青空文庫アーカイブ

水の女
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)拗曲《ようきょく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)呪詞|諷唱《ふうしょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+文」、第3水準1-86-53]売《ミヌメ》

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)丹比《タヂヒ》[#(ノ)]壬生部

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)みつ/\し
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一 古代詞章の上の用語例の問題

 口頭伝承の古代詞章の上の、語句や、表現の癖が、特殊な――ある詞章限りの――ものほど、早く固定するはずである。だから、文字記録以前にすでにすでに、時代時代の言語情調や、合理観がはいってくることを考えないで、古代の文章および、それから事実を導こうなどとする人の多いのは、――そうした人ばかりなのは――根本から、まちごうた態度である。
 神聖観に護られて、固定のままあるいは拗曲《ようきょく》したままに、伝った語句もある。だがたいていは、呪詞|諷唱《ふうしょう》者・叙事詩|伝誦《でんしょう》者らの常識が、そうした語句の周囲や文法を変化させて辻褄《つじつま》を合せている。口頭詞章を改作したり、模倣したような文章・歌謡は、ことに時代と個性との理会《りかい》程度に、古代の表現法を妥協させてくる。記・紀・祝詞《のりと》などの記録せられる以前に、容易に原形に戻すことのできぬまでの変化があった。古詞および、古詞応用の新詞章の上に、十分こうしたことが行われた後に、やっと、記録に適当な――あるものは、まだ許されぬ――旧信仰退転の時が来た。奈良朝の記録は、そうした原形・原義と、ある距離を持った表現なることを、忘れてはならぬ。たとえば天の御蔭[#「天の御蔭」に傍線]・日の御蔭[#「日の御蔭」に傍線]・すめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]・すめみま[#「すめみま」に傍線]などいう語《ことば》も、奈良朝あるいは、この近代の理会によって用いられている。なかには、一語句でいて、用語例の四つ五つ以上も持っているのがある。
 言語の自然な定義変化のほかに、死語・古語の合理解を元とした擬古文の上の用語例、こういう二方面から考えてみねば、古い詞章や、事実の真の姿は、わかるはずはない。

     二 みぬま[#「みぬま」に傍線]という語

 これから言う話なども、この議論を前提としてかかるのが便利でもあり、その有力な一つの証拠にも役立つわけなのである。
 出雲|国造《くにのみやつこの》神賀詞《カムヨゴト》に見えた、「をち方のふる川岸、こち方のふる川ぎしに生立[#「生立」に傍線](おひたてるヵ)若水沼間《ワカミヌマ》の、いやわかえに、み若えまし、すゝぎふるをとみ[#「をとみ」に傍線]の水のいや復元《ヲチ》に、み変若《ヲチ》まし、……」とある中の「若水沼間」は、全体何のことだか、国学者の古代研究始まって以来の難義の一つとなっている。「生立」とあるところから、生物と見られがちであった。ことに植物らしいという予断が、結論を曇らしてきたようである。宣長以上の組織力を示したただ一人の国学者鈴木重胤は、結局「くるす」の誤りという仮定を断案のように提出している。だが、何よりも先に、神賀詞の内容や、発想の上に含まれている、幾時代の変改を経てきた、多様な姿を見ることを忘れていた。
 早くとも、平安に入って数十年後に、書き物の形をとり、正確には、百数十年たってはじめて公式に記録せられたはずの寿詞《ヨゴト》であったことが、注意せられていなかった。口頭伝承の久しい時間を勘定にいれないでかかっているのは、他の宮廷伝承の祝詞の古い物に対したとおなじ態度である。
「ふる川の向う岸・こちら岸に、大きくなって立っているみぬま[#「みぬま」に傍線]の若いの」と言うてくると、灌木や禾本《かほん》類、ないしは水藻などの聯想が起らずにはいない。ときどきは「生立」に疑いを向けて、「水沼間」の字面の語感にたよって、水たまり・淵などと感じるくらいにとどまったのは、無理もないことである。実は、詞章自身が、口伝えの長い間に、そういう類型式な理会を加えてきていたのである。
 一番これに近い例としては、神功紀・住吉《すみのえ》神出現の段「日向《ひむか》の国の橘《たちばな》の小門《おど》のみな底に居て、水葉稚之出居《ミツハモワカ(?)ニイデヰル》神。名は表筒男《うわつつのお》・中筒男・底筒男の神あり」というのがある。これも表現の上から見れば、水中の草葉・瑞々《みずみず》しい葉などを修飾句に据えたものと考えていたのらしい。変った考えでは、みつは[#「みつは」に傍線]は水走で、禊《みそ》ぎの水の迸《ほとばし》る様だとするのもある。
 みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]、おなじ語に相違ない。それに若さの形容がつき纏《まと》うている。だが神賀詞に比べると「出居[#「居」に白丸傍点]」という語が「水葉」の用法を自由にしている。動物・人間ともとれる言い方である。ただそうすれば、みつは[#「みつは」に傍線]云々の句に、呪詞なり叙事詩なりの知識が、予約せられていると見ねばならぬ。それにしても、この表記法では、すでに固定して、記録時代の理会が加っているものと言えよう。
 この二つの詞章の間に通じている、一つの事実だけは、やっと知れる。それはこの語が禊ぎに関聯したものなることである。みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]と言い、その若いように、若くなるといった考え方を持っていたらしいとも言える。古代の禊ぎの方式には、重大な条件であったことで、夙《はや》く行われなくなった部分があったのだ。詞章は変改を重ねながら、固定を合理化してゆく。みつは[#「みつは」に傍線]・みぬま[#「みぬま」に傍線]と若やぐ霊力とを、いろいろな形にくみ合せて解釈してくる。それが、詞章の形を歪《ゆが》ませてしまう。
 宮廷の大祓《おおはらえ》式は、あまりにも水との縁が離れ過ぎていた。祝詞の効果を拡張し過ぎて、空文を唱えた傾きが多い。一方また、神祇官の卜部《うらべ》を媒《なかだち》にして、陰陽《おんみょう》道は、知らず悟らぬうちに、古式を飜案して行っていた。出雲国造の奏寿のために上京する際の禊ぎは、出雲風土記の記述によると、わりに古い型を守っていたものと見てよい。そうしてすくなくとも、これにはあって、宮廷の行事および呪詞にない一つは、みぬま[#「みぬま」に傍線]に絡んだ部分である。大祓詞および節折《ヨヲ》りの呪詞の秘密な部分として、発表せられないでいたのかも知れない。だが、大祓詞は放つ方ばかりを扱うたことを示している。禊ぎに関して発生した神々を説く段があって、その後新しい生活を祝福する詞を述べたに違いない。そして大直日《おおなおび》の祭りとその祝詞とが神楽《かぐら》化し、祭文化し、祭文化する以前には、みぬま[#「みぬま」に傍線]という名も出てきたかも知れない。

     三 出雲びとのみぬは[#「みぬは」に傍線]

 神賀詞を唱えた国造の国の出雲では、みぬま[#「みぬま」に傍線]の神名であることを知ってもいた。みぬは[#「みぬは」に傍線]としてである。風土記には、二社を登録している。二つながら、現に国造のいる杵築《きづき》にあったのである。でも、みぬま[#「みぬま」に傍線]となると、わからなくなった呪詞・叙事詩の上の名辞としか感ぜられなかったのであろう。
 水沼の字は、おなじ風土記|仁多郡《にたのこおり》の一章に二とこまで出ている。
[#ここから2字下げ]
三津郷……大穴持命《おおなもちのみこと》の御子|阿遅須枳高日子《アヂスキタカヒコ》命……大神|夢《ユメ》に願《ネ》ぎ給はく「御子の哭《な》く由を告《ノ》れ」と夢に願ぎましゝかば、夢に、御子の辞《コト》通《カヨ》ふと見ましき。かれ寤《さ》めて問ひ給ひしかば、爾時《ソノトキ》に「御津《ミアサキ》」と申《まお》しき。その時|何処《いずく》を然《しか》言ふと問ひ給ひしかば、即、御祖《ミオヤ》の前を立去於坐《タチサリニイデマ》して、石川渡り、阪の上に至り留り、此処《ここ》と申しき。その時、其津の水沼於而《ミヌマイデ(?)テ》、御身|沐浴《ソヽ》ぎ坐《マ》しき。故《かれ》、国造の神吉事《カムヨゴト》奏《まお》して朝廷《みかど》に参向《まいむか》ふ時、其水沼|出而《イデヽ》用ゐ初むるなり。
[#ここで字下げ終わり]
 出雲風土記考証の著者後藤さんは、やはり汲出説である。この条は、この本のあちこちに散らばったあぢすき神[#「あぢすき神」に傍線]の事蹟と、一続きの呪詞的叙事詩であったようだ。おそらく、国造代替りまたは、毎年の禊ぎを行う時に唱えたものであろうと思う。禊ぎの習慣の由来として、みぬま[#「みぬま」に傍線]の出現を言う条《くだり》があり、実際にも、みぬま[#「みぬま」に傍線]がはたらいたものと見られる。だが、その詞は、神賀詞とは別の物で、あぢすき神[#「あぢすき神」に傍線]と禊ぎとの関係を説く呪詞だったのである。その詞章が、断篇式に神賀詞にもはいっていって、みぬま[#「みぬま」に傍線]および関係深い白鳥の生き御調《みつき》がわり込んできたものであるらしい。
 水沼間・水沼・弥努波(または、婆)と三様に、出雲文献に出ているから、「水汲」と訂《ただ》すのは考えものである。後世の考えから直されねばならぬほど、風土記の「水沼」は、不思議な感じを持っているのだ。人間に似たもののように伝えられていたのだ。この風土記の上《たてまつ》られた天平五年には、その信仰伝承が衰微していたのであろう。だから儀式の現状を説く古《いにしえ》の口述が、あるいは禊ぎのための水たまり[#「水たまり」に傍点]を聯想するまでになっていたのかも知れぬ。もちろんみぬま[#「みぬま」に傍線]なる者の現れる事実などは、伝説化してしもうていたであろう。三津郷の名の由来でも、「三津」にみつま[#「みつま」に傍線]の「みつ」を含み、あるいは三沢(後藤さん説)にみぬ[#「みぬ」に傍線](沢をぬ[#「ぬ」に傍線]・ぬま[#「ぬま」に傍線]と訓じたと見て)の義があったものと見る方がよいかも知れない。でないと、あぢすき神[#「あぢすき神」に傍線]を学んでする国造の禊ぎに、みぬま[#「みぬま」に傍線]の出現する本縁の説かれていないことになる。「つ」と「ぬ」との地名関係も「つ」から「さは」に変化するのよりは自然である。

     四 筑紫の水沼氏

 筑後|三瀦《みぬま》郡は、古い水沼氏の根拠地であった。この名を称えた氏は、幾流もあったようである。宗像《むなかた》三女神を祀った家は、その君姓の者と伝えているが、後々は混乱しているであろう。宗像神に事《つか》えるがゆえに、水沼氏を称したのもあるようである。この三女神は、分布の広い神であるが、性格の類似から異神の習合せられたのも多いのである。宇佐から宗像、それから三瀦というふうに、この神の信仰はひろがったと見るのが、今のところ、正しいであろう。だが、三瀦の地で始めて、この家名ができたと見ることはできない。
 それよりも早く神の名のみぬま[#「みぬま」に傍線]があったのである。宗像三女神が名高くなったのは鐘が岬を中心にした航路(私は海の中道《なかみち》に対して、海北の道中が、これだと考えている)にいて、敬拝する者を護ったからのことと思う。水沼神主の信仰が似た形を持ったがために、宗像神に習合しなかったとは言えぬ。そういうことの考えられるほど、みぬま神[#「みぬま神」に傍線]は、古くから広く行きわたっていたのである。三瀦の地名は、みぬま[#「みぬま」に傍線]・みむま[#「みむま」に傍線](倭名鈔)・みつま[#「みつま」に傍線]など、時代によって、発音が変っている。だが全体としては、古代の記録無力の時代には、もっと音位が自由に動いていたのである。
 結論の導きになることを先に述べると、みぬま[#「みぬま」に傍線]・みぬは[#「みぬは」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]・みつめ[#「みつめ」に傍線]・みぬめ[#「みぬめ」に傍線]・みるめ[#「みるめ」に傍線]・ひぬま[#「ひぬま」に傍線]・ひぬめ[#「ひぬめ」に傍線]などと変化して、同じ内容が考えられていたようである。地名になったのは、さらに略したみぬ[#「みぬ」に傍線]・みつ[#「みつ」に傍線]・ひぬ[#「ひぬ」に傍線]などがあり、またつ[#「つ」に傍線]・ぬ[#「ぬ」に傍線]を領格の助辞と見てのきり棄てたみま[#「みま」に傍線]・みめ[#「みめ」に傍線]・ひめ[#「ひめ」に傍線]などの郡郷の称号ができている。

     五 丹生と壬生部

 数多かった壬生部《にうべ》の氏々・村々も、だんだん村の旧事を忘れていって、御封《ミブ》という字音に結びついてしもうた。だが早くから、職業は変化して、湯坐《ユヱ》・湯母・乳母《チオモ》・飯嚼《イヒガミ》のほかのものと考えられていた。でも、乳部と宛てたのを見ても、乳母関係の名なることは察しられる。また入部と書いてみぶ[#「みぶ」に傍線]と訓《よ》ましているのを見れば、丹生[#「丹生」に傍線](にふ)の女神との交渉が窺《うかがわ》れる。あるいは「水に入る」特殊の為事《しごと》と、み[#「み」に傍線]・に[#「に」に傍線]の音韻知識から、宛てたものともとれる。
 後にも言うが、丹生神とみぬま神[#「みぬま神」に傍線]との類似は、著しいことなのである。それに大和宮廷の伝承では、丹生神を、後入のみぬま神[#「みぬま神」に傍線]と習合して、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]としたらしいのを見ると、ますます湯坐・湯母の水に関した為事を持ったことも考えられる。
 事実、壬生と産湯との関係は、反正天皇と丹比《タヂヒ》[#(ノ)]壬生部との旧事によってわかる。出産時の奉仕者の分業から出た名目は、おそらくにふ[#「にふ」に傍線]・みふ[#「みふ」に傍線]の用語例を、分割したものであったろう。万葉《まんにょう》には、赭土《ハニ》すなわち、丹《ニ》をとる広場すなわち、原《フ》と解している歌もあるから、丹生の字面もそうした合理見から出ていると見られる。にふべ[#「にふべ」に傍線]からみふべ[#「みふべ」に傍線]・みぶ[#「みぶ」に傍線]と音の転じたことも考えてよい。
 産湯から育《はぐく》みのことに与《あずか》る壬生部は、貴種の子の出現の始めに禊ぎの水を灌《そそ》ぐ役を奉仕していたらしい。これが、御名代部《みなしろべ》の一成因であった。壬生部の中心が、氏の長《おさ》の近親の女であったことも確かである。こうして出現した貴種の若子《わくご》は、後にその女と婚することになったのが、古い形らしい。水辺または水神に関係ある家々の旧事に、玉依媛《たまよりひめ》の名を伝えるのは、皆この類である。祖《オヤ》(母)神に対して、乳母神《オモカミ》をば[#「をば」に傍線](小母)と言ったところから、母方の叔母すなわち、父から見た妻《メ》の弟《ト》という語ができた。これがまた、神を育む姥(をば・うば)神の信仰の元にもなる。
 大嘗の中臣天神寿詞《なかとみのあまつかみのよごと》は、飲食の料としてばかり、天つ水の由来を説いているが、日のみ子[#「日のみ子」に傍線]甦生《そせい》の呪詞の中に、産湯を灌ぐ儀式を述べる段があったのであろう。「夕日より朝日照るまで天つ祝詞《ノリト》の太のりと詞《ゴト》をもて宣《ノ》れ。かくのらば、……」――朝日の照るまで天つ祝詞の……と続くのでない。祝詞の発想の癖から言うと、ここで中止して、秘密の天つのりと[#「天つのりと」に傍線]に移るのである。この天つ祝詞にそうした産湯のことが含まれていたらしいことは、反正天皇の産湯の旧事に、丹比《タヂヒ》[#(ノ)]色鳴《シコメ》[#(ノ)]宿禰が天神寿詞を奏したと伝えている。貴種の出現は、出産も、登極《とうきょく》も一つであった。産湯を語り、飲食を語る天神寿詞が、代々の壬生部の選民から、中臣神主の手に委ねられていって、そうした部分が脱落していったものらしい。
 けれども中臣が奏する寿詞にも、そうしたみふ[#「みふ」に傍線]類似の者の顕れたことは、天子の祓えなる節折《よお》りに、由来不明の中臣女《ナカトミメ》の奉仕したことからも察しられる。中臣天神寿詞と、天子祓えの聖水すなわち産湯とが、古くはさらに緊密に繋《つなが》っていて、それに仕えるにふ神[#「にふ神」に傍線]役をした巫女であったと考えることは、見当違いではないらしい。丹比《タヂヒ》氏の伝えや、それから出たらしい日本紀の反正天皇御産の記事は、一つの有力な種子である。履中天皇紀は、ある旧事を混同して書いているらしい。二股船《ふたまたぶね》を池に浮べた話・宗像三女神の示現などは[#「などは」は底本では「なとは」]、出雲風土記のあぢすきたかひこの神[#「あぢすきたかひこの神」に傍線]・垂仁のほむちわけ[#「ほむちわけ」に傍線]などに通じている。だから、みつはわけ天皇[#「みつはわけ天皇」に傍線]にも、生れて後の物語が、丹比壬生部に伝っていたことが推定できる。

     六 比沼山がひぬま山[#「ひぬま山」に傍線]であること

 みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]は一語であるが、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の、みつは[#「みつは」に傍線]も、一つものと見てよい。「罔象女」という支那風の字面は、この丹比神に一種の妖怪性を見ていたのである。またこの女性の神名は、男性の神名おかみ[#「おかみ」に傍線]に対照して用いられている。「おかみ」は「水」を司る蛇体だから、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]は、女性の蛇または、水中のある動物と考えていたことは確からしい。大和を中心とした神の考え方からは、おかみ[#「おかみ」に傍線]・みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]皆山谷の精霊らしく見える。が、もっと広く海川について考えてよいはずである。
 竜に対するおかみ[#「おかみ」に傍線]、罔象に当るみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の呪水の神と考えられた証拠は、神武紀に「水神を厳《イツ》[#(ノ)]罔象女《ミツハノメ》となす」とあるのでもわかる。だが大体に記・紀に見えるみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]は、禊ぎに関係なく、女神の尿または涙に成ったとしている。逆に男神の排泄に化生したものとする説もあったかも知れぬと思われるのは、穢《けが》れから出ていることである。
 阿波の国美馬郡の「美都波迺売《みつはのめ》神社」は、注意すべき神である。大和のみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]と、みつは[#「みつは」に傍線]・みぬま[#「みぬま」に傍線]の一つものなることを示している。美馬の郡名は、みぬま[#「みぬま」に傍線]あるいはみつま[#「みつま」に傍線]・みるめ[#「みるめ」に傍線]と音価の動揺していたらしい地名である。地名も神の名から出たに違いない。「のめ」という接尾語が気になるが、とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]・おほみやのめ[#「おほみやのめ」に傍線]など……のめ[#「……のめ」に傍線]というのは、女性の精霊らしい感じを持った語である。神と言うよりも、一段低く見ているようである。みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の社も、阿波出の卜部などから、宮廷の神名の呼び方に馴れて、のめ[#「のめ」に傍線]を添えたしかつめらしい[#「しかつめらしい」に傍点]称えをとったのであろう。摂津の西境一帯の海岸は、数里にわたって、みぬめの浦[#「みぬめの浦」に傍線](または、みるめ)と称えられていた。ここには※[#「さんずい+文」、第3水準1-86-53]売《ミヌメ》神社があって、みぬめ[#「みぬめ」に傍線]は神の名であった。前に述べた筑後の水沼君の祀った宗像三女神は、天真名井《あまのまない》のうけひ[#「うけひ」に傍線]に現れたのである。だから、禊ぎの神という方面もあったと思う。が、おそらくは、みぬま[#「みぬま」に傍線]・宗像は早く習合せられた別神であったらしい。
 丹後風土記逸文の「比沼山」のこと。ひちの郷[#「ひちの郷」に傍線]に近いから、山の名も比治山《ヒヂヤマ》と定められてしもうている。丹波の道主[#(ノ)]貴《ムチ》が言うのに、ひぬま[#「ひぬま」に傍線](氷沼)の……というふうの修飾を置くからと見ると、ひぬま[#「ひぬま」に傍線]の地名は、古くあったのである。このひぬま[#「ひぬま」に傍線]も、みぬま[#「みぬま」に傍線]の一統なのであった。
 第一章に言うたようなことが、この語についても、遠い後代まで行われたらしい。「烏羽玉《うばたま》のわが黒髪は白川の、みつはくむ[#「みつはくむ」に傍線]まで老いにけるかな」(大和物語)という檜垣《ひがき》[#(ノ)]嫗《おうな》の歌物語も、瑞歯含《ミヅハク》むだけはわかっても、水は[#「は」に白丸傍点]汲むの方が「老いにけるかな」にしっくりせぬ。これはみつはの女神[#「みつはの女神」に傍線]の蘇生の水に関聯した修辞が、平安に持ち越してわからなくなったのを、習慣的に使うたまでだろうと説きたい。この歌などの類型の古いものは、もっとみつは[#「みつは」に傍線]の水を汲む為事が、はっきり詠まれていたであろう。とにかく、老年変若を希《ねが》う歌には「みつは……」と言い、瑞歯に聯想し、水にかけて言う習慣もあったことも考えねばならぬと思う。
 丹比のみづはわけ[#「丹比のみづはわけ」に傍線]という名は、瑞歯の聯想を正面にしているが、初めは、みつは神[#「みつは神」に傍線]の名をとったことはすでに述べた。詞章の語句または、示現の象徴が、無限に譬喩化せられるのが、古代日本の論理であった。みつは[#「みつは」に傍線]が同時に瑞歯の祝言にもなったのである。だがこれは後についてきた意義である。本義はやはり、別に考えなくてはならぬ。
 みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]・みつま[#「みつま」に傍線]・みぬめ[#「みぬめ」に傍線]・みるめ[#「みるめ」に傍線]・ひぬま[#「ひぬま」に傍線]。これだけの語に通ずるところは、水神に関した地名で、これに対して、にふ[#「にふ」に傍線](丹生)と、むなかた[#「むなかた」に傍線]の三女神が、あったらしいことだ。
 丹後の比沼山の真名井に現れた女神は、とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]で、外宮《げくう》の神であった。すなわちその水および酒の神としての場合の、神名である。この神初めひぬまのまなゐ[#「ひぬまのまなゐ」に傍線]の水に浴していた。阿波のみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の社も、那賀《なか》郡のわなさおほそ[#「わなさおほそ」に傍線]の神社の存在を考えに入れてみると、ひぬま[#「ひぬま」に傍線]真名井式の物語があったろう。出雲にもわなさおきな[#「わなさおきな」に傍線]の社があり、あはきへ・わなさひこ[#「あはきへ・わなさひこ」に傍線]という神もあった。阿波のわなさ・おほそ[#「わなさ・おほそ」に傍線]との関係が思われる。丹波の宇奈韋《ウナヰ》神が、外宮の神であることを思えば、酒の水すなわち食料としての水の神は、処女の姿と考えられてもいたのだ。これがみつは[#「みつは」に傍線]の一面である。

     七 禊ぎを助ける神女

 出雲の古文献に出たみぬま[#「みぬま」に傍線]は早く忘れられた神名であった。みつは[#「みつは」に傍線]は、まず水中から出て、用い試みた水を、あぢすきたかひこの命[#「あぢすきたかひこの命」に傍線]に浴《あび》せ申した。その縁で、国造|神賀詞《かむよごと》奏上に上京の際、先例通りそのみつは[#「みつは」に傍線]が出て後、この水を用い始めるという習慣のあったことを物語るのである。風土記のすでに非常に曖昧なところがあるのは、古詞をある点まで、直訳し、また異訳して、理会できぬところはその俤《おもかげ》を出そうとしたからであろう。それが神賀詞となると、口拍子にのり過ぎて、一層わからなくなっているのである。おちこちの二か処の古川というのが、川岸というようになり、植物化して考えられていった。もっとも、神功紀のすら、植物と考えていたらしい書きぶりである。その詞章の表現は、やや宙ぶらりである。何としても「みつは……」は、序歌風に使われてい、みつはの神[#「みつはの神」に傍線]の若いと同様、若やかに生い出《い》ずる神とでも説くべきであろう。
 思うに、みつは[#「みつは」に傍線]の中にも、稚みつは[#「稚みつは」に傍線]と呼ばれるものが、禊ぎの際に現れて、その世話をする。この神の発生を説いて、禊ぎ人の穢れから化生したという古い説明が伝わらなくなったのかも知れぬ。とにかく、この女神が出て、禊ぎの場処を上・下の瀬と選び迷うしぐさ[#「しぐさ」に傍線]をした後、中つ瀬の適《ヨロ》しい処に水浴をする。このふるまい[#「ふるまい」に傍線]を見習うて禊ぎの処を定めたらしい。これが久しく意義不明のまま繰返され、みぬま[#「みぬま」に傍線]としての女が出て、禊ぎの儀式の手引きをした。それがしだいに合理化して、水辺祓除のかいぞえ[#「かいぞえ」に傍線]に中臣女のような為事をするようになり、そのことに関した呪詞の文句がいよいよ無意義になり、他の知識や、行事・習慣から解釈して、発想法を拗《ねじ》れさせてきた。そこに、だいたいはきまって、一部分おぼろな気分表現が、出てきたのだろう。
 大湯坐《オホユヱ》・若湯坐《ワカユヱ》の発生も知れる。みぬま[#「みぬま」に傍線]に、候補者または「控え」の義のわかみぬま[#「わかみぬま」に傍線]があったのであろう。大和宮廷の呪詞・物語には、みつは[#「みつは」に傍線]をただの雨雪の神として、おかみ[#「おかみ」に傍線]に対する女性の精霊と見た傾きがあり、丹生女神とすら、いくぶん、別のものらしく考えた痕《あと》があるのは、後入の習合だからであろう。
 いざなぎ[#「いざなぎ」に傍線]の禊ぎに先だって、よもつひら坂[#「よもつひら坂」に傍線]に現れて「白《もう》す言《こと》」あった菊理《クヽリ》媛(日本紀一書)は、みぬま[#「みぬま」に傍線]類の神ではないか。物語を書きつめ、あるいはもともと原話が、錯倒していたため、すぐ後の檍原《アハギハラ》の禊《ミソ》ぎの条《くだり》に出るのを、平坂の黄泉道守《ヨモツチモリ》の白言と並べたのかも知れぬ。その言うことをよろしとして散去したとあるのは、禊ぎを教えたものと見るべきであろう。くゝり[#「くゝり」に傍線]は水を潜《クヾ》ることである。泳の字を宛てているところから見れば、神名の意義も知れる。くゝり[#「くゝり」に傍線]出た女神ゆえの名であろう。いざなぎの尊[#「いざなぎの尊」に傍線]ばかりの行動として伝えたため、この神は陰の者になったのであろう。例の神功紀の文は、このくゝり[#「くゝり」に傍線]媛からみつは[#「みつは」に傍線]へ続く禊ぎの叙事詩の断篇化した形である。住吉神の名は、底と中と表《ウヘ》とに居て、神の身を新しく活《いか》した力の三つの分化である。「つゝ」という語は、蛇(=雷)を意味する古語である。「を」は男性の義に考えられてきたようであるが、それに並べて考えられた※[#「さんずい+文」、第3水準1-86-53]売《ミヌメ》・宗像・水沼の神は実は神ではなかった。神に近い女、神として生きている神女なる巫女であったのである。海北[#(ノ)]道[#(ノ)]主[#(ノ)]貴《ムチ》は、宗像三女神の総称となっているが、同じ神と考えられてきた丹波の比沼[#(ノ)]神に仕える丹波[#(ノ)]道[#(ノ)]主[#(ノ)]貴は、東山陰地方最高の巫女なる神人の家のかばね[#「かばね」に傍線]であった。

     八 とりあげ[#「とりあげ」に傍線]の神女

 国々の神部《カムベ》の乞食《こつじき》流離の生活が、神を諸方へ持ち搬《はこ》んだ。これをてっとり[#「てっとり」に傍点]ばやく表したらしいのは、出雲のあはきへ・わなさひこ[#「あはきへ・わなさひこ」に傍線]なる社の名である。阿波から来経《キヘ》――移り来て住みつい――たことを言うのだから。前に述べかけた阿波のわなさおほそ[#「わなさおほそ」に傍線]は、出雲に来経たわなさひこ[#「わなさひこ」に傍線]であり、丹波のわなさ翁[#「わなさ翁」に傍線]・媼[#「媼」に傍線]も、同様みぬま[#「みぬま」に傍線]の信仰と、物語とを撒《ま》いて廻った神部の総名であったに違いない。養い神を携えあるいたわなさ[#「わなさ」に傍線]の神部は、みぬま[#「みぬま」に傍線]・わなさ[#「わなさ」に傍線]関係の物語の語りてでもあった。わなさ物語の老夫婦の名の、わなさ翁[#「わなさ翁」に傍線]・媼[#「媼」に傍線]ときまるのは、もっともである。論理の単純を欲すれば、比沼・奈具の神も、阿波から持ち越されたおほげつひめ[#「おほげつひめ」に傍線]であり、とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]であり、外宮の神だとも言えよう。だが、わなさ[#「わなさ」に傍線]神部の本貫については、まだまだ問題がありそうである。
 私は実のところ、比沼のうなゐ神[#「比沼のうなゐ神」に傍線]は禊ぎのための神女であり、その仕える神の姿をも、兼ね示すようになったものと信じている。丹波[#(ノ)]道主[#(ノ)]貴の家から出る「八|処女《ヲトメ》」の古い姿なのである。この神女は、伊勢に召されるだけではなかった。宮廷へも、聖職奉仕に上っている。この初めを説く物語が、さほひめ皇后[#「さほひめ皇后」に傍線]の推奨によるものとしていたのである。知られ過ぎた段だが、後々の便宜のために、引いておく。
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亦、天皇、其后へ、命詔《ミコトモタ》しめして言はく、「凡《およそ》、子の名は必《かならず》、母名づけぬ。此子の御名をば、何とか称へむ。」かれ、答へ白《もう》さく、……。又|詔命《ミコトモタ》しむるは、「いかにして、日足《ヒタ》しまつらむ。」答へ白さく、「御母《ミオモ》を取り、大|湯坐《ユヱ》・若|湯坐《ユヱ》定め(御母を取り……湯坐に定めてと訓《よ》む方が正しいであろう。また、取御母を養護御母《トリミオモ》のように訓んで、……に――としての義――大湯坐……を定めてとも訓める)て、ひたし奉らば宜《ヨ》けむ。」かれ、其后の白しに随以《シタガヒモチ》て日足し奉るなり[#「日足し奉るなり」に白丸傍点]。又、其后に問ひて曰はく、「汝所堅之美豆能小佩《ナガカタメコシミヅノヲヒモ》(こおび[#「こおび」に傍線]か)は、誰かも解かむ。」答へ申さく、「旦波比古多々須美智能宇斯王《タニハノヒコタヽスミチノウシノミコ》の女《むすめ》、名は兄比売《えひめ》・弟《おと》比売、此|二女王《フタミコ》ぞ、浄き公民《オホミタカラ》(?)なる。かれ、使はさば宜《よ》けむ。……」
又、其后の白《もう》しのまゝに、みちのうしの王[#「みちのうしの王」に傍線]の女等、比婆須《ひばす》比売命、次に弟比売命(次に弟比売命……命……命とあるべきところだ)次に、歌凝《うたごり》比売命、次に円野《まとの》比売命、併せて四柱を喚上《メサ》げき。(垂仁記)
唯、妾死すとも、天皇の恩を忘れ敢へじ。願はくは、妾の掌《つかさど》れる后宮の事、宜しく好仇《ヨキツマ》に授け給ふべし。丹波国に五婦人あり。志|並《トモ》に貞潔なり。是、丹波道主王の女なり。〔道主王は、稚日本根子大日々天皇の子(孫)彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なり。〕当《まさ》に掖廷に納《い》れて、后宮の数に盈《ア》つべしと。天皇|聴《ゆる》す。……丹波の五女を喚《メ》して、掖廷に納る。第一を日葉酢《ヒハス》姫と曰《い》ひ、第二を渟葉田瓊入《ヌハタヌイリ》媛と曰ひ、第三を真砥野《マトヌ》媛と曰ひ、第四を※[#「竹かんむり/(角+力)」、98-8]瓊入《アザミヌイリ》媛と曰ひ、第五を竹野《たかの》媛と曰ふ。(垂仁紀)
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 この後が、古事記では、弟王二柱、日本紀では、竹野媛が、国に戻される道で、一人は恥じて峻淵《ふかきふち》に(紀では自堕輿とある)堕《お》ち入って死ぬ。それから、堕《オツ》国と言うた地名を、今では弟《オト》国と言うとあるいはながひめ[#「いはながひめ」に傍線]式の伝えになっている。
 思うに、悪女の呪いのこの伝えにもあったのが、落ちたものであろう。ほむちわけのみこ[#「ほむちわけのみこ」に傍線]のもの言わぬ因縁を説いたのが、古事記では、すでに、出雲大神の祟りと変っている。出雲と唖王子とを結びつけた理由は、ほかにある。紀の自堕輿而死の文面は「自ら堕《オチイ》り、興《コトアゲ》して死す」と見るべきで、輿は興の誤りと見た方がよさそうだ。「おつ」・「おちいる」という語の一つの用語例に、水に落ちこんで溺れる義があったのだろう。自殺の方法のうち、身投げの本縁を言う物語を含んだものである。水の中で死ぬることのはじめをひらいた丹波道主貴の神女は、水の女であったからと考えたのである。

     九 兄媛弟媛

 やをとめ[#「やをとめ」に傍線]を説かぬ記・紀にも、二人以上の多人数を承認している。神女の人数を、七《ナヽ》処女・八《ヤ》処女・九《コヽノ》の処女などと勘定している。これは、多数を凡《おおよ》そ示す数詞が変化していったためである。それとともに実数の上に固定を来《きた》した場合もあった。まず七処女が古く、八処女がそれに替って勢力を得た。これは、神あそび[#「神あそび」に傍線]の舞人の数が、支那式の「※[#「にんべん+(八/月)」、第3水準1-14-20]《イツ》」を単位とする風に、もっとも叶うものと考えられだしたからだ。ただの神女群遊には、七処女を言い、遊舞《アソビ》には八処女を多く用いる。現に、八処女の出処《でどころ》比沼山にすら、真名井の水を浴びたのは、七処女としている。だから、七《ナヽ》――古くは八処女の八も――が、正確に七の数詞と定まるまでには、不定多数を言い、次には、多数詞と序数詞との二用語例を生じ、ついに、常の数詞と定まった。この間に、伝承の上の矛盾ができたのである。
 神女群の全体あるいは一部を意味するものとして、七処女の語が用いられ、四人でも五人でも、言うことができたのだ。その論法から、八処女も古くは、実数は自由であった。その神女群のうち、もっとも高位にいる一人がえ[#「え」に傍線](兄)で、その余はひっくるめておと[#「おと」に傍線](弟)と言うた。古事記はすでに「弟」の時代用語例に囚《とら》われて、矛盾を重ねている。兄に対して大《オホ》あるごとく、弟に対して稚《ワカ》を用いて、次位の高級神女を示す風から見れば、弟にも多数と次位の一人とを使いわけたのだ。すなわち神女の、とりわけ神に近づく者を二人と定め、その中で副位のをおと[#「おと」に傍線]と言うようになったのである。
 こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。この七処女は、何のために召されたか。言うまでもなくみづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解き奉るためである。だが、紐と言えば、すぐ聯想せられるのは、性的生活である。先達諸家の解説にも、この先入が主となって、古代生活の大切な一面を見落されてしもうた。事は、一続きの事実であった。「ひも」の神秘をとり扱う神女は、条件的に「神の嫁」の資格を持たねばならなかったのである。みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解くことがただちに、紐主にまかれることではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備《そなわ》るのは、最高の神女である。しかも尊体の深い秘密に触れる役目である。みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解き、また結ぶ神事があったのである。
 七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊《アヅマアソビ》天人も、飛行《ヒギヤウ》の力は、天の羽衣に繋《かか》っていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神があった。その神の威力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神をやや忘れるようになる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣のごときは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則《のっと》る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は「衣」という名に拘《かかわ》って、上体をも掩《おお》うものとなったらしいが、古くはもっと小さきもの[#「小さきもの」に傍線]ではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐《ゆあ》みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、その布を結び固め、神となる御躬の霊結びを奉仕する巫女があった。この聖職、漸く本義を忘れられて、大嘗の時のほかは、低い女官の平凡な務めになっていった。「御湯殿の上《ウヘ》の日記」は、その書き続《つ》がれた年代の長さだけでも、為事の大事であったことがわかる。元は、御湯殿における神事を日録したものらしい。宮廷の主上の日常御起居において、もっとも神聖な時間は、湯を奉る際である。この時の神ながらの言行は記し留めねばならない。こうしてはじまった日記が、聖躬《せいきゅう》の健康などに関しても書くようになり、はては雑事までも留めるに到ったものらしい。由緒知らぬが棄てられぬ行事として長い時代を経たのである。御湯殿の神秘は、古い昔に過ぎ去った。髪やかづら[#「かづら」に傍線]を重く見る時代が来て、御櫛笥殿《みくしげどの》の方に移り、そこに奉仕する貴女の待遇が重くなっていった。

     一〇 ふぢはら[#「ふぢはら」に傍線]を名とする聖職

 この沐浴の聖職に与《あずか》るのは、平安前には「中臣女」の為事となった期間があったらしい。宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、その氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなったからである。
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わが岡の※[#「靈」の「巫」に代えて「龍」、第3水準1-94-88]《オカミ》に言ひて降らせたる、雪のくだけし、そこに散りけむ(万葉巻二)
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 天武の夫人、藤原[#(ノ)]大刀自《オホトジ》は、飛鳥の岡の上の大原に居て、天皇に酬《むく》いている。この歌のごときは「降らまくは後《ノチ》」とのからかい[#「からかい」に傍点]に対する答えと軽く見られている。が、藤原氏の女の、水の神に縁のあったことを見せているのである。「雨雪のことは、こちらが専門なのです」こういった水の神女としての誇りが、おもしろく昔の人には感じられたのであろう。藤井が原を改めて藤原としたのも、井の水を中心としたからである。中臣女や、その保護者の、水に対する呪力から、飛鳥の岡の上の藤原とのりなおして、一つに奇瑞を示したからであろうと考える。中臣寿詞を見ても、水・湯に絡んだ聖職の正流のような形を見せている。中臣女の役が、他氏の女よりも、恩寵を得る機会を多からしめた。光明皇后に、薬湯施行に絡んで、廃疾人として現れた仏身を洗うた説話の伝っているのも、中臣女としての宮廷神女から、宮廷の伝承を排して、后位に備るにさえ到った史実の背景を物語るのである。藤原の地名も、家名も、水を扱う土地・家筋としての称えである。衣通《そとおり》媛の藤原|郎女《いらつめ》であり、禊ぎに関聯した海岸に居《お》り、物忌みの海藻の歌物語を持ち、また因縁もなさそうな和歌[#(ノ)]浦の女神となった理由も、やや明るくなる。
 私は古代皇妃の出自が水界に在って、水神の女であることならびに、その聖職が、天子即位|甦生《そせい》を意味する禊ぎの奉仕にあったことを中心として、この長論を完了しようとしているのである。学校の私の講義のそれに触れた部分から、おし拡げた案が、向山武男君によって提出せられた。それによると、衣通媛の兄媛なる允恭《いんぎょう》の妃の、水盤の冷さを堪《た》えて、夫王を動《うごか》して天位に即《つ》かしめたという伝えも、水の女としての意義を示しているとするのだ。名案であると思う。穢れも、荒行に似た苦しい禊ぎを経れば、除き去ることができ、また天の羽衣を奉仕する水の女の、水に潜《カヅ》いて、冷さに堪えたことを印象しているのである。水盤をかかえたというのは、斎河水《ユカハミヅ》の中に、神なる人とともに、水の中に居て久しきにも堪えたことをいうのらしい。やはりこの皇后の妹で、衣通媛のことらしい田井中比売《タヰノナカツヒメ》の名代《ナシロ》を河部と言うたことなどもおほゝどのみこ[#「おほゝどのみこ」に傍線]の家に出た水の女の兄媛・弟媛だったことを示すのだ。
 だが、衣通媛の名代は、紀には藤原部としている。藤原の名が、水神に縁深い地名であり、家の名・団体の名にもなって、かならずしも飛鳥の岡の地に限らなかったことを見せる。ふぢ[#「ふぢ」に傍線]はふち[#「ふち」に傍線]と一つで「淵《フチ》」と固定して残った古語である。かむはたとべ[#「かむはたとべ」に傍線]の親は、山背[#(ノ)]大国[#(ノ)]不遅(記には、大国之淵)であった。水神を意味するのが古い用語例ではないか。ふかぶちのみづやればなの神[#「ふかぶちのみづやればなの神」に傍線]・しこぶち[#「しこぶち」に傍線]などから貴《ムチ》・尊《ムチ》なども、水神に絡んだ名前らしく思われる。神聖な泉があれば、そこには、ふち[#「ふち」に傍線]のいる淵があるものと見て、川谷に縁のない場処なら、ふちはら[#「ふちはら」に傍線]と言うたのであろう。
 みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]のみづ[#「みづ」に傍線]は瑞《ミヅ》と考えられそうである。だが、それよりもまだ原義がある。このみづ[#「みづ」に傍線]は「水」という語の語原を示している。聖水に限った名から、日常の飲料をすら「みづ」と言うようになった。聖水を言う以前は、禊ぎの料として、遠い浄土から、時を限ってより来る水を言うたらしい。満潮に言うみつ[#「みつ」に傍線]も、その動詞化したものであろう。だから、常世波《トコヨナミ》として岸により、川を溯《さかのぼ》り、山野の井泉の底にも通じて春の初めの若水となるものである。みつ/\し[#「みつ/\し」に傍線]は、このみづ[#「みづ」に傍線]をあびたものの顔から姿に言う語で、勇ましく、猛々しく、若々しく、生き生きしているなどと分化する。初春の若水ならぬ常の日の水をも、祝福して言うたところから拡がったものであろう。満潮時をば、人の生れる時と考えるのも、常世から魂のより来ると考えたためであるらしい。みつぬかしは[#「みつぬかしは」に傍線](三角柏・御綱柏)や、みづき[#「みづき」に傍線]と通称せられるいろいろの木も、禊ぎに用いた植物で、海のあなたから流れよって、根をおろしたと信じられていたものらしい。
 みつ[#「みつ」に傍線]はまた地名にもなった。そうした常世波のみち来る海浜として、禊ぎの行われたところである。御津とするのは後の理会で「つ」そのものからして「み」を敬語と逆推してとり放したのであった。常世波を広く考えて、遠くよりより来る船の、その波に送られて来着く場処としてのみつ[#「みつ」に傍線]を考え、さらに「つ」とも言うようになったのである。だから、国造の禊ぎする出雲の「三津」、八十島《やそしま》祓えや御禊《ゴケイ》の行われた難波《なにわ》の「御津《ミツ》」などがあるのだ。津《ツ》と言うに適した地形であっても、かならずしもどこもかしこも、津とは称えないわけなのである。後にはみつ[#「みつ」に傍線]の第一音ばかりで、水を表して熟語を作るようになった。

     一一 天の羽衣

 みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]は、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。瑞《ミヅ》という称え言ではなかった。このひも[#「ひも」に傍線]は「あわ緒」など言うに近い結び方をしたものではないか。
 天の羽衣や、みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]は、湯・河に入るためにつけ易《か》えるものではなかった。湯水の中でも、纏《まと》うたままはいる風が固定して、湯に入る時につけ易えることになった。近代民間の湯具も、これである。そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。すなわちこれと同時に神としての自在な資格を得ることになる。後には、健康のための呪術となった。が、もっとも古くは、神の資格を得るための禁欲生活の間に、外からも侵されぬよう、自らも犯さぬために生命の元と考えた部分を結んでおいたのである。この物忌みの後、水に入り、変若《ヲチ》返って、神となりきるのである。だから、天の羽衣は、神其物《カムナガラ》の生活の間には、不要なので、これをとり匿《かく》されて地上の人となったというのは、物忌み衣の後の考え方から見たのである。さて神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解いた女は、神秘に触れたのだから、神の嫁[#「神の嫁」に傍線]となる。おそらく湯棚・湯桁は、この神事のために、設けはじめたのだろう。
 御湯殿を中心とした説明も、もはやせばくるしく感じだされた。もっと古い水辺の禊ぎを言わねばならなくなった。湯と言えば、温湯を思うようになったのは、「出《イ》づるゆ」からである。神聖なことを示す温い常世の水の、しかも不慮の湧出を讃えて、ゆかは[#「ゆかは」に傍線]と言い、いづるゆ[#「いづるゆ」に傍線]と言うた。「いづ」の古義は、思いがけない現出を言うようである。おなじ変若水《ヲチミヅ》信仰は、沖縄諸島にも伝承せられている。源河節の「源河走河《ヂンガハリカア》や。水か、湯か、潮《ウシユ》か。源河みやらびの御甦生《ウスヂ》どころ」などは、時を定めて来る常世浪《とこよなみ》に浴する村の巫女《ミヤラビ》の生活を伝えたのだ。
 常世から来るみづ[#「みづ」に傍線]は、常の水より温いと信じられていたのであるが、ゆ[#「ゆ」に傍線]となるとさらに温度を考えるようになった。ゆ[#「ゆ」に傍線]はもと、斎《ユ》である。しかしこのままでは、語をなすに到らぬ。斎用水《ユカハ》あるいはゆかはみづ[#「ゆかはみづ」に傍線]の形がだんだん縮《ちぢま》って、ゆ[#「ゆ」に傍線]一音で、斎用水を表すことができるようになった。だから、ゆ[#「ゆ」に傍線]は最初、禊ぎの地域を示した。斎戒沐浴をゆかはあみ[#「ゆかはあみ」に傍線](紀には、沐浴を訓《よ》む)と言うこともある。だんだんゆかは[#「ゆかは」に傍線]を家の中に作って、ゆかはあみ[#「ゆかはあみ」に傍線]を行うようになった。「いづるゆかは」がいでゆ[#「いでゆ」に傍線]であるから推せば、ゆかは[#「ゆかは」に傍線]も早くぬる水[#「ぬる水」に傍線]になっていたであろう。ゆかは[#「ゆかは」に傍線]が家の中の物として、似あわしくなく感じられだしてくると、ゆかは[#「ゆかは」に傍線]を意味するゆ[#「ゆ」に傍線]がしだいにぬる水[#「ぬる水」に傍線]の名となってゆくのは、自然である。

     一二 たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]

 ゆかは[#「ゆかは」に傍線]の前の姿は、多くは海浜または海に通じる川の淵などにあった。村が山野に深く入ってからは、大河の枝川や、池・湖の入り込んだところなどを択んだようである。そこにゆかはだな[#「ゆかはだな」に傍線](湯河板挙)を作って、神の嫁となる処女を、村の神女(そこに生れた者は、成女戒《せいじょかい》を受けた後は、皆この資格を得た)の中から選り出された兄処女《エヲトメ》が、このたな作り[#「たな作り」に傍線]の建て物に住んで、神のおとずれを待っている。これが物見やぐら造り[#「やぐら造り」に傍線]のをさずき[#「さずき」に傍線](また、さじき)、懸崖《カケ》造りなのをたな[#「たな」に傍線]と言うたらしい。こうした処女の生活は、後世には伝説化して、水神の生け贄《にえ》といった型に入る。来るべき神のために機《はた》を構えて、布を織っていた。神御服《カムミソ》はすなわち、神の身とも考えられていたからだ。この悠遠な古代の印象が、今に残った。崖の下の海の深淵や、大河・谿谷の澱《よどみ》のあたり、また多くは滝壺の辺などに、筬《おさ》の音が聞える。水の底に機を織っている女がいる。若い女とも言うし、処によっては婆さんだとも言う。何しろ、村から隔離せられて、年久しくいて、姥となってしもうたのもあり、若いあわれな姿を、村人の目に印したままゆかはだな[#「ゆかはだな」に傍線]に送られて行ったりしたのだから、年ぱいはいろいろに考えられてきたのである。村人の近よらぬ畏《おそろ》しい処だから、遠くから機の音を聞いてばかりいたものであろう。おぼろげな記憶ばかり残って、事実は夢のように消えた後では、深淵の中の機織る女になってしまう。
 七夕《たなばた》の乞巧奠《きこうでん》は漢土の伝承をまる写しにしたように思うている人が多い。ところが存外、今なお古代の姿で残っている地方地方が多い。
 たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]とは、たな(湯河板挙)の機中にいる女ということである。銀河の織女星は、さながら、たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]である。年に稀におとなう者を待つ点もそっくりである。こうした暗合は、深く藤原・奈良時代の漢文学かぶれのした詩人、それから出た歌人を喜ばしたに違いない。彼らは、自分の現実生活をすら、唐代以前の小説の型に入れて表して、得意になっていたくらいだから、文学的には早く支那化せられてしもうた。それから見ると、陰陽道の方式などは、徹底せぬものであった。だから、どこの七夕祭りを見ても、固有の姿が指摘せられる。
 でも、たなばた[#「たなばた」に傍線]が天の川に居るもの、星合ひの夜に奠《オキマツ》るものと信じるようになったのには、都合のよい事情があった。驚くばかり多い万葉の七夕歌を見ても、天上のことを述べながら、地上の風物からうける感じのままを出しているものが多い。これは、想像力が乏しかったから、とばかりは言えないのである。古代日本人の信仰生活には、時間空間を超越する原理が備っていた。呪詞の、太初《ハジメ》に還す威力の信念である。このことは藤原の条にも触れておいた。天香具山《あめのかぐやま》は、すくなくとも、地上に二か所は考えられていた。比沼の真名井は、天上のものと同視したらしく、天《アメ》[#(ノ)]狭田《サダ》・長田は、地上にも移されていた。大和の高市は天の高市、近江の野洲《やす》川は天の安河と関係あるに違いない。天の二上《ふたかみ》は、地上到る処に、二上山を分布(これは逆に天に上《のぼ》したものと見てもよい)した。こうした因明《いんみょう》以前の感情の論理は、後世までも時代・地理錯誤の痕を残した。
 湯河板挙《ユカハダナ》の精霊の人格化らしい人名に、天[#(ノ)]湯河板挙があって、鵠《くぐい》を逐《お》いながら、御禊ぎの水門《ミナト》を多く発見したと言うている。地上の斎河《ユカハ》を神聖視して、天上の所在と考えることもできたからである。こうした習慣から、神聖観を表すために「天《アメ》」を冠らせるようにもなった。

     一三 筬もつ女

 地上の斎河《ユカハ》に、天上の幻を浮べることができるのだから、天漢に当る天の安河・天の河も、地上のものと混同して、さしつかえは感じなかったのである。たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]は、天上の聖職を奉仕するものとも考えられた。「あめなるや、弟《おと》たなばたの……」と言うようになったわけである。天の棚機津女《たなばたつめ》を考えることができれば、それにあたかも当る織女星に習合もせられ、また錯誤からくる調和もできやすい。
 おと・たなばた[#「おと・たなばた」に傍線]を言うからは、水の神女に二人以上を進めたこともあるのだ。天上の忌服殿《イムハタドノ》に奉仕するわかひるめ[#「わかひるめ」に傍線]に対するおほひるめ[#「おほひるめ」に傍線]のあったことは、最高の巫女でも、手ずから神の御服を織ったことを示すのだ。
 古代には、機に関した讃え名らしい貴女の名が多かった。二三をとり出すと、おしほみゝの尊[#「おしほみゝの尊」に傍線]の后は、たくはた・ちはた媛[#「たくはた・ちはた媛」に傍線](また、たくはた・ちゝ媛[#「たくはた・ちゝ媛」に傍線])と申した。前にも述べた大国|不遅《フヂ》の女垂仁天皇に召された水の女らしい貴女も、かりはたとべ[#「かりはたとべ」に傍線](いま一人かむはたとべ[#「かむはたとべ」に傍線]をあげたのは錯誤だ)、おと・かりはたとべ[#「おと・かりはたとべ」に傍線]と言う。くさか・はたひ媛[#「くさか・はたひ媛」に傍線]は、雄略天皇の皇后として現れた方である。
 神功皇后のみ名おきなが・たらし媛[#「おきなが・たらし媛」に傍線]の「たらし」も、記に、帯の字を宛てているのが、当っているのかも知れぬ。
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ひさかたの天《アメ》かな機。「女鳥《メトリ》のわがおほきみの織《オロ》す機。誰《タ》が料《タネ》ろかも。」
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 記・紀の伝えを併せ書くと、こういう形になる。皇女・女王は古くは、皆神女の聖職を持っておられた。この仁徳の御製と伝える歌なども、神女として手ずから機織る殿に、おとずれるまれびと[#「まれびと」に傍線]の姿が伝えられている。機を神殿の物として、天を言うのである。言いかえれば、処女の機屋に居てはたらくのは、夫なるまれびと[#「まれびと」に傍線]を待っていることを、示すことにもなっていたのであろう。
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天孫又問ひて曰はく、「其《カノ》秀起《ホダ》たる浪の穂の上に、八尋殿《やひろどの》起《タ》てゝ、手玉《タダマ》もゆら[#「ゆら」に傍点]に織《ハタ》※[#「糸+壬」、第3水準1-89-92]《オ》る少女《ヲトメ》は、是《これ》誰《た》が子女《ムスメ》ぞ。」答へて曰はく、「大山祇《おおやまつみ》[#(ノ)]神の女等、大《エ》は磐長《いわなが》姫と号《ナノ》り、少《オト》は、木華開耶《このはなさくや》姫と号《ナノ》る。」……(日本紀一書)
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 これは、海岸の斎用水《ユカハ》に棚かけわたして、神服《カムハタ》織る兄《エ》たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]・弟《オト》たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]の生活を、ややこまやかに物語っている。丹波道主貴の八処女のことを述べたところで、いはなが媛[#「いはなが媛」に傍線]の呪咀は「水の女」としての職能を、、見せていることを言うておいた。このはなさくや媛[#「このはなさくや媛」に傍線]も、古事記すさのを[#「すさのを」に傍線]のよつぎを見ると、それを証明するものがある。すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]の子やしまじぬみの神[#「やしまじぬみの神」に傍線]、大山祇神の女「名は、木花知流《コノハナチル》比売」に婚《ア》うたとある。この系統は皆水に関係ある神ばかりである。だから、このはなちるひめ[#「このはなちるひめ」に傍線]も、さくやひめ[#「さくやひめ」に傍線]とほとんどおなじ性格の神女で、禊ぎに深い因縁のあることを示しているのだと思う。

     一四 たな[#「たな」に傍線]という語

 漢風習合以前のたなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]の輪廓は、これでほぼ書けたと思う。だが、七月七日という日どりは、星祭りの支配を受けているのである。実は「夏と秋とゆきあひの早稲のほの/″\と」と言うている、季節の交叉点に行《おこの》うたゆきあい祭り[#「ゆきあい祭り」に傍線]であったらしい。
 初春の祭りに、ただ一度おとずれたぎりの遠つ神が、しばしば来臨するようになった。これは、先住漢民族の茫漠たる道教風の伝承が、相混じていたためもある。ゆきあい祭り[#「ゆきあい祭り」に傍線]を重く見るのも、それである。春と夏とのゆきあい[#「ゆきあい」に傍線]に行うた鎮花祭と同じ意義のもので、奈良朝よりも古くから、邪気送りの神事が現れたことは考えられる。鎮花祭については、別に言うおりもあろう。ただ、木の花の散ることの遅速によって、稲の花および稔りの前兆と考え、できるだけ躊躇《ヤスラ》わせようとしたのが、意義を変じて、田には稲虫のつかぬようにとするものと考えられた。それと同時に、農作は、村人の健康・幸福と一つ方向に進むものと考えた。だから、田の稲虫とともに村人に来る疫病は、逐《お》わるべきものとなった。春祭りの「春田打ち」の繰り返しのような行事が、だんだん疫神送りのような形になった。

     一五 夏の祭り

 七夕祭りの内容を小別《こわ》けしてみると、鎮花祭の後すぐに続く卯月《うづき》八日の花祭り、五月に入っての端午の節供《せっく》や田植えから、御霊《ごりょう》・祇園の両祭会・夏神楽までも籠めて、最後に大祓え・盂蘭盆《うらぼん》までに跨っている。夏の行事の総勘定のような祭りである。
 柳田先生の言われたように、卯月八日前後の花祭りは、実は村の女の山入り日であった。おそらくは古代は、山ごもりして、聖なる資格を得るための成女戒をうけたらしい日である。田の作物を中心とする時代になって、村の神女の一番大切な職分は、五月の田植えにあるとするに到った。それで、田植えのための山入りのような形をとった。これで今年の早処女《さおとめ》となる神女が定まる。男もおおかた同じころから物忌み生活に入る。成年戒を今年授かろうとする者どもはもとより、受戒者もおなじく禁欲生活を長く経なければならぬ。霖雨《ながあめ》の候の謹身《ツヽミ》であるから「ながめ忌み」とも「雨《アマ》づゝみ」とも言うた。後には、いつでもふり続く雨天の籠居を言うようになった。
 このながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]に入った標《シルシ》は、宮廷貴族の家長の行《おこの》うたみづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]や、天の羽衣ようの物をつけることであった。後代には、常もとりかく[#「とりかく」に傍点]ようになったが、これは田植えのはじまるまでのことで、いよいよ早苗をとり出すようになると、この物忌みのひも[#「ひも」に傍線]は解き去られて、完全に、神としてのふるまいが許される。それまでの長雨忌《ナガメイ》みの間を「馬にこそ、ふもだしかくれ」と歌われた繋《カイ》・絆《ホダシ》(すべて、ふもだし[#「ふもだし」に傍線])の役目をするのが、ひも[#「ひも」に傍線]であった。こういう若い神たちには、中心となる神があった。これら眷属を引き連れて来て、田植えのすむまで居て、さなぶり[#「さなぶり」に傍線]を饗《ウ》けて還る。この群行の神は皆簔を着て、笠に顔を隠していた。いわば昔考えたおに[#「おに」に傍線]の姿なのである。



底本:「古代研究※[#ローマ数字I、1-13-21]―祭りの発生」中央公論新社
   2002(平成14)年8月10日発行
初出:「民族 第二巻第六号」
   1927(昭和2年)年9月
   「民族 第三巻第二号」
   1928(昭和3年)年1月
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
※底本では「八 とりあげ[#「とりあげ」に傍線]の神女」の〔道主王は、稚日本根子大日々天皇の子(孫)彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なり。〕は二行に渡り小書きになっています。
※底本の題名の下に書かれている「昭和二年九月、三年一月「民族」第二巻第六号、第三巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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