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小栗外伝(餓鬼阿弥蘇生譚の二)
魂と姿との関係
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)御母《ミオヤ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)所謂|真床覆衾《マドコオフスマ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日+甫」、第3水準1-85-29]時臥山の話

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)葛根《ツナネ》[#(ノ)]神(記)の

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)一つ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一 餓鬼身を解脱すること

餓鬼阿弥蘇生を説くには、前章「餓鬼阿弥蘇生譚」に述べたゞけでは、尚手順が濃やかでない。今一応、三つの点から見て置きたいと考へる。第一、蛇子型の民譚としての見方。第二、魂と肉身との交渉、並びにかげのわづらひ[#「かげのわづらひ」に傍線]の件。第三に、乞丐と病気との聯絡。此だけは是非して置かねば、通らぬ議論になる。
べありんぐるど[#「べありんぐるど」に傍線]の「印度欧洲種族民譚様式」の第九番目の「蛇子型」では「子どもがないから、どんな物でもよい。一人欲しい」と言うた母のことあげ[#「ことあげ」に傍線]の過ちから、蛇(又は野獣)の子が授かる。其蛇子が妻なり、亭主なりを、めあはされて後、常に蛇身を愧ぢて、人間身を獲たがる。母が皮を焚いて了ふと、立派な人間になると言ふ件々を、此型の要素として挙げて居る。
私は、久しく此類話を、日本の物語の中に見あてることが出来なかつた。小栗照手の事を書き出しても、此点が思案にあまつて居た。叶はぬ時の憑み人として、南方翁に智慧を拝借しようと思ひついた際、窮して通じたと申さうか、佐々木喜善さんの採訪せられた「紫波郡昔話」が出て、其第七十五話に名まで「蛇息子」として出て居た。此には、子が欲しいと言はなかつたが、笠の中に居た小蛇を子どもと思うて育てた。授かりものと言ふ点では一つで、此方が、日本の神子養育譚には普通の姿で、申し子の原型である。人間と霊物とで、言語内容の感じ方の喰ひ違ふ話は、民譚の上では、諷諭・教訓・懲罰・笑話と言ふ側へ傾いて行つて居る。言あげ[#「言あげ」に傍線]の過を怖れ、言あげ[#「言あげ」に傍線]を戒める様になつてからは、普通の形でなくなり申し子型に転じて行つたのであらう。
霊物と人間との結婚は、近世では童話に近づいて「猿の臼背負ひ」と言つた形になつて来て居るが、わが国でも古くは、蛇壻の形が多い。近代では、淵の主・山人に拐されて行つた女は、男の国の姿や生活条件を採るものと見られてゐる。此が古代の型になると、生活法の中心だけは、夫の家風に従はなかつた痕が見える。だが此話は、一面神子が人間となり、教主・君主の二方面の力を、邑落の上に持つ様になつた事実の退化した上に、合理化が行はれたものと見ることが出来よう。到る処にある蛇の子孫・狐の子孫などの豪家で、からだの上の特徴を言ふ伝説を伝へながら、獣身解脱を説くことの少いのは、故意に伝承を捨てたとばかりは言へない。
巫女の腹に寓つた神子が神であり、現神――神主――であると言ふ信仰が、日本に段々発達して来てから、人間身の完全不完全を問題とせなくなつたものか。とにかく生れて後、父の国に去つて神の仲間に入つたのもあり、其まゝ人間の母の村に止つたのもあつて、一様にはなつてゐない。が、神子と家系の神との交渉を第一の起点としてゐる家々では、神なる獣身のなごりが永く記念せられて居た。獣身を捐てゝ後も、尚且、家長の資格を示すものとして、特定の人にしるし[#「しるし」に傍線]の現れることを、おし拡げて、血族通有の特徴なる鱗や、乳房や、八重歯が考へられたのであらう。
もつと残つて居なければならぬ筈で、而も「蛇息子」の話の纔かに、然し、最完全に近く、俤を止めて居る古代生活が、わが国にも実在したのであつた。此考へから、私は蛇子型が我が国の民譚になからうはずはない、と思ふのである。
紫波郡の方では、嫁が蛇身を破ることになつてゐるが、此は、べありんぐるど[#「べありんぐるど」に傍線]氏の型の方が、正しい格を示してゐる。母が、子の姿を易へてやる例は、古事記の春山霞壮夫の御母《ミオヤ》がさうである。常陸風土記の、※[#「日+甫」、第3水準1-85-29]時臥山の話の御子神に瓮を投げて、上天の資格を失はした母も、其にあたる。生みの男の子を、身体の上に加工して村の男にする責任を、母が持つて居た俤らしい者を見せて居るのであらう。此は蛇子型の父方の異形身が、母の手で、此国の姿に替へられる事の説明には役に立つ。竹取物語のかぐや姫[#「かぐや姫」に傍線]の天の羽衣も、舶来種でなく、天子をはじめ巫女たちも著用した物忌みの衣である。此衣をかけると神となり、脱げば人となる。此刹那の巫覡の感情が久しく重ねられて、竹取の原型なる叙事詩などにも織りこまれてゐたのであらうか。白鳥処女型の物語の、此側から見るべき訣は、柳田先生が、古く釈き明されてゐる。此物忌みの衣と、村の男となる前――恐らくは、第一次の元服なる袴着の際――に行うた母の手わざの印象とが相俟つて、衣服と皮膚との間に、蛇子の本身・化身の関係を絡めて居るのではないか。
小栗の物語と、要点比べの上に於て、もつと古く、純粋だと見える甲賀三郎も、蛇身を受けたのは、ゆゐまん国[#「ゆゐまん国」に傍線]の著る物の所為だとせられて居る。此獣身は、法力で解脱する事になつて居る。
やがて柳田先生のお書きになる「諏訪本地詞章」の前ぐりに、もどき役を勤めるやうで、心やましいのであるが、諏訪の社にも蛇子型の物語のあつたのが、微かながら創作衝動の動き出した古代の布教者や、鎌倉室町のふり替る頃から固定して、台本を持ち始めた浄土衆の唱導などから、段々、あんなにまで変形したのかも知れないのである。
地下のゆゐまん国[#「ゆゐまん国」に傍線]と言ふだけに、よもつへぐひ[#「よもつへぐひ」に傍線]を思ひ起す。異類同火を忌んだゞけでなく、同牲共食で、完全に地下の国の人となつた事を言ふのであらうが、本の国の人に還られぬ理由は、さうした方面からも説く事が出来るのであつた。前章にもあげた六角堂の霊験譚、鬼に著せられた著物の為に隠された身が、法力で其隠形衣の焼けると共に、人間身を表した男の話も、仏典の飜訳とばかりは見られない。
隠れ簑・隠れ笠が舶来種と見られるのも、無理はないが、簑笠は、神に扮する物忌みの衣であることは、日本紀一書のすさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]追放の条を以ても知れる。在来種の上に、ぐあひよく外来の肥土を培ふのが、昔の日本人の精神文明輸入の方針であつた。無意識の心の動きは、此に一貫して居る。隠形の衣裳が簑笠になるには、かうした手順を潜つて来て居る。
御伽草子には、多少「蛇子型」の姿を留めたのがあり、微かに、小栗物語の我が国産なるを示してゐる。一寸法師の草子は、異形の申し子を捨てたのが、嫁を得て後、鬼の打出の小槌の力で、並みの人の姿になる様に変形してゐる。「鉢かづき姫の草子」では、鉢――他の側からも説明を試みねばならぬが――をかづかせられた後天性の異形が、結婚に関聯して壊れる機会が来る。さうして美しい貌を顕すと言ふのも、よく見れば、蛇子型の加工せられたものであつた。
此等の話が、結婚と悪身解脱を一続きにしてゐるのも「蛇子型」のあつたことを見せてゐる。兼ねて此型は、母と成年式と嫁とりの資格とに関聯したものなることを物語る。
小栗判官の本宮入湯は、膚肉の恢復の為と言ふ様に見えるのは、餓鬼身解脱の為の参詣と言ふ形が、合理化せられて、歪んで来たものと見ることが出来る。
江戸期より前の幽霊は、段々餓鬼と近づいて行つて居ることは述べた。さうした幽鬼の中、時を経て甦る者の、魂の寓りは、鳥けものゝ為に荒されて枯骨となつて居る。火で焚かぬ限りは、幾度でも原形に復した巨樹民譚は、もはや印象薄くなつてゐたのである。さうした餓鬼身を空想するだけでも、いぶせい教誨である。異民族――他界の生類――餓鬼と、衣類・肉身を中心にして、異郷観は変化しながら、尚、霊物としての取り扱ひは忘れなかつた。餓鬼身を脱しようとした幽鬼の苦しみは、小栗浄瑠璃には、朧ろに重る二重の陰の様に見え透かされて居る。

     二 魂の行きふり

小栗の二重陰の上に、まだ見える夢の様な輪廓がある。其を分解して行つて、前とはすつかり反対に、寄るべを失うた魂の話がしたい。小栗の物語には、肉身焼かれずにあつた事になつてゐるが、かうした場合の説経の類型から言へば、魂をやどすべき肉身を探して、其に仮托して来ることになつて居ることは既に述べた。だから、此浄瑠璃もすぐ一つ前の形は、遊行上人の慈悲で、他人の屍に移して此世の者とせられた上、開祖以来関係深い熊野権現の霊験に浴して、肉身までも其人になり変ると言ふ筋であつたものと見る方が、手の裏反す様に小栗土葬・家来火葬と、前段に主従火葬とした叙述を顧みないでゐた点の納得もつく。家来たちの亡霊が小栗の娑婆還りを歎願する点も、効果の乏しい上に、近代の改作を見せる武道義理観である。此部分は、角太夫の居た頃の町人にとり容れ易い武士観であつたらう。おなじく荒唐無稽でも、少しは辻褄を合せる方が、見物の心を繋ぐ道であつた。
併し今一つ、魂のよるべについて、考へ直すべき部分がある。それは離魂病である。江戸期の人々は、かげのわづらひ[#「かげのわづらひ」に傍線]と称へて居た。此とても、漢土伝来の迷信と言ふ風に思ふ人もあるが、日本ひとりでにも起るはずのものであつた。かげのわづらひ[#「かげのわづらひ」に傍線]の怖ぢられた点は、唯の游離魂を考へるだけではなく、魂自身が亦、人の姿を持つことがあつた為である。本人の身と寸分違はぬ形を表すものとする。実体のない魂の影である。
大国主の奇魂・幸魂は、大物主神と言ふ名によつて、屡《しばしば》白地に姿を示現した。巫女であつたことすら忘られた、伝誦上の多くの近畿地方の処女には、暗いつま屋の触覚を与へ、時としては辱しめを怒つて、神としての形を露したこともあつた。三輪の神を、大国主とし、事代主として定めかねて来た先輩は、神の魂の一つ/\が持つ、違うた姿に思ひ及ばないで居た為であつた。誠に大国主ときめてかゝつても、本地身たる大国主の概念に囚はれぬ大物主独自の変化・活動の自在さに、眩らはされた為もある。併し、固定に伴ふ忘却が、神の垂迹を以て、生得独立の神と見易く、又さう言つた自由な分裂・自立をさせて来た。其から来る古代人の解釈が順調に印象せられ、其を忠実に分解すると、さうした眩惑も正に起るはずだと思ふ。けれども、出発点に踏み違へがある。尾を頭に、頭を腹に、腹を尾にするだう/″\[#「だう/″\」に傍点]廻りを避けるには、第一義を蓋然の基礎に据ゑて、全然異なる出発点を作つてかゝらなければならぬのを忘れた為であつた。即、荒魂・和魂二種の魂魄を、すべての生命・活動の本と考へる様になつた時期より前に、更に幾種かの魂の寄り来ることを考へて居た古代の、続いて居たのを思はねばならぬ。本居一流の和魂の作用の二方面を幸魂・奇魂と説く見方は、従つて第二義に低回して、愈究めれば、益循環することを悟るであらう。
幸魂・奇魂の信仰が、段々統一せられて、合理的な二元観に傾きかけた機運に声援し、又其契機の一部をも作つたと見られるのは、有史前後の長い時代に亘つて、輸入元としての、とだえない影響を与へた原住・新渡の漢人であつた。伝承から、又情調からした行き触れの感染が、書物の知識から這入つたと見て来た学者の想像以上に、時としては古く、力としては強く、反響は広く滲み入つて居たことが考へられる。
物の素質を表す場合、古代人の常に対立させた範疇、あら[#「あら」に傍線]・にご[#「にご」に傍線]を以て限定せられて表された荒魂・和魂は、舶来の魂魄観とも違つて居たが、考へるにも組織立つた感じを持たせ、先進民族の考へ方に近い誇りを抱かせたに違ひない。出雲国造神賀詞に、大物主を大国主の和魂として居るのは、外来魂を忘れ、内在魂の游離分割の考へ方を、おし拡げる様になつた時代の飜案である。
又、纔かに人間出の魂魄をおに[#「おに」に傍線]とする外、霊物をすべて神と見る様になつた時代に、寄り来る魂は、威力ある天つ社・国つ社の神の荒魂・和魂と見なされる様になつた。荒魂を祀ることは、祟りをのがれる為ばかりではない。ある時威力の加護を受けた感謝、又狭くは、戦争・病気・刑罰・呪咀の力の源として頼まうと言ふ心からゝしい。和魂の方も、健康を第一として、言語・動作の過誤を転換させ、生活を順調に改更する力の、常住与へられる様にとの考へから祀られる様になつた。此二魂斎祀の風と、御子神信仰とが、社の神に分霊を考へる習慣を作る主力となつたものと思ふ。
ある神の一魂を祀る社もあり、同所に二魂を別けて祀る風も出来た。従うて、常態即、本体と見るべき和魂に、一時的の発動を条件とした荒魂を、常に対立させて考へる様になつて行つた。
奇魂・幸魂なる語《ことば》は、元来対句として出来た、一つ物の修辞表現かも知れない。
とにかく、大物主は外来魂の考へを含んでゐたことは、一つ事の二様の現れと見える少彦名漂着譚と此二魂に関する記の伝誦とを見れば知れる。大国主の外来魂の名が、少彦名の形を以て示されてもゐたことは明らかである。
我が国の文献に俤を止めた古代生活の断片は、伝承の性質上、神に近い聖者・巫祝の上を談つたもので、凡下の上の現実として、其生活の痕と見ることは出来ないのである。而も其等の伝承が、記述当時の理会に基いて、普遍的な事の様に、矯めて書かれて居るものが多い。だから、魂の問題も、神に限つた事であることもあり、又、最高の神人として「神の生活」に居ることの多い天子及び国造の原形なる、邑君及び、高位の巫女の上にもおし拡げることの出来る場合も多い。だが、奇魂・幸魂の事は、天子の御代には見えて来ない。唯、荒魂を意味するらしい「天皇霊」なる語が、敏達十年紀に見えて居るのが、異例と思はれる位である。天子には「日の御子」なる信仰上の別称があつた。外的条件としては、近卑親継承と言ふ形は厳かに履みながら、信仰的には、先天子との血族関係を超えて考へられた。先天子の昇天と共に、新しく日の神の魂を受けて、誕生せられるものとした。さうして常に、新な日の神の御子が、此国に臨むものとの考へなのである。日の御子として、生れ変る期間の名が、天つ日高・虚つ日高の対句で表されて居たらしく、所謂|真床覆衾《マドコオフスマ》(神代紀)を被つて、外気に触れない物忌みを経て、血統以外の継承条件をも獲られたものであらう。
第一代の日の御子降臨の時に、祖母《オホミオヤ》神の寄与せられた物は、鏡と稲穂(紀)とで、古事記では其外に二神器及び、智恵の魂・力の魂・門神の魂をば添へられてゐる。同じ本には、鏡を御霊として居るが「わが前を拝む如斎きまつれ」と告げられたと言ふ合理的な語部の解釈を、其儘採用してゐる。鏡を和魂又は奇魂に、劒を荒魂に、玉を奇魂或は和魂と解せられぬでもないが、姑らく紀に拠つて、鏡だけを説く。此は、御代毎に新しく御母神から日の御子が受けるもの、と解した外来魂の象徴と見るのが、古義に叶ふらしい。
稲穂は、祝詞・寿詞を通じて、神孫の為の食物に分け与へられたものと考へて来てゐるが、稲穂を魂代とする豊受姫神が、保食神・豊うかのめ[#「豊うかのめ」に傍線]などの名で、色々な神に配せられ、生死を超越した物語を止めて居るのは、必、意味がある。「食国《ヲスクニ》の政」を預る者は、天上の食料を地上にも作り出して、天神に献る事務を執らしめられるのである。其為事に失敗したのが、すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]であつた。
此農作物の魂を所置する法を知られなかつたのだ。其で黄泉を治める事になつたものと、古伝誦の順序を換へて見るべきだらう。天つ罪が此神の犯した神の供物荒しの罪を数へ立てゝ居るのにも、理由あつての聯絡であつたのである。
穀物の魂を、御母神《ミオヤガミ》の魂に添へた理由は、同時に、内宮に外宮を配した所以でもある。外宮は皇太神宮の※[#「广+寺」、341-5]《カムダチ》の神として出発した信仰と見ることも出来る。又さうした理会の上に、古文献も、此農神の事を叙述してゐる。而も此神は、田畠の神であると共に、酒の神であり、家の神でもある。大殿祭祝詞註の所謂、室清めの産飯《サバ》説も、葺草壁代の霊とする説も、尚合理臭い。此神の子として、若室|葛根《ツナネ》[#(ノ)]神(記)の名を伝へて居るのは、寧、御饌神《ミケツカミ》即厨の神[#「厨の神」に傍線]とする説の方がよい。併し、外宮の場合の旧説と一つになる。私はやはり、鏡の象徴する魂・穀物の象徴する魂が、外来魂として代々の日の御子に寄り来るものと見てゐる。うかのみたま[#「うかのみたま」に傍線]を表すのに稲魂の字を以てするのも、此消息を示して居る。生命の祝福と建て物の讃へ詞が並行叙述の形で表現せられてゐるのは、もつと根本的に、此とようかのめの神[#「とようかのめの神」に傍線]の魂が、家あるじの生活力に纏綿して居るものとせられてゐたからであらうと考へる。
食国の政を完くする為に、穀神を斎くと考へるよりも、食物の魂の寄つて居る為に、家長の生活力が更に拡充せられると言ふ信仰から出たのであらう。二神器及び三神の魂を与へられたのも、此意義から、無限に外来魂を殖して考へることの出来た古代人の思想を見る事が出来よう。殊に考へ方は新しくても、智力の魂の伝への方は、外来魂の権力の上に、助勢する力として、附着して来るものと考へられた痕を、はつきり残して居る。玉・劒は、呪力の源と見る方が適当であるらしい。
外来魂の考へが荒魂・和魂に融合して、魂魄の游離観を恣ならしめた。荒魂・和魂の対立は、天子及び、賀正事《ヨゴト》を奏する資格を持つ邑君の後身なる氏々の長上者にも見られる。而も二魂、各其姿を持つものとの考へから、荒魂の為の身、和魂の為の身に、二様の魂のよるべ[#「よるべ」に傍線]としての御服《ミソ》を作つた。其二様の形体を荒世《アラヨ》・和世《ニゴヨ》――荒魂の身《ヨ》・和魂の身《ヨ》――と言ひ、御服を荒世の御服《ミソ》・和世の御服と称へた。而も荒世・和世の形体の寸尺を計つて、二魂の持つ穢れ・罪を移す竹をも、亦荒世・和世と言うた。二魂の形体の形代としての御服に対して、主上の寸尺を計る竹も、二魂の形体其物の殻と考へられてゐるので、ある時代に、後者が陰陽道の側から、とり込まれた方式なることを示して居るのではないか。此が、夏冬の大祓に続いて行はれる主上の御|贖《アガナ》ひなる節折《ヨヲリ》の式である。東西の文部《フビトベ》が参与することから見ても、固有の法式に、舶来の呪術の入り雑つて居ることは察せられる。
鎮魂祭の儀を見ると、単に主上の魂の游離を防ぐ為、とばかり考へられないことがわかる。年に一度、冬季に寄り来る魂があるのである。御巫《ミカムコ》の「宇気《ウケ》」を桙で衝くのは、魂を呼び出す手段である。いづれ平安朝に入つての替へ唱歌であらうが、鎮魂祭の歌の「……みたまかり、たまかりましゝ神は、今ぞ来ませる」と言ふ文句を見ると、外来魂を信じた時代からのなごりを残したのが訣る。而も、主上の形身[#「形身」に白丸傍点]なる御衣の匣を其間揺り動すのは、此に迎へ移さうとするのである。魂の緒を十度結ぶことは、魂を固着させる為である。魂の来り触れて一つになる時だから、たまふり[#「たまふり」に傍線]と言ふので、鎮魂の字面とは、意義は似てゐて、内容が違ふのだ。「ふるへ/\。ゆらゝにふるへ」と言ふ呪言は「触れよ。不可思議霊妙なる宜しき状態に、相触れよ。寄り来る御魂よ」の意であらう。触るは、ふらふ[#「ふらふ」に傍線]・ふらはふ[#「ふらはふ」に傍線]など再活用を重ねる。ふるふ[#「ふるふ」に傍線]もふらふ[#「ふらふ」に傍線]と一つ形である。
荒魂・和魂を以て、外来魂と内在魂との対立を示す様になつてからも、其以前に固定した形の、合理化の及ばない姿を存して居た事は、鎮魂祭の儀礼からも窺はれた。更に、旅行者の為に、留守の人々がする物忌みも、此側からでなくては釈けない。牀・畳などを動かさず、斎み守るのを、旅行者の魂の還り場処を失はぬ様にするのだ、と説くのはよいであらうか。旅行者の魂の一部が、家に残つてゐるために、還つて来ても、留つた魂と触りて、其処に安住することが出来るのであつた。留守の妻其他の女性も、自身の魂の一部を自由に、旅行者につけてやる事が出来た。これが万葉に数知れずある、旅行者の「妹が結びし紐」と言ふ慣用句の元である。下の紐を結んだ別れの朝の記憶を言ふのでなく、行路の為の魂結びの紐の緒の事を言うたのであつた。着物の下|交《ガヒ》を結ぶ平安朝以後の歌枕と、筋道は一つだ。下交を結ぶのは、他人の魂を自分に留めて置くのである。其が、呪術に変つて行つたものであらう。皆、生御魂《イキミタマ》の分割を信じて居たから起つた民間伝承であつた。恰も、沖縄の女兄弟が妹神《ウナイガミ》即巫女の資格に於て、自らの生御魂を髪の毛に托して、男兄弟に分け与へ、旅の守りとさせたのと同じである。
旅行者の生御魂を、牀なり畳なり、其常用の座席に祀つたのである。それが一転して、伊勢参宮した家の表に高く祭壇を設けた、近世の東国風の門祭になつたのだ。此亦、生御魂の祀りと言ふ意味から、旅行者の魂の還りのめど[#「めど」に傍点]にすると言ふ方へ傾いて来て居る。死者の為にも、ある期間魂牀を据ゑ、枕も其儘にして置くのも、遠旅にある人の生御魂の家に残つて居る考へと一つである。
神今食・新嘗祭などに先立つて、坂枕や御衾を具へて、神座の上に寝処を設ける式を、皇祖が主上と相共に贄をおあがりになるのだと言ふ風に見る人が多い。けれどもやはり、一つの御魂ふり[#「御魂ふり」に傍線]の様式で、天子のみ魂ふり[#「み魂ふり」に傍線]であつた。かう言ふ風に、魂の離合は極めて自由なものと考へられて居り、一部の魂は肉身に従はないで、去留するものとし、又更に、分離した魂が、めい/\ある姿を持つこともあると考へて居た。此が荒魂が更に荒魂を持つ所以である。だから、游離魂の信仰は言ふまでもなく、離魂病のため同じ人の二つの姿を現ずる様な事も、必しも輸入とばかりはきめられなくなるのである。七人将門の伝説などは、此系統に入るべきものである。単に、肉身の復活を悲願に繋けて説く飜訳種、とはかたづけて了はれぬ。
思へば、餓鬼は幽霊の前身なのである。だから、実体のないはずの者だのに、古来の魂魄観が、幽霊の末に到るまで、見えもし見えずもあると言つた、中途半端な姿にして了うた。
さて餓鬼阿弥の場合、第一章では、肉身を欲する魂魄を以て説いたが、其上にたましひ[#「たましひ」に傍線]の放散した後、本身の魂への魂ふり[#「魂ふり」に傍線]に、頗長い期間を要した蘇生者に対する経験が加はり、又謂はうなら、かげの身[#「かげの身」に傍線]が本身と合体する径路も、根柢に含まれて居ると見られよう。此と蛇子型の民譚とが絡みあへば、小栗の物語の蘇生譚の部分は形づくられる訣である。
たましひ[#「たましひ」に傍線]の語原は訣らないとする方が正直なのだが、魂魄の総名が、たま[#「たま」に傍線]であるのだから、何処までも一つものとは言はれない。厳重な用語例は尠いが、比較に立てゝ言ふと、たま[#「たま」に傍線]は内在のもの、たましひ[#「たましひ」に傍線]はあくがれ出るもの、其外界を見聞することから智慧・才能の根元となるもの、と考へて居たらうと言ふ事だけは、仮説が持ち出せる。さうして其、不随意或は長い逸出などの、本人の為の凶事を意味する游離の場合に限つて、光り[#「光り」に傍線]を放つものと見た様だ。
古代人は光りをかげ[#「かげ」に傍線]と言ひ、光りの伴ふ姿としての陰影の上にも、其語を移してかげ[#「かげ」に傍線]と言うた。即、物の実体の形貌をかげ[#「かげ」に傍線]と言うたのである。人の形貌をかげ[#「かげ」に傍線]と言ふのは、魂のかげ[#「かげ」に傍線]なる仮貌の義である。だから、人間の死ぬる場合には、人間の実体なる魂が、かげ[#「かげ」に傍線]なる肉身から根こそぎに脱出するから、其又かげ[#「かげ」に傍線]なる光を発して去るもの、と見るより、魂の光り物[#「光り物」に傍線]を伴ふ場合にあつたりなかつたりする説明は出来ない。だから、たましひ[#「たましひ」に傍線]のひ[#「ひ」に傍点]を火光を意味すると説く事は、第二義に堕ちて居る事が知れる。
姑獲鳥《ウブメ》は、飛行する方面から鳥の様に考へられて来たのであらうが、此をさし物[#「さし物」に傍線]にした三河武士の解釈は、極めて近世風の幽霊に似たものであつた。さう言へば、今昔物語の昔から、乳子を抱かせる産女《ウブメ》は鳥ではなかつた様だ。幽霊の形を餓鬼から独立させた橋渡しは、餓鬼の一種であつた此怪物がしたのであるが、これは、姿を獲たがつて居る子供の魂を預つて居た村境の精霊で、女身と考へられてゐた。
沖縄本島では、同様の怪物を乳之母《チイオヤ》又は乳之母《チイアンマア》と呼んでゐる。幽霊になると、男までも必、女性的な姿になるのは、産女の影響を残してゐるのだ。壱岐の島人の信じてゐるうぶめ[#「うぶめ」に傍線]は飛ぶから鳥で、難産で死んだ故、此名があるとは言ふが、形は伝へて居ない。唯浮動する怪し火の事になつて居る。近世の幽霊が、提灯や面明りのやうに、鬼火を先き立てゝ居るのも、実は、魂のかげ[#「かげ」に傍線]を二重に表して居るのだ。光り物が消えて後、妖怪の姿が現れる様に言ふ話の方が、古いのである。骸を覓めて居る魂は、唯の餓鬼ばかりではなかつた。不完全な魂、村の男ともならぬ中に死んだ、条件つきでなければ生を享けられぬ魂も、預り親に無数に保たれながら、迷うて居たのである。(炉辺叢書「赤子塚の話」参照)

     三 土車

謡曲以後の書き物に見える土車が、乞丐の徒の旅行具である事には、謂はれがあらう。乗り物に制約のやかましかつた時代に、無蓋の、地を這ふ程な丈低い車体を乞食の為に免してあつたのである。土搬ぶ車を用ゐさせたのかとも思ふ、が恐らく、土を大部分の材料につかうたからの名であらう。
土車に乗るのは、乞食が土着せず、旅行した為である。而も、歩行自在でない難病者が、乞食に多くなつて来た時代の事である。片居《カタヰ》・物吉《モノヨシ》など言ふ乞食を表す語が、癩病人を言ふ事になつたのは、とりわけ其仲間に、此患者が多かつたのを示してゐることは、言ふまでもない。其他の悪疾・不具に到るまで、道に棄てられたのが、後代になる程、罪障消滅など言ふ口実を整へて来た。過去の罪業を思はしめる様な身を、人目に曝しながら、霊地を巡拝する事を、懺悔の一方便と考へる様になつた。かうして、無数の俊徳丸が、行路に死を遂げたのである。俊徳丸も、謡曲弱法師には盲目としてゐるけれど、古浄瑠璃の「しんとく丸」には癩病になつてゐる。俊徳丸の譚が、弱法師をば、必しも原型と見ることの出来ぬ理由は別の時に言ふ。唯小栗浄瑠璃が、部分的に「しんとく丸」の影響を見せてゐる事は事実だ。土車に乗る様な乞食は、癩病人が主な者であつた。だから、後々餓鬼阿弥を餓鬼やみと考へて、癩病の事と考へたのも無理はない。
小栗は餓鬼阿弥として土車で送られた。勿論業病の乞食としてゞある。私には餓鬼阿弥の名が、当意即妙の愛敬ある呼び名としての感じも伴ふけれども、同時に、固有名詞らしい気持ちをも誘ふ。即実際、時衆の一人に、さうした阿弥号を持つた者があつたか、遊行派が盛りに達したある時代に、念仏衆の中でも下級の一団に、餓鬼衆・餓鬼阿弥など総称せられる連衆があつたかして、小栗浄瑠璃の根柢をなす譚を、おのが身の上の事実譚らしく語つて歩いた。懺悔念仏から出発して居るのではあるまいか。
室町時代の小説に、一つの型を見せて居る「さんげ物語」は、既に、後代の色懺悔・好色物の形を具へて来てゐるが、ある応報を受けた人の告白を以て、人を訓すといふ処に本意がある。而も、自己の経歴の如く物語る、袖乞ひ唱導者の一派が出来て来た。其所に、唱導者と説経の題名との一つになる理由がある。餓鬼阿弥の懺悔唱導が、餓鬼阿弥自身を主人公とするものとなるのである。説経類に多く、唱導者の名が、主要人物の名となつて居ることの理由がこゝにある。



底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
   1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「民族 第二巻第一号」
   1926(大正15)年11月
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年十一月「民族」第二巻第一号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
2004年1月25日修正
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