青空文庫アーカイブ
人形の話
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)嶺の木の子《み》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)さわり[#「さわり」に傍点]の
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歌舞伎に関係のある話は、御祭りの芝の舞台の話でしまっておき、この章では話を変えて、人形の話を簡単にしておきたいと思う。前に人形の舞台と歌舞伎芝居の舞台との関係について、ごくおおざっぱな話をしておいたが、今日はそれからもう少し路を開いていきたいと思う。
人形は室町になり突如としてある興行団体の手によって興行されだした。ということはいったいどういうことを意味しているか。これは室町になって、世間から認められて、座を構えるだけのパトロンができてきたということにすぎない。それ以前はどういう団体であったか。室町時代の記録をみればよくわかる。人形廻し(「くぐつ廻し」というと少し古典的になる)あるいは「ひひな(雛)使ひ」というものが、室町になり、はじめて物語を伴うようになったということは、それ以前は人形廻し自身が人形に台辞をつけていた、それが、台辞も地の文も一緒に語る浄瑠璃語りのようなものが出てきて、人形廻しは台辞をつけぬことになった。非常な違いである。
だから、その前の「ひひな使ひ」は、「ひひな」に関する叙事詩を語っていたにちがいない。それが抒情詩になってきた。昔男があって、長者の女に通うたということを歌いながら人形を使う。すると世間の人は「ひひな」自身が物語をしているというふうに理解する。従来日本の民間に行なわれている唱導文学の聞き方からいうと、どうしてもある一種の神事にあずかる人、すなわち「ほかひ人」のする芸能は、神がいうていると聞く習慣があるために、人形が語っているように感ずる。
われわれからいうと、地の文、詞の部分、さわり[#「さわり」に傍点]の部分はみな別であるが、昔はほとんど詞の部分がなく、地の文ばかりで、それを人形自身が語っていると感ずる習性を、昔の人はもっていた。
「ひひな」とは何か。これは既にいってあるので、深く話すとくり返しになるが、一口にいうと、普通の学者は形代(人間の身体の替りのもの)と考えている。この形式が、いろんなものに分化していく。盆暮に社から人間の形に切った紙を出す。それに米など添えて社に持って行く。これも形代である。このように種々に分れている。ところが江戸になって非常に盛んに行なわれる語、書物に出はじめたのは鎌倉であるから、武士から出はじめた語であろうが、それに「お伽」という語がある。
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大王深山にして嶺の木の子《み》をひろひ、沢の若菜を摘みて行ひ給ひける程に、一人の梵士出で来て、大王のかくて行ひ給ふこと希代のことなり。御伽[#「御伽」に傍点]仕るべしとて仕へ奉る。 (宝物集第五)
ありつる人のうつり来んほど御伽[#「御伽」に傍点]せんはいかが。」
おぼえ給へらん所々にてものたまへ、こよひ誰も御伽[#「御伽」に傍点]せん。」 (増鏡)
いや一人居やらば伽[#「伽」に傍点]をしてやらう。 (狂言 節分)
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「御伽」ということの意味はわからない。寝ている傍についていて物語をすることらしい。それから宿直のことまでいうようになる。私は、これにはどうしても性欲的な意味がありそうに思う。
いわゆる、御伽婢子(はひこ→はうこ)というものがある。(本の名にもなった。この書を江戸の怪談小説のはじめとするが、そうではない。)貴い人の寝ている傍についているものである。これは形式である。もと「あまがつ」(天児)というものがあって貴い人の寝間にあって守っていると考えているが、これは寝ている人の形代なのである。だんだん子供の寝間につくようになる。子供は寝ている間も、起きている間も同じである。それがだんだん変化して蓋のあるものになる。つまり天児から御伽婢子というものになる。御伽婢子は寝間におく連想から、汚ないものを入れるようになる。天児には何を入れたか、たぶん最初は何も入れたのでもなかろう。寝間の傍に獅子、狛犬がつく。獅子と狛犬とは区別がないのだろうが、獅子、狛犬というので二つになる。宮廷から出て、社でも貴族の家でもいちばん奥のところ、寝所とみられるところにおいてある。畢竟雛なのであるが、できる経路はわからぬ。しかし、寝間で番する根拠はわかる。仕事が変わっただけである。
「ひひな」は普通は人間の形代であり、人間の雛型だから、それがけがれを吸収する。だからそれを棄てればよいのだと考えている。ところが「ひひな」は古くから日本の家庭では玩具になっている。われわれは何ともなく思うが、「ひひな」はけがれを吸収したものだから、身辺にあるが恐しいものである。これが玩具となるのは飛躍しているわけである。日本では何か事情があって、これに親しみを感じてきたのだと思われる。
一方、他の「ひひな」をみると、このことは既に述べたが、日本の雛の歴史を調べるのに閑却できないのは、奥州一円にみられる「おしらさま」の存在である。こちらにくると観音さまや天照大神または蚕玉《こだま》さま(蚕の守護神)の画像(掛図)になっている。これは大きな変化である。金田一先生は「おしらさま」は「おひらさま」の訛りで、結局雛と同じになる。折口のいうことと同じだといわれた。
われわれはめおと[#「めおと」に傍点]雛を考えるが、雛はかならずしも二体なくてもよい。子供が雛の御殿を作って二体飾るから二体なくてはならぬと考えたのである。子供が家庭のなかで小さい家庭を作り、人形で小さい夫婦の生活をやってみる。そのために内裏雛ができたのである。奥州の「おしらさま」は、一体、二体、ときには三体のこともある。近代では主に蚕の守り神になっている。ということは、農村でいちばん大切な守り神ということになる。蚕を飼うほど、蚕の守り神の考えがおし及ぼしてきて、かきものを守り神とするようにさえなってきた。古ぼけるとまた新しく作るので、古い家になると二体も三体も祀っていることがある。
桑の木の二股の枝をとってこしらえる。だから先のほうを頭にして、頭だけの人形である。この「おしらさま」に毎年一枚ずつ着物を着せてやる。着物を着せるというのは、「おしらさま」がお雛さまだからだ。つまりもとの意味は、「おしらさま」がその家のけがれを背負っている、ということになる。だから古い「おしらさま」は、布の中に埋もれている。奥州では、「いたこ」が「おしらさま」を使いにくる。これをおしらさまをあそばせる、といい、「おしらあそび」という。「あそばす」とは踊らすことである。この起源は、紀州の熊野の巫女と思われる。それが定住して一派を開いたのである。一体のこともあるが普通は二体である。「おしらさま」が自分の心を感じさせる。この場合、鈴のついているのは、鈴の鳴り方で判断することもある。また、「いたこ」が勝手に判断することもある。そういうときには現実に昔の雛遊びの様子がわかる。もちろん変化がある。われわれがみただけでも、「いたこ」が房主のように衣を着てやるのも、平服でやるのもある。
「いたこ」は条件的に目が悪い。つまり盲目が感じるのである。そのときに語るものは祭文というものである。祭文というても江戸、上方のとは異なり、つまり一種の叙事詩である。いまでは叙事詩を語ると、「おしらさま」が昔を思い出して踊りだすと考えているが、「おしらさま」自身が語るのである。「いたこ」はやっているうちに放心状態にはいる。「いたこ」はほとんど、託宣をしない。神がつくのではない。「いたこ」が神をつかっていると、「おしらさま」自身が踊りだす、そんなのをみると、「おしらさま」が家の生活と近くなる。家の中の納戸の隅などに祀ってあって、家のけがれをしじゅう吸収している。そのしるしに、年ごとに一枚ずつ着物を着せてもらい、「いたこ」が廻ってくると遊ばれる。してみると、この「おしらさま」というものは非常に怖れられていることがわかる。「おしらさま」の祀ってある家は旧家だというが、ちょっとのことでも祟りがあるので、非常に迷惑をする。
考えてみると、けがれているから棄ててしまうということと、雛を飾り子供が弄ぶということの過渡期を示している。けがれをもっているのに、「いたこ」が「おしらさま」をあそばせた後、自分の詞でいう。霊感を主人に伝える。これで形代から人形になる道筋がわかる。この雛を、平安朝の物語でみると、家庭で子供が弄んでいる様子がわかる。おそらく踊らしたのであろう。
室町になると、「ひひな廻し」が出るが、これが使うのは人形なのである。私は「くぐつまはし」という語は平安朝あたりで亡びていて、室町では既に古典であったと考える。「ひひな廻し」が諸国を歩くということは、ひひなを踊らせながら、祓えを進めてまわるのである。けがれをとって廻るのである。それがだんだん芸術的に変化してきた。その形がごく近代まで残っているのは、淡島願人である。子供の死んだ家で、着物、頭巾、人形など、子供の持っていた物をやったりする特殊な乞食である。これが古い意味の雛の信仰をもって廻った最後の者である。浅草にも淡島堂がある。淡島堂は雛を祭っているというが、そんな証拠は一つもない。雛祭りに、淡島さまに詣る江戸の信仰では、雛祭りと淡島祭りとは一つで、雛祭りの起源だというている。
淡島は諾冊二尊の間に生まれた二番目の子で、性がわからない。これを流したということから形代の起源と考えているのだろうが、そんなに古いところでなくとも、摂津の住吉明神、紀州加太の淡島神社から出ていると思う。住吉と加太とが淡島願人の中心地である。そこから出て、諸国に淡島信仰を流布し、下の病で苦しむ女を救うて歩いた。住吉明神の妻が白帯下《しらながち》にかかったのを嫌って、扉に乗せて流すと、紀州の加太に流れつき、そこに鎮座したという。だから年に一度加太から住吉に戻る式をやる。ちょうど摂津の堺が真中にあたり、ここにきて、来よう、来させまいと争う式がある。
近代の信仰では淡島はけがれて流された神である。だから二体でなく、一体でもよいのだが、それでも二体と信ぜられている。また淡島願人のもって歩くのは、雛ではない。淡島さまはどこでも、「すくなひこなの神」だというている。ともかく淡島さまは海の中の島にいる神である。だからかならず流す神にちがいない。そして願人は流す「ひひな」を集めて廻る者である。それが後に死んだ児の魂の――行きどころがない――遺したものを集めて廻るようになる。おそらく女の下の病と結びついているのだろう。地方の淡島さまは、子供のことをいわない。女ばかりで、子供から年寄まで詣る。すると下の病にかからぬと信ぜられている。
底本:「日本の名随筆 別巻81 人形」作品社
1997(平成9)年11月25日第1刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 ノート編 第五巻」中央公論社
1971(昭和46)年6月発行
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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