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仮装観桜会
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)靄《もや》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)工場主前田|弥平《やへい》氏

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)身を※[#足へんに「宛」、313-16]《もが》いた
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     1

 靄《もや》! 靄! 靄!
 靄の日が続いた。胡粉色《ごふんいろ》の靄で宇宙が塗り潰《つぶ》された。そして、その冷たい靄ははるかの遠方から押し寄せてくる暖かいものを、そこで食い止めていた。食い止めて吸収していた。
 靄の中で桜の蕾《つぼみ》が目に見えて大きくなっていった。人間の感情もまた、その靄の中で大きくなっていく桜の蕾のようなものだ。街の人たちはもう花見の話をしていた。
 靄が濃くなり暖かくなるにつれ、桜の蕾がその中でしだいに大きくなっていくように、人間の感情もまたその雰囲気の中でしだいに膨張する。前田《まえだ》鉄工場の職工たちの感情もまたそうだった。従前どおりに続いていく雰囲気の中で彼らの要求感はしだいに膨張して、弾《はじ》けようとする力を持ちだしてきていた。
 彼らの要求! それは極めて簡単なものであった。そしてまた、それは極めて至当な欲求であった。季節が気温の坂を上るにつれ、花の蕾が膨張せずにはいられないように、彼らの生活もまた転がるに従って膨張していた。ある一つの細胞がその環境の中でしぜんに膨張していくとき、人工的ないかなる力もそれを抑えることはできない。もし、一つの蕾を枯らすことなくそのままの大きさに止《とど》めておくことができたら、それは魔術である。奇術である。時代の波に浮かべてある生活の舟から完全に加速度を奪うことができたら、これもまた魔術であろう。奇術であろう。魔術師ではない彼ら職工たちが、自分たちの生活の膨張と加速度とを自分の力でどうすることもできないのは、極めて当然のことであった。春になれば暖かくなり、花が咲く。それと同じような自然の成行きであった。
 しかし、それを彼らの工場主前田|弥平《やへい》氏は全然認めてくれないのだった。彼のそういう態度は、花はもう散ろうとしているのに、その花を蕾として認めているようなものであった。
「そんなことを言ったって、一般に緊縮の時代じゃないか。こんな時に、そりゃあ無理というもんだ」
 前田工場主はそう言うのだった。
 しかし、彼らは決してその生活を膨張させようというのではなかった。現在の状態について要求しているのだった。それなのに、前田工場主は緊縮政策をもって、にべもなく彼らの要求を退けた。
「まあここしばらく、生活を緊縮することだ。実を言うと、工場の経費だって緊縮したいところなんだからなあ。まあまあ、できるだけ生活を緊縮して……」
「なにを? 緊縮しろ? 緊縮できるくらいならなにも言わねえや」
 職工たちには、とうとう我慢のできない日が来た。

     2

 しかし、工場主の前田弥平氏はやはりそれが不安になってきた。奥深い部屋の隅に、春にもなれば春の陽光が射《さ》す。新しい時代に対して目を覆っている前田弥平氏の目の底にも、新しい時代の世相の影が映らずにはいなかった。その影の中に、新しい時代はいかなる姿で映っているか? それを見たとき、前田弥平氏はじっとしてはいられなくなってきた。
 彼はいろいろと考えた。嵐《あらし》の暗雲を孕《はら》んで物凄《ものすご》いまでに沈滞した前田鉄工場! それに対していかなる手段を取るべきか? 彼はその対策に迷った。
 しかし、ある一つの細胞は外部からのより大きい反対の力が加わらない限り、しだいに生育し膨張していくに相違ない。前田弥平氏が思い悩んでいる間に、嵐の暗雲はしだいに近づいてきた。前田氏はその時初めて、自然律を否定している自分に気がついた。
 ちょうどその時、前田氏の広い庭園の一隅で五、六本の山桜が開きかけていた。
「よし!」
 彼はその窓から、開きかけている山桜を眺めながら叫んだ。そして、彼はすぐ河本《かわもと》老人を呼んだ。河本老人は前田家の雑事のために、毎日彼の家へ通ってきている海軍上がりの老人であった。
「河本! すぐ花見の着物を注文してくれ。すぐだ!」
「花見の着物? それは珍しいことですね。しかしいろいろ種類があるでしょうから……」
「どんなんでもいい。どんなんでもいいんだ。とにかく、至急六、七十人分|拵《こしら》えさせてくれ」
「七十人分? 七十人分もどうなさろうというんです? お花見の着物などを?」
「職工どもに花見をさせてやるのだ。職工はたしか六十二、三人だったなあ?」
「しかし、職工に花見をさせたところで、いまの状態じゃ無駄じゃございませんか? ……それよりも……」
「無駄かもしれん。しかし、わしにはわしの考えがあるで、さっそく拵えてくれ」
 前田氏は怒ったようにして言って、手にしていた葉巻の灰を落とした。
「……では、職工のなんでしたら、安物でいいわけですなあ」
「むろん安物でいい、一日で済むものだからなあ。だが、同じ色で、同じ模様で揃《そろ》えてもらいたい。それから同じ仮面を七十、同じ草履を七十。まあ、同じ仮装を七十人分揃えてもらいたいんだ。大急ぎでなあ」
「どんなに急がしても、五、六日はかかると思いますが……」
「それは仕方がない。ただ、その出来上がる日が決定したら、すぐ工場のほうへ、何月何日《いついつか》に早朝から花見をするということを言ってやっておいてくれ」
 前田氏はそう言って、何事かを深く考え込んだ。
 前田鉄工場は前田弥平氏の単独経営で、小さなものだった。しかし、そこには前田弥平氏の専制的な独裁が布《し》かれていた。彼の一存で、その工場の待遇制度はどんなにでも変えることができた。それだけに、こんどの争議は解決に骨の折れる感情の縺《もつ》れになってきていた。
 しかし、またそれだけに、前田弥平氏の魔術が案外うまく成功するかもしれなかった。――咲いている花を蕾として認めさせようという、彼の魔術、彼の奇術。

     3

 その時代の世相をもっとも敏感に受け取るのは青年である。無意識のうちに、彼はその敏感な全神経でその時代の世相を受け取っている。
 賢三郎《けんざぶろう》は養父のその計画を、秘《ひそ》かに笑っていた。いまの時代の空気の中に息づいている職工たちがお花見ぐらいの饗応《きょうおう》で、決してその要求を枉《ま》げるものでないことを彼は知っているのだった。そして、彼は養父の態度に対して反感をさえ抱いていた。
 賢三郎は、前田弥平氏の長女|弥生子《やよいこ》と婚約をしたころの賢三郎ではなくなっていた。婚約当時の賢三郎といまの賢三郎とは、全然別個の人間であった。彼はそして、弥生子との婚約を悔いてさえいた。弥生子を嫌っているのではなかった。弥生子の全生活を包んでいる空気を嫌っているのだった。それはもはや、好き嫌いの程度ではなく、彼の全人格を揺り動かして生まれた感覚であった。彼は彼の全人格をもって弥生子を嫌い、弥生子を包んでいる空気を否定していた。彼は早晩のこと、その養家を逃げ出そうとさえも考えていた。
 しかし、そこに一つの未練があった。専制的独裁はその掌《てのひら》の中の制度を、もっとも容易に変革することができるからである。掌を返すように、全然反対の制度へと、容易にそれを変革することができるからである。もし彼が、弥平氏の養子として前田鉄工場の支配権を継ぐなら、自分が全然否定しているところのその工場の待遇制度を、全人格的に肯定できる待遇制度へと変革することができるからであった。それを未練として、彼はその不快な空気の中に弥生子の将来の夫として止まっているのだった。
 賢三郎は養父弥平の前では、なにも言わなかった。言っても無駄だと思っているからであった。しかし、彼はその裏面では常に不平を持っていた。そして、自分の意見に耳を傾けてくれる者に対しては、養父弥平のとっている態度のいっさいを否定し、自分の意見を述べることがあった。その相手は多くの場合、書生の布川《ぬのかわ》であった。
 書生の布川は賢三郎とは、三つの年齢の差があった。しかし、布川は賢三郎ほど敏感に新しい時代の世相を受け取ることのできる青年ではなかった。彼はどことなく、感覚神経に欠けていた。その代わり、彼は燃えるような情熱をもっていた。彼は火の塊のような青年であった。そして、賢三郎を絶対のものとして信頼していた。信者がその神を信頼するようにして信頼していた。賢三郎の言葉は布川にとって絶対であった。燃えるような情熱をもって、賢三郎の言葉を実行に移そうとするような、布川はそういう青年だった。
「……行ってよく様子を見てきました。あなたの言うとおりです」
 鉄工場へ花見の仮装を運んでいってきた布川は、帰ってくるとすぐそう賢三郎に告げた。
「あなたの言うとおりです。お花見ぐらいでは、どんなことをしたって治まりません。悪くすると、あなたの言うとおり暴力が持ち出されそうです」
「やむを得ない。ああいう分からずやの親父《おやじ》には、当然テロリズムを示さなくちゃならないだろう。それは職工側にしたって、そんなテロリズムによらずに協調できればそのほうがいいに違いないが、相手が分からずやでは仕方があるまい」
「暴力? しかしこの場合、暴力なんかで、うまく治まるでしょうかね? だいいち、暴力なんというものは正しい方法じゃないのでしょう」
「方法としては正しくなくとも、ある一つの段階を越えるための手段としては、正しい手段ということができるだろうね」
「しかし、暴力なんてものでうまく治まるものでしょうか? あなたなら、あなたがもし職工側にいたのでしたら、この場合どうします? やはり、暴力でいきますかね?」
「ぼくかね? ぼくなら、徹底テロリズムを持ち出して、親父の奴《やつ》をまず真っ先にやっつけるだろうね」
 賢三郎はそう言って微笑《ほほえ》んだ。真面目《まじめ》とも不真面目ともつかない微笑であった。しかし、布川はどこまでも真面目であった。
「……でも、あなたはそれで、自分は犠牲者になってもいいのですか? 犠牲者になってもやろうとお思いになりますか?」
「なぜ、きみはそんなことを訊《き》くんだね。鉄工場の職工たちがテロリズムを持ち出せば、きみまでやっつけられると思っているのかね? きみは案外|臆病者《おくびょうもの》だね。安心したまえ、いくらなんでもきみまでやられるようなことはあるまいから」
「ぼくはそんなことを恐れているんじゃないんです。ぼくは知りたいのです。正しいことを知りたいんです。あなたがテロリズムを肯定していて、ある手段として肯定していて、さて、自分がそれを行動する場合に、自分は犠牲になってまでそれを実行するだけの熱の持てることでしょうか? それだけの価値のある手段でしょうか? 自分が犠牲になって……」
「そりゃあ、きみ! それだけの価値があるさ」
 賢三郎は真面目に顔を緊張させて言った。
「……たとえばぼくでもいい。ぼくならぼくが一人犠牲になることで、五十人も六十人もの人間の生活を保証することができたら、それでいいじゃないかね。五十人、一家族を平均三人として、百五十人からの人間の生活を保証することができたら……」
「しかし、しかしですね、いまのような場合に旦那《だんな》がやられたとしたら、あなたはその職工側に対して好意を持つことができますかしら?」
「好意?」
「それは、あなたでなくてもいいんですがね。便宜上あなたを例にして、前の工場主が暴力でやられているのに、その子供なり養子なりがその工場の後継者となった場合に、うまく折り合いがつくでしょうか? かえって、反感から悪い結果になりはしないでしょうか?」
「きみはある局部だけを見ているんだ。その工場の職工たちが暴力で勝って、そのために犠牲者を出して、そのうえその工場の人たちはたとえその後うまくいかなかったにしても、大局から見たら結局はプロレタリアが勝っているのじゃないかね」
「しかし、局部を見究めることも必要だと思うんです。……あなたの場合だったら、それをどう解決しますかね。養父がやられ、そのうえに職工たちの要求に……」
「きみ! ぼくをそんな人間と思うのかね? ぼくをそんな無理解な人間だと思うのかね? 職工たちが正義のためにとった手段に対して、ぼくがとやかく思う人間だと……」
「分かったです。それで分かりました」
布川は低声《こごえ》ながら、叫ぶようにして言った。
「……つまり、テロリズムを持ち出す場合は、その場の様子を見なければいけないわけですね。そして相手の様子によって……」
「それはそうだよ。闘いじゃないか? いまどきはそんなテロリズムを担いでいる闘士なんてないだろうからね? しかし、その場合によって、どうしてもテロリズムでいかなければならないことがあったら、それは仕方がないじゃないかね? たとえテロリストでない人間でも、その場の成行きで急にテロリストになることだってあるだろうし、ぼくならその工場の後継者としてそのテロリストの行為に好意を持つね。ぼくはそして、その犠牲になったテロリストの犠牲に対して、報いるだけのことをするね」
 その時、その部屋のドアをだれかがノックした。
「どなた?」
 賢三郎は顔を上げて言った。
「わたしよ、入ってもいいこと?」
 ドアが外から開いた。入ってきたのは賢三郎の婚約の令嬢、弥生子であった。

     4

 朝は深い靄のために鈍色《にびいろ》に曇っていた。
「晴れる晴れる。大丈夫晴れるよ」
 仮面の男が街頭の空を見上げて言った。
「花曇りさ」
「青空が見えてきたよ」
 同じ仮面の男が言った。
 前田鉄工場の仮装観桜会に行く、前田鉄工場の職工たちであった。
 集合場所は新宿《しんじゅく》の駅前になっていた。同じ仮面をつけた同じ仮装の人間が、その住宅から三人五人ずつ連れ立って集まってきた。最初はその声色や身体《からだ》の恰好《かっこう》で、仮装の中に包まれている人間がだれであるか判然と分かった。しかし、それがしだいに多く合流していくに従って、だれがだれであるか全然分からなくなっていった。
 新宿の集合場所には、工場主前田弥平氏が早朝から行っていた。彼は家族の者にも職工たちと同じ仮装をさせて引き連れてきていた。しかし、彼自身は背広の首に花見の手拭《てぬぐ》いを一本結んでいるだけで、仮装はしていなかった。したがって、そこへ集まってくる職工たちの目には、自分の同志のだれが来ているのかは分からないが、工場主前田弥平の来ていることだけはすぐ分かった。
 仮装の職工たちはそこへ集まってくると、まず工場主のところへ行ってお辞儀をした。前田弥平は鷹揚《おうよう》な微笑でそれを受けていた。職工たちはもしその同一の仮装をしていなかったら、こんな場合、彼の前に行ってお辞儀をするようなことはなかったかもしれない。しかし、同一の仮装のため、もはやだれがだれであるか全然分からなくなっているのだった。そのことが彼らをして、何の懸念もなく工場主に対してお辞儀をさせたのだった。
 前田弥平は豪胆な一面を持っている男だった。仮装の職工たちからそうしたお辞儀を受けるために、自分だけが仮装せずにいるのがすでに彼の豪胆を語っているといってもよかった。彼はそして、職工たちが個人として自分に対する場合、自分に対してどれだけの好意を持っているかを見ようとして、この同一仮装の人間を作り上げたのかもしれなかった。職工側のほうではまた、その仮装が全部同一のものであったために、今日の花見のことを受け入れたのかもしれなかった。いずれにしろ、前田弥平氏の計画の第一歩はとにかく成功したのだった。

     5

 観桜会の場所は、武蔵境《むさしさかい》の小金井《こがねい》であった。同じ青と白との縞《しま》の着物を着て、同じ仮面をつけた六、七十人の職工たちは、ただ一人背広を着ている工場主を取り巻くようにして長い土堤《どて》の上を雪崩《なだ》れていった。
 用水堀の両側の土堤からその中央の流れの上に、桜の花は淡紅色《ときいろ》の霞《かすみ》のように咲きつづけていた。搾《しぼ》りたての牛乳のように微《かす》かに温かで柔らかな空気の中に、桜の花はどこまでもおっとりと誇らかに咲いているのであった。
 花見の人たちはその下を潮騒《しおさい》のように練っていた。幾つも幾つも団体の仮装が通った。喚声が高らかに至るところから上がった。子供の泣き声がした。喧嘩《けんか》があった。急拵《きゅうごしら》えの茶店からは大声に客を呼んでいた。それは花と人間との接触ではなかった。人間と人間との接触! まるで、人間の洪水を見に来ているようなものだった。そして、桜の花のほうがかえってある一つの落ち着きをもって、じっとこの人間の騒々しい芝居を眺めていた。
 その雑踏の中でも、前田鉄工場の仮装団はとくに目立っていた。彼らはその仮装が同じばかりでなく、同じような昂奮《こうふん》で語り、同じ声で叫び、そしてときどき彼らは労働歌を合唱した。ある者は工場主を罵倒《ばとう》し、ある者は皮肉を投げつけた。しかし、工場主の前田弥平氏はその機構の中の一つの細胞のように愉快な笑いで語りながら、彼らと一緒に縋《もつ》れていた。それは嵐を孕んだ青白い雲だった。青白い雲のように、彼らの一団はその人間の洪水の中を通り過ぎていった。
 長い土堤を中ほどまで来たとき、青白い仮装団はそこの雑木林の中へ雪崩れ込んでいった。仮装観桜宴会はその雑木林の中で催されるのだった。青白い仮装団は雑木林の中いっぱいに広がった。持ってきた折詰の弁当が渡された。瓶詰の酒が配られた。
 前田弥平氏はそこで、一場の挨拶《あいさつ》をすることになった。寄生者の生活にはしばしばのこと、一場の挨拶が縺れついている。彼の挨拶もまた、それに過ぎないものではあったが、彼はその挨拶のカテゴリーにおいて自分の計画の第一歩を踏み出そうとしていることはもちろんであった。彼は仮面の群れに向かって声を張り上げた。
「――諸君! わたしは今日のこの仮装観桜会の主催者として、何よりもまず今日の晴天であったことを諸君とともに喜ぶ者であります」
「だれも喜んでなんかいねえや」
 だれかが後ろから怒鳴った。仮面の目がいっせいにその声のほうへ集中した。
「ふんとだあ! 降りゃあよかったんだ」
「……諸君! 空には花がいまや満開です。平和な空に花は共に楽しく微笑んでいます。そして地には、われわれ人間がこうしていま平和な喜びをもって宴会を開こうとしています。共に楽しみ、喜びをもって、平和を……」
「嘘吐《うそつ》きゃあがれ!」
 また一つの仮面が怒鳴った。
「証拠を見せてやれ! 証拠を!」
 その時だった。仮装の一つが闘鶏のように飛び出していった。次の瞬間に、その男は弥平氏が首にかけていた花見の手拭いに手をかけて、弥平氏をぐっと背後へ引き倒していた。そして、その男はその手拭いの端を握って弥平を曳《ひ》き摺《ず》り回した。弥平氏は声を立てることもできずに身を※[#足へんに「宛」、313-16]《もが》いた。しかし、その男はその手拭いの端を放さなかった。彼は弥平氏の身体を曳き摺って駆け回った。
「乱暴はよせ! 乱暴はよせ!」
 しかし、そう言って五、六人の者がその男の手から弥平氏を放させたとき、それがどの手から放させたのか分からなくなっていた。そして、弥平氏はもう死んでいた。
「おい! 死んでいるじゃないか!」
「だれだ! いまのはいったいだれだ!」
 もちろん、分かるわけはなかった。同じ七十の顔から、それがだれであるか見分けることのできなかったのはもちろんだった。

     6

 前田鉄工場の職工たちは観桜会のその場から、ことごとく警察に挙げられた。そして、前田弥平氏絞殺のことについては夜を徹して厳重な取調べが続いた。しかし、だれもそれを自白する者はなかった。
「……では、だれじゃないかな? ぐらいの想像ならつくだろう」
 係の警察官はそう訊《き》くより仕方がなかった。
「それが、どうも。七十人近くの人間がみんな同じ着物、同じ顔をしていたものですから……」
「いったい、あの仮装はどっちが考えたのかね? 工場主のほうで考えたのか? それとも、きみたちのほうが考えたのかね?」
「あれは工場主のほうで考えて、必ずその仮装をして出るようにとのことでしたもんですから……」
「分からん! どうも分からん!」
 係の警察官はそう言って、頭を振るより仕方がなかった。
「工場主はいったい、なぜあんな仮装をきみたちにさせたのかね? 何か目的があったのだと思わないかね?」
「わたしたちには分かりませんです」
「どうも不思議だ」
「でも、工場主が職工たちとの間を親密なものとしようとして、花見をしたことだけは分かります」
「それはそうだろう。しかし、なぜあんな同じ仮装をさせる気になったか? どうも分からん」
 結局、そこに挙げてきた職工たちの中から犯人を捜し出すことはできなかった。職工たちと同時に、工場主と一緒だったその家族の人たちも一応は調べられた。もちろん、犯人はそこからも挙がらなかった。
 警察ではそして、その職工たちの中からもっとも過激的であると睨《にら》んでいた七、八人を残すよりほかに仕方がなかった。事件の端緒が間接的にも直接的にも、今度の争議に発しているからである。
 その七、八人の中から、わけても真犯人としての嫌疑をかけられているのは山本《やまもと》と河瀬《かわせ》とであった。山本は前田鉄工場へ来る前にある大さな鉄管工場に働いていて、その工場に争議があったときその工場を経営している会社の社長の自宅を訪問し、社長にピストルを突きつけ脅迫罪の前科を持っている男だったからである。そして、河瀬は前田鉄工場の今度の争議に際して幾度も工場主前田弥平氏をその自宅に訪問し、そのたびに脅迫的な言葉をもって弥平氏と激論していたからであった。
 しかし、この二人の嫌疑者にも、その証拠となるべき充分な何物もなかった。しばらくして彼らも放免された。
 そして、前田弥平氏殺害事件は忙しい社会から、新しい事件の下積みとなってしだいに忘れられていった。警察のほうでもまた真犯人検挙のために注いでいた全力を中止して、その方針を改めなければならなくなってきていた。

     7

 主人の弥平氏を失った前田家では、その鉄工場を他人の手に渡してしまおうという話が持ち上がった。個人でその工場を経営しているばかりに、しばしばのことその家人までがいやな思いをさせられるからである。そして、その工場を手放すことによってかれらの今後の生活は安全らしく、しかも平和らしい殻の中に閉じ籠《こも》ることができそうだったからである。娘の弥生子もまたそれには賛成だった。が、養子の賢三郎はそのことにはどうしても賛成しなかった。
 賢三郎には、前田鉄工場を模範工場にしたい野心があった。従来のいわゆる模範工場ではなかった。彼は彼の中の理想の世界の一部を、その工場に移したいのだった。それは困難な道に相違なかった。しかし、賢三郎の若い野心は新しい時代の社会の要求として、自分の目に映じたその世界をそこに実現してみずにはいられない希望に燃えるのだった。
 そして、賢三郎はこれまでの書斎の生活を離れ、若い工場主として実生活への第一歩を踏み出すことになった。
 ちょうどそのころ、これまで前田家の書生としてそこに寄食していた布川もまた、賢三郎と同じように実社会へと乗り出していくことになった。
「とにかく、ぼくは生命《いのち》を投げ出してやってみようと思うんです」
 布川はそう、賢三郎に向かって言うのだった。しかし、彼には別に自分としての特別な意見があるわけではなかった。彼のそれはただ、賢三郎の常からの言葉を実行に移そうとしているに過ぎないものだった。
「まあ、どこまでやれるか、やってみるんだね。ぼくはきみの情熱を尊敬しているよ。とにかく、ぼくの目指しているところときみの目指しているところは同一場所なんだからね。ただ、その場所へ行くのに、表からと裏からと、その行く道が違っているだけなんだ。大いにやろうじゃないか?」
「ぼくはやります。ぼくは生命を投げ出してやります」
「しかし、前にも言ったことがあったように、テロリズムだけはその場をよく見ないと馬鹿《ばか》らしい犠牲に終わるからね」
「ぼくだって、それは充分考えています。運動のほうへ入って、とにかくぼくはこれからひとつやってみますから」
 そして、布川は前田の家を出ていった。
 布川のそれからの生活は、工場労働の不平不満を背負うという生活だった。それは白熱している鉄塊に、裸の身体を打ちつけるような生活であった。
 しかし、布川はそれに耐えていた。

     8

 靄! 靄! 靄!
 靄の日が続いた。胡粉色の靄で宇宙が塗り潰された。そして、その冷たい靄ははるかの遠方から押し寄せてくる暖かいものを、そこで食い止めていた。くい止めて吸収していた。
 靄の中で桜の蕾が目に見えて大きくなっていった。人間の感情もまた、その靄の中で大きくなっていく桜の蕾のようなものだ。街の人たちはもう花見の話をしていた。
 靄が濃くなり暖かくなるにつれ、桜の蕾がその中でしだいに大きくなっていくように、人間の感情もまたその雰囲気の中でしだいに膨張する。前田鉄工場の職工たちの感情もまたそうだった。一年前のこの工場の待遇に比べれば、はるかにいいものにはなっていたが、しかし彼らはもはやその待遇に慣れ切っていた。そればかりではなく、生活は雪達磨《ゆきだるま》のように転がれば転がるほどしだいに大きくなるものだ。彼らもまたあの時から、しだいに大きくなってきていた。しかし、あの時よりはよくなり、大きくなってきているということは、必ずしも現在を満足させるものではあり得ない。あの時の彼らの生活が人間以下の生活であったように、現在の生活もまたそれは人間以下のものであった。豚の生活にも、その飼主によっていろいろの生活がある。甲の飼主から乙の飼主の手に移って、ある豚ははるかにいい待遇を受けたかもしれない。しかしそれはやはり豚の生活であって、人間の生活ではない。自分たちの生活が人間以下のものであることを自覚した彼らが、そして一方に自分たちの労働を搾取することによって豪奢《ごうしゃ》な生活を構えている前田賢三郎を見ると、彼らは当然要求すべきものを要求せずにはいられなかった。
 前田賢三郎は工場主として、職工たちのその要求を当然のものとすることができなかった。彼は彼自身、職工たちに対して相当以上の理解のある工場主であることを信じていた。そして、彼は職工たちに対してできるだけの待遇はしてきているはずだった。工場主としての自分のそういう気持ちを知らずに、なおこのうえに要求を重ねようとしている職工たちの貪欲《どんよく》を思うと、賢三郎は意地でもその要求を退けてやりたい気がするのだった。
 前田賢三郎はその対策についていろいろと考えた。書斎の前の露台に籐《とう》の長椅子《ながいす》を持ち出させて、その上に長々と寝そべりながら彼はその対策を考えつづけていた。
 彼の白い手に挟んだ高価な葉巻からは、青白い煙が静かに立っていた。そして庭の隅の、五、六本の山桜はもう咲きかけていた。麗《うら》らかな懶《ものう》い春であった。その麗らかな自然の中で、相闘っている一方の人間が充分の余裕をもってその対策を考えているのだった。
 そこへ、しばらくぶりに布川が彼を訪ねてきた。賢三郎は布川を自分の書斎へ通させて、そこで会った。
「やあ! しばらくじゃないか?」
「しばらくです」
 布川は油の染みた背広を着ている。それはところどころ破れてさえいた。
「その後どうしているね?」
「このとおりです」
「運動をやっているんだね」
「やっているんです。それで、今日はお金を寄付していただこうと思ってきたんです」
「どこかに争議があるのかね?」
「あなたにも似合わないことを言いますね。争議なら、いつだってどこにもありますよ。しかし、今日はその争議の費用を頂きに来たわけではないんです」
「何をする金なんだね?」
「職工たちに仮装観桜会を開いてやろうと思うんです」
「今年もかね? きみ! いつもいつも柳の下に鰌《どじょう》[#底本ではルビを「とじょう」と誤記]はいないよ。いったいどこの工場だね?」
「前田鉄工場です」
「前田鉄工場?」
 賢三郎は怪訝《けげん》そうに顔を緊張させて、その皺《しわ》の中に恐怖的観念を畳み込んだ。
「そんなにお驚きにならなくてもいいですよ。わたしはあなたをどうしようなど思っていないんですから。ただ、お金を頂ければいいんですから」
「ぼくは出さんね。ぼくは前田鉄工場の職工たちにはどんなことをしても出さんね」
「職工に出してくれというのじゃありません。わたしに出してください。わたしはあなたの、もっとも大きな過失を知っている人間です。そのわたしが職工たちに少しは人間らしい生活をさせてやりたいからってこうして頼むんですから、出せないわけはないでしょう? しかも、それはあなたの過失によって、あなたが職工たちから搾取したものじゃありませんか? それを、そのほんの一小部分を職工たちに返してやれないわけはないじゃありませんか?」
「きみは自分の罪を、ぼくになすりつけようとしているんじゃないのかね?」
 賢三郎の声は少し顫《ふる》えていた。
「わたしはそんな卑怯《ひきょう》な男じゃないです。わたしは自分の行為には生命を投げ出して責任を持っています」
「きみは少し不良になったようだね? きみはぼくの言葉を、あんなに信じてくれていたのだが……」
「しかし、あなたは誤っていたじゃありませんか? いまはわたしのほうが正しいのです。わたしは当然、職工たちの代表者としてそれだけの要求をしていいはずです」
「きみが正しい? きみが卑怯な男でない? それでぼくのほうが誤っているのかね? きみはまさか、自分の罪をぼくになすりつけるつもりじゃあるまいね?」
「わたしはそんな人間じゃありません。しかしあのことなら、それはあなたが殺したのですよ」
「ぼくが?」
「そうです。それはわたしはあの手拭いを引っ張ったですけれども、わたしは手拭いを引っ張った手に過ぎなかったのです。引っ張るべきだという意志は、あなたがわたしに強いた意志じゃないですか?」
「きみ! そんなことを大きい声で言っちゃ困る。ぼくはそんなつもりじゃなかったんだ」
「しかし、それは事実です。あなたはテロリズムの話を持ち出したとき、わたしになんと言って教えたか、それを思い出してください。わたしはそれを実行したまでじゃありませんか?」
「きみ? しかし……しかし……」
 賢三郎の声はひどく顫えた。
「大丈夫です。あなたがその話を持ち出してわたしを罪人のように言うから、わたしはそう言っただけです。だれにも公言なんかしやしません」
「……でも、きみはぼくの過失だと言うからだよ。ぼくの過失から……」
「わたしの過失と言うのは、だれが殺したか? その責任を言っているのじゃないです。あなたは、資本家として、職工たちの生活を改造してやろうと思っているのでしょう? それを言うのです。それが過失じゃないでしょうか? たとえば、資本主義は職工を搾取する機械でしょう。あなたはその搾取する機械を運転している資本家じゃないですか。わたしの言った過失というのはそれなんです」
「まあ、それはそれでいい。それならぼくの過失でいい。それできみは、職工たちにどんな仮装をさせるのかね? 仮装をさせるのにそんなに金がいるかね?」
「わたしは仮装観桜会はしません」
「では、どうして……」
「あなたが去年の仮装観桜会のころのことを思い出して、職工たちの今度の要求を全部|容《い》れてやっていただきたいのです」
「全部?」
「全部です」
 布川はそう言って、じっと賢三郎の顔を見詰めた。賢三郎も、布川の顔を見詰めた。二人の間に沈黙が続いた。


底本:「恐怖城 他5編」春陽文庫、春陽堂書店
  1995(平成7)年8月5日初版発行
入力:大野晋
校正:鈴木伸吾
1999年6月28日公開
1999年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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