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散華
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)玉砕《ぎょくさい》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)春風|駘蕩《たいとう》とでも申すべきであって、
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 玉砕《ぎょくさい》という題にするつもりで原稿用紙に、玉砕と書いてみたが、それはあまりに美しい言葉で、私の下手《へた》な小説の題などには、もったいない気がして来て、玉砕の文字を消し、題を散華《さんげ》と改めた。
 ことし、私は二人の友人と別れた。早春に三井君が死んだ。それから五月に三田君が、北方の孤島で玉砕した。三井君も、三田君も、まだ二十六、七歳くらいであった筈《はず》である。
 三井君は、小説を書いていた。一つ書き上げる度毎《たびごと》に、それを持って、勢い込んで私のところへやって来る。がらがらがらっと、玄関の戸をひどく音高くあけてはいって来る。作品を持って来た時に限って、がらがらがらっと音高くあけてはいって来る。作品を携帯《けいたい》していない時には、玄関をそっとあけてはいって来る。だから、三井君が私の家の玄関の戸を、がらがらがらっと音高くあけてはいって来た時には、ああ三井が、また一つ小説を書き上げたな、とすぐにわかるのである。三井君の小説は、ところどころ澄んで美しかったけれども、全体がよろよろして、どうもいけなかった。背骨を忘れている小説だった。それでも段々よくなって来ていたが、いつも私に悪口を言われ、死ぬまで一度もほめられなかった。肺がわるかったようである。けれども自分のその病気に就《つ》いては、あまり私に語らなかった。
「においませんか。」と或《あ》る日、ふいと言った事がある。「僕のからだ、くさいでしょう?」
 その日、三井君が私の部屋にはいって来た時から、くさかった。
「いや、なんともない。」
「そうですか。においませんか。」
 いや、お前はくさい。とは言えない。
「二、三日前から、にんにくを食べているんです。あんまり、くさいようだったら帰ります。」
「いや、なんともない。」相当からだが、弱って来ているのだな、とその時、私にわかった。
 三井は、からだに気をつけなけりゃいかんな、いますぐ、いいものなんか書けやしないのだし、からだを丈夫にして、それから小説でも何でも、好きな事をはじめるように、君から強く言ってやったらどうだろう、と私は、三井君の親友にたのんだ事がある。そうして、三井君の親友は、私のその言葉を三井君に伝えたらしく、それ以来、三井君は私のところへ来なくなった。
 私のところへ来なくなって、三箇月か四箇月目に三井君は死んだ。私は、三井君の親友から葉書でその逝去《せいきょ》の知らせを受けたのである。このような時代に、からだが悪くて兵隊にもなれず、病床で息を引きとる若いひとは、あわれである。あとで三井君の親友から聞いたが、三井君には、疾患をなおす気がなかったようだ。御母堂と三井君と二人きりのわびしい御家庭のようであるが、病勢がよほどすすんでからでも、三井君は、御母堂の眼をぬすんで、病床から抜け出し、巷《ちまた》を歩き、おしるこなど食べて、夜おそく帰宅する事がしばしばあったようである。御母堂は、はらはらしながらも、また心の片隅では、そんなに平然と外出する三井君の元気に頼って、まだまだ大丈夫と思っていらっしゃったようでもある。三井君は、死ぬる二、三日前まで、そのように気軽な散歩を試みていたらしい。三井君の臨終《りんじゅう》の美しさは比類が無い。美しさ、などという無責任なお座なりめいた巧言は、あまり使いたくないのだが、でも、それは実際、美しいのだから仕様がない。三井君は寝ながら、枕頭のお針仕事をしていらっしゃる御母堂を相手に、しずかに世間話をしていた。ふと口を噤《つぐ》んだ。それきりだったのである。うらうらと晴れて、まったく少しも風の無い春の日に、それでも、桜の花が花自身の重さに堪えかねるのか、おのずから、ざっとこぼれるように散って、小さい花吹雪を現出させる事がある。机上のコップに投入れて置いた薔薇《ばら》の大輪が、深夜、くだけるように、ばらりと落ち散る事がある。風のせいではない。おのずから散るのである。天地の溜息《ためいき》と共に散るのである。空を飛ぶ神の白絹の御衣のお裾《すそ》に触れて散るのである。私は三井君を、神のよほどの寵児《ちょうじ》だったのではなかろうかと思った。私のような者には、とても理解できぬくらいに貴い品性を有《も》っていた人ではなかったろうかと思った。人間の最高の栄冠は、美しい臨終以外のものではないと思った。小説の上手下手など、まるで問題にも何もなるものではないと思った。
 もうひとり、やはり私の年少の友人、三田循司君は、ことしの五月、ずば抜けて美しく玉砕した。三田君の場合は、散華という言葉もなお色あせて感ぜられる。北方の一孤島に於いて見事に玉砕し、護国の神となられた。
 三田君が、はじめて私のところへやって来たのは、昭和十五年の晩秋ではなかったろうか。夜、戸石君と二人で、三鷹の陋屋《ろうおく》に訪ねて来たのが、最初であったような気がする。戸石君に聞き合せると更にはっきりするのであるが、戸石君も已《すで》に立派な兵隊さんになっていて、こないだも、
「三田さんの事は野営地で知り、何とも言えない気持でした。桔梗《ききょう》と女郎花《おみなえし》の一面に咲いている原で一しお淋《さび》しく思いました。あまり三田さんらしい死に方なので。自分も、いま暫くで、三田さんの親友として恥かしからぬ働きをしてお目にかける事が出来るつもりでありますが。」
 というようなお便りを私に寄こしている状態なので、いますぐ問い合せるわけにもゆかない。
 私のところへ、はじめてやって来た頃は、ふたり共、東京帝大の国文科の学生であった。三田君は岩手県花巻町の生れで、戸石君は仙台、そうして共に第二高等学校の出身者であった。四年も昔の事であるから、記憶は、はっきりしないのだが、晩秋の(ひょっとしたら初冬であったかも知れぬ)一夜、ふたり揃って三鷹の陋屋に訪ねて来て、戸石君は絣《かすり》の着物にセルの袴《はかま》、三田君は学生服で、そうして私たちは卓をかこんで、戸石君は床の間をうしろにして坐り、三田君は私の左側に坐ったように覚えている。
 その夜の話題は何であったか。ロマンチシズム、新体制、そんな事を戸石君は無邪気に質問したのではなかったかしら。その夜は、おもに私と戸石君と二人で話し合ったような形になって、三田君は傍《そば》で、微笑《ほほえ》んで聞いていたが、時々かすかに首肯《うなず》き、その首肯き方が、私の話のたいへん大事な箇所だけを敏感にとらえているようだったので、私は戸石君の方を向いて話をしながら、左側の三田君によけい注意を払っていた。どちらがいいというわけではない。人間には、そのような二つの型があるようだ。二人づれで私のところにやって来ると、ひとりは、もっぱら華やかに愚問を連発して私にからかわれても恐悦の態《てい》で、そうして私の答弁は上の空で聞き流し、ただひたすら一座を気まずくしないように努力して、それからもうひとりは、少し暗いところに坐って黙って私の言葉に耳を澄ましている。愚問を連発する、とは言っても、その人が愚かしい人だから愚問を連発するというわけではない。その人だって、自分の問いが、たいへん月並みで、ぶざまだという事は百も承知である。質問というものは、たいてい愚問にきまっているものだし、また、先輩の家へ押しかけて行って、先輩を狼狽《ろうばい》赤面させるような賢明な鋭い質問をしてやろうと意気込んでいる奴は、それこそ本当の馬鹿か、気違いである。気障《きざ》ったらしくて、見て居られないものである。愚問を発する人は、その一座の犠牲になるのを覚悟して、ぶざまの愚問を発し、恐悦がったりして見せているのである。尊い犠牲心の発露なのである、二人づれで来ると、たいていひとりは、みずからすすんで一座の犠牲になるようだ。そうしてその犠牲者は、妙なもので、必ず上座に坐っている。それから、これもきまったように、美男子である。そうして、きっと、おしゃれである。扇子《せんす》を袴のうしろに差して来る人もある。まさか、戸石君は、扇子を袴のうしろに差して来たりなんかはしなかったけれども、陽気な美男子だった事は、やはり例に漏れなかった。戸石君はいつか、しみじみ私に向って述懐した事がある。
「顔が綺麗だって事は、一つの不幸ですね」
 私は噴き出した。とんでもない人だと思った。戸石君は剣道三段で、そうして身の丈《たけ》六尺に近い人である。私は、戸石君の大きすぎる図体に、ひそかに同情していたのである。兵隊へ行っても、合う服が無かったり、いろいろ目立って、からかわれ、人一倍の苦労をするのではあるまいかと心配していたのであったが、戸石君からのお便りによると、
「隊には小生よりも背の大きな兵隊が二三人居ります。しかしながら、スマートというものは八寸五分迄に限るという事を発見いたしました。」
 ということで、ご自分が、その八寸五分のスマートに他ならぬと固く信じて疑わぬ有様で、まことに春風|駘蕩《たいとう》とでも申すべきであって、
「僕の顔にだって、欠点はあるんですよ、誰も気がついていないかも知れませんけど。」とさえ言った事などもあり、とにかく一座を賑《にぎ》やかに笑わせてくれたものである。
 戸石君は、果して心の底から自惚《うぬぼ》れているのかどうか、それはわからない。少しも自惚れてはいないのだけれども、一座を華やかにする為に、犠牲心を発揮して、道化役を演じてくれたのかも知れない。東北人のユウモアは、とかく、トンチンカンである。
 そのように、快活で愛嬌《あいきょう》のよい戸石君に比べると、三田君は地味であった。その頃の文科の学生は、たいてい頭髪を長くしていたものだが、三田君は、はじめから丸坊主であった。眼鏡をかけていたが、鉄縁の眼鏡であったような気がする。頭が大きく、額が出張って、眼の光りも強くて、俗にいう「哲学者のような」風貌であった。自分からすすんで、あまりものを言わなかったけれども、人の言ったことを理解するのは素早かった。戸石君と二人でやって来る事もあったし、また、雨にびっしょり濡れてひとりでやって来た事もあった。また、他の二高出身の帝大生と一緒にやって来た事もあった。三鷹駅前のおでん屋、すし屋などで、実にしばしば酒を飲んだ。三田君は、酒を飲んでもおとなしかった。酒の席でも、戸石君が一ばん派手に騒いでいた。
 けれども、戸石君にとっては、三田君は少々苦手であったらしい。三田君は、戸石君と二人きりになると、訥々《とつとつ》たる口調で、戸石君の精神の弛緩《しかん》を指摘し、も少し真剣にやろうじゃないか、と攻めるのだそうで、剣道三段の戸石君も大いに閉口して、私にその事を訴えた。
「三田さんは、あんなに真面目な人ですからね、僕は、かなわないんですよ。三田さんの言う事は、いちいちもっともだと思うし、僕は、どうしたらいいのか、わからなくなってしまうのですよ。」
 六尺ちかい偉丈夫も、ほとんど泣かんばかりである。理由はどうあろうとも、旗色の悪いほうに味方せずんばやまぬ性癖を私は有《も》っている。私は或る日、三田君に向ってこう言った。
「人間は真面目でなければいけないが、しかし、にやにや笑っているからといってその人を不真面目ときめてしまうのも間違いだ。」
 敏感な三田君は、すべてを察したようであった。それから、あまり私のところへ来なくなった。そのうちに三田君は、からだの具合いを悪くして入院したようである。
「とても、苦しい。何か激励の言葉を送ってよこして下さい。」というような意味の葉書を再三、私は受け取った。
 けれども私は、「激励の言葉を」などと真正面から要求せられると、てれて、しどろもどろになるたちなので、その時にも、「立派な言葉」を一つも送る事が出来ず、すこぶる微温的な返辞ばかり書いて出していた。
 からだが丈夫になってから、三田君は、三田君の下宿のちかくの、山岸さんのお宅へ行って、熱心に詩の勉強をはじめた様子であった。山岸さんは、私たちの先輩の篤実《とくじつ》な文学者であり、三田君だけでなく、他の四、五人の学生の小説や詩の勉強を、誠意を以《もっ》て指導しておられたようである。山岸さんに教えられて、やがて立派な詩集を出し、世の達識の士の推頌《すいしょう》を得ている若い詩人が已《すで》に二、三人あるようだ。
「三田君は、どうです。」とその頃、私は山岸さんに尋ねた事がある。
 山岸さんは、ちょっと考えてから、こう言った。
「いいほうだ。いちばんいいかも知れない。」
 私は、へえ? と思った。そうして赤面した。私には、三田君を見る眼が無かったのだと思った。私は俗人だから、詩の世界がよくわからんのだ、と間《ま》のわるい思いをした。三田君が私から離れて山岸さんのところへ行ったのは、三田君のためにも、とてもいい事だったと思った。
 三田君は、私のところに来ていた時分にも、その作品を私に二つ三つ見せてくれた事があったのだけれども、私はそんなに感心しなかったのだ。戸石君は大いに感激して、
「こんどの三田さんの詩は傑作ですよ。どうか一つ、ゆっくり読んでみて下さい。」
 と、まるで自分が傑作を書いたみたいに騒ぐのであるが、私には、それほどの傑作とも思えなかった。決して下品な詩ではなかった。いやしい匂いは、少しも無かった。けれども私には、不満だった。
 私は、ほめなかった。
 しかし、私には、詩というものがわからないのかも知れない。山岸さんの「いいほうだ」という判定を聞いて、私は三田君のその後の詩を、いちど読んでみたいと思った。三田君も山岸さんに教えられて、或《ある》いは、ぐんぐん上達したのかも知れないと思った。
 けれども、私がまだ三田君のその新しい作品に接しないうちに、三田君は大学を卒業してすぐに出征してしまったのである。
 いま私の手許に、出征後の三田君からのお便りが四通ある。もう二、三通もらったような気がするのだけれども、私は、ひとからもらった手紙を保存して置かない習慣なので、この四通が机の引出の中から出て来たのさえ不思議なくらいで、あとの二、三通は永遠に失われたものと、あきらめなければなるまい。
 太宰さん、御元気ですか。
 何も考え浮びません。
 無心に流れて、
 そうして、
 軍人第一年生。
 当分、
 「詩」は、
 頭の中に、
 うごきませんようです。
 東京の空は?
 というのが、四通の中の、最初のお便りのようである、この頃、三田君はまだ、原隊に在って訓練を受けていた様子である。これは、たどたどしい、甘えているようなお便りである。正直無類のやわらかな心情が、あんまり、あらわに出ているので、私は、はらはらした。山岸さんから「いちばんいい」という折紙をつけられている人ではないか。も少し、どうにかならんかなあ、と不満であった。私は、年少の友に対して、年齢の事などちっとも斟酌《しんしゃく》せずに交際して来た。年少の故に、その友人をいたわるとか、可愛がるとかいう事は私には出来なかった。可愛がる余裕など、私には無かった。私は、年少年長の区別なく、ことごとくの友人を尊敬したかった。尊敬の念を以て交際したかった。だから私は、年少の友人に対しても、手加減せずに何かと不満を言ったものだ。野暮《やぼ》な田舎者《いなかもの》の狭量かも知れない。私は三田君の、そのような、うぶなお便りを愛する事が出来なかった。それから、しばらくしてまた一通。これも原隊からのお便りである。
 拝啓。
 ながい間ごぶさた致しました。
 御からだいかがですか。
 全くといっていいほど、
 何も持っていません。
 泣きたくなるようでもあるし、
 しかし、
 信じて頑張っています。
 前便にくらべると、苦しみが沈潜して、何か充実している感じである。私は、三田君に声援を送った。けれども、まだまだ三田君を第一等の日本男児だとは思っていなかった。まもなく、函館から一通、お便りをいただいた。
 太宰さん、御元気ですか。
 私は元気です。
 もっともっと、
 頑張らなければなりません。
 御身体、大切に、
 御奮闘祈ります。
 あとは、ブランク。
 こうして書き写していると、さすがに、おのずから溜息が出て来る。可憐なお便りである。もっともっと、頑張らなければなりません、という言葉が、三田君ご自身に就いて言っているのであろうが、また、私の事を言っているようにも感ぜられて、こそばゆい。あとはブランク、とご自身で書いているのである。御元気ですか、私は元気です、という事のほかには、なんにも言いたい事が無かったのであろう。純粋な衝動が無ければ、一行の文章も書けない所謂《いわゆる》「詩人気質」が、はっきり出ている。
 けれども、私は以上の三通のお便りを紹介したくて、この「散華」という小説に取りかかったのでは決してない。はじめから私の意図は、たった一つしか無かった。私は、最後の一通を受け取ったときの感動を書きたかったのである。それは、北海派遣××部隊から発せられたお便りであって、受け取った時には、私はその××部隊こそ、アッツ島守備の尊い部隊だという事などは知る由も無いし、また、たといアッツ島とは知っていても、その後の玉砕を予感できるわけは無いのであるから、私はその××部隊の名に接しても、格別おどろきはしなかった。私は、三田君の葉書の文章に感動したのだ。
 御元気ですか。
 遠い空から御伺いします。
 無事、任地に着きました。
 大いなる文学のために、
 死んで下さい。
 自分も死にます、
 この戦争のために。
 死んで下さい、というその三田君の一言が、私には、なんとも尊く、ありがたく、うれしくて、たまらなかったのだ。これこそは、日本一の男児でなければ言えない言葉だと思った。
「三田君は、やっぱりいいやつだねえ。実に、いいところがある。」と私は、その頃、山岸さんにからりとした気持で言った事がある。いまは、心の底から、山岸さんに私の不明を謝したい気持であった。思いをあらたにして、山岸さんと握手したい気持だった。
 私には詩がわからぬ、とは言っても、私だって真実の文章を捜して朝夕を送っている男である。まるっきりの文盲とは、わけが違う。少しは、わかるつもりでいるのだ。山岸さんに「いいほうだ。いちばんいいかも知れない」と言われた時にも、私は自分の不明を恥かしく思う一方、なお胸の奥底で「そうかなあ」と頑固《がんこ》に渋って、首をひねっていたところも無いわけではなかったのである。私には、どうも田五作の剛情な一面があるらしく、目前に明白の証拠を展開してくれぬうちは、人を信用しない傾向がある。キリストの復活を最後まで信じなかったトマスみたいなところがある。いけないことだ。「我はその手に釘《くぎ》の痕《あと》を見、わが指を釘の痕にさし入れ、わが手をその脅《わき》に差入るるにあらずば信ぜじ」などという剛情は、まったく、手がつけられない。私にも、人のよい、たわいない一面があって、まさかトマスほどの徹底した頑固者でもないようだけれども、でも、うっかりすると、としとってから妙な因業爺《いんごうじじい》になりかねない素質は少しあるらしいのである。私は山岸さんの判定を、素直に全部信じる事が出来なかったのである。「どうかなあ」という疑懼《ぎく》が、心の隅に残っていた。
 けれども、あの「死んで下さい」というお便りに接して、胸の障子《しょうじ》が一斉にからりと取り払われ、一陣の涼風が颯《さ》っと吹き抜ける感じがした。
 うれしかった。よく言ってくれたと思った。大出来の言葉だと思った。戦地へ行っているたくさんの友人たちから、いろいろと、もったいないお便りをいただくが、私に「死んで下さい」とためらわず自然に言ってくれたのは、三田君ひとりである。なかなか言えない言葉である。こんなに自然な調子で、それを言えるとは、三田君もついに一流の詩人の資格を得たと思った。私は、詩人というものを尊敬している。純粋の詩人とは、人間以上のもので、たしかに天使であると信じている。だから私は、世の中の詩人たちに対して期待も大きく、そうして、たいてい失望している。天使でもないのに詩人と自称して気取っているへんな人物が多いのである。けれども、三田君は、そうではない。たしかに、山岸さんの言うように「いちばんいい詩人」のひとりであると私は信じた。三田君に、このような美しい便りを書かせたものは、なんであったか。それを、はっきり知ったのは、よほどあとの事である。とにかく私は、山岸さんの説に、心から承服できたという事が、うれしくて、たまらなかった。
「三田君は、いい。たしかに、いい。」と私は山岸さんに言い、それは私ひとりだけが知っている、ささやかな和解の申込みであったのだが。けれども、この世に於いて、和解にまさるよろこびは、そんなにたくさんは無い筈だ。私は、山岸さんと同様に、三田君を「いちばんよい」と信じ、今後の三田君の詩業に大いなる期待を抱いたのであるが、三田君の作品は、まったく別の形で、立派に完成せられた。アッツ島に於ける玉砕である。
 御元気ですか。
 遠い空から御伺いします。
 無事、任地に着きました。
 大いなる文学のために、
 死んで下さい。
 自分も死にます、
 この戦争のために。
 ふたたび、ここに三田君のお便りを書き写してみる。任地に第一歩を印した時から、すでに死ぬる覚悟をしておられたらしい。自己のために死ぬのではない。崇高な献身の覚悟である。そのような厳粛な決意を持っている人は、ややこしい理窟《りくつ》などは言わぬものだ。激した言い方などはしないものだ。つねに、このように明るく、単純な言い方をするものだ。そうして底に、ただならぬ厳正の決意を感じさせる文章を書くものだ。繰り返し繰り返し読んでいるうちに、私にはこの三田君の短いお便りが実に最高の詩のような気さえして来たのである。アッツ玉砕の報を聞かずとも、私はこのお便りだけで、この年少の友人を心から尊敬する事が出来たのである。純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力している事に於いては、兵士も、また詩人も、あるいは私のような巷《ちまた》の作家も、違ったところは無いのである。
 ことしの五月の末に、私はアッツ島の玉砕をラジオで聞いたが、まさか三田君が、その玉砕の神の一柱であろうなどとは思い設けなかった。三田君が、どこで戦っているのか、それさえ私たちには、わかっていなかったのである。
 あれは、八月の末であったか、アッツ玉砕の二千有余柱の神々のお名前が新聞に出ていて、私は、その列記せられてあるお名前を順々に、ひどくていねいに見て行って、やがて三田循司という姓名を見つけた。決して、三田君の名前を捜していたわけではなかった。なぜだか、ただ私は新聞のその面を、ひどくていねいに見ていたのである。そうして、三田循司という名前を見つけて、はっと思ったが、同時にまた、非常に自然の事のようにも思われた。はじめから、この姓名を捜していたのだというような気さえして来た。家の者に知らせたら、家の者は顔色を変えて驚愕《きょうがく》していたが、私には「やっぱり、そうか」という首肯の気持のほうが強かった。
 けれども、さすがにその日は、落ちつかなかった。私は山岸さんに葉書を出した。
「三田君がアッツ玉砕の神の一柱であった事を、ただいま新聞で知りました。三田君を偲《しの》ぶために、何かよい御計画でもありましたならば、お知らせ下さい。」というような意味の事を書いて出したように記憶している。
 二、三日して山岸さんから御返事が来た。山岸さんも、三田君のアッツ玉砕は、あの日の新聞ではじめて知った様子で、自分は三田君の遺稿を整理して出版する計画を持っているが、それに就《つ》いて後日いろいろ相談したい、という意味の御返事であった。遺稿集の題は「北極星」としたい気持です、小生は三田と或る夜語り合った北極星の事に就いて何か書きたい気持です、ともそのお葉書にしたためられてあった。
 それから間もなく、山岸さんは、眼の大きな背の高い青年を連れて三鷹の陋屋にやって来た。
「三田の弟さんだ。」山岸さんに紹介せられて私たちは挨拶を交した。
 やはり似ている。気弱そうな微笑が、兄さんにそっくりだと思った。
 私は弟さんからお土産をいただいた。桐《きり》の駒下駄《こまげた》と、林檎《りんご》を一籠いただいた。山岸さんは註釈を加えて、
「僕のうちでも、林檎と駒下駄をもらった。林檎はまだ少しすっぱいようだから、二、三日置いてたべるといいかも知れない。駒下駄は僕と君とお揃いのを一足ずつ。気持のいいお土産だろう?」
 弟さんは遺稿集に就いての相談もあり、また、兄さんの事を一夜、私たちと共に語り合いたい気持もあって、その前日、花巻から上京して来たのだという。
 私の家で三人、遺稿集の事に就いて相談した。
「詩を全部、載せますか。」と私は山岸さんに尋ねた。
「まあ、そんな事になるだろうな。」
「初期のは、あんまりよくなかったようですが。」と私は、まだ少しこだわっていた。れいの田五作の剛情である。因業爺の卵である。
「そんな事を言ったって。」と、山岸さんは苦笑して、それから、すぐに賢明に察したらしく、「こりゃどうも、太宰のさきには死なれないね。どんな事を言われるか、わかりゃしない。」
 私は、開巻第一頁に、三田君のあのお便りを、大きい活字で組んで載せてもらいたかったのである。あとの詩は、小さい活字だって構わない。それほど私はあのお便りの言々句々が好きなのである。
 御元気ですか。
 遠い空から御伺いします。
 無事、任地に着きました。
 大いなる文学のために、
 死んで下さい。
 自分も死にます、
 この戦争のために。



底本:「太宰治全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(昭和64)年2月28日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:kumi
2000年9月18日公開
2001年4月7日修正
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