青空文庫アーカイブ
栄螺
田畑修一郎
私はもう何年か夏の海に遠ざかっている。海で泳ぐ快味は忘れはしないが段々縁がなくなるようだ。私は日本海沿岸に近い所に生れたので、幼い時から夏になると殆ど毎日のように海へ入った。
私の生れた地方は中国地方の花崗岩の地質のためか、海岸はいわゆる白砂で、水もきれいだ。東京で羽田の潮干狩に行って汚いのにこりた。そのためもあるが、東京に住みついてから十一年ばかりまだ附近の海水浴場へ出かけたことがない。
四五年前にたった一夜、思いがけないことから海に入った。うちの女の子が小学校の夏季生活で外房州の千倉へ行っていたのだが、病気だという電報が来たので慌てて出かけた。この娘は三つの時に疫痢をやって死にかかったことがあるので、てっきりそれに近い病気だと思った。いろいろ心配しながら着いてみると、下駄をはいて友達とそこらを歩いている。あっけにとられた。その年はひどい暑さだったが、千倉は殊に暑さがはげしいように感じた。あまり丈夫ではないので、疲労熱を出したのらしい。
安心したのと、ついでだからと言うので、その晩は子供達の食堂に泊めてもらった。他に父兄が二人いた。私は慣れない所だったので、その晩とうとう眠れなかった。しかし、朝になるとかっと暑くなって来て、何だか気が立っていたせいだろう不眠も何ともなく感じた。その日夕方まで、私は海で時間を過した。
防波堤で小さな湾がつくられ、その外へ泳いで出ると、浪はかなり高く持上って顔にぶつかって来る。岩もたくさんあった。浪のつよい時に岩の間を泳ぐのは多少危い。岩に身体を打ちつけられるのだ。しかし、私は幼い時から馴染んで来た田舎の海を思い出して気持がよかった。ふわりと高く持上げられたり、低く落しこまれたりしながら、何もない沖の方を向いて泳いで行くのはいいものだ。それからあの軽く柔い水の肌ざわり、底が白い砂地だと浪のゆらめきにつれていくつもの細い光りの皺が下できらめく。
日本海では土用波はない。しかし、沖が荒れているときにはかなり浪が高くなる。こういうときはあまり気持はよくないが、それでも沖へ向って泳いで出たものだ。高くなったり、底の方に低まったり、その度に陸が一望の中に眺められたかと思うと、急に頭の上の空だけになる。沖からかなりな奴が頭を持ち上げて、脅かすように段々と近まって来る。見当で、乗り切れるかどうかを見る。中にはゆるくやって来て、いきなり頭の上から捲きこむやつがある。こいつでかいなと思うと、迫って来る浪のまん中をめがけてまっすぐ棒のように潜って突き抜けるのだ。でないと、捲きこまれて、水の中で揉まれてしまうのである。
まあこういう時は岩場は危くて近よれないのだ。しかし、浪の静かな時は岩のところにばかり出かけた。栄螺、あわびを採るのである。あいつの巣を見つけることさえできれば、こんなに楽にとれるものはない。私はいつも友人の二三人で出かけたのだが、めいめいに水中眼鏡をかけて、岩から岩へつたわって行くのであった。岩の側面や下側、海底などの割れ目を丹念にのぞいて行くのである。いるときには、その長細い割れ目の中にぞろっと列をつくってぎっしり並んでいる。あまり沢山だと大きいのだけを採るのだが、それでも一度では手にいくつも持ち切れないし、岩の上へほうり上げては又逆さにもぐりこむのが忙しくて大変だ。ぽかっと浮び上っては口を大きく開ける、又もぐりこむ。時々、友人といっしょに浮び上って、大急ぎで息を吸い込む変な顔を見合うことがあるが、それを笑っていられないほど忙しい。
あの採りたての栄螺を岩の上に叩きつけて割り、むき身を潮水で洗って生のまま喰べると、柔かく甘味があってうまかった。私は栄螺は煮ても焼いてもあまり好きではないが、この岩の上で喰べるのはうまいと思った。
あわびは栄螺ほど沢山とれなかった。あわびはもっと深い方にいるのだし、採るには金挺のようなものがいる。それも、急いでさっと差しこまないと、固くへばりついてどうにもならない。小さな鉾で泳いでいる魚を追っかけ突くのは、私も大分やったがうまくいかなかった。章魚ならとったことはある。こちらが見つけた時には、向うもそれと知って、あの長い足をふわふわさせながらそろそろと岩の奥に逃げて行くのである。栄螺を探して、こいつにぶつかると、何だか可笑しくなって仕方がなかった。
底本:「日本の名随筆18・夏」作品社
1984(昭和59)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「田畑修一郎全集 第三巻」冬夏書房
1980(昭和55)年10月
※「栄螺」は「新風土」1940年8月に発表。
入力:砂場清隆
校正:Tomoko.I
2000年11月4日公開
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