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服装に就いて
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)弘前《ひろさき》
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 ほんの一時ひそかに凝《こ》った事がある。服装に凝ったのである。弘前《ひろさき》高等学校一年生の時である。縞《しま》の着物に角帯をしめて歩いたものである。そして義太夫《ぎだゆう》を習いに、女師匠のもとへ通ったのである。けれどもそれは、ほんの一年間だけの狂態であった。私は、そんな服装を、憤怒を以《もっ》てかなぐり捨てた。別段、高邁《こうまい》な動機からでもなかった。私が、その一年生の冬季休暇に、東京へ遊びに来て、一夜、その粋人の服装でもって、おでんやの縄のれんを、ぱっとはじいた。こう姉さん、熱いところを一本おくれでないか。熱いところを、といかにも鼻持ちならぬ謂《い》わば粋人の口調を、真似たつもりで澄ましていた。やがてその、熱いところを我慢して飲み、かねて習い覚えて置いた伝法《でんぽう》の語彙《ごい》を、廻らぬ舌に鞭打《むちう》って余すところなく展開し、何を言っていやがるんでえ、と言い終った時に、おでんやの姉さんが明るい笑顔で、兄さん東北でしょう、と無心に言った。お世辞のつもりで言ってくれたのかも知れないが、私は実に興覚めたのである。私も、根からの馬鹿では無い。その夜かぎり、粋人の服装を、憤怒を以て放擲《ほうてき》したのである。それからは、普通の服装をしているように努力した。けれども私の身長は五尺六寸五分(五尺七寸以上と測定される事もあるが、私はそれを信用しない。)であるから、街を普通に歩いていても、少し目立つらしいのである。大学の頃にも、私は普通の服装のつもりでいたのに、それでも、友人に忠告された。ゴム長靴が、どうにも異様だと言うのである。ゴム長は、便利なものである。靴下が要らない。足袋《たび》のままで、はいても、また素足にはいても、人に見破られる心配がない。私は、たいてい、素足のままではいていた。ゴム靴の中は、あたたかい。家を出る時でも、編上靴のように、永いこと玄関にしゃがんで愚図愚図《ぐずぐず》している必要がない。すぽり、すぽりと足を突込んで、そのまますぐに出発できる。脱ぎ捨てる時も、ズボンのポケットに両手をつっこんだままで、軽く虚空を蹴《け》ると、すぽりと抜ける。水溜りでも泥路でも、平気で濶歩《かっぽ》できる。重宝なものである。なぜそれをはいて歩いては、いけないのか。けれどもその親切な友人は、どうにも、それは異様だから、やめたほうがいい、君は天気の佳い日でもはいて歩いている、奇を衒《てら》っているようにも見える、と言うのである。つまり、私がおしゃれの為にゴム長を、はいて歩いていると思っているらしいのである。ひどい誤解である。私は高等学校一年の時、既に粋人たらむ事の不可能を痛感し、以後は衣食住に就いては専《もっぱ》ら簡便安価なるものをのみ愛し続けて来たつもりなのである。けれども私は、その身長に於《お》いても、また顔に於いても、あるいは鼻に於いても、確実に、人より大きいので、何かと目ざわりになるらしく、本当に何気なくハンチングをかぶっても、友人たちは、やあハンチングとは、思いつきだね、あまり似合わないね、変だよ、よした方がよい、と親切に忠告するので、私は、どうしていいか判らなくなってしまうのである。細工《さいく》の大きい男は、それだけ、人一倍の修業が必要のようである。自分では、人生の片隅に、つつましく控えているつもりなのに、人は、なかなかそれを認めてくれない。やけくそで、いっそ林銑十郎閣下のような大鬚《おおひげ》を生やしてみようかとさえ思う事もあるのだが、けれども、いまの此《こ》の、六畳四畳半三畳きりの小さい家の中で、鬚ばかり立派な大男が、うろうろしているのは、いかにも奇怪なものらしいから、それも断念せざるを得ない。いつか友人がまじめくさった顔をして、バアナアド・ショオが日本に生れたらとても作家生活が出来なかったろう、という述懐をもらしたので私も真面目に、日本のリアリズムの深さなどを考え、要するに心境の問題なのだからね、と言い、それからまた二つ三つ意見を述べようと気構えた時、友人は笑い出して、ちがう、ちがう、ショオは身の丈七尺あるそうじゃないか、七尺の小説家なんて日本じゃ生活できないよ、と言って、けろりとしていた。私は、まんまと、かつがれたわけであるが、けれども私には、この友人の無邪気な冗談を心から笑う事は出来なかった。何だか、ひやりとしたのである。もう一尺、高かったなら! 実に危いところだと思ったのである。
 私は高等学校一年生の時に、早くもお洒落《しゃれ》の無常を察して、以後は、やぶれかぶれで、あり合せのものを選択せずに身にまとい、普通の服装のつもりで歩いていたのであるが、何かと友人たちの批評の対象になり、それ故、臆《おく》して次第にまた、ひそかに服装にこだわるように、なってしまったようである。こだわるといっても、私は自分の野暮《やぼ》ったさを、事ある毎に、いやになるほど知らされているのであるから、あれを着たい、この古代の布地で羽織を仕立させたい等の、粋《いき》な慾望は一度も起した事が無い。与えられるものを、黙って着ている。また私は、どういうものだか、自分の衣服や、シャツや下駄《げた》に於いては極端に吝嗇《りんしょく》である。そんなものに金銭を費す時には、文字どおりに、身を切られるような苦痛を覚えるのである。五円を懐中して下駄を買いに出掛けても、下駄屋の前を徒《いたず》らに右往左往して思いが千々《ちぢ》に乱れ、ついに意を決して下駄屋の隣りのビヤホオルに飛び込み、五円を全部費消してしまうのである。衣服や下駄は、自分のお金で買うものでないと思い込んでいるらしいのである。また現に、私は、三、四年まえまでは、季節季節に、故郷の母から衣服その他を送ってもらっていたのである。母は私と、もう十年も逢わずにいるので、私がもうこんなに分別くさい鬚男になっているのに気が附かない様子で、送って来る着物の柄模様は、実に派手である。その大きい絣《かすり》の単衣《ひとえ》を着ていると、私は角力《すもう》の取的《とりてき》のようである。或《ある》いはまた、桃の花を一ぱいに染めてある寝巻の浴衣《ゆかた》を着ていると、私は、ご難の楽屋で震えている新派の爺さん役者のようである。なっていないのである。けれども私は、与えられるものを黙って着ている主義であるから、内心少からず閉口していても、それを着て鬱然と部屋のまん中にあぐらをかいて煙草をふかしているのであるが、時たま友人が訪れて来てこの私の姿を目撃し、笑いを噛み殺そうとしても出来ない様子である。私は鬱々として楽しまず、ついに立ってその着物を或る種の倉庫にあずけに行くのである。いまは、もう、一まいの着物も母から送ってもらえない。私は、私の原稿料で、然るべき衣服を買い整えなければならない。けれども私は、自分の衣服を買う事に於いては、極端に吝嗇なので、この三、四年間に、夏の白絣一枚と、久留米絣《くるめがすり》の単衣を一枚新調しただけである。あとは全部、むかし母から送られ、或る種の倉庫にあずけていたものを必要に応じて引き出して着ているのである。たとえばいま、夏から秋にかけての私の服装に就いて言うならば、真夏は、白絣いちまい、それから涼しくなるにつれて、久留米絣の単衣と、銘仙《めいせん》の絣の単衣とを交互に着て外出する。家に在る時は、もっぱら丹前《たんぜん》下の浴衣である。銘仙の絣の単衣は、家内の亡父の遺品である。着て歩くと裾《すそ》がさらさらして、いい気持だ。この着物を着て、遊びに出掛けると、不思議に必ず雨が降るのである。亡父の戒めかも知れない。洪水にさえ見舞われた。一度は、南伊豆。もう一度は、富士吉田で、私は大水に遭い多少の難儀をした。南伊豆は七月上旬の事で、私の泊っていた小さい温泉宿は、濁流に呑まれ、もう少しのところで、押し流されるところであった。富士吉田は、八月末の火祭りの日であった。その土地の友人から遊びに来いと言われ、私はいまは暑いからいやだ、もっと涼しくなってから参りますと返事したら、その友人から重ねて、吉田の火祭りは一年に一度しか無いのです、吉田は、もはや既に涼しい、来月になったら寒くなります、という手紙で、ひどく怒っているらしい様子だったので私は、あわてて吉田に出かけた。家を出る時、家内は、この着物を着ておいでになると、また洪水にお遭いになりますよ、といやな、けちを附けた。何だか不吉な予感を覚えた。八王子あたりまでは、よく晴れていたのだが、大月で、富士吉田行の電車に乗り換えてからは、もはや大豪雨であった。ぎっしり互いに身動きの出来ぬほどに乗り込んだ登山者あるいは遊覧の男女の客は、口々に、わあ、ひどい、これあ困ったと豪雨に対して不平を並べた。亡父の遺品の雨着物を着ている私は、この豪雨の張本人のような気がして、まことに、そら恐しい罪悪感を覚え、顔を挙げることが出来なかった。吉田に着いてからも篠《しの》つく雨は、いよいよさかんで、私は駅まで迎えに来てくれていた友人と共に、ころげこむようにして駅の近くの料亭に飛び込んだ。友人は私に対して気の毒がっていたが、私は、この豪雨の原因が、私の銘仙の着物に在るということを知っていたので、かえって友人にすまない気持で、けれどもそれは、あまりに恐ろしい罪なので、私は告白できなかった。火祭りも何も、滅茶滅茶になった様子であった。毎年、富士の山仕舞いの日に木花咲耶姫《このはなさくやひめ》へお礼のために、家々の門口に、丈余の高さに薪《まき》を積み上げ、それに火を点じて、おのおの負けず劣らず火焔《かえん》の猛烈を競うのだそうであるが、私は、未だ一度も見ていない。ことしは見れると思って来たのだが、この豪雨のためにお流れになってしまったらしいのである。私たちはその料亭で、いたずらに酒を飲んだりして、雨のはれるのを待った。夜になって、風さえ出て来た。給仕の女中さんが、雨戸を細めにあけて、
「ああ、ぼんやり赤い。」と呟《つぶや》いた。私たちは立っていって、外をのぞいて見たら、南の空が幽《かす》かに赤かった。この大暴風雨の中でも、せめて一つ、木花咲耶姫へのお礼の為に、誰かが苦心して、のろしを挙げているのであろう。私は、わびしくてならなかった。この憎い大暴風雨も、もとはと言えば、私の雨着物の為なのである。要らざる時に東京から、のこのこやって来て、この吉田の老若男女ひとしく指折り数えて待っていた楽しい夜を、滅茶滅茶にした雨男は、ここにいます、ということを、この女中さんにちょっとでも告白したならば、私は、たちまち吉田の町民に袋たたきにされるであろう。私は、やはり腹黒く、自分の罪をその友人にも女中さんにも、打ち明けることはしなかった。その夜おそく雨が小降りになったころ私たちはその料亭を出て、池のほとりの大きい旅館に一緒に泊り、翌《あく》る朝は、からりと晴れていたので、私は友人とわかれてバスに乗り御坂峠《みさかとうげ》を越えて甲府へ行こうとしたが、バスは河口湖を過ぎて二十分くらい峠をのぼりはじめたと思うと、既に恐ろしい山崩れの個所に逢着《ほうちゃく》し、乗客十五人が、おのおの尻端折《しりはしょ》りして、歩いて峠を越そうと覚悟をきめて三々五々、峠をのぼりはじめたが、行けども行けども甲府方面からの迎えのバスが来ていない。断念して、また引返し、むなしくもとのバスに再び乗って吉田町まで帰って来たわけであるが、すべては、私の魔の銘仙のせいである。こんど、どこか旱魃《かんばつ》の土地の噂《うわさ》でも聞いた時には、私はこの着物を着てその土地に出掛け、ぶらぶら矢鱈《やたら》に歩き廻って見ようと思っている。沛然《はいぜん》と大雨になり、無力な私も、思わぬところで御奉公できるかも知れない。私には、単衣はこの雨着物の他に、久留米絣のが一枚ある。これは、私の原稿料で、はじめて買った着物である。私は、これを大事にしている。最も重要な外出の際にだけ、これを着て行くことにしているのである。自分では、これが一流の晴着のつもりなのであるが、人は、そんなに注目してはくれない。これを着て出掛けた時には、用談も、あまりうまく行かない。たいてい私は、軽んぜられる。普段着のように見えるのかも知れない。そうして帰途は必ず、何くそ、と反骨をさすり、葛西《かさい》善蔵の事が、どういうわけだか、きっと思い出され、断乎としてこの着物を手放すまいと固執の念を深めるのである。
 単衣から袷《あわせ》に移る期間はむずかしい。九月の末から十月のはじめにかけて、十日間ばかり、私は人知れぬ憂愁に閉ざされるのである。私には、袷は、二揃いあるのだ。一つは久留米絣で、もう一つは何だか絹のものである。これは、いずれも以前に母から送ってもらったものなのであるが、この二つだけは柄もこまかく地味なので、私は、かの街の一隅の倉庫にあずけずに保存しているのである。私は絹のものを、ぞろりと着流してフェルト草履《ぞうり》をはき、ステッキを振り廻して歩く事が出来ないたちなので、その絹のものも、いきおい敬遠の形で、この一、二年、友人の見合いに立ち合った時と、甲府の家内の里へ正月に遊びに行った時と、二度しか着ていない。それもまさか、フェルト草履にステッキという姿では無かった。袴《はかま》をはいて、新しい駒下駄《こまげた》をはいていた。私がフェルト草履を、きらうのは、何も自分の蛮風を衒《てら》っているわけではない。フェルト草履は、見た眼にも優雅で、それに劇場や図書館、その他のビルディングにはいる時でも、下駄の時のように下足係の厄介《やっかい》にならずにすむから、私も実は一度はいてみた事があるのであるが、どうも、足の裏が草履の表の茣蓙《ござ》の上で、つるつる滑っていけない。頗《すこぶ》る不安な焦躁感を覚える。下駄よりも五倍も疲れるようである。私は、一度きりで、よしてしまった。またステッキも、あれを振り廻して歩くと何だか一見識があるように見えて、悪くないものであるが、私は人より少し背が高いので、どのステッキも、私には短かすぎる。無理に地面を突いて歩こうとすると、私は腰を少し折曲げなければならぬ。いちいち腰をかがめてステッキをついて歩いていると、私は墓参の老婆のように見えるであろう。五、六年前に、登山用のピッケルの細長いのを見つけて、それをついて街を歩いていたら、やはり友人に悪趣味であると言って怒られ、あわてて中止したが、何も私は趣味でピッケルなどを持ち出したわけではなかったのである。どうも普通のステッキでは、短かすぎて、思い切り突いて歩く事が出来ない。すぐに、いらいらして来るのである。丈夫で、しかも細長いあのピッケルは、私には肉体的に必要であったのである。ステッキは突いて歩くものではない、持って歩くものであるという事も教えられたが、私は荷物を持って歩く事は大きらいである。旅行でも、出来れば手ぶらで汽車に乗れるように、実にさまざまに工夫するのである。旅行に限らず、人生すべて、たくさんの荷物をぶらさげて歩く事は、陰鬱の基のようにも思われる。荷物は、少いほどよい。生れて三十二年、そろそろ重い荷物ばかりを背負されて来ている私は、この上、何を好んで散歩にまで、やっかいな荷物を持ち運ぶ必要があろう。私は、外に出る時には、たいていの持ち物は不恰好でも何でも懐《ふところ》に押し込んでしまう事にしているのであるが、まさかステッキは、懐へぶち込む事は出来ない。肩にかつぐか、片手にぶらさげて持ち運ばなければならぬ。厄介なばかりである。おまけに犬が、それを胡乱《うろん》な武器と感ちがいして、さかんに吠えたてるかも知れぬのだから、一つとして、いいところが無い。どう考えても、絹ものをぞろりと着流し、フェルト草履、ステッキ、おまけに白足袋という、あの恰好は私には出来そうもないのである。貧乏性という奴かも知れない。ついでだから言うが、私は学校をやめてから七、八年間、洋服というものを着た事がない。洋服をきらいなのではなく、いや、きらいどころか、さぞ便利で軽快なものだろうと、いつもあこがれてさえいるのであるが、私には一着も無いから着ないのである。洋服は、故郷の母も送って寄こさない。また私は、五尺六寸五分であるから、出来合いの洋服では、だめなのである。新調するとなると、同時に靴もシャツもその他いろいろの附属品が必要らしいから百円以上は、どうしてもかかるだろうと思われる。私は、衣食住に於いては吝嗇なので、百円以上も投じて洋装を整えるくらいなら、いっそわが身を断崖から怒濤《どとう》めがけて投じたほうが、ましなような気がするのである。いちど、N氏の出版記念会の時、その時には、私には着ている丹前の他には、一枚の着物も無かったので、友人のY君から洋服、シャツ、ネクタイ、靴、靴下など全部を借りて身体に纏《まと》い、卑屈に笑いながら出席したのであるが、この時も、まことに評判が悪く、洋服とは珍らしいが、よくないね、似合わないよ、なんだって又、などと知人ことごとく感心しなかったようである。ついには洋服を貸してくれたY君が、どうも君のおかげで、僕の洋服まで評判が悪くなった、僕も、これから、その洋服を着て歩く気がしなくなった、と会場の隅で小声で私に不平をもらしたのである。たった一度の洋服姿も、このような始末であった。再び洋服を着る日は、いつの事であろうか、いまのところ百円を投じて新調する気もさらに無いし、甚だ遠いことではなかろうかと思っている。私は当分、あり合せの和服を着て歩くより他は無いのであろう。前に言ったように袷は二揃いあるのだが、絹のもののは、あまり好まない。久留米絣のが一揃いあるが、私は、このほうを愛している。私には野暮な、書生流の着物が、何だか気楽である。一生を、書生流に生きたいとも願っている。会などに出る前夜には、私は、この着物を畳んで蒲団の下に敷いて寝るのである。すると入学試験の前夜のような、ときめきを幽かに感ずるのである。この着物は、私にとって、謂わば討入の晴着のようなものである。秋が深くなって、この着物を大威張りで着て歩けるような季節になると、私は、ほっとするのである。つまり、単衣から袷に移る、その過渡期に於いて、私には着て歩く適当な衣服が無いからでもあるのだ。過渡期は、つねに私のような無力者を、まごつかせるものだが、この、夏と秋との過渡期に於て、私の困惑は深刻である。袷には、まだ早い。あの久留米絣のお気に入りらしい袷を、早く着たいのだが、それでは日中暑くてたまらぬ。単衣を固執していると、いかにも貧寒の感じがする。どうせ貧寒なのだから、木枯しの中を猫背になってわななきつつ歩いているのも似つかわしいのであろうが、そうするとまた、人は私を、貧乏看板とか、乞食《こじき》の威嚇《いかく》、ふてくされ等と言って非難するであろうし、また、寒山拾得の如く、あまり非凡な恰好をして人の神経を混乱させ圧倒するのも悪い事であるから、私は、なるべくならば普通の服装をしていたいのである。簡単に言ってしまうと、私には、セルがないのである。いいセルが、どうしても一枚ほしいのである。実は一枚、あることはあるのだが、これは私が高等学校の、おしゃれな時代に、こっそり買い入れたもので薄赤い縞《しま》が縦横に交錯されていて、おしゃれの迷いの夢から醒めてみると、これは、どうしたって、男子の着るものではなかった。あきらかに婦人のものである。あの一時期は、たしかに、私は、のぼせていたのにちがいない。何の意味も無く、こんな派手ともなんとも形容の出来ない着物を着て、からだを、くにゃくにゃさせて歩いていたのかと思えば、私は顔を覆って呻吟《しんぎん》するばかりである。とても着られるものでない。見るのさえ、いやである。私は、これを、あの倉庫に永いこと預け放しにして置いたのである。ところが昨年の秋、私は、その倉庫の中の衣服やら毛布やら書籍やらを少し整理して、不要のものは売り払い、入用と思われるものだけを持ち帰った。家へ持ち帰って、その大風呂敷包を家内の前で、ほどく時には、私も流石《さすが》に平静でなかった。いくらか赤面していたのである。結婚以前の私のだらし無さが、いま眼前に、如実に展開せられるわけだ。汚れた浴衣は、汚れたままで倉庫にぶち込んでいたのだし、尻の破れた丹前も、そのまま丸めて倉庫に持参していたのだし、満足な品物は一つとして無いのだ。よごれて、かび臭く、それに奇態に派手な模様のものばかりで、とても、まともな人間の遺品とは思われないしろものばかりである。私は風呂敷包を、ほどきながら、さかんに自嘲した。
「デカダンだよ。屑屋《くずや》に売ってしまっても、いいんだけどもね。」
「もったいない。」家内は一枚一枚きたながらずに調べて、「これなどは、純毛ですよ。仕立直しましょう。」
 見ると、それは、あのセルである。私は戸外に飛び出したい程に狼狽した。たしかに倉庫に置いて来た筈なのに、どうして、そのセルが風呂敷包の中にはいっていたのか、私にはいまもって判らない。どこかに手違いがあったのだ。失敗である。
「それは、うんと若い時に着たのだよ。派手なようだね。」私は内心の狼狽をかくして、何気なさそうな口調で言った。
「着られますよ。セルが一枚も無いのですもの。ちょうどよかったわ。」
 とても着られるものではない。十年間、倉庫に寝かせたままで置いているうちに、布地が奇怪に変色している。謂わば、羊羹色《ようかんいろ》である。薄赤い縦横の縞は、不潔な渋柿色を呈して老婆の着物のようである。私は今更ながら、その着物の奇怪さに呆《あき》れて顔をそむけた。
 ことしの秋、私は必ずその日のうちに書き結ばなければならぬ仕事があって、朝早く飛び起き、見ると枕元に、見馴れぬ着物が、きちんと畳まれて置かれてある。れいのセルである。そろそろ秋冷の季節である。洗って縫い直したものらしく、いくぶん小綺麗にはなっていたが、その布地の羊羹色と、縞の渋柿色とは、やはりまぎれもない。けれどもその朝は、仕事が気になって、衣服の事などめんどうくさく、何も言わずにさっさと着て朝ごはんも食べずに仕事をはじめた。昼すこし過ぎにやっと書き終えて、ほっとしていたところへ、実に久しぶりの友人が、ひょっこり訪ねて来た。ちょうどいいところであった。私は、その友人と一緒に、ごはんを食べ、よもやまの話をして、それから散歩に出たのである。家の近くの、井《い》の頭《かしら》公園の森にはいった時、私は、やっと自分の大変な姿に気が附いた。
「ああ、いけない。」と思わず呻《うめ》いた。「こりゃ、いけない。」立ちどまってしまった。
「どうしたのです。お腹《なか》でも――、」友人は心配そうに眉をひそめて、私の顔を見詰めた。
「いや、そうじゃないんだ。」私は苦笑して、「この着物は、へんじゃないかね。」
「そうですね。」友人は真面目に、「すこし派手なようですね。」
「十年前に買ったものなんだ。」また歩き出して、「女ものらしいんだ。それに、色が変っちゃったものだから、なおさら、――」歩く元気も無くなった。
「大丈夫ですよ。そんなに目立ちません。」
「そうかね。」やや元気が出て来て、森を通り抜け、石段を降り、池のほとりを歩いた。
 どうにも気になる。私も今は三十二歳で、こんなに鬚《ひげ》もじゃの大男になって、多少は苦労して来たような気もしているのであるが、やはり、こんな悪洒落みたいな、ふざけた着物を着て、ちびた下駄をはき、用も無いのに公園をのそのそ歩き廻っている。知らない人は、私をその辺の不潔な与太者と見るだろう。また私を知っている人でも、あいつ相変らずでいやがる、よせばいいのに、といよいよ軽蔑するだろう。私はこれまで永い間、変人の誤解を受けて来たのだ。
「どうです。新宿の辺まで出てみませんか。」友人は誘った。
「冗談じゃない。」私は首を横に振った。「こんな恰好で新宿を歩いて、誰かに見られたら、いよいよ評判が悪くなるばかりだ。」
「そんな事もないでしょう。」
「いや、ごめんだ。」私は頑として応じなかった。「その辺の茶店で休もうじゃないか。」
「僕は、お酒を飲んでみたいな。ね、街へ出てみましょう。」
「そこの茶店には、ビールもあるんだ。」私は、街へ出たくなかった。着物の事もあるし、それに、きょう書き結んだ小説が甚だ不出来で、いらいらしていたのである。
「茶店は、よしましょう。寒くていけません。どこかで落ちついて飲んでみたいんです。」友人の身の上にも、最近、不愉快な事ばかり起っているのを私は聞いて知っていた。
「じゃ、阿佐ヶ谷へ行ってみようかね。新宿は、どうも。」
「いいところが、ありますか。」
 べつにいいところでも無いけれど、そこだったら、まえにもしばしば行っているのだから、私がこんな異様な風態《ふうてい》をしていても怪しまれる事は無いであろうし、少しはお勘定を足りなくしても、この次、という便利もあるし、それに女給もいない酒だけの店なのだから、身なりの顧慮も要らないだろうと思ったのである。
 薄暮、阿佐ヶ谷駅に降りて、その友人と一緒に阿佐ヶ谷の街を歩き、私は、たまらない気持であった。寒山拾得《かんざんじっとく》の類の、私の姿が、商店の飾窓の硝子《ガラス》に写る。私の着物は、真赤に見えた。米寿《べいじゅ》の祝いに赤い胴着を着せられた老翁の姿を思い出した。今の此のむずかしい世の中に、何一つ積極的なお手伝いも出来ず、文名さえも一向に挙らず、十年一日の如く、ちびた下駄をはいて、阿佐ヶ谷を徘徊《はいかい》している。きょうはまた、念入りに、赤い着物などを召している。私は永遠に敗者なのかも知れない。
「いくつになっても、同じだね。自分では、ずいぶん努力しているつもりなのだけれど。」歩きながら、思わず愚痴が出た。「文学って、こんなものかしら。どうも僕は、いけないようだね。こんな、なりをして歩いて。」
「服装は、やはり、ちゃんとしていなければ、いけないものなのでしょうね。」友人は私を慰め顔に、「僕なんかでも、会社で、ずいぶん損をしますよ。」
 友人は、深川の或る会社に勤めているのだが、やはり服装にはお金をかけたがらない性質のようである。
「いや、服装だけじゃないんだ。もっと、根本の精神だよ。悪い教育を受けて来たんだ。でも、やっぱり、ヴェルレエヌは、いいからね。」ヴェルレエヌと赤い着物とは、一体どんなつながりがあるのか、われながら甚だ唐突で、ひどくてれくさかったけれど、私は自分に零落を感じ、敗者を意識する時、必ずヴェルレエヌの泣きべその顔を思い出し、救われるのが常である。生きて行こうと思うのである。あの人の弱さが、かえって私に生きて行こうという希望を与える。気弱い内省の窮極からでなければ、真に崇厳な光明は発し得ないと私は頑固に信じている。とにかく私は、もっと生きてみたい。謂わば、最高の誇りと最低の生活で、とにかく生きてみたい。
「ヴェルレエヌは、大袈裟だったかな? どうも、この着物では何を言ったって救われないよ。」やり切れない気持であった。
「いや、大丈夫です。」友人は、ただ軽く笑っている。街に電燈がついた。
 その夜、私は酒の店で、とんだ失敗をした。その佳い友人を殴ってしまったのである。罪は、たしかに着物にあった。私は、このごろは何事にも怺《こら》えて笑っている修業をしているのであるからいささかの乱暴も、絶無であったのであるが、その夜は、やってしまった。すべては、この赤い着物のせいであると、私は信じている。衣服が人心に及ぼす影響は恐ろしい。私は、その夜は、非常に卑屈な気持で酒を飲んでいた。鬱々として、楽しまなかった。店の主人にまで、いやしい遠慮をして、片隅のほの暗い場所に坐って酒を飲んでいたのである。ところが、友人のほうは、その夜はどうした事か、ひどく元気で、古今東西の芸術家を片端から罵倒し、勢いあまって店の主人にまで食ってかかった。私は、この主人のおそろしさを知っている。いつか、この店で、見知らぬ青年が、やはりこの友人のように酒に乱れ、他の客に食ってかかった時に、ここの主人は、急に人が変ったような厳粛な顔になり、いまはどんな時であるか、あなたは知らぬか、出て行ってもらいましょう、二度とおいでにならぬように、と宣告したのである。私は主人を、こわい人だと思った。いま、この友人が、こんなに乱れて主人に食ってかかっているが、今にきっと私たち二人、追放の恥辱を嘗《な》めるようになるだろうと、私は、はらはらしていた。いつもの私なら、そんな追放の恥辱など、さらに意に介せず、この友人と共に気焔を挙げるにきまっているのであるが、その夜は、私は自分の奇妙な衣服のために、いじけ切っていたので、ひたすら主人の顔色を伺い、これ、これ、と小声で友人を、たしなめてばかりいたのである。けれども友人の舌鋒《ぜっぽう》は、いよいよ鋭く、周囲の情勢は、ついに追放令の一歩手前まで来ていたのである。この時にあたり、私は窮余の一策として、かの安宅《あたか》の関《せき》の故智《こち》を思い浮べたのである。弁慶、情けの折檻《せっかん》である。私は意を決して、友人の頬をなるべく痛くないように、そうしてなるべく大きい音がするように、ぴしゃん、ぴしゃんと二つ殴って、
「君、しっかりし給え。いつもの君は、こんな工合いでないじゃないか。今夜に限って、どうしたのだ。しっかりし給え。」と主人に聞えるように大きい声で言って、これでまず、追放はまぬかれたと、ほっとしたとたんに、義経は、立ち上って弁慶にかかって来た。
「やあ、殴りやがったな。このままでは、すまんぞ。」と喚《わめ》いたのである。こんな芝居は無い。弱い弁慶は狼狽して立ち上り、右に左に体を、かわしているうちに、とうとう待っているものが来た。主人はまっすぐに私のところへ来て、どうぞ外へ出て下さい、他のお客さんに迷惑です、と追放令を私に向って宣告したのである。考えてみると、さきに乱暴を働いたのは、たしかに私のほうであった。弁慶の苦肉の折檻であった等とは、他人には、わからないのが当然である。客観的に、乱暴の張本人は、たしかに私なのである。酔ってなお大声で喚いている友人をあとに残して、私は主人に追われて店を出た。つくづく、うらめしい、気持であった。服装が悪かったのである。ちゃんとした服装さえしていたならば、私は主人からも多少は人格を認められ、店から追い出されるなんて恥辱は受けずにすんだのであろうに、と赤い着物を着た弁慶は夜の阿佐ヶ谷の街を猫背になって、とぼとぼと歩いた。私は今は、いいセルが一枚ほしい。何気なく着て歩ける衣服がほしい。けれども、衣服を買う事に於いては、極端に吝嗇な私は、これからもさまざまに衣服の事で苦労するのではないかと思う。
 宿題。国民服は、如何。



底本:「太宰治全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:青木直子
2000年1月28日公開
青空文庫作成ファイル:
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