青空文庫アーカイブ

日本美
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)月夜見《ツクヨミノ》命

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「目あて」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うね/\した
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私は日本の民俗の上からお話を申し上げたいと思つてゐます。譬へば、貴女方が花をお活けになる、さうした我々に芸術的感銘をお与へにならうとする花よりも、もつとうぶな花、宗教的な花の話をしてみたいと思ひます。
八月の月見、日本では月見が存外新しいことのやうに思つていらつしやるかも知れませんが、世の中の習慣は印象の深いものだから、月見が来ると花をお供へになるでせう。何故月見に花を供へるか。この花と立花・生花と、何か関係があるのではないかとお思ひになつたことはありませんか。
そして月見の行事の心の底には、昔から伝つてゐるお月様を神様と感じる心が残つてゐる。さういふ風に昔の人が、月夜見《ツクヨミノ》命などゝいふ神典の上の神の感じとは別に、月の神を感じて居り、その月の神に花をさしあげるのが、月見といふのです。月見はお月さんのまつりのことです。その花をどうするかといひますと、あれは今日西洋式の宴会を開きますと、色々な花を飾る。さういふ風に、日本でも昔から花を飾つてゐます。その証拠には婚礼の時、以前には何処でも行つたことですが、今は特に古風な婚礼の場合にしか見かけなくなりました。座敷に島台を飾つておきます。高砂の尉と姥の飾りつけをした、この島台は何かと申しますとこれが宴会の花と同じことなのです。島台のことを古くは洲浜《スハマ》と言つてゐます。水の流れてよつてゐる洲のことで、島台の形に何かうね/\した波の寄る砂浜の様子が見えてゐるからかう言ふのでせう。京都の古風なお菓子に「洲浜」といふのがあることは御存じでせう。さういふ川の砂浜の様子をかたどつた台の上に、色々なものを飾つたものです。人形を飾ることも、植物を飾ることもあります。さういふ動物・植物をのせて宴会の席に飾る訣で、江戸時代の中頃までは、正式な宴会の絵を見ると、屋敷の中心に洲浜が飾つてありますし、又、舟遊山の時にも洲浜の据ゑてあるのが描いてあります。普通は草の花木の枝を飾り、場合によると人形を飾ります。
で、つまり、婚礼ばかりでなく、宴会の時にも飾つたので、これを飾るのは、それを目あて[#「目あて」に傍点]にしてお客が来られる様に飾つておく訣なのです。普通の宴会だと前から招待して連れてくるから、別に遠くから目あてにくる必要はない。日本の宴会は大昔から行はれてゐました。さうしてその宴会の精神は元は、もつとはつきり[#「はつきり」に傍点]してゐました。昔は神を迎へたのです。さう言ふことは近代の宴会でも察せられますが、昔はずゐぶん変つてゐたのでせう。神が天から降りて来られる時、村里には如何にも目につく様に花がたてられて居り、そこを目じるし[#「目じるし」に傍点]として降りて来られるのです。だから、昔の人は、めい/\の信仰で自分々々の家へ神が来られるものと信じて、目につくやうに花を飾る訣なのです。併し、神によつて供へる花が変ります。花のない常磐木の枝や、薄の穂なども、目につくやうに立てます。場所によると人間の姿をしたものをたてなければならなくなつた処もあります。唐子や仙人、又は、獅子や狛犬の像をたてるといふ風に変つてきます。お月さんの時は昔からきまつて芒をたてる。大体芒だけでよいわけです。併し、その時に、昔程芒の中に銀紙ではつた月の形を出しておいたことがありました。つまり、島台の上にまう一つ月を飾るので、此処があなたをお迎へしてゐるところです、といふ訣です。昔は非常に素朴なものでした。江戸に吉原、京都に島原、大阪に新町といふ風に、大きな遊廓でも、時々のお祭りを農村風に行つたものです。八月の十五夜になると月見を行つてゐます。遊廓の月見は派手なもので、島台の上に芒と銀月を出した有様の絵が残つてゐます。又さう言ふ風な小唄もあります。
遊廓ですらもさうした古風な生活を残してゐたのですから、まして、田舎では古風な生活を沢山残してゐる訣です。そして、その生活を守り続けてゐるうちに、頑固に固定して、どう言ふ訣でするのかわからないものが出て来ます。その為やめてしまふといふこともある訣です。日本人がどんなものをよいとするか、善悪の標準の目処がたつて来、又美しいものゝ目処が出来たので日本人の好む美しさの標準が、芸術的な美とは別に段々と樹立して来たのです。つまり、芸術家でない人が選択し、段々拵へ上げて来た訣なのです。今まで疑ひもなく過して来た。それが、戦争によつて大きな標準が何処かへ行つてしまつた。一番悲しい事は、今迄皆相談して善い悪いを判断してゐましたのに、今では一人々々が判断しなければならなくなり、日本人の中には、全く拠りどころを失つてしまつた人もゐる訣です。併し、こゝで段々秩序が回復して参りました。どうかして我々は早く新しい秩序を復活したいものです。かうなつたら今日からでも、我々はよいもの・美しいものを子孫の為に残さねばならないので、一番善いものを標準にとらなければならないのです。それを標準として、これからの生活をたてゝゆく必要があるので、その意味に於て、華道が盛んになれば、それだけ、国民の美を欲する心が活動して来るわけです。
神さんが空から来られるまつりが、あらゆるまつりにある。まつりに招かれる月の神が、芒を飾つた――又古くは芒と銀月とを飾つた島台を目当に里の家に来られる訣でした。ほかのまつりの時も見ておいでゞせうが――、まつりの時大きな幟が立ち、又、盆の時高灯籠をたてます。盆の灯籠は今でも祖先の聖霊《シヤウリヤウ》が、それを目当に自分の家に還つて来られる。それを待ち迎えて祀るのだと言ふ風習の意義を、昔の人は薄々ながら知つてゐたのです。これは日本の古代のまゝの信仰です。盆棚などもさうで、御聖霊が間違へられるといけないから別に仏壇から離しておくのです。これは島台の上に銀月や人形を飾るのと同じことです。盆棚には、茄子・胡瓜の類でこさへた馬がおいてあるでせう。その他、おまつりの時の幟・旗がさうです。あの場合、その先に木の葉(杉の葉・榊の葉)がついてゐます。ついてゐない場合もありますが、そんな風に変化したのです。これがついてゐるのは、神の目じるし[#「目じるし」に傍点]として葉がついてゐる訣なのです。これを目処に四月の釈迦誕生会(やうかび――八日日)には、つゝじ[#「つゝじ」に傍点]の花をつけます。神が招かれてやつて来られるとみてゐるのです。神を誘ふ為で、譬へば雷除けの避雷針と同じ事になるので、譬喩としてはをかしい話ですが、精神は同じでせう。日本人は植物の枝・花・葉によつて神を迎へ、宴会の庭から座敷へ誘つたのです。そのずつと古い例を一つ引いてみようと思ひます。今の天子が即位なされた時に、大甞祭が行はれました。これは年々の新甞祭と同じ事で、その御代の一番初めの新甞祭の事を大甞祭といひます。この時に種々厳粛な儀式が行はれましたが、その一つにかういふ事が昔はありました。「標《ヘウ》の山《ヤマ》」といふものなのです。昔は日本訓みに訓んだでせうが、平安朝時代にはかう音読してゐます。古くは標山《シメヤマ》と言つてゐたものでせう。近代になるとこれを出さないことになつたのですが――。大甞祭の時には、近代になつてもその為事をする国を都のあるところから東西二つに分け、代表者を出すので、而もその国のうちから特殊な国郡村まできめ、これが特別な為事――お米を作り、御飯を炊き、お酒を醸す――をするのです。かうしたまつりを行ふ御殿を大甞宮といひ、これは背中合せに建てられて、二つありました。この事を精しく言ふとむつかしくなりますので言ひませんが、祭りが近づくと、標山を他からひいて来て両方に立てる。それまでは、郊外の北野の斎場《サイヂヤウ》といふ処にあるその山を、大甞宮までひいて来るのです。片方を悠紀《ユキ》の山、今一方が主基《スキ》の山なのです。これは、祭りの時我々が引き出す屋台・山車・鉾・山みたいなものです。恐らく神が占めて居られる山といふ事で、標山《シメヤマ》と言つたものでせう。神が其処に降りて来られて落ち着かれ、それから神をそれにお乗せしたまゝ大甞宮まで御案内する事になるのでせう。その標山も大昔は訣りませんが、平安朝になると派手になり、山や木の外に仙人や唐子などを飾つてあつたといひます。神の降つて来られる山車を拵へて神を迎へた訣で、植物を飾つた山が、標山だつたのです。
日本人は神を招き寄せるに、神がいらつしやる目じるし[#「目じるし」に傍点]をたてなければならぬものと思つてゐた訣です。神をして、自分と似てゐるといふ類似感を起させる為に、人形とか銀月を立て、その他に花を飾つて神の目じるしにした訣です。銀月の場合は月の姿なのです。お考へになれば、われわれの周囲に同様なことがお思ひ浮びになることでせう。祭りの時神を招き寄せる目じるしが花で、これはまつりの時にはなくてならないものなのです。だから、花の咲かないものでも、祭壇に飾るものは花と言つてゐます。このやうに、飾つた花が神と深い因縁があつたことを振り返つてみる時、立花・生花の類に、我々は美術から得る印象に似たものを感じますが、まう少し宗教的な意味を加へて考へた方が、花が生きてくるのではないかと思います。
ところが、今迄の話とは別に、我々はいつも花に対して(花のすきでない人は居ないでせうが)無貪著な人の語――不自然な花をつくり出すといふ非難――にも、耳を傾けなければいけません。花を我々の好みの対象として扱ふ場合、十分技術を人工的に加へてもよいと思ひますが、飽いたり嫌になるといつた飽満感を与へ過ぎるのはいけません。あまり飽満に過ぎ、崩れかゝつてゐるのは、ある点からはよいやうだが、やはりよくないことです。その花のよさといふことを、どこに標準をおいたらよいかは、我々素人の言ふ事ではありません。あなた方花に深い関心をお持ちになる方々の考へるべき事です。まづ考へられる事は、我々箱庭を拵へる、さういふ風に写真で写した通りに拵へるのが花の理想であらうかといふ事で、それは容易に否定は出来ないのですが、勿論、写真を作る事は芸術を作ることにはならないのです。さうすると、まう一つ我々の仲間ではかうした事を考へる。我々の眼に写つて来るものが全部這入つてくるのではなく、三つか、四つの眼につくものをもつて、それがとりまいてゐる全部を表すのだ。我々は花を活ける時そのつもりでゐたらよからう。花と交り合つてゐる自然を表す。言うて見れば、簡素に自然界を代表したものを作るのだと、まづ此頃の人なら考へるでせうね。花の表すものは自然界のとりまいてゐるものを表すので、種々な自然の組合せが出来てゐるのが本道の姿だといふ言ひ方が、此頃の花に対して持つてゐる考への落ち着くところだと思ひます。素人の我々の考へは間違つてゐるかも知れません。かう言ふ風に花の道の人の心を推察するのはわるいでせうか。
ところが、私はまう少しほかの事を考へて居ります。歌や俳句の上では、それと違ふ事があります。正岡子規といふ人があつて、俳句・短歌の上で大きな為事をしてゐますが、その子規が晩年になつて作つた句にかう言ふのがあります。

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藤の花 長うして雨降らんとす
鶏頭の 十四五本もありぬべし
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これには賛否両論がありましたが、どちらも本道は子規の心を掴んではゐなかつたのです。子規の眼の前で十四五本の鶏頭が秋の風景をつくつてゐるだけである。作つた肝腎の事だけを言つておけば――それを読む人が――その聯想を加へて其を中心に、その人自身の聯想の範囲において、延長なり、内容化して行き、藤の花だけ、鶏頭だけを詠んだのではないことを感じさせるといふ人が多いが、私は恐らくさうではないと思ひます。此句は、藤の花と鶏頭以外の何も言つてゐない、そこに句の面白さがあるのです。
又、芭蕉の句に次のやうなものがあります。

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蜑が家は 小蝦にまじる蟋蟀《イトド》かな
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芭蕉も自慢してゐた句で「蜑の家に宿つてゐると蟋蟀が鳴いてゐる。そこに小蝦が干しひろげてある。その中で鳴いてゐる蟋蟀、その蜑の家。」といふだけの事で、それに、「秋の日が照つてゐる」とか、「秋の淋しさがそく/\と身に沁みて来る。」といふ風につけ加へて説くことがあつたら、私は其はさうではないと言ふでせう。

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梅 若菜 鞠子の宿のとろゝ汁
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これも、「梅や若菜の時分に、東海道を旅して鞠子の宿でとろゝ汁を吸つてゐる。」といふので、梅と若菜と、とろゝ汁のたゞ三つのあるだけの小さな天地なのです。その他何もいらない。これにつけ加へて説かうとするのは間違ひである。
私はちようどこの精神――外に何物をも容れない小世界、純粋な世界、さう言ふ小世界の存在を考へる所に、日本の芸術の異色がある――が、花の場合でも同じではないかと思ひます。広い世界を暗示する考へ方ではなく、与へられた材料だけでそれ以外に拡らず、それで満ち/\たごく簡素な世界を形作つてゐる、そこにさび[#「さび」に傍点]があるのです。私はさび[#「さび」に傍点]をさうした極平凡な考へ方で考へてゐます。そしてさび[#「さび」に傍点]は今後我々の心の一つの刺戟なのですが、併し、常にさび[#「さび」に傍点]た花ばかり考へてゐてはいけません。わびすけ[#「わびすけ」に傍点]の椿が、あのさゝやかな莟の中に何物もなく、ひそやかにふくれてゐる――あゝ言ふ小世界――それに近いものなのです。が、ともかく、さび[#「さび」に傍点]を感じるのは、日本人が極僅かの材料で、自分だけの世界を作る事の出来る習慣があるからだと思ふのです。それを他の人に見せて、他の人にもその小さな世界のよさを感じる様に導くといふ道があるのです。かう言ふ行き方は、生活の全面ではないが、多少でも人を教へようとしてゐる人の、時には持つことが出来なければならぬ心境だと思ひます。
花は恐らく、今後はさうした考へによつて進んで行くべきものではないかと思ふのです。さうすれば、花の道の未来も、明るいと思ふのです。若しその点、既に解決がついてゐましたならば、私の話は疎い話として笑つて貰つてよい。其にしても、何かの参考になりましたならば、幸ひだと思ひます。



底本:「日本の名随筆58 月」作品社
   1987(昭和62)年8月25日第1刷発行
   1999(平成11)年4月30日第10刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七巻」中央公論社
   1967(昭和42)年3月初版発行
※底本で、「言まひせんが、」となっていたところは、底本の親本を参照して、「言ひませんが、」に改めました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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