青空文庫アーカイブ

大震火災記
鈴木三重吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)相模《さがみ》なだ

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)世界|中《じゅう》

[#]:入力者注 主に傍点の位置の指定
(例)相模《さがみ》なだ[#「なだ」に傍点]

/\:くの字点
(例)ぐら/\/\と
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       一

 大正十二年のおそろしい関東大地震の震源地は相模《さがみ》なだ[#「なだ」に傍点]の大島《おおしま》の北上《きたうえ》の海底で、そこのところが横巾《よこはば》最長三海里、たて十五海里の間《あいだ》、深さ二十ひろから百ひろまで、どかりと落ちこんだのがもとでした。
 そのために東京、横浜、横須賀《よこすか》以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間《けいひんかん》、相模の海岸、それから、伊豆《いず》の、相模なだ[#「なだ」に傍点]に対面した海岸全たいから箱根《はこね》地方へかけて、少くて四寸以上のゆれ巾、六寸の波動の大震動が来たのです。それが手引《てびき》となって、東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみ[#「つなみ」に傍点]をかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家《いえ》が五万六千、焼けたり流れたりしたのが三十七万八千、死者十一万四千、負傷者十一万五千を出《いだ》し、損害総額百一億円と計上されています。
 東京の市街だけでも、二里四方の面積にわたって四十一万の家々が灰になり、死者七万四千、ゆくえ不明二十一万、焼け出された人口が百四十万、損害八億一千五百万円に上《のぼ》っています。横浜、小田原《おだわら》なぞはほとんど全部があとかたもなく焼けほろびてしまいました。
 これまで世界|中《じゅう》で一ばんはげしかった地震火災は今から十五年|前《まえ》に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその附近とで十四万人の市民を殺した大地震と、十七年前、サンフランシスコの震火で二十八|町《ちょう》四方を焼いたのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方《かた》だけは以上二つの場合にくらべると、ずっとかるかったのですが、人命以外の損害のひどかった点では、まるでくらべもつかないほどの大災害だったのです。
 この大きな被害も、つまり大部分が火災から来たわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人もわずか二、三千人ぐらい、家屋その他の損害も八、九十分の一ぐらいにとどまったろうということです。
 地震の、東京での発震は、九月一|日《じつ》の午前十一時五十八分四十五秒でした。それから引きつづいて、余震(ゆれなおし)が、火災のはびこる中で、われわれのからだに感じ得たのが十二時間に百十四回以上、そのつぎの十二時間に八十八回、そのつぎが六十回、七十回と来ました。どんな小さな地震をも感じる地震計という機械に表われた数は、合計千七百回以上に上《のぼ》っています。

       二

 災害の来た一日はちょうど二百十日《にひゃくとおか》の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々《あおあお》とはれて、平和な初秋《はつあき》びよりになったとおもうと、午《ひる》どきになって、とつぜんぐら/\/\とゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所《ほんじょ》のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ち上《あが》ると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場《だいこうば》の屋根|瓦《がわら》がうねうねと大蛇《だいじゃ》が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうと土烟《つちけむり》が立ち上る、附近の空地《あきち》へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、れいのたおれた工場からは、もう、えんえんと火が上《あが》って来たと話した人があります。
 或《ある》人は、電車で神田《かんだ》神保町《じんぼうちょう》のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとび下《お》りると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先はまるでむちゅうで須田町《すだちょう》の近くまで走って来たと思うと、いく手にはすでにもうもうと火事の黒烟《くろけむり》が上っていたと言っています。
 まったくそうでしょう。最初の震動は約十四秒つづいたのですが、それから、ものの三分とたたないうちに、神田以下十二区にわたって四十か所から発火したのです。本所や浅草《あさくさ》では、十二時におのおの十二、三か所からもえ上ったくらいです。それから一分おき二分おきに、なおどんどん方々から火が上り、夕方六時近くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川《ふかがわ》、浅草、日本橋《にほんばし》、京橋《きょうばし》の全部と、麹町《こうじまち》、神田、下谷《したや》のほとんど全部、本郷《ほんごう》、小石川《こいしかわ》、赤坂《あかさか》、芝《しば》の一部分(つまり東京の商工業区域のほとんどすっかり)が、まるで影も形もなく、きれいに焼きつくされてしまったのです。
 その発火のもとは、病院の薬局や、学校の理化学室や、工場なぞの、薬品から火が出たのや、諸工場の工作ろ[#「ろ」に傍点]や、家々のこんろ[#「こんろ」に傍点]なぞから来たものもありますが、そのほかにとび火も少くなかったようです。何分《なにぶん》地震で屋根がこわれ落ちているところへ、どんどん火の子をかぶるのですからたまったものではありません。当夜火の中をくぐってにげて来た人の話によりますと、二十|間《けん》巾《はば》ぐらいの往来でも、片がわが焼けて来て、ほのおが風のようにびゅうと、ひくく地上をはったと見ると、向うがわはもうまっ赤《か》にもえ上るというすさまじさだったそうです。かけ出した各消防署のポンプも、地震で水道の鉄管がこわれて水がまるで出ないので、どうしようにも手のつけようがなく、ところにより、わずかに堀割《ほりわり》やどぶ川の水を利用して、ようやく二十二、三か所ぐらいは消しとめたそうですが、それ以上にはもう力がおよばなかったのです。大きな工場や、工事中のビルヂィングなぞには、地震でがらがらとつぶされて、一どに何百人という人が下じきになり、うめきさけんでいるところへ、たちまち火がまわって来て、一人ものこらず焼け死んだのがいくつもあります。
 多くの人々は、大《たい》てい、ソラ火がまわったというので、着《き》のみ着のままにげ出したようです。中には、安全と思うところへ早く家財なぞをもち出して一安神《ひとあんしん》していると、間《ま》もなく、ふいに思わぬところから火の手がせまって来たりして、せっかくもち出したものもそのままほうってにげ出す間もなく、こんどは、ぎゃくにまっ向《こ》うから火の子がふりかぶさって来《く》るという調子で、あっちへ、こっちへと、いくどもにげにげするうちに、とうとうほりわり[#「ほりわり」に傍点]のところなぞへおいつめられて、仕方なしに泥水《どろみず》の中へとびこむと、その上へ、後《あと》から何十人という人がどんどんおちこんで、下のものはおしつけられておぼれてしまうし、上の方にいた人は黒こげになって、けっきょく一人のこらず死んだような場所もあります。
 てんでんにつつみをしょってかけ出した人も、やがて往来が人一ぱいで動きがとれなくなり、仕方なしに荷をほうり出す、むりにせおってつきぬけようとした人も、その背中の荷物へ火の子がとんでもえついたりするので、つまりは同じく空手《からて》のまま、やっとくぐりぬけて来たというのが大方《おおかた》です。気のどくなのは、手近《てぢか》の小さな広場をたよって、坂本《さかもと》、浅草、両国《りょうごく》なぞのような千坪二千坪ばかりの小公園なぞへにげこんだ人たちです。そんな人は、ぎっしりつまったなり出るにも出られず、みんな一しょにむし焼きにあってしまいました。
 そんなわけで、なまじっかなところではとてもあぶないので、大部分の人は、とおい山の手の知り合いの家々や、宮城《きゅうじょう》前の広地《ひろち》や、芝、日比谷《ひびや》、上野《うえの》の大公園なぞを目がけてひなん[#「ひなん」に傍点]したのです。平生《へいぜい》はふつうの人のはいれない、離宮や御《ぎょ》えん[#「えん」に傍点]や、宮内省《くないしょう》の一部なども開放されたので、人々はそれらの中へもおしおしになってにげこみました。
 にげるについて一ばんじゃまになったのは、いろんなものをはこびかけている、車や馬車や自動車です。多くのところではそれが往来に一ぱいつづきはだかっているので、歩こうにも出ようにもあがきがとれなかったと言います。そんなところでは、ただぎゅうぎゅうおされ/\て、やっと一寸二寸ずつうごいていくだけなので、目ざす広場へつくのに、平生なら二十分でいけるところを、二時間も三時間もかかったと言っていた人があります。ぐずぐずしているうちには後《うしろ》の方の人は見る見るむし焼きになり、横の方からはどんどん火の子が来て、着物や髪にもえつくというようなありさまで、女や子どもの中には、ふみたおされて死んだものもどれだけあるか分らないと言われています。
 中でも一ばん悲さん[#「さん」に傍点]だったのは、本所の被服しょう[#「しょう」に傍点]あとへにげこんだ人たちです。そこは、ともかく何万坪という広い構内ですから、本所かいわいの人たちは、だれもそこなら安全だと思って、どんどん荷物をはこびこみました。夜になってからは、いよいよ多くの人が、むりやりにわりこんで来て、ぎっしり一ぱいにつまってしまいました。ところが、そこも、やがて、ぐるりと火の手につつまれ、多くの荷物へどんどんもえ移って来て、とうとう、三万二千という多数の人が、すっかり黒こげになってしまいました。
 その群《むら》がりかさなってたおれた人の一ばん下になっていたために、からくもたすかって息をふきかえし、上部の人がすっかり黒やけになったのち、やっともぐり出たという人が二、三十人ばかりあります。そんな人たちの話をきくと、まるで身の毛もよだつようです。或一人は、当夜、火の手がせまって息ぐるしくてたまらないので、人のからだの下へぐんぐん顔をつッこんでうつ伏《ぶ》しになっていたが、しまいには、のどがかわいて目がくらみそうになる、そのうちに、たまたま、水見たいなものが手にさわったので、それへ口をつけて、むちゅうでぐいぐい飲んだまではおぼえているが、あとで考えると、その水気《みずけ》というのは、人の小便《しょうべん》か、焼け死んだ死体のあぶらが流れたまっていたのだろうと話しました。
 そのほかいろいろの方面のそう[#「そう」に傍点]難者について、さまざまのいたいたしい話を聞きました。永代橋《えいたいばし》が焼けおちるのと一しょに大川《おおかわ》の中へおちて、後《あと》でたすけ上げられた或婦人なぞは、最初三つになる子どもをつれて、深川の方からのがれて来て、橋の半ば以上のところまで、ぎゅうぎゅうおされてわたって来たと思うと、急に、さきが火の手にさえぎられて動きがつかなくなり、やがてま上《うえ》へもびゅうびゅう火の子をかぶって息も出来ません。婦人はもうこれなり焼け死ぬものと見きわめをつけやっと帯や小帯《こおび》をつないで子どもをしばりつけて川の上へたぐり下《おろ》し、下を船がとおりかかったらその中へ落すつもりでまっているうちに、つい火気《かっき》で目がくらんで子どもをはなしてしまい、じぶんも間もなく橋と一しょに落ちこんで流れていったのだと話していました。隅田川《すみだがわ》にかかっていた橋は、両国橋のほかはすべて焼けおちてしまいました。
 浜町《はまちょう》や蔵前《くらまえ》あたりの川岸《かわぎし》で、火におわれて、いかだ[#「いかだ」に傍点]の上なぞへとびこんだ人々の中には、夜《よ》どおし火の風をあびつづけて、生きた思いもなく、こごまっていた人もあり、中にはくび[#「くび」に傍点]のあたりまで水につかって、火の子が来るともぐりこみ、もぐりこみして、七、八時間も立ちつづけていた人もあったそうです。

       三

 こういう話をならべ上げればかぎりもありません。
 同時に、一方では、あのおそろしい猛火と混乱との中で、しまいまで、おちついて機敏に手をつくし、または命をまでもなげ出して、多くの人々をすくい上げた、いろいろの人々のとうといはたらきをも忘れてはなりません。たとえば、これまで深川の貧民たちのために尽力していた、富田老巡査のごときは、火の危険な街上にしまいまで立ちつくして、みんなを安全な方向ににがし/\したあげく、じぶんはついに焼け死んでしまいました。また、下谷から焼け出された或四十がっこうの一婦人は、本郷の大学病院の後《うしろ》までにげて来ると、火の手はだんだんにそこへものびて来そうになりました。その一角には、地震でこわれかけた家々が、いる人もなく立ちのこっています。その家々へ火がついたら、すぐに病院へもえうつるわけです。婦人はそれを考えて、そこらへにげて来ている人たちをはげまし、綱なぞをあつめて来て、それでもって、みんなと一しょに、今言った家々をたおしておいて立ちのいたと言われています。あんのごとく火はちょうど、そこのところまで来てとまりました。
 つぎには、これは築地《つきじ》の、市の施療院《せりょういん》でのことですが、その病院では、当番の鈴木、上与那原《かみよなはら》両海軍軍医|少佐《しょうさ》以下の沈着なしょちで、火が来るまえに、看護婦たちにたん[#「たん」に傍点]架をかつがせなどして、すべての患者を裏手のうめ立て地なぞへうつしておいたのですが、同夜八時ごろには病院も焼け落ち、十一時半には構内にある第一火薬庫がばく[#「ばく」に傍点]発し、第二火薬庫もあやうくなりました。それで、患者たち一同を、川向うの浜離宮《はまりきゅう》へうつす外《ほか》にはみちもなくなりました。川は、ちょうどひき潮ですさまじい濁流がごうごうとうずまき、たぎっています。勇敢な高橋事務員は、その中へ決然一人でとびこんで、ようやく、向うの岸にひなん[#「ひなん」に傍点]していた船にたどりつき、船頭《せんどう》たちに、患者をはこんでくれるようにと、こんこんとたのみましたが、船頭はいやがって、がんとしておうじてくれません。すると幸い、だれも人のいない船が一そう、上手《かみて》から流れて来たので、高橋さんはそれに乗りうつり、氏一人を見かねてとびこんで来た河田《かわだ》軍医と二人で、岸から岸へ綱をわたし、それをたよりに、わずか一そうの船で、すべての患者を、重病者はたんかへ乗せたまま、一人ものこらず、すっかりぶじに離宮の構内へはこび入れました。
 それら全部の救護は、ことごとく、少数の医員たちの外《ほか》、すべて二十年《はたち》以下の、年わかい看護婦五十名の、ちつじょただしい、ぎせい的の努力によって、しとげられたのです。
 そのとき浜離宮へは、すでに何万という市民がひなんしていました。火の子はだんだんにそこへふって来ます。そのうちに、人の気づかない、離宮の物置小屋《ものおきごや》にとび火がして、屋根へもえ上《あが》りました。向う岸から患者をはこんで来たばかりの看護婦たちのうち、田島かつ子さん以下はそれを見て、すかさずかけつけて、ひっしになって消しとめました。かつ子さんたちはそれから一と晩|中《じゅう》バケツで池の水をはこんでは屋根へかけかけして、一《ひと》いきも休まずはたらきつづけました。その小屋をけしとめなかったなら、火はたちまち離宮の建物にも移ったのです。そうなったら――そこはすでに、両面に火の手をひかえており、後《うしろ》は海なので――何万人というひなん者は、まったく被服しょう[#「しょう」に傍点]のざん[#「ざん」に傍点]死者と同じように、ことごとく焼け死ぬか海へおちてでき[#「でき」に傍点]死するかして、一人もたすからなかったはずです。
 このことは、前に言った高橋さんたちのはたらきとともに、まだ世間《せけん》につたえられていないのでとくに、人々の傾《けい》ちょう[#「ちょう」に傍点]をあおいでおきたいと思います。
 火災からひなんしたすべての人たちのうち、おそらく少くとも百二十万以上の人は、ようやくのことで、上にあげた、それぞれの広地《ひろち》や、郊外の野原なぞにたどりつき、飲むものも食べるものもなしに、一晩中、くらやみの地上におびえあつまっていたのです。そのごったがえしの群々《むれむれ》の中には、そこにもここにも、全身にやけどをした人や、重病者が、横だおしになってうなっている。保護者にはぐれた子どもたちが、おんおんないてうろうろしている。恐怖と悲嘆とに気が狂った女が、きいきい声《ごえ》をあげてかけ歩く。びっくりしたのと、無理に歩いて来たのとで、きゅうに産気《さんけ》づいて苦しんでいる妊婦もあり、だれよだれよと半狂乱で家族の人をさがしまわっているものがあるなどその混乱といたましさとは、じっさい想像にあまるくらいでした。多くの人は火の中をくぐって来てのど[#「のど」に傍点]がかわいて苦しくてたまらないので、きたないどぶの水をもかまわずぐいぐい飲んだと言います。上野ではしのばず池のあの泥くさりの水で粉《こな》ミルクをといて乳《ち》のみ児《ご》にのませた婦人さえありました。
 火はとうとうよく二日《ふつか》一ぱいもえつづき、ところによっては三日にとび火で焼けはじめた部分もあります。官省、学校、病院、会社、銀行、大商店、寺院、劇場なぞ、焼失したすべてを数え上げれば大変です。中でも五〇万冊の本をすっかり焼いた帝国大学図書館以下、いろいろの官署や個人が二つとない貴重な文書《ぶんしょ》なぞをすっかり焼いたのは何と言っても残念です。大学図書館の本は、すっかり灰になるまで三日間ももえつづけていました。
 以上の外《ほか》、火災をのがれた山の手や郊外の町の混雑もたいへんでした。家のくずれかたむいた人は地震のゆれかえしをおそれて、街上へ家財をもち出し、布《きれ》や板で小屋がけをして寝たり、どのうちへも大てい一ぱい避難者が来て火事場におとらずごたごたする中で、一日|二日《ふつか》の夜は、ばく[#「ばく」に傍点]弾をもった或暴徒がおそって来るとか、どこどこの囚人が何千人にげこんで来たというような、根もない流言によって、一部の人々は非常におびえさわぎました。むろん電灯もつかないので夜は家の中もまっくらです。いろいろ物《ぶっ》そう[#「そう」に傍点]なので、町々では青年団なぞがそれぞれ自警団を作り、うろんくさいものがいりこむのをふせいだり、火の番をしたりして警戒しました。
 郊外から見ると、二日の日なぞは一日中、大きなまっ赤な入道雲見たいなものが、市内の空に物すごく、おおいかぶさっていました。それは実は、まださかんにやけている火事の烟《けむり》のあつまりだったのです。

       四

 しかし、震災の突発について政府以下、すべての官民がさしあたり一ばんこまったのは、無線電信をはじめ、すべての通信機関がすっかり破《は》かい[#「かい」に傍点]されてしまったために、地方とのれんらくが全然とれなくなったことです。市民たちも、摂政宮《せっしょうのみや》殿下が御安全でいらせられるということは早く一日中に拝聞して、まず御安神《ごあんしん》申し上げましたが、日光《にっこう》の田母沢《たのもざわ》の御用邸に御滞在中の 両陛下の御安否が分りません。それで二日の午前に、まず第一に陸軍から、大橋|特務曹長《とくむそうちょう》操縦、林|少尉《しょうい》同乗で、天候の観測をするよゆうもなく、冒険的に日光へ飛行機をかり、御用邸の上をせんかい[#「せんかい」に傍点]しながら、「両陛下が御安泰にいらせられるなら旗をふって合図をされたい」としたためたかきつけと、東京方面の事情を上奏《じょうそう》する書面を入れた報告|筒《とう》を投下し、胸をとどろかせてまっていると、下から大きな旗がふりはじめられたので、かしこみよろこんで、帰還し 摂政宮殿下に言上《ごんじょう》しました。
 皇族の方々のおんうち、東京でおやしきがお焼けになった方《かた》もおありになりましたが、でも幸《さいわい》にいずれもおけがもなくておすみになりましたが、鎌倉《かまくら》では山階宮妃《やましなのみやひ》佐紀子《さきこ》女王殿下が御《ご》圧死になり、閑院宮《かんいんのみや》寛子《ひろこ》女王殿下が小田原《おだわら》の御用邸の倒《とう》かい[#「かい」に傍点]で、東久邇宮《ひがしくにのみや》師正《もろまさ》王殿下がくげ[#「くげ」に傍点]沼で、それぞれ御惨死《ござんし》なされたのはまことにおんいたわしいかぎりです。
 第一の飛行機が日光へ向った同じ午前に、一方では、波多野《はたの》中尉が一名の兵卒をつれて、同じく冒険的に生命をとして大阪に飛行し、はじめて東京地方の惨状の報告と、救護その他軍事上の重要命令を第四師団にわたし、九時間二十分で往復して来ました。それでもって大阪から日本の各地や世界中へ、東京横浜の大惨害がつたえられ、地方からの食糧輸送とうがはじまったのです。同飛行機は、火災地の上空をいきかえりしたので、機体がすす[#「すす」に傍点]でまっ黒になったと言われています。
 摂政宮殿下には災害について非常に御心痛あそばされ、当日ただちに内田臨時首相をめし、政府が全力をつくして罹災者《りさいしゃ》の救護につとめるようにおおせつけになりました。二日の午後三時に政府は臨時震災救護事務局というものを組織し、さしあたり九百五十万円の救護資金を支出して、り[#「り」に傍点]災者へ食糧、飲料水をくばり、傷病者の手あて以下、交通、通信、衛生、防備、警備の手くばりをつけました。同日午後五時に、山本|伯《はく》の内閣が出来上り、それと同時に非常徴発令を発布《はっぷ》して、東京および各地方から、食料品、飲料、薪炭《しんたん》その他の燃料、家屋、建築材料、薬品、衛生材料、船その他の運ぱん具、電線、労務を徴発する方法をつけ、まず市内の自動車数百だいをとりあつめて新宿《しんじゅく》駅につまれていた六千俵の米を徴発し、り[#「り」に傍点]災者へのたき出しにあてました。
 三日には東京府、神奈川、静岡、千葉、埼玉県に戒厳令が布《し》かれ、福田大将が司令官に任命されて、以上の地方を軍隊で警備しはじめました。そのため、東京市中や市外の要所々々にも歩哨《ほしょう》が立ち、暴徒しゅう来《らい》等の流言にびくびくしていた人たちもすっかり安神《あんしん》しましたし、混雑につけ入って色んな勝手なことをしがちな、市中一たいのちつじょ[#「ちつじょ」に傍点]もついて来ました。出動部隊は近衛《このえ》師団、第一師団のほか、地方の七こ師団以下合計九こ師団の歩兵|聯隊《れんたい》にくわえて、騎兵、重砲兵、鉄道等の各聯隊、飛行隊の外、ほとんど全国の工兵大隊とで、総員五万一千、馬匹《ばひつ》一万頭。それが全警備区に配分されて、配給や救護や、道路、橋の修理などにも全力を上げてはたらいたのです。軍用|鳩《ばと》も方々へお使いをしました。
 同時に海軍では聯合艦隊以下、多くの艦船を派出して、関西地方からどんどん食料や衛生材料なぞを運び、ひなん者の輸送をもあつかい出しました。
 同日、摂政宮殿下からは、救護用として御内《ごない》ど[#「ど」に傍点]金《きん》一千万円をお下《くだ》しになりました。食料品は鉄道なぞによっても、どんどん各地方からはこばれて来たので、市民のための食物はありあまるほどになりました。
 赤さびの鉄片《てっぺん》や、まっ黒こげの灰土《はいつち》のみのぼうぼうとつづいた、がらんどうの焼けあとでは、四日《よっか》五日《いつか》のころまで、まだ火気のある路《みち》ばたなぞに、黒こげの死体がごろごろしていました。隅田川の岸なぞには水死者の死体が浮んでいました。街上には電線や電車の架空線がもつれ下《さが》っている下に、電車や自動車の焼けつくした、骨ばかりのがぺちゃんこにつぶれています。風がふくたびに、こげくさい灰土がもうもうとたって目もあけていられないくらいです。二日三日なぞはその中をいろいろのあわれなすがたをした人たちがおしおしになって、ぞろぞろ流れうごいていました。いずれも一時のがれにあつまっていたところから、それぞれのつてをもとめていったり、地方へにげ出すつもりで、日暮里《にっぽり》や品川《しながわ》のステイションなぞを目あてにうつッていくのです。女たちで、すはだしのまま、つかれ青ざめてよろよろと歩いていくのがどっさりいました。手車《てぐるま》や荷馬車《にばしゃ》に負傷者をつんでとおるのもあり、たずね人《びと》だれだれと名前をかいた旗を立てて、ゆくえの分らない人をさがしまわる人たちもあります。そのごたごたした中を、方々の救護班や、たき出しをのせた貨物《かもつ》自動車がかけちがうし、焼けあとのトタン板をがらがらひきずっていく音がするなぞ、その混雑と言ったらありません。
 地震のために脱線したり、たおれこわれたりした列車は、全被害地にわたって四十四列車もあります。東京から地方へのがれ出るには、関西方面|行《ゆき》の汽車は箱根のトンネルがこわれてつうじないので、東京湾から船で清水港《しみずみなと》へわたり、そこから汽車に乗るのです。東北その他へ出る汽車には、みんながおしおしにつめかけて、機関車のぐるりや、箱車《はこぐるま》の屋根の上へまでぎっしりと乗上《のりあが》って、いのちがけでゆられていくありさまでした。
 焼け出されたまま落ちつく先のない人々は、日比谷公園や宮城まえなぞに立てならべられた、宮内省の救護用テントの中にはいったり、焼けのこりの板|切《ぎ》れなぞをひろいあつめて道ばたにかり小屋をつくり、その中にこごまっていたりして、たき出しをもらって食べたりしていたのです。
 震災後、二た月ばかりになりますと、市民の数《かず》は、七万の死者と、九十三万の人が地方へ出ていったのとで、二百五十万人が百四十万に減ってしまいました。いきどころをもたないり[#「り」に傍点]災者の一半《いっぱん》は、そのときも、まだ、救護局が建設した、日比谷、上野、その他のバラックの中に住んでいました。工兵隊は引つづき毎日爆薬で、やけあとのたてもののだん[#「だん」に傍点]片《ぺん》なぞを、どんどんこわしていました。九階から上が地震でくずれ落ちた浅草の十二階もばく[#「ばく」に傍点]破《は》されてしまいました。こうして片づけられていく焼けあとには、片はしからどんどんかり小屋をたてて、もとの商ばいにかえる人々もあり、十一月|末《すえ》にはすべてで四万以上の小屋がけが出来、十七万人の人々がはいりました。
 小学校は全市で百九十六校あったのが百十八校まで焼け、り[#「り」に傍点]災した児童の数《すう》が十四万八千四百人に上《のぼ》っています。そのうちの四割は地方や郡部にうつったものと見て、あと八万九千の人たちは、十一月にもとのところにかり校舎がたつまでは、どうすることも出来なかったのです。中には焼けあとの校庭にあつまって、本も道具もないので、ただいろいろのお話を聞いたりしている生徒もいました。そのほか公園なぞの森の中に、林間学校がいくつかひらかれていましたが、そこへかようことの出来る子たちは、全部から見ればほんの僅少《きんしょう》な一部分にすぎませんでした。
 政府は東京や、その他の被害地を再興するために復興院という役所を設けました。東京市のごときは、まず根本《こんぽん》に、火事のさいに多くの人がひなん[#「ひなん」に傍点]し得る、大公園や、広場や大きな交通路、その他いろいろの地割《じわり》をきめた上、こみ入ったところには耐火的のたて物以外にはたてさせないように規定して、だんだんに再建築にかかるのですが、帝都として、すっかりととのった東京が再現するまでには、少くとも十年以上はかかるにそういありません。
 最後にこの震災について諸外国からそそがれた大きな同情にたいしては、全日本人が深く感謝しなければなりません。米国はいち早く東洋艦隊を急派して、医療具、薬品等を横浜へはこんで来ました。なお数せきの御用船で食糧や、何千人を入れ得るテント病院を寄そう[#「そう」に傍点]して来ました。その病院は横浜と東京とにたてられて、のちには日本人の手で活動しました。その他、ニューヨーク市では、「一|分《ぷん》早ければ一|人《にん》多くたすかる」という標語をかかげて、市民の間からたちまちに一千万円以上のお金をつのっておくりとどけました。サンフランシスコ市では、少年少女たちが日本への義《ぎ》えん[#「えん」に傍点]金《きん》を得るために花を売り出したところ、多くの人が一たばを五十円、百円で買ったと言われています。
 英国でも、皇帝、皇后両陛下や、ロンドン市民から寄附をよこし、東洋艦隊や、カナダからの数せきの船は食糧を満さい[#「さい」に傍点]して来ました。
 支那《しな》では北京《ペキン》政府が二十万|元《げん》を支出して送金して来た外、これまで米殻輸出を禁じていたのを、とくに日本のために、その禁令をといたり、全国の海関税《かいかんぜい》を今後一か年間一割ひき上げて、それだけを日本へおくることを発表しました。もと支那の皇帝であられた宣統帝《せんとうてい》は、今では何《なん》の収入もない境《きょう》ぐうにいられる中から、手もとにありたけの一万元を寄附された上、今後の生活費として売りはらうつもりでいられた高貴な宝石、道具二十余点を売って十五万元のお金をよこされました。
 そのほかロシヤでも、よゆうの少い沿海州の市民たちでさえも、全力をあげて日本を救えとさけび、フランス、イタリー、メキシコ、オーストラリヤでは、日をきめて興行物《こうぎょうもの》一さいをさしひかえ各戸《かくこ》に半旗を上げて、日本の不幸に同情を表《ひょう》し、義えん[#「えん」に傍点]金を集めました。
 いうまでもなくこの大災害は、精神的にも物質的にも、全日本そのものの心臓をつきさされたにひとしい大被害です。単に物質だけの百一億円の損害でも、日露《にちろ》戦争の費用の五倍以上にあたり、全|国富《こくふ》の十分の一を失ったわけです。われわれはおたがいに協同努力して一日も早くこの大負傷をいやすことにつとめなければなりません。これまで多くの人々はふだんの平和に甘えて、だらけた考《かんがえ》におち、お金の上でも、間違った、むだのついえの多い生活をしていた点がどれだけあったかわかりません。この大変災を機会として、すべての人が根本に態度をあらためなおし、勤勉質実に合理的な生活をする習慣をかため上げなければならないと思います。



底本:「鈴木三重吉童話集」岩波文庫、岩波書店
   1996(平成8)年11月18日第1刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第六巻」文泉堂書店
   1975(昭和50)年9月10日発行
初出:「赤い鳥」
   1923(大正12)年11月
※「御滞在中の 両陛下の御安否が分りません。」および「帰還し 摂政宮殿下
に言上《ごんじょう》しました。」の空白は底本のままです。
入力:鈴木厚司
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
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