青空文庫アーカイブ

ろまん燈籠
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)筐底《きょうてい》

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(例)大声|叱咤《しった》、

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(例)[#底本では「に」は脱字]
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       その一

 八年まえに亡《な》くなった、あの有名な洋画の大家、入江新之助氏の遺家族は皆すこし変っているようである。いや、変調子というのではなく、案外そのような暮しかたのほうが正しいので、かえって私ども一般の家庭のほうこそ変調子になっているのかも知れないが、とにかく、入江の家の空気は、普通の家のそれとは少し違っているようである。この家庭の空気から暗示を得て、私は、よほど前に一つの短篇小説を創ってみた事がある。私は不流行の作家なので、創った作品を、すぐに雑誌に載せてもらう事も出来ず、その短篇小説も永い間、私の机の引き出しの底にしまわれたままであったのである。その他にも、私には三つ、四つ、そういう未発表のままの、謂《い》わば筐底《きょうてい》深く秘めたる作品があったので、おととしの早春、それらを一纏《ひとまと》めにして、いきなり単行本として出版したのである。まずしい創作集ではあったが、私には、いまでも多少の愛着があるのである。なぜなら、その創作集の中の作品は、一様に甘《あま》く、何の野心も持たず、ひどく楽しげに書かれているからである。いわゆる力作は、何だかぎくしゃくして、あとで作者自身が読みかえしてみると、いやな気がしたり等するものであるが、気楽な小曲には、そんな事が無いのである。れいに依《よ》って、その創作集も、あまり売れなかったようであるが、私は別段その事を残念にも思っていない。売れなくて、よかったとさえ思っている。愛着は感じていても、その作品集の内容を、最上質のものとは思っていないからである。冷厳の鑑賞には、とても堪えられる代物《しろもの》ではないのである。謂わば、だらしない作品ばかりなのである。けれども、作者の愛着は、また自《おのずか》ら別のものらしく、私は時折、その甘ったるい創作集を、こっそり机上に開いて読んでいる事もあるのである。その創作集の中でも、最も軽薄で、しかも一ばん作者に愛されている作品は、すなわち、冒頭に於《お》いて述べた入江新之助氏の遺家族から暗示を得たところの短篇小説であるというわけなのである。もとより軽薄な、たわいの無い小説ではあるが、どういうわけだか、私には忘れられない。
 ――兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。
 長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇《かば》う鬼の面《めん》であって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ、愚作だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。それにきまっていた。映画館を出てからは、急に尊大に、むっと不機嫌になって、みちみち一言も口をきかない。生れて、いまだ一度も嘘言《うそ》というものをついた事が無いと、躊躇《ちゅうちょ》せず公言している。それは、どうかと思われるけれど、しかし、剛直、潔白の一面は、たしかに具有していた。学校の成績はあまりよくなかった。卒業後は、どこへも勤めず、固く一家を守っている。イプセンを研究している。このごろ「人形の家」をまた読み返し、重大な発見をして、頗《すこぶ》る興奮した。ノラが、あのとき恋をしていた。お医者のランクに恋をしていたのだ。それを発見した。弟妹たちを呼び集めてそのところを指摘し、大声|叱咤《しった》、説明に努力したが、徒労であった。弟妹たちは、どうだか、と首をかしげて、にやにや笑っているだけで、一向に興奮の色を示さぬ。いったいに弟妹たちは、この兄を甘く見ている。なめている風《ふう》がある。
 長女は、二十六歳。いまだ嫁《とつ》がず、鉄道省に通勤している。フランス語が、かなりよく出来た。背丈が、五尺三寸あった。すごく、痩《や》せている。弟妹たちに、馬、と呼ばれる事がある。髪を短く切って、ロイド眼鏡をかけている。心が派手で、誰とでもすぐ友達になり、一生懸命に奉仕して、捨てられる。それが、趣味である。憂愁、寂寥《せきりょう》の感を、ひそかに楽しむのである。けれどもいちど、同じ課に勤務している若い官吏に夢中になり、そうして、やはり捨てられた時には、その時だけは、流石《さすが》に、しんからげっそりして、間《ま》の悪さもあり、肺が悪くなったと嘘をついて、一週間も寝て、それから頸《くび》に繃帯《ほうたい》を巻いて、やたらに咳《せき》をしながら、お医者に見せに行ったら、レントゲンで精細にしらべられ、稀に見る頑強の肺臓であるといって医者にほめられた。文学鑑賞は、本格的であった。実によく読む。洋の東西を問わない。ちから余って自分でも何やら、こっそり書いている。それは本箱の右の引き出しに隠して在る。逝去《せいきょ》二年後に発表のこと、と書き認《したた》められた紙片が、その蓄積された作品の上に、きちんと載せられているのである。二年後が、十年後と書き改められたり、二ヶ月後と書き直されたり、ときには、百年後、となっていたりするのである。
 次男は、二十四歳。これは、俗物であった。帝大の医学部に在籍。けれども、あまり学校へは行かなかった。からだが弱いのである。これは、ほんものの病人である。おどろくほど、美しい顔をしていた。吝嗇《りんしょく》である。長兄が、ひとにだまされて、モンテエニュの使ったラケットと称する、へんてつもない古いラケットを五十円に値切って買って来て、得々《とくとく》としていた時など、次男は、陰でひとり、余りの痛憤に、大熱を発した。その熱のために、とうとう腎臓をわるくした。ひとを、どんなひとをも、蔑視したがる傾向が在る。ひとが何かいうと、けッという奇怪な、からす天狗《てんぐ》の笑い声に似た不愉快きわまる笑い声を発するのである。ゲエテ一点張りである。これとても、ゲエテの素朴な詩精神に敬服しているのではなく、ゲエテの高位高官に傾倒しているらしい、ふしが、無いでもない。あやしいものである。けれども、兄妹みんなで、即興の詩など競作する場合には、いつでも一ばんである。出来ている。俗物だけに、謂《い》わば情熱の客観的把握が、はっきりしている。自身その気で精進すれば、あるいは二流の作家くらいには、なれるかも知れない。この家の、足のわるい十七の女中に、死ぬほど好かれている。
 次女は、二十一歳。ナルシッサスである。ある新聞社が、ミス・日本を募《つの》っていた時、あの時には、よほど自己推薦しようかと、三夜|身悶《みもだ》えした。大声あげて、わめき散らしたかった。けれども、三夜の身悶えの果、自分の身長が足りない事に気がつき、断念した。兄妹のうちで、ひとり目立って小さかった。四尺七寸である。けれども、決して、みっともないものではなかった。なかなかである。深夜、裸形で鏡に向い、にっと可愛く微笑してみたり、ふっくらした白い両足を、ヘチマコロンで洗って、その指先にそっと自身で接吻して、うっとり眼をつぶってみたり、いちど鼻の先に、針で突いたような小さい吹出物して、憂鬱のあまり、自殺を計った事がある。読書の撰定に特色がある。明治初年の、佳人之奇遇、経国美談などを、古本屋から捜して来て、ひとりで、くすくす笑いながら読んでいる。黒岩|涙香《るいこう》、森田|思軒《しけん》などの飜訳をも、好んで読む。どこから手に入れて来るのか、名の知れぬ同人雑誌をたくさん集めて、面白いなあ、うまいなあ、と真顔で呟《つぶや》きながら、端から端まで、たんねんに読破している。ほんとうは、鏡花《きょうか》をひそかに、最も愛読していた。
 末弟は、十八歳である。ことし一高の、理科甲類に入学したばかりである。高等学校へはいってから、かれの態度が俄然《がぜん》かわった。兄たち、姉たちには、それが可笑《おか》しくてならない。けれども末弟は、大まじめである。家庭内のどんなささやかな紛争にでも、必ず末弟は、ぬっと顔を出し、たのまれもせぬのに思案深げに審判を下して、これには、母をはじめ一家中、閉口している。いきおい末弟は一家中から敬遠の形である。末弟には、それが不満でならない。長女は、かれのぶっとふくれた不機嫌の顔を見かねて、ひとりでは大人《おとな》になった気でいても、誰も大人と見ぬぞかなしき、という和歌を一首つくって末弟に与えかれの在野遺賢の無聊《ぶりょう》をなぐさめてやった。顔が熊の子のようで、愛くるしいので、きょうだいたちが、何かとかれにかまいすぎて、それがために、かれは多少おっちょこちょいのところがある。探偵小説を好む。ときどきひとり部屋の中で、変装してみたりなどしている。語学の勉強と称して、和文対訳のドイルのものを買って来て、和文のところばかり読んでいる。きょうだい中で、家のことを心配しているのは自分だけだと、ひそかに悲壮の感に打たれている。――
 以上が、その短篇小説の冒頭の文章であって、それから、ささやかな事件が、わずかに展開するという仕組みになっていたのであるが、それは、もとよりたわいの無い作品であった事は前にも述べた。私の愛着は、その作品に対してよりも、その作中の家族に対してのほうが強いのである。私は、あの家庭全体を好きであった。たしかに、実在の家庭であった。すなわち、故人、入江新之助氏の遺家族のスケッチに違いないのである。もっとも、それは必ずしも事実そのままの叙述ではなかった。大げさな言いかたで、自分でも少からず狼狽《ろうばい》しながら申し上げるのであるが、謂わば、詩と真実以外のものは、適度に整理して叙述した、というわけなのである。ところどころに、大嘘をさえ、まぜている。けれども、大体は、あの入江の家庭の姿を、写したものだ。一毛《いちもう》に於いて差異はあっても、九牛《きゅうぎゅう》に於いては、リアルであるというわけなのだ。もっとも私は、あの短篇小説に於いて、兄妹五人と、それから優しく賢明な御母堂に就《つ》いてだけ書いたばかりで、祖父ならびに祖母の事は、作品構成の都合上、無礼千万にも割愛してしまっているのである。これは、たしかに不当なる処置であった。入江の家を語るのに、その祖父、祖母を除外しては、やはり、どうしても不完全のようである。私は、いまはそのお二人に就いても語って置きたいのである。そのまえに一つお断りしなければならない事がある。それは、私の之《これ》からの叙述の全部は、現在ことしの、入江の家の姿ではなく、四年前に私がひそかに短篇小説に取りいれたその時の入江の家の雰囲気《ふんいき》に他ならないという一事である。いまの入江家は、少し違っている。結婚した人もある。亡《な》くなられた人さえある。四年以前にくらべて、いささか暗くなっているようである。そうして私も、いまは入江の家に、昔ほど気楽に遊びに行けなくなってしまった。つまり、五人の兄妹も、また私も、みんなが少しずつ大人《おとな》になってしまって、礼儀も正しく、よそよそしく、いわゆる、あの「社会人」というものになった様子で、お互い、たまに逢っても、ちっとも面白くないのである。はっきり言えば、現在の入江家は、私にとって、あまり興味がないのである。書くならば、四年前の入江家を書きたいのである。それゆえ、私の之から叙述するのも、四年前の入江の家の姿である。現在は、少し違っている。それだけをお断りして置いて、さて、その頃の祖父は、――毎日、何もせずに遊んでばかりいたようである。もし入江の家系に、非凡な浪曼の血が流れているとしたならば、それは、此《こ》の祖父から、はじまったものではないかと思われる。もはや八十を過ぎている。毎日、用事ありげに、麹町《こうじまち》の自宅の裏門から、そそくさと出掛ける。実に素早い。この祖父は、壮年の頃は横浜で、かなりの貿易商を営んでいたのである。令息の故新之助氏が、美術学校へ入学した時にも、少しも反対せぬばかりか、かえって身辺の者に誇ってさえいたというほどの豪傑である。としとって隠居してからでも、なかなか家にじっとしてはいない。家人のすきを覗《うかが》っては、ひらりと身をひるがえして裏門から脱出する。すたすた二、三丁歩いて、うしろを振り返り、家人が誰もついて来ないという事を見とどけてから、懐中より鳥打帽をひょいと取出して、あみだにかぶるのである。派手な格子縞《こうしじま》の鳥打帽であるが、ひどく古びている。けれども、これをかぶらないと散歩の気分が出ないのである。四十年間、愛用している。これをかぶって、銀座に出る。資生堂へはいって、ショコラというものを注文する。ショコラ一ぱいに、一時間も二時間も、ねばっている。あちら、こちらを見渡し、むかしの商売仲間が若い芸妓《げいぎ》などを連れて現れると、たちまち大声で呼び掛け、放すものでない。無理矢理、自分のボックスに坐らせて、ゆるゆると厭味《いやみ》を言い出す。これが、怺《こら》えられぬ楽しみである。家へ帰る時には、必ず、誰かに僅かなお土産《みやげ》を買って行く。やはり、気がひけるのである。このごろは、めっきり又、家族の御機嫌を伺うようになった。勲章を発明した。メキシコの銀貨に穴をあけて赤い絹紐《きぬひも》を通し、家族に於いて、その一週間もっとも功労のあったものに、之《これ》を贈呈するという案である。誰も、あまり欲しがらなかった。その勲章をもらったが最後、その一週間は、家に在るとき必ず胸に吊り下げていなければいけないというのであるから、家族ひとしく閉口している。母は、舅《しゅうと》に孝行であるから、それをもらっても、ありがたそうな顔をして、帯の上に、それでもなるべく目立たないように吊り下げる。祖父の晩酌のビイルを一本多くした時には、母は、いや応なしに、この勲章をその場で授与されてしまうのである。長兄も、真面目な性質であるから、たまに祖父の寄席《よせ》のお伴の功などで、うっかり授与されてしまう事があっても、それでも流石《さすが》に悪びれず、一週間、胸にちゃんと吊り下げている。長女、次男は、逃げ廻っている。長女は、私にはとてもその資格がありませんからと固辞して利巧に逃げている。殊に次男は、その勲章を自分の引出しにしまい込んで、落したと嘘をついた事さえある。祖父は、たちまち次男の嘘を看破し、次女に命じて、次男の部屋を捜査させた。次女は、運わるくそのメダルを発見したので、こんどは、次女に贈呈された。祖父は、この次女を偏愛している様子がある。次女は、一家中で最もたかぶり、少しの功も無いのに、それでも祖父は、何かというと此の次女に勲章を贈呈したがるのである。次女は、その勲章をもらうと、たいてい自分の財布の中に入れて置く。祖父は、次女にだけは、そんな除外例を許可するのである。胸に吊り下げずとも、いいのである。一家中で、多少でも、その勲章を欲しいと思っているのは、末弟だけである。末弟も流石にそれを授与されて胸に吊り下げられると、何だか恥ずかしくて落ちつかない気がするのだけれど、それを取り上げられて誰か他の人に渡される時には、ふっと淋しくなるのである。次女の留守に、次女の部屋へこっそりはいっていって財布を捜し出し、その中のメダルを懐《なつか》しそうに眺めている時もある。祖母は、この勲章を一度も授与された事が無い。はじめから、きっぱり拒否しているのである。ひどく、はっきりした人なのである。ばからしい、と言っている。この祖母は、末弟を目にいれても痛くないほど可愛がっている。末弟が一時、催眠術の研究をはじめて、祖父、母、兄たち姉たち、みんなにその術をかけてみても誰も一向にかからない。みんな、きょろきょろしている。大笑いになった。末弟ひとり泣きべそかいて、汗を流し、最後に祖母へかけてみたら、たちまちにかかった。祖母は椅子に腰かけて、こくりこくりと眠りはじめ、術者のおごそかな問いに、無心に答えるのである。
「おばあさん、花が見えるでしょう?」
「ああ、綺麗《きれい》だね。」
「なんの花ですか?」
「れんげだよ。」
「おばあさん、一ばん好きなものは何ですか?」
「おまえだよ。」
 術者は、少し興覚《きょうざ》めた。
「おまえというのは、誰ですか?」
「和夫(末弟の名)じゃないか。」
 傍で拝見していた家族のものが、どっと笑い出したので、祖母は覚醒した。それでも、まず、術者の面目は、保ち得たのである。とにかく祖母だけは、術にかかったのだから。でも、あとで真面目な長兄が、おばあさん、本当にかかったのですか、とこっそり心配そうに尋ねたとき、祖母は、ふんと笑って、かかるものかね、と呟《つぶや》いた。
 以上が、入江家の人たち全部のだいたいの素描である。もっと、くわしく紹介したいのであるが、いまは、それよりも、この家族全部で連作した一つの可成《かな》り長い「小説」を、お知らせしたいのである。入江の家の兄妹たちは、みんな、多少ずつ文芸の趣味を持っている事は前にも言って置いた。かれらは時々、物語の連作をはじめる事がある。たいてい、曇天の日曜などに、兄妹五人、客間に集っておそろしく退屈して来ると、長兄の発案で、はじめるのである。ひとりが、思いつくままに勝手な人物を登場させて、それから順々に、その人物の運命やら何やらを捏造《ねつぞう》していって、ついに一篇の物語を創造するという遊戯である。簡単にすみそうな物語なら、その場で順々に口で言って片附けてしまうのであるが、発端から大いに面白そうな時には、大事をとって、順々に原稿用紙に書いて廻すことにしている。そのような、かれら五人の合作の「小説」が、すでに四、五篇も、たまっている筈《はず》である。たまには、祖父、祖母、母もお手伝いする事になっている。このたびの、やや長い物語にも、やはり、祖父、祖母、母のお手伝いが在るようである。

       その二

 たいてい末弟が、よく出来もしない癖に、まず、まっさきに物語る。そうして、たいてい失敗する。けれども末弟は、絶望しない。こんどこそと意気込む。お正月五日間のお休みの時、かれらは、少し退屈して、れいの物語の遊戯をはじめた。その時も、末弟は、僕にやらせて下さい僕に、と先陣を志願した。まいどの事ではあり、兄姉たちは笑ってゆるした。このたびは、としのはじめの物語でもあり、大事をとって、原稿用紙にきちんと書いて順々に廻すことにした。締切は翌日の朝。めいめいが一日たっぷり考えて書く事が出来る。五日目の夜か、六日目の朝には、一篇の物語が完成する。それまでの五日間、かれら五人の兄妹たちは、幽《かす》かに緊張し、ほのかに生き甲斐《がい》を感じている。
 末弟は、れいに依って先陣を志願し、ゆるされて発端を説き起す事になったが、さて、何の腹案も無い。スランプなのかも知れない。ひき受けなければよかったと思った。一月一日、他の兄姉たちは、それぞれ、よそへ遊びに出てしまった。祖父は勿論、早朝から燕尾服《えんびふく》を着て姿を消したのである。家に残っているのは、祖母と母だけである。末弟は、自分の勉強室で、鉛筆をけずり直してばかりいた。泣きたくなって来た。万事窮して、とうとう悪事をたくらんだ。剽窃《ひょうせつ》である。これより他は、無いと思った。胸をどきどきさせて、アンデルセン童話集、グリム物語、ホオムズの冒険などを読み漁《あさ》った。あちこちから盗んで、どうやら、まとめた。
 ――むかし北の国の森の中に、おそろしい魔法使いの婆さんが住んでいました。実に、悪い醜い婆さんでありましたが、一人娘のラプンツェルにだけは優しく、毎日、金の櫛《くし》で髪をすいてやって可愛がっていました。ラプンツェルは、美しい子でした。そうして、たいへん活溌な子でした。十四になったら、もう、婆さんの言う事をきかなくなりました。婆さんを逆に時々、叱る事さえありました。それでも、婆さんはラプンツェルを可愛くてたまらないので、笑って負けていました。森の樹々が、木枯しに吹かれて一日一日、素肌をあらわし、魔法使いの家でも、そろそろ冬籠《ふゆごも》りの仕度に取りかかりはじめた頃、素張《すば》らしい獲物がこの魔法の森の中に迷い込みました。馬に乗った綺麗な王子が、たそがれの森の中に迷い込んで来たのです。それは、この国の十六歳の王子でした。狩に夢中になり、家来たちにはぐれてしまい、帰りの道を見失ってしまったのでした。王子の金《きん》の鎧《よろい》は、薄暗い森の中で松明《たいまつ》のように光っていました。婆さんは、これを見のがす筈は、ありません。風のように家を飛び出し、たちまち王子を、馬からひきずり落してしまいました。
「この坊ちゃんは、肥えているわい。この肌の白さは、どうじゃ。胡桃《くるみ》の実で肥やしたんじゃな!」と喉《のど》を鳴らして言いました。婆さんは長い剛《こわ》い髭《ひげ》を生やしていて、眉毛は目の上までかぶさっているのです。「まるで、ふとらした小羊そっくりじゃ。さて、味はどんなもんじゃろ。冬籠りには、こいつの塩漬けが一ばんいい。」とにたにた笑いながら短刀を引き抜き、王子の白い喉にねらいをつけた瞬間、
「あっ!」と婆さんは叫びました。婆さんは娘のラプンツェルに、耳を噛《か》まれてしまったからです。ラプンツェルは婆さんの背中に飛びついて、婆さんの左の耳朶《みみたぶ》を、いやというほど噛んで放さないのでした。
「ラプンツェルや、ゆるしておくれ。」と婆さんは、娘を可愛がって甘やかしていますから、ちっとも怒らず、無理に笑ってあやまりました。ラプンツェルは、婆さんの背中をゆすぶって、
「この子は、あたしと遊ぶんだよ。この綺麗な子を、あたしにおくれ。」と、だだをこねました。可愛がられ、わがままに育てられていますから、とても強情で、一度言い出したら、もう後へは引きません。婆さんは、王子を殺して塩漬けにするのを一晩だけ、がまんしてやろうと思いました。
「よし、よし。おまえにあげるわよ。今晩は、おまえのお客様に、うんと御馳走してやろう。その代り、あしたになったら、婆さんにかえして下され。」
 ラプンツェルは、首肯《うなず》きました。その夜、王子は魔法の家で、たいへん優しくされましたが、生きた心地もありませんでした。晩の御馳走は、蛙《かえる》の焼串《やきぐし》、小さい子供の指を詰めた蝮《まむし》の皮、天狗茸《てんぐだけ》と二十日鼠《はつかねずみ》のしめった鼻と青虫の五臓とで作ったサラダ、飲み物は、沼の女の作った青みどろのお酒と、墓穴から出来る硝酸酒とでした。錆《さ》びた釘《くぎ》と教会の窓ガラスとが食後のお菓子でした。王子は、見ただけで胸が悪くなり、どれにも手を附けませんでしたが、婆さんと、ラプンツェルは、おいしいおいしいと言って飲み食いしました。いずれも、この家の、とって置きの料理なのでありました。食事がすむと、ラプンツェルは、王子の手をとって自分の部屋へ連れて行きました。ラプンツェルは、王子と同じくらいの背丈《せたけ》でした。部屋へはいってから、王子の肩を抱いて、王子の顔を覗《のぞ》き、小さい声で言いました。
「お前があたしを嫌いにならないうちは、お前を殺させはしないよ。お前、王子さまなんだろ?」
 ラプンツェルの髪の毛は、婆さんに毎日すいてもらっているお蔭で、まるで黄金をつむいだように美事に光り、脚の辺まで伸びていました。顔は天使のように、ふっくりして、黄色い薔薇《ばら》の感じでありました。唇は小さく莓《いちご》のように真赤でした。目は黒く澄んで、どこか悲しみをたたえていました。王子は、いままで、こんな美しい女の子を見た事がない、と思いました。
「ええ。」と王子は低く答えて、少し気もゆるんで、涙をぽたぽた落しました。
 ラプンツェルは、黒く澄んだ目で、じっと王子を見つめていましたが、ちょっと首肯いて、
「お前があたしを嫌いになっても、人に殺させはしないよ。そうなったら、あたしが自分で殺してやる。」と言って、自分も泣いてしまいました。それから急に大声で笑い出して、涙を手の甲で拭い、王子の目をも同様に拭いてやって、「さあ、今夜はあたしと一緒に、あたしの小さな動物のところに寝るんだよ。」と元気そうに言って隣りの寝室に案内しました。そこには、藁《わら》と毛布が敷いてありました。上を見ますと、梁《はり》や止り木に、およそ百羽ほどの鳩がとまっていました。みんな、眠っているように見えましたが、二人が近づくと、少しからだを動かしました。
「これは、みんな、あたしのだよ。」とラプンツェルは教えて、すばやく手近の一羽をつかまえ、足を持ってゆすぶりました。鳩は驚いて羽根をばたばたさせました。「キスしてやっておくれ!」とラプンツェルは鋭く叫んで、その鳩で王子の頬を打ちました。
「あっちの烏《からす》は、森のやくざ者だよ。」と部屋の隅の大きい竹籠を顎《あご》でしゃくって見せて、「十羽いるんだが、何しろみんな、やくざ者でね、ちゃんと竹籠に閉じこめて置かないと、すぐ飛んでいってしまうのだよ。それから、ここにいるのは、あたしの古い友達のベエだよ。」と言いながら一|疋《ぴき》の鹿を、角をつかんで部屋の隅から引きずり出して来ました。鹿の頸《くび》には銅の頸輪がはまっていて、それに鉄の太い鎖がつながれていました。「こいつも、しっかり鎖でつないで置かないと、あたし達のところから逃げ出してしまうのだよ。どうしてみんな、あたし達のところに、いつかないのだろう。どうでもいいや。あたしは毎晩、ナイフでもって、このベエの頸をくすぐってやるんだ。するとこいつは、とてもこわがって、じたばたするんだよ。」そう言いながらラプンツェルは壁の裂け目からぴかぴか光る長いナイフを取り出して、それでもって鹿の頸をなで廻しました。可哀そうに、鹿は、せつながって身をくねらせ、油汗を流しました。ラプンツェルは、その様を見て大声で笑いました。
「君は寝る時も、そのナイフを傍に置いとくのかね?」と王子は少しこわくなって、そっと聞いてみました。
「そうさ。いつだってナイフを抱いて寝るんだよ。」とラプンツェルは平気な顔で答えました。「何が起るかわからないもの。それはいいから、さあもう寝よう。お前が、どうしてこの森へ迷い込んだか、それをこれから聞かせておくれ。」ふたりは藁の上に並んで寝ました。王子は、きょう森へ迷い込むまでの事の次第を、どもりどもり申しました。
「お前は、その家来たちとわかれて、淋しいのかい?」
「淋しいさ。」
「お城へ帰りたいのかい?」
「ああ、帰りたいな。」
「そんな泣きべそをかく子は、いやだよ!」と言ってラプンツェルは急に跳ね起き、「それよりか、嬉しそうな顔をするのが本当じゃないか。ここに、パンが二つと、ハムが一つあるからね、途中でおなかがすいたら、食べるがいいや。何を愚図愚図しているんだね。」
 王子は、あまりの嬉しさに思わず飛び上りました。ラプンツェルは母さんのように落ちついて、
「ああ、この毛の長靴をおはき。お前にあげるよ。途中、寒いだろうからね。お前には寒い思いをさせやしないよ。これ、お婆さんの大きな指なし手袋さ。さあ、はめてごらん。ほら、手だけ見ると、まるであたしの汚いお婆さんそっくりだ。」
 王子は、感謝の涙を流しました。ラプンツェルは次に鹿を引きずり出し、その鎖をほどいてやって、
「ベエや、あたしは出来ればお前を、もっとナイフでくすぐってやりたいんだよ。とても面白いんだもの。でも、もう、どうだっていいや。お前を、逃がしてやるからね、この子をお城まで連れていっておくれ。この子は、お城へ帰りたいんだってさ。どうだって、いいや。うちのお婆さんより早く走れるのは、お前の他に無いんだからね。しっかり頼むよ。」
 王子は鹿の背に乗り、
「ありがとう、ラプンツェル。君を忘れやしないよ。」
「そんな事、どうだっていいや。ベエや、さあ、走れ! 背中のお客さまを振り落したら承知しないよ。」
「さようなら。」
「ああ、さようなら。」泣き出したのは、ラプンツェルのほうでした。
 鹿は闇の中を矢のように疾駆《しっく》しました。藪《やぶ》を飛び越え森を突き抜け一直線に湖水を渡り、狼《おおかみ》が吠え、烏が叫ぶ荒野を一目散、背後に、しゅっしゅっと花火の燃えて走るような音が聞えました。
「振り向いては、いけません。魔法使いのお婆さんが追い駆けているのです。」と鹿は走りながら教えました。「大丈夫です。私より早いものは、流れ星だけです。でも、あなたはラプンツェルの親切を忘れちゃいけませんよ。気象は強いけれども、淋しい子です。さあ、もうお城につきました。」
 王子は、夢みるような気持で、お城の門の前に立っていました。
 可哀そうなラプンツェル。魔法使いの婆さんは、こんどは怒ってしまったのです。大事な大事な獲物を逃がしてしまった。わがままにも程があります。と言ってラプンツェルを森の奥の真暗い塔の中に閉じこめてしまいました。その塔には、戸口も無ければ階段も無く、ただ頂上の部屋に、小さい窓が一つあるだけで、ラプンツェルは、その頂上の部屋にあけくれ寝起きする身のうえになったのでした。可哀そうなラプンツェル。一年経ち二年経ち、薄暗い部屋の中で誰にも知られず、むなしく美しさを増していました。もうすっかり大人《おとな》になって考え深い娘になっていました。いつも王子の事を忘れません。淋しさのあまり、月や星にむかって歌をうたう事もありました。淋しさが歌声の底にこもっているので、森の鳥や樹々もそれを聞いて泣き、お月さまも、うるみました。月に一度ずつ、魔法使いの婆さんが見廻りに来ました。そうして食べ物や着物を置いて行きました。婆さんは、ラプンツェルを、やっぱり可愛くて、塔の中で飢え死させるのが、つらいのです。婆さんには魔法の翼があるので、自由に塔の頂上の部屋に出入りする事が出来るのでした。三年経ち、四年経ち、ラプンツェルも、自然に十八歳になりました。薄暗い部屋の中で、自分で気が附かずに美しく輝いていました。自分の花の香気は、自分では気がつきません。そのとしの秋に、王子は狩に出かけ、またもや魔の森に迷い込み、ふと悲しい歌を耳にしました。何とも言えず胸にしみ入るので、魂を奪われ、ふらふら塔の下まで来てしまいました。ラプンツェルではないかしら。王子は、四年前の美しい娘を決して忘れてはいませんでした。
「顔を見せておくれ!」と王子は精一ぱいの大声で叫びました。「悲しい歌は、やめて下さい。」
 塔の上の小さい窓から、ラプンツェルは顔を出して答えました。「そうおっしゃるあなたは誰です。悲しい者には悲しい歌が救いなのです。ひとの悲しさもおわかりにならない癖に。」
「ああ、ラプンツェル!」王子は、狂喜しました。「私を思い出しておくれ!」
 ラプンツェルの頬は一瞬さっと蒼白《あおじろ》くなり、それからほのぼの赤くなりました。けれども、幼い頃の強い気象がまだ少し残っていたので、
「ラプンツェル? その子は、四年前に死んじゃった!」と出来るだけ冷い口調で答えました。けれども、それから大声で笑おうとして、すっと息を吸い込んだら急に泣きたくなって、笑い声のかわりに烈しい嗚咽《おえつ》が出てしまいました。
 あの子の髪は、金《きん》の橋。
 あの子の髪は、虹の橋。
 森の小鳥たちは、一斉に奇妙な歌をうたいはじめました。ラプンツェルは泣きながらも、その歌を小耳にはさみ、ふっと素張らしい霊感に打たれました。ラプンツェルは、自分の美しい髪の毛を、二まき三まき左の手に捲きつけて、右の手に鋏《はさみ》を握りました。もう今では、ラプンツェルの美事な黄金の髪の毛は床にとどくほど長く伸びていたのです。じょきり、じょきり、惜しげも無く切って、それから髪の毛を結び合せ、長い一本の綱を作りました。それは太陽《ひ》のもとで最も美しい綱でした。窓の縁にその端を固く結《ゆわ》えて、自分はその美しい金《きん》の綱を伝って、するする下へ降りて行きました。
「ラプンツェル。」王子は小声で呟いて、ただ、うっとりと見惚《みと》れていました。
 地上に降り立ったラプンツェルは、急に気弱くなって、何も言えず、ただそっと王子の手の上に、自分の白い手をかさねました。
「ラプンツェル、こんどは私が君を助ける番だ。いや一生、君を助けさせておくれ。」王子は、もはや二十歳です。とても、たのもしげに見えました。ラプンツェルは、幽《かす》かに笑って首肯《うなず》きました。
 二人は、森を抜け出し、婆さんの気づかぬうちにと急ぎに急いで荒野を横切り、目出度く無事にお城にたどりつく事が出来たのです。お城では二人を、大喜びで迎えました。」
 末弟が苦心の揚句《あげく》、やっとここまで書いて、それから、たいへん不機嫌になった。失敗である。これでは、何も物語の発端にならない。おしまいまで、自分ひとりで書いてしまった。またしても兄や、姉たちに笑われるのは火を見るよりも明らかである。末弟は、ひそかに苦慮した。もう、日が暮れて来た。よそへ遊びに出掛けた兄や、姉たちも、そろそろ帰宅した様子で、茶の間から大勢の陽気な笑い声が聞える。僕は孤独だ、と末弟は言い知れぬ寂寥の感に襲われた。その時、救い主があらわれた。祖母である。祖母は、さっきから勉強室にひとり閉じこもっている末弟を、可哀そうでならない。
「また、はじめたのかね。うまく書けたかい?」と言って、その時、祖母は末弟の勉強室にはいって来たのである。
「あっちへ行って!」末弟は不機嫌である。
「また、しくじったね。お前は、よく出来もしない癖に、こんな馬鹿げた競争にはいるからいけないよ。お見せ。」
「わかるもんか!」
「泣かなくてもいいじゃないか。馬鹿だね。どれどれ。」と祖母は帯の間から老眼鏡を取り出し、末弟のお伽噺《とぎばなし》を小さい声を出して読みはじめた。くつくつ笑い出して、「おやおや、この子は、まあ、ませた事を知っているじゃないか。面白い。よく書けていますよ。でも、これじゃ、あとが続かないね。」
「あたりまえさ。」
「困ったね? 私ならば、こう書くね。お城では、二人を大喜びで迎えました。けれども、これから不仕合せが続きます、と書きます。どうだろうね。こんな魔法使いの娘と、王子さまでは身分がちがいすぎますよ。どんなに好き合っていたって、末は、うまく行かないね。こんな縁談は、不仕合せのもとさ。どうだね?」と言って、末弟の肩を人指ゆびで、とんと突いた。
「知っていますよ、そんな事ぐらい。あっちへ行って! 僕には、僕の考えがあるんですからね。」
「おや、そうかい。」祖母は落ちついたものである。たいてい、末弟の考えというものがわかっているのである。「大急ぎで、あとを書いて、茶の間へおいで。おなかが、すいたろう。おぞうにを食べて、それから、かるたでもして遊んだらいいじゃないか。そんな、競争なんて、つまらない。あとは、大きい姉さんに頼んでおしまい。あれは、とても上手だから。」
 祖母を追い出してから、末弟は、おもむろに所謂《いわゆる》、自分の考えなるものを書き加えた。
「けれども、これから不仕合せが続きます。魔法使いの娘と、王子とでは、身分があまりに違いすぎます。ここから不仕合せが起るのです。あとは大姉さんに、お願いいたします。ラプンツェルを大事にしてやって下さい。」と祖母の言ったとおりに書いて、ほっと溜息《ためいき》をついた。

       その三

 きょうは二日である。一家そろって、お雑煮《ぞうに》を食べてそれから長女ひとりは、すぐに自分の書斎へしりぞいた。純白の毛糸のセエタアの、胸には、黄色い小さな薔薇《ばら》の造花をつけている。机の前に少し膝《ひざ》を崩して坐り、それから眼鏡をはずして、にやにや笑いながらハンケチで眼鏡の玉を、せっせと拭いた。それが終ってから、また眼鏡をかけ、眼を大袈裟《おおげさ》にぱちくりとさせた。急に真面目な顔になり、坐り直して机に頬杖《ほおづえ》をつき、しばらく思いに沈んだ。やがて、万年筆を執《と》って書きはじめた。
 ――恋愛の舞踏の終ったところから、つねに、真の物語がはじまります。めでたく結ばれたところで、たいていの映画は、the end になるようでありますが、私たちの知りたいのは、さて、それからどんな生活をはじめたかという一事であります。人生は、決して興奮の舞踏の連続ではありません。白々しく興覚《きょうざ》めの宿命の中に寝起きしているばかりであります。私たちの王子と、ラプンツェルも、お互い子供の時にちらと顔を見合せただけで、離れ難い愛着を感じ、たちまちわかれて共に片時も忘れられず、苦労の末に、再び成人の姿で相逢う事が出来たのですが、この物語は決してこれだけでは終りませぬ。お知らせしなければならぬ事は、むしろその後の生活に在るのです。王子とラプンツェルは、手を握り合って魔の森から遁《のが》れ、広い荒野を飲まず食わず終始無言で夜ひる歩いて、やっとお城にたどり着く事が出来たものの、さて、それからが大変です。
 王子も、ラプンツェルも、死ぬほど疲れていましたが、ゆっくり休んでいるひまもありませんでした。王さまも、王妃も、また家来の衆も、ひとしく王子の無事を喜び矢継早《やつぎばや》に、此《こ》の度の冒険に就《つ》いて質問を集中し、王子の背後に頸垂《うなだ》れて立っている異様に美しい娘こそ四年前、王子を救ってくれた恩人であるという事もやがて判明いたしましたので、城中の喜びも二倍になったわけでした。ラプンツェルは香水の風呂にいれられ、美しい軽いドレスを着せられ、それから、全身が埋ってしまうほど厚く、ふんわりした蒲団《ふとん》に寝かされ、寝息も立てぬくらいの深い眠りに落ちました。ずいぶん永いこと眠り、やがて熟し切った無花果《いちじく》が自然にぽたりと枝から離れて落ちるように、眠り足りてぽっかり眼を醒《さ》ましましたが、枕もとには、正装し、すっかり元気を恢復《かいふく》した王子が笑って立って居りました。ラプンツェルは、ひどく恥ずかしく思いました。
「あたし、帰ります。あたしの着物は、どこ?」と少し起きかけて、言いました。
「ばかだなあ。」王子は、のんびりした声で、「着物は、君が着てるじゃないか。」
「いいえ、あたしが塔で着ていた着物よ。かえして頂戴。あれは、お婆さんが一等いい布ばかり寄せ集めて縫って下さった着物なのよ。」
「ばかだなあ。」王子は再び、のんびりした声で言いました。「もう、淋しくなったのかい?」
 ラプンツェルは、思わずこっくり首肯《うなず》き、急に胸がふさがって、たまらなくなり、声を放って泣きました。お婆さんから離れて、他人ばかりのお城に居るのを淋しく思ったのではありません。それは、まえから覚悟して来た事でございます。それに、あの婆さんは決していい婆さんで無いし、また、たとい佳いお婆さんであっても、娘というものは、好きなひとさえ傍にいて下さったら、肉親全部と離れたとて、ちっとも淋しがらず、まるで平気なものでございます。ラプンツェルの泣いたのは、淋しかったからではありませぬ。それはきっと恥ずかしく、くやしかったからでありましょう。お城へ夢中で逃げて来て、こんな上等の着物を着せられ、こんな柔かい蒲団に寝かされ、前後不覚に眠ってしまって、さて醒めて落ちついて考えてみると、あたしは、こんな身分じゃ無かった、あたしは卑しい魔法使いの娘だったという事が、はっきり判って、それでいたたまらない気持になり、恥ずかしいばかりか、ひどい屈辱さえ感ぜられ、帰ります等と唐突なことを言い出したのではないでしょうか。ラプンツェルには、やっぱり小さい頃の、勝気な片意地の性質が、まだ少し残っているようであります。苦労を知らない王子には、そんな事の判ろう筈《はず》がありませぬ。ラプンツェルが突然、泣き出したので、頗《すこぶ》る当惑して、
「君は、まだ、疲れているんだ。」と勝手な判断を下し、「おなかも、すいているんだ。とにかく食事の仕度をさせよう。」と低く呟《つぶや》きながら、あたふたと部屋を出て行きました。
 やがて五人の侍女がやって来て、ラプンツェルを再び香水の風呂にいれ、こんどは前の着物よりもっと重い、真紅の着物を着せました。顔と手に、薄く化粧を施しました。少し短い金髪をも上手にたばねてくれました。真珠の頸飾《くびかざり》をゆったり掛けて、ラプンツェルがすっくと立ち上った時には、五人の侍女がそろって、深い溜息をもらしました。こんなに気高く美しい姫をいままで見た事も無し、また、これからも此の世で見る事は無いだろうと思いました。
 ラプンツェルは、食事の部屋に通されました。そこには王さまと、王妃と王子の三人が、晴れやかに笑って立っていました。
「おう綺麗じゃ。」王さまは両手をひろげてラプンツェルを迎えました。
「ほんとうに。」と王妃も満足げに首肯《うなず》きました。王さまも王妃も、慈悲深く、少しも高ぶる事の無い、とても優しい人でした。
 ラプンツェルは、少し淋しそうに微笑《ほほえ》んで挨拶しました。
「お坐り。ここへお坐り。」王子は、すぐにラプンツェルの手を執って食卓につかせ、自分もその隣りにぴったりくっついて坐りました。可笑《おか》しいくらいに得意な顔でした。
 王さまも王妃も軽く笑いながら着席し、やがてなごやかな食事がはじめられたのでしたが、ラプンツェルひとりは、ただ、まごついて居りました。つぎつぎと食卓に運ばれて来るお料理を、どうして食べたらいいのやら、まるで見当が附かないのです。いちいち隣りの王子のほうを盗み見て、こっそりその手つきを真似て、どうやら口に入れる事が出来ても、青虫の五臓のサラダや蛆《うじ》のつくだ煮などの婆さんのお料理ばかり食べつけているラプンツェルには、その王さまの最上級の御馳走も、何だか変な味で胸が悪くなるばかりでありました。鶏卵の料理だけは流石《さすが》においしいと思いましたが、でも、やっぱり森の烏の卵ほどには、おいしくないと思いました。
 食卓の話題は豊富でした。王子は、四年前の恐怖を語り、また此度の冒険を誇り、王さまはその一語一語に感動し、深く首肯いてその度毎に祝盃を傾けるので、ついには、ひどく酔いを発し、王妃に背負われて別室に退きました。王子と二人きりになってから、ラプンツェルは小さい声で言いました。
「あたし、おもてへ出てみたいの。なんだか胸が苦しくて。」顔が真蒼《まっさお》でした。
 王子は、あまりに上機嫌だったので、ラプンツェルの苦痛に同情する事を忘れていました。人は、自分で幸福な時には、他人の苦しみに気が附かないものなのでしょう。ラプンツェルの蒼い顔を見ても、少しも心配せず、
「たべすぎたのさ。庭を歩いたら、すぐなおるさ。」と軽く言って立ち上りました。
 外は、よいお天気でした。もう秋も、なかばなのに、ここの庭ばかりは様々の草花が一ぱい咲いて居りました。ラプンツェルは、やっと、にっこり笑いました。
「せいせいしたわ。お城の中は暗いので、私は夜かと思っていました。」
「夜なものか。君は、きのうの昼から、けさまで、ぐっすり眠っていたんだ。寝息も無いくらいに深く眠っていたので、私は、死んだのじゃないかと心配していた。」
「森の娘が、その時に死んでしまって、目が醒めてみると、上品なお姫さまになっていたらよかったのだけれど、目が醒めても、やっぱり、あたしはお婆さんの娘だったわ。」ラプンツェルは本気に残念がって、そう言ったのでしたが、王子はそれをラプンツェルのお道化と解して、大いに笑い興じ、
「そうかね。そうであったかね。それはお気の毒だったねえ。」と言って、また大声を挙げて笑うのでした。
 なんという花か、たいへん匂いの強い純白の小さい花が見事に咲き競っている茨《いばら》の陰にさしかかった時、王子は、ふいと立ちどまり一瞬まじめな眼つきをして、それからラプンツェルの骨もくだけよとばかり抱きしめて、それから狂った人のような意外の動作をいたしました。ラプンツェルは堪え忍びました。はじめての事でもなかったのでした。森から遁《のが》れて荒野を夜ひる眠らず歩いている途中に於いても、これに似た事が三度あったのでした。
「もう、どこへも行かないね?」と王子は少し落ちついて、ラプンツェルと並んでまた歩き出し、低い声で言いました。二人は白い花の茨の陰から出て、水蓮《すいれん》の咲いている小さい沼のほうへ歩いて行きます。ラプンツェルは、なぜだか急に可笑しくなって、ぷっと噴き出しました。
「何。どうしたの?」と王子は、ラプンツェルの顔を覗き込んで尋ねました。「何が可笑しいの?」
「ごめんなさい。あなたが、へんに真面目なので、つい笑っちゃったの。あたしが今さら、どこへ行けるの? あたしが、あなたを塔の中で四年も待っていたのです。」沼のほとりに着きました。ラプンツェルは、こんどは泣きたくなって、岸の青草の上に崩れるように坐りました。王子の顔を見上げて、「王さまも、王妃さまも、おゆるし下さったの?」
「もちろんさ。」王子は再び以前の、こだわらぬ笑顔にかえってラプンツェルの傍に腰をおろし、「君は、私の命の恩人じゃないか。」
 ラプンツェルは、王子の膝に顔を押しつけて泣きました。
 それから数日後、お城では豪華な婚礼の式が挙げられました。その夜の花嫁は、翼を失った天使のように可憐《かれん》に震えて居りました。王子には、この育ちの違った野性の薔薇が、ただもう珍らしく、ひとつき、ふたつき暮してみると、いよいよラプンツェルの突飛な思考や、残忍なほどの活溌な動作、何ものをも恐れぬ勇気、幼児のような無智な質問などに、たまらない魅力を感じ、溺れるほどに愛しました。寒い冬も過ぎ、日一日と暖かになり、庭の早咲きの花が、そろそろ開きかけて来た頃、二人は並んで庭をゆっくり歩きまわって居りました。ラプンツェルは、みごもっていました。
「不思議だわ。ほんとうに、不思議。」
「また、疑問が生じたようだね。」王子は二十一歳になったので少し大人びて来たようです。「こんどは、どんな疑問が生じたのか、聞きたいものだね。先日は、神様が、どこにいるのかという偉い御質問だったね。」
 ラプンツェルは、うつむいて、くすくす笑い、
「あたしは、女でしょうか。」と言いました。
 王子は、この質問には、まごつきました。
「少くとも、男ではない。」と、もったいぶった言いかたをしました。
「あたしも、やはり、子供を産んで、それからお婆さんになるのでしょうか。」
「美しいお婆さんになるだろう。」
「あたし、いやよ。」ラプンツェルは、幽《かす》かに笑いました。とても淋しい笑いでした。「あたしは、子供を産みません。」
「そりゃ、また、どういうわけかね。」王子は余裕のある口調で尋ねます。
「ゆうべも眠らずに考えました。子供が生れると、あたしは急にお婆さんになるし、あなたは子供ばかりを可愛がって、きっと、あたしを邪魔になさるでしょう。誰も、あたしを可愛がってくれません。あたしには、よくわかります。あたしは、育ちの卑しい馬鹿な女ですから、お婆さんになって汚くなってしまったら、何の取りどころも無くなるのです。また森へ帰って、魔法使いにでもなるより他はありませぬ。」
 王子は不機嫌になりました。
「君は、まだ、あのいまわしい森の事を忘れないのか。君のいまの御身分を考えなさい。」
「ごめんなさい。もう綺麗に忘れているつもりだったのに、ゆうべの様な淋しい夜には、ふっと思い出してしまうのです。あたしの婆さんは、こわい魔法使いですが、でも、あたしをずいぶん甘やかして育てて下さいました。誰もあたしを可愛がらないようになっても、森の婆さんだけは、いつでも、きっと、あたしを小さい子供のように抱いて下さるような気がするのです。」
「私が傍《そば》にいるじゃないか。」王子は、にがり切って言いました。
「いいえ、あなたは駄目。あなたは、あたしを、ずいぶん可愛がって下さいましたが、ただ、あたしを珍らしがってお笑いになるばかりで、あたしは何だか淋しかったのです。いまに、あたしが子供を産んだら、あなたは今度は子供のほうを珍らしがって、あたしを忘れてしまうでしょう。あたしはつまらない女ですから。」
「君は、ご自分の美しさに気が附かない。」王子は、ひどく口をとがらせて唸《うな》るように言いました。「つまらない事ばかり言っている。きょうの質問は実にくだらぬ。」
「あなたは、なんにも御存じ無いのです。あたしは、このごろ、とても苦しいのですよ。あたし、やっぱり、魔法使いの悪い血を受けた野蛮な女です。生れる子供が、憎くてなりません。殺してやりたいくらいです。」と声を震わせて言って、下唇を噛みました。
 気弱い王子は戦慄《せんりつ》しました。こいつは本当に殺すかも知れぬと思ったのです。あきらめを知らぬ、本能的な女性は、つねに悲劇を起します。」
 長女は、自信たっぷりの顔つきで、とどこおる事なく書き流し、ここまで書いて静かに筆を擱《お》いた。はじめから読み直してみて、時々、顔をあからめ、口をゆがめて苦笑した。少し好色すぎたと思われる描写が処々に散見されたからである。口の悪い次男に、あとで冷笑されるに違いないと思ったが、それも仕方がないと諦めた。自分の今の心境が、そのまま素直にあらわれたのであろう、悲しいことだと思ったりした。でもまた、これだけでも女性の心のデリカシイを描けるのは兄妹中で、私の他には無いのだと、幽かに誇る気持もどこかにあった。書斎には火の気が無かった。いま急に、それに気附いて、おう寒い、と小声で呟き、肩をすぼめて立ち上り、書き上げた原稿を持って廊下へ出たら、そこに意味ありげに立っている末弟と危く鉢合せしかけた。
「失敬、失敬。」末弟は、ひどく狼狽している。
「和ちゃん、偵察しに来たのね。」
「いやいや、さにあらず。」末弟は顔を真赤にして、いよいよへどもどした。
「知っていますよ。私が、うまく続けたかどうか心配だったんでしょう?」
「実は、そうなんだよ。」末弟は小声であっさり白状した。
「僕のは下手だったろうね。どうせ下手なんだからね。」ひとりで、さかんに自嘲をはじめた。
「そうでもないわよ。今回だけは、大出来よ。」
「そうかね。」末弟の小さい眼は喜びに輝いた。「ねえさん、うまく続けてくれたかね。ラプンツェルを、うまく書いてくれた?」
「ええ、まあ、どうやらね。」
「ありがたい!」末弟は、長女に向って合掌した。

       その四

 三日目。
 元日に、次男は郊外の私の家に遊びに来て、近代の日本の小説を片っ端からこきおろし、ひとりで興奮して、日の暮れる頃、「こりゃ、いけない。熱が出たようだ。」と呟き、大急ぎで帰っていった。果せるかな、その夜から微熱が出て、きのうは寝たり起きたり、けさになっても全快せず、まだ少し頭が重いそうで蒲団《ふとん》の中で鬱々としている。あまり、人の作品の悪口を言うと、こんな具合いに風邪《かぜ》をひくものである。
「いかがです、お加減は。」と言って母が部屋へはいって来て、枕元に坐り、病人の額《ひたい》にそっと手を載せてみて、「まだ少し、熱があるようだね。大事にして下さいよ。きのうは、お雑煮を食べたり、お屠蘇《とそ》を飲んだり、ちょいちょい起きて不養生をしていましたね。無理をしては、いけません。熱のある時には、じっとして寝ているのが一ばんいいのです。あなたは、からだの弱い癖に、気ばかり強くていけません。」
 さかんに叱られている。次男は、意気|銷沈《しょうちん》の態《てい》である。かえす言葉も無く、ただ、幽《かす》かに苦笑して母のこごとを聞いている。この次男は、兄妹中で最も冷静な現実主義者で、したがって、かなり辛辣《しんらつ》な毒舌家でもあるのだが、どういうものか、母に対してだけは、蔓草《つるくさ》のように従順である。ちっとも意気があがらない。いつも病気をして、母にお手数をかけているという意識が胸の奥に、しみ込んでいるせいでもあろう。
「きょうは一日、寝ていなさい。むやみに起きて歩いてはいけませんよ。ごはんも、ここでおあがり。おかゆを、こしらえて置きました。さと(女中の名)が、いま持って来ますから。」
「お母さん。お願いがあるんだけど。」すこぶる弱い口調である。「きょうはね、僕の番なのです。書いてもいい?」
「なんです。」母には一向わからない。「なんの事です。」
「ほら、あの、連作を、またはじめているんですよ。きのう、僕は退屈だったものだから、姉さんに頼んで無理に原稿を見せてもらって、ゆうべ一晩、そのつづきを考えていたのです。今度のは、ちょっと、むずかしい。」
「いけません、いけません。」母は笑いながら、「文豪も、風邪をひいている時には、いい考えが浮びません。兄さんに代ってもらったらどう?」
「だめだよ。兄さんなんか、だめだよ。兄さんにはね、才能が、無いんですよ。兄さんが書くと、いつでも、演説みたいになってしまう。」
「そんな悪口を言っては、いけません。兄さんの書くものは、いつも、男らしくて立派じゃありませんか。お母さんなら、いつも兄さんのが一ばん好きなんだけどねえ。」
「わからん。お母さんには、わからん。どうしたって、今度は僕が書かなくちゃいけないんだ。あの続きは、僕でなくちゃ書けないんだ。お母さんお願い。書いてもいいね?」
「困りますね。あなたは、きょうは、寝ていなくちゃいけませんよ。兄さんに代ってもらいなさい。あなたは、明日でも、あさってでも、からだの調子が本当によくなってから書く事にしたらいいじゃありませんか。」
「だめだ。お母さんは、僕たちの遊びを馬鹿にしているんだからなあ。」大袈裟《おおげさ》に溜息を吐《つ》いて、蒲団を頭から、かぶってしまった。
「わかりました。」母は笑って、「お母さんが悪かったね。それじゃね、こうしたらどう? あなたが寝ながら、ゆっくり言うのを私が、そのまま書いてあげる。ね、そうしましょう。去年の春に、あなたがやはり熱を出して寝ていた時、何やらむずかしい学校の論文を、あなたの言うとおりに、お母さんが筆記できたじゃないの。あの時も、お母さんは、案外上手だったでしょう?」
 病人は、蒲団をかぶったまま、返事もしない。母は、途方に暮れた。女中のさとが、朝食のお膳を捧《ささ》げて部屋へはいって来た。さとは、十三の時から、この入江の家に奉公している。沼津辺の漁村の生れである。ここへ来て、もう四年にもなるので、家族のロマンチックの気風にすっかり同化している。令嬢たちから婦人雑誌を借りて、仕事のひまひまに読んでいる。昔の仇討《あだう》ち物語を、最も興奮して読んでいる。女は操《みさお》が第一、という言葉も、たまらなく好きである。命をかけても守って見せると、ひとりでこっそり緊張している。柳行李《やなぎごうり》の中に、長女からもらった銀のペーパーナイフを蔵《かく》してある。懐剣のつもりなのである。色は浅黒いけれど、小さく引きしまった顔である。身なりも清潔に、きちんとしている。左の足が少し悪く、こころもち引きずって歩く様子も、かえって可憐である。入江の家族全部を、神さまか何かのように尊敬している。れいの祖父の銀貨勲章をも、眼がくらむ程に、もったいなく感じている。長女ほどの学者は世界中にいない、次女ほどの美人も世界中にいない、と固く信じている。けれども、とりわけ、病身の次男を、死ぬほど好いている。あんな綺麗な御主人のお伴をして仇討ちに出かけたら、どんなに楽しいだろう。今は、昔のように仇討ちの旅というものが無いから、つまらない、などと馬鹿な事を考えている。
 いま、さとは次男の枕元に、お膳をうやうやしく置いて、少し淋しい。次男は蒲団を引きかぶったままである。母堂は、それを、ただ静かに眺めて笑っている。さとは、誰にも相手にされない。ひっそり、そこに坐って、暫《しばら》く待ってみたが、何という事も無い。おそるおそる母堂に尋ねた。
「よほど、お悪いのでしょうか。」
「さあ、どうでしょうかねえ。」母は、笑っている。
 突然、次男は蒲団をはねのけ、くるりと腹這《はらば》いになり、お膳を引き寄せて箸《はし》をとり、寝たまま、むしゃむしゃと食事をはじめた。さとはびっくりしたが、すぐに落ちついて給仕した。次男の意外な元気の様子に、ほっと安心したのである。次男は、ものも言わず、猛烈な勢いで粥《かゆ》を啜《すす》り、憤然と梅干を頬張り、食慾は十分に旺盛のようである。
「さとは、どう思うかねえ。」半熟卵を割りながら、ふいと言い出した。「たとえば、だね、僕がお前と結婚したら、お前は、どんな気がすると思うかね。」実に、意外の質問である。
 さとよりも、母のほうが十倍も狼狽した。
「ま! なんという、ばかな事を言うのです。冗談にも、そんな、ねえ、さとや、お前をからかっているのです。そんな、乱暴な、冗談にも、そんな。」
「たとえば、ですよ。」次男は、落ちついている。先刻から、もっぱら小説の筋書ばかり考えているのである。その譬《たとえ》が、さとの小さい胸を、どんなに痛く刺したか、てんで気附かないでいるのである。勝手な子である。「さとは、どんな気がするだろうなあ。言ってごらん。小説の参考になるんだよ。実に、むずかしいところなんだ。」
「そんな、突拍子ない事を言ったって、」母は、ひそかにほっとして、「さとには、わかりませんよ、ねえ、さとや。猛《たけし》(次男の名)は、ばかげた事ばかり言っています。」
「わたくしならば、」さとは、次男の役に立つ事なら、なんでも言おうと思った。母堂の当惑そうな眼くばせをも無視して、ここぞと、こぶしを固くして答えた。「わたくしならば、死にます。」
「なあんだ。」次男は、がっかりした様子である。「つまらない。死んじゃったんでは、つまらないんだよ。ラプンツェルが死んじゃったら、物語も、おしまいだよ。だめだねえ。ああ、むずかしい。どんな事にしたらいいかなあ。」しきりに小説の筋書ばかり考えている。さとの必死の答弁も、一向に、役に立たなかった様子である。
 さとは大いにしょげて、こそこそとお膳を片附け、てれ隠しにわざと、おほほほと笑いながら、またお膳を捧げて部屋から逃げて出て、廊下を歩きながら、泣いてみたいと思ったが、べつに悲しくなかったので、こんどは心から笑ってしまった。
 母は、若い者の無心な淡泊《たんぱく》さに、そっとお礼を言いたいような気がしていた。自分の濁った狼狽振りを恥ずかしく思った。信頼していていいのだと思った。
「どう? 考えがまとまりましたか? おやすみになったままで、どんどん言ったらいい。お母さんが、筆記してあげますからね。」
 次男は、また仰向《あおむけ》に寝て蒲団を胸まで掛けて眼をつぶり、あれこれ考え、くるしんでいる態である。やがて、ひどくもったい振ったおごそかな声で、
「まとまったようです。お願い致します。」と言った。母は、ついふき出した。
 以下は、その日の、母子協力の口述筆記全文である。
 ――玉のような子が生れました。男の子でした。城中は喜びに沸《わ》きかえりました。けれども産後のラプンツェルは、日一日と衰弱しました。国中の名医が寄り集り、さまざまに手をつくしてみましたが愈々《いよいよ》はかなく、命のほども危く見えました。
「だから、だから、」ラプンツェルは、寝床の中で静かに涙を流しながら王子に言いました。「だから、あたしは、子供を産むのは、いやですと申し上げたじゃありませんか。あたしは魔法使いの娘ですから、自分の運命をぼんやり予感する事が出来るのです。あたしが子供を産むと、きっと何か、わるい事が起るような気がしてならなかった。あたしの予感は、いつでも必ず当ります。あたしが、いま死んで、それだけで、わざわいが済むといいのですけれど、なんだか、それだけでは済まないような恐ろしい予感もするのです。神さまというものが、あなたのお教え下さったように、もしいらっしゃるならば、あたしは、その神さまにお祈りしたい気持です。あたしたちは、きっと誰かに憎まれています。あたしたちは、ひどくいけない間違いをして来たのではないでしょうか。」
「そんな事は無い。そんな事は無い。」と王子は病床の枕もとを、うろうろ歩き廻って、矢鱈《やたら》に反対しましたが、内心は、途方にくれていたのです。男子誕生の喜びも束《つか》の間《ま》、いまはラプンツェルの意味不明の衰弱に、魂も動転し、夜も眠れず、ただ、うろうろ病床のまわりを、まごついているのです。王子は、やっぱり、しんからラプンツェルを愛していました。ラプンツェルの顔や姿の美しさ、または、ちがう環境に育った花の、もの珍らしさ、或《ある》いは、どこやら憐憫《れんびん》を誘うような、あわれな盲目の無智、それらの事がらにのみ魅《ひ》かれて王子が夢中で愛撫しているだけの話で、精神的な高い共鳴と信頼から生れた愛情でもなし、また、お互い同じ祖先の血筋を感じ合い、同じ宿命に殉じましょうという深い諦念と理解に結ばれた愛情でもないという理由から、この王子の愛情の本質を矢鱈に狐疑《こぎ》するのも、いけない事です。王子は、心からラプンツェルを可愛いと思っているのです。仕様の無いほど好きなのです。ただ、好きなのです。それで、いいではありませんか。純粋な愛情とは、そんなものです。女性が、心の底で、こっそり求めているものも、そのような、ひたむきな正直な好意以外のものでは無いと思います。精神的な高い信頼だの、同じ宿命に殉じるだのと言っても、お互い、きらいだったら滅茶滅茶です。なんにも、なりやしません。何だか好きなところがあるからこそ、精神的だの、宿命だのという気障《きざ》な言葉も、本当らしく聞えて来るだけの話です。そんな言葉は、互いの好意の氾濫《はんらん》を整理する為《ため》か、或いは、情熱の行いの反省、弁解の為に用いられているだけなのです。わかい男女の恋愛に於《お》いて、そんな弁解ほど、胸くその悪いものはありません。ことに、「女を救うため」などという男の偽善には、がまん出来ない。好きなら、好きと、なぜ明朗に言えないのか。おととい、作家のDさんのところへ遊びに行った時にも、そんな話が出たけれどDさんは、その時、僕を俗物だと言いやがった。そういうDさんだって、僕があの人の日常生活を親しくちょいちょい覗いてみたところに依《よ》ると、なあに御自分の好き嫌いを基準にしてちゃっかり生活しているんだ。あの人は、嘘つきだ。僕は俗物だって何だってかまわない。事実を、そのままはっきり言うのは、僕の好むところだ。人間は、好むところのものを行うのが一ばんいいのさ。脱線を致しました。僕は、精神的だの、理解だのの恋愛を考えられないだけの事です。王子の恋愛は正直です。王子のラプンツェルに対する愛情こそ、純粋なものだと思います。王子は、心からラプンツェルを愛していました。
「死ぬなんてばかな事を言ってはいけない。」と大いに不満そうに口を尖《とが》らせて言いました。
「私は君を、どんなに愛しているのか、わからないのか。」とも言いました。王子は、正直な人でした。でも、正直の美徳だけでは、ラプンツェルの重い病気をなおす事は出来ません。
「生きていてくれ!」と呻《うめ》きました。「死んでは、いかん!」と叫びました。他に何も、言うべき言葉が無いのです。
「ただ、生きて、生きてだけ、いてくれ。」と声を落して呟《つぶや》いた時、その時、
「ほんとうかね。生きてさえ居れば、いいのじゃな?」という嗄《しわが》れた声を、耳元に囁《ささや》かれ、愕然《がくぜん》として振り向くと、ああ、王子の髪は逆立ちました。全身に冷水を浴びせられた気持でした。老婆が、魔法使いの老婆が、すぐ背後に、ひっそり立っていたのです。
「何しに来た!」王子は勇気の故ではなく、あまりの恐怖の故に、思わず大声で叫びました。
「娘を助けに来たのじゃないか。」老婆は、平気な口調で答え、それから、にやりと笑いました。「知っていたのだよ。婆さんには、此《こ》の世で、わからない事は無いのだよ。みんな知っていましたよ。お前さまが、わしの娘を此の城に連れて来て、可愛いがっていなさる事は、とうから知っていましたよ。ただ、一時の、もて遊びものになさる気だったら、わしだって黙ってはいなかったのだが、そうでもないらしいので、わしは今まで我慢してやっていたのだよ。わしだって、娘が仕合せに暮していると、少しは嬉しいさ。けれども、もう、だめなようだね。お前さまは知るまいが魔法使いの家に生れた女の子は、男に可愛がられて子供を産むと、死ぬか、でもなければ、世の中で一ばん醜い顔になってしまうか、どちらかに、きまっているのだよ。ラプンツェルは、その事を、はっきりは知っていなかったようだが、でも、何かしら勘《かん》でわかっていた筈だね。子供を産むのを、いやがっていたろうに。可哀そうな事になったわい。お前さまは、一体、ラプンツェルを、どうなさるつもりだね。見殺しにするか、それとも、わしのような醜い顔になっても、生かして置きたいか。お前さまは、さっき、どんな事があっても、生きてだけいておくれ、と念じていなさったが、どうかね、わしのような顔になっても、生きていたほうがよいのかね。わしだって、若い頃には、ラプンツェルに決して負けない綺麗な娘だったが、旅の猟師に可愛がられラプンツェルを産んで、わしの母から死ぬか、生きていたいかと訊《たず》ねられ、わしは何としても生きていたかったから、生かして置いてくれとたのんだら、母は、まじないをして、わしの命を助けてくれたが、おかげで、わしはごらんのとおりの美事な顔になりましたよ。どうだね、さっきのお前さまの念願には、嘘が無いかね?」
「死なせて下さい。」ラプンツェルは、病床で幽《かす》かに身悶《みもだ》えして、言いました。「あたしさえ死ねば、もう、みなさん無事にお暮し出来るのです。王子さま、ラプンツェルは、いままでお世話になって、もう何の不足もございません。生きて、つらい目に遭うのは、いやです。」
「生かしてやってくれ!」王子は、こんどは本当の勇気を以《もっ》て、きっぱりと言いました。額には苦悶の油汗が浮いていました。「ラプンツェルは、この婆のような醜い顔になる筈が無い。」
「わしが、なんで嘘など言うものか。よろしい。そんならば、ラプンツェルを末永く生かして置いてあげよう。どんなに醜い顔になっても、お前さまは、変らずラプンツェルを可愛がってあげますか?」

       その五

 次男の病床の口述筆記は、短い割に、多少の飛躍があったようである。けれども、さすがに病床の粥腹《かゆばら》では、日頃、日本のあらゆる現代作家を冷笑している高慢無礼の驕児《きょうじ》も、その特異の才能の片鱗《へんりん》を、ちらと見せただけで、思案してまとめて置いたプランの三分の一も言い現わす事が出来ず、へたばってしまった。あたら才能も、風邪の微熱には勝てぬと見える。飛躍が少しはじまりかけたままの姿で、むなしくバトンは次の選手に委《ゆだ》ねられた。次の選手は、これまた生意気な次女である。あっと一驚させずば止《や》まぬ態《てい》の功名心に燃えて、四日目、朝からそわそわしていた。家族そろって朝ごはんの食卓についた時にも、自分だけは、特に、パンと牛乳だけで軽くすませた。家族のひとたちの様に味噌汁、お沢庵《たくあん》などの現実的なるものを摂取するならば胃腑《いふ》も濁って、空想も萎靡《いび》するに違いないという思惑からでもあろうか。食事をすませてから応接室に行き、つッ立ったまま、ピアノのキイを矢鱈《やたら》にたたいた。ショパン、リスト、モオツアルト、メンデルスゾオン、ラベル、滅茶滅茶に思いつき次第、弾いてみた。霊感を天降《あまくだ》らせようと思っているのだ。この子は、なかなか大袈裟である。霊感を得た、と思った。すました顔をして応接室を出て、それから湯殿に行き靴下を脱いで足を洗った。不思議な行為である。けれども次女は、此の行為に依ってみずからを浄《きよ》くしているつもりなのである。変態のバプテスマである。これでもう、身も心も清浄になったと、次女は充分に満足しておもむろに自分の書斎に引き上げた。書斎の椅子に腰をおろし、アアメン、と呟いた。これは、いかにも突飛である。この次女に、信仰などある筈はない。ただ、自分のいまの緊張を言いあらわすのに、ちょっと手頃な言葉だと思って、臨時に拝借してみたものらしい。アアメン、なるほど心が落ちつく。次女はもったい振り、足の下の小さい瀬戸の火鉢に、「梅花」という香《こう》を一つ焚《く》べて、すうと深く呼吸して眼を細めた。古代の閨秀《けいしゅう》作家、紫式部の心境がわかるような気がした。春はあけぼの、という文章をちらと思い浮べていい気持であったが、それは清少納言の文章であった事に気附いて少し興覚めた。あわてて机の本立から引き出した本は、「ギリシャ神話」である。すなわち異教の神話である。ここに於いて次女のアアメンは、真赤なにせものであったという事は完全に説明される。この本は、彼女の空想の源泉であるという。空想力が枯渇すれば、この本をひらく。たちまち花、森、泉、恋、白鳥、王子、妖精《ようせい》が眼前に氾濫するのだそうであるが、あまりあてにならない。この次女の、する事、為《な》す事、どうも信用し難い。ショパン、霊感、足のバプテスマ、アアメン、「梅花」、紫式部、春はあけぼの、ギリシャ神話、なんの連関も無いではないか。支離滅裂である。そうして、ただもう気取っている。ギリシャ神話をぱらぱらめくって、全裸のアポロの挿絵《さしえ》を眺め、気味のわるい薄笑いをもらした。ぽんと本を投げ出して、それから机の引き出しをあけ、チョコレートの箱と、ドロップの缶を取りだし、実にどうにも気障《きざ》な手つきで、――つまり、人さし指と親指と二本だけ使い、あとの三本の指は、ぴんと上に反《そ》らせたままの、あの、くすぐったい手つきでチョコレートをつまみ、口に入れるより早く嚥下《えんか》し、間髪をいれずドロップを口中に投げ込み、ばりばり噛み砕いて次は又、チョコレート、瞬時にしてドロップ、飢餓の魔物の如くむさぼり食うのである。朝食の時、胃腑を軽快になさんがため、特にパンと牛乳だけですませて置いた事も、これでは、なんにもならない。この次女は、もともと、よほどの大食いなのである。上品ぶってパンと牛乳で軽くすませてはみたが、それでは足りない。とても、足りるものではない。すなわち、書斎に引き籠《こも》り、人目を避けてたちまち大食いの本性を発揮したというわけなのである。とかく、いつわりの多い子である。チョコレート二十、ドロップ十個を嚥下し、けろりとしてトラビヤタの鼻唄をはじめた。唄いながら、原稿用紙の塵《ちり》を吹き払い、Gペンにたっぷりインクを含ませて、だらだらと書きはじめた。頗《すこぶ》る態度が悪いのである。
 ――あきらめを知らぬ、本能的な女性は、つねに悲劇を起します。という初枝(長女の名)女史の暗示も、ここに於いて多少の混乱に逢着したようでございます。ラプンツェルは魔の森に生れ、蛙《かえる》の焼串や毒茸《どくきのこ》などを食べて成長し、老婆の盲目的な愛撫の中でわがまま一ぱいに育てられ、森の烏や鹿を相手に遊んで来た、謂《い》わば野育ちの子でありますから、その趣味に於いても、また感覚に於いても、やはり本能的な野蛮なものが在るだろうという事は首肯できます。また、その本能的な言動が、かえって王子を熱狂させる程の魅力になっていたのだというのも容易に推察できる事でございます。けれども、果してラプンツェルは、あきらめを知らぬ女性であろうか。本能的な、野蛮な女性であった事は首肯出来ますが、いまの此のいのちの瀬戸際に於けるラプンツェルは、すべてを諦めているように見えるではないか。死にます、とラプンツェルは言っているのです。死んだほうがよい、と言っているのです。すべてを諦めたひとの言葉ではないでしょうか。けれども初枝女史は、ラプンツェルをあきらめを知らぬ女性として指摘して居ります。軽率《けいそつ》にそれに反対したら、叱られます。叱られるのは、いやな事ゆえ、筆者も、とにかく初枝女史の断案に賛意を表することに致します。ラプンツェルは、たしかに、あきらめを知らぬ女性であります。死なせて下さい、等という言葉は、たいへんいじらしい謙虚な響きを持って居りますが、なおよく、考えてみると、之《これ》は非常に自分勝手な、自惚《うぬぼ》れの強い言葉であります。ひとに可愛がられる事ばかり考えているのです。自分が、まだ、ひとに可愛がられる資格があると自惚れることの出来る間は、生き甲斐もあり、この世も楽しい。それは当り前の事であります。けれども、もう自分には、ひとに可愛がられる資格が無いという、はっきりした自覚を持っていながらも、ひとは、生きて行かなければならぬものであります。ひとに「愛される資格」が無くっても、ひとを「愛する資格」は、永遠に残されている筈であります。ひとの真の謙虚とは、その、愛するよろこびを知ることだと思います。愛されるよろこびだけを求めているのは、それこそ野蛮な、無智な仕業《しわざ》だと思います。ラプンツェルはいままで王子に、可愛がられる事ばかり考えていました。王子を愛する事を忘れていました。生れ出たわが子を愛する事をさえ、忘れていました。いやいや、わが子に嫉妬をさえ感じていたのです。そうして、自分が、もはや誰にも愛され得ないという事を知った時には、死にたい、いっそひと思いに殺して下さい、等と願うのです。なんという、わがまま者。王子を、もっと愛してあげなければいけません。王子だって、淋しいお子です。ラプンツェルに死なれたら、どんなに力を落すでしょう。ラプンツェルは、王子の愛情に報いなければいけません。生きていたい、なんとかして生きたい。自分が、どんなにつらい目に遭っても、子供のために生きたい。その子を愛して、まるまると丈夫に育てたいと一すじに願う事こそ、まさしく、諦めを知った人間の謙虚な態度ではないでしょうか。自分は醜いから、ひとに愛される事は出来ないが、せめて人を、かげながら、こっそり愛して行こう、誰に知られずともよい、愛する事ほど大いなるよろこびは無いのだと、素直に諦めている女性こそ、まことに神の寵児《ちょうじ》です。そのひとは、よし誰にも愛されずとも、神さまの大きい愛に包まれている筈です。幸福なる哉《かな》、なんて、筆者は、おそろしく神妙な事を弁じ立てましたけれども、筆者の本心は、必ずしも以上の陳述のとおりでもないのであります。筆者は、やはり人間は、美しくて、皆に夢中で愛されたら、それに越した事は無いとも思っているのでございますが、でも、以上のように神妙に言い立てなければ、或いは初枝女史の御不興を蒙《こう》むるやも計り難いので、おっかな、びっくり、心にも無い悠遠な事どものみを申し述べました。そもそも初枝女史は、実に筆者の実姉にあたり、かつまた、筆者のフランス語の教師なのでありますから、筆者は、つねにその御識見にそむかざるよう、鞠躬如《きっきゅうじょ》として、もっぱらお追従《ついしょう》に之《これ》努めなければなりませぬ。長幼、序ありとは言いながら、幼者たるもの、また、つらい哉。さて、ラプンツェルは、以上述べてまいりましたように、あきらめを知らぬ無智な女性でありますから、自分が、もはや、ひとから愛撫される資格を失ったと思うより早く、いっそ死にたいと願っています。生きる事は、王子に愛撫される一事だと思い込んでいる様子なので手がつけられません。
 けれども王子は、いまや懸命であります。人は苦しくなると、神においのりするものでありますが、もっと、ぎゅうぎゅう苦しくなると、悪魔にさえ狂乱の姿で取り縋《すが》りたくなるものです。王子は、いま、せっぱ詰まって、魔法使いの汚い老婆に、手を合せんばかりにして頼み込んでいるのであります。
「生かしてやってくれ!」と油汗を流して叫びました。悪魔に膝《ひざ》を屈して頼み込んでしまったのであります。しんから愛している人のいのちを取りとめる為には、自分のプライドも何も、全部捨て売りにしても悔いない王子さま。けなげでもあり、また純真可憐な王子さま。老婆は、にやりと笑いました。
「よろしい。ラプンツェルを、末永く生かして置いてあげましょう。わしのような顔になっても、お前さまは、やっぱりラプンツェルを今までどおりに可愛がってあげるのだね?」
 王子は、額の油汗を手のひらで乱暴に拭《ぬぐ》って、
「顔。私には、いまそんな事を考えている余裕がない。丈夫なラプンツェルを、いま一度見たいだけだ。ラプンツェルは、まだ若いのだ。若くて丈夫でさえあったら、どんな顔でも醜い筈は無い。さあ、早くラプンツェルを、もとのように丈夫にしてやっておくれ。」と、堂々と言ってのけたが、眼には涙が光っていました。美しいままで死なせるのが、本当の深い愛情なのかも知れぬ、けれども、ああ、死なせたくはない、ラプンツェルのいない世界は真暗闇だ、呪《のろ》われた宿命を背負っている女の子ほど可愛いものは無いのだ、生かして置きたい、生かして、いつまでも自分の傍にいさせたい、どんなに醜い顔になってもかまわぬ、私はラプンツェルを好きなのだ、不思議な花、森の精、嵐気《らんき》から生れた女体、いつまでも消えずにいてくれ、と哀愁《あいしゅう》やら愛撫やら、堪えられぬばかりに苦しくて、目前の老婆さえいなかったら、ラプンツェルの痩せた胸にしがみつき声を惜しまずに泣いてみたい気持でした。
 老婆は、王子の苦しみの表情を、美しいものでも見るように、うっとり眼を細めて、気持よさそうに眺めていました。やがて、「よいお子じゃ。」と嗄《しわが》れた声で呟きました。「なかなか正直なよいお子じゃ。ラプンツェル、お前は仕合せな女だね。」
「いいえ、あたしは不幸な女です。」と病床のラプンツェルは、老婆の呟きの言葉を聞きとって応えました。「あたしは魔法使いの娘です。王子さまに可愛がられると、それだけ一そう強く、あたしは自分の卑しい生れを思い知らされ、恥ずかしく、つらくって、いつも、ふるさとが懐《なつ》かしく森の、あの塔で、星や小鳥と話していた時のほうが、いっそ気楽だったように思われるのです。あたしは、此のお城から逃げ出して、あの森の、お婆さんのところへ帰ってしまおうと、これまで幾度、考えたかわかりません。けれども、あたしは王子さまと離れるのが、つらかった。あたしは、王子さまを好きなのです。いのちを十でも差し上げたい。王子さまは、とても優しい佳いお方です。あたしは、どうしても王子さまとお別れする事が出来ず、きょうまで愚図愚図、このお城にとどまっていたのです。あたしは、仕合せではなかった。毎日毎日が、あたしにとって地獄でした。お婆さん。女は、しんから好きなおかたと連れ添うものじゃないわ。ちっとも、仕合せではありません。ああ、死なせて下さい。あたしは王子さまと生きておわかれする事は、とても出来そうもありませんから、死んでおわかれするのです。あたしがいま死ぬと、あたしも王子さまも、みんな幸福になれるのです。」
「それは、お前のわがままだよ。」と老婆は、にやにや笑って言いました。その口調には情の深い母の響きがこもっていました。「王子さまは、お前がどんなに醜い顔になっても、お前を可愛がってあげると約束したのだ。たいへんな熱のあげかたさ。えらいものさ。こんな案配《あんばい》じゃ、王子さまは、お前に死なれたら後を追って死ぬかも知れんよ。まあ、とにかく、王子さまの為にも、もう一度、丈夫になってみるがよい。それからの事は、またその時の事さ。ラプンツェル、お前は、もう赤ちゃんを産んだのだよ。お母ちゃんになったのだよ。」
 ラプンツェルは、かすかな溜息をもらして、静かに眼をつぶりました。王子は激情の果、いまはもう、すべての表情を失い、化石のように、ぼんやり立ったままでした。
 眼前に、魔法の祭壇が築かれます。老婆は風のように[#底本では「に」は脱字]素早く病室から出たかと思うと、何かをひっさげてまた現れ、現れるかと思うと消えて、さまざまの品が病室に持ち込まれるのでした。祭壇は、四本のけものの脚に拠って支えられ、真紅の布で覆われているのですが、その布は、五百種類の、蛇の舌を鞣《なめ》して作ったもので、その真紅の色も、舌からにじみ出た血の色でした。祭壇の上には、黒牛の皮で作られたおそろしく大きな釜《かま》が置かれて、その釜の中には熱湯が、火の気も無いのに、沸々と煮えたぎって吹きこぼれるばかりの勢いでありました。老婆は髪を振り乱しその大釜の周囲を何やら呪文《じゅもん》をとなえながら駈けめぐり駈けめぐり、駈けめぐりながら、数々の薬草、あるいは世にめずらしい品々をその大釜の熱湯の中に投げ込むのでした。たとえば、太古より消える事のなかった高峯の根雪、きらと光って消えかけた一瞬まえの笹の葉の霜《しも》、一万年生きた亀の甲、月光の中で一粒ずつ拾い集めた砂金、竜の鱗《うろこ》、生れて一度も日光に当った事のないどぶ鼠の眼玉、ほととぎすの吐出した水銀、蛍《ほたる》の尻の真珠、鸚鵡《おうむ》の青い舌、永遠に散らぬ芥子《けし》の花、梟《ふくろう》の耳朶《みみたぶ》、てんとう虫の爪、きりぎりすの奥歯、海底に咲いた梅の花一輪、その他、とても此の世で入手でき難いような貴重な品々を、次から次と投げ込んで、およそ三百回ほど釜の周囲を駈けめぐり、釜から立ち昇る湯気が虹のように七いろの色彩を呈して来た時、老婆は、ぴたりと足をとどめ、「ラプンツェル!」と人が変ったような威厳のある口調で病床のラプンツェルに呼びかけました。「母が一生に一度の、難儀の魔法を行います。お前も、しばらく辛抱して!」と言うより早くラプンツェルに躍りかかり、細長いナイフで、ぐさとラプンツェルの胸を突き刺し、王子が、「あ!」と叫ぶ間もなく、痩せ衰えて紙ほど軽いラプンツェルのからだを両手で抱きとって眼より高く差し挙げ、どぶんと大釜の中に投げ込みました。一声かすかに、鴎《かもめ》の泣き声に似た声が、釜の中から聞えた切りで、あとは又、お湯の煮えたぎる音と、老婆の低い呪文の声ばかりでありました。
 あまりの事に、王子は声もすぐには出ませんでした。ほとんど呟くような低い声でようやく、
「何をするのだ! 殺せとは、たのまなかった。釜で煮よとは、いいつけなかった。かえしてくれ。私のラプンツェルを返してくれ。おまえは、悪魔だ!」とだけは言ってみたものの、それ以上、老婆に食ってかかる気力もなく、ラプンツェルの空のベッドにからだを投げて、わあ! と大声で、子供のように泣き出しました。
 老婆は、それにおかまいなく、血走った眼で釜を見つめ、額から頬から頸《くび》から、だらだら汗を流して一心に呪文をとなえているのでした。ふっと呪文が、とぎれた、と同時に釜の中の沸騰の音も、ぴたりと止みましたので、王子は涙を流しながら少し頭を挙げて、不審そうに祭壇を見た時、嗚呼《ああ》、「ラプンツェル、出ておいで。」という老婆の勝ち誇ったような澄んだ呼び声に応えて、やがて現われた、ラプンツェルの顔。

       その六

 ――美人であった。その顔は、輝くばかりに美しかった。――と長兄は、大いに興奮して書きつづけた。長兄の万年筆は、実に太い。ソーセージくらいの大きさである。その堂々たる万年筆を、しかと右手に握って胸を張り、きゅっと口を引き締め、まことに立派な態度で一字一字、はっきり大きく書いてはいるが、惜しい事には、この長兄には、弟妹ほどの物語の才能が無いようである。弟妹たちは、それゆえ此の長兄を少しく、なめているようなふうがあるけれども、それは弟妹たちの不遜《ふそん》な悪徳であって、長兄には長兄としての無類のよさもあるのである。嘘を、つかない。正直である。そうして所謂《いわゆる》人情には、もろい。いまも、ラプンツェルが、釜から出て来て、そうして魔法使いの婆さんの顔のように醜く恐ろしい顔をしていた等とは、どうしても書けないのである。それでは、あまりにラプンツェルが可哀想だ。王子に気の毒だ、と義憤をさえ感じて、美人であった、その顔は輝くばかりに美しかった、と勢い込んで書いたのであるが、さて、そのあとがつづかない。どうも長兄は、真面目すぎて、それゆえ空想力も甚《はなは》だ貧弱のようである。物語の才能というものは、出鱈目《でたらめ》の狡猾《こうかつ》な人間ほど豊富に持っているようだ。長兄は、謂わば立派な人格者なのであって、胸には高潔の理想の火が燃えて、愛情も深く、そこに何の駈引《かけひき》も打算も無いのであるから、どうも物語を虚構する事に於いては不得手なのである。遠慮無く申せば、物語は、下手くそである。何を書いても、すぐ論文のようになってしまう。いまも、やはり、どうも、演説口調のようである。ただ、まじめ一方である。その顔は輝くばかりに美しかった、と書いて、おごそかに眼をつぶり暫《しばら》く考えてから、こんどは、ゆっくり次のように書きつづけた。物語にも、なんにもなっていないが、長兄の誠実と愛情だけは、さすがに行間に滲《にじ》み出ている。
 ――その顔は、ラプンツェルの顔ではなかった。いや、やっぱりラプンツェルの顔である。しかしながら、病気以前のラプンツェルの、うぶ毛の多い、野薔薇《のばら》のような可憐な顔ではなく、(女性の顔を、とやかく批評するのは失礼な事であるが)いま生き返って、幽かに笑っている顔は、之は草花にたとえるならば、(万物の霊長たる人間の面貌を、植物にたとえるのは無謀の事であるが)まず桔梗《ききょう》であろうか。月見草であろうか。とにかく秋の草花である。魔法の祭壇から降りて、淋しく笑った。品位。以前に無かった、しとやかな品位が、その身にそなわって来ているのだ。王子は、その気高い女王さまに思わず軽くお辞儀をした。
「不思議な事もあるものだ。」と魔法使いの老婆は、首をかしげて呟《つぶや》いた。「こんな筈ではなかった。蝦蟇《がま》のような顔の娘が、釜の中から這って出て来るものとばかり思っていたが、どうもこれは、わしの魔法の力より、もっと強い力のものが、じゃまをしたのに違いない。わしは負けた。もう、魔法も、いやになりました。森へ帰って、あたりまえの、つまらぬ婆として余生を送ろう。世の中には、わしにわからぬ事もあるわい。」そう言って、魔法の祭壇をどんと蹴飛ばし、煖炉《だんろ》にくべて燃やしてしまった。祭壇の諸道具は、それから七日七晩、蒼《あお》い火を挙げて燃えつづけていたという。老婆は、森へ帰り、ふつうの、おとなしい婆さんとして静かに余生を送ったのである。
 これを要するに、王子の愛の力が、老婆の魔法の力に打ち勝ったという事になるのであるが、小生の観察に依れば、二人の真の結婚生活は、いよいよこれから、はじまるもののようである。王子の、今日までの愛情は、極言すれば、愛撫という言葉と置きかえてもいいくらいのものであった。青春の頃は、それもまた、やむを得まい。しかしながら、必ずそれは行き詰まる。必ず危機が到来する。王子と、ラプンツェルの場合も、たしかに、その懐姙、出産を要因として、二人の間の愛情が齟齬《そご》を来《きた》した。たしかに、それは神の試みであったのである。けれども王子の、無邪気な懸命の祈りは、神のあわれみ給うところとなり、ラプンツェルは、肉感を洗い去った気高い精神の女性として蘇生した。王子は、それに対して、思わずお辞儀をしたくらいである。ここだ。ここに、新しい第二の結婚生活がはじまる。曰《いわ》く、相互の尊敬である。相互の尊敬なくして、真の結婚は成立しない。ラプンツェルは、いまは、野蛮の娘ではない。ひとの玩弄物《がんろうぶつ》ではないのである。深い悲しみと、あきらめと、思いやりのこもった微笑を口元に浮べて、生れながらの女王のように落ちついている。王子は、ラプンツェルと、そっと微笑を交しただけで、心も、なごやかになって楽しいのである。夫と妻は、その生涯に於いて、幾度も結婚をし直さなければならぬ。お互いが、相手の真価を発見して行くためにも、次々の危機に打ち勝って、別離せずに結婚をし直し、進まなければならぬ。王子と、ラプンツェルも、此の五年後あるいは十年後に、またもや結婚をし直す事があるかも知れぬが、互いの一筋の信頼と尊敬を、もはや失う事もあるまいから、まずまず万々歳であろうと小生には思われるのである。」
 長兄は、あまり真剣に力をいれすぎて書いたので、自分でも何を言っているのやら、わけがわからなくなって狼狽《ろうばい》した。物語にも何も、なっていない。ぶちこわしになったような気もする。長兄は、太い万年筆を握ったまま、実にむずかしい顔をした。思い余って立ち上り、本棚の本を、あれこれと取り出し、覗いてみた。いいものを見つけた。パウロの書翰集《しょかんしゅう》。テモテ前書の第二章。このラプンツェル物語の結びの言葉として、おあつらいむきであると長兄は、ひそかに首肯《うなず》き、大いにもったい振って書き写した。
 ――この故に、われは望む。男は怒《いか》らず争わず、いずれの処にても潔《きよ》き手をあげて祈らん事を。また女は、羞恥を知り、慎みて宜しきに合《かな》う衣もて己を飾り、編みたる頭髪《かみのけ》と金と真珠と価《あたい》たかき衣もては飾らず、善き業《わざ》をもて飾とせん事を。これ神を敬《うやま》わんと公言する女に適《かな》える事なり。女は凡《すべ》てのこと従順にして静かに道を学ぶべし。われ、女の、教うる事と、男の上に権を執る事を許さず、ただ静かにすべし。それアダムは前に造られ、エバは後に造られたり。アダムは惑わされず、女は惑わされて罪に陥りたるなり。されど女もし慎みて信仰と愛と潔きとに居らば、子を生む事によりて救わるべし。――
 まずこれでよし、と長兄は、思わず莞爾《かんじ》と笑った。弟妹たちへの、よき戒しめにもなるであろう。このパウロの句でも無かった事には、僕の論旨は、しどろもどろで甘ったるく、甚《はなは》だ月並みで、弟妹たちの嘲笑の種にせられたかもわからない。危いところであった。パウロに感謝だ、と長兄は九死に一生を得た思いのようであった。長兄は、いつも弟妹たちへの教訓という事を忘れない。それゆえ、まじめになってしまって、物語も軽くはずまず、必ずお説教の口調になってしまう。長兄には、やはり長兄としての苦しさがあるものだ。いつも、真面目でいなければならぬ。弟妹たちと、ふざけ合う事は、長兄としての責任感がゆるさないのである。
 さて、これで物語は、どうやら五日目に、長兄の道徳講義という何だか蛇足《だそく》に近いものに依って一応は完結した様子である。きょうは、正月の五日である。次男の風邪も、なおっていた。昼すこし過ぎに、長兄は書斎から意気揚々と出て来て、
「さあ、完成したぞ。完成したぞ。」と弟妹たちに報告して歩いて、皆を客間に集合させた。祖父も、にやにや笑いながら、やって来た。やがて祖母も、末弟に無理矢理、ひっぱられてやって来た。母と、さとは客間に火鉢を用意するやら、お茶、お菓子、昼食がわりのサンドイッチ、祖父のウイスキイなど運ぶのにいそがしい。まず末弟から、読みはじめた。祖母は、膝をすすめ、文章の切れめ切れめに、なるほどなるほどという賛成の言葉をさしはさむので、末弟は読みながら恥ずかしかった。祖父は、どさくさまぎれに、ウイスキイの瓶《びん》を自分の傍に引き寄せて、栓を抜き、勝手にひとりで飲みはじめている。長兄が小声で、おじいさん、量が過ぎやしませんかと注意を与えたら、祖父は、もっと小さい声で、ロオマンスは酔うて聞くのが通《つう》なものじゃ、と答えた。末弟、長女、次男、次女、おのおの工夫に富んだ朗読法でもって読み終り、最後に長兄は、憂国の熱弁のような悲痛な口調で読み上げた。次男は、噴き出したいのを怺《こら》えていたが、ついに怺えかねて、廊下へ逃げ出した。次女は、長男の文才を軽蔑し果てたというような、おどけた表情をして、わざと拍手をしたりした。生意気なやつである。
 全部、読み終った頃には、祖父は既に程度を越えて酔っていた。うまい、皆うまい、なかでもルミ(次女の名)がうまかった、とやはり次女を贔屓《ひいき》した。けれども、と酔眼を見ひらき意外の抗議を提出した。
「王子とラプンツェルの事ばかり書いて、王さまと、王妃さまの事には、誰もちっとも触れなかったのは残念じゃ。初枝が、ちょっと書いていたようだが、あれだけでは足りん。そもそも、王子がラプンツェルと結婚出来たのも、またそれから末永く幸福に暮せたのも、みなこれひとえに、王さまと王妃さまの御慈愛のたまものじゃ。王さまと王妃さまに、もし御理解が無かったら、王子とラプンツェルとが、どんなに深く愛し合っていたとしても滅茶苦茶じゃ。だからして、王さまと王妃さまの深き御寛容を無視しては、この物語は成立せぬ。お前たちは、まだ若い。そういう蔭の御理解に気が附かず、ただもう王子さまやラプンツェルの恋慕の事ばかり問題にしている。まだ、いたらんようじゃ。わしは、ヴィクトル・ユーゴーの作品を、せがれにすすめられて愛読したものだが、あれはさすがに隅々まで眼がとどいている。かの、ヴィクトル・ユーゴーは、――」と一段と声を張り挙げた時、祖母に叱られた。子供たちが、せっかく楽しんでいるのに、あなたは何を言うのですか、と叱られ、おまけにウイスキイの瓶とグラスを取り上げられた。祖父の批評は、割合い正確なところもあったようだが、口調が甚だ、だらしなかったので、誰にも支持されず黙殺されてしまった。祖父は急にしょげた。その様子を見かねて母は、祖父に、れいの勲章《くんしょう》を、そっと手渡した。去年の大晦日《おおみそか》に、母は祖父の秘密のわずかな借銭を、こっそり支払ってあげた功労に依って、その銀貨の勲章を授与されていたのである。
「一ばん出来のよかった人に、おじいさんが勲章を授与なさるそうですよ。」と母は、子供たちに笑いながら教えた。母は、祖父にそんな事で元気を恢復《かいふく》させてあげたかったのである。けれども祖父は、へんに真面目な顔になってしまって、
「いや、これは、やっぱり、みよ(母の名)にあげよう。永久に、あげましょう。孫たちを、よろしくたのみますよ。」と言った。
 子供たちは、何だか感動した。実に立派な勲章のように思われた。



底本:「太宰治全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:kumi
2000年3月14日公開
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