青空文庫アーカイブ
狂言の神
太宰治
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから引用文、7字下げ]
-------------------------------------------------------
[#ここから引用文、7字下げ]
なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく悲しき面容をすな。
(マタイ六章十六。)[#右寄せ、3字左]
[#ここで引用文終わり、本文とは3行アキ]
今は亡き、畏友、笠井一について書きしるす。
笠井一。戸籍名、手沼謙蔵。明治四十二年六月十九日、青森県北津軽郡金木町に生れた。亡父は貴族院議員、手沼源右衛門。母は高。謙蔵は、その六男たり。同町小学校を経て、大正十二年青森県立青森中学校に入学。昭和二年同校四学年修了。同年、弘前高等学校文科に入学。昭和五年同校卒業。同年、東京帝大仏文科に入学。若き兵士たり。恥かしくて死にそうだ。眼を閉じるとさまざまの、毛の生えた怪獣が見える。なあんてね。笑いながら厳粛のことを語る。と。
「笠井一」にはじまり、「厳粛のことを語る。と。」にいたるこの数行の文章は、日本紙に一字一字、ていねいに毛筆でもって書きしたためられ、かれの書斎の硯箱のしたに隠されていたものである。案ずるに、かれはこの数行の文章をかれ自身の履歴書の下書として書きはじめ、一、二行を書いているうちに、はや、かれの生涯の悪癖、含羞の火煙が、浅間山のそれのように突如、天をも焦がさむ勢にて噴出し、ために、「なあんてね」の韜晦の一語がひょいと顔を出さなければならぬ事態に立ちいたり、かれ日頃ご自慢の竜頭蛇尾の形に歪めて置いて筆を投げた、というようなふうである。私は、かれの歿したる直後に、この数行の文章に接し、はっと凝視し、再読、三読、さらに持ち直して見つめたのだが、どうにも眼が曇って、ついには、歔欷の波うねり、一字をも読む能わず、四つに折り畳んで、ふところへ、仕舞い込んだものであるが、内心、塩でもまれて焼き焦がされる思いであった。
残念、むねんの情であった。若き兵士たり、それから数行の文章の奥底に潜んで在る不安、乃至は、極度なる羞恥感、自意識の過重、或る一階級への義心の片鱗、これらは、すべて、銭湯のペンキ絵くらいに、徹頭徹尾、月並のものである。私は、これより数段、巧みに言い表わされたる、これら諸感情に就いての絶叫もしくは、嗄れた呟きを、阪東妻三郎の映画のタイトルの中に、いくつでも、いくつでも、発見できるつもりで居る。殊にも、おのが貴族の血統を、何くわぬ顔して一こと書き加えていたという事実に就いては、全くもって、女子小人の虚飾。さもしい真似をして呉れたものである。けれども、その夜あんなに私をくやしがらせて、ついに声たてて泣かせてしまったものは、これら乱雑安易の文字ではなかった。私はこの落書めいた一ひらの文反故により、かれの、死ぬるきわまで一定職に就こう、就こうと五体に汗してあせっていたという動かせぬ、儼たる証拠に触れてしまったからである。二、三の評論家に嘘の神様、道化の達人と、あるいはまともの尊敬を以て、あるいは軽い戯れの心を以て呼ばれていた、作家、笠井一の絶筆は、なんと、履歴書の下書であった。私の眼に狂いはない。かれの生涯の念願は、「人らしい人になりない」という一事であった。馬鹿な男ではないか。一点にごらぬ清らかの生活を営み、友にも厚き好学の青年、創作に於いては秀抜の技量を有し、その日その日の暮しに困らぬほどの財産さえあったのに、サラリイマンを尊び、あこがれ、ついには恐れて、おのが知れる限りのサラリイマンに、阿諛、追従、見るにしのびざるものがあったのである。朝夕の電車には、サラリイマンがぎっしりと乗り込んでいるので、すまないやら、恥かしいやら、こわいやらにて眼のさきがまっくろになってしまって居づらくなり、つぎの駅で、すぐさま下車する、ゲエテにさも似た見ごとの顔を紙のように白ちゃけさせて、おどおど私に語って呉れたが、それから間もなく死んでしまった。風がわりの作家、笠井一の縊死は、やよいなかば、三面記事の片隅に咲いていた。色様様の推察が捲き起ったのだけれども、そのことごとくが、はずれていた。誰も知らない。みやこ新聞社の就職試験に落第したから、死んだのである。
落第と、はっきり、きまった。かれら夫婦ひと月ぶんの生活費、その前夜に田舎の長兄が送ってよこした九十円の小切手を、けさ早く持ち出し、白昼、ほろ酔いに酔って銀座を歩いていた。老い疲れたる帝国大学生、袖口ぼろぼろ、蚊の脛ほどに細長きズボン、鼠いろのスプリングを羽織って、不思議や、若き日のボオドレエルの肖像と瓜二つ。破帽をあみだにかぶり直して歌舞伎座、一幕見席の入口に吸いこまれた。
舞台では菊五郎の権八が、したたるほどのみどり色の紋付を着て、赤い脚絆、はたはたと手を打ち鳴らし、「雉も泣かずば撃たれまいに」と呟いた。嗚咽が出て出て、つづけて見ている勇気がなかった。開演中お静かにお願い申します。千も二千も色様様の人が居るのに、歌舞伎座は、森閑としていた。そっと階段をおり、外へ出た。巷には灯がついていた。浅草に行きたく思った。浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっと、お嫁にもらってあげる、とその店の女中のうちで一ばんの新米、使いはしりをつとめていた眼のすずしい十五六歳の女の子に、そう言って元気をつけてやった。その食堂には、大工や土方人足などがお客であって、角帽かぶった大学生はまったく珍らしかった様子で、この店だけは、いつ来ても大丈夫、六人の女中みんなが、あれこれとかまって呉れた。人からあなどりを受け、ぺしゃんこに踏みにじられ、ほうり出されたときには、書物を売り、きまって三円なにがしのお金をつくり、浅草の人ごみのなかへまじり込む。その店のちょうし一本十三銭のお酒にかなり酔い、六人の女中さんときれいに遊んだ。その六人の女中のうち、ひとり目立って貧しげな女の子に、声高く夫婦約束をしてやって、なおそのうえ、女の微笑するようないつわりごとを三つも四つも、あらわでなく誓ってやったものだから、女の子、しだいに大学生を力とたのんだ。それから奇蹟があらわれた。女の子、愛されているという確信を得たその夜から、めきめき器量をあげてしまった。三年まえの春から夏まで、百日も経たぬうちに、女の、髪のかたちからして立派になり、思いなしか鼻さえ少したかくなった。額も顎も両の手も、ほんのり色白くなったようで、お化粧が巧くなったのかも知れないが、大学生を狂わせてはずかしからぬ堂々の貫禄をそなえて来たのだ。お金の有る夜は、いくらでも、いくらでも、その女のひとにだまされて、お金を無くする。そうして、女のひとにだまされるということは、よろこばしいものだとつくづく思った。女は、大学生から貰ったお金は一銭もわが身につけず、ほうばいの五人の女中にわけてやり、ばたばたと脛の蚊を団扇で追いはらって浅草まつりが近づいたころには、その食堂のかんばん娘になっていた。神のせいではない。人の力がヴィナスを創った。女の子は、せわしくなるにつれて恩人の大学生からしだいに離れ、はなれた、とたんに大学生の姿も見えずなった。大学生には困難の年月がはじまりかけていたのである。
その夜、歌舞伎座から、遁走して、まる一年ぶりのひさごやでお酒を呑みビールを呑みお酒を呑み、またビールを呑み、二十個ほどの五十銭銀貨を湯水の如くに消費した。三年まえに、ここではっきりと約束しました。ぼくは、出世をいたしました。よい子だから、けさの新聞を持っておいで。ほら、ね。ぼくの写真が出ています。これはね、ぼくの小説本の広告ですよ。写真、べそかいてる? そうかなあ。微笑したところなんだがなあ。約束、わすれた? あ、ちょいと、ちょいと。これは、新聞さがして持って来て呉れたお礼ですよ。まったく気がるに、またも二、三円を乱費して、ふと姉を思い、荒っぽい嗚咽が、ぐしゃっと鼻にからんで来て、三十前後の新内流しをつかまえ、かれにお酒をすすめたが、かれ、客の若さに油断して、ウイスキイがいいとぜいたく言った。おや、これは、しっけい、しっけい。若いお客は、気まえよく、あざむかれてやってウイスキイを一杯のませ、さらにそのうえ、何か食べたいものはないかと聞くのである。新内いよいよ気をゆるし、頬杖ついて、茶わんむしがいいなと応え、黒眼鏡の奥の眼が、ちろちろ薄笑いして、いまは頗る得意げであった。さて、新内さん。あなたというお人は、根からの芸人ではあるまい。なにかしら自信ありげの態度じゃないか。いずれは、ゆいしょ正しき煙管屋の若旦那。三代つづいた鰹節問屋の末っ子。ちがいますか? くだんの新内、薄化粧の小さな顔をにゅっと近よせ、あたりはばかるひそひそ声で、米屋、米屋、と囁いた。そこへ久保田万太郎があらわれた。その店の、十の電燈のうち七つ消されて、心細くなったころ、鼻赤き五十を越したくらいの商人が、まじめくさってはいって来て、女中みんなが、おや、兄さん、と一緒に叫んで腰を浮かせた。立ちあがって、ちょっとかれに近づき、失礼いたします。久保田先生ではございませんか。私は、ことし帝大の文科を卒業いたします者で、少しは原稿も売れてまいりましたが、未だほとんど無名でございます。これから、よろしく、教えて下さい。直立不動の姿勢でもってそうお願いしてしまったので、商人、いいえ人違いですと鼻のさきで軽く掌を振る機会を失い、よし、ここは一番、そのくぼたとやらの先生に化けてやろうと、悪事の腹を据えたようである。
――ははは。ま。掛けたまえ。
――はっ。
――のみながら。
――はっ。
――ひとつ。
――はっ。という工合いに、兵士の如く肩をいからせ、すすめられた椅子に腰をおろして、このようなところで先生にお逢いするとは実もって意外である。先生は毎晩ここにおいでになるのでしょうか。私は、先夜、先生の千人風呂という作品を拝誦させていただきましたが、やはり興奮いたしまして、失礼ながらお手紙さしあげた筈でございますが。
――あれは君、はずかしいものだよ。
――しつれいいたしました。私の記憶ちがいでございました。千人風呂は葛西善蔵氏の作品でございました。
――まったくもって。
わけのわからぬ問答に問答をかさねて、そのうちに、久保田氏は、精神とかジャンルとか現象とかのこむずかしい言葉を言い出し、若い作家の読書力減退についてのお説教がはじまり、これは、まさしく久保田万太郎なのかもしれないなどと思ったら酔いも一時にさめはて、どうにも、つまらなくなって来て、蹌踉と立ちあがり、先生、それではごめん下さい。これから旅に出るのです。ええ、このお金がなくなってしまうところまで、と言いつつ内ポケットから二三枚の十円紙幣をのぞかせて、見せてやって、外へ出た。
あああ。今夜はじつに愉快であった。大川へはいろうか。線路へ飛び込もうか。薬品を用いようか。新内と商人と、ふたりの生活人に自信を与えた善根によっても、地獄に堕ちるうれいはない。しずかな往生ができそうである。けれども、わが身が円タク拾って荻窪の自宅へ易々とかえれるような状態に在るうちは、心もにぶって、なかなか死ねまい。とにかく東京から一歩でも、半歩でもなんでも外へ出る。何卒して、今夜のうちに、とりかえしのつかないところまで行ってしまって置かなければ。よこはまほんもく二円はどうだ。いやならやめろ。二円おんの字、承知のすけ。ぶんぶん言って疾進してゆく、自動車の奥隅で、あっ、あっと声を放って泣いていた。今は亡き、畏友、笠井一もへったくれもなし。ことごとく、私、太宰治ひとりの身のうえである。いまにいたって、よけいの道具だてはせぬことだ。私は、あした死ぬるのである。はじめに意図して置いたところだけは、それでも、言って知らせてあげよう。私は、日本の或る老大家の文体をそっくりそのまま借りて来て、私、太宰治を語らせてやろうと企てた。自己喪失症とやらの私には、他人の口を借りなければ、われに就いて、一言一句も語れなかった。たち拠らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎、かれの年少の友、笠井一なる夭折の作家の人となりを語り、そうして、その縊死のあとさきに就いて書きしるす。その老大家の手記こそは、この「狂言の神」という一篇の小説に仕上るしくみになっていたのに、ああ、もはやどうでもよくなった。文章に一種異様の調子が出て来て、私はこのまま順風を一ぱい帆にはらんで疾駆する。これぞ、まことのロマン調。すすまむ哉。あす知れぬいのち。自動車は、本牧の、とあるホテルのまえにとまった。ナポレオンに似たひとだな、と思っていたら、やがてその女のひとの寝室に案内され枕もとを見ると、ナポレオンの写真がちゃんと飾られていた。誰しもそう思うのだなと、やっとうれしく、あたたかくなって来た。
その夜、ナポレオンは、私の知らない遊びかたを教えて呉れた。
あくる朝は、雨であった。窓をひらけば、ホテルの裏庭。みどりの草が一杯に生えて、牧場に似ていた。草はらのむこうには、赤濁りに濁った海が、低い曇天に押しつぶされ、白い波がしらも無しに、ゆらりゆらり、重いからだをゆすぶっていて、窓のした、草はらのうえに捨てられてある少し破れた白足袋は、雨に打たれ、女の青い縞のはんてんを羽織って立っている私は、錐で腋の下を刺され擽ぐられ刺されるほどに、たまらない思いであった。ハクランカイをごらんなさればよろしいに、と南国訛りのナポレオン君が、ゆうべにかわらぬ閑雅の口調でそうすすめて、にぎやかの万国旗が、さっと脳裡に浮んだが、ばか、大阪へ行く、京都へも行く、奈良へも行く、新緑の吉野へも行く、神戸へ行く、ナイヤガラ、と言いかけて、ははははと豪傑笑いの真似をして見せた。しっけい。さようなら、あら、雨。はい、お傘。私は好かれているようであった。その傘を、五円で買います。みんながどっと声をたてて笑い崩れた。ああ、ここで遊んでいたい。遊んでいたい。額がくるめく。涙が煮える。けれども私は、辛抱した。お金がないのである。けさ、トイレットにて、真剣にしらべてみたら、十円紙幣が二枚に五円紙幣が一枚、それから小銭が二、三円。一夜で六、七十円も使ったことになるが、どこでどう使ったのか、かいもく見当つかず、これだけの命なのだ。まずしい気持ちで死にたくはなかった。二、三十円を無雑作にズボンのポケットへねじ込んであるが儘にして置いて死ぬのだ。倹約しなければいけない、と生れてはじめてそう思った。花の絵日傘をさして停車場へいそいだのである。停車場の待合室に傘を捨て、駅の案内所で、江の島へ行くには? と聞いたのであるが、聞いてしまってから、ああ、やっぱり、死ぬるところは江の島ときめていたのだな、と素直に首肯き、少し静かな心地になって、駅員の教えて呉れたとおりの汽車に乗った。
ながれ去る山山。街道。木橋。いちいち見おぼえがあったのだ。それでは七年まえのあのときにも、やはりこの汽車に乗ったのだな、七年まえには、若き兵士であったそうな。ああ。恥かしくて死にそうだ。或る月のない夜に、私ひとりが逃げたのである。とり残された五人の仲間は、すべて命を失った。私は大地主の子である。地主に例外は無い。等しく君の仇敵である。裏切者としての厳酷なる刑罰を待っていた。撃ちころされる日を待っていたのである。けれども私はあわて者。ころされる日を待ち切れず、われからすすんで命を断とうと企てた。衰亡のクラスにふさわしき破廉恥、頽廃の法をえらんだ。ひとりでも多くのものに審判させ嘲笑させ悪罵させたい心からであった。有夫の婦人と情死を図ったのである。私、二十二歳。女、十九歳。師走、酷寒の夜半、女はコオトを着たまま、私もマントを脱がずに、入水した。女は、死んだ。告白する。私は世の中でこの人間だけを、この小柄の女性だけを尊敬している。私は、牢へいれられた。自殺幇助罪という不思議の罪名であった。そのときの、入水の場所が、江の島であった。(さきに述べた誘因のためにのみ情死を図ったのではなしに、そのほかのくさぐさの事情がいりくんでいたことをお知らせしたくて、私は、以下、その夜の追憶を三枚にまとめて書きしるしたのであるが、しのびがたき困難に逢着し、いまはそっくり削除した。読者、不要の穿鑿をせず、またの日の物語に期待して居られるがよい)私は、煮えくりかえる追憶からさめて、江の島へ下車した。
風の勁い日で、百人ほどの兵士が江の島へ通ずる橋のたもとに、むらがって坐り、ひとしく弁当をたべていた。こんなにたくさんの人のまえで海へ身を躍らせたならば、ただいたずらに泳ぎ自慢の二三の兵士に名をあげさせるくらいの結果を得るだけのことであろう。私は、荒れている灰色の海をちらと見ただけで、あきらめた。橋のたもとの望富閣という葦簾を張りめぐらせる食堂にはいり、ビイルを一本そう言った。ちろちろと舌でなめるが如く、はりあいのない呑みかたをしながら、乱風の奥、黄塵に烟る江の島を、まさにうらめしげに、眺めていたようである。背を丸くし、頬杖ついて、三十分くらい、じっとしていた。このまま坐って死んでゆきたいと、つくづく思った。新聞の一つ一つの活字が、あんなに穢れて汚く思われたことがなかった。鼠いろのスプリング。細長い帝国大学生。背中を丸くして、ぼんやり頬杖をつく習癖がある。自殺しようと家出をした。そのような記事がいま眼のまえにあらわれ出ても、私は眉ひとつうごかすまい。むごいことには、私、おどろく力を失ってしまっていた。私に就いての記事はなかったけれども、東郷さんのお孫むすめが、わたくしひとりで働いて生活したいと言うて行方しれずになった事実が、下品にゆがめられて報告されていた。兵士たちが望富閣の食堂へぞろぞろとはいって来て、あまり勢いよくはいって来たので私のテエブルをころがした。コップもビイルの壜も、こわれなかったけれど、たしかに未だ半分以上も壜に残っていたビイルが白い泡を立てつつこぼれてしまった。二、三の女中は、そのもの音を聞き、その光景を背のびして見ていながら、当りまえの様な顔をして、なんにもものを言わなかった。トオキイの音が、ふっと消えて、サイレントに変った瞬間みたいに、しんとなって、天鵞絨のうえを猫が歩いているような不思議な心地にさせられた。狂気の前兆のようにも思われ、気持ちがけわしくなったので、それでも、わざとゆっくりと立ちあがり、お勘定してもらって外へ出た。たちまち烈風。スプリングの裾がぱっとめくりあげられ、一握の小砂利が頬めがけて叩きつけられぱちぱち爆ぜた。ぐっと眼をつぶって、今夜死ぬるとわれに囁き、みんながみんな遠くへ去っていって、世界に私がひとりだけ居るような気持ちで、ながいこと道路のまんなかに立ちつくした。眼をあいたときには、まったく意志を失い、幽霊のように歩いて、磯へ出た。真くろい雲が充満し、空は暗くて低かった。見渡すかぎり、人の影がなかった。腐りかけた漁船がひとつ、砂浜に投げ捨てられ、ひっくりかえって、まっくろい腹を見せてあるほかには、犬ころ一匹いなかった。私は、ズボンのポケットに両手をつっこみ、同じ地点をいつまでもうろうろ歩きまわり、眼のまえの海の形容詞を油汗ながして捜査していた。ああ、作家をよしたい。もがきあがいて捜しあてた言葉は、「江の島の海は、殺風景であった」私はぐるっと海へ背をむけた。ここの海は浅く、飛びこんだところで、膝小僧をぬらすくらいのものであろう。私は、しくじりたくなかった。よしんばしくじっても、そのあと、そ知らぬふりのできるような賢明の方法を択ばなければ。未遂で人に見とがめられ、縄目の恥辱を受けたくなかった。それからどれほど歩いたのか。百種にあまる色さまざまの計画が両国の花火のようにぱっとひらいては消え、ひらいては消え、これときまらぬままに、ふらふら鎌倉行の電車に乗った。今夜、死ぬのだ。それまでの数時間を、私は幸福に使いたかった。ごっとん、ごっとん、のろすぎる電車にゆられながら、暗鬱でもない、荒涼でもない、孤独の極でもない、智慧の果でもない、狂乱でもない、阿呆感でもない、号泣でもない、悶悶でもない、厳粛でもない、恐怖でもない、刑罰でもない、憤怒でもない、諦観でもない、秋涼でもない、平和でもない、後悔でもない、沈思でもない、打算でもない、愛でもない、救いでもない、言葉でもってそんなに派手に誇示できる感情の看板は、ひとつも持ち合せていなかった。私は、深刻でなかった。電車の隅で一賤民のごとく寒さにふるえて眼玉をきょろきょろうごかしていただけのことであったのである。途中、青松園という療養院のまえをとおった。七年まえの師走、月のあかい一夜、女は死に、私は、この病院に収容された。ひとつきほど、ここで遊んで、からだの恢復をはかったのであるが、そのひとつき間の生活は、ほのかにではあったけれども、私に生きているよろこびを知らせて呉れた。それからの七年間、私にとっては五十年、いや十種類の生涯のようにも思われたほど、さまざまの困難が起り、そのときそのときの私の辛抱もまったくむだのようであって、私にはあたりまえの生活ができず、ふたたび死ぬる目的を以て、こんどはひとりでやって来た。療養院にも七年の風雨が見舞っていて、純白のペンキの塗られていた離宮のような鉄の門は鼠いろに変色し、七年間、私の眼にいよいよ鮮明にしみついていた屋根の瓦の燃えるような青さも、まだらに白く禿げて、ところどころを黒い日本瓦で修繕され、きたならしく、よそよそしく、まったく他人の顔であった。七年間、ほかの人から見たならば、私の微笑は、私の姿態は、この建築物よりいっそう汚れて見えるだろう。おや? 不思議のこともあるものだ。あの岩がなくなっているのである。ねえ、この岩が、お母さんのような気がしない? あたたかくて、やわらかくて、この岩、好きだな、女のひとはそう言って撫でまわして、私も同感であったあのひらたい岩がなくなった。飛びこむ直前までそのうえで遊びたわむれていたあの岩がなくなった。こんな筈はない。どちらかが夢だ。がったん、電車は、ひとつ大きくゆれて見知らぬ部落の林へはいった。微笑ましきことには、私はその日、健康でさえあったのだ。かすかに空腹を感じたのである。どこでもいい、にぎやかなところへ下車させて下さい、と車掌さんにたのんで、ほどなく、それではここで御降りなさいと教えられ、あたふたと降りたところは長谷であった。雨が頬を濡らして呉れておお清浄になったと思えて、うれしかった。成熟した女学生がふたり、傘がなくて停車場から出られず困惑の様子で、それでもくつくつ笑いながら、一坪ほどの待合室の片隅できっちり品よく抱き合っていた。もし傘が一本、そのときの私にあったならば、私は死なずにすんだのかも知れない。溺れる者のわら一すじ。深く、けわしく、よろめいた。誓う。あなたのためには身を粉にして努める。生きてゆくから、叱らないで下さい。けれどもそれだけのことであった。語らざれば、うれい無きに似たりとか。その二人の女のうち笹眉をひそめて笑う小柄のひとに、千万の思いをこめて見つめる私の瞳の色が、了解できずに終ったようだ。ひらっと、できるだけ軽快に身をひるがえして雨の中へおどり出た。つばめのようにはいかなかった。あやうく滑ってころぶところであった。ふりかえりたいな。よせ! すぐ真向いの飲食店へさっさとはいった。薄暗い食堂の壁には、すてきに大きい床屋鏡がはめこまれていて、私の顔は黒眼がち、人なつかしげに、にこにこしていた。意外にも福福しい顔であったのだ。一刻も早く酔いしれたく思って、牛鍋を食い散らしながら、ビイルとお酒とをかわるがわるに呑みまぜた。君、茶化してしまえないものがあったのである。呑んでも呑んでも酔えなかった。信じ給え。鏡の中のわが顔に、この世ならず深く柔和の憂色がただよい、それゆえに高雅、車夫馬丁を常客とする悪臭ふんぷんの安食堂で、ひとり牛鍋の葱をつついている男の顔は、笑ってはいけない、キリストそのままであったという。ひるごろ私は、作家、深田久弥氏のもとをたずねた。かれの、はっきりすぐれたる或る一篇の小説に依り、私はかれと話し合いたく願っていた。相州鎌倉二階堂。住所も、忘れてはいなかった。三度、ながい手紙をさしあげて、その都度、あかるい御返事いただいた。私がその作家を好きであるのと丁度おなじくらいに、その作家もまた私を好きなのだ、といつのまにか、ひとりできめてしまっていた。のこり少い時間である。仕合せのことに用いなければいけない。私は、一秒の猶予もなしに、態度をきめた。そのときの私には、深田氏訪問以上の仕合せを考案しているいとまがなかった。雨はあがり、雲は矢のように疾駆し、ところどころ雲の切れま、洗われて薄い水いろの蒼空が顔を見せて、風は未だにかなり勁く、無法者、街々を走ってあるいていたが、私も負けずに風にさからってどんどん大股であるいてやった。恥ずかしいほどの少年になってしまった。千里の馬には千里の糧。たわむれに呟いて、たばこ屋に立ち寄り、キャメルという高価の外国煙草を二個も買い、不良少年のふりをして、こっそり吸っては、あわててもみ消す。腰のまがった小さい巡査が、両手をうしろに組んで街道のまんなかをぶらりぶらり、風に吹かれて歩いていた。私は二階堂への路順をたずねた。私は慧眼。この老巡査は、はたして忘れ得ぬ人たちの中のひとりであった。私の手を引かんばかり、はにかむような咄吃の口調で繰りかえし繰りかえし教えて呉れた。なに、二階堂はすぐそのさきに見えているのだ。老憊の一生活人へ、まこと敬虔の心でお礼を申し述べ、教えられたとおりの路をあやまたずに三曲りして、四曲りした角に、なんなく深田久弥のつつましき門札を見つけた。かねて思いはかっていたよりも十倍くらいきちんとしたお宅だったので、これは、これは、とひとりごとを言いながら、内心うれしく、微笑とめてもとまらなかった。石の段段をのぼり、字義どおりに門をたたいて、出て来た女中に大声で私の名前を知らせてやった。うれしや、主人は、ご在宅である。右手の甲で額の汗をそっと拭うた。女中に案内されて客間にとおされ、わざと秀才の学生らしく下手にきちんと坐って、芝生の敷きつめられたお庭を眺め、筆一本でも、これくらいの生活ができるのだ、とずいぶん気強く思ったものだ。こよい死ぬる者にとってはふさわしからぬ安堵の溜息がほっと出て、かるく狼狽していたとき、蓬髪花顔のこの家のあるじが写真のままの顔して出て来られて、はじめての挨拶をかわしたのであったが、私には、はじめての人のようにも思われず、おととしの春にふと私から遠ざかっていった友人の久保君も、三四年まえのたしか今頃の季節に、きのう深田久弥に逢って来たと言い、日本人の作家には全く類がないくらいの、文学でないホオム・ライフを持っていて、あまり温順なので、こちらが腹の中で深田久弥の間抜野郎と呟いて笑っているようなひどくいけない錯覚がひらひらちらついて困惑するほど、それほどたまらなく善良の人がらなのだよ、と私に教えて呉れたことがあったけれど、いま私も、こうして対坐して、ゆくりなく久保君の身のうえと、それから、「深田久弥の間抜野郎」を思い出し、悖礼の瘠狗、千石船に乗った心地で、ずいぶん油断をしてしまった。いまさら、なにも、論戦しなければならぬ必要もなし、すべての言葉がめんどうくさくて、ながいこと二人、庭を眺めてばかりいた。私は形而下的にも四肢を充分にのばして、そうして、今のこの私の豊沃を、いったい、誰に教えてあげようか、保田與重郎氏は涙さえ浮べて、なんどもなんども首肯いて呉れるだろう。保田のそのうしろ姿を思えば、こんどは私が泣きたくなって、
――だんだん小説がむずかしくなって来て困ります。
――そう。……でも。
口ごもって居られた。不服のようであった。ヴィルヘルム・マイスタアは、むずかしく考えて書いた小説ではなかった、と私はわれに優しく言い聞かせ、なるほど、なるほどと了解して、そうして、しずかな、あたたかな思いをした。私は、ふと象戯をしたく思って、どうでしょうと誘ったら、深田久弥も、にこにこ笑いだして、気がるく応じた。日本で一ばん気品が高くて、ゆとりある合戦をしようと思った。はじめは私が勝って、つぎには私が短気を起したものだから、負けた。私のほうが、すこし強いように思われた。深田久弥は、日本に於いては、全くはじめての、「精神の女性」を創った一等の作家である。この人と、それから井伏鱒二氏を、もっと大事にしなければ。
――一対一ということにして。
私は象戯の駒を箱へしまいながら、
――他日、勝負をつけましょう。
これが深田氏の、太宰についてのたった一つの残念な思い出話になるのだ。「一対一。そのうち勝負をつけましょう、と言い、私もそれをたのしみにしていたのに。」
ここを訪うみちみち私は、深田氏を散歩に誘い出して、一緒にお酒をたくさん呑もう悪い望や、そのほかにも二つ三つ、メフィストのささやきを準備して来た筈であったのに、このような物静かな生活に接しては、われの暴い息づかいさえはばかられ、一ひらの桜の花びらを、掌に載せているようなこそばゆさで、充分に伸ばした筈の四肢さえいまは萎縮して来て、しだいしだいに息苦しく、そのうちにぽきんと音たててしょげてしまった。なんにも言えず飼い馴らされた牝豹のように、そのままそっと、辞し去った。お庭の満開の桃の花が私を見送っていて、思わずふりかえったが、私は花を見て居るのではなかった。その満開の一枝に寒くぶらんとぶらさがっている縄きれを見つめていた。あの縄をポケットに仕舞って行こうか。門のそとの石段のうえに立って、はるか地平線を凝視し、遠あかねの美しさが五臓六腑にしみわたって、あのときは、つくづくわびしく、せつなかった。ひきかえして深田久弥にぶちまけ、二人で泣こうか。ばか。薄きたない。間一髪のところで、こらえた。この編上げの靴の紐を二本つなぎ合せる。短かすぎるようならば、ズボン下の紐が二尺。きめてしまって、私は、大泥棒のように、どんどん歩いた。黄昏の巷、風を切って歩いた。路傍のほの白き日蓮上人、辻説法跡の塚が、ひゅっと私の視野に飛び込み、時われに利あらずという思いもつかぬ荒い言葉が、口をついて出て、おや? と軽くおどろき、季節に敗けたから死ぬるのか、まさか、そうではあるまいな? と立ちどまって、詰問した。否、との応えを得て、こんどはのろのろ歩きはじめた。死んでしまったほうが安楽であるという確信を得たならば、ためらわずに、死ね! なんのとがもないのに、わがいのちを断って見せるよりほかには意志表示の仕方を知らぬ怜悧なるがゆえに、慈愛ふかきがゆえに、一掬の清水ほど弱い、これら一むれの青年を、ふびんに思うよ。死ぬるがいいとすすめることは、断じて悪魔のささやきでないと、立証し得るうごかぬ哲理の一体系をさえ用意していた。そうして、その夜の私にとって、縊死は、健康の処生術に酷似していた。綿密の損得勘定の結果であった。私は、猛く生きとおさんがために、死ぬるのだ。いまさら問答は無用であろう。死ぬることへ、まっすぐに一すじ、明快、完璧の鋳型ができていて、私は、鎔かされた鉛のように、鋳型へさっと流れ込めば、それでよかった。何故に縊死の形式を選出したのか。スタヴロギンの真似ではなかった。いや、ひょっとすると、そうかも知れない。自殺の虫の感染は、黒死病の三倍くらいに確実で、その波紋のひろがりは、王宮のスキャンダルの囁きよりも十倍くらい速かった。縄に石鹸を塗りつけるほどに、細心に安楽の往生を図ることについては、私も至極賛成であって、甥の医学生の言に依っても、縊死は、この五年間の日本に於いて八十七パアセント大丈夫であって、しかもそのうえ、ほとんど無苦痛なそうではないか。いちどは薬品で失敗した。いちどは入水して失敗した。日本のスタヴロギン君には、縊死という手段を選出するのに、永いこと部屋をぐるぐる歩きまわってあれこれと思い煩う必要がなかったのである。宿屋へ泊って、からだを洗い、宿の、ま新らしい浴衣を着て、きれいに死にたく思ったけれども、私のからだが、その建築物に取りかえしのつかぬ大きい傷を与え、つつましい一家族の、おそらくは五、六人のひとを悲惨の境遇に蹴落すのだということに思いいたり、私は鎌倉駅まえの花やかな街道の入口まで来て、くるりと廻れ右して、たったいま、とおって来たばかりの小暗き路をのそのそ歩いた。駅の附近のバアのラジオは私を追いかけるようにして、いまは八時に五分まえである、台湾はいま夕立ち、日本ヨイトコの実況放送はこれでお仕舞いである、と教えた。おそくまでまごついて居れば、すぐにも不審を起されるくらいに、人どおりの無い路であった。善は急げ、というユウモラスな言葉が胸に浮んで、それから、だしぬけに二、三の肉親の身の上が思い出され、私は道のつづきのように路傍の雑木林へはいっていった。ゆるい勾配の、小高い岡になっていて、風は、いまだにおさまらず、さっさつと雑木の枝を鳴らして、少なからず寒く思った。夜の更けるとともに、私の怪しまれる可能性もいよいよ多くなって来たわけである。人がこわくてこわくて、私は林のさらに奥深くへすすんでいった。いってもいっても、からだがきまらず、そのうちに、私のすぐ鼻のさき、一丈ほどの赤土の崖がのっそり立った。見あげると、その崖のうえには、やしろでもあるのか、私の背丈くらいの小さい鳥居が立っていて、常磐木が、こんもりと繁り、その奥ゆかしさが私をまねいて、私は、すすきや野いばらを掻きわけ、崖のうえにゆける路を捜したけれども、なかなか、それらしきものは見当らず、ついには、崖の赤土に爪を立て立て這い登り、月の輪の無い熊、月の輪の無い熊、と二度くりかえして呟いた。やっとのことで崖の上までたどりつき、脚下の様を眺めたら、まばらに散在している鎌倉の街の家々の灯が、手に取るように見えたのだ。熊は、うろうろ場所を捜した。薬品に依って頭脳を麻痺させているわけでもなし、また、お酒に勢いを借りているわけでもない。ズボンのポケットには二十円余のお金がある。私は一糸みだれぬ整うた意志でもって死ぬるのだ。見るがよい。私の知性は、死ぬる一秒まえまで曇らぬ。けれどもひそかに、かたちのことを気にしていたのだ。清潔な憂悶の影がほしかった。私の腕くらいの太さの枝にゆらり、一瞬、藤の花、やっぱりだめだと望を捨てた。憂悶どころか、阿呆づら。しかも噂と事ちがって、あまりの痛苦に、私は、思わず、ああっ、と木霊するほど叫んでしまった。楽じゃないなあ、そう呟いてみて、その己れの声が好きで好きで、それから、ふっとたまらなくなって涙を流した。死ぬる直前の心には様様の花の像が走馬燈のようにくるくるまわって、にぎやかなものの由であるが、けれども私は、さっぱりだめであった。私は釣り上げられたいもりの様にむなしく手足を泳がせた。かたちの間抜けにしんから閉口して居ると、私の中のちゃちな作家までが顔を出して、「人間のもっとも悲痛の表情は涙でもなければ白髪でもなし、まして、眉間の皺ではない。最も苦悩の大いなる場合、人は、だまって微笑んでいるものである。」虫の息。三十分ごとに有るか無しかの一呼吸をしているように思われた。蚊の泣き声。けれども痛苦はいよいよ劇しく、頭脳はかえって冴えわたり、気の遠くなるような前兆はそよともなかった。こうして喉の軟骨のつぶれるときをそれこそ手をつかねて待っていなければいけないのだ。ああ、なんという、気のきかない死にかたを選んだものか。ドストエーフスキイには縊死の苦しさがわからなかった。私は、はっきり眼を開いて、気の遠くなるのをひたすら待った。しかも私は、そのときの己れの顔を知っていたのだ。はっきりと、この眼に見えるのであった。顔一めんが暗紫色、口の両すみから真白い泡を吹いている。この顔とそっくりそのままのふくれた河豚づらを、中学時代の柔道の試合で見たことがあるのだ。そんなに泡の出るほどふんばらずとも、と当時たいへん滑稽に感じていた、その柔道の選手を想起したとたんに私は、ひどくわが身に侮辱を覚え、怒りにわななき、やめ! 私は腕をのばして遮二無二枝につかまった。思わず、けだもののような咆哮が腹の底から噴出した。一本の外国煙草がひと一人の命と立派に同じ価格でもって交換されたという物語。私の場合、まさにそれであった。縄を取去り、その場にうち伏したまま、左様、一時間くらい死人のようにぐったりしていた。蟻の動くほどにも動けなかった。そのときポケットの中の高価の煙草を思い出し、やたらむしょうに嬉しくなって、はじかれたように、むっくり起きた。ふるえる手先で煙草の封をきって一本を口にくわえた。私のすぐうしろ、さらさらとたしかに人の気配がした。私はちっともこわがらず、しばらくは、ただ煙草にふけり、それからゆっくりうしろを振りかえって見たのであるが、小さい鳥居が月光を浴びて象牙のように白く浮んでいるだけで、ほかには、小鳥の影ひとつなかった。ああ、わかった。いまのあのけはいは、おそらく、死神の逃げて行った足音にちがいない。死神さまにはお気の毒であったが、それにしても、煙草というものは、おいしいものだなあ。大家にならずともよし、傑作を書かずともよし、好きな煙草を寝しなに一本、仕事のあとに一服。そのような恥かしくも甘い甘い小市民の生活が、何をかくそう、私にもむりなくできそうな気がして来て、俗的なるものの純粋度、という緑青畑の妖雲論者にとっては頗るふさわしからぬ題目について思いめぐらし、眼は深田久弥のお宅の灯を、あれか、これか、とのんきに捜し需めていた。
ああ、思いもかけず、このお仕合せの結末。私はすかさず、筆を擱く。読者もまた、はればれと微笑んで、それでも一応は用心して、こっそり小声でつぶやくことには、
――なあんだ。
底本:ちくま文庫『太宰治全集1』筑摩書房
1988(昭和63)年8月30日 第1刷発行
親本:筑摩全集類聚版太宰治全集 筑摩書房
1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:しず
1999年7月22日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前のページに戻る 青空文庫アーカイブ