青空文庫アーカイブ

夜明け前
第一部下
島崎藤村

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《》:ルビ
(例)王滝《おうたき》

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(例)本陣|問屋《といや》

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(例)※[#「くさかんむり/稾」、18-3]

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(例)そも/\
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     第八章

       一

「もう半蔵も王滝《おうたき》から帰りそうなものだぞ。」
 吉左衛門《きちざえもん》は隠居の身ながら、忰《せがれ》半蔵の留守を心配して、いつものように朝茶をすますとすぐ馬籠《まごめ》本陣の裏二階を降りた。彼の習慣として、ちょっとそこいらを見回りに行くにも質素な平袴《ひらばかま》ぐらいは着けた。それに下男の佐吉が手造りにした藁草履《わらぞうり》をはき、病後はとかく半身の回復もおそかったところから杖《つえ》を手放せなかった。
 そういう吉左衛門も、代を跡目《あとめ》相続の半蔵に譲り、庄屋《しょうや》本陣|問屋《といや》の三役を退いてから、半年の余になる。前の年、文久《ぶんきゅう》二年の夏から秋へかけては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて木曾路《きそじ》を通過した長州侯《ちょうしゅうこう》をこの宿場に迎えることもできなかったころだ。おりからの悪病流行で、あの大名ですら途中の諏訪《すわ》に三日も逗留《とうりゅう》を余儀なくせられたくらいのころだ。江戸表から、大坂[#「大坂」は底本では「大阪」]、京都は言うに及ばず、日本国じゅうにあの悪性の痲疹《はしか》が流行して、全快しても種々な病に変わり、諸方に死人のできたこともおびただしい数に上った。世間一統、年を祭り替えるようなことは気休めと言えば、気休めだが、そんなことでもして悪病の神を送るよりほかに災難の除《よ》けようもないと聞いては、年寄役の伏見屋金兵衛《ふしみやきんべえ》なぞが第一黙っているはずもなく、この宿でも八月のさかりに門松を立て、一年のうちに二度も正月を迎えて、世直しということをやった。吉左衛門としては、あれが長い駅長生活の最後の時だった。同じ八月の二十九日には彼は金兵衛と共に退役を仰せ付けられる日を迎えた。それぎり、ずっと引きこもりがちに暮らして来た彼だ。こんなに宿場の様子が案じられ、人のうわさも気にかかって、忰《せがれ》の留守に問屋場《といやば》の方まで見回ろうという心を起こしたのは、彼としてもめずらしいことであった。
 当時、将軍|家茂《いえもち》は京都の方へ行ったぎりいまだに還御《かんぎょ》のほども不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。種々《さまざま》な流言も伝わって来るころだ。吉左衛門の足はまず孫たちのいる本陣の母屋《もや》の方へ向いた。


「やあ、例幣使《れいへいし》さま。」
 母屋の囲炉裏《いろり》ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って子供に戯れている。おまん(吉左衛門の妻)も裏二階の方から来て、お民(半蔵の妻)と一緒になっている。家族のあるものはすでに早い朝の食事をすまし、あるものはまだ膳《ぜん》に向かっている。そこへ吉左衛門がはいって行った。
「いゝえ、正己《まさみ》は例幣使さまじゃありません。」とおまんが三番目の孫に言って見せる。
「おとなしくして御飯《おまんま》を食べるものは、例幣使さまじゃないで。」とまた佐吉が言う。囲炉裏ばたのすみのところに片足を折り曲げ、食事をするにも草鞋《わらじ》ばきのままでやるのがこの下男の癖だった。
「佐吉、おれは例幣使さまじゃないぞい。」
 と総領の宗太が言い出したので、囲炉裏ばたに集まっているものは皆笑った。
 吉左衛門の孫たちも大きくなった。お粂《くめ》は八歳、宗太は六歳、三番目の正己が三歳にもなる。どうして例幣使のことがこんなに幼いものの口にまで上るかと言うに、この街道筋ではおよそやかましいものの通り名のようになっていたからで。道中で人足《にんそく》をゆすったり、いたるところの旅館で金を絞ったり、あらゆる方法で沿道の人民を苦しめるのも、京都から毎年きまりで下って来るその日光例幣使の一行であった。百姓らが二百十日の大嵐《おおあらし》にもたとえて恐怖していたのも、またその勅使代理の一行であった。公卿《くげ》、大僧正《だいそうじょう》をはじめ、約五百人から成るそれらの一行が金《きん》の御幣を奉じてねり込んで来て、最近にこの馬籠の宿でも二十両からの祝儀金《しゅうぎきん》をねだって通り過ぎたのは、ちょうど半蔵が王滝の方へ行っている留守の時だった。
 吉左衛門は広い炉ばたから寛《くつろ》ぎの間《ま》の方へ行って見た。そこは半蔵が清助を相手に庄屋《しょうや》本陣の事務を見る部屋《へや》にあててある。
「万事は半蔵の量見一つでやるがいい――おれはもう一切、口を出すまいから。」
 これは吉左衛門が退役の当時に半蔵に残した言葉で、隠居してからもその心に変わりはなかった。今さら、彼は家のことに口を出すつもりは毛頭《もうとう》なかった。ただ、半蔵の仕事部屋を見回るだけに満足した。
 店座敷の方へも行って見た。以前の大火に枯れた老樹の跡へは、枝ぶりのおもしろい松の樹《き》が山から移し植えられ、白い大きな蕾《つぼみ》を持つ牡丹《ぼたん》がまた焼け跡から新しい芽を吹き出している。半蔵の好きなものだ。「松《まつ》が枝《え》」とは、その庭の植樹《うえき》から思いついて、半蔵が自分の歌稿の題としているくらいだ。しかしそれらの庭にあるものよりも、店座敷の床の間に積み重ねてある書物が吉左衛門の目についた。そこには本居《もとおり》派や平田派の古学に関したいろいろな本が置いてある。あの平田|篤胤《あつたね》と同郷で、その影響を受けたとも言われる佐藤信淵《さとうのぶひろ》が勧農に関する著述なぞも置いてある。
 吉左衛門はひとり言って見た。
「これだ。相変わらず半蔵はこういう方に凝っていると見えるなあ。」
 まだ朝のうちのことで、毎日手伝いに通《かよ》って来る清助も顔を見せない。吉左衛門はその足で母屋《もや》の入り口から表庭を通って、門の外に出て見た。早く馬籠を立つ上り下りの旅人以外には、街道を通る人もまだそれほど多くない。宿場の活動は道路を清潔にすることから始められるような時であった。
 将軍の上洛《じょうらく》以来、この街道を通行する諸大名諸公役なぞの警衛もにわかに厳重になった。その年の日光例幣使は高百五十石の公卿《くげ》であるが、八|挺《ちょう》の鉄砲を先に立て、二頭の騎馬に護《まも》られて、おりからの強雨の中を発《た》って行ったといううわさを残した。公儀より一頭、水戸藩《みとはん》より一頭のお付き添いだなどと評判はとりどりであったが、あとになってそれが尾州藩よりの警衛とわかった。皇室と徳川|霊廟《れいびょう》とを結びつけるはずの使者が、公武合体の役には立たないで、あべこべにそれをぶち壊《こわ》して歩くのもあの一行だった。さすがに憎まれ者の例幣使のことで、八挺の鉄砲と二頭の騎馬とで、その身を護《まも》ることを考えねばならなくなったのだ。
 毎月上半期を半蔵の家の方で、下半期を九太夫《くだゆう》方で交替に開く問屋場《といやば》は、ちょうどこちらの順番に当たっていた。吉左衛門の足はその方へ向いた。そこには書役《かきやく》という形で新たにはいった亀屋栄吉《かめやえいきち》が早く出勤していて、小使いの男と二人《ふたり》でそこいらを片づけている。栄吉は吉左衛門が実家を相続しているもので、吉左衛門の甥《おい》にあたり、半蔵とは従兄弟《いとこ》同志の間柄にあたる。問屋としての半蔵の仕事を手伝わせるために、わざわざ吉左衛門が見立てたのもこの栄吉だ。
「叔父《おじ》さん、早いじゃありませんか。」
「あゝ。もう半蔵も帰りそうなものだと思って、ちょっとそこいらを見回りに来たよ。だいぶ荷もたまってるようだね。」
「それですか。それは福島行きの荷です。けさはまだ峠の牛が降りて来ません。」
 栄吉は問屋場の御改《おあらた》め所《じょ》になっている小さい高台のところへ来て、その上に手を置き、吉左衛門はまたその前の羽目板《はめいた》に身を寄せ、蹴込《けこ》みのところに立ったままで、敷居の上と下とで言葉をかわしていた。吉左衛門のつもりでは、退職後の問屋の帳面にも一応は目を通し、半蔵の勤めぶりに安心の行くかどうかを確かめて、青山親子が職業に怠りのあるとは言われたくないためであった。でも、彼はすぐにそんなことを言い出しかねて、栄吉の方から言い出すいろいろな問屋場の近況に耳を傾けていた。
「大旦那《おおだんな》、店座敷(ここは宿役人の詰め所をさす)の方でお茶を一つお上がり。まだ役人衆はどなたも見えていませんから。」
 と小使いの男が言う。吉左衛門はそれをきッかけに、砂利《じゃり》で堅めた土間を通って、宿役人の詰め所の上がり端《はな》の方へ行って腰掛けた。そこは会所と呼んでいるところで、伏見屋、桝田屋《ますだや》、蓬莱屋《ほうらいや》、梅屋とこの四人の年寄役のほかに、今一軒の問屋|九郎兵衛《くろべえ》なぞが事あるごとに相談に集まる場所だ。吉左衛門はその上がり端のところに杖《つえ》を置いて、腰掛けたままで茶を飲んだ。それから甥《おい》の方へ声をかけた。
「栄吉、問屋場の帳面をここへ見せてくれないか。ちょっとおれは調べたいことがある。」
 その時、栄吉は助郷《すけごう》の人馬数を書き上げた|日〆帳《ひじめちょう》なぞをそこへ取り出して来た。吉左衛門も隠居の身で、駅路のことに口を出そうでもない。ただ彼はその大切な帳簿を繰って見て、半蔵の認《したた》め方に目を通すというだけに満足した。
「叔父《おじ》さん、街道の風儀も悪くなって来ましたね。」と栄吉は言って見せる。「なんでもこの節は力ずくで行こうとする。こないだも九太夫さんの家の方へ来て、人足の出し方がおそいと言って、問屋場であばれた侍がありましたぜ。ひどいやつもあるものですね。その侍は土足のままで、問屋場の台の上へ飛びあがりましたぜ。そこに九郎兵衛さんがいました。あの人も見ていられませんから、いきなりその侍を台の上から突き落としたそうです。さあ、怒《おこ》るまいことか、先方《さき》は刀に手を掛けるから、九郎兵衛さんがあの大きなからだでそこへ飛びおりて、斬《き》れるものなら斬って見るがいいと言ったそうですよ。ちょうど表には大名の駕籠《かご》が待っていました。大名は騒ぎを聞きつけて、ようやくその侍を取りしずめたそうですがね。どうして、この節は油断ができません。」
「そう言えば、十万石につき一人《ひとり》ずつとか、諸藩の武士が京都の方へ勤めるようになったと聞くが、真実《ほんとう》だろうか。」
「その話はわたしも聞きました。」
「参覲交代《さんきんこうたい》の御変革以来だよ。あの御変革は、どこまで及んで行くか見当がつかない。」
 こんな話をしたあとで、吉左衛門は思わず時を送ったというふうに腰を持ちあげた。問屋場からの出がけにも、彼は出入り口の障子の開いたところから板廂《いたびさし》のかげを通して、心深げに旧暦四月の街道の空をながめた。そして栄吉の方を顧みて言った。
「今まではお前、参覲交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中も変わった。」


 吉左衛門の心配は、半蔵が親友の二人《ふたり》までも京都の方へ飛び出して行ったことであった。あの中津川本陣の景蔵や、新問屋|和泉屋《いずみや》の香蔵のあとを追って、もし半蔵が家出をするような日を迎えたら。その懸念《けねん》から、年老いた吉左衛門は思い沈みながら、やがて自分の隠居所の方へ非常に静かに歩いて行った。彼がその裏二階に上るころには、おまんも母屋《もや》の方から夫《おっと》を見に来た。
「いや、朝のうちは問屋場も静かさ。栄吉が出勤しているだけで、まだ役人衆はだれも見えなかった。」
 吉左衛門はおまんの見ているところで袴《はかま》の紐《ひも》を解いて、先代の隠居半六の時代からある古い襖《ふすま》の前を歩き回った。先年の馬籠《まごめ》の大火にもその隠居所は焼け残って、筆者不明の大書をはりつけた襖の文字も吉左衛門には慰みの一つとなっている。
「もうそれでも半蔵も帰って来ていいころだぞ。」と彼は妻に言った。「この節は街道がごたごたして来て、栄吉も心配している。町ではいろいろなことを言う人があるようだね。」
「半蔵のことですか。」とおまんも夫の顔をながめる。
「あれは本陣の日記なぞを欠かさずつけているだろうか。」
「さあ。わたしもそれで気がついたことがありますよ。あれの日記が机の上にありましたから、あけるつもりもなくあけて見ました。あなたがよく本陣の日記をつけたように、半蔵も家を引き受けた当座は、だれが福島から来て泊まったとか、お材木方を湯舟沢へ御案内したとか、そういうことが細かくつけてありましたよ。だんだんあとの方になると、お天気のことしか書いてない日があります。晴。曇。晴。曇。そんな日の七日も八日も続いたところがありましたっけ。」
「それだ。無器用に生まれついて来たのは性分《しょうぶん》でしかたがないとしても、もうすこしあれには経済の才をくれたい。」
 茶のみ友だちともいうべき夫婦は、古風な煙草盆《たばこぼん》を間に置いて、いろいろと子の前途を心配し出した。その時、おまんは長い羅宇《らお》の煙管《きせる》で一服吸いつけて、
「こないだからわたしも言おう言おうと思っていましたが、半蔵のうわさを聞いて見ると残念でなりません。あの金兵衛さんなぞですら、馬籠の本陣や問屋が半蔵に勤まるかッて、そう思って見ているようですよ。」
「そりゃ、お前、それくらいのことはおれだって考える。だから清助さんというものを入れ、栄吉にも来てもらって、清助さんには庄屋と本陣、栄吉には問屋の仕事を手伝わせるようにしたさ。あの二人がついてるもの、これが普通の時世なら、半蔵にだって勤まらんことはない。」
「えゝ、そりゃそうです――土台ができているんですから。」
「あのお友だちを見てもわかる。中津川の本陣の子息《むすこ》に、新問屋の和泉屋の子息――二人とも本陣や問屋の仕事をおッぽりだして行ってしまった。」
「あれで半蔵も、よっぽど努めてはいるようです。わたしにはそれがよくわかる。なにしろ、あなた、お友だちが二人とも京都の方でしょう。半蔵もたまらなくなったら、いつ家を飛び出して行くかしれません。」
「そこだて。金兵衛さんなぞに言わせると、おれが半蔵に学問を勧めたのが大失策《おおしくじり》だ、学問は実に恐ろしいものだッて、そう言うんさ。でも、おれは自分で自分の学問の足りないことをよく知ってるからね。せめて半蔵には学ばせたい、青山の家から学問のある庄屋を一人出すのは悪くない、その考えでやらせて見た。いつのまにかあれは平田先生に心を寄せてしまった。そりゃ何も試みだ。あれが平田入門を言い出した時にも、おれは止めはしなかった。学問で身代をつぶそうと、その人その人の持って生まれて来るようなもので、こいつばかりはどうすることもできない。おれに言わせると、人間の仕事は一代限りのもので、親の経験を子にくれたいと言ったところで、だれもそれをもらったものがない。おれも街道のことには骨を折って見たが、半蔵は半蔵で、また新規まき直しだ。考えて見ると、あれも気の毒なほどむずかしい時に生まれ合わせて来たものさね。」
「まあ、そう心配してもきりがありません。清助さんでも呼んで、よく相談してごらんなすったら。」
「そうしようか。京都の方へでも飛び出して行くことだけは、半蔵にも思いとどまってもらうんだね。今は家なぞを顧みているような、そんな時じゃないなんて、あれのお友だちは言うかもしれないがね。」
 裏二階の下を通る人の足音がした。おまんはそれを聞きつけて障子の外に出て見た。
「佐吉か。隠居所でお茶がはいりますから、清助さんにお話に来てくださるようにッて、そう言っておくれよ。」


 清助を待つ間、吉左衛門はすこし横になった。わずかの時を見つけても、からだを横にして休み休みするのが病後の彼の癖のようになっている。
「枕《まくら》。」
 とおまんが気をきかして古風な昼寝用の箱枕を夫に勧める間もなく、清助は木曾風な軽袗《かるさん》をはいて梯子段《はしごだん》を上って来た。本陣大事と勤め顔な清助を見ると、吉左衛門はむっくり起き直って、また半蔵のうわさをはじめるほど元気づいた。
「清助さん、今|旦那《だんな》と二人で半蔵のことを話していたところですよ。旦那も心配しておいでですからね。」とおまんが言う。
「その事ですか。大旦那の御用と言えば、将棋のお相手ときまってるのに、それにしては時刻が早過ぎるが、と思ってやって来ましたよ。」
 清助は快活に笑って、青々と剃《そ》っている毛深い腮《あご》の辺をなでた。二間続いた隠居所の二階で、おまんが茶の用意なぞをする間に、吉左衛門はこう切り出した。
「まあ、清助さん、その座蒲団《ざぶとん》でもお敷き。」
「いや、はや、どうも理屈屋がそろっていて、どこの宿場も同じことでしょうが苦情が絶えませんよ。大旦那のように黙って見ていてくださるといいけれども、金兵衛さんなぞは世話を焼いてえらい。」
「あれで、半蔵のやり方が間違ってるとでも言うのかな。」
「大旦那の前ですが、お師匠さまの家としてだれも御本陣に指をさすものはありません。そりゃこの村で読み書きのできるものはみんな半蔵さまのおかげですからね。宿場の問題となると、それがやかましい。たとえばですね、問屋場へお出入りの牛でも以前はもっとかわいがってくだすった、初めて参った牛なぞより荷物も早く出してくだすったし、駄賃《だちん》なぞも御贔屓《ごひいき》にあずかった、半蔵さまはもっとお出入りの牛をかわいがってくだすってもいい。そういうことを言うんです。」
「そいつは初耳だ。」
「それから、宿《しゅく》の伝馬役《てんまやく》と在の助郷《すけごう》とはわけが違う、半蔵さまはもっと宿の伝馬役をいばらせてくだすってもいい。そういうことを言うんです。ああいう半蔵さまの気性をよく承知していながら、そのいばりたい連中が何を話しているかと思って聞いて見ると――いったい、伊那《いな》から出て来る人足なぞにあんなに目をかけてやったところで、あの手合いはありがたいともなんとも思っていやしない。そりゃ中には宿場へ働きに来て泊まる晩にも、※[#「くさかんむり/稾」、18-3]遣《わらづか》いをするとか、読み書き算術を覚えるとか、そういう心がけのよいものがなくはない。しかし近ごろは助郷の風儀が一般に悪くなって、博打《ばくち》はうつ、問屋で払った駄賃《だちん》も何も飲んでしまって、村へ帰るとお定まりの愁訴だ――やれ人を牛馬のようにこき使うの、駄賃もろくに渡さないの、なんのッて、大げさなことばかり。半蔵さまはすこしもそれを御存じないんだ。そういうことを言うんです。大旦那の時分はよかったなんて、寄るとさわるとそんなうわさばかり……」
「待ってくれ。そう言われると、おれが宿場の世話をした時分には、なんだか依怙贔屓《えこひいき》でもしたように聞こえる。」
「大旦那、まあ、聞いてください。半蔵さまはよく参覲交代なぞはもう時世おくれだなんて言うでしょう。町のものに聞いて見ると、宿場がさびれて来たら、みんなどうして食えるかなんて、そういうことも言うんです。」
「そこだて。半蔵だって心配はしているんさ。この街道の盛衰にかかわることをだれだって、心配しないものがあるかよ。こう御公役の諸大名の往来が頻繁《ひんぱん》になって来ては、継立《つぎた》てに難渋するし、人馬も疲れるばかりだ。よいにも悪いにもこういう時世になって来た。だから、参覲交代のような儀式ばった御通行はそういつまで保存のできるものでもないというあれの意見なんだろう。妻籠《つまご》の寿平次《じゅへいじ》もその説らしい。ちょっと考えると、どの街道も同じことで、往還の交通が頻繁にあれば、それだけ宿場に金が落ちるわけだから、大きな御通行なぞは多いほどよさそうなものだが、そこが東海道あたりとわれわれの地方とすこし違うところさ。木曾のように人馬を多く徴発されるところじゃ、問屋場がやりきれない。事情を知らないものはそうは思うまいが、木曾十一宿の庄屋仲間が相談して、なるべく大きな御通行は東海道を通るようにッて、奉行所へ嘆願した例もあるよ。おれは昔者《むかしもの》だから、参覲交代を保存したい方なんだが、しかし半蔵や寿平次の意見にも一理屈あるとは思うね。」
「そういうこともありましょう。しかし、わたしに言わせると、九太夫《くだゆう》さんたちはどこまでも江戸を主にしていますし、半蔵さまはまた、京都を主にしています。九太夫さんたちと半蔵さまとは、てんで頭が違います。諸大名は京都の方へ朝参するのが本筋だ、そういうことは旧《ふる》い宿場のものは考えないんです。」
「だんだんお前の話を聞いて見ると、おれも思い当たることがある。つまり、おれの家じゃ問屋を商売とは考えていない。親代々の家柄で、町方のものも在の百姓もみんな自分の子のように思ってる。半蔵だって、本陣問屋を名誉職としか思っていまい。おれの家の歴史を考えて見てくれると、それがわかる。こういう山の上に発達した宿場というものは、百姓の気分と町人の気分とが混《まじ》り合っていて、なかなかどうして治めにくいところがあるよ。」
「だいぶお話に身が入るようですね。」
 と言いながら、おまんは軽く笑って、次ぎの間から茶道具を運んで来た。隠居所で沸かした湯加減のよい茶を夫にも清助にもすすめ、自分でも飲んで、話の仲間に加わった。
「なんでも、」とおまんは思い出したように、「神葬祭の一条で、半蔵が九太夫さんとやりやったことがあるそうじゃありませんか。あれから九太夫さんの家では、とかく半蔵の評判がよくないとか聞きましたよ。」
「そんなことはありません。」と清助は言った。「九太夫さんはどう思っているか知りませんが、九郎兵衛《くろべえ》さんにかぎって決してそんなことはありません。そりゃだれがなんと言ったって、お父《とっ》さんのためにお山へ参籠《さんろう》までして、御全快を祷《いの》りに行くようなことは、半蔵さまでなけりゃできないことです。」
「いえ、その点はおれも感心してるがね。なんと言うか、こう、まるで子供のようなところが半蔵にはあるよ。あれでもうすこし細かいところにも気がつくようだと、宿場の世話もよく届くかと思うんだが。」
「そりゃ、大旦那、街道へ日があたって来たからと言って、すぐに傘《からかさ》をひろげて出す金兵衛さんのような細かさは、半蔵さまにはありません。」
「金兵衛さんの言い草がいいじゃないか。半蔵に問屋場を預けて置くのは、米の値を知らない番人に米蔵を預けて置くようなものだとさ。あの人の言うことは鋭い。」
「まあ、栄吉さんも来てくれたものですし、そう大旦那のように御心配なすったものでもありません。見ていてください。半蔵さまだってなかなかやりますよ。」
「清助さん、」とその時、吉左衛門は相手の言うことをさえぎった。「この話はこのくらいにして、おれが一つ将棋のたとえを出すよ。お互いに好きな道だからね。一歩《ひとあし》ずつ進む駒《こま》もある。一足飛びに飛ぶ駒もある。ある駒は飛ぶことはできても一歩《ひとあし》ずつ進むことは知らない。ある駒はまた、一歩ずつ進むことはできても飛ぶことは知らない。この街道に生まれて来る人間だって、そのとおりさ。一気に飛ぶこともできれば、一歩ずつ進むこともできるような、そんな駒はめったに生まれて来るもんじゃないね。」
「そうすると、大旦那、あの金兵衛さんなぞは、さしずめどういう駒でしょう。」
「将棋で言えば、成った駒だね。人間もあそこまで行けば、まあ、成《な》り金《きん》と言ってよかろうね。」
「金兵衛さんだから、成り金ですか。大旦那の洒落《しゃれ》が出ましたね。」
 聞いているおまんも笑い出した。そして二人の話を引き取って、「今ごろは半蔵も、どこかでくしゃみばかりしていましょうよ。将棋のことはわたしにはわかりませんが、半蔵にしても、お民にしても、あの夫婦はまだ若い。若い者のよいところは、先の見えないということだ、この節わたしはつくづくそう思って来ましたよ。」
「それだけおまんも年を取った証拠だ。」と吉左衛門が笑う。
「そうかもしれませんね。」と言ったあとで、おまんは調子を変えて、「あなた、一番肝心なことをあと回しにして、まだ清助さんに話さないじゃありませんか。ほら、あの半蔵のことだから、お友だちのあとを追って、京都の方へでも行きかねない。もしそんな様子が見えたら、清助さんにもよく気をつけていてもらうようにッて、さっきからそう言って心配しておいでじゃありませんか。」
「それさ。」と吉左衛門も言った。「おれも今、それを言い出そうと思っていたところさ。」
 清助はうなずいた。

       二

 半蔵は勝重《かつしげ》を連れて、留守中のことを案じながら王滝《おうたき》から急いで来た。御嶽山麓《おんたけさんろく》の禰宜《ねぎ》の家から彼がもらい受けて来た里宮|参籠《さんろう》記念のお札、それから神饌《しんせん》の白米なぞは父吉左衛門をよろこばせた。
 留守中に届いた友人香蔵からの手紙が、寛《くつろ》ぎの間《ま》の机の上に半蔵を待っていた。それこそ彼が心にかかっていたもので、何よりもまず封を切って読もうとした京都|便《だよ》りだ。はたして彼が想像したように、洛中《らくちゅう》の風物の薄暗い空気に包まれていたことは、あの友だちが中津川から思って行ったようなものではないらしい。半蔵はいろいろなことを知った。友だちが世話になったと書いてよこした京都|麩屋町《ふやまち》の染め物屋|伊勢久《いせきゅう》とは、先輩|暮田正香《くれたまさか》の口からも出た平田門人の一人《ひとり》で、義気のある商人のことだということを知った。友だちが京都へはいると間もなく深い関係を結んだという神祇職《じんぎしょく》の白川資訓卿《しらかわすけくにきょう》とは、これまで多くの志士が縉紳《しんしん》への遊説《ゆうぜい》の縁故をなした人で、その関係から長州藩、肥後藩、島原藩なぞの少壮な志士たちとも友だちが往来を始めることを知った。そればかりではない、あの足利《あしかが》将軍らの木像の首を三条河原《さんじょうがわら》に晒《さら》したという示威事件に関係して縛に就《つ》いた先輩|師岡正胤《もろおかまさたね》をはじめ、その他の平田同門の人たちはわずかに厳刑をまぬかれたというにとどまり、いずれも六年の幽囚を申し渡され、正香その人はすでに上田藩の方へお預けの身となっていることを知った。ことにその捕縛の当時正胤の二条|衣《ころも》の棚《たな》の家で、抵抗と格闘のあまりその場に斬殺《ざんさつ》せられた二人の犠牲者を平田門人の中から出したということが、実際に京都の土を踏んで見た友だちの香蔵に強い衝動を与えたことを知った。
 本陣の店座敷にはだれも人がいなかった。半蔵はその明るい障子のところへ香蔵からの京都便りを持って行って、そこで繰り返し読んで見た。


「あなた、景蔵さんからお手紙ですよ。」
 お民が半蔵に手紙を渡しに来た。京都便りはあっちからもこっちからも半蔵のところへ届いた。
「お民、この手紙はだれが持って来たい。」
「中津川の万屋《よろずや》から届けて来たんですよ。安兵衛《やすべえ》さんが京都の方へ商法《あきない》の用で行った時に、これを預かって来たそうですよ。」
 その時お民は、御嶽参籠後の半蔵がそれほど疲れたらしい様子もないのに驚いたというふうで、夫の顔をながめた。「本陣鼻」と言われるほど大きく肉厚《にくあつ》な鼻の先へしわを寄せて笑うところから、静かな口もとまで、だんだん父親の吉左衛門に似て来るような夫の容貌《ようぼう》をながめて置いて、何やらいそがしげにそのそばを離れて行くのも彼女だ。
「お師匠さま、おくたぶれでしょう。」
 と言って、勝重もそこへ半蔵の顔を見に来た。
「わたしはそれほどでもない。君は。」
「平気ですよ。往《ゆ》きを思うと、帰りは実に楽でした。わたしもこれから田楽《でんがく》を焼くお手伝いです。お師匠さまに食べさせたいッて、今|囲炉裏《いろり》ばたでみんなが大騒ぎしているところです。」
「もう山椒《さんしょ》の芽が摘めるかねえ。王滝じゃまだ梅だったがねえ。」
 勝重もそばを離れて行った。半蔵はお民の持って来た手紙を開いて見た。
 もはやしばらく京都の方に滞在して国事に奔走し平田派の宣伝に努めている友人の景蔵は、半蔵から見れば兄のような人だった。割合に年齢《とし》の近い香蔵に比べると、この人から受け取る手紙は文句からして落ち着いている。その便《たよ》りには、香蔵を京都に迎えたよろこびが述べてあり、かねてうわさのあった石清水行幸《いわしみずぎょうこう》の日のことがその中に報じてある。
 景蔵の手紙はなかなかこまかい。それによると、今度の行幸については種々《さまざま》な風説が起こったとある。国事寄人《こくじよりうど》として活動していた侍従中山|忠光《ただみつ》は官位を朝廷に返上し、長州に脱走して毛利真斎《もうりしんさい》と称し、志士を糾合《きゅうごう》して鳳輦《ほうれん》を途中に奪い奉る計画があるというような、そんな風説も伝わったとある。その流言に対して会津《あいづ》方からでも出たものか、八幡《はちまん》の行幸に不吉な事のあるやも測りがたいとは実に苦々《にがにが》しいことだが、万一それが事実であったら、武士はもちろん、町人百姓までこの行幸のために尽力守衛せよというような張り紙を三条大橋の擬宝珠《ぎぼし》に張りつけたものがあって、役所の門前で早速《さっそく》その張り紙は焼き捨てられたという。石清水《いわしみず》は京都の町中からおよそ三里ほどの遠さにある。帝《みかど》にも当日は御気分が進まれなかったが、周囲にある公卿《くげ》たちをはじめ、長州侯らの懇望に励まされ、かつはこの国の前途に深く心を悩まされるところから、御祈願のため洛外《らくがい》に鳳輦《ほうれん》を進められたという。将軍は病気、京都守護職の松平容保《まつだいらかたもり》も忌服《きぶく》とあって、名代《みょうだい》の横山|常徳《つねのり》が当日の供奉《ぐぶ》警衛に当たった。景蔵に言わせると、当時、鱗形屋《うろこがたや》の定飛脚《じょうびきゃく》から出たものとして諸方に伝わった聞書《ききがき》なるものは必ずしも当日の真相を伝えてはない。その聞書には、
「四月十一日。石清水行幸の節、将軍家御病気。一橋《ひとつばし》様御名代のところ、攘夷《じょうい》の節刀を賜わる段にてお遁《に》げ。」
 とある。この「お遁《に》げ」はいささか誇張された報道らしい。景蔵はやはり、一橋公の急病か何かのためと解したいと言ってある。いずれにしても、当日は必ず何か起こる。その出来事を待ち受けるような不安が、関東方にあったばかりでなく、京都方にあったと景蔵は書いている。この石清水行幸は帝としても京都の町を離れる最初の時で、それまで大山大川なぞも親しくは叡覧《えいらん》のなかったのに、初めて淀川《よどがわ》の滔々《とうとう》と流るるのを御覧になって、さまざまのことを思《おぼ》し召され、外夷《がいい》親征なぞの御艱難《ごかんなん》はいうまでもなく、国家のために軽々しく龍体《りゅうたい》を危うくされ給《たも》うまいと慮《おもんぱか》らせられたとか。帝には還幸の節、いろいろな御心づかいに疲れて、紫宸殿《ししんでん》の御車寄せのところで水を召し上がったという話までが、景蔵からの便りにはこまごまと認《したた》めてある。
 聞き伝えにしてもこの年上の友だちが書いてよこすことはくわしかった。景蔵には飯田《いいだ》の在から京都に出ている松尾|多勢子《たせこ》(平田|鉄胤《かねたね》門人)のような近い親戚《しんせき》の人があって、この婦人は和歌の道をもって宮中に近づき、女官たちにも近づきがあったから、その辺から出た消息かと半蔵には想《おも》い当たる。いずれにしても、その手紙は半蔵にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際にいかなるものであるかを半蔵に伝えたいと言って、石清水行幸後に三条の橋詰《はしづ》めに張りつけられたという評判な張り紙の写しまでも書いてよこした。
[#地から7字上げ]徳川家茂
[#ここから1字下げ]
「右は、先ごろ上洛《じょうらく》後、天朝より仰せ下されたる御趣意のほどもこれあり候《そうろう》ところ、表には勅命尊奉の姿にて、始終|虚喝《きょかつ》を事とし、言を左右によせて万端因循にうち過ぎ、外夷《がいい》拒絶談判の期限等にいたるまで叡聞《えいぶん》を欺きたてまつる。あまつさえ帰府の儀を願い出《い》づるさえあるに、石清水行幸の節はにわかに虚病《けびょう》を構え、一橋中納言《ひとつばしちゅうなごん》においてもその場を出奔いたし、至尊をあなどり奉りたるごとき、その他、板倉周防守《いたくらすおうのかみ》、岡部駿河守《おかべするがのかみ》らをはじめ奸吏《かんり》ども数多くこれありて、井伊掃部頭《いいかもんのかみ》、安藤対馬守《あんどうつしまのかみ》らの遺志をつぎ、賄賂《わいろ》をもって種々|奸謀《かんぼう》を行ない、実《じつ》もって言語道断、不届きの至りなり。右は、天下こぞって誅戮《ちゅうりく》を加うべきはずに候えども、大樹《たいじゅ》(家茂)においてはいまだ若年《じゃくねん》の儀にて、諸事奸吏どもの腹中より出《い》で候おもむき相聞こえ、格別寛大の沙汰《さた》をもって、しばらく宥恕《ゆうじょ》いたし候につき、速《すみや》かに姦徒《かんと》の罪状を糺明《きゅうめい》し、厳刑を加うべし。もし遅緩に及び候わば旬日を出《い》でずして、ことごとく天誅《てんちゅう》を加うべきものなり。」
  亥《い》四月十七日[#地から2字上げ]天下義士
[#ここで字下げ終わり]
 この驚くべき張り紙――おそらく決死の覚悟をもって書かれたようなこの張り紙の発見されたことは、将軍家をして攘夷期限の公布を決意せしめるほどの力があったということを景蔵は書いてよこした。イギリスとの戦争は避けられないかもしれないとある。自分はもとより対外硬の意見で、時局がここまで切迫して来ては攘夷の実行もやむを得まいと信ずる、攘夷はもはや理屈ではない、しかし今の京都には天下の義士とか、皇大国の忠士とか、自ら忠臣義士と称する人たちの多いにはうんざりする、ともある。景蔵はその手紙の末に、自分もしばらく京都に暮らして見て、かえって京都のことが言えなくなったとも書き添えてある。
 日ごろ、へりくだった心の持ち主で、付和雷同なぞをいさぎよしとしない景蔵ですらこれだ。この京都便りを読んだ半蔵にはいろいろなことが想像された。同じ革新潮流の渦《うず》の中にあるとは言っても、そこには幾多の不純なもののあることが想像された。その不純を容《い》れながらも、尊王の旗を高くかかげて進んで行こうとしているらしい友だちの姿が半蔵の目に浮かぶ。
「どうだ、青山君。今の時は、一人《ひとり》でも多く勤王の味方を求めている。君も家を離れて来る気はないか。」
 この友だちの声を半蔵は耳の底に聞きつける思いをした。


 京都から出た定飛脚《じょうびきゃく》の聞書《ききがき》として、来たる五月の十日を期する攘夷の布告がいよいよ家茂の名で公《おおやけ》にされたことが、この街道筋まで伝えられたのは、それから間もなくであった。
 こういう中で、いろいろな用事が半蔵の身辺に集まって来た。参覲交代制度の変革に伴い定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願に関する件がその一つであった。これは宿々《しゅくじゅく》二十五人、二十五|疋《ひき》の常備御伝馬以外に、人馬を補充し、継立《つぎた》てを応援する定員の公役を設けることであって、この方法によると常備人馬でも応じきれない時に定助郷の応援を求め、定助郷が出てもまだ足りないような大通行の場合にかぎり加助郷《かすけごう》の応援を求めるのであるが、これまで木曾地方の街道筋にはその組織も充分にそなわっていなかった。それには木曾十一宿のうち、上《かみ》四宿、中《なか》三宿、下《しも》四宿から都合四、五人の総代を立て、御変革以来の地方の事情を江戸にある道中奉行所につぶさに上申し、東海道方面の例にならって、これはどうしても助郷の組織を改良すべき時機であることを陳述し、それには定助郷を勤むるものに限り高掛《たかかか》り物《もの》(金納、米納、その他労役をもってする一種の戸数割)の免除を願い、そして課役に応ずる百姓の立場をはっきりさせ、同時に街道の混乱を防ぎ止めねばならぬ、そのことに十一宿の意見が一致したのであった。もしこの定助郷設置の嘆願が道中奉行に容《い》れられなかったら、お定めの二十五人、二十五|疋《ひき》以外には継立《つぎた》てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたいとの申し合わせもしてあった。馬籠の宿では年寄役|蓬莱屋《ほうらいや》の新七がその総代の一人に選ばれた。吉左衛門、金兵衛はすでに隠居し、九太夫も退き、伏見屋では伊之助、問屋では九郎兵衛、その他の宿役人を数えて見ても年寄役の桝田屋小左衛門《ますだやこざえもん》は父儀助に代わり、同役梅屋五助は父|与次衛門《よじえもん》に代わって、もはや古株《ふるかぶ》で現役に踏みとどまっているものは蓬莱屋新七一人しか残っていなかったのである。新七は江戸表をさして出発するばかりに、そのしたくをととのえて、それから半蔵のところへ庄屋としての調印を求めに来た。
 五月の七日を迎えるころには、馬籠の会所に集まる宿役人らはさしあたりこの定助郷の設けのない不自由さを互いに語り合った。なぜかなら、にわかな触《ふ》れ書《しょ》の到来で、江戸守備の任にある尾州藩の当主が京都をさして木曾路を通過することを知ったからで。
「なんのための御上京か。」
 と半蔵は考えて、来たる十三日のころにはこの宿場に迎えねばならない大きな通行の意味を切迫した時局に結びつけて見た。その月の八日はかねて幕府が問題の生麦《なまむぎ》事件でイギリス側に確答を約束したと言われる期日であり、十日は京都を初め列藩に前もって布告した攘夷の期日である。京都の友だちからも書いて来たように、イギリスとの衝突も避けがたいかに見えて来た。
「半蔵さん、村方へはどうしましょう。」
 と従兄弟《いとこ》の栄吉が問屋場から半蔵を探《さが》しに来た。
「尾張《おわり》領分の村々からは、人足が二千人も出て、福島詰め野尻《のじり》詰めで殿様を迎えに来ると言いますから、継立《つぎた》てにはそう困りますまいが。」とまた栄吉が言い添える。
「まあ、村じゅう総がかりでやるんだね。」と半蔵は答えた。
「御通行前に、田圃《たんぼ》の仕事を片づけろッて、百姓一同に言い渡しましょうか。」
「そうしてください。」
 そこへ清助も来て一緒になった。清助はこの宿場に木曾の大領主を迎える日取りを数えて見て、
「十三日と言えば、もうあと六日しかありませんぞ。」
 村では、飼蚕《かいこ》の取り込みの中で菖蒲《しょうぶ》の節句を迎え、一年に一度の粽《ちまき》なぞを祝ったばかりのころであった。やがて組頭《くみがしら》庄助《しょうすけ》をはじめ、五人組の重立ったものがそれぞれ手分けをして、来たる十三日のことを触れるために近い谷の方へも、山間《やまあい》に部落のある方へも飛んで行った。ちょうど田植えも始まっているころだ。大領主の通行と聞いては、男も女も田圃《たんぼ》に出て、いずれも植え付けを急ごうとした。


 木曾地方の人民が待ち受けている尾州藩の当主は名を茂徳《もちのり》という。六十一万九千五百石を領するこの大名は御隠居(慶勝《よしかつ》)の世嗣《よつぎ》にあたる。木曾福島の代官山村氏がこの人の配下にあるばかりでなく、木曾谷一帯の大森林もまたこの人の保護の下にある。
 当時、将軍は上洛《じょうらく》中で、後見職|一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》をはじめ、会津藩主松平|容保《かたもり》なぞはいずれも西にあり、江戸の留守役を引き受けるものがなければならなかった。例の約束の期日までに、もし満足な答えが得られないなら、艦隊の威力によっても目的を達するに必要な行動を取るであろうというような英国水師提督を横浜の方へ控えている時で、この留守役はかなり重い。尾州藩主は水戸慶篤《みとよしあつ》と共にその守備に当たっていたのだ。
 しかし、尾州藩の位置を知るには、ただそれだけでは足りない。当時の京都には越前《えちぜん》も手を引き、薩摩《さつま》も沈黙し、ただ長州の活動に任せてあったようであるが、その実、幾多の勢力の錯綜《さくそう》していたことを忘れてはならない。その中にあって、京都の守護をもって任じ、帝の御親任も厚かった会津が、次第に長州と相対峙《あいたいじ》する形勢にあったことを忘れてはならない。たとい王室尊崇の念において両者共にかわりはなくとも、早く幕府に見切りをつけたものと、幕府から頼まるるものとでは、接近する堂上の公卿《くげ》たちを異《こと》にし、支持する勢力を異にし、地方的な気質と見解とをも異にしていた。あらゆる点で両極端にあったようなこの東西両藩の間にはさまれていたものが尾州藩だ。もとより尾州に人がなくもない。成瀬正肥《なるせまさみつ》のような重臣があって、将軍上洛以前から勅命を奉じて京都の方に滞在する御隠居を助けていた。伊勢《いせ》、熱田《あつた》の両神宮、ならびに摂津海岸の警衛を厳重にして、万一の防禦《ぼうぎょ》に備えたのも、尾州藩の奔走周旋による。尾州の御隠居は京都にあって中国の大藩を代表していたと見ていい。
 不幸にも御隠居と藩主との意見の隔たりは、あだかも京都と江戸との隔たりであった。御隠居の重く用いる成瀬正肥が京都で年々米二千俵を賞せられたようなこと、また勤王家として知られた田宮如雲《たみやじょうん》以下の人たちが多く賞賜せられたようなことは、藩主たる茂徳《もちのり》のあずかり知らないくらいであった。もともと御隠居は安政大獄の当時、井伊大老に反対して幽閉せられた閲歴を持つ人で、『神祇宝典《じんぎほうてん》』や『類聚日本紀《るいじゅうにほんぎ》』なぞを選んだ源敬公の遺志をつぎ、つとに尊王の志を抱《いだ》いたのであった。徳川御三家の一つではありながら、必ずしも幕府の外交に追随する人ではなかった。この御隠居側に対外硬を主張する人たちがあれば、藩主側には攘夷を非とする人たちがあった。尾州に名高い金鉄組とは、法外なイギリスの要求を拒絶せよと唱えた硬派の一団である。江戸の留守役をあずかり外交当局者の位置に立たせられた藩主側は、この意見に絶対に反対した。もし無謀の戦《いくさ》を開くにおいては、徳川家の盛衰浮沈にかかわるばかりでない、万一にもこの国の誇りを傷つけられたら世界万国に対して汚名を流さねばならない、天下万民の永世のことをも考えよと主張したのである。
 外人殺傷の代償も大きかった。とうとう、尾州藩主は老中格の小笠原図書頭《おがさわらずしょのかみ》が意見をいれ、同じ留守役の水戸|慶篤《よしあつ》とも謀《はか》って、財政困難な幕府としては血の出るような十万ポンドの償金をイギリス政府に払ってしまった。五月の三日には藩主はこの事を報告するために江戸を出発し、京都までの道中二十日の予定で、板橋方面から木曾街道に上った。一行が木曾路の東ざかい桜沢に達すると、そこはもう藩主の領地の入り口である。時節がら、厳重な警戒で、護衛の武士、足軽《あしがる》、仲間《ちゅうげん》から小道具なぞの供の衆まで入れると二千人からの同勢がその領地を通って、かねて触れ書の回してある十三日には馬籠の宿はずれに着いた。
 おりよく雨のあがった日であった。駅長としての半蔵は、父の時代と同じように、伊之助、九郎兵衛、小左衛門、五助などの宿役人を従え、いずれも定紋《じょうもん》付きの麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《あさがみしも》で、この一行を出迎えた。道路の入り口にはすでに盛り砂が用意され、竹籠《たけかご》に厚紙を張った消防用の水桶《みずおけ》は本陣の門前に据《す》え置かれ、玄関のところには二張《ふたはり》の幕も張り回された。坂になった馬籠の町は金の葵《あおい》の紋のついた挾箱《はさみばこ》、長い柄《え》の日傘《ひがさ》、鉄砲、箪笥《たんす》、長持《ながもち》、その他の諸道具で時ならぬ光景を呈した。鉾《ほこ》の先を飾る大鳥毛の黒、三間鎗《さんげんやり》の大刀打《たちうち》に光る金なぞはことに大藩の威厳を見せ、黒の絹羽織《きぬばおり》を着た小人衆《こびとしゅう》はその間を往《い》ったり来たりした。普通御通行のお定めと言えば、二十万石以上の藩主は馬十五|疋《ひき》ないし二十疋、人足百二、三十人、仲間二百五十人ないし三百人とされていたが、尾張領分の村々から藩主を迎えに来た人足だけでも二千人からの人数がこの宿場にあふれた。
 東山道にある木曾十一宿の位置は、江戸と京都のおよそ中央のところにあたる。くわしく言えば、鳥居峠《とりいとうげ》あたりをその実際の中央にして、それから十五里あまり西寄りのところに馬籠の宿があるが、大体に十一宿を引きくるめて中央の位置と見ていい。ただ関東平野の方角へ出るには、鳥居、塩尻《しおじり》、和田、碓氷《うすい》の四つの峠を越えねばならないのに引きかえ、美濃《みの》方面の平野は馬籠の西の宿はずれから目の下にひらけているの相違だ。言うまでもなく、江戸で聞くより数日も早い京都の便《たよ》りが馬籠に届き、江戸の便りはまた京都にあるより数日も先に馬籠にいて知ることができる。一行の中の用人らがこの峠の上の位置まで来て、しきりに西の方の様子を聞きたがるのに不思議はなかった。
 その日の藩主は中津川泊まりで、午後の八つ時ごろにはお小休みだけで馬籠を通過した。
「下に。下に。」
 西へと動いて行く杖払《つえはら》いの声だ。その声は、石屋の坂あたりから荒町《あらまち》の方へと高く響けて行った。路傍《みちばた》に群れ集まる物見高い男や女はいずれも大領主を見送ろうとして、土の上にひざまずいていた。
 半蔵も目の回るようないそがしい時を送った。西の宿はずれに藩主の一行を見送って置いて、群衆の間を通りぬけながら、また自分の家へと引き返して来た。その時、御跡改《おあとあらた》めの徒士目付《かちめつけ》の口からもれた言葉で、半蔵は尾州藩主が江戸から上って来た今度の旅の意味を知った。
 徒士目付は藩主がお小休みの礼を述べ、不時の人馬賃銭を払い、何も不都合の筋はなかったかなぞと尋ねた上で立ち去った。半蔵は跡片づけにごたごたする家のなかのさまをながめながら、しばらくそこに立ち尽くした。藩主|入洛《じゅらく》の報知《しらせ》が京都へ伝わる日のことを想《おも》って見た。藩主が名古屋まで到着する日にすら、強い反対派の議論が一藩の内に沸きあがりそうに思えた。まして熾《さか》んな敵愾心《てきがいしん》で燃えているような京都の空気の中へ、御隠居の同意を得ることすら危ぶまれるほどの京都へ、はたして藩主が飛び込んで行かれるか、どうかは、それすら実に疑問であった。
 やかましい問題の償金はすでにイギリスへ払われたのだ。そのことを告げ知らせるために、半蔵はだれよりも先に父の吉左衛門を探《さが》した。こういう時のきまりで、出入りの百姓は男も女も手伝いとして本陣に集まって来ている。半蔵はその間を分けて、お民を見つけるときき、清助をつかまえるときいた。
「お父《とっ》さんは?」
 馬籠の本陣親子が尾州家との縁故も深い。ことに吉左衛門はその庄屋時代に、財政困難な尾州藩の仕法立てに多年尽力したかどで、三回にもわたって、一度は一代|苗字《みょうじ》帯刀、一度は永代苗字帯刀、一度は藩主に謁見《えっけん》の資格を許すとの書付を贈られていたくらいだ。そんな縁故から、吉左衛門は隠居の身ながら麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《あさがみしも》を着用し、旅にある藩主を自宅に迎えたのである。半蔵が本陣の奥の部屋《へや》にこの父を見つけた時は、吉左衛門はまだ麻の袴《はかま》を着けたままでいた。
「やれ、やれ、戦争も始まらずに済むか。」
 父は半蔵から徒士目付《かちめつけ》の残した話の様子を聞いたあとで言った。
「しかし、お父《とっ》さん、これが京都へ知れたらどういうことになりましょう。なぜ、そんな償金を払ったかなんて、そういう声が必ず起こって来ましょうよ。」

       三

「あなた、羽織の襟《えり》が折れていませんよ。こんな日には、髪結いでも呼んで、さっぱりとなすったら。」
「まあいい。」
「さっき、三浦屋の使いが来て、江戸のじょうるり語りが家内六人|連《づ》れで泊まっていますから、本陣の旦那《だんな》にもお出かけくださいッて、そう言って行きましたよ。旅の芸人のようじゃない、まあきいてごらんなさればわかる、今夜は太平記《たいへいき》ですなんて、そんなことをしきりと言っていましたよ。」
「まあ、おれはいい。」
「きょうはどうなすったか。」
「どうも心が動いてしかたがない。囲炉裏《いろり》ばたへ来て、今すわって見たところだ。」
 半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。
 尾州藩主を見送ってから九日も降り続いた雨がまだあがらなかった。藩主が通行前に植え付けの済んだ村の青田の方では蛙《かわず》の声を聞くころだ。天保《てんぽう》二年の五月に生まれて、生みの母の覚えもない半蔵には、ことさら五月雨《さみだれ》のふるころの季節の感じが深い。
「お民、おれのお母《っか》さんが亡《な》くなってから、三十三年になるよ。」
 と彼は妻に言って見せた。さびしい雨の音をきいていると、過去の青年時代を繞《めぐ》りに繞ったような名のつけようのない憂鬱《ゆううつ》がまた彼に帰って来る。
 お民はすこし青ざめている夫の顔をながめながら言った。
「あなたはため息ばかりついてるじゃありませんか。」
「どうしておれはこういう家に生まれて来たかと考えるからさ。」
 お民が奥の部屋《へや》の方へ子供を見に行ったあとでも、半蔵は囲炉裏ばたを離れなかった。彼はひとり周囲を見回した。遠い先祖から伝えられた家業を手がけて見ると、父吉左衛門にしても、祖父半六にしても、よくこのわずらわしい仕事を処理して来たと彼には思わるるほどだ。本陣とは何をしなければならないところか。これは屋敷の構造が何よりもよくその本来の成り立ちを語っている。公用兼軍用の旅舎と言ってしまえばそれまでだが、ここには諸大名の乗り物をかつぎ入れる広い玄関がなければならない。長い鎗《やり》を掛けるところがなければならない。馬をつなぐ厩《うまや》がなければならない。消防用の水桶《みずおけ》、夜間警備の高張《たかはり》の用意がなければならない。いざと言えば裏口へ抜けられる厳重な後方の設備もなければならない。本陣という言葉が示しているように、これは古い陣屋の意匠である。二百何十年の泰平の夢は、多くの武家を変え、その周囲を変えたけれども、しかしそれらの人たちを待つ設備と形式とは昔のままこうした屋敷に残っている。食器から寝道具までを携帯する大名の旅は、おそらく戦時を忘れまいとする往昔《むかし》の武人が行軍の習慣の保存されたもので、それらの一行がこの宿場に到着するごとに、本陣の玄関のところには必ず陣中のような幕が張り回される。大名以外には、公卿《くげ》、公役、それに武士のみがここへ来て宿泊し、休息することを許されているのだ。こんな人たちのために屋敷を用意し、部屋部屋を貸し与えるのが本陣としての青山の家業で、それには相応な心づかいがいる。前もって宿割《しゅくわり》の役人を迎え、御宿札《おやどふだ》というもののほかに関所を通過する送り荷の御鑑札を渡され、畳表を新しくするとか障子を張り替えるとか、時には壁を塗り替えるとかして、権威ある人々を待たねばならない。屏風《びょうぶ》何|双《そう》、手燭《てしょく》何|挺《ちょう》、燭台何挺、火鉢《ひばち》何個、煙草盆《たばこぼん》何個、草履《ぞうり》何足、幕何張、それに供の衆何十人前の膳飯《ぜんぱん》の用意をも忘れてはならない。どうして、旅人を親切にもてなす心なしに、これが勤まる家業ではないのだ。
 そんなら、問屋は何をしなければならないところか。半蔵の家に付属する問屋場なぞは、明らかに本陣と同じ意匠のもとにあるもので、主として武家に必要な米穀、食糧、武器、その他の輸送のために開始された場処であることがわかる。これはまた時代が変遷して来ても、街道を通過する公用の荷物、諸藩の送り荷などを継ぎ送るだけにも、かなりの注意を払わねばならない。諸大名諸公役が通行のおりの荷物の継立《つぎた》ては言うまでもなく、宿人馬、助郷《すけごう》人馬、何宿の戻《もど》り馬、在馬《ざいうま》の稼《かせ》ぎ馬などの数から、商人荷物の馬の数まで、日々の問屋場帳簿に記入しなければならない。のみならず、毎年あるいは二、三年ごとに、人馬徴発の総高を計算して、それを人馬立辻《じんばたてつじ》ととなえて、道中奉行《どうちゅうぶぎょう》の検閲を経なければならない。諸街道にある他の問屋のことは知らず、同じ馬籠の九太夫の家もさておき、半蔵の家のように父祖伝来の勤めとしてこの仕事に携わるとなると、これがまた公共の心なしに勤まる家業でもないのだ。
 見て来ると、地方自治の一単位として村方の世話をする役を除いたら、それ以外の彼の勤めというものは、主として武家の奉公である。一庄屋としてこの政治に安んじられないものがあればこそ、民間の隠れたところにあっても、せめて勤王の味方に立とうと志している彼だ。周囲を見回すごとに、他の本陣問屋に伍《ご》して行くことすら彼には心苦しく思われて来た。
 奥の部屋《へや》の方からは、漢籍でも読むらしい勝重《かつしげ》の声が聞こえて来ていた。ときどき子供らの笑い声も起こった。


「どうもよく降ります。」
 会所の小使いが雨傘《あまがさ》をつぼめてはいって来た。
 その声に半蔵は沈思を破られて、小使いの用事を聞きに立って行った。近く大坂御番衆の通行があるので、この宿場でも人馬の備えを心がけて置く必要があった。宿役人一同の寄り合いのことで小使いはその打ち合わせに来たのだ。
 街道には、毛付《けづ》け(木曾福島に立つ馬市)から帰って来る百姓、木曾駒《きそごま》をひき連れた博労《ばくろう》なぞが笠《かさ》と合羽《かっぱ》で、本陣の門前を通り過ぎつつある。半蔵はこの長雨にぬれて来た仙台《せんだい》の家中を最近に自分の家に泊めて見て、本陣としても問屋としても絶えず心を配っていなければならない京大坂と江戸の関係を考えて見ていた時だ。その月の十二日とかに江戸をたって来たという仙台の家中は、すこしばかりの茶と焼酎《しょうちゅう》を半蔵の家から差し出した旅の親しみよりか、雨中のつれづれに将軍留守中の江戸話を置いて行った。当時外交主任として知られた老中格の小笠原図書頭《おがさわらずしょのかみ》は近く千五、六百人の兵をひき連れ、大坂上陸の目的で横浜を出帆するとの風評がもっぱら江戸で行なわれていたという。これはいずれ生麦《なまむぎ》償金授与の事情を朝廷に弁疏《べんそ》するためであろうという。この仙台の家中の話で、半蔵は将軍|還御《かんぎょ》の日ももはやそんなに遠くないことを感知した。近く彼が待ち受けている大坂御番衆の江戸行きとても、いずれこの時局に無関係な旅ではなかろうと想像された。同時に、京都引き揚げの関東方の混雑が、なんらかの形で、この街道にまであらわれて来ることをも想像せずにはいられなかった。
 その時になって見ると、重大な任務を帯びて西へと上って行った尾州藩主のその後の消息は明らかでない。あの一行が中津川泊まりで馬籠を通過して行ってから、九日にもなる。予定の日取りにすれば、ちょうど京都にはいっていていいころである。藩主が名古屋に無事到着したまでのことはわかっていたが、それから先になると飛脚の持って来る話もごくあいまいで、今度の上京は見合わせになるかもしれないような消息しか伝わって来なかった。生麦償金はすでに払われたというにもかかわらず、宣戦の布告にもひとしいその月十日の攘夷期限が撤回されたわけでも延期されたわけでもない。こういう中で、将軍を京都から救い出すために一大示威運動を起こすらしい攘夷反対の小笠原図書頭のような人がある。漠然《ばくぜん》とした名古屋からの便《たよ》りは半蔵をも、この街道で彼と共に働いている年寄役伊之助をも不安にした。

       四

 もはや、西の下《しも》の関《せき》の方では、攘夷を意味するアメリカ商船の砲撃が長州藩によって開始されたとのうわさも伝わって[#「伝わって」は底本では「伝わつて」]来るようになった。
[#ここから1字下げ]
  小倉藩《こくらはん》より御届け
    口上覚《こうじょうおぼ》え
「当月十日、異国船一|艘《そう》、上筋《かみすじ》より乗り下し、豊前国《ぶぜんのくに》田野浦|部崎《へさき》の方に寄り沖合いへ碇泊《ていはく》いたし候《そうろう》。こなたより船差し出《いだ》し相尋ね候ところアメリカ船にて、江戸表より長崎へ通船のところ天気|悪《あ》しきため、碇泊いたし、明朝出帆のつもりに候おもむき申し聞け候間、番船付け置き候。しかるところ、夜に入り四つ時ごろ、長州様軍艦乗り下り、右碇泊いたし候アメリカ船へ向け大砲二、三発、ならびにかなたの陸地よりも四、五発ほど打ち出し候様子のところ、異船よりも二、三発ほど発砲いたし、ほどなく出船、上筋へ向かい飄《ただよ》い行き候。もっとも夜中《やちゅう》の儀につき、しかと様子相わからず候段、在所表《ざいしょおもて》より申し越し候間、この段御届け申し上げ候。以上。」
[#地から7字上げ]小笠原左京大夫内
[#地から2字上げ]関重郎兵衛
[#ここで字下げ終わり]
 これは京都に届いたものとして、香蔵からわざわざその写しを半蔵のもとに送って来たのであった。別に、次ぎのような来状の写しも同封してある。
[#ここから1字下げ]
  五月十一日付
    下の関より来状の写し
「昨十日異国船一|艘《そう》、ここもと田野浦沖へ碇泊《ていはく》。にわかに大騒動。市中荷物を片づけ、年寄り、子供、遊女ども、在郷《ざいごう》へ逃げ行き、若者は御役申し付けられ、浪人武士数十人異船へ乗り込みいよいよ打ち払いの由に相成り候《そうろう》。同夜、子《ね》の刻《こく》ごろより、石火矢《いしびや》数百|挺《ちょう》打ち放し候ところ、異船よりも数十挺打ち放し候えども地方《じかた》へは届き申さず。もっとも、右異船は下り船に御座候ところ、当瀬戸の通路つかまつり得ず、またまた跡へ戻《もど》り、登り船つかまつり候。当方武士数十人、鎧兜《よろいかぶと》、抜き身の鎗《やり》、陣羽織《じんばおり》を着し、騎馬数百人も出、市中は残らず軒前《のきさき》に燈火《あかり》をともし、まことにまことに大騒動にこれあり候。しかるところ、長州様蒸気船二艘まいり、石火矢《いしびや》打ち掛け、逃げ行く異船を追いかけ二発の玉は当たり候由に御座候。その後、異船いずれへ逃げ行き候や行くえ相わかり申さず。ようやく今朝一同引き取りに相成り鎮《しず》まり申し候。しかし他の異国船五、六艘も登り候うわさもこれあり、今後瀬戸通路つかまつり候えば皆々打ち払いに相成る様子、委細は後便にて申し上ぐべく候。以上。」
[#ここで字下げ終わり]
 とある。
 関東の方針も無視したような長州藩の大胆な行動は、攘夷を意味するばかりでなく、同時に討幕を意味する。下の関よりとした来状の写しにもあるように、この異国船の砲撃には浪人も加わっていた。半蔵はこの報知《しらせ》を自分で読み、隣家の伊之助のところへも持って行って読ませた。多くの人にとって、異国は未知数であった。時局は容易ならぬ形勢に推し移って行きそうに見えて来た。


 そこへ大坂御番衆の通行だ。五月も末のことであったが、半蔵は朝飯をすますとすぐ庄屋らしい平袴《ひらばかま》を着けて、問屋場の方へ行って見た。前の晩から泊まりがけで働きに来ている百人ばかりの伊那《いな》の助郷《すけごう》が二組に分かれ、一組は問屋九郎兵衛の家の前に、一組は半蔵が家の門の外に詰めかけていた。
「上清内路《かみせいないじ》村。下清内路《しもせいないじ》村。」
 と呼ぶ声が起こった。村の名を呼ばれた人足たちは問屋場の前に出て行った。そこには栄吉が助郷村々の人名簿をひろげて、それに照らし合わせては一人一人百姓の名を呼んでいた。
「お前は清内路か。ここには座光寺《ざこうじ》[#ルビの「ざこうじ」は底本では「さこうじ」]のものはいないかい。」
 と半蔵が尋ねると、
「旦那《だんな》、わたしは座光寺です。」
 と、そこに集まる百姓の中に答えるものがあった。
 清内路とは半蔵が同門の先輩原|信好《のぶよし》の住む地であり、座光寺とは平田|大人《うし》の遺書『古史伝』三十二巻の上木《じょうぼく》に主となって尽力している先輩北原稲雄の住む村である。お触れ当てに応じてこの宿場まで役を勤めに来る百姓のあることを伊那の先輩たちが知らないはずもなかった。それだけでも半蔵はこの助郷人足たちにある親しみを覚えた。
「みんな気の毒だが、きょうは須原《すはら》まで通しで勤めてもらうぜ。」
 半蔵の家の問屋場ではこの調子だ。いったいなら半蔵の家は月の下半期の非番に当たっていたが、特にこういう日には問屋場を開いて、九郎兵衛方を応援する必要があったからで。
 大坂御番衆の通行は三日も続いた。三日目あたりには、いかな宿場でも人馬の備えが尽きる。やむなく宿内から人別《にんべつ》によって狩り集め、女馬まで残らず狩り集めても、継立《つぎた》てに応じなければならない。各継ぎ場を合わせて助郷六百人を用意せよというような公儀御書院番の一行がそのあとに二日も続いた。助郷は出て来る日があり、来ない日がある。こうなると、人馬を雇い入れるためには夥《おびただ》しい金子《きんす》も要《い》った。そのたびに半蔵は六月近い強雨の来る中でも隣家の伏見屋へ走って行って言った。
「伊之助さん、君の方で二日ばかりの分を立て替えてください。四十五両ばかりの雇い賃を払わなけりゃならない。」
 半蔵も、伊之助も熱い汗を流しつづけた。公儀御書院番を送ったあとには、大坂|御番頭《ごばんがしら》の松平|兵部少輔《ひょうぶしょうゆう》と肥前平戸《ひぜんひらど》の藩主とを同日に迎えた。この宿場では、定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願のために蓬莱屋《ほうらいや》新七を江戸に送ったばかりで、参覲交代制度の変革以来に起こって来た街道の混雑を整理する暇《いとま》もなかったくらいである。十|挺《ちょう》の鉄砲を行列の先に立て、四挺の剣付き鉄砲で前後を護《まも》られた大坂御番頭の一行が本陣の前で駕籠《かご》を休めて行くと聞いた時は、半蔵は大急ぎで会所から自分の部屋《へや》に帰った。麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《あさがみしも》をお民に出させて着た。そして父の駅長時代と同じような御番頭の駕籠に近く挨拶《あいさつ》に行った。彼は父と同じように軽く袴《はかま》の股立《ももだち》を取り、駕籠のわきにひざまずいて、声をかけた。
「当宿本陣の半蔵でございます。お目通りを願います。」
 この挨拶を済ますころには、彼は一方に平戸藩主の一行を待ち受け、馬籠お泊まりという武家衆のために三十余人の客を万福寺にまで割り当てることを心配しなければならなかった。
 六月の十日が来て、京都引き揚げの関東方を迎えるころには、この街道は一層混雑した。将軍|家茂《いえもち》はすでに、生麦償金授与の情実を聞き糺《ただ》して攘夷の功を奏すべきよしの御沙汰《ごさた》を拝し、お暇乞《いとまご》いの参内《さんだい》をも済まし、大坂から軍艦で江戸に向かったとうわさせらるるころだ。たださえ宿方《しゅくがた》では大根蒔《だいこんま》きがおそくなると言って一同目を回しているところへ、十頭ばかりの将軍の御召馬《おめしうま》が役人の付き添いで馬籠に着いた。この御召馬には一頭につき三人ずつの口取り別当が付いて来た。
「半蔵さん。」
 と言って伊之助が半蔵の袖《そで》を引いたのは、ばらばら雨の来る暮れ合いのころであった。この宿でも一両二分の金をねだられた上で、御召馬の通行を見送ったあとであった。
「およそやかましいと言っても、こんなやかましい御通行にぶつかったのは初めてです。」
 そう半蔵が言って見せると、伊之助は声を潜めて、
「半蔵さん、脇本陣《わきほんじん》の桝田屋《ますだや》へ来て休んで行った別当はなんと言ったと思います。御召馬とはなんだ。そういうことを言うんですよ。桝田屋の小左衛門さんもそれには震えてしまって、公方様《くぼうさま》の御召馬で悪ければ、そんならなんと申し上げればよいのですかと伺いを立てたそうです。その時の別当の言い草がいい――御召御馬《おめしおうま》と言え、それからこの御召御馬は焼酎《しょうちゅう》を一升飲むから、そう心得ろですとさ。」
 半蔵と伊之助とは互いに顔を見合わせた。
「半蔵さん、それだけで済むならまだいい。どうしてあの別当は機嫌《きげん》を悪くしていて、小左衛門さんの方で返事をぐずぐずしたら、いきなりその御召御馬を土足のまま桝田屋の床の間に引き揚げたそうですよ。えらい話じゃありませんか。実に、踏んだり蹴《け》ったりです。」
「京都の敵《かたき》をこの宿場へ来て打たれちゃ、たまりませんね。」と言って半蔵は嘆息した。


 京都から引き揚げる将軍家用の長持が五十|棹《さお》も木曾街道を下って来るころは、この宿場では一層荷送りの困難におちいった。六月十日に着いた将軍の御召馬は、言わば西から続々殺到して来る関東方の先触《さきぶ》れに過ぎなかった。半蔵は栄吉と相談し、年寄役とも相談の上で、おりから江戸屋敷へ帰東の途にある仙台の家老(片倉小十郎《かたくらこじゅうろう》)が荷物なぞは一時留め置くことに願い、三棹の長持と五|駄《だ》の馬荷とを宿方に預かった。
 隠退後の吉左衛門が沈黙に引き換え、伊之助の養父金兵衛は上の伏見屋の隠宅にばかり引き込んでいなかった。持って生まれた世話好きな性分《しょうぶん》から、金兵衛はこの混雑を見ていられないというふうで、肩をゆすりながら上の伏見屋から出て来た。
「どうも若い者は覚えが悪い。」と金兵衛は会所の前まで杖《つえ》をひいて来て、半蔵や伊之助をつかまえて言った。「福島のお役所というものもある。お役人衆の出張を願った例は、これまでにだっていくらもあることですよ。こういう時のお役所じゃありませんかね。」
「金兵衛さん、その事なら笹屋《ささや》の庄助さんが出かけましたよ。あの人は作食米《さくじきまい》の拝借の用を兼ねて、福島の方へ立って行きましたよ。」
 半蔵の挨拶《あいさつ》だ。百姓総代ともいうべき組頭《くみがしら》庄助と、年寄役伊之助とは、こういう時に半蔵が力と頼む人たちだったのだ。
 やがてこの宿場では福島からの役人とその下役衆の出張を見た。野尻《のじり》、三留野《みどの》の宿役人までが付き添いで、関東御通行中の人馬備えにということであった。なにしろおびただしい混《こ》み合いで、伊那の助郷もそうそうは応援に出て来ない。継立《つぎた》ての行き届かないことは馬籠ばかりではなかった。美濃の大井宿、中津川宿とても同様で、やむなく福島から出張して来た役人には一時の止宿を願うよりほかに半蔵としてはよい方法も見当たらなかったくらいだ。ところが、この峠の上の小駅は家ごとに御用宿で、役人を休息させる場処もなかった。その一夜の泊まりは金兵衛の隠宅で引き受けた。
「お師匠さま。」
 と言って勝重《かつしげ》が半蔵のところへ飛んで来たのは、将軍家用の長持を送ってから六日もの荷造りの困難が続いたあとだった。福島の役人衆もずっと逗留《とうりゅう》していて、在郷の村々へ手分けをしては催促に出かけたが、伊那の人足は容易に動かなかった。江戸行きの家中が荷物という荷物は付き添いの人たち共にこの宿場に逗留していた時だ。ようやくその中の三分の一だけ継立てができたと知って、半蔵も息をついていた時だ。
「勝重《かつしげ》さんは復習でもしていますか。これじゃ本も読めないね。しばらくわたしも見てあげられなかった。こんな日も君、そう長くは続きますまい。」
「いえ、そこどこじゃありません。なんにもわたしはお手伝いができずにいるんです。そう言えば、お師匠さま――わたしは今、問屋場の前でおもしろいものを見て来ましたよ。いくら荷物を出せと言われても、出せない荷物は出せません、そう言って栄吉さんが旅の御衆に断わったと思ってごらんなさい。その人が袖《そで》を出して、しきりに何か催促するじゃありませんか。栄吉さんもしかたなしに、天保銭《てんぽうせん》を一枚その袂《たもと》の中に入れてやりましたよ。」
 勝重はおとなの醜い世界をのぞいて見たというふうに、自分の方ですこし顔をあからめて、それからさらに言葉をついで見せた。
「どうでしょう、その人は栄吉さんだけじゃ済ましませんよ。九郎兵衛さんのところへも押し掛けて行きました。あそこでもしかたがないから、また天保銭を一枚その袂の中へ入れてやりました。『よし、よし、これで勘弁してやる、』――そうあの旅の御衆が大威張《おおいば》りで言うじゃありませんか。これにはわたしも驚きましたよ。」


 当時の街道に脅迫と強請の行なわれて来たことについては実にいろいろな話がある。「実懇《じっこん》」という言葉なぞもそこから生まれてきた。この実懇になろうとは、心やすくなろうとの意味であって、その言葉を武士の客からかけられた旅館の亭主《ていしゅ》は、必ず御肴代《おさかなだい》の青銅とか御祝儀《ごしゅうぎ》の献上金とかをねだられるのが常であった。町人百姓はまだしも、街道の人足ですら駕籠《かご》をかついで行く途中で武士風の客から「実懇になろうか」とでも言葉をかけられた時は、必ず一|分《ぶ》とか、一分二百とかの金をねだられることを覚悟せねばならなかった。貧しい武家衆や公卿《くげ》衆の質《たち》の悪いものになると、江戸と京都の間を一往復して、すくなくも千両ぐらいの金を強請し、それによって二、三年は寝食いができると言われるような世の中になって来た。どうして問屋場のものを脅迫する武家衆が天保銭一枚ずつの話なぞは、この街道ではめずらしいことではなくなった。
 この脅迫と強請とがある。一方に賄賂《わいろ》の公然と行なわれていたのにも不思議はなかった。従来問屋場を通過する荷物の貫目にもお定めがあって、本馬《ほんま》一|駄《だ》二十貫目、軽尻《からじり》五貫目、駄荷《だに》四十貫目、人足一人持ち五貫目と規定され、ただし銭差《ぜにさし》、合羽《かっぱ》、提灯《ちょうちん》、笠袋《かさぶくろ》、下駄袋《げたぶくろ》の類《たぐい》は本馬一駄乗りにかぎり貫目外の小付《こづけ》とすることを許されていた。この貫目を盗む不正を取り締まるために、板橋、追分《おいわけ》、洗馬《せば》の三宿に設けられたのがいわゆる御貫目改め所であって、幕府の役人がそこに出張することもあり、問屋場のものの立ち合って改めたこともあった。そこは賄賂の力である程度までの出世もでき、御家人《ごけにん》の株を譲り受けることもできたほどの時だ。規定の貫目を越えた諸藩の荷物でもずんずん御貫目改め所を通過して、この馬籠の問屋場にまで送られて来た。
 将軍家|御召替《おめしか》えの乗り物、輿《こし》、それに多数の鉄砲、長持を最後にして、連日の大混雑がようやく沈まったのは六月二十九日を迎えるころであった。京都引き揚げの葵《あおい》の紋のついた輿は四十人ずつの人足に護《まも》られて行った。毎日のように美濃《みの》筋から入り込んで来た武家衆の泊まり客、この村の万福寺にまであふれた与力《よりき》、同心衆の同勢なぞもそれぞれ江戸方面へ向けて立って行った。将軍の還御《かんぎょ》を語る通行も終わりを告げた。その時になると、わずか十日ばかりの予定で入洛《じゅらく》した関東方が、いかに京都の空気の中でもまれにもまれて来たかがわかる。大津の宿から五十四里の余も離れ、天気のよい日には遠くかすかに近江《おうみ》の伊吹山《いぶきやま》の望まれる馬籠峠の上までやって来て、いかにあの関東方がホッと息をついて行ったかがわかる。嫡子《ちゃくし》を連れた仙台の家老はその日まで旅をためらっていて、宿方で荷物を預かった礼を述べ、京都の方の大長噺《おおながばなし》を半蔵や伊之助のところへ置いて行った。
 七月にはいっても、まだ半蔵は連日の激しい疲労から抜け切ることができなかった。そろそろ茶摘みの始まる季節に二日ばかりも続いて来た夏らしい雨は、一層人を疲れさせた。彼が自分の家の囲炉裏ばたに行って見た時は、そこに集まる栄吉、清助、勝重から、下男の佐吉までがくたぶれたような顔をしている。近くに住む馬方の家の婆《ばあ》さんも来て話し込んでいる。この宿場で八つ当たりに当たり散らして行った将軍|御召馬《おめしうま》のうわさはその時になってもまだ尽きなかった。
「あの御召馬が焼酎《しょうちゅう》を一升も飲むというにはおれもたまげた。」
「御召馬なぞというと怒《おこ》られるぞ。御召御馬《おめしおうま》だぞ。」
「いずれ口取りの別当が自分に飲ませろということずらに。」
「嫌味《いやみ》な話ばかりよなし。この節、街道にろくなことはない。わけのわからないお武家様と来たら、ほんとにしかたあらすか。すぐ刀に手を掛けて、威《おど》すで。」
「あゝあゝ、今度という今度はおれもつくづくそう思った。いくら名君が上にあっても、御召馬を預かる役人や別当からしてあのやり方じゃ、下のものが服さないよ。お気の毒と言えばお気の毒だが、人民の信用を失うばかりじゃないか。」
「徳川の代も末になりましたね。」
 だれが語るともなく、だれが答えるともない話で、囲炉裏ばたには囲炉裏ばたらしい。中には雨に疲れて横になるものがある。足を投げ出すものがある。半蔵が男の子の宗太や正己《まさみ》はおもしろがって、その間を泳いで歩いた。
「半蔵さん、すこしお話がある。一つ片づいて、やれうれしやと思ったら、また一つ宿場の問題が起こって来ました。」
 と言って隣家から訪《たず》ねて来る伊之助を寛《くつろ》ぎの間《ま》に迎えて見ると、東山道通行は助郷人足不参のため、当分その整理がつくまで大坂御番頭の方に断わりを出そうということであった。
「なんでも木曾十一宿の総代として、須原《すはら》からだれか行くそうです。大坂まで出張するそうです。」
「それじゃ、伊之助さん、馬籠からも人をやりましょう。」
 半蔵は栄吉や清助をそこへ呼んで、四人でその人選に額《ひたい》を鳩《あつ》めた。
 参覲交代制度変革以来の助郷の整理は、いよいよこの宿場に働くものにとって急務のように見えて来た。過ぐる六月の十七日から二十八日にわたる荷送りを経験して見て、伊那方面の人足の不参が実際にその困難を証拠立てた。多年の江戸の屋敷住居《やしきずまい》から解放された諸大名が家族もすでに国に帰り、東照宮の覇業《はぎょう》も内部から崩《くず》れかけて来たかに見えることは、ただそれだけの幕府の衰えというにとどまらなかった。その意味から言っても、半蔵は蓬莱屋《ほうらいや》新七が江戸出府の結果を待ち望んだ。
「そうだ。諸大名が朝参するばかりじゃない、将軍家ですら朝参するような機運に向かって来たのだ。こんな時世に、武家中心の参覲交代のような儀式をいつまで保存できるものか知らないが、しかし街道の整理はそれとは別問題だ。」
 と彼は考えた。
 旧暦七月半ばの暑いさかりに、半蔵は伊奈助郷のことやら自分の村方の用事やらで、木曾福島の役所まで出張した。ちょうどその時福島から帰村の途中に、半蔵は西から来る飛脚のうわさを聞いた。屈辱の外交とまで言われて支払い済みとなった生麦償金十万ポンドのほかに、被害者の親戚《しんせき》および負傷者の慰藉料《いしゃりょう》としてイギリスから請求のあった二万五千ポンドはそのままに残っていて、あの問題はどうなったろうとは、かねて多くの人の心にかかっていた。はたして、イギリスは薩州侯と直接に交渉しようとするほどの強硬な態度に出て、薩摩方ではその請求を拒絶したという。西からの飛脚が持って来たうわさはその談判の破裂した結果であった。九隻からのイギリス艦隊は薩摩の港に迫ったという。海と陸とでの激しい戦いはすでに戦われたともいうことであった。

       五

「青山君――その後の当地の様子は鱗形屋《うろこがたや》の聞書《ききがき》その他の飛脚便によっても御承知のことと思う。大和国《やまとのくに》へ行幸を仰せ出されたのは去る八月十三日のことであった。これは攘夷《じょうい》御祈願のため、神武帝《じんむてい》御山陵ならびに春日社《かすがしゃ》へ御参拝のためで、しばらく御逗留《ごとうりゅう》、御親征の軍議もあらせられた上で、さらに伊勢神宮へ行幸のことに承った。この大和行幸の洛中《らくちゅう》へ触れ出されたのを自分が知ったのは、柳馬場丸太《やなぎのばばまるた》[#ルビの「ばば」はママ]町|下《さが》ル所よりの来状を手にした時であった。これは実にわずか七日前のことに当たる。
 ――一昨日、十七日の夜の丑《うし》の刻《こく》のころ、自分は五、六発の砲声を枕《まくら》の上で聞いた。寄せ太鼓の音をも聞いた。それが東の方から聞こえて来た。あわやと思って自分は起き出し、まず窓から見ると、会津家《あいづけ》参内《さんだい》の様子である。そのうち自分は町の空に出て見て、火事装束《かじしょうぞく》の着込みに蓑笠《みのかさ》まで用意した一隊が自分の眼前を通り過ぐるのを目撃した。
 ――しばらく、自分には何の事ともわからなかった。もっとも御祭礼の神燈を明けの七つごろから出した町の有志があって、それにつれて総町内のものが皆起き出し、神燈を家ごとにささげなどするうち、夜も明けた。昨日になって見ると、九門はすでに堅く閉ざされ、長州藩は境町御門の警固を止められ、議奏、伝奏、御親征|掛《がか》り、国事掛りの公卿《くげ》の参内もさし止められた。十七日の夜に参内を急いだのは、中川宮(青蓮院《しょうれんいん》)、近衛《このえ》殿、二条殿、および京都守護職松平|容保《かたもり》のほかに、会津と薩州の重立った人たちとわかった。在京する諸大名、および水戸、肥後、加賀、仙台などの家老がいずれもお召に応じ、陣装束で参内した混雑は筆紙に尽くしがたい。九門の前通りは皆往来止めになったくらいだ。
 ――京都の町々は今、会津薩州二藩の兵によってほとんど戒厳令の下にある。謹慎を命ぜられた三条、西三条、東久世《ひがしくぜ》、壬生《みぶ》、四条、錦小路《にしきこうじ》、沢の七卿はすでに難を方広寺に避け、明日は七百余人の長州兵と共に山口方面へ向けて退却するとのうわさがある。」
 こういう意味の手紙が京都にある香蔵から半蔵のところに届いた。


 支配階級の争奪戦と大ざっぱに言ってしまえばそれまでだが、王室回復の志を抱《いだ》く公卿たちとその勢力を支持する長州藩とがこんなに京都から退却を余儀なくされ、尊王攘夷を旗じるしとする真木和泉守《まきいずみのかみ》らの討幕運動にも一頓挫《いちとんざ》を来たしたについて、種々《さまざま》な事情がある。多くの公卿たちの中でも聡敏《そうびん》の資性をもって知られた伝奏|姉小路《あねがこうじ》少将(公知《きんとも》)が攘夷のにわかに行なわれがたいのを思って密奏したとの疑いから、攘夷派の人たちから変節者として目ざされ、朔平門《さくへいもん》の外で殺害された事変は、ことに幕府方を狼狽《ろうばい》せしめた。石清水《いわしみず》行幸のおりにすでにそのうわさのあった前侍従中山忠光を中心とする一派の志士が、今度の大和行幸を機会に鳳輦《ほうれん》を途中に擁し奉るというような風説さえ伝えられた。しかもこの風説は、大和地方における五条の代官鈴木源内らを攘夷の血祭りとした事実となってあらわれたのである。かねて公武合体の成功を断念し、政事総裁の職まで辞した越前藩主はこの形勢を黙ってみてはいなかった。同じ公武合体の熱心な主唱者の一人《ひとり》で、しばらく沈黙を守っていた人に薩摩《さつま》の島津久光もある。この人も本国の方でのイギリス艦隊との激戦に面目をほどこし、たとい敵の退却が風雨のためであるとしても勝敗はまず五分五分で、薩摩方でも船を沈められ砲台を破壊され海岸の町を焼かれるなどのことはあったにしても、すくなくもこの島国に住むものがそうたやすく征服される民族でないことをヨーロッパ人に感知せしめ、同時に他藩のなし得ないことをなしたという自信を得た矢先で、松平|春嶽《しゅんがく》らと共に再起の時機をとらえた。討幕派の勢力は京都から退いて、公武合体派がそれにかわった。大和行幸の議はくつがえされて、いまだ攘夷親征の機会でないとの勅諚《ちょくじょう》がそれにかわった。激しい焦躁《しょうそう》はひとまず政事の舞台から退いて、協調と忍耐とが入れかわりに進んだのである。
 しかし、この京都の形勢を全く凪《なぎ》と見ることは早計であった。九月にはいって、西からの使者が木曾街道を急いで来た。
「また早飛脚ですぞ。」
 清助も、栄吉もしかけた仕事を置いて、何事かと表に出て見た。早飛脚の荒い掛け声は宿場に住むものの耳についてしまった。


 とうとう、新しい時代の来るのを待ち切れないような第一の烽火《のろし》が大和地方に揚がった。これは千余人から成る天誅組《てんちゅうぐみ》の一揆《いっき》という形であらわれて来た。紀州《きしゅう》、津《つ》、郡山《こおりやま》、彦根《ひこね》の四藩の力でもこれをしずめるには半月以上もかかった。しかし闇《やみ》の空を貫く光のように高くひらめいて、やがて消えて行ったこの出来事は、名状しがたい暗示を多くの人の心に残した。従来、討幕を意味する運動が種々《いろいろ》行なわれないでもないが、それは多く示威の形であらわれたので、かくばかり公然と幕府に反旗を翻したものではなかったからである。遠く離れた馬籠峠の上あたりへこのうわさが伝わるまでには、美濃苗木藩《みのなえぎはん》の家中が大坂から早追《はやおい》で急いで来てそれを京都に伝え、商用で京都にあった中津川の万屋安兵衛《よろずややすべえ》はまたそれを聞書《ききがき》にして伏見屋の伊之助のところへ送ってよこした。この一揆《いっき》は「禁裏百姓」と号し、前侍従中山忠光を大将に仰ぎ、日輪に雲を配した赤地の旗を押し立て、別に一番から百番までの旗を用意して、初めは千余人の人数であったが、追い追いと同勢を増し、長州、肥後、有馬《ありま》の加勢もあったということである。公儀の陣屋はつぶされ、大和《やまと》河内《かわち》は大騒動で、やがて紀州へ向かうような話もあり、大坂へ向かうやも知れないとまで一時はうわさされたほどである。ともかくも、この討幕運動は失敗に終わった。天《てん》の川《かわ》というところでの大敗、藤本鉄石《ふじもとてっせき》の戦死、それにつづいて天誅組《てんちゅうぐみ》の残党が四方への離散となった。
 九月の二十七日には、木曾谷中宿村の役人が福島山村氏の屋敷へ呼び出された。その屋敷の御鎗下《おやりした》で、年寄と用達《ようたし》と用人《ようにん》との三役も立ち合いのところで、山村氏から書付を渡され、それを書記から読み聞かせられたというものを持って、伏見屋伊之助と問屋九郎兵衛の二人《ふたり》が福島から引き取って来た。
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    宿村へ仰せ渡され候書付
「方今の御時勢、追い追い伝聞いたしおり申すべく候《そうら》えども、上方辺《かみがたへん》の騒動容易ならざる事にこれあり、右残党諸所へ散乱いたし候につき、御関所においてもその取り締まり方、御老中より御話し相成りし次第に候。なおまた、中山大納言殿御嫡子(忠光)の由に申し立て、浪人数十人召し連れ、御陣屋向きに乱暴いたし候ものこれあり、御取り締まり方、国々へ仰せ出されよとのお触れもこれあり候。加うるに、薩州長州においては夷船《えびすぶね》打ち払い等これあり、公辺においてもいよいよ攘夷御決定との趣にも相聞こえ、内乱|外寇《がいこう》何時《なんどき》相発し候儀も計りがたき時節に候。木曾の儀、辺土とは申しながら街道筋にこれあり候えば、もはや片時も油断相成りがたく、宿村役人においてもかかる容易ならざる御時勢をとくと弁別いたされ、申すにも及ばざる儀ながら木曾谷|庄屋《しょうや》問屋《といや》年寄《としより》などは多く旧家筋の者にこれあり候につき、万一の節はひとかどの御奉公相勤め候心得にこれあるべく候。なお、右のほか、帯刀御免の者、ならびに旧家の者などへもよくよく申し諭《さと》し、随分武芸心がけさせ候よういたすべく候……」
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 半蔵はこの書付を伊之助から受け取って見て、公辺からの宿村の監視がいよいよ厳重になって行くことを知った。同時に、諸所へ散乱したという禁裏百姓の残党の中には、必ず平田門下の人もあるべきことをほとんど直覚的に感知した。
 当時、平田|篤胤《あつたね》没後の門人は諸国を通じて千人近くに達するほどの勢いで、その中には古学の研究と宣伝のみに満足せず、自ら進んで討幕運動の渦中《かちゅう》に身を投ずるものも少なくなかった。さきには三条河原示威の事件で、昼夜兼行で京都から難をのがれて来た暮田正香《くれたまさか》のような例もある。今また何かの姿に身をやつして、伊那《いな》の谷のことを聞き伝え、遠く大和《やまと》地方から落ちて来る人のないとは半蔵にも言えなかった。
「待てよ、いずれこの事件には平田門人の中で関係した人がある。やった事が間違っているか、どうか、それはわからないが、生命《いのち》をかけても勤王のお味方に立とうとして、ああして滅びて行ったことを思うと、あわれは深い。」
 そこまで考え続けて行くと、彼はこのことをだれにも隠そうとした。彼の周囲にいて本居《もとおり》平田の古学に理解ある人々にすら、この大和五条の乱は福島の旦那《だんな》様のいわゆる「浪人の乱暴」としか見なされなかったからで。
 木曾谷支配の山村氏が宿村に与えた注意は、単に時勢を弁別せよというにとどまらなかった。何方《いずかた》に一戦が始まるとしても近ごろは穀留《こくど》めになる憂いがある。中には一か年食い継ぐほどの貯《たくわ》えのある村もあろうが、上松《あげまつ》から上の宿々では飢餓しなければならない。それには各宿各村とも囲い米《まい》の用意をして非常の時に備えよと触れ回った。十六歳から六十歳までの人別《にんべつ》名前を認《したた》め、病人不具者はその旨を記入し、大工、杣《そま》、木挽《こびき》等の職業までも記入して至急福島へ差し出せと触れ回した。村々の鉄砲の数から、猟師筒《りょうしづつ》の玉の目方まで届け出よと言われるほど、取り締まりは実に細かく、やかましくなって来た。

       六

 江戸の方の道中奉行所でも木曾十一宿から四、五人の総代まで送った定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願をそう軽くはみなかった。その証拠には、馬籠《まごめ》からもそのために出て行った蓬莱屋《ほうらいや》新七などを江戸にとどめて置いて、各宿人馬|継立《つぎた》ての模様を調査する公役(道中奉行所の役人)が奥筋の方面から木曾路を巡回して来た。
 もはや秋雨が幾たびとなく通り過ぎるようになった。妻籠《つまご》の庄屋寿平次、年寄役得右衛門の二人《ふたり》は江戸からの公役に付き添いで馬籠までやって来た。ちょうど伊之助は木曾福島出張中であったので、半蔵と九郎兵衛とがこの一行を迎えて、やがて妻籠の寿平次らと一緒に美濃《みの》の方面にあたる隣宿|落合《おちあい》まで公役を見送った。
「半蔵さん。」
 と声をかけながら、寿平次は落合から馬籠への街道を一緒に踏んだ。前には得右衛門と九郎兵衛、後ろには供の佐吉が続いた。公役見送りの帰りとあって、妻籠と馬籠の宿役人はいずれも袴《はかま》に雪駄《せった》ばきの軽い姿になった。半蔵の脱いだ肩衣《かたぎぬ》は風呂敷包《ふろしきづつ》みにして佐吉の背中にあった。
「そう言えば、半蔵さんのお友だちは二人ともまだ京都ですか。」
「そうですよ。」
「よくあれで留守が続くと思う。」
「さあ、わたしもそれは心配しているんですよ。」
「騒がしい世の中になって来た。こんな時世でももうける人はもうける。」
 寿平次が半蔵と並んで話し話し歩いて行くうちに、石屋の坂の下あたりで得右衛門たちに追いついた。
「九郎兵衛さん、君はくわしい。」と寿平次は連れの方を見て言った。「飛騨《ひだ》の商人がはいり込んで来て、うんと四文銭を買い占めて行ったというじゃありませんか。」
「その話ですか。今の銭相場は一両で六貫四百文するところを、一両について四貫四百文替えに相談がまとまったとか言いましてね、金兵衛さんのところなぞじゃ四文銭を六|把《ぱ》も売ったと聞きました。」
 九太夫は大きなからだをゆすりゆすり答える。その時、得右衛門は妻籠からずっと同行して来た連れの肩をたたいて言った。
「寿平次さん、四文銭を六把で、いくらだと思います。二十七両の余ですよ。」
「いえ、今ね、こんな時世でももうける人はもうけるなんて、半蔵さんと話して来たところでさ。」
「違う。こんな時世だからもうけられるんでさ。」
 みんな笑って、馬籠の下町の入り口にあたる石屋の坂を登った。
 半蔵には、妻籠の客を二人とも自分の家に誘って、今後の街道や宿場のことについて語り合いたい心があり、馬籠ばかりでなく妻籠の方の人馬継立ての様子をも尋ねたい心があった。寿平次は寿平次で、この公役の見送りを機会に、かねて半蔵まで申し込んであった妹お民が三番目の男の子を妻籠の方へ連れて行って育てたいという腹で来た。いまだに子供を持たない寿平次が妻籠本陣での家庭をさみしがって、その話をかねて今度やって来たとは、半蔵は義理ある兄の顔を一目見たばかりの時にすでにそれと察していた。


「まあ、得右衛門さん、お上がりください。」
 お民は本陣の奥から上がり端《はな》のところへ飛んで出て来た。兄を見るばかりでなく、妻籠なじみの得右衛門を家に迎えることは、彼女としてもめずらしかった。
「はてな。阿爺《おやじ》も久しぶりでお目にかかりたいでしょうから、隠居所の方へ来ていただきましょうか。」
 そう半蔵は言って、その足で裏二階の方へ妻籠の客を案内した。
 間もなく吉左衛門の隠居|部屋《べや》では、「皆さん、袴《はかま》でもお取り。」という老夫婦の声を聞いた。
「お父《とっ》さん、いかがですか、その後御健康は。」と寿平次が尋ねる。
「いや、ありがとう。自分でも不思議なくらいにね、ますます快《よ》い方に向いて来たよ。こうして隠居しているのがもったいないくらいさ。」と吉左衛門は言って見せた。
 その時になって見ると、徳川政府が参覲交代のような重大な政策を投げ出したことは、諸藩分裂の勢いを助成するというにとどまらなかった。吉左衛門の言い草ではないが、その制度変革の影響はどこまで及んで行くとも見当がつかなかった。当時交通輸送の一大動脈とも言うべき木曾街道にまで、その影響は日に日に深刻に浸潤して来ていた。
 江戸の公役が出張を見た各宿調査の模様は、やがて一同の話題に上った。そこには吉左衛門のようにすでに宿役を退いたもの、得右衛門のようにそろそろ若い者に代を譲る心じたくをしているもの、半蔵や寿平次のようにまだ経験も浅いものとが集まった。
「以前からわたしはそう言ってるんですが、助郷のことは大問題ですて。」と吉左衛門が言い出した。「まあ、わたしのような昔者から見ると、もともと宿場と助郷は金銭ずくの関係じゃありませんでしたよ。人足の請負なぞをするものはもとよりなかった。助郷はみんな役を勤めるつもりで出て来ていました。参覲交代なぞがなくって、諸大名の奥方でも、若様でも、御帰国は御勝手次第ということになりましたろう。こいつは下のものに響いて来ますね。御奉公という心がどうしても薄らいで来ると思いますね。」
 退役以来、一切のことに口をつぐんでいるこの吉左衛門にも、陰ながら街道の運命を見まもる心はまだ衰えなかった。得右衛門はその話を引き取って、
「吉左衛門さん、無論それもあります。しかし、御変革の結果で、江戸屋敷の御女中がたが御帰りになる時に、あの御通行にかぎって相対雇《あいたいやと》いのよい賃銭を許されたものですから、あれから人足の鼻息が荒くなって来ましたよ。」
「そこが問題です。」寿平次が言う。
「待っておくれよ。そりゃ助郷が問屋場に来て見て、いろいろ不平もありましょうがね。宿《しゅく》助成ということになると、どうしてもみんなに分担してもらわんけりゃならんよ。こりゃ、まあお互いのことなんだからね。」とまた吉左衛門は言い添える。
「ところが、吉左衛門さん。」と得右衛門は言った。「御通行、御通行で、物価は上がりましょう。伝馬役《てんまやく》は給金を増せと言い出して来る。どうしても問屋場に無理ができるんです。助郷から言いますと、宿の御伝馬が街道筋に暮らしていて、ともかくもああして妻子を養って行くのに、その応援に来る在の百姓ばかり食うや食わずにいる法はないという腹ができて来ます。それに、ある助郷村には疲弊のために休養を許して、ある村には許さないとなると、お触れ当ては不公平だという声も起こって来ます。旧助郷と新助郷だけでも、役を勤めに出て来る気持ちは違いますからね。一概に助郷の不参と言いますけれど掘って見ると村々によっていろいろなものが出て来ますね。そりゃ問屋だって、あなた、地方地方によってどれほど相違があるかしれないようなものですよ。」
 その時、半蔵はそこにいる継母のおまんに頼んで母屋《もや》の方から清助を呼び寄せ、町方のものから申し出のあった書付を取り寄せた。それを一同の前に取り出して見せた。当時は諸色《しょしき》も高くなるばかりで、人馬の役を勤めるものも生活が容易でないとある。それには馬役、歩行役、ならびに七里役(飛脚を勤めるもの)の給金を増してほしいとある。伝馬一|疋《ぴき》給金六両、定歩行役《じょうほこうやく》一両二分、夏七里役一両二分、冬七里役一両三分と定めたいとある。
「こういうことになるから困る。」と得右衛門は言った。「宿の伝馬役が給金を増してくれと言い出すと、助郷だっても黙ってみちゃいますまい。」
「半蔵さん、君の意見はどうなんですか。」と寿平次がたずねる。
「そうですね。」と半蔵は受けて、「定助郷はぜひ置いてみたい。現在のありさまより無論いいと思います。しかし、自分一個の希望としては、わたしは別に考えることもあるんです。」
「そいつを話して見てください。」
「夢が多いなんて、また笑われても困る。」
「そんなことはありません。」
「まあ、お話しして見れば、たとえば公儀の御茶壺《おちゃつぼ》だとか、日光例幣使だとかですね、御朱印付きの証書を渡されている特別な御通行に限って、宿の伝馬役が無給でそれを継ぎ立てるような制度は改めたい。ああいう義務を負わせるものですから、伝馬役がわがままを言うようになるんです。継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷へ押しつけるというようなことが起こるんです。つまり、わたしの夢は、宿の伝馬役と助郷の区別をなくしたい。みんな助郷であってほしい。だれでも、同じように助郷には勤めに出るというようにしたい。」
「万民が助郷ですか。なるほど、そいつは遠い先の話だ。」
「でも、寿平次さん、このままにうッちゃらかして置いてごらんなさい。」
「そう言えば、そうですね。古いことは知りませんが、和宮様《かずのみやさま》の御通行の時がまず一期、参覲交代の廃止がまた一期で、助郷も次第に変わって来ましたね。」


 ともかくも江戸に出ている十一宿総代が嘆願の結果を待つことにして、得右衛門は寿平次より先に妻籠《つまご》の方へ帰って行った。
「きょうは吉左衛門さんにお目にかかれて、わたしもうれしい。妻籠でも収穫《とりいれ》が済んで、みんな、一息ついてるところですよ。」
 との言葉をお民のところへ残して行った。
 半蔵は得右衛門を送り出して置いて、母屋《もや》の店座敷に席をつくった。そこに裏二階から降りて来る寿平次を待った。
「寿平次さんも話し込んでいると見えるナ。お父《とっ》さんにつかまったら、なかなか放さないよ。」
 と半蔵がお民に言うころは、姉娘のお粂《くめ》が弟の正己《まさみ》を連れて、裏の稲荷《いなり》の方の栗《くり》拾いから戻《もど》って来た。正己はまだごく幼くて、妻籠本陣の方へ養子にもらわれて行くことも知らずにいる。
「やい、やい。妻籠の子になるのかい。」
 と宗太もそこへ飛んで来て弟に戯れた。
「宗太、お前は兄さんのくせに、そんなことを言うんじゃないよ。」とお民はたしなめるように言って見せた。「妻籠はお前お母《っか》さんの生まれたお家じゃありませんか。」
 半蔵夫婦の見ている前では、兄弟《きょうだい》の子供の取っ組み合いが始まった。兄の前髪を弟がつかんだ。正己はようやく人の言葉を覚える年ごろであるが、なかなかの利《き》かない気で、ちょっとした子供らしい戯れにも兄には負けていなかった。
「今夜は、妻籠の兄さんのお相伴《しょうばん》に、正己にも新蕎麦《しんそば》のごちそうをしてやりましょう。それに、お母《っか》さんの言うには、何かこの子につけてあげなけりゃなりますまいッて。」
「妻籠の方への御祝儀《ごしゅうぎ》にかい。扇子《せんす》に鰹節《かつおぶし》ぐらいでよかないか。」
 夫婦はこんな言葉をかわしながら、無心に笑い騒ぐ子供らをながめた。お民は妻籠からの話を拒もうとはしなかったが、さすがに幼いものを手放しかねるという様子をしていた。
「お師匠さま、来てください。」
 表玄関の方で、けたたましい呼び声が起こった。勝重《かつしげ》は顔色を変えて、表玄関から店座敷へ飛んでやって来た。よくある街道でのけんかかと思って、半蔵は「袴《はかま》、袴。」と妻に言った。急いでその平袴《ひらばかま》をはいて、紐《ひも》も手ばしこく、堅く結んだ。
「冗談じゃないぞ。」
 そう言いながら半蔵は本陣の表まで出て見た。問屋場の前の荷物の積み重ねてあるところは、何様《なにさま》かの家来らしい旅の客が栄吉をつかまえて、何か威《おど》し文句を並べている。半蔵はすぐにその意味を読んだ。彼はその方へ走って行って、木刀を手にした客の前に立った。客の吹く酒の臭気はぷんと彼の鼻をついた。
 客は栄吉の方を尻目《しりめ》にかけて、
「やい。人足の出し方がおそいぞ。」
 とにらんだ。その時、客はいまいましそうに、なおも手にした木刀で栄吉の方へ打ちかかろうとするので、半蔵は身をもって従兄弟《いとこ》をかばおうとした。
「当宿問屋の主人《あるじ》は自分です。不都合なことがありましたら、わたしが打たれましょう。」
 と半蔵はそこへ自分を投げ出すように言った。
 この騒ぎを聞きつけた清助は本陣の裏の方から、九郎兵衛は石垣《いしがき》の上にある住居《すまい》の方から坂になった道を走って来た。かつて問屋場の台の上から無法な侍を突き落としたほどの九郎兵衛がそこへ来て割り込むと、その力の人並みすぐれた大きな体格を見ただけでも、客はいつのまにか木刀を引き込ました。
「半蔵さん、御本陣にはお客があるんでしょう。ここはわたしにお任せなさい。そうなさい。」
 この九郎兵衛の声を聞いて、半蔵は母屋《もや》の方へ引き返して行ったが、客から吹きかけられた酒の臭気の感じは容易に彼から離れなかった。しばらく彼は門内の庭の一隅《いちぐう》にある椿《つばき》の若木のそばに立ちつくした。


 その足で半蔵は店座敷の方へ引き返して行って見た。自分の机の上に置いた本なぞをあけて見ている寿平次をそこに見いだした。
「半蔵さん、何かあったんですか。」
「なに、なんでもないんですよ。」
「だれか問屋場であばれでもしたんですか。」
「いえ、人足の出し方がおそいと言うんでしょう。聞き分けのない武家衆と来たら、問屋泣かせです。」
「この節はなんでも力ずくで行こうとする。力で勝とうとするような世の中になって来た。」
「寿平次さん、吾家《うち》にいる勝重さんが何を言い出すかと思ったら、徳川の代も末になりましたね、ですとさ。それを聞いた時は、わたしもギョッとしましたね。ほんとに――あんな少年がですよ。」
 二人《ふたり》の話はそこへはいって行った子供らのために途切れた。
「どうだ、正己。」と寿平次は子供をそばへ呼び寄せて、「叔父《おじ》さんと一緒に、妻籠へ行くかい。」
「行く。」
「行くはよかった。」と半蔵が笑う。
「どれ、叔父さんが一つ抱いて見てやろうか。」
 と言って、寿平次が正己を抱き上げると、そばに見ていた宗太も同じように抱かれに行った。
「叔父さん、わたしも。」
 お粂までもそれを言って、寿平次が弟の子供たちにしてやったと同じことを姉娘にもしてやるまではそばを離れなかった。
「よ。これは重い。」
 寿平次はさも重そうに言って、あとから抱き上げた姉娘の小さなからだを畳の上におろした。
「お粂はよい娘になりそうですね。」と寿平次は末頼もしそうに半蔵に言って見せた。「祖母《おばあ》さんのお仕込みと見えて、どこか違う。君たち夫婦はこんな娘があるからいいさ。わたしは実に家庭には恵まれない。」
 その時、半蔵は子供らを見て言った。「みんな、祖母《おばあ》さんの方へ行ってごらん。台所で蕎麦《そば》を打ってるから、見に行ってごらん。」
 東南に向いた店座敷の障子には次第に日が影《かげ》って来た。半蔵の家では、おまんの計らいで、吉左衛門が老友の金兵衛をも招いて、妻籠へ行く子を送る前の晩のわざとのしるしばかりに、新蕎麦で一杯振る舞いたいという。夕飯にはまだすこし間があった。その静かさの中で、寿平次は半蔵と二人ぎりさしむかいにすわっていた。裏二階の方であった吉左衛門との話なぞがそこへ持ち出された。
「や、寿平次さんに見せるものがある。」
 半蔵は部屋《へや》の押し入れの中から四巻ばかりの本を取り出して来て、
「これがわたしたちの仕事の一つです。」
 と寿平次の前に置いた。『古史伝』の第二|帙《ちつ》だ。江戸の方で、彫板、印刷、製本等の工程を終わって、新たにでき上がって来たものだ。
「これはなかなか立派な本ができましたね。」と寿平次は手に取って見て、「この上木《じょうぼく》の趣意書には、お歴々の名前も並んでいますね。前島|正弼《しょうすけ》、片桐春一《かたぎりしゅんいち》、北原|信質《のぶただ》、岩崎|長世《ながよ》、原|信好《のぶよし》か。ホウ、中津川の宮川寛斎《みやがわかんさい》もやはり発起人の一人《ひとり》とありますね。」
「どうです、平田先生の本は木板が鮮明で、読みいいでしょう。」
「たしかに特色が出ていますね。」
「この第一|帙《ちつ》の方は伊那《いな》の門人の出資で、今度できたのは甲州の門人の出資です。いずれ、わたしも阿爺《おやじ》と相談して、この上木の費用を助けるつもりです。」
「半蔵さん、今じゃ平田先生の著述というものはひろく読まれるそうじゃありませんか。こういう君たちの仕事はいい。ただ、わたしの心配することは、半蔵さんがあまり人を信じ過ぎるからです。君はなんでも信じ過ぎる。」
「寿平次さんの言うことはよくわかりますがね、信じてかかるというのが平田門人のよいところじゃありませんか。」
「信を第一とす、ですか。」
「その精神をヌキにしたら、本居《もとおり》や平田の古学というものはわかりませんよ。」
「そういうこともありましょうが、なんというか、こう、君は信じ過ぎるような気がする――師匠でも、友人でも。」
「……」
「そいつは、気をつけないといけませんぜ。」
「……」
「そう言えば、半蔵さん、京都の方へ行ってる景蔵さんや香蔵さんもどうしていましょう。よくあんなに中津川の家を留守にして置かれると思うと、わたしは驚きます。」
「それはわたしも思いますよ。」
「半蔵さんも、京都の方へ行って見る気が起こるんですかね。」
「さあ、この節わたしはよく京都の友だちの夢を見ます。あんな夢を見るところから思うと、わたしの心は半分京都の方へ行ってるのかもしれません。」
「お父《とっ》さんもそれで心配していますぜ。さっき、裏の二階でお父さんと二人《ふたり》ぎりになった時にも、いろいろそのお話が出ました。何もお父さんのようにそう黙っていることはない。半蔵さんとわたしの仲で、これくらいのことの言えないはずはない。そう思って、わたしはあの二階から降りて来ました。」
「いや、あの阿爺《おやじ》がなかったら、とッくにわたしは家を飛び出していましょうよ……」
 下女が夕飯のしたくのできたことを知らせるころは、二人はもうこんな話をしなかった。半蔵が寿平次を寛《くつろ》ぎの間《ま》へ案内して行って見ると、吉左衛門は裏二階から、金兵衛は上の伏見屋の方からそこに集まって来ていた。
「どうだ、寿平次、金兵衛さんはことし六十七におなりなさる。おれより二つ上だ。それにしてはずいぶん御達者さね。」
「そう言えば、吉左衛門さん、あなたにお目にかかると、この節は食べる物の話ばかり出るじゃありませんか。」
 この人たちのにぎやかな笑い声を聞きながら、半蔵は寿平次の隣にいて膳《ぜん》に就《つ》いた。酒は隣家の伏見屋から取り寄せたもの。山家風な手打ち蕎麦《そば》の薬味には、葱《ねぎ》、唐《とう》がらし。皿《さら》の上に小鳥。それに蝋茸《ろうじ》のおろしあえ。漬《つ》け物。赤大根。おまんが自慢の梅酢漬《うめずづ》けの芋茎《ずいき》。


「半蔵さん、正己が養子縁組のことはどうしたものでしょう。」
 と寿平次がたずねた。一晩馬籠に泊まった翌朝のことである。
「そいつはあとでもいいじゃありませんか。」と半蔵は答えた。「まあ、なんということなしに、連れて行ってごらんなさるさ。」
 そこへおまんとお民も来て一緒になった。おまんは寿平次を見て、
「正己はあれで、もうなんでも食べますよ。酢茎《すぐき》のようなものまで食べたがって困るくらいですよ。妻籠のおばあさんはよく御承知だろうが、あんまり着せ過ぎてもいけない。なんでも子供は寒く饑《ひも》じく育てるものだって、昔からよくそう言いますよ。」
「兄さん、正己も当分は慣れますまいから、おたけを付けてあげますよ。」とお民も言い添えた。
 おたけとは、正己が乳母《うば》のようにしてめんどうを見た女の名である。お粂《くめ》でも、宗太でも、一人ずつ子供の世話をするものを付けて養育するのが、この家族の習慣のようになっていたからで。
 すでに妻籠の方からも迎えの男がやって来た。馬籠本陣の囲炉裏ばたには幼いものの門出を祝う日が来た。お民は裏道づたいに峠の上まで見送ると言って、お粂や宗太を連れて行くしたくをした。こういう時に、清助は黙ってみていなかった。
「さあ、正己さま、おいで。」
 と言って、妻籠へ行く子を自分の背中に載せた。それほど清助は腰が低かった。
 吉左衛門、おまん、栄吉、勝重、それに佐吉から二人の下女までが半蔵と一緒に門の外に集まった。狭い土地のことで、ちいさな子供一人の出発も近所じゅうのうわさに上った。本陣の向こうの梅屋、一軒上の問屋、街道をへだてて問屋と対《むか》い合った伏見屋、それらの家々の前にもだれかしら人が出て妻籠行きのものを見送っていた。
 半蔵は父や継母の前に立って言った。
「寿平次さんの家で育ててもらえば、安心です。正己も仕合わせです。」
 やがて寿平次らは離れて行った。半蔵はそのまま自分の家にはいろうとしなかった。その足で坂になった町を下の方へと取り、石屋の坂の角《かど》を曲がり、幾層にもなっている傾斜の地勢について、荒町《あらまち》の方まで降りて行った。荒町には村社|諏訪《すわ》分社がある。その氏神への参詣《さんけい》を済ましても、まだ彼は家の方へ引き返す気にならなかった。この宿場で狸《たぬき》の膏薬《こうやく》なぞを売るのも、そこを出はずれたところだ。路傍には大きく黒ずんだ岩石がはい出して来ていて、広い美濃《みの》の盆地の眺望《ちょうぼう》は谷の下の方にひらけている。もはや恵那山《えなさん》の連峰へも一度雪が来て、また溶けて行った。その大きな傾斜の望まれるところまで歩いて行って見ると、彼は胸いっぱいの声を揚げて叫びたい気になった。
 寿平次が残して置いて行ったいろいろな言葉は、まだ彼の胸から離れなかった。大概の事をばかにしてひとり弓でもひいていられる寿平次に比べると、彼は日常生活の安逸をむさぼっていられなかったのだ。やがて近づいて来る庚申講《こうしんこう》の夜、これから五か月もの長さにわたって続いて行く山家の寒さ、石を載せた板屋根でも吹きめくる風と雪――人を眠らせにやって来るようなそれらの冬の感じが、破って出たくも容易に出られない一切の現状のやるせなさにまじって、彼の胸におおいかぶさって来ていた。
 しかし、歩けば歩くほど、彼は気の晴れる子供のようになって、さらに西の宿はずれの新茶屋の方へと街道の土を踏んで行った。そこには天保十四年のころに、あの金兵衛が亡父の供養にと言って、木曾路を通る旅人のために街道に近い位置を選んで建てた芭蕉《ばしょう》の句碑もある。とうとう、彼は信濃《しなの》と美濃の国境《くにざかい》にあたる一里塚《いちりづか》まで、そこにこんもりとした常磐木《ときわぎ》らしい全景を見せている静かな榎《え》の木の下まで歩いた。
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     第九章

       一

 江戸の町々では元治《げんじ》元年の六月を迎えた。木曾街道《きそかいどう》方面よりの入り口とも言うべき板橋から、巣鴨《すがも》の立場《たてば》、本郷《ほんごう》森川宿なぞを通り過ぎて、両国《りょうごく》の旅籠屋《はたごや》十一屋に旅の草鞋《わらじ》をぬいだ三人の木曾の庄屋《しょうや》がある。
 この庄屋たちは江戸の道中奉行《どうちゅうぶぎょう》から呼び出されて、いずれも木曾十一宿の総代として来たのである。その中に半蔵も加わっていた。もっとも、木曾の上四宿からは贄川《にえがわ》の庄屋、中三宿からは福島の庄屋で、馬籠《まごめ》から来た半蔵は下四宿の総代としてであった。
 五月下旬に半蔵は郷里の方をたって来たが、こんなふうに再び江戸を見うる日のあろうとは、彼としても思いがけないことであった。両国の十一屋は彼にはすでになじみの旅籠屋である。他の二人《ふたり》の庄屋――福島の幸兵衛《こうべえ》、贄川《にえがわ》の平助、この人たちも半蔵と一緒にひとまずその旅籠屋に落ちつくことを便宜とした。そこには木曾出身で世話好きな十一屋の隠居のような人があるからで。
「早いものでございますな。あれから、もう十年近くもなりますかな。」
 十一屋の隠居は半蔵のそばに来て、旅籠屋の亭主《ていしゅ》らしいことを言い出す。この隠居は十年近くも前に来て泊まった木曾の客を忘れずにいた。半蔵が江戸から横須賀《よこすか》在へかけての以前の旅の連れは妻籠《つまご》本陣の寿平次であったことまでよく覚えていた。
「そりゃ、十一屋さん、この前にわたしたちが出て来ました時は、まだ横浜開港以前でしたものね。」
「さよう、さよう、」と隠居も思い出したように、「あれから宮川寛斎先生も手前どもへお泊まりくださいましたよ。えゝ、お連れさまは中津川の万屋《よろずや》さんたちで。あれは横浜貿易の始まった年でした。あの時は神奈川《かながわ》の牡丹屋《ぼたんや》へも手前どもから御案内いたしましたっけ。毎度皆さまにはごひいきにしてくださいまして、ありがとうございます。」
 そういう隠居も大分《だいぶ》年をとったが、しかし元気は相変わらずだ。この宿屋には隠居に見比べると親子ほど年の違うかみさんもある。親子かと思えば、どうもそうでもないようだし、夫婦にしては年が違いすぎる。そう半蔵も以前の旅には想《おも》って見たが、今度江戸へ出て来た時は、そのかみさんが隠居の子供を抱いていた。
 見るもの聞くもの半蔵には過ぐる年の旅の記憶をよび起こした。あれは安政三年で、半蔵が平田入門を思い立って来たころだ。彼が江戸に出て、初めて平田|鉄胤《かねたね》を知り、その子息《むすこ》さんの延胤《のぶたね》をも知ったころだ。当時の江戸城にはようやく交易大評定のうわさがあって、長崎の港の方に初めてのイギリスの船がはいったと聞くも胸をおどらせたくらいのころだ。なんと言ってもあのころの徳川政府の威信はまだまだ全国を圧していた。
 十年近い月日はいかに半蔵の周囲を変え、今度踏んで来た街道の光景までも変えたことか。道中奉行からのお呼び出しで、半蔵も自分の宿場を離れて来て見ると、あの木曾街道筋の堅めとして聞こえた福島の関所あたりからして、えらいあわて方であった。諸国に頻発《ひんぱつ》する暴動ざたが幕府を驚かしてか、宿村の取り締まりも実に厳重をきわめるようになった。半蔵が国を出るころは、街道に怪しいものは見つけ次第注進せよと言われていた。ひとり旅の者はもちろん、怪しい浪人体のものは休息させまじき事、俳諧師《はいかいし》生花師《いけばなし》等の無用の遊歴は差し置くまじき事、そればかりでなく、狼藉者《ろうぜきもの》があったら村内打ち寄って取り押え、万一手にあまる場合は切り捨てても鉄砲で打ち殺しても苦しくないというような、そんな御用達所からのお書付が宿々村々へ渡っていた。
 江戸へ出る途中、半蔵は以前の旅を思い出して、二人の連れと一緒に追分宿《おいわけじゅく》の名主《なぬし》文太夫《ぶんだゆう》の家へも寄って来た。あの地方では取締役なるものができ、村民は七名ずつ交替で御影《みかげ》の陣屋を護《まも》り、強賊や乱暴者の横行を防ぐために各自自衛の道を講ずるというほどの騒ぎだ。その陣屋には新たに百二十間あまりの柵矢来《さくやらい》が造りつけられ、非常時の合図として村々には半鐘、太鼓、板木が用意され、それに鉄砲、竹鎗《たけやり》、袖《そで》がらみ、六尺棒、松明《たいまつ》なぞを備え置くという。村内のものでも長脇差《ながわきざし》を帯びるか、または無宿者《むしゅくもの》を隠し泊めるかするものがあればきびしく取り締まるようになって、毎月五日には各村民が陣屋に参集するという。この申し合わせに加わる村々は、北佐久《きたさく》、南佐久の方面で七十四か村にも及んでいる。いかに生活難に追い詰められた無宿浮浪の群れが浪人のまねをしたり大刀を帯びたりしてあの辺の街道を押し歩いているかがわかる。追分《おいわけ》、軽井沢《かるいざわ》あたりは長脇差の本場に近いところから、ことに騒がしい。それにしても、村民各自に自警団を組織するほどのぎょうぎょうしいことはまだ木曾地方にはない。それをしなければ小前《こまえ》のものが安心して農業家業に従事し得られないというほどのことはない。半蔵が二人の連れのように、これまでたびたび江戸に出たことのある庄屋たちでも、こんな油断のならない道中は初めてだと言っている。どうして些細《ささい》のことにも気を配って、互いに助け合うことなしに踏んで出て来られる八十里の道ではなかったのだ。
 さしあたり一行三人のものの仕事は、当時の道中奉行|都筑駿河守《つづきするがのかみ》が役宅を訪《たず》ね、今度総代として来たことを告げ、木曾宿々から取りそろえて来た人馬立辻帳《じんばたてつじちょう》なぞを差し出すことであった。
 言うまでもなく、その帳簿には過ぐる一年間の人馬徴発の総高が計算してある。最初に半蔵らが奉行の屋敷に出た日には、徒士目付《かちめつけ》が応接に出て、奉行へは自分から諸事取り次ぐであろうとの話があった末に、今度三人の庄屋を呼び出した奉行の意向を言い聞かせた。それには諸大名が江戸への参覲交代をもう一度復活したい徳川現内閣の方針であることを言い聞かせた。徒士目付の口ぶりによると、いずれ奉行から改めてお呼び出しがあるであろう、そのおりは木曾地方における人馬|継立《つぎた》ての現状を問いただされるであろう、そんなことで半蔵らは引き取って来た。同行の幸兵衛、平助、共に半蔵から見ればずっと年の違った人たちで、宿駅のことにも経験の多い庄屋たちであるが、三人連れだって両国の旅籠屋《はたごや》まで戻《もど》って来た時は、互いに街道の推し移りを語り合って、今後の成り行きに額《ひたい》を鳩《あつ》めた。


 参覲交代制度変革の影響は江戸にも深いものがあった。武家六分、町人四分と言われた江戸から、諸国大小名の家族がそれぞれ国もとをさして引き揚げて行ったあとの町々は、あだかも大きな潮の引いて行ったあとのようになった。
 二度目に来てこの大きな都会の深さにはいって見る半蔵の目には、もはや江戸城もない。過ぐる文久三年十一月十五日の火災で、本丸、西丸、共に炎上した。将軍家ですら田安御殿《たやすごてん》の方に移り住むと聞くころだ。西丸だけは復興の工事中であるが、それすら幕府御勘定所のやり繰りで、諸国の町人百姓から上納した百両二百両のまとまった金はもとより、一朱二朱ずつの細かい金まではいっている御普請上納金より成り立つことは、半蔵のように地方にいていくらかでも上納金の世話を命ぜられたものにわかる。西丸の復興ですらこのとおりだ。本丸の方の再度の造営はもとより困難と見られている。朝日夕日に輝いて八百八町《はっぴゃくやちょう》を支配するようにそびえ立っていたあの建築物も、周囲に松の緑の配置してあった高い白壁も、特色のあった窓々も、幕府大城の壮観はとうとうその美を失ってしまった。言って見れば、ここは広大な城下町である。大小の武家屋敷、すなわち上《かみ》屋敷、中《なか》屋敷、下《しも》屋敷、御用屋敷、小屋敷、百人組その他の組々の住宅など、皆大城を中心にしてあるようなものである、変革はこの封建都市に持ち来たされた。諸大名は国勝手を許され、その家族の多くは屋敷を去った。急激に多くの消費者を失った江戸は、どれほどの財界の混乱に襲われているやも知れないかのようである。
 しかし、あの制度の廃止は文久の改革の結果だ。あれは時代の趨勢《すうせい》に着眼して幕政改革の意見を抱《いだ》いた諸国の大名や識者なぞの間に早くから考えられて来たことだ。もっと政治は明るくして新鮮な空気を注ぎ入れなければだめだとの多数の声に聞いて、京都の方へ返すべき慣例はどしどし廃される、幕府から任命していた皇居九門の警衛は撤去されるというふうに、多くの繁文縟礼《はんぶんじょくれい》が改められた時、幕府が大改革の眼目として惜しげもなく投げ出したのも参覲交代の旧《ふる》い慣例だ。もともと徳川氏にとっては重要なあの政策を捨てるということが越前《えちぜん》の松平春嶽《まつだいらしゅんがく》から持ち出された時に、幕府の諸有司の中には反対するものが多かったというが、一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》は越前藩主の意見をいれ、多くの反対説を排して、改革の英断に出た。今さらあの制度を復活するとなると、当時幕府を代表して京都の方に禁裡《きんり》守衛総督摂海|防禦《ぼうぎょ》指揮の重職にある慶喜の面目を踏みつぶすにもひとしい。遠くは紀州と一橋との将軍継嗣問題以来、苦しい反目を続けて来た幕府の内部は、ここにもその内訌《ないこう》の消息を語っていた。
 それにしても、政治の中心はすでに江戸を去って、京都の方に移りつつある。いつまでも大江戸の昔の繁華を忘れかねているような諸有司が、いったん投げ出した政策を復活して、幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》しうるか、どうかは、半蔵なぞのように下から見上げるものにすら疑問であった。時節がら、無用な費用を省いて、兵力を充実し、海岸を防禦《ぼうぎょ》するために国に就《つ》いた諸大名が、はたして幕府の言うなりになって、もう一度江戸への道を踏むか、どうかも疑問であった。
 諸大名の家族が江戸屋敷から解き放たれた日、あれは半蔵が父吉左衛門から家督を譲られて、新しい駅長の職に就いてまだ間もなかったころにあたる。彼はあの馬籠の宿場の方で、越前の女中方や、尾州の若殿に簾中《れんちゅう》や、紀州の奥方ならびに女中方なぞを迎えたり送ったりしたいそがしさをまだ忘れずにいる。昨日は秋田の姫君が峠の上に着いたとか、今日は肥前島原の女中方が着いたとか、こういう婦人や子供の一行が毎日のようにあの街道に続いた。まるで人質も同様にこもり暮らした江戸から手足の鎖を解かれたようにして、歓呼の声を揚げて行った屋敷方の人々だ。それらの御隠居、奥方、若様、女中衆なぞが江戸をにぎわそうとして、もう一度この都会に帰り来る日のあるか、どうかは、なおなお疑問であった。
 江戸に出て数日の間、半蔵は連れの庄屋と共に道中奉行から呼び出される日を待った。一行三人のものは思い思いに出歩いた。そして両国の旅籠屋《はたごや》をさして帰って行くたびに、互いに見たり聞いたりして来る町々の話を持ち寄った。江戸にある木曾福島の代官山村氏の屋敷を東片町《ひがしかたまち》に訪《たず》ねたが、あの辺の屋敷町もさみしかったと言うのは幸兵衛だ。木曾の領主にあたる尾州侯の屋敷へも顔出しに行って来て、いたるところの町々に「かしや」の札の出ているのが目についたと言うのは平助だ。両国から親父橋《おやじばし》まで歩いて、当時江戸での最も繁華な場所とされている芳町《よしちょう》のごちゃごちゃとした通りをあの橋の畔《たもと》に出ると、芋《いも》の煮込みで名高い居酒屋には人だかりがして、その反対の町角《まちかど》にある大きな口入宿《くちいれやど》には何百人もの職を求める人が詰めかけていたと言うのは半蔵だ。
 十一屋の隠居は半蔵らを宿へ迎え入れるたびに言った。
「皆さんは町へお出かけになりましても、日暮れまでには両国へお帰りください。なるべく夜分はお出ましにならない方がよろしゅうございますぞ。」


 ようやく道中奉行からの差紙《さしがみ》で、三人の庄屋の出頭する日が来た。十一屋の二階で、半蔵は連れと同じように旅の合羽《かっぱ》をぬいで、国から用意して来た麻の※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《かみしも》に着かえた。
「さあ、これから御奉行さまの前だ。」と贄川《にえがわ》の平助は用心深い目つきをしながら、半蔵の袖《そで》をひいた。「きょうは、うっかりした口はきけませんよ。半蔵さんはまだ若いから、何か言い出しそうで心配です。」
「わたしですか。わたしは平素《ふだん》から黙っていたい方ですから、そんなよけいなことはしゃべりませんよ。」
 その時、福島の幸兵衛も庄屋らしい袴《はかま》の紐《ひも》を結んでいたが、半分|串談《じょうだん》のような調子で、
「半蔵さんは平田の御門人だと言うから、余分に目をつけられますぜ。」
 と戯れた。
「いえ。」と半蔵は言った。「わたしは馬籠をたつ時に、家のものからもそんなことを言われて来ましたよ。でも、木曾十一宿の総代で呼び出されるものをつかまえて、まさか入牢《にゅうろう》を申し付けるとも言いますまい。」
 幸兵衛も平助も笑った。三人ともしたくができた。そこで出かけた。
 道中奉行|都筑駿河《つづきするが》の役宅は神田橋《かんだばし》外にある。そこには例の徒士目付《かちめつけ》が待ち受けていてくれて、やがて三人は二|部屋《へや》続いた広間に通された。旧暦六月のことで、襖《ふすま》障子《しょうじ》なぞも取りはずしてあった。正面に奉行、そのそばに道中|下方掛《したかたがか》りの役人らが控え、徒士目付はいろいろとその間を斡旋《あっせん》した。そこへ新たに道中奉行の一人《ひとり》となった神保佐渡《じんぼうさど》もはいって来て、席に着いた。
[#地から17字上げ]尾張殿領分
[#地から8字上げ]東山道贄川宿、外《ほか》十か宿総代
[#地から14字上げ]組合宿々取締役
[#地から13字上げ]右贄川宿庄屋
[#地から7字上げ]遠山平助
[#地から14字上げ]福島宿庄屋
[#地から7字上げ]堤幸兵衛
[#地から10字上げ]馬籠宿庄屋本陣問屋
[#地から7字上げ]青山半蔵
 徒士目付は三人の庄屋を奉行に紹介するようにそれを読み上げる。平助も、幸兵衛も、それから半蔵も扇子を前に置き、各自の名前が読まれるたびに両手を軽く畳の上に置いて、順に挨拶《あいさつ》した。
 都筑駿河はかつて勘定奉行であり、神保佐渡は大目付《おおめつけ》であった閲歴を持つ人たちである。下々の役人のようにいばらない。奉行としての威厳を失わない程度で、砕けた物の言いようもすれば、笑いもする。徒士目付からすでに三人の庄屋も聞いたであろうように、文久二年以来廃止同様の姿であった参覲交代を復活したい意志が幕府にある、将軍の上洛《じょうらく》は二度にも及んで沿道の宿々は難渋の聞こえもある、木曾は諸大名通行の難場《なんば》でもあるから地方の事情をきき取った上で奉行所の参考としたい、それには人馬|継立《つぎた》ての現状を腹蔵なく申し立てよというのが奉行の意向であった。
 その日の会見はあまり細目にわたらないようにとの徒士目付の注意もあって、平助は異国船渡来以後の諸大名諸公役の頻繁《ひんぱん》な往来が街道筋に及ぼした影響から、和宮様《かずのみやさま》の御通過、諸大名家族の帰国というふうに、次第に人馬徴発の激増して来たことをあるがままに述べ、宿駅の疲弊も、常備人馬補充の困難も、助郷《すけごう》勤め村や手助け村の人馬の不参も、いずれも過度な人馬徴発の結果であることを述べた末に言った。
「恐れながら申し上げます。昨年三月より七月へかけ、公方様《くぼうさま》の還御《かんぎょ》にあたりまして、木曾街道の方にも諸家様のおびただしい御通行がございました。何分にも毎日のことで、お継立ても行き届かず、それを心配いたしまして木曾十一宿のものが定助郷《じょうすけごう》の嘆願に当お役所へ罷《まか》り出ました。問屋四名、年寄役一名、都合五名のものが総代として出たような次第でございます。その節、定助郷はお許しがなく、本年二月から六か月の間、当分助郷を申し付けるとのことで、あの五名のものも帰村いたしました。もはやその期日も残りすくなでございますし、なんとかその辺のことも御配慮に預かりませんと、またまた元通り継立てに難渋することかと心配いたされます。」
「そういう注文も出ようかと思って、実は当方でも協議中であるぞ。」と都筑駿河は言った。
 その時、幸兵衛はまた、別の立場から木曾地方の付近にある助郷の組織を改良すべき時機に達したことを申し立てた。彼に言わせると、従来課役として公用藩用に役立って来たもの以外に、民間交通事業の見るべきものが追い追いと発達して来ている。伊那《いな》の中馬《ちゅうま》、木曾の牛、あんこ馬(駄馬《だば》)、それから雲助の仕事なぞがそれだ。もっとも、木曾の方にあるものは牛以外に取りたてて言うほどでもないが、伊那の中馬と来ては物資の陸上運搬にさかんな活動を始め、松本から三河《みかわ》、尾張《おわり》の街道、および甲州街道は彼ら中馬が往還するところに当たり、木曾街道にも出稼《でかせ》ぎするものが少なくない。その村数は百六十か村の余を数え、最も多い村は百四十五|疋《ひき》、最も少ない村でも十疋の中馬を出している。もしこの際、定助郷の設備もなく、彼らを優遇する方法もなく、課役に応ずる百姓の位置をもっとはっきりさせることもなかったら、割のよい民間の仕事に圧《お》されて、ますます多くの助郷不参の村々を出すであろう。公辺に参覲交代復活の意向があるなら、その辺の事情も一応考慮の中に入れて置いていただきたいというのが福島の庄屋の意見であった。
「いや、いろいろな注文が出る。」と都筑駿河が言った。「将軍二度目の御上洛には往復共に軍艦にお召しになった。それも人民が多年の疲弊を憐《あわれ》むという御|思《おぼ》し召しによることだぞ。もう一度諸大名を江戸へお呼び寄せになるにしても、そういう参覲交代の古式を回復するにしても、願い出るものには軍艦を貸そうという御内議もある。その方たちの心配は無理もないが、今度はもうそれほど宿場のごたごたするようなこともあるまい。」
「木曾下四宿の総代もこれに控えております。」と徒士目付は奉行の言葉を引き取って言った。「昨年出てまいりました年寄役の新七なるものは、これに控えております半蔵と同宿のように聞き及びます。」
「三人ともいそがしいところをよく出て来てくれた。どうだ、半蔵、その方の意見も聞こう。」
 そういう都筑駿河ばかりでなく、新参で控え目がちな神保佐渡の眸《ひとみ》も半蔵の方にそそいだ。それまで二人《ふたり》の庄屋のそばにすわっていた半蔵は何か言い出すべき順に回って来た。
「さようでございます。」と彼は答えた。「近年は諸家様の御権威が強くなりまして、何事にも御威勢をもって人民へ仰せ付けられるようになりました。御承知のとおり、木曾の下四宿はいずれも小駅でございまして、お定めの人馬はわずかに二十五人二十五|疋《ひき》でお継立てをいたしてまいりました。そこへ美濃《みの》の落合宿あたりから、助郷人馬をもちまして、一時に多数の継立てがございますと、そうは宿方《しゅくがた》でも応じきれません。まず多数にお入り込みの場合を申しますと、宿方にあり合わせた人馬を出払いまして、その余は人馬の立ち帰るまで御猶予を願います。また、時刻によりましては宿方にお泊まりをも願います。これが平素の場合でございましたところ、近年は諸家様がそういう宿方の願いをもお聞き入れになりません。なんでも御威勢をもって継立て方をきびしく仰せ付けられるものですから、まあよんどころなく付近の村々から人馬を雇い入れまして、無理にもお継立てをいたします。そんな次第で。雇い金《きん》も年々に積もってまいりました。宿方困窮の基《もと》と申せば、あまりに諸家様の御権威が高くなったためかと存じます。それさえありませんでしたら、街道の仕事はもっと安らかに運べるはずでございます。」
「なるほど、そういうこともあろう。」と都筑駿河は言って、居並ぶ神保佐渡の方へ膝《ひざ》を向け直して、「御同役、いかがでしょう。くわしいことは書面にして差し出してもらいたいと思いますが。」
「御同感です。」と神保佐渡は手にした扇子で胸のあたりをあおぎながら答えた。
 道中|下方掛《したかたがか》りの役人らの間にもしきりに扇子が動いた。その時、徒士目付は奉行の意を受けて、庄屋側から差し出した人馬立辻帳《じんばたてつじちょう》の検閲を終わったら、いずれ三人に沙汰《さた》するであろうと言った。なお、過ぐる亥年《いどし》の三月から七月まで、将軍還御のおりのお供と諸役人が通行中に下された人馬賃銭の仕訳書上帳《しわけかきあげちょう》なるものを至急国もとから取り寄せて差し出せと言いつけた。


 細目にわたることは書面で、あとから庄屋側より差し出すように。そんな約束で半蔵らは神田橋外の奉行屋敷を出た。江戸城西丸の新築工事ができ上がる日を待つと見えて、剃髪《ていはつ》した茶坊主なぞが用事ありげに町を通り過ぎるのも目につく。城内で給仕役《きゅうじやく》を勤めるそれらの茶坊主までが、大名からもらうのを誇りとしていた縮緬《ちりめん》の羽織《はおり》も捨て、短い脇差《わきざし》も捨て、長い脇差を腰にぶちこみながら歩くというだけにも、武道一偏の世の中になって来たことがわかる。幕府に召し出されて幅《はば》をきかせている剣術師なぞは江戸で大変な人気だ。当時、御家人《ごけにん》旗本《はたもと》の間の大流行は、黄白《きじろ》な色の生平《きびら》の羽織に漆紋《うるしもん》と言われるが、往昔《むかし》家康公《いえやすこう》が関ヶ原の合戦に用い、水戸の御隠居も生前好んで常用したというそんな武張《ぶば》った風俗がまた江戸に回《かえ》って来た。
 両国をさして帰って行く途中、平助は連れを顧みて、
「半蔵さん、君は時々立ち止まって、じっとながめているような人ですね。」
「御覧なさい、小さな宮本武蔵《みやもとむさし》や荒木又右衛門《あらきまたえもん》がいますよ。」
「ほんとに、江戸じゃ子供まで武者修行のまねだ。一般の人気がこうなって来たんでしょうかね。」
 そういう平助は実にゆっくりゆっくりと歩いた。
 その日は風の多い日で、半蔵らは柳原《やなぎわら》の土手にかかるまでに何度かひどい砂塵《すなぼこり》を浴びた。往《い》きには追い風であったから、まだよかったが、戻《もど》りには向い風になったからたまらない。土手の柳の間に古着《ふるぎ》古足袋《ふるたび》古股引《ふるももひき》の類《たぐい》を並べる露店から、客待ち顔な易者の店までが砂だらけだ。目もあけていられないようなやつが、また向こうからやって来る。そのたびに半蔵らは口をふさぎ、顔をそむけて、深い砂塵《すなぼこり》の通り過ぎるのを待った。乾燥しきった道路に舞い揚がる塵埃《ほこり》で、町の空までが濁った色に黄いろい。
 両国の旅籠屋《はたごや》に戻ってから、三人は二階で※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《かみしも》をぬいだり、腰につけた印籠《いんろう》を床の間に預けたりして、互いにその日のことを語り合った。
「とにかく、きょうの模様を国の方へ報告して置くんですね。」
「早速福島の方へそう言ってやりましょう。」
「わたしも一つ馬籠《まごめ》へ手紙を出して、仕訳帳《しわけちょう》を至急取り寄せなけりゃならない。」
 多くの江戸の旅人宿と同じように、十一屋にも風呂場《ふろば》は設けてない。半蔵らは町の銭湯へ汗になったからだを洗いに行ったが、手ぬぐいを肩にかけて帰って来るころは、風も静まった。家々の表に打たれる水も都会の町中らしい時が来た。十一屋では夕飯も台所で出た。普通の場合、旅客は皆台所に集まって食った。
 食後に、半蔵らが二階にくつろいでいると、とかく同郷の客はなつかしいと言っている話し好きな十一屋の隠居がそこへ話し込みに来る。部屋《へや》の片すみに女中の置いて行った古風な行燈《あんどん》からして、堅気《かたぎ》な旅籠屋らしいところだ。
「なんと言っても[#「なんと言っても」は底本では「なんと言っも」]、江戸は江戸ですね。」と言い出すのは平助だ。「きょうは屋敷町の方で蚊帳《かや》売りの声を聞いて来ましたよ。」
「えゝ、蚊帳や蚊帳と、よい声で呼んでまいります。一町も先から呼んで来るのがわかります。あれは越後者《えちごもの》だそうですが、江戸名物の一つでございます。あの声を聞きますと、手前なぞは木曾から初めて江戸へ出てまいりました時分のことをよく思い出します。」と隠居が言う。
 幸兵衛も手さげのついた煙草盆《たばこぼん》を引き寄せて、一服吸い付けながらその話を引き取った。「十一屋さん、江戸もずいぶん不景気のようですね。」
「いや、あなた、不景気にも何にも。」と隠居は受けて、「お屋敷方があのとおりでしょう。きのうもあの建具屋の阿爺《おやじ》が見えまして、どこのお屋敷からも仕事が出ない、吾家《うち》の忰《せがれ》なぞは去年の暮れからまるきり遊びです、そう言いまして、こぼし抜いておりました。そんならお前の家の子息《むすこ》は何をしてるッて、手前が言いましたら、することがないから当時流行の剣術のけいこですとさ。だんだん聞いて見ますと、江戸にはちょいちょい火事があるんで、まあ息がつけます、仕事にありつけますなんて、そんなことを言っていましたっけ。ああいう職人にして見たら、それが正直なところかもしれませんね。」
「火事があるんで、息がつけるか。江戸は広い。」と平助はくすくすやる。
「いえ、串談《じょうだん》でなしに。火事は江戸の花――だれがあんなことを言い出したものですかさ。そのくせ、江戸の人くらい火事をこわがってるものもありませんがね。この節は夏でも火事があるんで、みんな用心しておりますよ。放火、放火――あのうわさはどうでしょう。苦しくなって来ると、それをやりかねないんです。ひどいやつになりますと、樋《とい》を逆さに伏せて、それを軒から軒へ渡して、わざわざ火を呼ぶと言いますよ。」
「全く、これじゃ公方様のお膝元《ひざもと》はひどい。」と幸兵衛は言った。「今度わたしも出て来て見て、そう思いました。この江戸を毎日見ていたら、参覲交代を元通りにしたいと考えるのも無理はないと思いますね。」
 幸兵衛と半蔵とはかなり庄屋気質《しょうやかたぎ》を異にしていた。不思議にも、旅は年齢の相違や立場を忘れさせる。半蔵は宿屋のかみさんが貸してくれた糊《のり》のこわい浴衣《ゆかた》の肌《はだ》ざわりにも旅の心を誘われながら、黙しがちにみんなの話に耳を傾けた。
「どうも、油断のならない世の中になりました。」と隠居は言葉をつづけて、「大店《おおだな》は大店で、仕入れも手控え、手控えのようです。おまけに昼は押し借り、夜は強盗の心配でございましょう。まあ、手前どもにはよくわかりませんが、お屋敷方の御隠居でも若様でも御簾中《ごれんちゅう》でも御帰国御勝手次第というような、そんな御改革はだれがしたなんて、慶喜公を恨んでいるものもございます。あの豚一様《ぶたいちさま》(豚肉を試食したという一橋公の異名)か、何も知らないものは諧謔《ふざけ》半分にそんなことを申しまして、とかく江戸では慶喜公の評判がよくございません……」
 江戸の話は尽きなかった。
 その晩、半蔵はおそくまでかかって、旅籠屋の行燈《あんどん》のかげで郷里の伏見屋伊之助あてに手紙を書いた。町々では夜燈なしに出歩くことを禁ぜられ、木戸木戸は堅く閉ざされた。警察もきびしくなって、その年の四月以来江戸市中に置かれたという邏卒《らそつ》が組の印《しる》しを腰につけながら屯所《たむろしょ》から回って来た。それすら十一屋の隠居のように町に居住するものから言わせれば、実に歯がゆいほどの巡回の仕方で。

       二

 江戸の旅籠屋《はたごや》は公事宿《くじやど》か商人宿のたぐいで、京坂地方のように銀三匁も四匁も宿泊料を取るようなぜいたくを尽くした家はほとんどない。公用商用のためこの都会に集まるものを泊めるのが旨としてあって、家には風呂場《ふろば》も設けず、膳部《ぜんぶ》も台所で出すくらいで、万事が実に質素だ。しかし半蔵が十年前に来て泊まって見たころとは宿賃からして違う。昼食抜きの二百五十文ぐらいでは泊めてくれない。
 道中奉行の意向がわかってから、間もなく半蔵は両国の十一屋を去ることにした。同行の二人《ふたり》の庄屋をそこに残して置いて、自分だけは本所相生町《ほんじょあいおいちょう》の方へ移った。同じ本所に住む平田同門の医者の世話で、その人の懇意にする家の二階に置いてもらうことをしきりに勧められたからで。
 半蔵が移って行った相生町の家は、十一屋からもそう遠くない。回向院《えこういん》から東にあたる位置で、一つ目の橋の近くだ。そこには親子三人暮らしの気の置けない家族が住む。亭主《ていしゅ》多吉《たきち》は深川《ふかがわ》の米問屋へ帳付けに通《かよ》っているような人で、付近には名のある相撲《すもう》の関取《せきとり》も住むような町中であった。早速《さっそく》平助は十一屋のあるところから両国橋を渡って、その家に半蔵を訪《たず》ねて来た。
「これはよい家が見つかりましたね。」
 平助は半蔵と一緒にその二階に上がってから言った。夏は二階の部屋《へや》も暑いとされているが、ここは思ったより風通しもよい。西に窓もある。しばらく二人はそんなことを語り合った。
「時に、半蔵さん。」と平助が言い出した。「どうもお役所の仕事は長い。去年木曾[#「木曾」は底本では「木曽」]から総代が出て来た時は、あれは四月の末でした。それが今年《ことし》の正月までかかりました。今度もわたしは長いと見た。」
「まったく、近ごろは道中奉行の交代も頻繁《ひんぱん》ですね。」と半蔵は答える。「せっかく地方の事情に通じた時分には一年か二年で罷《や》めさせられる。あれじゃお役所の仕事も手につかないわけですね。」
「そう言えば、半蔵さん、江戸にはえらい話がありますよ。わたしは山村様のお屋敷にいる人たちから、神奈川奉行の組頭《くみがしら》が捕《つか》まえられた話を聞いて来ましたよ。どうして、君、これは聞き捨てにならない。その人は神奈川奉行の組頭だと言うんですから、ずいぶん身分のある人でしょうね。親類が長州の方にあって、まあ手紙をやったと想《おも》ってごらんなさい。親類へやるくらいですから普通の手紙でしょうが、ふとそれが探偵《たんてい》の手にはいったそうです。まことに穏やかでない御時節がらで、お互いに心配だ、どうか明君賢相が出てなんとか始末をつけてもらいたい、そういうことが書いてあったそうです。それを幕府のお役人が見て、何、天下が騒々しい、これは公方様《くぼうさま》を蔑《ないがし》ろにしたものだ、公方様以外に明君が出てほしいと言うなら、いわゆる謀反人《むほんにん》だということになって、組頭はすぐにお城の中で捕縛されてしまった。どうも、大変な話じゃありませんか。それから組頭が捕《つか》まえられると同時に家捜《やさが》しをされて、当人はそのまま伝馬町《てんまちょう》に入牢《にゅうろう》さ。なんでもたわいない吟味のあったあとで、組頭は牢中で切腹を申し付けられたと言いますよ。東片町《ひがしかたまち》のお屋敷でその話が出て、皆驚いていましたっけ。組頭の検死に行った御小人目付《おこびとめつけ》を知ってる人もあのお屋敷にありましてね、検死には行ったがまことに気の毒だったと、あとで御小人目付がそう言ったそうです。あの話を聞いたら、なんだかわたしは江戸にいるのが恐ろしくなって来ました。こうして宿方の費用で滞在して、旅籠屋の飯を食ってるのも気が気じゃありません。」
 この平助の言うように、長い旅食《りょしょく》は半蔵にしても心苦しかった。しかし、道中奉行に差し出す諸帳簿の検閲を受け、問わるるままに地方の事情を上申するというだけでは済まされなかった。この江戸出府を機会に、もう一度|定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願を持ち出し、かねての木曾十一宿の申し合わせを貫かないことには、平助にしてもまた半蔵にしても、このまま国へは帰って行かれなかった。
 前年、五人の総代が木曾から出て来た時、何ゆえに一行の嘆願が道中奉行の容《い》れるところとならなかったか。それは、よくよく村柄《むらがら》をお糺《ただ》しの上でなければ、容易に定助郷を仰せ付けがたいとの理由による。しかし、五人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるからと言って、道中奉行は元治元年の二月から向こう六か月を限り、定助郷のかわりに当分助郷を許した。そして木曾下四宿への当分助郷としては伊奈《いな》百十九か村、中三宿へは伊奈九十九か村、上四宿へは筑摩郡《ちくまごおり》八十九か村と安曇郡《あずみごおり》百四十四か村を指定した。このうち遠村で正人馬《しょうじんば》を差し出しかね代永勤《だいえいづと》めの示談に及ぶとしても、一か年高百石につき金五両の割合より余分には触れ当てまいとの約束であった。過ぐる半年近くの半蔵らの経験によると、この新規な当分助郷の村数が驚くばかりに拡大されたことは、かえって以前からの勤め村に人馬の不参を多くするという結果を招いた。これはどうしても前年の総代が嘆願したように、やはり東海道の例にならって定助郷を設置するにかぎる。道中奉行に誠意があるなら、適当な村柄を糺《ただ》されたい、もっと助郷の制度を完備して街道の混乱を防がれたい。もしこの木曾十一宿の願いがいれられなかったら、前年の総代が申し合わせたごとく、お定めの人馬二十五人二十五|疋《ひき》以外には継立《つぎた》てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたい。そのことに平助と半蔵とは申し合わせをしたのであった。


 時も時だ。西にはすでに大和《やまと》五条の乱があり、続いて生野銀山《いくのぎんざん》の乱があり、それがようやくしずまったかと思うと、今度は東の筑波山《つくばさん》の方に新しい時代の来るのを待ち切れないような第三の烽火《のろし》が揚がった。尊王攘夷《そんのうじょうい》を旗じるしにする一部の水戸の志士はひそかに長州と連絡を執り、四月以来反旗をひるがえしているが、まだその騒動もしずまらない時だ。
 両国をさして帰って行く平助を送りながら、半蔵は一緒に相生町《あいおいちょう》の家を出た。不自由な旅の身で、半蔵には郷里の方から届く手紙のことが気にかかっていた。十一屋まで平助と一緒に歩いて、そのことを隠居によく頼みたいつもりで出た。
「平助さん、筑波《つくば》が見えますよ。」
 半蔵は長い両国橋の上まで歩いて行った時に言った。
「あれが筑波ですかね。」
 と言ったぎり、平助も口をつぐんだ。水戸はどんなに騒いでいるだろうかとも、江戸詰めの諸藩の家中や徳川の家の子郎党なぞはどんな心持ちで筑波の方を望みながらこの橋を渡るだろうかとも、そんな話は出なかった。ただただ平助は昔風の庄屋気質《しょうやかたぎ》から、半蔵と共に旅の心配を分《わか》つのほかはなかった。
 その時、半蔵は向こうから橋を渡って帰って来る二人連れの女の子にもあった。その一人は相生町の家の娘だ。清元《きよもと》の師匠のもとからの帰りででもあると見えて、二人とも稽古本《けいこぼん》を小脇《こわき》にかかえながら橋を渡って来る。ちょうど半蔵が郷里の馬籠の家に残して置いて来たお粂《くめ》を思い出させるような年ごろの小娘たちだ。
「半蔵さん、相生町にはあんな子供があるんですか。」
 と平助が言っているところへ、一人の方の女の子が近づいて来て、半蔵にお辞儀をして通り過ぎた。後ろ姿もかわいらしい。男の子のように結った髪のかたちから、さっぱりとした浴衣《ゆかた》に幅の狭い更紗《さらさ》の帯をしめ、後ろにたれ下がった浅黄《あさぎ》の付け紐《ひも》を見せたところまで、ちょっと女の子とは見えない。小娘ではありながら男の子の服装だ。その異様な風俗がかえってなまめかしくもある。
「へえ、あれが女の子ですかい。わたしは男の子かとばかり思った。」と平助が笑う。
「でしょう。何かの願掛《がんが》けで、親たちがわざとあんな男の子の服装《なり》をさせてあるんだそうです。」
 そう答えながら、半蔵の目はなおも歩いて行く小娘たちの後ろ姿を追った。連れだって肩を並べて行く一人の方の女の子は、髪をお煙草盆《たばこぼん》というやつにして、渦巻《うずま》きの浴衣に紅《あか》い鹿《か》の子《こ》の帯を幅狭くしめたのも、親の好みをあらわしている。巾着《きんちゃく》もかわいらしい。
「都に育つ子供は違いますね。」
 それを半蔵が言って、平助と一緒に見送った。
 十一屋の隠居は店先にいた。格子戸《こうしど》のなかで、旅籠屋《はたごや》らしい掛け行燈《あんどん》を張り替えていた。頼む用事があって来た半蔵を見ると、それだけでは済まさせない。毎年五月二十八日には浅草川《あさくさがわ》の川開きの例だが、その年の花火には日ごろ出入りする屋敷方の御隠居をも若様をも迎えることができなかったと言って見せるのはこの隠居だ。遠くは水神《すいじん》、近くは首尾《しゅび》の松あたりを納涼の場所とし、両国を遊覧の起点とする江戸で、柳橋につないである多くの屋形船《やかたぶね》は今後どうなるだろうなどと言って見せるのもこの人だ。川一丸、関東丸、十一間丸などと名のある大船を水に浮かべ、舳先《へさき》に鎗《やり》を立てて壮《さか》んな船遊びをしたという武家全盛の時代を引き合いに出さないまでも、船屋形の両辺を障子で囲み、浅草川に暑さを避けに来る大名旗本の多かったころには、水に流れる提灯《ちょうちん》の影がさながら火の都鳥であったと言って見せるのもこの話し好きの人だ。
「半蔵さん、まあ話しておいでなさるさ。」
 と平助も二階へ上がらずにいて、半蔵と一緒にその店先でしばらく旅らしい時を送ろうとしていた。その時、隠居は思い出したように、
「青山さん、あれから宮川先生もどうなすったでしょう。浜の貿易にはあの先生もしっかりお儲《もう》けでございましたろうねえ。なんでも一|駄《だ》もあるほどの小判《こばん》を馬につけまして、宰領の衆も御一緒で、中津川へお帰りの時も手前どもから江戸をお立ちになりましたよ。」
 これには半蔵も答えられなかった。彼は忘れがたい旧師のことを一時の浮沈《うきしずみ》ぐらいで一口に言ってしまいたくなかった。ただあの旧師が近く中津川を去って、伊勢《いせ》の方に晩年を送ろうとしている人であることをうわさするにとどめていた。
「横浜貿易と言えば、あれにはずいぶん祟《たた》られた人がある。」と言うのは平助だ。「中津川あたりには太田の陣屋へ呼び出されて、尾州藩から閉門を仰せ付けられた商人もあるなんて、そんな話じゃありませんか。お灸《きゅう》だ。もうけ過ぎるからでさ。」
「万屋《よろずや》さんもどうなすったでしょう。」と隠居が言う。
「万屋さんですか。」と半蔵は受けて、「あの人はぐずぐずしてやしません。横浜の商売も生糸《きいと》の相場が下がると見ると、すぐに見切りをつけて、今度は京都の方へ目をつけています。今じゃ上方《かみがた》へどんどん生糸の荷を送っているでしょうよ。」
「どうも美濃《みの》の商人にあっちゃ、かなわない。中津川あたりにはなかなか勇敢な人がいますね。」と平助が言って見せる。
「宮川先生で思い出しました。」と隠居は言った。「手前が喜多村瑞見《きたむらずいけん》というかたのお供をして、一度神奈川の牡丹屋《ぼたんや》にお訪《たず》ねしたことがございました。青山さんは御存じないかもしれませんが、この喜多村先生がまた変わり物と来てる。元は幕府の奥詰《おくづめ》のお医者様ですが、開港当時の函館《はこだて》の方へ行って長いこと勤めていらっしゃるうちに、士分に取り立てられて、間もなく函館奉行の組頭でさ。今じゃ江戸へお帰りになって、昌平校《しょうへいこう》の頭取《とうどり》から御目付(監察)に出世なすった。外交|掛《がか》りを勤めておいでですが、あの調子で行きますと今に外国奉行でしょう。手前もこんな旅籠屋渡世《はたごやとせい》をして見ていますが、あんなに出世をなすったかたもめずらしゅうございます。」
「徳川幕府に人がないでもありませんかね。」
 この平助のトボケた調子に、隠居も笑い出した、外国貿易に、開港の結果に、それにつながる多くの人の浮沈《うきしずみ》に、聞いている半蔵には心にかかることばかりであった。
 その日から、半蔵は両国橋の往《い》き還《かえ》りに筑波山《つくばさん》を望むようになった。関東の平野の空がなんとなく戦塵《せんじん》におおわれて来たことは、それだけでも役人たちの心を奪い、お役所の事務を滞らせ、したがって自分らの江戸滞在を長引かせることを恐れた。時には九十六|間《けん》からある長い橋の上に立って、木造の欄干に倚《よ》りかかりながら丑寅《うしとら》の方角に青く光る遠い山を望んだ。どんな暑苦しい日でも、そこまで行くと風がある。目にある隅田川《すみだがわ》も彼には江戸の運命と切り離して考えられないようなものだった。どれほどの米穀を貯《たくわ》え、どれほどの御家人旗本を養うためにあるかと見えるような御蔵《おくら》の位置はもとより、両岸にある形勝の地のほとんど大部分も武家のお下屋敷で占められている。おそらく百本杭《ひゃっぽんぐい》は河水の氾濫《はんらん》からこの河岸《かし》や橋梁《きょうりょう》を防ぐ工事の一つであろうが、大川橋(今の吾妻橋《あずまばし》)の方からやって来る隅田川の水はあだかも二百何十年の歴史を語るかのように、その百本杭の側に最も急な水勢を見せながら、両国の橋の下へと渦《うず》巻き流れて来ていた。


 三人の庄屋が今度の江戸出府を機会に嘆願を持ち出したのは、理由のないことでもない。早い話が参覲交代制度の廃止は上から余儀なくされたばかりでなく、下からも余儀なくされたものである。たといその制度の復活が幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》する上からも、またこの深刻な不景気から江戸を救う上からも幕府の急務と考えられて来たにもせよ、繁文縟礼《はんぶんじょくれい》が旧のままであったら、そのために苦しむものは地方の人民であったからで。
 しかし、道中奉行の協議中、協議中で、庄屋側からの願いの筋も容易にはかどらなかった。半蔵らは江戸の町々に山王社《さんのうしゃ》の祭礼の来るころまで待ち、月を越えて将軍が天璋院《てんしょういん》や和宮様《かずのみやさま》と共に新たに土木の落成した江戸城西丸へ田安御殿《たやすごてん》の方から移るころまで待った。
 七月の二十日ごろまで待つうちに、さらに半蔵らの旅を困難にすることが起こった。
「長州様がいよいよ御謀反《ごむほん》だそうな。」
 そのうわさは人の口から口へと伝わって行くようになった。早乗りの駕籠《かご》は毎日|幾立《いくたて》となく町へ急いで来て、京都の方は大変だと知らせ、十九日の昼時に大筒《おおづつ》鉄砲から移った火で洛中《らくちゅう》の町家の大半は焼け失《う》せたとのうわさをすら伝えた。半蔵が十一屋まで行って幸兵衛や平助と一緒になり、さらに三人連れだって殺気のあふれた町々を浅草橋の見附《みつけ》から筋違《すじかい》の見附まで歩いて行って見たのは二十三日のことであったが、そこに人だかりのする高札場《こうさつば》にはすでに長州征伐のお触《ふ》れ書《しょ》が掲げられていた。
 七月二十九日はちょうど二百十日の前日にあたる。半蔵は他の二人《ふたり》の庄屋と共に、もっと京都の方の事実を確かめたいつもりで、東片町《ひがしかたまち》の屋敷に木曾福島の山村氏が家中衆を訪《たず》ねた。そこでは京都まで騒動聞き届け役なるものを仰せ付けられた人があって、その前夜にわかに屋敷を出立したという騒ぎだ。京都合戦の真相もほぼその屋敷へ行ってわかった。確かな書面が名古屋のお留守居からそこに届いていて、長州方の敗北となったこともわかった。
 その時になって見ると、長州征伐の命令が下ったばかりでなく、松平大膳太夫《まつだいらだいぜんのだゆう》ならびに長門守《ながとのかみ》は官位を剥《は》がれ、幕府より与えられた松平姓と将軍家|御諱《おんいみな》の一字をも召し上げられた。長防両国への物貨輸送は諸街道を通じてすでに堅く禁ぜられていた。
 ある朝、暁《あけ》の七つ時とも思われるころ。半蔵は本所相生町《ほんじょあいおいちょう》の家の二階に目をさまして、半鐘の音を枕《まくら》の上で聞いた。火事かと思って、彼は起き出した。まず二階の雨戸を繰って見ると、別に煙らしいものも目に映らない。そのうちに寝衣《ねまき》のままで下から梯子段《はしごだん》をのぼって来たのはその家の亭主《ていしゅ》多吉だ。
「火事はどこでございましょう。」
 という亭主と一緒に、半蔵はその二階から物干し場に登った。家々の屋根がそこから見渡される。付近に火の見のある家は、高い屋根の上に登って、町の空に火の手の揚がる方角を見さだめようとするものもある。
「青山さん、表が騒がしゅうございますよ。」
 と下から呼ぶ多吉がかみさんの声もする。半蔵と亭主はそれを聞きつけて、二階から降りて見た。
 多くの人は両国橋の方角をさして走った。半蔵らが橋の畔《たもと》まで急いで行って見た時は、本所方面からの鳶《とび》の者の群れが刺子《さしこ》の半天に猫頭巾《ねこずきん》で、手に手に鳶口《とびぐち》を携えながら甲高《かんだか》い叫び声を揚げて繰り出して来ていた。組の纏《まとい》が動いて行ったあとには、消防用の梯子《はしご》が続いた。革羽織《かわばおり》、兜頭巾《かぶとずきん》の火事|装束《しょうぞく》をした人たちはそれらの火消し人足を引きつれて半蔵らの目の前を通り過ぎた。
 長州屋敷の打ち壊《こわ》しが始まったのだ。幕府はおのれにそむくものに対してその手段に出た。江戸じゅうの火消し人足が集められて、まず日比谷《ひびや》にある毛利家《もうりけ》の上屋敷が破壊された。かねて長州方ではこの事のあるのを予期してか、あるいは江戸を見捨てるの意味よりか、先年諸大名の家族が江戸屋敷から解放されて国勝手《くにがって》の命令が出たおりに、日比谷にある長州の上屋敷では表奥《おもておく》の諸殿を取り払ったから、打ち壊されたのは四方の長屋のみであった。麻布龍土町《あざぶりゅうどちょう》の中屋敷、俗に長州の檜屋敷《ひのきやしき》と呼ぶ方にはまだ土蔵が二十か所もあって、広大な建物も残っていた。打ち壊しはそこでも始まった。大きな柱は鋸《のこぎり》や斧《おの》で伐《き》られ、それに大綱を鯱巻《しゃちま》きにして引きつぶされた。諸道具諸書物の類《たぐい》は越中島で焼き捨てられ、毛利家の定紋《じょうもん》のついた品はことごとくふみにじられた。


 やがて京都にある友人景蔵からのめずらしい便《たよ》りが、両国|米沢町《よねざわちょう》十一屋あてで、半蔵のもとに届くようになった。あの年上の友人が安否のほども気づかわれていた時だ。彼は十一屋からそれを受け取って来て、相生町の二階でひらいて見た。
 とりあえず彼はその手紙に目を通して、あの友人も無事、師|鉄胤《かねたね》も無事、京都にある平田同門の人たちのうち下京《しもぎょう》方面のものは焼け出されたが幸いに皆無事とあるのを確かめた。さらに彼は繰り返し読んで見た。
 相変わらず景蔵の手紙はこまかい。過ぐる年の八月十七日の政変に、王室回復の志を抱《いだ》く公卿《くげ》たち、および尊攘派《そんじょうは》の志士たちと気脈を通ずる長州藩が京都より退却を余儀なくされたことを思えば、今日この事のあるのは不思議もないとして、七月十九日前後の消息を伝えてある。
 池田屋の変は六月五日の早暁のことであった。守護職、所司代《しょしだい》、および新撰組《しんせんぐみ》の兵はそこに集まる諸藩の志士二十余名を捕えた。尊攘派の勢力を京都に回復し、会津《あいづ》と薩摩《さつま》との支持する公武合体派の本拠を覆《くつがえ》し、筑波山《つくばさん》の方に拠《よ》る一派の水戸の志士たちとも東西相呼応して事を挙《あ》げようとしたそれらの種々の計画は、与党の一人《ひとり》なる近江人《おうみじん》の捕縛より発覚せらるるに至った。この出来事があってから、長州方はもはや躊躇《ちゅうちょ》すべきでないとし、かねて準備していた挙兵上京の行動に移り、それを探知した幕府方もようやく伏見、大津の辺を警戒するようになった。守護職松平|容保《かたもり》のにわかな参内《さんだい》と共に、九門の堅くとざされたころは、洛中の物情騒然たるものがあった。七月十八日には三道よりする長州方の進軍がすでに開始されたとの報知《しらせ》が京都へ伝わった。夜が明けて十九日となると、景蔵は西の蛤御門《はまぐりごもん》、中立売御門《なかだちうりごもん》の方面にわくような砲声を聞き、やがて室町《むろまち》付近より洛中に延焼した火災の囲みの中にいたとある。
 今度の京都の出来事を注意して見るものには、長州藩に気脈を通じていて、しかも反覆常なき二、三藩のあったことも見のがせない事実であり、堂上にはまた、この計画に荷担して幕府に反対し併《あわ》せて公武合体派を排斥しようとする有栖川宮《ありすがわのみや》をはじめ、正親町《おおぎまち》、日野、石山その他の公卿たちがあったことも見のがせない、と景蔵は言っている。烈風に乗じて火を内裏《だいり》に放ち、中川宮および松平容保の参内を途中に要撃し、その擾乱《じょうらん》にまぎれて鸞輿《らんよ》を叡山《えいざん》に奉ずる計画のあったことも知らねばならないと言ってある。流れ丸《だま》はしばしば飛んで宮中の内垣《うちがき》に及んだという。板輿《いたこし》をお庭にかつぎ入れて帝《みかど》の御動座を謀《はか》りまいらせるものがあったけれども、一橋慶喜はそれを制《おさ》えて動かなかったという。なんと言っても蛤御門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名《くわな》の護《まも》るところであったからで。皇居の西南には樟《くす》の大樹がある。築地《ついじ》を楯《たて》とし家を砦《とりで》とする戦闘はその樹《き》の周囲でことに激烈をきわめたという。その時になって長州は実にその正反対を会津に見いだしたのである。薩州勢なぞは別の方面にあって幕府方に多大な応援を与えたけれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を迎え撃ち、時には蛤御門を押し開き、筒先も恐れずに刀鎗を用いて接戦するほどの東北的な勇気をあらわしたという。
 この市街戦はその日|未《ひつじ》の刻《こく》の終わりにわたった。長州方は中立売《なかだちうり》、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのは巳《み》の刻《こく》のころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川《たかせがわ》から西は堀川《ほりかわ》に及び、南は九条にまで及んで下京のほとんど全都は火災のうちにあった。年寄りをたすけ幼いものを負《おぶ》った男や女は景蔵の右にも左にもあって、目も当てられないありさまであったと認《したた》めてある。
 しかし、景蔵の手紙はそれだけにとどまらない。その中には、真木和泉《まきいずみ》の死も報じてある。弘化《こうか》安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児と謳《うた》われた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹者《こすいしゃ》は自ら引き起こした戦闘の悲壮な空気の中に倒れて行った。彼は最後の二十一日まで踏みとどまろうとしたが、その時は山崎に退いた長州兵も散乱し、久坂《くさか》、寺島、入江らの有力な同僚も皆戦死したあとで、天王山に走って、そこで自刃した。
 この真木和泉の死について、景蔵の所感もその手紙の中に書き添えてある。尊王と攘夷との一致結合をねらい、それによって世態の変革を促そうとした安政以来の志士の運動は、事実においてその中心の人物を失ったとも言ってある。平田門人としての自分らは――ことに後進な自分らは、彼真木和泉が生涯《しょうがい》を振り返って見て、もっと自分らの進路を見さだむべき時に到達したと言ってある。
 半蔵はその手紙で、中津川の友人香蔵がすでに京都にいないことを知った。その手紙をくれた景蔵も、ひとまず長い京都の仮寓《かぐう》を去って、これを機会に中津川の方へ引き揚げようとしていることを知った。


 真木和泉の死を聞いたことは、半蔵にもいろいろなことを考えさせた。景蔵の手紙にもあるように、対外関係のことにかけては硬派中の硬派とも言うべき真木和泉らのような人たちも、もはやこの世にいなかった。生前幕府の軟弱な態度を攻撃することに力をそそぎ、横浜|鎖港《さこう》の談判にも海外使節の派遣にもなんら誠意の見るべきものがないとし、将軍の名によって公布された幕府の攘夷もその実は名のみであるとしたそれらの志士たちも京都の一戦を最後にして、それぞれ活動の舞台から去って行った。
 これに加えて、先年五月以来の長州藩が攘夷の実行は豊前《ぶぜん》田《た》の浦《うら》におけるアメリカ商船の砲撃を手始めとして、下《しも》の関《せき》海峡を通過する仏国軍艦や伊国軍艦の砲撃となり、その結果長州では十八隻から成る英米仏蘭四国連合艦隊の来襲を受くるに至った。長州の諸砲台は多く破壊せられ、長藩はことごとく撃退せられ、下の関の市街もまたまさに占領せらるるばかりの苦《にが》い経験をなめたあとで、講和の談判はどうやら下の関から江戸へ移されたとか、そんな評判がもっぱら人のうわさに上るころである。開港か、攘夷か。それは四|艘《そう》の黒船が浦賀の久里《くり》が浜《はま》の沖合いにあらわれてから以来の問題である。国の上下をあげてどれほど深刻な動揺と狼狽《ろうばい》と混乱とを経験して来たかしれない問題である。一方に攘夷派を頑迷《がんめい》とののしる声があれば、一方に開港派を国賊とののしり返す声があって、そのためにどれほどの犠牲者を出したかもしれない問題である。英米仏蘭四国を相手の苦い経験を下の関になめるまで、攘夷のできるものと信じていた人たちはまだまだこの国に少なくなかった。好《よ》かれ悪《あ》しかれ、実際に行なって見て、初めてその意味を悟ったのは、ひとり長州地方の人たちのみではなかった。その時になって見ると、全国を通じてあれほどやかましかった多年の排外熱も、ようやく行くところまで行き尽くしたかと思わせる。

       三

 とうとう、半蔵は他の庄屋たちと共に、道中奉行からの沙汰《さた》を九月末まで待った。奉行から話のあった仕訳書上帳《しわけかきあげちょう》の郷里から届いたのも差し出してあり、木曾十一宿総代として願書も差し出してあって、半蔵らはかわるがわる神田橋《かんだばし》外の屋敷へ足を運んだが、そのたびに今すこし待て、今すこし待てと言われるばかり。両国十一屋に滞在する平助も、幸兵衛もしびれを切らしてしまった。こんな場合に金を使ったら、尾州あたりの留守居役を通しても、もっとてきぱき運ぶ方法がありはしないかなどと謎《なぞ》をかけるものがある。そんな無責任な人の言うことが一層半蔵をさびしがらせた。
「さぞ、御退屈でしょう。」
 と言って相生町《あいおいちょう》の家の亭主《ていしゅ》が深川の米問屋へ出かける前に、よく半蔵を見に来る。四か月も二階に置いてもらううちに、半蔵はこの人を多吉さんと呼び、かみさんをお隅《すみ》さんと呼び、清元《きよもと》のけいこに通《かよ》っている小娘のことをお三輪《みわ》さんと呼ぶほどの親しみを持つようになった。
「青山さん、宅じゃこんな勤めをしていますが、たまにお暇《ひま》をもらいまして、運座《うんざ》へ出かけるのが何よりの楽しみなんですよ。ごらんなさい、わたしどもの家には白い団扇《うちわ》が一本も残っていません。一夏もたって見ますと、どの団扇にも宅の発句《ほっく》が書き散らしてあるんですよ。」
 お隅がそれを半蔵に言って見せると、多吉は苦笑《にがわら》いして、矢立てを腰にすることを忘れずに深川米の積んである方へ出かけて行くような人だ。
 筑波《つくば》の騒動以来、関東の平野の空も戦塵《せんじん》におおわれているような時に、ここには一切の争いをよそにして、好きな俳諧《はいかい》の道に遊ぶ多吉のような人も住んでいた。生まれは川越《かわごえ》で、米問屋と酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。生来の寡欲《かよく》と商法の手違いとから、この多吉が古い暖簾《のれん》も畳《たた》まねばならなくなった時、かみさんはまた、草鞋《わらじ》ばき尻端折《しりはしょ》りになって「おすみ団子《だんご》」というものを売り出したこともあり、一家をあげて江戸に移り住むようになってからは、夫《おっと》を助けてこの都会に運命を開拓しようとしているような健気《けなげ》な婦人だ。
 そういうかみさんはまだ半蔵が妻のお民と同年ぐらいにしかならない。半蔵はこの婦人の顔を見るたびに、郷里の本陣の方に留守居するお民を思い出し、都育ちのお三輪の姿を見るたびに、母親のそばで自分の帰国を待ち受けている娘のお粂《くめ》を思い出した。徳川の代ももはや元治年代の末だ。社会は武装してかかっているような江戸の空気の中で、全く抵抗力のない町家の婦人なぞが何を精神の支柱とし、何を力として生きて行くだろうか。そう思って半蔵がこの宿のかみさんを見ると、お隅は正直ということをその娘に教え、それさえあればこの世にこわいもののないことを言って聞かせ、こうと彼女が思ったことに決して間違った例《ためし》のないのもそれは正直なおかげだと言って、その女の一心にまだ幼いお三輪を導こうとしている。
「青山さん、あなたの前ですが、青表紙《あおびょうし》の二枚や三枚読んで見たところで、何の役にも立ちますまいねえ。」
「どうもおかみさんのような人にあっちゃ、かないませんよ。」
 この家へは、亭主が俳友らしい人たちも訪《たず》ねて来れば、近くに住む相撲《すもう》取りも訪ねて来る。かみさんを力にして、酒の席を取り持つ客商売から時々息抜きにやって来るような芸妓《げいぎ》もある。かみさんとは全く正反対な性格で、男から男へと心を移すような女でありながら、しかもかみさんとは一番仲がよくて、気持ちのいいほど江戸の水に洗われたような三味線《しゃみせん》の師匠もよく訪ねて来る。
 お隅は言った。
「不景気、不景気でも、芝居《しばい》ばかりは大入りですね。春の狂言なぞはどこもいっぱい。どれ――青山さんに、猿若町《さるわかちょう》の番付《ばんづけ》をお目にかけて。」
 相生町ではこの調子だ。
 六月の江戸出府以来、四月近くもむなしく奉行の沙汰《さた》を待つうちに、旅費のかさむことも半蔵には気が気でなかった。東片町《ひがしかたまち》にある山村氏の屋敷には、いろいろな家中衆もいるが、木曾福島の田舎侍《いなかざむらい》とは大違いで、いずれも交際|上手《じょうず》な人たちばかり。そういう人たちがよく半蔵を誘いに来て、広小路《ひろこうじ》にかかっている松本松玉《まつもとしょうぎょく》の講釈でもききに行こうと言われると、帰りには酒のある家へ一緒に付き合わないわけにいかない。それらの人たちへの義理で、幸兵衛や平助と共にある屋敷へ招かれ、物数奇《ものずき》な座敷へ通され、薄茶《うすちゃ》を出されたり、酒を出されたり、江戸の留守居とも思われないような美しい女まで出されて取り持たれると、どうしても一人前につき三|分《ぶ》ぐらいの土産《みやげ》を持参しなければならない。半蔵は国から持って来た金子《きんす》も払底《ふってい》になった。もっとも、多吉方ではむだな金を使わせるようなことはすこしもなく、食膳《しょくぜん》も質素ではあるが朔日《ついたち》十五日には必ず赤の御飯をたいて出すほど家族同様な親切を見せ、かみさんのお隅《すみ》がいったん引き受けた上は、どこまでも世話をするという顔つきでいてくれたが。こんなに半蔵も長逗留《ながとうりゅう》で、追い追いと懐《ふところ》の寒くなったところへ、西の方からは尾張《おわり》の御隠居を総督にする三十五藩の征長軍が陸路からも海路からも山口の攻撃に向かうとのうわさすら伝わって来た。


 この長逗留の中で、わずかに旅の半蔵を慰めたのは、国の方へ求めて行きたいものもあるかと思って本屋をあさったり、江戸にある平田同門の知人を訪《たず》ねたり、時には平田家を訪ねてそこに留守居する師|鉄胤《かねたね》の家族を見舞ったりすることであった。しかしそれにも増して彼が心を引かれたのは多吉夫婦で、わけてもかみさんのお隅のような目の光った人を見つけたことであった。
 江戸はもはや安政年度の江戸ではなかった。文化文政のそれではもとよりなかった。十年前の江戸の旅にはまだそれでも、紙、織り物、象牙《ぞうげ》、玉《ぎょく》、金属の類《たぐい》を応用した諸種の工芸の見るべきものもないではなかったが、今は元治年代を誇るべき意匠とてもない。半蔵はよく町々の絵草紙問屋《えぞうしどんや》の前に立って見るが、そこで売る人情本や、敵打《かたきう》ちの物語や、怪談物なぞを見ると、以前にも増して書物としての形も小さく、紙質も悪《あ》しく、版画も粗末に、一切が実に手薄《てうす》になっている。相変わらずさかんなのは江戸の芝居でも、怪奇なものはますます怪奇に、繊細なものはますます繊細だ。とがった神経質と世紀末の機知とが淫靡《いんび》で頽廃《たいはい》した色彩に混じ合っている。
 この江戸出府のはじめのころには、半蔵はよくそう思った。江戸の見物はこんな流行を舞台の上に見せつけられて、やり切れないような心持ちにはならないものかと。あるいは藍微塵《あいみじん》の袷《あわせ》、格子《こうし》の単衣《ひとえ》、豆絞りの手ぬぐいというこしらえで、贔屓《ひいき》役者が美しいならずものに扮《ふん》しながら舞台に登る時は、いよすごいぞすごいぞと囃《はや》し立てるような見物ばかりがそこにあるのだろうかと。四月も江戸に滞在して、いろいろな人にも交際して見るうちに、彼はこの想像がごく表《うわ》ッ面《つら》なものでしかなかったことを知るようになった。
 よく見れば、この頽廃《たいはい》と、精神の無秩序との中にも、ただただその日その日の刺激を求めて明日《あす》のことも考えずに生きているような人たちばかりが決して江戸の人ではなかった。相生町のかみさんのように、婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかった名もない町人の妻ですら、世の移り変わりを舞台の上にながめ、ふとした場面から時の感じを誘われると、人の泣かないようなことに泣けてしかたがないとさえ言っている。うっかり連中の仲間入りをして芝居見物には出かけられないと言っている。
 当時の武士でないものは人間でないような封建社会に、従順ではあるが決して屈してはいない町人をそう遠いところに求めるまでもなく、高い権威ぐらいに畏《おそ》れないものは半蔵のすぐそばにもいた。背は高く、色は白く、目の光も強く生まれついたかわりに、白粉《おしろい》一つつけたこともなくて、せっせと台所に働いているような相生町の家のかみさんには、こんな話もある。彼女の夫がまだ大きな商家の若主人として川越《かわごえ》の方に暮らしていたころのことだ。当時、お国替《くにが》えの藩主を迎えた川越藩では、きびしいお触れを町家に回して、藩の侍に酒を売ることを禁じた。百姓町人に対しては実にいばったものだという川越藩の新しい侍の中には、長い脇差《わきざし》を腰にぶちこんで、ある日の宵《よい》の口ひそかに多吉が家の店先に立つものがあった。ちょうど多吉は番頭を相手に、その店先で将棋をさしていた。いきなり抜き身の刀を突きつけて酒を売れという侍を見ると、多吉も番頭もびっくりして、奥へ逃げ込んでしまった。そのころのお隅《すみ》は十八の若さであったが、侍の前に出て、すごい権幕《けんまく》をもおそれずにきっぱりと断わった。先方は怒《おこ》るまいことか。そこへ店の小僧が運んで来た行燈《あんどん》をぶち斬《き》って見せ、店先の畳にぐざと刀を突き立て、それを十文字に切り裂いて、これでも酒を売れないかと威《おど》しにかかった。なんと言われても城主の厳禁をまげることはできないとお隅が答えた時に、その侍は彼女の顔をながめながら、「そちは、何者の娘か」と言って、やがて立ち去ったという話もある。
「江戸はどうなるでしょう。」
 半蔵は十一屋の二階の方に平助を見に行った時、腹下しの気味で寝ている連れの庄屋にそれを言った。平助は半蔵の顔を見ると、旅の枕《まくら》もとに置いてある児童の読本《よみほん》でも読んでくれと言った。幸兵衛も長い滞在に疲れたかして、そのそばに毛深い足を投げ出していた。


 ようやく十月の下旬にはいって、三人の庄屋は道中奉行からの呼び出しを受けた。都筑駿河《つづきするが》の役宅には例の徒士目付《かちめつけ》が三人を待ち受けていて、しばらく一室に控えさせた後、訴え所《じょ》の方へ呼び込んだ。
「ただいま駿河守は登城中であるから、自分が代理としてこれを申し渡す。」
 この挨拶《あいさつ》が公用人からあって、十一宿総代のものは一通の書付を読み聞かせられた。それには、定助郷《じょうすけごう》嘆願の趣ももっともには聞こえるが、よくよく村方の原簿をお糺《ただ》しの上でないと、容易には仰せ付けがたいとある。元来定助郷は宿駅の常備人馬を補充するために、最寄《もよ》りの村々へ正人馬勤《しょうじんばづと》めを申し付けるの趣意であるから、宿駅への距離の関係をよくよく調査した上でないと、定助郷の意味もないとある。しかし三人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるから、十一宿救助のお手当てとして一宿につき金三百両ずつを下し置かれるとある。ただし、右はお回《まわ》し金《きん》として、その利息にて年々各宿の不足を補うように心得よともある。別に、三人は請書《うけしょ》を出せと言わるる三通の書付をも公用人から受け取った。それには十一宿あてのお救いお手当て金下付のことが認《したた》めてあって、駿河《するが》佐渡《さど》二奉行の署名もしてある。
 木曾地方における街道付近の助郷が組織を完備したいとの願いは、ついにきき入れられなかった。三人の庄屋は定助郷設置のかわりに、そのお手当てを許されただけにも満足しなければならなかった。その時、庄屋方から差し出してあった人馬立辻帳《じんばたてつじちょう》、宿勘定仕訳帳等の返却を受けて、そんなことで屋敷から引き取った。
「どうも、こんな膏薬《こうやく》をはるようなやり方じゃ、これから先のことも心配です。」
 両国の十一屋まで三人一緒に戻《もど》って来た時、半蔵はそれを言い出したが、心中の失望は隠せなかった。
「半蔵さんはまだ若い。」と幸兵衛は言った。「まるきりお役人に誠意のないものなら、一|文《もん》だってお手当てなぞの下がるもんじゃありません。」
「まあ、まあ、これくらいのところで、早く国の方へ引き揚げるんですね――長居は無用ですよ。」
 平助は平助らしいことを言った。
 ともかくも、地方の事情を直接に道中奉行の耳に入れただけでも、十一宿総代として江戸へ呼び出された勤めは果たした。請書《うけしょ》は出した。今度は帰りじたくだ。半蔵らは東片町にある山村氏の屋敷から一時旅費の融通《ゆうずう》をしてもらって、長い逗留《とうりゅう》の間に不足して来た一切の支払いを済ませることにした。ところが、東片町には何かの機会に一|盃《ぱい》やりたい人たちがそろっていて、十一宿の願書が首尾よく納まったと聞くからには、とりあえず祝おう、そんなことを先方から切り出した。江戸詰めの侍たちは、目立たないところに料理屋を見立てることから、酒を置き、芸妓《げいぎ》を呼ぶことまで、その辺は慣れたものだ。半蔵とてもその席に一座して交際|上手《じょうず》な人たちから祝盃《しゅくはい》をさされて見ると、それを受けないわけに行かなかったが、宿方の用事で出て来ている身には酒も咽喉《のど》を通らなかった。その日は酒盛《さかも》り最中に十月ももはや二十日過ぎらしい雨がやって来た[#「やって来た」は底本では「やった来た」]。一座六人の中には、よいきげんになっても、まだ飲み足りないという人もいた。二軒も梯子《はしご》で飲み歩いて、無事に屋敷へ帰ったかもわからないような大|酩酊《めいてい》の人もいた。
 間もなく相生町《あいおいちょう》の二階で半蔵が送る終《つい》の晩も来た。出発の前日には十一屋の方へ移って他の庄屋とも一緒になる約束であったからで。その晩は江戸出府以来のことが胸に集まって来て、実に不用な雑費のみかさんだことを考え、宿方総代としてのこころざしも思うように届かなかったことを考えると、彼は眠られなかった。階下《した》でも多吉夫婦がおそくまで起きていると見えて、二人《ふたり》の話し声がぼそぼそ聞こえる。彼は枕《まくら》の上で、郷里の方の街道を胸に浮かべた。去る天保四年、同じく七年の再度の凶年で、村民が死亡したり離散したりしたために、馬籠《まごめ》のごとき峠の上の小駅ではお定めの人足二十五人を集めるにさえも、隣郷の山口村や湯舟沢村の加勢に待たねばならないことを思い出した。駅長としての彼が世話する宿駅の地勢を言って見るなら、上りは十曲峠《じっきょくとうげ》、下りは馬籠峠、大雨でも降れば道は河原のようになって、おまけに土は赤土と来ているから、嶮岨《けんそ》な道筋での継立《つぎた》ても人馬共に容易でないことを思い出した。冬春の雪道、あるいは凍り道などのおりはことに荷物の運搬も困難で、宿方役人どもをはじめ、伝馬役《てんまやく》、歩行役、七里役等の辛労は言葉にも尽くされないもののあることを思い出した。病み馬、疲れ馬のできるのも無理のないことを思い出した。郷里の方にいる時こそ、宿方と助郷村々との利害の衝突も感じられるようなものだが、遠く江戸へ離れて来て見ると、街道筋での奉公には皆同じように熱い汗を流していることを思い出した。彼は郷里の街道のことを考え、江戸を見た目でもう一度あの宿場を見うる日のことを考え、そこに働く人たちと共に武家の奉公を忍耐しようとした。


 徳川幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》し、あわせてこの不景気のどん底から江戸を救おうとするような参覲交代《さんきんこうたい》の復活は、半蔵らが出発以前にすでに触れ出された。
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一、万石《まんごく》以上の面々ならびに交代寄合《こうたいよりあい》、参覲の年割《ねんわ》り御猶予成し下され候《そうろう》旨《むね》、去々|戌年《いぬどし》仰せ出《いだ》され候ところ、深き思《おぼ》し召しもあらせられ候につき、向後《こうご》は前々《まえまえ》お定めの割合に相心得《あいこころえ》、参覲交代これあるべき旨、仰せ出さる。
一、万石以上の面々ならびに交代寄合、その嫡子在国しかつ妻子国もとへ引き取り候とも勝手たるべき次第の旨、去々戌年仰せ出され、めいめい国もとへ引き取り候面々もこれあり候ところ、このたび御進発も遊ばされ候については、深き思し召しあらせられ候につき、前々の通り相心得、当地(江戸)へ呼び寄せ候よういたすべき旨、仰せ出さる。
[#ここで字下げ終わり]
 このお触れ書の中に「御進発」とあるは、行く行く将軍の出馬することもあるべき大坂城への進発をさす。尾張大納言《おわりだいなごん》を総督にする長州征討軍の進発をさす。
 三人の庄屋には、道中奉行から江戸に呼び出され、諸大名通行の難関たる木曾地方の事情を問いただされ、たとい一時的の応急策たりとも宿駅補助のお手当てを下付された意味が、このお触れ書の発表で一層はっきりした。
 江戸は、三人の庄屋にとって、もはやぐずぐずしているべきところではなかった。
「長居は無用だ。」
 そう考えるのは、ひとり用心深い平助ばかりではなかったのだ。
 しかし、郷里の方の空も心にかかって、三人の庄屋がそこそこに江戸を引き揚げようとしたのは、彼らの滞在が六月から十月まで長引いたためばかりでもなかったのである。出発の前日、筑波《つくば》の方の水戸浪士の動静について、確かな筋へ届いたといううわさを東片町の屋敷から聞き込んで来たものもあったからで。
 出発の日には、半蔵はすでに十一屋の方に移って、同行の庄屋たちとも一緒になっていたが、そのまま江戸をたって行くに忍びなかった。多吉夫婦に別れを告げるつもりで、ひとりで朝早く両国の旅籠屋《はたごや》を出た。霜だ。まだ人通りも少ない両国橋の上に草鞋《わらじ》の跡をつけて、彼は急いで相生町の家まで行って見た。青い河内木綿《かわちもめん》の合羽《かっぱ》に脚絆《きゃはん》をつけたままで門口から訪れる半蔵の道中姿を見つけると、小娘のお三輪は多吉やお隅《すみ》を呼んだ。
「オヤ、もうお立ちですか。すっかりおしたくもできましたね。」
 と言うお隅のあとから、多吉もそこへ挨拶《あいさつ》に来る。その時、多吉はお隅に言いつけて、紺木綿の切れの編みまぜてある二足の草鞋を奥から持って来させた。それを餞別《せんべつ》のしるしにと言って、風呂敷包《ふろしきづつ》みにして半蔵の前に出した。
「これは何よりのものをいただいて、ありがたい。」
「いえ、お邪魔かもしれませんが、道中でおはきください。それでも宅が心がけまして、わざわざ造らせたものですよ。」
「多吉さんは多吉さんらしいものをくださる。」
 あわただしい中にも、半蔵は相生町の家の人とこんな言葉をかわした。
 多吉は別れを惜しんで、せめて十一屋までは見送ろうと言った。暇乞《いとまご》いして行く半蔵の後ろから、尻端《しりはし》を折りながら追いかけて来た。
「青山さん、あなたの荷物は。」
「荷物ですか。きのうのうちに馬が頼んであります。」
「それにしても、早いお立ちですね。実は吾家《うち》から立っていただきたいと思って、お隅ともその話をしていたんですけれど、連れがありなさるんじゃしかたがない。この次ぎ、江戸へお出かけになるおりもありましたら、ぜひお訪《たず》ねください。お宿はいつでもいたしますよ。」
「さあ、いつまた出かけて来られますかさ。」
「ほんとに、これも何かの御縁かと思いますね。」
 両国十一屋の方には、幸兵衛、平助の二人《ふたり》がもう草鞋《わらじ》まではいて、半蔵を待ち受けていた。頼んで置いた馬も来た。その日はお茶壺《ちゃつぼ》の御通行があるとかで、なるべく朝のうちに出発しなければならなかった。半蔵は大小二|荷《か》の旅の荷物を引きまとめ、そのうち一つは琉球《りゅうきゅう》の莚包《こもづつ》みにして、同行の庄屋たちと共に馬荷に付き添いながら板橋経由で木曾街道の方面に向かった。

       四

 四月以来、筑波《つくば》の方に集合していた水戸の尊攘派《そんじょうは》の志士は、九月下旬になって那珂湊《なかみなと》に移り、そこにある味方の軍勢と合体して、幕府方の援助を得た水戸の佐幕党《さばくとう》と戦いを交えた。この湊の戦いは水戸尊攘派の運命を決した。力尽きて幕府方に降《くだ》るものが続出した。二十三日まで湊をささえていた筑波勢は、館山《たてやま》に拠《よ》っていた味方の軍勢と合流し、一筋の血路を西に求めるために囲みを突いて出た。この水戸浪士の動きかけた方向は、まさしく上州路《じょうしゅうじ》から信州路に当たっていたのである。木曾の庄屋たちが急いで両国の旅籠屋を引き揚げて行ったのは、この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届くころであった。
 筑波の空に揚がった高い烽火《のろし》は西の志士らと連絡のないものではなかった。筑波の勢いが大いに振《ふる》ったのは、あだかも長州の大兵が京都包囲のまっ最中であったと言わるる。水長二藩の提携は従来幾たびか画策せられたことであって、一部の志士らが互いに往来し始めたのは安藤老中《あんどうろうじゅう》要撃の以前にも当たる。東西相呼応して起こった尊攘派の運動は、西には長州の敗退となり、東には水戸浪士らの悪戦苦闘となった。
 湊《みなと》を出て西に向かった水戸浪士は、石神村《いしがみむら》を通過して、久慈郡大子村《くじごおりだいごむら》をさして進んだが、討手《うって》の軍勢もそれをささえることはできなかった。それから月折峠《つきおれとうげ》に一戦し、那須《なす》の雲巌寺《うんがんじ》に宿泊して、上州路に向かった。
 この一団はある一派を代表するというよりも、有為な人物を集めた点で、ほとんど水戸志士の最後のものであった。その人数は、すくなくも九百人の余であった。水戸領内の郷校に学んだ子弟が、なんと言ってもその中堅を成す人たちであったのだ。名高い水戸の御隠居(烈公《れっこう》)が在世の日、領内の各地に郷校を設けて武士庶民の子弟に文武を習わせた学館の組織はやや鹿児島《かごしま》の私学校に似ている。水戸浪士の運命をたどるには、一応彼らの気質を知らねばならない。


 寺がある。付近は子供らの遊び場処である。寺には閻魔《えんま》大王の木像が置いてある。その大王の目がぎらぎら光るので、子供心にもそれを水晶であると考え、得がたい宝石を欲《ほ》しさのあまり盗み取るつもりで、昼でも寂しいその古寺の内へ忍び込んだ一人《ひとり》の子供がある。木像に近よると、子供のことで手が届かない。閻魔王の膝《ひざ》に上り、短刀を抜いてその目をえぐり取り、莫大《ばくだい》な分捕《ぶんど》り品でもしたつもりで、よろこんで持ち帰った。あとになってガラスだと知れた時は、いまいましくなってその大王の目を捨ててしまったという。これが九歳にしかならない当時の水戸の子供だ。
 森がある。神社の鳥居がある。昼でも暗い社頭の境内がある。何げなくその境内を行き過ぎようとして、小僧待て、と声をかけられた一人の少年がある。見ると、神社の祭礼のおりに、服装のみすぼらしい浪人とあなどって、腕白盛《わんぱくざか》りのいたずらから多勢を頼みに悪口を浴びせかけた背の高い男がそこにたたずんでいる。浪人は一人ぽっちの旅烏《たびがらす》なので、祭りのおりには知らぬ顔で通り過ぎたが、その時は少年の素通りを許さなかった。よくも悪口雑言《あっこうぞうごん》を吐いて祭りの日に自分を辱《はずか》しめたと言って、一人と一人で勝負をするから、その覚悟をしろと言いながら、刀の柄《つか》に手をかけた。少年も負けてはいない。かねてから勝負の時には第一撃に敵を斬《き》ってしまわねば勝てるものではない、それには互いに抜き合って身構えてからではおそい。抜き打ちに斬りつけて先手を打つのが肝要だとは、日ごろ親から言われていた少年のことだ。居合《いあい》の心得は充分ある。よし、とばかり刀の下《さ》げ緒《お》をとって襷《たすき》にかけ、袴《はかま》の股立《ももだ》ちを取りながら先方の浪人を見ると、その身構えがまるで素人《しろうと》だ。掛け声勇ましくこちらは飛び込んで行った。抜き打ちに敵の小手《こて》に斬りつけた。あいにくと少年のことで、一尺八寸ばかりの小脇差《こわきざし》しか差していない。その尖端《せんたん》が相手に触れたか触れないくらいのことに先方の浪人は踵《きびす》を反《かえ》して、一目散に逃げ出した。こちらもびっくりして、抜き身の刀を肩にかつぎながら、あとも見ずに逃げ出して帰ったという。これがわずかに十六歳ばかりの当時の水戸の少年だ。
 二階がある。座敷がある。酒が置いてある。その酒楼の二階座敷の手摺《てすり》には、鎗《やり》ぶすまを造って下からずらりと突き出した数十本の抜き身の鎗がある。町奉行のために、不逞《ふてい》の徒の集まるものとにらまれて、包囲せられた二人《ふたり》の侍がそこにある。なんらの罪を犯した覚えもないのに、これは何事だ、と一人の侍が捕縛に向かって来たものに尋ねると、それは自分らの知った事ではない。足下《そっか》らを引致《いんち》するのが役目であるとの答えだ。しからば同行しようと言って、数人に護《まも》られながら厠《かわや》にはいった時、一人の侍は懐中の書類をことごとく壺《つぼ》の中に捨て、刀を抜いてそれを深く汚水の中に押し入れ、それから身軽になって連れの侍と共に引き立てられた。罪人を乗せる網の乗り物に乗せられて行った先は、町奉行所だ。厳重な取り調べがあった。証拠となるべきものはなかったが、二人とも小人目付《こびとめつけ》に引き渡された。ちょうど水戸藩では佐幕派の領袖《りょうしゅう》市川三左衛門《いちかわさんざえもん》が得意の時代で、尊攘派征伐のために筑波《つくば》出陣の日を迎えた。邸内は雑沓《ざっとう》して、侍たちについた番兵もわずかに二人のみであった。夕方が来た。囚《とら》われとなった連れの侍は仲間にささやいて言う。自分はかの反対党に敵視せらるること久しいもので、もしこのままにいたら斬《き》られることは確かである、彼らのために死ぬよりもむしろ番兵を斬りたおして逃げられるだけ逃げて見ようと思うが、どうだと。それを聞いた一人の方の侍はそれほど反対党から憎まれてもいなかったが、同じ囚われの身でありながら、行動を共にしないのは武士のなすべきことでないとの考えから、その夜の月の出ないうちに脱出しようと約束した。待て、番士に何の罪もない、これを斬るはよろしくない、一つ説いて見ようとその侍が言って、番士を一室に呼び入れた。聞くところによると水府は今非常な混乱に陥っている、これは国家危急の秋《とき》で武士の坐視《ざし》すべきでない、よって今からここを退去する、幸いに見のがしてくれるならあえてかまわないが万一職務上見のがすことはならないとあるならやむを得ない、自分らの刀の切れ味を試みることにするが、どうだ。それを言って、刀を引き寄せ、鯉口《こいぐち》を切って見せた。二人の番士はハッと答えて、平伏したまま仰ぎ見もしない。しからば御無礼する、あとの事はよろしく頼む、そう言い捨てて、侍は二人ともそこを立ち去り、庭から墻《かき》を乗り越えて、その夜のうちに身を匿《かく》したという。これが当時の水戸の天狗連《てんぐれん》だ。
 水戸人の持つこのたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられた。かつては横浜在留の外国人にも。井伊大老もしくは安藤老中のような幕府当局の大官にも。これほど敵を攻撃することにかけては身命をも賭《と》してかかるような気性《きしょう》の人たちが、もしその正反対を江戸にある藩主の側にも、郷里なる水戸城の内にも見いだしたとしたら。


 水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。それは実に藩論分裂の形であらわれて来た。もとより、一般の人心は動揺し、新しい世紀もようやくめぐって来て、だれもが右すべきか左すべきかと狼狽《ろうばい》する時に当たっては、二百何十年来の旧を守って来た諸藩のうちで藩論の分裂しないところとてもなかった。水戸はことにそれが激しかったのだ。『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、学問を曲げてまで世に阿《おもね》るものもある徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。彰考館《しょうこうかん》の修史、弘道館《こうどうかん》の学問は、諸藩の学風を指導する役目を勤めた。当時における青年で多少なりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。いかんせん、水戸はこの熱意をもって尊王佐幕の一大矛盾につき当たった。あの波瀾《はらん》の多い御隠居の生涯《しょうがい》がそれだ。遠く西山公《せいざんこう》以来の遺志を受けつぎ王室尊崇の念の篤《あつ》かった御隠居は、紀州や尾州の藩主と並んで幕府を輔佐する上にも人一倍責任を感ずる位置に立たせられた。この水戸の苦悶《くもん》は一方に誠党と称する勤王派の人たちを生み、一方に奸党《かんとう》と呼ばるる佐幕派の人たちを生んだ。一つの藩は裂けてたたかった。当時諸藩に党派争いはあっても、水戸のように惨酷《ざんこく》をきわめたところはない。誠党が奸党を見るのは極悪《ごくあく》の人間と心の底から信じたのであって、奸党が誠党を見るのもまたお家の大事も思わず御本家大事ということも知らない不忠の臣と思い込んだのであった。水戸の党派争いはほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあるものだと言った人もある。いわゆる誠党は天狗連《てんぐれん》とも呼び、いわゆる奸党は諸生党とも言った。当時の水戸藩にある才能の士で、誠でないものは奸、奸でないものは誠、両派全く分かれて相鬩《あいせめ》ぎ、その中間にあるものをば柳と呼んだ。市川三左衛門をはじめ諸生党の領袖《りょうしゅう》が国政を左右する時を迎えて見ると、天狗連の一派は筑波山の方に立てこもり、田丸稲右衛門《たまるいなえもん》を主将に推し、亡《な》き御隠居の御霊代《みたましろ》を奉じて、尊攘の志を致《いた》そうとしていた。かねて幕府は水戸の尊攘派を毛ぎらいし、誠党領袖の一人なる武田耕雲斎《たけだこううんさい》と筑波に兵を挙《あ》げた志士らとの通謀を疑っていた際であるから、早速《さっそく》耕雲斎に隠居慎《いんきょつつし》みを命じ、諸生党の三左衛門らを助けて筑波の暴徒を討《う》たしめるために関東十一藩の諸大名に命令を下した。三左衛門は兵を率いて江戸を出発し、水戸城に帰って簾中《れんちゅう》母公|貞芳院《ていほういん》ならびに公子らを奉じ、その根拠を堅めた。これを聞いた耕雲斎らは水戸家の存亡が今日にあるとして、幽屏《ゆうへい》の身ではあるが禁を破って水戸を出発した。そして江戸にある藩主を諫《いさ》めて奸徒《かんと》の排斥を謀《はか》ろうとした。かく一藩が党派を分かち、争闘を事とし、しばらくも鎮静する時のなかったため、松平|大炊頭《おおいのかみ》(宍戸侯《ししどこう》)は藩主の目代《もくだい》として、八月十日に水戸の吉田に着いた。ところが、水戸にある三左衛門はこの鎮撫《ちんぶ》の使者に随行して来たものの多くが自己の反対党であるのを見、その中には京都より来た公子|余四麿《よしまろ》の従者や尊攘派の志士なぞのあるのを見、大炊頭が真意を疑って、その入城を拒んだ。朋党《ほうとう》の乱はその結果であった。
 混戦が続いた。大炊頭、耕雲斎、稲右衛門、この三人はそれぞれの立場にあったが、尊攘の志には一致していた。水戸城を根拠とする三左衛門らを共同の敵とすることにも一致した。湊《みなと》の戦いで、大炊頭が幕府方の田沼玄蕃頭《たぬまげんばのかみ》に降《くだ》るころは、民兵や浮浪兵の離散するものも多かった。天狗連の全軍も分裂して、味方の陣営に火を放ち、田沼侯に降るのが千百人の余に上った。稲右衛門の率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、ほど近き館山《たてやま》に拠《よ》る耕雲斎の一隊に合流し、共に西に走るのほかはなかったのである。湊における諸生党の勝利は攘夷をきらっていた幕府方の応援を得たためと、形勢を観望していた土民の兵を味方につけたためであった。一方、天狗党では、幹部として相応名の聞こえた田中|源蔵《げんぞう》が軍用金調達を名として付近を掠奪《りゃくだつ》し、民心を失ったことにもよると言わるるが、軍資の供給をさえ惜しまなかったという長州方の京都における敗北が水戸の尊攘派にとっての深い打撃であったことは争われない。


 西の空へと動き始めた水戸浪士の一団については、当時いろいろな取りざたがあった。行く先は京都だろうと言うものがあり、長州まで落ち延びるつもりだろうと言うものも多かった。
 しかし、これは亡《な》き水戸の御隠居を師父と仰ぐ人たちが、従二位大納言《じゅにいだいなごん》の旗を押し立て、その遺志を奉じて動く意味のものであったことを忘れてはならない。九百余人から成る一団のうち、水戸の精鋭をあつめたと言わるる筑波組は三百余名で、他の六百余名は常陸《ひたち》下野《しもつけ》地方の百姓であった。中にはまた、京都方面から応援に来た志士もまじり、数名の婦人も加わっていた。二名の医者までいた。その堅い結び付きは、実際の戦闘力を有するものから、兵糧方《ひょうろうかた》、賄方《まかないかた》、雑兵《ぞうひょう》、歩人《ぶにん》等を入れると、千人以上の人を動かした。軍馬百五十頭、それにたくさんな小荷駄《こにだ》を従えた。陣太鼓と旗十三、四本を用意した。これはただの落ち武者の群れではない。その行動は尊攘の意志の表示である。さてこそ幕府方を狼狽《ろうばい》せしめたのである。
 この浪士の中には、藤田小四郎《ふじたこしろう》もいた。亡き御隠居を動かして尊攘の説を主唱した藤田|東湖《とうこ》がこの世を去ってから、その子の小四郎が実行運動に参加するまでには十一年の月日がたった。衆に先んじて郷校の子弟を説き、先輩稲右衛門を説き、日光参拝と唱えて最初から下野国大平山《しもつけのくにおおひらやま》にこもったのも小四郎であった。水戸の家老職を父とする彼もまた、四人の統率者より成る最高幹部の一人たることを失わなかった。
 高崎での一戦の後、上州|下仁田《しもにた》まで動いたころの水戸浪士はほとんど敵らしい敵を見出さなかった。高崎勢は同所の橋を破壊し、五十人ばかりの警固の組で銃を遠矢に打ち掛けたまでであった。鏑川《かぶらがわ》は豊かな耕地の間を流れる川である。そのほとりから内山峠まで行って、嶮岨《けんそ》な山の地勢にかかる。朝早く下仁田を立って峠の上まで荷を運ぶに慣れた馬でも、茶漬《ちゃづ》けごろでなくては帰れない。そこは上州と信州の国境《くにざかい》にあたる。上り二里、下り一里半の極《ごく》の難場だ。千余人からの同勢がその峠にかかると、道は細く、橋は破壊してある。警固の人数が引き退いたあとと見えて、兵糧雑具等が山間《やまあい》に打ち捨ててある。浪士らは木を伐《き》り倒し、その上に蒲団《ふとん》衣類を敷き重ねて人馬を渡した。大砲、玉箱から、御紋付きの長持、駕籠《かご》までそのけわしい峠を引き上げて、やがて一同|佐久《さく》の高原地に出た。
 十一月の十八日には、浪士らは千曲川《ちくまがわ》を渡って望月宿《もちづきじゅく》まで動いた。松本藩の人が姿を変えてひそかに探偵《たんてい》に入り込んで来たとの報知《しらせ》も伝わった。それを聞いた浪士らは警戒を加え、きびしく味方の掠奪《りゃくだつ》をも戒めた。十九日和田泊まりの予定で、尊攘の旗は高く山国の空にひるがえった。
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     第十章

       一

 和田峠の上には諏訪藩《すわはん》の斥候隊が集まった。藩士|菅沼恩右衛門《すがぬまおんえもん》、同じく栗田市兵衛《くりたいちべえ》の二人《ふたり》は御取次御使番《おとりつぎおつかいばん》という格で伝令の任務を果たすため五人ずつの従者を引率して来ている。徒士目付《かちめつけ》三人、書役《かきやく》一人《ひとり》、歩兵斥候三人、おのおの一人ずつの小者を連れて集まって来ている。足軽《あしがる》の小頭《こがしら》と肝煎《きもいり》の率いる十九人の組もいる。その他には、新式の鉄砲を携えた二人の藩士も出張している。和田峠口の一隊はこれらの人数から編成されていて、それぞれ手分けをしながら斥候の任務に就《つ》いていた。
 諏訪高島の城主諏訪|因幡守《いなばのかみ》は幕府閣老の一人として江戸表の方にあったが、急使を高島城に送ってよこして部下のものに防禦《ぼうぎょ》の準備を命じ、自己の領地内に水戸浪士の素通りを許すまいとした。和田宿を経て下諏訪宿に通ずる木曾街道の一部は戦闘区域と定められた。峠の上にある東餅屋《ひがしもちや》、西餅屋に住む町民らは立ち退《の》きを命ぜられた。


 こんなに周囲の事情が切迫する前、高島城の御留守居《おるすい》は江戸屋敷からの早飛脚が持参した書面を受け取った。その書面は特に幕府から諏訪藩にあてたもので、水戸浪士西下のうわさを伝え、和田峠その他へ早速《さっそく》人数を出張させるようにとしてあった。右の峠の内には松本方面への抜け路《みち》もあるから、時宜によっては松本藩からも応援すべき心得で、万事取り計らうようにと仰せ出されたとしてあった。さてまた、甲府からも応援の人数を差し出すよう申しまいるやも知れないから、そのつもりに出兵の手配りをして置いて、中仙道《なかせんどう》はもとより甲州方面のことは万事手抜かりのないようにと仰せ出されたともしてあった。
 このお達しが諏訪藩に届いた翌日には、江戸から表立ったお書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。武蔵《むさし》、上野《こうずけ》、下野《しもつけ》、甲斐《かい》、信濃《しなの》の諸国に領地のある諸大名はもとより、相模《さがみ》、遠江《とおとうみ》、駿河《するが》の諸大名まで皆そのお書付を受けた。それはかなり厳重な内容のもので、筑波《つくば》辺に屯集《とんしゅう》した賊徒どものうち甲州路または中仙道《なかせんどう》方面へ多人数の脱走者が落ち行くやに相聞こえるから、すみやかに手はずして見かけ次第もらさず討《う》ち取れという意味のことが認《したた》めてあり、万一討ちもらしたら他領までも付け入って討ち取るように、それを等閑《なおざり》にしたらきっと御沙汰《ごさた》があるであろうという意味のことも書き添えてあった。同時に、幕府では三河《みかわ》、尾張《おわり》、伊勢《いせ》、近江《おうみ》、若狭《わかさ》、飛騨《ひだ》、伊賀《いが》、越後《えちご》に領地のある諸大名にまで別のお書付を回し、筑波辺の賊徒どものうちには所々へ散乱するやにも相聞こえるから、めいめいの領分はもとより、付近までも手はずをして置いて、怪しい者は見かけ次第すみやかに討《う》ち取れと言いつけた。あの湊《みなと》での合戦《かっせん》以来、水戸の諸生党を応援した参政田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》は追討総督として浪士らのあとを追って来た。幕府は一方に長州征伐の事に従いながら、大きな網を諸国に張って、一人残らず水府義士なるものを滅ぼし尽くそうとしていた。その時はまだ八十里も先から信じがたいような種々《さまざま》な風聞が諏訪藩へ伝わって来るころだ。高島城に留守居するものだれ一人として水戸浪士の来ることなぞを意《こころ》にかけるものもなかった。初めて浪士らが上州にはいったと聞いた時にも、真偽のほどは不確実《ふたしか》で、なお相去ること数十里の隔たりがあった。諏訪藩ではまだまだ心を許していた。その浪士らが信州にはいったと聞き、佐久《さく》へ来たと聞くようになると、急を知らせる使いの者がしきりに飛んで来る。にわかに城内では評定《ひょうじょう》があった。あるものはまず甲州口をふさぐがいいと言った。あるものは水戸の精鋭を相手にすることを考え、はたして千余人からの同勢で押し寄せて来たら敵しうるはずもない、沿道の諸藩が討《う》とうとしないのは無理もない、これはよろしく城を守っていて浪士らの通り過ぎるままに任せるがいい、後方《うしろ》から鉄砲でも撃ちかけて置けば公儀への御義理はそれで済む、そんなことも言った。しかし君侯は現に幕府の老中である、その諏訪藩として浪士らをそう放縦《ほしいまま》にさせて置けないと言うものがあり、大げさの風評が当てになるものでもないと言うものがあって、軽々しい行動は慎もうという説が出た。そこへ諏訪藩では江戸屋敷からの急使を迎えた。その急使は家中でも重きを成す老臣で、幕府のきびしい命令をもたらして来た。やがて水戸浪士が望月《もちづき》まで到着したとの知らせがあって見ると、大砲十五門、騎馬武者百五十人、歩兵七百余、旌旗《せいき》から輜重駄馬《しちょうだば》までがそれに称《かな》っているとの風評には一藩のものは皆顔色を失ってしまった。その時、用人の塩原彦七《しおばらひこしち》が進み出て、浪士らは必ず和田峠を越して来るに相違ない。峠のうちの樋橋《といはし》というところは、谷川を前にし、後方《うしろ》に丘陵を負い、昔時《むかし》の諏訪頼重《すわよりしげ》が古戦場でもある。高島城から三里ほどの距離にある。当方より進んでその嶮岨《けんそ》な地勢に拠《よ》り、要所要所を固めてかかったなら、敵を討《う》ち取ることができようと力説した。幸いなことには、幕府追討総督として大兵を率いる田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》が浪士らのあとを追って来ることが確かめられた。諏訪藩の家老はじめ多くのものはそれを頼みにした。和田峠に水戸浪士を追いつめ、一方は田沼勢、一方は高島勢で双方から敵を挾撃《きょうげき》する公儀の手はずであるということが何よりの力になった。一藩の態度は決した。さてこそ斥候隊の出動となったのである。
 元治《げんじ》元年十一月十九日のことで、峠の上へは朝から深い雨が来た。


 やがて和田方面へ偵察《ていさつ》に出かけて行ったものは、また雨をついて峠の上に引き返して来る。いよいよ水戸浪士がその日の晩に長窪《ながくぼ》和田両宿へ止宿のはずだという風聞が伝えられるころには、諏訪藩の物頭《ものがしら》矢島|伝左衛門《でんざえもん》が九人の従者を引き連れ和田峠|御境目《おさかいめ》の詰方《つめかた》として出張した。手明きの若党、鎗持《やりも》ちの中間《ちゅうげん》、草履取《ぞうりと》り、具足持《ぐそくも》ち、高張持《たかはりも》ちなぞ、なかなかものものしい。それにこの物頭《ものがしら》が馬の口を取る二人の厩《うまや》の者も随行して来た。
「敵はもう近いと思わんけりゃなりません。」
 御使番《おつかいばん》は早馬で城へ注進に行くと言って、馬上からその言葉を残した。あとの人数にも早速《さっそく》出張するようにその言伝《ことづ》てを御使番に頼んで置いて、物頭もまた乗馬で種々《さまざま》な打ち合わせに急いだ。遠い山々は隠れて見えないほどの大降りで、人も馬もぬれながら峠の上を往《い》ったり来たりした。
 物頭はまず峠の内の注連掛《しめかけ》という場所を選び、一手限《ひとてぎ》りにても防戦しうるようそこに防禦《ぼうぎょ》工事を施すことにした。その考えから、彼は人足の徴発を付近の村々に命じて置いた。小役人を連れて地利の見分にも行って来た。注連掛《しめかけ》へは大木を並べ、士居《どい》を築き、鉄砲を備え、人数を伏せることにした。大平《おおだいら》から馬道下の嶮岨《けんそ》な山の上には大木大石を集め、道路には大木を横たえ、急速には通行のできないようにして置いて、敵を間近に引き寄せてから、鉄砲で撃ち立て、大木大石を落としかけたら、たとえ多人数が押し寄せて来ても右の一手で何ほどか防ぎ止めることができよう、そのうちには追い追い味方の人数も出張するであろう、物頭はその用意のために雨中を奔走した。手を分けてそれぞれ下知《げじ》を伝えた。それを済ましたころにはもう昼時刻だ。物頭が樋橋《といはし》まで峠を降りて昼飯を認《したた》めていると、追い追いと人足も集まって来た。
 諏訪城への注進の御使番は間もなく引き返して来て、いよいよ人数の出張があることを告げた。そのうちに二十八人の番士と十九人の砲隊士の一隊が諏訪から到着した。別に二十九人の銃隊士の出張をも見た。大砲二百目|玉筒《たまづつ》二|挺《ちょう》、百目玉筒二挺、西洋流十一寸半も来た。その時、諏訪から出張した藩士が樋橋《といはし》上の砥沢口《とざわぐち》というところで防戦のことに城中の評議決定の旨《むね》を物頭に告げた。東餅屋、西餅屋は敵の足だまりとなる恐れもあるから、代官所へ申し渡してあるように両餅屋とも焼き払う、桟《かけはし》も取り払う、橋々は切り落とす、そんな話があって、一隊の兵と人足らは峠の上に向かった。
 ちょうど松本藩主|松平丹波守《まつだいらたんばのかみ》から派遣せられた三百五十人ばかりの兵は長窪《ながくぼ》の陣地を退いて、東餅屋に集まっている時であった。もともと松本藩の出兵は追討総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》の厳命を拒みかねたので、沿道警備のため長窪まで出陣したが、上田藩も松代藩《まつしろはん》も小諸藩《こもろはん》も出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、諏訪から繰り出す人数と一手になり防戦したい旨《むね》、重役をもって、諏訪方へ交渉に来た。諏訪方としては、これは思いがけない友軍を得たわけである。早速、物頭《ものがしら》は歓迎の意を表し、及ばずながら諏訪藩では先陣を承るであろうとの意味を松本方の重役に致《いた》した。両餅屋焼き払いのこともすでに決定せられた。急げとばかり、東餅屋へは松本勢の手で火を掛け、西餅屋に控えていた諏訪方の兵は松本勢の通行が全部済むのを待って餅屋を焼き払った。
 物頭は樋橋《といはし》にいた。五、六百人からの人足を指揮して、雨中の防禦工事を急いでいた。そこへ松本勢が追い追いと峠から到着した。物頭は樋橋下の民家を三軒ほど貸し渡して松本勢の宿泊にあてた。松本方の持参した大砲は百目玉筒二|挺《ちょう》、小銃五十挺ほどだ。物頭の計らいで、松本方三百五十人への一度分の弁当、白米三俵、味噌《みそ》二|樽《たる》、漬《つ》け物一樽、それに酒二樽を贈った。
 樋橋付近の砦《とりで》の防備、および配置なぞは、多くこの物頭の考案により、策戦のことは諏訪藩銃隊頭を命ぜられた用人塩原彦七の方略に出た。日がな一日降りしきる強雨の中で、蓑笠《みのかさ》を着た数百人の人夫が山から大木を伐《き》り出す音だけでも周囲に響き渡った。そこには砲座を定めて木の幹を畳《たた》むものがある。ここには土居を築き土俵を積んで胸壁を起こすものがある。下諏訪《しもすわ》から運ぶ兵糧《ひょうろう》では間に合わないとあって、樋橋には役所も設けられ、炊《た》き出しもそこで始まった。この工事は夜に入って松明《たいまつ》の光で谷々を照らすまで続いた。垂木岩《たるきいわ》の桟《かけはし》も断絶せられ、落合橋《おちあいばし》も切って落とされた。村上の森のわきにあたる街道筋には篝《かがり》を焚《た》いて、四、五人ずつの番士が交代でそこに見張りをした。


 水戸浪士の西下が伝わると、沿道の住民の間にも非常な混乱を引き起こした。樋橋の山の神の砦《とりで》で浪士らをくい止める諏訪藩の思《おぼ》し召しではあるけれども、なにしろ相手はこれまで所々で数十度の実戦に臨み、場数を踏んでいる浪士らのことである、万一破れたらどうなろう。このことが沿道の住民に恐怖を抱《いだ》かせるようになった。種々《さまざま》な風評は人の口から口へと伝わった。万一和田峠に破れたら、諏訪勢は樋橋村を焼き払うだろう、下諏訪へ退いて宿内をも焼き払うだろう、高島の方へは一歩も入れまいとして下諏訪で防戦するだろう、そんなことを言い触らすものがある。その「万一」がもし事実となるとすると、下原村は焼き払われるだろう、宿内の友《とも》の町、久保《くぼ》、武居《たけい》も危《あぶ》ない、事急な時は高木大和町《たかぎやまとちょう》までも焼き払い、浪士らの足だまりをなくして防ぐべき諏訪藩での御相談だなぞと、だれが言い出したともないような風評がひろがった。
 沿道の住民はこれには驚かされた。家財は言うまでもなく、戸障子まで取りはずして土蔵へ入れるものがある。土蔵のないものは最寄《もよ》りの方へ預けると言って背負《しょ》い出すものがあり、近村まで持ち運ぶものがある。
 また、また、土蔵も残らず打ち破り家屋敷もことごとく焼き崩《くず》して浪士らの足だまりのないようにされるとの風聞が伝わった。それを聞いたものは皆大いに驚いて、一度土蔵にしまった大切な品物をまた持ち出し、穴を掘って土中に埋めるものもあれば、畑の方へ持ち出すものもある。何はともあれ、この雨天ではしのぎかねると言って、できるだけ衣類を背負《しょ》うことに気のつくものもある。人々は互いにこの混乱の渦《うず》の中に立った。乱世もこんなであろうかとは、互いの目がそれを言った。付近の老若男女はその夜のうちに山の方へ逃げ失《う》せ、そうでないものは畑に立ち退《の》いて、そこに隠れた。
 伊賀守《いがのかみ》としての武田耕雲斎を主将に、水戸家の元町奉行《もとまちぶぎょう》田丸稲右衛門を副将に、軍学に精通することにかけては他藩までその名を知られた元小姓頭取《もとこしょうとうどり》の山国兵部《やまぐにひょうぶ》を参謀にする水戸浪士の群れは、未明に和田宿を出発してこの街道を進んで来た。毎日の行程およそ四、五里。これは雑兵どもが足疲れをおそれての浪士らの動きであったが、その日ばかりは和田峠を越すだけにも上り三里の道を踏まねばならなかった。
 天気は晴れだ。朝の空には一点の雲もなかった。やがて浪士らは峠にかかった。八本の紅白の旗を押し立て、三段に別れた人数がまっ黒になってあとからあとからと峠を登った。両|餅屋《もちや》はすでに焼き払われていて、その辺には一人《ひとり》の諏訪兵をも見なかった。先鋒隊《せんぽうたい》が香炉岩《こうろいわ》に近づいたころ、騎馬で進んだものはまず山林の間に四発の銃声を聞いた。飛んで来る玉は一発も味方に当たらずに、木立ちの方へそれたり、大地に打ち入ったりしたが、その音で伏兵のあることが知れた。左手の山の上にも諏訪への合図の旗を振るものがあらわれた。
 山間《やまあい》の道路には行く先に大木が横たえてある。それを乗り越え乗り越えして進もうとするもの、幾多の障害物を除こうとするもの、桟《かけはし》を繕おうとするもの、浪士側にとっては全軍のために道をあけるためにもかなりの時を費やした。間もなく香炉岩の上の山によじ登り、そこに白と紺とを染め交ぜにした一本の吹き流しを高くひるがえした味方のものがある。一方の山の上にも登って行って三本の紅《あか》い旗を押し立てるものが続いた。浪士の一隊は高い山上の位置から諏訪松本両勢の陣地を望み見るところまで達した。
 こんなに浪士側が迫って行く間に、一方諏訪勢はその時までも幕府の討伐隊を頼みにした。来る、来るという田沼勢が和田峠に近づく模様もない。もはや諏訪勢は松本勢と力を合わせ、敵として進んで来る浪士らを迎え撃つのほかはない。間もなく、峠の峰から一面に道を押し降《くだ》った浪士側は干草山《ほしくさやま》の位置まで迫った。そこは谷を隔てて諏訪勢の陣地と相距《あいへだ》たること四、五町ばかりだ。両軍の衝突はまず浪士側から切った火蓋《ひぶた》で開始された。山の上にも、谷口にも、砲声はわくように起こった。


 諏訪勢もよく防いだ。次第に浪士側は山の地勢を降り、砥沢口《とざわぐち》から樋橋《といはし》の方へ諏訪勢を圧迫し、鯨波《とき》の声を揚げて進んだが、胸壁に拠《よ》る諏訪勢が砲火のために撃退せられた。諏訪松本両藩の兵は五段の備えを立て、右翼は砲隊を先にし鎗《やり》隊をあとにした尋常の備えであったが、左翼は鎗隊を先にして、浪士側が突撃を試みるたびに吶喊《とっかん》し逆襲して来た。こんなふうにして追い返さるること三度。浪士側も進むことができなかった。
 その日の戦闘は未《ひつじ》の刻《こく》から始まって、日没に近いころに及んだが、敵味方の大小砲の打ち合いでまだ勝負はつかなかった。まぶしい夕日の反射を真面《まとも》に受けて、鉄砲のねらいを定めるだけにも浪士側は不利の位置に立つようになった。それを見て一策を案じたのは参謀の山国兵部だ。彼は道案内者の言葉で探り知っていた地理を考え、右手の山の上へ百目砲を引き上げさせ、そちらの方に諏訪勢の注意を奪って置いて、五、六十人ばかりの一隊を深沢山《ふかざわやま》の峰に回らせた。この一隊は左手の河《かわ》を渡って、松本勢の陣地を側面から攻撃しうるような山の上の位置に出た。この奇計は松本方ばかりでなく諏訪方の不意をもついた。日はすでに山に入って松本勢も戦い疲れた。その時浪士の一人《ひとり》が山の上から放った銃丸は松本勢を指揮する大将に命中した。混乱はまずそこに起こった。勢いに乗じた浪士の一隊は小銃を連発しながら、直下の敵陣をめがけて山から乱れ降《くだ》った。
 耕雲斎は砥沢口《とざわぐち》まで進出した本陣にいた。それとばかり采配《さいはい》を振り、自ら陣太鼓を打ち鳴らして、最後の突撃に移った。あたりはもう暗い。諏訪方ではすでに浮き腰になるもの、後方の退路を危ぶむものが続出した。その時はまだまだ諏訪勢の陣は堅く、樋橋に踏みとどまって頑強《がんきょう》に抵抗を続けようとする部隊もあったが、崩《くず》れはじめた全軍の足並みをどうすることもできなかった。もはや松本方もさんざんに見えるというふうで、早く退こうとするものが続きに続いた。
 とうとう、田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》は来なかった。合戦は諏訪松本両勢の敗退となった。にわかの火の手が天の一方に揚がった。諏訪方の放火だ。浪士らの足だまりをなくする意味で、彼らはその手段に出た。樋橋村の民家三軒に火を放って置いて退却し始めた。白昼のように明るく燃え上がる光の中で、諏訪方にはなおも踏みとどまろうとする勇者もあり、ただ一人元の陣地に引き返して来て二発の大砲を放つものさえあった。追撃の小競合《こぜりあ》いはそこにもここにもあった。そのうちに放火もすこし下火になって、二十日の夜の五つ時の空には地上を照らす月代《つきしろ》とてもない。敵と味方の見定めもつかないような深い闇《やみ》が総崩れに崩れて行く諏訪松本両勢を包んでしまった。
 この砥沢口の戦闘には、浪士側では十七人ほど討死《うちじに》した。百人あまりの鉄砲|疵《きず》鎗疵なぞの手負いを出した。主将耕雲斎も戦い疲れたが、また味方のもの一同を樋橋に呼び集めるほど元気づいた。湊《みなと》出発以来、婦人の身でずっと陣中にある大納言《だいなごん》の簾中《れんちゅう》も無事、山国親子も無事、筑波《つくば》組の稲右衛門、小四郎、皆無事だ。一同は手分けをして高島陣地その他を松明《たいまつ》で改めた。そこの砦《とりで》、ここの胸壁の跡には、打ち捨ててある兜《かぶと》や小銃や鎗や脇差《わきざし》や、それから床几《しょうぎ》陣羽織《じんばおり》などの間に、目もあてられないような敵味方の戦死者が横たわっている。生臭《なまぐさ》い血の臭気《におい》はひしひしと迫って来る夜の空気にまじって一同の鼻をついた。
 耕雲斎は抜き身の鎗を杖《つえ》にして、稲右衛門や兵部や小四郎と共に、兵士らの間をあちこちと見て回った。戦場のならいで敵の逆襲がないとは言えなかった。一同はまたにわかに勢ぞろいして、本陣の四方を固める。その時、耕雲斎は一手の大将に命じ、味方の死骸《しがい》を改めさせ、その首を打ち落とし、思い思いのところに土深く納めさせた。深手《ふかで》に苦しむものは十人ばかりある。それも歩人《ぶにん》に下知して戸板に載せ介抱を与えた。こういう時になくてならないのは二人の従軍する医者の手だ。陣中には五十ばかりになる一人の老女も水戸から随《つ》いて来ていたが、この人も脇差を帯の間にさしながら、医者たちを助けてかいがいしく立ち働いた。
 夜もはや四つ半時を過ぎた。浪士らは味方の死骸《しがい》を取り片づけ、名のある人々は草小屋の中に引き入れて、火をかけた。その他は死骸のあるところでいささかの火をかけ、土中に埋《うず》めた。仮りの埋葬も済んだ。樋橋には敵の遺棄した兵糧や弁当もあったので、それで一同はわずかに空腹をしのいだ。激しい饑《う》え。激しい渇《かわ》き。それを癒《いや》そうためばかりにも、一同の足は下諏訪の宿へ向いた。やがて二十五人ずつ隊伍《たいご》をつくった人たちは樋橋を離れようとして、夜の空に鳴り渡る行進の法螺《ほら》の貝を聞いた。


 樋橋から下諏訪までの間には、村二つほどある。道案内のものを先に立て、松明《たいまつ》も捨て、途中に敵の待ち伏せするものもあろうかと用心する浪士らの長い行列は夜の街道に続いた。落合村まで進み、下の原村まで進んだ。もはやその辺には一人の敵の踏みとどまるものもなかった。
 合図の空砲の音と共に、浪士らの先着隊が下諏訪にはいったころは夜も深かった。敗退した諏訪松本両勢は高島城の方角をさして落ちて行ったあとで、そこにも一兵を見ない。町々もからっぽだ。浪士らは思い思いの家を見立てて、鍋釜《なべかま》から洗い米などの笊《ざる》にそのまま置き捨ててあるようなところへはいった。耕雲斎は問屋《といや》の宅に、稲右衛門は来迎寺《らいごうじ》にというふうに。町々の辻《つじ》、秋宮《あきみや》の鳥居前、会所前、湯のわき、その他ところどころに篝《かがり》が焚《た》かれた。四、五人ずつの浪士は交代で敵の夜襲を警戒したり、宿内の火の番に回ったりした。
 三百人ばかりの後陣の者は容易に下諏訪へ到着しない。今度の戦闘の遊軍で、負傷者などを介抱するのもそれらの人たちであったから、道に隙《ひま》がとれておくれるものと知れた。その間、本陣に集まる幹部のものの中にはすでに「明日」の評定がある。もともと浪士らは高島城を目がけて来たものでもない。西への進路を切り開くためにのみ、やむを得ず諏訪藩を敵として悪戦したまでだ。その夜の評定に上ったは、前途にどこをたどるべきかだ。道は二つある。これから塩尻峠《しおじりとうげ》へかかり、桔梗《ききょう》が原《はら》を過ぎ、洗馬《せば》本山《もとやま》から贄川《にえがわ》へと取って、木曾《きそ》街道をまっすぐに進むか。それとも岡谷《おかや》辰野《たつの》から伊那《いな》道へと折れるか。木曾福島の関所を破ることは浪士らの本意ではなかった。二十二里余にわたる木曾の森林の間は、嶮岨《けんそ》な山坂が多く、人馬の継立《つぎた》ても容易でないと見なされた。彼らはむしろ谷も広く間道も多い伊那の方をえらんで、一筋の血路をそちらの方に求めようと企てたのである。
 不眠不休ともいうべき下諏訪での一夜。ようやく後陣のものが町に到着して一息ついたと思うころには、本陣ではすでに夜立ちの行動を開始した。だれ一人、この楽しい湯の香のする町に長く踏みとどまろうとするものもない。一刻も早くこれを引き揚げようとして多くの中にはろくろく湯水を飲まないものさえある。
「夜盗を警戒せよ。」
 その声は、幹部のものの間からも、心ある兵士らの間からも起こった。この混雑の中で、十五、六軒ばかりの土蔵が切り破られた。だれの所業《しわざ》ともわからないような盗みが行なわれた。浪士らが引き揚げを急いでいるどさくさまぎれの中で。ほとんど無警察にもひとしい町々の暗黒の中で。
 暁《あけ》の六つ時《どき》には浪士は残らず下諏訪を出立した。平出宿《ひらでしゅく》小休み、岡谷《おかや》昼飯の予定で。あわただしく道を急ごうとする多数のものの中には、陣羽織のままで大八車《だいはちぐるま》を押して行くのもある。甲冑《かっちゅう》も着ないで馬に乗って行くのもある。負傷兵を戸板で運ぶのもある。もはや、大霜《おおしも》だ。天もまさに寒かった。

       二

 もとより浪士らは後方へ引き返すべくもない。幕府から回された討手《うって》の田沼勢は絶えず後ろから追って来るとの報知《しらせ》もある。千余人からの長い行列は前後を警戒しながら伊那の谷に続いた。
 筑波《つくば》の脱走者、浮浪の徒というふうに、世間の風評のみを真《ま》に受けた地方人民の中には、実際に浪士の一行を迎えて見て旅籠銭《はたごせん》一人前弁当用共にお定めの二百五十文ずつ払って通るのを意外とした。あるものはまた、一行と共に動いて行く金の葵紋《あおいもん》の箱、長柄《ながえ》の傘《かさ》、御紋付きの長持から、長棒の駕籠《かご》の類《たぐい》まであるのを意外として、まるで三、四十万石の大名が通行の騒ぎだと言うものもある。
 しかし、それも理のないことではない。なぜかなら、その葵紋の箱も、傘も、長持も、長棒の駕籠も、すべて水戸烈公を記念するためのものであったからで。たとい御隠居はそこにいないまでも、一行が「従二位大納言」の大旗を奉じながら動いて行くところは、生きてる人を護《まも》るとほとんど変わりがなかったからで。あの江戸|駒込《こまごめ》の別邸で永蟄居《えいちっきょ》を免ぜられたことも知らずじまいにこの世を去った御隠居が生前に京都からの勅使を迎えることもできなかったかわりに、今「奉勅」と大書した旗を押し立てながら動いて行くのは、その人の愛する子か孫かのような水戸人もしくは準水戸人であるからで。幕府のいう賊徒であり、反対党のいう不忠の臣である彼らは、そこにいない御隠居にでもすがり、その人の志を彼らの志として、一歩でも遠く常陸《ひたち》のふるさとから離れようとしていたからで。
 天龍川《てんりゅうがわ》のほとりに出てからも、浪士らは武装を解こうとしなかった。いずれも鎧兜《よろいかぶと》、あるいは黒の竪烏帽子《たてえぼし》、陣羽織のいでたちである。高く掲げた紅白の旗、隊伍を区別する馬印《うまじるし》などは、馬上の騎士が携えた抜き身の鎗《やり》に映り合って、その無数の群立と集合との感じが一行の陣容をさかんにした。各部隊の護って行く二門ずつの大砲には皆御隠居の筆の跡が鋳《い》てある。「発而皆中節《はっしてみなせつにあたる》、源斉昭書《みなもとのなりあきしょ》」の銘は浪士らが誇りとするものだ。行列の中央に高く「尊攘《そんじょう》」の二字を掲げた旗は、陣太鼓と共に、筑波以来の記念でもあった。参謀の兵部は軍中第二班にある。采配を腰にさし、甲冑《かっちゅう》騎馬で、金の三蓋猩々緋《さんがいしょうじょうひ》の一段幡連《いちだんばれん》を馬印に立て、鎗鉄砲を携える百余人の武者を率いた。総勢の隊伍《たいご》を、第一班から第六班までの備えに編み、騎馬の使番に絶えず前後周囲を見回らせ、隊列の整頓《せいとん》と行進の合図には拍子木《ひょうしぎ》を用いることなぞ皆この人の精密な頭脳から出た。水戸家の元|側用人《そばようにん》で、一方の統率者なる小四郎は騎馬の側に惣金《そうきん》の馬印を立て、百人ほどの銃隊士に護《まも》られながら中央の部隊を堅めた。五十人ばかりの鎗隊士を従えた稲右衛門は梶《かじ》の葉の馬印で、副将らしい威厳を見せながらそのあとに続いた。主将耕雲斎は「奉勅」の旗を先に立て、三蓋菱《さんがいびし》の馬印を立てた百人ばかりの騎兵隊がその前に進み、二百人ばかりの歩行武者の同勢は抜き身の鎗でそのあとから続いた。山国兵部父子はもとよりその他にも親子で連れだって従軍するものもある。各部隊が護って行く思い思いの旗の文字は、いずれも水府義士をもって任ずる彼らの面目を語っている。その中にまじる「百花の魁《さきがけ》」とは、中世以来の堅い殻《から》を割ってわずかに頭を持ち上げようとするような、彼らの早い先駆感をあらわして見せている。
 伊那には高遠藩《たかとおはん》も控えていた。和田峠での合戦の模様は早くも同藩に伝わっていた。松本藩の家老|水野新左衛門《みずのしんざえもん》という人の討死《うちじに》、そのほか多数の死傷に加えて浪士側に分捕《ぶんど》りせられた陣太鼓、鎗、具足、大砲なぞのうわさは高遠藩を沈黙させた。それでも幕府のきびしい命令を拒みかねて、同藩では天龍川の両岸に出兵したが、浪士らの押し寄せて来たと聞いた時は指揮官はにわかに平出《ひらで》の陣地を撤退して天神山《てんじんやま》という方へ引き揚げた。それからの浪士らは一層勇んで一団となった行進を続けることができた。
 進み過ぎる部隊もなく、おくれる部隊もなかった。中にはめずらしい放吟の声さえ起こる。馬上で歌を詠ずるものもある。路傍《みちばた》の子供に菓子などを与えながら行くものもある。途中で一行におくれて、また一目散に馬を飛ばす十六、七歳の小冠者《こかんじゃ》もある。
 こんなふうにしてさらに谷深く進んだ。二十二日には浪士らは上穂《かみほ》まで動いた。そこまで行くと、一万七千石を領する飯田《いいだ》城主|堀石見守《ほりいわみのかみ》は部下に命じて市田村《いちだむら》の弓矢沢というところに防禦《ぼうぎょ》工事を施し、そこに大砲数門を据《す》え付けたとの報知《しらせ》も伝わって来た。浪士らは一つの難関を通り過ぎて、さらにまた他の難関を望んだ。


「わたしたちは水戸の諸君に同情してまいったんです。実は、あなたがたの立場を思い、飯田藩の立場を思いまして、及ばずながら斡旋《あっせん》の労を執りたい考えで同道してまいりました。わたしたちは三人とも平田|篤胤《あつたね》の門人です。」
 浪士らの幹部の前には、そういうめずらしい人たちがあらわれた。そのうちの一人《ひとり》は伊那座光寺《いなざこうじ》にある熱心な国学の鼓吹者《こすいしゃ》仲間で、北原稲雄が弟の今村豊三郎《いまむらとよさぶろう》である。一人は将軍最初の上洛《じょうらく》に先立って足利尊氏《あしかがたかうじ》が木像の首を三条河原《さんじょうがわら》に晒《さら》した示威の関係者、あの事件以来伊那に来て隠れている暮田正香《くれたまさか》である。
 入り込んで来る間諜《かんちょう》を警戒する際で、浪士側では容易にこの三人を信じなかった。その時応接に出たのは道中|掛《がか》りの田村宇之助《たむらうのすけ》であったが、字之助は思いついたように尋ねた。
「念のためにうかがいますが、伊那の平田御門人は『古史伝』の発行を企てているように聞いています。あれは何巻まで行ったでしょうか。」
「そのことですか。今じゃ第四|帙《ちつ》まで進行しております。一帙四巻としてありますが、もう第十六の巻《まき》を出しました。お聞き及びかどうか知りませんが、その上木《じょうぼく》を思い立ったのは座光寺の北原稲雄です。これにおります今村豊三郎の兄に当たります。」正香が答えた。
 こんなことから浪士らの疑いは解けた。そこへ三人が持ち出して、及ばずながら斡旋の労を執りたいというは、浪士らに間道の通過を勧め、飯田藩との衝突を避けさせたいということだった。正香や豊三郎は一応浪士らの意向を探りにやって来たのだ。もとより浪士側でも戦いを好むものではない。飯田藩を傷つけずに済み、また浪士側も傷つかずに済むようなこの提案に不賛成のあろうはずもない。異議なし。それを聞いた三人は座光寺の方に待っている北原稲雄へもこの情報を伝え、飯田藩ともよく交渉を重ねて来ると言って、大急ぎで帰って行った。
 二十三日には浪士らは片桐《かたぎり》まで動いた。その辺から飯田へかけての谷間《たにあい》には、数十の郷村が天龍川の両岸に散布している。岩崎|長世《ながよ》、北原稲雄、片桐|春一《しゅんいち》らの中心の人物をはじめ、平田篤胤没後の門人が堅く根を張っているところだ。飯田に、山吹《やまぶき》に、伴野《ともの》に、阿島《あじま》に、市田に、座光寺に、その他にも熱心な篤胤の使徒を数えることができる。この谷だ。今は黙ってみている場合でないとして、北原|兄弟《きょうだい》のような人たちがたち上がったのに不思議もない。
 その片桐まで行くと、飯田の城下も近い。堀石見守《ほりいわみのかみ》の居城はそこに測りがたい沈黙を守って、浪士らの近づいて行くのを待っていた。その沈黙の中には御会所での軍議、にわかな籠城《ろうじょう》の準備、要所要所の警戒、その他、どれほどの混乱を押し隠しているやも知れないかのようであった。万一、同藩で籠城のことに決したら、市内はたちまち焼き払われるであろう。その兵火戦乱の恐怖は老若男女の町の人々を襲いつつあった。
 夜、武田《たけだ》本陣にあてられた片桐の問屋へは、飯田方面から、豊三郎が兄の北原稲雄と一緒に早|駕籠《かご》を急がせて来た。その時、浪士側では横田東四郎と藤田《ふじた》小四郎とが応接に出た。飯田藩として間道の通過を公然と許すことは幕府に対し憚《はばか》るところがあるからと言い添えながら、北原兄弟は町役人との交渉の結果を書面にして携えて来た。その書面には左の三つの条件が認《したた》めてあった。
 一、飯田藩は弓矢沢の防備を撤退すること。
 二、間道に修繕を加うること。
 三、飯田町にて軍資金三千両を醵出《きょしゅつ》すること。


「お前はこの辺の百姓か。人足の手が足りないから、鎗《やり》をかついで供をいたせ。」
「いえ、わたくしは旅の者でございます、お供をいたすことは御免こうむりましょう。」
「うんにゃ、そう言わずに、片桐の宿までまいれば許してつかわす。」
 上伊那の沢渡村《さわどむら》という方から片桐宿まで、こんな押し問答の末に一人の百姓を無理押しつけに供に連れて来た浪士仲間の後殿《しんがり》のものもあった。
 いよいよ北原兄弟が奔走周旋の結果、間道通過のことに決した浪士の一行は片桐出立の朝を迎えた。先鋒隊《せんぽうたい》のうちにはすでに駒場《こまば》泊まりで出かけるものもある。
 後殿《しんがり》の浪士は上伊那から引ッぱって来た百姓をなかなか放そうとしなかった。その百姓は年のころ二十六、七の働き盛りで、荷物を持ち運ばせるには屈強な体格をしている。
「お前はどこの者か。」と浪士がきいた。
「わたくしですか。諏訪飯島村《すわいいじまむら》の生まれ、降蔵《こうぞう》と申します。お約束のとおり片桐までお供をいたしました。これでお暇《いとま》をいただきます。」
「何、諏訪だ?」
 いきなり浪士はその降蔵を帯で縛りあげた。それから言葉をつづけた。
「その方は天誅《てんちゅう》に連れて行くから、そう心得るがいい。」
 近くにある河《かわ》のところまで浪士は後ろ手にくくった百姓を引き立てた。「天誅」とはどういうわけかと降蔵が尋ねると、天誅とは首を切ることだと浪士が言って見せる。不幸な百姓は震えた。
「お武家様、わたくしは怪しい者でもなんでもございません。伊那《いな》[#「伊那」は底本では「伊奈」]辺まで用事があってまいる途中、御通行ということで差し控えていたものでございます。これからはいかようにもお供をいたしますから、お助けを願います。」
「そうか。しからば、その方は正武隊に預けるから、兵糧方《ひょうろうかた》の供をいたせ。」
 人足一人を拾って行くにも、浪士らはこの調子だった。
 諸隊はすでに続々間道を通過しつつある。その道は飯田の城下を避けて、上黒田で右に折れ、野底山から上飯田にかかって、今宮という方へと取った。今宮に着いたころは一同休憩して昼食をとる時刻だ。正武隊付きを命ぜられた諏訪の百姓降蔵は片桐から背負《しょ》って来た具足櫃《ぐそくびつ》をそこへおろして休んでいると、いろは付けの番号札を渡され、一本の脇差《わきざし》をも渡された。家の方へ手紙を届けたければ飛脚に頼んでやるなぞと言って、兵糧方の別当はいろいろにこの男をなだめたりすかしたりした。荷物を持ち労《つか》れたら、ほかの人足に申し付けるから、ぜひ京都まで一緒に行けとも言い聞かせた。別当はこの男の逃亡を気づかって、小用に立つにも番人をつけることを忘れなかった。
 京都と聞いて、諏訪の百姓は言った。
「わたくしも国元には両親がございます。御免こうむりとうございます。お暇《いとま》をいただきとうございます。」
「そんなことを言うと天誅《てんちゅう》だぞ。」
 別当の威《おど》し文句だ。
 切石まで間道を通って、この浪士の諸隊は伊那の本道に出た。参州街道がそこに続いて来ている。大瀬木《おおせぎ》というところまでは、北原稲雄が先に立って浪士らを案内した。伊那にある平田門人の先輩株で、浪士間道通過の交渉には陰ながら尽力した倉沢義髄《くらさわよしゆき》も、その日は稲雄と一緒に歩いた。別れぎわに浪士らは、稲雄の骨折りを感謝し、それに報いる意味で記念の陣羽織を贈ろうとしたが、稲雄の方では幕府の嫌疑《けんぎ》を慮《おもんぱか》って受けなかった。
 その日の泊まりと定められた駒場《こまば》へは、平田派の同志のものが集まった。暮田正香と松尾誠《まつおまこと》(松尾|多勢子《たせこ》の長男)とは伴野《ともの》から。増田平八郎《ますだへいはちろう》と浪合佐源太《なみあいさげんた》とは浪合から。駒場には同門の医者山田|文郁《ぶんいく》もある。武田本陣にあてられた駒場の家で、土地の事情にくわしいこれらの人たちはこの先とも小藩や代官との無益な衝突の避けられそうな山国の間道を浪士らに教えた。その時、もし参州街道を経由することとなれば名古屋の大藩とも対抗しなければならないこと、のみならず非常に道路の険悪なことを言って見せるのは浪合から来た連中だ。木曾路から中津川辺へかけては熱心な同門のものもある、清内路《せいないじ》の原|信好《のぶよし》、馬籠《まごめ》の青山半蔵、中津川の浅見景蔵、それから峰谷《はちや》香蔵なぞは、いずれも水戸の人たちに同情を送るであろうと言って見せるのは伴野から来た連中だ。
 清内路を経て、馬籠、中津川へ。浪士らの行路はその時変更せらるることに決した。
「諸君――これから一里北へ引き返してください。山本というところから右に折れて、清内路の方へ向かうようにしてください。」
 道中掛りはそのことを諸隊に触れて回った。
 伊那の谷から木曾の西のはずれへ出るには、大平峠《おおだいらとうげ》を越えるか、梨子野峠《なしのとうげ》を越えるか、いずれにしても奥山の道をたどらねばならない。木曾下四宿への当分|助郷《すけごう》、あるいは大助郷の勤めとして、伊那百十九か村の村民が行き悩むのもその道だ。木から落ちる山蛭《やまびる》、往来《ゆきき》の人に取りつく蚋《ぶよ》、勁《つよ》い風に鳴る熊笹《くまざさ》、そのおりおりの路傍に見つけるものを引き合いに出さないまでも、昼でも暗い森林の谷は四里あまりにわたっている。旅するものはそこに杣《そま》の生活と、わずかな桑畠《くわばたけ》と、米穀も実らないような寒い土地とを見いだす。その深い山間《やまあい》を分けて、浪士らは和田峠合戦以来の負傷者から十数門の大砲までも運ばねばならない。

       三

 半蔵は馬籠本陣の方にいて、この水戸浪士を待ち受けた。彼が贄川《にえがわ》や福島の庄屋《しょうや》と共に急いで江戸を立って来たのは十月下旬で、ようやく浪士らの西上が伝えらるるころであった。時と場合により、街道の混乱から村民を護《まも》らねばならないとの彼の考えは、すでにそのころに起こって来た。諸国の人の注意は尊攘を標榜《ひょうぼう》する水戸人士の行動と、筑波《つくば》挙兵以来の出来事とに集まっている当時のことで、那珂港《なかみなと》の没落と共に榊原新左衛門《さかきばらしんざえもん》以下千二百余人の降参者と武田耕雲斎はじめ九百余人の脱走者とをいかに幕府が取りさばくであろうということも多くの人の注意を引いた。三十日近くの時の間には、幕府方に降《くだ》った宍戸侯《ししどこう》(松平|大炊頭《おおいのかみ》)の心事も、その運命も、半蔵はほぼそれを聞き知ることができたのである。幕府の参政田沼玄蕃頭は耕雲斎らが政敵市川三左衛門の意見をいれ、宍戸侯に死を賜わったという。それについで死罪に処せられた従臣二十八人、同じく水戸藩士|二人《ふたり》、宍戸侯の切腹を聞いて悲憤のあまり自殺した家来数人、この難に死んだものは都合四十三人に及んだという。宍戸侯の悲惨な最期――それが水戸浪士に与えた影響は大きかった。賊名を負う彼らの足が西へと向いたのは、それを聞いた時であったとも言わるる。「所詮《しょせん》、水戸家もいつまで幕府のきげんを取ってはいられまい」との意志の下に、潔く首途《かどで》に上ったという彼ら水戸浪士は、もはや幕府に用のない人たちだった。前進あるのみだった。
 半蔵に言わせると、この水戸浪士がいたるところで、人の心を揺り動かして来るには驚かれるものがある。高島城をめがけて来たでもないものがどうしてそんなに諏訪藩《すわはん》に恐れられ、戦いを好むでもないものがどうしてそんなに高遠藩《たかとおはん》や飯田藩《いいだはん》に恐れられるだろう。実にそれは命がけだからで。二百何十年の泰平に慣れた諸藩の武士が尚武《しょうぶ》の気性のすでに失われていることを眼前に暴露して見せるのも、万一の節はひとかどの御奉公に立てと日ごろ下の者に教えている人たちの忠誠がおよそいかなるものであるかを眼前に暴露して見せるのも、一方に討死《うちじに》を覚悟してかかっているこんな水戸浪士のあるからで。
 それにしても、江戸両国の橋の上から丑寅《うしとら》の方角に遠く望んだ人たちの動きが、わずか一月《ひとつき》近くの間に伊那の谷まで進んで来ようとは半蔵の身にしても思いがけないことであった。水戸の学問と言えば、少年時代からの彼が心をひかれたものであり、あの藤田東湖の『正気《せいき》の歌』なぞを好んで諳誦《あんしょう》したころの心は今だに忘れられずにある。この東湖先生の子息《むすこ》さんにあたる人を近くこの峠の上に、しかも彼の自宅に迎え入れようとは、思いがけないことであった。平田門人としての彼が、水戸の最後のものとも言うべき人たちの前に自分を見つける日のこんなふうにして来ようとは、なおなお思いがけないことであった。
 別に、半蔵には、浪士の一行に加わって来るもので、心にかかる一人の旧友もあった。平田同門の亀山嘉治《かめやまよしはる》が八月十四日|那珂港《なかみなと》で小荷駄掛《こにだがか》りとなって以来、十一月の下旬までずっと浪士らの軍中にあったことを半蔵が知ったのは、つい最近のことである。いよいよ浪士らの行路が変更され、参州街道から東海道に向かうと見せて、その実は清内路より馬籠、中津川に出ると決した時、二十六日馬籠泊まりの触れ書と共にあの旧友が陣中からよこした一通の手紙でその事が判然《はっきり》した。それには水戸派尊攘の義挙を聞いて、その軍に身を投じたのであるが、寸功なくして今日にいたったとあり、いったん武田藤田らと約した上は死生を共にする覚悟であるということも認《したた》めてある。今回下伊那の飯島というところまで来て、はからず同門の先輩暮田正香に面会することができたとある。馬籠泊まりの節はよろしく頼む、その節は何年ぶりかで旧《むかし》を語りたいともある。


「半蔵さん、この騒ぎは何事でしょう。」
 と言って、隣宿|妻籠《つまご》本陣の寿平次はこっそり半蔵を見に来た。
 その時は木曾福島の代官山村氏も幕府の命令を受けて、木曾谷の両端へお堅めの兵を出している。東は贄川《にえがわ》の桜沢口へ。西は妻籠の大平口へ。もっとも、妻籠の方へは福島の砲術指南役|植松菖助《うえまつしょうすけ》が大将で五、六十人の一隊を引き連れながら、伊那の通路を堅めるために出張して来た。夜は往還へ綱を張り、その端に鈴をつけ、番士を伏せて、鳴りを沈めながら周囲を警戒している。寿平次はその妻籠の方の報告を持って、馬籠の様子をも探りに来た。
「寿平次さん、君の方へは福島から何か沙汰《さた》がありましたか。」
「浪士のことについてですか。本陣問屋へはなんとも言って来ません。」
「何か考えがあると見えて、わたしの方へもなんとも言って来ない。これが普通の場合なら、浪士なぞは泊めちゃならないなんて、沙汰のあるところですがね。」
「そりゃ、半蔵さん、福島の旦那《だんな》様だってなるべく浪士には避《よ》けて通ってもらいたい腹でいますさ。」
「いずれ浪士は清内路《せいないじ》から蘭《あららぎ》へかかって、橋場へ出て来ましょう。あれからわたしの家をめがけてやって来るだろうと思うんです。もし来たら、わたしは旅人として迎えるつもりです。」
「それを聞いてわたしも安心しました。馬籠から中津川の方へ無事に浪士を落としてやることですね、福島の旦那様も内々《ないない》はそれを望んでいるんですよ。」
「妻籠の方は心配なしですね。そんなら、寿平次さん、お願いがあります。あすはかなりごたごたするだろうと思うんです。もし妻籠の方の都合がついたら来てくれませんか。なにしろ、君、急な話で、したくのしようもない。けさは会所で寄り合いをしましてね、村じゅう総がかりでやることにしました。みんな手分けをして、出かけています。わたしも今、一息入れているところなんです。」
「そう言えば、今度は飯田でもよっぽど平田の御門人にお礼を言っていい。君たちのお仲間もなかなかやる。」
「平田門人もいくらか寿平次さんに認められたわけですかね。」
 その時、宿泊人数の割り当てに村方へ出歩いていた宿役人仲間も帰って来て、そこへ顔を見せる。年寄役の伊之助は荒町《あらまち》から。問屋九郎兵衛は峠から。馬籠ではたいがいの家が浪士の宿をすることになって、万福寺あたりでも引き受けられるだけ引き受ける。本陣としての半蔵の家はもとより、隣家の伊之助方でも向こう側の隠宅まで御用宿ということになり同勢二十一人の宿泊の用意を引き受けた。
「半蔵さん、それじゃわたしは失礼します。都合さえついたら、あす出直して来ます。」
 寿平次はこっそりやって来て、またこっそり妻籠の方へ帰って行った。
 にわかに宿内の光景も変わりつつあった。千余人からの浪士の同勢が梨子野峠《なしのとうげ》を登って来ることが知れると、在方《ざいかた》へ逃げ去るものがある。諸道具を土蔵に入れるものがある。大切な帳面や腰の物を長持に入れ、青野という方まで運ぶものがある。


 旧暦十一月の末だ。二十六日には冬らしい雨が朝から降り出した。その日の午後になると、馬籠宿内の女子供で家にとどまるものは少なかった。いずれも握飯《むすび》、鰹節《かつおぶし》なぞを持って、山へ林へと逃げ惑うた。半蔵の家でもお民は子供や下女を連れて裏の隠居所まで立ち退《の》いた。本陣の囲炉裏《いろり》ばたには、栄吉、清助をはじめ、出入りの百姓や下男の佐吉を相手に立ち働くおまんだけが残った。
「姉《あね》さま。」
 台所の入り口から、声をかけながら土間のところに来て立つ近所の婆《ばあ》さんもあった。婆さんはあたりを見回しながら言った。
「お前さまはお一人《ひとり》かなし。そんならお前さまはここに残らっせるつもりか。おれも心細いで、お前さまが行くなら一緒に本陣林へでも逃げずかと思って、ちょっくら様子を見に来た。今夜はみんな山で夜明かしだげな。おまけに、この意地の悪い雨はどうだなし。」
 独《ひと》り者の婆さんまでが逃げじたくだ。
 半蔵は家の外にも内にもいそがしい時を送った。水戸浪士をこの峠の上の宿場に迎えるばかりにしたくのできたころ、彼は広い囲炉裏ばたへ通って、そこへ裏二階から母屋《もや》の様子を見に来る父|吉左衛門《きちざえもん》とも一緒になった。
「何しろ、これはえらい騒ぎになった。」と吉左衛門は案じ顔に言った。「文久元年十月の和宮《かずのみや》さまがお通り以来だぞ。千何百人からの同勢をこんな宿場で引き受けようもあるまい。」
「お父《とっ》さん、そのことなら、落合の宿でも分けて引き受けると言っています。」と半蔵が言う。
「今夜のお客さまの中には、御老人もあるそうだね。」
「その話ですが、山国兵部という人はもう七十以上だそうです。武田耕雲斎、田丸稲右衛門、この二人も六十を越してると言いますよ。」
「おれも聞いた。人が六、七十にもなって、全く後方《うしろ》を振り返ることもできないと考えてごらんな。生命《いのち》がけとは言いながら――えらい話だぞ。」
「今度は東湖先生の御子息さんも御一緒です。この藤田小四郎という人はまだ若い。二十三、四で一方の大将だというから驚くじゃありませんか。」
「おそろしく早熟なかただと見えるな。」
「まあ、お父《とっ》さん。わたしに言わせると、浪士も若いものばかりでしたら、京都まで行こうとしますまい。水戸の城下の方で討死《うちじに》の覚悟をするだろうと思いますね。」
「そりゃ、半蔵。老人ばかりなら、最初から筑波山《つくばさん》には立てこもるまいよ。」
 父と子は互いに顔を見合わせた。
 幕府への遠慮から、駅長としての半蔵は家の門前に「武田伊賀守様|御宿《おんやど》」の札も公然とは掲げさせなかったが、それでも玄関のところには本陣らしい幕を張り回させた。表向きの出迎えも遠慮して、年寄役伊之助と組頭《くみがしら》庄助《しょうすけ》の二人と共に宿はずれまで水戸の人たちを迎えようとした。
「お母《っか》さん、お願いしますよ。」
 と彼が声をかけて行こうとすると、おまんはあたりに気を配って、堅く帯を締め直したり、短刀をその帯の間にはさんだりしていた。
 もはや、太鼓の音だ。おのおの抜き身の鎗《やり》を手にした六人の騎馬武者と二十人ばかりの歩行《かち》武者とを先頭にして、各部隊が東の方角から順に街道を踏んで来た。
 この一行の中には、浪士らのために人質に取られて、腰繩《こしなわ》で連れられて来た一人の飯田の商人もあった。浪士らは、椀屋文七《わんやぶんしち》と聞こえたこの飯田の商人が横浜貿易で一万両からの金をもうけたことを聞き出し、すくなくも二、三百両の利得を吐き出させるために、二人の番士付きで伊那から護送して来た。きびしく軍の掠奪《りゃくだつ》を戒め、それを犯すものは味方でも許すまいとしている浪士らにも一方にはこのお灸《きゅう》の術があった。ヨーロッパに向かって、この国を開くか開かないかはまだ解決のつかない多年の懸案であって、幕府に許されても朝廷から許されない貿易は売国であるとさえ考えるものは、排外熱の高い水戸浪士中に少なくなかったのである。
[#改頁]

     第十一章

       一

[#ここから1字下げ]
「青山君――伊那にある平田門人の発起《ほっき》で、近く有志のものが飯田《いいだ》に集まろうとしている。これはよい機会と思われるから、ぜひ君を誘って一緒に伊那の諸君を見に行きたい。われら両人はその心組みで馬籠《まごめ》までまいる。君の都合もどうあろうか。ともかくもお訪《たず》ねする。」
[#地から4字上げ]中津川にて
[#地から2字上げ]景蔵
[#地から2字上げ]香蔵
[#ここで字下げ終わり]
 馬籠にある半蔵あてに、二人《ふたり》の友人がこういう意味の手紙を中津川から送ったのは、水戸浪士の通り過ぎてから十七日ほど後にあたる。
 美濃《みの》の中津川にあって聞けば、幕府の追討総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》の軍は水戸浪士より数日おくれて伊那の谷まで追って来たが、浪士らが清内路《せいないじ》から、馬籠、中津川を経て西へ向かったと聞き、飯田からその行路を転じた。総督は飯田藩が一戦をも交えないで浪士軍の間道通過に任せたことをもってのほかであるとした。北原稲雄兄弟をはじめ、浪士らの間道通過に斡旋《あっせん》した平田門人の骨折りはすでにくつがえされた。飯田藩の家老はその責めを引いて切腹し、清内路の関所を預かる藩士もまた同時に切腹した。景蔵や香蔵が訪《たず》ねて行こうとしているのはこれほど動揺したあとの飯田で、馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には和宮様《かずのみやさま》御降嫁以来の出来事だと言わるる水戸浪士の通過についても、まだ二人は馬籠の半蔵と話し合って見る機会もなかった時だ。


「いかがですか。おしたくができましたら、出かけましょう。」
 香蔵は中津川にある問屋の家を出て、同じ町に住む景蔵が住居《すまい》の門口から声をかけた。そこは京都の方から景蔵をたよって来て身を隠したり、しばらく逗留《とうりゅう》したりして行くような幾多の志士たち――たとえば、内藤頼蔵《ないとうらいぞう》、磯山新助《いそやましんすけ》、長谷川鉄之進《はせがわてつのしん》、伊藤祐介《いとうゆうすけ》、二荒四郎《ふたらしろう》、東田行蔵《ひがしだこうぞう》らの人たちを優にかばいうるほどの奥行きの深い本陣である。そこはまた、過ぐる文久二年の夏、江戸屋敷の方から来た長州侯の一行が木曾街道経由で上洛《じょうらく》の途次、かねての藩論たる公武合体、航海遠略から破約|攘夷《じょうい》へと、大きく方向の転換を試みるための中津川会議を開いた由緒《ゆいしょ》の深い家でもある。
「どうでしょう、香蔵さん、大平峠《おおだいらとうげ》あたりは雪でしょうか。」
「さあ、わたしもそのつもりでしたくして来ました。」
 二人の友だちはまずこんな言葉をかわした。景蔵のしたくもできた。とりあえず馬籠まで行こう、二人して半蔵を驚かそうと言うのは香蔵だ。年齢の相違こそあれ、二人は旧《ふる》い友だちであり、平田の門人仲間であり、互いに京都まで出て幾多の政変の渦《うず》の中にも立って見た間柄である。その時の二人は供の男も連れず、途中は笠《かさ》に草鞋《わらじ》があれば足りるような身軽な心持ちで、思い思いの合羽《かっぱ》に身を包みながら、午後から町を離れた。もっとも、飯田の方に着いて同門の人たちと一緒になる場合を考えると紋付の羽織に袴《はかま》ぐらい風呂敷包《ふろしきづつ》みにして肩に掛けて行く用意は必要であり、馬籠本陣への手土産《てみやげ》も忘れてはいなかったが。
 中津川から木曾の西のはずれまではそう遠くない。その間には落合《おちあい》の宿一つしかない。美濃よりするものは落合から十曲峠《じっきょくとうげ》にかかって、あれから信濃《しなの》の国境《くにざかい》に出られる。各駅の人馬賃銭が六倍半にも高くなったその年の暮れあたりから見ると、二人の青年時代には駅と駅との間を通う本馬《ほんま》五十五文、軽尻《からじり》三十六文、人足二十八文と言ったところだ。
 水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、十一月の二十七日には西へ通り過ぎて行った。飯田の方で北原兄弟が間道通過のことに尽力してからこのかた、清内路に、馬籠に、中津川に、浪士らがそれからそれと縁故をたどって来たのはいずれもこの地方に本陣庄屋なぞをつとめる平田門人らのもとであった。一方には幕府への遠慮があり、一方には土地の人たちへの心づかいがあり、平田門人らの苦心も一通りではなかった。木曾にあるものも、東美濃にあるものも、同門の人たちは皆この事件からは強い衝動を受けた。


 水戸浪士の通り過ぎて行ったあとには、実にいろいろなものが残った。景蔵と香蔵とがわざわざ名ざしで中津川から落合の稲葉屋《いなばや》まで呼び出され、浪士の一人なる横田東四郎から渋紙包みにした首級の埋葬方を依頼された時のことも、まだ二人の記憶に生々《なまなま》しい。これは和田峠で戦死したのをこれまで渋紙包みにして持参したのである。二男藤三郎、当年十八歳になるものの首級であると言って、実父の東四郎がそれを二人の前に差し出したのもその時だ。景蔵は香蔵と相談の上、夜中ひそかに自家の墓地にそれを埋葬した。そういう横田東四郎は参謀山国兵部や小荷駄掛《こにだがか》り亀山嘉治《かめやまよしはる》と共に、水戸浪士中にある三人の平田門人でもあったのだ。
 浪士らの行動についてはこんな話も残った。和田峠合戦のあとをうけ下諏訪《しもすわ》付近の混乱をきわめた晩のことで、下原村の百姓の中には逃げおくれたものがあった。背中には長煩《ながわずら》いで床についていた一人の老母もある。どうかして山手の方へ遠くと逃げ惑ううちに、母は背に負われて腹筋の痛みに堪《た》えがたいと言い出す。その時の母の言葉に、自分はこんな年寄りのことでだれもとがめるものはあるまい、その方は若者だ、どんな憂《う》き目を見ないともかぎるまいから、早く身を隠せよ。そう言われた百姓は、どうしたら親たる人を捨て置いてそこを逃げ延びたものかと考え、古筵《ふるむしろ》なぞを母にきせて介抱していると、ちょうどそこへ来かかった二人の浪士の発見するところとなった。お前は当所のものであろう、寺があらば案内せよ、自分らは主君の首を納めたいと思うものであると浪士が言うので、百姓は大病の老母を控えていることを答えて、その儀は堅く御免こうむりましょうと断わった。しからば自分の家来を老母に付けて置こう、早く案内せとその浪士に言われて見ると、百姓も断わりかねた。案内した先は三町ほど隔たった来迎寺《らいごうじ》の境内だ。浪士はあちこちと場所を選んだ。扇を開いて、携えて来た首級をその上にのせた。敬い拝して言うことには、こんなところで御武運つたなくなりたまわんとは夢にも知らなかった、御本望の達する日も見ずじまいにさぞ御残念に思《おぼ》し召されよう、軍《いくさ》の習い、是非ないことと思し召されよと、生きている人にでも言うようにそれを言って、暗い土の上にぬかずいた。短刀を引き抜いて、土中に深くその首級を納めた。それから浪士は元のところへ引き返して来て、それまで案内した男に褒美《ほうび》として短刀を与えたが、百姓の方ではそれを受けようとしなかった。元来百姓の身に武器なぞは不用の物であるとして、堅く断わった。そういうことなら、病める老母に薬を与えようとその浪士が言って、銀壱朱をそこに投げやりながら、家来らしい連れの者と一緒に下諏訪方面へ走り去ったという。
 こんな話を伝え聞いた土地のものは、いずれもその水戸武士の態度に打たれた。あれほどの恐怖をまき散らして行ったあとにもかかわらず、浪士らに対して好意を寄せるものも決して少なくはなかったのだ。
 景蔵、香蔵の二人は落合の宿まで行って、ある町角《まちかど》で一人の若者にあった。稲葉屋の子息《むすこ》勝重《かつしげ》だ。長いこと半蔵に就《つ》いて内弟子《うちでし》として馬籠本陣の方にあった勝重も、その年の春からは落合の自宅に帰って、年寄役の見習いを始めるほどの年ごろに達している。
「勝重さんもよい子息《むすこ》さんになりましたね。」
 驚くばかりの成長の力を言いあらわすべき言葉もないというふうに、二人は勝重の前に立って、まだ前髪のあるその額《ひたい》つきをながめながら、かわるがわるいろいろなことを尋ねて見た。この勝重に勧められて、しばらく二人は落合に時を送って行くことにした。その日は二人とも馬籠泊まりのつもりであり、急ぐ道でもなかったからで。のみならず、落合村の長老として知られた勝重の父儀十郎を見ることも、二人としては水戸浪士の通過以来まだそのおりがなかったからで。
 稲葉屋へ寄って見ると、そこでも浪士らのうわさが尽きない。横田東四郎からその子の首級を託せられた節は稲葉屋でも驚いたであろうという景蔵らの顔を見ると、勝重の父親はそれだけでは済まさなかった。あの翌朝、重立った幹部の人たちと見える浪士らが馬籠から落合に集まって、中津川の商人|万屋安兵衛《よろずややすべえ》と大和屋李助《やまとやりすけ》の両人をこの稲葉屋へ呼び出し、金子《きんす》二百両の無心のあったことを語り出すのも勝重の父親だ。
「その話はわたしも聞きました。」と景蔵が笑う。
「でも、世の中は回り回っていますね。」と香蔵は言った。「横浜貿易でうんともうけた安兵衛さんが、水戸浪士の前へ引き出されるなんて。」
「そこは安兵衛さんです。」と儀十郎は昔気質《むかしかたぎ》な年寄役らしい調子で、「あの人は即答はできないが、一同でよく相談して来ると言って、いったん中津川の方へ引き取って行きました。それから、あなた、生糸《きいと》取引に関係のあったものが割前で出し合いまして、二百両耳をそろえてそこへ持って来ましたよ。」
「あの安兵衛さんと水戸浪士の応対が見たかった。」と香蔵が言う。
 しかし、一方に、浪士らが軍律をきびしくすることも想像以上で、幹部の目を盗んで民家を掠奪《りゃくだつ》した一人の土佐《とさ》の浪人のあることが発見され、この落合宿からそう遠くない三五沢まで仲間同志で追跡して、とうとうその男を天誅《てんちゅう》に処した、その男の逃げ込んだ百姓家へは手当てとして金子一両を家内のものへ残して行ったと語って見せるのも、またこの儀十郎だ。
「何にいたせ、あの同勢が鋭い抜き身の鎗《やり》や抜刀で馬籠の方から押して来ました時は、恐ろしゅうございました。」
 それを儀十郎が言うと、子息は子息で、
「あの藤田小四郎が吾家《うち》へも書いたものを残して行きましたよ。大きな刀をそばに置きましてね、何か書くから、わたしに紙を押えていろと言われた時は、思わずこの手が震えました。」
「勝重、あれを持って来て、浅見さんにも蜂谷《はちや》さんにもお目にかけな。」
 浪士らは行く先に種々《さまざま》な形見を残した。景蔵のところへは特に世話になった礼だと言って、副将田丸稲右衛門が所伝の黒糸縅《くろいとおどし》の甲冑片袖《かっちゅうかたそで》を残した。それは玉子色の羽二重《はぶたえ》に白麻の裏のとった袋に入れて、別に自筆の手厚い感謝状を添えたものである。
「馬籠の御本陣へも何か残して置いて行ったようなお話です。」と儀十郎が言う。
「どうせ、帰れる旅とは思っていないからでしょう。」
 景蔵の答えだ。
 その時、勝重は若々しい目つきをしながら、小四郎の記念というものを奥から取り出して来た。景蔵らの目にはさながら剣を抜いて敵王の衣を刺し貫いたという唐土《とうど》の予譲《よじょう》を想《おも》わせるようなはげしい水戸人の気性《きしょう》がその紙の上におどっていた。しかも、二十三、四歳の青年とは思われないような老成な筆蹟《ひっせき》で。
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大丈夫当雄飛《だいじょうふまさにゆうひすべし》安雌伏《いずくんぞしふくせんや》
[#地から2字上げ]藤田信
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「そう言えば、浪士もどの辺まで行きましたろう。」
 景蔵らと稲葉屋親子の間にはそんなうわさも出る。
 その後の浪士らが美濃を通り過ぎて越前《えちぜん》の国まではいったことはわかっていた。しかしそれから先の消息は判然《はっきり》しない。中津川や落合へ飛脚が持って来る情報によると、十一月二十七日に中津川を出立した浪士らは加納藩《かのうはん》や大垣藩《おおがきはん》との衝突を避け、本曾街道の赤坂、垂井《たるい》あたりの要処には彦根藩《ひこねはん》の出兵があると聞いて、あれから道を西北方に転じ、長良川《ながらがわ》を渡ったものらしい。師走《しわす》の四日か五日ごろにはすでに美濃と越前の国境《くにざかい》にあたる蝿帽子峠《はえぼうしとうげ》の険路を越えて行ったという。
「あの蝿帽子峠の手前に、クラヤミ峠というのがございます。」と儀十郎は言って見せた。「ひどい峠で、三里の間は闇《やみ》を行くようだと申しますんで、それで俗にクラヤミでございますさ。あの辺は深い雪と聞きますから、浪士も難渋いたしましたろうよ。」
「千辛万苦の旅ですね。」
 と勝重も言っていた。
 間もなく景蔵らはこの稲葉屋を辞して、落合の宿をも離れた。中山薬師から十曲峠にかかって、新茶屋に出ると、そこはもう隣の国だ。雪まじりに土のあらわれた街道は次第に白く変わっていた。鋭い角度を見せた路傍の大石も雪にぬれていて、まず木曾路の入り口の感じを二人に与える。
 師走の五日には中津川や落合へも初雪が来た。その晩に大雪だったという馬籠峠の上では、宿場そのものがすでに冬ごもりだ。南側の雪は溶けても、北側は溶けずに、石を載せた板屋根までが山家らしいところで、中津川から行った二人の友だちはそこに待ちわび顔な半蔵とも、その家族の人たちとも一緒になった。

 この伊那《いな》行きはひどく半蔵をもよろこばせた。水戸浪士の通過を最後にして、その年の街道の仕事もどうやら一段落を告げたばかりではない。浪士らの残して置いて行った刺激は彼の心を静かにさせて置かなかったからである。浪士らの通過以来、伊那にある平田門人らはしきりに往来し始めたと聞くころだ。半蔵もまた二人の年上の友だちと共に、たとい大平峠の雪を踏んでも、伊那の谷の方にある同門の人たちを見に行かずにはいられなかった。
 馬籠本陣の店座敷では、翌朝の出発を楽しみにする三人が久しぶりの炬燵話《こたつばなし》に集まった。そこへ半蔵の父吉左衛門も茶色な袖無《そでな》し羽織などを重ねながらちょっと挨拶《あいさつ》に来て、水戸浪士のうわさを始める。
「中津川の方はいかがでしたか。」
「そりゃ、香蔵さん、馬籠は君たちの方と違って、隣に妻籠《つまご》というものを控えていましょう。福島から出張した人たちは大平口を堅める。えらい騒ぎでしたさ。」と半蔵が言う。
「いや、はや、あの時は福島の家中衆も大あわて。」とまた吉左衛門が言って見せた。「あとになって軍用の荷物をあけて見たら、あなた、桜沢口の方へは鉄砲の玉ばかり行って、大平口の方へはまた焔硝《えんしょう》(火薬)ばかり来ておりましたなんて。まあ、無事に浪士を落としてやってよかったと思うものは、わたしたちばかりじゃありますまい。あれから総督の田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》が浪士の跡を追って来るというので、またこちらじゃ一騒ぎでしたよ。御同勢千人あまり、残らず軍《いくさ》の陣立てで、剣付鉄砲を一|挺《ちょう》ずつ用意しまして、浪士の立った翌日には伊那道の広瀬村泊まりで追って来るなぞといううわさでしょう。御承知のとおり、宅では浪士の宿をしましたから、どういうことになろうかと思って、ひどく心配しました。あの翌々日には、お先荷の長持だけはまいりましたが、とうとう田沼侯の御同勢はまいりませんでした。あの時ばかりはわたしもホッとしましたよ。聞けば飯田藩じゃ、御家老が切腹したといううわさじゃありませんか。おまけに、清内路の御関所番までも……」
 吉左衛門は年老いた手を膝《ひざ》の上に置いて、深いため息をついた。
 父が席を避けて行った後、半蔵は水戸浪士の幹部の人たちから礼ごころに贈られたものを二人の友だちの前に取り出した。武田、田丸、山国、藤田諸将の書いた詩歌の短冊《たんざく》、小桜縅《こざくらおどし》の甲冑片袖《かっちゅうかたそで》、そのほかに小荷駄掛りの亀山嘉治《かめやまよしはる》が特に半蔵のもとに残して置いて行った歌がある。水戸浪士に加わって来た同門の人が飯田や馬籠での述懐だ。
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あられなす矢玉の中は越えくれどすすみかねたる駒《こま》の山麓《やまもと》
ふみわくる深山紅葉《みやまもみじ》を敷島のやまとにしきと見る人もがも
八束穂《やつかほ》のしげる飯田の畔《あぜ》にさへ君に仕ふる道はありけり
みだれ世のうき世の中にまじらなく山家は人の住みよからまし
草まくら夜ふす猪《しし》の床《とこ》とはに宿りさだめぬ身にもあるかな
つはものに数ならぬ身も神にます我が大君の御楯《みたて》ともがな
木曾山の八岳《やたけ》ふみこえ君がへに草むす屍《かばね》ゆかむとぞおもふ
[#地から7字上げ]嘉治
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「亀山は亀山らしい歌を残して行きましたね。思い入った人の歌ですね。」
 と景蔵が言うと、半蔵は炬燵《こたつ》の上に手を置きながら、
「あの騒ぎの中で、亀山とは一晩じゅう話してしまいました。もっとも、番士は交代で篝《かがり》を焚《た》く、村のものは村のもので宿内を警戒する、火の番は回って来る、なかなか寝られるようなものじゃありませんでしたよ。わたしも興奮しましてね、あの翌晩もひとりで起きていて、旧作の長歌を一晩かかって書き改めたりなぞしましたよ。」
 ちょうどその時、年寄役の伊之助が村方の用事をもって家の囲炉裏ばたまで見えたので、半蔵は伊那行きのことを伊之助に話しかつ留守中のことをも頼んで置くつもりで、ちょっとその席をはずした。そして、店座敷へ引き返して来て見ると、景蔵、香蔵の二人はお民にすすめられて、かわるがわる風呂場《ふろば》の方へからだを温《あたた》めに行っていた。
「半蔵、なんにもないが、お客さまに一杯あげる。ごらんな、お客さまというと子供が大はしゃぎだよ。にぎやかでありさえすれば子供はうれしいんだね。」
 と継母のおまんが言うころは、店座敷の障子も薄暗い。下女は行燈《あんどん》をさげて来た。
 やがて、こうした土地での習いで、炬燵板《こたついた》の上を食卓に代用して、半蔵は二人の友だちに山家の酒をすすめた。
「愉快、愉快。」と香蔵はそこへ心づくしの手料理を運んで来るお民を見て言った。「奥さんの前ですが、わたしたちが三人寄ることはこれでめったにないんです。半蔵さんとわたしと二人の時は、景蔵さんは京都の方へ行ってる。景蔵さんと一緒の時は、半蔵さんは江戸に出てる。まあ、きょうは久しぶりで、あの寛斎老人の家に三人机を並べた時分の心持ちに帰りましたよ。」


「こうして三人集まって見ると、やっぱり話したい。いや、ことしは実にえらい年でした。いろいろなものが一年のうちに、どしどし片づいて行ってしまいましたよ。」
 食後に、景蔵はそんなことを言い出した。その暮れになって見ると、天王山《てんのうざん》における真木和泉《まきいずみ》の自刃も、京都における佐久間象山《さくましょうざん》の横死も、皆その年の出来事だ。名高い攘夷《じょうい》論者も、開港論者も、同じように故人になってしまった。その時、三人の話は水戸の人たちのことに落ちて行った。
 尊攘は水戸浪士の掲げて来た旗じるしである。景蔵に言わせると、もともと尊王と攘夷とを結びつけ、その二つのものの堅い結合から新機運をよび起こそうと企てたのは真木和泉らの運動で、これは幕府の専横と外国公使らの不遜《ふそん》とを憤り一方に王室の衰微を嘆く至情からほとばしり出たことは明らかであるが、この尊攘の結合を王室回復の手段とするの可否はだんだん心あるものの間に疑問となって来た。尊王は尊王、攘夷は攘夷――尊王は遠い理想、攘夷は当面の外交問題であるからである。しかし、あの真木和泉にはそれを結びつけるだけの誠意があった。衆にさきがけして諸国の志士を導くに足るだけの熱意があった。もはやその人はない。尊攘の運動は事実においてすでにその中心の人物を失っている。のみならず、筑後水天宮《ちくごすいてんぐう》の祠官《しかん》の家に生まれ、京都学習院の徴士にまで補せられ、堂々たる朝臣の列にあった真木和泉がたとい生きながらえているとしても、大和《やまと》行幸論に一代を揺り動かしたほどの熱意を持ちつづけて、今後もあの尊攘論で十八隻から成る英米仏蘭四国の連合艦隊を向こうに回すようなこの国の難局を押し通せるものかどうか。尊王と攘夷との切り離して考えられるような時がようやくやって来たのではなかろうか。これが景蔵の意見であった。
 景蔵は言った。
「どうでしょう、尊攘ということもあの水戸の人たちを最後とするんじゃありますまいか。」


「しかし、景蔵さん。」とその時、香蔵は年上の友だちの話を引き取って言った。「あの亀山嘉治《かめやまよしはる》なぞは、そうは考えていませんぜ。」
「亀山は亀山、われわれはわれわれですさ。」と景蔵は言う。
「そういう景蔵さんの意見は、実際の京都生活から来てる。どうもわたしはそう思う。」
「そんなら見たまえ、長州藩あたりじゃ伊藤俊助《いとうしゅんすけ》だの井上聞多《いのうえもんた》だのという人たちをイギリスへ送っていますぜ。それが君、去年あたりのことですぜ。あの人たちの密航は、あれはなかなか意味が深いといううわさです。攘夷派の筆頭として知られた長州藩の人たちがそれですもの。」
「世の中も変わって来ましたな。」
「まあ、わたしに言わせると、尊攘ということを今だにまっ向《こう》から振りかざしているのは、水戸ばかりじゃないでしょうか。そこがあの人たちの実に正直なところでもありますがね。」
 木曾山の栗《くり》の季節はすでに過ぎ去り、青い香のする焼き米にもおそい。それまで半蔵は炬燵《こたつ》の上に手を置いて二人の友だちの話を聞いていたが、雪の来るまで枯れ枝の上に残ったような信濃柿《しなのがき》の小粒で霜に熟したのなぞをそこへ取り出して来て、景蔵や香蔵と一緒に熱い茶をすすりながら、店座敷の行燈《あんどん》のかげに長い冬の夜を送ろうとしていた。彼にして見ると、ヨーロッパを受けいれるか、受けいれないかは、多くの同時代の人の悩みであって、たとい先師|篤胤《あつたね》がその日まで達者《たっしゃ》に在世せられたとしても、これには苦しまれたろうと思われる問題である。もはや、異国と言えば、オランダ一国を相手にしていて済まされたような、先師の時代ではなくなって来たからである。それにしても、あれほど京都方の反対があったにもかかわらず、江戸幕府が開港を固執して来たについては、何か理由がなくてはならない。幕府の役人にそれほどの先見の明があったとは言いがたい。なるほど、安政万延年代には岩瀬肥後《いわせひご》のような人もあった。しかし、それはごくまれな人のことで、大概の幕府の役人は皆京都あたりの攘夷家に輪をかけたような西洋ぎらいであると言わるる。その人たちが開港を固執して来た。これは外国公使らの脅迫がましい態度に余儀なくせられたとのみ言えるだろうか。水戸浪士の尊攘が話題に上ったのを幸いに、半蔵はその不思議さを二人の友だちの前に持ち出した。
「こういう説もあります。」と景蔵は言った。「政府がひとりで外国貿易の利益を私するから、それでこんなに攘夷がやかましくなった。一年なら一年に、得《う》るところを計算してですね、朝廷へ何ほど、公卿《くげ》へ何ほど、大小各藩へ何ほどというふうに、その額をきめて、公明正大な分配をして来たら、上御一人《かみごいちにん》から下は諸藩の臣下にまでよろこばれて、これほど全国に不平の声は起こらなかったかもしれない。今になって君、そういうことを言い出して来たものもありますよ。」
「政府ばかりが外国貿易の利益をひとり占《じ》めにする法はないか。」と香蔵はくすくすやる。
「ところが、そういうことを言い出して、政府のお役人に忠告を試みたのが、英国公使のアールコックだといううわさだからおもしろいじゃありませんか。」とまた景蔵が言って見せた。
「いや、」と半蔵はそれを引き取って、「そう言われると、いろいろ思い当たることはありますよ。」
「横浜には外国人相手の大遊郭《だいゆうかく》も許可してあるしね。」と香蔵が言い添える。
「あの生麦《なまむぎ》償金のことを考えてもわかります。」と景蔵は言った。「見たまえ、この苦しい政府のやり繰りの中で、十万ポンドという大金がどこから吐き出せると思います。幕府のお役人が開港を固執して来たはずじゃありませんか。」
 しばらく沈黙が続いた。
「半蔵さん。攘夷論がやかましくなって来たそもそもは、あれはいつごろだったでしょう。ほら、幕府の大官が外国商人と結託してるの、英国公使に愛妾《あいしょう》をくれたのッて、やかましく言われた時がありましたっけね。」
「そりゃ、尊王攘夷の大争いにだって、利害関係はついて回る。横浜開港以来の影響はだれだって考えて来たことですからね。でも、尊攘と言えば、一種の宗教運動に似たもので、成敗利害の外にある心持ちから動いて来たものじゃありますまいか。」
「今日《こんにち》まではそうでしょうがね。しかし、これから先はどうありましょうかサ。」
「まあ、西の方へ行って見たまえ。公卿でも、武士でも、驚くほど実際的ですよ。水戸の人たちのように、ああ物事にこだわっていませんよ。」
「いや、京都へ行って帰って来てから、君らの話まで違って来た。」
 こんな話も出た。
 その夜、半蔵は家のものに言い付けて二人の友だちの寝床を店座敷に敷かせ、自分も同じように枕《まくら》を並べて、また寝ながら語りつづけた。近く中津川を去って国学者に縁故の深い伊勢《いせ》地方へ晩年を送りに行った旧師宮川寛斎のうわさ、江戸の方にあった家を挙《あ》げて京都に移り住みたい意向であるという師平田|鉄胤《かねたね》のうわさ、枕の上で語り合うこともなかなか尽きない。半蔵は江戸の旅を、景蔵らは京都の方の話まで持ち出して、寝物語に時のたつのも忘れているうちに、やがて一番|鶏《どり》が鳴いた。

       二

「あなた、佐吉が飯田《いいだ》までお供をすると言っていますよ。」
 お民はそれを言って、あがりはなのところに腰を曲《こご》めながら新しい草鞋《わらじ》をつけている半蔵のそばへ来た。景蔵、香蔵の二人もしたくして伊那行きの朝を迎えていた。
「飯田行きの馬は通《かよ》っているんだろう。」と半蔵は草鞋の紐《ひも》を結びながら言う。
「けさはもう荷をつけて通りましたよ。」
「馬さえ通《かよ》っていれば大丈夫さ。」
「なにしろ、道が悪くて御苦労さまです。」
 そういうお民から半蔵は笠《かさ》を受け取った。下男の佐吉は主人らの荷物のほかに、その朝の囲炉裏で焼いた芋焼餅《いもやきもち》を背中に背負《しょ》った。一同したくができた。そこで出かけた。
 降った雪の溶けずに凍る馬籠峠の上。雪を踏み堅め踏み堅めしてある街道には、猿羽織《さるばおり》を着た村の小娘たちまでが集まって、一年の中の最も楽しい季節を迎え顔に遊び戯れている。愛らしい軽袗《かるさん》ばきの姿に、鳶口《とびぐち》を携え、坂になった往来の道を利用して、朝早くから氷|滑《すべ》りに余念もない男の子の中には、半蔵が家の宗太もいる。
 一日は一日より、白さ、寒さ、深さを増す恵那山《えなさん》連峰の谿谷《けいこく》を右手に望みながら、やがて半蔵は連れと一緒に峠の上を離れた。木曾山森林保護の目的で尾州藩から見張りのために置いてある役人の駐在所は一石栃《いちこくとち》(略称、一石)にある。いわゆる白木の番所だ。番所の屋根から立ちのぼる煙も沢深いところだ。その辺は馬籠峠の裏山つづきで、やがて大きな木曾谷の入り口とも言うべき男垂山《おたるやま》の付近へと続いて行っている。この地勢のやや窮まったところに、雪崩《なだれ》をも押し流す谿流の勢いを見せて、凍った花崗石《みかげいし》の間を落ちて来ているのが蘭川《あららぎがわ》だ。木曾川の支流の一つだ。そこに妻籠《つまご》手前の橋場があり、伊那への通路がある。
 蘭川の谷の昔はくわしく知るよしもない。ただしかし、尾張美濃から馬籠峠を経て、伊那|諏訪《すわ》へと進んだ遠い昔の人の足跡をそこに想像することはできる。そこにはまた、幾世紀の長さにわたるかと思われるような沈黙と寂寥《せきりょう》との支配する原生林の大きな沢を行く先に見つけることもできる。蘭《あららぎ》はこの谷に添い、山に倚《よ》っている村だ。全村が生活の主《おも》な資本《もとで》を山林に仰いで、木曾名物の手工業に親代々からの熟練を見せているのもそこだ。そこで造らるる檜木笠《ひのきがさ》の匂《にお》いと、石垣《いしがき》の間を伝って来る温暖《あたたか》な冬の清水《しみず》と、雪の中にも遠く聞こえる犬や鶏の声と。しばらく半蔵らはその山家の中の山家とも言うべきところに足を休めた。
 そこまで行くと、水戸浪士の進んで来た清内路《せいないじ》も近い。清内路の関所と言えば、飯田藩から番士を出張させてある山間《やまあい》の関門である。千余人からの浪士らの同勢が押し寄せて来た当時、飯田藩で間道通過を黙許したものなら、清内路の関所を預かるものがそれをするにさしつかえがあるまいとは、番士でないものが考えても一応言い訳の立つ事柄である。飯田藩の家老と運命を共にしたという関所番が切腹のうわさは、半蔵らにとってまだ実に生々《なまなま》しかった。


 蘭《あららぎ》から道は二つに分かれる。右は清内路に続き、左は広瀬、大平《おおだいら》に続いている。半蔵らはその左の方の道を取った。時には樅《もみ》、檜木《ひのき》、杉《すぎ》などの暗い木立ちの間に出、時には栗《くり》、その他の枯れがれな雑木の間の道にも出た。そして越えて来た蘭川の谷から広瀬の村までを後方に振り返って見ることのできるような木曾峠の上の位置に出た。枝と枝を交えた常磐木《ときわぎ》がささえる雪は恐ろしい音を立てて、半蔵らが踏んで行く路傍に崩《くず》れ落ちた。黒い木、白い雪の傾斜――一同の目にあるものは、ところまだらにあらわれている冬の山々の肌《はだ》だった。
 昼すこし過ぎに半蔵らは大平峠の上にある小さな村に着いた。旅するものはもとより、荷をつけて中津川と飯田の間を往復する馬方なぞの必ず立ち寄る休み茶屋がそこにある。まず笠《かさ》を脱いで炉ばたに足を休めようとしたのは景蔵だ。香蔵も半蔵も草鞋《わらじ》ばきのままそのそばにふん込《ご》んで、雪にぬれた足袋《たび》の先をあたためようとした。
「どれ、芋焼餅《いもやきもち》でも出さずか。」
 と供の佐吉は言って、馬籠から背負《しょ》って来た風呂敷包みの中のものをそこへ取り出した。
「山で食えば、焼きざましの炙《あぶ》ったのもうまからず。」
 とも言い添えた。
 炉にくべた枯れ枝はさかんに燃えた。いくつかの芋焼餅は、火に近く寄せた鉄の渡しの上に並んだ。しばらく一同はあかあかと燃え上がる火をながめていたが、そのうちに焼餅もよい色に焦げて来る。それを割ると蕎麦粉《そばこ》の香と共に、ホクホクするような白い里芋《さといも》の子があらわれる。大根おろしはこれを食うになくてならないものだ。佐吉はそれを茶屋の婆《ばあ》さんに頼んで、熱い焼餅におろしだまりを添え、主人や客にも勧めれば自分でも頬《ほお》ばった。
 その時、※[#「くさかんむり/稾」、171-13]頭巾《わらずきん》をかぶって鉄砲をかついだ一人の猟師が土間のところに来て立った。
「これさ、休んでおいでや。」
 と声をかけるのは、勝手口の流しもとに皿小鉢《さらこばち》を洗う音をさせている婆さんだ。半蔵は炉ばたにいて尋ねて見た。
「お前はこの辺の者かい。」
「おれかなし。おれは清内路だ。」
 肩にした鉄砲と一緒に一羽の獲物《えもの》の山鳥をそこへおろしての猟師の答えだ。
 清内路と聞くと、半蔵は炉ばたから離れて、その男の方へ立って行った。見ると、耳のとがった、尻尾《しっぽ》の上に巻き揚がった猟犬をも連れている。こいつはその鋭い鼻ですぐに炉ばたの方の焼餅の匂《にお》いをかぎつけるやつだ。
「妙なことを尋ねるようだが、お前はお関所の話をよく知らんかい。」と半蔵が言った。
「おれが何を知らすか。」と猟師は※[#「くさかんむり/稾」、172-6]頭巾を脱ぎながら答える。
「お前だって、あのお関所番のことは聞いたろうに。」
「うん、あの話か。おれもそうくわしいことは知らんぞなし。なんでも、水戸浪士が来た時に、飯田のお侍様が一人と、二、三十人の足軽の組が出て、お関所に詰めていたげな。そんな小勢でどうしようもあらすか。通るものは通れというふうで、あのお侍様も黙って見てござらっせいたそうな。」と言って、猟師は気をかえて、「おれは毎日鉄砲打ちで、山ばかり歩いていて、お関所番の亡《な》くなったこともあとから聞いた。そりゃ、お前さま、この茶屋の婆さんの方がよっぽどくわしい。おれはこんな犬を相手だが、ここの婆さんはお客さまを相手だで。」


 日暮れごろに半蔵らは飯田の城下町にはいった。水戸浪士が間道通過のあとをうけてこの地方に田沼侯の追討軍を迎えることになった飯田では、またまた一時大騒ぎを繰り返したというところへ着いた。
 飯田藩の家老が切腹の事情は、中津川や馬籠から来た庄屋問屋のうかがい知るところではなかった。しかし、半蔵らは木曾地方に縁故の深いこの町の旅籠屋《はたごや》に身を置いて見て、ほぼその悲劇を想像することはできた。人が激しい運命に直面した時は身をもってそれに当たらねばならない。何ゆえにこの家老は一藩の重きに任ずる身で、それほどせっぱ詰まった運命に直面しなければならなかったか。半蔵らに言わせると、当時は幕府閣僚の権威が強くなって、何事につけても権威をもって高二万石にも達しない飯田のような外藩にまで臨もうとするからである。その強い権威の目から見たら、飯田藩が弓矢沢の防備を撤退したはもってのほかだと言われよう。間道の修繕を加えたはもってのほかだと言われよう。飯田町が水戸浪士に軍資金三千両の醵出《きょしゅつ》を約したことなぞはなおなおもってのほかだと言われよう。しかし、砥沢口《とざわぐち》合戦の日にも和田峠に近づかず、諏訪《すわ》松本両勢の苦戦をも救おうとせず、必ず二十里ずつの距離を置いて徐行しながら水戸浪士のあとを追って来たというのも、そういう幕府の追討総督だ。
 ともあれ、この飯田藩家老の死は強い力をもって伊那地方に散在する平田門人を押した。もともと飯田藩では初めから戦いを避けようとしたでもない。御会所の軍議は籠城《ろうじょう》のことに一決され、もし浪士らが来たら市内は焼き払われて戦乱の巷《ちまた》ともなるべく予想されたから、飯田の町としては未曾有《みぞう》の混乱状態を現出した際に、それを見かねてたち上がったのが北原稲雄兄弟であるからだ。稲雄がその弟の豊三郎をして地方係りと代官とに提出させた意見書の中には、高崎はじめ諏訪《すわ》高遠《たかとお》の領地をも浪士らが通行の上のことであるから、当飯田の領分ばかりが恥辱にもなるまいとの意味のことが認《したた》めてあった。豊三郎はそれをもって、おりから軍議最中の飯田城へ駆けつけたところ、郡奉行《こおりぶぎょう》はひそかに彼を別室に招き間道通過に尽力すべきことを依託したという。その足で豊三郎は飯田の町役人とも会見した。もし北原兄弟の尽力で、兵火戦乱の災《わざわい》から免れることができるなら、これに過ぎた町の幸福《しあわせ》はない、ついては町役人は合議の上で、十三か町の負担をもって、翌日浪士軍に中食を供し、かつ三千両の軍資金を醵出《きょしゅつ》すべき旨《むね》の申し出があったというのもその時だ。もっとも、この金の調達はおくれ、そのうち千両だけできたのを持って浪士軍を追いかけたものがあるが、はたして無事にその金を武田藤田らの手に渡しうるかどうかは疑問とされていた。
「これを責めるとは、酷だ。」
 その声は伊那地方にある同門の人たちを奮いたたせた。上にあって飯田藩の責任を問う人よりもさらによく武士らしい責任を知っていたというべき家老や関所番の死を憐《あわれ》むものが続々と出て来て、手向《たむ》けの花や線香がその新しい墓地に絶えないという時だ。半蔵が景蔵や香蔵と一緒に伊那の谷を訪れたのは、この際である。


 水戸浪士の間道通過に尽力しあわせて未曾有の混乱から飯田の町を救おうとした北原兄弟らの骨折りは、しかし決してむなしくはなかった。厳密な意味での平田篤胤没後の門人なるものは、これまで伊那の谷に三十六人を数えたが、その年の暮れには一息に二十三人の入門候補者を得たほど、この地方の信用と同情とを増した。
 その時になって見ると、片桐春一《かたぎりしゅんいち》らの山吹《やまぶき》社中を中心にする篤胤研究はにわかに活気を帯びて来る。従来国恩の万分の一にも報いようとの意気込みで北原稲雄らによって計画された先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布《じょうぼくはんぷ》は一層順調に諸門人が合同協力の実をあげる。小野の倉沢義髄《くらさわよしゆき》、清内路の原|信好《のぶよし》のように、中世否定の第一歩を宗教改革に置く意味で、神仏|混淆《こんこう》の排斥と古神道の復活とを唱えるために、相携えて京都へ向かおうとしているものもある。
 この機運を迎えた、伊那地方にある同門の人たちは、日ごろ彼らが抱《いだ》いている夢をなんらかの形に実現しようとして、国学者として大きな諸先達のためにある記念事業を計画していた。半蔵らが飯田にはいった翌々日には、三人ともその下相談にあずかるために、町にある同門の有志の家に集まることになった。
 ここですこしく平田門人の位置を知る必要がある。篤胤の学説に心を傾けたものは武士階級に少なく、その多くは庄屋《しょうや》、本陣、問屋《といや》、医者、もしくは百姓、町人であった。先師篤胤その人がすでに医者の出であり、師の師なる本居宣長《もとおりのりなが》もまた医者であった。半蔵らの旧師宮川寛斎が中津川の医者であったことも偶然ではない。
 その中にも、庄屋と本陣問屋とが、東美濃から伊那へかけての平田門人を代表すると見ていい。しかし、当時の庄屋問屋本陣なるものの位置がその籍を置く公私の領地に深き地方的な関係のあったことを忘れてはならない。たとえば、景蔵、香蔵の生まれた地方は尾州領である。その地方は一方は木曾川を隔てて苗木《なえぎ》領に続き、一方は丘陵の起伏する地勢を隔てて岩村領に続いている。尾州の家老|成瀬《なるせ》氏は犬山に、竹腰《たけごし》氏は今尾《いまお》に、石河《いしかわ》氏は駒塚《こまづか》に、その他|八神《やがみ》の毛利《もうり》氏、久々里《くくり》九人衆など、いずれも同じ美濃の国内に居所を置き、食邑《しょくゆう》をわかち与えられている。言って見れば、中津川の庄屋は村方の年貢米だけを木曾福島の山村氏(尾州代官)に納める義務はあるが、その他の関係においては御三家の随一なる尾州の縄張《なわば》りの内にある。江戸幕府の権力も直接にはその地方に及ばない。東美濃と南信濃とでは、領地関係もおのずから異なっているが、そこに籍を置く本陣問屋庄屋なぞの位置はやや似ている。あるところは尾州旗本領、あるところはいわゆる交代寄り合いの小藩なる山吹領というふうに、公領私領のいくつにも分かれた伊那地方が篤胤研究者の苗床《なえどこ》であったのも、決して偶然ではない。たとえば暮田正香《くれたまさか》のような幕府の注意人物が小野の倉沢家にも、田島の前沢家にも、伴野《ともの》の松尾家にも、座光寺の北原家にも、飯田の桜井家にも、あるいは山吹の片桐家にもというふうに、巡行寄食して隠れていられるのも、伊那の谷なればこそだ。また、たとえば長谷川《はせがわ》鉄之進、権田直助《ごんだなおすけ》、落合|直亮《なおあき》らの志士たちが小野の倉沢家に来たり投じて潜伏していられるということも、この谷なればこそそれができたのである。
 町の有志の家に集まる約束の時が来た。半蔵は二人の友だちと同じように飯田の髪結いに髪を結わせ、純白で新しい元結《もとゆい》の引き締まったここちよさを味わいながら一緒に旅籠屋《はたごや》を出た。時こそ元治《げんじ》元年の多事な年の暮れであったが、こんなに友だちと歩調を合わせて、日ごろ尊敬する諸大人のために何かの役に立ちに行くということは、そうたんと来そうな機会とも思われなかったからで。三人連れだって歩いて行く中にも、一番年上で、一番左右の肩の釣合《つりあ》いの取れているのは景蔵だ。香蔵と来たら、隆《たか》く持ち上げた左の肩に物を言わせ、歩きながらでもそれをすぼめたり、揺《ゆす》ったりする。この二人に比べると、息づかいも若く、骨太《ほねぶと》で、しかも幅の広い肩こそは半蔵のものだ。行き過ぎる町中には、男のさかりも好ましいものだと言いたげに、深い表格子の内からこちらをのぞいているような女の眸《ひとみ》に出あわないではなかったが、三人はそんなことを気にも留めなかった。その日の集まりが集まりだけに、半蔵らはめったに踏まないような厳粛な道を踏んだ。


 新しい社《やしろ》を建てる。荷田春満《かだのあずままろ》、賀茂真淵《かものまぶち》、本居宣長、平田篤胤、この国学四大人の御霊代《みたましろ》を置く。伊那の谷を一望の中にあつめることのできる山吹村の条山《じょうざん》(俗に小枝山《こえだやま》とも)の位置をえらび、九|畝歩《せぶ》ばかりの土地を山の持ち主から譲り受け、枝ぶりのおもしろい松の林の中にその新しい神社を創立する。
 この楽しい考えが、平田門人片桐春一を中心にする山吹社中に起こったことは、何よりもまず半蔵らをよろこばせた。独立した山の上に建てらるべき木造の建築。四人の翁を祭るための新しい社殿。それは平田の諸門人にとって郷土後進にも伝うべきよき記念事業であり、彼らが心から要求する復古と再生との夢の象徴である。なぜかなら、より明るい世界への啓示を彼らに与え、健全な国民性の古代に発見せらるることを彼らに教えたのも、そういう四人の翁の大きな功績であるからで。
 その日、山吹社中の重立ったものが飯田にある有志の家に来て、そこに集まった同門の人たちに賛助を求めた。景蔵はじめ、香蔵、半蔵のように半ば客分のかたちでそこに出席したものまで、この記念の創立事業に異議のあろうはずもない。山吹から来た門人らの説明によると、これは片桐春一が畢生《ひっせい》の事業の一つとしたい考えで、社地の選定、松林の譲り受け、社殿の造営工事の監督等は一切山吹社中で引き受ける。これを条山神社とすべきか、条山霊社とすべきか、あるいは国学霊社とすべきかはまだ決定しない。その社号は師平田|鉄胤《かねたね》の意見によって決定することにしたい。なお、四大人の御霊代《みたましろ》としては、先人の遺物を全部平田家から仰ぐつもりであるとの話で、片桐春一ははたから見ても涙ぐましいほどの熱心さでこの創立事業に着手しているとのことであった。
 その日の顔ぶれも半蔵らにはめずらしい。平素から名前はよく聞いていても、互いに見る機会のない飯田居住の同門の人たちがそこに集まっていた。駒場《こまば》の医者山田|文郁《ぶんいく》、浪合《なみあい》の増田《ますだ》平八郎に浪合|佐源太《さげんた》なぞの顔も見える。景蔵には親戚《しんせき》にあたる松尾誠(多勢子《たせこ》の長男)もわざわざ伴野《ともの》からやって来た。先師没後の同じ流れをくむとは言え、国学四大人の過去にのこした仕事はこんなにいろいろな弟子《でし》たちを結びつけた。
 その時、一室から皆の集まっている方へ来て、半蔵の肩をたたいた人があった。
「青山君。」
 声をかけたは暮田正香だ。半蔵はめずらしいところでこの人の無事な顔を見ることもできた。伊那の谷に来て隠れてからこのかた、あちこちと身を寄せて世を忍んでいるような正香も、こうして一同が集まったところで見ると、さすがに先輩だ。小野村の倉沢|義髄《よしゆき》を初めて平田鉄胤の講筵《こうえん》に導いて、北伊那に国学の種をまく機縁をつくったほどの古株だ。
「世の中はおもしろくなって来ましたね。」
 だれが言い出すともないその声、だれが言いあらわして見せるともないその新しいよろこびは、一座のものの顔に読まれた。山吹社中のものが持って来た下相談は、言わば内輪《うちわ》の披露《ひろう》で、大体の輪郭に過ぎなかったが、もしこの条山神社創立の企てが諸国同門の人たちの間に知れ渡ったらどんな驚きと同情とをもって迎えられるだろう、第一京都の方にある師鉄胤はどんなに喜ばれるだろう、そんな話でその日の集まりは持ち切った。


「暮田さん、わたしたちの宿屋まで御一緒にいかがですか。」
 半蔵は二人の友だちと共に正香を誘った。その晩は飯田の親戚の家に泊まるという松尾誠と別れて、四人一緒に旅籠屋《はたごや》をさして歩いた。
 正香は思い出したように、
「青山君、わたしも今じゃあの松尾家に居候《いそうろう》でさ。京都からやって来た時はいろいろお世話さまでした。あの時は二日二晩も歩き通しに歩いて、中津川へたどり着くまでは全く生きた心地《ここち》もありませんでした。浅見君のお留守宅や青山君のところで御厄介《ごやっかい》になったことは忘れませんよ。」
 半蔵らの旧師宮川寛斎が横浜引き揚げ後にその老後の「隠れ家《が》」を求めた場所も伴野であり、今またこの先輩が同じ村の松尾家に居候だと聞くことも、半蔵らの耳には奇遇と言えば奇遇であった。伊那の方へ来て聞くと、あの寛斎老人が伴野での二、三年はかなり不遇な月日を送ったらしい。率先した横浜貿易があの旧師に祟《たた》った上に、磊落《らいらく》な酒癖から、松尾の子息《むすこ》ともよくけんかしたなぞという旧《ふる》い話も残っていた。
「伊勢《いせ》の方へ行った宮川先生にも、今度の話を聞かせたいね。」
「あの老人のことですから、山吹に神社ができて平田先生なぞを祭ると知ったら、きっと落涙するでしょう。」
「喜びのあまりにですか。そりゃ、人はいろいろなことを言いますがね、あの宮川先生ぐらい涙の多い人を見たことはありません。」
 三人の友だちの間には、何かにつけて旧師のうわさが出た。
 旅籠屋に帰ってから、半蔵らは珍客を取り囲《ま》いて一緒にその日の夕方を送った。正香というものが一枚加わると、三人は膝《ひざ》を乗り出して、あとからあとからといろいろな話を引き出される。あつらえたちょうしが来て、盃《さかずき》のやり取りが始まるころになると、正香がまずあぐらにやった。
「どれ、無礼講とやりますか。そう、そう、あの馬籠の本陣の方で、わたしは一晩土蔵の中に御厄介になった。あの時、青山君が瓢箪《ふくべ》に酒を入れて持って来てくだすった。あんなうまい酒は、あとにも先にもわたしは飲んだことがありませんよ。」
「まあ、そう言わずに、飯田の酒も味わって見てください。」と半蔵が言う。
「暮田さんの前ですが、いったい、今の洋学者は何をしているんでしょう。」と言い出したのは香蔵だ。
「また香蔵さんがきまりを始めた。」と景蔵は笑いながら、「君は出し抜けに何か言い出して、ときどきびっくりさせる人だ。しょッちゅう一つ事を考えてるせいじゃありませんかね。」
「でも、わたしは黒船というものを考えないわけにいきません。」とまた香蔵が言った。
 なんの事はない。この二人《ふたり》の年上の友だちがそこへ言い出したことは、やがて半蔵自身の内部の光景でもある。彼としても「一つ事を考えている」と言わるる香蔵を笑えなかった。
「そりゃ、君、ことしの夏京都へ行って斬《き》られた佐久間象山だって、一面は洋学者さ。」と正香は言った。「あの人は木曾路を通って京都の方へ行ったんでしょう。青山君の家へも休むか泊まるかして行ったんじゃありませんか。」
「いえ、ちょうどわたしは留守の時でした。」と半蔵は答える。「あれは三月の山桜がようやくほころびる時分でした。わたしは福島の出張先から帰って、そのことを知りました。」
「蜂谷《はちや》君は。」
「わたしは景蔵さんと一緒に京都の方にいた時です。象山も陪臣ではあるが、それが幕府に召されたという評判で、十五、六人の従者をつれて、秘蔵の愛馬に西洋|鞍《ぐら》か何かで松代《まつしろ》から乗り込んで来た時は、京都人は目をそばだてたものでした。」
「でしょう。象山のことですから、おれが出たらと思って、意気込んで行ったものでしょうかね。でも、あの人は吉田松陰《よしだしょういん》の事件で、九年も禁錮《きんこ》の身だったというじゃありませんか。戸を出《い》でずして天下を知るですか。どんな博識多才の名士だって、君、九年も戸を出なかったら、京都の事情にも暗くなりますね。あのとおり、上洛《じょうらく》して三月もたつかたたないうちに、ばっさり殺《や》られてしまいましたよ。いや、はや、京都は恐ろしいところです。わたしが知ってるだけでも、何度形勢が激変したかわかりません。」
「それにはこういう事情もあります。」と景蔵は正香の話を引き取って、「象山が斬られたのは、あれは池田屋事件の前あたりでしたろう。ねえ、香蔵さん、たしかそうでしたね。」
「そう、そう、みんな気が立ってる最中でしたよ。」
「あれは長州の大兵が京都を包囲する前で、叡山《えいざん》に御輿《みこし》を奉ずる計画なぞのあった時だと思います。そこへ象山が松代藩から六百石の格式でやって来て、山階宮《やましなのみや》に伺候したり慶喜公《よしのぶこう》に会ったりして、彦根《ひこね》への御動座を謀《はか》るといううわさが立ったものですからね。これは邪魔になると一派の志士からにらまれたものらしい。」
「まあ、あれほどの名士でしたら、もっと光を包んでいてもらいたかったと思いますね。」とまた正香が言った。「どうも今の洋学者に共通なところは、とかくこのおれを見てくれと言ったようなところがある。あいつは困る。でも、象山のような人になると、『東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)』というくらいの見きわめがありますよ。あの人には、かなり東洋もあったようです。そりゃ、象山のような洋学者ばかりなら頼もしいと思いますがね、洋学一点張りの人たちと来たら、はたから見ても実に心細い。見たまえ、こんな徳川のような圧制政府は倒してしまえなんて、そういうことを平気で口にしているのも今の洋学者ですぜ。そんなら陰で言う言葉がどんな人たちの口から出て来るのかと思うと、外国関係の翻訳なぞに雇われて、食っているものも着ているものも幕府の物ばかりだという御用学者だから心細い。それに衣食していながら、徳川をつぶすというのはどういう理屈かと突ッ込むものがあると、なあに、それはかまわない、自分らが幕府の御用をするというのは何も人物がえらいと言って用いられているのじゃない、これは横文字を知ってるというに過ぎない、たとえば革細工《かわざいく》だから雪駄直《せったなお》しにさせると同じ事だ、洋学者は雪駄直しみたようなものだ、殿様方はきたない事はできない、幸いここに革細工をするやつがいるからそれにさせろと言われるのと少しも変わったことはない、それに遠慮会釈も糸瓜《へちま》も要《い》るものか、さっさと打《ぶ》ちこわしてやれ、ただしおれたちは自分でその先棒になろうとは思わない――どうでしょう、君、これが相当に見識のある洋学者の言い草ですよ。どうしたって幕府は早晩倒さなけりゃならない、ただ、さしあたり倒す人間がないからしかたなしに見ているんだ、そういうことも言うんです。こんな無責任なことを言わせる今の洋学は考えて見たばかりでも心細い。自分さえよければ人はどうでもいい、百姓や町人はどうなってもいい、そんな学問のどこに熱烈|峻厳《しゅんげん》な革新の気魄《きはく》が求められましょうか――」
 後進の半蔵らを前に置いて、多感で正直なこの先輩は色のあせた着物の襟《えり》をかき合わせた。あだかも、つくづく身の落魄《らくはく》を感ずるというふうに。


「半蔵さん、ともかくもわたしと一緒に伴野までおいでください。君や香蔵さんをお誘いするようにッて、松尾の子息《むすこ》がくれぐれも言い置いて行きました。あの人は暮田正香と一緒に、けさ一歩《ひとあし》先へ立って行きました。」
「そんなに多勢で押し掛けてもかまいますまいか。」
「なあに、三人や四人押し掛けて行ったって迷惑するような家じゃありませんよ。」
「わたしもせっかく飯田まで来たものですから、ついでに山吹社中の輪講に出席して見たい。あの社中の篤胤研究をききたいと思いますよ。こんなよい機会はちょっとありませんからね。」
「そんなら、こうなさるさ。伴野から山吹へお回りなさるさ。」
 翌日の朝、景蔵と半蔵とはこの言葉をかわした。
 こんなふうで友だちに誘われて行った伴野村での一日は半蔵にとって忘れがたいほどであった。彼は松尾の家で付近の平田門人を歴訪する手引きを得、日ごろ好む和歌の道をもって男女の未知の友と交遊するいとぐちをも見つけた。当時|洛外《らくがい》に侘住居《わびずまい》する岩倉公《いわくらこう》の知遇を得て朝に晩に岩倉家に出入りするという松尾多勢子から、その子の誠にあてた京都|便《だよ》りも、半蔵にはめずらしかった。
 伊那の谷の空にはまた雪のちらつく日に、半蔵は中津川の方へ帰って行く景蔵や香蔵と手を分かった。その日まで供の佐吉を引き留めて置いたのも、二人の友だちを送らせる下心があったからで。伊那には彼ひとり残った。それからの彼は、山吹での篤胤研究会とも言うべき『義雄集』への聴講に心をひかれたのと、あちこちと訪《たず》ねて見たい同門の人たちのあったのと、一晩のうちに四尺も深い雪が来たという大平峠の通行の困難なのとで、とうとう飯田に年を越してしまった。
 この小さな旅は、しかし平田門人としての半蔵の目をいくらかでも開けることに役立った。
「あはれあはれ上《かみ》つ代《よ》は人の心ひたぶるに直《なお》くぞありける。」
 先人の言うこの上つ代とは何か。その時になって見ると、この上つ代はこれまで彼がかりそめに考えていたようなものではなかった。世にいわゆる古代ではもとよりなかった。言って見れば、それこそ本居平田諸大人が発見した上つ代である。中世以来の武家時代に生まれ、どの道かの道という異国の沙汰《さた》にほだされ、仁義礼譲孝|悌《てい》忠信などとやかましい名をくさぐさ作り設けてきびしく人間を縛りつけてしまった封建社会の空気の中に立ちながらも、本居平田諸大人のみがこの暗い世界に探り得たものこそ、その上つ代である。国学者としての大きな諸先輩が創造の偉業は、古《いにしえ》ながらの古に帰れと教えたところにあるのではなくて、新しき古を発見したところにある。
 そこまでたどって行って見ると、半蔵は新しき古を人智のますます進み行く「近《ちか》つ代《よ》」に結びつけて考えることもできた。この新しき古は、中世のような権力万能の殻《から》を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。この世に王と民としかなかったような上つ代に帰って行って、もう一度あの出発点から出直すことによってのみ得らるる。この彼がたどり着いた解釈のしかたによれば、古代に帰ることはすなわち自然《おのずから》に帰ることであり、自然《おのずから》に帰ることはすなわち新しき古《いにしえ》を発見することである。中世は捨てねばならぬ。近つ代は迎えねばならぬ。どうかして現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい。そう彼が考えるようになったのもこの伊那の小さな旅であった。そして、もう一度彼が大平峠を越して帰って行こうとするころには、気の早い一部の同門の人たちが本地垂跡《ほんじすいじゃく》の説や金胎《こんたい》両部の打破を叫び、すでにすでに祖先葬祭の改革に着手するのを見た。全く神仏を混淆《こんこう》してしまったような、いかがわしい仏像の焼きすてはそこにもここにも始まりかけていた。

       三

 元治二年の三月になった。恵那山の谷の雪が溶けはじめた季節を迎えて、山麓《さんろく》にある馬籠の宿場も活気づいた。伊勢参りは出発する。中津川商人はやって来る。宿々村々の人たちの往来、無尽の相談、山林売り払いの入札、万福寺中興開祖|乗山和尚《じょうざんおしょう》五十年忌、および桑山《そうざん》和尚十五年忌など、村方でもその季節を待っていないものはなかった。毎年の例で、長い冬ごもりの状態にあった街道の活動は彼岸《ひがん》過ぎのころから始まる。諸国の旅人をこの街道に迎えるのもそのころからである。
 その年の春は、ことに参覲交代《さんきんこうたい》制度を復活した幕府方によって待たれた。幕府は老中水野|和泉守《いずみのかみ》の名で正月の二十五日あたりからすでにその催促を万石以上の面々に達し、三百の諸侯を頤使《いし》した旧時のごとくに大いに幕威を一振《いっしん》しようと試みていた。
 諸物価騰貴と共に、諸大名が旅も困難になった。道中筋の賃銀も割増し、割増しで、元治元年の三月からその年の二月まで五割増しの令があったが、さらにその年三月から来たる辰年《たつどし》二月まで三か年間五割増しの達しが出た。実に十割の増加だ。諸大名の家族がその困難な旅を冒してまで、幕府の命令を遵奉《じゅんぽう》して、もう一度江戸への道を踏むか、どうかは、見ものであった。
 この街道の空気の中で、半蔵は伊那行き以来懇意にする同門の先輩の一人を馬籠本陣に迎えた。暮田正香の紹介で知るようになった伊那小野村の倉沢|義髄《よしゆき》だ。その年の二月はじめに郷里を出た義髄は京大坂へかけて五十日ばかりの意味のある旅をして帰って来た。


 義髄の上洛《じょうらく》はかねてうわさのあったことであり、この先輩の京都|土産《みやげ》にはかなりの望みをかけた同門の人たちも多かった。
 義髄は、伊勢、大和《やまと》の方から泉州《せんしゅう》を経《へ》めぐり、そこに潜伏中の宮和田胤影《みやわだたねかげ》を訪《と》い、大坂にある岩崎|長世《ながよ》、および高山、河口《かわぐち》らの旧友と会見し、それから京都に出て、直ちに白河家《しらかわけ》に参候し神祇伯資訓《じんぎはくすけくに》卿に謁し祗役《しえき》の上申をしてその聴許を得、同家の地方用人を命ぜられた。彼が京都にとどまる間、交わりを結んだのは福羽美静《ふくばよしきよ》、池村邦則《いけむらくにのり》、小川一敏《おがわかずとし》、矢野玄道《やのげんどう》、巣内式部《すのうちしきぶ》らであった。彼はこれらの志士と相往来して国事を語り、共に画策するところがあった、という。彼はまた、ある日偶然に旧友|近藤至邦《こんどうむねくに》に会い、相携えて東山長楽寺《ひがしやまちょうらくじ》に隠れていた品川弥二郎《しながわやじろう》をひそかに訪問し、長州藩が討幕の先駆たる大義をきくことを得たという。これらの志士との往来が幕府の嫌疑《けんぎ》を受けるもとになって、身辺に危険を感じて来た彼はにわかに京都を去ることになり、夜中|江州《ごうしゅう》の八幡《やわた》にたどり着いて西川善六《にしかわぜんろく》を訪い、足利《あしかが》木像事件後における残存諸士の消息を語り、それより回り路《みち》をして幕府|探偵《たんてい》の目を避けながら、放浪約五十日の後郷里をさして帰って来ることができたということだった。
 この先輩が帰省の途次、立ち寄って行った旅の話はいろいろな意味で半蔵の注意をひいた。義髄と前後して上洛した清内路《せいないじ》の先輩原|信好《のぶよし》が神祇伯白河殿に奉仕して当道学士に補せられたことと言い、義髄が同じ白河家から地方用人を命ぜられたことと言い、従来地方から上洛するものが堂上の公卿たちに遊説《ゆうぜい》する縁故をなした白河家と平田門人との結びつきが一層親密を加えたことは、その一つであった。西にあって古学に心を寄せる人々との連絡のついたことは、その一つであった。十二年の飯田を去った後まで平田諸門人が忘れることのできない先輩岩崎長世の大坂にあることがわかったのも、その一つであった。しかしそれにもまして半蔵の注意をひいたのは、なんと言っても討幕の志を抱《いだ》く志士らと相往来して共に画策するところがあったということだった。
 そういうこの先輩は最初水戸の学問からはいったが、暮田正香と相知るようになってから吉川流の神道と儒学を捨て、純粋な古学に突進した熱心家であるばかりでなく、篤胤の武学本論を読んで武技の必要をも感じ、一刀流の剣法を習得したという肌合《はだあい》の人である。古学というものもまだ伊那の谷にはなかったころに行商しながら道を伝えたという松沢義章《まつざわよしあき》、和歌や能楽に堪能《かんのう》なところからそれを諸人に教えながら古学をひろめたという甲府生まれの岩崎長世、この二人についで平田派の先駆をなしたのが義髄などだ。当時伊那にある四人の先輩のうち、片桐春一、北原稲雄、原信好の三人が南を代表するとすれば、義髄は北を代表すると言われている人である。
「青山君――こんな油断のならない旅は、わたしも初めてでしたよ。」
 これは一度義髄を見たものが忘れることのできないような頬髯《ほおひげ》の印象と共に、半蔵のところに残して行ったこの先輩の言葉だ。
 半蔵は周囲を見回した。義髄が旅の話も心にかかった。あの大和《やまと》五条の最初の旗あげに破れ、生野銀山《いくのぎんざん》に破れ、つづいて京都の包囲戦に破れ、さらに筑波《つくば》の挙兵につまずき、近くは尾州の御隠居を総督にする長州征討軍の進発に屈したとは言うものの、所詮《しょせん》このままに屏息《へいそく》すべき討幕運動とは思われなかった。この勢いのおもむくところは何か。
 そこまでつき当たると、半蔵は一歩退いて考えたかった。日ごろ百姓は末の考えもないものと見なされ、その人格なぞはてんで話にならないものと見なされ、生かさず殺さずと言われたような方針で、衣食住の末まで干渉されて来た武家の下に立って、すくなくも彼はその百姓らを相手にする田舎者《いなかもの》である。仮りに楠公《なんこう》の意気をもって立つような人がこの徳川の末の代に起こって来て、往時の足利《あしかが》氏を討《う》つように現在の徳川氏に当たるものがあるとしても、その人が自己の力を過信しやすい武家であるかぎり、またまた第二の徳川の代を繰り返すに過ぎないのではないかとは、下から見上げる彼のようなものが考えずにはいられなかったことである。どんな英雄でもその起こる時は、民意の尊重を約束しないものはないが、いったん権力をその掌中に収めたとなると、かつて民意を尊重したためしがない。どうして彼がそんなところへ自分を持って行って考えて見るかと言うに、これまで武家の威力と権勢とに苦しんで来たものは、そういう彼ら自身にほかならないからで。妻籠《つまご》の庄屋寿平次の言葉ではないが、百姓がどうなろうと、人民がどうなろうと、そんなことにおかまいなしでいられるくらいなら、何も最初から心配することはなかったからで……
 考え続けて行くと、半蔵は一時代前の先輩とも言うべき義髄になんと言っても水戸の旧《ふる》い影響の働いていることを想《おも》い見た。水戸の学問は要するに武家の学問だからである。武家の学問は多分に漢意《からごころ》のまじったものだからである。たとえば、水戸の人たちの中には実力をもって京都の実権を握り天子を挾《さしはさ》んで天下に号令するというを何か丈夫の本懐のように説くものもある。たといそれがやむにやまれぬ慨世《がいせい》のあまりに出た言葉だとしても、天子を挾《さしはさ》むというはすなわち武家の考えで、篤胤の弟子《でし》から見れば多分に漢意《からごころ》のまじったものであることは争えなかった。
 武家中心の時はようやく過ぎ去りつつある。先輩義髄が西の志士らと共に画策するところのあったということも、もしそれが自分らの生活を根から新しくするようなものでなくて、徳川氏に代わるもの出《い》でよというにとどまるなら、日ごろ彼が本居平田諸大人から学んだ中世の否定とはかなり遠いものであった。その心から、彼は言いあらわしがたい憂いを誘われた。


 水戸浪士に連れられて人足として西の方へ行った諏訪《すわ》の百姓も、ぽつぽつ木曾街道を帰って来るようになった。
 諏訪の百姓は馬籠本陣をたよって来て、一通の書付を旅の懐《ふところ》から取り出し、主人への取り次ぎを頼むと言い入れた。その書付は、敦賀《つるが》の町役人から街道筋の問屋にあてたもので、書き出しに信州諏訪|飯島村《いいじまむら》、当時無宿|降蔵《こうぞう》とまず生国と名前が断わってあり、右は水戸浪士について越前《えちぜん》まで罷《まか》り越したものであるが、取り調べの上、子細はないから今度帰国を許すという意味を認《したた》めてあり、ついては追放の節に小遣《こづか》いとして金壱分をあてがってあるが、万一途中で路銀に不足したら、街道筋の問屋でよろしく取り計らってやってくれと認《したた》めてある。
 半蔵はすぐにその百姓の尋ねて来た意味を読んだ。武田耕雲斎以下、水戸浪士処刑のことはすでに彼の耳にはいっていた際で、自分のところへその書付を持って来た諏訪の百姓の追放と共に、信じがたいほどの多数の浪士処刑のことが彼の胸に来た。
「旦那《だんな》、わたくしは鎗《やり》をかつぎまして、昨年十一月の二十七日にお宅の前を通りましたものでございます。」
 降蔵の挨拶《あいさつ》だ。
 旅の百姓は本陣の表玄関のところに立って、広い板の間の前の片すみに腰を曲《こご》めている。ちょうど半蔵は昼の食事を済ましたころであったが、この男がまだ飯前だと聞いて、玄関から手をたたいた。家のものを呼んで旅の百姓のために簡単な食事のしたくを言いつけた。
「この書付のことは承知した。」と半蔵は降蔵の方を見て言った。「まあ、いろいろ聞きたいこともある。こんな玄関先じゃ話もできない。何もないが茶漬《ちゃづ》けを一ぱい出すで、勝手口の方へ回っておくれ。」
 降蔵は手をもみながら、玄関先から囲炉裏ばたの方へ回って来た。草鞋《わらじ》ばきのままそこの上がりはなに腰掛けた。
「水戸の人たちも、えらいことになったそうだね。」
 それを半蔵が言い出すと、浪士ら最期のことが、諏訪の百姓の口からもれて来た。二月の朔日《ついたち》、二日は敦賀《つるが》の本正寺《ほんしょうじ》で大将方のお調べがあり、四日になって武田伊賀守はじめ二十四人が死罪になった。五日よりだんだんお呼び出しで、降蔵同様に人足として連れられて行ったものまで調べられた。降蔵は六番の土蔵にいたが、その時|白洲《しらす》に引き出されて、五日より十日まで惣勢《そうぜい》かわるがわる訊問《じんもん》を受けた。浪士らのうち、百三十四人は十五日に、百三人は十六日に打ち首になった。そうこうしていると、ちょうど十七日は東照宮の忌日に当たったから、御鬮《みくじ》を引いて、下回りの者を助けるか、助けないかの伺いを立てたという。ところが御鬮のおもてには助けろとあらわれた。そこで降蔵らは本正寺に呼び出され、門前で足枷《あしかせ》を解かれ、一同書付を読み聞かせられた。それからいったん役人の前を下がり、門前で髪を結って、またまた呼び出された上で最後の御免の言葉を受けた。読み聞かせられた書付は爪印《つめいん》を押して引き下がった。その時、降蔵同様に追放になったものは七十六人あったという。
「さようでございます。」と降蔵は同国生まれの仲間の者だけを数えて見せた。「わたくし同様のものは、下諏訪《しもすわ》の宿から一人《ひとり》、佐久郡の無宿の雲助が一人、和田の宿から一人、松本から一人、それに伊那の松島宿から十四、五人でした。さよう、さよう、まだそのほかに高遠《たかとお》の宮城《みやしろ》からも一人ありました。なにしろ、お前さま、昨年の十一月に伊那を出るから、わたくしも難儀な旅をいたしまして、すこしからだを悪くしたものですから、しばらく敦賀《つるが》のお寺に御厄介《ごやっかい》になってまいりました。まあ、命拾いをしたようなものでございます。」
 お民は下女に言いつけて、飯櫃《めしびつ》と膳《ぜん》とをその上がりはなへ運ばせた。
「亀山《かめやま》さんもどうなりましたろう。」
 それをお民が半蔵に言うと、降蔵は遠慮なく頂戴《ちょうだい》というふうで、そこに腰掛けたまま飯櫃を引きよせ、おりからの山の蕨《わらび》の煮つけなぞを菜にして、手盛りにした冷飯《ひやめし》をやりはじめた。半蔵は鎗《やり》をかついで浪士らの供をしたという百姓の骨太な手をながめながら、
「お前は小荷駄掛《こにだがか》りの亀山|嘉治《よしはる》のことを聞かなかったかい。あの人はわたしの旧《ふる》い友だちだが。」
「へえ、わたくしは正武隊付きで、兵糧方《ひょうろうかた》でございましたから、よくも存じませんが、重立った御仁《ごじん》で助けられたものは一人もございませんようです。ただいま申し上げましたように、わたくしは追放となりましてから患《わずら》いまして、しばらく敦賀に居残りました。先月十七日以後のこともすこしは存じておりますが、十九日にも七十六人、二十三日も十六人が打ち首になりました。」
「とうとう、あの亀山も武田耕雲斎や藤田小四郎なぞと死生を共にしたか。」
 半蔵はお民と顔を見合わせた。
 おまんをはじめ、清助から下男の佐吉までが水戸浪士のことを聞こうとして、諏訪の百姓の周囲に集まって来た。この本陣に働くものはいずれも前の年十一月の雨の降った日の恐ろしかった思いを噛《か》み返して見るというふうで。
 順序もなく降蔵が語り出したところによると、美濃《みの》から越前《えちぜん》へ越えるいくつかの難場のうち、最も浪士一行の困難をきわめたのは国境の蝿帽子峠《はえぼうしとうげ》へかかった時であったという。毎日雪は降り続き、馬もそこで多分に捨て置いた。荷物は浪士ら各自に背負い、降蔵も鉄砲の玉のはいった葛籠《つづら》を負わせられたが、まことに重荷で難渋した。極々《ごくごく》の難所で、木の枝に取りついたり、岩の間をつたったりして、ようやく峠を越えることができた。その辺の五か村は焼き払われていて、人家もない。よんどころなく野陣を張って焼け跡で一夜を明かした。兵糧は不足する、雪中の寒気は堪《た》えがたい。降蔵と同行した人足も多くそこで果てた。それからも雪は毎日降り続き、峠は幾重《いくえ》にもかさなっていて、前後の日数も覚えないくらいにようやく北国街道の今庄宿《いまじょうじゅく》までたどり着いて見ると、町家は残らず土蔵へ目塗りがしてあり、人一人も残らず逃げ去っていた。もっとも食糧だけは家の前に出してあって、なにぶん火の用心頼むと張り紙をしてあった。その今庄を出てさらに峠にかかるころは深い雪が浪士一行を埋《うず》めた。家数四十軒ほどある新保村《しんぽむら》まで行って、一同はほとんど立ち往生の姿であった。その時の浪士らはすでに加州|金沢藩《かなざわはん》をはじめ、諸藩の大軍が囲みの中にあった。
 降蔵の話によると、彼は水戸浪士中の幹部のものが三、四人の供を連れ、いずれも平服で加州の陣屋へ趣《おもむ》くところを目撃したという。加州からも平服で周旋に来て、浪士らが京都へ嘆願の趣はかなわせるようせいぜい尽力するとの風聞であった。それから加州方からは毎日のように兵糧の応援があった。米、菜の物、煮豆など余るくらい送ってくれた。降蔵らもにわかに閑暇《ひま》になったから、火|焚《た》きその他の用事を弁じ、米も洗えば醤油《しょうゆ》も各隊へ持ち運んだ。師走《しわす》も十日過ぎのこと、浪士らの所持する武器はすべて加州侯へお預けということになった時、副将田丸稲右衛門や参謀山国|兵部《ひょうぶ》らは武田耕雲斎を諫《いさ》め、武器を渡すことはいかにも残念であると言って、その翌日の暁《あけ》八つ時《どき》を期し囲みを衝《つ》いて切り抜ける決心をせよと全軍に言い渡し、降蔵らまで九つ時ごろから起きて兵糧を炊《た》いたが、とうとう耕雲斎の意見で浪士軍中の鎗や刀は全部先方へ渡してしまった。二十五、六日のころには一同は加州侯の周旋で越前の敦賀《つるが》に移った。そこにある三つの寺へ惣《そう》人数を割り入れられ、加州方からは朝夕の食事に肴《さかな》を添え、昼は香の物、酒も毎日一本ずつは送って来た。手ぬぐい、足袋《たび》、その他、手厚い取り扱いで、病人には薬を与え、医師まで出張して来て高価な薬品をあてがわれたが、その寺で病死した浪士も多かった。
 正月の二十七日は浪士らが加州侯の手を離れて幕府総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》に引き渡された日であった。その日は加州から浪士一同へ酒肴《しゅこう》を贈られ、降蔵らまでそのもてなしがあった上で、加州の家老|永原甚七郎《ながはらじんしちろう》が来ての言葉に、これまでだんだん周旋したいつもりで種々尽力したが、なにぶんにも行き届かず、公辺へ引き渡すことになったからその断わりに罷《まか》り出たのであると。それを聞いた時の隊長らの驚きはなかった。ここで切腹すべきかと言い出すものがあり、加州を恨むものがある。いったん身柄を任せた上は是非もないことだ、いかように取り扱われるとも拠《よんどころ》なしと覚悟した浪士の中には辞世の詩を作り歌を読むものがあった。十一人ずつの組で、降蔵らまで駕籠《かご》で送られて行った先は十六番からある暗い土蔵の中だ。所持の巾着《きんちゃく》、また懐中物等はすべてお預けということになった。手枷《てかせ》、足枷《あしかせ》がそこに降蔵らを待っていたのだった……
 清助は諏訪の百姓の方を見て言った。
「どうして、お前は伊那から越前の敦賀まで、そんな供をするようになったのかい。」
「そりゃ、お前さま、何度わたくしも国の方へ逃げ帰りたいと思ったか知れません。お暇《いとま》をいただきます、御免こうむりますと言い出せばそのたびに天誅《てんちゅう》、天誅ですで。でも、妙なもので、毎日|鎗《やり》をかついだり、荷物を持ったり、隊長の話を聞いたりするうちに、しまいにはこの人たちの行くところまで供をしようという気になりました。」
「和田峠の話は出なかったかい。浪士の中にいたら、あの合戦の話も聞いたろう。」
「さようでございます。諏訪の合戦はなかなか難儀だったそうで、今一手もあったらなにぶん当惑するところだったと申しておりました。あの山国兵部の謀《はかりごと》で、奇兵に回ったものですから、ようやく打ち破りはしたものの、ずいぶん難戦いたしたような咄《はなし》を承りました。」


 四月が来たら、というその月の末まで待って見ても、西の領地にある諸大名で国から出て来るものはほとんどない。越前、尾州、紀州の若殿や奥方をはじめ、肥前、因州なぞの女中方や姫君から薩州《さっしゅう》の簾中《れんちゅう》まで、かつてこの街道経由で帰国を急いだそれらの諸大名の家族がもう一度江戸への道を踏んで、あの不景気のどん底にある都会をにぎわすことなぞは思いもよらない。わずかにこの街道では四月二十七日に美濃|苗木《なえぎ》の女中方が江戸をさしての通行と、その前日に中津川泊まりで東下する弘前《ひろさき》城主|津軽侯《つがるこう》の通行とを迎えたのみだ。
 しかし、馬籠の宿場が閑散であったわけではない。二度と参覲交代の道を踏む諸大名こそまれであったが、三月二十二日あたりから四月七日ごろへかけて日光|大法会《だいほうえ》のために東下する勅使や公卿たちの通行の混雑で、半蔵は隣家の年寄役伊之助らと共に熱い汗を流し続けた。幕府では四月十七日を期し東照宮二百五十回忌の大法会を日光山に催し、法親王および諸|僧正《そうじょう》を京都より迎え、江戸にある老中はもとより、寺社奉行《じしゃぶぎょう》、大目付、勘定奉行から納戸頭《なんどがしら》までも参列させ、天台宗徒《てんだいしゅうと》をあつめて万部の仏経を読ませ、諸人にその盛典をみせ、この際――年号までも慶応《けいおう》元年と改めて、大いに東照宮の二百五十年を記念しようとしたのだ。この街道へは尾州家から千五百両の金を携えた役人が出張して来て、日によっては千人の人足を買い揚げたのを見ても、いかにその通行の大がかりなものであったかがわかる。奈良井宿詰《ならいしゅくづ》めの尾張人足なぞは、毎日のようにおびただしく馬籠峠を通った。伊那|助郷《すけごう》が五百人も出た日の後には、須原《すはら》通しの人足五千人の備えを要するほどの勅使通行の日が続いた。
 この混雑も静まって行くと、水戸浪士事件の顛末《てんまつ》がいろいろな形で世上に流布《るふ》するようになった。これほど各地の沿道を騒がした出来事の真相がそう秘密に葬られるはずもない。宍戸侯《ししどこう》(松平|大炊頭《おおいのかみ》)の悲惨な最期を序幕とする水府義士の悲劇はようやく世上に知れ渡った。
 いくつかの多感な光景は半蔵の眼前にもちらついた。武田耕雲斎の同勢が軍装で中仙道《なかせんどう》を通過し、沿道各所に交戦し、追い追い西上するとのうわさがやかましく京都へ伝えられた時、それを自身に関係ある事だとして直ちに江州路《ごうしゅうじ》へ出張し鎮撫《ちんぶ》に向かいたいよしを朝廷に奏請したのも、京都警衛総督の一橋慶喜であったという。朝議もそれを容《い》れた。一橋中納言が京都を出発して大津に着陣したのは前年十二月三日のことだ。金沢、小田原《おだわら》、会津《あいづ》、桑名の藩兵がそれにしたがった。そのうちに武田勢が今庄《いまじょう》に到着したので、諸藩の探偵《たんてい》は日夜織るがごとくであり、実にまれなる騒擾《そうじょう》であったという。十二月の十日ごろには加州金沢藩の士卒二千余人が一橋中納言の命を奉じてまず敦賀に着港し、続いて桑名藩の七百余人、会津藩の千余人、津藩の六百余人、大垣藩《おおがきはん》の千余人、水戸藩の七百人が着港した。このほかに、間道、海岸、山々の要所要所へ出兵したのは福井藩、大野藩、彦根藩《ひこねはん》、丸山藩であって、その中でも監軍永原甚七郎に率いられる加州の士卒が先陣を承ったものらしい。水戸浪士の一行がこんな大軍の囲みの中にあって、野も山もほとんど諸藩の士卒で埋《うず》められたとは、半蔵などの想像以上であった。
 武田耕雲斎は新保宿を距《さ》る二十町ほどの村に加州の兵が在陣すると聞き、そこで一書を金沢藩の陣に送って西上の趣意を述べ、諸藩の兵に対して敵意のないことを述べ、一同のために道を開かれたいと願った。その時の加州方からの返書は左のようなものであったとある。
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お手紙|披見《ひけん》いたし候《そうろう》。されば御嘆願のおもむきこれあり候につき、滞りなく通行の儀、かつ外諸侯へ対し接戦の存じ寄り毛頭これなき旨《むね》、委曲承知いたし候えども、加賀中納言殿人数当宿出張いたし候儀は一橋中納言殿の厳命に候条、是非なく一戦に及ぶべき存じ寄りに御座候。なお、後刻を期し一戦の節は御報に及ぶべく候。貴報かくのごとくに御座候。以上。
 子《ね》十二月十一日[#地から7字上げ]加賀中納言内
[#地から2字上げ]永原甚七郎
   武田伊賀守殿内
     安藤彦之進殿
[#ここで字下げ終わり]
 時に雪は一丈余、浪士らは食も竭《つ》き、力も窮まった。金沢藩ではそれを察し、こんな飢えと寒さとに迫られたものと交戦するのは本意でないとして、その日に白米二百俵、漬《つ》け物十|樽《たる》、酒二|石《こく》、※[#「魚+場のつくり」、198-14]《するめ》二千枚を武田の陣中に送った。同時に来たる十七日の暁天を期して交戦に及ぼうとの戦書をも送った。ところが耕雲斎は藤田小四郎以下三名の将士を使者として金沢藩の陣所に遣《つか》わし、永原甚七郎に面会を求めさせた。甚七郎は帯刀までそこへ投げ捨てるほどにして誠意を示した小四郎らの態度に感じ、一統へ相談に及ぶべき旨を答えて使者をかえした。すると今度は耕雲斎が単身で金沢藩の陣中へやって来たから、そういうことなら当方から拙者|一人《ひとり》推参すると甚七郎は言って、ひとまず耕雲斎の帰陣を求めた。そこで甚七郎は出かけた。新保宿にある武田の本営では入り口に柵《さく》を結いめぐらし、鎗《やり》大砲を備え、三百人の銃手がおのおの火繩《ひなわ》を消し、一礼してこの甚七郎を迎え入れた。耕雲斎は白羅紗《しろらしゃ》の陣羽織を着け、一刀を帯び、草鞋《わらじ》をはいて甚七郎を迎えたという。甚七郎は自己の率いて行った兵を営外にとどめ、単身耕雲斎の案内で玄関に行って見ると、そこには山国兵部、田丸稲右衛門、藤田小四郎を始め二十五人の幹部のものがいずれも大小刀を帯びないで出迎えていた。その時だ。甚七郎も浪士らの態度に打たれ、規律正しい陣所の光景にも意外の思いをなし、ようやくさきの戦意をひるがえした。しからば願意をきき届けようと言って、その旨を耕雲斎に確答し、一橋中納言に捧呈《ほうてい》する嘆願書並びに始末書を受け取って退営した。翌日甚七郎は未明に金沢藩の陣所を出発し、馬を駆って江州梅津の本営にいたり、二通の書面を一橋公に捧呈した。その嘆願書と始末書には、筑波《つくば》挙兵のそもそもから、市川三左衛門らの讒言《ざんげん》によって幕府の嫌疑《けんぎ》をこうむったことに及び、源烈公が積年の本懐も滅びるようであっては臣子の情として遺憾に堪《た》えないことを述べ、亡《な》き宍戸侯《ししどこう》のために冤《えん》をそそぐという意味からも京都をさして国を離れて来たことを書き添え、なお、一同が西上の心事は尊攘の精神にほかならないことをこまごまと言いあらわしてあったという。
 過ぐる日に諏訪の百姓降蔵が置いて行った話も、半蔵にはいろいろと思い合わされた。その時になると、浪士軍中に二つのものの流れのあったことも彼には想《おも》い当たる。最初金沢藩の永原甚七郎から一戦に及ぼうとの返書のあった時、武田耕雲斎は将士を集めて評議を凝らしたという。ちょうど長州藩からは密使を送って来て、若狭《わかさ》、丹後《たんご》を経て石見《いわみ》の国に出、長州に来ることを勧めてよこした時だ。山国兵部は浪士軍中の最年長者ではあるものの、その意気は壮者をしのぐほどで、しきりに長州行きを主張した。その時の兵部の言葉に、これから間道を通って山陰道に入り、長州に達することを得たなら、尊攘の大義を暢《の》ぶることも難くはあるまい、今さら加州藩に嘆願哀訴するごときことはいかにも残念である、むしろ潔く決戦したいとの意見を述べたとか。しかし耕雲斎にして見ると、一橋公の先鋒《せんぽう》を承る金沢藩を敵として戦うことはその本志でなかった。筑波《つくば》組の田丸、藤田らと、館山《たてやま》から合流した武田との立場の相違はそこにもあらわれている。「所詮《しょせん》、水戸家もいつまで幕府のきげんをとってはいられまい」との反抗心から出発した藤田らと、飽くまで尊攘の名義を重んじ一橋慶喜の裁断に死生を託し宍戸侯の冤罪《えんざい》を晴らさないことには済まないと考える武田とは、最初から必ずしも同じものではなかったのだ。
 ともあれ、水戸浪士の最後にたどり着いた運命は、半蔵らにとってただただ山国兵部や横田東四郎や亀山嘉治のような犠牲者を平田同門の中から出したというにとどまらなかった。なぜかなら、幕府の水戸における内外の施政に反対した志士はほとんど一掃せられ、水戸領内の郷校に学んだ有為な子弟の多くが滅ぼし尽くされたことは実に明日の水戸のなくなってしまったことを意味するからで。水戸は何もかも早かった。諸藩に魁《さきがけ》して大義名分を唱えたことも早かった。激しい党争の結果、時代から沈んで行くことも早かった。


 半蔵はこの水戸浪士の事件を通して、いろいろなことを学んだ。これほど関東から中国へかけての諸藩の態度をまざまざと見せつけられた出来事もない。幕府が一橋慶喜に対する反目のはなはだしいには、これにも彼は心を驚かされた。一方は江戸の諸有司から大奥にまで及び、一方は京都守護職から在京の諸藩士にまでつながっているそれらの暗闘の奥には奥のあることが、思いがけなくも水戸浪士の事件を通して、それからそれと彼の胸に浮かんで来るようになった。
 もともと一橋慶喜は紀州出の家茂《いえもち》を将軍とする幕府方によろこばれている人ではない。井伊大老在世の日、徳川世子の継嗣問題が起こって来たおりに、今の将軍と競争者の位置に立たせられたのもこの人だ。薩長二藩の京都手入れはやがて江戸への勅使|下向《げこう》となった時、京都方の希望をもいれ、将軍後見職に就《つ》いたのもこの人だ。幕府改革の意見を抱《いだ》いた越前の松平|春嶽《しゅんがく》が説を採用して、まず全国諸大名が参覲交代制度廃止の英断に出たのもこの人だ。禁裡《きんり》守衛総督|摂海防禦《せっかいぼうぎょ》指揮の重職にあって、公武一和を念とし、時代の趨勢《すうせい》をも見る目を持ったこの人は、何事にも江戸を主にするほど偏頗《へんぱ》でない。時は慶応元年を迎え、越前の松平春嶽もすでに手を引き、薩摩の島津久光も不平を抱《いだ》き、公武一和の到底行なわれがたいことを思うものの中に立って、とにもかくにも京都の現状を維持しつつあるのは慶喜の熱心と忍耐とで、朝廷とてもその誠意は認められ、加うるに会津のような勢力があって終始その後ろ楯《だて》となっている。どうかすると慶喜の声望は将軍家茂をしのぐものがある。これは江戸幕府から言って煙《けむ》たい存在にはちがいない。慶喜排斥の声は一朝一夕に起こって来たことでもないのだ。はたして、幕府方の反目は水戸浪士の処分にもその隠れた鋒先《ほこさき》をあらわした。
 慶喜は厳然たる態度をとって容易に水戸浪士を許そうとはしなかった。そのために武田耕雲斎は浪士全軍を率いて加州の陣屋に降《くだ》るの余儀なきに至った。しかし水戸烈公を父とする慶喜は、その実、浪士らを救おうとして陰ながら尽力するところがあったとのことである。同じ御隠居の庶子《しょし》にあたる浜田《はまだ》、島原《しまばら》、喜連川《きつれがわ》の三侯も、武田らのために朝廷と幕府とへ嘆願書を差し出し、因州、備前《びぜん》の二侯も、浪士らの寛典に処せらるることを奏請した。そこへ江戸から乗り込んで行ったのが田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》だ。田沼侯は筑波以来の顛末《てんまつ》を奏して処置したいとの考えから、その年の正月に京都の東関門に着いた。ところが朝廷では田沼侯の入京お差し止めとある。怒《おこ》るまいことか、田沼侯は朝廷が幕府を辱《はず》かしめるもはなはだしいとして、兵権政権は幕府に存するととなえ、あだかも一橋慶喜なぞは眼中にもないかのように、その足で引き返して敦賀《つるが》に向かった。正月の二十六日、田沼侯は幕命を金沢藩に伝えて、押収の武器一切を受け取り、二十八日には武田以下浪士全員の引き取りを言い渡した。この総督は、市川三左衛門らの進言に耳を傾け、慶喜が武田ら死罪赦免の儀を朝廷より御沙汰《ごさた》あるよう尽力中であると聞いて、にわかに浪士の処刑を急いだという。
 加州ほどの大藩の力でどうして水戸浪士の生命《いのち》を助けることができなかったか。それにつき、世間には種々《さまざま》な風評が立った。あるいは水戸浪士はうまくやられたのだ、金沢藩のために欺かれたのだ、そんな説までが半蔵の耳に聞こえて来た。現に伊那の方にいる暮田正香なぞもその説であるという。しかし半蔵はそれを穿《うが》ち過ぎた説だとして、伯耆《ほうき》から敦賀を通って近く帰って来た諏訪頼岳寺《すわらいがくじ》の和尚《おしょう》なぞの置いて行った話の方を信じたかった。いよいよ金沢藩が武器人員の引き渡しを終わった時に、敦賀|本勝寺《ほんしょうじ》の書院に耕雲斎らを見に行って胸がふさがったという永原甚七郎の古武士らしい正直さを信じたかった。
 田沼侯に対する世間の非難の声も高い。水戸浪士を敵として戦い負傷までした諏訪藩の用人|塩原彦七《しおばらひこしち》ですらそれを言って、幕府の若年寄《わかどしより》ともあろう人が士を愛することを知らない、武の道の立たないことも久しいと言って、嘆息したとも伝えらるる。この諏訪藩の用人は田沼侯を評して言った。浪士らの勢いのさかんな時は二十里ずつの距離の外に屏息《へいそく》し、徐行|逗留《とうりゅう》してあえて近づこうともせず、いわゆる風声鶴唳《ふうせいかくれい》にも胆《きも》が身に添わなかったほどでありながら、いったん浪士らが金沢藩に降《くだ》ったと見ると、虎の威を借りて刑戮《けいりく》をほしいままにするとはなんという卑怯《ひきょう》さだと。しかしまた一方には、個人としての田沼侯はそんな思い切ったことのできる性質ではなく、むしろ肥満長身の泰然たる風采《ふうさい》の人で、天狗連《てんぐれん》追討のはじめに近臣の眠りをさまさせるため金米糖《こんぺいとう》を席にまき、そんなことをして終夜戒厳したほどの貴公子に過ぎない、周囲の者がその刑戮《けいりく》をあえてさせたのだと言うものも出て来た。
 千余人の同勢と言われた水戸浪士も、途中で戦死するもの、負傷するもの、沿道で死亡するものを出して、敦賀まで到着するころには八百二十三人だけしか生き残らなかった。そのうちの三百五十三名が前後五日にわたって敦賀郡松原村の刑場で斬《き》られた。耕雲斎ら四人の首級は首桶《くびおけ》に納められ、塩詰めとされたが、その他のものは三|間《げん》四方の五つの土穴の中へ投げ込まれた。残る二百五十名は遠島を申し付けられ、百八十名の雑兵歩人らと、数名の婦人と、十五名の少年とが無構《むかまい》追放となった。
 ある日、半蔵は本陣の店座敷から西側の廊下を通って、家のものの集まっている仲の間へ行って見た。継母のおまんはお民を相手に糸などを巻きながら、日光大法会のうわさをしたり、水戸浪士のうわさをしたりしている。おまんは糸巻きを手にしている。お民は山梔色《くちなしいろ》の染め糸を両手に掛けている。おまんがすこしずつ繰るたびに、その染め糸の束《たば》はお民の両手を回って、順にほどけて行った。廂《ひさし》の深い障子の間からさし込む日光はその黄な染め糸の色を明るく見せている。
「お母《っか》さんもお聞きでしたか。」と半蔵は言った。「いよいよ耕雲斎たちの首級《くび》も江戸から水戸へ回されたそうですね。あの城下町を引き回されたそうですね。」
 おまんはお民の手にからまる染め糸をほぐしほぐし、「どうも、えらい話さ。お父《とっ》さん(吉左衛門)もそう言っていたよ、三百五十人からの死罪なんて、こんな話は今まで聞いたこともないッて。」
 その時、半蔵は江戸の方から来た聞書《ききがき》を取り出して、それを継母や妻にひろげて見せた。武田らの遺族で刑せられたものの名がそこに出ていた。武田伊賀の妻で四十八歳になるときの名も出ていた。八歳になる忰《せがれ》の桃丸《ももまる》、三歳になる兼吉《かねよし》の名も出ていた。それから、武田|彦右衛門《ひこえもん》の忰で十二歳になる三郎、十歳になる二男の金四郎、八歳になる三男の熊五郎《くまごろう》の名も出ていた。この六名はみな死罪で、ことに桃丸と三郎の二名は梟首《さらしくび》を命ぜられた。
「市川党もずいぶん惨酷《ざんこく》をきわめましたね。こいつを生かして置いたら、仇《あだ》を復《かえ》される時があるとでも思うんでしょうか。それにしても、こんな罪もない幼いものにまで極刑を加えるなんて、あさましくなる。」
 と半蔵が言う。
「まあ、お母《っか》さん、ここに武田伊賀忰、桃丸、八歳とありますよ。吾家《うち》の宗太の年齢《とし》ですよ。」とお民もそれをおまんに言って見せた。
「そう言えば、あの遺族が牢屋《ろうや》に入れられていますと、そこへ牢屋の役人が耕雲斎以下の首を持って来まして、牢屋の外からその首を見せたと言いますよ。今は花見時だ、お前たちはこの花を見ろと、そう役人が言ったそうですよ。」
「どういうつもりで、そんなことを言ったものかいなあ。」とおまんも半蔵夫婦の顔を見比べながら、
「遺族にお別れをさせるつもりだったのか、それとも辱《は》じしめるつもりだったのか。」
「実にけしからん、無情な事をしたものだッて、そう言わないものはありませんよ。」
 武田、山国、田丸らが遺族の男の子は死罪に、女の子は永牢を命ぜられた。そのうち、永牢を申し渡されたものの名は次のように出ていた。
[#地から11字上げ]武田伊賀娘
[#地から7字上げ]よし
[#地から6字上げ]十一歳
[#地から14字上げ]同妾《めかけ》
[#地から7字上げ]むめ
[#地から6字上げ]十八歳
[#地から9字上げ]武田彦右衛門妻
[#地から7字上げ]いく
[#地から6字上げ]四十三歳
[#地から11字上げ]山国兵部妻
[#地から7字上げ]なつ
[#地から6字上げ]五十歳
[#地から14字上げ]同娘
[#地から7字上げ]ちい
[#地から6字上げ]三十歳
[#地から8字上げ]山国|淳一郎《じゅんいちろう》娘
[#地から7字上げ]みよ
[#地から6字上げ]十一歳
[#地から14字上げ]同娘
[#地から7字上げ]ゆき
[#地から6字上げ]七歳
[#地から14字上げ]同娘
[#地から7字上げ]くに
[#地から6字上げ]五歳
[#地から9字上げ]田丸稲右衛門娘
[#地から7字上げ]まつ
[#地から6字上げ]十九歳
[#地から14字上げ]同娘
[#地から7字上げ]むめ
[#地から6字上げ]十歳
 おまんは言った。
「半蔵、あのお父《とっ》さんがこれを見たら、なんと言うだろうね。こないだも裏の隠居所の方で何を言い出すかと思ったら、あゝあゝ、おれも六十七の歳《とし》まで生きて、この世の末を見過ぎたわいとさ。」

       四

 参覲交代制度の復活が幕府の期待を裏切ったことは、諸藩の人心がすでに幕府を去ったことを示した。すこしく当時の形勢を注意して見るものは諸藩が各自に発展の道を講じはじめたことを見いだす。海運業のにわかな発達、船舶の増加、学生の海外留学なぞは皆その結果で、その他あるいは兵制に、あるいは物産に、後日のために計るものはいずれもまず力をその藩に尽くしはじめた。
 中国の大藩、御三家の一つなる尾州ですらこの例にもれない。そのことは尾州家の領地なる木曾地方にもあらわれて、一層の注意が森林の保護と良材の運輸とに向けられ、塩の|買〆《かいしめ》も行なわれ、御嶽山麓《おんたけさんろく》に産する薬種の専売は同藩が財源の一つと数えられた。人参《にんじん》の栽培は木曾地方をはじめ、伊那、松本辺から、佐久の岩村田、小県《ちいさがた》の上田、水内《みのち》の飯山《いいやま》あたりまでさかんに奨励され、それを尾州藩で一手《いって》に買い上げた。尾州家の御用という提灯《ちょうちん》をふりかざし、尾州御薬園御用の旗を立てて、いわゆる尾張薬種の荷が木曾の奥筋から馬籠《まごめ》へと運ばれて来る光景は、ちょっと他の街道に見られない図だ。
 五月にはいって、半蔵は木曾福島の地方御役所《じかたおやくしょ》から呼ばれた用向きを済まし、同行した宿方のものと一緒に馬籠へ帰って来た。その用向きは、前年十二月に尾州藩から仰せ出された献金の件で、ようやくその年の五月に福島へ行って献納の手続きを済まして来たところであった。献金の用途とはほかでもない。尾州の御隠居を征討総督にする最初の長州征伐についてである。
 最初、長州征伐のことが起こった時、あれは半蔵が木曾下四宿の総代として江戸に出ていたころで、尾州藩では木曾谷中三十三か村の庄屋あてに御隠居の直書《じきしょ》になる依頼状を送ってよこした。それには、今般長州征伐の件で格別の台命《たいめい》をこうむり病中を押して上京することになった、その上で西国筋へ出陣にも及ばねばならないということから始めて、この容易ならぬ用途はさらに見当もつかないほど莫大《ばくだい》なことであると書いてあり、従来|不如意《ふにょい》な勝手元でほかに借財の途《みち》もほとんど絶えている、この上は領民において入費を引き受けてくれるよりほかにない、これは木曾地方の領民にのみ負担させるわけでもない、もとよりこれまで追い追いと調達を依頼し実に気の毒な次第ではあるが、尋常ならぬ時勢をとくと会得《えとく》して今般の費用を調《ととの》えるよう、よくよく各村民へ言い聞かせてもらいたいとの意味が書いてあった。
 この御隠居の依頼状に添えて、尾州家の年寄衆からも別に一通の回状を送ってよこした。それもやはり領民へ献金依頼のことを書いたもので、御隠居が直書《じきしょ》をもって仰せ出されるほどこの非常時の入費については心配しておらるる次第である、方今《ほうこん》の形勢は上下一致の力に待つのほかはない、領民一同報国の至誠を励むべき時節に差し迫ったと書いてあり、これまでとても追い追いと御為筋《おためすじ》を取り計らってもらった上で、今また右のような用途を引き受けるよう仰せ出されるのは深く気の毒な次第であるが、余儀なき御趣意を恐察して一同御国威のためと心得るようとの意味が書いてあった。
 当時、木曾福島の代官山村氏は各庄屋を鎗《やり》の間《ま》に呼び集めた。三役所の役人立ち会いの上で、名古屋からの二通の回状を庄屋たちに示し、なおその趣意を徹底させるため代官自身に認《したた》めたものをも読み聞かせ、正月十五日までに各自めいめいの献納高を書付にして調べて出すように、とのことであったのだ。
 半蔵が福島の役所へ持参したのは、その年の五月までかかってどうにかこの献金を取りまとめたものだ。それでも木曾谷全体では、二十二か村の在方で三百十四両の余をつくり、十一宿で三百両をつくり、都合六百十四両の余を献納することができた。そして馬籠の宿方から山口、湯舟沢の近村まで、これで一同ようやく重荷をおろすこともできようと考えながら、彼は宿役人の集まる馬籠の会所まで帰って来て見た。
「また、長州征伐だそうですよ。」
 隣家の年寄役伊之助がそのことを半蔵にささやいた。
「半蔵さん、今度は公方様《くぼうさま》の御進発だそうですよ。」
 とまた伊之助が言って見せた。
「わたしもそのうわさは聞いて来ました。いよいよ事実でしょうか。まったく、これじゃ地方の人民は息がつけませんね。」
 と言って半蔵は嘆息した。
 街道も多忙な時であった。なんとなく雲行きの急なことを思わせるような公儀の役人衆の通行が続きに続いた。時には、三|挺《ちょう》の早駕籠《はやかご》が京都方面から急いで来た。そのあとには江戸行きの長持が暮れ合いから夜の五つ時《どき》過ぎまでも続いた。
 長防再征の触れ書が馬籠の中央にある高札場に掲げられるようになったのも、それから間もなくであった。江戸から西の沿道諸駅へはすでに一貫目ずつの秣《まぐさ》と、百石ずつの糠《ぬか》と、十二石ずつの大豆を備えよとの布告が出た。普請役、および小人目付《こびとめつけ》は長防征討のために人馬の伝令休泊等の任務を命ぜられ、西の山陽道方面ではそのために助郷《すけごう》の課役を免ぜられた。


 この将軍の進発には諸藩でも異論を唱えるものが続出した。越前家《えちぜんけ》でも備前家《びぜんけ》でも黙ってみている場合でないとして、不賛成を意味する建白書《けんぱくしょ》を幕府に提出した。それを約《つづ》めて言えば、旧冬尾州の御隠居を総督として長州兵が京都包囲の責めを問うた時、長州藩でもその罪に伏し、罪魁《ざいかい》の老臣と参謀の家臣らを処刑して謹慎の意を表したことで、この上は大膳《だいぜん》父子をはじめ長防二州の処置を適当に裁決あることと心得ていたところ、またまた将軍の進発と聞いては天下の人心は愕然《がくぜん》たるのほかはないというにある。幸いに最初の長州征伐は戦争にも及ばずに済み、朝野《ちょうや》ともようやく安堵《あんど》の思いをしたところ、またまた大兵を動かすとあっては諸大名の困窮、万民の怨嗟《えんさ》はまことに一方《ひとかた》ならないことで、この上どんな不測な変が生じないとも計りがたいというにある。軽々しく事を挙《あ》げるのは慎まねばならない、天下の乱階《らんかい》となることは畏《おそ》れねばならない、今度仰せ出されたところによると大膳父子に悔悟の様子もなくその上に容易ならぬ企てが台聴《たいちょう》に達したとあるが、もし父子の譴責《けんせき》が厳重に過ぎて一同死守の勢いにもならば実に容易ならぬ事柄だというにある。当今は人心沸騰の時勢、何事も叡慮《えいりょ》を伺った上でないと朝廷の思《おぼ》し召しはもとより長防鎮庄の運命もどうなることであろうか、今般の征伐はしばらく猶予され、大小の侯伯の声に聞いて国是《こくぜ》を立てられたい、長州一藩のゆえをもって皇国|擾乱《じょうらん》の緒を開くようではいったんの盛挙もかえって後日の害となるべきかと深く憂慮されるというにある。
 しかし、幕府ではこれらの建白に耳を傾けようとしなかった。細川のような徳川|譜代《ふだい》と同様の感のあった大諸侯までが参覲交代の復旧を非難するとは幕府としては堪《た》えられなかったことで、この際どんな無理をしても幕府の頽勢《たいせい》を盛り返し、自己《おのれ》にそむくものは討伐し、日光山大法会の余勢と水戸浪士三百五十余人を斬《き》った権幕《けんまく》とで、年号まで慶応元年と改めた東照宮二百五十回忌を期とし、大いに回天《かいてん》の翼を張ろうとした。
 事実、幕府では回天、回陽《かいよう》と命名せらるべき二隻の軍艦を造る準備最中の時でもあった。この二艦の名ほど当時の幕府の真相をよく語って見せているものもない。もう一度太陽のかがやきを見たいとは、東照宮の覇業《はぎょう》を追想するものの願いであったのだ。再度の長州征伐は徳川全盛の昔を忘れかねる諸有司の強硬な主張から生まれた。これは長防の征討とは言うものの、その実、種々《さまざま》な目的をもって企てられた。四国外交団をあやなすこともその一つであった。ひそかに朝廷に結ぼうとする外藩をくじくこともその一つであった。飽くまでも公武合体の道を進もうとする一橋慶喜と会津との排斥も、あるいはその奥の奥には隠されてあったと言うものもある。
 閏《うるう》五月十六日、将軍はついに征長のために進発した。往時東照宮が関ヶ原合戦の日に用いたという金扇の馬印《うまじるし》はまた高くかかげられた。江戸在府の譜代の諸大名、陸軍奉行、歩兵奉行、騎兵頭、剣術と鎗術《そうじゅつ》と砲術との諸師範役、大目付《おおめつけ》、勘定奉行、軍艦奉行なぞは供奉《ぐぶ》の列の中にあった。その盛んな軍装をみたものは幕府の威信がまだ全く地に墜《お》ちないことを感じたという。江戸の町人で三万両から一万両までの御用金を命ぜられたものが二十人もあり、全国の寺社までが国恩のために上納金を願い出ることを説諭された。幕府がこの進発の入用のために立てた一か月分の予算は十七万四千二百両の余であった。当時幕府には二つの宝蔵があって、富士見《ふじみ》にあるを内蔵《うちぐら》ととなえ、蓮池《はすいけ》にあるを外蔵《そとぐら》ととなえたが、そのうち内蔵にあった一千万両の古金をあげてこの進発の入用にあてたというのを見ても、いかに大がかりな計画であったかがわかる。
 同じ月の二十二、三日には将軍はすでに京都に着き、二十五日には大坂城にはいった。伝うるところによると、前年尾州の御隠居が総督として芸州《げいしゅう》まで進まれた時は実に長州に向かって開戦する覚悟であった、それにひきかえて今度の進発は初めから戦わない覚悟である。いかに長州が強藩でも天下の敵に当たって戦うことはできまい、去年尾州殿の陣頭にさえ首を下げて服罪したくらいである、まして将軍家の進発と聞いたら驚き恐れて毛利《もうり》父子が大坂に来たり謝罪して御処置を奉ずるのは、あだかも関ヶ原のあとで輝元《てるもと》一家が家康公におけるがごとくであろう。これは幕府方の閣老をはじめ幕軍一同の期待するところであったという。ところが再度の長防征討の企ては、備前家や越前家をはじめこの進発に不服な諸大名の憂慮したような死守の勢いにまで長州方を追いつめてしまった。
 幕府方にはすでに砲刃矢石《ほうじんしせき》の間に相見る心が初めからない。金扇のかがやきは高くかかげられても、山陽道まで進もうとはしない。大軍が悠々《ゆうゆう》と閑日月《かんじつげつ》を送る地は豊臣《とよとみ》氏の恩沢を慕うところの大坂である。ある人の言葉に、ほととぎすは啼《な》いて天主台のほとりを過ぎ、五月《さつき》の風は茅渟《ちぬ》の浦端《うらわ》にとどまる征衣を吹いて、兵気も三伏《さんぷく》の暑さに倦《う》みはてた、とある。
 過ぐる文久年度の生麦《なまむぎ》事件以上ともいうべき外国関係の大きなつまずきが、この不安な時の空気の中に引き起こって来た。


 安政五年の江戸条約が諸外国との間に結ばれてから、すでに足掛け八年になる。この条約によると、神奈川《かながわ》、長崎、函館《はこだて》の三港を開き、新潟《にいがた》の港をも開き、文久二年十二月になって江戸、大坂、兵庫《ひょうご》を開くべき約束であった。文久年度の初めになって見ると、当時の排外熱は非常な高度に達して、なかなか江戸、大坂、兵庫のような肝要な地を開くべくもなかった。時の老中|安藤対馬《あんどうつしま》は新潟、兵庫、江戸、大坂の開港延期を外国公使らに提議し、輸入税の減率を報酬として、五か年間の延期を承諾させたのである。
 過ぐる四年は、実にこの国が全くの未知数とも言うべきヨーロッパに向かって大切な窓々を開くべきか否かの瀬戸ぎわに立たせられた苦《にが》い試練の期間であった。下の関における長州藩が外国船の砲撃なぞもこの間に行なわれた。その代償として、幕府が三百万両からの背負《しょ》い切れないほどの償金を負わせられたのも、当時に高い排外熱の結果にほかならない。
 最初この償金は長州藩より提出すべき四国公使の要求であったという。しかし同藩では朝廷と幕府の命令に基づいて砲撃したのであるから、これを幕府に求めるのが当然だと言い張り、四国公使もまた長州藩から出させることの困難を察して、幕府が大名の取り締まりを怠りその職責を尽くさなかったことの罪に帰した。この償金の無理なことは四国公使も承知していて、例の開港さえ決行したなら償金は要求しないとの意味をその際の取りきめ書に付け添えたくらいである。そういう公使らはとらえられるだけの機会をとらえて、条約の履行を幕府に促そうとした。四年の月日は早くも経過して慶応元年となったが、幕府にはさらに開港の準備をする様子もない。そこで下の関償金三分の二を免除する代わりに兵庫の先期開港を幕府に迫れと主張する英国の新公使パアクスのような人が出て来た。その強い主張によると、幕府は条約にそむくことの恐るべき結果を生ずる旨《むね》を朝廷に申し上げて、よろしく条約の勅許を仰ぐべきである。それでもなお勅許を得られないとあるなら、四国公使はもはや徳川将軍を相手としまい、直接に朝廷に向かって条約の履行を要求しようというにあった。英艦四隻、仏艦三隻、米艦一隻、蘭艦《らんかん》一隻、都合九隻の艦隊が連合して横浜から兵庫に入港したのは、その年の九月十六日のことであった。十七日には、そのうち三隻が大坂の天保山沖《てんぽうざんおき》まで来て、七日を期して決答ありたいという各公使らの書翰《しょかん》を提出した。莫大《ばくだい》な費用をかけて江戸から動いた幕府方は、国内の強藩を相手とする前に、より大きな勢力をもって海の外から迫って来たものを相手としなければならなかったのである。どうしてこれは長州征伐どころの話ではなかった。四国連合の艦隊を向こうに回しては、長州藩ですら敵し得なかったのみか、砲台は破壊され、市街は焼かれ、今すこしで占領の憂《う》き目を見るところであったことは、下の関の戦いが実際にそれを証拠立てていた。
 連合艦隊出動のことが江戸に聞こえると、江戸城の留守をあずかる大老や老中は捨て置くべき場合でないとして、昼夜兼行で大坂に赴《おもむ》きその交渉の役目に服すべき二人を任命した。山口|駿河《するが》はその一人《ひとり》であったのだ。


 山口駿河は号を泉処《せんしょ》という。当時外国奉行の首席である。函館奉行の組頭《くみがしら》から監察(目付)に進んだ友人の喜多村瑞見《きたむらずいけん》とも親しい。この人が大坂へ出て行って、将軍にも面謁《めんえつ》し、江戸の方にある大老や老中の意向を伝えたころは、当路の諸有司は皆途方に暮れている。将軍は西上して国内がすでに多端の際であるのに、この上、外国から逼《せま》られてはどうしたらいいかと言って、ほとんどなすべきところを知らないに近いようなものばかりだ。その時、駿河は改めて大目付兼外国奉行に任ずるよしの命をうけ、とりあえず外国船に行って一応の尋問をなし、二十三日には老中|阿部豊後《あべぶんご》と共に翔鶴丸《しょうかくまる》という船に乗って、兵庫にある英仏米蘭四国公使に面接した。阿部老中はこれくらいのことが大事件かという顔つきの人で、万事ひとりのみ込みに開港事件を担任して、決答の日限を来たる二十九日まで延期するという約束で帰った。時に大坂へは切迫した形勢を案じ顔な京都守衛の会津藩士が続々と下って来た。駿河らをつかまえて言うには、各国公使は軍艦を率いて来て、開港を要求している、これはいわゆる城下の盟《ちかい》であって、これほど大きな恥辱はない、もし万一ますます乱暴をきわめて上京でもする様子があったら弊藩は一同死力を尽くして拒もう、淀《よど》鳥羽《とば》から上は一歩も踏ませまい、いささかもその辺に掛念《けねん》なく押し切って充分の談判を願いたいと。同時に、薩摩藩《さつまはん》の大久保市蔵《おおくぼいちぞう》からも幕府への建言があって、これは人心の向背《こうはい》にもかかわり、莫大《ばくだい》な後難もこの一挙にある、公使らの意見にのみ動かされぬよう至急諸侯を召してその建言をきかれたい、そのために日数がかかって万一先方から軽はずみな振る舞いに出るようなことがあったら、ただいま弊邸は人少なではあるが、かねがね修理太夫大隅守《しゅりだゆうおおすみのかみ》の申し付けて置いた趣もあるから、その際は先鋒《せんぽう》を承って死力を尽くしたいと申し出た。
 十月にはいって、阿部豊後《あべぶんご》、松前伊豆《まつまえいず》両閣老免職の御沙汰《ごさた》が突然京都から伝えられた。京都伝奏からのその来書によると、叡慮《えいりょ》により官位を召し上げられ、かつ国元へ謹慎を命ずるとあって、関白がその御沙汰をうけたと認《したた》めてある。大坂城中のものは皆顔色を失い、びっくり仰天《ぎょうてん》して叡慮のいずれにあるやを知らない。将軍|家茂《いえもち》も大いに驚いて、尾州紀州の両公をはじめ老中、若年寄から、大目付、勘定奉行、目付の諸役を御用部屋《ごようべや》(内閣)に呼び集め、いわゆる御前会議を開いた。にわかな大評定《だいひょうじょう》があった。この外国関係の危機にあたり、その事を担当する二人《ふたり》の閣老の官位を召し上げ、かつ謹慎を命ずるとは何か。朝廷は四国公使との交渉に何の相談もない幕府の専断を強くとがめられたのである。しかも、老中をば朝廷より免職するというは全く前例のないことであった。いろいろな議論が出て、一座は鼎《かなえ》の沸くがごとくである。その時、山口|駿河《するが》は監察(目付)の向山栄五郎《むこうやまえいごろう》(黄村)と共に進み出て、将軍が臣下のことは黜陟《ちゅっちょく》褒貶《ほうへん》共に将軍の手にあるべきものと存ずる、しかるに、今朝廷からこの指令のあるのは将軍の権を奪うにもひとしい、将権がひとたび奪われたら天下の政事《まつりごと》はなしがたい、ただいま内外多端の際に喙《くちばし》を容《い》れてその主任の人を廃するのは将軍をして職掌を尽くさしめないのである、上は帝《みかど》の知遇を辱《はず》かしめ下は万民の希望にそむき祖先へ対しても実に面目ない次第だ、すみやかに大任を解き関東へ帰駿《きしゅん》あって、すこしも未練がましくない衷情を表されるこそしかるべきだと申し上げた。これにはだれも服さない。激しい声は席に満ちて来た。その時の家茂の言葉に、両人ともよく言った、その意見は至極《しごく》自分の意に適《かな》った、自分は弱年の身でこの大任を受け継いだとは言うものの、不幸にして内外多事な時にあたり、禍乱はしずめ得ず、人心は統御し得ず今また半途にして股肱《ここう》の臣までも罷《や》めさせられることになった、畢竟《ひっきょう》これは不才のいたすところで、所詮《しょせん》自分の力で太平を保つことはおぼつかない。いさぎよく位を避けて隠退しよう、一橋慶喜をあげて朝廷の命をきこう、ついては謹《つつし》んで叡旨《えいし》を奉じ豊後伊豆両人の登城は差し止めるがいい、それを言って将軍が奥へはいった時は、すすり泣く諸臣の声がそこにもここにも起こった。
 実に、徳川氏の運命は驚かれるほどの勢いをもってこの時に急転した。間もなく将軍の辞職となった。上疏《じょうそ》の草稿は向山栄五郎が作った。年若な将軍はまだようやく二十歳にしかならない。その上疏も栄五郎の書いたのを透き写しにされ、親《みずか》ら署名して、それを尾州公(徳川|茂徳《しげのり》、当時|玄同《げんどう》と改名)に託された。なお、その上疏には諸有司相談の上で、一通の別紙を添え、開港のやみがたいことを述べ、征夷《せいい》大将軍の職を賭《か》けても勅許を争おうとする幕府の目的を明らかにした。


 しかし、その時になって見ると、幕府内の心あるものは決して党争のために水戸を笑えなかった。幕府の老中らはその専断で外人の圧迫を免れようとする日にあたり、慶喜は飽くまで公武一和の道を守り、勅命を仰ぐの必要を主張し、断然として幕府を制《おさ》える態度に出たからである。かつて安政大獄を引き起こしたほどの幕府内部の暗闘――神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれたそれらの根深い党争は、長くその時まで続いて来た。慶喜の野心を疑う老中らは、ほとんど水戸の野心を疑う安政当時の紀州|慶福《よしとみ》擁立者たちに異ならなかった。老中らは慶喜の態度をもって、ことさらに幕府をくるしめるものとした。日ごろの慶喜排斥の声がその時ほど深刻な形をとってあらわれて来たこともなかった。幕府は老中|罷免《ひめん》に対する反抗の意志を上疏《じょうそ》の手段に表白したばかりでなく、その鋒先《ほこさき》を「永々《ながなが》在京、事務にも通じた」というところの慶喜に向けた。そして、将軍家茂に勧めて、慶喜に政務を譲りたい旨《むね》、諸事家茂の時のように御委任ありたい旨、その御沙汰《ごさた》を慶喜へ賜わるように朝廷に願い出た。
 将軍はすでに伏見《ふしみ》に移った。大坂城を去る日、扈従《こじゅう》の面々が始めて将軍帰東の命をうけた時は皆おどろいて顔色を失い、相顧みて言葉を出すものもない。その時、講武所生徒の銃隊長と同じ刀鎗《とうそう》隊長とが相談の上、各隊の頭取《とうどり》を集めて演説し、銃隊は先発のことに、刀鎗隊は将軍警備のことに心得よと伝えたところ、銃隊は早速《さっそく》その命令に服したが、刀鎗隊はなかなか服従しないで各自の意見を述べるなど、一時は悲壮な混雑の光景を呈した。その中には一言も発しないで、涙をのみながら始終|謹《つつし》んで命をきいていた隊士もあったという。
 一橋慶喜はこの事を聞いて尾州公を語らい、会津、桑名の両侯をも同道して、伏見にある奉行の館《やかた》に急いだ。将軍に面謁して、その決意をひるがえさせることを努めた。上疏を奉ったのみで、直ちに帰東せらるるはよろしくない、しかも帝《みかど》と将軍とは義理ある御兄弟《ごきょうだい》の間柄でもある、必ず京都へ上られて親しく事情を奏聞の後でなければ敬意を欠く、ぜひともしばらく思いとどまって進退完全の処置なくてはかなわぬ場合である、慶喜らはそれを言って、固く執ってやまなかった。この辞職譲位は幕府の老中らも心から願っていることではもとよりない。とうとう、将軍は伏見から京都へと引き返し、二条城にはいって、慶喜をして種々代奏せしめた。その時、監察の向山栄五郎も、上疏の草稿が彼の手に成ったというかどで深く朝廷から憎まれたと見え、それとなく忌避の御沙汰があった。三日を出ないうちに、これも職を奪われ、家に禁錮《きんこ》を命ぜられた。
 これらの報知《しらせ》が江戸城へ伝えられた時の人々の驚きはなかったという。ことに天璋院《てんしょういん》、和宮様《かずのみやさま》をはじめ、大奥にある婦人たちの嘆きは一通りでなかったとか。中には慟哭《どうこく》して、井戸に身を投げようとしたものがあり、自害しようとするものさえあったという。
 慶応元年十月五日はこの国の歴史に記念すべき日である。一橋慶喜をはじめ、小笠原壱岐守《おがさわらいきのかみ》、松平越中守《まつだいらえっちゅうのかみ》、松平肥後守が連署して、外国条約の勅許を奏請したのも、その日である。その前夜には、この大きな問題について意見を求めるために、諸藩の藩士が御所に召された。三十六人のものがそのために十五藩から選ばれた。三人は薩摩から、三人は肥後から、三人は備前から、四人は土佐から、二人は久留米《くるめ》から、一人は因州から、一人は福岡《ふくおか》から、一人は金沢から、一人は柳川《やながわ》から、二人は津《つ》から、一人は福井から、一人は佐賀から、一人は広島から、五人は桑名から、それに七人は会津から。徳川将軍の進退と外国条約の問題とが諸藩の藩主でなしに、その重立った家来によって議せらるるようになったとは、そこにも時勢の推し移りを語っていた。井伊大老の時代以来、幾たびか幕府で懇請して許されなかった条約も、朝廷としては四国の力を合わせた黒船に直面し、幕府としては将軍の職を賭《か》けるところまで行って、ようやくその許しが出た。長い鎖国の解かれる日も近づいた。


 山口|駿河《するが》は大坂にいた。その時は将軍も大坂城を発したあとで、そこにとどまるものはただ老中の松平|伯耆《ほうき》と城代《じょうだい》牧野越中《まきのえっちゅう》とがある。その他は町奉行、および武官の番頭《ばんがしら》ばかりだ。駿河は外国応接の用務のためにそこに残っていたが、相談相手とすべき人もなく、いたずらに大坂と兵庫の間を往復して各公使を言いなだめていた。彼はまだ京都からの決答も聞かず、老中|阿部《あべ》が退職の後はだれが外交の担任であるやも知らなかったくらいだ。
 十月六日のこと。駿河は心配のあまり、監察の赤松左京《あかまつさきょう》とも相談の上で、京都へ行って様子をさぐろうとした。
 暁に発《た》って淀川《よどがわ》をさかのぼり、淀の駅まで行った。そこいらの茶店ではまだ戸が閉《し》まっている。それをたたき起こして、酒をもとめ、粥《かゆ》を炊《た》かせなぞして、しばらくそこにからだを温《あたた》めていると、騎馬で急いで来る別手組《べつてぐみ》のものにあった。京都からの使者として、松浦という目付役が勅諚《ちょくじょう》を持参したのだ。その時、はじめて駿河は外国条約の勅許が出たことを知り、前の夜に禁中では大評定のあったことをも知った。多くの公卿《くげ》たちの中には今だに鎖港攘夷《さこうじょうい》を主張するものもあったが、ようやくのことで意見の一致を見たとの話も出た。なお、詳細のことは老中松平|伯耆《ほうき》から外国公使へ談判に及べとの話も出た。その勅書には条約は確かにお許しになったから適当の処置をするがいいとはあっても、これまでの条約面には不都合なかどもあるから、新たに取り調べて、諸藩衆議の上でお取りきめに相成るべき事との御沙汰である。「兵庫港の儀は止められ候《そうろう》事」ともある。駿河は驚いて、使者の松浦を見た。この勅書には外国公使は決して満足しまい、必ず推して京都に上り彼らの目的を貫かずには置くまい、もしそんな場合にでも立ちいたったら、談判はさておき、殺気立った会津藩士らが何をしでかさないとも限らない、のみならず応接の主任が松平伯耆ではこの事のまとまる見込みがない、もっと外交の事務に通じた人物がありながらこんな取り計らいはいかにも心得がたい、それを駿河が言い出すと、相手の松浦は迷惑がって、自分はただ使いに来たものである、君の議論を聞きに来たものではないと。これには駿河も笑い出した。早速これから大坂へ引き返そう、時間があらば兵庫まで行って見よう、なお、決答の期日を延ばすことはできないまでもなんとか尽力しよう、なるべくはこの談判主任として小笠原壱岐《おがさわらいき》をわずらわしたい、その約束で松浦に別れた。彼はその足で大坂へ帰るために、別手組の馬をも借りることにした。
 その日の午後には、駿河は監察赤松左京を伴い天保山沖に碇泊《ていはく》する順動丸に乗り移った。兵庫行きを急ぐ彼は船長を催促して、さかんに石炭を焚《た》かせた。その時、川口の方面から船印《ふなじるし》の旗を立てて進んで来る一|艘《そう》の川船が彼の目に映った。彼はその船の赤い色で長官を乗せて来たことを知った。近づいて見ると、彼が心待ちにした小笠原壱岐ではなくて、松平伯耆であった。この人は温厚淡泊な君子ではあるが、外国応接の事件を担当すべき人柄でない。これは、と思っている彼の方へその赤い川船はこぎ寄せて来た。間もなく松平伯耆は順動丸に乗り移った。その時の老中の言葉に、京都からの急命で各国公使へ勅諚の趣を達しにやって来た、万事はよろしく君らの方で談判ありたいとのきわめてあっさりとした挨拶《あいさつ》だ。なんら苦慮の様子もないには、駿河も左京と顔を見合わせた。
 そこへ大きな外国船だ。やがて一人《ひとり》の西洋人を乗せたボオトが親船からこぎ離れて、波に揺られながらこちらを望んで近づいて来た。英国書記官アレキサンドル・シイボルトが兵庫からの使者として催促にやって来たのだ。シイボルトは約束の期日の来たことを告げ、日本執政の来るのを待ちあぐんだことを告げ、各国の船艦は蒸汽を焚《た》いてここに来る準備をしているところだと告げた。順動丸が兵庫に近づくと、そこにはまた仏国書記官メルメット・カションが日本執政の来港を待ちわびていた。
 談判はまず英船内で開始された。初対面のこととて、駿河が姓名職掌を紹介すると、英国公使パアクスは不審を打って松平老中に言った。
「本日は約束の期日であるのに、阿部豊後《あべぶんご》はどうして見えないのか。」
「阿部豊後でござるか。先日職を罷《や》められたによって。」
「小笠原壱岐はどうしたか。」
「これは病気でござるで。」
「松平|周防《すおう》は。」
「はて、松平周防は機務に多忙で、なかなかこの席へはお越しになれない。」
 それを聞くと、公使は冷笑して、結局の談判に旧識の人たちは皆来ない、初対面の貴下が来臨あるとははなはだその意を得ないと言い出す。松平伯耆はそんなことに頓着《とんちゃく》なしで、右手に勅書をささげて、公使の前でそれを読み上げた。その時、書記官シイボルトがそばにいて、勅書の字句を駿河に質問し、それを一々公使に通じた。パアクスはたちまち顔色を火のように変え、拳《こぶし》を揚げて卓をたたくやら、椅子《いす》を離れて大股《おおまた》に歩き回るやらしたあとで、口から沫《あわ》を飛ばして言うことには、条約許容とは何事であるか、大英国と日本とは前年すでに結んだのを知らないのか、兵庫開港をやめるとは条約にそむく、勅書と言って貴重にされるからは徳川将軍よりもさらに権の重い者である、しからば直ちにその権の重い者について談判するであろう、もはや貴下らと談判する必要がない、すみやかに日本の国権を有するところへ案内せられよ、かつまた真に日本皇帝の書であるならその印璽《いんじ》が押してなければならない、それさえない一片の紙をどうして外国のものが信ずることができるか、君らは自分を瞞着《まんちゃく》するために来たのであろう、自分はこれから艦長に言い付けてすぐさま京都に行くであろう、貴下らはよろしく同行するがよいと。
 何を言われても泰然と構え込んで苦笑《にがわら》いしている松平伯耆と、パアクスとがそれに対《むか》い合っていた。それにこの二人《ふたり》は言葉も通じない。鼻息の荒いパアクスはもはや幕府の外交手段に欺かれないという顔つきで、今にもその勅書を引き裂きそうにするので、駿河はあわてて公使を押し止め、にわかに兵庫の港を開きがたいこの国の事情を述べ、この勅書は元来天皇から将軍に授けられたので君らへそのまま示すべき性質のものでないが、それをありのまま示すのは懇信の意を表するからであると言って、印璽《いんじ》のない場合に旧例のあることをも説明した。もはや日暮れにも近い、仏国公使も待っていることだろうから、同公使の意見をも聞いた上で、また貴艦を訪《たず》ねようと言い添えると、パアクスもやや気色を和らげた。そこで一行は英国公使らにわかれて、フランス船の方へ行った。
 仏国公使ロセスと駿河とはすでに江戸の方で幾たびか相往来している間柄である。横須賀《よこすか》造船所の経営に、陸軍の伝習に、フランス語学所の開設に、海外留学生の派遣に、ロセスが幕府に忠告したり種々《さまざま》な助力を与えたりしたことは一度や二度にとどまらない。それに、書記官のメルメット・カションが以前|函館《はこだて》の方にあったころ、函館奉行|津田近江《つだおうみ》の世話により駿河の友人喜多村|瑞見《ずいけん》から邦語を伝えられたという縁故もあって、駿河の方でも応対に心やすい。この公使と書記官とが駿河らから英国側の態度をきき取った時は、さすがに少しも驚かなかった。ただフランス人の癖らしく両手をひろげて、肩をゆすって見せたばかりだ。
 のみならず、ロセスはせっかく勅書まで持参した幕府側の苦心を知るだけの思いやりもあって、この際どうすればいいかという方法まで松平老中に教えた。それには、老中連名の書面をすみやかに渡してもらいたい。その文意はカションの通訳で大体駿河からきいたように、国事多端の際であるからこの地では事を尽くせない、兵庫開港の事も将軍においては承諾している、これらはことごとく江戸にある水野|和泉守《いずみのかみ》に任すべきゆえ、すみやかに江戸において談判せられよ、京都の皇帝へは外国事情をよく告げ置くであろうとの趣に認《したた》めてもらいたい。自分はその書面を証拠として、今夜各国公使へ説諭し、明日はすみやかに退帆するように取り計らうことにする。そうすれば目下の急を救うこともできよう。これが仏国公使の意見であった。
「さて、これはどうしたものであろう。拙者|一人《ひとり》ならすぐにもこの書面は認《したた》められる。同僚連署ということであれば、一応その人たちに相談した上でないと渡されない。はて、困ったことになったわい。」
 松平伯耆は順動丸に帰ってからそれを言った。
 夜はすでに八つ時を過ぎた。それから京都に往復して相談なぞをしていると、翌日の間に合わない。一行にとってこれは見のがせない機会でもあった。もし翌日になって、各国の船艦が大坂まで動き、淀川をさかのぼって京都に行くようなことが起こったら、人心も動揺する憂いがあった。駿河はそのことを松平伯耆に言って、今は一刻もむなしく過せない、仏国公使の厚意をむなしくしたらあとになって臍《ほぞ》をかんでも追いつかない、これは大事の前の小事である、老中連署が不承知とあれば御一存で処置せられたい、付き添いの任はまっぴら御免をこうむると述べた。松平老中もしかたなしに、然らば好《よ》きように取り計らえ、後日同僚に不平があっても自分の罪ではないと言う。駿河は甘んじてその責めを受けた。書面は同行の祐筆《ゆうひつ》が認《したた》めた。老中松平伯耆守、同じく松平周防守、同じく小笠原壱岐守の名が書かれた。みんなが暗記する花押《かおう》までその紙の上に記《しる》された。
 この老中連署の書面が仏国公使の手を通して、英船へも、米蘭両船へも持ち運ばれたころは、夜も深かった。駿河がひとり仏国船に出かけて行ってその返事を待っていると、やがてそこにロセスがやって来て、
「トレ、ビヤン――トレ、ビヤン。」
 と述べる。意《こころ》は、万事満足な結果に終了したとの意味を通わせたのだ。その時、公使は駿河と共に甲板《かんぱん》の上に立って深夜の海上をながめながら、自分らの船は明日の夕刻を待って兵庫を発し、四国から九州海岸を経て、横浜へ帰るであろうと告げ、なおこのことを将軍に伝え、江戸の水野老中の尽力をも頼むと付け添えた。別れぎわに、ロセスは堅く堅く駿河の手を握った。
 老中松平伯耆は帰りのおそい駿河を順動丸の方に待っていた。駿河がこの談判の結果をもたらした時にも、老中はまだ半信半疑でいた。
「駿河、あすは必ず退帆いたすであろうか。」
「それは御心配に及びません。あのロセスが保証しております。もはや御安心でございます。」
「しからば、そちはここに逗留《とうりゅう》いたせ。各国の船が退帆するのを見届けた上で、京都の方へまいることにいたせ。大君さまへも老中一同へもよく申し上げるがいいぞ。」
 こんなことで、駿河はその夜のうちに大坂へ向けて帰って行く松平老中を見送った。陸へ上がってからの彼は、監察の左京と二人で兵庫の旅籠屋《はたごや》にいて、不安な時を送りつづけた。翌朝も二人で首を長くして各国船の出帆を待っていると、夜が明けないうちから諸藩の侍が続々と旅籠屋へ押しかけて来た。各国船がゆえなく退帆するのはどういう理由であるかの、前日松平伯耆が談判の模様はいかがであったの、ほとんどこの交渉を信じられないかのような詰問だ。各国船の退帆は約束の時よりおくれた。ようやく九日の朝になって、退去を告げる汽笛の音が各国の船から起こった。その音は兵庫開港の遠くないことを期するかのように、高く港の空に響き渡った。


 山口駿河が赤松左京と共に各国船退帆の報告をもって、兵庫から京都の二条城にたどり着いたころはもはや黄昏時《たそがれどき》に近い。例の御用部屋に行って老中に面謁し一切の顛末《てんまつ》を述べようとすると、そこにはまた思いがけないことがこの駿河を待っていた。
「駿河、そちは今少しで切腹を仰せ出されるところであったぞ。」
 上座にある慶喜が微笑を見せながらの挨拶《あいさつ》だ。
 駿河が驚いてその理由を尋ねようとすると、老中小笠原壱岐は別室へ彼を招き、その前日あたりの京都での風聞によると彼が兵庫で勝手に勅書を変更し専断の応接をしたとのうわさが立ったと語り聞かせ、そのために各公使は異議なく退帆したが、彼の罪は大逆無道にも相当する、直ちに切腹を命ずるがいいと奏上するものがあって、朝廷でも今少しでそれをお許しになるところであったと語り聞かせた。しかし、将軍と一橋公とは、さすがにそんな軽はずみを戒められ、小笠原壱岐もまた親しく本人の言うことを聞き、松平伯耆の言うことも聞かなければ容易に当事者を罪すべきでないと陳述したという話もあった。ちょうど松平伯耆からの来状を得て、ほぼ談判の模様も知れたから、もはや深く憂いるにも及ぶまいとの話もあった。
「しかし、御同列のお名前を拝借いたしまして、連署で書面を送りましたことは、専断と申されても一言もございません。こればかりは恐縮に存じます。」
 と言って駿河はそこへ手をついた。臨機の処置を執るまでの談判の模様をも語った。
「いや危急の場合だ。それくらいの事を決断するのは至極もっともな話だ。」
 小笠原老中は同情のある語気でそれを言った。さらに声を低くして、駿河が京都に滞在するのははなはだ危《あぶ》ない、早速今晩にも去るがいい、江戸の方へ行って閉門謹慎するがいい、あとの事は自分がこの地においてなんとか取り繕おう、周旋もしようと言い聞かせた。
 この小笠原老中の言葉にやや安心して、駿河はそこをすべり出た。監察|向山《むこうやま》栄五郎のことが彼の胸に浮かんだ。せめて栄五郎だけにはあい、今度の事から後日の処置を話して行きたいと思って、そばにいる人に尋ねると、栄五郎は過ぐる日すでに罪を得て旅籠屋《はたごや》に閉居する身であるとの返事であった。
 夕闇《ゆうやみ》が迫って来た。城内の廊下も薄暗い。その時、蓬髪《ほうはつ》で急ぎ足に向こうから廊下を踏んで来るものがある。その人こそ軍艦奉行、兼外務取り扱いとして、江戸から駆けつけて来た彼の友人だ。監察の喜多村瑞見だ。駿河は友人を物の陰に招いたが、こまかい話なぞする時がない。ただ、時事はまたいかんともしようがない、友人が自分に代わって努力してくれるように、とのわずかなことだけが言えた。
「あとの事はよろしく頼む。」
 その言葉を瑞見に残して置いて、そこそこに駿河は二条城を出た。彼は大坂からその城に移って来ている知人らに別れを告げる暇《いとま》をすら持たなかった。

       五

 京都から大津経由で木曾《きそ》街道を下って来て、馬籠《まごめ》本陣の前で馬を停《と》めた一人《ひとり》の旅人がある。合羽《かっぱ》に身をつつんだ二人《ふたり》の家来と、そこへ来て荷をおろす供の男をも連れている。
 この旅人は旧暦九月の半ばに昼夜兼行で江戸を発《た》つから、十月半ばに近くの木曾路の西のはずれにたどり着くまで、ほとんど歩きづめに歩き、働きづめに働いて、休息することを知らなかったような人である。薄暗い空気に包まれていた洛中《らくちゅう》の風物をあとに見て、ようやく危険区域からも脱出し、大津の宿から五十四里も離れた馬籠峠の上までやって来て、心から深いため息のつける場所をその山家に見つけたような人である。この旅人が山口|駿河《するが》だ。
 泊まりの客人と聞いて、本陣では清助が表玄関の広い板の間に出て迎えた。客人は皆くたびれてその玄関先に着いた。笠《かさ》を脱ぎ、草鞋《わらじ》を脱ぐ客人の手つきを見たばかりでも、清助にはどういう人たちの微行であるかがすぐに読めた。
「ちょうど、よいお部屋《へや》があいております。ただいま主人は福島の方へ出張しておりますが、もう追ッつけ帰って見えるころです。こんな山の中で、なんにもおかまいはできません。どうぞごゆっくりとなすってください。」
 と清助は言って、主《おも》な客人を一番奥の方の上段の間へ案内した。二人の家来には次ぎの奥の間を、供の男には表玄関に近い部屋をあてがった。
 木曾では鳥屋《とや》の小鳥も捕《と》れ、茸《きのこ》の種類も多くあるころで、旅人をもてなすには最もよい季節を迎えていた。清助は奥の部屋と囲炉裏《いろり》ばたの間を往《い》ったり来たりして、二人の下女を相手に働いているお民のそばへ来てからも、風呂《ふろ》の用意から夕飯として出す客膳《きゃくぜん》の献立《こんだて》まで相談する。お平《ひら》には新芋《しんいも》に黄な柚子《ゆず》を添え、椀《わん》はしめじ茸《たけ》と豆腐の露《つゆ》にすることから、いくら山家でも花玉子に鮹《たこ》ぐらいは皿《さら》に盛り、それに木曾名物の鶫《つぐみ》の二羽も焼いて出すことまで、その辺は清助も心得たものだ。お民のそばにいる二人の子供はまためずらしい客でもあるごとに着物を着かえさせられるのを楽しみにした。その中でも、姉のお粂《くめ》はすでに十歳にもなる。奥の方で客の呼ぶ声でもすると、耳さとくそれをききつけて、清助や下女に知らせるのもこの娘だ。
「お手が鳴りますよ。」
 本陣ではこの調子だ。
 その夕方に、半蔵は木曾福島の役所から呼ばれた用を済まし、野尻《のじり》泊まりで村へ帰って来た。家に泊まり客のあることも彼はその時に知った。諸大名や諸公役が通行のたびに休泊の室《へや》にあててある奥の上段の間には、幕府の大目付で外交奉行を兼ねた人が微行の姿でやって来ていて、山家の酒をあつらえるなぞの旅らしい時を送っていることをも知った。
 翌朝になって見ると、客人はなかなか起きない。暁から降り出した雨が客人のからだから疲労を引き出したかして、ようやく昼近くなって、上段の間の雨戸を繰らせる音がする。家来の衆までがっかりした顔つきで、雨を冒しても予定の宿へ出発するような様子がない。半蔵が挨拶《あいさつ》に行って見たころは、駿河《するが》は上段の間から薄縁《うすべり》の敷いてある廊下に出て、部屋《へや》の柱に倚《よ》りかかりながら坪庭《つぼにわ》へ来る雨を見ていた。石を載せた板屋根、色づいた葉の残った柿《かき》の梢《こずえ》なぞの木曾路らしいものは、その北側の廊下の位置からは望まれないまでも、たましいを落ち着けるによいような奥まった静かさはその部屋の内にも外にもある。
「だいぶごゆっくりでございますな。今日は御逗留《ごとうりゅう》のおつもりでいらっしゃいますか。」
「そう願いましょう。きょうは一日休ませてもらいましょう。江戸へと思って急いでは来ましたが、ここまで来て見たら、ひどく疲れが出ましたよ。このお天気じゃ出かける気にもなれません。しかし、木曾へはいって雨に降りこめられるのも悪くありませんね。」
「ことしは雨の多い年でして、閏《うるう》の五月あたりから毎日よく降りました。当年のように強雨《ごうう》の来たことは古老も覚えがない、そんなことを申しまして、一時はかなり心配したくらいでした。川留め、川留めで、旅のかたが御逗留になることは、この地方ではめずらしいことでもございません。」
 午後にも半蔵はこの客人を見に来た。雨の日の薄暗い光線は、その白地に黒く雲形を織り出した高麗縁《こうらいべり》の畳の上にさして来ている。そこは彦根《ひこね》の城主|井伊掃部頭《いいかもんのかみ》も近江から江戸への往《ゆ》き還《かえ》りに必ずからだを休め、監察の岩瀬肥後も神奈川条約上奏のために寝泊まりして行った部屋である。この半蔵の話が、外交条約のことに縁故の深い駿河の心をひいた。
「御主人はまだお聞きにもなりますまいが、いよいよ条約も朝廷からお許しが出ましたよ。長い間の条約の大争いも一段落を告げる時が来ました。井伊大老や岩瀬肥後なぞの骨折りも、決してむだにはならなかった。そう思って、わたしたちは自分を慰めますよ。やかましい攘夷《じょうい》の問題も今に全くなくなりましょう。この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもありますまい。」
 駿河はそれを半蔵に言って見せて、両手を後方に組み合わせながら、あちこちとその部屋の内を静かに歩き回った。あだかもそこの壁や柱にむかって話しかけでもするかのように……
 大目付で外国奉行を兼ねた人の口からもれて来たことは、何がなしに半蔵の胸に迫った。彼はまだ将軍辞職の真相も知らず、それを説き勧めた人が自分の目の前にいるとも知らず、ましてその人が閉門謹慎の日を送るために江戸へ行く途中にあるとは夢にも知らなかった。ただ、衰えた徳川の末の代に、どうかしてそれをささえられるだけささえようとしているような、こんな頼もしい人物も幕府方にあるかと想《おも》って見た。
 深い秋雨はなかなかやみそうもない。大目付に随《つ》いて来た家来の衆はいずれもひどく疲れが出たというふうで、部屋の片すみに高いびきだ。半蔵は清助を相手に村方の用事なぞを済まして置いて、また客人を上段の間に見に行こうとした。心にかかる京大坂の方の様子も聞きたくて、北側の廊下を回って行って見た。思いがけなくも、彼はその隠れた部屋の内に、激しくすすり泣く客人を見つけた。
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     第十二章

       一

「お父《とっ》さんは。」
 一日の勤めを終わって庄屋《しょうや》らしい袴《はかま》を脱いだ半蔵は、父|吉左衛門《きちざえもん》のことを妻のお民にたずねた。
「お民、ひょっとするとおれは急に思い立って、名古屋まで行って来るかもしれないぜ。もし出かけるようだったら、留守を頼むよ。お父《とっ》さんやお母《っか》さんにもよく頼んで行く――なんだか西の方のことが心配になって来た。」
 とまた彼は言って妻の顔を見た。半蔵夫婦の間にはお夏《なつ》という女の子も生まれたが、わずか六十日ばかりでその四番目の子供は亡《な》くなったころだ。お民の顔色もまだ青ざめている。
 馬籠の宿場では慶応二年の七月を迎えている。毎年上り下りの大名がおびただしい人数を見る盆前の季節になっても、通行はまれだ。わずかに野尻《のじり》泊まり、落合泊まりで上京する信州|小諸《こもろ》城主牧野|遠江守《とおとうみのかみ》の一行をこの馬籠峠の上に迎えたに過ぎない。これは東山道方面ばかりでないと見えて、豊川稲荷《とよかわいなり》から秋葉山へかけての参詣《さんけい》を済まして帰村したものの話に、旅人の往来は東海道筋にも至って寂《さみ》しかったという。人馬共に通行は一向になかったともいう。街道もひっそりとしていた。


「半蔵、長州征伐のことはどうなったい。」
 夕方から半蔵が父の隠居する裏二階の方へのぼって行って見ると、吉左衛門はまずそれを半蔵にきいた。物情騒然とも言うべき時局のことは、半蔵ばかりでなく、年老いた吉左衛門の心をも静かにしては置かなかった。
 父が住む裏二階には、座敷先のような仮廂《かりびさし》こそ掛けてないが、二間ある部屋《へや》の襖《ふすま》も取りはずして、きびしい残暑も身にしみるというふうに、そこいらは風通しよく片づけてある。一日|母屋《もや》の方に働いていた継母のおまんも、父のそばに戻《もど》って来ている。父は先代の隠居半六が余生を送ったこの同じ部屋にすわって、相手のおまんに肩なぞをもませながら、六十八年の街道生活を思い出しているような人である。
「西の方の様子はどうかね。」とおまんまでが父の背後《うしろ》にいてそれを半蔵にたずねた。
「なんですか、こんな山の中にいたんじゃ、さっぱり本当のことがわかりません。小倉《こくら》方面に戦争のあったことまではよくわかってますがね、あれから以後は確かな聞書《ききがき》も手に入りません。幕府方の勝利は疑いないとか、大勝利は近いうちにあるとか、そんな雲をつかむようなことばかりです。」と半蔵が答える。
「まあ、しかしおれは隠居の身だ。」と吉左衛門は言った。「きょうは佐吉を連れて、墓|掃除《そうじ》に行って来たよ。もう盆も近いからな。」
 吉左衛門とおまんとは、新たに子供を失った半蔵よりもお民の方を案じて、中津川からもらった瓜《うり》も新しい仏のために取って置こうとか、本谷というところへ馬買いに行ったものから土産《みやげ》にと贈られた桃も亡《な》き孫娘(お夏)の霊前に供えようとか、そんな老夫婦らしい心づかいをしている。万福寺での墓掃除からくたびれて帰ったという父を見ると、半蔵も名古屋行きのことをすぐにそこへ切り出しかねた。
「お母《っか》さん――どれ、わたしが一つかわりましょう。」
 と彼はおまんに言って、父の背後《うしろ》の方へ立って行こうとした。
「や、半蔵も按摩《あんま》さんをやってくれるか。肩はもうたくさんだぞ。そんなら、足を頼もう。」
 吉左衛門はとかく不自由でいる右の足を半蔵の前に投げ出して見せた。中風を煩《わずら》ったあげくの痕跡《こんせき》がまだそこに残っている。馬籠の駅長時代には百里の道を平気で踏んだほどの健脚とも思われないような、変わり果てた父の脹脛《ふくらはぎ》が、その時半蔵の手に触れた。かつて隆起した筋肉の勁《つよ》さなぞは探《さが》したくもない。膝《ひざ》から足の甲へかけての骨もとがって来ている。
「まあ、お父《とっ》さんはこんな冷たい足をしているんですか。」
 半蔵は話し話し、温暖《あたた》かい血の気が感じられるまで根気に父の足をなでさすっていた。先年、彼が父の病を祷《いの》るために御嶽山《おんたけさん》の方へ出かけたころから見ると、父も次第に健康を回復したが、しかしめっきり老い衰えて来たことは争えない。父ももはやそんなに長くこの世に生きている人ではなかろう。手から伝わって来るその感覚が彼をかなしませた。
「半蔵、街道の方に声がするぞ。」と吉左衛門はきき耳を立てて言った。「また早飛脚かと思うと、おれのような年寄りにもあの声は耳についてしまったよ。」
 その時、半蔵は父のそばを離れて、「またか」というふうにその裏二階の縁先の位置から街道の空をうかがった。以前、京都からのがれて来た時の暮田正香《くれたまさか》を隠したこともある土蔵の壁には淡い月がさして来ていて、庭に植えてある柿《かき》の梢《こずえ》も暗い。峠の上の空を急ぐ早い雲脚《くもあし》までがなんとなく彼の心にかかった。


 最初、今度の軍役に使用される人馬は慶安度《けいあんど》軍役の半減という幕府の命令ではあったが、それでも前年の五月に将軍が進発された時の導従《どうじゅう》はおびただしい数に上り、五百石以上の諸士は予備の雇い人馬まで使用することを許されたほどで、沿道人民がこうむる難儀も一通りでなかった。そうでなくてさえ、困窮疲労の声は諸国に満ちて来た。江戸の方を見ると、参覲交代廃止以来の深刻な不景気に加えて、将軍進発当時の米価は金壱両につき一斗四、五升にも上がり、窮民の騒動は実に未曾有《みぞう》の事であったとか。どうして天明《てんめい》七年の飢饉《ききん》のおりに江戸に起こった打ちこわしどころの話ではない。この打ちこわしは前年五月二十八日の夜から品川宿、芝|田町《たまち》、四谷《よつや》をはじめ、下町、本所《ほんじょ》辺を荒らし回り、横浜貿易商の家や米屋やその他富有な家を破壊して、それが七、八日にも及んだ。進発に際する諸士の動員と共に、食糧の徴発と、米穀の買い占めと、急激な物価の騰貴とが、江戸の窮民をそんなところまで追いつめたのだ。
 前年五月に起こった暴動は江戸にのみとどまらない。同じ月の十四日には大坂にも打ちこわしが始まって、それらの徒党は難波《なんば》から西横堀上町へ回り、天満《てんま》東から西へ回り、米屋と酒屋と質屋を破壊して、数百人のものが捕縛された。兵庫では八日から暴動して、同じように米屋なぞを破壊した。前年の六月になっても米価はますます騰貴するばかりで、武州の高麗《こま》、入間《いるま》、榛沢《はんざわ》、秩父《ちちぶ》の諸郡に起こった窮民の暴動はわずかに剣鎗《けんそう》の力で鎮圧されたほどである。
 これほど窮迫した社会の空気の中で、幕府が江戸から大坂へ大軍を進めてからすでに一年あまりになる。いったん決心した将軍の辞職も、それを喜ぶ臣下の者はすくなかったために、御沙汰《ごさた》に及ばれがたしとの勅諚《ちょくじょう》を拝して、またまた思いとどまるやら、将軍家の威信もさんざんに見えて来た。大坂城まで乗り出した幕府方は進むにも進まれず、退《ひ》くにも退かれず幾度か長州藩のためにもてあそばれて、ついに開戦の火ぶたを切った。長い戦線は山陰、山陽、西海の三道にもわたった。一昨日は井伊、榊原《さかきばら》の軍勢が芸州口から広島へ退《ひ》いたとか、昨日は長州方の奇兵隊が石州《せきしゅう》口の浜田にあらわれたとか、そういうことを伝え聞く空気の中にあって、ただただ半蔵は村の人たちと共に戦時らしい心配を分《わ》かつのほかはなかった。
 戦報も次第に漠《ばく》として来ている。半蔵が西から受け取る最近の聞書《ききがき》には、戦地の方の正確な消息も一向に知らせて来ない。それがひどく半蔵を不安にしている。
 しばらく彼は裏二階の縁先に出て考えていたが、また親たちのいるところへ戻《もど》って来て言った。
「この節は、早飛脚の置いて行く話も当てにならなくなりました。なんですか、わたしはろくろく仕事も手につきません。一つ名古屋まで行って、西の方の様子を突きとめて来たいと思います。どうでしょう、お父《とっ》さんやお母《っか》さんにしばらくお留守居を願えますまいか。」


「まあ、待てよ、みんな寝ころんで話そうじゃないか。」とその時、吉左衛門が言い出した。「半蔵はそこへ足でも伸ばせよ。おまん、お前も横になったら、どうだい。こういう相談は寝ながらにかぎる。」
 旧暦七月の晩のことで、おまんは次ぎの部屋の方へ行燈《あんどん》を持ち運び、燈火《あかり》を遠くして来て、吉左衛門のそばに腰を延ばした。他人をまぜずの親子ぎりだ。三人思い思いに横になって見ると、薄暗いところでも咄《はなし》は見える。それに、余分親しみもある。
「半蔵、」と吉左衛門は寝ながら頬杖《ほおづえ》をついて、言葉を続けた。「お前も知ってるとおり、とかく人の口はうるさいし、本陣親子のものに怠りがあると言われては、御先祖さまに対しても申しわけがない。実はこの二、三年来というもの、お前が家を捨てて出て行きゃしないかと思って、おれはそればかり心配していたよ。そりゃ、今は家なぞを顧みているような、そんな時世じゃない、そういうお前のお友だちの心持ちはおれにもわかる。でも、お前までその気になられると、だれがこの街道の世話するかと思ってさ。まあ、おれはこんな昔者だ。お前の家出ばかりを案じて来た。しかし、今夜という今夜はこんなことが言えるくらいだ。もうおれもそんなに心配ばかりしていない。お前が黙って出て行かずに、そう言って相談してくれると、おれもうれしい。」
「まあ、お父さんもああおっしゃるし、半蔵も思い立ったものなら、出かけて行って来るがいい。留守はどんなにしても、わたしたちが引き受けますよ。」とおまんも力を入れて言った。
 吉左衛門がこんなに心配するのは、ただただ自分が年老いて心細いからというばかりでもない。あるいは先年のように水戸浪士を迎えたり、あるいは幕府の注意人物を家にかくして置いたりする半蔵が友だち仲間の行動は、とやかくと人の口に上るからで。この父に言わせると、中津川あたりと馬籠とでは、同じ尾州《びしゅう》領でも土地の事情が違う。木曾谷《きそだに》三十三か村には福島の役人の目が絶えず光っていることを忘れてはならない。山村の旦那《だんな》様は尾州の代官とは言っても、木曾街道要害の地たる福島の関所を幕府から預かっている深い縁故から、必ずしも尾州藩と歩調を同じくする人ではなく、むしろ徳川直属の旗本をもって自ら任じていることを忘れてはならない。往昔《むかし》、関ヶ原の戦いに東山道の先導となって徳川家に忠勤をぬきんでた山村氏の歴史を考えて見ても、それがわかる。平田|篤胤《あつたね》没後の門人が、福島の旦那様によろこばれるかよろこばれないかは言わずと知れたことであって、その地方の関係から言っても、馬籠の庄屋としての半蔵には中津川の景蔵《けいぞう》や香蔵《こうぞう》のような自由がない。どんな姿を変えた探偵《たんてい》が平田門人らの行動を注意していまいものでもない。おまけに、ここは街道だからで。
「壁にも耳のある世の中だぞ。まあ、半蔵にもよほど気をつけてもらわにゃならん。」と吉左衛門が言う。
「そんなら、あなた、こうするといい。」とおまんは思いついたように、「岩村には吾家《うち》の親類もありますからね。半蔵の留守中に、もし人が尋ねましたら、美濃《みの》の親類までまいりました、そう言ってわたしが取りつくろいましょう。名古屋までとは言わずに置きましょうわい。」
「いや、お母《っか》さんにそう言って留守を引き受けていただけば、わたしも安心して出かけられます。」と半蔵は答えた。「わたしは黙って家を出るようなことはしません。庄屋には庄屋の道もあろうと考えますし、黙って家を飛び出して行くくらいなら、もともと何もそんなに心配することはなかったんです。」


 半蔵が行こうとしている名古屋の方には、京大坂の事情を探るに好都合な種々の手がかりがあった。木曾は尾州領である関係から、馬籠の本陣問屋を兼ねた彼の家は何かにつけて藩との交渉も多い。父吉左衛門は多年尾州公のお勝手元《かってもと》に尽力した縁故から、永代苗字帯刀《えいたいみょうじたいとう》を許されたり、領主に謁見することをすら許されたりしている。この便宜に加えて、藩の勘定奉行《かんじょうぶぎょう》、材木奉行、作事奉行なぞは毎年街道を下って来るたびに、必ず彼の家に休息するか宿泊するかの人たちであるばかりでなく、名古屋の家中衆のなかには平田門人らが志を認めている人もすくなくない。藩黌《はんこう》明倫堂《めいりんどう》の学則が改正せられてからは、『靖献遺言《せいけんいげん》』のような勤王を鼓吹する書物が大いに行なわれ、山地の方に住む領民にまで時事を献白する道も開かれているくらいだ。
 もともとこんなに西海の方の空が暗くならない前に、二度目の長州征伐を開始するについては最初から尾州家では反対を唱えたのであった。先年御隠居(尾張慶勝《おわりよしかつ》)が征討総督として出馬したおりに、長州方でも御隠居の捌《さば》きに服し、京都包囲の巨魁《きょかい》たる益田《ますだ》、国司《こくし》、福原|三太夫《さんだゆう》の首級を差し出し、参謀|宍戸左馬助《ししどさまのすけ》以下を萩《はぎ》城に斬《き》り、毛利大膳《もうりだいぜん》父子も萩の菩提寺《ぼだいじ》天樹院に入って謹慎を表したのであるから、これ以上の追究はかえって長州人士を激せしめ、どんな禍乱の端緒となるまいものでもないと言い立てて、しきりに幕府の反省を促したのも尾州藩である。しかし幕府当局者はこの処置を寛大に過ぐるとし、御隠居の諫争《かんそう》にも耳を傾けず、長州の伏罪には疑惑の廉《かど》があるとして、毛利大膳父子、および三条実美《さんじょうさねとみ》以下の五卿を江戸に護送することを主張してやまなかった。死を決して幕府に当たろうとする長州主戦派の蜂起《ほうき》はその結果だ。
 半蔵が狭い見聞の範囲から言っても、当時における尾州藩の位置は実に重い。再度の長防征討先手総督を任ずるよしの幕府の内諭が尾州公に下ったのを見ても、それがわかる。しかし尾州公は名も以前の茂徳《もちのり》を玄同《げんどう》と改め、家督を御隠居の実子|犬千代《いぬちよ》に譲って、すでに自分でも隠居の身分である。それは朝幕に関する根本の意見で全く御隠居と合わないことを知り、二人《ふたり》の主人が双《なら》び立つようでは一藩のためにも幸福でないと悟り、のみならず生麦《なまむぎ》償金事件で失敗してからこのかた、時勢の自己《おのれ》に非なることをみて取ったにもよる。この尾州公はなかなか長防征討を引き受けない。再征反対の御隠居に対してもそれの引き受けられるはずもなかったのだ。そこでお鉢《はち》は紀州公(徳川|茂承《もちつぐ》)の方に回った。先手総督は尾州公と紀州公との譲り合いとなった。その時の尾州公が紀伊中納言への挨拶《あいさつ》に、自分は隠居の身分で、国務には携わらず、内輪にはやむを得ざる事情もあって、とても一方の主将の任はお請けができない、今般自分が上京する主意は将軍の進発もあらせらるる時勢を傍観するに忍びないからであって、全く一己《いっこ》の微忠を尽くしたい存慮にほかならない、この上、しいて総督を命ぜられてもお請けは申し上げがたいと決心した次第である、事実自分には行き届かない、気の毒ではあるが悪《あ》しからず、ということであったのだ。この先手総督の引き受けには紀州でもよほど躊躇《ちゅうちょ》の色が見えた。先年来の大坂守備で国力もすでに尽きたと言って、十万両の軍用金を幕府に仰いだ上、ようやく出陣の将士を軍艦で和歌の浦から送り出したのは、前の年の十二月のことに当たる。
 幕府の親藩でもこのとおりだ。水戸はまず疑われ、一橋は排斥せられ、尾州まで手を引いた。あだかも、十四代から続いた大身代《おおしんだい》が傾きかけて見ると、主家を思う親戚《しんせき》がかえって邪魔扱いにされて、一人《ひとり》去り、二人《ふたり》去りして行く趣に似ている。この際、どんな無理をしても一番の先鋒隊《せんぽうたい》から十六番隊までの諸隊を芸州表《げいしゅうおもて》に繰り出させ、長州はじめ幕府に離反するものを圧倒しようとするこの軍役の前途には、全く測りがたいものがあった。ただ、幕府方の勝利が疑いないとか、大勝利は近いうちにあるとか、そんなむなしい声が木曾街道にまで響けて来ているのみだった。


 名古屋へ向けて半蔵がたつ日の朝には、お民をはじめ下男の佐吉まで暗いうちから起きて、母屋《もや》の囲炉裏《いろり》ばたや勝手口で働いた。隣近所でまだ戸をしめて寝ているうちに早く主人をたたせたいという家のものの心づかいからで。
「大旦那《おおだんな》、お早いなし。」
 と言って、佐吉の掛ける声までが早立ちの朝らしい。吉左衛門夫婦が裏の隠居所の方から半蔵を見送りに来たころは、まだそこいらは薄暗かった。
「時に、半蔵はどうする。」と吉左衛門があたりを見回した。「中津川までは佐吉に送らせるか。」
「ええ、おれがお供するわいなし。」と佐吉は心得顔に、「おれはもうそのつもりで、自分の草鞋《わらじ》までそろえて置いたで。」
「たぶん、香蔵さんと一緒に名古屋へ行くことになりましょう。中津川まで行って見た様子です。今度は美濃《みの》方面の人たちにもあえるだろうと思います。」と半蔵は言った。
「さあ、西の方の模様もどうあろうか。」とまた吉左衛門が言葉を添える。「戦争の騒ぎだけでもたくさんなところへ、こないだのような大風雨《おおあらし》じゃ、まったくやり切れない。とかく騒がしいことばかりだ。半蔵も気をつけて行って来るがいいぞ。」
 ちょうど隣家の年寄役伊之助も東海道の医者のもとまで養生の旅に出て帰って来ている。半蔵はこの人だけに事情を打ち明けて、留守中の宿場の世話をよく頼んで置いてある。本陣や問屋の方の手伝いには清助もあれば、栄吉というものもある。
「お母《っか》さん、お願いしますよ。」
 その声を残して置いて、半蔵は佐吉と共に裏口の木戸から出た。いつも早起きの子供らですら寝床の中で、半蔵が裏の竹藪《たけやぶ》の細道のところから家を離れて行ったことも知らなかった。

       二

 月の末になると、半蔵は名古屋から土岐《とき》、大井を経て、二十二里ばかりの道を家の方へ引き返した。帰りには中津川で日が暮れて、あれから馬籠の村の入り口まで三里の夜道を歩いて来た。
 街道も更《ふ》けて人通りもない時だ。荒町《あらまち》から馬籠の本宿につづく石屋の坂も暗い。宿場の両側に並ぶ家々の戸も閉《し》まって、それぞれの屋号をしるした門口の小障子からはわずかに燈火《あかり》がもれている。ともかくも無事に半蔵が自分の家の本陣へ帰り着いたころは、そんなにおそかった。
「子供は。」
 半蔵はまずそれをお民にきいた。往《い》きと違って、彼も留守宅のことばかり心配しながら帰って来たような人だ。
「あなた、あれからお父《とっ》さんもお母《っか》さんもずっとお母屋《もや》の方にお留守居でしたよ。さっきまでお父さんも起きていらしった。あなたが帰ったら起こしてくれと言って、奥へ行って休んでおいでですよ。」
 とお民は言って見せた。
 寛《くつろ》ぎの間《ま》に脚絆《きゃはん》を解いた半蔵は、やっぱり名古屋まで行って来てよかったことを妻に語り始めた。そこへ継母のおまんも半蔵の話を聞きに来る。この旅には名古屋まで友人の香蔵と同行したこと、美濃尾張方面の知己にもあうことができて得《う》るところの多かったこと、そんな話の出ているところへ、吉左衛門は煙草盆《たばこぼん》をさげながら奥の部屋《へや》の方から起きて来た。
「半蔵、どうだったい。いくらか京大坂の様子がわかったかい。」


 半蔵が父のところへもたらした報告によると、将軍親征の計画は幕府の大失敗であるらしい。こんな無理な軍役を起こし、戦意のない将卒を遠地に送り、莫大《ばくだい》な軍資を費やして、徳川家の前途はどうなろう。名古屋城のお留守居役で、それを言わないものはない。もはや幕府方もさんざんに見える。一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》は万般後見のことでもあるから、長州征伐のことなぞはことごとく慶喜へ一任して、すみやかに将軍は関東へ引き揚げるがいい、そしてしばらく天下の変動をみるがいい、それには小倉表《こくらおもて》に碇泊《ていはく》する幕府の軍艦をもって江戸へ還御《かんぎょ》のことに決するがいい、当節天下の人心は薄い氷を踏むようなおりからである、もし陸路を還御になってはいかような混乱を促すやも測りがたい。これは主君を思う幕臣らの意向であるばかりでなく、イギリスに対抗して幕府を助けようとするフランス公使ロセスなぞも同じ意味の忠告をしたとやらで、名古屋ではもっぱらその評判が行なわれていたことを父に語り聞かせたのであった。
「して見ると、この戦いはどうなったのかい。」
「それがです。各藩共に、みんな初めから戦う気なぞはなくて出かけて行ったようです。長州を相手に決戦の覚悟で行ったような藩は、まあないと言ってもいいようです。ただ幕府への御義理で兵を出したというのが実際のところじゃありますまいか。」
「でも、半蔵、この戦いが始まってから、もう三月近くもなるよ。六度や七度の合戦はあったと、おれは聞いてるよ。」
「そりゃ、お父《とっ》さん、芸州口にもありましたし、大島方面にもありましたし、下《しも》の関《せき》の方面にもありました。それがみんな長州兵を防ぐ一方です。それから、退却、退却です。どうもおかしい、おかしいとわたしは思っていました。ほんとうに戦う気のあるものなら、一部の人数を失ったぐらいで、あんなに退却ばかりしているはずはないと思っていました。幕府方に言わせましたら、榊原小平太《さかきばらこへいた》の後裔《こうえい》だなんていばっていてもあの榊原の軍勢もだめだ、彦根《ひこね》もだめだ、赤鬼の名をとどろかした御先祖の井伊|直政《なおまさ》に恥じるがいいなんて、今じゃ味方のものを悪く言うようなありさまですからね。でも、尾州藩あたりの人たちは、そうは言いませんよ。これは内外の大勢をわきまえないんだ、ただ徳川家の過去の御威勢ばかりをみてからの言い草なんだ、そう言っていますよ。早い話が、江戸幕府のために身命をなげうとうというものがなくなって来たんですね。各藩共に、一人でも兵を損じまいというやり方で、徳川政府というよりも自分らの藩のことを考えるようになって来たんですね。」
「そう言われて見ると、助郷《すけごう》村々の百姓だっても、徳川様の御威光というだけではもう動かなくなって来てるからな。」
「まあ、名古屋の御留守居あたりじゃ、この成り行きがどうなるかと思って見ているありさまです。最初から尾州ではこんな長州征伐には反対だ、御隠居の諫《いさ》めを用いさえすれば幕府もこんな羽目《はめ》にはおちいらなかった、そう言って憤慨しないものはありません。なんでも、石州口の方じゃ、浜田の城も落ちたといううわさです。おまけに公方様《くぼうさま》は御病気のようなうわさも聞いて来ましたよ。」
 吉左衛門は深いため息をついた。
 ともあれ、この名古屋行きは半蔵にとって、いくらかでも彼の目をあけることに役立った。たとい、京都までは行かず、そこに全国の門人らを励ましつつある師|鉄胤《かねたね》をも見ずじまいではあっても、すくなくも西の空気の通う名古屋まで行って、尾州藩に頭を持ち上げて来ている田中|寅三郎《とらさぶろう》、丹羽淳太郎《にわじゅんたろう》の人たちを知るようになり、来たるべき時代のためにそれらの少壮有為な藩士らがせっせとしたくを始めていることを知っただけでも、彼にはこの小さな旅の意味があった。
「今夜はもうおそい。お父《とっ》さんもお母《っか》さんも休んでください。」
 そう言って店座敷の方へ行ってからも、彼は名古屋で探って来たことが心にかかって、そのまま眠りにはつけなかった。
 父にこそ告げなかったが、日に日に切迫して行く関西の形勢が彼を眠らせなかった。彼はそれを田宮如雲《たみやじょうん》のような勤王家に接近する尾州藩の人たちの口ぶりから知って来たばかりでなく、従来|会津《あいづ》と共に幕府を助けて来た薩摩《さつま》が公武一和から討幕へと大きく方向を転換し、薩長の提携はもはや公然の秘密であるばかりでなく、イギリスのような外国の勢力までがこれを助けているといううわさからも知って来た。王政復古を求める声は後年を待つまでもなく、前の年、慶応元年の後半期あたり、将軍辞職の真相の知れ渡る前後あたりから、すでに、すでに諸国に起こって来て、徳川家には縁故の深い尾州藩の人たちですらそれを考えるような時になって来ている。
「まあ、あなたはまだ起きてるんですか。」
 お民が夜中に目をさまして、夫のそばで寝返りを打つころになっても、まだ彼は寝床の上にすわっていた――枕《まくら》もとに置いてある行燈《あんどん》が店座敷の壁に投げかけて見せる暗い影法師と二人ぎりで。


 八月にはいって、馬籠峠の上へは強い雨が来た。六日から降り出した雨は夜中から雷雨に変わり、強い風も来て、荒れ模様は二日も続いた。さて、二日目の夜の五つ時ごろからは雨はさらに強く降りつづき、次第に風の方向も変わって来たところ、思いのほかな辰巳《たつみ》の大風となって、一晩じゅう吹きやまなかった。ようやく三日目の夜明けがた、およそ六つ半時ごろになって風雨共に穏やかになったころは、半蔵もお民も天井板の崩《くず》れ落ちた店座敷のなかにいた。本陣の表通りから下方《したかた》裏通りまでの高塀《たかべい》はことごとく破損した。
「まあ。」
 あっけに取られたお民の声だ。
 とりあえず半蔵は身軽な軽袗《かるさん》をはいて家の外へ見回りに出た。自分方では仮葺《かりぶ》きの屋根瓦《やねがわら》を百枚ほども吹き落とされたと言って、それを告げに彼のところへ走り寄るのは隣家伏見屋の年寄役伊之助だ。田畑のことは確かにもわからないが、この大荒れでは稲穂もよほど痛んだのではないかと言って、彼のそばに来てその心配を始めるのは問屋の九郎兵衛《くろべえ》だ。周囲には、大風の吹き去ったあとの街道に立って茫然《ぼうぜん》とながめたたずむものがある。互いに見舞いを言い合うものがある。そのうちにはあちこちの見回りから引き返して来て、最も破損のはなはだしかったところは村の万福寺だと言い、観音堂《かんのんどう》の屋根はころびかかり、檜木《ひのき》六本、杉《すぎ》六本、都合十二本の大木が墓地への通路で根扱《ねこ》ぎになったと言って見せるものがある。伏見屋の控え林では比丘尼寺《びくにでら》で十二本ほどの大木が吹き折られ、青野原向こうの新田《しんでん》で二十本余の松が吹き折られ、新茶屋や大屋なぞにある付近の山林の損害はちょっと見当もつかないと告げに来るものもある。
 その日の夕方までには村方被害のあらましの報告が荒町方面からも峠方面からも半蔵のところに集まって来た。馬籠以東の宿では、妻籠《つまご》、三留野《みどの》両宿ともに格別の障《さわ》りはないとのうわさもあり、中津川辺も同様で、一向にそのうわさもない。ただ、隣宿|落合《おちあい》の被害は馬籠よりも大きかったということで、潰《つぶ》れ家およそ十四、五軒、それに死傷者まで出した。こんな暴風雨に襲われたことはこの地方でもめったにない。しかし強雨のしきりにやって来ることはその年ばかりでなく、前年から天候は不順つづきで、あんな雨の多い年はまれだと言ったくらいだ。半蔵の家で幕府の大目付《おおめつけ》山口|駿河《するが》を泊めた前あたりのころに、すでにその年の米穀は熟するだろうかと心配したくらいだった。
 その前年の不作は町方一同の貯《たくわ》えに響いて来ている。田にある稲穂も奥手《おくて》の分はおおかた実らない。凶作の評判は早くも村民の間に立ち始めた。
「天明七年以来の飢饉《ききん》でも襲って来るんじゃないか。」
 だれが言い出すともないようなその声は半蔵の胸を打った。社会は戦時の空気の中に包まれていて、内憂外患のうわさがこもごもいたるという時に、おまけにこの天災だ。


 宿役人の集まる会所も荒れて、屋根|葺《ふ》き替えのために七百枚ほどの栗板《くりいた》が問屋場《といやば》のあたりに運ばれるころは、妻籠《つまご》本陣の寿平次もちょっと日帰りで半蔵親子のところへ大風の見舞いに来た。
 そろそろ半蔵は村民のために飯米の不足を心配しなければならなかったのである。そこで、寿平次をつかまえて尋ねた。
「寿平次さん、君の村にはどうでしょう、米の余裕はありますまいか。」
 この注文の無理なことは半蔵も承知していた。樅《もみ》、栂《つが》、椹《さわら》、欅《けやき》、栗《くり》、それから檜木《ひのき》なぞの森林の内懐《うちぶところ》に抱かれているような妻籠の方に、米の供給は望めない。妻籠から東となると、耕地はなおさら少ない。西南の日あたりを受けた傾斜の多い馬籠の地勢には竹林を見るが、木曾谷《きそだに》の奥にはその竹すら生長しないところさえもある。
 その時は半蔵以外の宿役人も、いずれもじっとしていなかった。問屋九郎兵衛をはじめ、年寄役の桝田屋小左衛門《ますだやこざえもん》、同役|蓬莱屋《ほうらいや》新七の忰《せがれ》新助、同じく梅屋五助なぞは、組頭《くみがしら》の笹屋庄助《ささやしょうすけ》と共に思い思いに奔走していた。ちょうど半蔵が寿平次と二人で会所の前にいると、そこへ隣家の伊之助も隠居|金兵衛《きんべえ》と一緒に山林の見分《けんぶん》からぽつぽつ戻って来た。
「半蔵さん、きょうはわたしも初めて家を出まして、伊之助を連れながら大荒れの跡を見てまいりましたよ。」
 相変わらず金兵衛の話はこまかい。この達者《たっしゃ》な隠居に言わせると、新茶屋の林の方で調べて来た倒れ木は、落合堺《おちあいざかい》の峰から風道通《かざみちどお》りへかけて、松だけでも五百七十本の余に上る。杉、三十五、六本。大小の樅《もみ》、四十五本。栗、およそ六百本。これに大屋下の松十五本と、比丘尼寺《びくにでら》の松十五本と、青野原土手の十三本を加えると、都合総計およそ七百三十本ほどの大小の木が倒れたとのことだ。どんなすさまじい力で暴風が通り過ぎて行ったかは、この話を聞いただけでもわかる。
「まあ、ことしはわたしも七十になりますが、こんな大風は覚えもありません。そりゃ半蔵さんのお父《とっ》さんにお聞きになってもわかることです。まったく、前代未聞《ぜんだいみもん》です。」と言って、金兵衛は手にした杖《つえ》を持ち直して、「そう言えば、昨晩、万福寺の和尚《おしょう》さま(松雲のこと)も隠宅の方へお見舞いくださいました。そのおりに、墓地での倒れ木のお話も出ましてね、かねて、村方でも相談のあった位牌堂《いはいどう》の普請《ふしん》にあの材木を使いたいがどうかと言って、内々《ないない》わたしまでその御相談でした。それは至極《しごく》よろしい御量見です、そうわたしがお答えして置きましたよ。あの和尚さまは和尚さまらしいことを言われると思いましたっけ。」
「時に、半蔵さん、飯米のことはどうしたものでしょう。」と伊之助が言い出す。
「それです、妻籠の方で融通《ゆうずう》がつくかと思いましてね、今、今、そのことを寿平次さんにも頼んで見たところです。妻籠にも米がないとすると、山口はどうでしょう。」と半蔵は答える。
「山口もだめ。」と言うのは伊之助だ。「実はきのうのことですが、人をやって見ましたよ。あの村にも馬籠へ分けるほどの米はないらしい。やっぱりお断わりですさ。使いの者はむなしく帰って来ました。」
「悪い時には悪いなあ。」
 それを言って、寿平次はあたりを見回した。
 間もなく、寿平次は去り、金兵衛も上の伏見屋の方へ戻《もど》って行った。その時になって見ると、村方一同が米の買い入れ方を頼もうにも、宿々は凶作も同様で、他所への米の出入りは少しも叶《かな》わないとなった。馬籠の宿内でもみなみなそう持ち合わせはない。日ごろ米の売買にたずさわる金兵衛方ですら、その月かぎりの家族の飯米が三俵も不足すると言ってあわて出したくらいだ。普請好きな金兵衛は本家や隠宅に工事を始めていて、諸職人の出入りも多かったからで。
 こうなると、西に盆地の広くひらけた美濃方面より米を買い入れるよりほかに馬籠の宿場としてはさしあたり適当な道がない。中津川の商人、ことに万屋安兵衛《よろずややすべえ》方なぞへはそれを依頼する使者が毎日のように飛んだ。岩村に米があると聞いては、たとい高い値段を払っても、一時の急をしのがねばならない。そういう岩村米も売り上げて、十両につき三俵替えという値段だ。米一升、実に六百二十四文もした。
 毎日のように半蔵は背戸田《せとだ》へ見回りに出た。時には宿役人一同と出入りの百姓を引き連れて、暴風雨《あらし》のために荒らされた田方《たかた》の内見分《ないけんぶん》に出かけた。半蔵が父の吉左衛門とも違い、金兵衛の方は上の伏見屋の隠宅にじっとしていない。長く精力の続くこの隠居は七十歳になっても若い者の中に混じって、半蔵や養子伊之助らが歩いて行く方へ一緒に歩いた。そして朝早くから日暮れに近いころまでかかって、東寄りの峠村中の田、塩沢、岩田、それから大戸あたりの稲作を調べに回った。翌々日も半蔵らは背戸田からはじめて、野戸の下へ出、湫《くて》の尻中道《しりなかみち》から青の原へ回り、中新田、比丘尼寺《びくにでら》、杁《いり》、それから町田を見分した。その時も金兵衛は皆と一緒に歩き回った。どうかして稲を見直したいとは、一同のもののつないでいる望みであった。その年の収穫期を凶作に終わらせたくないと願わないものはなかったのである。
 また、また、西よりの谷間《たにあい》にある稲作はどうかと心にかかって、半蔵らは馬籠の町内から橋詰《はしづめ》、荒町の裏通りまで残らず見分に出かけた。中のかやから美濃境の新茶屋までも総見分を行なった。八月の半ば過ぎになると、稲穂もよほど見直したと言って、半蔵のところへ飛んで来るものもある。いかんせん、とかく村方の金子は払底で、美濃方面から輸入する当座の米は高い。難渋な小前《こまえ》の者はそのことを言いたて、宿役人へ願いの筋があるととなえて、村じゅうでの惣《そう》寄り合いを開始する。果ては、大工左官までが業を休み、町内じゅうの小前のものは阿弥陀堂《あみだどう》に詰めて、上納|御年貢米《おねんぐまい》軽減の嘆願を相談するなど、人気は日に日に穏やかでなくなって行った。
 金兵衛は半蔵を見るたびに言った。
「どうも、恐ろしい世の中になって来ました。掟年貢《おきてねんぐ》の斗《はか》り立てを勘弁してもらいましょう、そんなことを言って、わたしどもへ出入りの百姓が三人もそろって談判に見えましたよ。」
 そういう隠居は木曾谷での屈指な分限者《ぶげんしゃ》と言われることのために、あの桝田屋《ますだや》と自分の家とが特に小前の者から目をつけられるのは迷惑至極だという顔つきである。米不足から普請工事も見合わせ、福島の大工にも帰ってもらい、左官その他の職人に休んでもらったからと言って、そんなことまでとやかくと言い立てられるのは、なおなお迷惑至極だという顔つきである。
「金兵衛さん、」と半蔵は言った。「あなたのようにあり余るほど築き上げたかたが、こんな時に一肌《ひとはだ》脱がないのはうそです。」
「いえ、ですからね、あの兼吉《かねきち》に二俵、道之助に七斗、半四郎に五俵二斗――都合、三口合わせて三石七斗は容赦すると言っているんですよ。」
 金兵衛の挨拶《あいさつ》だ。
 半蔵はこの人の言うことばかりを聞いていられなかった。庄屋としての彼は、どんな骨折りでもして、小前の者を救わねばならないと考えた。この際、木曾福島からの見分奉行《けんぶんぶぎょう》の出張を求め、場合によっては尾州代官山村|甚兵衛《じんべえ》氏をわずらわし、木曾谷中の不作を名古屋へ訴え、すくなくも御年貢上納の半減をきき入れてもらいたいと考えた。
 あいにくな雨の日がまたやって来た。もうたくさんだと思う大雨が朝から降り出して、風の方角も北から西に変わった。本陣の奥座敷では床上《ゆかうえ》がもり、袋戸棚《ふくろとだな》へも雨が落ちた。半蔵は自分の家のことよりも村方を心配して、また町内を見回るために急いでしたくした。腰に結ぶ軽袗《かるさん》の紐《ひも》もそこそこに、寛《くつろ》ぎの間《ま》から囲炉裏ばたに出て下男の佐吉を呼んだ。
「オイ、蓑《みの》と笠《かさ》だ。」
 その足で半蔵は町田の向こうまで行って見た。雨にぬれた穂先は五、六分には見える。稲草《いなくさ》によっては八分通りの出来にすら見える。最初よりはよほど見直したという村の百姓たちの評判もまんざらうそでないと知った時は、思わず彼もホッとした。
 十四代将軍|家茂《いえもち》の薨去《こうきょ》が大坂表の方から伝えられたのは、村ではこの凶作で騒いでいる最中である。

       三

 馬籠の宿場の中央にある高札場《こうさつば》のところには物見高い村の人たちが集まった。何事かと足を停《と》める奥筋行きの商人もある。馬から降りて見る旅の客もある。人々は尾州藩の方から伝達された左の掲示の前に立った。
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「公方様《くぼうさま》、御不例御座遊ばされ候《そうろう》ところ、御養生かなわせられず、去る二十日|卯《う》の上刻、大坂表において薨御《こうぎょ》遊ばされ候。かねて仰せ出《い》だされ候通り、一橋中納言殿《ひとつばしちゅうなごんどの》御相続遊ばされ、去る二十日より上様《うえさま》と称し奉るべき旨《むね》、大坂表において仰せ出だされ候。」
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 日ごろこもりがちに暮らしている吉左衛門まで本陣の裏二階を出て、そこへ上の伏見屋から降りて来た老友金兵衛と共に、この掲示を読んだ。そして、二人《ふたり》ともしばらく高札場の付近を立ち去りかねていた。あだかも、享年わずかに二十一歳の若さで薨去《こうきょ》せられたという将軍を街道から遠く見送るかのように。その時はすでに鳴り物一切停止のことも触れ出された。前将軍が穏便《おんびん》の伝えられた時と同じように、この宿場では普請工事の類《たぐい》まで中止して謹慎の意を表することになった。
 九月を迎えて、かねて村民の待ち受けていた木曾福島からの秋作《あきさく》見分奉行の出張を見、木曾谷中御年貢上納の難渋を訴えるためにいずれは代官山村氏が尾州表への出府もあるべきよしの沙汰《さた》も伝えられ、小前《こまえ》のもの一同もやや穏やかになったころは、将軍薨去前後の事情が名古屋方面からも福島方面からも次第に馬籠の会所へ知れて来た。八月の二十日として喪を発表せられたのは、御跡目《おんあとめ》相続および御葬送儀式のために必要とせられたのであって、実際には七月の十九日に脚気衝心《かっけしょうしん》の病で薨去せられたという。それまでまだ将軍家は大坂に在城で征長の指揮に当たっていたことのように、喪は秘してあったともいう。小笠原《おがさわら》老中なぞがそこそこに戦地を去ったのも、そのためであることがわかって来た。して見ると半蔵が名古屋出府のはじめのころには、将軍はすでに重い病床にあった人だ。名古屋城のなんとなく取り込んでいたことも、その時になって彼にはいろいろと想《おも》い当たる。
 将軍家の薨去と聞いて、諸藩の兵は続々戦地を去りつつあった。兵事をとどむべきよしの勅諚《ちょくじょう》も下り、「何がな休戦の機会もあれかし」と待っていた幕府でも紀州公が総督辞任および長防|討手《うって》諸藩兵全部引き揚げの建言を喜び迎えたとの報知《しらせ》すら伝わって来た。大坂城にあった将軍の遺骸《いがい》は老中|稲葉美濃守《いなばみののかみ》らに守護され、順動丸で江戸へ送られたとも言わるる。それらの報知《しらせ》を胸にまとめて見て、半蔵はいずれこの木曾街道に帰東の諸団体が通行を迎える日のあるべきことを感知した。同時に、敗戦を経験して来るそれらの関東方がこの宿場に置いて行く混雑をも想像した。
 種々《さまざま》な流言が伝わって来た。家茂公の薨去は一橋慶喜が京都と薩長とに心を寄せて常に台慮《たいりょ》に反対したのがその病因であるのだから、慶喜はすなわち公が薨去を促した人であると言い、はなはだしいのになると慶喜に望みを寄せる者があって家茂公の病中に看護を怠り、その他界を早めたのだなぞと言うものがある。もっとはなはだしいのになると、家茂公は筆の中に仕込んだ毒でお隠れになったのだと言って、そんな臆測《おくそく》をさも本当の事のように言い触らすものもある。いや、大坂城にある幕府方は引っ込みがつかなくなった。不幸な家茂公はその犠牲になったのだと言って、およそ困難という困難に際会せられた公の生涯《しょうがい》と、その忍耐温良の徳と、長防親征中の心痛とを数えて見せるものもある。
「暗い、暗い。」
 半蔵はひとりそれを言って、到底大きな変革なしに越えられないような封建社会の空気の薄暗さを思い、もはや諸国の空に遠く近く聞きつける鶏の鳴き声のような王政復古の叫びにまで、その薄暗さを持って行って見た。


「武家の奉公もこれまでかと思います。」
 半蔵は会所の方で伊之助と一緒になった時、頼みに思う相手の顔をつくづくと見て、その述壊をした。庄屋風情《しょうやふぜい》の彼ですら、江戸幕府の命脈がいくばくもないことを感じて来た。彼はそれを尾州家の態度からも感じて来た。しかし、どんな崩壊が先の方に待っているにもせよ、彼は一日たりとも街道の世話を怠ることはできない。同時に、この困窮疲弊からも宿場を護《まも》らねばならない。
 その時になって見ると、馬籠の宿場そのものの維持も容易ではなくなって来た。彼は伊之助その他の宿役人とも相談の上、この際、一切をぶちまけて、領主たる尾州家に宿相続救助の願書を差し出そうと決心した。
「まあ、お辞儀をしてかかるよりほかにしかたがありません。では、宿相続のお救い願いはわたしが書きましょう。宿勘定の仕訳帳《しわけちょう》は伊之助さんに頼みますよ。先ごろ名古屋の方へ行った時に、わたしはこの話を持ち出して見ました。尾州藩の人が言うには、奉行所あてに願書を出すがいい、どうせ藩でも足りない、しかし足りないついでになんとかしようじゃないか――そう言ってくれましたよ。」
 いったいなら、こんな願書は江戸の道中奉行へ差し出すべきであった。それを尾州藩の方で引き取って、届くだけは世話しようと言うところにも、時の推し移りがあらわれていた。たといこれを江戸へ持ち出して見たところで、家茂公|薨去《こうきょ》後の混雑の際では採用されそうもない。やがて大坂から公儀衆が帰東の通行も追い追いと迫って来る。急げとばかり、半蔵は宿相続お救い願いの草稿を作りにかかった。
 草稿はできた。彼はそれを隣家の伏見屋へ持って行った。本陣の家から見れば一段と高い石垣《いしがき》の位置にある明るい静かな二階で、彼はそれを伊之助と二人《ふたり》で読んで見た。
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  宿相続お救い願い
    恐れながら書付をもって嘆願奉り候《そうろう》御事
「宿方《しゅくがた》の儀は、当街道筋まれなる小宿にて、お定めの人足二十五人役の儀も隣郷山口湯舟沢両村より相勤め候ほどの宿柄《しゅくがら》、外宿同様お継立《つぎた》てそのほか往還御役相勤め候儀につき、自然困窮に罷《まか》りなり、就中《なかんずく》去る天保《てんぽう》四|巳年《みどし》、同七|申年《さるどし》再度の凶年にて死亡離散等の数多くこれあり、宿役相勤めがたきありさまに罷《まか》りなり候えども、従来浅からざる御縁故をもって種々御尽力を仰ぎ、おかげにていかようにも宿相続|仕《つかまつ》り来たり候ところ、元来|嶮岨《けんそ》の瘠《や》せ地《ち》、山間わずかの田畑にて、宿内食料は近隣より買い入れ、塩、綿、油等は申すに及ばず、薪炭《まきすみ》等に至るまで残らず他村より買い入れ取り用い候儀につき、至って助成薄く、毎年借財相かさみ、難渋罷りあり候。
――往還御役の儀、役人どもはじめ、御伝馬役、歩行役、七里役相勤め、嶮岨の丁場《ちょうば》日々折り返し艱難《かんなん》辛勤仕り、冬春の雪道、凍り道等の節は、荷物|仕分《しわけ》に候わでは持ち堪《こた》えがたく、病み馬痩せ馬等も多くでき、余儀なく仕替馬《しかえうま》つかまつり候わでは相勤めがたく、右につき年々お救い米《まい》ならびに増しお救い金等下しおかれ、おかげをもって引き続き相勤め来たり候えども、近年馬買い入れ値段格外に引き揚げ、仕替馬買い入れの儀も少金にては行き届かず、かつまた、嶮岨の往還|沓草鞋《くつわらじ》等も多く踏み破り候ことゆえ、お定め賃銭のみにてはなにぶん引き足り申さず、隣宿より帰り荷物等にて雇い銭取り候儀も、下地馬《したじうま》の飼い立て不行き届きにつき、重荷は持ち堪《こた》えがたく、眼前の利益に離れ候次第、難渋言語に絶し候儀に御座候。
――農作の儀、扣《ひか》え地内《ちない》狭少につき、近隣村々へ年々運上金差し出し、草場借り受け、あるいは一里二里にも及ぶ遠方馬足も相立たざる嶮岨へ罷り越し、笹《ささ》刈り、背負い、持ち運び等仕り、ようやく田地を養い候ほどの為体《ていたらく》、お百姓どもも近村に引き比べては一層の艱苦《かんく》仕り候儀に御座候……」
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 読みかけて半蔵は深いため息をついた。
「伊之助さん、わたしは吾家《うち》の阿爺《おやじ》から本陣問屋庄屋の三役を譲られた時、そう思いました。よくあの阿爺たちはこんなめんどうな仕事をやって来たものだと。わたしの代になって、かえって宿方の借財をふやしてしまったようなものです。これがあの阿爺でしたら、もっとよくやれたかもしれません。わたしは実にこんな経済の下手《へた》な男です。」
 その願書の中には、安政五年異国交易御免以来の諸物価が格外に騰貴したことから、同年の冬十一月、および万延元年十月の両度に村の火災のあったことも言ってある。文久元年の和宮様の御下向、同三年の尾州藩主|上洛《じょうらく》に引き続いて、諸藩の家族方が帰国、犬千代公ならびに家中衆の入国、十四代将軍が京都より還御のおりの諸役人らの通行、のみならず尾張大納言が参府と帰国等、前代未聞の大通行が数え切れない上に、昨年日光御神忌に際しては公家衆と警衛諸役人らの通行が数日にわたって、ついには助郷《すけごう》村々も疲弊を申し立て、一人一匹の人馬も差し出さないことがあり、そのたびごとに宿役人どもはじめ御伝馬役、小前のものの末に至るまで一方《ひとかた》ならぬ辛《つら》き勤めは筆紙に尽くしがたいことも言ってある。それらの事情から人馬の雇い金はおびただしく、ゆくゆく宿相続もおぼつかないところから、木曾十一宿では定助郷設置の嘆願を申し合わせ、幾たびか宿役人らの江戸出府となったが、今だにその御理解もなく、もはや十六、七年も右の一条でかわるがわるの嘆願に出府せしため雑費はかさむばかりであったことも言ってある。ついては、去る安政三年に金三百両の頼母子講《たのもしこう》を取り立て、その以前にも百両講を取り立て、それらの方法で宿方借財返済の途《みち》を立てて来たが、近年は人馬雇い金、並びに借入金利払い、その他、宿入用が莫大《ばくだい》にかかって、しかも入金の分は先年より格別増したわけでもないから、ますます困窮に迫って必至難渋の状態にあることにも言い及んである。
 半蔵はさらに読み続けた。
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「――前条難渋の宿柄、実《じつ》もって嘆かわしき次第にこれあり候《そうろう》。右につき、高割《たかわり》取り集め候儀も、先年よりは多く相増し候えども、お救い拝借等年延べ願い上げ奉り候ほどのことゆえ、この上相増し候儀は行き届かず、もはや頼母子講取り立て候儀も相成りがたく、組合宿々の儀も人馬雇い立てその他多端の費用にて借財相かさみ、助力は相頼みがたき場合、いかにして宿相続|仕《つかまつ》るべきかと一同当惑悲嘆いたし候。
――この上は、前条のおもむき深く御憐察《ごれんさつ》下し置かれ、御時節柄恐れ多きお願いには候えども、御金二千両拝借仰せ付けられたく、御返上の儀も当|寅年《とらどし》より向こう二十か年賦済みにお救い拝借仰せ付けられ候わば、一同ありがたき仕合わせに存じ奉り候。以上。」
 慶応二年|寅《とら》九月[#地から7字上げ]馬籠宿
[#地から2字上げ]庄屋問屋
    御奉行所
[#ここで字下げ終わり]
 半蔵と伊之助の二人《ふたり》はこの願書について互いの意見をとりかわした。伊之助には養父金兵衛の鋭さはないが、そのかわり綿密で慎み深く、半蔵にとってのよい相談相手である。その時、伊之助は宿勘定仕訳帳を取り出して、それを半蔵の前にひろげて見せた。包み隠しない宿方やり繰りの全景がそこにある。宿方の入金としては、年内人馬賃銭の内より宿助成としての刎銭《はねせん》何ほどということから、お年貢《ねんぐ》の高割《たかわり》として取り集めの分何ほど、ずっと以前に木曾谷中に許された刎銭積み金の利息より手助け村および御伝馬その他への割り渡しを差し引きたる残り何ほど、木曾谷には古い歴史のある御切り替え手形|頂戴金《ちょうだいきん》のうち御伝馬その他の諸役への割り渡しを差し引きたる残り何ほどとそこに記《しる》してある。支払いの分としては、御用御通行そのほか込み合いの節の人馬雇い銭、御用の諸家休泊年内|旅籠《はたご》の不足銭、問屋場の帳付けと馬指《うまさし》および人足指《にんそくざし》と定使《じょうづか》いらへの給料、宿駕籠《しゅくかご》の買い入れ代、助郷人馬への配当、高札場ならびに道路の修繕費、それに問屋場の維持に要する諸雑費というふうに。七か年を平均した帳尻《ちょうじり》を見ると、入金二百三十六両三分、銭六貫三百八十一文。支払い金四百十一両三分、銭九貫六百三十三文。この差し引き、金百七十五両銭三貫二百四十二文が不足になっている。この不足が年々積もって行く上に、それを補って来た万延安政年代以来からの宿方の借財が十六口にも上って、利息だけでも年々二百四十四両一分二朱ほど払わねばならない。これはお役所からも神明講永代講の積み金からも、中津川の商人からも、あるいは岩村の御用達《ごようたし》からも借り入れたもので、その中には馬籠の桝田屋《ますだや》の主人や上の伏見屋の金兵衛が立て替えたものもある。このまま仕法立《しほうだ》てをせずに置いたら宿方は滅亡に及ぶかもしれない。なんとか奉行所の評議をもって宿相続をなしうるよう救ってもらいたいというのが、その帳面の内容であった。
 馬籠は小駅ながらともかくも木曾街道筋のことで金が動く。この宿場の困難な時を切り抜けるも、切り抜けないも、宿役人らの肩にかかっていた。おそらく父吉左衛門でも容易でない。まして半蔵だ。彼は伊之助と顔を見合わせて、つくづく自分の無能を羞《は》じた。


 大風の被害、木曾谷中の不作、前代未聞の米高《こめだか》、宿相続の困難、それらの心配を持ち越して、やがて馬籠の宿では十月を迎えるようになった。
 そろそろ峠の上へは冷たい雨もやって来る。その秋深い空気の中で、大坂を出立する幕府方の諸団体が木曾街道筋を下って帰途につくとの前触れも伝わって来る。その日取りは、十月の十三日から二十五日まで、およそ十三日間の大通行ということもほぼ明らかになった。
 半蔵の手伝いとして本陣へ通《かよ》って来る清助は彼のそばへ寄って言った。
「半蔵さま、宿割は。」
「今度の御通行かい。たぶん、三留野《みどの》のお泊まりで、馬籠はお昼休みになるでしょう。」
「また街道はごたごたしますね。」
 この清助ばかりでなく、十三日間の通行と聞いては問屋場に働く栄吉まで目を円《まる》くした。
 間もなく、木曾福島からの役人衆も出張して来て、諸団体休泊の割当ても始まった。本陣としての半蔵の家は言うまでもなく、隣家の伊之助方も休泊所に当てられ、金兵衛の隠宅までが福島役人衆の宿を命ぜられた。こういう中で、助郷、その他のことを案じながら、よく半蔵を見に来るのは伊之助だ。
 伊之助は思い出したように言った。
「でも、どんなものでしょうなあ、戦《いくさ》に敗《ま》けて帰って来るというやつは。」
 こんなふうで半蔵らは大坂から出立して来る公儀衆をこの街道に待ち受けた。
 はたしてさびしい幕府方の総退却だ。その月の十五日には、予定の日取りよりややおくれて、西から下向《げこう》の団体が続々と宿場に繰り込んで来た。十七日となると、人馬の継立《つぎた》てが取り込んで、宿役人仲間の心づかいも一通りでない。日によっては隣村山口、湯舟沢からの人足も不参で、馬籠の宿場では草刈りの女馬まで狩り出し、それを荷送りの役に当てた。木曾福島から出張している役人衆の中には、宿の方の混雑を心配して、夜中に馬籠から発《た》つものもある。
 この大通行は二十三日までも続いた。まだそれでもあとからあとからと繰り込んで来る隊伍《たいご》がある。この馬籠峠の上まで来て昼食の時を送って行く武家衆はほとんど戦争の話をしない。戦地の方のことも語らない。ただ、もう一度江戸を見うる日のことばかりを語り合って行った。
 ある朝、半蔵は会所の前にいた。そこへ宿方の用談をもって妻籠《つまご》の寿平次が彼を訪《たず》ねて来た。
「寿平次さん、まあおはいりなさるさ。こんなところに立っていては話もできない。役人衆もくたぶれたと見えて、きょうはまだだれも出て来ません。」
 そう言って半蔵は会所の店座敷へ寿平次を誘い入れた。二人《ふたり》の話は互いの激しい疲労をねぎらうことから、毎日のように目の前を通り過ぎた諸団体のことに落ちて行った。
 半蔵は言った。
「あの水戸浪士が通った時から見ると、隔世の感がありますね。もうあんな鎧兜《よろいかぶと》や黒い竪烏帽子《たてえぼし》は見られませんね。」
「一切の変わる時がやって来たんでしょう。」と寿平次もそれを受けて、「――武器でも武人の服装でも。」
「まあ、長州征伐がそれを早めたとも言えましょうね。」
「しかし、半蔵さん、征討軍の鉄砲や大筒《おおづつ》は古風で役に立たなかったそうですね。なんでも、長防の連中は農兵までが残らず西洋の新式な兵器で、寄せ手のものはポンポン撃たれてしまったと言うじゃありませんか。あのミニエール銃というやつは、あれはイギリスが長州に供給したんだそうですね。国情に疑惑があらばいくらでも尋問してもらおう、直接に外国から兵器を供給された覚えはないなんて、そんなに長防の連中が大きく出たところで、後方《うしろ》に薩摩《さつま》やイギリスがついていて、どんどんそれを送ったら、同じ事でさ。そこですよ。君。諸藩に率先して異国を排斥したのはだれだくらいは半蔵さんだっても覚えがありましょう。あれほど大きな声で攘夷《じょうい》を唱えた人たちが、手の裏をかえすように説を変えてもいいものでしょうかね。そんなら今までの攘夷は何のためです。」
「へえ、きょうは君はいろいろなことを考えて、妻籠からやって来たんですね。」
「まあ見たまえ。破約攘夷の声が盛んに起こって来たかと思うと、たちまち航海遠略の説を捨てる。条約の勅許が出たかと思うと、たちまち外国に結びつく。まったく、西の方の人たちが機会をとらえるのの早いには驚く。あれも一時《いっとき》、これも一時《いっとき》と言ってしまえば、まあそれまでだが、正直なものはまごついてしまいますよ。そりゃ、幕府だってもフランスの力を借りようとしてるなんて、もっぱらそんな風評がありますさ。イギリスはこの国の四分五裂するのを待ってるが、フランスにかぎって決してそんなことはないなんて、フランスはまたフランスでなかなかうまい言《こと》を幕府の役人に持ち込んでるといううわさもありますさ。しかし、幕府が外国の力によって外藩を圧迫しようとするなぞ実にけしからんと言う人はあっても、薩長が外国の力によって幕府を破ったのは、だれも不思議だと言うものもない。」
「そんな、君のような――わたしにくってかかってもしようがない。」
 これには寿平次も笑い出した。その時、半蔵は言葉を継いで、
「いくら防長の連中だって、この国の分裂を賭《と》してまでイギリスに頼ろうとは言いますまい。高杉晋作《たかすぎしんさく》なんて評判な人物が舞台に上って来たじゃありませんか。下手《へた》なことをすれば、外国に乗ぜられるぐらいは、知りぬいていましょう。」
「それもそうですね。まあ、長州の人たちの身になったら、こんな非常時に非常な手段を要するとでも言うんでしょうか。イギリスからの武器の供給は大事の前の小事ぐらいに考えるんでしょうか。わたしたちはお互いに庄屋ですからね。下から見上げればこそ、こんな議論が出るんですよ。」
「とにかく、寿平次さん――西洋ははいり込んで来ましたね。考うべき時勢ですね。」


 寿平次が宿方の用談を済ましてそこそこに妻籠の方へ帰って行った後、半蔵は会所から本陣の表玄関へ回って、広い板の間をあちこちと歩いて見た。当宿お昼休みで十三日間もかかった大通行の混雑が静まって見ると、総引き揚げに引き揚げて行った幕府方のあわただしさがその後に残った。
 そこへお民がちょっと顔を見せて、
「あなた、妻籠の兄さんと何を話していらしったんですか。子供は会所の方へのぞきに行って、あなたがたがけんかでもしてるのかと思って、目を円《まる》くして帰って来ましたよ。」
「なあに、そんな話じゃあるものか。きょうは寿平次さんにしてはめずらしい話が出た。あの人でもあんなに興奮することがあるかと思ったさ。」
「そんなに。」
「なあに、お前、けんかでもなんでもないさ。寿平次さんの話は、だれをとがめたのでもないのさ。あんまり世の中の変わり方が激しいもんだから、あの人はそれを疑っているのさ。」
「なんでも疑って見なけりゃ兄さんは承知しませんからね。」
「ごらんな、こう乱脈な時になって来ると、いろいろな人が飛び出すよ。世をはかなむ人もあるし、発狂する人もある。上州高崎在の風雅人で、木曾路の秋を見納めにして、この宿場まで来て首をくくった人もあるよ。」
「そんなことを言われると心細い。」
「まあ、賢明で迷っているよりかも、愚直でまっすぐに進むんだね。」
 半蔵の寝言《ねごと》だ。
 東照宮二百五十年忌を機会として大いに回天の翼を張ろうとした武家の夢もむなしい。金扇の馬印《うまじるし》を高くかかげて出発して来た江戸の方には、家茂公《いえもちこう》を失った後の上下のものが袖《そで》に絞る涙と、ことに江戸城奥向きでの尽きない悲嘆とが、帰東の公儀衆を待っていた。のみならず、あの大きな都会には将軍進発の当時にもまさる窮民の動揺があって、飢えに迫った老幼男女が群れをなし、その町々の名を記《しる》した紙の幟《のぼり》を押し立て、富有な町人などの店先に来て大道にひざまずき、米価はもちろん諸品|高直《たかね》で露命をつなぎがたいと言って、助力を求めるその形容は目も当てられないものがあるとさえ言わるる。富めるものは米一斗、あるいは五升、ないし一俵二俵と施し、その他雑穀、芋《いも》、味噌《みそ》、醤油《しょうゆ》を与えると、それらの窮民らは得るに従って雑炊《ぞうすい》となし、所々の鎮守《ちんじゅ》の社《やしろ》の空地《あきち》などに屯集《とんしゅう》して野宿するさまは物すごいとさえ言わるる。紀州はじめ諸藩士の家禄《かろく》は削減せられ、国札《こくさつ》の流用はくふうせられ、当百銭(天保銭)の鋳造許可を請う藩が続出して、贋造《がんぞう》の貨幣までがあらわれるほどの衰えた世となった。
 革命は近い。その考えが半蔵を休ませなかった。幕府は無力を暴露し、諸藩が勢力の割拠はさながら戦国を見るような時代を顕出した。この際微力な庄屋としてなしうることは、建白に、進言に、最も手近なところにある藩論の勤王化に尽力するよりほかになかった。一方に会津、一方に長州薩摩というような東西両勢力の相対抗する中にあって、中国の大藩としての尾州の向背《こうはい》は半蔵らが凝視の的《まと》となっている。そこには玄同様付きの藩士と、犬千代様付きの藩士とある。藩論は佐幕と勤王の両途にさまよっている。たとい京都までは行かないまでも、最も手近な尾州藩に地方有志の声を進めるだけの狭い扉《とびら》は半蔵らの前に開かれていた。彼は景蔵や香蔵と力をあわせ、南信東濃地方にある人たちとも連絡をとって、そちらの方に手を尽くそうとした。

       四

 慶応三年の三月は平田|篤胤《あつたね》没後の門人らにとって記念すべき季節であった。かねて伊那《いな》の谷の方に計画のあった新しい神社も、いよいよ創立の時期を迎えたからで。その月の二十一日には社殿が完成し、一切の工事を終わったからで。荷田春満《かだのあずままろ》、賀茂真淵《かものまぶち》、本居宣長《もとおりのりなが》、平田篤胤、それらの国学四大人の御霊代《みたましろ》を安置する空前の勧請遷宮式《かんじょうせんぐうしき》が山吹村の条山《じょうざん》で行なわれることになって、すでにその日取りまで定まったからで。
 このめずらしい条山神社の実際の発起者たる平田門人|山吹春一《やまぶきしゅんいち》は、不幸にも社殿の完成を見ないで前の年の九月に亡《な》くなった。それらの事情はこの事業に一頓挫《いちとんざ》を来たしたが、春一の嗣子左太郎と別家|片桐衛門《かたぎりえもん》とが同門の人たちの援助を得て、これを継続完成した。山吹社中が奔走尽力の結果、四大人の遺族から贈られたという御霊代は得がたい遺品ばかりである。松坂の本居家からは銅製の鈴。浜松の賀茂家からは四寸九分無銘|白鞘《しらさや》の短刀。荷田家からは黄銅製の円鏡。それに平田家からは水晶の玉、紫の糸で輪につないだ古い瑠璃玉《るりだま》。まだこのほかに、山吹社中の懇望によって鉄胤から特に贈られたという先師篤胤が遺愛の陽石。
 この報告が馬籠へ届くたびに、半蔵はそれを親たちにも話し妻にも話し聞かせて、月の二十四日と定まった遷宮式には何をおいても参列したいと願っていた。よい事には魔が多い。その二日ほど前あたりから彼は腹具合を悪くして、わざわざ中津川の景蔵と香蔵とが誘いに寄ってくれた日には、寝床の中にいた。
「半蔵さんは出かけられませんかね。」
「そいつは残念だなあ。この正月あたりから一緒に行くお約束で、わたしたちも楽しみにして待っていましたのに。」
 この二人の友人が伊那の山吹村をさして発《た》って行く姿をも、半蔵は寝衣《ねまき》の上に平常着《ふだんぎ》を引き掛けたままで見送った。
 ちょうど、その年の三月は諒闇《りょうあん》の春をも迎えた。友人らの発《た》って行った後、半蔵は店座敷に戻《もど》って東南向きの障子をあけて見た。山家も花のさかりではあるが、年が年だけにあたりは寂しい。彼は庭先にふくらんで来ている牡丹《ぼたん》の蕾《つぼみ》に目をやりながら、この街道に穏便《おんびん》のお触れの回ったのは正月十日のことであったが、実は主上の崩御《ほうぎょ》は前の年の十二月二十九日であったということを胸に浮かべた。十二月の初めから御不予の御沙汰《ごさた》があり、中旬になって御疱瘡《ごほうそう》と定まって、万民が平和の父と仰ぎ奉った帝《みかど》その人は実に艱難《かんなん》の多い三十七歳の御生涯《ごしょうがい》を終わった。
 一方には王政復古を急いで国家の革新を改行しようとする岩倉公以下の人たちがあり、一方には天皇の密勅を奏請して大事を挙《あ》げようとする会津藩主以下の人たちがある。飽くまで公武一和を念とする帝はそのために御病勢を募らせられたとさえ伝えるものがある。雲の上のことは半蔵なぞの想像も及ばない。もちろん、この片田舎《かたいなか》の草叢《くさむら》の中にまで風の便《たよ》りに伝わって来るような流言にろくなことはない。しかし彼はそういう社会の空気を悲しんだ。おそらくこの世をはかなむものは、上御一人《かみごいちにん》ですら意のごとくならない時代の難《かた》さを考えて、聞くまじきおうわさを聞いたように思ったら、一層|厭離《おんり》の心を深くするであろう、と彼には思われた。
 枕《まくら》もとには本居宣長の遺著『直毘《なおび》の霊《みたま》』が置いてある。彼はそれを開いた。以前には彼はよくそう考えた、勤王の味方に立とうと思うほどのものは、武家の修養からはいった人たちでも、先師らのあとを追うものでも、互いに執る道こそ異なれ、同じ復古を志していると。種々《さまざま》な流言の伝わって来る主上の崩御《ほうぎょ》に際会して見ると、もはやそんな生《なま》やさしいことで救われる時とは見えなかった。その心から、彼は本居大人の遺著を繰り返して見て、日ごろたましいの支柱と頼む翁の前に自分を持って行った。


 宣長の言葉にいわく、
「古《いにしえ》の大御世《おおみよ》には、道といふ言挙《ことあ》げもさらになかりき。」
 また、いわく、
「物のことわりあるべきすべ、万《よろず》の教《おしえ》ごとをしも、何の道くれの道といふことは、異国《あだしくに》の沙汰《さた》なり。異国は、天照大御神《あまてらすおおみかみ》の御国にあらざるが故《ゆえ》に、定まれる主《きみ》なくして、狭蝿《さばえ》なす神ところを得て、あらぶるによりて、人心《ひとごころ》あしく、ならはしみだりがはしくして、国をし取りつれば、賤《いや》しき奴《やっこ》も忽《たちま》ちに君ともなれば、上《かみ》とある人は下《しも》なる人に奪はれまじと構へ、下なるは上のひまを窺《うかが》ひて奪はむと謀《はか》りて、かたみに仇《あだ》みつゝ、古《いにしえ》より国治まりがたくなも有りける。そが中に、威力《いきおい》あり智《さと》り深くて、人をなつけ、人の国を奪ひ取りて、又人に奪はるまじき事量《ことはかり》をよくして、しばし国をよく治めて、後の法《のり》ともなしたる人を唐土《もろこし》には聖人とぞ言ふなる。そも/\人の国を奪ひ取らむと謀るには、よろづに心を砕き、身を苦しめつゝ、善《よ》きことの限りをして、諸人《もろびと》をなつけたる故に、聖人はまことに善き人めきて聞《きこ》え、又そのつくり置きたる道のさまもうるはしくよろずに足《た》らひて、めでたくは見ゆれども、まづ己《おのれ》からその道に背《そむ》きて、君をほろぼし、国を奪へるものにしあれば、みな虚偽《いつわり》にて、まことはよき人にあらず、いとも/\悪《あ》しき人なりけり。もとよりしか穢悪《きたな》き心もて作りて、人を欺く道なるけにや、後の人の表《うわ》べこそ尊み従ひがほにもてなすめれど、まことには一人も守りつとむる人なければ、国の助けとなることもなく、その名のみひろごりて、遂《つい》に世に行《おこな》はるることなくて、聖人の道はたゞいたづらに、人をそしる世々の儒者《ずさ》どもの、さへづりぐさとぞなれりける。」
 多くの覇業《はぎょう》の虚偽、国家の争奪、権謀と術数と巧知、制度と道徳の仮面なぞが、この『直毘《なおび》の霊《みたま》』に笑ってある。北条《ほうじょう》、足利《あしかが》をはじめ、織田《おだ》、豊臣《とよとみ》、徳川なぞの武門のことはあからさまに書かれてないまでも、すこし注意してこれを読むほどの人で、この国の過去に想《おも》いいたらないものはなかろう。『直毘の霊』の中にはまた、中世以来の政治、天《あめ》の下《した》の御制度が漢意《からごころ》の移ったもので、この国の青人草《あおひとぐさ》の心までもその意《こころ》に移ったと嘆き悲しんである。「天皇尊《すめらみこと》の大御心《おおみこころ》を心とせずして、己々《おのおの》がさかしらごゝろを心とする」のは、すなわち、異国《あだしくに》から学んだものだと言ってある。武家時代以前へ――もっとくわしく言えば、楠《くすのき》氏と足利氏との対立さえなかった武家以前への暗示がここに与えてある。御世《みよ》御世の天皇の御政《おんまつりごと》はやがて神の御政であった、そこにはおのずからな神の道があったと教えてある。神の道とは、道という言挙《ことあ》げさえもさらになかった自然《おのずから》だ、とも教えてある。
 この自然に帰れ、というふうに、あとから歩いて行くものに全く新しい方向をさし示したのが本居大人の『直毘の霊』だ。このよろこびを知れ、というふうに言葉の探求からはいった古代の発見をくわしく報告したものが、翁の三十余年を費やした『古事記伝』だ。直毘《なおび》(直び)とはおのずからな働きを示した古い言葉で、その力はよく直くし、よく健やかにし、よく破り、よく改めるをいう。国学者の身震いはそこから生まれて来ている。翁の言う復古は更生であり、革新である。天明寛政の年代に、早く夜明けを告げに生まれて来たような翁のさし示して見せたものこそ、まことの革命への道である。
 その考えに力を得て、半蔵は寝床の上にすわったまま、膝《ひざ》の上に手を置きながら自分で自分に言って見た。
「寿平次さんの言い草ではないが、われわれは下から見上げればこそ、こんなことを考えるのだ。」


 遷宮式のあるという当日には、半蔵は午後から店座敷に敷いてあった寝床を畳んだ。下痢も止まったばかりで、彼はまだ青ざめた顔をしていたが、それでもお民に手伝わせて部屋《へや》の内を掃き、袋戸棚《ふくろとだな》に続いている床の間を片づけた。
 遙拝《ようはい》のしるしばかりに国学四大人の霊号を書きつけたものが、やがてその床の間に飾られた。荷田宿禰羽倉大人《かだのすくねはくらのうし》。賀茂県主岡部大人《かものあがたぬしおかべのうし》。秋津彦瑞桜根大人《あきつひこみずさくらねのうし》。神霊能真柱大人《たまのみはしらのうし》。あだかもそれらの四人の大先輩はうちそろってこの辺鄙《へんぴ》な山家へ訪れて来たかのように。そして、半蔵夫婦が供える神酒《みき》や洗米《せんまい》なぞを喜び受けるかのように。
 こういう時になくてならないのは清助の手だ。手先のきく清助は半蔵よりずっと器用に、冬菜《ふゆな》、鶯菜《うぐいすな》、牛蒡《ごぼう》、人参《にんじん》などの野菜を色どりよく取り合わせ、干し柿《がき》の類をも添え、台の上に載せて、その床の間を楽しくした。
 半蔵夫婦が子供も大きくなった。姉のお粂《くめ》は十二歳、弟の宗太は十歳にもなる。この姉弟《きょうだい》の子供はまた、おまんに連れられて、隣家の伏見屋から贈られた大きな九年母《くねんぼ》と林檎《りんご》の花をそこへ持って来た。伊之助も遷宮式のあることを聞いて、霊前に供えるようにと言って、わざわざみごとな九年母などを本陣へ寄せたのだ。
 思いがけない祭りの日でも来たように子供らは大騒ぎした。おまんはかわいいさかりの年ごろになって来た孫娘が部屋から走り出て行く姿を見送りながら、
「でも、お民、早いものじゃないか。宗太の方はまだそれほどでもないが、お粂はもうおとなの話なぞに気をつけきっているよ。耳を澄まして、じっとみんなの言うことを聞いてるよ。」
「ほんとに、あの娘《こ》のいるところじゃ、うっかりしたことは話せなくなりました。」
 とお民も笑った。
 その日の式は山吹村の方で夜の丑《うし》の刻《こく》に行なわれるという。伊那の谷から中津川辺へかけてのおもな平田門人のほとんど全部、それにまだ入門しないまでも篤胤の信仰者として聞こえた熱心な人たちが古式の祭典に参列するという。半蔵は自分一人その仲間にもれたことを思い、袴《はかま》をつけたままの改まった心持ちで、山吹村|追分《おいわけ》の御仮屋《おかりや》から条山神社の本殿に遷《うつ》さるるという四大人の御霊代《みたましろ》を想像し、それらをささげて行く人のだれとだれとであるべきかを想像した。
 その年は前年凶作のあとをうけ、かつは諒闇《りょうあん》のことでもあり、宿内倹約を申し合わせて、正月定例の家祈祷《いえきとう》にすら本陣では家内限りで蕎麦《そば》切りを祝ったくらいである。そんな中で遷宮式の日を迎えた半蔵は、清助と栄吉を店座敷に集めて、焼※[#「魚+場のつくり」、274-16]《やきするめ》ぐらいを肴《さかな》に、しるしばかりの神酒《みき》を振る舞った。床の間に燈明のつくころには、伊之助も顔を見せたので、半蔵はこの隣人を相手に、互いに霊前で歌なぞをよみかわした。いつのまにか伊之助は半蔵の歌の友だちになって、年寄役としての街道の世話、家業の造酒なぞの余暇に、半蔵を感心させるほど素直な歌を作るような人である。
 夜はふけた。伊之助も帰って行った。そろそろ山吹村の方では行列が動きはじめたかとうわさの出るころには、なんとなくおごそかな思いが半蔵の胸に満ちて来た。彼はその深夜に動いて行く松明《たいまつ》の輝きを想像し、榊《さかき》、籏《はた》なぞを想像し、幣帛《ぬさ》、弓、鉾《ほこ》なぞを想像し、その想像を同門の人たちのささげて行く四大人の御霊代にまで持って行った。彼はまた、その行列の中に加わっている先輩の暮田正香《くれたまさか》や、友人の景蔵や香蔵の姿を想像でありありと見ることができた。お民もその夜は眠らない。彼女は夫と共に起きていて、かわるがわる店座敷の戸をあけては東南の方の空を望みに行った。旧暦三月末のことで、暗い戸の外には花も匂《にお》った。


 同門、および準同門の人たちを合わせると、百六十人の篤胤の弟子《でし》たちが式に参列したという話を持って、景蔵や香蔵が大平峠《おおだいらとうげ》を越して馬籠まで帰って来たのは、それから二日ほど過ぎてのことである。
「青山君、いよいよわたしも青天白日の身となりましたよ。」
 と言って、伊那から景蔵らと同行して来た暮田正香もある。そういう正香は諒闇の年を迎えると共に大赦《たいしゃ》にあって、多年世を忍んでいた流浪《るろう》の境涯《きょうがい》を脱し、もう一度京都へとこころざす旅立ちの途中にある。
 二人の友人ばかりでなく、この先輩までも家に迎え入れて、半蔵は西向きに眺望《ちょうぼう》のある仲の間の障子を明けひろげた。その部屋に客の席をつくった。何よりもまず彼は条山神社での祭典当日のことを聞きたかった。
「いや、万事首尾よく済みました。」と景蔵が言った。「式のあとでは、剣《つるぎ》の舞《まい》もあり、鎮魂《たましずめ》の雅楽もありました。何にしろ君、伊那の谷としてはめずらしい祭典でしょう。行って見ると、京都の五条家からは奉納の翠簾《すいれん》が来てる、平田家からは蔵版書物の板木《はんぎ》を馬に幾|駄《だ》というほど寄贈して来てるというにぎやかさサ。どうして半蔵さんは見えないかッて、伊那の衆はみんな残念がっていましたよ。」
「せめて、あの晩の行列だけは半蔵さんに見せたかった。」と香蔵も言って見せる。「松尾さんのお母《っか》さん(多勢子《たせこ》)も京都からわざわざ出かけて来ていましたし、まだそのほかに参列した婦人が三、四人はありました。あの婦人たちがいずれも短刀を帯の間にはさんで、御霊代のお供をしたのは人目をひきましたよ。」
 その時、正香は条山神社の方からさげて来た神酒《みき》の小樽《こだる》と干菓子《ひがし》一折りとをそこへ取り出した。
「さあ、これだ。」
 と言って、祭典のおりに供えた記念の品を半蔵にも分けた。
「や、これはよいものをくださる。吾家《うち》の阿爺《おやじ》もさぞ喜びましょう。」
 半蔵は手を鳴らしてお民を呼んだ。そこへ来て客をもてなすお民を見ると、正香はすこし改まった顔つきで、
「奥さんには御挨拶《ごあいさつ》をしたぎりで、まだお礼も申しませんでした。いつぞやは、お宅の土蔵の中へ隠していただいた暮田です。」
 聞いているものは皆笑い出した。
 平田家から条山神社へ寄進のあったという篤胤遺愛の陽石の話になると、一座の中には笑い声が絶えない。陽石――男性の象徴――あれを自分の御霊代《みたましろ》として残し伝えたいとは、先師の生前に考えて置いたことであると言わるるが、平田家ではみだりに他へもらすべき事でないとして、ごく秘密にしていた。いつのまにかそれが世間へ伝聞して、好事《こうず》の者はわけもなしにおもしろがり、高い風評の種となっているところへ、今度条山神社を建てるについてはぜひにとの山吹社中の懇望だったのである。平田家では非常に迷惑がったともいう。天朝かまたは堂上方の内より御所望のあるために山吹の方へ譲らないなぞとは、とんでもない人の言い草で、決してそんなことのあるべきはずがなく、たとい右のようなお召状があっても差し出すべき品ではないと言って断わったという。ところが、山吹社中の方では、印度蔵志《いんどぞうし》の記事まで考証してある先師の遺品だと聞き込んで、懇望してやまない。それほどのお望みとあれば、ということになって、平田家から送られて来たのが御霊代の大陽石だ。それにはいろいろな条件が付いていた。風紀上いかがわしい品であるから、衆人の容易にうかがい見ないようなところにしたい、これを置く場所はいかように小さく粗末でも苦しくない、板宮《いたみや》かまたは厨子《ずし》のような物でもいい、とにかく御同殿の物のない一座ぎりのところで、本殿の後ろの社外に空地《あきち》もあろうから、そんな玉垣《たまがき》の内にでも安置してもらいたい。好事《こうず》の者が盗み取ることもないとは限るまいから堅く鎖を設けてもらいたい、とあったという。
「しかし、平田先生も思い切った物をのこしたものさね。」とだれかがくすくすやる。
「そこがあの本居先生と違うところさ。本居先生の方には男女《おとこおんな》の恋とかさ、物のあわれとかいうことが深く説いてある。そこへ行くと、平田先生はもっと露骨だ。考えることが丸裸《まるはだか》だ――いきなり、生め、ふやせだ。」
 こんな話も出た。
 その日、正香はあまり長くも半蔵の家に時を送らなかった。祭典の模様を伝えるだけに止めて、景蔵と香蔵の二人も一緒に座を立ちかけた。半蔵の家族が一晩ぐらいゆっくり泊めたいと言って引き留めているうちに、三人の客は庭へおりて草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結んだ。
「暮田さんは京都へお出かけになるんだよ。ゆっくりしていられないんだよ。」
 と半蔵は妻に言って見せて、庭先にある草履《ぞうり》を突ッ掛けながら、急いで客と一緒になった。彼は表門から街道へ出ないで、裏口の方へと客を誘った。
「暮田さん、そこまでわたしが御案内します。こちらの方に静かな細い道があります。」
 先に立って彼が案内して行ったは、吉左衛門が隠居所と土蔵の間を通りぬけ、掘り井戸について石段を降りたところだ。木小屋、米倉なぞの前から、裏の木戸をくぐると、本陣の竹藪《たけやぶ》に添うて街道と並行した村の裏道がそこに続いている。
「そう言えば、師岡正胤《もろおかまさたね》もどうしていますかさ。ひょっとすると、わたしより先に京都へ出ているかもしれません。あの師岡も、今度の大赦にあって、生命拾《いのちびろ》いをしたように思っていましょう。」
 青い竹の根のあらわれた土を踏みながら、正香は歩き歩き旧友のことを言い出した。例の三条河原事件で、足利将軍らが木像の首を晒《さら》しものにした志士仲間にも、ようやく解放の日が来た。正香は上田藩の方に幽囚の身となっていた師岡正胤のうわさをして、今日あるよろこびを半蔵に言って見せた。
 向こうには馬籠の万福寺の杜《もり》が見える。その畠《はたけ》の間まで行って、しばらく正香と半蔵とはあとから話し話し歩いて来る景蔵らを待った。そこいらには堅い地を割って出て来て、花をつけている春の草もある。それが二人の足もとにもある。正香はどんな京都の春が自分を待ち受けていてくれるかというふうで、その畠の間にある柿《かき》の木のそばへ一歩退きながら、半蔵の方を見て言った。
「さあ、時局もどうなりますか。尊王佐幕の大争いも、私闘に終わってはつまりません。一、二の藩が関ヶ原の旧怨《きゅうえん》を報いるようなものであってはなりませんね。どうしてもこれは、国をあげての建て直しでなくちゃなりませんね。」
「いずれ京都では鉄胤《かねたね》先生もお待ちかねでしょう。」
「まあ、今度はあの先生にしかられに行くようなものです。しかし、青山君、見ていてくれたまえよ。長い放浪で、わたしもいくらか修業ができましたよ。」


 にわかに同門の人たちも動いて来た。正香の話にもあるように、師岡正胤をはじめ、八、九人の三条河原事件に連坐《れんざ》した平田門人らは今度の大赦に逢《あ》って、また京都にある師鉄胤の周囲に集まろうとしている。そういう正香自身も沢家に身を寄せることを志して上京の途中にあり、同じ先輩格で白河家《しらかわけ》の地方用人なる倉沢義髄《くらさわよしゆき》、それに原|信好《のぶよし》なぞは上京の機会をうかがっている。岩倉家の周旋老媼《しゅうせんばば》とまで言われて多くの志士学者などの間に重きをなしている松尾|多勢子《たせこ》のような活動的な婦人が帰郷後の月日をむなしく送っているはずもない。多勢子とは親戚《しんせき》の間柄にある景蔵ですら再度の上京を思い立って、近く中津川の家を出ようとしている。
 その日、半蔵は正香や景蔵らを馬籠の宿はずれまで見送って、同じ道を自分の家へ引き返した。三人の客がわざわざ山吹村からさげて来てくれた祭典記念の神酒《みき》と菓子の折《おり》とがそのあとに残った。彼はそれを家の神棚《かみだな》に供えて置いて、そばへ来る妻に言った。
「お民、このお神酒《みき》は家じゅうでいただこうぜ。お菓子もみんなに分けようぜ。」
「きっと、お父《とっ》さんが喜びますよ。」
「おれもこれをいただいて、今夜はよく眠りたい。いろいろなことを考えるとおれは眠られなくなって来るよ。このおれの耳には、どれほどの騒がしい音が聞こえて来るかしれない。」
「あなたには眠られないということが、よくあるんですね。」
「ごらんな、景蔵さんもまた近いうちに京都へ出かけるそうだ。あの人もぐずぐずしちゃいられなくなったと見える。」
「あなた――あなたは家のものと一緒にいてくださいよ。お父さんのそばにいてくださいよ。あのお父さんも、いつどんなことがあるかしれませんよ。」
「そりゃお前に言われるまでもないサ。まあ、条山神社のお神酒《みき》でもいただいて、今夜はよく眠ることだ。こういう時世になって来ると、地方なぞはてんで顧みられない。おれのような縁の下の力持ち――そうだ、おれは自分のことを縁の下の力持ちだと思うが、どうだい。宿場の骨折りなぞはお前、説いても詮《せん》のないことだ。」
 夫婦はこんな言葉をかわした。
 旅するものによい季節を迎えて、やがてこの街道では例年のとおりな日光例幣使の一行を待ち受けた。四月の声を聞くころには、その先触れも到来するようになった。
 二百十日の大嵐《おおあらし》にたとえて百姓らの恐怖する「例幣使さま」の通行ほど、当時の社会における一面の真相を語るものはない。それは脅迫と強請のほかの何物でもない。毎年のきまりで馬籠の宿方《しゅくがた》が一行に搾《しぼ》られる三、四十両の金があれば、たとい十両につき三俵替えの値段でも、九俵から十二俵の飯米を美濃《みの》地方より輸入することができる。
 事実、この地方には、三月四月は食いじまいと百姓のよく言うころがやって来ていた。しかも、前年凶作のあとを受けてのその食いじまいだ。引き続いた世間一統の米高で、盗難はしきりに起こる、宿内での大きな造り酒屋、桝田屋《ますだや》と伏見屋との二軒の門口には、白米一升につき六百文で売り渡せとの文句を張り札にして、夜中にそれをはりつけて行くものさえあらわれる。上の伏見屋の金兵衛が古稀《こき》の祝いを名目に、村じゅうへの霑《うるお》いのためとして、四俵の飯米を奮発したぐらいでは、なかなか追いつかない。余儀なく、馬籠の町内をはじめ、荒町、峠村では、ごく難渋なものへ施し米《まい》でも始めねばなるまいと言って騒いでいるほどの時だ。
 そこへ「例幣使さま」だ。行く先の道中で旅館に金をねだったり、人足までもゆすったりするようなその一行は、公卿《くげ》、大僧正《だいそうじょう》をはじめ約五百人からの大集団で、例の金の御幣《ごへい》を中心に文字通りの大嵐のような勢いで、四月六日には落合泊まりで馬籠の宿場へ繰り込んで来た。どうして京都と江戸の間を一往復して少なくとも一年間は寝食いができるというような乱暴な人たちの耳に、宿駅の難渋を訴える声がはいろうはずもない。服従に服従を重ねて来た地方の人民も、こんな恐ろしい「例幣使さま」の掠奪《りゃくだつ》に対してはこれ以上の忍耐はできなかった。
「逃げろ、逃げろ。」
 その声は継立《つぎた》てをしいられる会所の宿役人仲間からも、問屋場の前に集まる人足、馬力の仲間からも起こった。ちょうど会所に詰めていた伊之助は驚きあわてて、半蔵のところへ飛んで来た。
「半蔵さん、会所のものはもうみんな逃げました。それあっちへ行った、それこっちへ行ったと言って、刀に手をかけた人たちが人足を追い回しています。あなたもわたしと一緒に逃げてください。」
 これには半蔵も言葉が出なかった。彼は伊之助と手を引き合わないばかりにして、家の裏口からこっそり本陣林の方へ落ちのびた。


「いや笑止《しょうし》、笑止。」
 それを言って金兵衛は上の伏見屋を飛び出す。吉左衛門は本陣の裏二階から出て見る。二人の隠居が言い合わせたように街道へ飛び出し、互いに驚いたような顔を合わせて、あちこちと見回したころは、例幣使の一行が妻籠《つまご》をさして通り過ぎたあとだった。
「はッ、はッ、はッ、は。」
 吉左衛門は吉左衛門で、泣いているのか笑っているのかわからなかった。
 その時になると、半蔵ももはや三十七歳である。ずっと年若な時分とちがい、彼もそれほど人を毛ぎらいしないで済んだから、木曾福島の役人衆でもだれでもつかまえて自分が世話する村方の事情を訴えることもできたし、なんのこれしきの凶年ぐらいに、という勇気も出た。木曾路には藤《ふじ》の花が咲き出すころに、彼は馬籠と福島の間を往復して、代官山村氏が名古屋表への出馬を促しにも行って来た。この領民の難渋と宿駅の疲弊とを尾州藩で黙ってみていたわけではもとよりない。同藩でもよく木曾地方のために尽くした。前年の冬には宿駅救助として宮《みや》の越《こし》、上松《あげまつ》、馬籠の三宿へ六百両ずつを二か年度の割に貸し渡し、その年の正月には木曾谷中へ五千両をお下げ金として分配した。のみならず、かねて馬籠の村民一同が嘆願した上納|御年貢《おねんぐ》の半減も容赦され、そのほかにこの際は特別の場合であるとして、三月には米にして六十石、この金高百九十両余がほどを三回に分け、一度分金十七両と米十俵ずつとを窮民の救助に当てることになった。
 いかんせん、この尾州藩の救いは右から左へとすぐ受け取れるものでなかったし、村民は救いの手を目の前に見ながら飢えねばならなかった。半蔵が伊之助その他の宿役人を会所に集め、向こう十五日間を期して馬籠宿としての施し米を始めたのはこの際である。配当は馬籠の町内、荒町、峠村。白米、一人一合|宛《あて》。老人子供は五勺ずつ。
 こんな日がやがて十日も続いた。村内には松の樹《き》の皮を米にまぜ、自然薯《じねんじょ》なぞを掘って来て飢えをしのぐものもできた。それを聞くと、半蔵は捨て置くべき場合でないとして、町内有志への相応な救施を勧誘したいと思い立ったが、それには率先して自分の家の倉を開こうと決意した。
 本陣の勝手口の木戸をあけたところに築《つ》いてある土竈《どがま》からはさかんに枯れ松葉の煙のいぶるような朝が来た。餅搗《もちつ》きの時に使う古い大釜《おおがま》がそこにかかった。日ごろ出入りの百姓たちは集まって来て竈《かまど》の前で働くものがある。倉から勝手口へ米を運ぶものもある。おまんやお民までが手ぬぐいをかぶり襷《たすき》がけで、ごく難渋なもののために白粥《しらがゆ》をたいた。
 半蔵は佐吉を呼んで言った。
「お前は一つ村方へ回ってもらおう。朝の粥《かゆ》をお振る舞い申すから、お望みのかたはどなたでも小手桶《こておけ》をさげて来るようにッて、そう言っておくれ。」
 そのわきには清助も立っていて、
「半蔵さま、これは家内何人という札にして渡しましょう。白米一升に水八升の割にして、一人に三合ずつ振る舞いましょう。」
 この話が村方へ知れ渡るころには、小手桶をさげた貧窮な黒鍬《くろくわ》なぞが互いに誘い合わせて、本陣の門の内へ集まって来るようになった。その朝は吉左衛門も心配顔に、裏二階から母屋《もや》の方へ杖《つえ》をついて来た。「どうして天明三年の大飢饉《だいききん》はこんなものじゃなかったと言うよ。おれの吾家《うち》の古い帳面には、あの年のことが残ってる。桝田屋《ますだや》でも、伏見屋でも、梅屋でも、焚《た》き出しをして、毎朝百人から百二十人ほどの人数に粥《かゆ》を振る舞ったそうだよ。」
 吉左衛門の思い出話だ。


 五月を迎えるころには、馬籠の村民もこんな苦しいところを切り抜けた。尾州藩からの救助金は配当され、大井米もはいって来るようになった。百姓らはいずれも刈り取った麦に力を得て、柴落《しばおと》し、早苗取《さなえと》りと続いたいそがしい農事に元気づいた。そこにもここにも田植えのしたくが始まる。大風に、強雨に、天災のしきりにやって来た前年とも違い、陽気は極々上々《ごくごくじょうじょう》と聞いて、七十一歳の最後の思い出に、美濃の浅井の医師のもとへ養生の旅を思い立つ上の伏見屋の金兵衛のような人もある。
 暮田正香と前後して京都にはいった景蔵からの便《たよ》りも次第に半蔵のもとへ届くようになった。彼はその友人の京都便りを読んで、文久|元治《げんじ》の間に朝譴《ちょうけん》をこうむった有栖川宮親王《ありすがわのみやしんのう》以下四十余人の幽閉をとかれたことを知り、長いこと機会を待っていた岩倉|具視《ともみ》の入洛《じゅらく》までが許されたことを知った。先帝の左右に侍して朝廷の全権を掌握していた堂上の人たちは次第にその地位を退き、朝廷における中心の勢力も移り動きつつある。先帝|崩御《ほうぎょ》の影響がどこまで及んで行くかはほとんど測りがたい、と景蔵の便りには言ってある。新帝はまだようやく少年期を終わらせらるるほどのお年ごろにしか達せられない、一方にはいよいよ幕府反対の旗色を鮮《あざや》かにして岩倉公らに結ぶ薩摩《さつま》があり、一方には気味の悪い沈黙を守って新将軍の背後《うしろ》に控えている会津と桑名がある、その間には微妙な関係に立つ尾州があり土佐《とさ》があり越前《えちぜん》があり芸州がある、こんな中でやかましい兵庫開港と長州処分とが問題に上ろうとしている、とある。今や人心はほとんど向かうところを知らない、諸藩の内部は分裂と党争とを事としている、上御一人よりほかに万民を統一するものはなくなった、とある。おそらく闘争は神代よりあった、上御一人をして万《よろ》ずの族《やから》を統《す》べさせたもうことは神の大御心の測りがたいところではあるまいか、ともある。

       五

 土蔵付き売屋。
 これは、傾きかけた徳川幕府の大身代をどうかしてささえられるだけささえようとしているような、その大番頭の一人《ひとり》とも言うべき小栗上野《おぐりこうずけ》の口から出た言葉である。土蔵付き売屋とは何か。それは幕府が外国政府より購《あがな》い入れた軍艦や汽船の修繕に苦しみ、小栗上野とその知友|喜多村瑞見《きたむらずいけん》との協力の下に、元治元年あたりからその計画があって、いよいよ慶応元年のはじめより経営の端緒についた横須賀《よこすか》の方の新しい造船所をさす。どうして造船所が売屋であるのか。どうしてまた、それがいよいよ出来《しゅったい》の上は旗じるしとして熨斗《のし》を染め出しても、なお土蔵付きの栄誉を残すであろうと言われるのか。これは小栗上野が一時の諧謔《かいぎゃく》でもない。その内心には、もはや時事はいかんともすることができないと知りながらも、幕府の存在するかぎり、一日も任務を尽くさねばならないとする人の口から出た言葉である。実際、幕府内にはこういう人もいた。こういう諧謔の意味は知る人ぞ知ると言って、その志を憐《あわれ》む喜多村瑞見のような人もまた幕府内にいた。言って見れば、山上一族が住む相州|三浦《みうら》の公郷村《くごうむら》からほど遠からぬ横須賀の漁港に、そこに新しいドック修船所が幕府の手によって開き始められていたのだ。地中海にある仏国ツウロン港の例にならい、ややその規模を縮小し、製鉄所、ドック、造船場、倉庫等の従来東洋になかった計画がそこに起こり始めていたのだ。そして、江戸幕府が没落の運命をたどりつつあったことは、幕府内部のものですらそれを痛感していた間にも、来たるべき時代のためにせっせとしたくを怠るまいとするような、こんな近代的な設備がその一隅《いちぐう》には隠れていた。
 十五代将軍|慶喜《よしのぶ》は、あだかもこの土蔵付き売屋の札をながめに徳川の末の代にあらわれて来たような人である。その人を好むと好まないとにかかわらず、当時この国の上下のものが将軍職として仰ぎ見ねばならなかったのも、一橋からはいって徳川家を相続した慶喜である。しかし、この新将軍が貴冑《きちゅう》の族《やから》ながらも多年内外の政局に当たり、見聞も広く、経験も積んでいて、決して尋常の貴公子でないことを忘れてはならない。


 慶喜の新生涯は幾多の改革に着手することから始められた。これは文久改革以来の慶喜の素志にもより、一つは長州征伐の大失敗が幕府の覚醒《かくせい》を促したにもよる。そういう幕府は無謀な大軍を西へ進める当時に、尾州の御隠居や越前藩主なぞの諫争《かんそう》をきき入れないでおいて、今となって目をさましてもおそかった。しかしおそくも目をさましたのは、さまさないには勝《まさ》っている。この戦争によって幕府をはじめ諸藩の軍制および諸制度はにわかに改革を促された。従来、数十人ないし百人以上の家臣従僕が列をなして従った大名|旗下《はたもと》の供数も、万石以上ですら従者五人、布衣《ほい》以下は侍一人に草履取り一人とまで減少された。二百年間の繁文縟礼《はんぶんじょくれい》[#「縟礼」は底本では「褥礼」]が驚くべき勢いで廃止され、上下共に競って西洋簡易の風《ふう》に移り、重い役人でも単騎独歩で苦しくないとされるようになったのは、皆この慶喜の時代に始まる。フランス伝習の陸軍所が建設せられ、御軍艦操練所は海軍所と改められ、英仏学伝習所が横浜に開かれたのも、その結果だ。小普請組支配の廃止、火付け盗賊改めの廃止、中奥御小姓《なかおくおこしょう》同御番の廃止、御持筒頭《おもちづつがしら》の廃止、御先手《おさきて》御留守番と西丸御裏御門番と頭火消役四組との廃止なぞも、またその結果だ。すべて古式古風な散官遊職は続々廃止されて、西洋陸軍の制度に旗本の士を改造する方針が立てられた。もはや旗本の士は殿様の威儀を捨てて単騎独歩する元亀《げんき》天正《てんしょう》の昔に帰った。とにもかくにもいわゆる旗下《はたもと》八万騎を挙《あ》げて洋式の陸軍隊を編成し、応募の新兵はフランス人の教官に託し、従来|羽織袴《はおりはかま》に刀を帯びて席上にすわっていたものに筒袖《つつそで》だん袋を着せ舶来の銃を携えさせて江戸城の内外を巡邏《じゅんら》せしめるようになったというだけでも、いかに新将軍親政の手始めが旧制の一大改革にあったかがわかる。
 この方針は地方にまで及んで行った。旧《ふる》い伝馬制度の改革もしきりに企てられ、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、助郷《すけごう》の苦痛とする刎銭《はねせん》の割合も少なくなって、街道宿泊の方法までも簡易に改められた。手形なしには関所をも通れなかったほどの婦人が旅行の自由になったことは、この改革に忘れてならないことの一つだ。日ごろ深窓にのみこもり暮らした封建時代の婦人もその時すでに解放の第一歩を踏み出した。
 もともと慶喜は自ら進んで将軍職を拝した人でもない。家茂《いえもち》薨去《こうきょ》の後は、尾州公か紀州公こそしかるべしと言って、前将軍の後継者たることを肯《がえん》じなかった人である。周囲の懇望によりよんどころなく徳川の家督を相続しても、それは血統の事であるとして、容易に将軍職を受けようとは言わなかったのもこの人だ。所詮《しょせん》、徳川家も滅亡か、との松平春嶽《まつだいらしゅんがく》らの異見を待つまでもなく、天下公論の向かうところによっては少しの未練なく将軍職をなげ出そうとは、就職当時からの慶喜が公武一和の本領ででもあったのだ。
 この十五代ほど四方八方からの誤解の中に立った人もめずらしい。前将軍の早世も畢竟《ひっきょう》この人あるがためだとして、慶喜を目するに家茂の敵《かたき》であると思う輩《やから》は幕府内に少なくないばかりでなく、幕府反対の側にある京都の公卿《くげ》たちおよび薩長の人士もまたこの人の新将軍として政治の舞台に上って来たことを恐れた。慶喜が徳川家を相続するとは言っても、将軍職を受けることは固く辞したいと言い出した時に、それを聞いて油断のならない人物としたのは岩倉公だ。慶喜の人物を評して、「譎詐《けっさ》百端《ひゃくたん》の心術」の人であるとなし、賢い薩州侯の公論を至極《しごく》公平に受けいれることなぞおぼつかないと考え、ことに慶喜が懐刀《ふところがたな》とも言うべき水戸出身の原|市之進《いちのしん》とは絶えざる暗闘反目を続けていたのも薩摩の大久保一蔵《おおくぼいちぞう》だ。慶喜を家康の再来だとして、その武備を修める形跡のあるのは警戒しなければならないとしたのは長州の木戸準一郎《きどじゅんいちろう》だ。
 しかし、慶喜も水戸の御隠居の子である。弘道館《こうどうかん》の碑に尊王の志をのこした烈公の血はこの人の内にも流れていた。朝廷と幕府とが相対立しすべての方針が二途に分かれるような現状を破って、天皇の大御代《おおみよ》を出現しないかぎり、海外諸国の圧迫に対抗してこの国の独立を維持しがたいとの民間志士の信念を受けいれたものも慶喜であった。自ら進んで諸侯の列に下り、この国を郡県の制度の下に置くか、あるいはドイツあたりの連邦の制度に改めるかの一大改革を行ないたいとの念が早くもその胸のうちにきざしはじめていたのもこの新将軍であった。その意味から言って、飽くまで公武一和を念とせられ、王政復古を急ぐ岩倉公らを戒められたという先帝の崩御《ほうぎょ》ほど、この慶喜にとっての深い打撃はなかった。およそ先帝を惜しみ奉らないものはない中で、ことにその悲しみを深くしたものは、言うことなすこと周囲に誤解された慶喜であろう。大政奉還の悲壮な意志は後日を待つまでもなく、おそらく将軍職を拝してから間もなかった霜夜の御野辺送《おんのべおく》りを済ました時に、すでにこの人の内に動いたであろう。
 慶応三年といえば西暦千八百六十七年、実に十九世紀の後半期に当たる。フランスではナポレオン第三世の時代に当たり、イギリスではヴィクトリア女皇の時代に当たる。新知識を吸集するに鋭意な徳川新将軍の代となってから、仏国公使ロセスの建言を用い、新内閣の組織を改め、大いに人材登庸の道を開き、商工業に関する諸税を課することから鉱山を開き運輸を盛んにすることまで、種々《さまざま》な計画は皆「土蔵付き売屋」の意味を帯びていた。将軍家の弟なる松平|民部太夫《みんぶだゆう》、外国奉行喜多村|瑞見《ずいけん》などの人たちが前後して仏国に使いする日をすら迎えた。こんなに幕府側がフランスに結ぶことの深ければ深いほど、薩摩藩および長州藩ではイギリスに結んで、ヨーロッパにおける二大強国はいつのまにかこの国の背景としても相対抗するようになった。いよいよ兵庫開港の議も決せられ、長州藩主父子も許された。最も古くて、しかも最も新しい太陽を迎えようとする思いは、日一日と急な時勢の潮流と相まって、各人の胸に入り乱れた。
 その年の九月には、王政復古を待ち切れないような諸勢力が相呼応して慶喜の目の前にあらわれかけて来た。その意は土佐を中心に頭を持ち上げて来た公儀政体組織の下に温和に王政復古の実をあげたいという説を手ぬるいとなし、長州芸州と連合して一切の解決を兵力に訴え、慶喜および会津桑名の勢力を京都より一掃して、岩倉公らと連絡を取りながら王室回復の実をあげようとするにある。往昔関ヶ原の合戦に屈してからこのかた、西の国のすみに忍耐し続けて来た松平修理太夫領内の健児らが、三世紀にわたる徳川氏の抑圧を脱しようとして、勇敢に動き始めたというは不思議でもない。おまけに相手は防長征討軍の苦《にが》い経験をなめ、いったん討死《うちじに》の覚悟までした討幕の急先鋒《きゅうせんぽう》だ。この尻《しり》押しには、英国公使パアクスのようなロセスの激しい競争者もある。薩摩は挙兵上京と決して海路から三田尻《みたじり》に着こうというのであり、長州でもそれを待って相共に兵を上国に送ろうとして、出発の準備にいそがしかった。いわゆる薩長芸三藩が攻守同盟の成立だ。この形勢をみて取った松平容堂は薩長の態度を飽き足りないとして、一新更始の道を慶喜に建白した。過去の是非曲直を弁難するとも何の益がない、この際は大きく目を開いて万国に対しても恥じないような大根底を打ち建てねばならない、それには天下万民と共に公明正大の道理に帰り、皇国数百年の国体を一変して、王政復古の業を建つべき一大機会に到達したと力説した。
 かねての意志を実現すべき大政奉還の機会はこんなふうにして慶喜のところへやって来た。徳川の代もこれまでだと覚悟する将軍は、討幕の密議がそれほどまで熟しているとは知らなかったが、禍機はすでにその極度に達していることを悟り、敵としての自分の前に進んで来るものよりも、もっと大きなものの前に頭を下げようとした。十月の十二日は慶喜が政権奉還のことを告げるために、大小|目付《めつけ》以下の諸有司を二条城に召した日である。一同の驚きはなかった。今日となってはもはやこのほかに見込みがない、神祖(東照宮のこと)以来の鴻業《こうぎょう》を一朝に廃滅するは先霊に対しても恐れ入る次第であるが、畢竟《ひっきょう》天下を治め宸襟《しんきん》を安んじ奉るこそ神祖の盛業を継述するものである、と、慶喜に言われても、多数の有司は異議をいだいてなかなか容易に納まらない。この際、断然政権を朝廷に返上し、政令を一途にして、徳川家のあらんかぎり力の及ぶべきだけは天下の諸侯と共に朝廷を輔佐《ほさ》し奉り、日本全国の力をあわせて外国の侮りをふせぐことともならば、皇国今後の目的も定まるであろう。それまで慶喜に言われても、諸有司の間にはまだかれこれとのつぶやきが絶えない。その時の慶喜の言葉に、各《おのおの》においても本来自分が京都にあるのは何のためかと思って見るがいい。こう穏やかでない時勢であるから輦下《れんか》の騒擾《そうじょう》をしずめ叡慮《えいりょ》を安んじ奉らんがためであることはいずれも承知するところであろう。しかるに非徳の自分が京都にあるためその禍根を醸《かも》したとは思わずに、かえって干戈《かんか》を動かし、自分を敵視するものを討《う》つとあっては、ただただそれは宸衷《しんちゅう》を驚かし奉り万民を困苦せしむる罪を重ぬるのみであって、一つとして義理に当たるものはなく、忠貞の素志もそのためにむなしくなろう。この上は、ただ自身に反省して、己《おのれ》を責め、私を去り、従前の非政を改め、至忠至公の誠心をもって天下と共に朝廷を輔翼し奉るのほかはない。その事は神祖の神慮にも適《かな》うであろう。神祖は天下の安からんがために政権を執ったもので、天下の政権を私せられたのではない。自分もまた、天下の安からんがために徳川氏の政権を朝廷に還《かえ》し奉るものであるから、取捨は異なるとも、朝廷に報ゆるの意はすなわち一つである。あるいは、政権返上の後は諸侯割拠の恐れがあろうとの説を出すものもあるが、今日すでに割拠の実があるではないか。幕府の威令は行なわれない。諸侯を召しても事を左右に託して来たらない。これは幕府に対してばかりでなく、朝命ですら同様の状態にある。この際、朝威を輔《たす》け、諸侯と共に王命を奉戴《ほうたい》して、外国の防侮に力を尽くさなかったら、この日本のことはいかんともすることができないかもしれないと。
 慶喜の意は決した。十月十三日には政権返上のことを列藩に通じ、十四日にはその事を御奏聞に達した。そしてこの大政奉還と、引き続く将軍職の拝辞とによって、まことの公武一和の精神がいかなるものであるかを明らかにした。あだかも高く飛ぶことを知る鳥は、風を迎え翼を収めることを知っていて、自然と自分を持って行ってくれる風の力に身を任せようとするかのように。

       六

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ええじゃないか、ええじゃないか
挽《ひ》いておくれよ一番挽きを
二番挽きにはわしが挽く
ええじゃないか、ええじゃないか

ええじゃないか、ええじゃないか
臼《うす》の軽さよ相手のよさよ
相手かわるなあすの夜も
ええじゃないか、ええじゃないか
[#ここで字下げ終わり]

 馬籠《まごめ》の宿場では、毎日のように謡《うた》の囃子《はやし》に調子を合わせて、おもしろおかしく往来を踊り歩く村の人たちの声が起こった。
 十五代将軍が大政奉還のうわさの民間に知れ渡るとともに、種々《さまざま》な流言のしきりに伝わって来るころだ。その中で不思議なお札が諸方に降り始めたとの評判が立った。同時に、どこから起こったとも言えないような「ええじゃないか」の句に、いろいろな唄《うた》の文句や滑稽《こっけい》な言葉などをはさんで囃《はや》し立てることが流行《はや》って来た。
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ええじゃないか、ええじゃないか
こよい摺《す》る臼《す》はもう知れたもの
婆々《ばば》さ夜食の鍋《なべ》かけろ
ええじゃないか、ええじゃないか
[#ここで字下げ終わり]
 だれもがこんな謡《うた》の囃子《はやし》を小ばかにし、またよろこび迎えた。その調子は卑猥《ひわい》ですらあるけれども、陽気で滑稽なところに親しみを覚えさせる。何かしら行儀正しいものを打ち壊《こわ》すような野蛮に響く力がある。
 この「ええじゃないか」が村の年寄りや女子供までを浮き浮きとさせた。そこへお札だ。荒町《あらまち》にある氏神《うじがみ》の境内へ下った諏訪《すわ》本社のお札を降り始めとして、問屋の裏小屋の屋根へも伊勢《いせ》太神宮のお札がお下《さが》りになったとか、桝田屋《ますだや》の坪庭へも同様であると言われると、それ祝えということになって、村の若い衆なぞの中には襦袢《じゅばん》一枚で踊り狂いながら祝いに行くという騒ぎだ。お札の降った家では幸福があるとして、餅《もち》をつくやら、四斗樽《しとだる》をあけるやら、それを一同に振る舞って非常な縁起《えんぎ》を祝った。
 だれもがまた、こんな不思議を疑い、かつ信じた。実際、明るい青空からお札がちらちら降って来たのを目撃したと言うものがあり、何かこれは伊勢太神宮のお告げだと言うものがあり、豊年の瑞兆《ずいちょう》だと言って見るものもある。このにぎやかな「えいじゃないか」の騒動は木曾地方にのみ限らなかった。京大坂の方面から街道を下って来る旅人の話も戸《こ》ごとに神棚《かみだな》をこしらえ、拾ったお札を祭り、中には笛太鼓の鳴り物入りで老幼男女の差別なく花やかな衣裳《いしょう》を着けながら市中を踊り回るという賑々《にぎにぎ》しさで持ち切った。
 不思議なお札と、熱狂する「ええじゃないか」と。まるで町内は時ならぬ祭礼の光景を出現するようになった。こんな意外なものが、つい三、四月あたりまで食うや食わずの凶年に騒いでいた馬籠あたりの村民を待ち受けていようとは。それは一切の過去の哀傷を葬り去ろうとするような大きな騒動にまで各地に広がった。そして、多くの人の心を酔うばかりにさせた。
 熱田《あつた》太神宮のお札は蓬莱屋《ほうらいや》の庭の椿《つばき》の枝へも降り、伏見屋の表格子《おもてごうし》の内へも降り、梅屋の裏座敷の庭先にある高塀《たかべい》の上へも降った。まだそのほかに、八幡宮のお札の降ったところが二か所もある。いずれも奇異の思いに打たれて、ありがたく頂戴《ちょうだい》したという。こうなると、人一倍精力のあるとともにまた迷信も深い上の伏見屋の隠居はじっとしていない。どんな金満家でもこんな祝いの時の酒や投げ餅を出し惜しむものは流行節《はやりぶし》に合わせて「貧乏せ、貧乏せ」と囃《はや》し立てられると聞いては、なおなお黙って引っ込んでいない。桝田屋で四斗の餅を投げたものなら、こちらは本家と隠宅とで八斗の餅を投げると言って、親類の女衆から出入りのものまで呼び集め、村じゅうのものへ拾わせるつもりで祝いの餅をついた。投げた。投げた。八斗の餅は空を飛んで、伏見屋の表に群がり集まる村民らの袂《たもと》へはいれば懐《ふところ》へもはいった。その時は、四斗樽の鏡をも抜いて、清酒のほかに甘酒まで用意し、辛《から》い方でも甘い方でも、御勝手《ごかって》飲み放題という振る舞いであった。
「ホウ、ただ飲み、ただ取りだ。」
 と言うものさえある。
 村のものは、氏神諏訪小社の改築も工事落成の近いのに事寄せて、にわかに狂言の催しまでも思い立った。気の早いものはそのけいこにすら取りかかった。この空気は――たといそれが一時的であるにしても――今まで主従の重い関係にあった将軍家没落の驚きを忘れさせ、代替《だいがわ》り家督相続から隠居養子|嫁娶《よめとり》の事まで届け出たような権威の高いものが眼前に崩《くず》れて行ったことを忘れさせ、葵《あおい》の紋のついた提灯《ちょうちん》さえあればいかなる山野を深夜独行するとも狐狼《ころう》盗難に出あうことはないとまで信ぜられていたほどの三百年来の主人を失ったことをも忘れさせた。
「ええじゃないか」の騒動はいつやむとも知れなかった。村の大根引きのころから、氏神遷宮の祭礼狂言が始まるころまで続いても、まだ謡《うた》の囃子《はやし》が絶えなかった。そこへ隣宿の妻籠《つまご》からはお札降りの祝いという触れ込みで、過ぐる四年前水戸浪士通行の際の姿にこしらえ、鎧《よろい》、兜《かぶと》、弓、鎗《やり》、すべて軍中のいでたちで、子供はいずれも引き馬に乗り、同勢およそ百余人の仮装行列が練り込んで来た。
 本陣では皆門の外に出て見た。手習い子供のさかりの年ごろになる宗太はもとより、日ごろこもりがちに晩年を送っている吉左衛門までが出て見た。
「お粂《くめ》もおいで。早くおいで。」
 とお民に呼ばれて、軽くて済んだ病気あげくのお粂もやせてかえって娘らしさを増したような姿を祖母や母のそばにあらわした。こうした全家族のものが門前に集まることは本陣ではめったになかった。多年村方の世話をして来た年老いた吉左衛門がともかくもまだ無事でいることは、それだけでも村の百姓らをよろこばせた。右も、左も、街道のわきは行列の見物でいっぱいだ。妻籠の大野屋の娘というが二人《ふたり》とも烏帽子《えぼし》陣羽織《じんばおり》のこしらえで、引き馬に乗りながら静かにその門前を通った。
「ヘえ、お土産《みやげ》。」
 と言って、大野屋の娘に付き添いの男が祝いの供え餅《もち》一重《ひとかさ》ねをお粂や宗太への土産にくれた。
「ええじゃないか、ええじゃないか。」
 宗太までが子供らしい声で、その口まねをして戯れる。
「宗太さま、それ、それ。」
 大野屋の男は手を打ってよろこんだ。その時、行列のわきを走りぬけて、お粂の病気見舞いかたがた半蔵を見に来たのは妻籠の寿平次だ。寿平次はそこに家のものと一緒に門前に立つ半蔵を見つけて言った。
「半蔵さん、この騒ぎは何事です。」
「それは君、わたしの方から言うことでしょう。」
「きのう福島から見えた客がありましてね。あの辺は今、お札の降る最中だと言っていましたっけ。」
「降る最中はよかった。」
「世の中が大きく変わる時には、このくらいの瑞兆《ずいちょう》があってもいいなんて、そんなことをさももっともらしく言い触らすものもありますぜ。なんだかわたしは狐《きつね》にでもツマまれたような気がする。」
「しかし、寿平次さん、馬籠あたりの百姓はこの十年来祝うということを知りませんでしたよ。まあ、みんな祝いたければ祝え、そう言ってわたしは見ているところです。」


 この表面《うわべ》のにぎやかさにかかわらず、強い嵐《あらし》を待ち受けるような気味の悪い静かさが次第に底の方で街道を支配し始めた。名古屋の方面から半蔵のところへ伝わって来る消息によると、なかなか「えいじゃないか」どころの話ではない。薩長の真意が慶喜を誅《ちゅう》し、同時に会津の松平|容保《かたもり》と桑名の松平|定敬《さだのり》とを誅戮《ちゅうりく》するにあることが早く名古屋城に知れ、尾州の御隠居はこの形勢を案じて会桑《かいそう》二藩の引退を勧告するために、十月の末にはすでに病を力《つと》めて名古屋から上京したとある。御隠居は実に会桑二侯の舎兄《しゃけい》に当たるからで。
 万石以上の諸大名はいずれも勅命を奉じて続々京都に集合しつつあると聞くころだ。天下の公議によりこの国の前途を定めようとするものが京都を中心に渦巻《うずま》き始めた。その年の十一月も末になると、薩摩の島津家、長州の毛利家、芸州藩の総督、それに徳山藩の世子、吉川家の家老などが、いずれも三、四百人から二、三千人の手兵を率いて、あるものはすでに入京し、あるものは摂津《せっつ》の海岸や西の宮に到着して上国の報を待つという物々しさに満たされて来た。名古屋と京都との往来も頻繁《ひんぱん》になって、薩長土肥等の諸藩と事を京畿《けいき》に共にしようとする金鉄組の諸士らは進み、佐幕派として有力な御小納戸《おこなんど》、年寄、用人らは退きつつあった。成瀬正肥《なるせまさみつ》、田宮如雲《たみやじょうん》、荒川甚作《あらかわじんさく》らの尾州藩でも重立った勤王の士が御隠居を動かして百方この間に尽力していることは、手に取るように半蔵のところへも知れて来る。王政復古の実現ももはや時の問題となった。
 こういう空気の中で、半蔵の耳には思いがけない新しい声が聞こえて来た。彼はその声を京都にいる同門の人からも、名古屋にある有志からも、飯田《いいだ》方面の心あるものからも聞きつけた。
「王政の古《いにしえ》に復することは、建武中興《けんむちゅうこう》の昔に帰ることであってはならない。神武《じんむ》の創業にまで帰って行くことであらねばならない。」
 その声こそ彼が聞こうとして待ちわびていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんなふうにして実現される日の近づいたばかりでなく、あの本居翁が書きのこしたものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒《きゅうせんぽう》をもって任ずる長州の志士たちですら意外とするところであろうと彼には思われた。
 中津川の友人香蔵から半蔵が借り受けた写本の中にも、このことが説いてある。それを見ると世には名も知らない隠れた人があって、みんなが言おうとしてまだ言い得ないでいることをよく言いあらわして見せてくれるような篤志家のあることがわかる。その写本の中には、こういうことが説いてある。建武の中興は上《かみ》の思《おぼ》し召しから出たことで、下々《しもじも》にある万民の心から起こったことではない。だから上の思し召しがすこし動けばたちまち武家の世となってしまった。ところが今度多くのものが期待する復古は建武中興の時代とは違って、草叢《くさむら》の中から起こって来た。そう説いてある。草叢の中が発起なのだ。それが浪士から藩士、藩士から大夫、大夫から君侯というふうに、だんだん盛大になって、自然とこんな復古の機運をよび起こしたのであるから、万一にも上の思し召しが変わることがあっても、万民の心が変わりさえしなければ、また武家の世の中に帰って行くようなことはない。そう説いてある。世には王政復古を名目にしてその実は諸侯が天下の政権を奪おうとするのであろうと言うものもあるが、これこそとんでもない見込み違いだ。というのは、根が草叢の中から起こったことだから、たとい諸侯がなんと思おうと、決してそんな自由になるものではない。いったい、草叢の下賤なところから事が起こったは、どういうわけかと考えて見るがいい。つまり大義名分ということは下から見上げる方がはっきりする。だから桜田事件も起これば、大和《やまと》五条の事件も起これば、筑波山《つくばさん》の事件も起こる。それから長防二州ともなれば、今度は薩長両藩ともなる。いくら幕府が厳重な処置をしても、最初に水戸の数十人を殺せば桜田前後には数百人になり、筑波の数百人を殺せば数千人になり、しまいには長防西国の数万人になって、徳川の威力では制し切れない。西の方の国の力で復古ができなければ、東からも南からも北からも起こって来る。そこだ、たとい第二の幕府があらわれて、威勢を張ったにしても、また数年のうちには復古することは疑いない。そうも説いてある。
 半蔵はこれを読んで復古の機運が熟したのは決して偶然でないことを思った。彼の耳に聞きつける新しい声は、実にこの写本の筆者のいわゆる「草叢《くさむら》の中」から来たことをも思った。
 もはや恵那山《えなさん》へは幾たびとなく雪が来た。半蔵が家の西側の廊下からよく望まれる連峰の傾斜までが白く光るようになった。一か月以上も続いた「ええじゃないか」のにぎやかな声も沈まって行って見ると、この国|未曾有《みぞう》の一大変革を思わせるような六百年来の武家政治もようやくその終局を告げる時に近い。街道には旅人の往来もすくない、山家はすでに冬ごもりだ。夜となればことにひっそりとして、火の番の拍子木《ひょうしぎ》の音のみが宿場の空にひびけて聞こえた。


 ある朝、半蔵は村の万福寺の方から伝わって来る鐘の音で目をさました。店座敷の枕《まくら》の上できくと、その音は毎朝早い勤めを怠らない松雲和尚《しょううんおしょう》の方へ半蔵の心を連れて行く。それは万福寺の新住職として諸国遍歴の修行からこの村に帰り着いたその日から、当時の習慣としてまず本陣としての半蔵の家の玄関に旅の草鞋《わらじ》を脱いだその日から、そして本陣の一室で法衣|装束《しょうぞく》に着かえて久しぶりの寺の山門をくぐったその日から、十三年も達磨《だるま》の画像の前にすわりつづけて来たような人の自ら鐘楼に登って撞《つ》き鳴らす大鐘だ。
 まだ朝の眠りをむさぼっている妻のそばで、半蔵はその音に耳を澄ました。谷から谷を伝い、畠《はたけ》から畠をはうそのひびきは、和尚が僧|智現《ちげん》の名も松雲と改めて万福寺の住職となった安政元年の昔も、今も、同じ静かさと、同じ沈着《おちつき》とで、清く澄んだ響きを伝えて来ている。
 一音。また一音。半蔵の耳はその音の意味を追った。あのにぎやかな「ええじゃないか」の卑俗と滑稽《こっけい》とに比べたら、まったくこれは行ないすました閑寂《かんじゃく》の別天地から来る、遠い世界の音だ。それにしても、この驚くべき社会の変革の日にあたって、日々の雲でも変わるか、あるいは陰陽の移りかわるかぐらいにしか、心を動かされない人の修行から、その鐘は響き出して来ている。その異教の沈着《おちつき》はいっそ半蔵を驚かした。多くの憂国の士が生命《いのち》をかけても幕政に抵抗したり国事に奔走したりするというこの難《かた》い時代に、こういう和尚のような人も生きていたかということは、なおなお彼を驚かした。
「お民。」
 半蔵は妻を揺り起こした。彼は自分でもはね起きて、中津川にある友人香蔵のもとまで京都の様子を探りに行こうと思い立った。
「こんな山の中にいたんじゃ、さっぱり様子がわからん。王政復古の日はもう来ているんじゃないか。」
 その考えから、彼はお民に言い付けて下女を起こさせ、囲炉裏《いろり》の火をたかせ、中津川の方へ出かける前の朝飯のしたくをさせた。
 慶応三年十二月のことで、街道は雪で白くおおわれていた。朝飯を済ますと間もなく半蔵は庄屋《しょうや》らしい袴《はかま》に草鞋《わらじ》ばきで、荒町にある村社までさくさく音のする雪の道を踏んで行った。氏神への参拝を済まして鳥居《とりい》の外へ出るころ、冬にしては温暖《あたたか》な日の光も街道にあたって来た。彼はその道を国境《くにざかい》へと取って、さらに宿はずれの新茶屋まで歩いた。例の路傍《みちばた》にある芭蕉《ばしょう》の句塚《くづか》も雪にぬれている。見知り越しな亭主《ていしゅ》のいる休み茶屋もある。しばらく彼はそこに足を休めていると、ちょうど国境の一里塚の方から馬籠《まごめ》をさして十曲峠《じっきょくとうげ》を上って来る中津川の香蔵にあった。香蔵は落合《おちあい》の勝重《かつしげ》をも連れてやって来た。
「お師匠さま。」
 その勝重の昔に変わらぬ人なつこい声をも半蔵は久しぶりで聞いた。
「半蔵さん、君は中津川まで行かずに済むし、わたしたちも馬籠まで行かずに済む。この茶屋で話そうじゃありませんか。」
 香蔵の提議だ。
 その時、半蔵は初めて王政復古の成り立ったことを知り、岩倉公を中心にする小御所の会議には薩州土州芸州越前四藩のほかに尾張も参加したことを知った。その時になると、長州藩主父子は官位を復して入洛《じゅらく》を許さるることとなり、太宰府《だざいふ》にある三条|実美《さねとみ》らの五卿もまた入洛復位を許されて、その時までの舞台は全く一変した。慶喜と会津と桑名とは除外せられ、会桑二藩が宮門警衛をも罷《や》められた。摂政、関白の大官も廃され、幕府はその時に全く終わりを告げた。この消息は京都にある景蔵からの書面に伝えてある。半蔵との連名にあてて書いてよこしたと言って、香蔵の持参したものにこの消息が伝えてある。
 香蔵は言った。
「この前、京都から来た手紙には、こんなことが書いてありました。慶喜公が大政奉還の上表を出したとほとんど同じ日に、薩長二藩へ討幕の密勅が下ったということを確かな筋から聞き込んだが、君らはあれをどう思うか、その密勅がまた間もなくお取りやめとなったというが、あれをもどう思うかとありました。わたしも変だと思って、だれにも見せずにしまって置くうちに、この復古の報知《しらせ》が来ました。」
「見たまえ。」と半蔵はそれを受けて言った。「この手紙には、当日尾州でも禁門を守衛したとありますね。檐下詰《のきしたづ》めには小瀬新太郎を首《かしら》にする近侍の士、堂上裏門の警備には供方《ともかた》をそれに当てたとありますね。」
「まあ、早い話が、先年の八月十八日の政変を逆に行ったんでしょうね。あの時はわたしは京都にいて、あの政変にあいましたから、今度のこともほぼ想像がつきます。いずれここまで出て来るには、何か動いたに相違ありません。何か、最後の力が動いたに相違ありません。」
 香蔵と半蔵とは顔を見合わせて、それから京都にある師|鉄胤《かねたね》なぞのうわさに移った。勝重は松薪《まつまき》を加えたり、ボヤを折りくべたりして、炉の火をさかんにする。茶屋の亭主は客のために何かあたたかいものをと言って、串魚《くしうお》なぞを煮るしたくを始めていた。
「とにかく、半蔵さん、」と香蔵は語気を改めて言い出した。「建武中興でなしに、神武創業にまでこの復古を持って行かれたことは、意外でしたね。そりゃ機運は動いていましたさ。しかし、ここまで出て来るには十年は待たなけりゃなるまいかと思っていましたよ。」
「結局、今の時世が求めるものは何か、ということなんですね。」
「まあ、だれがこんな意見を岩倉公あたりの耳にささやいたかなんて、そんな詮索《せんさく》はしないがいい。ほら、半蔵さんに貸してあげた写本さ。あれを書いた人の言い草じゃないが、草叢《くさむら》の中が発起です――それでたくさんです。」
「そう言えば、香蔵さん、あの鉄胤《かねたね》先生もほんとうに黙っていらっしゃる、そうわたしは思い思いしました。今になって見ると、やっぱりあの先生は働いていたんですね。暮田正香なぞも、まあ見ていてくれたまえなんて、そんなことを言って京都へ立って行きましたっけ。こういう日が来るまでには、どのくらいの人が陰で働いたか知れますまい。」
「そりゃ、二人や三人の力でこの復古ができたと思うものがあったら、それこそとんでもない見当違いでしょう。」
「して見るとあの本居先生なぞが『古事記伝』を書いた本志は、こうまで道をあけるためであったかと思いますね。」
 やがて、亭主が炉にかけた鍋《なべ》からは、うまそうに煮える串魚のにおいもして来た。半蔵らが温《あたた》めてもらった酒もそこへ来た。時刻にはまだすこし早いころから、新茶屋の炉ばたではなめ味噌《みそ》ぐらいを酒のさかなに、盃《さかずき》のやり取りが始まった。
「旦那《だんな》、」と亭主はそこへ顔を出して、「この辺をよく通る旅の商人《あきうど》が塩烏賊《しおいか》をかついで来て、吾家《うち》へもすこし置いて行った。あれはどうだなし。」
「や、そいつはありがたいぞ。」と半蔵は好物の名を聞きつけたように。
「塩烏賊のおろしあえと来ては、こたえられない。酒の肴《さかな》に何よりだ。」と香蔵も調子を合わせる。
「今に豆腐の汁《つゆ》もできます。ゆっくり召し上がってください。」とまた亭主が言う。
「勝重さん、一|盃《ぱい》行こう。」香蔵がそれを言い出した。
「わたしは元服を済ますまで盃を手にするなって、吾家《うち》の阿爺《おやじ》に堅く禁じられていますよ。」と勝重はすこし顔を紅《あか》らめる。
「まあ、そう言わなくてもいい。きょうは特別だ。時に、勝重さん、どうです。君なぞは幕府が倒れると思っていましたかい。」
「まさか幕府が倒れようとは思いませんでした。徳川の世も末になったとは思いましたがね。」
「そうだろうね。だれだってあの慶喜公が将軍職を投げ出そうとは夢にも思わなかったからね。勝重さんは雪に折れる竹の音を聞いたことがあろう。あの音だよ。慶喜公が投げ出したと聞いた時、わたしはあの竹の折れる音の鋭さを思い出したよ。考えて見ると、ひどい血も流さずによくこの復古が迎えられた。なんと言っても、慶喜公は慶喜公だけのことはあるね。」
 香蔵と勝重とはこんなふうに語り合った。その時、半蔵は二人《ふたり》の話を引き取って、
「しかし、香蔵さん、今の君の話さ。ひどい血を流さずに復古を迎えられたという話さ。そこがわれわれの国柄をあらわしていやしませんか。なかなか外国じゃ、こうは行くまいと思う。」
「それもあるナ。」と香蔵が言う。
「まあ、わたしは一晩寝て、目がさめて見たら、もうこんな王政復古が来ていましたよ。」
 勝重はそんなふうに、香蔵にも半蔵にも言って見せた。
「ようやく。ようやく。」
 半蔵もそれを言って、串魚《くしうお》に豆腐の汁《つゆ》、塩烏賊《しおいか》のおろしあえ、それに亭主の自慢な蕪《かぶ》と大根の切り漬けぐらいで、友人と共に山家の酒をくみかわした。
 冬の日は茶屋の内にも外にも満ちて来た。食後に半蔵らは茶屋の前にある翁塚《おきなづか》のあたりを歩き回った。踏みしめる草鞋《わらじ》の先は雪|溶《ど》けの道に燃えて、歩き回れば歩き回るほど新しいよろこびがわいた。一切の変革はむしろ今後にあろうけれど、ともかくも今一度、神武《じんむ》の創造へ――遠い古代の出発点へ――その建て直しの日がやって来たことを考えたばかりでも、半蔵らの目の前には、なんとなく雄大な気象が浮かんだ。
 日ごろ忘れがたい先師の言葉として、篤胤《あつたね》の遺著『静《しず》の岩屋《いわや》』の中に見つけて置いたものも、その時半蔵の胸に浮かんで来た。
「一切は神の心であらうでござる。」




[#地から2字上げ]「夜明け前」第一部――終
[#改丁]

     改版『夜明け前』第一部の後に


 この作、昭和四年に起稿し、同六年に第一部を書き終わったものであるが、なにしろ作の内容が過去の時代を探り求めるような性質のものであり、これを著作するためにも多くの年月を要したから、あとになって省きたいと思うところもでき、いろいろ自分の気づかなかった誤りに気づくということも起こって来た。
 そんなわけで、最初これを一巻の書物にまとめる時すでに原稿の訂正を行なったのであるが、その後も版を重ねるにつれて、なお、幾多の改むべき個処を見いだした。今回の改版を機会に、さらに第一部の訂正を思い立ったのも、心に安んじられないかずかずの誤りを除きたいと願うからであった。そういうわたしなぞが過去の事物を探り求める方法というものも実際狭い範囲に限られていて、真に考証の正確を期することは自分らの手の届かないところにある。せめて知らないことは知らないとし、改むべきことは改めて、それをもって世の識者らへの答えにかえたい。この作最初に年四回分載の形で『中央公論』誌上に発表した当時から、なにかと注意してよこしてくれた未知の諸君の厚意に対しても深く感謝する。
 なお、今後とても作者としての反省を失わずに、機会あるごとに改むべきことは改めて行きたい考えである。自分らの欠点を改善し、また自分らの過誤を除去することは、実に自分らの幸福と言わねばならない。

[#地から2字上げ](昭和十一年五月、麻布飯倉《あざぶいいくら》にて)



底本:「夜明け前 第一部(下)」岩波文庫、岩波書店
   1969(昭和44)年2月17日第1刷発行
   1995(平成7)年12月15日第26刷発行
底本の親本:「改版本『夜明け前』」新潮社
   1936(昭和11)年7月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:高橋真也
校正:小林繁雄
2001年5月26日公開
2004年2月10日修正
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