青空文庫アーカイブ

清見寺の鐘聲
高山樗牛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夜半《よは》の

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
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 夜半《よは》のねざめに鐘の音ひゞきぬ。おもへばわれは清見寺《せいけんじ》のふもとにさすらへる身ぞ。ゆかしの鐘の音《ね》や。
 この鐘きかむとて、われ六《む》とせの春秋《はるあき》をあだにくらしき。うれたくもたのしき、今のわが身かな。いざやおもひのまゝに聽きあかむ。
 秋深うして萬山《ばんざん》きばみ落《お》つ。枕をそばだつれば野に悲しき聲す。あはれ鐘の音、わづらひの胸にもの思へとや、この世ならぬひゞきを、われいかにきくべき。怪しきかな、物おもふとしもあらなくに、いつしかわが頬に涙ながれぬ。
 間《ま》どほなる鐘の音はそのはじめの響きを終りぬ。われは枕によりて消ゆるひゞきのゆくへもしらず思ひ入りぬ。
 第二の鐘聲《しようせい》起こりぬ。夜はいよ/\しめやかにして、ひゞきはいよ/\冴えたり。山をかすめ、海をわたり、一たびは高く、一たびはひくく、絶えむとしてまたつゞき、沈まむとしてはまたうかぶ。天地の律呂《りつりよ》か、自然の呼吸《こきふ》か、隱《いん》としていためるところあるが如し。想へばわづらひはわが上のみにはあらざりけるよ。あやしきかな、わが胸は鐘のひゞきと共にあへぐが如く波うちぬ。
 おもひにたへで、われは戸をおしあけて磯ちかく歩みよりぬ。十日あまりの月あかき夜半なりき。三保《みほ》の入江にけぶり立ち、有渡《うど》の山かげおぼろにして見えわかず、袖師《そでし》、清水の長汀《ちやうてい》夢の如くかすみたり。世にもうるはしきけしきかな。われは磯邊《いそべ》の石に打ちよりてこしかた遠く思ひかへしぬ。
 おもへば、はや六歳《むとせ》のむかしとなりぬ、われ身にわづらひありて、しばらく此地に客《かく》たりき。清見寺の鐘の音に送り迎へられし夕べあしたの幾《いく》そたび、三保の松原になきあかしゝ月あかき一夜は、げに見はてぬ夢の恨めしきふし多かりき。
 六とせは流水の如く去りて、人は春ごとに老いぬ。清見潟《きよみがた》の風光むかしながらにして幾度となく夜半の夢に入れど、身世怱忙《しんせいそうばう》として俄《にはか》に風騷《ふうさう》の客たり難《がた》し。われ常にこれを恨みとしき。
 この恨み、果《はた》さるべき日は遂《つひ》に來《きた》りぬ。こぞの秋、われ思はずも病にかゝりて東海のほとりにさすらひ、こゝに身を清見潟の山水に寄せて、晴夜《せいや》の鐘に多年のおもひをのべむとす。ああ思ひきや、西土《せいど》はるかに征《ゆ》くべかりし身の、こゝに病躯《びやうく》を故山にとゞめて山河の契りをはたさむとは。奇《く》しくもあざなはれたるわが運命《うんめい》かな。
 鐘の音はわがおもひを追うて幾たびかひゞきぬ。
 うるはしきかな、山や水や、僞《いつは》りなく、そねみなく、憎《にく》みなく、爭《あらそ》ひなし。人は生死のちまたに迷ひ、世は興亡《こうばう》のわだちを廻《めぐ》る。山や、水や、かはるところなきなり。おもへば恥《はづ》かしきわが身かな。こゝに恨みある身の病を養へばとて、千年《ちとせ》の齡《よはひ》、もとより保つべくもあらず、やがて哀れは夢のたゞちに消えて知る人もなき枯骨《ここつ》となりはてなむず。われは薄倖兒《はくかうじ》、數《かず》ならぬ身の世にながらへてまた何《なに》の爲《な》すところぞ。さるに、をしむまじき命のなほ捨てがてに、ここに漂浪の旦暮をかさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。
 鐘の音はまたいくたびかひゞきわたりぬ。わがおもひいよ/\深うなりつ。
 夜はいたく更けぬ。山と水と寂寞として地に横はり、星と月と寂寞《じやくまく》として天にかゝれり。うるはしの極《き》はみかな。願はくは月よ傾かざれ、星よ沈まざれ、永久《とは》の夜の、この世の聲色《せいしよく》を掩《おほ》ひつゝめよかし。されどわれには祷《いの》るべき言葉なかりき。
 最後の鐘聲おこりぬ。餘音《よいん》とほくわたりて、到るところに咏嘆のひゞきをとゞめぬ。うれしの鐘の音や、人間の言の葉に上《のぼ》りがたきわがいくそのおもひ、この鐘ならで誰か言ひとかむ。

 年を越えてわれ都にかへりぬ。わが思ひまた胸にむすぼれつ。夜半のねざめに清見寺の鐘聲またきくべからず。われは今に於ても幾たびか思ひぬ。唱一語《しやういちご》以てわがこの思ひを言ひあらはさむすべもがな。かくて月あかき一夜、海風《かいふう》に向ひて長く嘯《うそぶ》かなむ。わが胸のいかばかり輕《かる》かるべき。
[#地から1字上げ](明治三十四年五月)



底本:「現代日本文學全集 第十三篇」改造社
   1928(昭和3)年12月1日発行
※底本は総ルビですが、読みやすさを考慮して振り仮名の一部を省きました。
入力:三州生桑
校正:今井忠夫
2003年12月15日作成
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