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信太妻の話
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)信太《シノダ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)森|女占《ヲンナウラカタ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「竹かんむり/甫/皿」、第3水準1-89-74]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)安倍[#(ノ)]安名
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)行き/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
今から二十年も前、特に青年らしい感傷に耽りがちであつた当時、私の通つて居た学校が、靖国神社の近くにあつた。それで招魂祭にはよく、時間の間を見ては、行き/\したものだ。今もあるやうに、其頃からあの馬場の北側には、猿芝居がかゝつてゐた。ある時這入つて見ると「葛の葉の子別れ」といふのをしてゐる。猿廻しが大した節廻しもなく、さうした場面の抒情的な地の文を謡ふに連れて、葛の葉狐に扮した猿が、右顧左眄の身ぶりをする。
「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」何でもさういつた文句だつたと思ふ。猿曳き特有のあの陰惨な声が、若い感傷を誘うたことを、いまだに覚えてゐる。平野の中に横たはつてゐる丘陵の信太《シノダ》山。其を見馴れてゐる私どもにとつては、山又山の地方に流伝すれば、かうした妥当性も生じるものだといふ事が、始めて悟れた。個人の経験から言つても、それ以来、信太妻伝説の背景が、二様の妥当性の重ね写真になつて来たことは事実である。今人の信太妻に関した知識の全内容になつてゐるのは、竹田出雲の「蘆屋道満大内鑑」といふ浄瑠璃の中程の部分なのである。
恋人を死なして乱心した安倍[#(ノ)]安名が、正気に還つて来たのは、信太《シノダ》の森である。狩り出された古狐が逃げて来る。安名が救うてやつた。亡き恋人の妹葛の葉姫といふのが来て、二人ながら幸福感に浸つてゐると、石川悪右衛門といふのが現れて、姫を奪ふ。安名失望の極、腹を切らうとすると、先の狐が葛の葉姫に化けて来て留める。安名は都へも帰られない身の上とて、摂津国安倍野といふ村へ行つて、夫婦暮しをした。その内子供が生れて、五つ位になるまで何事もない。子供の名は「童子丸《ドウジマル》」と云うた。葛の葉姫の親「信太[#(ノ)]荘司」は、安名の居処が知れたので実の葛の葉を連れて、おしかけ嫁に来る。来て見ると、安名は留守で、自分の娘に似た女が布を織つてゐる。安名が会うて見て、話を聞くと、訣らぬ事だらけである。今の女房になつてゐるのが、いかにも怪しい。さう言ふ話を聞いた狐葛の葉は、障子に歌を書き置いて、逃げて了ふ。名高い歌で、訣つた様な訣らぬ様な
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恋しくば、たづね来て見よ。和泉なる信太の森の うらみ葛の葉
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なんだか弖爾波のあはぬ、よく世間にある狐の筆蹟とひとつで、如何にも狐らしい歌である。其後、あまりに童子丸が慕ふので、信太の森へ安名が連れてゆくと、葛の葉が出て来て、其子に姿を見せるといふ筋である。
狐子別れは、近松の「百合若大臣野守鏡」を模写したとせられてゐるが、近松こそ却つて、信太妻の説経あたりの影響を受けたと思ふ。近松の影響と言へば「三十三間堂棟木[#(ノ)]由来」などが、それであらう。出雲の外にも、此すこし前に紀[#(ノ)]海音が同じ題材を扱つて「信太[#(ノ)]森|女占《ヲンナウラカタ》」といふ浄瑠璃を拵へて居る。此方は、さう大した影響はなかつた様である。
信太妻伝説は「大内鑑」が出ると共に、ぴつたり固定して、それ以後語られる話は、伝説の戯曲化せられた大内鑑を基礎にしてゐるのである。其以外に、違つた形で伝へられてゐた信太妻伝説の古い形は、皆一つの異伝に繰り込まれることになる。言ふまでもなく、伝説の流動性の豊かなことは、少しもぢつとして居らず、時を経てだん/″\伸びて行く。しかも何処か似よりの話は、其似た点からとり込まれる。併合は自由自在にして行くが、自分たちの興味に関係のないものは、何時かふり落してしまふといつた風にして、多趣多様に変化して行く。
さう言ふ風に流動して行つた伝説が、ある時にある脚色を取り入れて、戯曲なり小説なりが纏まると、其が其伝説の定本と考へられることになる。また、世間の人の其伝説に関する知識も限界をつけられたことになる。其作物が世に行はれゝば行はれるだけ、其勢力が伝説を規定することになつて来る。長い日本の小説史を顧ると、伝説を固定させた創作が、だん/″\くづされて伝説化していつた事実は、ざらにあることだ。
大内鑑の今一つ前の創作物にあたつて見ると、角太夫節の正本に、其がある。表題は「信太妻《シノダヅマ》」である。併しこれにも、尚今一つ前型があるので、その正本はどこにあるか訣らないが、やはり同じ名の「信太妻」といふ説経節の正本があつたやうである。「信太妻」の名義は信太にゐる妻、或は信太から来た妻、どちらとも考へられよう。角太夫の方の筋を抜いて話すと、大内鑑の様に、信太の荘司などは出て来ず、破局の導因が極めて自然で、伝説其儘の様な形になつてゐる。
或日、葛の葉が縁側に立つて庭を見てゐると、ちようど秋のことで、菊の花が咲いてゐる。其は、狐の非常に好きな乱菊といふ花である。見てゐるうちに、自然と狐の本性が現れて、顔が狐になつてしまつた。そばに寝てゐた童子《ドウジ》が眼を覚まして、お母さんが狐になつたと怖がつて騒ぐので、葛の葉は障子に「恋しくば」の歌を書いて、去つてしまふ。子供が慕ふので、安名が後を慕うて行くと、葛の葉が姿を見せたといふ。此辺は大体同じことであるが、その前後は、余程変つてゐる。海音・出雲が角太夫節を作り易へた、といつた様に聞えたかも知れないが、実は説経節の影響が直接になければならぬはずだ。
内容は数次の変化を経てゐるけれど、説経節では其時々の主な語り物を「五説経」と唱へて、五つを勘定してゐる。いつも信太妻が這入つてゐる処から見ると、此浄瑠璃は説経としても、重要なものであつたに違ひない。それでは、説経節以前が、伝説の世界に入るものと見て宜しいだらうか。一体名高い説経節は、恐らく新古の二種の正本のあつたものと考へる。古曲がもてはやされた処から、多少複雑な脚色をそへて世に出たのが、刊本になつた説経正本であらう。
二
さて此処までは、書物の世界のことだから、書物の知識が直接に伝説の中にとり入れられるといふことも考へられるのだが、此から先は、用意がいる。伝説の世界には、どの本が種本になつたといふ様なことは言へない。これ/\の本にあることが記録せられる以前に、影響を与へたかも知れぬ。これ/\の地方の伝説は此とよく似た、割合古い種を持つてゐる様だ位のことしか言へないのだ。其訣らぬものゝ値打ちを、だん/″\探して行くと、吾々の祖先の生活に対して、極小さな、けれども大きな組立てを暗示する所の一つの見当が、立つて来るのである。
まづ小口から片づけて行く。全体、妻の姿をした者が、同時に二人現れて、夫が迷ふと言ふ型の話は、古くからある。今昔物語にあるのなどは著しい例で、道に立つて居た人妻を見て、其姿になつて、亭主をだまさうとした狐の話と、狐が乳母に化けて、本の乳母と子供を奪ひ合ふのを、雅通中将が判断に迷うた話、殊に瓜二つとも言ふべき話が、並んで出て居る。其系統の伝説から段々筋を引いて来て、近松の「双生《フタゴ》隅田川」になつたのが、劇としては「隅田川続俤」まで遥かに続いて居る。二人のお組の片方は、野分姫の霊と法界坊の霊とが、絡みあつて居る。出雲は趣向だけを敷き写しにとつて「大内鑑」では、二とこまで、役に立てゝ居る。安倍野村の段ばかりでなく、信太の森でも悪右衛門の駕籠を舁く奴が三人出て、名高い「われがおれか。おれがわれか」と言ふ問答になつて居る。
二人妻ではないが、似た話がある。江戸の極浅い頃に出来たのだらうが、板行せられたのは、出雲あたりの死んだ後の物なる、鈴木正三の「因果物語」といふものゝ中に、出羽の最上の商人、京へ出稼ぎして、京女を妻にしたが、用事で国元へ戻ると京の妻が後を追うて来た。商人は最上の妻を逐ひ出して、京の妻を家に入れて子を産ませた。其後再、男が上京して、定旅籠に来ると、亭主の言ふには、お気の毒な事には、あなたに連れ添うた例の女は、煩うて死にましたと言ふ。いやそんな筈があるものか。此々の訣で、最上へ来て子まで産んで居ると言つたので、亭主が女の父親に話すと、父親が娘に会ひに、最上へ下つた。最上の家で、父親に会はせようとしても、女房は出て来ない。女房の部屋に這入つて見ると、父親が京で立てゝ置いた卒塔婆が、そこに立つて居た。卒塔婆の産んだ子供と言ふので、霊童と呼んで居たよしが、見えて居る。此本の系統が、英草紙になり、雨月物語になりしたのだから、上田秋成が「浅茅が宿(雨月物語の内)」の暗示をこゝに獲たのは疑ひないであらうが、似て居るのは卒塔婆のくだりで、外の部分は、今昔物語にある京の妻を棄てゝ地方官について下つた生侍《ナマザムラヒ》が、五年目に上京して、妻の死体と寝た話のまる写しなのである。最上へ訪ねて行つた父親は、信太荘司によく似て居るではないか。
ちよつと似て居れば、此本から此本の話が出た、此伝説は、何の本の話が元だ、と簡単に結着をつける事が喜ばれる。併しさうした結論は、きめたがる人がきめただけの論で、実際の系統は、さう平明にわかるものではない。妻の父が来て、正体が露れると言ふ様な点は、他人の空似と見る方が、まづ安全であらう。が、出雲が全然因果物語の写本を見なかつたなど言ふ事は、彼が乱読癖のあつた人だつた事を見れば、出雲自身だつて言へる筈はないと思ふ。一番安心な有可能性《アルベカヽリ》の考へ方は、室町から引きつぎの、さうした陰惨な空気が、まだ瀰漫して居た時代だから、よし因果物語からでなくとも、口からも、目からも、豊富に注入せられて居た事と見ることだ。
其は其として、子供の無邪気な驚愕が、慈母の破滅を導くと言ふ形の方が、古くて作意を交へないものに違ひない。
三
葛の葉以外の狐は、われ/\の祖先と毫も交渉はなかつたか。此方から探りを入れて見よう。やはり劇関係の物から言ふと、河竹黙阿弥の脚本の「女化稲荷《ヲナバケイナリ》月朧夜」と言ふのは、牛久沼の辺、水戸海道の途中に在る女化原の伝説を為組んだもので、筋の立て方は「大内鑑」に囚はれ過ぎて居る。其事実は、葛の葉が義太夫の正本に纏まつてから後に、起つた事柄として伝へられて居る。尠くとも、徳川末期の人々からは、極《ごく》の最近に起つた実話と信じられて居たのである。其実録の方では、常陸稲敷郡の或村の百姓忠七が、江戸からの帰り途、女化原を通つて、一人の女に逢うた。其女を家に連れ戻つて、妻とした処、男二人、女一人の子を産んだ。ある時、添へ乳して寝た中に、尻尾が出た。子供が騒ぐので、為方なく、一首の歌を残して逃げ去つた。
人間に近い生活をしたものとして、最後の抒情詩を記念に止めさすのも、吾々の民族心理の現れだなどゝ、簡単な心理説明では説明はつかない。人間でない性質のある者まで、歌を読み残して居るのである。
女化原に就ては、今一つ本家争ひをする者がある。常陸栗山の栗山(蜀山は大徳と言ふ)覚左衛門、行き暮れた女を泊めてやつた後(蜀山は行き逢うた女といふ)夫婦暮しをして居る中に、同じ手順で化けの皮を露して、子を棄てゝ逃げ還つた。此も歌を書き残した事になつて居る。此方では、女化原と言はず、
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みどり子が 跡を尋ねば、うなばかゞ原に泣く/\臥す と答へよ
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と原の名を読み込んで居る。蜀山人は、其家の主人代々顔長く口尖つて居ると書いてゐる。此話が記録せられる時分には、地名は既に女化原となつて居たのに、歌だけは、昔の儘に固定して居たと見える。百姓が耳から耳への口うつしの話に、なぜ短歌の挿入が必要なのだらうか。話し手などよりも、数段も上の境涯に居るものなる事を見せる為であつた事は、考へられるのである。
馬琴などの仲間のよりあひ話を録した「兎園小説」には、其隣国の下総にも、狐の子供のあつた話が、而も正真正銘狐の子孫と自称する人の口から聞いた聞き書きが載つて居る。江戸下谷長者町の万屋義兵衛の母みねは、下総赤法華村の孫右衛門方から出た人の娘である。六代前の孫右衛門が、江戸からの戻り道、ある原中で女に会うて、連れ戻つたところ、其働きぶりが母親の気に入つて、嫁にする事となつた。子供を生んだ後、添乳をして居て尻尾を出した。子供が泣き騒いだので、女は何処かへ逃げて行つた。いろ/\尋ねて見ると、向うの小山に、子供のおもちやの土のきせる[#「きせる」に傍線]や、土の茶釜が置いてあつた。やはり此辺に居るに違ひないと言ふ事になつたが、此子成人の後、孫右衛門を襲いだが、処の人は「狐おぢい/\」と言うた。後に発心して廻国に出たが、其儘帰つて来ないと伝へて居た。みね[#「みね」に傍線]は幼少の時其家に行つて、狐の母が残したおもちやを見た事があつたとある。此はもう歌を落して居る。土焼きのおもちやを子供に持つて来て、置いて行つたなどは、近代的とでも言はうか。なまじつかな歌を残すよりも、憐が身に沁むではないか。此三つの話は、土地の近い関係から、大体同じ筋に辿られる。
こゝまで話が進むと、最初そんな愚かな事が、と言ふ様な顔をしてゐられたあなた方の顔に、ある虔《ツヽマ》しさが見え出した。或はさうした事実があつたかも知れない、とお考へ始めになつたものと推量しても、異存はなさゝうである。「狐おぢい」始め、女化原の二様の伝説では、別に其子が賢かつたとも言うて居ないが、狐腹の子は、概して雋敏な様だ。併し、狐の子だから、母方の猾智を受けるものと見る訣にはゆかない伝説が、まだ後に控へて居るのである。
田舎暮しには、智慧を問題にはしない。凡人の生活の積み重りなる田舎の家の伝説には、英雄・俊才の現れる必要は、一つもない。とにかく其家には、祖先以来、軒並みの人間以外の血のまじつて居る事さへ説明出来れば、十分だつたのに違ひない。村人の生活はどんな事をも、平凡化する方が、考へぐあひがよかつたものらしく、この話なども今少し古くには、しかつめらしい形で伝へられて居たものと見られる。稲敷郡根本村の百姓と狐との間に生れた子が、河内[#(ノ)]庄の岡見の家に仕へて栗林下総守義長と言うて、智略に長け、勇力優れた人であつた。此話は、天正頃の事と言ふが、其は疑へるにしても、前の三つよりは、古い形と信じてよいのである。
四
同じやうな考へ方の、今一例をあげると、名高い物臭《モノクサ》太郎なども、江戸時代の信州に伝つて居た形は、極めてありふれたものになつて居る。「中昔の事なるに」と室町時代の「物臭太郎の双紙」に見えた主人公は、伝説では江戸時代の人になつて居る。物臭太郎は、日本あるぷす[#「あるぷす」に傍線]登山鉄道と言ふ方が適当な、信濃鉄道の穂高駅の近所に在る、穂高の社の本地物なのである。だから、此方の話も、松本市から北西の地方で、根を卸したものと見てよからうと考へる。つまり物臭太郎出世譚の平凡化したものだ。
物臭太郎と言ふ人、或時自分の田を作つて居ると、見知らぬ女が手伝ひに来た。こんな働き者なら、女房にしたらよからうと言ふ考へで、家に入れた。非常によく稼いでくれる。子が産れて後、添乳してまどろむ中、尻尾を出して居た。其をよそから戻つた物臭太郎――今は亭主――が見つけた。此は、とんでもない処を見た。併し知らぬ風をしてやらうと、まう一返表へ出て、今度は、ばた/″\足音を立てゝ戻つて、何喰はぬ顔で居た。処があけ[#「あけ」に傍点]の日になると、子供が騒ぎ出した。母親が姿を隠したのである。いぢらしいから乳離れまで居てやつてくれと言つたが、とう/\戻らなかつた。其代りには、其家が段々富み栄えて、長者になつたと言ふのである。
なぜ此人を物臭太郎と言うたのか判然しない辺から見ても、頗古い話の「ある人」にあり合せの、其地方の立身一番の人の名をくつゝけたゞけで、つまりは田舎人のさうした点に対するものぐさ[#「ものぐさ」に傍線]から出たものであらう。此は「炭焼き」や「芋掘り」の山人の出世を助ける高貴の姫の話が、狐腹の家の物語に入り込んだものと見てよさゝうである。松本|平《ダヒラ》辺は、玄蕃《ゲンバ》[#(ノ)]允《ジヨウ》の様な長命の狐の居た処とて、如何様狐の話が多い。
保福寺峠の麓、小県郡の阪井は、浦野氏の根拠地であつた。浦野弾正尚宗の女は、小笠原家に嫁いで、長時を生んだ(又、正忠の女、長時の妻とも)。此奥方の生みの母も狐であつた。浦野家では、それ以来皆、乳首が四つある事になつた、と言うて居た。小笠原の奥方並びに、其腹の子たちには、そんな評判は立たなかつたが、其でも狐だけは、小笠原家につき纏うて居る。小笠原家が、豊前小倉に国替への後、突如として狐が姿を現した。貸本屋本から芝居へ移つて、今尚時々見聞きする、小笠原隼人を中心とした小笠原騒動の一件は、由来が遠い処にあるのである。長時は、小笠原家には大切な人である。
蒲生氏郷も、狐の子だと言ふ伝へがある。偽書と称せられて居る「江源武鑑」と言ふのにある話で、尠くとも「江源武鑑」の出来た時に、さうした伝説が、何かの書物か、民間の伝へにあつた事だけは信ぜられる。
江州日野の蒲生氏定の奥方が、急に逃げ出して了うた。実は、三年前にほんとうの奥方をば喰ひ殺した狐が、後釜に据り込んで居て、忠三郎(氏郷の通称)を産んだのであつたと言ふ。さすれば、氏郷は狐の子であるから、秀いでた処があるのだ、と見た人々の心持がわかる。蒲生家については、別に狐腹なる為の身体上の特徴は言ひ伝へて居ない様だ。
こゝまで来れば、安倍晴明《アベノハレアキラ》の作つたと言ふ偽書――併し江戸の初めには、既にあつた――「※[#「竹かんむり/甫/皿」、第3水準1-89-74]※[#「竹かんむり/艮/皿」、第4水準2-83-69]《ほき》内伝抄」によつて、葛の葉の話が、ちよつと目鼻がつき相に見える。早急を尊ぶ態度の、おもしろくない事を証明する為に、仮りに結論を作つて見よう。
此は名高い話で、葛の葉の話の唯一の種の様に言うて来てゐるのであるが、此話は、江戸以前尠くとも室町の頃には、既に纏つて居たものと見られる。晴明の母御は、人間ではなかつた。狐の変化であつたのが、遊女になつて諸国を流浪して居る中、猫島に行つて、ある人に留められて、其処に三年住んだ。其間に子が出来たので、例の歌を残して去つて了うた。子は成人して陰陽師となつた。都に呼びよせられた時、母の恋しさに、和泉国信太[#(ノ)]杜《モリ》へ尋ねて行つて拝んで居ると、年経る狐が姿を顕した。其が、晴明の母の正体だつたといふのである。
合理的な議論を立てれば、人まじはりの出来ぬ漂浪民《ウカレビト》の女だから、畜生と見て狐になつて去つたといふのであらう。殊に信太[#(ノ)]杜の近くには、世間から隔離せられて居た村が今もあるから、其処から来た女だらうと言ふ様なことも言はれよう。こんなあぢきない知識も、後世には其部落の伝説となるかも知れない。此記載が角太夫ぶしの正本を生み、竹本座の正本にまで発達したのだとして、此でまづ、一通りの説明はつく様だが、此だけで説き尽されたものと考へられては、甚残念である。
五
「大内鑑」や「信太妻」の作者が、此だけの種に、脚色をつけたものと思はれぬのは、もつと考へねばならぬ色々の種を含んで居る点である。譬へば、なぜ童子或は童子丸といふ名が、葛の葉の子に与へてあるのだらう。※[#「竹かんむり/甫/皿」、第3水準1-89-74]※[#「竹かんむり/艮/皿」、第4水準2-83-69]内伝抄では、問題になつて居ない点である。
意識上の事実もあらうが、多くは無意識的に、色々な記憶――時として個人の胸に再現するものを籠めて――を持ち出して居るのである。「物臭太郎の双紙」と同じ傾向で、所謂お伽双紙の中にこめられて居る「狐の双紙」と言ふのを見ると、或僧都が家に居ると、乗り物をもつて迎への者が来る。其に乗つて行くと、立派な家に入つた。僧都は、其処の女あるじと契りをこめる事になる。暫らく其家で暮して居た処が、或日、若僧が二三人、錫杖をふり立てゝ出て来た。其を見ると、女たちは大騒ぎして逃げ散つた。ふつと目を覚すと、御堂の縁の下で寝て居たのだ。畳と思うたのは、蓆のちぎれたものだつたといふ様な話で、とんと[#「とんと」に傍点]我々の耳にまだ残つて居る、狐につまゝれたお百姓たちの、所謂実験談其儘である。私どもの聞いた話は、大抵狐もあつさりして居て、よく/\執念深い狐で通つてゐる奴の外は、仏の利益がなくとも、背中の一つもどやされると、気のつく程度のものばかりである。此点、狐が呪法の上に主な役目をしなくなつた時代を見せてゐるのだと思はれる。此は、後の話が、そこに触れて行く事と思ふ。
右のお伽双紙の原画とまで思はれるものが、平安朝でも古い処にある。三善清行、備中介であつた頃、聞いた事である。実際其当人をも知つて居る様に書いてあるのだが。備前小目|賀陽《カヤ》[#(ノ)]良藤、妻に逃げられて気落ちした様になつて居た頃、菊の花に結びつけた消息を、一人の女が持つて来た。其には、ある身分の高い女が良藤を思うて居るよしが認《したた》めてある。良藤は、其女の処へ通ひ始めて、後には、家を出て女の家に三年暮した。其中に、子どもが出来た。良藤は先妻の子を廃嫡して、此子に後を継がせよう、とまで考へてゐた。ある日、一人の僧が杖を持つて現れて、良藤の背中を叩いた。其女は其と見るや、逃げて了うた。良藤は、自分の家の倉の床下、普通なら這入れさうもない処に居たのである。女は勿論狐であつた。這ひ出して来た良藤は、真青になつて居た。良藤の見えなくなつてから、家人は大騒ぎして、坊さんを招いて祈祷した功徳で助かつたのである。
こゝらに来ると、葛の葉との縁は、大分遠くなつたが、狐の人事関係は、よほど緻密になつた筈である。大祓の祝詞の国つ罪を見ても、祖先の中には、恥しながら、色々な動物を性欲の対象に利用した事実のあつた事が推察出来る。併し、狐の様な馴れにくい獣を犯す事が、ありさうには思はれない。猪との性関係の話が、今昔物語に見えたりするのは、猪の馴れた豚を対象にした事実から逆説出来るかも知れぬが、狐の如きは到底考へに能はぬ所だ。だから、一切獣の子孫・獣の変化《ヘンゲ》との恋愛譚は、皆人間の性欲関係からきり放して、考へねばなるまいと思ふ。
良藤の事は、今昔物語にも出て居るから「狐の双紙」は其敷き写しとも思はれるが、だまされ手を坊さんにしたのは、合点がゆかない。起りは、何処にあらうとも、一先《ひとまづ》民間の話になつてゐたものを、やゝ潤色して書いたのだらうと思ふ。
狐と人間との関係は、もつと溯つて言ふ事が出来る。平安朝の極の初め、嵯峨天皇の時に出来たものだが、内容は殆ど奈良朝気分を持つて、奈良以前の伝説を書いて置いた日本霊異記の中に、美濃の国の狐[#(ノ)]直《アタヘ》(又、美濃狐)と言ふ家に関した伝説が載つてゐる。欽明天皇の御代、其家の祖先なる男が、途中で遇うた美しい女を連れ戻つて、夫婦になつた。其女が、子どもを産んだ。其子の産と殆ど同時に、其家の犬が亦産をした。其犬の子が、翌年の春、庭を歩いて居る其女房に咬みついた。驚いた余りに、元の姿を顕して、垣に逃げのぼつて、家を出て行かうとした。夫がなごりを惜しんで、此からも毎夜「来つゝ寝よ」と言ふと、夜は来ることになつた。それで子の名を「きつね」其獣の名も「きつね」といふ様になつたとある。此子、力は人に優れて居たのみか、其四代目の孫女に、馳ける事極めて捷く、力逞しい女が出て居る。
此「狐[#(ノ)]直《アタヘ》」まで溯れば、まづ日本に於ける狐と人との交渉の輪郭は話し得たことになる。
六
日本の狐も、上古と近世には、やさしい感じを持つて語られて居るが、平安朝から後久しく、恐しくて執念深いものとなつたのは、托枳尼《ダキニ》の修法の対象として使はれたせゐであらうと想像してゐる。ところで、日本の動物中、さうした点で狐と勢力争ひの出来るのは、まづ蛇であらう。蛇との交渉が古い処に多く、狐との関係は、わりあひ新しい時代に殖えて来た様にさへ思はれるのである。
蛇との恋で名高い話は、大和の三輪の神に絡んで居るもので、大体二様になつて居る。晩に来て姿を見せない。どこの男だか知れないから、男の着物へ、娘が針をさして置いたら、窓から出て、三輪山に這入つて居たと言ふのと、今一つ百襲《モヽソ》媛と言つた方が、姿を見せてくれと男に言ふと、明日お前の櫛笥の中に這入つて居ようと言うた。箱を開けて見ると、蛇が居たので驚きの声を立てた。すると、おれに恥を見せたと言つて去つたと言ふのとである。百襲媛は事実皇族出の巫女であつた。其に神が通うたのである。前の方には蛇の事はないが、三輪の神を蛇体と考へて居た事は事実である。
此系統の話で、九州の緒方氏の伝説は、其家が元|大神田《オガタ》で、三輪(大神々社)社に関係あつた家筋である点から、注意すべきものである。緒方氏の先祖は蛇である。自分の処へ通ふ男の家を知る為に、糸をとほした針を領《エリクビ》にさし込んで、翌朝糸を伝うて行くと、姥个嶽の洞穴で止つて居た。中で非常に呻く声がして、針が首にさゝつて、自分はもう死ぬ、併し、子はお前に宿つて居るから、其を育てゝくれと言うた。一度姿を見せてくだされと言ふと、中から大きな蛇が首をつき出した。其孫にあたる人を「あかゞり大太《ダイタ》」と言つて、鱗の様に皮膚がきれて居たと言ふ。其からして、緒方氏の家長になる人には、皆背中に鱗が生えて居るとある。日本中に、鱗や八重歯を一族の特徴とする家が、かなりある様である。此が即《すなはち》前に言ひ置いた浦野一族の乳の特徴と一つのものである。
三輪明神は、古い処では、此様に男と考へて居る様であるのに、中世から女と考へて来る事になつた。謡曲の三輪などにも其は見えて居るが、もつと古くから、さう信じられて居たものらしく、尠くとも平安朝の末には、明らかに見えてゐる。俊頼の「無名抄」には、三輪明神は、住吉明神の妻であつたが、住吉明神に棄てられたので、歌を詠んで住吉明神に贈られた。その歌は
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恋ひしくば、とぶらひ来ませ。ちはやぶる三輪の山もと。杉立てるかど
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と言ふのだとある。此は、古今集の
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わが庵は三輪の山もと。恋ひしくば、とぶらひ来ませ。杉立てるかど
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の拗れた形に過ぎない。
ところが、顕昭法橋の「顕註密勘」には、同じ歌が、こんな話の中に伝つて居る。伊勢国奄芸郡に一人の猟師が居た。ある夜、山で鹿を待つて居た処、鹿は来ないで、闇の中にぎろ/″\光る大きな眼の物が来た。猟師が矢を射ると、逃げて了つた。其跡をつけて行くと、古塚の穴に這入つて居る様である。穴の外に、神女が一人居て言ふには、あれは化け物である。自分はあの化け物に捕れて、大和からこゝへ来たものだ。あれを焼き殺してくれとある。で、柴を穴にうち込んで、化け物を焼き殺して了うた。其跡が野中塚と言うて居る。神女は猟師と夫婦になつて、子さへ儲けた。其後暫らくして、姿を隠して了うた。猟師が悲しんで居る中、母を慕うて居た子供も、何処かへ影を隠した。神女の残して行つた「三輪の山もと杉たてるかど」によつて、大和へ尋ねて行つて、三輪の社を拝んでゐると、女房と子供の姿が、神殿から現れた。其後猟師も神になつた。此が由緒で、三輪の祭りには、奄芸の人がわざ/″\参加に出かけるのだ、と言ふ風の伝へになつて居る。神女とあるのは、女神の意味でなく、巫女を言ふのだらう。
此話などは今一転すると羽衣伝説になつて来る。内地の羽衣伝説では、天女の子を問題にせぬ様だが、沖縄になると、子供が重要な役まはりになつて居る。宮古島の漲水御嶽《ハリミヅオタケ》と言ふ拝処の由来には、女に通うた蛇が、女児三人孕ませて後、自分の種姓を明して去つた。約束通り三年目に、漲水へ連れて行くと、父の大蛇が姿を見せたので、母は子を捐てゝ逃げ出したのに、子どもは何とも思はないで、一人々々首と腰と尾に乗つて、蛇と共に御嶽の中に飛び入つたとある。三輪の神女と子との神になつた話に似て居るばかりか、糸をかけて男の家をつきとめる型まで含んでゐるのである。
銘苅子《メカルシイ》と言ふ人は、水浴中の天女の「飛《ト》び衣《ギヌ》」を匿して、連れ戻つて宿の妻として、子を二人までなさせた。ある日母なる天女が聞いてゐると、弟を守りすかして居る姉娘の子守り唄に「泣くな/\。泣かなかつたら、おつかさんの飛び衣をやらう。飛び衣は高倉の下に匿してある」と無心に謡ふのを聞いて、飛び衣の在りかを悟つて、其を着て上天したと言ふ。
子どもの無心でした事が、親たちを破局に導く点は、此迄挙げた狐の話の全体と通じて居る。太古の団体生活の秘密は、子供に対しては、とりわけ厳重に守らねばならなかつた。成年式を経ない者に、団体生活の第一義を知らせると言ふ事は、漏洩の虞れがあり、又屡さうした苦い経験を積まされてもゐたからである。今一つは、無心な子供に、神意を託宣せられると言ふ信仰である。此二つの結びつきが、此類の伝説の基礎にはあつたらしい。
七
父と母との間に横たはつてゐる秘密を発く役を、子どもが勤める事に就て、もつと臆測がゝつた考へを、臆面なく述べさせて頂く。よその部落と部落、尠くとも非常に違つた生活条件を持つて居るものと、てん/″\に考へ相うて居る部落どうしの間に、結婚の行はれた時には、事実子どもを無心の間諜と見ねばならぬ場合も、起りがちだつた事と思はれる。
併し一方、夫と妻とが別々に持つ秘密が、子どもの為に調和せられてゆく事もある。此が、社会意識の拡がつて行く、一つの道でもあつた。子どもが発くまでもなく、かうした結婚の、破局に陥らねばならぬ原因は、夫々の話に潜む旧生活の印象が、其を見せてゐる。其は、其母が異族の村から持つて来た、秘密の生活法の上にあつたのである。
沖縄の話の序に、今一つ言ふと、先島(八重山・宮古諸島)辺ではよく、あの一族では何の魚類、此|門中《モンチユウ》では某の獣類と言ふ風に、ある家筋に限つて、喰ふ事の禁ぜられて居る動物が、大抵どの家々にも、一つ宛はある様だ。譬へば、鱶・海亀・鮪・儒艮《ザン》・犬・永良部《エラブ》鰻の様な物に対して、厳重な禁制が保たれて居るのである。さうして其理由を、祖先が其動物に助けられたから、又は祖先其物だから、と言うたりして居る。
祖先を動物とする中著しいのは、八重山人は蝙蝠の子孫、宮古人は黒犬の後裔と称する事である。二つの島人どうし互に、さう言つて悪口をつきあうてゐる。だから此島々では、家々で大事の動物のある上に、島としての疎かならぬ生き物がある訣なのである。
部落を拡げて考へれば島となるが、小さくして見れば、家々であり、一族である。つまり、一族の生活を規定し、或信頼を担うてゐる動物のある事が考へられる。津堅《ツケン》の島(中頭郡)では、島の六月の祭りを「うふあなの拝《ウガン》」と言うて、其頃|恰《あたかも》寄り来る儒艮《ザン》を屠つて、御嶽々々に供へる。其あまりの肉や煮汁は、島の男女がわけ前をうけて喰ふ。島以外の人は、島の中に、儒艮御嶽《ザンオタケ》なる神山があつて、此人魚を祀つてゐると言ふが、島人に聞けばきつと、苦い顔で否定する。さうして昔は、人魚でなく、海亀を使うたと言ふ。併し今こそ儒艮《ザン》が寄らなくなつたので、鱶を代りに用ゐる事にして居るのは事実だが、海亀は現に沢山居るのだから、其来なくなつた代りに使うたものとはうけとれぬ。何にしても、特殊な感情を、此海獣に持つてゐる事だけは明らかである。
又、此島と呼べば聞えさうな辺にある一つの土地では、血縁の深さ浅さを表す語《ことば》に、まじゝゑゝか[#「まじゝゑゝか」に傍線]・ぶつ/″\ゑゝか[#「ぶつ/″\ゑゝか」に傍線]と言ふのがある。ゑゝか[#「ゑゝか」に傍線]は親類、まじゝ[#「まじゝ」に傍線]は赤身、ぶつ/″\[#「ぶつ/″\」に傍線]は白いところ即脂身である。死人の赤身を喰べるのが近い親類で、遠縁の者は、白身を喰ふからだと説明してゐる。
此二つの話に現れた、死人の命を肉親のからだに生かして置かうとする考へと、今一つ、神及び村の人々が共に犠牲を喰ふと言ふ伝承とを結び付けて見て、気のつく事はかうである。
動物祖先を言はぬ津堅の島にも、曾ては儒艮《ザン》に特殊な親しみを持つて居たらしい。其が段々に、一つ先祖から岐れ出て、海獣で先祖の儘の姿で居るといつた骨肉感を抱く様になり、祖先神の祭りに右の人魚を犠牲にして、神と村人との相嘗《アヒナメ》に供へたものであらう。
さう言へば、黒犬の子孫だと悪口せられる宮古島にも、八重山人などに言はせると、犬の御嶽があつて、祖先神として敬うてゐるなどゝ言ふ噂もする。
かうした事実や、考へ方が、当の島々には行はれて居ないかも知れない。だが尠くとも、さうした噂をする、他の島々・地方(ぢかた)の人々の見方には、その由来するところの根が、却つて其人々の心にもあるのである。めい/\の村の古代生活に、引き当てゝ考へてゐるに過ぎないのだ。これを直様、とうてみずむ[#「とうてみずむ」に傍線]のなごりと見なくてもよい。が、話の序に少し、此方面にも、探りだけは入れて置かう。
八
一体、沖縄の島々は、日本民族の核心になつた部分の、移動の道すぢに遺つた落ちこぼれと見るのが、一番ほんとうの考へらしい。内地にあつた古代生活の、現に琉球諸島に保存せられて居るものは、非常に多い。さすれば、此南島にある民間伝承の影が、一度は、我々の祖先の生活の上にも、翳《サ》してゐた事も考へられなくはない。
琉球女は、今も長旅や嫁入りには、香炉を持つて行く。其香炉は神を表して居るものである。大抵は、元の家の仏壇から神棚へ祀り替へられる程、年代を経た先祖の神様と考へられて居る様だ。併し此女の持ちあるく香炉は、大分意味の違うた物の様である。
女の香炉は、母から伝はる。根神《ネカミ》と謂はれて居る祖先神の香炉は、根所《ネドコロ》なる本家にあるばかりで、勝手に数を殖して、持ちあるくことは許されて居ない。此香炉は、女だけの祀る神なのである。男とさへ言へば、子すら、夫すら、拝む事も、お撤《サガ》りを戴く事も禁ぜられてゐる。沖縄本島では、段々意義が忘れられて、仏壇の位牌を持ち出したもの位に考へる人もあるが、其でも尚、此香炉に対する信仰の形は近代化しきつても居ない。八重山の石垣島では、とりわけ此考へが著しく残つて居る。此島では、女の香炉をこんじん[#「こんじん」に傍線](古風には、かんじん[#「かんじん」に傍線]と発音する)と言ふ。祖先かと言へば、祖先でもなく、村の神かと思へば、村の神でもない。唯知れて居るのは、母から娘へ、順ぐりに譲つて行く神だと言ふだけである。恐らく、罔極の世の母から、分け伝へて来た神かと思はれる。亭主にも、息子にも拝ませないで、女ばかりの事《つか》へる神が、沖縄の家庭にはある事になるのである。琉球の神人《カミビト》は悉く女性ではあるが、拝む事は、男も勿論するのである。にも係らず、男の与らぬ神の存在は、どう言ふ事を示してゐるのであらう。
村々の生活を規定する原理なる庶物は、てん/″\に違うて居た。尠くともお互に異なる原動力の下に在るものと考へて居た。かう言ふ時代の村と村との間に、族外結婚が行はれるとすれば、男の村へ連れて来られた女は、かはつた生活様式を、男の家庭へ持ちこむ事になる。ほかの点では妥協しても、信仰がゝつた側の生活は、容易に調子をあはせる訣にはいかなかつたであらう。其に、神とも精霊とも、名をつける事は出来ないでも、根本調子となつてゐる信仰が、一つ家に並び行はれて居る場合、妻の信仰生活は、いつも亭主側からは問題として眺められた訣であらう。事実はそんなにまで、極端ではなかつたらうと思はれるが、其俤を伝へる物語は、この秘密の尊重と言ふ点に、足場を据ゑてゐる。此に、信仰の段々純化せられて来た時代の考へ方を入れて、説明すると訣り易い。
妻が其「本の国」の神に事へる物忌みの期間は、夫にも窺はせない。若し此誓ひを夫が破ると、めをと仲は、即座にこはれてしまふ。見るなと言はれた約束に反いた夫の垣間見が、とんだ破局を導いた話は、子どもが家庭生活をこはした物語同様、数へきれない程にある。
垂仁天皇の皇子ほむちわけ[#「ほむちわけ」に傍線]が、出雲国造の娘ひなが媛[#「ひなが媛」に傍線]の許に始めて泊つて、其様子を隙見すると、をろち[#「をろち」に傍線]の姿になつて居たので遁げ出すと、媛の蛇は海原を照して追うて来たとある。此話に出産の悩みをとり込んだのが、海神の娘とよたま媛[#「とよたま媛」に傍線]が八尋鰐或は、龍になつたと言ふ物語である。此まで重く見られた産の為とする考へは、寧、後につき添うた説明である。
おなじ事はいざなぎの命[#「いざなぎの命」に傍線]・いざなみの命[#「いざなみの命」に傍線]の離婚の物語にも、言ふ事が出来る。見るなと言はれたのに、見られると、八つ雷《イカヅチ》(雷は古代の考へ方によれば蛇である)が死骸に群つて居た。其を見て遁げ出した夫を執《シフ》ねく追跡したと言ふのも、ひなが媛[#「ひなが媛」に傍線]の話と、ちつとも違うてゐないではないか。死骸を見露して恥を与へたとて、怒つたとするのは、やはり後の説明なのであつた。
此等の話に爬虫が絡つてゐるのは、訣のある事である。異族の村の生活を規定する信仰の当体を、庶物の上に考へたからである。更に其上に、長虫を厭ふ心持ちの影を落したのは、異族の生活を苦々しく眺めがちの心持ちから来たものなのではあるまいか。
後々には、一つ先祖から出た血つゞきの物と見、又祖先の姿を其物にうつして考へ、更に神とまでも向上させる様になつたとも思はれるが、もつとうぶな[#「うぶな」に傍点]形の信仰が、上の物語の陰に見えるではないか。
たとひ、我が古代にとうてむ[#「とうてむ」に傍線]を持つた村々が、此国土の上になかつたとしても、其更に以前の故土の生活に於て、さうした生活原理を持たなかつたとは言へない様である。神の存在を香炉に飜訳して示す様になつたよりも以前の、こんじん[#「こんじん」に傍線]の形を考へて見れば、其が、儒艮であり、豚・海亀・鮪・犬であつたかも知れないのである。さなくとも、異族の村から妻の将来した信仰物が、女でなくては事へられぬ客神(まらうどがみ)として、今も残つて居るだけの説明はつく。
とうてみずむ[#「とうてみずむ」に傍線]と、外婚とを聯絡させて考へてゐるふれいざあ[#「ふれいざあ」に傍線]教授は、奪掠せられて異族の村に来た女が、きまつた数だけの子どもを生めば、村から逐ひ出される例を挙げて居る。「外婚」のなごりとして、「つま別れ」の哀話が限りなく発展して来た訣は此点から考へられさうである。
とうてみずむ[#「とうてみずむ」に傍線]の対象は、動物に限らない。植物も、鉱物も、空気も、風も、光線も、それ/″\の村の生活を規定するものとして、信仰生活の第一歩を踏み出させたものである。私は此まで祖先としての考へと、とうてむ[#「とうてむ」に傍線]とを別々にして来た。我が国にもある植物や、鉱物が、人間と結婚して子を生んだと言ふ様な話を、即座にとうてみずむ[#「とうてみずむ」に傍線]の痕跡と見て了ひたくなかつた為である。
このはなさくや[#「このはなさくや」に傍線]媛や、いはなが[#「いはなが」に傍線]媛の名が、単に名たるに止らないで、生命のまじなひ[#「まじなひ」に傍線]に関聯してゐたのを見ると、木の花や、巌石をとうてむ[#「とうてむ」に傍線]として見た俤が、見えぬでもない。寿詞《ヨゴト》・祝詞に、植物や、鉱物によつて、長寿を予祝する修辞法の発達して居るのも、単純な譬喩でなく、やはり大山祇神《オホヤマツミノカミ》がした様なとうてむ[#「とうてむ」に傍線]によるまじなひ[#「まじなひ」に傍線]から起つて居るのかも知れない。
神道の上で、太陽を祖先神と考へる様になつたのは、一つや二つの原因からではない。が、大和を征服した団体が、日光に向ふ(即、抗《ムカ》ふ)とか、背負ふとか言ふ事を、大問題にしたと言ふ伝へも、祖先神だからと言ふ処に中心が置かれては居るけれども、やはり此方面から説く方が、すらりと納得が行く様である。
とうてむ[#「とうてむ」に傍線]には、世襲せられるものばかりでなく、一代ぎりのものもある。おほさゞきの命[#「おほさゞきの命」に傍線]と木莵《ツク》[#(ノ)]宿禰の誕生の際の事実は、此側から説くべきものかも知れないし、ほのすせり[#「ほのすせり」に傍線]・ほてり[#「ほてり」に傍線]・ほをり[#「ほをり」に傍線]或は、ほむちわけ[#「ほむちわけ」に傍線]など言ふ名も、一つ範囲に入るものとも思はれる。此「葛の葉の話」では、とうてみずむ[#「とうてみずむ」に傍線]の存在を、どこ/″\迄もつきとめて居る訣にはいかない。唯上の話の元だが、異族の村から来た妻、子の為には母なる人だけが、異なる信仰対象を持つて居た事だけの説明の役に立てば、それでよい。
九
妻の秘密生活の期間は、即信仰当体と近い生活に、入つて居る時である。此を覗いた為に、破局が来たと言ふだけの事が、記憶として、残つた幾代の後の、一番自然な解釈は、ひなが[#「ひなが」に傍線]媛の様な話になるのである。異族の村の信仰の当体なる動物を、信仰抜きに、直様其人の、其際に現してゐた姿とする。
書物の記載を信じれば、わが国の婚姻史では、母の許へ父が通うて来たと言ふ例話よりは、外族の村から、母が奪はれて来たと見える場合の方が、よほど古みを帯びて居る。母方で育つて母系に織りこまれるよりも、父方で成人する父系組織の方が、前にあつた様である。勿論、違うた村々に、違うた制度が、並び存した事も考へられるのであるが、大体は、世間の人の想像と逆さまに、父系組織の方が古い様である。
母系も古くからあつたに違ひない。併し其記憶は、可なり後まで残つて居た。「親」の意義が分化して、おや[#「おや」に傍線]・みおや[#「みおや」に傍線]と言ふ大昔の語が、母の意に使はれた事は、鎌倉時代までにも亘つて居る。さう言ふ語の行はれて居る間、其組織も行はれて居たと言ふのではない。更に新しい父系制度が行はれて居ても、語だけは残つて母の家で成人した子を、父が迎へとる事が、久しく続いた事を示して居たと言ふのである。
想像に亘る事であるが、我々の考へられる領分での、一等古い形は、子を生んだ母が何かの事情で、本の国に戻つてしまふと言ふ風のものである。前に出た三つのことゞわたし[#「ことゞわたし」に傍線](絶縁宣誓)の話は、さきに言うた三輪山の話などよりは、古い姿を見せてゐる。異族の村から来た妻の話は、いまだに地方の伝説に痕跡を止めて居る。大抵は逆に、嫁入つた国の姿に変る事になつた。池の主にとられた娘が戻つて来た。さうして、池に帰る姿を見れば、大蛇になつて水に飛び入つたなどゝ言ふ類である。
話をはしよる為に申す。私は、大正九年の春の国学院雑誌に「妣《ハヽ》が国へ・常世《トコヨ》へ」と言ふ小論文を書いた。其考へ方は、今からは恥しい程合理式な態度であつた。其翌年かに、鳥居龍蔵博士が「東亜の光」に出された「妣の国」と言ふ論文と、併せて読んで頂く事をお願ひして置いて、前の論文の間違うたところだけを、訂正の積りで書く。
「妣《ハヽ》が国」と言ふ語はすさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]といなひの命[#「いなひの命」に傍線]との身の上に絡んで、伝はつて居る。すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]は亡母(即、妣)いざなみの命[#「いざなみの命」に傍線]の居られる根《ネ》の国に憧れて、妣が国に行きたいと泣いたとある。いなひの命[#「いなひの命」に傍線]は熊野の海で難船に遭うて、妣が国へ行くと言うて、海に這入つた。此母は、海祇《ワタツミ》の娘たまより媛[#「たまより媛」に傍線]をさすのは、勿論である。うつかり見れば、其時々の偶発語とも見えよう。併し此は、われ/\の祖先に共通であつた歴史的の哀愁が、語部《カタリベ》の口拍子に乗つて、時久しく又、度々くり返されねばならぬ事情があつたのであらう。
此常套語を、合理式に又、無反省に用ゐて来たのを、記・紀は、其儘書き留めたのである。以前の考へでは、故土を離れて、移住に移住を重ねて行つた人々の団体では、母系組織の下に人となつた生れの国を、憶ひ出し/\した其悲しみを、此語に籠めて表したのが、いつか内容を換へる事になつたのだと説いたと思ふ。併しかうした考へは、当時その方に向いて居た世間の母系論にかぶれて、知らず/\に出て来たのであつたらう。やはり、我々の歴史以前の祖先は、物心つくかつかぬかの時分に、母に別れねばならぬ訣があつたのである。
母を表す筈のおも[#「おも」に傍線]なる語が、多くは乳母の意に使はれる理由も、こゝに在るのかと思ふ。とにもかくにも、生みの子を捐てゝ帰つた母を慕ふ心が「妣の国」と言ふ陰影深い語となつて現れたのであらう。
脇道に逸れた話が、葛の葉の子に別れて還る話の組み立ての説明に役だつたのはよかつた。子どもと村の秘密行事との関係、神託と子どもとの交渉は、前に既に書いたが、其上に、子を生む事が成婚の理由でもあり、同時に離縁の原因にもなつた古代の母たちは、其上に夫と違うた秘密な生活様式の為にも、呪はれて居たのであつた。
一〇
日本の神々と、動植物との交渉を考へると、動物が神である事の外に、祖先神となつて居る例も、ちら/\ある。其上神の使はしめ[#「神の使はしめ」に傍線]又は、使ひ姫[#「使ひ姫」に傍線]と謂はれる者が、沢山ある。人によつては、此をとうてみずむ[#「とうてみずむ」に傍線]のなごりと考へる向きもある様だが、此ばかりでは、とうてむ[#「とうてむ」に傍線]の意味に叶ふか叶はぬかゞ、先決問題になる。
動物ばかりか、神々によつて、嗜好の植物もある。其うらには又、ある神の氏子に限つて、利用する事の禁じられて居たり、喰ふ事を憚らなければならぬ種類が、動物・植物に通じて、多くあることは、柳田先生其他が、論ぜられもし、報告せられもした。此方面には、殊に植物の領分が広い様である。大抵その原因として、其動植物の障碍の為に、神が失策せられたからの、憎みを頒つのだと伝へて居る。此神の失策とする説明は、恐らく或神話の結びつきがあつて、元の種をくるみ込んで了うたものだと思ふ。元の種なる伝承が忘られる世になつて、民間哲学が、其神話の方へ、原因をひきつけて行つたのである。其神話といふのは、全能なるべき神の為事が、あまのじやく[#「あまのじやく」に傍線]の悪精霊の為に妨げられた為に、不完全な現状があるのだと言ふ説明である。此は逆に、悪精霊が失敗して、神が勝つと言ふ風にもなつて居る。
右の神の企てをしこじらしたり、完成させなかつたりしたと言ふ神話の精霊の位置に、神と感情関係の深い動植物を置いて、説明をしたものだ、と言ふ見当を立てゝ見れば訣る。
神の常用物なり、嗜好品なりを、神の氏人が私するのは、憚り忌むべきことであつた。其が忘れられて、ともかく神に関聯しての憚りだからとの見方から、すつかりうらはらに考へる様になつた。白い鶏は神のおあがり物だから、其を私せぬ習はしが、本を忘れ、末だけになつて、宵鳴きをして、神を驚した事があつたので、神がお憎みになつて居るのだと言ふ。或は神が其木に憑《ヨ》ることを好まれた木や、神の御贄《ミニヘ》に常住供へた植物を遠慮する心持ちが、反対に神が其植物に躓かれたからの憎みを、氏人としては永劫に表現する責任があるのだ、と説明したりしてゐる。神の為の供物が、さうした誤解から、御贄《ミニヘ》の数に入らなくなるのも、自然である。それと共に、神との相嘗《アヒナメ》に供へられた御贄の品が、氏人の一つの根から岐れた物で、神にも近いものとする考へのあつた事は、述べて置いた。若しかう言ふ推定を進めて行く事が構はないなら、植物は姑く措いて、動物の方は一つの大胆な小結論に届く。
記・紀からよく引かれる、猿の声を伊勢の皇大神の使ひと考へ、白猪を胆吹山神の使ひと見たと言ふ伝へは、果して近代の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]と同じ内容を持つて居るか、どうか疑はしい。併し、力の優れたものに役せられる精霊が、さうした姿なり、声を以て、神の命じた用をたしに来る、とした考へのあつた事だけは訣る。
使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の考へは、此と離して見ても、古くからある。「手代《テシロ》」と言ふのも、奈良時代に既に見えた語で、神の手其物として働くものである。此為事が人間に移つて、手代部なる部曲さへ出来た。武家時代にはみさき[#「みさき」に傍線]と言うた様だ。神の前駆者《ミサキ》の意であらう。神慮に随ふ部分は、役霊としての要素を持つて居るが、其成立には、尚一つ違うた側がある。
犠牲をいけにへ[#「いけにへ」に傍線]と訓むのは、一部分当つて、大体に於て外れてゐる。にへ[#「にへ」に傍線]は、神及び神に近い人の喰ふ、調理した喰べ物である。いけ[#「いけ」に傍線]は活け飼ひする意である。何時でも、神の贄に供へる事の出来る様に飼うて居る動物を言ふ。同時に、死物の様な植物性の贄と、区別する語なのである。我々の国の信仰の溯れる限界は、こゝまでゞある。併し尚一歩を進めるだけの材料はある。供へ物なる動物・植物の容れ物は、どうやら、其中に、神も這入られた神座の変化である様に見える。
神と、其祭りの為の「生《イ》け贄《ニヘ》」として飼はれてゐる動物と、氏人と、此三つの対立の中、生け贄になる動物を、軽く見てはならない。其は、ある時は神とも考へられ、又ある時は、神の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]とも考へられて来たのである。
遠慮のない話をすれば、属性の純化せなかつた時代の神は、犠牲料《イケニヘ》と一つであつた様に考へられる。さうして次の時期には、其神聖な動物は、一段地位を下げられて、神の役獣と言ふ風に、役霊の考への影響をとり込んで来る。さうした上で、一方へは、使はしめ[#「使はしめ」に傍線]として現れ、一方へは神だけの喰ひ物と言ふ様に岐れて行く。此次に出て来るのが、前に言うた、神の呪ひを受けた物、と言ふ考へ方である。
稲荷の狐は、南方熊楠翁の解説によれば、托枳尼修法の対象なる托枳尼《ダキニ》と言ふ狼の様な獣の、曲解せられた物だと言ふ事である。其は、外来のものであるが、固有の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]と思はれて居るものにも、此類の役獣がありさうな暗示にはなる。
山王の猿は「手白《テシロ》の猿」と称せられた様である。此は使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の意義を、正しく見せてはゐる。けれども、山王権現に対するおほやまくひ[#「おほやまくひ」に傍線]の神の本体が、もつとはつきりせぬ間は、生得の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]かどうかは、疑ひの余地がある。鳩・鴉・鷺・鼠・狼・鹿・猪・蜈蚣・亀・鰻と言ふ風に、社々の神の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の、大体きまつて居るのも、犠牲料の動物の側から見れば、説明がつく。
一一
ところが一方又、地主神を使はしめ[#「使はしめ」に傍線]或は、役霊と見る様な風も、仏教が神道を異教視して征服に努めた時代から現れて来た。さうなると、後から移り来た神仏に圧倒せられて、解釈の進んだ世に、神としての地位は、解釈だけは進む事なく、精霊同時に、化け物としてのとり扱ひを受けねばならぬ事になつた。
以前、坪内博士も脚色せられた葛城《カツラギ》の神ひとことぬし[#「ひとことぬし」に傍線]の如きは、猛々しい雄略天皇をさへ脅した神だのに、役《エン》[#(ノ)]行者《ギヤウジヤ》にはさん/″\な目にあはされた事になつて居る。逍遙先生は更にぐつと位置をひきさげて「真夏の夜の夢」などに出て来る様な、化け物にして了はれた。
おなじ役[#(ノ)]行者に役せられた大峰山下の前鬼《ゼンキ》・後鬼《ゴキ》と言ふ鬼も、やつぱり、吉野山中の神であつたもの、と思はれる。前鬼・後鬼共に子孫は人間として、其名の村を構へて居る。仏者の側で似た例をあげれば、叡山に対しては、八瀬《ヤセ》の村がある。此村の祖先も亦「我がたつ杣」の始めに、伝教大師に使はれた鬼の後だと言ふ。
一体おに[#「おに」に傍線]と言ふ語は、いろ/\な説明が、いろ/\な人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持つて居る「陰」「隠」などの転音だとする、漢音語原説は、とりわけこなれない考へである。聖徳太子の母君の名を、神隈《カミクマ》とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみ[#「かみ」に傍線]とした例はない。もの[#「もの」に傍線]とかおに[#「おに」に傍線]とかにきまつてゐる。して見れば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。其地は、畏るべきところとして、半固有名詞風におにくま[#「おにくま」に傍線]ともかみくま[#「かみくま」に傍線]とも言うて居たのであらう。二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事を示してゐるのである。強ひてくぎりをつければ、おに[#「おに」に傍線]の方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。
八瀬の村は、比叡の地主とも見るべき神の子孫と考へたもので、其祖先を鬼としたものであらう。この村は延暦寺に対して、寺奴とも言ふべき関係を続けて居た。大寺の奴隷の部落を、童子村と言ふ。寺役に使はれる場合、村人を童子と言ふからである。八幡の神宮寺などにも、童子村の大きいのがあつた。開山の法力に屈服して、駆使せられたおに[#「おに」に傍線]の子孫だと言はぬ童子村にも、高僧の手で使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の如くせられた地主神の後と言ふ考へはあつたらうと思はれる。童子が仏法の為に、力役に任ずる奴隷の意味に使はれたところから、殿上人の法会に立ちはたらく時の名を「堂童子《ダウドウジ》」と言うた。童子と言ふのは、寺奴の頭のかつかうから出た称へである。ばらけ髪をわらは[#「わらは」に傍線]と言ひ、髪をはらゝにしてゐる年頃の子どもを、髪の形からわらは[#「わらは」に傍線]と言うたに準じて考へると、寺奴の髪をあげずにばらかして、所謂「大童」と言つた髪なりでゐたからである。柳田国男先生の考へられた「禿《カブロ》」とも「毛房主《ケバウズ》」とも言ふ、得度せぬ半僧生活を営んだ者も、元は寺奴から出たのである。
葛の葉の生んだ子を「童子」「童子丸」と言うたのも、こゝに根拠があり相に見える。
鬼は、仏家の側ばかりで言ふのではなく、社々にもある事である。村里近い外山などに住み残つて居た山人を、我々の祖先は祭りに参加させた。さうして其をも、おに[#「おに」に傍線]と言うたらしい。生蛮人を畏き神と称した例はあるから、神とおに[#「おに」に傍線]との区劃がはつきりすれば、かう言ふ荒ぶる神は、やはり鬼の部に這入つて来る事になつたのであらう。
江戸の大奥で、毒見番を「鬼役」と言うたのも、昔の手代部《テシロベ》の筋を引いたらしい為事である上に、響きこそ恐しけれ、名にまで、其俤を留めてゐるのは懐しい。
社についてゐた神の奴は、中古以来「神人《ジンニン》」と称へてゐる。かむづこ[#「かむづこ」に傍線]と言ふ語も、後には内容が改つてゐるが、元はやはり字義どほりの神奴《カミツコ》であらう。さつきも話に出た、伊勢の奄芸郡の人が、祭りに参加するなど言ふことも、三輪の神人が山川隔てた北伊勢に居た事を見せてゐるのである。かうした村を、やはり単に「村《ムラ》」或は神人村と言うて居た。
今では大阪市になつた天王寺の西隣の今宮村は、氏神としては広田の社を祀りながら、京の八坂の社に深い関係があつた。祇園の神輿は、此村人が行かぬと動かぬと誇つて、祭りには京へ上り/\して居た。而も此村は、四天王寺とも特別な交渉を持つてゐた様である。幸な事には、今宮の村は、ほかの村から特殊な扱ひは受けて居なかつた。が、大抵かうした神人村は、後世特殊な待遇を他の村々から受けることになつた。近世の考へ方からすれば、神事に特殊部落が与ると言ふのは、勿体ない事の様に見える。成立からして社寺に縁の深い村が、奴隷だといふ事以外に、今一つの余儀ない理由から、卑しめられる様になつて行つた。
等しく奴隷と言うても、家についた者の中、家人など言ふ類は、武家の世には御家人《ゴケニン》となり、侍となつて、良民の上に位どられる様になつたが、社の奴隷は、謂はれない侮辱を忍ばねばならなくなつた。
此等の村人は、みさき[#「みさき」に傍線]・使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の類を、自由に駆使する事の出来るものと、世間からは見られて居た。だから、其社の保護に縋つてばかり居られぬ世になると、手職もした様だが、呪術を行うて暮しを立てゝ行つた。又其事へて居る神の功徳を言ひ立てに、諸国を廻る様になつた。其村人の特別な能力が、他の村人からはこはがられる。呪咀を事とすると考へられる様になつて、恐れが段々忌み嫌ひに移り、長い間には卑しみと変つて行く。
神人の本村は固より、漂泊した村人が旅先で定住して、構へた家なり村なりが、やつぱりさうした毛嫌ひを受ける。「おさき持ち」「犬神筋」「人狐《ニンコ》」など言ふ家筋として、人交りのならぬものとなつたのも多い。
神人の念ずる神は、不思議にも、所属の社や寺の本殿・本堂に祀るところの本筋の神仏でない場合が多い様である。漂泊布教者は、大方は、神奴・寺奴出身の下級の人々であるが、其本所の本筋の神仏を持つて歩いたものと、さうでないものとがあつた様である。神人・童子以外にも、いろ/\な意味の半俗の宗教家が流離して遂には偉大な新安心を流布する事にもなつた。其はおもに、得度する事の出来なかつた寺奴の側で、神人の末は、多く浮ぶ瀬がなかつた様である。
高野山往生院谷の萱堂《カヤダウ》の聖は、真言の本山には、寄生物とも言ふべき念仏の徒であつた。これも元は、紀州由良[#(ノ)]浦の海人から出た寺奴であらうと思はれる。祇園の神人であつた摂津今宮村の神は「広田」である事は前に述べた。三輪の神人なる奄芸の里人の斎いた稲生《イナフ》の古社も、三輪明神には、関係がない様である。此事に就ては、いろ/\な事が考へられる。第一は、何の血縁もない奴隷に、家の神を拝ませる事をせなかつたからは、自由のなかつた神奴も、信仰は、古くから強ひられずに来たものと考へられる。第二は、神奴をおに[#「おに」に傍線]の後と見る事が出来れば、祖先が信仰せぬ神の庭に臨んだ習慣を其儘、祭りの人数には備つても、祀る所は其祖神なるおに[#「おに」に傍線]であつたであらう。第三は使はしめ[#「使はしめ」に傍線]を、神奴の祖先と考へたかも知れない、と言ふ点である。神の内容が分解して、手代《テシロ》なる「神使」の属性が游離して来ると、神・神主の間に血族関係を考へる習はしを推し及して、神使ひの血筋としての神奴と言ふ考へ方が、出て来る事もありさうだ。さうすると、元来神奴が持ち伝へて来た信仰の対象の上に、使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の姿が重つて来る訣になる。かう言ふ風に想像して見ると、神人が使はしめ[#「使はしめ」に傍線]を駆使する様になる道筋も、わかる様である。何にせよ、神人・童子共に、普通と違うた祖先を持つて居るとせられた事だけは、事実らしい。さう言ふところへわり込み易いのは、動物祖先の考へである。
一二
安名と葛の葉の住んで、童子を育てたと言ふ安倍野の村は、昔からの熊野海道で、天王寺と住吉との間にあつて、天王寺の方へよつた村である。其開発の年代は知れない。謡曲「松虫」に「草茫々たる安倍野の塚に」とあるが、さうした原中にも、熊野王子の社があつて熊野の遥拝処になつて居た事は、平安朝末までは溯られる様である。此社から、更に幾つかの王子を過ぎて、信太に行くと、こゝにも篠田王子の社があつた。宴曲の「熊野参詣」と言ふ道行きぶり[#「道行きぶり」に傍線]に、道順が手にとる様に出てゐる。安倍野と信太との交渉は此位しか知れないのだから、今の処は必然の関係が見出されさうもない。
童子丸とか、安倍[#(ノ)]童子など言ふ名は、特殊な感じを含んで居る。作者の投げやりにつけたものと思へるかも知れないが、さうではない。類例のある名なのである。平安朝の中頃からは、ちよく/\見えて、頼光に讐をしかけた鬼童丸、西宮記には、秦[#(ノ)]犬童子と言ふ強盗の名がある。其同類に、藤原[#(ノ)]童子丸と言ふのも見える事は、南方翁が指摘せられた。
だが、角太夫の信太妻以来、歌舞妓唄にも謡はれた葛の葉道行きの文句には、「安倍の童子が母上は」とある。此辺の詞は、説経節伝来のものだらうと感じられるものである。「安倍[#(ノ)]童子」と言ふ名は、古くから耳に熟して来た為に、固有名詞らしい感じの薄い語ながら、ある落ちついた味はあつたものであらう。必、久しい間くり返されたもの、と思はれる親しさがある。
たゞ、安倍氏の子ども、安倍氏(晴明)になる所の子ども、と言ふだけの事ではあるまい。私は、此安倍野の原中に、村を構へた寺奴の一群れがあつて、近処の大寺に属して居たものでないかと見当をつけて居る。其寺は、大方四天王寺であらうが、ひよつとすれば、住吉の神宮寺かも知れない。何にしても、其村人を「安倍野童子」と言ひ馴れて、当時の人の耳に親しいものであつたところから、「信太妻」の第一作と思はれる語り物を語り出した人の口に乗つて、出て来た名ではなからうか。単に其ばかりでなく、ほかの神人・童子村にもある動物祖先の伝説が、此村にもあつて、村人を狐の子孫として居たのではあるまいか。
仮りに話の辻褄をあはせてみると「安倍野童子」たちに伝へがあつて、自分たちの村からは、陰陽博士の安倍晴明が出てゐる。晴明の母は信太から来た狐の化生であつた。だから我々は狐の子孫になる。世間で「安倍野童子」と自分らを呼ぶのは、晴明の童名からとつたものだ、と言ふ風に信ぜられてゐた。まづかう考へて見ると、ある点までは纏りがつく。が、事実はそんなに、整頓せられたものではあるまい。
説経節は元来「讃仏乗」の理想から、天竺・震旦・日本の伝説に、方便の脚色を加へて、経典の衍義を試みたところから出たものであらうが、仏教声楽で練り上げた節まはしで、聴問の衆の心を惹く方に傾いて行つて、段々、布教の方便を離れて、生活の方便に移り、更に芸術化に向うたものと思はれる。「三宝絵詞」や「今昔物語」は或は其種本ではあるまいかとも考へられ、王朝末には、説経師の為事が、稍効果を表して来たのではなからうか。さうして、段々身につまされる様なものにかはつて来て、来世安楽を願はせる為に、現世の苦悩を嘗め尽した人の物語を主とする事になつて、「本地物」が生れて来たのではあるまいか。此芽生えは、既に武家の始めにあつたらしい。
が、社寺の保護の下に、大した革命の行はれることなく、長日月を経るを例とした我が国の芸術の一つとして、やはり保守一点ばりでとほして来たものと思はれる。其が、三味線の舶来以後、俄かに歩を早めて進んだ。そして、説経太夫が座を持つて、小屋の中で語る様になるまでには、傘の柄を扇拍子で叩いた門端芸人としての、長い歴史があつたであらう。
説経には、新古二様の台本があつたらう、と言ふ事は前に言うた。新しい台本の出来たのは、それが正本として刊行せられた時から、さのみ久しい前ではなからう。新しい台本の出来る前に、古い台本を使うた時期が、かなり長かつたのであらう。簡単な古い説経に、潤色を施して出した新しい正本では、古くから世間に耳馴れた古説経持ち越しの知識は、其儘にして居た事と思はれる。だから、今ある説経の中には、聴衆の知識を予期してゐる所から出た省略やら、最初の作物なら書き落すはずのない失念などが、散らばつて見える。角太夫の「信太妻」にさへ、そんな処がある。
「信太妻」は、どの社寺の由来・本地・霊験を語るのか明らかでない。強ひて言へば、信太[#(ノ)]森の聖《ヒジリ》神社か、その末社らしい葛の葉社の由来から生れて、狐が畜生を解脱して、神に転生する事を説いた本地物だつたのではなからうか。此を節づけて語りはじめたのは、誰であらう。「安倍野童子」村に就ての想像が、幸い外れて居なかつたら、此村の童子であつて、漂泊布教して歩いた者の口に生れた語り物が、説経に採り入れられて、「安倍野童子」の物語として伝誦され、遂には主要人物の名となつて了ふ様になつたものと、考へる事が出来る。
前に言うた高野の「萱堂《カヤダウ》の聖《ヒジリ》」が語り出したと想像せられる石童丸の語り物が、説経にとり入れられる様になつた。而も石童の父を苅萱と言ふのは、謡曲で見ると「苅萱の聖」とある。さすれば、萱堂の聖の物語が、いつか苅萱の聖の物語と称へられる様になり、作中の人物の名ともなつたのであらう。
此も五説経の一つである「しんとく丸(又、俊徳丸)」は、伝来の古いものと思はれる。謡曲には、弱法師《ヨロボフシ》と言ふ表題になつてゐる。盲目《マウモク》の乞食になつた俊徳丸が、よろ/\として居るところから、人が渾名をつけたといふことになつてゐる。併し故吉田東伍博士は、弱法師《ヨロボフシ》と言ふ語と、太平記の高時の田楽の条に見えた「天王寺の妖霊星を見ずや」と言ふ唄の妖霊星とは、関係があらうと言はれた事がある。其考へをひろげると、霊はらう[#「らう」に傍点]とも発音する字だから、えうれいぼし[#「えうれいぼし」に傍線]でなく、えうらうぼし[#「えうらうぼし」に傍線][#「えう」に「ヨウ」の注記]である。当時の人が、凶兆らしく感じた為に、不思議な字面を択んだものと見える。
唄の意は「今日天王寺に行はれるよろばうし[#「よろばうし」に傍線]の舞を見ようぢやないか」「天王寺の名高いよろばうし[#「よろばうし」に傍線]の舞を見た事がないのか。話せない」など、言ふ事であらう。「ぼし」は疑ひなく拍子《バウシ》である。白拍子の、拍子と一つである。舞を伴ふ謡ひ物の名であつたに違ひない。此も亦白拍子に伝統のあつた天王寺に「よろ拍子」の一曲として伝つた一つの語り物で、天王寺の霊験譚であつたのが、いつの程にか、主人公の名となり、而もよろ/\として弱げに見える法師と言ふ風にも、直観せられる様になつたのである。
柳田先生は、おなじ五説経の「山椒太夫《サンセウダイフ》」を算所《サンシヨ》と言ふ特殊部落の芸人の語り出したもの、としてゐられる。
かう言ふ事の行はれるのは、書き物の台本によらず、口の上に久しく謡ひ伝へられて来た事を示してゐるのである。
はじめて語り出し、其を謡ふ事を常習としてゐた人々の仲間の名称は、其語り物の仮りの表題から更に、作中に入りこんで人物の名となり易いのである。
「帰らうやれ、元の古巣へ」と言ふのは、葛の葉物には、つき物の小唄の文句である。こんなところにも「妣が国」の俤は残つて居た。
信太妻と言ふ表題も、実は、いつからはじまつたものとも知れぬ。本文には見えぬ語なのである。此にも由来はありさうである。其上、此名が、異族の村から来た妻、と言ふ意を含んで居る様なのもおもしろいと思ふ。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「三田評論 第三二〇・三二二・三二三号」
1924(大正13)年4月6月7月
※底本の題名の下に書かれている「大正十三年四・六・七月「三田評論」第三二〇・三二二・三二三号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2004年1月19日作成
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