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故郷
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)編輯部《へんしゅうぶ》
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(例)十年|振《ぶ》りで故郷を見た。
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昨年の夏、私は十年|振《ぶ》りで故郷を見た。その時の事を、ことしの秋四十一枚の短篇にまとめ、「帰去来」という題を附けて、或る季刊冊子の編輯部《へんしゅうぶ》に送った。その直後の事である。れいの、北さんと中畑さんとが、そろって三鷹の陋屋《ろうおく》へ訪ねて来られた。そうして、故郷の母が重態だという事を言って聞かせた。五、六年のうちには、このような知らせを必ず耳にするであろうと、内心、予期していた事であったが、こんなに早く来るとは思わなかった。昨年の夏、北さんに連れられてほとんど十年振りに故郷の生家を訪れ、その時、長兄は不在であったが、次兄の英治さんや嫂《あによめ》や甥《おい》や姪《めい》、また祖母、母、みんなに逢う事が出来て、当時六十九歳の母は、ひどく老衰していて、歩く足もとさえ危かしく見えたけれども、決して病人ではなかった。もう五、六年はたしかだ、いや十年、などと私は慾の深い夢を見ていた。その時の事は、「帰去来」という小説に、出来るだけ正確に書いて置いたつもりであるが、とにかく、その時はいろいろの都合で、故郷の生家に於《お》ける滞在時間は、ほんの三、四時間ほどのものであったのである。その小説の末尾のほうにも私は、――もっともっと故郷を見たかった。あれも、これも、見たいものがたくさん、たくさんあったのである。けれども私は、故郷を、チラと盗み見ただけであった。再び故郷の山河を見ることの出来るのはいつであろうか。母に、もしもの事があった時には、或《ある》いは、もういちど故郷を、こんどは、ゆっくり見ることが出来るかも知れないが、それもまた、つらい話だ、というような意味の事を書いて置いた筈《はず》であるが、その原稿を送った直後に、その「もういちど故郷を見る機会」がやって来るとは思い設《もう》けなかった。
「こんども私が、責任を持ちます。」北さんは緊張している。「奥さんとお子さんを連れていらっしゃい。」
昨年の夏には、北さんは、私ひとりを連れて行って下さったのである。こんどは私だけでなく、妻も園子(一年四箇月の女児)もみんなを一緒に連れて行って下さるというのである。北さんと中畑さんの事は、あの「帰去来」という小説に、くわしく書いて置いたけれども、北さんは東京の洋服屋さん、中畑さんは故郷の呉服屋さん、共に古くから私の生家と親密にして来ている人たちであって、私が五度も六度も、いや、本当に、数え切れぬほど悪い事をして、生家との交通を断たれてしまってからでも、このお二人は、謂《い》わば純粋の好意を以《もっ》て長い間、いちどもいやな顔をせず、私の世話をしてくれた。昨年の夏にも、北さんと中畑さんとが相談して、お二人とも故郷の長兄に怒られるのは覚悟の上で、私の十年振りの帰郷を画策《かくさく》してくれたのである。
「しかし、大丈夫ですか? 女房や子供などを連れていって、玄関払いを食らわされたら、目もあてられないからな。」私は、いつでも最悪の事態ばかり予想する。
「そんな事は無い。」とお二人とも真面目《まじめ》に否定した。
「去年の夏は、どうだったのですか?」私の性格の中には、石橋をたたいて渡るケチな用心深さも、たぶんに在《あ》るようだ。「あのあとで、お二人とも文治さん(長兄の名)に何か言われはしなかったですか? 北さん、どうですか?」
「それあ、兄さんの立場として、」北さんは思案深げに、「御親戚のかた達の手前もあるし、よく来たとは言えません。けれども、私が連れて行くんだったら、大丈夫だと思うのです。去年の夏の事も、あとで兄さんと東京でお逢いしたら、兄さんは私にただ一こと、北君は人が悪いなあ、とそれだけ言っただけです。怒ってなんかいやしません。」
「そうですか。中畑さんのほうは、どうでしたか? 何か兄さんに言われやしませんでしたか?」
「いいえ。」中畑さんは顔を上げ、「私には一ことも、なんにも、おっしゃいませんでした。いま迄《まで》は私が、あなたに何か世話でもすると、あとで必ず、ちょっとした皮肉《ひにく》をおっしゃったものですが、去年の夏の事に限って、なんにも兄さんは、おっしゃいませんでした。」
「そうですか。」私は少し安心した。「あなた達にご迷惑がかからない事でしたら、私は連れていってもらいたいのです。母に、逢いたくないわけは無いんだし、また、去年の夏には、文治兄さんに逢うことが出来ませんでしたが、こんどこそ逢いたい。連れていって下さると、私は大いにありがたいのですが、女房のほうはどうですか。こんどはじめて亭主の肉親たちに逢うのですから、女は着物だのなんだの、めんどうな事もあるでしょうし、ちょっと大儀がるかも知れません。そこは北さんから一つ、女房に説いてやって下さい。私から言ったんじゃ、あいつは愚図々々いうにきまっていますから。」私は妻を部屋へ呼んだ。
けれども結果は案外であった。北さんが、妻へ母の重態を告げて、ひとめ園子さんを、などと言っているうちに妻は、ぺたりと畳に両手をついて、
「よろしく、お願い致します。」と言った。
北さんは私のほうに向き直って、
「いつになさいますか?」
二十七日、という事にきまった。その日は、十月二十日だった。
それから一週間、妻は仕度《したく》にてんてこ舞いの様子であった。妻の里から妹が手伝いに来た。どうしても、あたらしく買わなければならぬものも色々あった。私は、ほとんど破産しかけた。園子だけは、何も知らずに、家中をヨチヨチ歩きまわっていた。
二十七日十九時、上野発急行列車。満員だった。私たちは原町まで、五時間ほど立ったままだった。
ハハイヨイヨワルシ」ダザイイツコクモハヤクオイデマツ」ナカバタ
北さんは、そんな電報を私に見せた。一足さきに故郷へ帰っていた中畑さんから、けさ北さんの許《もと》に来た電報である。
翌朝八時、青森に着き、すぐに奥羽線に乗りかえ、川部という駅でまた五所川原《ごしょがわら》行の汽車に乗りかえて、もうその辺から列車の両側は林檎《りんご》畑。ことしは林檎も豊作のようである。
「まあ、綺麗《きれい》。」妻は睡眠不足の少し充血した眼を見張った。「いちど、林檎のみのっているところを、見たいと思っていました。」
手を伸ばせば取れるほど真近かなところに林檎は赤く光っていた。
十一時頃、五所川原駅に着いた。中畑さんの娘さんが迎えに来ていた。中畑さんのお家は、この五所川原町に在るのだ。私たちは、その中畑さんのお家で一休みさせてもらって、妻と園子は着換え、それから金木町の生家を訪れようという計画であった。金木町というのは、五所川原から更に津軽鉄道に依《よ》って四十分、北上したところに在るのである。
私たちは中畑さんのお家で昼食をごちそうになりながら、母の容態《ようだい》をくわしく知らされた。ほとんど危篤《きとく》の状態らしい。
「よく来て下さいました。」中畑さんは、かえって私たちにお礼を言った。「いつ来るか、いつ来るかと気が気じゃなかった。とにかく、これで私も安心しました。お母さんは、黙っていらっしゃるけど、とてもあなた達を待っているご様子でしたよ。」
聖書に在る「蕩児《とうじ》の帰宅」を、私はチラと思い浮べた。
昼食をすませて出発の時、
「トランクは持って行かないほうがよい、ね、そうでしょう?」と北さんは、ちょっと強い口調で私に言った。「兄さんから、まだ、ゆるしが出ているわけでもないのに、トランクなどさげて、――」
「わかりました。」
荷物は一切、中畑さんのお家へあずけて行く事にした。病人に逢わせてもらえるかどうか、それさえまだわかっていない、という事を北さんは私に警告したのだ。
園子のおしめ袋だけを持って、私たちは金木行の汽車に乗った。中畑さんも一緒に乗った。
刻一刻、気持が暗鬱になった。みんないい人なのだ。誰も、わるい人はいないのだ。私ひとりが過去に於いて、ぶていさいな事を行い、いまもなお十分に聡明ではなく、悪評高く、その日暮しの貧乏な文士であるという事実のために、すべてがこのように気まずくなるのだ。
「景色のいいところですね。」妻は窓外の津軽平野を眺めながら言った。「案外、明るい土地ですね。」
「そうかね。」稲はすっかり刈り取られて、満目の稲田には冬の色が濃かった。「僕には、そうも見えないが。」
その時の私には故郷を誇りたい気持も起らなかった。ひどく、ただ、くるしい。去年の夏は、こうではなかった。それこそ胸をおどらせて十年振りの故郷の風物を眺めたものだが。
「あれは、岩木山だ。富士山に似ているっていうので、津軽富士。」私は苦笑しながら説明していた。なんの情熱も無い。「こっちの低い山脈は、ぼんじゅ山脈というのだ。あれが馬禿山《まはげやま》だ。」実に、投げやりな、いい加減な説明だった。
ここがわしの生れ在所《ざいしょ》、四、五丁ゆけば、などと、やや得意そうに説明して聞かせる梅川忠兵衛の新口《にのくち》村は、たいへん可憐《かれん》な芝居であるが、私の場合は、そうではなかった。忠兵衛が、やたらにプンプン怒っていた。稲田の向うに赤い屋根がチラと見えた。
「あれが、」僕の家、と言いかけて、こだわって、「兄さんの家だ。」と言った。
けれどもそれはお寺の屋根だった。私の生家の屋根は、その右方に在った。
「いや、ちがった。右の方の、ちょっと大きいやつだ。」滅茶々々である。
金木駅に着いた。小さい姪《めい》と、若い綺麗な娘さんとが迎えに来ていた。
「あの娘さんは、誰?」と妻は小声で私にたずねた。
「女中だろう? 挨拶《あいさつ》なんか要《い》らない。」去年の夏にも、私はこの娘さんと同じ年恰好の上品な女中を兄の長女かと思い、平伏するほどていねいにお辞儀をしてちょっと具合いの悪い思いをした事があるので、こんどは用心してそう言ったのである。
小さい姪というのは兄の次女で、これは去年の夏に逢って知っていた。八歳である。
「シゲちゃん。」と私が呼ぶと、シゲちゃんは、こだわり無く笑った。私は少し助かったような気がした。この子だけは、私の過去を知るまい。
家へはいった。中畑さんと北さんは、すぐに二階の兄の部屋へ行ってしまった。私は妻子と共に仏間へ行って、仏さまを拝んで、それから内輪《うちわ》の客だけが集る「常居《じょい》」という部屋へさがって、その一隅に坐った。長兄の嫂も、次兄の嫂も、笑顔を以て迎えて呉《く》れた。祖母も、女中に手をひかれてやって来た。祖母は八十六歳である。耳が遠くなってしまった様子だが、元気だ。妻は園子にも、お辞儀をさせようとして苦心していたが、園子はてんでお辞儀をしようとせず、ふらふら部屋を歩きまわって、皆をあぶながらせた。
兄が出て来た。すっと部屋を素通りして、次の間に行ってしまった。顔色も悪く、ぎょっとするほど痩せて、けわしい容貌になっていた。次の間にも母の病気見舞いの客がひとり来ているのだ。兄はそのお客としばらく話をして、やがてその客が帰って行ってから、「常居《じょい》」に来て、私が何も言わぬさきから、
「ああ。」と首肯《うなず》いて畳に手をつき、軽くお辞儀をした。
「いろいろ御心配をかけました。」私は固くなってお辞儀をした。「文治兄さんだ。」と妻に知らせた。
兄は、妻のお辞儀がはじまらぬうちに、妻に向ってお辞儀をした。私は、はらはらした。お辞儀がすむと、兄はさっさと二階へ行った。
はてな? と思った。何かあったな、と私は、ひがんだ。この兄は、以前から機嫌の悪い時に限って、このように妙によそよそしく、ていねいにお辞儀をするのである。北さんも中畑さんも、あれっきりまだ二階から降りて来ない。北さん何か失敗したかな? と思ったら急に心細いやら、おそろしいやら、胸がどきんどきんして来た。嫂がニコニコ笑いながら出て来て、
「さあ。」と私たちを促した。私は、ほっとして立ち上った。母に逢える。別段、気まずい事も無く、母との対面がゆるされるのだ。なあんだ。少し心配しすぎた。
廊下を渡りながら嫂が、
「二、三日前から、お待ちになって、本当に、お待ちになって。」と私たちに言って聞かせた。
母は離れの十畳間に寝ていた。大きいベッドの上に、枯れた草のようにやつれて寝ていた。けれども意識は、ハッキリしていた。
「よく来た。」と言った。妻が初対面の挨拶をしたら、頭をもたげるようにして、うなずいて見せた。私が園子を抱えて、園子の小さい手を母の痩せた手のひらに押しつけてやったら、母は指を震わせながら握りしめた。枕頭にいた五所川原の叔母は、微笑《ほほえ》みながら涙を拭いていた。
病室には叔母の他に、看護婦がふたり、それから私の一ばん上の姉、次兄の嫂、親戚のおばあさんなど大勢いた。私たちは隣りの六畳の控えの間に行って、みんなと挨拶を交《かわ》した。修治(私の本名)は、ちっとも変らぬ。少しふとってかえって若くなった、とみんなが言った。園子も、懸念《けねん》していたほど人見知りはせず、誰にでも笑いかけていた。みんな控えの間の、火鉢のまわりに集って、ひそひそ小声で話をはじめて、少しずつ緊張もときほぐれて行った。
「こんどは、ゆっくりして行くんでしょう?」
「さあ、どうだか。去年の夏みたいに、やっぱり二、三時間で、おいとまするような事になるんじゃないかな。北さんのお話では、それがいいという事でした。僕は、なんでも、北さんの言うとおりにしようと思っているのですから。」
「でも、こんなにお母さんが悪いのに、見捨てて帰る事が出来ますか。」
「いずれ、それは、北さんと相談して、――」
「何もそんなに、北さんにこだわる事は無いでしょう。」
「そうもいかない。北さんには、僕は今まで、ずいぶん世話になっているんだから。」
「それは、まあ、そうでしょう。でも、北さんだって、まさか、――」
「いや、だから、北さんに相談してみるというのです。北さんの指図に従っていると間違いないのです。北さんは、まだ兄さんと二階で話をしているようですが、何か、ややこしい事でも起っているんじゃないでしょうか。私たち親子三人、ゆるしも無く、のこのこ乗り込んで、――」
「そんな心配は要《い》らないでしょう。英治さん(次兄の名)だって、あなたにすぐ来いって速達を出したそうじゃないの。」
「それは、いつですか? 僕たちは見ませんでしたよ。」
「おや。私たちは、また、その速達を見て、おいでになったものとばかり、――」
「そいつあ、まずかったな。行きちがいになったのですね。そいつあ、まずい。妙に北さんが出しゃばったみたいな形になっちゃった。」なんだか、すっかりわかったような気がした。運が悪いと思った。
「まずい事は無いでしょう。一日でも早く、駈けつけたほうがいいんですもの。」
けれども、私は、しょげてしまった。わざわざ私たちを、商売を投げて連れて来て下さった北さんにも気の毒であった。ちゃんと、いい時期に知らせてあげるのに、なあ、という兄たちのくやしさもわかるし、どうにも具合いの悪い事だと思った。
先刻、駅へ迎えに来ていた若い娘さんが、部屋へはいって来て、笑いながら私にお辞儀をした。また失敗だったのだ。こんどは用心しすぎて失敗したのである。全然、女中さんではなかった。一ばん上の姉の子だった。この子の七つ八つの頃までは私も見知っていたが、その頃は色の黒い小粒の子だった。いま見ると、背もすらりとして気品もあるし、まるで違う人のようであった。
「光《みっ》ちゃんですよ。」叔母も笑いながら、「なかなか、べっぴんになったでしょう。」
「べっぴんになりました。」私は真面目に答えた。「色が白くなった。」
みんな笑った。私の気持も、少しほぐれて来た。その時、ふと、隣室の母を見ると、母は口を力無くあけて肩で二つ三つ荒い息をして、そうして、痩せた片手を蠅《はえ》でも追い払うように、ひょいと空に泳がせた。変だな? と思った。私は立って、母のベッドの傍へ行った。他のひとたちも心配そうな顔をして、そっと母の枕頭に集って来た。
「時々くるしくなるようです。」看護婦は小声でそう説明して、掛蒲団《かけぶとん》の下に手をいれて母のからだを懸命にさすった。私は枕もとにしゃがんで、どこが苦しいの? と尋ねた。母は、幽《かす》かにかぶりを振った。
「がんばって。園子の大きくなるところを見てくれなくちゃ駄目ですよ。」私はてれくさいのを怺《こら》えてそう言った。
突然、親戚のおばあさんが私の手をとって母の手と握り合わさせた。私は片手ばかりでなく、両方の手で母の冷い手を包んであたためてやった。親戚のおばあさんは、母の掛蒲団に顔を押しつけて泣いた。叔母も、タカさん(次兄の嫂の名)も泣き出した。私は口を曲げて、こらえた。しばらく、そうしていたが、どうにも我慢出来ず、そっと母の傍から離れて廊下に出た。廊下を歩いて洋室へ行った。洋室は寒く、がらんとしていた。白い壁に、罌粟《けし》の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手《へた》な木彫が一つぽつんと置かれている。ソファには、豹《ひょう》の毛皮が敷かれてある。椅子もテエブルも絨氈《じゅうたん》も、みんな昔のままであった。私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流したらウソだ、いま泣いたらウソだぞ、と自分に言い聞かせて泣くまい泣くまいと努力した。こっそり洋室にのがれて来て、ひとりで泣いて、あっぱれ母親思いの心やさしい息子さん。キザだ。思わせぶりたっぷりじゃないか。そんな安っぽい映画があったぞ。三十四歳にもなって、なんだい、心やさしい修治さんか。甘ったれた芝居はやめろ。いまさら孝行息子でもあるまい。わがまま勝手の検束をやらかしてさ。よせやいだ。泣いたらウソだ。涙はウソだ、と心の中で言いながら懐手《ふところで》して部屋をぐるぐる歩きまわっているのだが、いまにも、嗚咽《おえつ》が出そうになるのだ。私は実に閉口した。煙草を吸ったり、鼻をかんだり、さまざま工夫して頑張って、とうとう私は一滴の涙も眼の外にこぼれ落さなかった。
日が暮れた。私は母の病室には帰らず、洋室のソファに黙って寝ていた。この離れの洋室は、いまは使用していない様子で、スウィッチをひねっても電気がつかない。私は寒い暗闇の中にひとりでいた。北さんも中畑さんも、離れのほうへ来なかった。何をしているのだろう。妻と園子は、母の病室にいるようだ。今夜これから私たちは、どうなるのだろう。はじめの予定では、北さんの意見のとおり、お見舞いしてすぐに金木を引き上げ、その夜は五所川原の叔母の家へ一泊という事になっていたのだが、こんなに母の容態が悪くては、予定どおりすぐ引き上げるのも、かえって気まずい事になるのではあるまいか。とにかく北さんに逢いたい。北さんは一体どこにいるのだろう。兄さんとの話が、いよいよややこしく、もつれているのではあるまいか。私は居るべき場所も無いような気持だった。
妻が暗い洋室にはいって来た。
「あなた! かぜを引きますよ。」
「園子は?」
「眠りました。」病室の控えの間に寝かせて置いたという。
「大丈夫かね? 寒くないようにして置いたかね?」
「ええ。叔母さんが毛布を持って来て、貸して下さいました。」
「どうだい、みんないいひとだろう。」
「ええ。」けれども、やはり不安の様子であった。「これから私たち、どうなるの?」
「わからん。」
「今夜は、どこへ泊るの?」
「そんな事、僕に聞いたって仕様が無いよ。いっさい、北さんの指図にしたがわなくちゃいけないんだ。十年来、そんな習慣になっているんだ。北さんを無視して直接、兄さんに話掛けたりすると、騒動になってしまうんだ。そういう事になっているんだよ。わからんかね。僕には今、なんの権利も無いんだ。トランク一つ、持って来る事さえできないんだからね。」
「なんだか、ちょっと北さんを恨《うら》んでるみたいね。」
「ばか。北さんの好意は、身にしみて、わかっているさ。けれども、北さんが間にはいっているので、僕と兄さんとの仲も、妙にややこしくなっているようなところもあるんだ。どこまでも北さんのお顔を立てなければならないし、わるい人はひとりもいないんだし、――」
「本当にねえ。」妻にも少しわかって来たようであった。「北さんが、せっかく連れて来て下さるというのに、おことわりするのも悪いと思って、私や園子までお供《とも》して来て、それで北さんにご迷惑がかかったのでは、私だって困るわ。」
「それもそうだ。うっかりひとの世話なんか、するもんじゃないね。僕という難物の存在がいけないんだ。全くこんどは北さんもお気の毒だったよ。わざわざこんな遠方へやって来て、僕たちからも、また、兄さんたちからも、そんなに有難《ありがた》がられないと来ちゃ、さんざんだ。僕たちだけでも、ここはなんとかして、北さんのお顔の立つように一工夫しなければならぬところなんだろうけれど、あいにく、そんな力はねえや。下手《へた》に出しゃばったら、滅茶々々だ。まあ、しばらくこうして、まごまごしているんだね。お前は病室へ行って、母の足でもさすっていなさい。おふくろの病気、ただ、それだけを考えていればいいんだ。」
妻は、でも、すぐには立ち去ろうとしなかった。暗闇の中に、うなだれて立っている。こんな暗いところに二人いるのを、ひとに見られたら、はなはだ具合いがわるいと思ったので私はソファから身を起して、廊下へ出た。寒気がきびしい。ここは本州の北端だ。廊下のガラス戸越しに、空を眺めても、星一つ無かった。ただ、ものものしく暗い。私は無性《むしょう》に仕事をしたくなった。なんのわけだかわからない。よし、やろう。一途《いちず》に、そんな気持だった。
嫂が私たちをさがしに来た。
「まあ、こんなところに!」明るい驚きの声を挙《あ》げて、「ごはんですよ。美知子さんも、一緒にどうぞ。」嫂はもう、私たちに対して何の警戒心も抱《いだ》いていない様子だった。私にはそれが、ひどくたのもしく思われた。なんでもこの人に相談したら、間違いが無いのではあるまいかと思った。
母屋《おもや》の仏間に案内された。床の間を背にして、五所川原の先生(叔母の養子)それから北さん、中畑さん、それに向い合って、長兄、次兄、私、美知子と七人だけの座席が設けられていた。
「速達が行きちがいになりまして。」私は次兄の顔を見るなり、思わずそれを言ってしまった。次兄は、ちょっと首肯《うなず》いた。
北さんは元気が無かった。浮かぬ顔をしていた。酒席にあっては、いつも賑《にぎ》やかな人であるだけに、その夜の浮かぬ顔つきは目立った。やっぱり何かあったのだな、と私は確信した。
それでも、五所川原の先生が、少し酔ってはしゃいでくれたので、座敷は割に陽気だった。私は腕をのばして、長兄にも次兄にもお酌《しゃく》をした。私が兄たちに許されているのか、いないのか、もうそんな事は考えまいと思った。私は一生ゆるされる筈《はず》はないのだし、また、許してもらおうなんて、虫のいい甘ったれた考えかたは捨てる事だ。結局は私が、兄たちを愛しているか愛していないか、問題はそこだ。愛する者は、さいわいなる哉《かな》。私が兄たちを愛して居ればいいのだ。みれんがましい慾の深い考えかたは捨てる事だ、などと私は独酌で大いに飲みながら、たわいない自問自答をつづけていた。
北さんはその夜、五所川原の叔母の家に泊った。金木の家は病人でごたついているので、北さんは遠慮したのか、とにかく五所川原へ泊る事になったのだ。私は停車場まで北さんを送って行った。
「ありがとうございました。おかげさまでした。」私は心から、それを言った。いま北さんと別れてしまうのは心細かった。これからは誰も私に指図をしてくれる人は無い。「僕たちは今晩、このまま金木へ泊ってもかまわないのですか?」何かと聞いて置きたかった。
「それあ構わないでしょう。」私の気のせいか、少しよそよそしい口調だった。「なにせ、お母さんがあんなにお悪いのですから。」
「じゃ私たちは、もう二、三日、金木の家へ泊めてもらって、――それは図々《ずうずう》しいでしょうか。」
「お母さんの容態に依《よ》りますな。とにかく、あした電話で打ち合せましょう。」
「北さんは?」
「あした東京へ帰ります。」
「たいへんですね。去年の夏も、北さんは、すぐにお帰りになったし、ことしこそ、青森の近くの温泉にでも御案内しようと、私たちは準備して来たのですけど。」
「いや、お母さんがあんなに悪いのに、温泉どころじゃありません。じっさい、こんなに容態がお悪くなっているとは思わなかった。案外でした。あなたに払っていただいた汽車賃は、あとで計算しておかえし致しますから。」突然、汽車賃の事など言い出したので、私はまごついた。
「冗談じゃない。お帰りの切符も私が買わなければならないところです。そんな御心配は、よして下さい。」
「いや、はっきり計算してみましょう。中畑さんのところにあずけて置いたあなた達の荷物も、あした早速、中畑さんにたのんで金木のお家へとどけさせる事にしましょう。もう、それで私の用事は無い。」まっくらい路を、どんどん歩いて行く。「停車場はこっちでしたね? もう、お見送りは結構ですよ。本当に、もう。」
「北さん!」私は追いすがるように、二、三歩足を早めて、「何か兄さんに言われましたか?」
「いいえ。」北さんは、歩をゆるめて、しんみりした口調で言った。「そんな心配は、もう、なさらないほうがいい。私は今夜は、いい気持でした。文治さんと英治さんとあなたと、立派な子供が三人ならんで坐っているところを見たら、涙が出るほど、うれしかった。もう私は、何も要らない。満足です。私は、はじめから一文の報酬だって望んでいなかった。それは、あなただってご存じでしょう? 私は、ただ、あなた達兄弟三人を並べて坐らせて見たかったのです。いい気持です。満足です。修治さんも、まあ、これからしっかりおやりなさい。私たち老人は、そろそろひっこんでいい頃です。」
北さんを見送って、私は家へ引返した。もうこれからは北さんにたよらず、私が直接、兄たちと話合わなければならぬのだ、と思ったら、うれしさよりも恐怖を感じた。きっとまた、へまな不作法などを演じて、兄たちを怒らせるのではあるまいかという卑屈《ひくつ》な不安で一ぱいだった。
家の中は、見舞い客で混雑していた。私は見舞客たちに見られないように、台所のほうから、こっそりはいって、離れの病室へ行きかけて、ふと「常居《じょい》」の隣りの「小間《こま》」をのぞいて、そこに次兄がひとり坐っているのを見つけ、こわいものに引きずられるように、するすると傍へ行って坐った。内心、少からずビクビクしながら、
「お母さんは、どうしても、だめですか?」と言った。いかにも唐突な質問で、自分ながら、まずいと思った。英治さんは、苦笑を浮べ、ちょっとあたりを見廻してから、
「まあ、こんどは、むずかしいと思わねばいけない。」と言った。そこへ突然、長兄がはいって来た。少しまごついて、あちこち歩きまわって、押入れをあけたりしめたりして、それから、どかと次兄の傍にあぐらをかいた。
「困った、こんどは、困った。」そう言って顔を伏せ、眼鏡を額《ひたい》に押し上げ、片手で両眼をおさえた。
ふと気がつくと、いつの間にか私の背後に、一ばん上の姉が、ひっそり坐っていた。
底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1989(昭和64)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:ふるかわゆか
2003年11月24日作成
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