青空文庫アーカイブ

幽霊妻
大阪圭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)歳《とし》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)口|喧《やかま》しい

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「木+内」、第3水準1-85-54、359-13]
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 ――じゃァひとつ、すっかり初めっから申し上げましょう……いや全く、私もこの歳《とし》になるまで、ずいぶん変わった世間も見てきましたが、こんな恐ろしい目に出会ったのは天にも地にも、これが生まれて初めてなんでして……
 ――ところで、むごい目にお会いになった旦那様のお名前は、御存知でしたね……そうそう新聞に書いてありましたな。平田章次郎《ひらたしょうじろう》様とおっしゃって、当年とって四十六歳。いや新聞も、話の内容はまるで間違ったことを書いてても、あれだけは確かでしたよ。N専門学校の校長様で、真面目《まじめ》すぎるのが、かえってたった一つの欠点に見えるくらいの、立派な厳格な先生様でございました。……ところで、今度のことが起きあがるしばらく前に、御離縁になって、お気の毒な最期をおとげになった、問題の、夏枝《なつえ》様とおっしゃる奥様は、旦那様とは十二違いの三十四におなりでございましたから、この方がまた、全く新聞に書いてあった通りの御器量よしで、そのうえお気立てのやさしい、よくできたお方でした……こう申しては、なんですが、二年前にこの老耄《おいぼれ》が、学校の方の小使を馘《くび》になりました時に、お邸の方の下男にお引き立てくださったのも、後で女中から聞いたことですが、みんな奥様のお口添えがあったからでして、なんでも、旦那様はどちらかというと、口|喧《やかま》しいお方でしたが、奥様は、いかにも大家の娘らしく、寛大で、淑《しと》やかで、そのために御夫婦の間で口争いなぞこれっぽちも、なさったことがございませんでした。
 ……申し忘れましたが、奥様は、旦那様と違って生粋《きっすい》の江戸ッ子で、御実家は人形町の呉服屋さんで、かなり盛んにお店を張っていらっしゃいます……で、まあ、そんなわけで、御夫婦の間にお子様こそございませんでしたが御家庭は、まずまず穏やかに参っていたわけでございますが、ところが、それがこの頃になって、どうしたことか急に悪いことになり、とうとう奥様は御離縁という、まことに不味《まず》いお話になってしまったんでございます。
 ――いや全く、なんだって今更《いまさら》御離縁なぞというとんでもないお話になったのか、私共にはトンと知る由もございませんが、御実家のお父様も、二、三度おいでになって、いろいろとお話をなさったようでございましたが、なにぶん頑《かたく》なな旦那様のことでお話はできず、親元へお引き取りということになったんでございます。
 ――いや、どうも、これがそもそも悪いことの始まりでした。奥様は大変お嘆きになって、お眼を真っ赤に泣きはらしながら、お父様と御一緒にお帰りになるし、旦那様は、なにか大変不機嫌で、ろくに口をお利きにならないという始末。私共もずいぶん気を揉《も》んだんですが、何を申してもこちらはただの傭人《やといにん》、それに、第一なんのための御離縁か、肝心要のところがトンとわかっていないのですから、お話にもなりません。なんでも、女中の澄《すみ》さんのいうところでは、なにか奥様に不行跡があっての御離縁ではあるまいかなぞと申しますが、しかし私は、初めっから、奥様がそんな方でないことは、チャーンと存じ上げておりました。成程《なるほど》奥様は御器量よしで、さすが下町育ちだけあって万事に日本趣味で、髪なぞもしょっちゅう日本髪でお過しになりましたが、それがまたなんともいえない粋な中に気品があって、失礼ながら校長様の奥様としても、申し分ないほどお美しい方でしたし、それに第一また、お子様もないことですので、お一人で気軽に外出なさることもよくございましたけれども、一旦お天道様が沈んでからというものは、一人でお出掛けになったことなど、決してございませんでした……いや全く、私もこの歳になるまでには、ずいぶんいろいろな女も見て参りましたが、奥様のように、大事なところをキチンと弁《わきま》えていられる方は、そうザラにはござんせんですよ……
 ――いやどうも、とんだ横道にそれてしまいましたが、さて、それから大変なことが、続いて持ち上がったのでございます。……あれは、御離縁になってから確か四日目のことでございましたが、まだお荷物も片付いていないというのに、御離縁を苦になさった奥様は、とうとう御実家で、毒を呑《の》んでお亡くなりになったんでございます。どうも、なんとも[#「なんとも」は底本では「何となく」と記載]お気の毒な次第で……なんでも、あとから伺《うかが》ったことでございますが、奥様は簡単な書置きをお残しになって、自分はどこまでも潔白であるが、お疑いの晴れないのが恨めしい、というようなことを、旦那様あてにお残しになったということですが、そのお手紙を持って、人形町からの使いが、奥様の急死を旦那様へお知らせに来ました時にはさすがの旦那様も、急にお顔の色がサッとお変わりになりました。
 ――いや皆さん。ところが学者というものの偏屈さを私はその時しみじみ感じましたよ。……とにかく、命を投げだしてまで身の潔白を立てようとなさった奥様ではございませんか、よしんばどのような罪がおありなさったとしても、仏様になってからまで、そんなにつらくお当たりになることもないんですのに、ところが旦那様は、一旦離縁したものは妻でも親族でもないとおっしゃって、青い顔をなさりながらも、名誉心が高いと申しますか、意地が悪いと申しますか、お葬式にさえ、お顔をお出しになろうとなさらなかったのでございます。そうして、私共の気を揉《も》むうちに、どうやら御実家のほうだけで御葬儀もすんでしまい、あの取り込みのあとの言いようのない淋しさが、やって来たのでございます。……
 ――さて、これで、このまま過ぎてしまえば、なんでもなかったのでございますが、実を申しますと、いままでのお話は、ほんの前置きでございまして、話はこれから、いよいよ本筋に入り、とうとう皆様も御存知のような、恐ろしい出来事が持ち上がってしまったのでございます。
 ――ところで、いちばん初め、旦那様の素振《そぶ》りに変なところの見えだしましたのは奥様の御葬儀がおすみになりましてから、三日目のことでございました。いまも申し上げましたように、旦那様は偏屈をおっしゃって、御葬儀にも御出席になりませんでしたが、旦那様はそれでいいとしましてもお世話になりました私共がそれではすみません。それで、なんとかして、せめてお墓参りなどさしていただきたいものと存じまして、それとなく旦那様にお願いいたしましたところ、それまで表面はかなり頑固にしてみえた旦那様も、さすがに内心お咎《とが》めになるところがあるとみえまして、
「では、わしも、陰ながら一度|詣《もう》でてやろう」
 とおっしゃいまして、早速お供を申し上げることになったのでございます。
 申し忘れましたが、奥様の御墓所は谷中墓地でございまして、田端のお邸からはさして遠くもございませんので、私共は歩いて参りましたのでございますが、なにぶん旦那様の学校がお退《ひ》けになりましてから、お供したのでございますので、道灌山を越して、谷中の墓地に着きました時には、もうそろそろ日も暮れ落ちようという、淋しい時でございました。
 奥様の御実家の、御墓所の位置は、以前にもおいでになったことがございまして、旦那様はよく御存知でございますので、早速お花を持ってそちらへお出掛けになるし、私は、井戸へお水を汲みに参ったのでございます。ところがお水を汲みまして、私が、一足遅れて御墓所のほうへ参ろうといたしますと、たったいまそちらへお出掛けになったばかりの旦那様が、こう、青いお顔をして、あたふたと逃げるように引き返しておいでになり、
「急に気持が悪くなったから、これで帰ろう。自動車を呼んでくれ」
 とおっしゃるのでございます……いやどうも、全くびっくりいたしました。私としましては、折角《せっかく》そこまで参ったのでございますから、とてもそのまま引き返したりなぞしたくなかったのでございますが、さりとて、お加減の悪い旦那様を捨てても置かれず、残念ではございましたが、そのまま一旦桜木町の広い通りへ出まして、遠廻りながらそこから自動車を拾って、お宅まで引き返してしまったのでございました。……
 あとで考えてみれば、少し無理と思いましても、あの時旦那様だけお返しして、私だけ、直《す》ぐに引っ返してお墓参りをしましたなら、あるいはあの時、人気のない墓地の中で旦那様がご覧になったものを、私も見ることができたかも知れないと、おっかなびっくり考えたものでございますが何分その時は、変だなとは思いながらも、旦那様の御容態の方が心配でしたので、そんな分別《ふんべつ》も出なかったわけでございます。
 ――さて、御帰宅なさいましてから、旦那様の御加減は間もなくお直りになりましたが、その日から、旦那様の御容子が、少しずつ変わって参ったのでございます。……いつになってもお顔の色は妙に優《すぐ》れず、お眼が血走って、いつもイライラなさっていられるのを見ますと、私共は、まだ本当にお加減はよくなっていられないのだなと、思われたほどでございます。
 ――そうそう、こんなこともございました。なんでも、いままでは夜分なんぞ、いつもかなり遅くまで御書見なさったり、お書き物をなさったりなされました御習慣が、ふっつりお止まりになりまして、かなり早くから女中にお床をお取らせになって、お睡《やす》みになるのでございます。そして戸締りなぞにつきましても、いままでより一層神経質になり、厳しくおっしゃるのでございます。――気のせいか、そうして日毎に御容子のお変わりになって行く旦那様のお側におりながら、私共は、ただわけもわからず、オドオドいたすばかりでございました。……
 ――いや、ところが、こうしたまるで『牡丹燈籠《ぼたんどうろう》』の新三郎のような不吉な御容子は、そのまま四日ほども段々高まり続いて、とうとう恐ろしい最期の夜が参ったのでございます。
 ――いや全く[#底本では「いま全く」と誤植]、今思い出してもゾッとするような恐ろしい出来事でございました。……なんでも、あの日女中の澄さんは、千葉の里から兄さんが訪ねて来まして、一晩お暇をいただいて遊びに出掛け、旦那様のお世話は、この老耄《おいぼれ》が一人でお引き受けいたしていたのでございますが、六時頃に夕飯をおすましになりますと、旦那様は、御書斎から何か書類の束をお持ち出しになって、
「明日から二、三日、学校の方を休みたいと思うから、これを早稲田の上田《うえだ》さんへお届けして、お願いして来てくれ」
 とおっしゃるのでございます。上田様とおっしゃるのは、学校で旦那様の代理をなさる先生でございます。まだその時は時間も早うございましたし、二時間もすれば充分帰って来られると思いましたので、早速お引き受けいたしまして、田端駅から早稲田まで出掛けたのでございます。むろん私は平素のお指図通り、戸締りはきちんとし、表門なぞも固く閉して勝手口からこっそりと出掛けたのでございますが、なんと申しましても、旦那様をお一人で残して置くなぞというのは、そもそも了見違いだったのでございます。
 ――御用をすまして帰って参りましたのが、意外に遅くなって八時半。てっきり旦那様にお小言を受けるに違いないと、舌打ちしながら、急いで廊下を御書斎の前まで参りまして、扉の外から、
「行って参りました」
 恐る恐るお声を掛けたのでございます。ところが御返事がございません。もう一度声を掛けながら、扉をあけてお部屋の中へ一歩踏み込んだ私は、その時思わずハッとなって立ち竦《すく》んだのでございます。――どこへお出掛けになったのか、旦那様のお姿が見えません。いやそれどころか、お庭に面した窓のガラス扉が一方へ押し開けられて、その外側の窓枠にはめてあるはずの頑丈な鉄棒が、見ればなんと数本抜きとられて外の闇がそこだけ派手な縞《しま》となって嘘《うそ》のように浮き上がっているではございませんか。私は思わずドキンとなってその方へ進みかけたのでございますが、進みかけて、ふとかたわらの開放された襖《ふすま》越しに、畳敷《たたみじ》きのお居間の中へ目をやった私は、今度はへなへなとそのままその場へ崩れるように屈《かが》んでしまいました。お居間の床柱の前に仰向《あおむ》きに倒れたままこと切れていられる旦那様をみつけたからでございます。――お姿はふためと見られないむごたらしさで、両のお眼を、なにかまるで、ひどく凄いものでもご覧になったらしくカッとお開きになったまま、お眼玉が半分ほども飛び出して、お顔の色が土色に変わっているではございませんか。見渡せば、お部屋の中は大変な有様で、旦那様もかなり抵抗なさったと見え、枕や座布団や火箸なぞがところかまわず投げ出されているのでございます。……
 ――さアそれからというものは、いったい私は何をどうしたのか、いまから考えても、サッパリその時の自分のとった処置が、思い出せないのでございますが……なんでも私の気持が少しずつ落ち着いて参りました頃には、もう大勢の警官達が駆けつけて、調査がどしどし進められ、世にも奇怪な事実が、みつけられていたので[#「いたので」は底本では「いたの」と誤植]ございます。
 ――なんでも、警察の方のお調べによると、旦那様のところへやって来た恐ろしいものは、明らかに、一人で、庭下駄を履《は》いて来たというのでございます。それは表門の近くの生垣を通り越して、玄関、勝手口を廻って庭に面した書斎の窓に到るまでの所々の湿った地面の上に、同じ一つの庭下駄の跡が残っていたからで、しかもその庭下駄の跡は歯と歯の間に鼻緒の結びの跡がいずれも内側に残っていて、ひどく内側の擦《す》り減った下駄であることが直ぐにわかったというのでございます。
 私は、警察同士で語り合っているこの説明を聞いた時には思わずギクンとなりました。それは――前にも申し上げましたように、お亡くなりになりました奥様は、日本趣味で、髪もしょっちゅう日本髪に結《ゆ》っておいでになったような方で歩き方も、いま時の御婦人には珍しい純粋な内股で、いつもお履物が、すぐに内側が擦り減ってかなわない、とおっしゃっておいでになったのを、思い出したからでございます。私は思わずゾッとなって、このことは口に出すまいと決心いたしました。
 ――さて、庭に面した書斎の窓の、親指ほどの太さの鉄棒は、皆で三本抜かれておりましたが、それは三本ともほとんど人間ばなれした激しい力で押し曲げられて、窓枠の※[#「※」は「木+内」、第3水準1-85-54、359-13]《ほぞ》から外されたと見え、それぞれ少しずつ中ほどから曲がったまま軒下に捨ててあるのを見ました時に、私は思わずふるえあがってしまいました。
 ――ところで、今度は旦那様の御|遺骸《いがい》でございますが、これはまことにむごたらしいお姿で、なんでも頭の骨が砕かれたため、脳震盪《のうしんとう》とかを起こされたのが御死因で、もうひとつひどいことには、お頸《くび》の骨がへシ折られていたのでございます。この他には別にお傷はございませんでしたが、けれどもその固く握りしめられた右掌の中から、ナンとも奇妙な恐ろしいものがみつけ出されたのでございます。お側にソッと屈《かが》んで見ますと、なんとそれは、右掌の指にからみつくようにして握りしめられた数本の、長い女の髪の毛ではございませんか。そして、おまけにその髪の毛からは、ほのかに、あの懐かしい、日本髪に使う香油の匂いがしているではございませんか……。私はふと無意識で頭をあげました。このお部屋は十畳敷きで、床の間の真向かいの壁よりの所には、なにか取り込み中で、まだ御整理のできていない奥様のお箪笥や鏡台が、遠慮深げに油単《ゆたん》をかけて置かれてあったのでございますが、香油の匂いを嗅いでふと思わず頭をあげた私は、何気なしにその鏡台のほうへ眼をやったのですが、その途端にまたしてもドキンとしたのでございます。――見れば、いままで気づかなかったその鏡台の、燃えるような派手な友禅の鏡台掛けが、艶《つや》めかしくパッと捲《ま》くりあげられたままであり、下の抽斗《ひきだし》が半ば引き出されて、その前に黄楊櫛《つげぐし》が一本投げ出されているではございませんか。思わず立ち上がった私は、鏡台の前へかけよると、屈むようにして、改めてあたりの様子を見廻わしたのでございますが、抽斗の前の畳の上に投げ出された黄楊櫛には、なんと旦那様のお手に握られていたのと全く同じ髪の毛が三、四本、不吉な輪を作って梳《す》き残されておりました……。
 ――いや全く、その時私は、たった今しがた、その鏡台の前に坐って、澄み切った鏡の中へ姿を写しながら乱れた髪をときつけて消え去って行った恐ろしいものの姿が、アリアリと眼に見えるような気がして、思わず身震いをくりかえしたのでございます。
 ――ところで、この時私は、またしても忌《い》まわしいものをみつけたのでございます。それは、この鏡台の前に来て初めてみつけることができるような、部屋の隅の畳の上に、落として踏みつぶされたらしい真新しい線香、それも見覚えもない墓前用の線香が、半分バラバラになって散らばっているのでございます。なんという忌まわしい品物でございましょう。私は思わず目をつむって、誰へともなく、心の中で掌を合わせたものでございます。そして私は、もうこれ以上これらの忌まわしい思いを、自分一人の中に包み切れなくなりまして、おりから、私へのお調べの始まったのを幸いに、奥様の御離縁からお亡くなりになった御模様。続いてあの谷中の墓地での旦那様のおかしな御容子から、今日いまここに到るまでの気味の悪い数々の出来事を、逐一《ちくいち》申し上げたのでございます。
 ――すると、それまで私の話を黙って聞いていた、金筋入りの肩章をつけた警官は、かたわらの同僚のほうへ向き直りながら、
「どうもこのお爺さんは、亡くなられた奥さんが、幽霊になって出て来られた、と思ってるらしいんだね」
 そういってニタリと笑いながら、再び私のほうへ向き直っていわれるのです。
「成程《なるほど》、お爺《じい》さん。これだけむごたらしい殺し場は、生きている人間の業《わざ》とは、ちょっと思われないかも知れないね。しかし、これも考えようによっては、ただの女一人にだってできる仕事なんだよ。たとえばね。あの窓の鉄棒を抜きとるにしたって、なにもそんなお化《ば》けじみた力がなくたって、よくある手だが、まず二本の鉄棒に手拭《てぬぐい》かなんかを、輪のように廻してしっかり縛るんだ。そしてこの手拭の輪の中になにか木片でも挿《さ》し込んで、ギリギリ廻しながら手拭の輪を締めあげるんだ。すると二本の鉄棒は、すぐに曲がって窓枠の※[#「※」は「木+内」、第3水準1-85-54、362-3]から外れてしまう。……なんでもないよ。……それから、この死人の傷にしたって、何か重味のある兇器で使いようによっては充分こうなる。……それからまた、内側の減った下駄にしても、なにも内股に歩くのは、こちらの奥さん一人きりというわけでもないだろう……わかったね。じゃァひとつ、これから、その亡くなった奥さんの、人形町の実家というのへ案内してくれ。そこにいる女を、片ッ端から叩きあげるんだ」
 警官は、そういって、ガッチリした体をゆすりあげたものでございます。ところが、この時、いままで旦那様の御遺骸を調べられていた、わりに若い、お医者様らしいお方がやって来られまして、不意に、
「警部さん、あなたは、なにか勘違いをしてられますよ」
 とテキパキした調子で、始められたんでございます。
「たとえば、あなたの鉄棒を曲げるお説ですね。聞いてみれば、成程ごもっともです。その手でやれば、二本の鉄棒は、人間の力で充分曲がりましょう。しかし、いまあの窓で曲げられているのは、三本ですよ。三本曲げるにはどうするんです。え? いまのあなたのお説では、二本しか同時に曲げることはできないのですから、二本とか四本とか六本とか、つまり偶数なら曲げられるが、一本とか三本とか五本とか、奇数ではどうしても一本きり余りができて、手拭の輪をかけることもできないではありませんか。……だからあれはそんな泥棒じみたからくりで抜いたんではありませんよ。本当に魔物のような力でやったんです。
 ……それから、例の下駄の件ですがね、あなたは、あの下駄を履いた内股歩きの女が、人形町あたりにいるようなお見込みですが、しかし、こういうことを一応考えてください。つまり、下駄の裏の鼻緒の結び跡が残るほど内側が減るには、一度や二度履いただけではなく、いつも履いていなくちゃアならぬわけでしょう。そうすると、鏡台に向かって、乱れた髪をときつけて帰って行くような、たしなみを知っている普通の女がいつでも庭下駄なんぞを履いて、しかも人形町あたりでゾロゾロしているというのはちょっとおかしかないですか……」
 そう言ってお医者さんは、急に部星の隅へ行かれて、畳の上から例の忌《い》まわしい線香の束を拾いあげると、今度はそいつを持ってツカツカと私の前へやって来られていきなり、
「あなたは谷中の墓地にある、亡くなられた奥さんのお墓の位置を知っていますか?」
 と訊《き》かれたんでございます。抜き打ちの御質問でびっくりした私が、声も出せずに黙ってうなずきますと、その若い利巧そうなお医者様は、
「では、これから、そのお墓まで連れて行ってくれませんか」
 と今度は警官のほうへ向き直って、
「ねえ警部さん。この線香の束は、まだこれから使うつもりの新しいものですよ。ひとつこれから、谷中の墓地へ出掛けて、こいつをここへ忘れて行った、その恐ろしいものにぶつかって見ませんか?」
 とまアそんなわけで、それから十分ほど後には、もう私共は警察の自動車に乗って、深夜の谷中墓地へやって来たのでございます。
 墓地の入口のずっと手前で自動車を乗り捨てた私共は、お医者様の御注意で、お互いに話をしないように静かに足音を忍んで、墓地の中へはいったのでございますが、ちょうどそのとき雲の切れめを洩れた満月の光が、見渡す限りの墓標を白々と照らし出して、墓地の周囲の深い木立が、おりからの夜風にサワサワと揺れるのさえ、ハッキリと手にとるように見えはじめたのでございます。――いや全くこの時のものすごい景色は、案内人で先へ立たされていた私の頭ン中へ、一生忘れることのできないような、なんて申しますか、印象? とかいうものを、焼きつけられたんでございます。
 ――ところが、それから間もなく、奥様のお墓の近くまでやって参りました私は、不意にギョッとなって立ち止まったのでございます。――見れば、まだ石塔の立っていないために、心持ち窪んで見える奥様のお墓のところから、夜目にもホノボノと、青白い線香の煙が立っているではありませんか。
「ああ、確かあの、煙の立っているところでございます」
 もう私は、案内役ができなくなりましたので、そう言ってふるえる手で向こうを指差しながら、皆様に先に立っていただきました。するとお医者様が真っ先になって、ドシドシお墓のところまでお行きになりましたが、立ち止まって覗《のぞ》き込むようにしながら、
「こんなことだろうと思った」
 そういって、私達へ早く来い――と顎をしゃくってお見せになりました。続いてかけつけた私達は、ひとめお墓の前を覗き込むと、その場の異様な有様に打たれて、思わず呆然《ぼうぜん》と立ち竦んだのでございます。
 ――黒々と湿った土の上に、斜めに突きさされた真新しい奥様の卒塔婆《そとば》の前には、この寒空に派手な浴衣地の寝衣を着て、長い髪の毛を頭の上でチョコンと結んだ、一人の異様な角力《すもう》取りが、我れと己れの舌を噛《か》み切って、仰向きざまにぶっ倒れていたのでございます。
「手遅れでしたよ」
 お医者様はそういいながら、無造作《むぞうさ》な手つきで死人の体をまさぐっていられましたが、やがてふと、卒塔婆の前のもう既に燃えつきようとする線香の束の横から、白い手紙のようなものを取りあげると、そいつをひろげて、黙って警部さんのほうへ差し出されました。むろんその手紙は、私もあとから見せていただきましたが……なんでも、余り達筆ではございませんでしたが、それでも一生懸命な筆跡で……

御|贔屓《ひいき》の奥様。
いきさつは御実家の旦那様からお伺いいたしました。私めのためにとんでもない濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をお着になったお恨みは、必ずお晴らし申します。特別御贔屓にして頂きました私めの、これがせめてもの御恩返しでございます。

 ――大体、そんなことがその手紙には書いてあったのでございます。
 ――いや全く、相手がお角力取りと知ってからは、大きな下駄の跡を、庭下駄だなんて騒いでいた連中がおかしいみたいで……それに、これはあとから奥様の御実家の旦那様から伺ったんでございますが、なんでも下駄の内側を擦り減らすのは角力取りに多いので、それは角力取りの一番力のはいるところが、両足の拇指《おやゆび》のつけ根だからだそうでございます。それから、奥様の御実家は、皆様揃って角力好きで、舌を噛み切って死んだその角力取りは、御実家で特に贔屓にしていらっしゃる、茨木部屋の二枚目で、小松山《こまつやま》という将来のある力士だったそうでございます。
 ――いや、どうも、奥様の幽霊の正体が、お角力取りとは思いも寄りませんでしたが、それでも私は、奥様が不行跡をなさるようなお方でないことは、初めっから固く信じておりましたようなわけで、こうしてことの起こりが贔屓角力とわかってみれば、やっぱり私の考えが正しかったのでございます。学者気質で、少し頑《かたく》なな旦那様には、お可哀そうに、どうしても、贔屓角力の純な気持というものが、おわかりになれなかったのでございましょう……。
 ――やれやれ、とんだ長話をいたしましたな。では、ここらで御無礼さしていただきます……。



底本:「怪奇探偵小説集1」ハルキ文庫、角川春樹事務所
   1998(平成10)年5月18日第1刷発行
底本の親本:「怪奇探偵小説集」双葉社
   1976(昭和51)年2月発行
※疑わしいと思われる箇所の照合には、「とむらい機関車」(国書刊行会、1992(平成4)年5月20日初版第1刷印刷)を用いました。
入力:大野晋
校正:はやしだかずこ
2000年12月14日公開
2001年7月16日修正
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