘御前に打ち伏し、濡羽《ぬれは》の鬢に小波を打たせて悲愁の樣子、徒《たゞ》ならず見えけり。
 哀れや瀧口、世を捨てん身にも今を限りの名殘には一切の諸縁何れか煩惱ならぬはなし。比世の思ひ出に、夫《それ》とはなしに餘所ながらの告別《いとまごひ》とは神ならぬ身の知り給はぬ小松殿、瀧口が平生の快濶なるに似もやらで、打ち萎れたる容姿を、訝《いぶか》しげに見やり給ふぞ理《ことわり》なる。
 四方山《よもやま》の物語に時移り、入日《いりひ》の影も何時《いつ》しか消えて、冴え渡る空に星影寒く、階下の叢《くさむら》に蟲の鳴く聲露ほしげなり。燭を運び來りし水干に緋の袴着けたる童《わらべ》の後影《うしろかげ》見送りて、小松殿は聲を忍ばせ、『時頼、近う寄れ、得難き折なれば、予が改めて其方《そち》に頼み置く事あり』。

   第十二

 一|穗《すゐ》の燈《ともしび》を狹みて相對《あひたい》せる小松殿と時頼、物語の樣、最《い》と肅《しめ》やかなり。
『こは思ひも寄らぬ御言葉を承はり候ものかな、御世は盛りとこそ思はれつるに、など然《さ》る忌《い》まはしき事を仰せらるゝにや。憚り多き事ながら、殿《との》こそは御一門の柱石《ちゆうせき》、天下萬民の望みの集まる所、吾れ人|諸共《もろとも》に御運《ごうん》の程の久しかれと祈らぬ者はあらざるに、何事にて御在《おは》するぞ、聊かの御不例に忌まはしき御身の後を仰せ置かるゝとは。殊更《ことさら》少將殿の御事、不肖弱年の時頼、如何《いか》でか御託命の重きに堪へ申すべき。御言葉のゆゑよし、時頼つや/\合點《がてん》參らず』。
『時頼、さては其方《そち》が眼にも世は盛りと見えつるよな。盛りに見ゆればこそ、衰へん末の事の一入《ひとしほ》深く思ひ遣《や》らるゝなれ。弓矢の上に天下を與奪《よだつ》するは武門の慣習《ならひ》。遠き故事を引くにも及ばず、近き例《ためし》は源氏の末路《まつろ》。仁平《にんぺい》、久壽《きうじゆ》の盛りの頃には、六條判官殿、如何《いか》でか其の一族の今日《こんにち》あるを思はれんや。治《ち》に居て亂《らん》を忘れざるは長久の道、榮華の中に沒落を思ふも、徒《たゞ》に重盛が杞憂のみにあらじ』。
『然《さ》るにても幾千代重ねん殿が御代《みよ》なるに、など然ることの候はんや』。
『否《いな》とよ時頼、朝《あした》の露よりも猶ほ空《あだ》なる人の身の、何時《いつ》消えんも測り難し。我れ斯くてだに在らんにはと思ふ間《ひま》さへ中々に定かならざるに、いかで年月の後の事を思ひ料《はか》らんや。我もし兎も角もならん跡には、心に懸かるは只々少將が身の上、元來孱弱の性質、加ふるに幼《をさなき》より詩歌《しいか》數寄の道に心を寄せ、管絃舞樂の娯《たの》しみの外には、弓矢の譽あるを知らず。其方も見つらん、去《さん》ぬる春の花見の宴に、一門の面目と稱《たゝ》へられて、舞妓《まひこ》、白拍子《しらびやうし》にも比すべからん己《おの》が優技《わざ》をば、さも誇り顏に見えしは、親の身の中々に恥《はづ》かしかりし。一旦事あらば、妻子の愛、浮世の望みに惹《ひ》かされて、如何なる未練の最期《さいご》を遂ぐるやも測られず。世の盛衰は是非もなし、平家の嫡流として卑怯の擧動《ふるまひ》などあらんには、祖先累代の恥辱この上あるべからず。維盛が行末守り呉れよ、時頼、之ぞ小松が一期《いちご》の頼みなるぞ』。
『そは時頼の分《ぶん》に過ぎたる仰せにて候ぞや。現在|足助《あすけ》二郎重景など屈竟《くつきやう》の人々、少將殿の扈從《こしよう》には候はずや。若年未熟《じやくねんみじゆく》の時頼、人に勝《まさ》りし何の能《のう》ありて斯かる大任を御受け申すべき』。
『否々左にあらず。いかに時頼、六波羅上下の武士が此頃の有樣を何とか見つる。一時の太平に狎《な》れて衣紋裝束《えもんしやうぞく》に外見《みえ》を飾れども、誠《まこと》武士の魂あるもの幾何かあるべき。華奢風流に荒《すさ》める重景が如き、物の用に立つべくもあらず。只々彼が父なる與三左衞門景安は平治の激亂の時、二條堀河の邊りにて、我に代りて惡源太が爲に討たれし者ゆゑ、其の遺功を思うて我名の一字を與へ、少將が扈從《こしよう》となせしのみ。繰言《くりごと》ながら維盛が事頼むは其方一人。少將|事《こと》あるの日、未練の最期を遂ぐるやうのことあらんには、時頼、予は草葉の蔭より其方を恨むぞよ』。
 思ひ入りたる小松殿の御氣色《みけしき》、物の哀れを含めたる、心ありげの語《ことば》の端々《はし/″\》も、餘りの忝なさに思ひ紛れて只々感涙に咽《むせ》ぶのみ。風にあらで小忌《をみ》の衣《ころも》に漣立《さゞなみた》ち、持ち給へる珠數震ひ搖《ゆら》ぎてさら/\と音するに瀧口|首《かうべ》を擡《もた》げて、小松殿の御樣見上ぐれば、燈の光に半面を背《そむ》けて、御袖の唐草《からくさ》に徒《たゞ》ならぬ露を忍ばせ給ふ、御心の程は知らねども、痛はしさは一入《ひとしほ》深し。夜も更《ふ》け行きて、何時《いつ》しか簾《みす》を漏れて青月の光凄く、澄み渡る風に落葉ひゞきて、主が心問ひたげなり。
 蟲の音《ね》亙《わた》りて月高く、いづれも哀れは秋の夕、憂《う》しとても逃《のが》れん術《すべ》なき己《おの》が影を踏みながら、腕叉《うでこまぬ》きて小松殿の門《かど》を立ち出でし瀧口時頼。露にそぼちてか、布衣《ほい》の袖重げに見え、足の運《はこび》さながら醉へるが如し。今更《いまさら》思ひ決《さだ》めし一念を吹きかへす世に秋風はなけれども、積り積りし浮世の義理に迫られ、胸は涙に塞《ふさが》りて、月の光も朧《おぼろ》なり。武士の名殘も今宵《こよひ》を限り、餘所《よそ》ながらの告別とは知り給はで、亡からん後まで頼み置かれし小松殿。御仰《おんおほせ》の忝《かたじけな》さと、是非もなき身の不忠を想ひやれば、御言葉の節々《ふし/″\》は骨を刻《きざ》むより猶つらかりし。哀れ心の灰に冷え果てて浮世に立てん烟もなき今の我、あゝ何事も因果なれや。
 月は照れども心の闇に夢とも現《うつゝ》とも覺えず、行衞もしらず歩み來りしが、ふと頭を擧ぐれば、こはいかに身は何時《いつ》の間にか御所の裏手、中宮の御殿の邊《ほとり》にぞ立てりける。此春より來慣れたる道なればにや、思はぬ方に迷ひ來しものかなと、無情《つれな》かりし人に通ひたる昔忍ばれて、築垣《ついがき》の下《もと》に我知らず彳《たゝず》みける。折柄傍らなる小門の蔭にて『横笛』と言ふ聲するに心付き、思はず振向けば、立烏帽子に狩衣《かりぎぬ》着たる一個の侍《さむらひ》の此方に背を向けたるが、年の頃五十計りなる老女と額を合せて囁《さゝや》けるなり。

   第十三

 月より外に立聞ける人ありとも知らで、件の侍は聲|潛《ひそ》ませて、『いかに冷泉《れいぜい》、折重《をりかさ》ねし薄樣《うすやう》は薄くとも、こめし哀れは此秋よりも深しと覺ゆるに、彼の君の氣色《けしき》は如何なりしぞ。夜毎の月も數へ盡して、圓《まどか》なる影は二度まで見たるに、身の願の滿たん日は何れの頃にや。頼み甲斐なき懸橋《かけはし》よ』。
 怨みの言葉を言はせも敢へず、老女は疎《まば》らなる齒莖《はぐき》を顯はしてホヽと打笑《うちゑ》み、『然《さ》りとは戀する御身にも似合はぬ事を。此の冷泉に如才《じよさい》は露なけれども、まだ都慣れぬ彼の君なれば、御身が事|可愛《いと》しとは思ひながら、返す言葉のはしたなしと思はれんなど思ひ煩うてお在《は》すにこそ、咲かぬ中《うち》こそ莟ならずや』。言ひつゝツと男の傍に立寄りて耳に口よせ、何事か暫し囁《さゝや》きしが、一言毎《ひとことごと》に點頭《うなづ》きて冷《ひやゝ》かに打笑める男の肩を輕く叩きて、『お解《わか》りになりしや、其時こそは此の老婆《ばゞ》にも、秋にはなき梶の葉なれば、渡しの料《しろ》は忘れ給ふな、世にも憎きほど羨ましき二郎ぬしよ』。男は打笑ふ老女の袂を引きて、『そは誠か、時頼めはいよ/\思ひ切りしとか』。
 己れが名を聞きて、松影に潛める瀧口は愈々耳を澄しぬ。老女『此春より引きも切らぬ文の、此の二十日計りはそよとだに音なきは、言はでも著《し》るき、空《あだ》なる戀と思ひ絶えしにあんなれ。何事も此の老婆《ばゞ》に任せ給へ、又しても心元《こゝろもと》なげに見え給ふことの恨めしや、今こそ枯技《かれえだ》に雪のみ積れども、鶯鳴かせし昔もありし老婆、萬《よろづ》に拔目《ぬけめ》のあるべきや』。袖もて口を覆《おほ》ひ、さなきだに繁き額の皺を集めて、ホヽと打笑ふ樣、見苦しき事言はん方なし。
 後の日を約して小走りに歸り行く男の影をつく/″\見送りて、瀧口は枯木の如く立ちすくみ、何處ともなく見詰むる眼の光|徒《たゞ》ならず。『二郎、二郎とは何人《なんびと》ならん』。獨りごちつゝ首傾けて暫し思案の樣《さま》なりしが、忽ち眉揚《まゆあが》り眼鋭《まなこするど》く『さては』とばかり、面色《めんしよく》見る/\變りて握り詰めし拳ぶる/\と震ひぬ。何に驚きてか、垣根の蟲、礑《はた》と泣き止みて、空に時雨《しぐ》るゝ落葉|散《ち》る響だにせず。良《やゝ》ありて瀧口、顏色|和《やは》らぎて握りし拳も自《おのづか》ら緩み、只々|太息《といき》のみ深し。『何事も今の身には還らぬ夢の、恨みもなし。友を賣り人を詐る末の世と思へば、我が爲に善知識ぞや、誠なき人を戀ひしも浮世の習と思へば少しも腹立たず』。
 立上りつゝ築垣《ついがき》の那方《あなた》を見やれば、琴の音《ね》微《かす》かに聞ゆ。月を友なる怨聲は、若しや我が慕ひてし人にもやと思へば、一|期《ご》の哀れ自《おのづか》ら催されて、ありし昔は流石《さすが》に空《あだ》ならず、あはれ、よりても合はぬ片絲《かたいと》の我身の運《うん》は是非もなし。只々塵の世に我が思ふ人の長《とこしな》へに汚《けが》れざれ。戀に望みを失ひても、世を果敢《はか》なみし心の願、優に貴し。
 千緒萬端の胸の思ひを一念「無常」の熔爐に溶《と》かし去りて、澄む月に比べん心の明るさ。何れ終りは同じ紙衣玉席、白骨を抱きて榮枯を計りし昔の夢《ゆめ》、觀じ來れば世に秋風の哀れもなし。君も、父も、戀も、情《なさけ》も、さては世に産聲《うぶごゑ》擧げてより二十三年の旦夕に疊み上げ折重ねし一切の衆縁、六尺の皮肉と共に夜半《よは》の嵐に吹き籠めて、行衞も知らぬ雲か煙。跡には秋深く夜靜《しづか》にして、亙る雁《かりがね》の聲のみ高し。

   第十四

 治承三年五月、熊野參籠の此方《このかた》、日に増し重《おも》る小松殿の病氣《いたつき》。一門の頼《たより》、天下の望みを繋《つな》ぐ御身なれば、さすがの横紙《よこがみ》裂《やぶ》りける入道《にふだう》も心を痛め、此日|朝《あさ》まだき西八條より遙々《はる/″\》の見舞に、内府《ないふ》も暫く寢處《しんじよ》を出でて對面あり、半※[#「※」は「ひへん+向」、読みは「とき」、第3水準1-85-25、44-2」計《はんときばか》り經《へ》て還り去りしが、鬼の樣なる入道も稍々|涙含《なみだぐ》みてぞ見えにける。相隨ひし人々の、入道と共に還りし跡には、館《やかた》の中《うち》最《い》と靜にて、小松殿の側に侍《はんべ》るものは御子|維盛《これもり》卿と足助二郎重景のみ。維盛卿は父に向ひ、『先刻|祖父《そふ》禪門《ぜんもん》の御勸《おんすゝ》めありし宋朝渡來の醫師、聞くが如くんば世にも稀なる名手《めいしゆ》なるに、父上の拒《こば》み給ひしこそ心得ね』。訝《いぶかし》げに尋ぬるを、小松殿は打見やりて、はら/\と涙を流し、『形ある者は天命あり。三界の教主《けうしゆ》さへ、耆婆《きば》が藥にも及ばずして跋提河《ばつだいが》の涅槃《ねはん》に入り給ひき。佛體ならぬ重盛、まして唯ならぬ身の業繋《ごふけ》なれば、藥石如何でか治するを得べき。唯々父禪門の御身こそ痛ましけれ。位《くらゐ》人臣を極め、一門の榮華は何れの國、何れの代《よ》にも例《ためし》なく、齡六十に越え給へば、出離生死《しゆつりしやうじ》の御營《おんいとなみ》、無上菩提の願ひの外、何御不足《なにごふそく》のあれば、煩惱劫苦《ぼんなうごふく》の浮世に非道の權勢を貧り給ふ淺ましさ。如何に少將、此頃の御擧動《おんふるまひ》を何とか見つる、臣として君を押し籠《こ》め奉るさへあるに、下民の苦を顧みず、遷都の企ありと聞く。そもや平安三百年の都を離れて、何《いづ》こに平家の盛《さか》りあらん。父の非道を子として救ひ得ず、民の怨みを眼《ま》のあたり見る重盛が心苦《こゝろぐる》しさ。思ひ遣《や》れ少將』。
 維盛卿も、傍らに侍《じ》せる重景も首《かうべ》を垂れて默然《もくねん》たり。内府は病み疲れたる身を脇息《けふそく》に持たせて、少しく笑を含みて重景を見やり給ひ、『いかに二郎、保元《ほうげん》の弓勢《ゆんぜい》、平治《へいぢ》の太刀風《たちかぜ》、今も草木を靡《なび》かす力ありや。盛りと見ゆる世も何《いづ》れ衰ふる時はあり、末は濁りても涸《か》れぬ源には、流れも何時《いつ》か清《す》まんずるぞ。言葉の旨《むね》を忖《はか》り得しか』。重景は愧《はづか》しげに首《かうべ》を俯《ふ》し、『如何でかは』と答へしまゝ、はか/″\しく應《いらへ》せず。
 折から一人の青侍《あをざむらひ》廊下に手をつきて、『齋藤左衞門、只今御謁見を給はりたき旨願ひ候が、如何計らひ申さんや』と恐る/\申上ぐれば、小松殿、『是れへ連《つ》れ參れ』と言ふ。暫くして件の青侍に導かれ、緩端《えんばた》に平伏《へいふく》したる齋藤茂頼、齡七十に近けれども、猶ほ矍鑠《くわくしやく》として健《すこ》やかなる老武者《おいむしや》、右の鬢先より頬を掠《かす》めたる向疵《むかふきず》に、栗毛《くりげ》の琵琶股《びはもゝ》叩いて物語りし昔の武功忍ばれ、籠手《こて》摺《ずれ》に肉落ちて節《ふし》のみ高き太腕は、そも幾その人の首を切り落としけん。肩は山の如く張り、頭は雪の如く白し。『久しや左衞門』、小松殿|聲懸《こゑか》け給へば、左衞門は窪みし兩眼に涙を浮べ、『茂頼、此の老年に及び、一期の恥辱、不忠の大罪、御詫《おんわび》申さん爲め、御病體を驚かせ參らせて候』。小松殿|眉《まゆ》を顰め、『何事ぞ』と問ひ給えば、茂頼は無念の顏色にて、『愚息《ぐそく》時頼』、と言ひさして涙をはらはらと流せば、重景は傍らより膝を進め、『時頼殿に何事の候ひしぞ』。『遁世《とんせい》致して候』。
 是はと驚く維盛・重景、仔細如何にと問ひ寄るを應《こたへ》も得せず、やうやく涙を拭《のご》ひ、『君が山なす久年《きうねん》の御恩に對し、一日の報效をも遂《と》げず、猥りに身を捨つる條、不忠とも不義とも言はん方なき愚息が不所存、茂頼|此期《このご》に及び、君に合はす面目も候はず』。言ひつゝ懷《ふところ》より取り出す一封の書、『言語に絶えたる亂心にも、君が御事忘れずや、不忠を重ぬる業《わざ》とも知らで、殘しありし此の一通、君の御名を染めたれば、捨てんにも處なく、餘儀なく此《こゝ》に』と差上ぐるを、小松殿は取上げて、『こは予に殘せる時頼が陳情《ちんじやう》よな』と言ひつゝ繰りひろげ、つく/″\讀み了りて歎息し給い、『あゝ我れのみの浮世にてはなかりしか。――時頼ほどの武士《ものゝふ》も物の哀れに向はん刃《やいば》なしと見ゆるぞ。左衞門、今は嘆きても及ばぬ事、予に於いて聊か憾みなし。禍福はあざなえる繩の如く、世は塞翁《さいをう》が馬、平家の武士も數多きに、時頼こそは中々に嫉《ねたま》しき程の仕合者《しあはせもの》ぞ』。

   第十五

 更闌《かうた》けて、天地の間にそよとも音せぬ後夜《ごや》の靜けさ、やゝ傾きし下弦《かげん》の月を追うて、冴え澄める大空を渡る雁の影|遙《はる》かなり。ふけ行く夜に奧も表も人定まりて、築山《つきやま》の木影《こかげ》に鐵燈《かねとう》の光のみ侘《わび》しげなる御所《ごしよ》の裏局《うらつぼね》、女房曹司の室々も、今を盛りの寢入花《ねいりばな》、對屋《たいや》を照せる燈の火影《ほかげ》に迷うて、妻戸を打つ蟲の音のみ高し。※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、47-5]廊のあなたに、蘭燈《らんとう》尚ほ微《かすか》なるは誰《た》が部屋《へや》ならん、主は此《こ》の夜深《よふか》きにまだ寢もやらで、獨り黒塗の小机に打ちもたれ、首《かうべ》を俯して物思はしげなり。側《かたは》らにある衣桁《いかう》には、紅梅萌黄《こうばいもえぎ》の三衣《さんえ》を打懸けて、薫《た》き籠《こ》めし移り香《が》に時ならぬ花を匂はせ、机の傍に据ゑ付けたる蒔繪の架《たな》には、色々の歌集物語《かしふものがたり》を載せ、柱には一面の古鏡を掛けて、故《わざ》とならぬ女の魂見えて床し。主が年の頃は十七八になりもやせん、身には薄色に草模樣を染めたる小袿《こうちぎ》を着け、水際《みづぎは》立ちし額《ひたひ》より丈《たけ》にも餘らん濡羽《ぬれは》の黒髮《くろかみ》、肩に振分《ふりわ》けて後《うしろ》に下《さ》げたる姿、優に氣高し。誰れ見ねども膝も崩《くづ》さず、時々鬢のほつれに小波《さゞなみ》を打たせて、吐く息の深げなるに、哀れは此處《こゝ》にも漏れずと見ゆ。主は誰《た》ぞ、是れぞ中宮《ちゆうぐう》が曹司横笛なる。
 其の振り上《あ》ぐる顏を見れば、鬚眉《すうび》の魂を蕩《とろ》かして此世の外ならで六尺の體を天地の間に置き所なきまでに狂はせし傾國《けいこく》の色、凄き迄に美《うる》はしく、何を悲しみてか眼に湛《たゝ》ゆる涙の珠《たま》、海棠《かいだう》の雨も及ばず。膝の上に半《なか》ば繰弘《くりひろ》げたる文は何の哀れを籠めたるや、打ち見やる眼元《めもと》に無限の情《なさけ》を含み、果は恰も悲しみに堪へざるものの如く、ブル/\と身震ひして、丈もて顏を掩ひ、泣音《なくね》を忍樣いぢらし。
 折から、此方《こなた》を指《さ》して近づく人の跫音《あしおと》に、横笛手早く文を藏《をさ》め、涙を拭ふ隙《ひま》もなく、忍びやかに、『横笛樣、まだ御寢《ぎよしん》ならずや』と言ひつゝ部屋《へや》の障子|徐《しづか》に開きて入り來りしは、冷泉《れいぜい》と呼ぶ老女なりけり。横笛は見るより、蕭《しを》れし今までの容姿《すがた》忽ち變り、屹《きつ》と容《かたち》を改め、言葉さへ雄々《をゝ》しく、『冷泉樣には、何の要事あれば夜半《よは》には來給ひし』、と咎むるが如く問ひ返せば、ホヽと打笑ひ、『横笛さま、心強きも程こそあれ、少しは他《ひと》の情《なさけ》を酌み給へや。老い枯れし老婆の御身に嫌はるゝは、可惜《あたら》武士《ものゝふ》の戀死《こひじに》せん命《いのち》を思へば物の數ならず、然《さ》るにても昨夜《よべ》の返事、如何に遊ばすやら』。『幾度申しても御返事は同じこと、あな蒼蠅《うるさ》き人や』。慚《はづか》しげに面《おもて》を赧《あか》らむる常の樣子と打つて變りし、さてもすげなき捨言葉《すてことば》に、冷泉|訝《いぶか》しくは思へども、流石《さすが》は巧者《しれもの》、氣を外《そら》さず、『其の御心の強さに、彌増《いやま》す思ひに堪へ難き重景さま、世に時めく身にて、霜枯《しもがれ》の夜毎《よごと》に只一人、憂身《うきみ》をやつさるゝも戀なればこそ、横笛樣、御身《おんみ》はそを哀れとは思《おぼ》さずか。若氣《わかげ》の一|徹《てつ》は吾れ人ともに思ひ返しのなきもの、可惜《あたら》丈夫《ますらを》の焦《こが》れ死《じに》しても御身は見殺しにせらるゝ氣か、さりとは情《つれ》なの御心や』。横笛はさも懶《ものう》げに、『左樣の事は横笛の知らぬこと』。『またしてもうたてき事のみ、恥かしと思ひ給うての事か。年|弱《わか》き内は誰しも同じながら、斯くては戀は果《は》てざるものぞ。女子《をなご》の盛《さか》りは十年《ととせ》とはなきものになるに、此上《こよ》なき機會《をり》を取り外《はづ》して、卒塔婆小町《そとばこまち》の故事《ふるごと》も有る世の中。重景樣は御家と謂ひ、器量と謂ひ、何不足なき好き縁なるに、何とて斯くは否《いな》み給ふぞ。扨は瀧口殿が事思ひ給うての事か、武骨一|途《づ》の瀧口殿、文武兩道に秀《ひい》で給へる重景殿に較《くら》ぶべくも非ず。況《ま》してや瀧口殿は何思ひ立ちてや、世を捨て給ひしと專ら評判高きをば、御身は未だ聞き給はずや。世捨人《よすてびと》に情も義理も要《い》らばこそ、花も實《み》もある重景殿に只々一言の色善《いろよ》き返《かへ》り言《ごと》をし給へや。軈《やが》て兵衞にも昇り給はんず重景殿、御身が行末は如何に幸ならん。未だ浮世《うきよ》慣《な》れぬ御身なれば、思ひ煩らひ給ふも理《ことわり》なれども、六十路《むそぢ》に近き此の老婆、いかで爲惡《ためあ》しき事を申すべき、聞分け給ひしかや』。
 顏差し覗《のぞ》きて猫撫聲《ねこなでごゑ》、『や、や』と媚《こ》びるが如く笑《ゑみ》を含みて袖を引けば、今まで應《いらへ》えもせず俯《うつむ》き居たりし横笛は、引かれし袖を切るが如く打ち拂ひ、忽ち柳眉《りうび》を逆立《さかだ》て、言葉《ことば》鋭《するど》く、『無禮《なめげ》にはお在《は》さずや冷泉さま、榮華の爲に身を賣る遊女舞妓と横笛を思ひ給うてか。但しは此の横笛を飽くまで不義淫奔に陷《おとしい》れんとせらるゝにや。又しても問ひもせぬ人の批判、且つは深夜に道ならぬ媒介《なかだち》、横笛迷惑の至り、御歸りあれ冷泉樣。但し高聲擧げて宿直《とのゐ》の侍《さむらひ》を呼び起し申さんや』。

   第十六

 鋭き言葉に言い懲《こら》されて、餘儀なく立ち上《あが》る冷泉を、引き立てん計りに送り出だし、本意《ほい》なげに見返るを見向《みむき》もやらず、其儘障子を礑《はた》と締《し》めて、仆るゝが如く座に就ける横笛。暫しは恍然《うつとり》として氣を失へる如く、いづこともなく詰《きつ》と凝視《みつ》め居しが、星の如き眼の裏《うち》には溢《あふ》るゝばかりの涙を湛《たゝ》へ、珠の如き頬にはら/\と振りかゝるをば拭はんともせず、蕾の唇《くちびる》惜氣《をしげ》もなく喰ひしばりて、噛み碎く息の切れ/″\に全身の哀れを忍ばせ、はては耐へ得で、體を岸破《がば》とうつ伏して、人には見えぬ幻《まぼろし》に我身ばかりの現《うつゝ》を寄せて、よゝとばかりに泣き轉《まろ》びつ。涙の中にかみ絞る袂を漏れて、幽《かすか》に聞ゆる一言《ひとこと》は、誰れに聞かせんとてや、『ユ許し給はれ』。
 良《よ》しや眼前に屍《かばね》の山を積まんとも涙一滴こぼさぬ勇士に、世を果敢《はか》なむ迄に物の哀れを感じさせ、夜毎《よごと》の秋に浮身《うきみ》をやつす六波羅一の優男《やさをとこ》を物の見事に狂はせながら、「許し給はれ」とは今更ら何の醉興《すゐきよう》ぞ。吁々《あゝ》然《さ》に非ず、何處《いづこ》までの浮世なれば、心にもあらぬ情《つれ》なさに、互ひの胸の隔てられ、恨みしものは恨みしまゝ、恨みられしものは恨みられしまゝに、あはれ皮|一重《ひとへ》を堺に、身を換へ世を隔てても胡越の思ひをなす、吾れ人の運命こそ果敢《はか》なけれ。横笛が胸の裏こそ、中々に口にも筆にも盡されね。
 飛鳥川《あすかがは》の明日《あす》をも俟たで、絶ゆる間《ま》もなく移り變る世の淵瀬《ふちせ》に、百千代《もゝちよ》を貫きて變らぬものあらば、そは人の情にこそあんなれ。女子《をなご》の命《いのち》は只一《たゞひと》つの戀、あらゆる此世の望み、樂み、さては優《いう》にやさしき月花《つきはな》の哀れ、何れ戀ならぬはなし。胸に燃ゆる情の焔《ほのほ》は、他を燒かざれば其身を焚《や》かん、まゝならぬ戀路《こひぢ》に世を喞《かこ》ちて、秋ならぬ風に散りゆく露の命葉《いのちば》、或は墨染《すみぞめ》の衣《ころも》に有漏《うろ》の身を裹《つゝ》む、さては淵川《ふちかは》に身を棄つる、何れか戀の炎《ほむら》に其躯《そのみ》を燒き蓋《つ》くし、殘る冷灰の哀れにあらざらんや。女子の性《さが》の斯く情深《なさけふか》きに、いかで横笛のみ濁り無情《つれな》かるべきぞ。
 人知らぬ思ひに秋の夜半《よは》を泣きくらす横笛が心を尋ぬれば、次の如くなりしなり。
 想ひ※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、52-5]《まは》せば、はや半歳の昔となりぬ。西八條の屋方《やかた》に花見の宴《うたげ》ありし時、人の勸《すゝ》めに默《もだ》し難く、舞ひ終る一曲の春鶯囀に、數《かず》ならぬ身の端《はし》なくも人に知らるゝ身となりては、御室《おむろ》の郷《さと》に靜けき春秋《はるあき》を娯《たの》しみし身の心惑《こゝろまど》はるゝ事のみ多かり。見も知らず、聞きも習はぬ人々の人傳《ひとづて》に送る薄色《うすいろ》の折紙に、我を宛名《あてな》の哀れの數々《かず/\》。都慣《みやこな》れぬ身には只々胸のみ驚かれて、何と答へん術《すべ》だに知らず、其儘心なく打ち過ぐる程に、雲井の月の懸橋《かけはし》絶《た》えしと思ひてや、心を寄するものも漸く尠《すくな》くなりて、始めに渝《かは》らず文をはこぶは只々二人のみぞ殘りける。一人は齋藤瀧口にして、他の一人は足助二郎なり。横笛今は稍々《やゝ》浮世に慣れて、風にも露にも、餘所《よそ》ならぬ思ひ忍ばれ、墨染の夕《ゆふべ》の空に只々一人、連《つ》れ亙《わた》る雁の行衞|消《き》ゆるまで見送りて、思はず太息《といき》吐《つ》く事も多かりけり。二人の文を見るに付け、何れ劣らぬ情の濃《こまや》かさに心迷ひて、一つ身の何れを夫《それ》とも別ち兼ね、其れとは無しに人の噂に耳を傾くれば、或は瀧口が武勇|人《ひと》に勝《すぐ》れしを譽《ほ》むるもあれば、或は二郎が容姿《すがたかたち》の優しきを稱《たゝ》ふるもあり。共に小松殿の御内にて、世にも知られし屈指の名士。横笛愈々|心惑《こゝろまど》ひて、人の哀れを二重《ふたへ》に包みながら、浮世の義理の柵《しがらみ》に何方《いづかた》へも一言の應《いら》へだにせず、無情と見ん人の恨みを思ひやれば、身の心苦《こゝろぐる》しきも數ならず、夜半の夢|屡々《しば/\》駭きて、涙に浮くばかりなる枕邊《まくらべ》に、燻籠《ふせご》の匂ひのみ肅《しめ》やかなるぞ憐《あは》れなる。
 或日のこと。瀧口時頼が發心《ほつしん》せしと、誰れ言ふとなく大奧《おほおく》に傳はりて、さなきだに口善惡《くちさが》なき女房共、寄ると觸《さは》ると瀧口が噂に、横笛轟《とゞろ》く胸を抑《おさ》へて蔭ながら樣子を聞けば、情《つれ》なき戀路に世を果敢《はか》なみての業《わざ》と言ひ囃《はや》すに、人の手前も打ち忘れ、覺えず『そは誠か』と力を入れて尋ぬれば、女房共、『罪造りの横笛殿、可惜《あたら》勇士を木の端《はし》とせし』。人の哀れを面白げなる高笑《たかわらひ》に、是れはとばかり、早速《さそく》のいらへもせず、ツと己《おの》が部屋に走り歸りて、終日夜《ひねもすよ》もすがら泣き明かしぬ。
 
   第十七

『罪造りの横笛殿、あたら勇士に世を捨《す》てさせし』。あゝ半《なか》ば戲《たはむ》れに、半《なか》ば法界悋氣《ほふかいりんき》の此一語、横笛が耳には如何に響きしぞ。戀に望を失ひて浮世を捨てし男女の事、昔の物語に見し時は世に痛はしき事に覺えて、草色の袂に露の哀れを置きし事ありしが、猶《な》ほ現《うつゝ》ならぬ空事《そらごと》とのみ思ひきや、今や眼前かゝる悲しみに遇はんとは。而《しか》も世を捨てし其人は、命を懸けて己れを戀ひし瀧口時頼。世を捨てさせし其人は、可愛《いとし》とは思ひながらも世の關守《せきもり》に隔てられて無情《つれな》しと見せたる己れ横笛ならんとは。餘りの事に左右《とかう》の考も出でず、夢幻《ゆめまぼろし》の思ひして身を小机《こづくゑ》に打ち伏せば、『可惜《あたら》武士《ものゝふ》に世を捨てさせし』と怨むが如く、嘲けるが如き聲、何處《いづこ》よりともなく我が耳にひゞきて、其度毎《そのたびごと》に總身|宛然《さながら》水を浴《あ》びし如く、心も體も凍《こほ》らんばかり、襟を傳ふ涙の雫のみさすが哀れを隱し得ず。
 掻き亂れたる心、辛《やうや》う我に歸りて、熟々《つら/\》思へば、世を捨つるとは輕々しき戲事《ざれごと》に非ず。瀧口殿は六波羅上下に名を知られたる屈指の武士、希望に滿《み》てる春秋長き行末を、二十幾年の男盛《をとこざか》りに截斷《たちき》りて、樂しき此世を外に、身を佛門に歸し給ふ、世にも憐れの事にこそ。數多《あまた》の人に優《まさ》りて、君の御覺《おんおぼえ》殊に愛《めで》たく、一族の譽《ほまれ》を雙の肩に擔《にな》うて、家には其子を杖なる年老いたる親御《おやご》もありと聞く。他目《よそめ》にも數《かず》あるまじき君父の恩義|惜氣《をしげ》もなく振り捨てて、人の譏《そし》り、世の笑ひを思ひ給はで、弓矢とる御身に瑜伽《ゆが》三密の嗜《たしなみ》は、世の無常を如何に深く觀じ給ひけるぞ。ああ是れ皆此の身、此の横笛の爲《な》せし業《わざ》、刃《やいば》こそ當てね、可惜《あたら》武士を手に掛けしも同じ事。――思へば思ふほど、乙女心《をとめごゝろ》の胸塞《むねふさが》りて泣《な》くより外にせん術《すべ》もなし。
 吁々、協《かな》はずば世を捨てんまで我を思ひくれし人の情の程こそ中々に有り難けれ。儘ならぬ世の義理に心ならずとは言ひながら、斯かる誠ある人に、只々|一言《ひとこと》の返事《かへりごと》だにせざりし我こそ今更に悔《くや》しくも亦罪深けれ。手筐《てばこ》の底に祕《ひ》め置きし瀧口が送りし文、涙ながらに取り出して心遣《こゝろや》りにも繰《く》り返せば、先には斯くまでとも思はざりしに、今の心に讀みもて行く一字毎に腸《はらわた》も千切《ちぎ》るゝばかり。百夜《もゝよ》の榻《しぢ》の端《はし》がきに、今や我も數書《かずか》くまじ、只々つれなき浮世と諦《あきら》めても、命ある身のさすがに露とも消えやらず、我が思ふ人の忘れ難きを如何《いか》にせん。――など書き聯《つら》ねたるさへあるに、よしや墨染の衣に我れ哀れをかくすとも、心なき君には上《うは》の空とも見えん事の口惜《くちを》しさ、など硯の水に泪落《なみだお》ちてか、薄墨《うすずみ》の文字《もじ》定かならず。つらつら數ならぬ賤しき我身に引|較《くら》べ、彼を思ひ此を思へば、横笛が胸の苦しさは、譬へんに物もなし。世を捨てんまでに我を思ひ給ひし瀧口殿が誠の情《こゝろ》と竝ぶれば、重景が戀路は物ならず。況《ま》して日頃より文傳へする冷泉が、ともすれば瀧口殿を惡し樣《ざま》に言ひなせしは、我を誘《さそ》はん腹黒き人の計略《たくみ》ならんも知れず。斯く思ひ來れば、重景の何となう疎《うと》ましくなるに引き換へて、瀧口を憐れむの情愈々|切《せつ》にして、世を捨て給ひしも我れ故と思ふ心の身にひし/\と當りて、立ちても坐りても居堪《ゐたゝま》らず、窓打つ落葉のひゞきも、蟲の音《ね》も、我を咎むる心地して、繰擴《くりひろ》げし文《ふみ》の文字《もじ》は、宛然《さながら》我れを睨むが如く見ゆるに、目を閉ぢ耳を塞《ふさ》ぎて机の側らに伏し轉《まろ》べば、『あたら武士を汝故《そなたゆゑ》に』と、いづこともなく囁《さゝや》く聲、心の耳に聞えて、胸は刃に割《さ》かるゝ思ひ。あはれ横笛、一夜を惱み明かして、朝日《あさひ》影《かげ》窓に眩《まばゆ》き頃、ふらふらと縁前《えんさき》に出づれば、憎《に》くや、檐端《のきば》に歌ふ鳥の聲さへ、己《おの》が心の迷ひから、『汝《そなた》ゆゑ/\』と聞ゆるに、覺えず顏を反向《そむ》けて、あゝと溜息《ためいき》つけば、驚きて起《た》つ群雀《むらすゞめ》、行衞も知らず飛び散りたる跡には、秋の朝風|音寂《おとさび》しく、殘んの月影|夢《ゆめ》の如く淡《あは》し。

   第十八

 女子《をなご》こそ世に優《やさ》しきものなれ。戀路は六《む》つに變れども、思ひはいづれ一つ魂に映《うつ》る哀れの影とかや。つれなしと見つる浮世に長生《ながら》へて、朝顏の夕《ゆふべ》を竣たぬ身に百年《もゝとせ》の末懸《すゑか》けて、覺束《おぼつか》なき朝夕《あさゆふ》を過すも胸に包める情の露のあればなり。戀かあらぬか、女子の命《いのち》はそも何に喩ふべき。人知らぬ思ひに心を傷《やぶ》りて、あはれ一山風《ひとやまかぜ》に跡もなき東岱《とうたい》前後《ぜんご》の烟と立ち昇るうら弱《わか》き眉目好《みめよ》き處女子《むすめ》は、年毎《としごと》に幾何ありとするや。世の隨意《まゝ》ならぬは是非もなし、只ゝいさゝ川、底の流れの通ひもあらで、人はいざ、我れにも語らで、世を果敢《はか》なむこそ浮世なれ。
 然《さ》れば横笛、我れ故に武士一人に世を捨てさせしと思へば、乙女心《をとめごゝろ》の一徹に思ひ返さん術《すべ》もなく、此の朝夕は只々泣き暮らせども、影ならぬ身の失せもやらず、せめて嵯峨の奧にありと聞く瀧口が庵室に訪《おとづ》れて我が誠の心を打明《うちあ》かさばやと、さかしくも思ひ決《さだ》めつ。誰彼時《たそがれどき》に紛《まぎ》れて只々一人、うかれ出でけるこそ殊勝《しゆしよう》なれ。
 頃は長月《ながつき》の中旬《なかば》すぎ、入日の影は雲にのみ殘りて野も出も薄墨《うすずみ》を流せしが如く、月未《つきいま》だ上《のぼ》らざれば、星影さへも最《い》と稀なり。袂《たもと》に寒き愛宕下《おたぎおろ》しに秋の哀れは一入《ひとしほ》深く、まだ露|下《お》りぬ野面《のもせ》に、我が袖のみぞ早や沾《うるほ》ひける。右近《うこん》の馬場を右手《めて》に見て、何れ昔は花園《はなぞの》の里、霜枯《しもが》れし野草《のぐさ》を心ある身に踏み摧《しだ》きて、太秦《うづまさ》わたり辿《たど》り行けば、峰岡寺《みねをかでら》の五輪の塔、夕《ゆふべ》の空に形のみ見ゆ。やがて月は上《のぼ》りて桂の川の水烟《みづけぶり》、山の端白《はしろ》く閉罩《とぢこ》めて、尋ぬる方は朧ろにして見え分《わ》かず。素《もと》より慣れぬ徒歩《かち》なれば、數《あまた》たび或は里の子が落穗《おちぼ》拾はん畔路《あぜみち》にさすらひ、或は露に伏す鶉《うづら》の床《とこ》の草村《くさむら》に立迷《たちまよ》うて、絲より細き蟲の音《ね》に、覺束なき行末を喞《かこ》てども、問ふに聲なき影ばかり。名も懷《なつか》しき梅津《うめづ》の里を過ぎ、大堰川《おほゐがは》の邊《ほとり》を沿《そ》ひ行けば、河風寒《かはかぜさむ》く身に染《し》みて、月影さへもわびしげなり。裾は露、袖は涙に打蕭《うちしを》れつ、霞める眼に見渡せば、嵯峨野も何時《いつ》しか奧になりて、小倉山《をぐらやま》の峰の紅葉《もみぢば》、月に黒《くろ》みて、釋迦堂の山門、木立《こだち》の間に鮮《あざやか》なり。噂に聞きしは嵯峨の奧とのみ、何れの院とも坊とも知らざれば、何を便《たより》に尋ぬべき、燈《ともしび》の光を的《あて》に、數《かず》もなき在家《ざいけ》を彼方《あなた》此方《こなた》に彷徨《さまよ》ひて問ひけれども、絶えて知るものなきに、愈々心惑ひて只々茫然と野中《のなか》に彳《たゝず》みける。折から向ふより庵僧とも覺しき一個《ひとり》の僧の通りかゝれるに、横笛、渡《わたり》に舟の思ひして、『慮外《りよぐわい》ながら此のわたりの庵《いほり》に、近き頃|樣《さま》を變《か》へて都より來られし、俗名《ぞくみやう》齋藤時頼と名告《なの》る年壯《としわか》き武士のお在《は》さずや』。聲震《こゑふる》はして尋ぬれば、件の僧は、横笛が姿を見て暫《しば》し首傾《くびかたむ》けしが、『露しげき野を女性《によしやう》の唯々一人、さても/\痛はしき御事や。げに然《さ》る人ありとこそ聞きつれど、まだ其人に遇はざれば、御身が尋ぬる人なりや、否やを知りがたし』。『して其人は何處《いづこ》にお在《は》する』。『そは此處《こゝ》より程|遠《とほ》からぬ往生院《わうじやうゐん》と名《なづ》くる古き僧庵に』。
 僧は最《い》と懇《ねんご》ろに道を教ふれば、横笛|世《よ》に嬉しく思ひ、禮もいそ/\別れ行く後影《うしろかげ》、鄙には見なれぬ緋の袴に、夜目にも輝く五柳の一重《ひとへ》。件の僧は暫したヽずみて訝しげに見送れば、焚きこめし異香《いきやう》、吹き來《く》る風に時ならぬ春を匂はするに、俄に忌《いま》はしげに顏背《かほそむ》けて小走《こばし》りに立ち去りぬ。

   第十九

 斯くて横笛は教へられしまゝに辿り行けば、月の光に影暗《かげくら》き、杜《もり》の繁みを徹《とほ》して、微《かすか》に燈の光《ひかり》見ゆるは、げに古《ふ》りし庵室と覺しく、隣家とても有らざれば、闃《げき》として死せるが如き夜陰の靜けさに、振鈴《しんれい》の響《ひゞき》さやかに聞ゆるは、若しや尋ぬる其人かと思へば、思ひ設けし事ながら、胸轟きて急ぎし足も思はず緩《ゆる》みぬ。思へば現《うつゝ》とも覺えで此處までは來りしものの、何と言うて世を隔てたる門《かど》を敲《たゝ》かん、我が眞《まこと》の心をば如何なる言葉もて打ち明けん。うら若き女子《をなご》の身にて夜を冒《をか》して來つるをば、蓮葉《はすは》のものと卑下《さげす》み給はん事もあらば如何にすべき。將《はた》また、千束《ちづか》の文《ふみ》に一言《ひとこと》も返さざりし我が無情を恨み給はん時、いかに應《いら》へすべき、など思ひ惑ひ、恥かしさも催されて、御所《ごしよ》を拔出《ぬけい》でしときの心の雄々《をゝ》しさ、今更《いまさら》怪しまるゝばかりなり。斯くて果《は》つべきに非ざれば、辛《やうや》く我れと我身に思ひ決め、ふと首を擧ぐれば、振鈴の響耳に迫りて、身は何時《いつ》しか庵室の前に立ちぬ。月の光にすかし見れば、半ば頽《くづ》れし門の廂《ひさし》に蟲食《むしば》みたる一面の古額《ふるがく》、文字は危げに往生院と讀まれたり。
 横笛|四邊《あたり》を打ち見やれば、八重葎《やへむぐら》茂《しげ》りて門を閉ぢ、拂はぬ庭に落葉|積《つも》りて、秋風吹きし跡もなし。松の袖垣|隙《すきま》あらはなるに、葉は枯れて蔓《つる》のみ殘れる蔦《つた》生《は》えかゝりて、古き梢の夕嵐《ゆふあらし》、軒もる月の影ならでは訪ふ人もなく荒れ果てたり。檐《のき》は朽ち柱は傾き、誰れ棲みぬらんと見るも物憂《ものう》げなる宿《やど》の態《さま》。扨も世を無常と觀じては斯かる侘しき住居も、大梵高臺の樂みに換ヘらるゝものよと思へば、主《あるじ》の貴さも彌増《いやま》して、今宵《こよひ》の我身やゝ愧《はづ》かしく覺ゆ。庭の松が枝《え》に釣《つる》したる、仄《ほの》暗き鐵燈籠《かなどうろう》の光に檐前《のきさき》を照らさせて、障子一重の内には振鈴の聲、急がず緩まず、四曼不離の夜毎の行業《かうごふ》に慣れそめてか、籬《まがき》の蟲の駭《おどろ》かん樣も見えず。横笛今は心を定め、ほとほとと門《かど》を音づるれども答なし。玉を延《の》べたらん如き纖腕|痲《しび》るゝばかりに打敲《うちたゝ》けども應ぜん氣《け》はひも見えず。實《げ》に佛者は行《おこなひ》の半《なかば》には、王侯の召《めし》にも應ぜずとかや、我ながら心なかりしと、暫《しば》し門下に彳みて、鈴の音の絶えしを待ちて復《ふたゝ》び門《かど》を敲けば、内には主《あるじ》の聲として、『世を隔てたる此庵《このいほ》は、夜陰《やいん》に訪はるゝ覺《おぼえ》なし、恐らく門違《かどちがひ》にても候はんか』。横笛|潛《ひそ》めし聲に力を入れて、『大方《おほかた》ならぬ由あればこそ、夜陰に御業《おんげふ》を驚かし參らせしなれ。庵は往生院と覺ゆれば、主の御身は、小松殿の御内なる齋藤瀧口殿にてはお在《は》さずや』。『如何にも某《それがし》が世に在りし時の名は齋藤瀧口にて候ひしが、そを尋ねらるゝ御身はそも何人《なんぴと》』。『妾《わらは》こそは中宮の曹司横笛と申すもの、隨意《まゝ》ならぬ世の義理に隔てられ、世にも厚き御情《おんなさけ》に心にもなき情《つれ》なき事の數々《かず/\》、只今の御身の上と聞き侍《はべ》りては、悲しさ苦《くる》しさ、女子《をなご》の狹き胸一つには納め得ず、知られで永く已《や》みなんこと口惜《くちを》しく、一《ひとつ》には妾が眞《まこと》の心を打明け、且つは御身の恨みの程を承はらん爲に茲まで迷ひ來りしなれ。こゝ開《あ》け給へ瀧口殿』。言ふと其儘、門の扉《とびら》に身を寄《よ》せて、聲を潛《しの》びて泣き居たり。
 瀧口はしばらく應《いら》へせず、やゝありて、『如何《いか》に女性《によしやう》、我れ世《よ》に在りし時は、御所《ごしよ》に然《さ》る人あるを知りし事ありしが、我が知れる其人は我れを知らざる筈なり、されば今宵《こよひ》我れを訪《おとづ》れ給へる御身は、我が知れる横笛にてはよもあらじ。良《よ》しや其人なりとても、此世の中に心は死して、殘る體は空蝉《うつせみ》の我れ、我れに恨みあればとて、そを言ふの要もなく、よし又人に誠あらばとて、そを聞かん願ひもなし。一切諸縁に離れたる身、今更ら返らぬ世の浮事《うきこと》を語り出でて何かせん。聞き給へや女性《によしやう》、何事も過ぎにし事は夢なれば、我れに恨みありとな思ひ給ひそ。己れに情《つれ》なきものの善知識となれる例《ためし》、世に少からず、誠に道に入りし身の、そを恨みん謂れやある。されば遇うて益なき今宵の我れ、唯々何事も言はず、此儘歸り給へ。二言とは申すまじきぞ、聞き分け給ひしか、横笛殿』。

   第二十

 因果の中に哀れを含みし言葉のふし/″\、横笛が悲しさは百千《もゝち》の恨みを聞くよりもまさり、『其の御語《おんことば》、いかで仇《あだ》に聞侍《きゝはべ》るべき、只々親にも許さぬ胸の中《うち》、女子の恥をも顧みず、聞え參らせんずるをば、聞かん願ひなしと仰せらるゝこそ恨みなれ。情《つれ》なかりし昔の報いとならば、此身を千千《ちゞ》に刻《きざ》まるゝとも露壓《つゆいと》はぬに、憖《なまじ》ひ仇《あだ》を情《なさけ》の御言葉は、心狹き妾に、恥ぢて死ねとの御事か。無情《つれな》かりし妾をこそ憎《にく》め、可惜《あたら》武士《ものゝふ》を世の外にして、樣を變へ給ふことの恨めしくも亦痛はしけれ。茲|開《あ》け給へ、思ひ詰《つ》めし一念、聞き給はずとも言はでは已《や》まじ。喃《のう》瀧口殿、ここ開け給へ、情なきのみが佛者《ぶつしや》かは』。喃々《のう/\》と門《かど》を叩きて、今や開《あ》くると待侘《まちわ》ぶれども、内には寂然として聲なし。やゝありて人の立居《たちゐ》する音の聞ゆるに、嬉《うれ》しやと思ひきや、振鈴の響起りて、りん/\と鳴り渡るに、是れはと駭く横笛が、呼べども叫べども答ふるものは庭の木立のみ。
 月稍々西に傾きて、草葉に置ける露白く、桂川の水音|幽《かすか》に聞えて、秋の夜寒《よさむ》に立つ鳥もなき眞夜中頃《まよなかごろ》、往生院の門下に蟲と共に泣き暮らしたる横笛、哀れや、紅花緑葉の衣裳、涙と露に絞《しぼ》るばかりになりて、濡れし袂に裹《つゝ》みかねたる恨みのかず/\は、そも何處までも浮世ぞや。我れから踏《ふ》める己《おの》が影も、萎《しを》るゝ如く思《おも》ほえて、情《つれ》なき人に較《くら》べては、月こそ中々に哀れ深けれ。横笛、今はとて、涙に曇《くも》る聲《こゑ》張上《はりあ》げて、『喃《のう》、瀧口殿、葉末《はずゑ》の露とも消えずして今まで立ちつくせるも、妾《わらは》が赤心《まごゝろ》打明けて、許すとの御身が一言《ひとこと》聞かんが爲め、夢と見給ふ昔ならば、情《つれ》なかりし横笛とは思ひ給はざるべきに、など斯くは慈悲なくあしらひ給ふぞ、今宵ならでは世を換へても相見んことのありとも覺えぬに、喃《のう》、瀧口殿』。
 春の花を欺く姿、秋の野風に暴《さら》して、恨みさびたる其樣は、如何なる大道心者にても、心動《こゝろうご》かんばかりなるに、峰の嵐に埋《うづも》れて嘆きの聲の聞えぬにや、鈴の音は調子少しも亂れず、行ひすましたる瀧口が心、飜るべくも見えざりけり。
 何とせん術《すべ》もあらざれば、横笛は泣く/\元來《もとき》し路《みち》を返り行きぬ。氷の如く澄める月影に、道芝《みちしば》の露つらしと拂ひながら、ゆりかけし丈《たけ》なる髮、優に波打たせながら、畫にある如き乙女の歩姿《かちすがた》は、葛飾《かつしか》の眞間《まゝ》の手古奈《てこな》が昔|偲《しの》ばれて、斯くもあるべしや。あはれ横笛、乙女心の今更に、命に懸けて思ひ決めしこと空《あだ》となりては、歸り路に足進まず、我れやかたき、人や無情《つれな》き、嵯峨の奧にも秋風吹けば、いづれ浮世には漏れざりけり。

   第二十一

 胸中|一戀字《いちこひじ》を擺脱《はいだつ》すれば、便《すなは》ち十分爽淨、十分自在。人生最も苦しき處、只々是れ此の心。然ればにや失意の情に世をあぢきなく觀じて、嵯峨の奧に身を捨てたる齋藤時頼、瀧口入道と法《のり》の名に浮世の名殘《なごり》を留《とゞ》むれども、心は生死《しやうじ》の境を越えて、瑜伽三密の行の外、月にも露にも唱ふべき哀れは見えず、荷葉の三衣、秋の霜に堪へ難けれども、一杖一鉢に法捨を求むるの外、他に望なし。實《げ》にや輪王《りんのう》位高《くらゐたか》けれども七寶《しつぱう》終《つひ》に身に添はず、雨露《うろ》を凌がぬ檐《のき》の下にも圓頓《ゑんどん》の花は匂ふべく、眞如《しんによ》の月は照らすべし。旦《あした》に稽古の窓に凭《よ》れば、垣を掠《かす》めて靡く霧は不斷の烟、夕《ゆふべ》に鑽仰《さんがう》の嶺《みね》を攀《よ》づれば、壁を漏れて照る月は常住《じやうぢゆう》の燭《ともしび》、晝は御室《おむろ》、太秦《うづまさ》、梅津の邊を巡錫《じゆんしやく》して、夜に入れば、十字の繩床《じようしやう》に結跏趺坐《けつかふざ》して※[#「※」は「俺」の「にんべん」に代えて「くちへん」、読みは「うん」、第3水準1-15-6、66-4]阿《うんあ》の行業《かうごふ》に夜の白むを知らず。されば僧坊に入りてより未だ幾日も過ぎざるに、苦行難業に色黒み、骨立ち、一目《ひとめ》にては十題判斷の老登科《らうとくわ》とも見えつべし。あはれ、厚塗《あつぬり》の立烏帽子に鬢を撫上《なであ》げし昔の姿、今安《いづ》くにある。今年二十三の壯年《わかもの》とは、如何にしても見えざりけり。
 顧みれば瀧口、性質《こゝろ》にもあらで形容邊幅《けいようへんぷく》に心を惱《なや》めたりしも戀の爲なりき。仁王《にわう》とも組《くま》んず六尺の丈夫《ますらを》、體《からだ》のみか心さへ衰へて、めゝしき哀れに弓矢の恥を忘れしも戀の爲なりき。思ヘば戀てふ惡魔に骨髓深く魅入《みい》られし身は、戀と共に浮世に斃れんか、將《は》た戀と共に世を捨てんか、擇《えら》ぶベき途《みち》只々此の二つありしのみ。時頼|世《よ》を無常と觀じては、何恨むべき物ありとも覺えず、武士を去り、弓矢を捨て、君に離れ、親を辭し、一切衆縁を擧げ盡《つく》して戀てふ惡魔の犧牲に供《そな》へ、跡に殘るは天地の間に生れ出でしまゝの我身瀧口時頼、命《いのち》とともに受繼《うけつ》ぎし濶達《くわつたつ》の氣風《きふう》再び欄漫《らんまん》と咲き出でて、容《かたち》こそ變れ、性質《こゝろ》は戀せぬ前の瀧口に少しも違《たが》はず。名利《みやうり》の外に身を處《お》けば、自《おのづ》から嫉妬の念も起らず、憎惡《ぞうを》の情も萌《きざ》さず、山も川も木も草も、愛らしき垂髫《うなゐ》も、醜《みにく》き老婆も、我れに惠む者も、我れを賤しむ者も、我れには等しく可愛らしく覺えぬ。げに一視平等《いつしびやうどう》の佛眼《ぶつげん》には四海兄弟と見えしとかや。病めるものは之を慰め、貧しきものは之を分ち、心曲《こゝろまが》りて郷里の害を爲すものには因果應報の道理を諭《さと》し、凡《すべ》て人の爲め世の爲めに益あることは躊躇《たゆた》ふことなく爲《な》し、絶えて彼此《かれこれ》の差別《しやべつ》なし。然《さ》れば瀧口が錫杖の到る所、其風《そのふう》を慕ひ其徳を仰《あふ》がざるはなかりけり。或時は里の子供等を集めて、昔の剛者《つはもの》の物語など面白く言ひ聞かせ、喜び勇む無邪氣なる者の樣《さま》を見て呵々と打笑ふ樣、二十三の瀧口、何日《いつ》の間《ま》に習ひ覺えしか、さながら老翁の孫女を弄《もてあそ》ぶが如し。
 斯くて風月《ふうげつ》ならで訪ふ人もなき嵯峨野の奧に、世を隔てて安らけき朝夕《あさゆふ》を樂しみ居《ゐ》しに、世に在りし時は弓矢の譽《ほまれ》も打捨《うちすて》て、狂ひ死《じに》に死なんまで焦《こが》れし横笛。親にも主《しゆう》にも振りかへて戀の奴《やつこ》となりしまで慕ひし横笛。世を捨て樣を變へざれば、吾から懸けし戀の絆《きづな》を解《と》く由もなかりし横笛。其の横笛の音づれ來しこそ意外なれ。然《さ》れど瀧口、口にくはへし松が枝の小搖《こゆる》ぎも見せず。見事《みごと》振鈴《しんれい》の響に耳を澄《す》まして、含識《がんしき》の流《ながれ》、さすがに濁らず。思へば悟道《ごだう》の末も稍々《やゝ》頼もしく、風白む窓に、傾く月を麾《さしまね》きて冷《ひやゝ》かに打笑《うちゑ》める顏は、天晴《あつぱれ》大道心者《だいだうしんしや》に成りすましたり。

            *        *
       *        *

 さるにても横笛は如何になりつるや、往生院の門下に一夜を立ち明かして曉近く御所に還り、後の二三日は何事もなく暮せしが、間《ま》もなく行衞知れずなりて、其部屋《そのへや》の壁には日頃《ひごろ》手慣《てな》れし古桐の琴、主《ぬし》待《ま》ちげに見ゆるのみ。

   第二十二

 或日、天《そら》長閑《のどか》に晴れ渡り、衣《ころも》を返す風寒からず、秋蝉の翼《つばさ》暖《あたゝ》む小春《こはる》の空に、瀧口そゞろに心浮かれ、常には行かぬ桂《かつら》、鳥羽《とば》わたり巡錫して、嵯峨とは都を隔てて南北《みなみきた》、深草《ふかくさ》の邊《ほとり》に來にける。此あたりは山近く林|密《みつ》にして、立田《たつた》の姫が織り成せる木々の錦、二月の花よりも紅《くれなゐ》にして、匂あらましかばと惜《を》しまるゝ美しさ、得も言はれず。薪採《たきゞと》る翁、牛ひく童《わらんべ》、餘念なく歌ふ節《ふし》、餘所に聞くだに樂しげなり。瀧口|行《ゆ》く/\四方《よも》の景色を打ち眺め、稍々《やゝ》疲れを覺えたれば、とある路傍の民家に腰打ち掛けて、暫く休らひぬ。主婦は六十餘とも覺しき老婆なり、一椀の白湯《さゆ》を乞ひて喉《のんど》を濕《うるほ》し、何くれとなき浮世話《うきよばなし》の末、瀧口、『愚僧《ぐそう》が庵《いほり》は嵯峨の奧にあれば、此わたりには今日《けふ》が初めて。何處《いづこ》にも土地《とち》珍《めづら》しき話一つはある物ぞ、何《いづ》れ名にし負《お》はば、哀れも一入《ひとしほ》深草の里と覺ゆるに、話して聞かせずや』。老女は笑ひながら、『かゝる片邊《かたほとり》なる鄙《ひな》には何珍しき事とてはなけれども、其の哀れにて思ひ出だせし、世にも哀れなる一つの話あり。問ひ給ひしが困果《いんぐわ》、事長《ことなが》くとも聞き給へ。御身の茲に來られし途《みち》すがら、溪川《たにがは》のある邊《あたり》より、山の方にわびしげなる一棟《ひとむね》の僧庵を見給ひしならん。其庵の側に一つの小《さゝ》やかなる新塚あり、主が名は言はで、此の里人は只々|戀塚《こひづか》々々と呼びなせり。此の戀塚の謂《いはれ》に就きて、最《い》とも哀れなる物語の候《さふらふ》なり』。『戀塚とは餘所《よそ》ながら床《ゆか》しき思ひす、剃《そ》らぬ前《まへ》の我も戀塚の主《あるじ》に半《なか》ばなりし事あれば』。言ひつゝ瀧口は呵々《から/\》と打笑へば、老婆は打消《うちけ》し、『否、笑ふことでなし。此月の初頃《はじめごろ》なりしが、畫にある樣《やう》な上※[#「※」は「くさかんむり」の下に「月+曷」、第3水準1-91-26、69-13]《じやうらふ》の如何なる故ありてか、かの庵室《あんしつ》に籠《こも》りたりと想ひ給へ。花ならば蕾、月ならば新月、いづれ末は玉の輿《こし》にも乘るべき人が、品もあらんに世を外《よそ》なる尼法師に樣を變へたるは、慕ふ夫《をつと》に別れてか、情《つれ》なき人を思うてか、何《ど》の途《みち》、戀路ならんとの噂。薪とる里人《さとびと》の話によれば、庵の中には玉を轉《まろ》ばす如き柔《やさ》しき聲して、讀經《どきやう》の響絶《ひゞきた》ゆる時なく、折々《をり/\》閼伽《あか》の水汲《みづく》みに、谷川に下りし姿見たる人は、天人《てんにん》の羽衣《はごろも》脱《ぬ》ぎて袈裟《けさ》懸《か》けしとて斯くまで美しからじなど罵り合へりし。心なき里人も世に痛はしく思ひて、色々の物など送りて慰《なぐさ》むる中《うち》、かの上※[#「※」は「くさかんむり」の下に「月+曷」、第3水準1-91-26、70-6]は思重《おもひおも》りてや、病《や》みつきて程も經《へ》ず返らぬ人となりぬ。言ひ殘せし片言《かたごと》だになければ、誰れも尼になるまでの事の由を知らず、里の人々相集りて涙と共に庵室の側らに心ばかりの埋葬を營みて、卒塔婆《そとば》一|基《き》の主《あるじ》とはせしが、誰れ言ふとなく戀塚々々と呼びなしぬ。來慣《きな》れぬ此里に偶々《たま/\》來て此話を聞かれしも他生《たしやう》の因縁《いんねん》と覺ゆれば、歸途《かへるさ》には必らず立寄りて一片の※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、70-9]向《ゑかう》をせられよ。いかに哀れなる話に候はずや』。老婆は話し了りて、燃えぬ薪の烟《けぶり》に咽《むせ》びて、涙《なみだ》押拭《おしのご》ひぬ。
 瀧口もやゝ哀れを催して、『そは氣の毒なる事なり、其の上※[#「※」は「くさかんむり」の下に「月+曷」、第3水準1-91-26、70-12]は何處《いづこ》の如何《いか》なる人なりしぞ』。『人の噂に聞けば、御所《ごしよ》の曹司《ざうし》なりとかや』。『ナニ曹司とや、其の名は聞き知らずや』。『然《さ》れば、最《い》とやさしき名と覺えしが、何とやら、おゝ――それ慥《たしか》に横笛とやら言ひし。嵯峨の奧に戀人《こひびと》の住めると、人の話なれども、定かに知る由もなし。聞けば御僧の坊も同じ嵯峨なれば、若《も》し心當《こゝろあたり》の人もあらば、此事|傳《つた》へられよ。同じ世に在りながら、斯かる婉《あで》やかなる上※[#「※」は「くさかんむり」の下に「月+曷」、第3水準1-91-26、71-3]の樣を變へ、思ひ死《じに》するまでに情《つれ》なかりし男こそ、世に罪深《つみふか》き人なれ。他《あだ》し人の事ながら、誠なき男見れば取りも殺したく思はるゝよ』。餘所《よそ》の恨みを身に受けて、他とは思はぬ吾が哀れ、老いても女子は流石《さすが》にやさし。瀧口が樣見れば、先の快《こゝろよ》げなる氣色《けしき》に引きかへて、首《かうべ》を垂れて物思《ものおも》ひの體《てい》なりしが、やゝありて、『あゝ餘《あま》りに哀れなる物語に、法體《ほつたい》にも恥ぢず、思はず落涙に及びたり。主婦《あるじ》が言《ことば》に從ひ、愚僧は之れより其の戀塚とやらに立寄りて、暫し※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、71-8]向《ゑかう》の杖を停《とど》めん』。
 網代《あじろ》の笠に夕日《ゆふひ》を負《お》うて立ち去る瀧口入道が後姿《うしろすがた》、頭陀《づだ》の袋に麻衣《あさごろも》、鐵鉢を掌《たなごゝろ》に捧《さゝ》げて、八つ目のわらんづ踏みにじる、形は枯木《こぼく》の如くなれども、息《いき》ある間は血もあり涙もあり。

   第二十三

 深草の里に老婆が物語、聞けば他事《ひとごと》ならず、いつしか身に振りかゝる哀の露、泡沫夢幻《はうまつむげん》と悟りても、今更ら驚かれぬる世の起伏《おきふし》かな。樣を變へしとはそも何を觀じての發心《ほつしん》ぞや、憂ひに死せしとはそも誰れにかけたる恨みぞ。あゝ横笛、吾れ人共に誠の道に入りし上は、影よりも淡《あは》き昔の事は問ひもせじ語りもせじ、閼伽《あか》の水汲《みづく》み絶えて流れに宿す影留らず、觀經の音|已《や》みて梢にとまる響なし。いづれ業繋《ごふけ》の身の、心と違ふ事のみぞ多かる世に、夢中《むちゆう》に夢を喞《かこ》ちて我れ何にかせん。
 瀧口入道、横笛が墓に來て見れば、墓とは名のみ、小高く盛《も》りし土饅頭《どまんぢゆう》の上に一片の卒塔婆を立てしのみ。里人の手向けしにや、半《なかば》枯《か》れし野菊《のぎく》の花の仆れあるも哀れなり。四邊《あたり》は斷草離離として趾《あと》を着くべき道ありとも覺えず、荒れすさぶ夜々の嵐に、ある程の木々の葉吹き落とされて、山は面痩《おもや》せ、森は骨立《ほねだ》ちて目もあてられぬ悲慘の風景、聞きしに増りて哀れなり。ああ是れぞ横笛が最後の住家《すみか》よと思へば、流石《さすが》の瀧口入道も法衣《ほふえ》の袖を絞《しぼ》りあへず、世にありし時は花の如き艷《あで》やかなる乙女《をとめ》なりしが、一旦無常の嵐に誘《さそ》はれては、いづれ遁《のが》れぬ古墳の一墓の主《あるじ》かや。そが初めの内こそ憐れと思ひて香花《かうげ》を手向《たむ》くる人もあれ、やがて星移り歳經《としふ》れば、冷え行く人の情《なさけ》に隨《つ》れて顧みる人もなく、あはれ何れをそれと知る由もなく荒れ果てなんず、思へば果敢《はか》なの吾れ人が運命や。都大路《みやこおほぢ》に世の榮華を嘗《な》め盡《つく》すも、賤《しづ》が伏屋《ふせや》に畦《あぜ》の落穗《おちぼ》を拾《ひろ》ふも、暮らすは同じ五十年の夢の朝夕。妻子珍寶及王位《さいしちんぱうおよびわうゐ》、命終《いのちをは》る時に隨ふものはなく、野邊《のべ》より那方《あなた》の友とては、結脈《けちみやく》一つに珠數《じゆず》一聯のみ。之を想へば世に悲しむべきものもなし。
 瀧口|衣《ころも》の袖を打はらひ、墓に向つて合掌《がつしやう》して言へらく、『形骸《かたち》は良《よ》しや冷土の中に埋《うづも》れても、魂は定かに六尺の上に聞こしめされん。そもや御身と我れ、時を同うして此世に生れしは過世《すぐせ》何の因《いん》、何の果《くわ》ありてぞ。同じ哀れを身に擔《にな》うて、そを語らふ折もなく、世を隔て樣を異にして此の悲しむべき對面あらんとは、そも又何の業《ごふ》、何の報ありてぞ。我は世に救ひを得て、御身は憂《う》きに心を傷《やぶ》りぬ。思へば三界の火宅《くわたく》を逃《のが》れて、聞くも嬉しき眞《まこと》の道に入りし御身の、欣求淨土《ごんぐじやうど》の一念に浮世の絆《きづな》を解《と》き得ざりしこそ恨みなれ。戀とは言はず、情とも謂はず、遇《あ》ふや柳因《りういん》、別《わか》るゝや絮果《ぢよくわ》、いづれ迷は同じ流轉《るてん》の世事《せじ》、今は言ふべきことありとも覺えず。只々此上は夜毎《よごと》の松風《まつかぜ》に御魂《みたま》を澄《すま》されて、未來《みらい》の解脱《げだつ》こそ肝要《かんえう》なれ。仰ぎ願くは三世十方の諸佛、愛護《あいご》の御手《おんて》を垂れて出離《しゆつり》の道を得せしめ給へ。過去精麗《くわこしやうりやう》、出離生死《しゆつりしやうじ》、證大菩提《しようだいぼだい》』。生《い》ける人に向へるが如く言ひ了りて、暫し默念の眼を閉ぢぬ。花の本《もと》の半日の客《かく》、月の前の一夜の友も、名殘は惜しまるゝ習ひなるに、一向所感の身なれば、先の世の法縁も淺からず思はれ、流石《さすが》の瀧口、限《かぎ》りなき感慨|胸《むね》に溢《あふ》れて、轉々《うたゝ》今昔《こんじやく》の情《じやう》に堪へず。今かゝる哀れを見んことは、神ならぬ身の知る由もなく、嵯峨の奧に夜半《よは》かけて迷ひ來りし時は我れ情なくも門《かど》をば開《あ》けざりき。恥をも名をも思ふ遑《いとま》なく、樣を變へ身を殺す迄の哀れの深さを思へば、我れこそ中々に罪深かりけれ。あゝ横笛、花の如き姿|今《いま》いづこにある、菩提樹《ぼだいじゆ》の蔭《かげ》、明星《みやうじやう》額《ひたひ》を照《て》らす邊《ほとり》、耆闍窟《ぎしやくつ》の中《うち》、香烟《かうえん》肘《ひぢ》を繞《めぐ》るの前、昔の夢を空《あだ》と見て、猶ほ我ありしことを思へるや否。逢ひ見しとにはあらなくに、別れ路《ぢ》つらく覺ゆることの、我れながら訝《いぶか》しさよ。思ひ胸に迫りて、吁々《あゝ》と吐《は》く太息《といき》に覺えず我れに還《かへ》りて首《かうべ》を擧《あ》ぐれば日は半《なかば》西山《せいざん》に入りて、峰の松影色黒み、落葉《おちば》を誘《さそ》ふ谷の嵐、夕ぐれ寒く身に浸《し》みて、ばら/\と顏打つものは露か時雨《しぐれ》か。

   第二十四

 其の年の秋の暮つかた、小松の内大臣重盛、豫《かね》ての所勞《しよらう》重《おも》らせ給ひ、御年四十三にて薨去あり。一門の人々、思顧の侍《さむらひ》は言ふも更なり、都も鄙もおしなべて、悼《いた》み惜《を》しまざるはなく、町家は商を休み、農夫は業を廢して哀號《あいがう》の聲《こゑ》到る處に充《み》ちぬ。入道相國《にふだうしやうこく》が非道《ひだう》の擧動《ふるまひ》に御恨《おんうら》みを含みて時の亂《みだれ》を願はせ給ふ法住寺殿《ほふぢゆうじでん》の院《ゐん》と、三代の無念を呑みて只《ひた》すら時運の熟すを待てる源氏の殘黨のみ、内府《ないふ》が遠逝《ゑんせい》を喜べりとぞ聞えし。
 士は己れを知れる者の爲に死せんことを願ふとかや。今こそ法體《ほつたい》なれ、ありし昔の瀧口が此君《このきみ》の御爲《おんため》ならばと誓ひしは天《あめ》が下に小松殿|只《たゞ》一人。父祖《ふそ》十代の御恩《ごおん》を集めて此君一人に報《かへ》し參らせばやと、風の旦《あした》、雪の夕《ゆふべ》、蛭卷《ひるまき》のつかの間《ま》も忘るゝ隙《ひま》もなかりしが、思ひもかけぬ世の波風《なみかぜ》に、身は嵯峨の奧に吹き寄せられて、二十年來の志《こゝろざし》も皆|空事《そらごと》となりにける。世に望みなき身ながらも、我れから好める斯かる身の上の君の思召《おぼしめし》の如何あらんと、折々《をり/\》思ひ出だされては流石《さすが》に心苦《こゝろぐる》しく、只々長き將來《ゆくすゑ》に覺束《おぼつか》なき機會《きくわい》を頼みしのみ。小松殿|逝去《せいきよ》と聞きては、それも協《かな》はず、御名殘《おんなごり》今更《いまさら》に惜《を》しまれて、其日は一日|坊《ばう》に閉籠《とぢこも》りて、内府が平生など思ひ出で、※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、76-2]向三昧《ゑかうざんまい》に餘念なく、夜に入りては讀經の聲いと蕭《しめ》やかなりし。
 先には横笛、深草の里に哀れをとゞめ、今は小松殿、盛年の御身に世をかへ給ふ。彼を思ひ是を思ふに、身一つに降《ふ》りかゝる憂《う》き事の露しげき今日《けふ》此ごろ、瀧口三|衣《え》の袖を絞りかね、法體《ほつたい》の今更《いまさら》遣瀬《やるせ》なきぞいぢらしき。實《げ》にや縁に從つて一念|頓《とみ》に事理《じり》を悟れども、曠劫《くわうごふ》の習氣《しふき》は一朝一夕に淨《きよ》むるに由なし。變相殊體《へんさうしゆたい》に身を苦しめて、有無流轉《うむるてん》と觀《くわん》じても、猶ほ此世の悲哀に離《はな》れ得ざるぞ是非もなき。
 徳を以て、將《はた》人を以て、柱とも石とも頼まれし小松殿、世を去り給ひしより、誰れ言ひ合はさねども、心ある者の心にかゝるは、同じく平家の行末なり。四方《よも》の波風靜《なみかぜしづか》にして、世は盛《さか》りとこそは見ゆれども、入道相國が多年の非道によりて、天下の望み已《すで》に離れ、敗亡の機はや熟してぞ見えし。今にも蛭《ひる》が小島《こじま》の頼朝にても、筑波《つくば》おろしに旗揚《はたあ》げんには、源氏譜代の恩顧の士は言はずもあれ、苟《いやしく》も志を當代に得ず、怨みを平家《へいけ》に銜《ふく》める者、響の如く應じて關八州は日ならず平家の有《もの》に非ざらん。萬一斯かる事あらんには、大納言殿(宗盛)は兄の内府にも似ず、暗弱《あんじやく》の性質《うまれつき》なれば、素《もと》より物の用に立つべくもあらず。御子|三位《さんみ》の中將殿(維盛)は歌道《かだう》より外に何長《なにちやう》じたる事なき御身なれば、紫宸殿《ししいでん》の階下に源家《げんけ》の嫡流《ちやくりう》と相挑《あひいど》みし父の卿《きやう》の勇膽ありとしも覺えず。頭《とう》の中將殿(重衡)も管絃《くわんげん》の奏《しらべ》こそ巧《たく》みなれ、千軍萬馬の間に立ちて采配《さいはい》とらん器《うつは》に非ず。只々數多き公卿《くげ》殿上人《てんじやうびと》の中にて、知盛《とももり》、教經《のりつね》の二人こそ天晴《あつぱれ》未來事《みらいこと》ある時の大將軍と覺ゆれども、これとても螺鈿《らでん》の細太刀《ほそだち》に風雅《ふうが》を誇る六波羅上下の武士を如何にするを得べき。中には越中次郎兵衞盛次《ゑつちゆうのじらうびやうゑもりつぐ》、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清《あくしちびやうゑかげきよ》なんど、名だたる剛者《がうのもの》なきにあらねど、言はば之れ匹夫《ひつぷ》の勇《ゆう》にして、大勢《たいせい》に於て元《もと》より益《えき》する所なし。思へば風前《ふうぜん》の燈《ともしび》に似たる平家の運命かな。一門|上下《しやうか》花《はな》に醉《ゑ》ひ、月に興《きやう》じ、明日《あす》にも覺《さ》めなんず榮華の夢に、萬代《よろづよ》かけて行末祝ふ、武運の程ぞ淺ましや。
 入道ならぬ元の瀧口は平家の武士。忍辱《にんにく》の衣も主家興亡の夢に襲《おそ》はれては、今にも掃魔《さうま》の堅甲《けんかふ》となりかねまじき風情《ふぜい》なり。

   第二十五

 其年も事なく暮れて、明《あ》くれば治承四年、淨海《じようかい》が暴虐《ばうぎやく》は猶ほ已《や》まず、殿《でん》とは名のみ、蜘手《くもで》結びこめぬばかりの鳥羽殿《とばでん》には、去年《こぞ》より法皇を押籠《おしこ》め奉るさへあるに、明君《めいくん》の聞え高き主上《しゆじやう》をば、何の恙《つゝが》もお在《は》さぬに、是非なくおろし參らせ、清盛の女が腹に生れし春宮《とうぐう》の今年《ことし》僅に三歳なるに御位を讓らせ給ふ。あはれ聞きも及ばぬ奇怪の讓位かなとおもはぬ人ぞなかりける。一秋毎《ひとあきごと》に細りゆく民の竈《かまど》に立つ烟、それさへ恨みと共に高くは上《のぼ》らず。野邊《のべ》の草木《くさき》にのみ春は歸れども、世はおしなべて秋の暮、枯枝《かれえだ》のみぞ多かりける。元より民の疾苦《しつく》を顧みるの入道ならねば、野に立てる怨聲を何處《いづこ》の風とも氣にかけず、或は嚴島行幸に一門の榮華を傾け盡し、或は新都の經營に近畿《きんき》の人心を騷がせて少しも意に介せず。世を恨み義に勇みし源三位《げんざんみ》、數もなき白旗|殊勝《しゆしよう》にも宇治川の朝風《あさかぜ》に飜へせしが、脆《もろ》くも破れて空しく一族の血汐《ちしほ》を平等院《びやうどうゐん》の夏草《なつくさ》に染めたりしは、諸國源氏が旗揚《はたあげ》の先陣ならんとは、平家の人々いかで知るべき。高倉《たかくら》の宮《みや》の宣旨《せんじ》、木曾《きそ》の北《きた》、關《せき》の東《ひがし》に普ねく渡りて、源氏|興復《こうふく》の氣運漸く迫れる頃、入道は上下萬民の望みに背《そむ》き、愈々都を攝津の福原に遷《うつ》し、天下の亂れ、國土の騷ぎを露《つゆ》顧みざるは、抑々《そも/\》之れ滅亡を速むるの天意か。平家の末はいよ/\遠からじと見えにけり。
 右兵衞佐《うひやうゑのすけ》(頼朝)が旗揚《はたあげ》に、草木と共に靡きし關八州《くわんはつしう》、心ある者は今更とも思はぬに、大場《おほば》の三郎が早馬《はやうま》ききて、夢かと驚きし平家の殿原《とのばら》こそ不覺《ふかく》なれ。討手《うつて》の大將、三位中將|維盛卿《これもりきやう》、赤地《あかぢ》の錦の直垂《ひたゝれ》に萌黄匂《もえぎにほひ》の鎧は天晴《あつぱれ》平門公子《へいもんこうし》の容儀《ようぎ》に風雅の銘を打つたれども、富士河の水鳥《みづとり》に立つ足もなき十萬騎は、關東武士の笑ひのみにあらず。前の非《ひ》を悟りて舊都に歸り、さては奈良|炎上《えんじやう》の無道《むだう》に餘忿《よふん》を漏《も》らせども、源氏の勢は日に加はるばかり、覺束なき行末を夢に見て其年も打ち過ぎつ。治承五年の春を迎ふれば、世愈々亂れ、都に程なき信濃には、木曾の次郎が兵を起して、兵衞佐と相應《あひおう》じて其勢ひ破竹《はちく》の如し。傾危《けいき》の際、老いても一門の支柱《しちゆう》となれる入道相國は折柄《をりから》怪しき病ひに死し、一門狼狽して爲す所を知らず。墨股《すのまた》の戰ひに少しく會稽の恥を雪《すゝ》ぎたれども、新中納言(知盛)軍機《ぐんき》を失《しつ》して必勝の機を外《はづ》し、木曾の壓《おさへ》と頼みし城《じやう》の四郎が北陸《ほくりく》の勇を擧《こぞ》りし四萬餘騎、餘五將軍《よごしやうぐん》の遺武《ゐぶ》を負ひながら、横田河原《よこたがはら》の一戰に脆《もろ》くも敗れしに驚きて、今はとて平家最後の力を盡して北に打向ひし十五萬餘騎、一門の存亡を賭《と》せし倶利加羅《くりから》、篠原《しのはら》の二戰に、哀れや殘り少なに打ちなされ、背疵《せきず》抱《かゝ》へて、すごすご都に歸り來りし、打漏《うちもら》されの見苦《みぐる》しさ。木曾は愈々勢ひに乘りて、明日《あす》にも都に押寄せんず風評《ふうひやう》、平家の人々は今は居ながら生《い》ける心地もなく、然《さ》りとて敵に向つて死する力もなし。木曾をだに支《さゝ》へ得ざるに、關東の頼朝來らば如何にすべき、或は都を枕にして討死すべしと言へば、或は西海《さいかい》に走つて再擧《さいきよ》を謀《はか》るべしと説き、一門の評議まち/\にして定まらず。前には邦家の急《きふ》に當りながら、後《うしろ》には人心の赴く所《ところ》一ならず、何れ變らぬ亡國の末路《まつろ》なりけり。
 平和の時こそ、供花燒香に經を飜して、利益平等《りやくびやうどう》の世とも感ぜめ、祖先十代と己が半生の歴史とを刻《きざ》みたる主家《しゆか》の運命|日《ひ》に非《ひ》なるを見ては、眼を過ぐる雲煙《うんえん》とは瀧口いかで看過するを得ん。人の噂に味方《みかた》の敗北《はいぼく》を聞く毎《ごと》に、無念《むねん》さ、もどかしさに耐へ得ず、雙の腕を扼《やく》して法體《ほつたい》の今更變へ難きを恨むのみ。
 或日瀧口、閼伽《あか》の水《みづ》汲《く》まんとて、まだ明《あ》けやらぬ空に往生院を出でて、近き泉の方に行きしに、都《みやこ》六波羅わたりと覺しき方に、一道の火焔《くわえん》天《てん》を焦《こが》して立上《たちのぼ》れり。そよとだに風なき夏の曉に、遠く望めば只々|朝紅《あさやけ》とも見ゆべかんめり。風靜《かぜしづか》なるに、六波羅わたり斯かる大火を見るこそ訝《いぶか》しけれ。いづれ唯事《たゞごと》ならじと思へば何となく心元《こゝろもと》なく、水汲みて急《いそ》ぎ坊に歸り、一杖一鉢、常の如く都をさして出で行きぬ。

   第二十六

 瀧口入道、都に來て見れば、思ひの外なる大火にて、六波羅、池殿《いけどの》、西八條の邊《あたり》より京白川《きやうしらかは》四五萬の在家《ざいけ》、方《まさ》に煙の中にあり。洛中《らくちゆう》の民はさながら狂《きやう》せるが如く、老を負ひ幼を扶けて火を避くる者、僅の家財を携へて逃ぐる者、或は雜沓《ざつたふ》の中に傷《きずつ》きて助けを求むる者、或は連れ立ちし人に離れて路頭《ろとう》に迷へる者、何れも容姿を取り亂して右に走り左に馳せ、叫喚呼號の響、街衢に充ち滿ちて、修羅《しゆら》の巷《ちまた》もかくやと思はれたり。只々見る幾隊の六波羅武者、蹄の音高く馳せ來りて、人波《ひとなみ》打《う》てる狹き道をば、容赦《ようしや》もなく蹴散《けちら》し、指して行衞は北鳥羽の方、いづこと問へど人は知らず、平家一門の邸宅《ていたく》、武士の宿所《しゆくしよ》、殘りなく火中にあれども消し止めんとする人の影見えず。そも何事の起れるや、問ふ人のみ多くして、答ふる者はなし。全都《ぜんと》の民は夢に夢見る心地して、只々心安からず惶《おそ》れ惑《まど》へるのみ。
 瀧口、事の由を聞かん由もなく、轟《とゞろ》く胸を抑《おさ》へつゝ、朱雀《すざく》の方《かた》に來れば、向ひより形亂《かたちみだ》せる二三人の女房の大路《おほぢ》を北に急ぎ行くに、瀧口呼留めて事の由を尋ぬれば、一人の女房立留りて悲しげに、『未だ聞かれずや、大臣殿(宗盛)の思召《おぼしめし》にて、主上《しゆじやう》を始め一門殘らず西國《さいごく》に落ちさせ給ふぞや、もし縁《ゆかり》の人ならば跡より追ひつかれよ』。言捨《いひす》てて忙しげに走り行く。瀧口、あッとばかりに呆れて、さそくの考も出でず、鬼の如き兩眼より涙をはら/\と流し、恨めしげに伏見《ふしみ》の方を打ち見やれば、明けゆく空に雲行《くもゆき》のみ早し。
 榮華の夢早や覺《さ》めて、沒落の悲しみ方《まさ》に來りぬ。盛衰興亡はのがれぬ世の習なれば、平家に於て獨り歎くべきに非ず。只々まだ見ぬ敵に怯《おそれ》をなして、輕々《かろ/″\》しく帝都を離れ給へる大臣殿《おとゞどの》の思召こそ心得ね。兎《と》ても角ても叶はぬ命ならば、御所の礎《いしずゑ》枕《まくら》にして、魚山《ぎよさん》の夜嵐《よあらし》に屍《かばね》を吹かせてこそ、散《ち》りても芳《かんば》しき天晴《あつぱれ》名門《めいもん》の末路《まつろ》なれ。三代の仇《あだ》を重ねたる關東武士《くわんとうぶし》が野馬の蹄《ひづめ》に祖先《そせん》の墳墓《ふんぼ》を蹴散《けちら》させて、一門おめ/\西海《さいかい》の陲《はて》に迷ひ行く。とても流さん末の慫名《うきな》はいざ知らず、まのあたり百代までの恥辱なりと思はぬこそ是非なけれ。
 瀧口はしばし無念の涙を絞りしが、せめて燒跡《やけあと》なりとも弔はんと、西八條の方に辿り行けば、夜半《よは》にや立ちし、早や落人《おちうど》の影だに見えず、昨日《きのふ》までも美麗に建て連《つら》ねし大門《だいもん》高臺《かうだい》、一夜の煙と立ち昇《のぼ》りて、燒野原《やけのはら》、茫々として立木《たちき》に迷ふ鳥の聲のみ悲し。燒け殘りたる築垣《ついがき》の蔭より、屋方《やかた》の跡を眺《なが》むれば、朱塗《しゆぬり》の中門《ちゆうもん》のみ半殘《なかばのこ》りて、門《かど》もる人もなし。嗚呼《あゝ》、被官《ひくわん》郎黨《らうたう》の日頃《ひごろ》寵《ちよう》に誇り恩を恣《ほしいまゝ》にせる者、そも幾百千人の多きぞや。思はざりき、主家《しゆか》仆《たふ》れ城地《じやうち》亡《ほろ》びて、而かも一騎の屍《かばね》を其の燒跡《やけあと》に留むる者《もの》なからんとは。げにや榮華は夢か幻《まぼろし》か、高厦《かうか》十年にして立てども一朝の煙にだも堪へず、朝夕|玉趾《ぎよくし》珠冠《しゆくわん》に容儀《ようぎ》正《たゞ》し、參仕《さんし》拜趨《はいすう》の人に册《かしづ》かれし人、今は長汀《ちやうてい》の波に漂《たゞよ》ひ、旅泊《りよはく》の月に※[#「※」は「あしへん+令」、読みは「さす」、83-9]※[#「※」は「あしへん+并」、読みは「ら」、83-9]《さすら》ひて、思寢《おもひね》に見ん夢ならでは還《かへ》り難き昔、慕うて益なし。有爲轉變《うゐてんぺん》の世の中に、只々最後の潔《いさぎよ》きこそ肝要なるに、天に背《そむ》き人に離れ、いづれ遁《のが》れぬ終《をはり》をば、何處《いづこ》まで惜《を》しまるゝ一門の人々ぞ。彼を思ひ是を思ひ、瀧口は燒跡にたゝずみて、暫時《しばし》感慨の涙に暮れ居たり。
 稍々《やゝ》ありて太息《といき》と共に立上《たちあが》り、昔ありし我が屋數《やしき》を打見やれば、其邊は一面の灰燼となりて、何處をそれとも見別《みわ》け難し。さても我父は如何にしませしか、一門の人々と共に落人《おちうど》にならせ給ひしか。御老年の此期《このご》に及びて、斯かる大變を見せ參らするこそうたてき限りなれ。瀧口|今《いま》は、誰れ知れる人もなき跡ながら、昔の盛り忍ばれて、盡きぬ名殘《なごり》に幾度《いくたび》か振※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、84-3]《ふりかへ》りつ、持ちし錫杖《しやくぢやう》重《おも》げに打ち鳴らして、何思ひけん、小松殿の墓所《ぼしよ》指《さ》して立去りし頃は、夜明《よあ》け、日も少しく上《のぼ》りて、燒野に引ける垣越《かきごし》の松影長し。

   第二十七

 世の果《はて》は何處《いづこ》とも知らざれば、亡《な》き人の碑《しるし》にも萬代《よろづよ》かけし小松殿内府の墳墓《ふんぼ》、見上ぐるばかりの石の面に彫り刻みたる淨蓮大禪門の五字、金泥《きんでい》の色洗《いろあら》ひし如く猶ほ鮮《あざやか》なり。外には沒落の嵐吹き荒《す》さみて、散り行く人の忙しきに、一境|闃《げき》として聲なき墓門の靜けさ、鏘々として響くは松韵、戞々《かつ/\》として鳴るは聯珠、世の哀れに感じてや、鳥の歌さへいと低し。
 墓の前なる石階の下に跪《ひざまづ》きて默然として祈念せる瀧口入道、やがて頭を擧げ、泣く/\御墓に向ひて言ひけるは、『あゝ淺ましき御一門の成れの果《はて》、草葉《くさば》の蔭に加何に御覽ぜられ候やらん。御墓の石にまだ蒸《む》す苔とてもなき今の日に、早や退沒の悲しみに遇はんとは申すも中々に愚なり。御靈前に香華《かうげ》を手向《たむ》くるもの明日よりは有りや無しや。北國《ほつこく》、關東《くわんとう》の夷共《えびすども》の、君が安眠の砌《には》を駭かせ參らせん事、思へば心外の限りにこそ候へ。君は元來英明にましませば、事今日あらんこと、かねてより悟らせ給ひ、神佛三寶に祈誓して御世《みよ》を早うさせ給ひけるこそ、最《い》と有り難けれ。夢にも斯くと知りなば不肖時頼、直ちに後世《ごせ》の御供《おんとも》仕《つかまつ》るべう候ひしに、性頑冥にして悟り得ず、望みなき世に長生《ながら》へて斯かる無念をまのあたり見る事のかへすがへすも口惜しう候ふぞや、時頼進んでは君が鴻恩の萬一に答ふる能はず、退いては亡國の餘類となれる身の、今更|君《きみ》に合はす面目も候はず。あはれ匹夫の身は物の數ならず、願ふは尊靈の冥護を以て、世を昔に引き返し、御一門を再び都に納《い》れさせ給へ』。
 急《せ》きくる涙に咽《むせ》びながら、掻き口説《くど》く言《こと》の葉《は》も定かならず、亂れし心を押し鎭めつ、眼を閉ぢ首《かうべ》を俯して石階の上に打伏《うちふ》せば、あやにくや、沒落の今の哀れに引き比《くら》べて、盛りなりし昔の事、雲の如く胸に湧き、祈念の珠數にはふり落つる懷舊の涙のみ滋《しげ》し。あゝとばかり我れ知らず身を振はして立上《たちあが》り、踉《よろ》めく體を踏みしむる右手の支柱、曉の露まだ冷やかなる内府の御墳《みはか》、哀れ榮華十年の遺物《かたみ》なりけり。

            *        *
       *        *

 盛りの花と人に惜しまれ、世に歌はれて、春の眞中に散りにし人の羨まるゝ哉。陽炎《かげろふ》の影より淡き身を憖《なまじ》ひ生《い》き殘りて、木枯嵐《こがらし》の風の宿となり果てては、我が爲に哀れを慰むる鳥もなし、家仆れ國滅びて六尺の身おくに處なく、天低く地薄くして昔をかへす夢もなし。――吁々思ふまじ、我ながら不覺なりき、修行の肩に歌袋かけて、天地を一爐と觀ぜし昔人も有りしに、三衣を纏ひ一鉢を捧ぐる身の、世の盛衰に離れ得ず、生死流轉の間に彷徨《さまよ》へるこそ口惜しき至りなれ。世を捨てし昔の心を思ひ出せば、良しや天落ち地裂くるとも、今更驚く謂れやある。常なしと見つる此世に悲しむべき秋もなく、喜ぶべき春もなく、青山白雲|長《とこしな》へに青く長へに白し。あはれ、本覺大悟の智慧の火よ、我が胸に尚ほ蛇の如く※[#「※」は「螢の虫部分を火」、読みは「まつ」、第3水準1-87-61、86-12]《まつ》はれる一切煩惱を渣滓《さし》も殘らず燒き盡せよかし。
 斯くて瀧口、主家の大變に動きそめたる心根を、辛《から》くも抑へて、常の如く嵯峨の奧に朝夕の行《ぎやう》を懈らざりしが、都近く住みて、變り果てし世の様を見る事を忍び得ざりけん、其年七月の末、久しく住みなれし往生院を跡にして、飄然と何處ともなく出で行きぬ。

   第二十八

 昨日は東關の下に轡《くつわ》竝《なら》べし十萬騎、今日は西海の波に漂ふ三千餘人。強きに附く人の情なれば、世に落人の宿る蔭はなく、太宰府《だざいふ》の一夜の夢に昔を忍ぶ遑もあらで、緒方《をがた》に追はれ、松浦に逼られ、九國の山野廣けれども、立ち止《と》まるべき足場もなし。去年《こぞ》は九重《こゝのへ》の雲に見し秋の月を、八重《やへ》の汐路《しほぢ》に打眺《うちなが》めつ、覺束なくも明かし暮らせし壽永二年。水島《みづしま》、室山《むろやま》の二戰に勝利を得しより、勢ひ漸く強く、頼朝、義仲の爭ひの隙《ひま》に山陰、山陽を切り從へ、福原の舊都まで攻上《せめのぼ》りしが、一の谷の一戰に源九郎が爲に脆くも打破られ、須磨の浦曲《うらわ》の潮風に、散り行く櫻の哀れを留めて、落ち行く先は、門司《もじ》、赤間《あかま》の元の海、六十餘州の半を領せし平家の一門、船を繋《つな》ぐべき渚《なぎさ》だになく、波のまに/\行衞も知らぬ梶枕《かぢまくら》、高麗《かうらい》、契丹《きつたん》の雲の端《はて》までもとは思へども、流石《さすが》忍ばれず。今は屋島《やしま》の浦に錨《いかり》を留めて、只《ひた》すら最後の日を待てるぞ哀れなる。

            *        *
       *        *

 壽永三年三月の末、夕暮近《ゆふぐれちか》き頃、紀州《きしゆう》高野山を上《のぼ》り行く二人の旅人《たびびと》ありけり。浮世を忍ぶ旅路《たびぢ》なればにや、一人は深編笠《ふかあみがさ》に面《おもて》を隱して、顏容《かほかたち》知《し》るに由なけれども、其の裝束は世の常ならず、古錦襴《こきんらん》の下衣《したぎ》に、紅梅萌黄《こうばいもえぎ》の浮文《うきあや》に張裏《はりうら》したる狩衣《かりぎぬ》を着け、紫裾濃《むらさきすそご》の袴腰、横幅廣く結ひ下げて、平塵《ひらぢり》の細鞘、優《しとやか》に下げ、摺皮《すりかは》の踏皮《たび》に同じ色の行纏《むかばき》穿ちしは、何れ由緒《ゆゐしよ》ある人の公達《きんだち》と思はれたり。他の一人は年の頃廿六七、前なる人の從者《ずさ》と覺しく、日に燒け色黒みたれども、眉秀いで眼涼しき優男《やさをとこ》、少し色剥げたる厚塗の立烏帽子に卯の花色の布衣を着け、黒塗の野太刀を佩きたり。放慣れぬにや、將《はた》永の徒歩《かち》に疲れしにや、二人とも弱り果てし如く、踏み締むる足に力なく青竹《あをだけ》の杖に身を持たせて、主從相扶け、喘《あへ》ぎ/\上《のぼ》り行く高野《かうや》の山路、早や夕陽も名殘を山の巓に留めて、崖《そば》の陰、森の下、恐ろしき迄に黒みたり。祕密の山に常夜の燈《ともしび》なければ、あなたの木の根、こなたの岩角《いはかど》に膝を打ち足を挫《くじ》きて、仆れんとする身を辛《やうや》く支《さゝ》へ、主從手に手を取り合ひて、顏見合す毎に彌増《いやまさ》る太息の數、春の山風身に染みて、入相《いりあひ》の鐘の音《ね》に梵缶《ぼんふう》の響き幽《かすか》なるも哀れなり。
 十歩に小休、百歩に大憩、辛《からう》じて猶ほ上り行けば、讀經の聲、振鈴の響、漸く繁くなりて、老松古杉の木立《こだち》を漏れて仄《ほのか》に見ゆる諸坊の燈《ともしび》、早や行先も遠からじと勇み勵みて行く程に、間《ま》もなく蓮生門を過ぎて主從|御影堂《みえいだう》の此方《こなた》に立止まりぬ。從者《ずさ》は近き邊《あたり》の院に立寄りて何事か物問ふ樣子なりしが、やがて元の所に立歸り、何やら主人に耳語《さゝや》けば、點頭《うなづ》きて尚も山深く上り行きぬ。
 飛鈷《ひこ》地に落ちて嶮に生《お》ひし古松の蔭、半《なかば》立木を其儘に結びたる一個の庵室、夜|毎《ごと》の嵐に破れ寂びたる板間《いたま》より、漏る燈の影暗く、香烟窓を迷ひ出で、心細き鈴の音、春ながら物さびたり。二人は此の庵室の前に立ち止まりしが、從者《ずさ》はやがて門に立ちよりて、『瀧口入道殿の庵室は茲に非ずや。遙々《はる/″\》訪《たづ》ね來りし主從二人、こゝ開け給へ』と呼ばはれば、内より燈《ともしび》提《さ》げて出來《いできた》りたる一個の僧、『瀧口が庵は此處ながら、浮世の人にはる/″\訪はるゝ覺えはなきに』と言ひつゝ訝しげなる顏色して門を開けば、編笠《あみがさ》脱《ぬ》ぎつゝ、ツと通る件の旅人、僧は一目見るより打驚き、砌《しきいし》にひたと頭を附けて、『これは/\』。

   第二十九

 世移り人失《ひとう》せぬれば、都は今は故郷《ふるさと》ならず、滿目奮山川、眺《なが》むる我も元の身なれども、變り果てし盛衰に、憂き事のみぞ多かる世は、嵯峨の里も樂しからず、高野山に上りて早や三年《みとせ》、山遠く谷深ければ、入りにし跡を訪《と》ふ人とてあらざれば、松風ならで世に友もなき庵室に、夜に入りて訪《おとづ》れし其人を誰れと思ひきや、小松の三位中將維盛卿にて、それに從へるは足助二郎重景ならんとは。夢かとばかり驚きながら、扶《たす》け參らせて一間《ひとま》に招《せう》じ、身は遙《はるか》に席を隔てて拜伏《はいふく》しぬ。思ひ懸けぬ對面に左右《とかう》の言葉もなく、先《さき》だつものは涙なり。瀧口つらつら御容姿《おんありさま》を見上ぐれば、沒落以來、幾《いく》その艱苦を忍び給ひけん、御顏痩せ衰へ、青總の髮|疏《あらゝ》かに、紅玉の膚《はだへ》色消え、平門第一の美男と唱はれし昔の樣子、何《いづ》こにと疑はるゝばかり、年にもあらで老い給ひし御面に、故《こ》内府の俤あるも哀れなり。『こは現《うつゝ》とも覺え候はぬものかな。扨も屋島をば何として遁《のが》れ出でさせ給ひけん。當今|天《あめ》が下は源氏の勢《せい》に充《み》ちぬるに、そも何地《いづち》を指しての御旅路《おんたびぢ》にて候やらん』。維盛卿は涙を拭ひ、『さればとよ、一門沒落の時は我も人竝《ひとなみ》に都を立ち出でて西國に下《くだ》りしが、行くも歸るも水の上、風に漂ふ波枕《なみまくら》に此三年《このみとせ》の春秋は安き夢とてはなかりしぞや。或はよるべなき門司の沖に、磯の千鳥とともに泣き明かし、或は須磨を追はれて明石の浦に昔人《むかしびと》の風雅を羨み、重ね重ねし憂事《うきこと》の數《かず》、堪《た》へ忍ぶ身にも忍び難きは、都に殘せし妻子が事、波の上に起居する身のせん術《すべ》なければ、此の年月は心にもなき疎遠に打過ぎつ。嘸や我を恨み居らんと思へば彌増《いやま》す懷《なつか》しさ。兎《と》ても亡びんうたかたの身にしあれば、息ある内に、最愛《いと》しき者を見もし見られもせんと辛《から》くも思ひ決《さだ》め、重景一人|伴《ともな》ひ、夜に紛《まぎ》れて屋島を逃《のが》れ、數々の憂《う》き目を見て、阿波の結城の浦より名も恐ろしき鳴門《なると》の沖を漕ぎ過ぎて、辛《やうや》く此地までは來つるぞや。憐れと思へ瀧口』。打ち萎《しを》れし御有樣、重景も瀧口も只々袂を絞るばかりなり。瀧口、『優《いう》に哀れなる御述懷、覺えず法衣を沾《うるほ》し申しぬ。然《さ》るにても如何なれば都へは行き給はで、此山には上り給ひし』。維盛卿は太息|吐《つ》き給ひ、『然《さ》ればなり、都に直に歸りたき心は山山なれども、熟々《つら/\》思へば、斯かる體《てい》にて關東武士の充てる都の中に入らんは、捕はれに行くも同じこと、先には本三位の卿(重衡)の一の谷にて擒となり、生恥《いきはぢ》を京鎌倉に曝《さら》せしさへあるに、我れ平家の嫡流として名もなき武士の手にかゝらん事、如何にも口惜しく、妻子の愛は燃ゆるばかりに切《せつ》なれども、心に心を爭ひて辛く此山に上りしなり。高野に汝あること風の便《たより》に聞きしゆゑ、汝を頼みて戒を受け、樣《さま》を變へ、其上にて心安く都にも入り、妻子にも遇はばやとこそ思ふなれ』。
 瀧口は首《かうべ》を床《ゆか》に附けしまゝ、暫し泪《なみだ》に咽《むせ》び居たりしが、『都は君が三代の故郷なるに、樣を變へでは御名も唱へられぬ世の變遷こそ是非なけれ。思へば故《こ》内府の思顧の侍、其數を知らざる内に、世を捨てし瀧口の此期《このご》に及びて君の御役に立たん事、生前《しやうぜん》の面目《めんぼく》此上《このうへ》や候べき。故内府の鴻恩に比《くら》べては高野の山も高からず、熊野の海も深からず、いづれ世に用なき此身なれば、よしや一命を召され候とも苦しからず。あゝ斯かる身は枯れても折れても野末《のづゑ》の朽木《くちき》、素《もと》より物の數ならず。只々|金枝玉葉《きんしぎよくえふ》の御身として、定めなき世の波風《なみかぜ》に漂《たゞよ》ひ給ふこと、御痛はしう存じ候』。言ひつゝ涙をはら/\と流せば、維盛卿も、重景も、昔の身の上思ひ出でて、泣くより外に言葉もなし。

   第三十

 二人の賓客を次の室にやすませて、瀧口は孤燈の下《もと》に只々一人|寢《ね》もやらず、つら/\思※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、93-3]《おもひめぐ》らせば、痛はしきは維盛卿が身の上なり。誰れあらん小松殿の嫡男として、名門の跡を繼ぐべき御身なるに、天が下に此山ならで身を寄せ給ふ處なきまでに零落《おちぶ》れさせ給ひしは、過世《すぐせ》如何なる因縁あればにや。習ひもお在《は》さぬ徒歩《かち》の旅に、知らぬ山川を遙《は》る/″\彷徨《さまよ》ひ給ふさへあるに、玉の襖《ふすま》、錦の床《とこ》に隙《ひま》もる風も厭はれし昔にひき換へて、露にも堪へぬかゝる破屋《あばらや》に一夜の宿を願ひ給ふ御|可憐《いと》しさよ。變りし世は隨意《まゝ》ならで、指《さ》せる都には得も行き給はず、心にもあらぬ落髮を逐《と》げてだに、相見んと焦《こが》れ給ふ妻子の恩愛は如何に深かるべきぞ。御容《おんかたち》さへ窶《やつ》れさせ給ひて、此年月の忍び給ひし憂事《うきこと》も思ひやらる。思ひ出せば治承の春、西八條の花見の宴に、櫻かざして青海波を舞ひ給ひし御姿、今尚ほ昨《きのふ》の如く覺ゆるに、脇《わき》を勤めし重景さへ同じ落人《おちうど》となりて、都ならぬ高野の夜嵐に、昔の哀れを物語らんとは、怪しきまで奇《く》しき縁なれ。あはれ、肩に懸けられし恩賜の御衣に一門の譽を擔ひ、竝《な》み居る人よりは深山木《みやまぎ》の楊梅と稱《たゝ》へられ、枯野の小松と歌はれし其時は、人も我も誰れかは今日《けふ》あるを想ふべき。昔は夢か今は現《うつゝ》か。十年にも足らぬ間に變り果てたる世の樣を見るもの哉。
 果《はて》しなき今昔《こんじやく》の感慨に、瀧口は柱に凭《よ》りしまゝしばし茫然たりしが、不圖《ふと》電《いなづま》の如く胸に感じて、想ひ起したる小松殿の言葉に、顰《ひそ》みし眉動き、沈みたる眼閃《ひら》めき、頽《くづ》せし膝立て直し屹《きつ》と衣《ころも》の襟を掻合《かきあ》はせぬ。思へば思へば、情なき人を恨み侘びて樣を變へんと思ひ決《さだ》めつゝ、餘所《よそ》ながら此世の告別に伺候せし時、世を捨つる我とも知り給はで、頼み置かれし維盛卿の御事、盛りと見えし世に衰へん世の末の事、愚なる我の思ひ料《はか》らん由もなければ少しも心に懸けざりしが、扨は斯からん後の今の事を仰せ置かれしよ。『少將は心弱き者、一朝事あらん時、妻子の愛に惹《ひ》かされて未練の最後に一門の恥を暴《さら》さんも測《はか》られず、時頼、たのむは其方一人』。幾度となく繰返されし御仰《おんおほせ》、六波羅上下の武士より、我れ一人を擇ばれし御心の、我は只々忝なさに前後をも辨《わきま》へざりしが、今の維盛卿の有樣、正に御遺言に適中せり。都を跡に西國へ落ち給ひしさへ口惜《くちを》しきに、屋島の浦に明日《あす》にも亡びん一門の人々を振り捨てて、武士は櫻木、散りての後の名をも惜しみ給はで、妻子の愛にめゝしくも茲まで迷ひ來られし御心根《おんこゝろね》、哀れは深からぬにはあらねども、平家の嫡流として未練の譏《そし》りは末代《まつだい》までも逃《のが》れ給はじ。斯くならん末を思ひ料《はか》らせ給ひたればこそ、故内府殿の扨こそ我に仰せ置かれしなれ。此處《こゝ》ぞ御恩の報じ處、情《なさけ》を殺し心を鬼にして、情《つれ》なき諫言を進むるも、御身の爲め御家の爲め、さては過ぎ去り給ひし父君の御爲ぞや。世に埋木《うもれぎ》の花咲く事もなかりし我れ、圖《はか》らずも御恩の萬一を報ゆるの機會に遇ひしこそ、息ある内の面目なれ。あゝ然《さ》なり、然《さ》なりと點頭《うなづ》きしが、然るにても痛はしきは維盛卿、斯かる由ありとも知り給はで、情なの者よ、變りし世に心までがと、一|圖《づ》に我を恨み給はん事の心苦《こゝろぐる》しさよ。あゝ忠義の爲めとは言ひながら、君を恨ませ、辱《はづか》しめて、仕《し》たり顏なる我はそも何の困果ぞや。
 義理と情の二岐《ふたみち》かけて、瀧口が心はとつおいつ、外には見えぬ胸の嵐に亂脈打ちて、暫時《しばし》思案に暮れ居しが、やゝありて、兩眼よりはら/\と落涙し、思はず口走《くちばし》る絞るが如き一語『オ御許《おゆるし》あれや、君』。言ひつゝ眼を閉ぢ、維盛卿の御寢間《おんねま》に向ひ岸破《がば》と打伏しぬ。
 折柄《をりから》杉《すぎ》の妻戸《つまど》を徐ろに押し開《あ》くる音す、瀧口|首《かうべ》を擧げ、燈《ともしび》差《さ》し向けて何者と打見やれば、足助二郎重景なり。端《はし》なくは進まず、首《かうべ》を垂れて萎《しを》れ出でたる有樣は仔細ありげなり。瀧口訝しげに、『足助殿には未だ御寢ならざるや』と問へば、重景太息吐き、『瀧口殿』、聲を忍ばせて、『重景改めて御邊に謝罪せねばならぬ事あり』。『何と仰せある』。

   第三十一

 何事と眉を顰《ひそ》むる瀧口を、重景は怯《おそ》ろしげに打ち※[#「※」は「めへん+帝」、読みは「みまも」、96-6]《みまも》り、『重景、今更《いまさら》御邊《ごへん》と面合《おもてあは》する面目もなけれども、我身にして我身にあらぬ今の我れ、逃《のが》れんに道もなく、厚かましくも先程よりの體《てい》たらく、御邊《ごへん》の目には嘸や厚顏とも鐵面とも見えつらん。維盛卿の前なれば心を明《あか》さん折もなく、暫《しば》しの間《あひだ》ながら御邊の顏見る毎に胸を裂かるゝ思ひありし、そは他事にもあらず、横笛が事』。言ひつゝ瀧口が顏、竊《ぬす》むが如く見上ぐれば、默然として眼を閉ぢしまゝ、衣の袖の搖《ゆる》ぎも見せず。『世を捨てし御邊が清き心には、今は昔の恨みとて殘らざるべけれ共、凡夫《ぼんぷ》の悲しさは、一度|犯《をか》せる惡事は善きにつけ惡しきにつけ、影の如く附き纏《まと》ひて、此の年月の心苦しさ、自業自得なれば誰れに向ひて憂を分たん術もなく、なせし罪に比べて只々我が苦しみの輕きを恨むのみ。喃《のう》、瀧口殿、最早《もは》や世に浮ぶ瀬もなき此身、今更|惜《を》しむべき譽もなければ、誰れに恥づべき名もあらず、重景が一|期《ご》の懺悔《ざんげ》聞き給へ。御邊《ごへん》の可惜《あたら》武士を捨てて世を遁《のが》れ給ひしも、扨は横笛が深草の里に果敢《はか》なき終りを遂《と》げたりしも、起りを糾せば皆《みな》此の重景が所業にて候ぞや』。瀧口は猶ほも默然として、聞いて驚く樣も見えず。重景は語を續けて、『事の始めはくだくだしければ言はず、何れ若氣《わかげ》の春の駒、止めても止まらぬ戀路をば行衞も知らず踏み迷うて、窶《やつ》す憂身《うきみ》も誰れ故とこそ思ひけめ。我が心の萬一も酌《く》みとらで、何處《どこ》までもつれなき横笛、冷泉と云へる知れる老女を懸橋に樣子を探れば、御身も疾ぐより心を寄する由。扨は横笛、我に難面《つれな》きも御邊に義理を立つる爲と、心に嫉《ねた》ましく思ひ、彼の老女を傳手《つて》に御邊が事、色々惡樣に言ひなせし事、いかに戀路に迷ひし人の常とは言へ、今更我れながら心の程の怪しまるゝばかり。又夫れのみならず、御邊《ごへん》に横笛が事を思ひ切らせん爲め、潛かに御邊が父左衞門殿に、親實《しんじつ》を上《うは》べに言ひ入れしこともあり、皆之れ重景ならぬ女色に心を奪はれし戀の奴《やつこ》の爲せし業《わざ》、云ふも中々慚愧の至りにこそ。御邊が世を捨てしと聞きて、あゝ許し給へ、六波羅の人々知るも知らぬも哀れと思はざるはなかりしに、同じ小松殿の御内《みうち》に朝夕顏を見合せし朋輩の我、却て心の底に喜びしも戀てふ惡魔のなせる業《わざ》。あはれ時こそ來りたれ、外に戀を爭ふ人なければ、横笛こそは我れに靡かめと、夜となく晝とも言はず掻口説《かきくど》きしに、思ひ懸けなや、横笛も亦程なく行衞しれずなりぬ。跡にて人の噂に聞けば、世を捨つるまで己れを慕ひし御邊の誠に感じ、其身も深草の邊に庵を結びて御邊が爲に節を守りしが、乙女心の憂《うき》に耐へ得で、秋をも待たず果敢《はか》なくなりしとかや。思ひし人は世を去りて、殘る哀れは我れにのみ集まり、迷の夢醒めて、初めて覺《さと》る我身の罪、あゝ我れ微《なか》りせば、御邊も可惜《あたら》武士を捨てじ、横笛も亦世を早うせじ、とても叶はぬ戀とは知らで、道ならぬ手段《てだて》を用ひても望みを貫かんと務めし愚さよ。唯々我れありし爲め浮世の義理に明けては言はぬ互の心、底の流れの通ふに由なく、御邊と言ひ、横笛と言ひ、皆盛年の身を以て、或は墨染の衣に世を遁れ、或は咲きもせぬ蕾のまゝに散り果てぬ、世の恨事何物も之に過ぐべうも覺えず。今宵《こよひ》端《はし》なく御邊に遇ひ、ありしにも似ぬ體を見るにつけ、皆是れ重景が爲《な》せる業と思へば、いぶせき庵に多年の行業にも若し知り給はば、嘸や我を恨み給ひけん。――此期に及び多くは言はじ、只々御邊が許《ゆる》しを願ふのみ』。慚愧と悲哀に情迫り聲さへうるみて、額《ひたひ》の汗を拭ひ敢へず。
 重景が事、斯くあらんとは豫《かね》てより略々《ほぼ》察し知りし瀧口なれば、さして騷がず、只々横笛が事《こと》、端《はし》なく胸に浮びては、流石《さすが》に色に忍びかねて、法衣の濡るゝを覺えず。打蕭《うちしを》れたる重景が樣を見れば、今更憎む心も出でず、世にときめきし昔に思ひ比べて、哀れは一入《ひとしほ》深し。『若き時の過失《あやまち》は人毎《ひとごと》に免《まねか》れず、懺悔《ざんげ》めきたる述懷は瀧口|却《かへつ》て迷惑に存じ候ぞや。戀には脆《もろ》き我れ人の心、など御邊一人の罪にてあるべき。言うて還らぬ事は言はざらんには若《し》かず、何事も過ぎし昔は恨みもなく喜びもなし。世に望みなき瀧口、今更|何隔意《なにきやくい》の候べき、只々世にある御邊の行末永き忠勤こそ願はしけれ』。淡きこと水の如きは大人の心か、昔の仇を夢と見て、今の現《うつゝ》に報いんともせず、恨みず、亂れず、光風霽月の雅量は、流石は世を觀じたる瀧口入道なり。

   第三十二

 早ほの/″\と明けなんず春の曉《あかつき》、峰の嶺、空の雲ならで、まだ照り染めぬ旭影。霞に鎖《とざ》せる八つの谷間に夜《よる》尚ほ彷徨《さまよ》ひて、梢を鳴らす清嵐に鳥の聲尚ほ眠れるが如し。遠近《をちこち》の僧院庵室に漸く聞ゆる經の聲、鈴の響、浮世離れし物音に曉の靜けさ一入《ひとしほ》深し。まことや帝城を離れて二百里、郷里を去りて無人生《むにんしやう》、同じ土ながら、さながら世を隔てたる高野山、眞言祕密の靈跡に感應の心も轉々《うたゝ》澄みぬべし。
 竹苑椒房の音に變り、破《やぶ》れ頽《くづ》れたる僧庵に如何なる夜をや過し給へる、露深き枕邊に夕の夢を殘し置きて起出で給へる維盛卿。重景も共に立ち出でて、主や何處と打見やれば、此方の一間に瀧口入道、終夜《よもすがら》思ひ煩ひて顏の色|徒《たゞ》ならず、肅然として佛壇に向ひ、眼を閉ぢて祈念の體、心細くも立ち上る一縷の香煙に身を包ませて、爪繰《つまぐ》る珠數の音|冴《さ》えたり。佛壇の正面には故《こ》内府の靈位を安置しあるに、維盛卿も重景も、是れはとばかりに拜伏し、共に祈念を凝《こ》らしける。
 軈て看經《かんきん》終りて後、維盛卿は瀧口に向ひ、『扨も殊勝の事を見るものよ、今廣き日の本に、淨蓮大禪門の御靈位を設けて、朝夕の※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、101-2]向《ゑかう》をなさんもの、瀧口、爾《そち》ならで外に其人ありとも覺えざるぞ。思へば先君の被官内人、幾百人と其の數を知らざりしが、世の盛衰に隨《つ》れて、多くは身を浮草の西東、舊《もと》の主人に弓引くものさへある中に、世を捨ててさへ昔を忘れぬ爾が殊勝さよ。其れには反して、世に落人の見る影もなき今の我身、草葉の蔭より先君の嘸かし腑甲斐なき者と思ひ給はん。世に望みなき維盛が心にかゝるは此事一つ』。言ひつゝ涙を拭ひ給ふ。
 瀧口は默然として居たりしが、暫くありて屹《きつ》と面《おもて》を擧げ、襟を正して維盛が前に恭しく兩手を突き、『然《さ》ほど先君の事|御心《おんこゝろ》に懸けさせ給ふ程ならば、何とて斯かる落人にはならせ給ひしぞ』。意外の一言に維盛卿は膝押進めて、『ナ何と言ふ』。『御驚きは然《さ》ることながら、御身の爲め、又御一門の爲め、御恨みの程を身一つに忍びて瀧口が申上ぐる事、一通り御聞きあれ。そも君は正しく平家の嫡流にてお在《は》さずや。今や御一門の方々《かた/″\》屋島の浦に在りて、生死を一にし、存亡を共にして、囘復の事叶はぬまでも、押寄する源氏に最後の一矢を酬いんと日夜肝膽を碎かるゝ事申すも中々の事に候へ。そも壽永の初め、指《さ》す敵の旗影《はたかげ》も見で都を落ちさせ給ひしさへ平家末代の恥辱なるに、せめて此上は、一門の將士、御座船《ござぶね》枕にして屍を西海の波に浮ベてこそ、天晴《あつぱれ》名門《めいもん》の最後、潔しとこそ申すべけれ。然るを君には宗族故舊を波濤の上に振捨てて、妻子の情に迷はせられ、斯く見苦しき落人に成らせ給ひしぞ心外千萬なる。明日にも屋島沒落の曉に、御一門殘らず雄々しき最後を遂《と》げ給ひけん時、君一人は如何にならせ給ふ御心に候や。若し又關東の手に捕はれ給ふ事のあらんには、君こそは妻子の愛に一門の義を捨てて、死すべき命を卑怯にも遁れ給ひしと世の口々に嘲られて、京鎌倉に立つ浮名をば君には風やいづこと聞き給はんずる御心に候や。申すも恐れある事ながら、御父重盛卿は智仁勇の三徳を具《そな》へられし古今の明器《めいき》。敵も味方も共に景慕する所なるに、君には其の正嫡と生れ給ひて、先君の譽を傷《きずつ》けん事、口惜《くちを》しくは思《おぼ》さずや。本三位の卿の擒となりて京鎌倉に恥を曝《さら》せしこと、君には口惜しう見え給ふほどならば、何とて無官の大夫が健氣《けなげ》なる討死《うちじに》を譽とは思ひ給はぬ。あはれ君、先君の御事、一門の恥辱となる由を思ひ給はば、願くは一刻も早く屋島に歸り給へ、瀧口、君を宿し參らする庵も候はず。あゝ斯くつれなく待遇《もてな》し參らするも、故内府が御恩の萬分の一に答へん瀧口が微哀、詮ずる處、君の御爲を思へばなり。御恨みのほどもさこそと思ひ遣《や》らるれども、今は言ひ解かん術《すべ》もなし。何事も申さず、只々屋島に歸らせ給ひ、御一門と生死を共にし給へ』。
 忌まず、憚らず、涙ながらに諫むる瀧口入道。維盛卿は至極の道理に面目なげに差し俯《うつぶ》き、狩衣の御袖を絞りかねしが、言葉もなく、ツと次の室に立入り給ふ。跡見送りて瀧口は、其儘|岸破《がば》と伏して男泣きに泣き沈みぬ。

   第三十三

 よもすがら恩義と情の岐巷《ちまた》に立ちて、何れをそれと決《さだ》め難《かね》し瀧口が思ひ極めたる直諫に、さすがに御身の上を恥らひ給ひてや、言葉もなく一間《ひとま》に入りし維盛卿、吁々思へば君が馬前の水つぎ孰りて、大儀ぞの一聲を此上なき譽と人も思ひ我れも誇りし日もありしに、如何に末の世とは言ひながら、露忍ぶ木蔭《こかげ》もなく彷徨《さまよ》ひ給へる今の痛はしきに、快《こゝろよ》き一夜の宿も得せず、面《ま》のあたり主を恥《はぢ》しめて、忠義顏なる我はそも如何なる因果ぞや。末望みなき落人故《おちうどゆゑ》の此つれなさと我を恨み給はんことのうたてさよ。あはれ故内府在天の靈も照覽あれ、血を吐くばかりの瀧口が胸の思ひ、聊か二十餘年の御恩に酬ゆるの寸志にて候ぞや。
 松杉暗き山中なれば、傾き易き夕日の影、はや今日の春も暮れなんず。姿ばかりは墨染にして、君が行末を嶮《けは》しき山路に思ひ較《くら》べつ、溪間《たにま》の泉を閼伽桶《あかをけ》に汲取りて立ち歸る瀧口入道、庵の中を見れば、維盛卿も重景も、何處に行きしか、影もなし。扨は我が諫めを納《い》れ給ひて屋島《やしま》に歸られしか、然るにても一言の我に御|告知《しらせ》なき訝しさよ。四邊《あたり》を見※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、104-6]《みまは》せば不圖《ふと》眼にとまる經机《きやうづくゑ》の上にある薄色の折紙、取り上げ見れば維盛卿の筆と覺しく、水莖《みづぐき》の跡|鮮《あざ》やかに走り書せる二首の和歌、
  かへるべき梢はあれどいかにせん
      風をいのちの身にしあなれば
  濱千鳥入りにし跡をしらせねば
      潮のひる間に尋ねてもみよ
 哀れ、御身を落葉と觀《くわん》じ給ひて元の枝をば屋島とは見給ひけん、入りにし跡を何處とも知らせぬ濱千鳥、潮干《しほひ》の磯に何を尋ねよとや。――扨はとばかり瀧口は、折紙の面《おもて》を凝視《みつ》めつゝ暫時《しばし》茫然として居たりしが、何思ひけん、豫《あらか》じめ祕藏せし昔の名殘《なごり》の小鍛冶《こかぢ》の鞘卷、狼狽《あわたゞ》しく取出して衣《ころも》の袖に隱し持ち、麓の方に急ぎける。
 路傍の家に維盛卿が事それとなしに尋ぬれば、狩衣《かりぎぬ》着《き》し侍《さむらひ》二人《ふたり》、麓《ふもと》の方に下りしは早や程過ぎし前の事なりと答ふるに、愈々足を早め、走るが如く山を下りて、路すがら人に問へば、尋ぬる人は和歌の浦さして急ぎ行きしと言ふ。瀧口胸愈々轟き、氣も半《なかば》亂れて飛ぶが如く濱邊《はまべ》をさして走り行く。雲に聳ゆる高野の山よりは、眼下に瞰下《みおろ》す和歌の浦も、歩めば遠き十里の郷路、元より一|刻半※[#「※」は「ひへん+向」、読みは「とき」、第3水準1-85-25、105-8]《こくはんとき》の途ならず。日は既に暮れ果てて、朧げながら照り渡る彌生半《やよひなかば》の春の夜の月、天地を鎖す青紗の幕は、雲か烟か、將《は》た霞か、風雄のすさびならで、生死の境に爭へる身のげに一刻千金の夕かな。夢路を辿る心地して、瀧口は夜すがら馳せて辛《やうや》く着ける和歌の浦。見渡せば海原《うなばら》遠《とほ》く烟籠《けぶりこ》めて、月影ならで物もなく、濱千鳥聲絶えて、浦吹く風に音澄める磯馳松《そなれまつ》、波の響のみいと冴えたり。入りにし人の跡もやと、此處彼處《こゝかしこ》彷徨《さまよ》へば、とある岸邊《きしべ》の大なる松の幹を削《けづ》りて、夜目《よめ》にも著《しる》き數行の文字。月の光に立寄り見れば、南無三寶。『祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海、親父小松内大臣左大將重盛公法名淨蓮、三位中將維盛年二十七歳、壽永三年三月十八日和歌の浦に入水《じゆすゐ》す、徒者足助二郎重景二十五歳殉死す』。墨痕淋漓として乾かざれども、波靜かにして水に哀れの痕も殘らず。瀧口は、あはやと計り松の根元《ねもと》に伏轉《ふしまろ》び、『許し給へ』と言ふも切《せつ》なる涙聲、哀れを返す何處の花ぞ、行衞も知らず二片三片《ふたひらみひら》、誘ふ春風は情か無情か。

            *        *
       *        *

 次の日の朝、和歌の浦の漁夫《ぎよふ》、磯邊に來て見れば、松の根元に腹掻切《はらかきき》りて死せる一個の僧あり。流石|汚《けが》すに忍びでや、墨染の衣は傍らの松枝《まつがえ》に打ち懸けて、身に纏へるは練布の白衣、脚下に綿津見《わたつみ》の淵を置きて、刀持つ手に毛程の筋の亂れも見せず、血汐の糊《のり》に塗《まみ》れたる朱溝《しゆみぞ》の鞘卷|逆手《さかて》てに握りて、膝も頽《くづ》さず端坐《たんざ》せる姿は、何れ名ある武士の果ならん。
 嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、齋藤瀧口時頼が、まこと浮世の最後なりけり。



底本:「瀧口入道」岩波文庫、岩波書店
   1938(昭和13)年12月2日第1刷発行
   1968(昭和43)年10月16日第32刷改版発行
   1980(昭和55)年3月10日第43刷発行
入力:笠置一郎
校正:双沢薫
2001年7月12日公開
2001年7月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ