青空文庫アーカイブ
心の王者
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)三田《みた》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)新聞|編輯者《へんしゅうしゃ》として
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先日、三田《みた》の、小さい学生さんが二人、私の家に参りました。私は生憎《あいにく》加減が悪くて寝ていたのですが、ちょっとで済む御話でしたら、と断って床から抜け出し、どてらの上に羽織を羽織って、面会いたしました。お二人とも、なかなかに行儀がよろしく、しかもさっさと要談をすまし、たちどころに引上げました。
つまり、この新聞に随筆を書けという要談であったわけです。私から見ると、いずれも十六七くらいにしか見えない温厚な少年でありましたが、それでもやはり廿を過ぎて居られるのでしょうね。どうも、此頃《このごろ》、人の年齢のほどが判らなくなってしまいました。十五の人も三十の人も四十の人も、また或は五十の人も、同じことに怒り、同じことに笑い興じ、また同様に少しずるく、また同様に弱く卑屈で、実際、人の心理ばかりを見ていると、人の年齢の差別など、こんぐらかって来てわからなくなり、どうでもいいようになってしまうのであります。先日の二人の学生さんだって、十六七には見えながら、その話振りには、ちょいとした駈引《かけひき》などもあり、なかなか老成していた箇所がありました。いわば、新聞|編輯者《へんしゅうしゃ》として既に一家を成していました。お二人が帰られてから私は羽織を脱ぎ、そのまま又|布団《ふとん》の中にもぐりこみ、それから暫《しば》らく考えました。今の学生諸君の身の上が、なんだか不憫《ふびん》に思われて来たのであります。
学生とは、社会のどの部分にも属しているものではありません。また、属してはならないものであると考えます。学生とは本来、青いマントを羽織ったチャイルド・ハロルドでなければならぬと、私は頑迷にも信じている者であります。学生は思索の散歩者であります。青空の雲であります。編輯者に成りきってはいけない。役人に成りきってはいけない。学者になりきってさえいけない。老成の社会人になりきることは学生にとって、恐ろしい堕落であります。学生自らの罪ではないのでしょう。きっと誰かに、そう仕向けられているのでしょう。だから私は不憫だと言うのであります。
それでは学生本来の姿は、どのようなものであるか。それに対する答案として、私はシルレルの物語詩を一篇、諸君に語りましょう。シルレルはもっと読まなければいけない。
今のこの時局に於《おい》ては尚更《なおさら》、大いに読まなければいけない。おおらかな、強い意志と、努めて明るい高い希望を持ち続ける為にも、諸君は今こそシルレルを思い出し、これを愛読するがよい。シルレルの詩に、「地球の分配」という面白い一篇がありますが、その大意は、凡《およ》そ次のようなものであります。
「受取れよ、この世界を!」と神の父ゼウスは天上から人間に号令した。
「受取れ、これはお前たちのものだ。お前たちにおれは、これを遺産として、永遠の領地として、贈ってやる。さあ、仲好く分け合うのだ。」その声を聞き、忽《たちま》ち先を争って、手のある限りの者は右往左往、おのれの分前を奪い合った。農民は原野に境界の杙《くい》を打ち、其処《そこ》を耕して田畑となした時、地主がふところ手して出て来て、さて嘯《うそぶ》いた。「その七割は俺《おれ》のものだ。」また、商人は倉庫に満す物貨を集め、長老は貴重な古い葡萄酒《ぶどうしゅ》を漁《あさ》り、公達《きんだち》は緑したたる森のぐるりに早速縄を張り廻らし、そこを己れの楽しい狩猟と逢引《あいびき》の場所とした。市長は巷《ちまた》を分捕《ぶんど》り、漁人は水辺におのが居を定めた。総《すべ》ての分割の、とっくにすんだ後で、詩人がのっそりやって来た。彼は遥《はる》か遠方からやって来た。ああ、その時は何処にも何も無く、すべての土地に持主の名札が貼られてしまっていた。「ええ情ない! なんで私一人だけが皆から、かまって貰えないのだ。この私が、あなたの一番忠実な息子が?」と大声に苦情を叫びながら、彼はゼウスの玉座の前に身を投げた。「勝手に夢の国で、ぐずぐずしていて、」と神はさえぎった。「何も俺を怨《うら》むわけがない。お前は一体何処にいたのだ。皆が地球を分け合っているとき。」詩人は答えた。「私は、あなたのお傍に。目はあなたのお顔にそそがれて、耳は天上の音楽に聞きほれていました。この心をお許し下さい。あなたの光に陶然《とうぜん》と酔って、地上の事を忘れていたのを。」ゼウスは其の時やさしく言った。「どうすればいい? 地球はみんな呉《く》れてしまった。秋も、狩猟も、市場も、もう俺のものでない。お前が此《こ》の天上に、俺といたいなら時々やって来い。此所はお前の為に空けて置く!」
いかがです。学生本来の姿とは、即ち此の神の寵児、此の詩人の姿に違いないのであります。地上の営みに於ては、何の誇るところが無くっても、其の自由な高貴の憧《あこが》れによって時々は神と共にさえ住めるのです。
此の特権を自覚し給え。この特権を誇り給え。何時迄《いつまで》も君に具有している特権ではないのだぞ。ああ、それはほんの短い期間だ。その期間をこそ大事になさい。必ず自身を汚してはならぬ。地上の分割に与《あずか》るのは、それは学校を卒業したら、いやでも分割に与《あずか》るのだ。商人にもなれます。編輯者にもなれます。役人にもなれます。けれども、神の玉座に神と並んで座ることの出来るのは、それは学生時代以後には決してあり得ないことなのです。二度と返らぬことなのです。
三田の学生諸君。諸君は常に「陸の王者」を歌うと共に、又ひそかに「心の王者」を以《もっ》て自任しなければなりません。神と共にある時期は君の生涯に、ただ此の一度であるのです。
底本:「太宰治全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年6月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:杜十朗
校正:土屋隆
2003年9月4日作成
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