青空文庫アーカイブ

乞食学生
太宰治

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)筈《はず》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)身長|骨骼《こっかく》も尋常である。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]
-------------------------------------------------------

[#ここから7字下げ]
大貧に、大正義、望むべからず
      ――フランソワ・ヴィヨン
[#ここで字下げ終わり]



       第一回

 一つの作品を、ひどく恥ずかしく思いながらも、この世の中に生きてゆく義務として、雑誌社に送ってしまった後の、作家の苦悶に就《つ》いては、聡明な諸君にも、あまり、おわかりになっていない筈《はず》である。その原稿在中の重い封筒を、うむと決意して、投函する。ポストの底に、ことり、と幽《かす》かな音がする。それっきりである。まずい作品であったのだ。表面は、どうにか気取って正直の身振りを示しながらも、その底には卑屈な妥協の汚い虫が、うじゃうじゃ住んでいるのが自分にもよく判って、やりきれない作品であったのだ。それに、あの、甘ったれた、女の描写。わあと叫んで、そこらをくるくると走り狂いたいほど、恥ずかしい。下手《へた》くそなのだ。私には、まるで作家の資格が無いのだ。無智なのだ。私には、深い思索が何も無い。ひらめく直感が何も無い。十九世紀の、巴里《パリ》の文人たちの間に、愚鈍の作家を「天候居士《てんこうこじ》」と呼んで唾棄《だき》する習慣が在ったという。その気の毒な、愚かな作家は、私同様に、サロンに於て気のきいた会話が何一つ出来ず、ただ、ひたすらに、昨今の天候に就いてのみ語っている、という意味なのであろうが、いかさま、頭のわるい愚物の話題は、精一ぱいのところで、そんなものらしい。何も言えない。私の、たったいま投函したばかりの作品も、まず、そんなところだ。昨日雪降る。実に、どうにも、驚きました。どうにも、その、驚いたです。雨戸をあけたら、こう、その、まあ一種の、銀世界、とでも、等と汗を拭き拭き申し上げるのであるが、一種も二種もない、実に、愚劣な意見である。どもってばかりいて、颯爽《さっそう》たる断案が何一つ、出て来ない。私とて、恥を知る男子である。ままになる事なら、その下手くその作品を破り捨て、飄然《ひょうぜん》どこか山の中にでも雲隠れしたいものだ、と思うのである。けれども、小心卑屈の私には、それが出来ない。きょう、この作品を雑誌社に送らなければ、私は編輯者《へんしゅうしゃ》に嘘をついたことになる。私は、きょうまでには必ずお送り致します、といやに明確にお約束してしまっているのである。編輯者は、私のこんな下手な作品に対しても、わざわざペエジを空《あ》けて置いて、今か今かと、その到来を待ってくれているのである。私はそれを知っているので、いかに愚劣な作品と雖《いえど》も、みだりにそれを破棄することが出来ない。義務の遂行と言えば、聞えもいいが、そうではない。小心非力の私は、ただ唯、編輯者の腕力を恐れているのである。約束を破ったからには、私は、ぶん殴《なぐ》られても仕方が無いのだと思えば、生きた心地もせず、もはや芸術家としての誇りも何もふっ飛んで、目をつぶって、その醜態の作品を投函してしまうのである。よほど意気地の無い男である。投函してしまえば、それっきりである。いかに悔いても、及ばない。原稿は、そのままするすると編輯者の机上に送り込まれ、それを素早く一読した編輯者を、だいいちばんに失望させ、とにかく印刷所へ送られる。印刷所では、鷹《たか》のような眼をした熟練工が、なんの表情も無く、さっさと拙稿の活字を拾う。あの眼が、こわい。なんて下手くそな文章だ。嘘字だらけじゃないか、と思っているに違いない。ああ、印刷所では、私の無智の作品は、使い走りの小僧にまで、せせら笑われているのだ。ついに貴重な紙を、どっさり汚して印刷され、私の愚作は天が下かくれも無きものとして店頭にさらされる。批評家は之《これ》を読んで嘲笑し、読者は呆《あき》れる。愚作家その襤褸《らんる》の上に、更に一篇の醜作を附加し得た、というわけである。へまより出でて、へまに入るとは、まさに之《こ》の謂《い》いである。一つとしてよいところが無い。それを知っていながら、私は編輯者の腕力を恐れるあまりに、わななきつつ原稿在中の重い封筒を、うむと決意して、投函するのだ。ポストの底に、ことり、と幽かな音がする。それっきりである。その後の、悲惨な気持は、比類が無い。
 私はその日も、私の見事な一篇の醜作を、駅の前のポストに投函し、急に生きている事がいやになり、懐手《ふところで》して首をうなだれ、足もとの石ころを蹴《け》ころがし蹴ころがしして歩いた。まっすぐに家へ帰る気力も無い。私の家は、この三鷹駅から、三曲りも四曲りもして歩いて二十分以上かかる畑地のまん中に在るのだが、そこには訪ねて来る客も無し、私は仕事でもない限りは、一日いっぱい毛布にくるまって縁側に寝ころんでいて、読書にも疲れて、あくびばかりを連発し、新聞を取り上げ、こども欄の考えもの、亀、鯨《くじら》、兎《うさぎ》、蛙《かえる》、あざらし、蟻《あり》、ペリカン、この七つの中で、卵から生まれるものは何々でしょう、という問題に就いて、ちょっと頭をひねってみたり、それもつまらなくなり、あくびの涙がつつと頬を走って流れても、それにかまわず、ぼんやり庭の向うの麦畑を眺めて、やがて日が暮れるというような、半病人みたいな生活をしているのだから、いま、ただちに勇んで、たのしい我が家に引き返そうという気力も出て来ない。私は、家の方角とは反対の、玉川上水の土堤《どて》のほうへ歩いていった。四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。ひっそりしている。ああ、こんな小説が書きたい。こんな作品がいいのだ。なんの作意も無い。私は立ちどまって、なお、よく見ていたい誘惑を感じたが、自分の、だらしない感傷を恥ずかしく思い、その光るばかりの緑のトンネルを、ちらと見たばかりで、流れに沿うて土堤の上を、のろのろ歩きつづけた。だんだん歩調が早くなる。流れが、私をひきずるのだ。水は幽かに濁りながら、点々と、薄よごれた花びらを浮かべ、音も無く滑り流れている。私は、流れてゆく桜の花びらを、いつのまにか、追いかけているのだ。ばかのように、せっせと歩きつづけているのだ。その一群の花弁《はなびら》は、のろくなったり、早くなったり、けれども停滞せず、狡猾《こうかつ》に身軽くするする流れてゆく。万助橋《まんすけばし》を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死《できし》なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。私は、少し疲れた。花びらを追う事を、あきらめて、ゆっくり歩いた。たちまち一群の花びらは、流れて遠のき、きらと陽に白く小さく光って見えなくなった。私は、意味の無い溜息《ためいき》を、ほっと吐《つ》いて、手のひらで額《ひたい》の汗を拭き払った時、すぐ足もとで、わあ寒い! という叫び声が。
 私は、もちろん驚いた。尻餅《しりもち》をつかんばかりに、驚いた。人喰い川を、真白い全裸の少年が泳いでいる。いや、押し流されている。頭を水面に、すっと高く出し、にこにこ笑いながら、わあ寒い、寒いなあ、と言い私のほうを振り向き振り向き、みるみる下流に押し流されて行った。私は、わけもわからず走り出した。大事件だ。あれは、溺死するにきまっている。私は、泳げないが、でも、見ているわけにはいかぬ。私は、いつ死んだって、惜しくないからだである。救えないまでも飛び込み、共に死ななければならぬ。死所を得たというものかも知れぬ、などと、非論理的な愚鈍の事を、きれぎれに考えながら、なりも振りもかまわずに走った。一言でいえば、私は極度に狼狽《ろうばい》していたのである。木の根に躓《つまず》いて顛倒《てんとう》しそうになっても、にこりともせず、そのまま、つんのめるような姿勢のままで、走りつづけた。いつもは、こんな草原は、蛇《へび》がいそうな故を以《もっ》て、絶対に避けて通ることにしているのであるが、いまは蛇に食い附かれたって構わぬ、どうせ直ぐに死ななければならぬからだである、ぜいたくを言って居られぬ。私は人命救助のために、雑草を踏みわけ踏みわけ一直線に走っていると、
「あいたたた、」と突然背後に悲鳴が起り、「君、ひどいじゃないか。僕のおなかを、いやというほど踏んでいったぞ。」
 聞き覚えのある声である。力あまって二三歩よろめき前進してから、やっと踏みとどまり、振り向いて見ると、少年が、草原の中に全裸のままで仰向けに寝ている。私は急に憤怒《ふんぬ》を覚えて、
「あぶないんだ。この川は。危険なんだ。」と、この場合あまり適切とは思えない叱咤《しった》の言を叫び威厳を取りつくろう為に、着物の裾《すそ》の乱れを調整し、「僕は、君を救助しに来たんだ。」
 少年は上半身を起し、まつげの長い、うるんだ眼を、ずるそうに細めて私を見上げ、
「君は、ばかだね。僕がここに寝ているのも知らずに、顔色かえて駈けて行きやがる。見たまえ。僕のおなかの、ここんとこに君の下駄《げた》の跡が、くっきり附いてるじゃないか。君が、ここんとこを、踏んづけて行ったのだぞ。見たまえ。」
「見たくない。けがらわしい。早く着物を着たらどうだ。君は、子供でもないじゃないか。失敬なやつだ。」
 少年は素早くズボンをはき、立ち上って、
「君は、この公園の番人かい?」
 私は、聞えない振りをした。あまりの愚問である。少年は白い歯を出して笑い、
「何も、そんなに怒ること無いじゃないか。」
 と落ちついた口調で言い、ズボンのポケットに両手をつっ込み、ぶらぶら私のほうへ歩み寄って来た。裸体の右肩に、桜の花弁が一つ、へばりついている。
「あぶないんだ。この川は。泳いじゃ、いけない。」私は、やはり同じ言葉を、けれども前よりはずっと低く、ほとんど呟《つぶや》くようにして言った。「人喰い川、と言われているのだ。それに、この川の水は、東京市の水道に使用されているんだ。清浄にして置かなくちゃ、いけない。」
「知ってるよ、そんなこと。」少年は、すこし卑屈な笑いを鼻の両側に浮かべた。近くで見ると、よほどとしとった顔である。鼻が高くとがって、ちょっと上を向いている。眉は薄く、眼は丸く大きい。口は小さく、顎《あご》も短い。色が白いから、それでも可成りの美少年に見える。身長|骨骼《こっかく》も尋常である。頭は丸刈りにして、鬚《ひげ》も無いが、でも狭い額には深い皺《しわ》が三本も、くっきり刻まれて在り、鼻翼の両側にも、皺が重くたるんで、黒い陰影を作っている。どうかすると、猿のように見える。もう少年でないのかも知れない。私の足もとに、どっかり腰をおろして、私の顔を下から覗《のぞ》き、「坐らないかね、君も。そんなに、ふくれていると、君の顔は、さむらいみたいに見えるね。むかしの人の顔だ。足利《あしかが》時代と、桃山時代と、どっちがさきか、知ってるか?」
「知らないよ。」私は、形がつかぬので、腕をうしろに組み、その辺を歩きまわり、ぶっきらぼうな答えかたをしていた。
「じゃ、徳川十代将軍は、誰だか知ってるかい?」
「知らん!」ほんとうに知らないのである。
「なんにも知らないんだなあ。君は、学校の先生じゃないのかい?」
「そんなもんじゃない。僕は、」と言いかけて、少し躊躇《ちゅうちょ》したが、ええ、悪びれず言ってしまえと勇をふるって、「小説を書いているんだ。小説家、というもんだ。」言ってしまってから、ひどく尾籠《びろう》なことを言ったような気がした。
「そうかね。」相手は一向に感動せず、「小説家って、頭がわるいんだね。君は、ガロアを知ってるかい? エヴァリスト・ガロア。」
「聞いた事があるような、気がする。」
「ちえっ、外国人の名前だと、みんな一緒くたに、聞いたような気がするんだろう? なんにも知らない証拠だ。ガロアは、数学者だよ。君には、わかるまいが、なかなか頭がよかったんだ。二十歳で殺されちゃった。君も、も少し本を読んだら、どうかね。なんにも知らないじゃないか。可哀そうなアベルの話を知ってるかい? ニイルス・ヘンリク・アベルさ。」
「そいつも、数学者かい?」
「ふん、知っていやがる。ガウスよりも、頭がよかったんだよ。二十六で死んじゃったのさ。」
 私は、自分でも醜いと思われるほど急に悲しく気弱くなり、少年から、よほど離れた草原に腰をおろし、やがて長々と寝そべってしまった。眼をつぶると、ひばりの声が聞える。

[#ここから2字下げ]
若き頃、世にも興ある驕児《きょうじ》たり
いまごろは、人喜ばす片言|隻句《せっく》だも言えず
さながら、老猿
愛らしさ一つも無し
人の気に逆らうまじと黙し居れば
老いぼれの敗北者よと指さされ
もの言えば
黙れ、これ、恥を知れよと袖《そで》をひかれる。(ヴィヨン)
[#ここで字下げ終わり]

「自信がないんだよ、僕は。」眼をあいて、私は少年に呼びかけた。
「へん。自信がないなんて、言える柄かよ。」少年も寝ころんでいて、大声で、侮蔑の言葉を返却して寄こした。「せめて、ガロアくらいでなくちゃ、そんないい言葉が言えないんだよ。」
 何を言っても、だめである。私にも、この少年の一時期が、あったような気がする。けさの知識は、けさ情熱を打ち込んで実行しなければ死ぬるほど苦しいのである。おそらくは、この少年も昨夜か、けさ、若くして死んだ大数学者の伝記を走り読みしたのに違いない。そのガロアなる少年天才も、あるいは、素裸で激流を泳ぎまくった事実があるのかも知れない。
「ガロアが、四月に、まっぱだかで川を泳いだ、とその本に書いていたかね。」私はお小手《こて》をとるつもりで、そう言ってやった。
「何を言ってやがる。頭が悪いなあ。そんなことで、おさえた気でいやがる。それだから、大人《おとな》はいやなんだ。僕は君に、親切で教えてやっているんじゃないか。先輩としての利己主義を、暗黙のうちに正義に化す。」
 私は、いやな気がした。こんどは、本心から、この少年に敵意を感じた。

       第二回

 決意したのである。この少年の傲慢《ごうまん》無礼を、打擲《ちょうちゃく》してしまおうと決意した。そうと決意すれば、私もかなりに兇悪酷冷の男になり得るつもりであった。私は馬鹿に似ているが、けれども、根からの低能でも無かった筈である。自信が無いとは言っても、それはまた別な尺度から言っている事で、何もこんな一面識も無い年少の者から、これ程までにみそくそに言われる覚えは無いのである。
 私は立って着物の裾の塵《ちり》をぱっぱっと払い、それから、ぐいと顎をしゃくって、
「おい、君。タンタリゼーションってのは、どうせ、たかの知れてるものだ。かえって今じゃ、通俗だ。本当に頭のいい奴は、君みたいな気取った言いかたは、しないものだ。君こそ、ずいぶん頭が悪い。様子《ようす》ぶってるだけじゃ無いか。先輩が一体どうしたというのだ。誰も君を、後輩だなんて思ってやしない。君が、ひとりで勝手に卑屈になっているだけじゃないか。」
 少年は草原に寝ころび眼をつぶったまま、薄笑いして聞いていたが、やがて眼を細くあけて私の顔を横眼で見て、
「君は、誰に言っているんだい。僕にそんなこと言ったって、わかりやしない。弱るね。」
「そうか。失敬した。」思わず軽く頭をさげて、それから、しまった! と気附いた。かりそめにも目前の論敵に頭をさげるとは、容易ならぬ失態である。喧嘩《けんか》に礼儀は、禁物である。どうも私には、大人《たいじん》の風格がありすぎて困るのである。ちっとも余裕なんて無いくせに、ともすると余裕を見せたがって困るのである。勝敗の結果よりも、余裕の有無のほうを、とかく問題にしたがる傾向がある。それだから、必ず試合には負けるのである。ほめた事ではない。私は気を取り直し、
「とにかく立たないか。君に、言いたい事があるんだ。」
 胸に、或る計画が浮かんだ。
「怒ったのかね。仕様がねえなあ。弱い者いじめを始めるんじゃないだろうね。」
 言う事がいちいち不愉快である。
「僕のほうが、弱い者かも知れない。どっちが、どうだか判ったものじゃない。とにかく起きて上衣《うわぎ》を着たまえ。」
「へん、本当に怒っていやがる。どっこいしょ。」と小声で言って少年は起き上り、「上衣なんて、ありやしない。」
「嘘をつけ。貧を衒《てら》う。安価なヒロイズムだ。さっさと靴《くつ》をはいて、僕と一緒に来たまえ。」
「靴なんて、ありやしない。売っちゃったんだよ。」立ちつくし、私の顔を見上げて笑っている。
 私は、異様な恐怖に襲われた。この目前の少年を、まるっきりの狂人ではないかと疑ったのである。
「君は、まさか、」と言いかけて、どもってしまった。あまりにも失礼な、恐しい質問なので、言いかけた当の私が、べそをかいた。
「きのう迄は、あったんだよ。要《い》らなくなったから、売っちゃった。シャツなら、あるさ。」と無邪気な口調で言って、足もとの草原から、かなり上等らしい駱駝《らくだ》色のアンダアシャツを拾い上げ、「はだかで、ここまで来られるものか。僕の下宿は本郷だよ。ばかだね、君は。」
「はだしで来たわけじゃ、ないだろうね。」私は尚《なお》も、しつこく狐疑《こぎ》した。甚だ不安なのである。
「ああ、陸の上は不便だ。」少年はアンダアシャツを頭からかぶって着おわり、「バイロンは、水泳している間だけは、自分の跛《びっこ》を意識しなくてよかったんだ。だから水の中に居ることを好んだのさ。本当に、本当に、水の中では靴も要らない。上衣も要らない。貴賤貧富の別が無いんだ。」と声に気取った抑揚《よくよう》をつけて言った。
「君はバイロンかい。」私は努めて興醒《きょうざ》めの言葉を選んで言った。少年の相変らずの思わせぶりが、次第に鼻持ちならなく感ぜられて来たのである。「君は跛でもないじゃないか。それに、人間は、水の中にばかり居られるものじゃない。」自分で言いながら、ぞっとした程狂暴な、味気ない言葉であった。毒を以て毒を制するのだ。かまう事は無い、と胸の奥でこっそり自己弁解した。
「嫉妬さ。妬《や》けているんだよ、君は。」少年は下唇をちろと舐《な》めて口早に応じた。「老いぼれのぼんくらは、若い才能に遭うと、いたたまらなくなるものさ。否定し尽すまでは、堪忍できないんだ。ヒステリイを起しちゃうんだから仕様が無い。話があるんなら、話を聞くよ。だらしが無いねえ、君は。僕を、どこかへ引っぱって行こうというのか?」
 見ると、彼は、いつのまにやら、ちゃんと下駄をはいている。買って間も無いものらしく、一見したところは私の下駄より、はるかに立派である。私は、なぜだか、ほっとした。救われた気持であった。浅間《あさま》しい神経ではあるが、私も、やはり、あまりに突飛な服装の人間には、どうしても多少の警戒心を抱いてしまうのである。服装なんか、どうでもいいものだとは、昔から一流詩人の常識になっていて、私自身も、服装に就いては何の趣味も無し、家の者の着せる物を黙って着ていて、人の服装にも、まるで無関心なのであるが、けれども、やはり、それにも程度があって、ズボン一つで、上衣も無し、靴も無しという服装には流石《さすが》に恐怖せざるを得なかったのである。所詮《しょせん》は、私の浅間しい俗人根性なのであろう。いまこの少年が、かなり上等のシャツを着込み、私のものより立派な下駄をはいて、しゃんと立っているのを見て、私は非常に安心したのである。まずまず普通の服装である。狂人では、あるまい。さっき胸に浮かんだ計画を、実行しても差支え無い。相手は尋常の男である。膝《ひざ》を交えて一論戦しても、私の不名誉にはなるまい。
「ゆっくり話をして、みたいんだがね。」私は技巧的な微笑を頬に浮かべて、「君は、さっきから僕を無学だの低能だのと称しているが、僕だって多少は、名の有る男だ。事実、無学であり低能ではあるが、けれども、君よりは、ましだと思っている。君には、僕を侮辱する資格は無いのだ。君の不当の暴言に対して、僕も返礼しなければならぬ。」なかなか荘重な出来である。それにも拘らず、少年は噴き出した。
「なあんだ、僕と遊びたがっていやがる。君も、よっぽどひまなんだね。何か、おごれよ。おなかが、すいた。」
 私も危く大笑いするところであったが、懸命に努めて渋面を作り、
「ごまかしては、いかん。君は今、或る種の恐怖を感じていなければならぬところだ。とにかく、僕と一緒に来給え。」ともすると笑い出しそうになって困るので、私は多少|狼狽《ろうばい》して後をも振り向かず急いで歩き出した。
 私の計画とは、計画という言葉さえ大袈裟《おおげさ》な程の、ほんのささやかな思いつきに過ぎないのである。井の頭公園の池のほとりに、老夫婦二人きりで営んでいる小さい茶店が一軒ある。私は、私の三鷹の家に、ほんのたまに訪れて来る友人たちを、その茶店に案内する事にしているのである。私は、どういうわけだか、家に在る時には頗《すこぶ》る口が重い。ただ、まごまごしている。たまに私の家に訪れて来る友人は、すべて才あり学あり、巧《たく》まずして華麗高潔の芸論を展開するのであるが、私は、れいの「天候居士」ゆえ、いたずらに、あの、あの、とばかり申して膝をゆすり、稀《まれ》には、へえ、などの平伏の返事まで飛び出す始末で、われながら、みっともない。かくては、襖《ふすま》の蔭で縫いものをしている家の者に迄あなどられる結果になるやも知れぬという、けち臭い打算から、私は友人を屋外に誘い出し、とにもかくにも散策を試み、それでもやはり私の旗色《はたいろ》は呆れる程に悪く、やりきれず、遂には、その井の頭公園の池のほとりの茶店に案内するという段取りになるのであった。この茶店の床几《しょうぎ》の上に、あぐらをかけば、私は不思議に蘇生《そせい》するのである。その床几の上に、あぐらをかいて池の面を、ぼんやり眺め、一杯のおしるこ、或《あるい》は甘酒をすするならば、私の舌端は、おもむろにほどけて、さて、おのれの思念開陳は、自由濶達、ふだん思ってもいない事まで、まことしやかに述べ来り、説き去り、とどまるところを知らぬ状態に立ち到ってしまうのである。この不思議の原因は、私も友人も、共に池の面を眺めながら話を交すというところに在るらしい。すなわち、談話の相手と顔を合わせずに、視線を平行に池の面に放射しているところに在るらしいのである。諸君も一度こころみるがよい。両者共に、相手の顔を意識せず、ソファに並んで坐って一つの煖炉の火を見つめながら、その火焔に向って交互に話し掛けるような形式を執《と》るならば、諸君は、低能のマダムと三時間話し合っても、疲れる事は無いであろう。一度でも、顔を見合わせてはいけない。私は、そこの茶店では、頑強に池の面ばかりを眺めて、辛うじて私の弁舌の糸口を摘出することに成功するのである。その茶店の床几は、謂《い》わば私のホオムコオトである。このコオトに敵を迎えて戦うならば、私は、ディドロ、サント・ブウヴほどの毒舌の大家にも、それほど醜い惨敗はしないだろうとも思われるけれど、私には学問が無いから、やっぱり負けるかも知れない。私には、あの人たちほどフランス語が話せない。そこに、その茶店の床几に、私は、この少年を連れていって、さっきの悪罵の返礼をしようと、たくらんでいたのである。私を、あまりにも愚弄《ぐろう》した。少し、たしなめてやらなければならぬ。
 若い才能と自称する浅墓《あさはか》な少年を背後に従え、公園の森の中をゆったり歩きながら、私は大いに自信があった。果して私が、老いぼれのぼんくらであるかどうか、今に見せてあげる。少年は、私について歩いているうちに次第に不安になって来た様子で、ひとりで何かと呟《つぶや》きはじめた。
「僕の母はね、死んだのだよ。僕の父はね、恥ずかしい商売をしているんだよ。聞いたら驚くよ。僕は、田舎者だよ。モラルなんて無いんだ。ピストルが欲しいな。パンパンと電線をねらって撃つと、電線は一本ずつプツンプツンと切れるんだ。日本は、せまいな。かなしい時には、素はだかで泳ぎまくるのが一番いいんだ。どうして悪いんだろう。なんにも出来やしないじゃないか。めったな事は言われねえ。説教なんて、まっぴらだ。本を読めば書いてあらあ。放《ほ》って置いてくれたって、いいじゃないか。僕はね、さえき五一郎って言うんだよ。数学は、あまり得意じゃないんだ。怪談が、一ばん好きだ。でもね、おばけの出方には、十三とおりしか無いんだ。待てよ、提燈《ちょうちん》ヒュウのモシモシがあるから、十四種類だ。つまらないよ。」
 わけの判らぬような事を、次から次と言いつづけるのであるが私は一切之を黙殺した。聞えない振りをして森を通り抜け、石段を降り、弁天様の境内を横切り、動物園の前を通って池に出た。池をめぐって半町ほど歩けば目的の茶店である。私は残忍な気持で、ほくそ笑んだ。さっきこの少年が、なあんだ遊びたがっていやがる、と言ったけれど、私の心の奥底には、たしかにそんな軽はずみな虫も動いていたようである。それから、もう一つ。次の時代の少年心理を、さぐってみたいという、けちな作家意識も、たしかに働いて、自分から進んでこの少年に近づいていったところもあったのである。ばかな事をしたものだ。おかげで私はそれから、不幸、戦慄《せんりつ》、醜態の連続の憂目を見なければならなくなったのである。
 茶店に到着して、すなわち床几《しょうぎ》にあぐらをかいて、静かに池の面に視線を放ち、これでよし、と再び残忍な気持でほくそ笑んだところ迄は上出来であったが、それからが、いけなかった。私がおしるこ二つ、と茶店の老婆に命じたところ、少年は、
「親子どんぶりがあるかね?」と私の傍に大きなあぐらをかいて、落ちついて言い出したので、私は狼狽した。私の袂《たもと》には、五十銭紙幣一枚しか無いのである。これは先刻、家を出る時、散髪せよと家の者に言われて、手渡されたものなのである。けれども私は、悪質の小説の原稿を投函して、たちまち友人知己の嘲笑が、はっきり耳に聞え、いたたまらなくなってその散髪の義務をも怠ってしまったのである。
「待て、待て。」と私は老婆を呼びとめた。全身かっと熱くなった。「親子どんぶりは、いくらだね。」下等な質問であった。
「五十銭でございます。」
「それでは、親子どんぶり一つだ。一つでいい。それから、番茶を一ぱい下さい。」
「ちえっ、」少年は躊躇なく私をせせら笑った。「ちゃっかりしていやがら。」
 私は、溜息をついた。なんと言われても、致しかたの無いことである。私は急に、いやになった。こんなに誇りを傷つけられて、この上なにを少年に説いてやろうとするのか。私は何も言いたくなくなった。
「君は、学生かい?」と私は、実に優しい口調で、甚《はなは》だ月並な質問を発してしまった。眼は、それでもやはり習慣的に池の面を眺めている。二尺ちかい緋鯉《ひごい》がゆらゆら私たちの床几の下に泳ぎ寄って来た。
「きのうまでは、学生だったんだ。きょうからは、ちがうんだ。どうでもいいじゃないか、そんな事は。」少年は、元気よく答える。
「そうだね。僕もあまり人の身の上に立ちいることは好まない。深く立ちいって聞いてみたって、僕には何も世話の出来ない事が、わかっているんだから。」
「俗物だね、君は。申しわけばかり言ってやがる。目茶苦茶や。」
「ああ、目茶苦茶なんだ。たくさん言いたい事も、あったんだけれど、いやになった。だまって景色でも見ているほうがいいね。」
「そんな身分になりたいよ。僕なんて、だまっていたくても、だまって居れない。心にもない道化でも言っていなけれや、生きて行けないんだ。」大人《おとな》びた、誠実のこもった声であった。私は思わず振り向いて、少年の顔を見直した。
「それは、誰の事を言っているんだ。」
 少年は、不機嫌に顔をしかめて、
「僕の事じゃないか。僕は、きのう迄、良家の家庭教師だったんだぜ。低能のひとり娘に代数を教えていたんだ。僕だって、教えるほど知ってやしない。教えながら覚えるという奴さ。そこは、ごまかしが、きくんだけども、幇間《ほうかん》の役までさせられて、」ふっと口を噤《つぐ》んだ。

       第三回

 茶店の老婆が、親子どんぶりを一つ、盆《ぼん》に捧げて持って来た。
「食べたら、どうかね。」
 少年は、急に顔を真赤にして、「君は? 食べないの?」と人が変ったようなおどおどした口調で言って、私の顔を覗《のぞ》き込む。
「僕は、要《い》らない。」私は、出来るだけ自然の風を装って番茶を飲み、池の向うの森を眺めた。
「いただきます。」と少年の、つつましい小さい声が聞えた。
「どうぞ。」と私は、少年をてれさせないように努めて淡泊の返事をして、また、ゆっくりと番茶を啜《すす》り、少年の事になど全く無関心であるかのように池の向うの森ばかりを眺めていた。あの森の中には、動物園が在る。きあっと、裂帛《れっぱく》の悲鳴が聞えた。
「孔雀《くじゃく》だよ。いま鳴いたのは孔雀だよ。」私はそう言って、ちょっと少年のほうを振り向いてみると、少年は、あぐらの中に、どんぶりを置き、顔を伏せて、箸《はし》を持った右手の甲で矢鱈《やたら》に両方の眼をこすっている。泣いている。
 その時には、私は、ただ困った。何事も知らぬ顔して、池のほうへ、そっと視線を返し、自分の心を落ちつかせる為に袂から煙草《たばこ》を取出して一服吸った。
「僕の名はね、」あきらかに泣きじゃくりの声で、少年は、とぎれとぎれに言い出した。「僕の名はね、佐伯《さえき》五一郎って言うんだよ。覚えて置いてね。僕は、きっと御恩返しをしてやるよ。君は、いい人だね。泣いたりなんかして、僕は、だらしがないなあ。僕はごはんを食べていると、時々むしょうに侘《わび》しくなるんだ。悲しい事ばかり、一度にどっと思い出しちゃうんだ。僕の父はね、恥ずかしい商売をしているんだ。田舎の小学校の先生だよ。二十年以上も勤めて、それでも校長になれないんだ。頭が悪いんだよ。息子《むすこ》の僕にさえ、恥ずかしがっているんだよ。生徒も、みんな、ばかにしているんだ。マンケという綽名《あだな》だよ。だから、僕は、偉くならなくちゃいけないんだ。」
「小学校の先生が、なぜそんなに恥ずかしい商売なんだ。」私は、思わず大声になり、口を尖《とが》らせて言った。「僕だって、小説が書けなくなったら、田舎の小学校の先生になろうと思っている。本当に良心をもって、情熱をぶち込める仕事は、この二つしか世の中に無いと思っている。」
「知らないんだよ、君は。」少年の声も、すこし大きくなった。「知らないんだよ。村の金持の子供には、先生のほうから御機嫌をとらなくちゃいけないんだ。校長や、村長との関係も、それや、ややこしいんだぜ。言いたくもねえや。僕は、先生なんていやだ。僕は、本気に勉強したかったんだ。」
「勉強したら、いいじゃないか。」根が、狭量の私は、先刻この少年から受けた侮辱を未だ忘れかねて、やはり意地悪い言いかたをしていた。「さっきの元気は、どうしたんだい。だらしの無い奴だ。男は、泣くものじゃないよ。そら、鼻でもかんで、しゃんとし給え。」私は、やはり池の面を眺めたままで、懐中の一帖の鼻紙を、少年の膝のほうに、ぽんと抛ってやった。
 少年は、くすと笑って、それから素直に鼻をかんで、
「なんと言ったらいいのかなあ。へんな気持なんだよ。親爺《おやじ》を喜ばせようと思って勉強していても、なんだか落ちつかないんだよ。五次方程式が代数的に解けるものだか、どうだか、発散級数の和が、有ろうと無かろうと、今は、そんな迂遠《うえん》な事をこね廻している時じゃないって、誰かに言われているような気がするのだ。個人の事情を捨てろって、こないだも、上級の生徒に言われたよ。でも、そんな事を言う生徒は、たいてい頭の悪い、不勉強な奴《やつ》にきまっているんだ。だから、なんだか、へんな気持になっちゃうんだよ。迂遠な学問なんかを、している時じゃ無い。肉体を、ぶっつけて行く練習だけの時代なのかしら。考えると、とても心細くなるんだよ。」
「君はそれを怠惰《たいだ》のいい口実にして、学校をよしちゃったんだな。事大主義というんだよ。大地震でも起って、世界がひっくりかえったら、なんて事ばかり夢想している奴なんだね、君は。」私は、多少いい気持でお説教をはじめた。「たった一日だけの不安を、生涯の不安と、すり変えて騒ぎまわっているのだ。君は秩序のネセシティを信じないかね。ヴァレリイの言葉だけれどもね、」と私は軽く眼をつぶり、あれこれと考えをまとめる振りして、やがて眼をひらき、中々きざな口調で、「法律も制度も風俗も、昔から、ちっとは気のきいた思想家に、いつでも攻撃され、軽蔑されて来たものだ。事実また、それを揶揄《やゆ》し皮肉《ひにく》るのは、いい気持のものさ。けれども、その皮肉は、どんなに安易な、危険な遊戯であるか知らなければならぬ。なんの責任も無いんだからね。法律、制度、風俗、それがどんなに、くだらなく見えても、それが無いところには、知識も自由も考えられない。大船に乗っていながら、大船の悪口を言っているようなものさ。海に飛び込んだら、死ぬばかりだ。知識も、自由思想も、断じて自然の産物じゃない。自然は自由でもなく自然は知識の味方をするものでもないと言うんだ。知識は、自然と戦って自然を克服し、人為を建設する力だ。謂わば、人工の秩序への努力だ。だから、どうしても、秩序とは、反自然的な企画なんだが、それでも、人は秩序に拠《よ》らなければ、生き伸びて行く事が出来なくなっている、というんだがね。君が時代に素直で、勉強を放擲《ほうてき》しようとする気持もわかるけれど、秩序の必然性を信じて、静かに勉強を続けて行くのも亦《また》、この際、勇気のある態度じゃないのかね。発散級数の和でも、楕円函数でも、大いに研究するんだね。」私は、やや得意であった。言い終って、少年の方を、ちらと伺って見ると、少年は、私のお説教を半分も聞いていなかったらしく、無心に、ごはんを食べていた。「どうかね。わかったかね。」私は、しつこく賛意を求めた。少年は顔を挙げ、ごはんを呑み込んでから言った。
「ヴァレリイってのは、フランスの人でしょう?」
「そうだ。一流の文明批評家だ。」
「フランスの人だったら、だめだ。」
「なぜ?」
「戦敗国じゃないか。」少年の大きな黒い眼には、もう涙の跡も無く、涼しげに笑っている。「亡国の言辞ですよ。君は、人がいいから、だめだなあ。そいつの言ってる秩序ってのは、古い昔の秩序の事なんだ。古典擁護に違いない。フランスの伝統を誇っているだけなんですよ。うっかり、だまされるところだった。」
「いや、いや、」私は狼狽して、あぐらを組み直した。「そういう事は無い。」
「秩序って言葉は、素晴しいからなあ。」少年は、私の拒否を無視して、どんぶりを片手に持ったまま、ひとりで詠嘆の言葉を発し、うっとりした眼つきをして見せた。「僕は、フランス人の秩序なんて信じないけれど、強い軍隊の秩序だけは信じているんだ。僕には、ぎりぎりに苛酷の秩序が欲しいのだ。うんと自分を、しばってもらいたいのだ。僕たちは、みんな、戦争に行きたくてならないのだよ。生ぬるい自由なんて、飼い殺しと同じだ。何も出来やしないじゃないか。卑屈《ひくつ》になるばかりだ。銃後はややこしくて、むずかしいねえ。」
「何を言ってやがる。君は、一ばん骨の折れるところから、のがれようとしているだけなんだ。千の主張よりも、一つの忍耐。」
「いや、千の知識よりも、一つの行動。」
「そうして君に出来る唯一の行動は、まっぱだかで人喰い川を泳ぐだけのものじゃないか。ぶんを知らなくちゃいけない。」私は、勝ったと思った。
「さっきは、あれは、特別なんだよ。」少年は、大人のような老いた苦笑をもらした。「どうも、ごちそうさま。」と神妙にお辞儀して、どんぶりを傍に片附け、「事情があったんだよ。聞いてくれるかね?」
「言ってみ給え。」騎虎《きこ》の勢である。
「言ってみたって、どうにもならんけど、このごろ僕は、目茶苦茶なんだよ。中学だけは、家のお金で卒業できたのだけれど、あとが続かなかったんだ。貧乏なんだよ。僕は数学を、もっと勉強したかったから、父に無断で高等学校に受けて、はいったんだ。葉山さんを知ってるかい? 葉山圭造。いつか、鉄道の参与官か何かやっていた。代議士だよ。」
「知らないね。」私は、なぜだか、いらいらして来た。どうも私は、人の身の上話を聞く事は、下手である。われに何の関《かかわ》りあらんや、という気がして来るのである。黙って聞いているうちに、自分の肩にだんだん不慮の責任が覆《おお》いかぶさって来るようで、不安なやら、不愉快なやら、たまらぬのである。その人を、気の毒と思っても、自分には何も出来ぬという興醒めな現実が、はっきりわかっているので、なおさら、いやになるのだ。「代議士なんてのは、知らないね。金持なのかい?」
「まあ、そうだ。」少年は、ひどく落ちついた口調である。「僕の郷土の先輩なんだ。郷土の先輩なんて、可笑《おか》しなものさ。同じお国|訛《なまり》があるだけさ。僕は、その人からお金をもらって、いや、ただもらっていたわけじゃ無いんだ。僕は、教えていたんだ。」
「教えながら教わっていたのかね。」私は、早くこの話を、やめてもらいたかった。少しも興味が無い。
「女学校三年の娘がひとりいるんだ。団子《だんご》みたいだ。なっちゃいない。」
「ほのかな恋愛かね。」私は、いい加減な事ばかり言っていた。
「ばか言っちゃいけない。」少年は、むきになった。「僕には、プライドがあるんだ。このごろ、だんだんそいつが、僕を小使みたいに扱って来たんだよ。奥さんも、いけないんだがね。とうとう、きのう我慢出来なくなっちゃって、――」
「僕は、つまらないんだよ、そういう話は。世の中の概念でしか無い。歩けば疲れる、という話と同じ事だ。」私は、この少年と共に今まで時を費したのを後悔していた。
「君は、お坊ちゃん育ちだな。人から金をもらう、つらさを知らないんだ。」少年は、負けていなかった。「概念的だっていい。そんな、平凡な苦しさを君は知らないんだ。」
「僕だって、それや知っているつもりだがね。わかり切った事だ。胸に畳《たた》んで、言わないだけだ。」
「それじゃ君は、映画の説明が出来るかね?」少年と私とは、先刻から、視線を平行に池の面に放って、並んで坐ったままなのである。
「映画の説明?」
「そうさ。娘が、この春休みに北海道へ旅行に行って、そうして、十六ミリというのかね、北海道の風景を、どっさり撮影して来たというわけさ。おそろしく長いフィルムだ。僕も、ちょっと見せてもらったがね。しどろもどろの実写だよ。こんどそれを葉山さんのサロンで公開するんだそうだ。所謂《いわゆる》、お友達、を集めてね。ところが、その愚劣な映画の弁士を勤めて、お客の御機嫌を取り結ぶのが、僕の役目なんだそうだ。」
「それあいい。」私は、大声で笑ってしまった。「いいじゃないか。北海道の春は、いまだ浅くして、――」
「本気で言ってるのかね?」少年の声は、怒りに震えているようであった。
 私は、あわてて頬を固くし、真面目な口調に返り、
「僕なら、平気でやってのけるね。自己優越を感じている者だけが、真の道化をやれるんだ。そんな事で憤慨して、制服をたたき売るなんて、意味ないよ。ヒステリズムだ。どうにも仕様がないものだから、川へ飛びこんで泳ぎまわったりして、センチメンタルみたいじゃないか。」
「傍観者は、なんとでも言えるさ。僕には、出来ない。君は、嘘つきだ。」
 私は、むっとした。
「じゃ、これから君は、どうするつもりなんだい。わかり切った事じゃないか。いつまでも、川で泳いでいるつもりなのか。帰るより他は無いんだ。元の生活に帰り給え。僕は忠告する。君は、自分の幼い正義感に甘えているんだ。映画説明を、やるんだね。なんだい、たった一晩の屈辱じゃないか。堂々と、やるがいい。僕が代ってやってもいいくらいだ。」最後の一言がいけなかった。とんでも無い事になったのである。私は少年から、嘘つき、と言われ、奇妙に痛くて逆上し、あらぬ事まで口走り、のっぴきならなくなったのである。
「君に、出来るものか。」少年は、力弱く笑った。
「出来るとも。出来るよ。」とむきになって言い切った。
 それから一時間のち、私は少年と共に、渋谷の神宮通りを歩いていた。ばかばかしい行為である。私は、ことし三十二歳である。自重しなければならぬ。けれども私は、この少年に、口さきばかり、と思われたくないばかりに、こうして共に歩いている。所詮は私も、自分の幼い潔癖に甘えていたのかも知れない。私は自分の不安な此《こ》の行動に、少年救済という美名を附して、わずかに自分で救われていた。溺れかけている少年を目前に見た時は、よし自分が泳げなくとも、救助に飛び込まなければならぬ。それが市民としての義務だ、と無理矢理自分に思い込ませるように努力していた。全く、単に話の行きがかりから、私は少年の代りに一夜だけ、高等学校の制服制帽で、葉山家に出かけて行かなければならなくなったのである。佐伯五一郎の友人として、きょうは佐伯が病気ゆえ、代りに僕が参りましたと挨拶して、「早春の北海道」というその愚にもつかぬ映画を面白おかしく説明しなければならなくなった。
 私には、もとより制服も制帽も無い。佐伯にも無い。きのう迄は、あったんだけれど、靴もろとも売ってしまったというのである。借りに行かなければならぬ。佐伯は私の実行力を疑い、この企画に躊躇《ちゅうちょ》していたようであったが、私は、少年の逡巡《しゅんじゅん》の様を見て、かえって猛《たけ》りたち、佐伯の手を引かんばかりにして井の頭の茶店を立ち出で、途中三鷹の私の家に寄って素早く鬚《ひげ》を剃《そ》り大いに若がえって、こんどは可成りの額の小遣銭《こづかいせん》を懐中して、さて、君の友人はどこにいるか、制服制帽を貸してくれるような親しい友人はいないか、と少年に問い、渋谷に、ひとりいるという答を得て、ただちに吉祥寺駅から、帝都電鉄に乗り、渋谷に着いた。私は少し狂っていたようである。
 神宮通りをすたこら歩いた。葉山家、映画の会は、今夜だという。急がなければならぬ。
「ここです。」少年は立ちどまった。
 古い板塀の上から、こぶしの白い花が覗いていた。素人《しろうと》下宿らしい。
「くまもとう!」と少年は、二階の障子《しょうじ》に向って叫んだ。
「くまもと、くん。」と私も、いつしか学生になったつもりで、心易く大声で呼びたてた。

       第四回

[#ここから2字下げ]
ワグネル君、
正直に叫んで、
成功し給え。
しんに言いたい事があるならば、
それをそのまま言えばよい。(ファウスト)
[#ここで字下げ終わり]

「はい。」という女のように優しい素直な返事が二階の障子の奥から聞えて来たので、私は奇妙に拍子抜けがした。いやしくも熊本君ともあろうものが、こんな優しい返事をするとは思わなかった。青本女之助とでも改名すべきだと思った。
「佐伯だあ。あがってもいいかあ。」少年佐伯のほうが、よっぽど熊本らしい粗暴な大声で、叫ぶのである。
「どうぞ。」
 実に優しかった。
 私は呆れて噴き出した。佐伯も、私の気持を敏感に察知したらしく、
「ディリッタンティなんだ。」と低い声で言って狡猾《こうかつ》そうに片眼をつぶってみせた。「ブルジョアさ。」
 私たちは躊躇せず下宿の門をくぐり、玄関から、どかどか二階へ駈けあがった。
 佐伯が部屋の障子をあけようとすると、
「待って下さい。」と懸命の震え声が聞えた。やはり、女のように甲高《かんだか》い細い声であったが、せっぱつまったものの如く、多少は凜《りん》としていた。「おひとり? お二人?」
「お二人だ。」うっかり私が答えてしまった。
「どなた? 佐伯君、一緒の人は、誰ですか?」
「知らない。」佐伯は、当惑の様子であった。
 私は、まだ佐伯に私の名前を教えていなかったのである。
「木村武雄、木村武雄。」と私は、小声で佐伯に教えた。太宰《だざい》というのは、謂《い》わばペンネエムであって、私の生まれた時からの名は、その木村武雄なのである。なんとも、この名前が恥ずかしく、私は痩せている癖に太宰なぞという喧嘩《けんか》の強そうな名前を選んで用いているわけであるが、それでも、こんなに気持のせいている時には、思わずふっと、親から貰った名前のほうを言い出してしまうのである。「僕を木村武雄と呼んでくれ給え。」と言い足してみたが、私は、やはりなんだか恥ずかしかった。
「木村たけお。」佐伯は、うなずいて、「木村武雄くんと一緒に来たんだがね。」
「木村たけお? 木村、武雄くんですか?」障子の中でも、不審そうに呟《つぶや》いている。私は、たまらなくなって来た。木村武雄という名は、世界で一ばん愚劣なもののように思われた。
「木村武雄という者ですが。」私は、やぶれかぶれに早口で言って、「お願いがあって、やって来たんですけど。」
「おゆるし下さい。」意外の返事であった。「初対面のおかたとは、お逢いするのが苦しいのです。」
「何を言ってやがる。相変らず鼻持ちならねえ。」と佐伯が小声で呟いたのを、障子のかなたから聞き取った様子で、
「その鼻のことです。私は鼻を虫に刺されました。こんな見苦しい有様で、初対面のおかたと逢うのは、何より、つらい事です。人間は、第一印象が大事ですから。」
 私たちは、爆笑した。
「ばかばかしい。」佐伯は、障子をがらりと開けて転げ込むようにして部屋へはいった。私も、おなかを抑えて笑い咽《むせ》びよろよろ部屋へ、はいってしまった。
 薄暗い八畳間の片隅に、紺絣《こんがすり》を着た丸坊主の少年がひとりきちんと膝を折って坐っていた。顔を見ると、やはり、青本女之助に違いなかった。熊本という逞しい名前の感じは全然、無かったのである。白くまんまるい顔で、ロイド眼鏡の奥の眼は小さくしょぼしょぼして、問題の鼻は、そういえば少し薄赤いようであったが、けれども格別、悲惨な事もなかった。からだは、ひどく、でっぷり太っている。背丈は、佐伯よりも、さらに少し低いくらいである。おしゃれの様子で、襟元《えりもと》をやたらに気にして直しながら、
「佐伯君、少し乱暴じゃありませんか。」と真面目な口調で言って、「僕は、親にさえ、こういう醜い顔を見せた事はないのですからね。」つんとして見せた。
 佐伯は、すぐに笑いを鎮《しず》めて、熊本君のほうに歩み寄り、
「読書かね?」と、からかうような口調で言い熊本君の傍にある机の、下を手さぐりして、一冊の文庫本を拾い上げた。机の上には、大形の何やら横文字の洋書が、ひろげられていたのであるが、佐伯はそれには一瞥《いちべつ》もくれなかった。「里見八犬伝か。面白そうだね。」と呟き、つっ立ったまま、その小さい文庫本のペエジをぱらぱら繰ってみて、「君は、いつでも読まない本を机の上にひろげて置いて、読んでる本は必ず机の下に隠して置くんだね。妙な癖があるんだね。」笑いもせずに、そう言い放って、その文庫本を熊本君の膝の上にぽんと投げてやった。
 熊本君は、気の毒なほど露《あら》わに狼狽し、顔を真赤にして膝の上のその本を両手で抑え、
「軽蔑し給うな。」と、ほとんど聞えぬくらいの低い声で言い、いかにも怨《うら》めしそうに佐伯の顔を横目で見上げた。
 私は部屋の隅にあぐらをかいて坐って、二人の様を笑いながら眺めていたが、なんだかひどく熊本君が可哀想になって来て、
「里見八犬伝は、立派な古典ですね。日本的ロマンの、」鼻祖と言いかけて、熊本君のいまの憂鬱要因に気がつき、「元祖ですね。」と言い直した。
 熊本君は、救われた様子であった。急にまた、すまし返って、
「たしかに、そんなところもありますね。」赤い唇を、きゅっと引き締めた。「僕は最近また、ぼちぼち読み直してみているんですけれども。」
「へへ、」佐伯は、机の傍にごろりと仰向きに寝ころび、へんな笑いかたをした。「君は、どうしてそんな、ぼちぼち読み直しているなんて嘘ばかり言うんだね? いつでも、必ずそう言うじゃないか。読みはじめた、と言ったっていいと思うがね。」
「軽蔑し給うな。」と再び熊本君は、その紳士的な上品な言葉を、まえよりいくぶん高い声で言って抗議したのであるが、顔は、ほとんど泣いていた。
「里見八犬伝を、はじめて読む人なんか無いよ。読み直しているのに違いない。」私は、仲裁してやった。この二少年の戦いの有様を眺めているのも楽しかったが、それよりも、今の私には、もっと重大な仕事があった。
「熊本君。」と語調を改めて呼びかけ、甚だ唐突なお願いではあるが、制服と帽子を、こんや一晩だけ貸して下さるまいか、と真面目に頼み込んだのである。
「制服と帽子? あの、僕の制服と帽子ですか?」熊本君は不機嫌そうに眉《まゆ》をひそめ、それから、寝ころんでいる佐伯のほうに向き直って、「佐伯君、僕は不愉快ですよ。僕を、あまり軽蔑しないで下さい。いったい、この人は、なんですか?」
「いやなら、よせ。」佐伯は寝ころんだままで呶鳴《どな》った。「無理に頼むわけじゃないんだ。君こそ失礼だぞ。そこにいる人は、いい人なんだ。君みたいなエゴイストじゃないんだ。」
「いや、いや。」私は佐伯に、いい人と言われて狼狽した。「僕だって、エゴイストです。佐伯君がいやだというのを僕が無理を言って、ここへ連れて来てもらったのですから。事情を申し上げてもいいんだけど、とにかく、僕から頼むのです。一晩だけ貸して下さい。あしたの朝早く、必ずお返し致します。」
「勝手にお使い下さい。僕は、存じません。」と泣き声で言って、くるりと、私の方に背を向け、机の上の洋書を、むやみにぱっぱっとめくった。
「よそうよ。僕は、どうなったって、いいんだ。」佐伯は上半身を起して、私に言った。
「それあ、いかん。」私は、断然首を横に振った。「君は、今になって、そんな事を言い出すのは、卑怯《ひきょう》だ。それじゃ、まるで、僕が君にからかわれて、ここまでやって来たようなものだ。」
「なんですか。」熊本君は、私たちが言い争いをはじめたら、奇妙に喜びを感じた様子で、くるりと、またこちらに向き直り、「佐伯君が、また何か、はじめたのですか? 深い事情があるようですね。」と、ひどく尊大な口調で言い、さも、分別ありげに腕組みをした。
「もういいんだ。僕は、熊本なんかに、ものを頼みたくないんだ。」佐伯は、急に立ちあがった。「僕は、帰るぞ。」
「待て、待て。」私も立ち上って、佐伯を引きとめた。「君には、帰るところは無い筈だ。熊本君だって、制服を貸さないとは言ってないんだ。君は、だだっ子と言われても仕様が無いよ。」
 熊本君は、私が佐伯をやり込めると、どういうわけか、実に嬉しい様子であった。いよいよ得意顔して立ち上り、
「そうですとも。だだっ子と言われても仕様が無いですとも。僕は、お貸ししないとは言ってないんですからね。僕はエゴイストじゃありません。」壁に掛けてある制服と制帽を颯《さ》っとはずして、百万円でも貸与する時のように、もったいぶった手つきで私のほうに差し出した。「お気に召しますか、どうですか。」
「いや、結構です。」私は思わず、ぺこりとお辞儀をして、「ここで失礼して、着換えさせていただきます。」
 着換えが終った。結構ではなかった。結構どころか、奇態であった。袖口からは腕が五寸も、はみ出している。ズボンは、やたらに太く、しかも短い。膝が、やっと隠れるくらいで、毛臑《けずね》が無残に露出している。ゴルフパンツのようである。私は流石《さすが》に苦笑した。
「よせよ。」佐伯は、早速《さっそく》嘲笑した。「なってないじゃないか。」
「そうですね。」熊本君も、腕をうしろに組んで、私の姿をつくづく見上げ、見下し、「どういう御身分のおかたか存じませんけれど、これでは、私の洋服の評判まで悪くなります。」と言って念入りに溜息まで吐いてみせた。
「かまわない。大丈夫だ。」私は頑張った。「こんな学生を、僕は、前に本郷で見た事があるよ。秀才は、たいてい、こんな恰好《かっこう》をしているようだ。」
「帽子が、てんで頭にはいらんじゃないか。」佐伯は、またしても私にけちを附けた。「いっそ、まっぱだかで歩いたほうが、いいくらいだ。」
「僕の帽子は、決して小さいほうでは、ありません。」熊本君はもっぱら自分の品物にばかり、こだわっている。「僕の頭のサイズは、普通です。ソクラテスと同じなんです。」
 熊本君の意外の主張には、私も佐伯も共に、噴き出してしまった。熊本君も、つい吊り込まれて笑ってしまった。部屋の空気は期せずして和《なご》やかになり、私たち三人、なんだか互に親しさを感じ合った。私は、このまま三人一緒に外出して、渋谷のまちを少し歩いてみたいと思った。日が暮れる迄には、まだ、だいぶ間が在る。私は熊本君から風呂敷《ふろしき》を借りて、それに脱ぎ捨てた着物を包み、佐伯に持たせて、
「さあ行こう。熊本君も、そこまで、どうです。一緒にお茶でも、飲みましょう。」
「熊本は勉強中なんだ。」佐伯は、なぜだか、熊本君を誘うのに反対の様子を示した。「これから、また、ぼちぼち八犬伝を読み直すのだから。」
「僕は、かまいません。」熊本君も、私たちと一緒に外出したいらしいのである。「なんだか、面白くなりそうですね。あなたは青春を恢復《かいふく》したファウスト博士のようです。」
「すると、メフィストフェレスは、この佐伯君という事になりますね。」私は、年齢を忘れて多少はしゃいでいた。「これが、むく犬の正体か。旅の学生か。滑稽至極じゃ。」
 たわむれて佐伯の顔を覗くと、佐伯の眼のふちが赤かった。涙ぐんでいるのである。今夜の事が急に心配になって来たのだろうと、私は察した。黙って少年佐伯の肩を、どんと叩いて私は部屋から出た。必ず救ってやろうと、ひそかに決意を固くしたのである。
 三人は、下宿を出て渋谷駅のほうへ、だらだら下りていった。路ですれちがう男女も、そんなに私の姿を怪しまないようである。熊本君は、紺絣《こんがすり》の袷《あわせ》にフェルト草履《ぞうり》、ステッキを持っていた。なかなか気取ったものであった。佐伯は、れいの服装に、私の着物在中の風呂敷包みを持ち、私は小さすぎる制服制帽に下駄ばきという苦学生の恰好で、陽春の午後の暖い日ざしを浴び、ぶらぶら歩いていたのである。
「どこかで、お茶でも飲みましょう。」私は、熊本君に伺った。
「そうですねえ。せっかく、お近づきになったのですし。」と熊本君は、もったいぶり、「しかし、女の子のいるところは、割愛しましょう。きょうは、鼻が、こんなに赤いのですから。人間の第一印象は、重大ですよ。僕をはじめて見た女の子なら、僕が生まれた時からこんなに鼻が赤くて、しかもこの後も永久に赤いのだと独断するにきまっています。」真剣に主張している。
 私は、ばかばかしく思ったが、懸命に笑いを怺《こら》えて、
「じゃ、ミルクホールは、どうでしょう。」
「どこだって、いいじゃないか。」佐伯は、先刻から意気|銷沈《しょうちん》している。まるで無意志の犬のように、ぶらりぶらり、だらしない歩きかたをして、私たちから少し離れて、ついて来る。「お茶に誘うなんてのは、お互、早く別れたい時に用いる手なんだ。僕は、人から追っぱらわれる前には、いつでもお茶を飲まされた。」
「それは、どういう意味なんですか。」熊本君は、くるりと背後の佐伯に向き直って詰め寄った。「へんな事を言い給うな。僕と、このかたとお茶を飲むのは、お互の親和力の結果です。純粋なんだ。僕たちは、里見八犬伝に於《おい》て共鳴し合ったのです。」
 往来で喧嘩が、はじまりそうなので、私は閉口した。
「止《よ》し給《たま》え。止し給え。どうして君たちは、そんなに仲が悪いんだ。佐伯の態度も、よくないぞ。熊本君は、紳士なんだ。懸命なんだよ。人の懸命な生きかたを、嘲笑するのは、間違いだ。」
「君こそ嘲笑している癖に。」佐伯は、私にかかって来た。「君は、老獪《ろうかい》なだけなんだ。」
 言い合っていると際限が無かった。私は、小さい食堂を前方に見つけて、
「はいろう。あそこで、ゆっくり話そう。」興奮して蒼《あお》ざめ、ぶるぶる震えている熊本君の片腕をつかんで、とっとと歩き出した。佐伯も私たちの後から、のろのろ、ついて来た。
「佐伯君は、いけません。悪魔です。」熊本君は、泣くような声で訴えた。「ご存じですか? きのう留置場から出たばかりなんですよ。」
 私は仰天した。
「知りません。全然、知りません。」
 私たちは、もう、その薄暗い食堂にはいっていた。

       第五回

 私は暫《しばら》く何も、ものが言えなかった。裏切られ、ばかにされている事を知った刹那《せつな》の、あの、つんのめされるような苦い墜落の味を御馳走された気持で、食堂の隅の椅子に、どかりと坐った。私と向い合って、熊本君も坐った。やや後れて少年佐伯が食堂の入口に姿を現したと思うと、いきなり、私のほうに風呂敷包みを投げつけ、身を飜《ひるがえ》して逃げた。私は立ち上って食堂から飛び出し、二、三歩追って、すぐに佐伯の左腕をとらえた。そのまま、ずるずる引きずって食堂へはいった。こんな奴に、ばかにされてたまるか、という野蛮な、動物的な格闘意識が勃然《ぼつぜん》と目ざめ、とかく怯弱《きょうじゃく》な私を、そんなにも敏捷《びんしょう》に、ほとんど奇蹟《きせき》的なくらい頑強に行動させた。佐伯は尚も、のがれようとして※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いた。
「坐り給え。」私は彼を無理矢理、椅子に坐らせようとした。
 佐伯は、一言も発せず、ぶるんと大きく全身をゆすぶって私の手から、のがれた。のがれて直《す》ぐにポケットから、きらりと光るものを取り出し、
「刺すぞ。」と、人が変ったような、かすれた声で言った。私は、流石《さすが》に、ぎょっとした。殺されるかも知れぬ、と一瞬思った。恐怖の絶頂まで追いつめられると、おのずから空虚な馬鹿笑いを発する癖が、私に在る。なんだか、ぞくぞく可笑《おか》しくて、たまらなくなるのだ。胆《きも》が太いせいでは無くて、極度の小心者ゆえ、こんな場合ただちに発狂状態に到達してしまうのであるという解釈のほうが、より正しいようである。
「はははは。」と私は空虚な笑声を発した。「恥ずかしくて、きりきり舞いした揚句《あげく》の果には、そんな殺伐なポオズをとりたがるものさ。覚えがあるよ。ナイフでも、振り上げないことには、どうにも、形がつかなくなったのだろう?」
 佐伯は、黙って一歩、私に近寄った。私は、さらに大いに笑った。佐伯は、ナイフを持ち直した。その時、熊本君は、佐伯の背後からむずと組み附いて、
「待って下さい。」と懸命の金切り声を挙げ、「そのナイフは、僕のナイフです。」と又しても意外な主張をしたのである。「佐伯君、君はひどいじゃないか。そのナイフは、僕の机の左の引出しにはいっていたんでしょう? 君は、さっき僕に無断で借用したのに、ちがいありません。僕は、人間の名誉というものを重んずる方針なのだから、敢《あ》えて、盗んだとは言いません。早く返して下さい。僕は、大事にしていたんだ。僕は、この人に帽子と制服とだけは、お貸ししたけれど、君にナイフまでは、お貸しした覚えが無いのです。返して下さい。僕は、お姉さんから、もらったんだ。大事にしていたんですよ。返して下さい。そんなに乱暴に扱われちゃ困りますよ。そのナイフには、小さい鋏《はさみ》も、缶切《かんき》りも、その他三種類の小道具が附いているんですよ。デリケエトなんですよ。ごしょうだから返して下さい。」と、れいの泣き声で、わめき散らしたのである。
 悪漢佐伯も、この必死の抗議には参ったらしく、急に力が抜けた様子で、だらりと両腕を下げ、蒼白《そうはく》の顔に苦笑を浮かべ、
「返すよ。返すよ。返してやるよ。」と自嘲の口調で言って、熊本君の顔を見ずにナイフを手渡し、どたりと椅子に腰を下した。
「さあ、何とでも言うがいい。」と佐伯は、ほんものの悪党みたいな、下品な口をきいたので、私は興醒《きょうざ》めして、しきりに悲しかった。佐伯の隣りの椅子に、腰をおろして、
「五一郎君、」とはじめて佐伯の名を、溜息と共に言い、「そんなふてくされたものの言いかたをするものじゃないよ。君らしくも無いじゃないか。」
「猫撫で声は、よしてくれ。げろが出そうだ。はっきり負けた奴に、そんなに優しくお説教をはじめるのは、いい気持のものらしいね。」佐伯は、顔を不機嫌にしかめて、強く、吐き出すように言い、両腕をぐったりテエブルの上に投げ出した。手が附けられぬくらいに、ふてくされてしまっている。私は、いよいよ味気ない思いであった。
「君はくだらない奴だね。」と私は、思ったままを、つい言ってしまった。
「ああ、そうさ。」すぐに、はね返して寄こすのである。「だから、はじめから、言ってるじゃねえか。説教なんか、まっぴらだって言ったじゃないか。放《ほ》って置いてくれたっていいんだ。」まっすぐに、食堂の壁を見ながら言っているのであるが、その眼は薄く涙ぐんでいた。私は、その様を見て何だか、ものを言うのが再び、いやになった。熊本君は、ちゃんと私たちと向い合って坐っていて、いましがた死力を尽して奪い返したデリケエトのナイフが、損傷していないかどうか、たんねんに調べ、無事である事を見とどけてから、ハンケチに包んで右の袂《たもと》の中にしまい込み、やっと、ほっとしたような顔になり、私たち二人を改めてきょろきょろ見比べ、
「なんですか? さて、どうしたのですか。あなたのおっしゃる事にも、また、佐伯君の申す事にも、一応は首肯《しゅこう》できるような気がするのですけれど、もっと、つき進めた話を伺わないことには。」と、あくまで真面目くさった顔で言い、「コオヒイにしますか。それとも何か食べますか。とにかく何か、注文いたしましょう。ゆっくり話し合ってみたら、或は一致点に到達できるかも知れませんからね。」熊本君は、私たち二人に更に大いに喧嘩させて、それを傍で分別顔して聞きながら双方に等分に相槌《あいづち》を打つという、あの、たまらぬ楽しみを味わうつもりでいるらしかった。佐伯は逸早《いちはや》く、熊本君の、そのずるい期待を見破った様子で、
「君は、もう帰ったらどうだい。ナイフも返してやったし、制服と帽子も今すぐ、この人が返してあげるそうだ。ステッキを忘れないようにしろよ。」にこりともせず、落ちついた口調で言ったのである。
 熊本君は、もう既に泣きべそを掻《か》いて、
「そんなに軽蔑しなくてもいいじゃないですか。僕だって、君の力になってやろうと思っているのですよ。」
 私は、熊本君のその懸命の様子を、可愛く思った。
「そうだ、そうだ。熊本君は、このとおり僕に制服やら帽子やらを貸してくれたし、謂わば大事な人だ。ここにいてもらったほうがいい。コオヒイ、三つだ。」私は、食堂の奥のほうに向って大声でコオヒイを命じた。薄暗い、その食堂の奥に先刻から、十三、四歳の男の子が、ぼんやり立って私たちのほうを眺めていたのである。
「母ちゃん、お風呂へ行った。」その、まだ小学校に通っているらしい男の子は、のろい口調で答えるのである。「もうすぐ、帰って来るよ。」
「ああ、そうか。」私は瞬間、当惑した。「どうしましょう。」と小声で熊本君に相談した。
「待っていましょう。」熊本君は、泰然《たいぜん》としていた。「ここは、女の子がいないから、気がとても楽です。」やはり、自分の鼻に、こだわっている。
「ビイルを飲めば、いいじゃないか。」佐伯は、突然、言い出した。「そこに、ずらりと並んである。」
 見ると、奥の棚にビイルの瓶が、成程《なるほど》ずらりと並んである。私は、誘惑を感じた。ビイルでも一ぱい飲めば、今の、この何だかいらいらした不快な気持を鎮静させることが出来るかも知れぬと思った。
「おい、」と店番の男の子を呼び、「ビイルだったら、お母さんがいなくても出来るわけだね。栓抜《せんぬ》きと、コップを三つ持って来ればいいんだから。」
 男の子は、不承不承に首肯《うなず》いた。
「僕は、飲みませんよ。」熊本君は、またしても、つんと気取った。「アルコオルは、罪悪です。僕は、アカデミックな態度を、とろうと思います。」
「誰も君に、」佐伯は、やや口を尖らせて言った。「飲めと言ってやしないよ。へんな事を言わないで、お姉さんに叱られますと言ったほうが、早わかりだ。」
「君は、飲むつもりですか?」熊本君も、こんどは、なかなか負けない。「止し給え。僕は、忠告します。君は、おとといもビイルを飲んだそうじゃないですか。留置場に、とめられたって、学校じゃ評判なんですよ。」
 男の子が、ビイルを持って来て、三人の前に順々にコップを置くが早いか熊本君は、一つのコップを手に取って憤然、ぱたりと卓の上に伏せた。私は内心、閉口した。
「よし、佐伯も飲んじゃいかん。僕が、ひとりで飲もう。アルコオルは、本当に、罪悪なんだ。なるべくは、飲まぬほうがいいのだ。」言いながら、私はビイル瓶の栓を抜き、ひとりで自分のコップに注《つ》いで、ぐっと一息で飲みほした。うまかった。「ああ、まずいな。」とてれ隠しの嘘をついて、「僕も、アルコオルは、きらいなんだ。でも、ビイルは、そんなに酔わないからいいんだ。」何かと自己弁解ばかりして、「アカデミックな態度ばかりは、失いたくありませんからね。」と熊本君にまで卑しいお追従《ついしょう》を言ったのである。
「そうですとも。」熊本君は、御機嫌を直して、尊大な口調で相槌打った。「私たちは、パルナシヤンです。」
「パルナシヤン。」佐伯は、低い声でそっと呟《つぶや》いていた。「象牙《ぞうげ》の塔か。」
 佐伯の、その、ふっと呟いた二言には、へんにせつない響きがあった。私の胸に、きりきり痛く喰いいった。私は、更に一ぱいビイルを飲みほした。
「五一郎君、」と私は親愛の情をこめて呼んだ。「僕には、なんでも皆わかっているのだよ。さっき君が僕に風呂敷包みを投げつけて、逃げ出そうとした時、はっと皆わかってしまったのだ。君は、僕をだましたね。いや、責めるのじゃない。人を責めるなんて、むずかしい事だ。僕は、わかったけれども、何も言えなかったのだ。言うのが、つらくて、いっそ知らん振りしていようかとさえ思ったのだが、いまビイルの酔いを借りて、とうとう言い出したわけだ。いや、考えてみると、君が僕に言わせるようにしむけてくれたのかも知れないね。ビイルを見つけてくれたのは、君なんだから。」
「なるほど、」と熊本君は小声で呟き、「佐伯君には、そんな遠大な思いやりがあって、ビイルのことを言い出したというわけですね。なるほど。」としきりに首肯《うなず》いて腕組みした。
「そんな、ばかな思いやりって、あるものか。」佐伯は少し笑って、「僕は、ただ、その、ほら、――」と言い澱《よど》んで、両手でやたらに卓の上を撫で廻した。
「わかってるよ。僕の機嫌を取ろうとしたのだ。いやそう言っちゃいけない。この場の空気を、明るくしようと努めてくれたのさ。佐伯は、これまで生活の苦労をして来たから、そんな事には敏感なんだ。よく気が附く。熊本君は、それと反対で、いつでも、自分の事ばかり考えている。」ビイルの酔いに乗じて、私は、ちくりと熊本君を攻撃してやった。
「いや、それは、」熊本君は、思いがけぬ攻撃に面くらって、「そんなことは、主観の問題です。」と言って、それからまた、下を向いてぶつぶつ二言、三言つぶやいていたが、私には、ちっとも聞きとれなかった。
 私は次第に愉快になった。謂わば、気が晴れて来たのである。ビイルを、更に、もう一本、注文した。
「五一郎君、」と又、佐伯のほうに向き直り、「僕は、君を、責めるんじゃないよ。人を責める資格は、僕には無いんだ。」
「責めたっていいじゃないか。」佐伯も、だんだん元気を恢復して来た様子で、「君は、いつでも自己弁解ばかりしているね。僕たちは、もう、大人の自己弁解には聞き厭《あ》きてるんだ。誰もかれも、おっかなびっくりじゃないか。一も二も無く、僕たちを叱りとばせば、それでいいんだ。大人の癖に、愛だの、理解だのって、甘ったるい事ばかり言って子供の機嫌をとっているじゃないか。いやらしいぞ。」と言い放って、ぷいと顔をそむけた。
「それあ、まあ、そうだがね。」と私は、醜く笑って、内心しまった! と狼狽していたのだが、それを狡猾に押し隠して、「君の、その主張せざるを得ない内心の怒りには、同感出来るが、その主張の言葉には、間違いが在るね。わかるかね。大人も、子供も、同じものなんだよ。からだが少し、薄汚くなっているだけだ。子供が大人に期待しているように、大人も、それと同じ様に、君たちを、たのみにしているものなのだ。だらしの無い話さ。でも、それは本当なんだ。力と、たのんでいるのだ。」
「信じられませんね。」と熊本君は、ばかに得意になってしまって、私を憐れむように横目で見下げて言った。
「君たちだって、ずるいんだ。だらし無いぞ。」私はビイルを、がぶがぶ飲んで、「少し優しくすると、すぐ、程度を越えていい気になるし、ちょっと強く言おうと思うと、言われぬ先から、泣きべそをかいて逃げたがるじゃないか。君たちに自信を持ってもらいたくて、愛だの、理解だのと遠廻しに言っているのに、君たちは、それを軽蔑する。君たちが、も少し強かったら、それは安心して叱りとばしてやる事も出来るんだ。君たちさえ、――」
「水掛け論だ。」佐伯は断定を下した。「くだらない。そんな言い古された事を、僕たちは考えているんじゃないよ。しっかりした人間とは、どんなものだか、それを見せてもらいたいんだ。」
「そうですね。」熊本君は、ほっとした顔をして、佐伯の言を支持した。「酒を飲む人の話は、信用出来ませんからね。」と言って、頬に幽《かす》かな憫笑《びんしょう》を浮かべた。
「僕は、だめだ。」そう言って、私には、腹にしみるものが在った。「けれども僕は、絶望していないんだ。酒だって、たまにしか飲まないんだ。冷水摩擦だって、毎日やっているんだ。」自分ながら奇妙と思われたような事を口走って、ふっと眼が熱くなり、うろたえた。

       第六回

[#ここから2字下げ]
「青年よ、若き日のうちに享楽せよ!」
と教えし賢者の言葉のままに、
振舞うた我の愚かさよ。
(悔ゆるともいまは詮なし)
見よ! 次のペエジにその賢者
素知らぬ顔して、記し置きける、
「青春は空《くう》に過ぎず、しかして、
弱冠は、無知に過ぎず。」(フランソワ・ヴィヨン)
[#ここで字下げ終わり]

 むかし、フランソワ・ヴィヨンという、巴里《パリ》生まれの気の小さい、弱い男が、「ああ、残念! あの狂おしい青春の頃に、我もし学にいそしみ、風習のよろしき社会にこの身を寄せていたならば、いま頃は家も持ち得て快き寝床もあろうに。ばからしい。悪童の如く学《まな》び舎《や》を叛き去った。いま、そのことを思い出す時、わが胸は、張り裂けるばかりの思いがする!」と、地団駄《じだんだ》踏んで、その遺言書に記してあったようだが、私も、いまは、その痛切な嘆きには一も二も無く共鳴したい。たかが熊本君ごときに、酒を飲む人の話は、信用できませんからね、と憫笑を以て言われても、私には、すぐに撥《は》ね返す言葉が無い。冷水摩擦を毎日やっていると言ってみたところで、それがこの場合、どうなるというものでもない。つまらない事を口走ったものである。けれども私には、それが精一ぱいであったのである。私には、謂わば政治的手腕も無ければ、人に号令する勇気も無し、教えるほどの学問も無い。何とかして明るい希望を持っていたいと工夫の揚句が、わずかに毎朝の冷水摩擦くらいのところである。けれども無頼《ぶらい》の私にとっては、それだけでも勇猛の、大事業のつもりでいたのだ。私は、いまこの二少年の憫笑に遭い、自分の無力弱小を、いやになるほど知らされた。私が、ふっと口を噤《つぐ》んで片手にビイルのコップを持ったまま思いに沈んでいるのを、見兼ねたか、少年佐伯は、低い声で、
「何も、そんなに卑下して見せなくたって、いいじゃないか。」と私を慰め諭《さと》すように言って、私の顔を覗《のぞ》き込み、「ごめんよ。君は知っているね。僕は、恥ずかしかったんだ。本当の事を、どうしても言えなかったんだ。でも、僕は嘘つきじゃない。たった一つだけ嘘を言ったんだ。映画の会は、おととい、やっちゃったんだ。僕は、説明しちゃったんだ。だから、僕は、おとといの夜、会が済んでから制服も靴も売り払って、街でビイルを飲んで、お巡りさんに見つかって、それから、――」
「わかってる。」私は顔を揚《あ》げて、佐伯の告白を払いのけるように片手を振った。「君に罪は無いんだ。みんな話の行きがかりだ。僕が、そそっかしいんだよ。君は、はじめから僕が渋谷へなど来るのをいやがっていたんだものね。」大きい溜息が出て、胸の中が、すっとした。
「うん、」佐伯は、恥ずかしそうに小さく首肯《うなず》き、「言い直すひまが無かったんだよ。僕は、なんぼ何でも、映画の説明なんて、そんなだらし無い事を、やっちゃったとは、言えなかったんだよ。だから、ね、」と又もや、両手でテエブルの上を矢鱈《やたら》に撫で廻しながら、「そこんところを、嘘ついちゃったんだよ。ごめんね。留置場へ入れられた事なんかを君に言うと、君に嫌われると思ったんだ。僕は、だめなんだよ。葉山にも、いままでお世話になっているんだし、映画説明なんてばからしいとは思ったけれど、最後のお礼のつもりで、おとといの晩、大勢の女の子の前でやっちゃったんだよ。やっちゃってから、いけないと思った。もう僕は、だめになったと思った。見込みの無い男だと思った。僕にもビイルを一ぱい下さい。僕は、いまは嬉しいのだ。何だか、ぞくぞく嬉しいのだ。木村君、君は、偉い人だね。君みたいに、何も気取らないで、僕たちと一緒に、心配したり、しょげたりしてくれると、僕たちには、何だか勇気が出て来るのだ。こうしては居られないと思うんだ。勉強しようと、しんから思うようになるんだ。僕は、心の弱さを隠さない人を信頼する。」立ち上って、三つのコップになみなみとビイルを注いだ。決然たる態度であった。「乾杯だ! 熊本も立て。喜びのための一ぱいのビイルは罪悪で無い。悲しみ、苦悩を消すための杯は、恥じよ!」
「では、ほんの一ぱいだけ。」熊本君は、佐伯の急激に高揚した意気込みに圧倒され、しぶしぶ立って、「僕は事情をよく知らんのですからね、ほんのお附合いですよ。」
「事情なんか、どうだっていいじゃないか。僕の出発を、君は喜んでくれないのか? 君は、エゴイストだ。」
「いや、ちがいます。」熊本君も、こんどは敢然と報いた。「僕は、物事を綿密に考えてみたいんだ。納得出来ない祝宴には附和雷同《ふわらいどう》しません。僕は、科学的なんです。」
「ちえっ!」佐伯は、たちまち嘲笑した。「自分を科学的という奴は、きまって科学を知らないんだ。科学への、迷信的なあこがれだ。無学者の証拠さ。」
「よせ、よせ。」私も立上り、「熊本君は、てれているんだ。君の、おくめんも無い感激振りに辟易《へきえき》したんだ。知識人のデリカシイなんだよ。」
「古い型のね。」佐伯は低く附け加えた。
「乾杯します。」と熊本君は、思いつめた果のような口調で言った。「僕は、ビイルを飲むと、くしゃみするんです。僕は、その事を科学的と言ったんです。」
「正確だ。」佐伯は、噴き出した。私も笑った。
 熊本君は笑わず、ビイルのコップを手にとって目の高さまで捧げ、それから片手で着物の襟《えり》をきちんと掻《か》き合わせて、
「佐伯君の出発を、お祝いいたします。あしたから、また学校へ出て来て下さい。」真剣な、ほろりとするような声であった。
「ありがとう。」佐伯も上品に軽くお辞儀をして、「熊本が、いつもこんなに優しく勇敢であるように祈っています。」
「佐伯君にも、熊本君にも欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思います。」私は、たいへん素直な気持で、そう言って泡立つビイルのコップを前方に差し出した。
 カチリと三つのコップが逢って、それから三人ぐっと一息に飲みほした。途端に、熊本君は、くしゃんと大きいくしゃみを発した。
「よし。よろこびのための酒は一杯だけにして止めよう。よろこびを、アルコオルの口実にしてはならぬ。」私は、もっとビイルを飲みたかったのだが、いまこの場の空気を何故だか、ひどく大事にして置きたくて、飲酒の欲望を辛《から》く怺《こら》えた。「君たちも、これから、なるべくならビイルを飲むな! カール・ヒルティ先生の曰《いわ》く、諸君は教養ある学生であるから、酒を飲んでも乱に陥らない。故に無害である。否、時には健康上有益である。しかし、諸君を真似て飲む中学生、又は労働者たちは自らを制することが出来ぬため、酒に溺れ、その為に身を亡す危険が多い。だから諸君は、彼等のために! 彼等のために酒を飲むな、と。彼等のため、ばかりではない。僕たちの為にも、酒を飲むな。僕たちは、悪い時代に育ち、悪い教育を受け、暗い学問をした。飲酒は、誇りであり、正義感の表現でさえあったのだ。僕たちの、この悪癖を綺麗《きれい》に抜くのは至難である。君たちに頼む。君たちさえ、清潔な明るい習慣を作ってくれたら、僕たちの暗黒の虫も、遠からずそれに従うだろう。僕たちに負けてはならぬ。打ち勝て。以上、一般論は終りだ。どうも僕は、こんなわかり切ったような概念論は、不得手《ふえて》なのだ。どんな、つまらない本にだって、そんな事は、ちゃんと書かれてあるんだからね。なるべくなら僕は、清潔な、強い、明るい、なんてそんな形容詞を使いたくないんだ。自分のからだに傷をつけて、そこから噴き出た言葉だけで言いたい。下手《へた》くそでもいい、自分の血肉を削った言葉だけを、どもりながら言いたい。どうも、一般論は、てれくさい。演説は、これでやめる。」
 熊本君は、さかんに拍手した。佐伯は、立ったまま、にやにや笑っている。私は普通の語調にかえって、
「佐伯君、僕に二十円くらいあるんだがね、これで制服と靴とを買い戻し給え。また、外形は、もとの生活に帰るのだ。葉山氏の家にも、辛抱して行き給え。わびしい時には、下宿で毛布をかぶって勉強するのだ。それが一ばん華やかな青春だ。何くそと固パンかじって勉強し給え。約束するね?」
「わかってるよ。」佐伯は、ひどく赤面しながらも、口だけは達者である。「そんな事を言ってると、君の顔は、まるで、昔のさむらいみたいに見えるね。明治時代だ。古くさいな。」
「士族のお生まれではないでしょうか。」熊本君は、また変な意見を、おずおず言い出した。
 私は噴き出したいのを怺えて、
「熊本君、ここに二十円あります。これで、佐伯の制服と制帽と靴を買い戻してやって下さい。」
「要らないよ、そんなもの。」佐伯は、いよいよ顔を真赤にして、小声で言った。
「いや、君にあげるわけじゃないんだ。熊本君の友情を見込んで、一時、おあずけするだけだ。」
「わかりました。」熊本君は、お金を受け取り、眼鏡の奥の小さい眼を精一ぱいに見開いて、直立不動の姿勢で言った。「たしかに、おあずかり致します。他日、佐伯君の学業成った暁には、――」
「いや、それには及びません。」私は、急に、てれくさくて、かなわなくなった。お金など、出さなければよかったと思った。「ここを出ましょう。街を、少し歩いて見ましょう。」
 街は、もう暮れていた。
 私ひとりは、やはり多少、酔っていた。自分のたいへんな、苦学生の姿も忘れて、何かと大声で、ばかな事ばかりしゃべり散らしていた。
「おい佐伯、その風呂敷包みは重くないか。僕が、かわりに持ってやろう。いいんだ、僕によこせ。よし来た。アル・テル・ナ・テ・ヴ・マン、と。知ってるかい? どっこいしょの、うんとこしょって意味なんだ。フロオベエルは、この言葉一つに、三箇月も苦心したんだぞ。」
 ああ、思えば不思議な宵であった。人生に、こんな意外な経験があるとは、知らなかった。私は二人の学生と、宵の渋谷の街を酔って歩いて、失った青春を再び、現実に取り戻し得たと思った。私の高揚には、限りが無かった。
「歌を歌おう。いいかい。一緒に歌うのだよ。アイン、ツワイ、ドライ。アイン、ツワイ、ドライ。アイン、ツワイ、ドライ。よし。

[#ここから2字下げ]
ああ消えはてし  青春の
愉楽の行衛《ゆくえ》    今いずこ
心のままに    興じたる
黄金《こがね》の時よ    玉の日よ
汝《いまし》帰らず     その影を
求めて我は    歎くのみ
  ああ移り行く世の姿
  ああ移り行く世の姿
塵をかぶりて   若人の
帽子《かむり》は古び    粗衣は裂け
長剣《つるぎ》は錆《さび》を    こうむりて
したたる光    今いずこ
宴《うたげ》の歌も     消えうせつ
刃音《はおと》拍車《はくしゃ》の    音もなし
  ああ移り行く世の姿
  ああ移り行く世の姿
されど正しき   若人の
心は永久《とわ》に    冷《さ》むるなし
勉《つと》めの日にも   嬉戯《たわむれ》の
つどいの日にも  輝きつ
古《ふ》りたる殻は   消ゆるとも
実《み》こそは残れ   我が胸に
  その実を犇《ひし》と護《まも》らなん
  その実を犇と護らなん」(アルト・ハイデルベルヒ)
[#ここで字下げ終わり]

 歌っているのは、私だけであった。調子はずれの胴間声《どうまごえ》で、臆《おく》することなく呶鳴《どな》り散らしていたのだが、歌い終って、「なんだ、誰も歌ってやしないじゃないか。もう一ぺん。アイン、ツワイ、ドライ!」と叫んだ時に、
「おい、おい。」と背後から肩を叩かれた。振り向いて見ると、警官である。「宵の口から、そんなに騒いで歩いては、悪いじゃないか。君は、どこの学生だ。隠さずに言ってみ給え。」
 私は自分の運命を直覚した。これは、しまった。私は学生の姿である。三十二歳の酔詩人ではなかった。ちょっとのお詫《わ》びでは、ゆるされそうもない。絶体絶命。逃げようか。


「おい、おい。」重ねて呼ばれて、はっと我に帰った。私は、草原の中に寝ていた。陽は、まだ高い。ひばりの声が聞える。ようやく気が附いた。私は、やはり以前の、井の頭公園の玉川上水の土堤《どて》の上に寝そべっていたのである。見ると、少年佐伯は、大学の制服、制帽で、ぴかぴか光る靴をはき、ちゃんと私の枕元に立っている。
「おい、僕は帰るぞ。」と落着いた口調で言い、「君は、眠っちゃったじゃないか。だらしないね。」
「眠った? 僕が?」
「そうさ。可哀そうなアベルの話を聞かせているうちに、君は、ぐうぐう眠っちゃったじゃないか。君は、仙人みたいだったぞ。」
「まさか。」私は淋《さび》しく笑った。「ゆうべから、ちっとも寝ないで仕事をしていたものだから、疲れが出ちゃったんだね。永いこと眠っていたかい?」
「なに十分か十五分かな? ああ、寒くなった。僕は、もう帰るぜ。しっけい。」
「待ち給え。」私は、上半身を起して、「君は、高等学校の生徒じゃなかったかね?」
「あたり前さ。大学へはいる迄は、高等学校さ。君は、ほんとうに頭が悪いね。」
「いつから大学生になったんだい?」
「ことしの三月さ。」
「そうかね。君は、佐伯五一郎というんだろう?」
「寝呆《ねぼ》けていやがる。僕は、そんな名前じゃないよ。」
「そうかね。じゃ、何だって、この川をはだかで泳いだりしたんだね?」
「この川が、気に入ったからさ。それくらいの気まぐれは、ゆるしてくれたっていいじゃないか。」
「へんな事を聞くようだが、君の友人に熊本君という人がいないかね? ちょっと、こう気取った人で。」
「熊本?――無いね。やはり、工科かね?」
「そうじゃないんだ。みんな夢かな? 僕は、その熊本君にも逢いたいんだがね。」
「何を言ってやがる。寝呆けているんだよ。しっかりし給え。僕は、帰るぜ。」
「ああ、しっけい。君、君、」と又、呼びとめて、「勉強し給えよ。」
「大きにお世話だ。」
 颯爽《さっそう》と立ち去った。私は独《ひと》り残され、侘《わび》しさ堪え難い思いである。その実を犇《ひし》と護らなん、と呶鳴るようにして歌った自分の声が、まだ耳の底に残っているような気がする。白日夢。私は立上って、茶店のほうに歩いた。袂《たもと》をさぐってみると、五十銭紙幣は、やはりちゃんと残って在る。佐伯君にも、熊本君にも欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思います、という私の祝杯の辞も思い出された。いますぐ、渋谷へ飛んで行って、確めてみたいとさえ思ったが、やはり熊本君の下宿の道順など、朦朧《もうろう》としている。夢だったのに違いない。公園の森を通り抜け、動物園の前を過ぎ、池をめぐって馴染《なじみ》の茶店にはいった。老婆が出て来て、
「おや、きょうは、お一人? おめずらしい。」
「カルピスを、おくれ。」おおいに若々しいものを飲んでみたかった。
 茶店の床几《しょうぎ》にあぐらをかいて、ゆっくりカルピスを啜《すす》ってみても、私は、やはり三十二歳の下手な小説家に過ぎなかった。少しも、若い情熱が湧いて来ない。その実《み》を犇《ひし》と護《まも》らなん、その歌の一句を、私は深刻な苦笑でもって、再び三度《みたび》、反芻《はんすう》しているばかりであった。



底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
2000年2月10日公開
2004年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ