青空文庫アーカイブ
続獄中記
大杉栄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)凱《とき》の声を
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(例)畜生恋[#「畜生恋」はゴシック体]
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畜生恋[#「畜生恋」はゴシック体]
僕はいつも独房にばかりいて、雑房の方のことはよく知らない。雑房というのは、詳しく言えば雑居房だ。六人も八人も十人も、あるいはもっと多くの囚人が六畳敷か八畳敷かの一室にとじ籠められている。定員四名、現在十二名、というような札が、監房の入口にかけられてあるのも珍らしくはない。
多くは同じ性質の犯罪、たとえば泥棒は泥棒と、詐偽は詐偽と一緒に置かれて、数カ月乃至数カ年の間、仲よく泥棒や詐偽の研究をしている。実際みなずいぶん仲がいい。しかしその間にも、他のどこででもあるように、よく喧嘩がある。時としては殺傷沙汰にまでも及ぶ。が、その喧嘩のもとは、他の正直な人々の間のようには、欲得ではない。そのほとんどすべてが恋のいきさつだ。
ちょっと色の生っ白い男でもはいって来れば、みんなして盛んにちやほやする。まったくの新入りでも、監房や工場のいろんな細かい規則に、少しもまごつくことはない。なにかにつけて、うるさいほど丁寧に、よく教えてくれる。庇ってもくれる。みんなは、ただそれだけのことでも、どれほど嬉しいのか知れない。
こうしてみんなが、若い男のやさしい眼つきの返礼に、何ものにも換え難いほどの喜びを分ち合っている間は無事だ。が、それだけでは、満足のできない男が出て来る。その眼の返礼を独占しようとする男が出て来る。平和が破れる。囚人の間の喧嘩というのは、ほとんどみな、直接間接にこの独占欲の争いにもとづく。これは世間の正直な人々の色恋の争いと何の変りもない。
どこの監獄の囚人の間にも、この種の色情はずいぶん猛烈なものらしい。
もっとも、これだとて、決して囚人特有の変態性欲ではない。女っ気のない若い男の寄宿舎なぞにはどこにでもあることだ。現に僕は、陸軍の幼年学校で、それが知れればすぐに退校されるという危険をすら冒して、忠勇なる軍人の卵どもが、ずいぶん猛烈にこの変態性欲に耽っているのを見た。はなはだお恥かしい次第ではあるが、僕もやはりその仲間の一人だった。
その僕が、しかも同志の間ではちょうどピストル強盗といったような形で赤い着物がよく似合うとからかわれていたほどの物騒な面構えなのにもかかわらず、危く監獄でこの犠牲になろうとしたことがあった。
千葉でのある日、湯にはいっていると、そこへ見知らぬ男が一人不意に飛込んで来た。監獄の湯は、どこでもそうらしいが、大勢一緒にはいる大きいのと一人ずつ入れる小さいのとがある。僕等は、いつもはその大きいのに仲間だけが一緒にはいるか、あるいは何かの都合で小さいのに一人ずつ入れられた。その日は一つ一つ板で隔てて一列に並んでいる小さい方へ、みんなが別々に入れられた。ほかの囚人を一緒に入れる筈はないのに、とは思ったが、看守の間違いにしろ何にしろ、とにかくほかの囚人と接触するのは面白いと思って黙っていた。
その男は僕がわざわざ隅に寄って前の方をあけてあるのに、「失敬」と言いながら僕の肩を叩いて、後ろへはいろうとした。妙な奴だとは思いながら僕は少し前へ出た。すると、いきなりその男は飛びこんで来て、後ろから僕を抱きかかえた。
僕は飛びあがって、そいつの横面を一つうんと殴りとばして、そとへ出た。もう「出浴」の号令のかかる間近でもあったのだ。
脱衣場では、同志の村木というまだ未丁年の男が一人、蒼い顔をして着物を着かけていた。
「どうした?」
僕はまた例の脳貧血かと思って、そばへ寄って尋ねた。少し長く湯にはいっていると、僕等の仲間はよく、この脳貧血を起した。
「今、変な奴がはいって来てね、いきなり後ろから抱きかかえやがったもんだから、急いで逃げ出して来たんだ。」
と村木がまだ驚いた顔つきのまま話していたところへ、他の仲間もみな出て来た。そして村木だけならまだしも、ピストル強盗までもやられたというんで、みんなで大笑いした。
が、実際笑いごとじゃないんだ。
女の脛の白きを見て[#「女の脛の白きを見て」はゴシック体]
この畜生同様の囚人の間にあって、僕自身は聖人か仙人かのようであったことは、前にちょっと言った。しかしそれも、僕が特別にえらい非常な修業を積んだ人間だからという、何の証拠にもならない。
人はよく、牢にはいったら煙草が吸えないで困るだろうな、と言う。僕はずいぶんの煙草飲みだ。が、未だかつて、そのために牢で困ったことはない。はいるとすぐ、ほとんどその瞬間から、煙草のことなどはまるで忘れてしまう。初めてはいった東京監獄では、看守等が休憩所でやっているのをよく窓から見たが、まるい棒片のようなものを喫えてパッパと煙をはき出しているのが、羨やましいどころではなく本当に馬鹿馬鹿しく思われて仕方がなかった。その頃は、まだ一人身で堺の家に同居していた、僕の女房の保子が、からかい半分に猫が煙草を吸っている絵はがきを送って来た。僕はすぐに「あれは物の本で見る煙草というものらしいが、さては人間の食物ではなくして猫の食物か」というような返事を出して、本当に強情な人だと言って笑われた。しかしそれは、僕の痩せ我まんでも強情でも、何でもない。実際そういう風に感じたのだ。
僕は何も牢にはいったら煙草は吸えぬものと覚悟をきめていた訳ではない。反対に、煙草ぐらいは吸えるだろうというごく呑気なつもりで、迎いに来られた時には、わざわざその用意までして出掛けたのだ。僕はまた、克己とか節制とかいうことの、ことさらの何の修養をも積んでいた訳ではない。反対に、そういういわゆる道徳にはわざと反抗して、つまらぬ放縦を尊んでいたくらいだ。
それだのに、警察で煙草を取り上げられた時には少なからず口惜しかったが、その後はぴったりと煙草というものを忘れてしまった。そして今言ったようにかえって反感に似たものを持つようにすらなった。
僕がえらいんでも何でもない。誰でもが経験する通り、電車に乗っていて、そとを通る人間が巻煙草を吸っているのを見ても、別に羨やましがりもせず、時としてはかえってそれを馬鹿馬鹿しく思うことがあると同じだ。
性欲についてでもやはりそうだ。もっともこれは、煙草の場合のようには、無意識のあきらめとその結果の客観的批評のせいだとは思えない。もうすこしこみ入った事情があるように思う。
その一つは、たかだか大根か芋を最上の御馳走とする、ほとんど油っ気なしの食物だ。次には、ことに独房では、性欲についてほとんど何の刺激もないことだ。そして最後には、終日、読書と思索とで根を疲らし切ってしまうことだ。
この三つの条件さえ具えていれば、誰でも、何の修養も何の苦悶も何の努力もなしに、ただちに五欲無漏の名僧知識になれる。山にはいるか牢にはいるかだ。
しかし、久米の仙人も雲から足を踏みはずしたように、この牢屋の仙人も時々凡夫に帰る。
ほかでそんな機会はなかったが、東京監獄での第一の楽しみは、女の被告人か囚人かを見ることであった。このことも前にちょっと言った。
僕等はいつも独房の四監か八監内かに置かれた。この何監というのはその建物の番号で中央から半星形に射出した四つの建物に、二階は一監から四監、下は五監から八監の名がついていた。四監は二階で八監はその下だ。そして僕はいつも運よく日当りのいい南側の室に置かれた。
この建物の南側に沿うて、そこから五間ばかり隔てて、女監へ行くタタキの廊下がある。毎日一度か二度か三度か、必ず十数名ずつの新入りがここを通って行く。なかなか意気な、きちんとした風のおかみさんらしいのもある。伊達巻姿や、時とすると縄帯姿の、すこぶるだらしのないのもある。その大部分はいわゆる道路妨の拘留囚だそうだ。この道路妨というものについてはまたあとで話しする。
この連中が廊下の向うからカランコロン、カランコロンと喧ましく足音を立ててやって来る。それが聞え出すと、八監や八監の南側の先生等は、そら来た! とばかり[#「とばかり」は底本では「どばかり」と誤記]、何事をさし置いても窓ぎわへ走って行く。
僕はいつも走って行って、ようやく眼のところが窓わくにとどくぐらいなのを、雑巾桶を踏台にして首さしのばして、額を鉄の冷たい格子に押しつけて、見た。そして、あの二番目のはよさそうだなとか、五番目のは何て風だとかいうようなことを、隣り近所の窓と批評し合った。時とすると、
「おい、三番目の姉さん、ちょいと顔をお見せよ。」などと呼ぶ奴もある。女どもの方でも、自分からちょっと編笠を持ちあげて、こっちを見るのか、自分の顔を見せるのか、する奴もある。時とすると、舌を出したり、赤んべをして見せたりする奴すらある。
僕はぼんやりとそれを見ていて、よく看守に怒鳴りつけられた。
たしか屋上演説事件の治安警察法違反の時と思う。例の通り警察から警視庁、警視庁から東京監獄へとつれて行かれて、まず例のシャモ箱の中に入れられた。もっともこれは男三郎君の時に話したような面会所のそばのではない。そんなのがあちこちにあるんだ。こんどは、連れて来られるとすぐ、所持品を調べられたり、着物を着換えさせたり、身分罪名人相などの例のカードを作られたりする、その間自分の番の来るのを待っている[#「待っている」は底本では「持っている」と誤記]、シャモ箱だ。
しばらくすると、背中合せのシャモ箱の方へも人がはいったような気はいがする。ぺちゃくちゃと女のらしい声がする。
「おい、うしろへ女が来たようだぜ。一つ話をして見ようじゃないか。」
と両隣りの堺と山川とに相談して、コツコツとうしろの板を叩いた。向うでもすぐにやはりコツコツとそれに応じた。
「おい、何で来たんだい?」
「お前さんは?」
「泥棒さ。」
「じゃ頼もしいわね。わたしはどうろぼうよ[#「どうろぼうよ」に傍点]。いくら食ったの?」
「たった半年だ。君は?」
「わたしの方は二週間よ、すぐだわ。こんど出たら本当に堅気になろうと思ってるの。お前さん出たらやって来ない? うちはどこ?」
というような話で、でたらめの所や名を言い合って、とうとう出たら一緒になろうという夫婦約束までもしてしまった。
「大ぶお安くないな。だが、あのどうろぼう[#「どうろぼう」に傍点]というのは何だい?」
「さあ、僕にもよく分らないがね。」
と堺と話している中へ、山川もその詮議に加わって、ようやくそれが道路妨害の道路妨だということが分った。そして、
「泥棒に道路妨はいいな。」
と三人で大笑いした。さすがの彼女もあからさまにその本職を言いかねたのか、それともほんの語呂合せのいたずらをやったのか。
また、未決監から裁判所へ喚び出される。その他にも僕はよく、余罪があって、既決監からも裁判所へ呼び出された。大がいは馬車でだが、巣鴨からは歩いたり車に乗せられたりした。
あの赤い着物を着て、編笠を被って、素足に草鞋をはいて、腰縄をつけられて引っぱられて行くさまは、たしかに道行く婦女子等をして顔そむけしめ唾はかしむるに足るものであろう。しかし向うの思わくなぞはどうでもいい。こっちはただ、こっちの顔の見えないのを幸いに、向うの眼のさめるような着物の赤い色と、白い生々しい柔しい顔の色とに黙って眼じりを下げていさえすればいいんだ。
西洋の野蛮国たるロシアでは、「乞食と囚人とは馬鹿にするな、いつそれが誰の運命になろうものでもない」というような意味の諺があって、囚人が送らるる時なぞには、百姓の婆さんや娘さん達が争って出て来て、牛乳やパンや時とすると銅貨までも施してくれる。そして頬にキッスして「天にまします吾等の神よ、このいと憐れなる汝の子にことさらのお恵みと幸せとを与えたまえ」とお祈りをしてくれる。というような醜態は、東洋の君子国たる日本では、とても望まれない。ましてや道路妨君のようには、「頼もしい人だ」などとは誰一人思っちゃくれない。
それでいいんだ。こっちはただ諸君の姿さえ拝まして貰えればいいんだ。久しぶりでそとへ出て、見るものがすべて美しい。というよりは珍らしい。すべてがけばけばしく生々として見える。ことに女は、女でさえあれば、どれもこれも、みな弁天様のように美しく見える。
馬車では、僕はいつも、前か後ろかの一番はじに置かれた。このはじにいなければそとはよく見えない。横はよろい戸になっていて、前後にだけ小さな窓の金あみが張ってある。僕は馬車に乗っている間、始めから終りまで、この金あみに顔を押しつけて、額に赤く金あみのあとがつくほどに、貪るようにしてそとを眺めた。
面会に来る女の顔も美しい。もう幾年も連れ添って見あきるほど見た顔だのに、黙ってその顔を眺めているだけでもいい気持だ。眼のふちの小皺や、まだらになった白粉のあとまでが艶めかしい趣きを添える。
僕の故郷[#「僕の故郷」はゴシック体]
こんなちょいちょいしたエピソードのほかには、うちにいる間は、読書か思索か妄想かのほかに時間の消しかたがない。
読書にも飽き、思索にも飽きて来ると、ひとりでに頭が妄想に向う。それも、そとの現在のことはいっさい例の無意識的にあきらめて、考えても仕方のない遠い過去のことか、出獄間近になれば出てからの将来のことなどが思い浮べられる。
現在の女房のことでも、面会に来るか手紙が来るかの時でもなければ、それも二カ月に一度ずつしかないのだが、滅多には思い出さない。そして古い女のことなぞがしきりに思い出される。
元来僕には故郷というものがない。
生れたのは讃岐の丸亀だそうだ。が、生れて半年経つか経たぬうちに東京へ来た。そして五つの時に父や母と一緒に越後の新発田へ逐いやられた。東京では父は近衛にいた。うちは麹町の何番町かにあった。僕はその近衛連隊の門の様子と、うちの大体の様子と、富士見小学校附属の幼稚園の大体の輪画とのほかには、ほとんど何の記憶もない。
僕の元来の国、すなわち父祖の国は、名古屋を西にさる四、五里ばかりの津島に近いある村だが、そこには自分が覚えてからは十四の時に初めてちょっと伯父の家を訪うて、その翌年名古屋の幼年学校にはいってから時々ちょいちょい遊びに行ったに過ぎない。少しも自分の国というような気はしない。本籍はそこにあったのだが、その後東京の自分の住んでいた家に移した。
ただ越後の新発田だけには、五つから十五までのまる十年間いた。その後も十八の時までは毎年暑中休暇に帰省した。したがってもし故郷と言えばそこを指すのが一番適切らしい。
名古屋から初めて暑中休暇に新発田へ帰る途で、直江津から北越鉄道に乗換えて長岡を越えて三条あたりまで行った頃かと思う。ふと僕は、窓の向うに、東北の方に長く連らなっている岩越境の山脈を眼の前に見て、思わず快哉を叫びたいほどのあるインスピレーションに打たれた。その山脈は僕がかつて十年間見たそのままの姿なのだ。そしてそのあちこちには、僕がかつて遊んだ、幾つかの山々が手にとるように見えるのだ。
初めて僕は故郷というものの感じを味わった。
「故郷はインスピレーションなり」と言った蘇峰か誰かの言葉が、初めて身にしみて感じられたが、嬉しさのあまり、その時にはまだ、これが故郷の感じだという理知は、その感じの解剖は、本当にはできていなかった。蘇峰か誰かの言葉というのも、どうやら、その後のある時に思い出したもののようだ。
この故郷の感じは、その「ある時」になって、再び十分に味わった。そしてこれがいわゆる故郷の感じだということは、その「ある時」になって、初めて十分に知った。
初め半年ばかりいて、出てからまだ二月とは経たぬうちに、再び巣鴨へやられた時のことだ。巣鴨のあの鬼ケ島の城門を、護送の看守が「開門!」と呼ばわって厚い鉄板ばかりの戸を開かせて、敷石の上をガラガラッと馬車を乗りこませた時だ。
僕はいつものように、馬車の中の前のはじに腰をかけて、金あみ越しにそとを眺めていた。門が開くと監獄の前の、広い前庭の景色が眼にはいった。その瞬間だ。僕は思わず腰をあげて、金あみに顔を寄せて、建物のすぐ前に並んでいる桧か青桐かの木を見つめた。そしてしばらく、と言っても数秒の間だろうが、あの一種の感に打たれてぼんやり腰を浮かしていた。それに気がつくと、すぐに僕は、かつて帰省の途に汽車の中で打たれたかのインスピレーションを思い出した。ちっとも違わない、同じ親しみと懐かしさとの、そして一種の崇高の念の加わった、インスピレーションだ。
僕は初めて、これが本当の故郷の感じなのだ、あの時のもやはりそうだったのだ、と本当に直覚した。
馬車から降りる。何一つ親しみと懐かしみとの感ぜられないものはない。会う看守ごとに、
「やあ、また来たな」と言われるのすらも、古い幼な友達か何かの、暖かい挨拶に聞える。そしていよいよ、前にいた例の片輪者の建物に連れて行かれて、お馴染のみんなのにこにこした目礼に迎えられて、前にいた隣りの室に落ちついた時には、本当に久しぶりで自分のうちへ帰ったような気持がした。
監獄を自分の故郷や家と同じに思うのは、はなはだ怪しからぬことでもあり、またはなはだ情けないことでもあるが、どうも実際にそう感じたのだから仕方がない。巣鴨は僕が初めて既決囚として入監させられた、したがってもっとも印象の深い生活を送らせられた監獄だ。それに囚人は、他のいっさいの世界と遮断されて、きわめて狭い自然ときわめて狭い人間との間に、その情的生活を満足させなければならないからだ。かてて加えて、囚人の生活は、とかくに主観に傾きがちのすこぶる暗示を受けやすい、そのいっさいのきわめて深い点において、たしかに獄外での普通の生活の十年や二十年に相当する。
この故郷のことが、自分の幼少年時代のことが、しきりに思い出される。ことに刑期の長かった千葉ではそうだった。
僕は出たが、どうせ当分は政治運動や労働運動は許されもすまいから、せめては文学にかこつけて、平民文学とか社会文学とかの名のつく文芸運動をやって見ようかと思った。そしてその手始めに、自分の幼少年時代の自叙伝的小説を書いて見ようかと思った。軍人の家に生れて、軍人の周囲に育って、そして自分も未来の陸軍元帥といったような抱負で陸軍の学校にはいった、ちょっと手におえなかった一腕白少年が、その軍人生活のお蔭で、社会革命の一戦士になる。というほどのはっきりしたものではなくても、とにかくこの径路をその少年の生活の中に暗示したい。少なくとも、自分の幼少年時代のいっさいの腕白が、あらゆる権威に対する叛逆、本当の生の本能的生長のしるしであったことを、書き現して見たいと。
僕は自分の遠い過去のことを思い出してはこの創作の腹案に耽った。そしてそのかたわら、語学の稽古がてらに、原文のトルストイの『幼年時代、少年時代、青年時代』や、ドイツ訳のコロレンコの『悪い仲間』などを見本に読んだ。トルストイのには、その生活があまりに僕自身のとはかけ離れているので、ほとんど何の興味もひかなかった。『悪い仲間』にはすっかり同感した。その主人公の父は裁判官であった。裁判官と軍人とに大した違いはない。が僕には不幸にも、裁判官がどんな性質のものであるかを教えてくれる、友達の乞食の父はなかった。そのために僕は、軍人というものの本当の性質が分るまでには、ずいぶん余計な時間を費やした。それがその時の僕にどれほどに口惜しかったか。
が、当時のこの創作欲は今に到ってまだ果されない。というよりはむしろほとんど忘れ果てて、社会評論とも文学評論ともつかない妙な評論書きになってしまった。そして今ではまた、こんな甘い雑録に、ようやく口をぬらしている。
監獄人[#「監獄人」はゴシック体]
しかし、今だってまだ、多少の野心のないことはない。現にこの「獄中記」のごときは、この雑誌に書く前には、「監獄人」とか「監獄でできあがった人間」とかいうような題で、よほどアンビシャスな創作にして見ようかという気もあったのだ。
僕は自分が監獄でできあがった人間だということを明らかに自覚している。自負している。
入獄前の僕は、恐らくはまだどうにでも造り直せる、あるいはまだ碌にはできていなかった、ふやふやの人間だったのだ。
外国語学校へはいった初めの頃には、大将となって何とかすることができなければ、敵国に使して何とかするというような支那の言葉に囚われて、あるいは外交官になって見ようかという多少の志がないでもなかった。また、学校を出る当座には、陸軍大学の教官となって、幼年学校時代の同窓等に、しかもその秀才等に「教官殿」と呼ばして鼻を明かしてやろうかというような子供らしい考えがないでもなかった。学校を出てからも、僕の旧師でありかつ陸軍でのフランス語[#「フランス語」は底本では「フランス部」となっている]のオーソリティであった某陸軍教授を訪ねて、陸軍大学への就職を頼んだこともあった。その話がよほど進行している間に、しかもその教授の運動の結果を聞きに行く筈の日の数日前に、電車事件で投獄された。そしてこの事件の投獄とともにその後の運命はきまってしまった。
そればかりではない、僕の今日の教養、知識、思想性格は、すべてみな、その後の入獄中に養いあげられ、鍛えあげられたと言ってもよい。二十二の春から二十七の暮れまでの獄中生活だ。しかも、前に言ったように、きわめて暗示を受けやすい心理状態に置かれる獄中生活だ。それがどうして、僕の人間に、骨髄にまでも食い入らないでいよう。
故郷の感じを初めて監獄で本当に知ったように、僕の知情意はこの獄中生活の間に初めて本当に発達した。いろいろな人情の味、というようなことも初めて分った。自分とは違う人間に対する、理解とか同情とかいうようなことも初めて分った。客観はいよいよますます深く、主観もまたいよいよますます強まった。そしていっさいの出来事をただ観照的にのみ見て、それに対する自己を実行の上に現すことのできない囚人生活によって、この無為を突き破ろうとする意志の潜勢力を養った。
僕はまた、この「続獄中記」を、「死処」というような題で、僕が獄中生活の間に得た死生問題についての、僕の哲学を書いて見ようかとも思った。現に、一と晩夜あけ近くまでかかって、その発端だけを書いた。
東京監獄で押丁を勤めていて、僕等被告人の食事の世話をしていた、死刑執行人についての印象。友人等の死刑後のその首に残った、紫色の広い帯のあとについての印象。千葉監獄在監中の、父の死についての印象。一親友の死についての印象。また、牢獄の梁の上からぽたりぽたりと落ちて来る蠅の自然死についての印象。一同志の獄死についての印象。一同志の出獄後の狂死についての印象。その他数え立てればほとんど限りのない、いろいろな深い印象、というよりはむしろ印刻が、死という問題についての僕の哲学を造りあげた。
実際僕は、最後に千葉監獄を出た時、初めて自分がやや真人間らしくなったことを感じた。世間のどこに出ても、唯一者としての僕を、遠慮なく発揮することができるようになったことを感じた。そして僕は、僕の牢獄生活に対して、神の与えた試練、み恵み、というような一種の宗教的な敬虔な感念を抱いた。
牢獄生活は広い世間的生活の縮図だ。しかもその要所要所を強調した縮図だ。そしてこの強調に対するのに、等しくまた強調された心理状態をもって向うのだ。これほどいい人間製作法が他にあろうか。
世間的生活は広い。いくらでも逃げ場所はある。したがってそこに住む人間の心はとかくに弛緩しやすい。本当に血の滴るような深刻な内面生活は容易に続け得られない。その他種々なる俗的関係の顧慮もある。いっさいを忘れる種々なる享楽もある。なまけ者にはとうていその人間は造れない。そして人間は元来がなまけ者にできているのだ。
僕は最後に出獄して、まず世間を見て、その人間どもの頭ばかり大きく発達しているのに驚かされた。頭ばかり大きく発達しているのはなまけ者の特徴だ。彼等はどんな深刻なことでも考えると言う。しかしその考えや言葉には、その表に見える深刻さが、そのまま裏づけられている、というようなのはほとんどない。裏づけられた実感の方が、その現された考えや言葉よりもさらに一層深い、というようなのは滅多にない。その考えや言葉がそのままただちに実行となって現れなければやまないというようなのはさらに少ない。
僕はこのなまけ者どもの上の特権者だ。監獄人だ。
が、こんなことを一々事実に照らして具体的に暗示し説明して行くことは、この雑誌の編集者の希望ではない。せいぜい甘い、面白可笑しいものという註文なんだ。
つい脱線して飛んだ気焔になってしまったが、ちょっと籐椅子の上で寝ころんで[#「寝ころんで」は底本では「寝ろこんで」と誤記]、日向ぼっこをしながら一ぷくして、また初めの呑気至極な思い出すままだらりだらりと書いて行く与太的雑録に帰ろう。
死刑執行人[#「死刑執行人」はゴシック体]
と言ってもやはり、まず思い出すのは、先きに書きかけた「死処」の中の材料だ。これはいずれ物にするつもりであるが、したがって今洩らすのは大ぶ惜しい気もするが、その中のたった一つだけを見本のつもりで書いて置こう。
東京監獄に、今はもういないが、もと押丁というのがいた。看守の下廻りのようなもので、被告人等に食事を持ち運んだりする役を勤めていた。いつも二人か三人かはいたようだが、みんなまだ若い男で、一、二年勤めているうちには、小倉のぼろ服を脱いでサーベルをつった看守になった。
が、その中にただ一人、十年か二十年かあるいはもっと長い間か、とにかく最後まで、押丁で勤め終わせた一老人があった。僕が初めて見た時には、もう六十を二つ三つは越した年齢であったろうが、小造りながら巌丈な骨組の、見るからに気味の悪い形相の男だった。実際僕は初めて東京監獄にはいった翌朝、例の食器口のところへぬうとこの男に顔を出された時には、思わずぞっとした。栄養不良らしい蒼ざめた鈍い土色の顔を白毛まじりの灰色の濃い髯にうずめて、その中からあまり大きくもない眼をぎょろぎょろと光らしていた。その光の中には、強盗殺人犯か強盗強姦犯かの眼に見る獰猛な光と、高利貸かやりて婆さんかの眼に見る意地の悪い執拗な光とを併せていた。それにその声までが、少ししゃがれ気味の低い、しかし太い、底力の籠った、どこまでも強請して来る声だった。ちょっと何か言うのでも、けだものの吠えるように聞えた。
「これに拇印をおして出せ。」
不意にこう怒鳴られるように呼ばれて、差入弁当とその差入願書とを突き出されたものの、その突き出して来た太い皺くちゃな土色の指を気味悪く見つめたまま、しばらく僕はぼんやりしていた。
「早くしろ。」
僕は再びその声に驚かされて、あわてて拇印をおして、願書をさし出しながらそうっとその男の顔をのぞいた。そして不意に、本能的に、顔をひっこめた。何という恐ろしい、気味の悪い、いやな顔だろう。
初めての差入弁当だ。麹町の警察と警視庁とに一と晩ずつを明かして、二日半の間、一粒の飯も一滴の湯も咽喉を通さなかった今、初めて人間の食物らしい弁当にありついたのだ。それだのに、どうしても僕は、すぐに箸をとる気になれなかった。今の男の声と指と顔とが眼の前にちらつく。ことに、あの指で、と思うと、ようやく箸を持ち出してからも、はき気をすらも催した。
被告人等はみな、他の押丁とは、よくふざけ合っていた。おつけの盛りかたが少ないとか、実の入れかたが少ないとか、いうような我がままでも言っていた。どうかすると、
「なんだ押丁のくせに」と食ってかかるものすらもあった。また、その押丁が看守になってからでも、みんなはやはり、前と同じように親しみ狎れ、または軽蔑していた。ある押丁あがりの看守のごときは、その男は今でもまだ看守をしているが、その姓が女郎の源氏名めいているところから、夜巡回に来て二階の梯子段をかたかた昇って行く時なぞに、「○○さんえ」と終りの方を長くのばした黄いろな声で呼ばれて、からかわれていた。
しかしかの老押丁とは誰一人口をきくものもなかった。先きに言った僕との知友の強盗殺人君ですらも、この老押丁とは多くはただ睨み合ったまま黙っていた。看守も、他の押丁に対しては時々大きな声で叱ったりすることもあるが、この老押丁に対してだけはよほど憚っていた。用事以外には口もきかなかった。
老押丁はこうしてみんなに憚かられ気味悪がられ恐れられながら、いつも傲然として、得々として自分の定められた仕事をしていた。そして自分のすることについて少しでも口を出すものがあれば、被告人でも上役のものでも誰彼の別なく、すぐに眼をむいて怒鳴りつけた。僕はこの男が一度でも笑い顔をしたのを見たことがなかった。
やがて僕は、この男に、だんだん興味を持ち出して来た。気味の悪いのや、折々怒鳴りつけられて癪にさわるのは、初めからと変りはなかったが、それだけこの男についての印象はますます深く、その人間を知ろうとする興味もますます強まって行った。
ある日の運動の時、僕は獄中の何事についてでもその男に尋ねるのを常としていた、そしてまた何事についてでもいつも明快な答を与えてくれた例の強盗殺人君に、この老押丁のことを話しかけた。
「あの爺の押丁ね、あいつは一体何ものなんだい。」
なんでもその日の朝、食事の時に、おつけの実の盛りかたが少ないというような小言を言って、強盗殺人君は老押丁に怒鳴られていた。で、僕はそれを言い出して、何気なく聞いて見たのだった。そして僕は、せいぜい、
「うん、あいつか。あれはもと看守部長だったのが、典獄と喧嘩して看守に落されて、その後またとうとう押丁に落されちゃったんだ。」
ぐらいの返事を期待していたに過ぎなかった。が僕は、僕の問の終るか終らぬうちに、急に強盗殺人君の顔色の曇ったのを見た。そしてその答の意外なのに驚かされた。
「あいつがこれをやるんだよ。」
殺人君は親指と人さし指との間をひろげて、それを自分の咽喉に当てて見せた。
僕はそのまま黙ってしまった。殺人君もそれ以上には何にも言わなかった。
それ以来僕は、先きに気味悪かったこの老押丁の太い皺くちゃな土色の指を、食事を突き出されるたびに、ますます気味悪く見つめた。時としては、思わずそれから、眼をそむけた。
その後幸徳等が殺された時に聞いた話だが、死刑執行人は執行のたびに一円ずつ貰うのだそうだ。そしてあの老押丁はそれをみんなその晩に飲んでしまうのだったそうだ。
彼は、幸徳等十数名が殺されたすぐあとで、何故か職を辞した、と聞いた。
今僕は、ここまで書いて来て、しばらく忘れていた、「あの指」を思い出し、また友人等の死骸に見た咽喉のまわりの広い紫色の帯のあとを思い出して、その当時の戦慄を新しくしている。
かつて僕はユーゴーの『死刑前五分間』を読んだ。またアンドレーエフの『七死刑囚』を読んだ。ことに後者は、よほど後に、千葉の獄中で読んだ。その時にはたしかにある戦慄を感じた。しかし今、その筋を思い出して見ても、かつての時の戦慄の実感は少しも浮んで来ない。その凄惨な光景や心理描写が、きわめて巧妙にきわめて力強く、描き出されてあったことの記憶が思い浮べられるに過ぎない。けれどもあの二つの事実だけは、僕が僕の眼で見、僕の心で感じたあの二つの事実だけは、思い出すと同時にすぐにその当時の実感が湧いて来る。周囲の光景や場面の、またその時の自分の心持の記憶なぞよりも先きに、まずぶるぶると慄えて来る。
「俺は捕えられているんだ[#「俺は捕えられているんだ」はゴシック体]」
千葉でのある日であった。運動場から帰って、しばらく休んでいると、突然一疋のトンボが窓からはいって来た。
木の葉が一つ落ちて来ても、花びらが一つ飛んで来ても、すぐにそれを拾っていろんな連想に耽りながら、しばらくはそれをおもちゃにしているのだった。春なぞにはよく、桜の花びらが、どこからとも知れず飛んで来た。窓から見えるあたりには桜の木は一本もなかった。窓に沿うて並んでいる幾本かの青桐の若木と、堺が「雀の木」と呼んでいたいつも無数の雀が群がっては囀っている何かの木が一本向うに見えるほかには、草一本生えていなかった。されば、あの高い赤い煉瓦の塀のそとの、どこからか飛んで来たとしか思えないこの一片の桜の花は、たださえ感傷的になっている囚人の心に、どれほどのうるおいを注ぎこんだか知れない。
何でも懐かしい。ことに世間のものは懐かしい。たぶん看守の官舎のだろうと思われる子供の泣声。小学校の生徒の道を歩きながらの合唱の声。春秋のお祭時の笛や太鼓の音。時とすると冬の夜の「鍋焼うどん」の呼び声。ことにはまた、生命のあるもの少しでも自分の生命と交感する何ものかを持っているものは、堪らなく懐かしい。空に舞う鳶、夕暮近く高く飛んで行く烏、窓のそとで呟く雀。
しかるに今、その生物の一つが、室の中に飛びこんで来たのだ。僕はすぐに窓を閉めた。そして箒ではらったり、雑巾を投ったりして、室じゅうを散々に追い廻した末に、ようやくそれを捕えた。
僕はこのトンボを飼って置くつもりだった。馴れるものか馴れないものか、僕はそれを問題にするほど、トンボに知恵があるかとは思っていなかった。が、できるものなら、何か食わせて、少しでもこの虫に親しんで見たいと思った。
僕はトンボの羽根を本の間に挾んでおさえて置いて、自分の手元にある一番丈夫そうな片の、帯の糸を抜き始めた。その糸きれを長く結んで、トンボをゆわえて置くひもを作ろうと思ったのだ。
が、そうして、厚い洋書の中にその羽根を挾まれて、しきりにもみ手をするように手足をもがいているトンボに、折々目をくばりながら、もう大ぶ糸も抜いたと思う頃に、ふと、電気にでも打たれたかのようにぞっと身慄いがして来た。そして僕はふと立ちあがりながら、そのトンボの羽根を持って、急いで窓の下へ行って、それをそとに放してやった。
僕は再び自分の席に帰ってからも、しばらくの間は、自分が今何をしたのか分らなかった。その時の電気にでも打たれたような感じが何であったか、ということにすらも思い及ばなかった。僕はただ、急に沈みこんで、ぼんやりと何か考えているようだった。そしてそのぼんやりとしていたのがだんだんはっきりして来るにつれて、何でも糸を抜いている間に、「俺は捕えられているんだ」という考えがほんのちょっとした閃きのように自分の頭を通過したことを思い出した。それで何もかもすっかり分った。この閃きが僕にある電気を与えて、僕のからだを窓の下まで動かして、あのトンボを放してやらしたのだ。
僕は、今世間で僕を想像しているように、今でもまだごく殺伐な人間であるかも知れない。少なくともまだ、僕のからだの中には、殺伐な野蛮人の血が多量に流れていよう。折を見ては、それがからだのどこかから、ほと走り出ようともしよう。僕は決してそれを否みはしない。殺伐な遊戯、殺伐な悪戯、殺伐な武術。その他いっさいの殺伐なことにかけては、子供の時から何よりも好きで、何人にも負を取らなかった僕は、そしてそれで鍛えあげて来た僕は、今でもその気が多分に残っていないとは決して言わない。
子供の時には、誰でもやるように、トンボや、蝉や、蛙や、蛇や、猫や、犬をよく殺した。猫狩りや犬狩りをすらやった。そしてほかの子供等があるいは眼をそむけ、あるいは逃げ出してしまうほどの残忍をあえてして、得々としていた。虫や獣が可愛いいとか、可哀相だなぞと思うことはほとんどなかった。ただ獣で可愛いいのは馬だけだった。父の馬は、よく僕を乗せて、広い練兵場を縦横むじんに駈け廻ってくれた。が、小動物はすべてみな、見つけ次第になぶり殺すものぐらいに考えていた。
それが今、獄中でもこのトンボの場合に、ただそれを自分のそばに飼って見ようと言うことにすら、それほどのショックを感じたのだ。動物に対する虐待とか残忍とか言うことは、大きくなってからは、理性の上には勿論感情の上にも多大のショックを感じた。しかしことに自分がそれをやっている際に、こんなに強く、こんなに激しく、こんなに深く感じたことはまだ一度もなかった。そしてその時に僕は、僕のからだの中に、ある新しい血が滔々として溢れ流れるのを感じた。
その後僕は、いつもこのことを思い出すたびに、僕はその時のセンチメンタリズムを笑う。しかしまた翻って思う。僕のセンチメンタリズムこそは本当の人間の心ではあるまいか。そして僕は、この本当の人間の心を、囚われ人であったばかりに、自分のからだの中に本当に見ることができたのではあるまいか。
手枷足枷[#「手枷足枷」はゴシック体]
やはりこの千葉でのことだ。
ある日の夕方、三、四人の看守が何かガチャガチャ言わせながら靴音高くやって来るので、何事かと思ってそっと例の「のぞき穴」から見ていると、てんでに幾つもの手錠を持って、僕の向いの室の戸を開けた。その室には、その日の朝、しばらく明いていたあとへ新しい男がはいったのであった。
「いいから立て!」
真先きにはいった看守が、お辞儀をしているその男に、大きな声であびせかけた。その男はおずおずしながら立ちあがった。まだ二十五、六の、色の白いごく無邪気らしい男だった。
「両手を前へ出せ!」
再びその看守は怒鳴るように叫んだ。そしてその間にほかの看守等もどやどやと靴ばきのまま室の中へはいった。何をしているのかは見えない。ただ手錠をしきりにガチャガチャ言わしているのと、これじゃ小さいとか大きいとか看守等がお互いに話しているのとで、その男に手錠をはめているのだという察しだけはついた。
「今時分になって、何だってあんなことをするんだろう。」
初めは僕は、その男に手錠をはめて、どこかへ連れ出すのかと思った。そんな時か、あるいはあばれて仕末に終えない時かのほかには、手錠をはめるのをまだ見たことがなかった。その男は来てからまだ一度もあばれたこともなければ、声一つ出したこともなかった。しかし看守等は、その男の腕にうまくはまる手錠をはめてしまうと、「さあ、よし、これで寝ろ」と言いすててさっさと帰ってしまった。僕にはどうしてもその意味が分らなかった。
翌朝早く、また二、三人の看守がその男の室に来て、こんどはその手錠をはずして持って帰った。僕はますますその意味が分らなくなった。
昼頃になって、雑役が仕事の麻束を持って来た時に、僕は看守のすきを窺って聞いた。
「何だい、あの向いの奴は?」
「うん、何でもないんだよ。今まで向うの雑房にいたんだがね。首をつって仕方がないんで、とうとうこっちへ移されちゃったんだ。それで、夜じゅう、ああして手錠をはめられて、からだが利かないようにされてるんだよ。」
こうして、夜になると手錠をはめられ、朝になるとそれをはずされて、それが幾日も、幾日も、たしか二、三カ月は続いたかと思う。僕はその男が何で自殺しようとしたのか、その理由は知らなかった。ただ、もう三度も四度も、五度も六度も、首をつりかけたりあるいはすでにつっていたりするのを発見された、ということだけを聞いた。
そしてある晩、その男が両手を後ろにして帯のところで手錠をはめられているのを見て、どうしてあんな風をして寝られるだろうと思って、試みに僕も手拭で苦心して両手を後ろでくくりつけて寝て見た。初めはからだを横にして寝て見たが、肩や腕が痛くて堪らんので、こんどはうつ伏せになった。しかしそれではなお苦しいので、またからだを前とは反対に横にした。こうして一晩じゅう転輾して見ようかとも思ったが、どうしても堪えられないで、すぐに手拭を解いてしまった。
それから、これは僕等のとは違う建物にいた男だが、湯へ往復する道で、やはり手錠をはめて、足枷までもはめて、そして重い分銅のようなものを鎖で引きずって歩いているのによく出食わした。
その男もやはり二十五、六の、細面の、どちらかと言えば優男であった。
分銅のようないわゆるダ(漢字を忘れた)という奴を引きずって歩かせる、という徴罰のあることは、かねて聞いていた。かつて幼年学校時代に、陸軍監獄の参観に行って、そのダの実物を見たこともあった。しかし、それともう一つの、何でも革具で、ハンドルを廻すとそれがぎゅうぎゅうからだを締めつけるという、そして二、三分もそれを続けるとどんな男でも真蒼になってしまうというのは、今ではもうほとんど使わないということは、その時にも聞いた。
しかるに今、そのダを引きずっているのを、眼の前に見るのだ。その男は、一列になった大勢の一番あとに、両足を引きずるようにして、のろのろというよりもむしろようやく足を運んで行った。が、その足の運びかたよりも、さらに見るに堪えなかったのは、その気味の悪いほど蒼ざめた顔の色と、やはり同じように蒼ざめた痩せ細ったその手足とであった。
どんな悪いことをしてこんな懲罰を食っているのか、またいつからこんな目に遭っているのか、僕は誰にもそれを聞く機会がなかった。また誰にもそれを聞いて見る勇気がなかった。よしまた、それを知ったところで、それが何になるとも思った。
おしゃべりの僕等の仲間も、その男に会った時には、みな黙ってただ顔を見合せた。いつも僕の隣りにいた荒畑は泣き出しそうな顔をして眉をぴりぴりさせた。そして誰も、その男の方をちょっと振りむいただけで、幾秒間の間でも直視しているものはなかった。
幾度懲罰を食っても[#「幾度懲罰を食っても」はゴシック体]
この懲罰で思い出すが、囚人の中には、どんな懲罰を、幾度食っても獄則を守らないで、とうとう一種の治外法権になっている男がある。どこの監獄でも、いつの時にでも、必ず一人はそういう男がある。
もう幾度も引合いに出した、東京監獄のあの死刑囚の強盗殺人君も、その一人だ。
巣鴨では例の片輪者の半病監獄にいたのだから、さすがにそういうのには出遭わなかったが、それでも裁判所の仮監で同じ巣鴨の囚人だというそれらしいのに会った。
長い間仮監で待たせられている退屈しのぎに、僕は室の中をあちこちとぶらぶら歩いていた。そこへ看守が来て、動かずに腰掛けてじっとして居れと言う。裁判所の仮監は、あの大きな建物の地下室にあって、床がタタキでそこに一つ二つの腰掛が置いてある。が、長い間木の腰掛に腰掛けているのは、臀が痛くもあり退屈もするので、そんな時には室の中をぶらぶらするのが僕の常となっていた。そしてそのために今まで一度も叱られたことはなかったので、ただちに僕は、その看守と議論を始めた。ついにはその看守があまり訳の分らぬ馬鹿ばかり言うので、ほかの看守等がみな走って飛んで来たほどの大きな声で、その看守を罵り出した。それがその時一緒にいたもう一人の囚人に、よほど気に入られたらしい。
「君なんかはまだ若くて元気がいいからいい、うんとしっかりやりたまえ。何でも中ぶらりんでは駄目だ。うんとおとなしくしてすっかり役人どもの信用を得てしまうか。そうなれば多少の犯則も大目に見て貰える。それでなきゃ、うんとあばれるんだ。あばれてあばれてあばれ抜くんだ。減食の二度や三度や、暗室の二度や三度は、覚悟の上で、うんとあばれるんだ。そうすれば、終いにはやはり、大がいのことは大目に見て貰える。だが中ぶらりんじゃ駄目だ。いつまで経っても叱られてばかりいる。屁を放ったといっては減食を食う。それじゃつまらない。僕なんぞも前にはずいぶんあばれたもんだ。それでも減食を五度暗室を三度食ってからは、もう大がいのことは叱られない。歌を歌おうと、寝ころんでいようと、何でも勝手気儘な振舞いができるようになった。」
四十余りになるその男は、僕を何と思ったのか、しきりに説いて聞かせた。実際その男は減食の五度や六度や、暗室の三度や四度や、また五人十人の看守の寄ってたかっての蹴ったり打ったりには、平気で堪えて来れそうな男だった。からだもいいし、話しっぷりもしっかりしているし、いかにもきかぬ気らしいところも見えた。
僕は例の強盗殺人君でずいぶんその我儘を通している囚人のあることは知っていた。しかしそれは死刑囚だからとばかり思っていた。死刑囚では、なおそのほかにも、その後そんなのを二、三人見た。が死刑囚でない囚人が、それだけの犠牲を払ってその自由をかち得ているということは、この話で初めて知った。
そしてその後千葉で、初めて、そういう男に実際にぶつかった。今でもその名を覚えているが、渡辺何とかいう、僕と同じ罪名の官吏抗拒で最高限の四年喰っている男だった。
この男とは、東京監獄でも同じ建物にいて、よく僕の室の錠前の掃除をしに来たので、その当時から知っていた。初め窃盗か何かで甲府監獄にはいっていたのを、看守等と大喧嘩して、そのために官吏抗拒に問われて東京監獄へ送られて来ていたのであった。額から鼻を越えて眼の下にまで延びた三寸ばかりの大きさの傷があった。また、同じ大きさの傷が両方の頬にもあった。その他頭にも数カ所の大きな禿になった傷あとがあった。それはみな甲府で看守に刀で斬られたのだそうだ。
「初めは私等の室の十二、三人のものが逃走しようという相談をきめて、運動に出た時に、ワアァと凱《とき》の声をあげたんです。」
と、ある時その男は錠前を磨きながら、元気のいいしかし低い声で話し出した。
「すると、一緒にいた何十人のものが、やはり一緒にワアァと凱の声をあげたんです。看守の奴等びっくりしやがってね。その間に私等十何人のものは、運動場の向うの炊事場へ走って行って、そこに積んであった薪ざっぽを一本ずつ持って、新しく凱の声をあげて看守に向って行ったんです。すると看守の奴等は青くなって、慄えあがって、手を合せて、どうか助けてくれって、あやまるんです。」
渡辺はちょいちょい看守の方を窃み見ながら、少し開けた戸の蔭に顔をかくして、うれしそうに話し続けた。
それからみんなはどやどや門の方に走って行ってとうとう門番を嚇しつけて、先頭の十幾人だけが、いったん門外に出たのだそうだが、やがてまたこんな風で逃げ出してもすぐに捕まるだろうというので引帰して来た。そしてみんな監房へ入れられた。
その後二、三日の間は、監房の内と外とで囚人と看守との間の戦争が続いた。囚人が歌を歌う。看守がそれを叱る。というようなことがもとで唾の引っかけ合い、罵詈雑言のあびせ合いから、ついに看守が抜刀する。竹竿を持って来て、そのさきにサーベルを結びつけて、それを監房の中へ突きやる。囚人は便器の蓋や、はめ板をはずして、それを防ぐ。やがて看守はポンプを持って来て煮湯を監房の中に注ぎこむ、囚人等は布団をかぶってそれを防ぐ。というような紛擾の後に、とうとう渡辺は典獄か看守長かの室に談判に行くことになった。そこで数名の看守に斬りつけられたのだと言う。
「ね、旦那、その斬った奴がみんな前に運動場で手を合せてあやまった奴等でしょう。実に卑怯なんですよ。」
渡辺はこう話し終って、もうとうに磨いてしまった錠前の戸を閉めて、また隣りの室の錠前磨きに移って行った。
この男は、東京監獄では、まだ裁判中であったせいか、ごくおとなしくしていた。そしていよいよ官吏抗拒の刑がきまって千葉へ移された時にも、その当座は至極神妙にしていたが、やがて何に怒ったのか、また手のつけられない暴れものになってしまった。
「ね、旦那、こんどはもう私は出たら泥棒はやめです。馬鹿馬鹿しいですからね。いくら暴れたって、泥棒じゃ誰も相手にしちゃくれないでしょう。だから、こんどは私、旦那のところへ弟子入りするんです。ね、いいでしょう、旦那、出たらきっと行きますよ、旦那の方じゃ、暴れれば暴れるほど、名誉になるんでしょう。そして監獄に来ても、まるで御大名で居られるんですからな。」
僕がもう半年ばかりで出ようという時に、渡辺が来て、こんなことを言った、僕は少々困ったが「ああ来たまえ」とだけは言って置いた。
が、いまだにまだ、この男はそのいわゆる「弟子入り」に来ない。どこに、どうしているんだか。たぶんまた、どこかの監獄にはいっているんだろうとは思うが。泥棒にはちょうどいい、小柄の、はしこそうな、まだ若い男だったが。
しかしこの「弟子入り」は、向うで来なくっても、すでに僕の方で向うに「弟子入り」していたのだった。その後僕は、「野獣」と題して、僕の雑誌に彼を歌ったことがあった。
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また向う側の監房で荒れ狂う音がする、
怒鳴り声がする、
歌を歌う、
壁板を叩いて騒ぎ立てる。
それでも役人は知らん顔をしてほおって置く。
いくら減食を食っても、
暗室に閉じこめられても、
鎖づけにされても、
依然として騒ぎ出すので、
役人ももう手のつけようがなくなったのだ。
まるで気ちがいだ、野獣だ。
だが僕は、この気ちがい、この野獣が、
羨やましくて仕方がない。
そうだ! 僕はもっと馬鹿になる修業を積まなければならない。
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獄死はいやだ[#「獄死はいやだ」はゴシック体]
囚人で羨やましかったのは、この野獣と、もう一つは小羊のような病人だった。
巣鴨の病監は僕等のいたところからは見えなかったが、東京監獄でも千葉でも、運動場へ行く道には必ず病監の前を通った。普通の家のような大きな窓のついた、あるいは一面にガラス戸のはまった、風通しのよさそうな、暖かそうな、小綺麗な建物が、ほとんど四季を通じて草花や何かの花に囲まれて立っている。そしてその花の間を、呑気そうに、白い着物を着た病人がうろついている。
僕は本当にどうにかして病人になりたいと思った。もし五年とか、十年とか、あるいは終身とかいうような刑ではいった時には、僕はこの病人のほかには僕の生きかたがあるまいとすら考えた。肺病でもいい。何でもいい。とにかく長くかかる病気で、あすこにはいらなくちゃならんと思った。
が、一度、巣鴨でこの病監にはいることができた。前に話した徒歩で裁判所へ行く道で、つまずいて足の拇指の爪をはいだ。そこにうみを持ったのだった。
巣鴨の病監は、精神病患者のと、肺病患者のと、普通の患者のと、三つの建物に分れている。僕はその最後のにはいった。いい加減な病院の三等や二等よりもよほどいい。僕のは三畳の室で、さすがに畳も敷いてある。そこへ藁布団を敷いて、室一ぱいの窓から一日日光を浴びて、そとのいろんな草花を眺めながら寝て暮せばいいんだ。看護人には、囚人の中から選り抜きの、ことに相当の社会的地位のあったものを採用する。僕には早稲田大学生の某芸者殺し君が専任してくれた。
かつて幸徳は、この病監にはいって、ある看守を買収して、毎朝『万朝報』を読んで、毎晩一合か二合かの晩酌をやっていたそうだ。
僕ももし酒が飲めれば、葡萄酒かブランデーならいつでも飲めた。それは看護人が薬室から泥棒して来るのだった。
医者も役人ぶらずによく待遇してくれた。看守もみな仏様で、僕はほとんど自分が看守されているのだという気持も起らなかった、ぐらいによく謹しんでいられた。
御馳走も普通の囚人よりはよほどよかった。豚汁が普通には一週間に一回だったのが二回あった。それに豚の実も普通よりは数倍も多かった。
僕はこの病監で、自分が囚人だということもほとんど忘れて一カ月余り送った後に、足の繃帯の中に看護人等の数本の手紙を巻きこんで出獄した。
しかし、これがほんのちょいと足の指を傷つけたぐらいのことだから、こんな呑気なことも言って居られるものの、もしもっと重い病気だったらどんなものだろう。僕は先きに肺病でもいいから病監にはいりたいと言った。今僕は、現に、千葉のお土産としてその病気を持って来ている。もうほとんど治ってはいるようなものの、今後また幾年かはいるようなことがあって、再び病気が重くなって、病監にはいらなければならぬようになったらどうだろう。
千葉では、僕等が出たあとですぐ、同志の赤羽巌穴が何でもない病気で獄死した。その後大逆事件の仲間の中にも二、三獄死した。今後もまだ続々として死んで行くだろう。
僕はどんな死にかたをしてもいいが、獄死だけはいやだ。少なくとも、あらゆる死にかたの中で、獄死だけはどうかして免かれたい。
収賄教誨師[#「収賄教誨師」はゴシック体]
獄中で一番いやなのは冬だ。
綿入れ一枚と襦袢一枚。シャツもなければ足袋もない。火の気はさらにない。日さえ碌には当らない。これで油っ気なしの食物でいるのだから、とても堪るものではない。
体操をやる、壁を蹴る。壁にからだを打つける。運動に出れば、毎日三十分ずつ二回の運動時間をほとんど駈足で暮す。しかしそんなことではどうしても暖かくならない。
冷水摩擦をやる。しかもゆうべからの汲み置きのほとんどいつも氷っている水だ。この冷水のほかにはほとんどまったく暖をとる方法がない。それで朝起きるとまず摩擦をやる。夜寝る前にも、からだじゅうが真赤になるまでこすって、一枚こっきりの布団に海苔巻きになって寝る。かしわ餅になって、と人はよく言うが、そんなことで眠れるものではない。昼も、膝っこぶのあたりから絶えずぞくぞくして来て、時とすると膝が踊り出したように慄える。そして上下の歯ががちがちと打ち合う。そんなになると、日に二度でも三度でも、素裸になってからだをふく。これで少なくとも一時間は慄えを止めることができる。
冬の間の一番のたのしみは湯だ。「脱衣!」の号令で急いで着物を脱いで、「入浴!」で湯にとびこむ。
「洗体!」の号令すらもある。多くは熱くてはいれないほどの湯に、真赤になって辛抱している。それほどでないと、夕飯前の湯が夜寝る時までの暖を保ってくれない。
稀れに、夕飯の御馳走が、鮭か鱒かの頭を細かく切ったのを実にしたおつけの時がある。その晩は、さすがに、少し暖かく眠れる。
それでも不思議なことには滅多に風をひかない。この二月の初めに、四カ月の新聞紙法違犯を勤めて来た山川のごときは、やはり肺が悪くてほとんど年中風を引き通している男だが、向うではとうとう風一つ引かずに出て来た。そして出るとすぐ例の流行性感冒にやられて一月近く寝た。
こういった冬の、また千葉でのある日のこと。教務所長という役目の、年老った教誨師の坊さんが見舞いに来た。
監獄にはこの教誨師という幾人かの坊さんがいる。ところによってはヤソの坊さんもいるそうだが、大がいは真宗の坊さんだ。
普通の囚人には、毎週一回、教誨堂とかいう阿弥陀様を飾った広間に集めて、この坊さんが御説教を聴かせるのだそうだが、僕等には坊さんの方から時折僕等の部屋へ訪ねて来る。大がいの坊さんは別に御説法はしない。ただ時候の挨拶や、ちょっとした世間話をして、監獄の待遇についてのこちらの不平を聞いて行く。
千葉のこの教務所長というのは、その頃もう六十余りの老人で、十幾年とか二十幾年とか監獄に勤めて地方での徳望家だといううわさだった。僕にはどうしてもそのうわさが正当には受けとれなかった。何よりもまず、その小さいくるくるした眼に、狐のそれを思わせるある狡猾さが光っていた。何か話しするのでもとかくに御説法めく。本当に人間と人間とが相対しているのだというような、心からの暖かみや深切は見えない。そしていつも、俺は役人だぞ、教務所長だぞ、という心の奥底を裏切る何ものかが見える。僕はこの男が見舞いに来るのを千葉での不愉快なことの一つに数えていた。
「如何です。今日は大ぶ暖かいようですな。」
わざとらしい、どこかにこちらを見下げているような嘲笑の風の見える微笑を洩らしながら、はいって来るとすぐいつもの天気の挨拶をした。僕はこの男のいやな中にも、この微笑が一番いやだった。それに今、せっかく読みかけていたトルストイの『復活』の邪魔をされたのが、その足音を聞いて急に本をかくして仕事をしているような真似をさせられたのが、なおさらにその微笑に悪感を抱かせた。
「何が暖かいんだ。俺が今こうしてブルブル慄えているのが見えないのか。」
僕は腹の中でこう叫びながら、再びその顔を見上げた。そしていきなり、
「ふん! 綿入れの五、六枚も着てりゃ、いい加減暖かいだろうよ。」
と毒づいてやった。実際彼は、枯木のような痩せたからだを、ぶくぶくと着太っていた。そしてその癖、両手を両わきのところでまげて、まだ寒そうにその両手でしっかりとからだを押えていた。
教務所長の痩せ細った蒼白い顔色が、急に一層の蒼味を帯びて、その狐の眼がさらに一層意地わるく光った。僕は仕事の麻縄[#「麻縄」は底本では「麻繩」となっている]をなう振りをしながら、黙って下を向いていた。
教務所長のからだがふいと向きを変えたと思うと、彼は廊下に出て、恐ろしい音をさせて戸を閉めて行った。僕はすぐ麻縄[#「麻縄」は底本では「麻繩」となっている]をそばへ投って、布団の下にかくしてある、『復活』をとり出した。そしていい気持になって、さっきの続きを読み始めた。
その後数カ月の間、あるいはとうとう出る最後の時までであったかも知れない、僕はその不愉快な老教誨師の顔を見ないで済んだ。
出獄後聞くと、この教務所長は面会に来る女房にしきりに自宅へ来るようにと言っていたそうだ。そしてそれは、本人の行状について詳しく話もし聞きもしたいということであったそうだが、来るにはどうせ手ぶらでは来まいという下心があるらしかったそうだ。現に同志の一人の細君は、面会へ行くたびにお土産物を持って彼を訪うて、ずいぶん歓待されたという話だ。が、僕の女房は、早く出獄した他の同志から僕と彼との間柄をよく聞き知っていたので、とうとう訪ねても見なかったそうだ。
それから二年ばかりして、ある日の新聞に、この教務所長が収賄をして千葉監獄へ収監されたという記事を発見した。もっともその後証拠不十分で放免になったと聞いたが。
教誨師については先日面白い話を聞いた。荒畑と山川とが東京監獄から放免になるのを、朝早く、門前のある差入屋まで迎えに行った。二人とも少し痩せて顔の色も大ぶ蒼白くはなっていたが、それでも元気で出て来た。
差入室の一室でしばらくみんなで快談した。迎えられるものも迎えるものも大がいみな獄通だ。迎えられるものは盛んにその新知識をふりまく。迎えるものは急転直下した世間の出来事を語る。
「おい、抱月が死んで、須磨子がそのあとを追って自殺したのを知っているかい?」
とたしか堺が二人に尋ねた。
「ああ知っているよ。実はそれについて面白いことがあるんだ。」
荒畑が堺の言葉のまだ終らぬうちに、キャッキャと笑いながら言った。
荒畑の細君が、何とかして少しでも世間の事情を知らせようと思って、さも親しい間柄のように書いて抱月の死を知らせたのだそうだ。
「ええ、先生にはずいぶん長い間学校でお世話になったもんですから。」
荒畑はその手紙を見てやって来た教誨師にでたらめを言った。荒畑は抱月とはたった一度何かの会で会ったきりだった。勿論師弟関係もなんにもない。
「ついちゃ、お願いがあるんですが。」
と荒畑はちょっと考えてから言った。
「そんな風ですから、別に近親というわけでもないんですが、一つ是非回向をして下さることはできないものでしょうか。」
教誨師はまた何か厄介な「お願い」かと思ってちょっと顔を顰めていたが、その「お願い」の筋を聞いて、顔の皺を延ばした。そして今までは死んだ人の話をするのでもあり、ことさらに沈欝らしくしていた顔色が急ににこにこと光り出した。
「え、ようござんすとも、お安い御用です。」
教誨師はこう言って、荒畑を教誨堂へ連れて行った。荒畑はこの教誨堂なるものを一度見たかったのだ。そして坊さんにお経でも読まして、その単調な生活を破る皮肉な興味をむさぼりたかったのだ。
「どうだい、それで坊さん、お経をあげてくれたのかい?」
荒畑がお茶を一杯ぐっと飲み干している間に僕が尋ねた。
「うん、やってくれたともさ。しかも大いに殊勝とでも思ったんだろう。ずいぶん長いのをやってくれたよ。」
「それや、よかった。」
とみんなは腹をかかえて笑った。
「で、こんな因縁から、お須磨が自殺した時にもすぐその教誨師がやって来て知らせてくれたんだ……。」
まだ書けばいくらでもあるようだが、このくらいでよそう。書く方でも飽きた。読む方でももういい加減になった頃だろう。
底本:「大杉栄全集第十三巻」現代思潮社
1965(昭和40)年1月31日発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:kompass
校正:小林繁雄
2001年11月8日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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