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最古日本の女性生活の根柢
折口信夫
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(例)語部《かたりべ》
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(例)神|憑《がか》り
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(例)大汝《おおなむち》[#(ノ)]命《みこと》
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一 万葉びと――琉球人
古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人に神|憑《がか》りした神の、物語った叙事詩から生れてきたのである。いわば夢語りとも言うべき部分の多い伝えの、世を経て後、筆録せられたものに過ぎない。日本の歴史は、語部《かたりべ》と言われた、村々国々の神の物語を伝誦する職業団体の人々の口頭に、久しく保存せられていた律文が、最初の形であった。これを散文化して、文字に記したのが、古事記・日本紀その他の書物に残る古代史なのである。だから成立の始めから、宗教に関係している。神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。並みの女のように見えている女性の伝説も、よく見てゆくと、きっと皆神事に与《あずか》った女性の、神事以外の生活をとり扱うているのであった。事実において、我々が溯《さかのぼ》れる限りの古代に実在した女性の生活は、一生涯あるいはある期間は、かならず巫女として費されてきたものと見てよい。してみれば、古代史に見えた女性の事蹟に、宗教の匂いの豊かな理由も知れることである。女として神事に与らなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
私はいわゆる有史以後奈良朝以前の日本人を、万葉人《マンネフビト》と言い慣《ならわ》してきた。万葉集はほぼ、日本民族が国家意識を出しかけた時代から、その観念の確立したころまでの人々の内生活の記録とも見るべきものである。この期間の人々を、精神生活の方面から見た時の呼び名として、恰好《かっこう》なものと信じている。古事記・日本紀・風土記の記述は、万葉人の生活ならびに、若干は、それ以前の時代の外生活に触れている。ここに万葉集を註釈とし、さらにいま一つ生きた註釈を利用する便宜が与えられている。
万葉人の時代には以前ともに携えて移動してきた同民族の落ちこぼれとして、途中の島々に定住した南島の人々を、すでに異郷人と考えだしていた。その南島定住者の後《のち》なる沖縄諸島の人々の間の、現在亡びかけている民間伝承によって、わが万葉人あるいはそれ以前の生活を窺うことのできるのは、実際もっけの幸とも言うべき、日本の学者にのみ与えられた恩賚《おんらい》である。沖縄人は、百中の九十九までは支那人の末ではない。我々の祖先と手を分つようになったころの姿を、今に多く伝えている。万葉人が現に生きて、琉球諸島の上に、万葉生活を、大正の今日、我々の前に再現してくれているわけなのだ。
二 君主――巫女
大化の改新の一つの大きな目的は、政教分離にあった。そう言うよりは、教権を奪うことが、政権をもとりあげることになるというところに目をつけたのが、この計画者の識見のすぐれていたことを見せている。
村の大きなもの、郡の広さで国と称した地方豪族の根拠地が、数えきれないほどあった。国と言うと、国郡制定以後の国と紛れやすいゆえ、いまこれを村と言うておこう。村々の君主は、しだいに強い村の君主に従えられてゆき、村々は大きな村の下に併合せられていって、大きな村の称する国名が、村々をも籠《こ》めてしまうことになった。秋津洲《あきつしま》・磯城島《しきしま》と倭《やまと》、みな大和平原における大きな村の名であった。他の村々の君主も、大体において、おなじような信仰組織を持って、村を統《す》べていた。倭宮廷の勢力が、村々の上に張ってくると、事大の心持ちから、自然にいよいよ似よったものになってきたであろう。
村の君主は国造《くにのみやつこ》と称せられた。後になるほど、政権の含蓄がこの語《ことば》に乏しくなって、教権の存在を感じるようになっていったようである。国造と称することを禁じ、村の君主の後をすべて郡領《こおりのみやつこ》と呼びかえさせ、一地方官吏とみなすことになっても、なお私《ひそ》かに国造と称するものが多かった。平安朝になっても、政権に関係なく、村々の君主の祀った神を、子孫として祀っている者には、国造の称号を黙認していたようである。出雲国造・紀国造・宗像《ムナカタ》国造などの類である。倭宮廷でも、天子自ら神主として、神に仕えられた。村々の君主も、神主として信仰的に村々に、勢力を持っていたのである。
神主の厳格な用語例は、主席神職であって、神の代理とも、象徴ともなることのできる者であった。神主と国造とは、ほとんど同じ意義に使われていることも多いくらいである。村の神の威力を行使することのできる者が、君主として、村人に臨んだのである。村の君主の血縁の女、娘・妹・叔母などいう類の人々が、国造と国造の神との間に介在して、神意を聞いて、君主のために、村および村人の生活を保つさまざまの方法を授けた。その高級巫女の下に、多数の采女《ウネメ》という下級巫女がいた。
この組織は、倭宮廷にも備《そなわ》っていた。神主なる天子の下に、神に接近して生活する斎女王《いつきのみこ》といふ高級巫女が、天子の近親から択《えら》ばれた。伊勢の斎宮に対して、後世賀茂の斎院のできたことからみれば、本来は主神に仕える皇族女子のほかにも、有力な神に接する女王の巫女があったことは考えられる。そうしてこの下に、天子の召使とも見える采女《ウネメ》がいた。宮廷の采女は、郡領の娘を徴《め》して、ある期間宮廷に立ち廻らせられたものである。采女は単に召使のように考えているのは誤りで、実は国造における采女同様、宮廷神に仕え、兼ねてその象徴なる顕神《アキツカミ》の天子に仕えるのである。采女として天子の倖寵《こうちょう》を蒙ったものもある。これは神としての資格においてあったことである。采女は、神以外には触れることを禁ぜられていたものである。
同じ組織の国造の采女の存在、その貞操問題が、平安朝の初めになると、宮廷から否定せられている。これは、元来なかった制度を、模倣したと言わぬばかりの論達であるが、実は宮廷の権威に拘《かかわ》ると見たためであろう。このことは、日本古代に初夜権の実在した証拠になるのである。村々の君主の家として祀る神のほかにも、村人が一家の間で祀らねばならぬ神があった。庶物にくっついて常在する神、時を定めて来臨する神などは、家々の女性が祀ることになっていた。
これらの女性が、処女であることを原則とするのはもちろんであるが、それは早く破れて、現に夫のない女は、処女と同格と見た。しかもそれは二人以上の夫には会わなかったものという条件があったようである。それがさらに頽《くず》れて、現に妻として夫を持っている者にも、巫女の資格は認められていたと見える。「神の嫁」として、神にできるだけ接近してゆくのが、この人々の為事《しごと》であるのだから、処女は神も好むものと見るのは、当然である。斎女王も、処女を原則としたが、なかには寡婦を用いたこともある。
しかし、このいま一つ前の形はどうであろう。村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。魏志倭人伝の邪馬台《ヤマト》国の君主|卑弥呼《ヒミコ》は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功《じんぐう》皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、日本紀を見れば知られることである。万葉人の時代でも、女帝にはことに、宗教的色彩が濃いようである。喜田博士が発見せられた女帝を中天皇《ナカツスメラミコト》(万葉には中皇命)と言うのも、博士の解説のように男帝への中継ぎの天子という意でなく、宮廷神と天子との中間に立つ一種のすめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]の意味らしくある。古事記・日本紀には天子の性別についても、古いところでは判然せない点がある。そういうところは、すべて男性と考えやすいのであるが、中天皇の原形なる女帝がなお多くあらせられたのではあるまいか。
沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王同様の為事をして、聞得大君《キコエウフキミ》(ちふいぢん)と言うた。尚《しょう》家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下に当るのろ[#「のろ」に傍線](祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神に事《つか》える女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴《ほうふつ》させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。
三 女軍
万葉および万葉以前の女性とさえ言えば、すぐれて早く恋を知り、口迅《くちど》に秀歌を詠んだもののように考えられてきている。しかしこれとてもやはり、伝説化せられたものに過ぎなかったのである。佳人才女の事蹟を伝えたのは、その女性自身の作と伝えながら、実は語部の叙事詩それ自身が、生み出した性格でもあり、作物でもあった。つまりは物語や、それから游離した歌謡の上にのみ、情知り訣《わけ》知りらしく伝わったので、後世から憧れるほどのものでなかったのである。ただ、ことの神事に関する限り、著しく女性としての権威を顕し、社会的にも活動したのは事実である。神の意思を宣伝し、神の力を負うて号令する巫女の勢力が、極度に発揮せられるのである。
近江・藤原の宮のころから禁じられだしたが、なお、その行きわたらなかった地方には、存していたろうと思われるのは、女子の従軍である。昔から学者は軍旅の慰めに、家妻を伴うたものと解している。もっとも、この法令の出たころは、女と戦争との交渉について、記憶が薄らいでいたものであろう。戦争における巫女の位置というようなことを考えると、巫女にして豪族の妻なる者の従軍は、巫女であるがためといふ中心点より、妻なるがためという方へ、移っていっていたのである。
日本武尊《やまとたけるのみこと》の軍におられた橘媛《たちばなひめ》などは、妻としての従軍と考えられなくもない。崇神天皇の時に叛《そむ》いた建埴安彦《タケハニヤスヒコ》の妻|安田《アダ》媛は、夫を助けて、一方の軍勢を指揮した。名高い上毛野形名《かみつけぬのかたな》の妻も、その働きぶりを見ると、単に「堀川夜討」の際の静御前と一つには見られない、やはり女軍の将であったらしい。調伊企儺《ツキノイキナ》の妻|大葉子《オホバコ》も神憑りする女として、部将として従軍して、俘《とりこ》になったものと考えられる。神功皇后などは明らかに、高級巫女なるがゆえに、君主とも、総大将ともなられたのである。
女が軍隊に号令するのに、二つの形がある。全軍の将としての場合と、一部隊の頭目としての時とがそれである。巫女にして君主といった場合は、もちろん前の場合であろうが、軍将の妻なる巫女の場合には、後の形をとったことと思われる。
神武天皇の大和の宇陀《うだ》を伐《う》たれた際には、敵の兄磯城《エシキ》・弟磯城《オトシキ》の側にも、天皇の方にも、男軍《ヲイクサ》・女軍《メイクサ》が編成せられていた。「いくさ」という語の古い用語例は軍人・軍隊という意である。軍勢に硬軟の区別を立てて、軍備えをするわけもないから、優形《やさがた》の軍隊といったふうの譬喩表現と見る説はわるい。やはり素朴に、女軍人の部隊と説く考えが、ほんとうである。巫女の従軍した事実は際限なくあることで、皆戦場において、神の意思を問うためである。それとともに、女軍を指揮するのだから、真の戦闘力よりも、信仰の上から薄気味のわるい感じを持っていたのであろう。一方からは、他の種族の祀る異教神の呪力を、物ともせない勇者にとっては、きわめて脆《もろ》い相手であったのである。神武天皇なども、女軍を破って、敵を窮地に陥れていられる。
黄泉醜女《ヨモツシコメ》の黄泉|軍衆《イクサ》というのも、死の国の獰猛《どうもう》な女の編成した、死の国の軍隊ということである。いざなぎの命[#「いざなぎの命」に傍線]が、あれほどに困らされた伝えのあるのも、祖先の久しい戦争生活から来た印象である。
沖縄の記録を見ると、三百年前までは、巫女従軍の事実はしばしば見えている。離島方面では、島々の小ぜり合いに、こうした神意の戦争が、近年までくり返されていたことと思われる。
四 結婚――女の名
「妻覓《ツマヽ》ぎ」という古語は、一口に言えば求婚である。厳格に見れば、妻探しということになる。これと似た用語例にある語は「よばふ」である。竹取物語の時代になると、すでに後世風な聯想のあったことが見えているが、やはり「呼ぶ」を語原としているのである。大きな声をあげて物を言うことである。つまり「なのる」というのと、同義語なのである。名誉ある敵手の出現を望む武士の、戦場で自ら氏名を宣する形式を言うことになってしもうたが、古くは、もっとなまめかしいものであった。
人の名は秘密であった。男の名も、ずっと古くは幾通りも設けておいて、どれが本名だかわからなくしたものがあった。大汝《おおなむち》[#(ノ)]命《みこと》などの名の一部分の意義は、大名持《おおなもち》すなわち多数の名称所有者の意であって、名誉ある名「大名《オホナ》」を持つという意ではないようだ。事実いろいろの名を持った神である。名を人格の一部と見て、本名を知れば、呪咀なども自在に行うことができるものと見たところから、なるべく名を周知させぬようにしたのである。男はそれではとおらぬ時代になっても、女は世間的な生活に触れることがすくなかったため、久しく、この風は守りおおせたものである。平安朝の中末のころになっても、やはりそうであったようである。
万葉(巻十二)に「たらちねの母がよぶ名を申さめど、道行く人を誰と知りてか」という歌のあるのは『あなたは、自分の名も家も言わないじゃありませんか。あなたがおっしゃれば、母が私によびかける私の名をば、おあかしも申しましょうが、行きすがりの人としてのあなたを、誰とも知らずに申されましょうか。』というのである。兄弟にも知らせない名、母だけが知っている名――父は知っているにしてもこうした言い方はする。しかし、母だけの養い子の時代を考えると、父母同棲の後もそんなこともなかったとは言えない――その名を、他人で知っているというのは夫だけである。女が男に自分の名を知られることは、結婚をするということになる。だから、男は思う女の名を聞き出すことに努める。錦木を娘の家の門に立てた東人《あずまびと》とは別で、娘の家のまわりを、自身名と家とを喚《よば》うてとおる。これが「よばひ」でもあり「名告《なの》り」でもある。女がその男に許そうと思うと、はじめて自分の名をその男に明《あか》して聞かすのであった。
こうして許された後も、男は、女の家に通うので、「よばふ」「なのる」が、意義転化をした時代になっても、ある時期の間は、家に迎えることをせない。これは平安朝になってもそうである。だからどうしても、長子などはたいてい極《ごく》の幼時は、母の家で育つのである。古くから祖の字を「おや」と訓《よ》まして、両親の意でなく「おっかさん」の意に使うことになっているのは、字は借り物だが、語には歴史がある。母をもっぱら親とも言うのは、父に親しみの薄かった幼時の用語を、成長後までも使うたためである。
娘の家へ通う神の話は、それこそ数えきれぬほどある。これは神ばかりでなく、人も行うた為方《しかた》であった。どこから来るとも名のらず、ひどいのになると、顔や姿さへ暗闇まぎれに一度も見せないのがある。小説とは言いじょう、源氏物語の人情物の時代になっても、なおかつ、光源氏の夕顔の許《もと》へ通いつづけたころは、紐のついた顔|掩《おお》いをしていたように書いてある。まさかそのころはそんなこともなかったであろうと思う。が、こうしたことのできるのは、過去の長い繰り返しのなごりである。つまりは、よその村の男が通うて来る時に、とった方法と見るべきであろう。よその村が異種族の団体と見られていたのは、国家意識が出て後にも、なお続いていたであろう。が、こうした結婚法は、どこまでが実生活の俤《おもかげ》で、どこからが神話化せられているのか、区別がつきにくい。
ただ、この形のいま一つ古い形と見られるのは、女の家に通うという手ぬるい方法でなく、よその娘を盗んでくる結婚の形である。
外族の村どうしの結婚の末、始終円満に行かず、何人か子を産んで後、ついに出されて戻った妻もあった。そうなると、子は父の手に残り、母は異郷にあるわけである。子から見れば、そうした母のいる外族の村は、言おう様なく懐しかったであろう。夢のような憧れをよせた国の俤は、だんだん空想せられていった。結婚法が変った世になっても、この空想だけは残っていて「妣《ハヽ》が国」という語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母という義である。また古伝説にも、死んだ妣の居る国というふうに扱うているが、この語を使った名高い僅かな話が、亡き母に関聯しているためであろう。この語は以前私も、日本人大部分の移住以前の故土を、譬喩的に母なる国土としたのだと考えていたが、そうではない。全然空想の衣を着せられて後は、恋しい母の死んで行っている所というふうに考えられたであろうが、意義よりも語の方が古いのである。こういった結婚法がやはりだんだんと見えている。
奪掠婚《だつりゃくこん》というが、これは近世ばかりか、今も、その形式は内地にも残っている。ただ古代の奪掠法とも見える結婚の記録も、巫女生活の記念という側から見ると、そう一概にも定められぬところがある。景行天皇に隙見せられた美濃ノ国|泳《クヽリ》[#(ノ)]宮《ミヤ》[#(ノ)]弟媛《おとひめ》(景行紀)は、天子に迎えられたけれども、隠れてしもうて出て来ない。姉|八坂入媛《ヤサカイリヒメ》をよこして言うには「私はとつぎ[#「とつぎ」に傍線]の道を知りませんから」というのである。
おなじ天皇が、日本武尊らの母|印南大郎女《イナミオホイラツメ》(播磨風土記)の許《もと》に行かれた際、大郎女は逃げて逃げて、加古川の川口の印南都麻《イナミツマ》という島に上られた。ところが川岸に残した愛犬が、その島に向いて吠えたので、そこに居ることが知れて、天子が出向いて連れ戻られた。印南の地名は、隠れる・ひっこもるなどの意の「いなむ」という語の名詞形から出たのだといふ。島の名も、かくれ妻という意だとある。「いなみづま」言いかへれば、逃婚ということになる。奪掠婚に対して、逃走婚という方法を考えに入れねば、奪掠の真意義もわかりにくかろうと思う。
地方豪族の娘は、その土地の神の巫女たる者が多い。ことに神に関したことのみ語る物語の性質から見ても、これらの処女が、巫女であったことは察せられる。巫女なるがゆえに、人間の男との結婚に、これまでの神との仲らいを喜んで棄てるように見えては、神にすまなくもあり、その怒りが恐ろしいのである。それで形式としても、逃走婚の姿をとらなければならなかった。また真実、従来の生活と別れることの愛着の上から言っても、自然にもそうなったであろう。弟媛《オトヒメ》のごときはその例で、原則としての巫女の処女生活を守り貫《ぬ》いたわけである。大郎女《オホイラツメ》の方は、あんなに逃げておきながらと思われるほど、つかまったとなると、きわめて従順であったようである。
これも沖縄の民間伝承がこの説明に役立つ。首里市から陸上一里半海上一里半の東方にある久高《くだか》島では、島の女のすべてが、一生涯の半《なかば》は、神人として神祭りに与かる。大正の初めに島中の申し合せで自今廃止ということになって、若い男たちがほっとした結婚法がある。
婚礼の当夜、盃事がすむと同時に、花嫁は家を遁《に》げ出て、森や神山(御嶽《オタケ》と言う)や岩窟などに匿《かく》れて、夜は姿も見せない。昼は公然と村に来て、嫁入り先の家の水壺を満たすために、井《カア》の水を頭に載せて搬《はこ》んだりする。男は友だちを談《カタラ》うて、花嫁のありかをつきとめるために、顔色も青くなるまで尋ね廻る。もし、三日や四日で見つかると、前々から申し合せてあったものと見て、二人の間がらは、島人全体から疑われることになる。もちろん爪弾《つまはじ》きをするのだ。長く隠れおおせたほど、結構な結婚と見なされる。「内間《ウチマ》まか」と言い、職名|外間祝女《ホカマノロ》と言われている人などは、今年七十七八であるが、嫁入りの当時に、七十幾日隠れとおしたというが、これが頂上だそうである。夜、聟が嫁を捉えたとなると、髪束をひっつかんだり、随分手荒なことをして連れ戻る。女もできるだけの大声をあげて号泣する。それで村中の人が、どこそこの嫁とりも、とうとう落着したと知ることになるのである。
こうした花嫁の心持ちは、微妙なものであろうから、単に形式一遍に泣くとも見られぬが、ともかく神と人間との間にある女としての身の処置は、こうまでせねば解決がつかなかったのである。この風を、沖縄全体のうち、最近まで行うていたのは、この島だけである。それにもかかわらず、かつて一般に行うたらしい痕跡は、妻覓《ツマヽ》ぎに該当する「とじ・かめゆん」(妻捜す)「とじ・とめゆん」(妻|覓《もとめ》る)などいう語で、結婚する意を示すことである。
またこの島では、十三年に一度新神人の就任式のようなものがある。神人なる資格の有無を試験することが、同時に就任式の形になるのである「いざいほふ」という名称である。同時に、二人の夫を持っているようなことがないかを試験するので、七つ橋という低い橋の上を渡らせる。この貞操試験を経て、神人となるとともに、村の女としての完全な資格を持つわけである。何でもない草原の上の仮橋から落ちて、気絶したり、死んだりする不貞操な女もあるという。これは、巫女が処女のみでなく、人妻をも採用するようになった時代の形で、沖縄本島でも古くから巫女の二夫に見《まみ》ゆるを認められなかった事実のあるのと、根柢は一つである。ところが、内地の昔にもまた、これがあった。東近江の筑摩神社の祭りには、氏人の女は持った夫の数だけの鍋をかずいて出たという。伊勢物語にも歌があるほどで、名高いことだが、実は一種の「いざいほふ」に過ぎなかったものと思われる。鍋一つかぶる女にして、神人たる資格があったものと思われる。
五 女の家
近松翁の「女殺油地獄《おんなころしあぶらのじごく》」の下の巻の書き出しに「三界に家のない女ながら、五月五日のひと夜さを、女の家と言ふぞかし」とある。近古までもあった五月五日の夜祭りに、男が出払うた後に、女だけ家に残るという風のあった暗示を含んでいる語である。
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鳰鳥《におどり》の葛飾|早稲《わせ》を贄《にえ》すとも、彼《その》愛《かな》しきを、外《ト》に立てめやも
誰ぞ。此《この》家《や》の戸|押《おそ》ふる。新嘗忌《ニフナミ》に、わが夫《せ》を遣りて、斎《いわ》ふ此戸を
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万葉巻十四に出た東歌《あずまうた》である。新嘗《にいなめ》の夜の忌みの模様は、おなじころのおなじ東の事を伝えた常陸《ひたち》風土記にも見えている。御祖《ミオヤ》の神すなわち、母神が、地に降《くだ》って、姉なる、富士に宿を頼むと、今晩は新嘗ですからとにべ[#「にべ」に傍点]もなく断った。妹筑波に頼むと新嘗の夜だけれど、お母さんだからと言うて、内に入れてもてなした。それから母神の呪咀によって、富士は一年中雪がふって、人のもてはやさぬ山となり、筑波は花紅葉によく、諸人の登ることが絶えぬとある。
新嘗の夜は、神と巫女と相共に、米の贄を喰う晩で、神事に与らぬ男や家族は、脇に出払うたのである。早稲を煮たお上《あが》り物を奉る夜だといっても、あの人の来ているのを知って、表に立たしておかれようか、という処女なる神人の心持ちを出した民謡である。後のは、亭主を外へ出してやって、女房一人、神人としての役をとり行うているこの家の戸を、つき動かすのは誰だ。さては、忍び男だな、というくらいの意味である。
神社が祭りを専門に行うところというふうになって、家々の祭りがだんだん行われなくなると、家の処女や、主婦が巫女としての為事を忘れてしまうようになる。それでも徳川の末までは、一時《イツトキ》上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《じょうろう》などと言って、女の神人を、祭りのために、臨時に民家から択び出すような風が、方々にあったことを思えば、神|来《きた》って、家々を訪問する夜には、いわゆる「女の家」が実現せられたのであった。
沖縄でも、地方地方の祭りの日に、家族は海岸などに出て、女だけが残って、神に仕える風がかなり多い。
底本:「古代研究※[#ローマ数字I、1-13-21]―祭りの発生」中央公論新社
2002(平成14)年8月10日発行
初出:「女性改造 第三巻第九号」
1924(大正13年)年9月
※底本の題名の下に書かれている「大正十三年九月「女性改造」第三巻第九号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
※仮名遣いの混在は底本のままとしました。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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