青空文庫アーカイブ

荒雄川のほとり
――私の郷土を語る――
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)玉造《たまつくり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)宮城県|玉造《たまつくり》郡

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]――昭和五年(一九三〇年)『新文藝日記』(昭和六年版)――
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 私の郷里は(宮城県|玉造《たまつくり》郡|一栗《いちくり》村|上野目天王寺《かみのめてんのうじ》)――奥羽山脈と北上山脈との余波に追い狭められた谷間《たにあい》の村落である。谷間の幅は僅かに二十町ばかり。悉《ことごと》く水田地帯で、陸羽国境の山巒《さんらん》地方から山襞《やまひだ》を辿《たど》って流れ出して来た荒雄川が、南方の丘陵に沿うて耕地を潤《うるお》し去っている。
 南方の丘陵は、昔、田村麻呂将軍が玉造柵を築いたところ。荒雄川の急流を隔てて北方の蝦夷《えぞ》に備えたのであろう。後に、伊達正宗の最初の居城、臥牛《がぎゅう》の城閣がこの丘の上に組まれ、当時の城閣を偲ばせる本丸の地形や城郭の跡が今でも残っている。
「栗駒おろし吹きなびく
 臥牛城下に生をうけ
 残されたりし英雄の
 ……」
 私達は子供の時分、そんな歌を歌った。
 併し、私の生まれた部落は、北方の丘陵に近く、南方の山脚を洗う荒雄の水音を、微《かす》かに聞く地点なのである。
 南方の丘陵が武将の旧跡なら、北方の丘陵は宗教の丘である。即ち聖徳太子の四天王寺の一つが今の地名をなしている。豪壮な伽藍《がらん》は、幾度も兵火にあいながら、私達の子供の時分までは再建を続けられていたのだそうだが、坊主が養蚕で火を出してから、今では仮普請《かりふしん》の小さなものになってしまった。当時、聖徳太子が自ら刻んだという如意輪《にょいりん》観音の像だけは、寺院の近くに、今にその堂宇《どうう》を残しているのであるが、最近、それが聖徳太子の作ではなく運慶《うんけい》の作であることが鑑定され、近く国宝に編入されるという噂である。もう一つ、ここには守屋大臣の碑が雨ざらしにされている。十五六年前、楠木正成の筆らしいと騒がれたこともあったが、それはそのまま立ち消えになってしまった。
 とにかく、私を十五の歳まで育てたこの部落は、背後に畑地の多い丘陵があり、前面に水田が開けていて、農民小説には寔《まこと》に都合のいい舞台を形成している。――私が農民小説を書き出した動機の一つは、この地形にあると思う。
[#地から2字上げ]――昭和五年(一九三〇年)『新文藝日記』(昭和六年版)――



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「新文藝日記 昭和六年版」
   1930(昭和5)年
※底本巻末の「年譜」を参照して、「昭和五年(一九三一年)」を、「昭和五年(一九三〇年)」にあらためました。
入力:大野晋
校正:鈴木伸吾
1999年9月24日公開
2003年10月21日修正
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