青空文庫アーカイブ
HUMAN LOST
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)宗助《そうすけ》
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(例)[#ここから7字下げ]
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[#ここから7字下げ]
思いは、ひとつ、窓前花。
[#ここで字下げ終わり]
十三日。 なし。
十四日。 なし。
十五日。 かくまで深き、
十六日。 なし。
十七日。 なし。
十八日。
ものかいて扇ひき裂くなごり哉《かな》
ふたみにわかれ
十九日。
十月十三日より、板橋区のとある病院にいる。来て、三日間、歯ぎしりして泣いてばかりいた。銅貨のふくしゅうだ。ここは、気ちがい病院なのだ。となりの部屋の若旦那《わかだんな》は、ふすまをあけたら、浴衣《ゆかた》がかかっていて、どうも工合いがわるかった、など言って、みんな私よりからだが丈夫で、大河内昇とか、星武太郎などの重すぎる名を有し、帝大、立大を卒業して、しかも帝王の如く尊厳の風貌をしている。惜しいことには、諸氏ひとしく自らの身の丈《たけ》よりも五寸ほどずつ恐縮していた。母を殴《なぐ》った人たちである。
四日目、私は遊説《ゆうぜい》に出た。鉄格子と、金網《かなあみ》と、それから、重い扉、開閉のたびごとに、がちん、がちん、と鍵《かぎ》の音。寝ずの番の看守、うろ、うろ。この人間倉庫の中の、二十余名の患者すべてに、私のからだを投げ捨てて、話かけた。まるまると白く太った美男の、肩を力一杯ゆすってやって、なまけもの! と罵《ののし》った。眼のさめて在る限り、枕頭の商法の教科書を百人一首を読むような、あんなふしをつけて大声で読みわめきつづけている一受験狂に、勉強やめよ、試験全廃だ、と教えてやったら、一瞬ぱっと愁眉《しゅうび》をひらいた。うしろ姿のおせん様というあだ名の、セル着たる二十五歳の一青年、日がな一日、部屋の隅、壁にむかってしょんぼり横坐りに居崩《いくず》れて坐って、だしぬけに私に頭を殴られても、僕はたった二十五歳だ、捨てろ、捨てろ、と低く呟《つぶや》きつづけるばかりで私の顔を見ようとさえせぬ故、こんどは私、めそめそするな、と叱って、力いっぱいうしろから抱いてやって激しくせきにむせかえったら、青年いささか得意げに、放せ、放せ、肺病がうつると軽蔑して、私は有難《ありがた》くて泣いてしまった。元気を出せ。みんな、青草原をほしがっていた。私は、部屋へかえって、「花をかえせ。」という帝王の呟きに似た調子の張った詩を書いて、廻診しに来た若い一医師にお見せして、しんみに話合った。午睡という題の、「人間は人間のとおりに生きて行くものだ。」という詩を書いてみせて、ふたりとも、顔を赤くして笑った。五六百万人のひとたちが、五六百万回、六七十年つづけて囁《ささや》き合っている言葉、「気の持ち様。」というこのなぐさめを信じよう。僕は、きょうから涙、一滴、見せないつもりだ。ここに七夜あそんだならば、少しは人が変ります。豚箱などは、のどかであった。越中富山の万金丹《まんきんたん》でも、熊の胃でも、三光丸でも五光丸でも、ぐっと奥歯に噛みしめて苦《にが》いが男、微笑、うたを唄えよ。私の私のスウィートピイちゃん。
[#ここから2字下げ]
あら、
あたし、
いけない
女?
ほらふきだとさ、
わかっているわよ。
虹《にじ》よりも、
それから、
しんきろうよりも、きれいなんだけれど。
いけない?
[#ここで字下げ終わり]
一週間、私は誰とも逢っていません。面会、禁じられて、私は、投げられた様に寝ているが、けれども、これは熱のせいで、いじめられたからではない。みんな私を好いている。Iさん、一生にいちどのたのみだ、はいって呉れ、と手をつかぬばかりにたのんで下さって、ありがとう。私は、どうしてこんなに、情が深くなったのだろう。Kでも、Yでも、Hさんでも、Dはうろうろ、Yのばか、善四郎ののろま、Y子さん。逢いたくて、逢いたくて、のたうちまわっているんだよ。先生夫婦と、Kさん夫婦と、Fさん夫婦、無理矢理つれて、浅虫へ行こうか、われは軍師さ、途中の山々の景色眺めて、おれは、なんにも要らない。
乃公《だいこう》いでずんば、蒼生《そうせい》をいかんせむ、さ。三十八度の熱を、きみ、たのむ、あざむけ。プウシュキンは三十六で死んでも、オネエギンをのこした。不能の文字なし、とナポレオンの歯ぎしり。
けれども仕事は、神聖の机で行え。そうして、花を、立ちはだかって、きっぱりと要求しよう。
立て。権威の表現に努めよ。おれは、いま、目の見えなくなるまで、おまえを愛している。
「日没の唄。」
蝉《せみ》は、やがて死ぬる午後に気づいた。ああ、私たち、もっと仕合せになってよかったのだ。もっと遊んで、かまわなかったのだ。いと、せめて、われに許せよ、花の中のねむりだけでも。
ああ、花をかえせ! (私は、目が見えなくなるまでおまえを愛した。)ミルクを、草原を、雲、――(とっぷり暮れても嘆くまい。私は、――なくした。)
「一行あけて。」
あとは、なぐるだけだ。
「花一輪。」
[#ここから2字下げ]
サインを消せ
みんなみんなの合作だ
おまえのもの
私のもの
みんなが
心配して心配して
やっと咲かせた花一輪
ひとりじめは
ひどい
どれどれ
わしに貸してごらん
やっぱり
じいさん
ひとりじめの机の上
いいんだよ
さきを歩く人は
白いひげの
羊飼いのじいさんに
きまっているのだ
みんなのもの
サインを消そう
みなさん
みなさん
おつかれさん
犬馬の労
骨を折って
やっと咲かせた花一輪
やや
お礼わすれた
声をそろえて
ありがとう、よ、ありがとう!
(聞えたかな?)
[#ここで字下げ終わり]
二十日。
この五、六年、きみたち千人、私は、ひとり。
二十一日。
罰。
二十二日。
死ねと教えし君の眼わすれず。
二十三日。
「妻をののしる文。」
私が君を、どのように、いたわったか、君は識《し》っているか。どのように、いたわったか。どのように、賢明にかばってやったか。お金を欲しがったのは、誰であったか。私は、筋子《すじこ》に味の素の雪きらきら降らせ、納豆《なっとう》に、青のり、と、からし、添えて在れば、他には何も不足なかった。人を悪しざまにののしったのは、誰であったか。閨《ねや》の審判を、どんなにきびしく排撃しても、しすぎることはない、と、とうとう私に確信させてしまったほどの功労者は、誰であったか。無智の洗濯女よ。妻は、職業でない。妻は、事務でない。ただ、すがれよ、頼れよ、わが腕の枕の細きが故か、猫の子一匹、いのち委《ゆだ》ねては眠って呉れぬ。まことの愛の有様は、たとえば、みゆき、朝顔日記、めくらめっぽう雨の中、ふしつ、まろびつ、あと追うてゆく狂乱の姿である。君ひとりの、ごていしゅだ。自信を以て、愛して下さい。
一豊《かずとよ》の妻など、いやなこった。だまって、百円のへそくり出されたとて、こちらは、いやな気がするだけだ。なんにも要らない。はい、と素直な返事だけでも、してお呉れ。すみません、と軽い口調で一言そっと、おわびをなさい。君は、無智だ。歴史を知らぬ。芸術の花うかびたる小川の流れの起伏を知らない。陋屋《ろうおく》の半坪の台所で、ちくわの夕食に馴れたる盲目の鼠だ。君には、ひとりの良人を愛することさえできなかった。かつて君には、一葉の恋文さえ書けなかった。恥じるがいい。女体の不言実行の愛とは、何を意味するか。ああ、君のぼろを見とどけてしまった私の眼を、私自身でくじり取ろうとした痛苦の夜々を、知っているか。
人には、それぞれ天職というものが与えられています。君は、私を嘘つきだと言った。もっと、はっきり言ってごらん。君こそ私をあざむいている。私は、いったい、どんな嘘をついたというのだ。そうして、もっと重大なことには、その具体的の結果が、どうなったか。記録的にお知らせ願いたいのだ。
人を、いのちも心も君に一任したひとりの人間を、あざむき、脳病院にぶちこみ、しかも完全に十日間、一葉の消息だに無く、一輪の花、一個の梨《なし》の投入をさえ試みない。君は、いったい、誰の嫁さんなんだい。武士の妻。よしやがれ! ただ、T家よりの銅銭の仕送りに小心よくよく、或いは左、或いは右。真実、なんの権威もない。信じないのか、妻の特権を。
含羞《がんしゅう》は、誰でも心得ています。けれども、一切に眼をつぶって、ひと思いに飛び込むところに真実の行為があるのです。できぬとならば、「薄情。」受けよ、これこそは君の冠。
人、おのおの天職あり。十坪の庭にトマトを植え、ちくわを食いて、洗濯に専念するも、これ天職、われとわがはらわたを破り、わが袖《そで》、炎々の焔あげつつあるも、われは嵐にさからって、王者、肩そびやかしてすすまなければならぬ、さだめを負うて生れた。大礼服着たる衣紋竹《えもんだけ》、すでに枯木、刺さば、あ、と一声の叫びも無く、そのままに、かさと倒れ、失せむ。空なる花。ゆるせよ、私はすすまなければいけないのだ。母の胸ひからびて、われを抱き入れることなし。上へ、上へ、と逃れゆくこそ、われのさだめ。断絶、この苦、君にはわからぬ。
投げ捨てよ、私を。とわに遠のけ! 「テニスコートがあって、看護婦さんとあそんで、ゆっくり御静養できますわよ。」と悪婆の囁き。われは、君のそのいたわりの胸を、ありがたく思っていました。見よ、あくる日、運動場に出ずれば、蒼《あお》き鬼、黒い熊、さながら地獄、ここは、かの、どんぞこの、脳病院に非ずや。我もまた、一囚人、「ひとり!」と鍵の束《たば》持てるポマアドの悪臭たかき一看守に背押されて、昨夜あこがれ見しテニスコートに降り立ちぬ。
銅貨のふくしゅう。……の暗躍。ただ、ただ、レッド・テエプにすぎざる責任、規約の槍玉にあげられた鼻のまるいキリスト。「温度表を見て下さい。二十日以降、注射一本、求めていません。私にも、責任の一半を持たせて下さい。注射しなけれあいいんでしょう?」「いいえ、保証人から全快[#「全快」に白丸傍点]までは、と厳格にたのまれてあります。」ただ、飼い放ち在るだけでは、金魚も月余の命、保たず。いつわりでよし、プライドを、自由を、青草原を!
尚、ここに名を録すにも価せぬ……のその閨に於ける鼻たかだかの手柄話に就いては、私、一笑し去りて、余は、われより年若き、骨たくましきものに、世界歴史はじまりて、このかた、一筋に高く潔く直く燃えつぎたるこの光栄の炬火《たいまつ》を手渡す。心すべきは、きみ、ロヴェスピエルが瞳のみ。
二十四日。 なし。
二十五日。
「金魚も、ただ飼い放ち在るだけでは、月余の命、保たず。」(その一。)
われより若きものへ自信つけさせたく、走り書。断片の語なれども、私は、狂っていません。
社会制裁の目茶目茶は医師のはんらんと、小市民の医師の良心に対する盲目的信仰より起った。たしかに重大の一因である。ヴェルレエヌ氏の施療病院に於ける最後の詩句、「医者をののしる歌。」を読み、思わず哄笑《こうしょう》した五年まえのおのれを恥じる。厳粛の意味で、医師の瞳の奥をさぐれ!
私営脳病院のトリック。
一、この病棟、患者十五名ほどの中、三分の二は、ふつうの人格者だ。他人の財をかすめる者、又、かすめむとする者、ひとりもなかった。人を信じすぎて、ぶちこまれた。
一、医師は、決して退院の日を教えぬ。確言せぬのだ。底知れず[#「底知れず」に傍点]、言を左右にする。
一、新入院の者ある時には、必ず、二階の見はらしよき一室に寝かせ、電球もあかるきものとつけかえ、そうして、附き添って来た家族の者を、やや、安心させて、あくる日、院長、二階は未だ許可とってないから、と下の陰気な十五名ほどの患者と同じの病棟へ投じる。
一、ちくおんき慰安。私は、はじめの日、腹から感謝して泣いてしまった。新入の患者あるごとに、ちくおんき、高田浩吉、はじめる如し。
一、事務所のほうからは、決して保証人へ来いと電話せぬ。むこうのきびしく、さいそくせぬうちは、永遠に[#「永遠に」に傍点]黙している。たいてい、二年、三年放し飼い。みんな、出ること許《ばか》り考えている。
一、外部との通信、全部没収。
一、見舞い絶対に謝絶、若しくは時間定めて看守立ち合い。
一、その他、たくさんある。思い出し次第、書きつづける。忘れねばこそ、思い出さずそろ、か。(この日、退院の約束、断腸《だんちょう》のことどもあり、自動車の音、三十も、四十も、はては、飛行機の爆音、牛車、自転車のきしりにさえ胸やぶれる思い。)
「出してくれ!」「やかまし!」どしんのもの音ありて、秋の日あえなく暮れむとす。
二十六日。
「金魚も、ただ飼い放ち在るだけでは、月余の命、保たず。」(その二。)
昨日、約束の迎え来らず。ありがとう。けさ、おもむろに鉛筆執った。愛している、という。けれども、小市民四十歳の者は、われらを愛する術を知っていない。愛し得ぬのだ。金魚へ「ふ」だ。愛していないと、言い切り得る。
夫を失いし或る妻の呟《つぶや》き、「夜のつらさは、ごまかせるけれども、夜あけが――。」あかつきばかり憂きものはなし、とは眠いうらみを述べているのではない。くらきうち眼さえて、かならず断腸のこと、正確に在り。大西郷は、眼さむるとともに、ふとん蹴ってはね起きてしまったという。菊池寛は、午前三時でも、四時でも、やはり、はね起き、而《しか》して必ず早すぎる朝食を喫するという。すべて、みな、この憂さに沈むことの害毒を人一倍知れる心弱くやさしき者の自衛手段と解して大過なかるべし。われ、事に於いて後悔せず、との菊池氏の金看板の楯《たて》の弱さにも、ふと気づいて、地上の王者へ、無言で一杯のミルクささげてやって呉れる決意ついたら、それが、また、君のからだの一歩前進なること疑う勿《なか》れ。
営利目的の病院ゆえ、あらゆる手段にて患者の退院はばむが、これ、院主、院長、医師、看護婦、看守のはてまで、おのおの天職なりと、きびしく固く信じている様子である。悪の数々、目おおえども、耳ふさげども、壁のすきま、鉄格子の窓、四方八方よりひそひそ忍びいる様、春の風の如く、むしろ快し。院主(出資者)の訓辞、かの説教強盗のそれより、少し声やさしく、温顔なるのみ。内容、もとより、底知れぬトリックの沼。しかも直接に、人のいのちを奪うトリック。病院では、死骸など、飼い犬死にたるよりも、さわがず、思わず、噂せず。壁塗り左官のかけ梯子《はしご》より落ちしものの左腕の肉、煮て食いし話、一看守の語るところ、信ずべきふし在り。再び、かの、ひらひらの金魚を思う。
「人権」なる言葉を思い出す。ここの患者すべて、人の資格はがれ落されている。
われら生き伸びてゆくには、二つの途《みち》のみ。脱走、足袋《たび》はだしのまま、雨中、追われつつ、一汁一菜、半畳の居室与えられ、犬馬の労、誓言して、巷《ちまた》の塵の底に沈むか、若しくは、とても金魚として短きいのち終らむと、ごろり寝ころび、いとせめて、油多き「ふ」を食い、鱗《うろこ》の輝き増したるを紙より薄き人の口の端《は》にのぼせられて、ぺちゃぺちゃほめられ、数分後は、けろりと忘れられ、笑われ、冷き血のまま往生《おうじょう》とげむか。あとは、自らくびれて、甲斐《かい》なき命絶ち、四、五日、人の心の片端、ひやとさせるもよからむ。すべて皆、人のための手本。われの享楽のための一夜もなかった。
私は、享楽のために売春婦かったこと一夜もなし。母を求めに行ったのだ。乳房を求めに行ったのだ。葡萄の一かご、書籍、絵画、その他のお土産《みやげ》もっていっても、たいてい私は軽んぜられた。わが一夜の行為、うたがわしくば、君、みずから行きて問え。私は、住所も名前も、いつわりしことなし。恥ずべきこととも思わねば。
私は享楽のために、一本の注射打ちたることなし。心身ともにへたばって、なお、家の鞭《むち》の音を背後に聞き、ふるいたちて、強精ざい、すなわち用いて、愚妻よ、われ、どのような苦労の仕事し了せたか、おまえにはわからなかった。食わぬ、しし、食ったふりして、しし食ったむくいを受ける。
その人と、面とむかって言えないことは、かげでも言うな。私は、この律法を守って、脳病院にぶちこまれた。求めもせぬに、私に、とめどなき告白したる十数人の男女、三つき経ちて、必ず私を悪しざまに、それも陰口、言いちらした。いままでお世辞たらたら、厠《かわや》に立ちし後姿見えずなるやいな、ちえっ! と悪魔の嘲笑。私は、この鬼を、殴り殺した。
私の辞書に軽視の文字なかった。
作品のかげの、私の固き戒律、知るや君。否、その激しさの、高さの、ほどを!
私は、私の作品の中の人物に、なり切ったほうがむしろ、よかった。ぐうだらの漁色家。
私は、「おめん!」のかけごえのみ盛大の、里見、島崎などの姓名によりて代表せられる老作家たちの剣術先生的硬直を避けた。キリストの卑屈を得たく修業した。
聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さをもて、はっきりと二分されている。マタイ伝二十八章、読み終えるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝の翼を得るは、いつの日か。
「苦しくとも、少し我慢なさい。悪いようには、しないから。」四十歳の人の言葉。母よ、兄よ。私たちこそ、私たちのあがきこそ、まこと、いつわらざる「我慢下さい。悪いようにはしないから。」の切々、無言の愛情より発していること、知らなければいけない。一時の恥を、しのんで下さい。十度の恥を、しのんで下さい。もう、三年のいのち、保っていて下さい。われらこそ、光の子に、なり得る、しかも、すべて、あなたへの愛のため。
その時には、知るであろう。まことの愛の素晴らしさを、私たちの胸ひろくして、母を、兄を、抱き容れて、眠り溶けさせることができるのだという事実を。その時には、われらにそっと囁《ささや》け、「私たちは、愛さなかった。」
「まあいいよ。人の心配なぞせずと、ご自分の袖のほころびでも縫いなさい。」それでは、立ちあがって言おうじゃないか。「人たれか、われ先に行くと、たとい、一分《いちぶ》なりとも、その自矜うちくだかれて、なんの、維持ぞや、なんの、設計ぞや、なんの建設ぞや。」さらに、笑ったならば、その馬づらを、殴れ!
あなた知っている? 教授とは、どれほど勉強、研究しているものか。学者のガウンをはげ。大本教主の頭髪剃り落した姿よりも、さらに一層、みるみる矮小化《わいしょうか》せむこと必せり、
学問の過尊をやめよ。試験を全廃せよ。あそべ。寝ころべ。われら巨万の富貴をのぞまず。立て札なき、たった十坪の青草原を!
性愛を恥じるな! 公園の噴水の傍のベンチに於ける、人の眼恥じざる清潔の抱擁《ほうよう》と、老教授R氏の閉め切りし閨の中と、その汚濁、果していずれぞや。
「男の人が欲しい!」「女の友が欲しい!」君、恥じるがいい、ただちに、かの聯想のみ思い浮べる油肥りの生活を! 眼を、むいて、よく見よ、性のつぎなる愛の一字を!
求めよ、求めよ、切に求めよ、口に叫んで、求めよ。沈黙は金という言葉あり、桃李《とうり》言わざれども、の言葉もあった、けれども、これらはわれらの時代を一層、貧困に落した。(As you see.)告げざれば、うれい、全く無きに似たり、とか、きみ、こぶしを血にして、たたけ、五百度たたきて門の内こたえなければ、千度たたかむ、千度たたきて門、ひらかざれば、すなわち、門をよじのぼらむ、足すべらせて落ちて、死なば、われら、きみの名を千人の者に、まことに不変の敬愛もちて千語ずつ語らむ。きみの花顔、世界の巷ちまた、露路の奥々、あつき涙とともに、撒き散らさむ。死ね! われら、いま、微細といえども、君ひとり死なせたる世の悪への痛憤、子々孫々ひまあるごとに語り聞かせ、君の肖像、かならず、子らの机上に飾らせ、その子、その孫、約して語りつがせむ。ああ、この世くらくして、君に約するに、世界を覆う厳粛華麗の百年祭の固き自明の贈物のその他を以《もっ》てする能わざることを、数十万の若き世代の花うばわれたる男女と共に、深く恥じいる。
二十七日。
「金魚も、ただ飼い放ち在るだけでは、月余の命、保たず。」(その三。)
人、口々に言う。「リアル」と。問わむ、「何を以てか、リアルとなす。蓮《はす》の開花に際し、ぽんと音するか、せぬか、大問題、これ、リアルなりや。」「否。」「ナポレオンもまた、風邪をひき、乃木《のぎ》将軍もまた、閨を好み、クレオパトラもまた、脱糞せりとの事実、これこそは君等のいうリアルならむ。」笑って答えず。「更に問わむ、太宰もまた泣いて原稿を買って下さい、とたのみ、チエホフも扉の敷居すりへって了うまで、売り込みの足をはこんだ、ゴリキイはレニンに全く牛耳《ぎゅうじ》られて易々諾々《いいだくだく》のふうがあった、プルウストのかの出版屋への三拝九拝の手紙、これをこそ、きみ、リアルというか。」用心のニヤニヤ笑いつづけながらも、少し首肯《うなず》く。「愚なる者よ。きみ、人その全部の努力用いて、わが妻子わすれむと、あがき苦しみつつ、一度持たせられし旗の捨てがたくして、沐雨櫛風《もくうしっぷう》、ただ、ただ上へ、上へとすすまなければならぬ、肉体すでに半死の旗手の耳へ、妻を思い出せよ、きみ、私め、かわってもよろしゅうございますが、その馬の腹帯は破れていますよと、かの宇治川、佐々木のでんをねらっていることに、気づくがよい。名への恋着に非ず、さだめへの忠実、確定の義務だ。川の底から這いあがり、目さえおぼろ、必死に門へかじりつき、また、よじ登り、すこし花咲きかけたる人のいのちを、よせ、よせ、芝居は、と鼻で笑って、足ひっつかんで、むざん、どぶどろの底、ひきずり落すのが、これが、リアルか。」かれ少し坐り直して、「リアルとは、君の様に、針ほどのものを、棒、いや、門柱くらいに叫び騒がずして、針は、針、と正確に指さし示す事なり。」「愚かや、君は、かの認識の法を、研究したにちがいない。また、かの、弁証法をも、学びたるなるべし。われ、かのレクチュアをなす所存なけれど、いまの若き世代、いまだにリアル、リアル、と穴てんてんの青き表現の羅紗《らしゃ》かぶせたる机にしがみつき、すがりつき、にかわづけされて在る状態の、『不正。』に気づくべき筈《はず》なのに、帰りて、まず、唯物論的弁証法入門、アンダラインのみを拾いながらでもよし、まず、十頁、読み直せ。お話は、それから、再びし直そう。」かく言いて、その日は、わかれた。
リアルの最後のたのみの綱は、記録と、統計と、しかも、科学的なる臨床的、解剖学的、それ等である。けれども、いま、記録も統計も、すでに官僚的なる一技術に成り失《う》せ、科学、医学は、すでに婦人雑誌ふうの常識に堕し、小市民《リアリスト》は、何々開業医のえらさを知っても、野口英世の苦労を知らぬ。いわんや、解剖学の不確実など、寝耳に水であろう。天然なる厳粛の現実《リアリティ》の認識は、二・二六事件の前夜にて終局、いまは、認識のいわば再認識、表現の時期である。叫びの朝である。開花の、その一瞬まえである。
真理と表現。この両頭食い合いの相互関係、君は、たしかに学んだ筈だ。相剋《そうこく》やめよ。いまこそ、アウフヘエベンの朝である。信ぜよ、花ひらく時には、たしかに明朗の音を発する。これを仮りに名づけて、われら、「ロマン派の勝利。」という。誇れよ! わがリアリスト、これこそは、君が忍苦三十年の生んだ子、玉の子、光の子である。
この子の瞳の青さを笑うな。羞恥《しゅうち》深き、いまだ膚やわらかき赤子なれば。獅子《しし》を真似びて三日目の朝、崖の下に蹴落すもよし。崖の下の、蒲団《ふとん》わするな。勘当《かんどう》と言って投げ出す銀煙管《ぎんぎせる》。「は、は。この子は、なかなか、おしゃまだね。」
知識人のプライドをいたわれ! 生き、死に、すべて、プライドの故、と断じ去りて、よし。職工を見よ、農家の夕食の様を覗《のぞ》け! 着々、陽気を取り戻した。ひとり、くらきは、一万円|費《つか》って大学を出た、きみら、痩《や》せたる知識人のみ!
くたびれたら寝ころべ!
悲しかったら、うどんかけ一杯と試合はじめよ。
私は君を一度あざむきしに、君は、私を千度あざむいていた。私は、「嘘吐き」と呼ばれ、君は、「苦労人。」と呼ばれた。「うんとひどい嘘、たくさん吐くほど、嘘つきでなくなるらしいのね?」
十二、三歳の少女の話を、まじめに聞ける人、ひとりまえの男というべし。
その余は、おのれの欲するがまにまに行え。
二十八日。
「現代の英雄について。」
ヴェルレエヌ的なるものと、ランボオ的なるもの。
スウィートピイは、蘇鉄《そてつ》の真似をしたがる。鉄のサラリイマンを思う。片方は糸で修繕《しゅうぜん》した鉄ぶちの眼がねをかけ、スナップ三つあまくなった革のカバンを膝《ひざ》に乗せ、電車で、多少の猫背つかって、二日すらない顎《あご》の下のひげを手さぐり雨の巷《ちまた》を、ぼんやり見ている。なぐられて、やかれて、いまはくろがねの冷酷を内にひそめて、(断)
二十九日。
十字架のキリスト、天を仰いでいなかった。たしかに。地に満つ人の子のむれを、うらめしそうに、見おろしていた。
手の札、からりと投げ捨てて、笑えよ。
三十日。
雨の降る日は、天気が悪い。
三十一日。
(壁に。)ナポレオンの欲していたものは、全世界ではなかった。タンポポ一輪の信頼を欲していただけであった。
(壁に。)金魚も、ただ飼い放ち在るだけでは、月余の命、保たず。
(壁に。)われより後に来るもの、わが死を、最大限に利用して下さい。
一日。
実朝《さねとも》をわすれず。
伊豆の海の白く立つ浪がしら
塩の花ちる。
うごくすすき。
蜜柑《みかん》畑。
二日。
誰も来ない。たより寄こせよ。
疑心暗鬼。身も骨も、けずられ、むしられる思いでございます。
チサの葉いちまいの手土産で、いいのに。
三日。
不言実行とは、暴力のことだ。手綱《たづな》のことだ。鞭《むち》のことだ。
いい薬になりました。
四日。
「梨花《りか》一枝。」
改造十一月号所載、佐藤春夫作「芥川賞」を読み、だらしない作品と存じました。それ故に、また、類《たぐい》なく立派であると思った。真の愛情は、めくらの姿である。狂乱であり、憤怒である。更に、(断)
寝間の窓から、羅馬《ローマ》の燃上を凝視して、ネロは、黙した。一切の表情の放棄である。美妓《びぎ》の巧笑に接して、だまっていた。緑酒を捧持されて、ぼんやりしていた。かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙を思うよ。
一噛の歯には、一噛の歯を。一杯のミルクには、一杯のミルク。(誰のせいでもない。)
「なんじを訴うる者とともに途《みち》に在るうちに、早く和解せよ。恐《おそら》くは、訴うる者なんじを審判人《さばきびと》にわたし、審判人は下役《したやく》にわたし、遂《つい》になんじは獄《ひとや》に入れられん。
誠に、なんじに告ぐ、一|厘《りん》も残りなく償わずば、其処《そこ》をいずること能《あた》わじ。」(マタイ五の二十五、六。)
晩秋騒夜、われ完璧《かんぺき》の敗北を自覚した。
一銭を笑い、一銭に殴られたにすぎぬ。
私の瞳は、汚れてなかった。
享楽のための注射、一本、求めなかった。おめん! の声のみ盛大の二、三の剣術先生を避けたにすぎぬ。「水の火よりも勁《つよ》きを知れ。キリストの嫋々《じょうじょう》の威厳をこそ学べ。」
他は、なし。
天機は、もらすべからず。
(四日、亡父命日。)
五日。
逢うことの、いま、いつとせ、早かりせば、など。
六日。
「人の世のくらし。」
女学校かな? テニスコート。ポプラ。夕陽。サンタ・マリヤ。(ハアモニカ。)
「つかれた?」
「ああ。」
これが人の世のくらし。まちがいなし。
七日。
言わんか、「死屍《しし》に鞭打つ。」言わんか、「窮鳥を圧殺す。」
八日。
かりそめの、人のなさけの身にしみて、まなこ、うるむも、老いのはじめや。
九日。
窓外、庭の黒土をばさばさ這いずりまわっている醜き秋の蝶《ちょう》を見る。並はずれて、たくましきが故に、死なず在りぬる。はかなき態には非ず。
十日。
私が悪いのです。私こそ、すみません、を言えぬ男。私のアクが、そのまま素直に私へ又はねかえって来ただけのことです。
よき師よ。
よき兄よ。
よき友よ。
よき兄嫁よ。
姉よ。
妻よ。
医師よ。
亡父も照覧。
「うちへかえりたいのです。」
柿一本の、生れ在所《ざいしょ》や、さだ九郎。
笑われて、笑われて、つよくなる。
十一日。
無才、醜貌《しゅうぼう》の確然たる自覚こそ、むっと図太い男を創る。たまもの也。(家兄ひとり、面会、対談一時間。)
十二日。
試案下書。
一、昭和十一年十月十三日より、ひとつき間、東京市板橋区M脳病院に在院。パヴィナアル中毒全治。以後は、
一、十一年十一月より十二年(二十九歳)六月末までサナトリアム生活。(病院撰定は、S先生、K様、一任。)
一、十二年七月より十三年(三十歳)十月末まで、東京より四、五時間以上かかって行き得る(来客すくなかるべき)保養地に、二十円内外の家借りて静養。(K氏、ちくらの別荘貸して下さる由、借りて住みたく思いましたが、けれども、この場所撰定も、皆様一任。)
右の如く満一箇年、きびしき摂生、左肺全快、大丈夫と、しんから自信つきしのち、東京近郊に定住。(やはり創作。厳酷の精進。)
なお、静養中の仕事は、読書と、原稿一日せいぜい二枚、限度。
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一、「朝の歌留多《かるた》。」
(昭和いろは歌留多。「日本イソップ集」の様な小説。)
一、「猶太《ゆだ》の王。」
(キリスト伝。)
[#ここで字下げ終わり]
右の二作、プランまとまっていますから、ゆっくり書いてゆくつもりです。他の雑文は、たいてい断るつもりです。
その他、来春、長編小説三部曲、「虚構の彷徨。」S氏の序文、I氏の装幀にて、出版。(試案は、所詮、笹の葉の霜。)
この日、午後一時半、退院。
[#ここから4字下げ、ゴシック体]
汝《なんじ》らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。天にいます汝らの父の子とならん為なり。天の父はその陽を悪しき者のうえにも、善き者のうえにも昇らせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給うなり。なんじら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然《しか》するにあらずや。兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや。然らば汝らの天の父の全きが如く、汝らもまた、全かれ。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「太宰治全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年9月27日第1刷発行
親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
1999年8月30日公開
2004年3月4日修正
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