青空文庫アーカイブ
村々の祭り
折口信夫
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【テキス禊中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)間《マ》が
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)家|群《ムラ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+文」、第3水準1-86-53]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)長尾[#(ノ)]市[#(ノ)]宿禰
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一 今宮の自慢話
ことしの夏は、そんな間《マ》がなくて、とう/\見はづして了うたので、残念に思うてゐる。毎年、どつかで見ない事のない「夏祭浪花鑑」の芝居である。音羽屋と言ふ人の、今度久しぶりで、院本に拠つた団七九郎兵衛は、見たかつたけれども、今更どうにもならない。でも、其演出は原作に忠実であつたと言ふだけに、一个処見て置きたい場面があつた。「祇園囃しの祭りの太鼓。ちようや、ようさ。ようさや、ちようさ。……」かう言ふ調子づいた原文の、祭りの日の気分の写生が、十分に出たかどうかゞ触れて見たかつたのである。どうも、あれを思ひ出させられると、たまらない。大阪で少年期を過して、今、四五十になつて居る人たちの胸は、底からゆすり揚げられる気がする。義平次殺しの日は難波祭《ナンバマツ》りらしく書いてあるが、私の育つたのは、おなじ「八阪《ヤサカ》さま」を祀つても、社は別々の隣村であつた。でも、日もおなじければ、曳く飾り山もおなじだいがく[#「だいがく」に傍線]と言ふ大きな鉾《ホコ》であつた。此だいがく[#「だいがく」に傍線]は、大阪南方の近在では皆舁いたものらしいが、最後まで執著を残してゐたのは、私の生れ里であつた。何でも五六年息まつて居て、最後に舁いたのが、日露戦争の済んだ年であつたと思ふ。
天王寺も今宮も、早く止めたが、やはりだいがく[#「だいがく」に傍線]を舁いた村である。産土神から言へば、難波・木津の祇園なのに適当だが、村の歴史から言へば、今宮が一等此に縁深さうに見えるのである。今宮は小西来山の十万堂の残つてゐる処で、果して真作かどうか疑はしいけれど、「今宮は、虫どころなり。つんぼなり。」と言ふ句が、諺の様に、いまだに旧住民の子孫には伝はつて居る。その没風流に比興した聾の夷神で名高くもなつた。村の氏神と祀られて居るのは、夷の社ではなく、おさき次郎兵衛の心中のあつた杜にあつた広田の社である。それで居て、土地の旧家の書き物にも、村人の自慢話にも京の八阪社との深い関係を説いてゐる。「祇園のお御輿《ミコシ》も、今宮が出んなら、びり/″\[#「びり/″\」に傍点]動きもせん。」かう信じもし、言ひふらしもした。隣村の我々などは、さうした由緒のないことを肩身狭く感じた事さへある。これは嘘でも、ま違ひでもなかつた。大阪の旧地誌は固より、京都側の書き物にも、其通りに伝へて居るのが段々ある。八阪の駕輿丁の出る村だから、京の山鉾を似せて、舁き出したと言ふ事もなり立つかも知れぬ。だが、此小話では、そんな点迄かたづけて居る事は出来ぬ。
二 夏祓へから生れた祭り
広田の氏子が、祇園の神人《ジンニン》であるといふ事は、一体、どうした事であらう。だが、此は不思議でも何でもない。かうした例なら、幾らでも挙つて来る。
日吉の神輿は、京方へおりると、きまつて加茂河原の細工(皮)の家|群《ムラ》に立ちよられた。さうして権現が人間の世に、世話を申した「小次郎」の子孫のもてなしを受けられるのだと説明してゐる。此は、固より仮りの説明であつた。山王の神人として、遠く離れ住んだ奴隷村なのであつた。其が、何時からか、卑人の渡世として我人共に認めた馬具細工をする様になつてゐたのである。謂はゞ此は、神輿洗ひであり、麓川の贄《ニヘ》を献る事を職として居たものであつたらしいのである。今宮の村は、元、祇園の神輿を浪花の海まで舁き下つて、神の禊《ミソ》ぎの助けをし、海の御調《ミツギ》を搬ぶ様になつて居たらしい証拠がある。今宮の駕輿丁の話は、祇園の神の召使ひであつた俤を示すと共に、広田や西の宮(夷神)と引つかゝりを見せてくれるのである。
元々、禊ぎの神でもないのに、広田・西の宮は古くから、住吉・※[#「さんずい+文」、第3水準1-86-53]売《ミヌメ》の神々とごつちやに考へられて来た。禊ぎの助手である海辺の民が、其方面の神を主神とするのは、不思議のない話である。一体祇園は、古い「夏|祓《ハラ》へ」の形をがらりと変らした神であつた。行疫神自身であつた天王が、夏の季に、新来の邪悪の霊を圧服して、海の彼方へ還つて行かれるものと考へ出したのは、平安の都がやつと落ちついた頃からの事である。其に結びついたのは、在来の夏の禊ぎの行事であつた。川社を設け、八十瀬の祓へを行ひ、夏|神楽《カグラ》を奏する。皆、帰化人将来の祇園信仰が、民間伝承の上に結びついて来てからの事であつた。
其を早めるのには、卜部や陰陽師の手助けが非常にあつた。陰陽師の唱へる祭文と言へば、大祓詞の抜き読みと言つてよい「中臣祓」の外に、殆ど祝詞らしいものゝなくてすむ様になつて行つた。江戸時代の神道者と言へば、唯、禊ぎ祓へばかりを掌つてゐた様に見える。神道を陰陽道によつて神学化し、仏教によつて哲学化した卜部流の力を示してゐるまでゞある。其を嫌うた国学の先輩たちも、仏教臭味を嗅ぎ分けた程には、長く久しい道教のわりこみを、切りほぐす事は出来なかつた。
祭りは、禊ぎに伴ふ夏神楽から出て居る。神楽は鎮魂のために行ふものであつた。禊ぎの後の潔まつた身の内に、外来の威霊を堅く結び止めようとする儀式である。冬の凍る夜に限つた楽舞《アソビ》が、夏にも行はれるやうになつたのである。
三 まつり[#「まつり」に傍線]の語原
今までのところでは、まつり[#「まつり」に傍線]の語原が、あまり説き散されて、よしあしの見さかひもつきかねる程になつてゐる。其中では「祭りは、献《マツ》りだ。政は献《マツ》り事《ゴト》だ」と強調して唱へられた、先師三矢重松博士の考へが、まづ、今までの最上位にあるものである。
まつる[#「まつる」に傍線]と言ふ語が正確に訣らないのは、古代人の考へ癖が呑みこめないからだと思ふ。神の代理者、即、御言実行者《ミコトモチ》の信仰が、まづ知られねばならぬ。にゝぎの命[#「にゝぎの命」に傍線]は、神考《カブロギ》・神妣《カブロミ》のみこともち[#「みこともち」に傍線]として、天の下に降られた。歴代の天子も、神考《カブロギ》・神妣《カブロミ》に対しては、にゝぎの命[#「にゝぎの命」に傍線]と同資格のみこともち[#「みこともち」に傍線]であつた。さうして、天子から行事を委任せられた人々は、皆みこともち[#「みこともち」に傍線]と称せられる。宰の字をみこともち[#「みこともち」に傍線]と訓むのは、其為である。
みこと[#「みこと」に傍線]とは神の発した咒詞又は命令である。みこと[#「みこと」に傍線]を唱へて、実効を挙げるのがもつ[#「もつ」に傍線]である。「伝達する」よりは重い。神に近い性格を得てふるまふことになる。み言[#「み言」に傍線]の内容を具体化して来ると言ふ意義が、まつる[#「まつる」に傍線]の古い用語例にあつたらしい。それは、またす[#「またす」に傍線]・まつる[#「まつる」に傍線]の対立を見れば知れる。語根まつ[#「まつ」に傍線]をる[#「る」に傍線]とす[#「す」に傍線]とで変化させてゐる。使・遣と言ふ字が、日本紀の古訓には、またす[#「またす」に傍線]と始終訓まれてゐる。まつりだす[#「まつりだす」に傍線]・まつだす[#「まつだす」に傍線]などゝは、成立を別に考へねばならぬ語であつた。意訳すれば、命を完了せしめると言ふ様にも説けよう。み言を具体化してやる。かう言つた意義が、まつ[#「まつ」に傍線]を中にして、通じてゐる。其実現した状態を言ふ語が、また[#「また」に傍点](全)し[#「し」に傍点]なのである。
第一義に近いと解する事の出来るのは「酒ほかひの歌」である。
[#ここから1字下げ]
この御酒《ミキ》は、吾が御酒《ミキ》ならず。くし[#「くし」に傍点]の神 常世《トコヨ》に坐《イマ》す いはたゝす すくな御神《ミカミ》の、神寿《カムホキ》 寿《ホ》きくるほし、豊ほき 寿《ホ》き廻《モト》ほし、まつり[#「まつり」に傍線]来《コ》し御酒ぞ。あさず飲《ヲ》せ。さゝ(仲哀記)
[#ここで字下げ終わり]
まつる[#「まつる」に傍線]の処は、記・紀共に、一致して伝へてゐる。此まつる[#「まつる」に傍線]は献じに持つて来たとはとれぬ。「来《コ》し」は経過を言ふので、「最近までまつり続けて来た所の」の義であつて、後代なら来た[#「来た」に傍点]と言ふ処だ。即、『神秘な寿ぎの「詞と態《ワザ》と」でほき、踊られてまつり[#「まつり」に傍線]来られ、善美を尽した寿き方で、瓶の周りをほき廻られて、まつり続けて来られた御酒だよ』と言ふ事になる。「まつりこし」のまつる[#「まつる」に傍点]は、「ほきまをす」に当るのでまをす[#「まをす」に傍線]の出ぬ前の形である。「ほき言」を代宣《マツ》るの義に説けばよい。天つ神の代りに、「酒精《クシ》の神少彦名」が、酒の出来るまで、ほき詞をくり返し唱へたと言ふのだ。まつる[#「まつる」に傍線]の語根は、まつ[#「まつ」に傍線]らしいと、前に言うて置いた。咒詞の効果のあがる事の完全な事を示して、また[#「また」に傍点](全)し[#「し」に傍点]と言ふ語のあることをも述べて置いた。まつる[#「まつる」に傍線]者にして、命じる者の側では、またす[#「またす」に傍線](遣・以・使遣)がある。神の代理者即、御言執行《ミコトモチ》として神言を伝達すると共に、当然伴ふ実効を収めて来る意だ。まつろふ[#「まつろふ」に傍線]が服従の義を持つのは、まつる[#「まつる」に傍線]が命令通りに奉仕する、と言ふ古義がある事を見せてゐるのである。其大部分として、「食国《ヲスクニ》の政」が重く見られてゐた為に、献るの義に傾いたのだ。とりも直さず、神の御食《ミヲ》し物を、神自身のした如く、とり収めて覆奏する事から、転じて、人間の物を神物として供へる、と言ふ用語例になつたものに違ひない。まつる[#「まつる」に傍線]の原義は、やはり、神言を代宣するのであつたらしい。
のる[#「のる」に傍線]と言ふのは、代宣者を神と同格に見て言ふ語であつた。我が国の文献時代には、まつる[#「まつる」に傍線]は既に世の中を自由にする・献る・鎮魂する・定期に来臨する神を待つて楽舞を行ふ、と言つた用語例が出来て居り、神意による公事を行ふと言ふ義は、古伝の詞章の上に固定して残つてゐたのらしい。古い祭事には「まつり」をつけて言はないのが多いのも、まつり[#「まつり」に傍線]の範囲が広かつたからである。私は「待つ・献《マ》つ・兆《マチ》」などから出たものと考へてゐた事もあるが、其等は第二義にも達せぬ遅れたものであつた。「……まつる」と文尾に始終つく処へ、まつろふ[#「まつろふ」に傍線]の聯想が加つて、自卑の語法となつて来たのだ。
八百稲千稲にひき据ゑおきて、秋祭爾奉〔牟止〕…参聚群《マヰウゴナハ》りて…たゝへ詞|竟《ヲ》へまつる……(龍田風神祭)
この「秋祭」は、今言ふ「秋祭り」ではなく、秋の献りものとして奉らむと言ふ意であらう。此などになると、覆奏・奏覧などの義から遠のいて、献上すると言ふ事になつてゐる。かうして、祭りが、幣帛其他の献上物を主とするものゝ様に考へられて来て、まつり[#「まつり」に傍線]・まつりごと[#「まつりごと」に傍線]に区別を考へ、公事の神の照覧に供へる行事を政といひ、献上物をして神慮を和《ナゴ》め、犒《ネギラ》ふ行事としてまつり[#「まつり」に傍線]を考へわけたのではなかつたらうか。
四 夏祭り
平安朝に著しくなつたのは、神は楽舞を喜ぶものと考へる信仰である。参詣した時に奏する当座の神遊びもあるが、大社には貴人との約束で、定祭以外に、年中行事となつた奏楽日もある。臨時祭と言ふのが、其である。賀茂の臨時祭は十一月であるが、本祭りは四月中の酉の日に行ふ。山城京の地主神として、大和朝廷の三輪の神における様な、畏敬を持たれた賀茂社である。其祭りが、京近辺の大社の祭りを奪うて、「祭り」で通つたのも、当り前である。
其が、王朝文学の跡を尾《シタ》うて来た連歌師・俳諧師等の慣用語にまで、這入つて行つた。季題の「祭り」を夏と部類する事は、後世地方の習慣から見れば、気分的に承けにくい。「祭り」と言へば、全的に「秋」を感じる田舎の行事は、此処には力がない。而も、此前後には、大祭が続いてあつた。三月中旬後は、石清水臨時祭に接して、鎮花祭が行はれ、人々は狂奔舞蹈する。其から暫くして、御霊会に祇園会が行はれる。都人の頭には、夏の祭りが沁み入る訣である。だが、夏の祭りは皆、厄除け・邪霊送りの意義のあることは、通じて見える事実である。石清水臨時祭の如きも、将門・純友追討の神力を、後世までも続けて貰はうとするのである。賀茂祭りは斎院の御禊《ゴケイ》が中心となつて居る。大ぬさ[#「大ぬさ」に傍線]の流されるのも、同じ時である。御手洗川・糺河原などが、民間の禊ぎの定用地となつたのも、此為である。
鎮花祭は、季節の替り目に行疫神を逐ふものと謂はれてゐるが、其は平安中期からの合理説で、稲の花の為の予祝であつた。桜その他の木の花を以て、稲の花の象徴と見て、其散る事を遅らさうとする農村行事であつた。其から、稲虫のつかぬ様に願ひ、其に関聯し易い悪霊を退散させようとしたのだ。
「やすらひ花や」をくり返す歌も、田歌から出たに違ひないらしい。「やすらへ」と言ふのが正格らしいから「ゆつくりしろ」と言ふ意味になる。「花よ。せはしなく散るな、…稲の花もさうして、実を結ばないでは困る」との積りである。それが、行疫神の来るのをはぐらかす、神送りの踊りの様に考へられて、御霊の社や祇園社の信仰と混淆して、田楽の一派として、怨霊退散を第一義とした念仏踊りを形づくつて行つた。して見れば、鎮花祭も祇園会の古い形である。禊ぎを要件とせぬ、夏の入り口の祓へ行事であつたのだ。
だから、夏祭りは、可なり後世に、祭りの体裁を備へて来たので、祓へ又は禊ぎと其に伴うた神楽から、音楽本位の祭礼の時代に、祭りとして認められる事になつたのであつた。賀茂祭りは、季題を規定するだけの古典的勢力を持つて居ても、祇園会が盛んになるまでは、夏の祭りと言ふ部類を立てる事が出来ず、唯、毎年神の生れ給ふ日として、斎宮の助けによつて産湯を浴びる、と言ふだけのものであつた。一社の特殊神事で、全国に亙る通例祭事ではなかつた。
夏祭りは、六月大祓へと同じ意義のものであつた。其が、春夏の交叉期を畏れる風習に惹かれて、時期が早まつて行つた。都会地方では、祇園囃子の面白い八阪の祭りに次第にかぶれて、秋祭りには疎に、夏の方には力をこめる様になつた。
五 秋祭りと新嘗祭りと
秋の祭りは、田舎の賑ふ時である。だが大体に、刈り上げを待つて行ふ処は数へる位であらう。早稲があがれば、もう祭りは出来るのである。東京などの秋祭りは、夏のが早いだけに、まだ残暑のいらつく間に行うてゐる。大阪などでも、秋の祭りは、閑古鳥が鳴くと謂はれてゐる様に、宮の内外も寂しい。家に居ても、鰺炙く匂ひもせねば、巾著に入れてくれる銭も軽い様である。如何にも骨休みと言つた顔をした家族・雇人が、晴れ著に著換へるはりあひもない様に、ぢつと表の人通りを多いの少いのと噂しあうてゐる。
早稲の作りはじめられた理由の一つには、恐らく此考へはあつたらう。田の豊凶を早く物に顕して見たい。さうして又、海の彼方か、山の奥か、但しは天の原から来る村の守り主のお目にかけねばならなかつた。初春に来てくれ、田植ゑ時にも遥々やつて来て下さつた村の守り主は、稲の出来ばえを見たがつてゐるはずである。此早稲の飯も、やはり贄《ニヘ》である。
贄をたべに神なるまれびと[#「まれびと」に傍線]の来てゐる間は、特定の人の外は、家に居る事が許されなかつた。家族は、皆外に避けて、海河で禊ぎをしてゐる処もあり、ある建て物に集り、籠つたり、簡単にすむ処では、表へ出てゐるだけの作法など、村それ/″\の為来りが、細部では必違うて居た事であらう。奈良朝の東国では、既に伝説化し、劇的な民謡の材料とまで固定してゐたが、やはり、ある部分では行うてゐたらしい伝承がある。早稲の贄を饗応する為の斎《イ》みだから、「贄へ斎み」の義で、にひなめ[#「にひなめ」に傍線]・にふなみ[#「にふなみ」に傍線]・にへなみ[#「にへなみ」に傍線]・にはなひ[#「にはなひ」に傍線]など言うたのである。
其夜は神が一宿して行く。其日家に残つて、幾日来「をとめの生活」に虔んでゐる家の女――主婦である事も、処女である事もあつたであらう――の給仕を受け、添寝をして行つたものと思はれる。此が、一夜夫婦《ヒトヨヅマ》といふ語の正確な用例である。又地方によつては、家の長上なる男があるじ役[#「あるじ役」に傍線]を勤める処も多かつたらしい。又、まれびと[#「まれびと」に傍線]も、大勢の伴神を連れて来る事もあつた。其等の神たちが、座を組んで、酒の廻るに従うて、順番に芸能を演ずる事もあつた。
此日神を請ずる家が「新室《ニヒムロ》」と称へられた。昔から実際新しい建て物を作るのだと考へられて来てゐる。だが、来臨したまれびと[#「まれびと」に傍線]の宣《ノ》り出す咒詞の威力は、旧室《フルムロ》を一挙に若室《ワカムロ》・新殿《ニヒドノ》に変じて了ふのであつた。尠くとも、さう信じてゐた。
大和宮廷などでは、早くから其まれびと[#「まれびと」に傍線]が、神に仮装した村の男神人だと言ふ事を知つてゐた。家々のにひなめ[#「にひなめ」に傍線]には、自分の家より格の上な人をまれびと[#「まれびと」に傍線]として光来を仰ぎ、咒詞を唱へて貰ふ事があつた。さうした時代にも、まれびと[#「まれびと」に傍線]は家あるじに対して、舞ひをした処女或は、接待役に出た家刀自を、一夜づま[#「一夜づま」に傍線]に所望する事も出来たのである。平安朝以後頻りに行はれた上流公家の大饗《ダイキヤウ》も、やはり一階上の先輩を主賓として催された。まれびと[#「まれびと」に傍線]の替りに、寺院の食堂の習慣を移して、尊者《ソンジヤ》と称へてゐた。
六 海の神・山の神
まれびと[#「まれびと」に傍線]が贄のあるじを享けに来るのは、多くは一家の私の祭りであつた様だが、此が村中の祭事として、村人の出こぞつた前で行はれる事もあつたらしい。いづれにしても、此等のまれびと[#「まれびと」に傍線]が神として考へられ、社に祀られる様になると、家祭りが村中に拡がつて来る。さうした社の中には、却つて、さうした稀に臨む神を祀る事を忘れて、土地に常在する邪悪の精霊を斎はうて、まれびと[#「まれびと」に傍線]と混淆したものも多い。其でも、田の精霊・苑《ハタ》の精霊を作物の神と考へた痕は、僅かしかない。田苑に水をくれる海の神を、田苑の守り主と見てゐた伝承が多い。海の神が、元、海の彼方の常世《トコヨ》の国の神であつた事は、既に、他に述べた事がある。
水を司る方面ばかりから見た海の神は分化して、曠野・山間に村を構へると、川・井・淵などに住む動物の様に思はれて来る。全体としての常世の国のまれびと[#「まれびと」に傍線]は、天から来る神となり、或は忘られて了ふ。中には、山の神と一つになつて了うても居る。山の神は、土地の精霊の代表であつた。まれびと[#「まれびと」に傍線]の咒詞によつて、圧服を強ひられるのは、常に山の神であつた。常世神の代理者として、又地霊の代表者として、表現の入りまじつた咒詞を奏して、同輩の地霊を服せしめようとする様にもなつた。常世から神の来る事の考へられなくなつた時代・地方には、山の神が、まれびと[#「まれびと」に傍線]に似た職掌を持つ様にもなつて行つた。
勿論、此も山の神に扮した村の神人である。宮廷の新室|寿《ホ》きなる大殿祭《オホトノホカヒ》・鎮魂祭・新嘗祭などに来る異装人、又は、京都辺の大社、平野・松尾などの祭りに参加する山人なども、一つ者であつて、山の神人だ。平安時代の者は、官人或は刀禰たちの仮装に過ぎないで、山人自身意義も知らなかつたであらう。が「穴師《アナシ》の山の山人」と神楽歌にも見えた大和宮廷時代から伝承したらしい山人は、大和国の国魂であり、長尾[#(ノ)]市[#(ノ)]宿禰が、祭主即、上座神人に任ぜられたのであつた。此は伊勢の大神が常世の神の性格を備へて居るのに対して、山の神である穴師の神に事へた山の神人即、山人の最初の記録である。
水の神でもあつた常世神の性格を移しとつた、山の神は――大和宮廷の伝承をある点まで拡げて行つてよいとしたら――水の神にもなつた。だから、田の神とも自然考へられる様になる。田植ゑに来るまれびと[#「まれびと」に傍線]は、稍久しく村に止つて、村人の植ゑ残した田を夜は植ゑたりもした。五月の夜の籠り居は、神に逢ふ虞れがあつたからである。
神々は、村の田の植わりきつて、村全体としてのさなぶり[#「さなぶり」に傍線]の饗応《アルジ》を供へられた夜に帰るものと考へられたらしく、稍日長く逗留する事が、秋の刈り上げまで居るものゝ様に思はれて行つたらしい。山の神・田の神はおなじもので、時候によつて、居場処が替るだけだと信じられた地方が多かつた。水神――農村の富みを守つた――海竜は、河童とまでなり下つて了うた。
でも、此をひようすべ[#「ひようすべ」に傍線]と言ふ地方が多く、春山から下り、冬山に入るものとせられてゐるのは、山の神と海の神との職掌混淆の筋合ひを辿つて見れば、難問題でもない。ひようすべ[#「ひようすべ」に傍線]と言ふ名も、穴師|兵主《ヒヤウズ》神に関係するらしく、播州に因達《イタテ》兵主神のあるのは、風土記にある、穴師神人の移動布教によるものらしい。
秋祭りは、農村の大事であるけれど、最古くからあつたものかは疑はしく、山地に這入つてからの発生で、新嘗は冬に這入つてから行はれたものであるらしい。日本の文献で見れば、春祭りが一等古く、夏祭りが最新しい。秋祭りは、古げに見えて、田植ゑ時の神遊びよりも遅れて起つてゐる、と言はれさうである。
七 神嘗祭り
九月上旬までに集まつた諸国の荷前《ノザキ》の初穂は、中旬に、まづ伊勢両宮に進められる。其後、十一月になつてから、近親の陵墓にも初穂が進められ、此と前後して新嘗祭りがとり行はれる。第一は、神嘗祭りであり、第二は荷前《ノザキ》[#(ノ)]使である。
米の初穂を献るのは、長上に服従を誓ふ形式で、我が家・我が身の威霊が、米と共に、相手に移るのを予期してするのであつた。だから、神嘗祭りは、神宮と天子との間を親しくする為であつた。両宮の主神と、人にして神なる斎宮とが、共食せられるのだから、神新嘗の義を以て、神嘗と言うた。陵墓への荷前使も、生きてゐられる尊親に朝覲行幸の礼を致されるのとおなじ意味の誓ひであつた。
かうした神嘗祭りの為の荷前を貢ぐ地方々々では、村・国の神に対しても、中央と等しく初穂を進める風を起し、或は盛んにせずには置かなかつたであらう。だから神の為の新嘗であつたものが、二つに分れて、神ばかりのする新嘗、一族の長で神主たる主人の新穀を喰ひはじめの、神も臨席する新嘗と二通りが出来て、片方又両方共に行ふ風が出来たらしい。
だから、上代の地方の早稲祭りは、わりあひ不自然に発生してゐると言へるやうだ。併し、其風が段々盛んになつて、前者は正式な神社を基礎とした信仰、冬の新嘗なる後者は一家の旧習、と言ふ風に見做されたらしい。神社が神道の中心となるに連れて、秋祭りは、農村の大行事となつて行つた。
九月は斎月《イミヅキ》として、一月・五月同様虔しまねばならぬ月であつた。道教の影響もあらうが、古くから可なり深く信じられてゐた。此月を祭り月とするのは、旁、意義のあることであつた。
神社以前・以後で、祭りの様子も変つてゐる。後の方のは、祭りの日どりが大体きまつて来て、特殊な由緒を日どりに繋げて説く様になつて来る。極めて古くからのものであつても、段々祭り日を定める必要が起つて来た。さう言ふ時代に、新しく起つた神社がしたのとおなじ方法をとる事になつた。月を定めて、日は十干によるのが、其である。古代からの自由な祭祀も、稍古い神社祭事も、大抵此方法を採用してゐる。
だが、干支を用ゐ出したのも、先住・帰化の漢人などから習慣としてとりこんだ事を思ふと、極めて古いに違ひない。が、今一つ前の形は、占ひによつて定めるか、天体の運行をめど[#「めど」に傍線]として行うたらしい。さうした俤は、後に日どりの一定せられた幾つかの祭りから窺ふ事が出来る。道教の先覚者だけが、暦を悟る事が出来、其考へ次第に動いてゐた時代には、春祭りを行うた為に春になつた。また、冬祭りが冬の窮まつた事を規定した。
八 冬祭り・春祭り
此を見ても、村々の秋の祭りは新嘗から出て居り、其が神嘗祭の日に近く、荷前《ノザキ》の初穂の一部を以て行ふ様になつた事が知れる。だが、八幡の様に、大祓への仏教化したに違ひない放生会を、秋の最中の八月十五日に行ふのもあり、七月の相撲節会は稲穂の出ようとする際の、農村の年占・豊凶争ひの宮廷行事に残つてゐたのだが、九月になつて、童相撲其他を行ふ住吉の社の類も尠くない。だが、一方住吉の十三夜の日の相撲会は、新嘗祭りから出て居る事は明らかである。
大阪辺の社でも、昔は九月尽の日には、神送りを行うた。出雲への旅立ちを見送るのだと言ふ。だが、秋冬の交叉期に、精霊を送り出す式が、かう解釈せられたものと見るがよい。或は又、田の神・水の神が今まで居たものと考へて居た為、其を海の方へ送り帰したのかも知れぬ。
即、新嘗を享けに遥々来て、戻る神は、夏秋中留つて居て、冬際になつたから去るものと考へたらしいのである。大阪の町にも、かうした農村行事が固定して残つて居たのだ。
何にしても、早稲の新嘗と村の守り神との関係が、色々に変化しながら、秋祭りを複雑化したのであつた。
冬祭りは、刈り上げ祭りと、鎮魂祭とが本体であつた。此内、刈り上げ祭りは、十一月中旬の新嘗祭りが代表的なもので、処によつては、今尚、此日を重く見る処もあり、由来不明な為来りで祝ふ家々もある。此日が、真の秋の祭りを行ふ日であつたのだ。暦は冬になつても、農村では、刈り上げまでは秋であつた。冬と言はれる期間は極めて短いものであつた。おしつまつた日数に行ふ祭りの数時間を、さして言ふ語であつたのではあるまいか。
秋祭りなる新室ほかひ[#「ほかひ」に傍線]がすむと、直に翌日から春になつた。其過渡の時間が、昔の冬祭りであつた。刈り上げのあるじ[#「あるじ」に傍線]を享けに来たまれびと[#「まれびと」に傍線]が、家あるじの生命・健康・家屋の祓へをして、其上に力強い威霊を身中に密著させる。其行事が二つに岐れて、秋の新嘗祭りと冬の鎮魂祭とを二つにする様になつたらしい。
宮廷の行事では十一・十二両月に、二つまでも鎮魂の儀式を行うてゐる。即、鎮魂祭と清暑堂の神楽とである。此日を以て冬の極点としたらしい。神楽は奈良朝頃の附加である。鎮魂祭がふゆ[#「ふゆ」に傍線]と言ふ語と関係あるらしく、家屋と家長らの祓への後に、よい咒詞を以て祝福する。其が、大直日の歌の新年の寿詞になる理由である。此まれびと[#「まれびと」に傍線]の咒詞が冬を転じて、新しい春にする。此を近世では、年神・年徳神など称へてゐる。だが、其は一分化だ。春になると、一年の村の行事の祝福と示威の予行とをして、精霊たちの見せしめにした。田苑の豊かな様や、精霊の屈する様などを咒しつゝ、実演もしたのである。此が漢人の上元儀式と一つになつて、十四日・十五日或は節分・立春の行事などに変つた地方が多い。此動作が又、くり返されて田植ゑの際に行はれる。田遊びが此であつて、其|咒師《ノロンジ》の芸能と結びついたのが田楽となつた。
春祭りに来るまれびと[#「まれびと」に傍線]は神と考へられもするが、目に見えぬ霊の様にも考へられてゐる。祖先の霊と考へるのもあり、唯の老人夫婦だとおもうてゐるのもある。又多く鬼・天狗と考へ、怪物とも考へてゐる。春祭りの行事に鬼の出る事の多いのは、此為であるが、後世流に解釈して、追儺の鬼同様に逐ふ作法を加へるやうになつたが、実は鬼自身が守り主なのである。田楽に鬼・天狗の交渉のあるのも、此為である。
かうして見ると、春祭りが一等醇化せられてゐない。古い時代の姿に残つたものと言へる。だが、もう、春祭りは忘れて了うた地方が多い。
底本:「日本の名随筆44 祭」作品社
1986(昭和61)年6月25日第1刷発行
1999(平成11)年2月25日第11刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第二巻」中央公論社
1965(昭和40)年12月発行(新訂版)
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
※〔〕で囲った部分は、一行に小さい字で二行に渡って書かれています。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
※「かうした神嘗祭りの為の荷前を」の行は、底本では冒頭一字下げになっていましたが、底本の親本を参照して天付きに改めました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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