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芽生
島崎藤村

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 浅間の麓へも春が近づいた。いよいよ私は住慣れた土地を離れて、山を下りることに決心した。
 七年の間、私は田舎教師として小諸に留まって、山の生活を眺め暮した。私が通っていた学校は貧乏で、町や郡からの補助費にも限りがあったから、随って受ける俸給も少く、家を支えるに骨が折れた。そのかわり、質素な、暮し好い土地で、月に僅かばかりの屋賃を払えば、粗末ながら五間の部屋と、広い台所と、大きな暗い物置部屋と、桜、躑躅、柿、李、林檎などの植えてある古い屋敷跡の庭を借りることが出来た。私はまた、裏の流れに近い畠の一部を仕切って借りて、学校の小使に来て手伝わせたり、自分でも鍬を執って耕したりした。そこには、馬鈴薯、大根、豆、菜、葱などを作って見た。
 こういう中で、私は別に自分の気質に適ったことを始めた。それは信州へ入ってから六年目、丁度長い日露戦争の始まった頃であった。町から出る学校の経費はますます削減される、同僚の体操教師も出征する、卒業した生徒の中にも兵士として出発するものがある、よく私はそういう人達を小諸の停車場に見送って、悲壮な別離を目撃した。東京にある知人も多く従軍した。一年の間、この大きな戦争の空気の中で、私はある著作に従事した。
 種々な困難は、猶、私の前に横たわっていた。一方には学校を控えていたから、思うように自分の仕事も進捗らなかった。全く教師を辞めて、専心従事するとしても、猶一年程は要る。私は既に三人の女の児の親である。その間妻子を養うだけのものは是非とも用意して掛らねばならぬ。
 とにかく、小諸を去ることに決めた。山を下りて、そして自分の仕事を完成したいと思った。
 岩村田通いの馬車の喇叭が鳴った。私は小諸相生町の角からその馬車に乗った。引越の仕度をするよりも、何よりも、先ず一人の友達を訪ねて、その人の助力を得たいと思ったのである。その日は他に同行を約束した人もあったが、途中の激寒を懼れて見合せた。私は独りで出掛けた。雪はまだ深く地にあった。馬車が浅間の麓を廻るにつれて、乗客は互に膝を突合せて震えた。岩村田で馬車を下りて、それから猶山深く入る前に、私はある休茶屋の炉辺で凍えた身体を温めずにはいられなかった位である。一里半ばかりの間、往来する人も稀だった。谷々の氾濫した跡は真白に覆われていた。
 訪ねて行った友達は、牧野君と言って、こういう辺鄙な山村に住んでいた。ふとしたことから、私はこの若い大地主と深く知るように成ったのである。ここへ訪ねて来る度に、この友達の静かな書斎や、樹木の多い庭園や、それから好く整理された耕地などを見るのを私は楽みにしていたが、その日に限っては心も沈着かなかった。主人を始め、細君や子供まで集って、広い古風な奥座敷で、小諸に居る人の噂などをした。この温い家庭の空気の中で、唯私は前途のことばかり思い煩った。事情を打開けて、話して見よう、話して見ようと思いながら、翌日に成ってもついそれを言出す場合が見当らなかった。
 到頭、言わず仕舞に、牧野君の家の門を出た。そして、制えがたい落胆と戦いつつ、元来た雪道を岩村田の方へ帰って行った。一時間あまり、乗合馬車の立場で待ったが、そこには車夫が多勢集って、戦争の話をしたり、笑ったりしていた。思わず私も喪心した人のように笑った。やがて小諸行の馬車が出た。沈んだ日光は、寒い車の上から、私の眼に映った。林の間は黄に耀いた。私は眺め、かつ震えた。小諸の寓居へ帰ってからも、私はそう委しいことを家のものに話して聞かせなかった。
 南向の障子に光線をうけた部屋は、家内や子供の居るところである。末の子供はお繁と言って、これは私の母の名をつけたのだが、その誕生を済ましたばかりの娘が、炬燵へ寄せて、寝かしてあった。暦や錦絵を貼付けた古壁の側には、六歳に成るお房と、四歳に成るお菊とが、お手玉の音をさせながら遊んでいた。そこいらには、首のちぎれた人形も投出してあった。私は炬燵にあたりながら、姉妹の子供を眺めて、どうして自分の仕事を完成しよう、どうしてその間この子供等を養おう、と思った。
 お房は――私の亡くなった母に肖て――頬の紅い、快活な性質の娘であった。妙に私はこの総領の方が贔屓で、家内はまた二番目のお菊贔屓であった。丁度牧野君から子供へと言って貰って来た葡萄ジャムの土産があった。それを家内が取出した。家内は、雛でも養うように、二人の子供を前に置いて、そのジャムを嘗めさせるやら、菓子麺包につけて分けてくれるやらした。
 私がどういう心の有様で居るか、何事もそんなことは知らないから、お房は機嫌よく私の傍へ来て、こんな歌を歌って聞かせた。
 「兎、兎、そなたの耳は
  どうしてそう長いぞ――
  おらが母の、若い時の名物で、
  笹の葉ッ子嚥んだれば
  それで、耳が長いぞ」
 これは家内が幼少い時分に、南部地方から来た下女とやらに習った節で、それを自分の娘に教えたのである。お房が得意の歌である。
 私は力を得た。その晩、牧野君へ宛てた長い手紙を書いた。
 幸にも、この手紙は私の心を友達へ伝えることが出来た。その返事の来た日から、牧野君は私の仕事に取っての擁護者であった。しかも、それを人に知らそうとしなかった。私は牧野君の深い心づかいを感じた。そして自分のベストを尽すということより外にこの友達の志に酬うべきものは無いと思った。
 四月の始から一週間ばかりかけて、私は家を探しがてら一寸上京した。渋谷、新宿――あの辺を探しあぐんで、ある日は途中で雨に降られた。角筈に住む水彩画家は、私と前後して信州へ入った人だが、一年ばかりで小諸を引揚げて来た。君は仏蘭西へ再度の渡航を終えて、新たに画室を構えていた。そこへ私が訪ねて行って、それから大久保辺を尋ね歩いた。
 郊外は開け始める頃であった。そこここの樹木の間には、新しい家屋が光って見えた。一軒、西大久保の植木屋の地内に、往来に沿うて新築中の平屋があったが、それが私の眼に着いた。まだ壁の下塗もしてない位で、大工が入って働いている最中。三人の子供を連れて来てここで仕事をするとしては、あまりに狭過ぎるとは思ったが、いかにも周囲が気に入った。で、二度ほど足を運んで、結局工事の出来上るまで待つという約束で、そこを借りることに決めた。
 この話を持って、小諸をさして帰って行く頃は、上州辺は最早梅に遅い位であった。山一つ越えると高原の上はまだ冬の光景で、それから傾斜を下るに従って、いくらかずつ温暖い方へ向っていた。小諸へ近づけば近づくほど、岩石の多い谷間には浅々と麦の緑を見出すことが出来た。浅間、黒斑、その他の連山にはまだ白い雪があったが、急にそこいらは眼が覚めたようで、何もかも蘇生の力に満ち溢れていた。五箇月の長い冬籠をしたものでなければ、殆んど想像も出来ないようなこの嬉しい心地は、やがて、私を小諸の家へ急がせた。
 漸く春が来た。北側の草屋根の上にはまだ消え残った雪があったが、それが雨垂のように軒をつたって、溶け始めていた。子供等は私の帰りを待侘びて、前の日から汽車の着く度に、停車場まで迎えに出たという。東京の話は家のものの心を励ました。私は郊外に見つけて来た家のことを言って、第一土地の閑静なこと、樹木の多いこと、地味の好いことなどを話して聞かせた。女子供には、東京へ出られるということが何よりも嬉しいという風で、上京の日は私よりも反って家内の方に待遠しかったのである。その晩、お房やお菊は寝る前に私の側へ来て戯れた。私は久し振で子供を相手にした。
「皆な温順しくしていたかネ」と私が言った。「サ――二人ともそこへ並んで御覧」
 二人の娘は喜びながら私の前に立った。
「いいかね。房ちゃんが一号で、菊ちゃんが二号で、繁ちゃんが三号だぜ」
「父さん、房ちゃんが一号?」と姉の方が聞いた。
「ああ、お前が一号で、菊ちゃんが二号だ。父さんが呼んだら、返事をするんだよ――そら、やるぜ」
 二人の娘は嬉しそうに顔を見合せた。
「一号」
「ハイ」と妹の方が敏捷く答えた。
「菊ちゃんが一号じゃないよ、房ちゃんが一号だよ」と姉は妹をつかまえて言った。
 大騒ぎに成った。二人の娘は部屋中を躍って歩いた。
「へい、三号を見て下さい」
 と山浦というところから奉公に来ている下女も、そこへお繁を抱いて来て見せた。厚着をさせてある頃で、この末の児はまだ匍いもしなかったが、チョチチョチ位は出来た。どうやら首のすわりもシッカリして来た。家の内での愛嬌者に成っている。
「よし。よし。さあもう、それでいいから、皆な行ってお休み」
 こう私が言ったので、お房もお菊も母の方へ行った。家内は一人ずつ寝巻に着更えさせた。下女はまた、人形でも抱くようにして、柔軟なお繁の頬へ自分の紅い頬を押宛てていた。
 やがて三人の子供は枕を並べて眠った。急に家の内はシンカンとして来た。家内なぞは、子供の眠っている間が僅かに極楽だと言い言いしている。
「一号、二号、三号……」
 この自分から言出した串談には、私は笑えなくなった。三人の子供ですらこの通り私の家では持余している。今からこんなに生れて、このうえ出来たらどうしようと思った。私の母は八人子供を産んでいる。家内の方にはまた兄妹が十人あった。その総領の姉は今五人子持で、次の姉は六人子持だ。何方を向いても、子供の多い系統から来ている。
 翌日、私は学校の方へ形式ばかりの辞表を出した。その日から私の家ではそろそろ引越の仕度に取掛った。よく大久保の噂が出た。雨でも降れば壁が乾くまいとか、天気に成れば何程工事が進んだろうとか、毎日言い合った。私達の心の内には、新規に家の形が出来て、それが日に日に住まわれるように成って行くような気がした。
 二週間ばかり経ったところで、大久保の植木屋から手紙を受取った。見ると、月の末まで待たなければならなかった。こうなると一度纏めた道具のうちを復た解く必要がある位で、ある荷物は会社に依頼して先へ送り出した。私は本町の角にある茶店から、大きな茶箱を二つ求めて来て、書籍のたぐいはそれに詰めた。箪笥でも、本箱でも、空虚にして送らなければ壊れて了うと言われた。この混雑の中で、幾度か町の人は私を引留めに来た。「夜逃げにでも逃げようかしらん」どうかすると私は家のものに向って、謔語半分にこんなことを言うこともあった。あまりに長く世話に成り過ぎた、と私は思った。いざこの土地を見捨てて行くとなると、私達の生涯は深く根が生えたように成っていた。とはいえ町の人は私の願を容れてくれた。そして餞別を集めたり、いろいろ世話をしたりしてくれた。日頃親しくして、「叔父さん」とか「叔母さん」とか互に言い合った近所の人達は、かわるがわる訪ねて来た。いよいよ出発の日が近づいた。三人の子供には何を着せて行こう、とこう家内はいろいろに気を揉んだ。「房ちゃん、いらッしゃい、衣服を着て見ましょう――温順しくしないと、東京へ連れて行きませんよ」と家内が言って、写真を映した時に一度着せたヨソイキの着物を取出した。それは袖口を括って、お房の好きなリボンで結んである。お菊のためには黄八丈の着物を択ぶことにした。
「菊ちゃんの方は色が白いから、何を着ても似合う」
 こう皆なが言い合った。
 五月の朔日は幸に天気も好く、旅をするものに取って何よりの日和だった。子供は近所の娘達に連れられて、先ず停車場を指して出掛けた。学校の小使が別れに来たから、この人には使用っていた鍬を置いて行くことにした。私は毎日通い慣れた道を相生町の方へとって、道普請の為に高く土を盛上げた停車場前まで行くと、そこで日頃懇意にした多勢の町の人達だの、学校の同僚だの、生徒だのに出逢った。そこまで追って来て、餞別のしるしと言って、物をくれる菓子屋、豆腐屋のかみさんなどもあった。同僚に親にしてもいいような年配の理学士があったが、この人は花の束にしたのを持って来て、私達の乗った汽車の窓へ入れてくれた。その日は牧野君も洋服姿でやって来て、それとなく見送ってくれた。
「困る。困る」
 こう言って、お菊は泣出しそうに成った。この児は始めて汽車に乗ったので、急にそこいらの物が動き出した時は、私へしがみ付いた。
 やがて、ウネウネと続いた草屋根、土壁、柿の梢、石垣の多い桑畑などは汽車の窓から消えた。小諸は最早見えなかった。
 この旅には、私は山から種々ななものを運ぼうとする人であった。信州で生れた三人の子供は言うまでもなく、世帯の道具、衣類、それから毎日の暮し方まで、私は地方の生活をソックリ都会の方へ移して持って行こうとした。楊、楓、漆、樺、楢、蘆などの生い茂る千曲川一帯の沿岸の風俗、人情、そこで呼吸する山気、眼に映る日光の色まで――すべて、そういうものの記憶を私は自分と一緒に山から運んで行こうとした。
 汽車が上州の平野へ下りた頃、私は窓から首を出して、もう一度山の方を見ようとした。浅間の煙は雲の影に成ってよく見えなかった。
 高崎で乗換えてから、客が多かった。私なぞは立っていなければならない位で、子持がそこへ坐って了えば、子供の方は一人しか腰掛ける場処がなかった。お房とお菊はかわりばんこに腰掛けた。お繁はまた母に抱かれたまま泣出して、乳をあてがわれても、揺られても、どうしても泣止まなかった。何故こんなに泣くんだろう、と家内はもう持余して了った。仕方なしに、お繁を負って、窓の側で起ったり坐ったりした。
 四時頃に、私達五人は新宿の停車場へ着いた。例の仕事が出来上るまでは、質素にして暮さなければならないと言うので、下女も連れなかった。お房やお菊は元気で、私達に連れられて大久保の方へ歩いたが、お繁の方は酷く旅に萎れた様子で、母の背中に頭を持たせ掛けたまま気抜けのしたような眼付をしていた。
 時々家内は立止って、郊外のありさまを眺めながら、
「繁ちゃん、御覧」
 と背中に居る子供に言って聞かせた。お繁は何を見ようともしなかった。
 私達親子のものが移ろうとした新しい巣は、着いて見ると、漸く工事を終ったばかりで、まだ大工が一人二人入って、そこここを補っているところであった。植木屋の亭主は早速私を迎えて、沢山盆栽などの置並べてある庭の内で、思いの外壁の乾きが遅かったことなぞを言った。庭に出て水を汲んでいた娘は、家内や子供に会釈しながら、盆栽棚の間を通り過ぎた。めずらしそうに私達の様子を眺める人もあった。この広い、掃除の届いた庭の内には、植木屋の母屋をはじめ、まだ他に借屋建の家が二軒もあって、それが私達の住まおうとする家と、樹木を隔てて相対していた。とにかく、私は植木屋の住居を一間だけ借りて、そこで二三日の間待つことにした。
「房ちゃんも、菊ちゃんも、花を採るんじゃないよ――叔父さんに叱られるよ」
 と私は二人の子供に言い聞かせた。
 日の暮れる頃、会社から来た一台の荷馬車が植木屋の門前で停った。私達は先に送った荷物と一緒に大久保へ着いたことに成った。この混雑の中で、お繁は肩掛に包まれたまま、取散らした手荷物などの中に寝かされていた。稀にアヤされても、笑いもしなかった。その晩は、遅くなって、一同夕飯にありついた。
 翌日は、荷物の取片付に掛るやら、尋ねて来る客があるやらで、ゴタゴタした。お繁は疲れて眠り勝であったが、どうかすると力のない眼付をしながら、小さな胸を突出すような真似をして見せる。この児はまだ「うま、うま」位しか言えない。抱かれたくて、あんな真似をするのだろうと、私達は解釈した。で、成るべく顔を見せないようにした。温順しく寝ているのを好い事にして、いくらか熱のあったのも気に留めなかった。思うように子供を看ることも出来なかったのである。
 大久保へ来て三日目に、私は先ず新しい住居へ移って、四日目には家のものを移らせた。新築した家屋のにおいは、不健康な壁の湿気に混って、何となく気を沈着かせなかった。壁はまだ乾かず、戸棚へは物も入れずにある。唐紙は取除したまま。種々なことを山の上から想像して来た家内には、この住居はあまりに狭かった。
「家賃を考えて御覧な」
 と私は笑った。
 歩調を揃えた靴の音が起った。カアキイ色の服を着けた新兵はゾロゾロ窓の側を通った。金目垣一つ隔てた外は直ぐ往来で、暗い土塵が家の内までも入って来た。
 お房は物に臆しない方の娘で、誰とでも遊んだから、この住居へ移った頃には最早近所の娘の中に交っていた。そして、小諸訛の手毬歌なぞを歌って聞かせた。短い着物に細帯ではおかしいほど背丈の延びた学校通いの姉さん達を始め、五つ六つ位の年頃の娘が、夕方に成ると、多勢家の周囲へ集った。お菊はなかなか用心深くて、庭の樹の下なぞに独りで遊んでいる方で、容易に他の子供と馴染もうともしなかった。
「房ちゃん、大手のお湯へ行きましょう」
 こうお菊は母に連れられて入浴に出掛ける時に言った。この娘は小諸の湯屋へ行くつもりでいた。
 漸く家の内がすこし片付いて、これから仕事も出来ると思う頃、末の児は意外な発熱の状態に陥入った。新開地のことで、近くには小児科の医者も無かった。村医者があると聞いて、来て診て貰ったが、子供を扱いつけたことが無いと見えて、とかくハッキリしたことも言ってくれなかった。この医者を信ずる信じないで、家では論が起った。生憎また母の乳は薄くなった。私は町へ出て、コンデンス・ミルクを売る店を探したが、それすらも見当らなかった。その晩は牛込に住む友達の家に会があった。私は途中でミルクを買いしなこの友達にも逢って、小児科医の心あたりを聞いて見る積りであった。村医者は二度も三度も診に来た。最早駄目かしらん、こんな気が起って来た。
「最後の晩餐!」
 と、不図、私は坂の途中で鷲印のミルク罐を買いながら思った。牛込の家には、種々な知人が集っていた。そこで戦地から帰って来た友達にも逢った。君は、私がまだ信州に居た頃、従軍記者として出掛けたのであった。
「電話で一つ聞き合わせてあげましょう。皆川という医学士が大学の方に居ますが、この人は小児科専門ですから」
 こう主人は気の毒がって言ってくれた。
 丁度戸山には赤十字社の仮病院が設けてある時であった。皆川医学士が、臨時の手伝いとして通っていると言って、戸山からわざわざ私の家へ見舞に寄ってくれた頃は、お繁は最早床の上に冷たく成っていた。
 東京の郊外へ着く早々、私達は林の中にでも住むような便りなさを感じた。同時に、小諸でよく子供の面倒を見てくれた近所のシッカリした「叔母さん」達を恋しく思った。あのお繁が胸を突出すような真似をして見せたのは、漸く私達にその意味が解った。口のきけない子供は、死んでから苦痛を訴え始めた。
 今更仕方がなかった。そして口説いてなぞいる場合では無い、と私は思った。幼児のことだから、埋葬の準備も成るべく省くことにして、医者の診断書を貰うことだの、警察や村役場へ届けることだの、近くにある寺の墓地を買うことだの、大抵のことは自分で仕末した。棺も、葬儀社の手にかけなかった。小諸から書籍を詰めて来た茶箱を削って貰って、小さな棺に造らせて、その中へお繁の亡骸を納めた。
「房ちゃん、来て御覧なさい――繁ちゃんは死んじゃったんですよ」
 こう家内が言った。
「菊ちゃん、いらッしゃい」
 とお房は妹を手招きして呼んで、やがて棺の中に眠るようなお繁の死顔を覗きに行った。急に二人の子供は噴飯した。
「死んじゃったのよ、死んじゃったのよ」
 とお菊は訳も解らずに母の口真似をして、棺の周囲を笑いながら踊って歩いた。
「馬鹿だねえ……御覧なさいな、繁ちゃんは最早ノノサンに成ったんじゃ有りませんか……」
 と復た母に言われて、お房は不思議そうに、泣腫らしている母の顔を覗き込んだ。丁度そこへ家内の妹も学校の方からやって来たが、この有様を見ると、直に泣出した。終にはお房も悲しく成ったと見えて、母や叔母と一緒に成って泣いた。
 蝋燭の火が赤く点った。
「兎の巾着でも入れてやりナ」
 と私が言ったので、家内や妹は棺の周囲へ集って、毛糸の巾着の外に、帽子、玩具、それから五月の花のたぐいで、死んだ子供の骸を飾った。
 墓地は大久保の長光寺と言って鉄道の線路に近いところにあった。日が暮れてから、植木屋の亭主に手伝って貰って、私はこの大屋さんと二人で棺を提げて行った。同じ庭の内の借家に住む二人の「叔父さん」、それから向の農家の人などは、提灯を持って見送ってくれた。この粗末な葬式を済ました後で、親戚や友達に知らせた。
 こうして私の家には小さな新しい位牌が一つ出来た。そのかわり、お繁の死は、私達の生活の重荷をいくらか軽くさせた形であった。まだお房も居るし、お菊も居る――二人もあれば、子供は沢山だ、と私は思った。
 どうかすると私は串戯半分に家のものに向って、
「お繁が死んでくれて、大に難有かった」
 こんなことを言うこともあった。私は唯自分の仕事を完成することにのみ心を砕いていた。
「子供なぞはどうでも可い」
 多忙しい時には、こんな気も起った。何を犠牲にしても、私は行けるところまで行って見ようと考えたのである。
 郊外には、旧い大久保のまだ沢山残っている頃であった。仕事に疲れると、よく私は家を飛出して、そこいらへ気息を吐きに行った。大久保全村が私には大きな花園のような思をさせた。激しい気候を相手にする山の上の農夫に比べると、この空の明るい、土地の平坦な、柔い雨の降るところで働くことの出来る人々は、ある一種の園丁のように私の眼に映った。角筈に住む水彩画家の風景画に私は到る処で出逢った。
「房ちゃん、いらッしゃい――懐古園へ花採りに行きましょう」
 と、ある日お菊は姉のお房を呼んで、二人して私の行く方へ随いて来た。
 私は子供を連れて、ある細道を養鶏所の裏手の方へ取って、道々草花などを摘んでくれながら歩いた。お房の方は手に一ぱい草をためて、「随分だわ」だの、「花ちゃん、よくッてよ」だのと、そこに居りもしない娘の名を呼んで見て、しきりに会話の稽古をしたり、あるいはお菊と一緒に成って好きな手毬歌などを歌いながら歩いて行った。
 行っても、行っても、お菊の思うような小諸の古い城跡へは出なかった。桑畠のかわりには、植木苗の畠がある。黒ずんだ松林のかわりには、明るい雑木の林がある。そのうちに、木と木の間が光って、高い青空は夕映の色に耀き始めた。
 急にお菊は勝手の違ったように、四辺を眺め廻した。そして子供らしい恐怖に打たれて、なんでも家の方へ帰ろうと言出した。
「母さん――母さん」
 お菊は、大久保の通りへ出るまでは、安心しなかった。
「菊ちゃん、お遊びなさいな」
 こう往来に遊んでいた娘がお菊を見つけて呼んだ。お房の友達もその辺に多勢集っていた。
 夕餐の煙は古い屋根や新しい板屋根から立ち登った。鍬を肩に掛けた農夫の群は、丁度一日の労働を終って、私達の側を通り過ぎた。それを眺めて、私は額に汗する人々の生活を思いやった。復た私は長い根気仕事を続ける気に成った。
 熱いうちにも寂しい感じのする百日紅の花が咲く頃と成った。やがて、亡くなった子供の新盆、小諸の方ではまた祗園の祭の来る時節である。冷しい草屋根の下に住んだ時とは違って、板屋根は日に近い。壁は乾くと同時に白く黴が来た。引越以来の混雑にまぎれて、解物も、洗濯物も皆な後れて了ったと言って、家内は縁側の外へ張物板を持出したが、狭い廂の下に日蔭というものが無かった。
 庭の隅には枝の細長い木犀の樹があった。まばらな蔭は僅かにそこに落ちていた。軒からその枝へ簾を渡して、熱い土のいきれの中で、家内は張物をしたり、洗濯したりした。
「あれ黒がいけません」
 こう言いながら、お菊は穢い宿無し犬に追われて来た。
「菊ちゃん、早く逃げていらッしゃい……なんだってそんな大きな下駄を穿くんですねえ」
 と言って、家内は腰を延ばした。そして苦しそうな息づかいをした。高く前掛を〆めてはいたが、最早醜く成りかけた身体の形は隠されずにある。
 お房の泣く声が聞えた。家内は取縋る妹の方をそこへ押除けるようにした。「あ、房ちゃんが復た溝へ陥落ちた」と言って顔を顰めていると、お房は近所の娘に連れられながら、着物を泥だらけにして泣いてやって来た。
「どうしてそう毎日々々衣服を汚すんだろう」
 と家内が言ったので、お房はもう身を竦めるようにして、無理やりに縁側の方へ連れて行かれた。
「母さん、御免……」
 こうお房は拝むように言った。家内は又、この娘を懲らさないうちは置かなかった。
「房ちゃん、どうなさいました」
 と、お房の泣声を聞きつけて、そこへ井戸を隔てて住む「叔母さん」が提げにやって来た。この人はここから麹町の小学校へ通う女教師である。最早中学へ行くほどの子息がある。
「衣服を泥になんか成すっちゃいけませんよ。これから母さんの言うことをよく聞くんですよ」
 と裏の「叔母さん」は沈着いた、深切な調子で、生徒に物を言い含めるように言った。お房は洗濯した単衣に着更えさせて貰って、やがて復たぷいと駈出して行った。
「母さん、何か……母さん、何か……」
 とお菊はネダリ始めた。何か貰わないうちは母の側を離れなかった。
「泣かなくても、進げますよ」と家内は叱るように言った。「お煎餅ですよ」
「お煎餅、嫌――アンコが好い」
「アンコなんか不可ません。あんまり食べたがるもんだから、それで虫が出るんですよ――嫌ならお止しなさい」
 と母に言われて、お菊は不承々々に煎餅を分けて貰った。
 その晩は早く夕飯を済ました。薮蚊の群が侘しい音をさせて襲って来る頃で、縁側には蚊遣を燻らせた。蛙の鳴く声も聞えた。家内は、遊び疲れた子供の為に、蚊帳を釣ろうとしていたが、
「父さん、どうしたんでしょう……まあ、おかしなことが有る……」
 こう言いながら、ボンヤリ釣洋燈の側に立った。
「私は物が見えなくなりました……」
 と復た家内が言って、洋燈の灯に自分の手を照らして見ていた。
「オイ、オイ、馬鹿なことを言っちゃ困るぜ」私は真実にもしなかった。
「いえ、串戯じゃ有りませんよ、真実に見えないんですよ……洋燈の側なら何でも能く分りますが、すこし離れると最早何物も分りません」
「俺の顔は?」
 私は笑わずにいられなかった。
 その時、家内は手探り手探り暗い押入の方へ歩いて行った。しばらく私もそこに立って、家内の様子を眺めていた。
「早く医者に診て貰うサ」
 と私は励ますように言って見た。
 翌日になると、明るい光線の中では別に何ともないと言って、家内は駿河台の眼医者のところまで診て貰いに行った。滋養物を取らなければ不可――働き過ぎては不可――眼を休ませるようにしなければ不可――種々に言われて来た。
「一つは粗食した結果だ」
 この考えが私の胸に浮んだ。私は信州にある友達の厚意を思って、成るべくこの仕事をする間は、質素に質素に、と心掛けたが、それを通り越して苛酷であった、とはその時まで自分でも気が着かなかった。
 日の暮れないうちに、と家内は二人の娘を連れて買物に出掛けた。その日は、私も疲れて一日仕事を休むことにした。縁側に出て庭の木犀に射る日を眺めていると、植木屋の裏の畠の方から寂しい蛙の鳴声が夢のように聞えて来る。祗園の祭も近づいた、と私は思った。軒並に青簾を掛け連ねた小諸本町の通りが私の眼前にあるような気がして来た。その辺は私の子供がよく遊び歩いたところである。
「ヨイヨ、ヨイヨ」
 御輿を舁いで通る人々の歓呼は私の耳の底に聞えて来た。何時の間にか私の心は山の上の方へ帰って行った。
 宿無し犬の黒は私の前を通り過ぎた。この犬は醜くて、誰も飼手が無い。家の床下からノソノソ這出して、やがて木犀の蔭に寝た。そのうちに、暮れかかって来た。あまり子供等の帰りが遅いと思って、私は門の外へ出て見た。丁度二人の娘は母の手を引きながら、鬼王神社の方から帰って来るところであった。
「父さん」とお房が呼んだ。お菊も一緒に成って呼んだ。
「遅かったネ」と私は言って見た。
「今しがたまで、繁ちゃんのお墓でさんざん泣いて来たんですよ」こう家内はそこへ立留って言った。「帰りに八百屋へ寄って、買物をしていましたら、急にそこいらが見えなく成って来て……房ちゃんや菊ちゃんを連れていなかろうものなら、真実に私はどうしようかと……」
「最早見えないのかい」
「街燈の火ばかし見えるんですよ……あとは真暗なんです」
「さあ、房ちゃんも、菊ちゃんも、お家へお入り」
 暮色が這うようにやって来た。私達は子供を連れて急いで門の内へ入った。
 こういう私の家の光景は酷く植木屋の人達を驚かした。この家族を始め、旧くから大久保に住む農夫の間には、富士講の信者というものが多かった。翌日のこと、切下髪にした女が突然私の家へやって来た。この女は、講中の先達とかで、植木屋の老爺さんの弟の連合にあたる人だが、こう私の家に不幸の起るのは――第一引越して来た方角が悪かったこと、それから私の家内の信心に乏しいことなどを言って、しきりに祈祷を勧めて帰って行った。
「御祈祷して御貰い成すったら奈何です――必と方角でも悪かったんでしょうよ」
 と植木屋の老婆さんは勝手口のところへ来て言った。義理としても家内は断る訳にいかなかった。
 その日から家内は一人ズツ子供を連れて駿河台まで通った。暑い日ざかりを帰って来て、それから昼飯の仕度に掛かった。信州の牧野君からは手紙の着くのを待つ頃であった。それを手にして見ると、「自分の子供の泣声を聞いたら、さぞ房子さん達も待つだろうと思って、急に手紙を書く気に成った――約束のものを送る」としてあった。私はこの友達の志に励まされて、あらゆる落胆と戦う気に成った。家内には新宿の停車場前から鶏肉だの雑物だのを買って来て食わせた。この俗にいう鳥目が旧の通り見えるように成るまでには、それから二月ばかり掛かった。
 翌年の三月には、界隈はもう驚くほど開けていた。この郊外へ移って来て、近くに住む二人の友達もあった。私の家では、四番目の子供も産れていた。はじめての男で、種夫とつけた。姪も一人郷里から出て来て、家からある学校へ通っていた。この月に入って、漸く私は自分の仕事を終った。
 私も労作した。この仕事には、殆んど二年を費した。牧野君からは、早速便りがあって、一緒に心配した甲斐が有ったと言って、自分のことのように悦んでくれた。骨休めに、遊びに来い、こうも言って寄した。私も何処か静かなところでこの疲労に耽りたい、と思った。世帯持のかなしさには、容易に家を飛出すことも出来なかったのである。急に私の家では客が増えた。訪ねて来る友達も多かった。
「母さん、犬殺しよ」
 こうお菊は母の傍へ来て言った。近所の「叔父さん」達が総掛りで何故庭の内を馳け廻るか、彼方是方から飛んで来た犬が何故吠え立てるか、それを知らせに来るほどお菊も物が解って来た。
 お房やお菊はにわかに大きくなった。姉は前髪をとってくれと言うように成ったし、妹は前の年まで歌えなかった唱歌を最早自由に歌えるように成った。しかし、黒の発達とは比較に成らない。黒が近所へ捨てられた時分は、痩せた、ひょろ長い小犬であったが、一年経つか経たないに、最早一ッぱしの女犬であった――乳房は長く垂下っていた。
 黒も逃げおおせた。犬殺しが手を振って、空車を引いて行った翌々日あたりから、復た私の家の床下では、毎晩この犬のゴソゴソ寝に来る音を聞くように成った。
 私の仕事が世に出る頃、種夫は新宿の医者に掛かった。この大久保で生れた児はとかく弱かった。ある日、家内が種夫を負って、薬を貰いに出掛けようとすると、それをお菊が、見送ると言いながら、植木屋の横手にある小径を通って、畑の方までも随いて行った。
「彼処まで送って上げましょう」
 とお菊は向に光る新しい家屋を指して見せて、やがて母と一緒に畑の尽きたところへ出た。新開地らしい道路がそこにあった。
「菊ちゃんここから独りで帰れるの?」
 と母が立留って言った。
 お菊は独りで帰れると言って、桐の若木がところどころに立っている畑の間を帰りかけた。
「母さん」
 こうお菊は振向いて呼んだ。そして母と顔を見合せて微笑んだ。母は乳呑児を負ったまま佇立んでいた。お菊は復た麦だの薩摩芋だのの作ってある平坦な耕地の間を帰ったが、二度も三度も振向いて見た。
「母さん」
 この呼声が通じなくなった頃、お菊はサッサと家の方へ戻って来た。翌日も復たお菊が同じように後を追って行くので、家内も可愛そうに思って、その日は一緒に連れて行った。種夫の為に新宿の通りで吸入器を買って、それを家内が提げて帰ったが、丁度菓物の変りめに成る頃で、医者の細君のところからは夏蜜柑を二つばかりお菊にくれてよこした。
 私の家では、飯を出す客などがあって、混雑した日のことであった。夕方に、お菊は悪い顔をして、遊び友達の方から帰って来た。そして、乳呑児の襁褓を温める為に置いてあった行火に凭れて、窓の下のところで横に成った。
「菊ちゃんはどこか悪いんじゃないか」
 こう私は客を前に置いて、家のものに尋ねて見た。お菊はお腹が痛い痛いと言いつつ遊びに紛れていたとのことで、家のものもそれほどには思わなかったのである。姪は熊の胆を盃に溶かしてお菊に飲ませたりなぞした。
 急に熱が出て来た。子供の持薬だの、近所の医者に診せた位では、覚束ないということを私達が思う時分は、最早隣近所では寝沈まっていた。お菊は吐いたり下したりした。それが沈着いて、すこしウトウトしたかと思うと、今度はまた激しい渇の為に、枕元にある金盥の水までも飲もうとした。私は空の白むのを待兼ねて、病児を家内に託して置いて、車で皆川医学士を迎えに行った。まだ夜は明けなかった。町々の疲れた燈火は暗く赤く私の眼に映った。
「菊ちゃん、御医者様が入来ッしゃるよ」と私が子供の枕元へ帰って来て呼んだ時は、お菊もまだ気がタシカだった。お繁の時のことも有るから、医学士も気の毒がって早速来てくれた。
 家内は蔭の方で、
「貴方がたが入来ッしゃるちょっと前に、房ちゃんが肩掛を冠って踊って見せたんですよ。その時菊ちゃんも可笑しがって笑って――『可笑しな房ちゃん!』なんて。まだそんなに正気だったんですよ……。『お水! お水!』ッて困りました……。『御医者様が入来ッしゃるとお水を下さる』そんなこと言って欺しましたら、漸くそれで温順しく成ったところなんですよ……」
 お菊は大きな眼を開いて医学士の方を見たが、やがて泣出しそうに成った。
「菊ちゃん、御医者様に診て頂くんですよ……ね、お水を頂くんでしょう……そうすると直に癒りますよ」
 と母に言われて、お菊は漸く学士の方へ小さな手を出した。
 少壮ではあるが、篤実な、そしていかにも沈着いた学士の態度は、私達に信頼する心を起させた。学士は子供の腸を洗ってやりたいと言ったが、不便な郊外のことで、近くに洗滌器を貸すところも無かった。家内は二三の医者の家を走り廻って、空しく帰って来た。
「一つ注射して見ましょう」
 こう学士が、病児の顔を眺めながら、言出した。
 家内はお菊の胸の辺を展げた。白い、柔い、そして子供らしい肌膚が私達の眼にあった。学士は洋服の筒袖を捲し上げて、決心したような態度で、注肘の針に薬を満たした。
「痛いッ」
 お菊は泣き叫んだ。鋭い注射の針は二度も三度も射された。
 間もなく私はこの病児を抱いて、車で大学病院へ向った。学士も車で一緒に行ってくれた。途次小児科医の家の前を通る度に、学士は車を停めて、更に注射を加えて行こうかと考えて、到頭それも試みずに本郷へ着いた。車の上でお菊の蒼ざめた顔を眺めて行った時に、この児は最早駄目だ、と私は思った。
 病名は消化不良ということであった。この急激な身体の変化は多分夏蜜柑の中毒であろうと言われた。私達の後を追って、大久保に住む一人の友達も、家のものも急いで来た。一刻々々にお菊は変って行った。それから二時間しかこの児は生きていなかった。
 大久保の家では留守居してくれた人達が様子を案じ顔に待っていた。私はお菊の死体を抱きながら車から下りた。最早呼んでも返事をしない子供に取縋って、家内や姪は泣いた。お房も、お繁の亡くなった時とは違って、姉さんらしい顔を泣腫らしていたが、その姿が私にはあわれに思われた。
 お菊は矢張長光寺に葬った。親戚や知人を集めて、この娘の為には粗末ながら儀式めいたことをした。狭い墓地には二人の子供がこんな風に並んだ。
          菊 子 の 墓
          繁 子 の 墓
 愛していた娘のことで、家内はよくお房を連れてはこの墓へ通った。
 私の家に復たこのような不幸が起ったということは、いよいよ祈祷の必要を富士講の連中に思わせた。女の先達は復た私の家へ訪ねて来て、それ見たかと言わぬばかりの口調で、散々家内の不心得を責めた。「度し難い家族」――これが先達の後へ残して行った意味だった。
 お菊が生前の遊び友達は、小さな下駄の音をさせて、朝に晩に家の前を通った。家内は窓の格子にとりついて、そういう子供の姿を眺める度に、お菊のことを思出していた。
「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実にツマラない」
 こう家内は口癖のように嘆息した。
 私も、散々仕事で疲れた揚句で、急にお菊が居なくなった家の内に坐って見た時は、暴風にでも浚われて持って行かれたような気がした。山を下りてから、私には安い思をしたという日も少なかった。私の生命は根から動揺られ通しだ。
「ナニ、まだお房が居る」
 と私は言って見た。
 麻疹後、とかくお房は元気が無かった。亡くなった私の母親を思出させるようなこの娘は、髪の毛の濃く多いところまでも似て来た。信州の牧野君からは子守を一人心配してよこしてくれた頃で、いくらか私の家でも沈着き、手も増えた。二人まで子供を失くしたことを考えて、私達はこの残った娘を大切に見なければ成らないと思った。上野に玩具の展覧会があった日には、お房も皆なに連れられて出掛けたが、何を見てもさ程面白がりもしないし、象や猿の居る動物園へ寄っても「早く吾家へ帰りましょう」とばかりで、新宿の電車の終点から大久保まで疲れたような顔をして歩いて帰って来た。
 草木も初夏の熱のために蒸される頃と成った。庭には木犀の若葉もかがやいたし、植木屋の盆栽棚には種々な花も咲いたし、裏の畠の方には村の人達が茶を摘んでいたし、何処へ行っても子供に取っては楽しい時であった。お房は一寸遊びに出たかと思うと、直に帰って来てゴロゴロしていた。お繁やお菊で私達も懲りたから、早速、新宿の医者に見せた。牛込の医者にも見せた。早く薬を服ませて、癒したいと思って、医者の言う通りに、消化の好い物だの、牛乳だの、山家育ちで牛乳が嫌だと言えばミルク・フッドだの、と種々にしていたわった。お房は腸が悪いとのことであった。不思議な熱は出たり引いたりした。
 五月の下旬に入っても、まだお房は薬を服んでいた。勧めてくれる人があって、私はある医者の許へこの娘を見せに連れて行った。その時は、大久保に住む一人の友達とも一緒だった。強健そうな年寄の医者は、熱のために萎れた娘を前に置いて、根本から私達の衛生思想が間違っていることを説いた。他の医者が腸の悪い子供に禁物だというようなものでも、すべて好いとした。牛乳のかわりに味噌汁、粥のかわりに餅、ソップのかわりに沢庵の香の物……それから、この慷慨な老人は、私達が日本固有の菜食を重んじない為に、それで子供がこう弱くなると言って、今日の医学、今日の衛生法、今日の子供の育て方を嘲った。私は娘を連れて、スゴスゴ医者の前を引下った。煎じ薬を四日分ばかりと、菜食の歌を貰って、大久保へ帰った。
 何となくお房の身体には異状が起って来た。種々な医者に見せ、種々な薬を服ませたが、どうしても熱は除れなかった。時とすると、お房の身体は燃えるように熱かった。で、私も決心して、復た皆川医学士の手を煩わしたいと思った。月の末に、学士の勧めに随って、私はお房を大学の小児科へ入院させることにした。
「母さん、前髪を束って頂戴な」
 熱のある身体にもこんなことを願って、お房は母に連れられて行った。私も、姪に留守居をさせて、別に電車で病院の方へ行って見た。病室は静かな岡の上にあった。そこは、三つばかりある高い玻璃窓の一つを通して、不忍の池の方を望むような位置にある。私は本郷の通りでお房の好きそうなリボンを買って、それを土産に持って行ったが、室へ入って見ると、お房は最早高い寝台の上に横に成って、母に編物をして貰っているところであった。丁度池の端には競馬のある日で、時々多勢の人の騒ぐ声が窓の玻璃に響いて来た。
 お房の枕許には、小さな人形だの、箱だのが薬の瓶と一緒に並べてあった。家内は、寝台の柱にリボンを懸けて見せて、病んでいる子供を楽ませようとした。
「仕舞って置くのよ」
 とお房は言った。
 私達は、部屋付の看護婦の外に、附添の女を一人頼むことにした。この女は私達の腰掛けている傍へ来て、皆川先生の尽力ででもなければ、一人でこういう角の室を占めることは出来ない、これは余程の優待であると話して聞かせた。
 肩の隆った白い服を着て、左の胸に丸い徽章を着けた、若い肥った看護婦が、室の戸を開けて入って来た。この部屋付の看護婦は、白いクロオバアの花束を庭から作って来て、それをお房にくれた。
「房子さん、好いリボンを頂きましたねえ――御土産ですか」と看護婦が言った。
「仕舞って置くのよ、仕舞って置くのよ」
 こうお房は繰返していたが、やがて看護婦から貰った花束を握ったまま眠って了った。
 夕方に私は皆川医学士に逢った。お房の病状を尋ねると、今すこし容子を見た上でなければ、確めかねるとのことであった。その晩から、私達はかわるがわる子供の傍に居た。
「父さん――父さん――父さんの馬鹿――」
 こう呼ぶ声が私の耳に入った。私は、どうなって行くか分らないような子供の傍に、疲れた自分を見出した。それは病院へ来てから三日目の夜で、宿直の人達も寝沈まったかと思われる頃であった。
「父さん、房ちゃんは最早駄目よ」
 熱の譫語とも聞えなかった。と言って子供の口からこんな言葉が出ようとも思われなかった。私は夢を辿る気がした。
「父さん、房ちゃんは……ねえ……」
 その後が聞きたいと思っていると、パッタリお房の声は絶えた。その晩は私も碌に眠らなかった。
 次第にお房はワルく成るように見えた。山で生れて、根が弱い体質の子供で無いから、病に抵抗するだけの力はある筈だ、とそれを私達は頼みにした。どうかしてこの娘ばかりは助けたく思ったのである。入院して丁度一週間目に成る頃は、私も家のものも子供の傍に附いていた。大久保の方は人に頼んだり、親戚のものに来て泊って貰ったりした。幾晩かの睡眠不足で、皆な疲れた。
 附添の女と私達とは、三人かわるがわる起きて、夜の廊下を通って、看護婦室の先の方まで氷塊を砕きに行っては帰って来て、お房の頭を冷した。そして、交代に眠った。疲労と心配とで、私も寝台の後の方に倒れたかと思うと、直に復た眼が覚めた。一晩中、お房は「母さん、母さん」と呼びつづけた。
 まだ夜は明けなかった。私は手拭を探して、廊下へ顔を洗いに出た。いくらか清々した気分に成って、引返そうとすると、お房の声は室を泄れて廊下の外まで響き渡っていた。
「母さん――母さん――母さん」
 烈しい叫声は私の頭脳へ響けた。その焦々した声を聞くと、私は自分まで一緒にどうか成って了うような気がした。
 お房の枕頭には黒い布を掛けて、光を遮るようにしてあった。お房は半分夢中で、下口唇を突出すようにして、苦しそうな息づかいをした。胸が痛み、頭が痛むと言って、母に叩かせたが、もっと元気に叩いてくれなどと言って、どうかすると掛けてあるショウルを撥飛した。
 日の出が待遠しかった。私は窓のところへ行って見た。庭はまだ薄暗く、木立の下あたりは殊に暗かったが、やがて青白い光が朝の空に映り始めた。梢に風のあることが分って来た。テニスの網も白く分って来た。この静かな庭の方へ、丁度私達の居る病室と並行に突出した建築物があって、その石階の鉄の欄までも分って来た。赤く寂しい電燈が向うの病室の廊下にも見える。顔を洗いに行く人も見える。お菊の亡くなる時に世話をしてくれた若い看護婦も通る。
「母さん――母さん――馬鹿、馬鹿――」
 と復たお房が始めた。「母さん、あのねえ……」などと言いかけるかと思うと消えて了う。
 上野の鐘は不忍の池に響いて聞えた。朝だ。ホッと私達は溜息を吐いた。
 小児科のことで、隣の広い室には多勢子供の患者が居た。そこには全治する見込の無いものでも世話するとかで、死後は解剖されるという約束で来ているものもあった。晩に来て朝に帰る親達も多かった。
「母さん――母さん――母さん――母さん――ん――」
 この叫声は私達の耳について了った。どうかすると、それが歌うように、低い柔な調子に成ることもあった。
 友達や親戚のものはかわるがわる見舞に来てくれた。午後に私は皆川医学士に呼ばれて、大きなテエブルの置いてある部屋へ行った。他に人も居なかった。学士は私と相対に腰掛けて、私に煙草をすすめ自分でもそれを燻しながら、医局のものは皆な私の子供のことを気の毒に思うと言って、そのことは病院の日誌にも書き、又、出来得る限りの力を尽しつつあることなぞを話してくれた。その時、学士は独逸語の医書を私の前に披いて、小児の病理に関する一節を私に訳して聞かせた。お房の苦んでいる熱は、腸から来たものではなくて、脳膜炎であること――七歳の今日まで、お房はお房の生き得るかぎりを生きたものであること――こういう宣告が懇切な学士の口唇から出た。私は厳粛な、切ない思に打たれた。そして、あの子供を救うべきすべての望は絶えたことを知った。室へ戻って見るとお房は一時気の狂った少女のようで、母親の鼻の穴へ指を突込み、顔を掴み、急に泣き出したりなぞしていた。
「房ちゃん、見えるかい」と私が言って見た。
「ああ――」とお房は返事をしたが、やがて急に力を入れて、幼い頭脳の内部が破壊し尽されるまでは休めないかのように叫び出した。
「母さん――母さん――母さんちゃん――ちゃん――ちゃん――ちゃん」
 この調子が可笑しくもあったので、看護のもの一同が笑うと、お房は自分でも可笑しく成ったと見えて、めずらしく笑った。それから、ヒョットコの真似なぞをして見せた。
 寝台の側に附添っていた人々は、喜び、笑った。お房も一緒に笑ううちに、逆上せて来たと見えて、母親の鼻といわず、口といわず、目といわず、指を突込もうとした。枕も掻※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2-78-12、153-13]った。人々は皆な可懼しく思った。終には、お房は大声に泣出した。
 こういう中へ、牛込の法学士から私の子供が入院したことを聞いたと言って、訪ねて来てくれた画家があった。君は浮世絵の方から出た人であった。君の女の児は幼稚園へ通う途中で、あやまって電車のために引き殺されたということで、それを私に泣いて話した。この可傷しい子供の失い方をした画家は、絶えず涙で、お房の苦しむ方を見ていた。
 今はただ幼いものの死を待つばかりである。こう私は二三の友達の許へ葉書を書いた。翌日はお房の呼ぶ声も弱って来て、「かあちゃん、か――」とか、「馬鹿ちゃん、馬」とか、きれぎれに僅かに聞えるように成った。家の方も案じられるので、私は皆川医学士に子供のことを頼んで置いて、それからちょっと大久保へ帰った。
 放擲して置いた家の中はシンカンとしていた。裏に住む女教師なども病院の方の様子を聞きに来た。寂しそうに留守をしていた姪は、留守中に訪ねてくれた人達だの、種々な郊外の出来事だのを話して、ついでに、黒が植木屋の庭の裏手にある室の中で四匹ばかりの子供を産んだことを言出した。幾度饑え、幾度殺されそうにしたか解らないこの死に損いの畜生にも、人が来て頭を撫でて、加に、食物までも宛行われるような日が来た。
 私は庭に出て、子供のことを考えて、ボンヤリと眺め入った。樹木を隔てた植木屋の勝手口の方では、かみさんが障子を開けて、
「黒――来い、来い、来い」
 こう呼ぶ声が聞えた。
 二晩ばかり、私は家の方に居た。その翌る晩も、知らせが有ったら直に病院へ出掛ける積りで、疲れて眠っていると、遅くなって電報を受取った。
「ミヤクハゲシ、スグコイ」
 とある。九時半過ぎた。病院へ着く前に最早あの厳重な門が閉されることを思って、入ることが出来るだろうかとは思ったが、不取敢出掛けた。追分まで車で急がせて、そこで私は電車に移った。新宿の通りは稲荷祭のあるころで、提灯のあかりが電車の窓に映ったが、そのうちに雨の音がして来た。濡れて光る夜の町々の灯――白い灯――紅い灯――電線の上から落ちる青い電光の閃き――そういうものが窓の玻璃に映ったり消えたりした。寂しい雨の中を通る電車の音は余計に私を疲れさせた。車の中で私は前後を知らずにいることもあった。時々眼を覚ますと、あのお房が一週間ばかり叫びつづけに叫んだ焦々した声が耳の底にあった。
「母さん――母さん――母さん――母さん――」
 私は自分の頭脳の中であの声を聞くように成った。同時に病院へ行けば最早お房はイケナイかしらんと、思いやった。須田町で本郷行に乗換えた。万世橋のところに立つ凱旋門は光って見えたかと思うと復た闇に隠れた。
 暗い時計台の下あたりには往来する人もなかった。私は門の外から呼んで見た。その時、門番が起きて来て、私の名を呼んで、それから厳しい門を開けてくれた。
「どうして私のことを御存じでしたか」と私は嬉しさのあまりに聞いて見た。
「ナニ、断りが有りましたからネ」と門番が言った。
 小児科の入口も堅く閉っていた。内の方で当番らしい女の声がして、やがて戸が開いた。分室へ通う廊下のあたりは、亜鉛葺の屋根にそそぐ雨が寂しい思を与えた。看護婦室の前で年をとった看護婦に逢ったきり、他には誰にも逢わなかった。やがて私は長い廊下を突当ったところにある室の前に立った。
「駄目かナ」
 と戸の外で思った。
 妙に私は手が震えた。一目に子供の運命が見られるような気がして、可恐しくて、戸が押せなかった。思い切って開けて見ると、お房はすこし沈着いてスヤスヤ眠っている。
 翌朝は殊にワルかった。子供の顔は火のように熱した。それを見ると、病の重いことを思わせる。
「母さん何処に居るの?」とお房は探すように言った。
「此処に居るのよ」と母は側へ寄ってお房の手に自分のを握ませた。
「そう……」とお房は母の手を握った。
「房ちゃん、見えないのかい」
 と母が尋ねると、お房は点頭いて見せた。その朝からお房は眼が見えなかった。
 この子供の枕している窓の外には、根元から二つに分れた大きな椎の樹があった。それと並んで、二本の樫の樹もあった。若々しい樫の緑は髪のように日にかがやいて見え、椎の方は暗緑で、茶褐色をも帯びていた。その青い、暗い、寂びきった、何百年経つか解らないような椎の樹蔭から、幾羽となく小鳥が飛出した。その朝まで、私達は塒とは気が付かなかった。
 燕も窓の外を通った。田舎者らしい附添の女はその方へ行って、眺めて、
「ア――燕が来た」
 と何か思い出したように言った。丁度看護婦が来て、お房の枕頭で温度表を見ていたが、それを聞咎めて、
「燕が来たって、そんなにめずらしがらなくても可かろう」と戯れるように。
「房ちゃんのお迎えに来たんだよ」と附添の女は窓に倚凭った。
「またそんなことを……」と看護婦が叱るように言った。
「しかし、病院へ燕が来るなんて、めずらしいんですよ」
 こう附添の女は家内の方を見て、訛のある言葉で言って聞かせた。その日、お房の髪は中央から後方へかけて切捨てられた。あまり毛が厚すぎて、頭を冷すに不便であったからで。お房は口も自由に利けなかったがまだそれでも枕頭に積重ねてある毛糸のことを忘れないで、「かいとオ、かいとオ」と言っていた。時々痰の咽喉に掛かる音もした。看護婦はガアゼで子供の口を拭って、薬は筆で飲ませた。最早口から飲食することもムツカシかった。鶏卵に牛乳を混ぜて、滋養潅腸というをした。
 皆川医学士を始め、医局に居る学士達はかわるがわる回診に来た。時には、学生らしい人も一緒に随いて来た。看護婦だの、身内のものだのが取囲いている寝台の側に立って、皆川医学士はその学生らしい人にお房の病状を説明して聞かせた。そして、子供の足を撫でたり、腹部を指して見せたりした。学生らしい人は又、こういう時に経験して置こうという風で、学士の説明に耳を傾けていた。学士達の中には、まだ年も若く、ここへ来たばかりで、冷静に成ろう成ろうと勉めているような人もあった。
 病院へ来て二週間目にあたるという晩には、お房は最早耳もよく聴えなかった。唯、物を言いたそうにする口――下唇を突出すようにして、息づかいをする口だけ残った。過度の疲労と、睡眠の不足とで、私達は半分眠りながら看護した。夜の二時半頃、私は交代で起きて、附添の女や家内を休ませたが、二人は横に成ったかと思うと直に死んだように成って了った。どうかすると、私も病人の寝台に身体を持たせ掛けたまま、まるで無感覚の状態に居ることもあった。
 翌朝に成って、附添の女は私達の為に賄の膳を運んで来た。
「オイ、その膳をここへ持って来てくれ」と私は家内に言付けた。
「子供が死んで、親ばかり残るんでは、なんだか勿体ない――今朝はここで食おう」
 膳には、麩の露、香の物などが付いた。私達は窓に近い板敷の上に直に坐って、そこで朝飯の膳に就いた。
 回診は十時頃にあった。医学士達は看護婦を連れて、多勢で病人の様子を見に来た。終焉も遠くはあるまいとのことであった。午後までも保つまいと言われた。前の日まで、お房が顔の半面は痙攣の為に引釣ったように成っていたが、それも元のままに復り、口元も平素の通りに成り、黒い髪は耳のあたりを掩うていた。湯に浸したガアゼで、家内が顔を拭ってやると、急に血色が頬へ上って、黄ばんだうちにも紅味を帯びた。痩せ衰えたお房の容貌は眠るようで子供らしかった。
 よく覚えて置こうと思って、私は子供の傍へ寄った。家内はお房の髪を湿して、それを櫛でといてやった。それから、山を下りる時に着せて連れて来たお房の好きな袷に着更えさせた。周囲には「姉さん達」も集って来ていた。死は次第にお房の身に上るように見えた。
 こうなると、用意しなければならないことも多かったので、それから夕方まで私は子供の傍に居なかった。やがて最早息を引取ったろうか、そんなことを思いながら、病院の方へ急いで見ると、まだお房は静かに眠る状態である。小鳥も塒に帰る頃で、幾羽となく椎の樹の方へ飛んで来た。窓のところから眺めると、白い服を着た看護婦だの、癒りかけた患者だのが、彼方此方と庭の内を散歩している。学士達は消毒衣のままで、緑蔭にテニスするさまも見える。ここへお房が入院したばかりの時は、よく私も勧められてテニスの仲間入をしたものだが、最早ラッケットを握る気にも成れなかった。
 お房の眼の上には、眸が疲れると言って、硼酸に浸した白い布が覆せてあった。時々痙攣の起る度に、呼吸は烈しく、胸は波うつように成った。頭も震えた。もはや終焉か、と思って一同子供の周囲に集って見ると、復たいくらか収って、眠った。
 夕日は室の内に満ちた。庭に出て遊ぶ人も何時の間にか散って了った。不忍の池の方ではちらちら灯が点く。私達は、半分死んでいる子供の傍で、この静かな夕方を送った。
 お房は眠りつづけた。看護の人々も疲れて横に成るものが多かった。夜の九時頃には、私は独り電燈の下に椅子に腰掛けてお房の烈しい呼吸の音を聞いていた。堪えがたき疲労、心痛、悲哀などの混り合った空気は、このゴロゴロ人の寝ている病室の内に満ち溢れた。隣の室の方からは子供の泣声も聞えて来た。時々お房の傍へ寄って、眼の上の白い布を取除いて見ると、子供の顔は汗をかいて紅く成っている。胸も高く踴っている。
 上野の鐘は暗い窓に響いた。
「我もまた、何時までかあるべき……」
 こう私は繰返して見た。
 分ち与えた髪、瞳、口唇――そういうものは最早二度と見ることが出来ないかと思われた。無際無限のこの宇宙の間に、私は唯茫然自失する人であった。
 看護婦が入って来た。体温をはかって見て、急いで表を携えて出て行った。何時の間にか家内は寝台の向側に跪いていた。私はお房の細い手を握って脈を捜ろうとした。火のように熱かった。
「脈は有りますか」
「むむ、有るは有るが、乱調子だ」
 こんな話をして、私達は耳を澄ましながら、子供の呼吸を聞いて見た。
 急に皆川医学士が看護婦を随えて入って来た。学士は洋服の隠袖から反射機を取出して、それでお房の目を照らして見た。何を見るともなしにその目はグルグル廻って、そして血走った苦痛の色を帯びていた。学士は深い溜息を吐いて、やがて出て行って了った。
 夢のように窓が白んだ。猛烈な呼吸と呻声とが私達の耳を打った。附添の女は走って氷を探しに行った。お房の気息は引いて行く「生」の潮のように聞えた。最早声らしい声も出なかったから、せめて最後に聞くかと思えば、呻声でも私達には嬉しかった。死は一刻々々に迫った。私達の眼前にあったものは、半ば閉じた眼――尖った鼻――力のない口――蒼ざめて石のように冷くなった頬――呻声も呼吸も終に聞えなかった。
 数時間経って、お房が入院中世話に成った礼を述べ、又、別れを告げようと思って、私は医局へ行った。その時、大きなテエブルを取囲いた学士達から手厚い弔辞を受けた。濃情な皆川医学士は、お房のために和歌を一首作ったと言って、壁に懸けてある黒板の方を指して見せた。猶、埋葬の日を知らせよなどと言ってくれた。
 看護婦や附添の女にも別れて、私はショウルに包んだお房の死体を抱きながら、車に乗った。他のものも車で後になり前になりして出掛けた。本郷から大久保まで乗る長い道の間、私達は皆な疲労が出て、車の上で居眠を仕続けて行った。
 お菊と違って、姉の方は友達が多かった。私達が大久保へ入った頃は、到る処に咲いている百日紅のかげなぞで、お房と同年位の短い着物を着た、よく一緒に遊んだ娘達にも逢った。ガッカリして私達は自分の家に帰った。
「貴方は男だから可う御座んすが、こちらの叔母さんが可哀そうです」
 弔いに来る人も、来る人も、皆な同じようなことを言ってくれた。留守を頼んで置いた甥はまた私の顔を眺めて、
「私も家のやつに子供でも有ったら、よくそんなことを考えますが、しかし叔父さんや叔母さんの苦むところを見ると、無い方が可いかとも思いますね」
 と言っていた。
 こうして復た私の家では葬式を出すことに成った。お房のためには、長光寺の墓地の都合で、二人の妹と僅か離れたところを択んだ。子供等の墓は間を置いて三つ並んだ。境内は樹木も多く、娘達のことを思出しに行くに好いような場処であった。葬式の後、家内は姪を連れてそこへ通うのをせめてもの心やりとした。
 子供の亡くなったことに就いて、私は方々から手紙を貰った。殊に同じ経験があると言って、長く長く書いて寄してくれた雑誌記者があった。君とは久しく往来も絶えて了ったが、その手紙を読んで、何故に君が今の住居の不便をも忍ぶか、ということを知った。君は子供の墓地に近く住むことを唯一の慰藉としている。
 不思議にも、私の足は娘達の墓の方へ向かなく成った。お繁の亡くなった頃は、私もよく行き行きして、墓畔の詩趣をさえ見つけたものだが、一人死に、二人死にするうちに、妙に私は墓参りが苦しく可懼しく成って来た。
「父さんは薄情だ――子供の墓へお参りもしないで」
 よく家のものはそれを言った。
 私も行く気が無いではなかった。幾度か長光寺の傍まで行きかけては見るが、何時でも止して戻って来た。何となく私は眩暈して、そこへ倒れそうな気がしてならなかった。
 寄ると触ると、私の家では娘達の話が出た。最早お繁の肉体は腐って了ったろうか、そんな話が出る度に、私は言うに言われぬ変な気がした。
 家内は姪をつかまえて、
「房ちゃんや菊ちゃんが二人とも達者で居る時分には、よく繁ちゃんのお墓へ連れてって桑の実を摘ってやりましたッけ。繁ちゃんの桑の実だからッて教えて置いたもんですから、行くと、繁ちゃん桑の実頂戴ッて断るんですよ。そうしちゃあ、二人で頂くんです……あのお墓の後方にある桑の樹は、背が高いでしょう。だもんですから、母さん摘って下さいッて言っちゃあ……」
 種夫に乳を呑ませながら、こんな話を私の傍でする。姪はまた姪で、お房やお菊のよく歌った「紫におう董の花よ」という唱歌を歌い出す。
「オイ、止してくれ、止してくれ」
 こう言って、私は子供の話が出ると、他の話にして了った。
 山から持って来た私の仕事が意外な反響を世間に伝える頃、私の家では最も惨澹たる日を送った。ある朝、私は新聞を懐にして、界隈へ散歩に出掛けた。丁度日曜附録の附く日で、ぶらぶらそれを読みながら歩いて行くと、中に麹町の方に居る友達の寄稿したものがあった。メレジコウスキイが『トルストイ論』の中からあの露西亜人の面白い話が引いてあった。それは、芽生を摘んだら、親木が余計成長するだろうと思って、芽生を摘み摘みするうちに、親木が枯れて来たという話で、酷く私は身にツマされた。ドシドシ新しい家屋の建って行く郊外の光景は私の眼前に展けていた。私は、何の為に、山から妻子を連れて、この新開地へ引移って来たか、と思って見た。つくづく私は、努力の為すなく、事業の空しきを感じた。
 眺め入りながら、
「芽生は枯れた、親木も一緒に枯れかかって来た……」
 こう私は思うように成った。
 その晩、私は急に旅行を思い立った。磯部の三景楼というは、碓氷川の水声を聞くことも出来て、信州に居る時分よく遊びに行った温泉宿だ。あそこは山の下だ、あそこまで行けば、山へ帰ったも同じようなものだ、と考えて、そこそこに旅の仕度を始めた。
「なんだか俺は気でも狂いそうに成って来た。一寸磯部まで行って来る」
 こう家のものに言った。翌朝早く私は新宿の停車場を発った。



底本:「旧主人・芽生」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年2月15日初版発行
   1970(昭和45)年2月15日2刷
入力:紅 邪鬼
校正:菅野朋子
2000年7月8日公開
2000年12月10日修正
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