青空文庫アーカイブ

虫干し
鷹野つぎ

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)南風《みなみかぜ》
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 海の南風《みなみかぜ》をうけている浜松の夏は、日盛りでもどこか磯風の通う涼しさがありましたが、夜は海の吐き出す熱気《ねっき》のために、却って蒸《むし》暑い時もあるのでした。
 そうした夜は寝床にうすべりを敷き、私たちも大人の真似をしてひとしきり肩に濡手拭をあてて寝《やす》む事もあるのでした。けれどそれも八月頃のことで、九月も終り頃からは、朝あけや、夕方の空は、露っぽい蒼さに澄んでくるのでした。
 そのうち日中《にっちゅう》でも秋の爽やかな風が通《かよ》う頃になりますと、私の家でも虫干しが始まりました。
 衣類が干される日には、私は小腰をかがめて、吊紐にかけた衣類の下を潜《くぐ》って歩いたりしました。すると樟脳や包袋《においぶくろ》の香りと一緒に、長らく蔵《しま》われていたものの古臭いような、それでいて好もしい、匂いも錯《まじ》って鼻を打ってくるのでした。母は私にあまり手を触れないようにと注意しながらも、あたりの衣類を指して、思い出話をするのでした。
 私は祖父の古い梨子地《なしじ》の裃《かみしも》というのも見ました。祖母の縫取模様の衣類や帯、父の若い時に着た革羽織《かわばおり》というのも見ました。また母の婚礼の時の重衣《かさね》や、いたことか、黄八丈とか、呉羅《ごろ》とか、唐桟《とうざん》などという古い織物の着物や帯なども教えられて見ました。
 子供たちの七五三《しちごさん》の祝着《いわいぎ》なども干されましたが、そのなかで背中に飾紐のついてる広袖の着物が、私のお宮詣りの日に着たものだと聴かされた時には、自分の憶えのない遠い赤児の頃を思って、ふしぎな気持がしました。
 又吊紐のひとところには緑色の地に金銀や朱色の糸で刺繍した、お角力さんのとそっくりな小型な化粧まわしが吊されていました。
『それはの、大きい兄さんが幼《ちい》さい時に草角力《くさずもう》に出るので拵《こしら》えたものだよ。よく見てごらん、名前が繍《ぬ》ってあるずら』
『ええ、あるわ』
 私は金糸の撚糸《よりいと》の垂房《たれぶさ》に触《さわ》りながら、滝に鯉の繍《ぬい》とりの中に、信太郎と浮き出している字を見つけました。
 そのほかにも母には一つ一つ思出がありそうでしたが、私はたいていのところで、聴《き》くのをやめて外へ遊びに出て了うのでした。
 また別の日には、父の何年ぶりかの所蔵品《もちもの》の虫干もありました。此の日には私は離れの方へ見に行きました。
 刀《かたな》だの、軸ものだの、文庫にはいっている古い書類だの、そのほか色々な器物《うつわ》が、古道具屋の店みたいに並べてありました。
 上に円い枠《わく》のついた三本脚の黒塗の台に、硝子鉢が篏めてありましたが、父はそれを『ギヤマンの金魚鉢』と呼んでいました。
 私は刀に少し触《さわ》ってみたり、文庫の中をのぞいて見たりするのですが、その中には祖父の句集や、道中記などの半紙綴りのものなどもありました。
 父が此の上もなく大切にしている堆朱《ついしゅ》の棗《なつめ》というのを覗かしてもらいましたら、それは私のおはじきを納れるによい容器《いれもの》のように思われました。
 なおも私があちこち見廻していましたら、『絵ならおもしろい錦絵がそこにある。それをご覧』と、父は片隅を指してくれました。
 糊《のり》でつながれて部厚く巻込まれた錦絵を私が手に取り上げましたら、父が片方を徐かにほぐして行きながら、縁の端まで行って立ち止まってくれるのでした。絵巻きには長い顔や、大きな眼や、手拭かぶりや、蛇目傘《じゃのめがさ》や、柳の木や、黒塗の下駄などが、色刷の一枚ごとの美しさを競うように、眼うつりになって、きらびやかにちらついて見えるのでした。
 此の稀《たま》の虫干しの日に、遂に私は粗相をしました。うっかり何かにぶつけて、父の大切にしている赤い絵模様の水差《みずさし》の握手《にぎりて》を折って了ったのでした。その時胸はドキドキと鳴り私はすぐには許しも乞えませんでした。でも
『もう済んで了ったことだ、これからは気をつけなさい』と父は気をとりなおして云ってくれました。此の時の父のやさしさは子供心にもふかく肝《きも》に応《こた》えたものでありました。



底本:「日本の名随筆18・夏」作品社
   1984(昭和59)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「鷹野つぎ著作集 第二巻」谷島屋
   1979(昭和54)年4月
※「虫干し」は回想記「四季の子供」1941年に収録。
入力:砂場清隆
校正:菅野朋子
2000年7月28日公開
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