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帰去来
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)流石《さすが》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)意気|軒昂《けんこう》たるものがあった。
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人の世話にばかりなって来ました。これからもおそらくは、そんな事だろう。みんなに大事にされて、そうして、のほほん顔で、生きて来ました。これからも、やっぱり、のほほん顔で生きて行くのかも知れない。そうして、そのかずかずの大恩に報いる事は、おそらく死ぬまで、出来ないのではあるまいか、と思えば流石《さすが》に少し、つらいのである。
実に多くの人の世話になった。本当に世話になった。
このたびは、北さんと中畑さんと二人だけの事を書いて置くつもりであるが、他の大恩人の事も、私がもすこし佳《よ》い仕事が出来るようになってから順々に書いてみたいと思っている。今はまだ、書きかたが下手だから、ややこしい関係の事など、どうしても、うまく書けないのではあるまいかというような気がするのであるが、その点、北さんと中畑さんの事ならば、いまの私の力でもってしても、わりあい正確に書けるのではなかろうかと思うのである。それは、どちらかと言えば、単純な、明白な関係だからである。けれども、実在の、つつましい生活人を描くに当って、それ相応のこまかい心遣いの必要な事も無論である。あの人たちには、私の描写に対して訂正を申込み給う機会さえ無いのだから。
私は絶対に嘘《うそ》を書いてはいけない。
中畑さんも北さんも、共に、かれこれ五十歳。中畑さんのほうが、一つか二つ若いかも知れない。中畑さんは、私の死んだ父に、愛されていたようだ。私の町から三里ほど離れた五所川原《ごしょがわら》という町の古い呉服屋の、番頭さんであったのだが、しじゅう私の家へやって来ては、何かと家の用事までしてくれていたようである。私の父は中畑さんを「そうもく」と呼んでいた。つまり、中畑さんには少しも色気が無くて、三十歳ちかくなってもお嫁さんをもらおうとしないのを、からかって「草木」などと呼んでいたものらしい。とうとう、私の父が世話して、私の家と遠縁の佳いお嬢さんをもらってあげた。中畑さんは、間もなく独立して呉服商を営み、成功して、いまでは五所川原町の名士である。この中畑さん御一家に、私はこの十年間、御心配やら御迷惑やら、実にお手数をかけてしまった。私が十歳の頃、五所川原の叔母《おば》の家に遊びに行き、ひとりで町を歩いていたら、
「修ッちゃあ!」と大声で呼ばれて、びっくりした。中畑さんが、その辺の呉服屋の奥から叫んだのである。だし抜けだったので、私は、実にびっくりした。中畑さんが、そのような呉服屋に勤めているのを私は、その時まで知らなかったのである。中畑さんは、その薄暗い店に坐っていて、ポンポンと手を拍《う》って、それから手招きしたけれども、私はあんなに大声で私の名前を呼ばれたのが恥ずかしくて逃げてしまった。私の本名は、修治というのである。
中畑さんに思いがけなく呼びかけられてびっくりした経験は、中学時代にも、一度ある。青森中学二年の頃だったと思う。朝、登校の途中、一個小隊くらいの兵士とすれちがった時、思いがけなく大声で、
「修ッちゃあ!」と呼ばれて仰天した。中畑さんが銃を担《かつ》いで歩いているのである。帽子をあみだにかぶっていた。予備兵の演習召集か何かで訓練を受けていたのであろう。中畑さんが兵隊だったとは、実に意外で、私は、しどろもどろになった。中畑さんは、平気でにこにこ笑い、ちょっと列から離れかけたので私は、いよいよ狼狽《ろうばい》して、顔が耳元まで熱くなって逃げてしまった。他の兵隊さんの笑い声も聞えた。
その、呼びかけられた二つの記憶を、私は、いつまでも大事にしまって置きたいと思っている。
昭和五年に東京の大学へはいって、それからは、もう中畑さんは私にとって、なくてはならぬ人になってしまっていた。中畑さんも既に独立して呉服商を営み、月に一度ずつ東京へ仕入れに出て来て、その度毎に私のところへこっそり立ち寄ってくれるのである。当時、私は或《あ》る女の人と一軒、家を持っていて、故郷の人たちとは音信不通になっていたのであるが、中畑さんは、私の老母などからひそかに頼まれて、何かと間を取りついでくれていたのである。私も、女も、中畑さんの厚情に甘えて、矢鱈《やたら》に我儘《わがまま》を言い、実にさまざまの事をたのんだのである。その頃の事情を最も端的に説明している一文が、いま私の手許にあるのでそれを紹介しよう。これは私の創作「虚構の春」のおしまいの部分に載っている手紙文であるが、もちろん虚構の手紙である。けれども事実に於いて大いに相違があっても、雰囲気《ふんいき》に於いては、真実に近いものがあると言ってよいと思う。或る人(決して中畑さんではない)その人から私によこした手紙のような形式になっているのであるが、もちろん之《これ》は事実に於いては根も葉も無いことで、中畑さんはこんな奇妙な手紙など本当に一度だってお書きになった事は無いので、これは全部、私自身が捏造《ねつぞう》した「小説」に過ぎないのだという事は繰りかえし念を押して、左にその一文を紹介しよう。私がどんなに生意気に思い上って、みんなに迷惑をおかけしていたかという事さえ、わかっていただけたらいいのである。
「先日、(二十三日)お母上様のお言いつけにより、お正月用の餅《もち》と塩引《しおびき》、一包、キウリ一|樽《たる》お送り申し上げましたところ、御手紙に依《よ》れば、キウリ不着の趣き御手数ながら御地停車場を御調べ申し御返事|願上候《ねがいあげそうろう》、以上は奥様へ御申伝え下されたく、以下、二三言、私、明けて二十八年間、十六歳の秋より四十四歳の現在まで、津島家出入りの貧しき商人、全く無学の者に候が、御無礼せんえつ、わきまえつつの苦言、いまは延々すべき時に非ずと心得られ候まま、汗顔平伏、お耳につらきこと開陳、暫時、おゆるし被下度《くだされたく》候。噂《うわさ》に依れば、このごろ又々、借銭の悪癖萌え出で、一面識なき名士などにまで、借銭の御申込、しかも犬の如き哀訴歎願、おまけに断絶を食い、てんとして恥じず、借銭どこが悪い、お約束の如くに他日返却すれば、向うさまへも、ごめいわくは無し、こちらも一命たすかる思い、どこがわるい、と先日も、それがために奥様へ火鉢投じて、ガラス戸二枚破損の由《よし》、話、半分としても暗涙とどむる術ございませぬ。貴族院議員、勲二等の御家柄、貴方がた文学者にとっては何も誇るべき筋みちのものに無之《これなく》、古くさきものに相違なしと存じられ候が、お父上おなくなりのちの天地一人のお母上様を思い、私めに顔たてさせ然《しか》るべしと存じ候。『われひとりを悪者として勘当《かんどう》除籍、家郷追放の現在、いよいよわれのみをあしざまにののしり、それがために四方八方うまく治まり居る様子』などのお言葉、おうらめしく存じあげ候。今しばし、お名あがり家ととのうたるのちは、御兄上様御姉上様、何条もってあしざまに申しましょうや。必ずその様の曲解、御無用に被存候。先日も、山木田様へお嫁ぎの菊子姉上様より、しんからのおなげき承《うけたまわ》り、私、芝居のようなれども、政岡の大役をお引き受け申し、きらいのお方なれば、たとえ御主人筋にても、かほどの世話はごめんにて、私のみに非ず、菊子姉上様も、貴方へのお世話のため、御嫁先の立場も困ることあるべしと存じられ候ところも、むりしての御奉仕ゆえ、本日かぎりよそからの借銭は必ず必ず思いとどまるよう、万やむを得ぬ場合は、当方へ御申越|願度《ねがいた》く、でき得る限りの御辛抱ねがいたく、このこと兄上様へ知れると一大事につき、今回の所は私が一時御立替御用立|申上《もうしあげ》候間《そうろうあいだ》、此《こ》の点お含み置かれるよう願上候。重ねて申しあげ候が、私とて、きらいのお方には、かれこれうるさく申し上げませぬ、このことお含みの上、御養生、御自愛、まことに願上候。」
昭和十一年の初夏に、私のはじめての創作集が出版せられて、友人たちは私のためにその祝賀会を、上野の精養軒でひらいてくれた。偶然その三日前に中畑さんは東京へ出て来て、私のところへも立ち寄ってくれた。私は中畑さんに着物をねだった。最上等の麻《あさ》の着物と、縫紋の羽織と夏袴《なつばかま》と、角帯、長襦袢《ながじゅばん》、白足袋《しろたび》、全部そろえて下さいと願ったのだが、中畑さんも当惑の様子であった。とても間に合いません。袴や帯は、すぐにととのえる事も出来ますが、着物や襦袢はこれから柄を見たてて仕立てさせなければいけないのだし、と中畑さんが言うのにおっかぶせて、出来ますよ、出来ますよ、三越かどこかの大きい呉服屋にたのんでごらん、一昼夜で縫ってくれます、裁縫師が十人も二十人もかかって一つの着物を縫うのですから、すぐに出来ます、東京では、なんでも、出来ないって事はないんだ、と、ろくに知りもせぬ事を自信たっぷりで言うのである。とうとう中畑さんも、それではやってみます、と言った。三日目の、その祝賀会の朝、私の注文の品が全部、或《あ》る呉服屋からとどけられた。すべて、上質のものであった。今後あのように上質な着物を着る事は私には永久に無いであろう。私はそれを着て、祝賀会に出席した。羽織は、それを着ると芸人じみるので、惜しかったけれど、着用しなかった。会の翌日、私はその品物全部を質屋へ持って行った。そうして、とうとう流してしまったのである。
この会には、中畑さんと北さんにも是非出席なさるようにすすめたのだが、お二人とも出席しなかった。遠慮したのかも知れない。あるいは御商売がいそがしく、そのひまが無かったのかも知れない。私は中畑さんと北さんに私の佳《よ》い先輩、友人たちを見せて、お二人に安心させたいと思っていたのだが、それも、私のいい気な思い上りかも知れなかった。そんな祝賀会をお見せしたって、中畑さんも北さんも安心するどころか、いよいよ私の将来についてハラハラするだけの事かも知れなかった。
私は北さんにも、実に心配をおかけしていた。北さんは東京、品川区の洋服屋さんである。洋服屋さんといっても、ただの洋服屋さんではない。変っている。お家は、普通の邸宅である。看板も、飾窓《かざりまど》も無い。そうして奥の一部屋で熟練のお弟子が二人、ミシンをカタカタと動かしている。北さんは、特定のおとくいさんの洋服だけを作るのだ。名人気質の、わがままな人である。富貴も淫《いん》する能《あた》わずといったようなところがあった。私の父も、また兄も、洋服は北さんに作ってもらう事にきめていたようである。私が東京の大学へはいってから、北さんは、もっぱら私を監督した。そうして私は、北さんを欺《あざむ》いてばかりいた。ひどい悪い事を、次々とやらかすので、ついには北さんのお宅の二階に押し込められて、しばらく居候《いそうろう》のような生活をせざるを得なくなった事さえあった。故郷の兄は私のだらし無さに呆《あき》れて、時々送金を停止しかけるのであるが、その度毎に北さんは中へはいって、もう一年、送金をたのみます、と兄へ談判してくれるのであった。一緒にいた女の人と、私は別れる事になったのであるが、その時にも実に北さんにお手数をかけた。いちいちとても数え切れない。私の実感を以《もっ》て言うならば、およそ二十の長篇小説を書き上げるくらいの御苦労をおかけしたのである。そうして私は相変らずの、のほほん顔で、ただ世話に成りっ放し、身のまわりの些細《ささい》の事さえ、自分で仕様とはしないのだ。
三十歳のお正月に、私は現在の妻と結婚式を挙げたのであるが、その時にも、すべて中畑さんと北さんのお世話になってしまった。当時、私はほとんど無一文といっていい状態であった。結納金《ゆいのうきん》は二十円、それも或る先輩からお借りしたものである。挙式の費用など、てんで、どこからも捻出《ねんしゅつ》の仕様が無かったのである。当時、私は甲府市に小さい家を借りて住んでいたのであるが、その結婚式の日に普段着のままで、東京のその先輩のお宅へ参上したのである。その先輩のお宅で嫁と逢って、そうして先輩から、おさかずきを頂戴して、嫁を連れて甲府へ帰るという手筈《てはず》であった。北さん、中畑さんも、その日、私の親がわりとして立会って下さる事になっていた。私は朝早く甲府を出発して、昼頃、先輩のお宅へ到着した。私は本当に、普段着のままで、散髪もせず、袴《はかま》もはいていなかった。着のみ着のままの状態だったし、懐中も無一文に近かった。先輩は書斎で静かにお仕事をして居られた。(先輩というのは、実は○○先生なのだが、○○先生は、小説や随筆にお名前を出されるのを、かねがねとてもいやがって居られるので、わざと先輩という失礼な普通名詞を使用するのである。)先輩は、結婚式も何も忘れてしまっているような様子であった。原稿用紙を片づけながら、庭の樹木の事など私に説明して聞かせた。それから、ふっと気がついたように、
「着物が来ている。中畑さんから送って来たのだ。なんだか、いい着物らしいよ。」と言った。
黒羽二重の紋服一かさね、それに袴と、それから別に絹の縞《しま》の着物が一かさね、少しも予期していないものだった。私は、呆然《ぼうぜん》とした。ただその先輩から、結婚のしるしの盃をいただいて、そうして、そのまま嫁を連れて帰ろうと思っていたのだ。やがて、中畑さんと北さんが、笑いながらそろってやって来た。中畑さんは国民服、北さんはモーニング。
「はじめましょう、はじめましょう。」と中畑さんは気が早い。
その日の料理も、本式の会席膳で鯛《たい》なども附いていた。私は紋服を着せられた。記念の写真もうつした。
「修治さん、ちょっと。」中畑さんは私を隣室へ連れて行った。そこには、北さんもいた。
私を坐らせて、それからお二人も私の前にきちんと坐って、そろってお辞儀をして、
「今日は、おめでとうございます。」と言った。それから中畑さんが、
「きょうの料理は、まずしい料理で失礼ですが、これは北さんと私とが、修治さんのために、まかなったものですから、安心してお受けなさって下さい。私たちも、先代以来なみなみならぬお世話になって居りますから、こんな機会に少しでもお報いしたいと思っているのです。」と、真面目に言った。
私は、忘れまいと思った。
「中畑さんのお骨折りです。」北さんは、いつでも功を中畑さんにゆずるのだ。「このたびの着物も袴も、中畑さんがあなたの御親戚をあちこち駈け廻って、ほうぼうから寄附を集めて作って下さったのですよ。まあ、しっかりおやりなさい。」
その夜おそく、私は嫁を連れて新宿発の汽車で帰る事になったのだが、私はその時、洒落《しゃれ》や冗談でなく、懐中に二円くらいしか持っていなかったのだ。お金というものは、無い時には、まるで無いものだ。まさかの時には私は、あの二十円の結納金の半分をかえしてもらうつもりでいた。十円あったら、甲府までの切符は二枚買える。
先輩の家を出る時、私は北さんに、「結納金を半分、かえしてもらえねえかな。」と小声で言った。「あてにしていたんだ。」
その時、北さんは実に怒った。
「何をおっしゃる! あなたは、それだから、いけない。なんて事を考えているんだ。あなたは、それだから、いけない。少しも、よくなっていないじゃないですか。そんな事を言うなんて、まるでだめじゃないですか。」そう言って御自分の財布から、すらりすらりと紙幣を抜き取り、そっと私に手渡した。
けれども新宿駅で私が切符を買おうとしたら、すでに嫁の姉夫婦が私たちの切符(二等の切符であった)を買ってくれていたので、私にはお金が何も要《い》らなくなった。
プラットホームで私は北さんにお金を返そうとしたら、北さんは、
「はなむけ、はなむけ。」と言って手を振った。綺麗《きれい》なものだった。
結婚後、私にも、そんなに大きい間違いが無く、それから一年経って甲府の家を引きはらって、東京市外の三鷹《みたか》町に、六畳、四畳半、三畳の家を借り、神妙に小説を書いて、二年後には女の子が生れた。北さんも中畑さんもよろこんで、立派な産衣《うぶぎ》を持って来て下さった。
今は、北さんも中畑さんも、私に就《つ》いて、やや安心をしている様子で、以前のように、ちょいちょいおいでになって、あれこれ指図《さしず》をなさるような事は無くなった。けれども、私自身は、以前と少しも変らず、やっぱり苦しい、せっぱつまった一日一日を送り迎えしているのであるから、北さん中畑さんが来なくなったのは、なんだか淋《さび》しいのである。来ていただきたいのである。昨年の夏、北さんが雨の中を長靴はいて、ひょっこりおいでになった。
私は早速、三鷹の馴染《なじみ》のトンカツ屋に案内した。そこの女のひとが、私たちのテエブルに寄って来て、私の事を先生と呼んだので、私は北さんの手前もあり甚《はなは》だ具合いのわるい思いをした。北さんは、私の狼狽《ろうばい》に気がつかない振りをして、女のひとに、
「太宰先生は、君たちに親切ですかね?」とニヤニヤ笑いながら尋ねるのである。女のひとは、まさかその人は私の昔からの監督者だとは知らないから、「ええ、たいへん親切よ」なぞと、いい加減のふざけた口をきくので私は、ハラハラした。その日、北さんは、一つの相談を持って来たのである。相談というよりは、命令といったほうがよいかも知れない。北さんと一緒に故郷の家を訪れてみないかというのである。私の故郷は、本州の北端、津軽平野のほぼ中央に在《あ》る。私は、すでに十年、故郷を見なかった。十年前に、或《あ》る事件を起して、それからは故郷に顔出しのできない立場になっていたのである。
「兄さんから、おゆるしが出たのですか?」私たちはトンカツ屋で、ビイルを飲みながら話した。「出たわけじゃ無いんでしょう。」
「それは、兄さんの立場として、まだまだ、ゆるすわけにはいかない。だから、それはそれとして、私の一存であなたを連れて行くのです。なに、大丈夫です。」
「あぶないな。」私は気が重かった。「のこのこ出掛けて行って、玄関払いでも食わされて大きい騒ぎになったら、それこそ藪蛇《やぶへび》ですからね。も少し、このまま、そっとして置きたいな。」
「そんな事はない。」北さんは自信満々だった。「私が連れて行ったら、大丈夫。考えてもごらんなさい。失礼な話ですが、おくにのお母さんだって、もう七十ですよ。めっきり此頃《このごろ》、衰弱なさったそうだ。いつ、どんな事になるか、わかりやしませんよ。その時、このままの関係でいたんじゃ、まずい。事がめんどうですよ。」
「そうですね。」私は憂鬱だった。
「そうでしょう? だから、いま此の機会に、私が連れて行きますから、まあ、お家の皆さんに逢《あ》って置きなさい。いちど逢って置くと、こんど、何事が起っても、あなたも気易くお家へ駈けつけることが出来るというものです。」
「そんなに、うまくいくといいけどねえ。」私は、ひどく不安だった。北さんが何と言っても、私は、この帰郷の計画に就いては、徹頭徹尾悲観的であった。とんでもない事になるぞという予感があった。私は、この十年来、東京に於いて実にさまざまの醜態《しゅうたい》をやって来ているのだ。とても許される筈《はず》は無いのだ。
「なあに、うまくいきますよ。」北さんはひとり意気|軒昂《けんこう》たるものがあった。「あなたは柳生《やぎゅう》十兵衛のつもりでいなさい。私は大久保彦左衛門の役を買います。お兄さんは、但馬守《たじまのかみ》だ。かならず、うまくいきますよ。但馬守だって何だって、彦左の横車には、かないますまい。」
「けれども、」弱い十兵衛は、いたずらに懐疑的だ。「なるべくなら、そんな横車なんか押さないほうがいいんじゃないかな。僕にはまだ十兵衛の資格はないし、下手《へた》に大久保なんかが飛び出したら、とんでもない事になりそうな気がするんだけど。」
生真面目で、癇癖《かんぺき》の強い兄を、私はこわくて仕様がないのだ。但馬守だの何だの、そんな洒落《しゃれ》どころでは無いのだ。
「責任を持ちます。」北さんは、強い口調で言った。「結果がどうなろうと、私が全部、責任を負います。大舟に乗った気で、彦左に、ここはまかせて下さい。」
私はもはや反対する事が出来なかった。
北さんも気が早い。その翌《あく》る日の午後七時、上野発の急行に乗ろうという。私は、北さんにまかせた。その夜、北さんと別れてから、私は三鷹のカフェにはいって思い切り大酒を飲んだ。
翌る日午後五時に、私たちは上野駅で逢い、地下食堂でごはんを食べた。北さんは、麻の白服を着ていた。私は銘仙《めいせん》の単衣《ひとえ》。もっとも、鞄《かばん》の中には紬《つむぎ》の着物と、袴《はかま》が用意されていた。ビイルを飲みながら北さんは、
「風向きが変りましたよ。」と言った。ちょっと考えて、それから、「実は、兄さんが東京へ来ているんです。」
「なあんだ。それじゃ、この旅行は意味が無い。」私はがっかりした。
「いいえ。くにへ行って兄さんに逢うのが目的じゃない。お母さんに逢えたら、いいんだ。私はそう思いますよ。」
「でも、兄さんの留守《るす》に、僕たちが乗り込むのは、なんだか卑怯《ひきょう》みたいですが。」
「そんな事は無い。私は、ゆうべ兄さんに逢って、ちょっと言って置いたんです。」
「修治をくにへ連れて行くと言ったのですか?」
「いいえ、そんな事は言えない。言ったら兄さんは、北君そりゃ困るとおっしゃるでしょう。内心はどうあっても、とにかく、そうおっしゃらなければならない立場です。だから私は、ゆうべお逢いしても、なんにも言いませんよ。言ったら、ぶちこわしです。ただね、私は東北のほうにちょっと用事があって、あすの七時の急行で出発するつもりだけど、ついでに津軽のお宅のほうへ立寄らせていただくかも知れませんよ、とだけ言って置いたのです。それでいいんです。兄さんが留守なら、かえって都合がいいくらいだ。」
「北さんが、青森へ遊びに行くと言ったら、兄さん喜んだでしょう。」
「ええ、お家のほうへ電話してほうぼう案内するように言いつけようとおっしゃったのですが、私は断りました。」
北さんは頑固《がんこ》で、今まで津軽の私の生家へいちども遊びに行った事がないのである。ひとのごちそうになったり世話になったりする事は、極端にきらいなのである。
「兄さんは、いつ帰るのかしら。まさか、きょう一緒の汽車で、――」
「そんな事はない。茶化しちゃいけません。こんどは町長さんを連れて来ていましたよ。ちょっと、手数のかかる用事らしい。」
兄は時々、東京へやって来る。けれども私には絶対に逢わない事になっているのだ。
「くにへ行っても、兄さんに逢えないとなると、だいぶ張合いが無くなりますね。」私は兄に逢いたかったのだ。そうして、黙って長いお辞儀をしたかったのだ。
「なに、兄さんとは此の後、またいつでもお逢い出来ますよ。それよりも、問題はお母さんです。なにせ七十、いや、六十九、ですかね?」
「おばあさんにも逢えるでしょうね。もう、九十ちかい筈ですけど。それから、五所川原の叔母《おば》にも逢いたいし、――」考えてみると、逢いたい人が、たくさんあった。
「もちろん、皆さんにお逢い出来ます。」断乎たる口調だった。ひどくたのもしく見えた。
こんどの帰郷がだんだん楽しいものに思われて来た。次兄の英治さんにも逢いたかったし、また姉たちにも逢いたかった。すべて、十年振りなのである。そうして私は、あの家を見たかった。私の生れて育った、あの家を見たかった。
私たちは七時の汽車に乗った。汽車に乗る前に、北さんは五所川原の中畑さんに電報を打った。
七ジタツ」キタ
それだけでもう中畑さんには、なんの事やら、ちゃんとわかるのだそうである。以心伝心《いしんでんしん》というやつだそうである。
「あなたを連れて行くという事を、はっきり中畑さんに知らせると、中畑さんも立場に困るのです。中畑さんは知らない、何も知らない、そうして五所川原の停車場に私を迎えに来ます。そうしてはじめて、あなたを見ておどろく、という形にしなければ、中畑さんは、あとで兄さんに対して具合いの悪い事になります。中畑君は知っていながら、なぜ、とめなかったと言われるかもしれません。けれども、中畑さんは知らないのだ、五所川原の停車場へ私を迎えに来てはじめて知って驚いたのだ。そうして、まあせっかく東京からやって来たのだし、ひとめお母さんに逢わせました、という事になれば、中畑さんの責任も軽い。あとは全部、私が責任を負いますが、私は大久保彦左衛門だから、但馬守が怒ったって何だって平気です。」なかなか、ややこしい説明であった。
「でも、中畑さんは、知っているんでしょう?」
「だから、そこが、微妙なところなのです。七ジタツ。それでもういいのです。」大久保のはかりごとはこまかすぎて、わかりにくかった。けれども、とにかく私は北さんに、一切をおまかせしたのだ。とやかく不服を言うべきでない。
私たちは汽車に乗った。二等である。相当こんでいた。私と北さんは、通路をへだてて一つずつ、やっと席をとった。北さんは、老眼鏡を、ひょいと掛けて新聞を読みはじめた。落ちついたものだった。私はジョルジュ・シメノンという人の探偵小説を読みはじめた。私は長い汽車の旅にはなるべく探偵小説を読む事にしている。汽車の中で、プロレゴーメナなどを読む気はしない。
北さんは私のほうへ新聞をのべて寄こした。受け取って、見ると、その頃私が発表した「新ハムレット」という長編小説の書評が、三段抜きで大きく出ていた。或る先輩の好意あふれるばかりの感想文であった。それこそ、過分のお褒《ほ》めであった。私と北さんとは、黙って顔を見合せ、そうして同じくらい嬉しそうに一緒に微笑した。素晴らしい旅行になりそうな気がして来た。
青森駅に着いたのは翌朝の八時頃だった。八月の中ごろであったのだが、かなり寒い。霧《きり》のような雨が降っている。奥羽線に乗りかえて、それから弁当を買った。
「いくら?」
「――せん!」
「え?」
「――せん!」
せん! というのは、わかるけれど何十銭と言っているのか、わからないのである。三度聞き直して、やっと、六十銭と言っているのだという事がわかった。私は呆然《ぼうぜん》とした。
「北さん、いまの駅売の言葉がわかりましたか?」
北さんは、真面目に首を振った。
「そうでしょう? わからないでしょう? 僕でさえ、わからなかったんだ。いや、きざに江戸っ子ぶって、こんな事を言うのじゃないのです。僕だって津軽で生れて津軽で育った田舎者です。津軽なまりを連発して、東京では皆に笑われてばかりいるのです。けれども十年、故郷を離れて、突然、純粋の津軽言葉に接したところが、わからない。てんで、わからなかった。人間って、あてにならないものですね。十年はなれていると、もう、お互いの言葉さえわからなくなるんだ。」自分が完全に故郷を裏切っている明白な証拠を、いま見せつけられたような気がして私は緊張した。
車中の乗客たちの会話に耳をすました。わからない。異様に強いアクセントである。私は一心に耳を澄ました。少しずつわかって来た。少しわかりかけたら、あとはドライアイスが液体を素通りして、いきなり濛々《もうもう》と蒸発するみたいに見事な速度で理解しはじめた。もとより私は、津軽の人である。川部という駅で五能線に乗り換えて十時頃、五所川原駅に着いた時には、なんの事はない、わからない津軽言葉なんて一語も無かった。全部、はっきり、わかるようになっていた。けれども、自分で純粋の津軽言葉を言う事が出来るかどうか、それには自信がなかった。
五所川原駅には、中畑さんが迎えに来ていなかった。
「来ていなければならぬ筈《はず》だが。」大久保彦左衛門もこの時だけは、さすがに暗い表情だった。
改札口を出て小さい駅の構内を見廻しても中畑さんはいない。駅の前の広場、といっても、石ころと馬糞《ばふん》とガタ馬車二台、淋《さび》しい広場に私と大久保とが鞄《かばん》をさげてしょんぼり立った。
「来た! 来た!」大久保は絶叫した。
大きい男が、笑いながら町の方からやって来た。中畑さんである。中畑さんは、私の姿を見ても、一向におどろかない。ようこそ、などと言っている。濶達《かったつ》なものだった。
「これは私の責任ですからね。」北さんは、むしろちょっと得意そうな口調で言った。「あとは万事、よろしく。」
「承知、承知。」和服姿の中畑さんは、西郷隆盛のようであった。
中畑さんのお家へ案内された。知らせを聞いて、叔母がヨチヨチやって来た。十年、叔母は小さいお婆《ばあ》さんになっていた。私の前に坐って、私の顔を眺めて、やたらに涙を流していた。この叔母は、私の小さい時から、頑強に私を支持してくれていた。
中畑さんのお家で、私は紬《つむぎ》の着物に着換えて、袴《はかま》をはいた。その五所川原という町から、さらに三里はなれた金木《かなぎ》町というところに、私の生れた家が在るのだ。五所川原駅からガソリンカアで三十分くらい津軽平野のまんなかを一直線に北上すると、その町に着くのだ。おひる頃、中畑さんと北さんと私と三人、ガソリンカアで金木町に向った。
満目の稲田。緑の色が淡い。津軽平野とは、こんなところだったかなあ、と少し意外な感に打たれた。その前年の秋、私は新潟へ行き、ついでに佐渡へも行ってみたが、裏日本の草木の緑はたいへん淡く、土は白っぽくカサカサ乾いて、陽の光さえ微弱に感ぜられて、やりきれなく心細かったのだが、いま眼前に見るこの平野も、それと全く同じであった。私はここに生れて、そうしてこんな淡い薄い風景の悲しさに気がつかず、のんきに遊び育ったのかと思ったら、妙な気がした。青森に着いた時には小雨が降っていたが、間もなく晴れて、いまはもう薄日さえ射している。けれども、ひんやり寒い。
「この辺はみんな兄さんの田でしょうね。」北さんは私をからかうように笑いながら尋ねる。
中畑さんが傍から口を出して、
「そうです。」やはり笑いながら、「見渡すかぎり、みんなそうです。」少し、ほらのようであった。「けれども、ことしは不作ですよ。」
はるか前方に、私の生家の赤い大屋根が見えて来た。淡い緑の稲田の海に、ゆらりと浮いている。私はひとりで、てれて、
「案外、ちいさいな。」と小声で言った。
「いいえ、どうして、」北さんは、私をたしなめるような口調で、「お城です。」と言った。
ガソリンカアは、のろのろ進み、金木駅に着いた。見ると、改札口に次兄の英治さんが立っている。笑っている。
私は、十年振りに故郷の土を踏んでみた。わびしい土地であった。凍土《とうど》の感じだった。毎年毎年、地下何尺か迄《まで》こおるので、土がふくれ上って、白っちゃけてしまったという感じであった。家も木も、土も、洗い晒《さら》されているような感じがするのである。路は白く乾いて、踏み歩いても足の裏の反応は少しも無い。ひどく、たより無い感じだ。
「お墓。」と誰か、低く言った。それだけで皆に了解出来た。四人は黙って、まっすぐにお寺へ行った。そうして、父の墓を拝んだ。墓の傍の栗の大木は、昔のままだった。
生家の玄関にはいる時には、私の胸は、さすがにわくわくした。中はひっそりしている。お寺の納所《なっしょ》のような感じがした。部屋部屋が意外にも清潔に磨かれていた。もっと古ぼけていた筈なのに、小ぢんまりしている感じさえあった。悪い感じではなかった。
仏間に通された。中畑さんが仏壇の扉を一ぱいに押しひらいた。私は仏壇に向って坐って、お辞儀をした。それから、嫂《あによめ》に挨拶した。上品な娘さんがお茶を持って来たので、私は兄の長女かと思って笑いながらお辞儀をした。それは女中さんであった。
背後にスッスッと足音が聞える。私は緊張した。母だ。母は、私からよほど離れて坐った。私は、黙ってお辞儀をした。顔を挙げて見たら、母は涙を拭いていた。小さいお婆さんになっていた。
また背後に、スッスッと足音が聞える。一瞬、妙な、(もったいない事だが、)気味の悪さを感じた。眼の前にあらわれるまで、なんだかこわい。
「修ッちゃあ、よく来たナ。」祖母である。八十五歳だ。大きい声で言う。母よりも、はるかに元気だ。「逢いたいと思うていたね。ワレはなんにも言わねども、いちど逢いたいと思うていたね。」
陽気な人である。いまでも晩酌を欠かした事が無いという。
お膳が出た。
「飲みなさい。」英治さんは私にビイルをついでくれた。
「うん。」私は飲んだ。
英治さんは、学校を卒業してから、ずっと金木町にいて、長兄の手助けをしていたのだ。そうして、数年前に分家したのである。英治さんは兄弟中で一ばん頑丈な体格をしていて、気象も豪傑《ごうけつ》だという事になっていた筈なのに、十年振りで逢ってみると、実に優しい華奢《きゃしゃ》な人であった。東京で十年間、さまざまの人と争い、荒くれた汚い生活をして来た私に較《くら》べると、全然別種の人のように上品だった。顔の線も細く、綺麗だった。多くの肉親の中で私ひとりが、さもしい貧乏人根性の、下等な醜い男になってしまったのだと、はっきり思い知らされて、私はひそかに苦笑していた。
「便所は?」と私は聞いた。
英治さんは変な顔をした。
「なあんだ、」北さんは笑って、「ご自分の家へ来て、そんな事を聞くひとがありますか。」
私は立って、廊下へ出た。廊下の突き当りに、お客用のお便所がある事は私も知ってはいたのだが、長兄の留守に、勝手に家の中を知った振りしてのこのこ歩き廻るのは、よくない事だと思ったので、ちょっと英治さんに尋ねたのだが、英治さんは私を、きざな奴だと思ったかも知れない。私は手を洗ってからも、しばらくそこに立って窓から庭を眺めていた。一木一草も変っていない。私は家の内外を、もっともっと見て廻りたかった。ひとめ見て置きたい所がたくさんたくさんあったのだ。けれどもそれは、いかにも図々《ずうずう》しい事のようだから、そこの小さい窓から庭を、むさぼるように眺めるだけで我慢する事にした。
「池の水蓮《すいれん》は、今年はまあ、三十二も咲きましたよ。」祖母の大声は、便所まで聞える。「嘘《うそ》でも何でも無い、三十二咲きましたてば。」祖母は先刻から水蓮の事ばかり言っている。
私たちは午後の四時頃、金木の家を引き上げ、自動車で五所川原に向った。気まずい事の起らぬうちに早く引き上げましょう、と私は北さんと前もって打ち合せをして置いたのである。さしたる失敗も無く、謂《い》わば和気藹々裡《わきあいあいり》に、私たちはハイヤアに乗った。北さん、中畑さん、私、それから母。嫂や英治さんの優しいすすめに依《よ》って母も、私たちと一緒に、五所川原まで行く事になったのである。行く先は叔母の家である。私はそこに一泊する事になっていた。北さんも、そこに一泊してそうして翌《あく》る日から私と二人で、浅虫温泉やら十和田湖などあちこち遊び廻ろうというのが、私たちの東京を立つ時からの計画であったのだが、けさほど東京の北さんのお宅から金木の家へ具合いの悪い電報が来ていて、それがために、どうしても今夜、青森発の急行で帰京しなければならなくなってしまったのである。北さんのお隣りの奥さんが死んだ、という電報であったが、北さんは、こりゃいけない、あの家は非常に気の毒な家で、私がいないとお葬式も出せない、すぐ行かなくちゃいけない、と言って、一度言い出したら、もう何といっても聞きいれない、頑固な大久保氏なのだから、私たちも無理に引きとめる事はしなかった。叔母の家で、みんな一緒に夕ごはんを食べて、それから五所川原駅まで北さんを送って行った。北さんはこれからまた汽車に乗ってどんなに疲れる事だろうと思ったら、私は、つらくてかなわなかった。
その夜は叔母の家でおそくまで、母と叔母と私と三人、水入らずで、話をした。私は、妻が三鷹の家の小さい庭をたがやして、いろんな野菜をつくっているという事を笑いながら言ったら、それが、いたくお二人の気に入ったらしく、よくまあ、のう、よくまあ、と何度も二人でこっくりこっくり首肯《うなず》き合っていた。私も津軽弁が、やや自然に言えるようになっていたが、こみいった話になると、やっぱり東京の言葉を遣《つか》った。母も叔母も、私がどんな商売をしているのか、よくわかっていない様子であった。私は原稿料や印税の事など説明して聞かせたが、半分もわからなかったらしく、本を作って売る商売なら本屋じゃないか、ちがいますか、などという質問まで飛び出す始末なので、私は断念して、まあ、そんなものです、と答えて置いた。どれくらいの収入があるものです、と母が聞くから、はいる時には五百円でも千円でもはいります、と朗《ほが》らかに答えたが、母は落ちついて、それを幾人でわけるのですか、と言ったので、私はがっかりした。本屋を営んでいるものとばかり思い込んでいるらしい。けれども、原稿料にしろ印税にしろ、自分ひとりの力で得たと思ってはいけないのだ、みんなの合作と思わなければならぬ、みんなでわけるのこそ正しい態度かも知れぬ、と思ったりした。
母も叔母も、私の実力を一向にみとめてくれないので、私は、やや、あせり気味になって、懐中から財布《さいふ》を取り出し、お二人の前のテエブルに十円紙幣を二枚ならべて載せて、
「受け取って下さいよ。お寺参りのお賽銭《さいせん》か何かに使って下さい。僕には、お金がたくさんあるんだ。僕が自分で働いて得たお金なんだから、受け取って下さい。」と大いに恥ずかしかったが、やけくそになって言った。
母と叔母は顔を見合せて、クスクス笑っていた。私は頑強にねばって、とうとう二人にそのお金を受け取らせた。母は、その紙幣を母の大きい財布にいれて、そうしてその財布の中から熨斗袋《のしぶくろ》を取り出し、私に寄こした。あとでその熨斗袋の内容を調べてみたら、それには私の百枚の創作に対する原稿料と、ほぼ同額のものがはいっていた。
翌る日、私は皆と別れて青森へ行き、親戚《しんせき》の家へ立寄ってそこへ一泊して、あとはどこへも立寄らず、逃げるようにして東京へ帰って来た。十年振りで帰っても、私は、ふるさとの風物をちらと見ただけであった。ふたたびゆっくり、見る折があろうか。母に、もしもの事があった時、私は、ふたたび故郷を見るだろうが、それはまた、つらい話だ。
その旅行の二箇月ほど後に、私は偶然、北さんと街で逢った。北さんは、蒼《あお》い顔をして居《お》られた。元気が無かった。
「どうしたのです。痩《や》せましたね。」
「ええ、盲腸炎をやりましてね。」
あの夜、青森発の急行で帰京したが、帰京の直後に腹痛がはじまったというのである。
「そいつあ、いけない。やっぱり無理だったのですね。」私も前に盲腸炎をやった事がある。そうして過労が盲腸炎の原因になるという事を、私は自分のその時の経験から知っていた。「なにせあの時の北さんは、強行軍だったからなあ。」
北さんは淋しそうに微笑《ほほえ》んだ。私は、たまらない気持だった。みんな私のせいなんだ。私の悪徳が、北さんの寿命をたしかに十年ちぢめたのである。そうして私ひとりは、相も変らず、のほほん顔。
底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1989(昭和64)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:ふるかわゆか
2003年11月24日作成
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