青空文庫アーカイブ
石ころ路
田畑修一郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吹き捲《まく》った
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)終日|呆然《ぼうぜん》として
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島へ着いた翌日から強い風が出て、後三日にわたって吹いて吹き捲《まく》った。雨も時々まじったが、何より風の強さに驚いた。島の人に訊《き》くと、こんな風ならしょっちゅうだと言う。もっとひどいときのはどんなだろうと思った。
僕の着いた日は、海にうねりこそあったが、穏かなうす曇りで、船から望んだときの三宅島はその火山島らしい円錐形《えんすいけい》の半ばの高さから下方は淡緑色に蔽《おお》われて、陸へ上るとすぐ、そこは黒砂のあまり大きくない浜で、そこから三十メートルぐらいの断崖《だんがい》についている急な坂路を上って、ゆるやかな傾斜地を走っているやや広い路に出たとき、あたりの土手にたくさんある灌木《かんぼく》はもう若々しい広い葉っぱを出しているし、路の両わきの木々も、それからところどころの樹の間から眺望《ちょうぼう》されるなだらかな山裾、それはしだいに盛り上って向うに島の中心をなす雄山《おやま》の柔かいふくらみが眼を惹《ひ》きつける、そこら一帯の榛《はん》の木の疎林《そりん》、あたりの畑地にもいっせいに新芽をふきだしているのを見て、僕はいきなり春の真中へとびこんだような気がしたものだ。
それが三日間の強い北西の風でまた冬に逆もどりした形だった。僕の来た分の次の汽船は島へ近寄れなくって、大島の波浮《はぶ》港まで避難したという。着くなり風に閉じこめられた工合で、僕は終日|呆然《ぼうぜん》として庭の向うの楠《くすのき》の大木が今にもちぎれそうに枝葉をふきなびかされるのを、雨を含んだ低い雲がすぐ頭の上と思えるくらいのところを速くひっきりなしに飛んでゆくのを眺め、小やみなく遠くの方で起って、きゅうにどっと襲って、また遠くの方で唸《うな》っている風の音を聞いてすごした。
ようやく風のしずまった日の午後、散歩に出た。部落のどの家も周囲に石垣をめぐらしている。島では「ならいの風」という。それは北西から吹くやつだが、そいつが来るといつも荒れで、部落はおそらくならいの風を避けるためにか、傾斜と傾斜の間のいくらか谷まった地勢にかたまっているので、家々の高低がまちまちで、路は家々の古い石垣の間をあるところは小さい谷のようになって、方々に上ったり下ったりして続いている。いい加減に低い方へ下りてゆくと、部落外れの両側に椿の樹が並木みたいにぎっしりと密生した路になった。そこを抜けるとからっとした広い傾斜面でどこも秣畑《まぐさばた》になっている。切株から青い葉茎が少し出ている。ずっと海の方まで傾斜面はつづいて、そこでいきなり切れている風に見えるが、きっと高い断崖になっているのだろう。秣畑を区切ったみたいにしての茅《かや》のような雑草がところどころにある。まだ冬枯れのままの延び放題な、そして風に捻《ひね》られ揉《も》みたてられたまま茫々として、いかにも荒れた感じだ。そのあたりでは風がまだ相当強い。時々後から追いたてるように、冷たくさっとやってくる。そして火山灰でできた秣畑の荒い小砂を足のあたりに吹きつける。身体の奥の方で何かが目覚めてくる。路はもう消えてしまったが、何とかして崖っ縁まで行ってみようと思って、そこではもうだいぶ深くなっている茅の茂みに踏みこむと、隠れた凹地に足をとられて、僕は何度か転《ころ》び、手足の方々を擦《す》りむいた。風の冷たいのと、茂みの深いのとで、崖縁まで行くのはとうとう断念した。
引き返しにかかると、まともに面《おもて》を打つ風のきついのにびっくりした。でたらめに部落へ向けて秣畑の中を歩く。時々顔を上げてあたりを見ているうち、白い波頭のちらちらしている海のずっと向うに、山の上半分うすく雪を被《かぶ》っている島が眼に入った。それは大島だった。何だかひどく遠い。そして暗灰色の曇り空の中にちょっぴりした鮮かな雪の色は思いがけなく僕の心に錐《きり》のような痛みを感じさせた。ここからいうと、大島もその向うにあっていちような灰色の中にかくれてはいるが、東京のあるあたりは北方だ。あすこには今どんなことが起っているのだろう。あすこには僕の置き去りにしてきた生活がある。いろんなことが一時に胸の中に押し寄せてくる。だが、僕はここに来ている。ここにいる僕は向うに起ることとはいっしょになって生きてはいない、ここは何かしら別物だ。
ちょうど部落の入口に来たとき、そこから路はやや急な坂になっているのだが、上手《かみて》から一人の着物の前をはだけてひき擦《ず》るように着た痩せた男が路いっぱいにふらりふらりと大股に左右に揺れて降りてくるのを見た。咄嗟《とっさ》に気狂いではないかという気がしたので、小わきによけて擦れちがおうとすると、その男はなんだか僕の行く方へ寄ってくる。そのまま二三尺の距離で二人とも立ちどまった。そのとき僕は始めて相手の顔を見た。痩せて尖《とが》った顔で、執拗《しつよう》に僕を小高いところから見下している眼つきには、風狂者によくある嶮《けわ》しさのうちに一脈滑稽じみたところがある。僕が相手の気心をはかりかねて立っていると、その男は立ちはだかったままやはり左右にゆるく揺れていたが、僕を文字どおり上から下までいくらか仕科《しぐさ》めいた様子で眺めて、
「君は誰だ」と、訊いた。
僕は間《ま》の悪い微笑をした。だが、ある気まぐれが起ったので、
「君は誰だ」と、僕もおうむ返しに訊いた。相手はまたぐらりと揺れて、重ねて、
「君は誰だ」と繰りかえした。
「君が言わなきゃ、僕も言わないよ」
僕はそう言いながら、自分が冗談でやっているのか、本気なのかわからない気持になった。
「いや、わるかった」と言って、頭をちょっと下げたかと思うと、すぐ、
「誰だ」と訊く。
「誰でもいい」
「何しに来た」
「遊びに来た」
「遊びに?――島へ遊びになんか来られちゃ困る」
僕は思わず彼の顔をまじまじと見た。なるほどそうかもしれない。僕はいい加減に「遊びに来た」と答えたが、その男に叱られたように僕の心持なんかただの遊びにすぎないのかもしれぬ。
「いや、君は今度来た水産技師だろう」と、その男はきゅうに叫んだ。
「そうだろう。水産技師だろう」と、いきなり僕の手をつかんで、
「君、たのむ。島のためによろしくたのむ」
と、もうすっかりそれにきめて、人なつこい微笑をうかべた。彼は明らかに酔っていた。
「うん、うん」
「そうか、たのむ。今夜遊びに来たまえ。すぐそこの家だからな」
その男はきゅうにはなれて、ぴょこんとお辞儀をして、ふらつきながらすぐ下手《しもて》の汚い農家の庭へ入って行った。
島の人で最初に僕に強い印象を与えたのはその酔払いであった。またほかに、「リュウさん」という人、「タイメイ」という人などに会った。僕は、島の人で学校時代に僕より二三年先輩で、一二回会ったくらいで顔もうろ覚えになっている檜垣《ひがき》をたよってきたんだが、そして着くなりそのまま檜垣の家に厄介《やっかい》になっていたが、檜垣の家は伊豆七島|屈指《くっし》の海産物問屋で、父親がその方をやっていた。檜垣自身は専売局出張所の役人をやっていた。家のすぐ裏手に出張所の建物があって、檜垣はそこでいつも島の青年たちを集めて喋《しゃべ》ったりお茶をのんだりしていた。檜垣はむろんその中心なのだ。いろんな人がやってくる。近くのバタ製造所の技手、印半纒《しるしばんてん》を着た男、コール天のズボンをはいた男、などが通りがかりにひょっこり入ってきて、三十分も一時間も坐りこんで話してゆく。
「リュウさん」はその仲間の一人だが、しかし青年とは言えない。彼の息子二人のうち兄の方は無線電信の技手をやめて帰った男で、弟の方はこれも銀座の不二屋のボオイを七年もやっていたくらいで、息子二人も出張所へ来る仲間だが、父親の「リュウさん」もやはり仲間なのである。彼と息子たちとはほとんど似ていない。檜垣の話では、「リュウさんはあれで黒竜会の壮士だったんだ」という。しかしちっともそれらしくなくて、小柄で真黒で痩せて、ちょっと東京の裏店《うらだな》に住んでいる落ちぶれた骨董屋《こっとうや》というところだ。何かといえばうなずく癖がある。入ってくるとからそれをやる。「ウン、ウン、ウン」と聞えないくらいに言って、独特の微笑をして(そんなとき一皮の切れの長い眼がクシャクシャに小さくなる)その場にいる誰にもうなずいてみせる。自分が話す段になるともっと頻繁《ひんぱん》にやる。話に興がのると、あまりひどくうなずくので、彼の腰かけている椅子ががたついて、動くことがある。彼の腰かけている椅子ががたついて、滑り落ちそうになると、慌《あわ》てて居ずまいをなおして、椅子に深く腰をかけるが、すぐまたうなずきはじめる。それに咽喉がわるいのか、奇妙な咳《せき》をする。ちょうど鶏がトキをつくる際のけたたましさに似た、思いがけない疳高《かんだか》い声でやるのだ。どこにいても、それこそずいぶん遠くにいても、その咳で、「リュウさん」とわかるのだという。ちょうどその話をしていたとき、出張所の横手の路の先から咳が聞えて、「そら」と言っていると案の定「リュウさん」で、大笑いしたことがある。また、彼の話しっぷりそのものが、咳やうなずき工合と同じに突拍子もなくて、黒竜会の壮士だったというのも、いくらかそういうこともあったのだろうが、彼の話しぶりにも由来《ゆらい》しているのだろう。「リュウさん」と皆が言うので、僕は「竜さん」だと思いこんでいたら、ほんとうの名は「隆さん」だった。
「タイメイ」という人は若い指物師《さしものし》で、やはり東京に何年か出ていたのだが、病気で帰っているという。なんだか亀の名みたいで僕は「リュウさん」の例もあるし変な気がしていたが、字を訊くと「泰明」という立派な名前なのでよけいに面喰《めんくら》った。
「タイメイ」さんは医者のかえりだと言って薬瓶をさげて入ってきた。銘仙《めいせん》の光る着物を長く着て、帯を腰の下の方に結んで、ロイド眼鏡の鼻にあたるところが橋のようになっているのをかけて、顔は島の人に似合わない白さだった。それに様子《ようす》全体に何だかちょこちょこした、椅子に腰かけるにもそこらを歩くにも小腰を落したような、変に柔かい、遊人風《あそびにんふう》なところがあった。
「病気はなんだい」と、檜垣がからかうように訊く。
「え、まア、神経衰弱ですね」と、相手のからかう調子に用心した風で、にやにやして、ちょっと上眼に見る。
「おれは、タイメイが病気だっていうから医者にどんな病気かって訊いてやったよ」と、檜垣がわざとくそまじめに、それからニヤリとして、
「神経衰弱なんかじゃないだろう」
「えへエ、にいさんったらあれだ。そんなんじゃありませんよ」
それで皆が一時に笑いだす。「にいさん」というのは皆が檜垣を呼ぶ言い方だ。「タイメイ」さんは後から何をからかわれるか気にして、窓のところへ音をたてないように寄って、人目につかない用心をしていたが、檜垣が指物《さしもの》の話を持ちだすときゅうに元気になった。よく喋る。目の前に出された置物台の木理《もくめ》をしらべたり、指先で尺をとったり、こんこん台の脚をたたいたりして説明するんだが、その手つきにはどこか真似のできない巧みさがあり、他の人が持ったときよりも彼の手にあるときの置物台が何だか生きて見えるのだった。
檜垣は僕のために島めぐりの案内人をつけようと言って、
「そうだ、タイメイならちょうどよかろう。やつならおもしろい男だし、うってつけだ」
と、話していたのだが、「タイメイ」さんはその話を聞くとすぐに承知してくれた。
二日後の朝 僕はきゅうにうって変った背広服に色変りのズボン姿の「タイメイ」さん(その中には中島泰明という先日とは別の男が顔を出していた)といっしょに島めぐりに出かけた。
神着《かみつき》の部落をはなれると、路は右手に海をひかえた断崖の上に出る。そこは始めに島へ上るとき見た断崖だったが、上から見るとこんなに高かったかと思われるほどだった。浜の部落の屋根がほとんど真上からのように眺められる。ちょっとした切通しを抜けると、そこから先きはこの島の大部分がそうだが、雄山《おやま》からの傾斜面が海に来てきゅうに落ちこむまでのゆるやかな下《くだ》り勾配《こうばい》の地帯で、榛の木の林がいたるところ目につく。路は傾斜の皺々に添ってゆるく曲り曲りしてつづく。若々しい芽のふきでた林の上に微風があたると、いっせいに柔かく小さく揺れるのが見える。ところどころの赤い色の土くずれ。下方にとってもちっぽけに見える行儀のいい、四角な、少し円味《まるみ》をもって盛り上っている畑地。地面を蹴ってとびさえすれば何だか身体が浮くだろうという気のする、軽い、何かしら匂いのある空気。
「タイメイ」さんは、人をそらさない妙な馴れ馴れしい調子でしきりに僕に話しかける。
「これも何かの御縁ですから」と前置きして自分の身の上話をはじめた。彼には女があると言う。その女は以前島の料理屋で仲居《なかい》をしていたんだが、その女と仲よくなったために、その間《かん》島におれない事情ができて、(「タイメイ」さんは話の間に「その間《かん》」という言葉をさしはさむ癖があった。別に必要でないところにも使うし、また説明しにくいところは「その間《かん》、いろいろの事情がありまして」と、うまく、するするといくらでも話をつづけるのであった)女といっしょに東京に出た。だがその女とも今は別れた。「女は今伊豆伊東町○○町○番地○○方にいて、まだ時々手紙をよこしますがね」と、こちらで訊きもしないのにそんな精《くわ》しいことまで喋って、今度は仕事の話になって、自分は指物師としていい仕事をしたい、幸い島は桑の本場だし、数少くともいい仕事をして暮すにはやっぱり島が都合がよいので、病気のためもあるがそう思って帰ってきた。ところが東京の店の主人が自分をひきもどそうとしてなかなか仕事道具を送ってくれないので困る、というような話をちっとも倦《あ》きさせないで長々と喋るのである。それからまた病気の話になって、
「毎日人に会うのがいやで寝てくらしますよ」
と言う。ぶらぶらしていると島の人は、何だ遊びほけていると言うし、仕事をしようにも道具はないし、叔母さんの家にいるのだが、その叔母は起きているとしょっちゅう何かしろと言うし、ひる日中朝から晩まで床の中にもぐっている。――
「まったく、あなたの前ですが、面倒くさいから死んでやろうかと思いますよ」
と、彼は突然なげやりなほんとうに怒ったような調子で言った。彼の話はなにしろ流れすぎるので、どこからどこまで真《ま》にうけていいかわからなかったが、その瞬間の彼には「タイメイ」さんでもなく、「中島泰明君」でもない、何か別の、孤独に苦しんでいる男が見える気がした。そういえば、出発の前日に時間をうち合わせに彼のいる家を訪ねて行ったが、それは午後の二時ごろだったが、部落から小さいわき路を上って行ったところにある、高手ではあるが山蔭のようなところの、古い傾きかかった家で、彼は雨戸をたてきった真暗い部屋に寝ていた。そして叔母さんという人が彼をよび起すと、彼はのそっとして炉ばたに出てきて、僕といっしょに茶を啜《すす》りながら、永いこと黙っていた。傍には叔母さんが坐っていた。そのときの彼にも、前日に見たいくらか浮調子なへらへら微笑《わらい》がなくて、どこか「恐わい」ものを自分の中に抱いて生きている男の様子があった。
だが、そういう苦渋《くじゅう》な様子はほんのちょっと現われるだけで、すぐまた、元の陽気な馴々しい「タイメイ」さんにかえるのである。今もそれで、彼はひととおりの身の上話を終ると、少し黙って歩いた後で、いきなり僕の傍から二三歩ぎょうさんにとびのいてみせて、
「ずるいや、あなたは。他人《ひと》にばっかり話をさせて。いやじゃありませんか。少しはあなたのことも話して聞かせるもんです」
と言うのだった。
僕はいつの間にか「タイメイ」さんに深い親しみを感じていた。そして、できたら彼と同じ調子で僕の身の上話を聞かせてやりたいと思った。だが、僕という男には自分のことを一種楽しそうな調子で人に話して聞かせることはできないのだった。で、僕はあるすまない感情を覚えながら、彼の話の聞役にまわるよりほかはなかった。もっとも、僕が話しだしたら「タイメイ」さんはきっと中途から自分のことの方へ話を横どりしてしまうだろうが。――
島めぐりの最初の日は三里ほど歩いて阿古《あこ》村という部落で一泊する予定だった。「タイメイ」さんは路々阿古村の娘たちの話をして聞かせた。ちょうど途中の伊豆村というところで大きい風呂敷で包んだ荷箱を背負《しょ》ってくる娘さんに会った。「タイメイ」さんは彼独特の気軽な何だかからみつくような馴れ馴れしい調子で「やあ」と言って、それから何か話しかけた。紺絣《こんがすり》を着たその娘さんは体《てい》よく挨拶して、路の傍の駄菓子屋へ寄った。阿古村にある菓子製造所の娘で、ああやって卸《おろ》して歩くんですよ、とのことだった。また、途中で三人の小娘が荷を背負って行くのに追いついたがこの娘たちは阿古村から専売局の出張所のある神着まで煙草の買入れに来たかえりなのだ。
僕は朝方出がけに檜垣のいる出張所でこの娘たちを見たので覚えがあった。「タイメイ」さんは彼女たちの後姿を見かけると、きゅうに足をはやめた。そして、何かとからかいかけた。まだほんの十四五歳ぐらいの娘たちは顔を見合せて、紅くなって笑うばかりだ。僕は彼女たちがいくらか当惑しているのを見ると、「タイメイ」さんを娘たちから引きはなそうと思って、気づかれないように足を速めたので、間もなく娘たちは後になったが、「タイメイ」さんは時々うしろを振りかえっていたが、ふいにニヤニヤして僕の顔を見上げ、「阿古村というところは村の娘が宿屋へ遊びに来ますぜ」と言った。
やがて、その辺は丘陵の皺が入り乱れて路は石ころだらけの、両側は雑草と雑木林で、その間を深く切りこんで下る急な坂路だが、きゅうに海の真上に出たかと思うほど切りたった崖縁の上を曲ったとき、前方にそれもすぐ眼の下にその阿古村が現われた。そこは島へ来て始めて見るやや平地らしい平地で、それも東側は高い崖なんだが、西方へ向って開けた土地に、ほとんど崖のつけ根から海ぎわまで、低い瓦屋根がぎっしりとつまって、それも強い西風を防ぐための石垣の間々に家々はまるで背をちぢめてかたまり合っているかのように見える。
天気はよかったが、現に今も西風が吹いていて、それもそう強くはないのに、海から打ちつける浪のしぶきが、部落の縁の真黒い岩々の上をうすい煙のように匍《は》っているのが見えた。神着の部落とちがって、ここでは家々もそう頑丈《がんじょう》でなく、何か剥《む》き出しな荒々しい空気が部落の上を通っていた。大きい石で畳んだ路が、日に照らされて艶々《つやつや》して、何だか滑《すべ》っこい工合に町の中へ上っている。しばらくして、僕たちはその方へ降りて行った。
その夜、部落に婚礼があるというので、僕は「タイメイ」さんにつれられて見物に行った。宿屋の外へ出ると、そこは例の石畳の路だ。そこを爪先上りにのぼって行くと、上手から人影が三つ四つ下りてくる。話声で年配のおかみさんたちだとわかる。擦《す》れちがいざまに顔をのけぞるようにして僕たちをまじまじと眺める。瞬間ぴったりと黙っているのだ。そしてやりすごしておいてきゅうにかたまって、夜目なのでよくわからないが袖でのどもとを隠すように前屈みになって、がやがや言いながら下りて行く。また前方から誰か来る。すぐ近くに来るまではそれが男だか女だかよくわからない。どの人影も擦れちがいざまに、透《すか》し見る様子をする。ところどころの角や軒下なんかに、二三人黒くかたまっているのもある。そういう人影は行くにしたがって多くなってきた。婚礼のある家の前あたりには、そこらの暗らがりにどこにでも一人や二人の人影が見えないところはない。みんなひそひそ話している。時々大きい声がするのは、子供がきゃっきゃっ叫ぶくらいのものだ。婚礼のある家は、雑貨店らしく、それらの品物を容れた棚が見える。店にはランプが一つともっているきりで、その下で赭《あか》ら顔のでっぷり肥った男が袴をはいて坐って、時々表の方の人影を意味ありげな笑いを含んだ眼で眺めている。
その家の前にちょっとした空地があり、半鐘を吊した梯子《はしご》が立っている。そこの石垣に身をもたせかけて、僕と「タイメイ」さんとしばらく待っていた。ひる間にくらべるとだいぶ風が出てきたので、寒いくらいだ。僕はそのときやっと気がついたのだが、部落の路には明りが少しもなかった。そして、真上には暈《かさ》のかかった大きな月が出ていた。人の顔がはっきり見えないながらも、とにかく部落の中を歩いてこられたのはそのためだった。ずいぶん待った。婿入りだということだが、その行列はちっとも来ない。いつのまにか僕たちのまわりには十三四歳の女の子たちが集まっていた。前へはけっして来ない。時々、まるで魚の列から一二匹気まぐれなやつが横へ流れをつっ切ってゆくように、一人二人がわざと僕たちの前をすっと通り抜けてはかえってくる。そしてもとの群へかえるとくつくつ忍び笑いをするのだ。中には月をいっぱいうけて顔をさっとつきだして逃げるのがある。その群は向うの暗がりへ行ったり、また僕たちの背後にそっと近よったりした。
「タイメイ」さんは、まだ始まらないから少しそこいらを歩いてこようと言うので、部落の先きの方へ出かけた。僕はどこをどう歩いているのか少しもわからない。ただいちようにうす明い、暗がりのたくさんある部落の間を、一種興奮した心持で「タイメイ」さんについて行った。
路々あのいきなり暗いところから現われてすっと通りぬけるような人影に会う。でも、いくらか慣れたせいで、僕にもそれが男か女かの区別くらいつくようになった。相手を見きわめるようにぬっと来るのは男で、女はたいてい音をたてないようにして前屈みに速く歩く。「タイメイ」さんは、擦れちがうのが男だとけっして近よらないが、女だと他の男がやるようにぬっと傍へよって行く。大部分は顔見知りとみえて何かしら話す。「タイメイ」さんはまるで僕のいるのを忘れたように忙しかった。そしてかならず「○○館に泊っていますからね、遊びにいらっしゃい」とつけ加えるのだった。
とうとう部落外れのようなところへ出た。そこらはいくらか路が高手になっているせいかきゅうに月の光りがはっきりして見えた。桃の花が鮮かに咲いていた。戸を閉めきった、庭先きの地面だけがあかるい家の前へ来ると「タイメイ」さんは、ちょっと、と言いおいて小走りにその家の前へ行き、戸を叩いてもう眠っているのを起した。何の用かと思っていると、「もし、もし、タイメイですよ。たま子さんはもうお休すみですか」と言うのが聞えた。僕は少しあっけにとられた。あんなことを言って娘を夜遊びに誘ったりして家の人に怒鳴られやしないかと思った。するうち戸が開いて、母親らしいのが顔を出した様子だった。別に怒られもしない。何か話してる。
「ああそうですか、おやすみのところをすみませんでした」と、「タイメイ」さんはいやに叮嚀《ていねい》に言って引き返してきた。もうかえるのかと思っていたらまた別の方へつれて行った。そして、やはり寝ているのを外から呼び起して、
「もし、もし、飴玉三十銭ほど明日までにこしらえておいてください」
と言う。家の中からは、もう自家《うち》ではこしらえていません、というようなことを返事している。
「あ、そうですか」と、「タイメイ」さんはまた気がるに引きかえしてきた。そして、
「今の家、けさ来がけに菓子箱を背負った娘さんに会ったでしょう、あの家ですよ」
と言う。それであんなことを言って様子を探ったんだな、と思った。僕は、のこのこ「タイメイ」さんについて部落じゅうを歩いたが、何だか「タイメイ」さんのおかげでうっかりすると恥をかきそうだな、と気がついた。こんなに娘ばっかり探して歩くなんて、なんだか犬みたいな気がする。僕は、「タイメイ」さんがまたどっかへ行こうとするのを断って、さっさと宿屋へかえった。
翌朝目ざめるとひどい吹き降りだった。一日じゅう閉じこめられていると、夕方になって一人の娘さんが、「タイメイ」さんを訪ねてきた。それは昨夜寝ているのをたたき起した農家の娘さんで、「タイメイ」さんが東京にいた時分やはり上京して女中奉公をしていたとかで、話の様子では「タイメイ」さんの世話にいろいろなったらしい。また、彼女がちょっと立った間に、この娘さんは今恋愛でなやんでいる、その相手は神着の妻子のある四十過ぎた、島で一番古い家柄の主人であること、そのために、いっしょになるわけにも行かず、別れることもできずちゅうぶらりんになっていることなど聞かされた。その人は僕も檜垣のところで会って知っていた。「タイメイ」さんは病気で禁酒だと言っていたが、欲しそうな様子もあるので、すすめるとよく飲んだ。この晩もそうで、飲みかつよく喋る。娘さんはお酌をした。
「なあ、お前、よくよく考えてだね、ひとつこの私に任かせてちょうだい。私に考えがあるから、ひとつ任かせておくれ」
「なにを任かせるんです。何も任かせることなんかありゃしない」と、娘。
「えへえ、そんなことを。まさかお前もこのまま牛の尻を追ったり山へ芋掘りに行ってばかりもいられまい」
「私は山が好きですよ、村はうるさいからね。山へ行ってる時がいちばんいい。牛の尻を追ったって、そんな暮しはちっとも悪いなんて思いやしない」
「まだ、あんなことを言う。そんなこと言っているとまた猫イラズだよ」
娘さんは笑いだした。東京に女中奉公していたとき、猫イラズをのんだという。
「どうってねえ、どういう気もないのよ。つい変な気になってねえ、のんだところがまずくてまずくて、吐きだしちゃった」
「あれですからね」
と僕の方をむいて、また
「だいたいお前さんも変った人だよ」
娘はしばらく黙っていた。それからふいに、
「あアあ、私なんだかちっともわからない」
と言った。そのときの娘の眼にはある閃《ひら》めきがあり、どっかに猫イラズを前にした時の彼女の姿が感じられた。
翌朝出発する前に、娘さんは搾《しぼ》りたての牛乳をわざわざ持ってきてくれた。
僕と「タイメイ」さんとはその日途中の坪田村で一泊し、ぐるりと島を一まわりして神着村にかえった。
それから間もなく、僕は阿古村の中だが部落からさらに一里ほど西南方の、あたりにはほとんど人家のない農場へ移った。島めぐりのときにその場所を見つけたのだ。檜垣は僕を神着村にひきとめておきたいらしく、いろいろ部屋の都合など聞き合わせてくれたが僕はとうとう我がままをとおして阿古村へ行った。一つには今度の場所が気に入ったのでもあるが、神着には檜垣をはじめ知り合いもだいぶできたし、僕は自分の孤独を邪魔されるのを恐れたのだ。檜垣には何も言わずにおいた。僕は自分でも説明のできない誰にも言いたくない心の状態にいた。いろいろ人に訊かれたり、檜垣にも訊かれたりして、眠れない病気だと言って片づけた。事実そのとおりで、他人にはそのほかに言うことはない。だが、僕の内部ではそれではすまなかった。病気はよくなったり悪くなったりして二年近くつづいていた。峠は越したように思われたし、僕もそれを望んでいたが、しかしそれはわからない。嫌やな嫌やな奴だ。それは人間の顔をしている時もあるし、千人くらいを一つにした形容のできない厖大《ぼうだい》な顔のときもある。いちばん僕を苦しめたのは、これまで僕に親しく見慣れてもい、明瞭であったこと、物、すべてが確実でなくなり、ぼやけ、信じていい境と信じなくてもいい境とがいっしょくたになり、夢と覚めているときとの感覚が同じものになり、最後には自分の肉体感まで失われたこと、そして何より悪いことにはこれらの種々の混乱がその微細《びさい》な点から全体にいたるまでいちいち明瞭きわまること、それはかつて健康であったときに感じていた明瞭さとは全然性質を異にした、そいつに見舞われるといきなり叫び声を上げずにはいられないような、そんな明瞭さであった。
僕はすっかり疲れて、これから先き自分がどうなるだろうということさえ考える力を失っていた。僕はただ待っていた。何かやってくるだろうと。それが何だろうと、今までしかたがなかったと同じように、そいつに身を任かせるよりない。
新しい場所に移ってから天気は徐々に定まった。毎日温かい日がつづいた。もうどこを見てもいっぱいの若葉だった。僕のいるところは原地農場という、牛を七八頭飼っていて、バタをつくっている。家の前面は広い耕地《こうち》だ。耕地全体をとりまくようにして、家の裏から左手へ、それからずっと前方までゆるやかな傾斜面が盛り上っているが、そこらじゅうの榛《はん》の木の若葉は何という美しい奴だろう。日に輝き、揺れ、絶えず小さいさやぐ音をたてている。それは何かしら僕の心を吸いこんでしまうやつだ。それに白と黒の斑牛《まだらうし》、こいつはどうしていつまでもこう動かずにいるんだろう。その鮮《あざや》かな背はどんなに遠くにいても、どんなに林の中からちょっぴり見えただけでも眼につかないということはない。いつまでもいつまでもじっとして草を喰っている。
あたりには散歩するところがたくさんあった。同じ島の中でも、神着とこことでは何というちがいだろう。明い。そして何もない。家の左手の傾斜地を左へ上って行くと、高台のようになった広い平地があるが、そして大部分は耕地で、ところどころには鍬を入れている人影が見えるが、それは何だかあたりの雰囲気にのみこまれて、働いているというより、ただそこにいる人という感じで、ゆっくりと動いている。耕地もそうで、それはつい昨日耕地というものになったような、素人くさい様子をしている。林もそうだ。それはちょろちょろと細かったり、ただ伸びられるだけ伸びるとでもいうように、むやみと真すぐに立っていたりしているが、それでいて生き生きしている。
家の右手の林を抜けるとすぐ海ぎわで、崖縁の小路をつたってゆくと一面にまだ黄ばんだままの草地で蔽《おお》われた広い突鼻《とっぱな》がある。ひる間、僕は何度もそこへ寝っころがりに行った。草地は厚くて日に温《ぬく》もっていて、いつのまにか身体じゅうがぼうとなってくる。海からの風がたえ間なく顔の上を吹いて通る。耳のすぐ傍で虫の羽音がする。海の上には何もない。むやみと広いばかりでいつまでたってもそこには何も起きない。僕は自分をどっかへ置き忘れてしまったような気になる。何かあったのだ、何か起ったのだ。僕は思いだそうとしてみる。だが、ちっとも僕のところへはやってこようとしない。僕には遠い不快な記憶のようなものがあり、それと今の僕との間にはある断絶がある。ふいに鋭い皮肉な心持が湧き上る。あれはあれで、これはこれだ。どれもたしかなものはない。どこにもたしかなものはない。あったらお目にかかろう。僕は何にでも身を任かせる気になる。そして鈍い気倦《けだ》るいものの中に身を包まれてしまう。が、またもやふいに予知しない原因のわからない鋭い痛みが胸をつき上げてくる。どこから、なぜ。そして次の瞬間にはわかってくる。妻、子、友人、仕事、生活というやつ。自分というもの。そういうものをおれはみんな信じない。何かがおれからそれを信ずる力を抜きとってしまったのだ。そいつに訊いてくれ。――僕はこういう種類のことを次々と胸の中で呟《つぶ》やく。
だが、もう永くは本気でいない。僕はどの嘘も見抜いているのだ。僕の今信じているのはこの気倦るい空気だけだ。
僕のいる家は六人家族だった。主人は阿古村の村長をしていて、ここが役場に遠いところから部落の方に住んでいる。その奥さんは四十あまりの、色の浅黒い眼の大きい、その眼は島の人に独特な倦《だ》る気《げ》で、どこか野生的な感じで、正代という身よりのない娘を相手にバタをつくることから一家の仕事をやっている。他に東京の女学校を出た養子の娘さんがいた。奥さんの姪《めい》にあたるので、部落の方にその実家があり、しょっちゅうそっちへ行っていた。坪田村という所のお医者さんで色の白い、素白《しらふ》のときはよく口ごもっておとなしいが、酒飲みで、そうなるとまるで様子の変る人が時々やってきた。噂では大変な遊蕩児《ゆうとうじ》だという。この医者と養子娘との間は公然の秘密になっていた。お医者さんは鉄砲が好きで、時々パンパンという音が遠くに聞え、それがだんだん近くなると、やがて向うの榛《はん》の木の林から猟犬の駈《か》け下りてくるのが見え、すぐ後からお医者が自転車にのってやってくる。娘さんはもうそのときはたいてい耕地の辺まで迎えに出てくる。時にはさっきまでそこらにいた娘さんが、お医者といっしょに林の方から現われることがある。鉄砲の音は「知らせ」なのかもしれない。僕の眼に映ったお医者さんには、悪い噂とは別に、どこかにむやみと人見知りするような内気さと、良家に育った駄々児《だだっこ》らしいところと、ある目立たない優しさの入りまじったところがあり、一方、子供のときから東京で永い間教育をうけた者が島にいつかされたとなったらこうでもあろうかと思われるような、どこかやり場のない退屈の結果といった緩漫な憂鬱さが感じられた。彼はしばしば猟の獲物を土産に持ってきてくれたので、僕もそのお招伴《しょうばん》にあずかった。
だが、その医者の来訪をのぞいては、また毎朝近くの家々から牛乳罐を提げた女たちがバタ製造の土間へ集るほかは、この家では何もかものろのろと半ば眠って動いていた。奥さんは時々永いひる寝をするようだった。
「ほんとうに島の女はみんなよく眠りますよ。仕事がないんですからね。眠ってばっかり」
と、笑いながら言う。
畑、水汲みの仕事などはおもに正代という小娘がやっていた。よく働く。僕が来たばかりの晩、僕の部屋は家の一等端の広い土間で母屋と区別されているのだが、そこの土間へぬっと入ってきて黙ってお茶の入った薬罐《やかん》をつきだしてくれた。頭を風呂敷のような布《き》れで包んで首の後でしばり、眼のありかがわからないくらいに細くなっている。笑っているのか、もともとそういう顔なのかわからない。この家には震災のとき死んだアナアキストの甥《おい》だか姪《めい》だかにあたる白痴がいると聞いたので、それかと思った。だが正代という娘はそうではなかった。この家にはだいぶ老牛だという種牛が一頭いる。そいつを自由にできるのはこの十六になる娘だけだった。ほかの誰が近づいても危い。血走ったぐりぐりする眼で草を喰《は》んでいるが、人が近づくと遠くの方からちゃんと知っていて、だんだん頭を地面に下げる。うっかりすると、角を持ち上げてぬっと迫ってくる。そいつは肩から首から、とても巨《で》かくて、牛というよりは猛獣に近い。正代は平気でそいつの鼻面をつかまえる。時々近所の人が牝牛をひいてカケてもらいに来るが、それはみな正代の役目だ。この娘はだんだん僕に慣れて、散歩のときなんかに会うと笑ってみせる。それがあのただ眼を細くするだけなのだ。ときどき向うから話しかけるが、まるで単語をならべるような話しぶりだ。
「これ、マグサだ。牛は好きだ」
「どこ行く? ウン海か」
そんなことを言って、例の微笑をやる。島の女の人の風習らしいが、正代も風呂敷《ふろしき》や何かの布れでいつもすっぽりと頭を包む。まるでロシアの農婦の被《かぶ》るプラトオクのようだ。
その格好でどんな土砂降りの雨の中でも平気だ。時には頭から肩からぐしょ濡れになって、日照りの下を歩くと同じに仕事している。奥さんに訊くと、雨どころか、冬でも蒲団《ふとん》なんかきて寝ることはないという。いつも縁側にごろ寝する。彼女は白痴でこそなかったが、母親は白痴で、彼女はその私生児なのだった。正代は自分の出生を知って、その母親をとても嫌やがるという。白痴の母親はもとここの家にいたことがあるので、今も時々やってくる。その母親というのは僕のいる間にも一度やってきたが、正代の母親と思えないくらいに若くて、やはり私生児の赤ん坊を背中にくくりつけていた。家は阿古村の部落にあるのだが、ちっともそこへ帰えらない、どこにでも地面や石垣の隅なんかで寝るんだという。その母親の来たとき、正代はぷいとどっかへ姿をかくしてしまった。
家の前の畑傍に四坪ばかりの小屋がある。トタン葺《ぶ》きで、板壁というよりほんの板囲《いたがこ》いだ。窓らしいものがなくて、たぶん雨戸の古だろうと思われるようなものが押上窓のように上部にとりつけてあるきりだ。内部は半分は土間で、つくりつけの竈《かまど》が二つ並んでおり、その隅にやはり竈の上にのっけて固めた工合の風呂釜がある。むろん煙出しなんかないので、しょっちゅう煙がこもっているし、どこも真黒に煤けている。後半分は畳敷と板の上に上敷《うわじき》をしいてどうにか部屋らしい体裁になっているが、そこが牧夫の民さんと白痴の昌さんとの住居だった。
僕は頭の悪いのは昌さんだけかと思っていたら、民さんの方もやはりそうだった。民さんは四十いくつだという、小柄で、顔も同じように小さいが、それなりに輪郭《りんかく》のととのった顔だった。毎朝牛をつれて山へ行き、夕方|薪《まき》を背負って牛といっしょに帰えってくる。昌さんは三十を越しているというが、二十三四にしか見えない。そしてひょろ長い。眼はひどい斜視だが、いつも上瞼が垂れているのでどこを見ているのかわからない上に、まるで人を軽蔑している風に見えるのだった。僕がはじめて彼を見て驚いたのは、そのいかにも憂鬱な表情だった。誰かが彼の前へ現われると、彼はさっさと逃げて行くが、そうでないときはじっとどこか一点を(といっても視線はわからないが)見て、額いっぱいに皺を浮かべる。まるで思いあぐんでじっとその場に立ちすくんだという様子だ。そういうときは声をかけてもだめだ。答えないし、答えても「ええそうです」「そうです」との一点張りだ。それもいやいやでいかにも煩《うる》さそうだ。
もっともこの「そうです」は彼の口癖で、彼が何かといえば唄う歌、「恋し、恋しい銀座の柳」の後でも「そうです。ええ、そうです」とつけ加えるのだったが、なぜ彼はこんなに陰気な顔をしているのだろう。彼には普通人のようにものを感じる能力があるのだろうか。もしないのだったらどうしてこんな表情をするのだろう。灰色ばっかりを見ているような眼。彼の重たい沈んだ顔に何か動くものがあるのは、喰物を見たときだけだ。彼は何でも喰べ物でさえあれば一瞥《いちべつ》しただけで、ひょいとびっくりしたように立ち上がる。何か直線的なものがそのとりとめのない表情に現われてくる。そわそわと行ったり来たりする。彼は喰べ物をくれる家の奥さんには絶対服従だ。子供のように何度でも欲しがる。どうかすると、一度すましたお椀《わん》だの箸《はし》だのを洗場へ持って行ったかと思うと、またのこのこそれを持って台所へひき返す。
「あら、今喰ったばかりだよ。何という恰好なの、それ」と奥さんは叱りつけながら笑いだす。彼はまたひょこひょこと、それが癖なのだが、ほとんど前のめりにふらつくようにして、食器を持って引き下がる。
彼にはもう一人|苦《に》が手《て》がある。それは民さんだ。民さんは昌さんを晩になると風呂に入れてやったりするし、けっして働こうとしない昌さんを叱りつけて放牧につれて行ったりするが、昌さんはいつのまにか脱《ぬ》けもどってくる。民さんは昌さんとちがって、僕を見ると人なつこく寄ってきて、その小さな眼に何だか溶けるような笑いを見せて、いくらか涎《よだれ》を吸い気味にいろんなことを話しかける。晩になると、母屋の方へ遠慮しいしい僕のところへ話に来る。民さんの話や、奥さんから聞いたところを綜合すると、民さんは日本橋の大きい問屋の生れで、暁星中学三年まで行ったという。そのころから頭が悪くなって、滝の川学園へ預けられた。滝の川学園というのは僕は知らなかったが、いい家の息子で頭のわるいのを教育する所らしい。民さんはそのころの仲間である名士の子供を二三言った。生家は没落《ぼつらく》して、今では妹の嫁ぎ先きが池袋で果物屋をしているのがあるきりだという。
「一度そこへかえりましたが、またここへつれてこられましたよ。妹の家ではね、妹をおかみさんって呼ばされるんです。わたしが頭が悪いもんですからね、都合がわるいってね。わたしは叱られてばかりいましたよ」
と、民さんは例の溶けるような笑い声で言う。彼はまたその妹の家へやる手紙を書いてくれとたのんだ。母屋へ聞えないようにこっそり言うのだ。
「手紙をちっともくれないが、時々くれ。バタを去年送ったが、それは着いたか。だいぶ温かくなったので、薄いシャツを三枚送ってくれ。それからチョコレートと何か菓子を送ってくれ」
そう言って、
「板チョコ、うまいですからね」
と、この頭の円く禿《は》げた民さんは僕に向って口をすすってみせるのだった。
民さんはしかし毎日の仕事はよくした。もっとも、牛を山へ追い上げてしまえば、牛はそこらで草を食っているのだから、たいてい日中を山で寝て暮すという。だが、酒が好きで、一杯やるときっと脱線する。二三日は帰ってこないのだ。僕のいる間にも、芭蕉イカの大きいのが獲《と》れたので、民さんはそれを持って部落のこの家の親戚まで夜に入ってから使いに出かけたが、翌日の午後になって手ぶらで帰ってきた。途中でやはり牧夫仲間の太郎というのに会い、そのままひっかかって、とうとう土産物のイカを洗いもせずに裂いて肴《さかな》にして喰った上、方々の農家をたたき起して酒をねだり、山で寝てかえったのだ。翌日一日じゅう腹が痛いと言って寝ていた。
「暗らやみで生イカを食ったもんだから、口のまわりをイカの墨で真黒にしたちゅう、なあ民さん。腹痛たはバチがあたったんだろ」
と、奥さんにからかわれて、民さんは悄気《しょげ》かえっていた。
その民さんがある日ひどく怒っていた。どういうわけか知らない。牛小屋の方で奥さんと何か話していたが、いきなり、
「おれはかえる、ばか野郎。こんなところで誰が働いてやるもんか」
と叫んで、後は「ぶるん、ぶるん」というような音を吐きだしながら、背負枠も牛の綱もそこらに放うりだして、その小柄な肩をすさまじくいからせながら、ちょうど僕は庭先きにいたが、こっちへは眼もくれずに小屋へ入って行った。奥さんは苦《に》が笑いをしていた。
民さんと昌さんとは仲よしだとばっかり思っていたが、日がたつにつれそうでないことがわかった。時々、夜になってあたりの寝しずまったころ、ふいに庭の向うの小屋から、二人の争う声が聞えた。民さんが力ずくで昌さんを苛《いじ》めるらしい。何か揉《も》み合うような音も聞える。昌さんが「あーア、あーア」という引っ張った悲しげな声をたてる。昌さんは何かといえば、たとえば牛の綱を持たせられたりすると、よほど牛が恐いとみえてこの声をたてる。彼の唯一《ゆいいつ》の抗議のしかただし、また防禦でもあるらしい。
一度、僕はこの二人が放牧に出かけるのについて山へ上ったことがある。それはずいぶん高い場所だった。そこでも二人の争いを見た。昌さんは隙を見て脱けてかえろうとする、民さんはそうさせまいとする。あげくは揉み合いになったが、民さんは小柄だが力があるのだろう、くるりと昌さんを足でからみ倒して馬乗りになり、いきなり昌さんの肩から衣物を脱がせて、むやみとその胸のあたりを抓《つね》るのか引っ掻くのか妙な折檻《せっかん》をする。昌さんの胴の皮膚にはみるみるみみず腫れができた。それは、ただ帰えさないための動作というよりは、もっと執拗なつかみ合いだった。
後で聞くと、昌さんは例の正代の母親にあたる白痴が来ると、ひる間でも近くの社《やしろ》の絵馬《えま》なんかのある建物の中に二人で寝るという。それをまた民さんが気狂いのように怒鳴りつけるということだった。僕は何とも言えない妙な気がした。あの白痴の女にも選ぶということがあり、そして昌さんの方が民さんよりも選ばれたのだろうか。昌さんが民さんを苦が手なのはそういういろんなことがあるのだ、と思われた。昌さんは自分に害を与える者とそうでない者とを敏感に見分ける。害を与えない者には全然の無関心を示す。はじめのうちは、僕を遠くから見るようにしていたが、今は傍にいてもまるで気にとめない風で、僕の見ている前だと、平気で、喰物の桶なんかに手をつっこむ。それでいて、あたりをじつに警戒してさっとやるのだが。
四十日近くいるうちに、僕はだんだん自分のことを忘れて行った。家からは妻の手紙が来て、早く帰ってもらわないと困る、と言ってきた。どの手紙にも、僕がどうしているかということはほとんど書いてなく、困るということだけが書いてあるので、今さらのようにあいつらしいと思った。だが、彼女も憐れむべきやつだと重ねて思った。僕も憐れむべきやつにちがいないが――。神着の檜垣からも手紙をよこした。
「貴兄にくらべると、僕の生活はまるで芝居をしているようなものです」とあった。それはたぶん、毎日村の青年たちを集めて喋っている、それを指すのだろうと思った。しかし、僕のだって芝居だ。どこまでほんとうなのか、ちっともわからない。いったい、おれは何をしてるんだ。何もありゃしないじゃないか。これはこれだけのもの、いくら騒いだってどうにもなりゃしない。眼をつむって歩くだけがほんとうだ、そうも思った。
ちょうど、檜垣の母方の祖父が亡くなったので、お悔《くや》みをのべがてら遊びに神着村へ行った。そのとき、檜垣は何を思ったのか、彼の身の上をしみじみと語り、
「僕はこれで、時々やりきれなくなることがありますよ。島の者だからね、島で死ぬつもりだが、島でなれる限りの幸福なことを考えてみてもやっぱりだめですな」
と、言った。
金も乏しくなったし、ぼつぼつ帰ろうという気も起きたので、一度は上ってみたいと思っていた雄山へ行くことにした。案内人をつけないと路がわからないだろうと言われたが、かまわずに一人で出かけた。七百メートルくらいの山だから平気だと思った。いつか民さんたちと放牧に行ったことのある、そこらからまた急な坂路になって、しばらくすると広い平坦なところへ出た。林と草地が入れ代り現われる。だいたいの路は聞いたのだが、何分広い原っぱみたいなので路がわからなくなった。
ふと気づくと、中腹にあたる林の中からうすい煙が立っていて、よく見ていると、なんだかそこいらの林を切っているらしく、林の上っ葉が一所ずつ揺れて、そこだけ空所ができていくようだ。目あてにして行くと、四五人の男が炭材を伐採《ばっさい》していた。訊くと路はすぐわかった。
今度はうんと急な路だ。そんなところも牛が上るらしく、ところどころに牛の踏みこんだ跡が段になってついている。水こそないが、石ころだらけの沢みたいな路だ。また、広っぱに出る。そこいらはすっかり灌木の原で、間々に柔かい芝草が生えている。そこをぐるっと廻るように行くと、もう小さな内輪山の下だ。いつの間にか外輪の中へ入ったのだ。熔岩の細かく砕けた原をまっすぐに、ちょうど上ったところとは反対側へ行って山の向う側の部落を見ようと思った。外輪の縁が凹んだところまで行ってみると、そこは眼のくらむような崖だった。ずっと真下までどれくらいか見当もつかない。岩の間に小さな路が匐《は》って下りているのが上から見える。崖の真下の岩場から下方はしだいに拡がった草地で、それはだんだんと林になり森になりして、一帯の山裾がごく小さいながらに、海ぎわまで手にとるように見える。海に近い方にはぽつりぽつり人家が見えた。
海は真青で、海岸が白く泡立っている。眺めているうちにだんだん前へ吸いこまれそうになる。この辺から思いきって飛んだらどの辺に落ちるだろうか。そう見当をつけてみると、そこいらはごろごろした岩ばかりだ。手足のこわれた人形のように、ほうりだした瞬間から不恰好な形をして、やがて岩の上にグシャリとなる、そういうものが一瞬頭の中を走った。僕は立ち上って、崖縁から少し遠のき、また縁まで歩いてみ、その次にはもう後を見ないで内輪山の方へ立ち去って行った。しばらく指の先きのしびれるような感じがのこっていた。
底本:「日本文学全集 88 名作集(三)」集英社
1970(昭和45)年1月25日発行
入力:土屋隆
校正:林幸雄
※底本の「突拍手」を、田畑修一郎「石ころ路 短篇傑作集」人文書院、1940(昭和15)年8月30日発行を参照して、「突拍子」に修正しました。
2003年5月18日作成
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