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婦人の天職
堺利彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)僅々《きんきん》

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    一

 福田英子女史足下。婦人はよろしく婦人の天職を守るべしとは、多くの学者、文人、説教者、演説家等より我々の常に承るところなるが、そのいわゆる天職とははたしていかなるものなるか、それがハッキリと定められざるかぎりは、いかに温良、貞淑、従順なる今の世の婦人といえども、これを守らんことすこぶる困難なるべし。ゆえに小生はここに少しく婦人の天職を考察して、『世界婦人』に献じ、いささか足下の参考に供せんと欲す。
 ある人は、婦人の天職は結婚して夫に仕うるにありと言えり。小生考うるに、結婚もし天職なりとせば、そは婦人のみの天職にあらずして、また必ず男子の天職ならざるべからず。しからば何もとり立てて婦人の天職というほどのことなく、ただこれ人間の天職、動物の天職と言うべし。しからば夫に仕うるが、はたして婦人の天職なるかと考うるに、小生はすこぶるその理由を発見するに苦しむものなり。人類社会の古き歴史を検するに、母系制度と称して女子が一家一族の長たりし時代もあり。その時代には女子のために特定の夫という者なく、子はあまたありとてもその父のだれだれなるやは判然せざりしなり。この辺のことについては石川旭山(いしかわきょくざん)君が貴紙の別項において詳細に論述せらるるよう承りたれば、小生は長々しく申し上げざれども、とにかくかかる時代において、婦人の天職は夫に仕うるにありと言いえざるは明白のことなるべし。しからば婦人が夫なる者に属してこれに仕うるに至りしは、比較的近代のことにして、僅々《きんきん》数千年間の現象なり。もしこれをしても天職と言いうべくんば、日本男子の天職は年寄りて隠居となるにありとも言いうべし。何となれば、数百年の永き月日の間、日本の男子は年寄りて後、その家督をせがれに譲りて隠居するの風習なりければなり。そこで小生の考うるところによれば、隠居の風習が人間社会におけるただ一時の現象にして、遠き過去にもそのことなく、現在にもすでにそのことなきがごとく、婦人が夫に仕うるということも、やはりただ一時の現象にして、遠き過去にもそのことなく、現在にはなおしばらくそのこと残れりといえども、将来には必ず消えてなくなるべきものなり。さればかようなることを天職などと称して、しいて婦人を縛りつけんと欲するは、実に不都合窮まる男子の得手勝手と言わざるべからず。

    二

 ある人はまた、婦人の天職は家を守るにありと言えり。これはあたかも犬の天職は門を守るにありというに同じ。犬はもと山野にありて自由独立の生活を送りしものなり。その時には守るべき門というものもなかりしなり。後ようやく人間に圧伏せられて、家畜という境涯に落ちたればこそ、ここに初めて門を守るという役目を仰せ付けられたる次第なれ。いずくんぞこれをもって犬の天職と言うべけんや。婦人が家を守るもまたかくのごとし。男子に圧伏せられてその奴隷《どれい》たるがごとき境涯に落ちたればこそ、ついにかかる迷惑の役目をも背負わされたるなれ。天職などとは実によいつらの皮と言うべし。
 ある人はまた、婦人の天職は炊事、裁縫にありと言えり。これはほぼ前項と同様の説にして、また実に人をばかにしたる話と言うべし。昔封建時代の武士は、米を作るは百姓の天職なりと言いたりき。いかにも田を耕し、苗を植え、肥やしをくみ、稲をこくがごとき労苦のことは、これを百姓の天職なりとして彼らの手に打ち任せ、自分らは大小をさし、かみしもをつけぶらぶらとしてその米をとり食らうこと、武士にとりてはすこぶる好都合なりしなるべし。それと同じく、炊事、裁縫、洗たく、そうじなど、すべて日常生活のめんどうなることは、いっさいこれを婦人の天職なりとして彼らの手に打ち任せ、自分は出入自在にして、勝手次第にほうつきあるくこと、男子にとりてはすこぶる好都合のことなるべし。しかるにあるお人よしの婦人のいわくに、料理などはドウしても最愛の妻の親切なる手に成りたるものならでは、十分に男子を満足せしむることあたわざるべし。ゆえにわたしらはどこまでも料理等の事をもって婦人の天職と思うなりと。これいかにも殊勝千万のお心掛けと申すべし。小生なども男子の片はしであるからには、かようなる殊勝の婦人に対し無限の感謝をこそ呈すべけれ、悪口雑言などユメ申すべきはずにはあらねど、さりとてはここに不思議なることこそあれ。そはかようなる殊勝の心掛けが婦人の側にのみありて男子の側に無きの一事なり。小生の考うるところにては、料理などはドウしても最愛の夫の親切なる手になりたるものならでは、十分に婦人を満足せしむることあたわざるべし。ゆえに僕らはどこまでも料理等の事をもって男子の天職と思うなりと、一人くらいは言いだしそうなものと思うなり。しかるに天下かつてこの事なきを見れば、この料理天職説も畢竟《ひっきょう》は男子の得手勝手より婦人に塗りつけたるものにして、婦人は男子の意を迎えんがため、もしくは知らず知らず男子の意を受けて、ついに自らしか言うに至りたるものなるべし。
 小生のさらに考うるところによれば、仮に水をくむことが婦人の天職なりとしたところで、水道の給水法が完成せられて、どこの家においてもネジを一つひねればこんこんとして水があふれ出るという場合になれば、婦人の天職はほとんど無くなってしまうにあらずや。また仮に飯をたくことが婦人の天職としたところで、おいおい飯炊法が改良せられて、各戸別々にかまどを据えつくるは不経済のはなはだしきものということになり、一〇〇軒も二〇〇軒もが一緒になり、もしくは一町内、一村落が申し合わせて、大仕掛けの共同飯炊所を作るの日ありとすれば、数百人の細君が数人ずつかわるがわる飯炊当番になるとしても、わずかに一〇〇日に一度だけしかその天職を尽くしえざることとなるにあらずや。さりとてはあまりに軽少なる婦人の天職というべし。されば炊事といい、裁縫というがごとき、その大部分はむしろ器械の天職にして、決して人間の天職にあらず。今日においてこそは、社会組織の不完全なるがゆえに、かようなるくだらぬことが人間の手仕事となりおれども、将来の進歩せる社会においては、たいていのめんどうなることはみな器械の働きとなり、人間はただこの器械を用いて僅少《きんしょう》の骨折りをなすにすぎざることとなるべし。しかしてその僅少の働きは、女子のなすべきものとも、男子のなすべきものとも限らず、だれにてもただ便宜に従いてこれに当たるべく、女子の天職などというものはほとんど皆無に帰するなるべし。

    三

 かようのことを申さば、論者あるいは大いに小生を責めていわん。なんじいかに奇矯の言をなして婦人の天職を皆無に帰せしめんと欲するも、妊娠、分娩《ぶんべん》、育児のことに至っては、ついにこれを婦人の天職にあらずと言うをえざらんと。いかにもしかり。このことばかりは器械でらちをあけるという訳にもゆかず、男子が分担するという訳にもゆかず、小生といえどもこれをもって高等女性動物の天職なりと認むるの外なし。しかれども小生はただこの一事あるがゆえに、世の多くの論者のごとく、婦人をもって政治上もしくは社会上における諸種の任務にたえずとなし、または高尚深遠の学芸に適せずとなすの理由を発見することあたわず。いかにも妊娠、分娩、育児のことは婦人の大任務にして、生殖事業の八、九分までは婦人の分担に属したる訳なれば、他の諸事業の八、九分まではこれを男子の任務とするの道理に似たり。しかれども文明社会における人生の事業は、生殖事業と他の諸事業との二種にわかつべきものにあらず。小生の考うるところによれば、生殖事業と生活事業と、および他の高尚なる諸事業との三種にわかつべきものなりと信ず。されば婦人がその生理上の自然として生殖事業の八、九分を分担するに対し、男子はよろしく生活事業(すなわち直接衣食住の事業)の八、九分を分担すべし。しかして二者以外、他の高尚なる諸事業は、男女の別なくおのおのその適するところに従ってその任務に服すべし。たとえば、男子は米を作り、女子は子を産み、しかして男女共にその余暇余力をもって文学、美術、音楽、宗教、哲学、科学等のことを学ぶべしというなり。論者はなおあるいはいわん、仮になんじの言をよしとするも、女子は子を産み子を育つるにおいて、おそらくは多くの余力なからんと。今日においてあるいはしからん。しかれども今日の女子が子を産み子を育つるにおいて余力なきは、あだかも今日の農夫が米を作るにおいて余力なきに同じ。もし将来の進歩せる社会において、農業が精巧なる器械の応用と多数人の組合とによって、それに従事する労働者に多くの余暇余力を存せしめうべきを信ずるならば、生殖事業もまた周到なる設備と多数人の助力とによって、それに従事する婦人に多くの余暇余力を存せしめうべきを信ぜざるべからず。試みに想像せよ。ここに一婦人あり、その生殖事業に従うのゆえをもって、しばらく他のいっさいの任務を免除せられ、またそのすでにやや成長せる子供の世話を免除せられ、常にその友人たる多くの男女の助力を受け、ことにその分娩の際には、十分なる設備と十分なる看護とを与えられ、分娩後にも哺乳《ほにゅう》の任務の外は多くの助力を受け、しかして必要なる哺乳時期を過ぐれば、幼児の世話もたいていは多くの人々の手に分担せらるることとならば、この婦人よし五、六人の子供ありたりとて、決して他の高尚なる事業に従うの余暇余力なきを憂いざるべし。論者なおあるいはいわん、そのように助力を与うる多くの友人あるを望みうべきかと。小生の考うるところによれば、婦人はことごとく多くの子供を産む者にあらず。ある者はわずかに一、二人を産み、ある者は全くこれを産まず。ゆえにそれらの婦人がその余力をもって他の多産婦人を助くるは、当然にしてまた自然の人情なるべし。ただ今日においては、人みな自己の生活に忙わしく、他を顧みるのいとまなしといえども、進歩せる将来の社会において、人みな生活の余裕を生じ、人と人と競争し、家と家と相隔つるの陋態《ろうたい》を脱するをえば、自然の人情はここに油然としてわき起こり、余力多き婦人は必ず走って多産婦人を助くべきは想像に難からざるべし。また男子の側より見れば、生殖の大事業を婦人に分担せしめたることとて、生活事業の余力をもってなるべく多く婦人を助け、その労苦を最少の度に減ぜしむべきはもちろんなり。

    四

 これを要するに、婦人の特殊なる天職はただ妊娠、分娩、哺乳の一事にあり。しかもそは決して婦人生涯の全力を要求するものにあらず。婦人はこの特殊なる天職の外に、男子と相並んで一般人間の天職を果たさざるべからず。ただし小生といえども、全く男女性情の差異を認めざるにあらず。婦人がその生殖作用の分業より来たる必然の結果として、生理上ある点において男子と異なる傾向を生ずるは、否むべからざる事実なるがごとし。小生は今日の男女間に見るがごとき性情の大差異は、社会の制度習慣より来たれる一時の現象なりと信ずれども、別に男女性の根本において多少の差別あるべきは、またこれを認めざるをえざるものあり。ゆえに男子が生活事業を分担し、婦人が生殖事業を分担し、それ以上にもって男女共に他の高尚なる諸事業に当たるの時、女子がその自然の性情に基づきて、あるいは多く美術におもむき、あるいは多く音楽に向かうというがごとき、男子に対して趣味ある差別を現ずべきは、小生の常に想像するところなり。さればこの点において、婦人の天職は美術にあり、婦人の天職は音楽にありなどとも称するをえんか。ただしそは将来の自由社会における自然の発展に見て、しかして後初めて言うべきの事にして、今日軽々にこれを予想し、断言すべからず。ことに男子が、その男子的偏見(よし自らはその偏見たることを意識せざるにもせよ)をもって、憶断に婦人の天職を云々するがごときは、実に許すべからざるの大罪なりと信ず。福田女史もっていかんとなす。
[#地付き](明治四〇・一・一、第一号)



底本:「堺利彦全集 第三巻」法律文化社
   1970(昭和45)年9月30日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:染川隆俊
2002年10月7日作成
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