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ほうとする話
祭りの発生 その一
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)自《オノ》づ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)相撲|節会《セチヱ》が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]らせる
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)荷前《ノサキ》[#(ノ)]使を
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)行つても/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
ほう[#「ほう」に傍点]とする程長い白浜の先は、また、目も届かぬ海が揺れてゐる。其波の青色の末が、自《オノ》づと伸《ノ》しあがるやうになつて、あたまの上までひろがつて来てゐる空である。ふり顧《カヘ》ると、其が又、地平をくぎる山の外線の立ち塞つてゐるところまで続いて居る。四顧俯仰して、目に入る物は、唯、此だけである。日が照る程、風の吹く程、寂しい天地であつた。さうした無聊の目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]らせるものは、忘れた時分にひよっくり[#「ひよっくり」に傍点]と、波と空との間から生れて来る――誇張なしにさう感じる――鳥と紛れさうな刳《ク》り舟の影である。
遠目には、磯の岩かと思はれる家の屋根が、一かたまりづゝぽっつり[#「ぽっつり」に傍点]と置き忘れられてゐる。炎を履む様な砂山を伝うて、行きつくと、此ほどの家数に、と思ふ程、ことりと音を立てる人も居ない。あかんぼの声がすると思うて、廻つて見ると、山羊が、其もたつた一疋、雨欲しさうに鳴き立てゝゐるのだ。
どこで行き斃れてもよい旅人ですら、妙に、遠い海と空とのあはひ[#「あはひ」に傍点]の色濃い一線を見つめて、ほう[#「ほう」に傍点]とすることがある。沖縄の島も、北の山原《ヤンバル》など言ふ地方では、行つても/\、こんな村ばかりが多かつた。どうにもならぬからだを持ち煩《アツカ》うて、こんな浦伝ひを続ける遊子も、おなじ世間には、まだ/\ある。其上、気づくか気づかないかの違ひだけで、物音もない海浜に、ほう[#「ほう」に傍点]として、暮しつゞけてゐる人々が、まだ其上幾万か生きてゐる。
ほう[#「ほう」に傍点]としても立ち止らず、まだ歩き続けてゐる旅人の目から見れば、島人の一生などは、もつと/\深いため息に値する。かうした知らせたくもあり、覚らせるもいとほしいつれ/″\な生活は、まだ/\薩摩潟の南、台湾の北に列る飛び石の様な島々には、くり返されてゐる。でも此が、最正しい人間の理法と信じてゐた時代が、曾ては、ほんとうにあつたのだ。古事記や日本紀や風土記などの元の形も、出来たか出来なかつたかと言ふ古代は、かういふほう[#「ほう」に傍点]とした気分を持たない人には、しん底までは納得がいかないであらう。
蓋然から、段々、必然に移つて来てゐる私の仮説の一部なる日本の祭りの成立を、小口だけでもお話して見たい。芭蕉が、うき世の人を寂しがらせに来た程の役には立たなくとも、ほう[#「ほう」に傍点]として生きることの味ひ位は贈れるかと思ふ。
月次祭りの、おしひろげて季候にわりあてられたものと見るべき、四季の祭りは、根本から言へば、臨時祭りであつた。だが、却て、かうした祭りが始まつて後、神社々々特殊の定祭が起つたのであつた。四季の祭りの中でも、町方で最盛んな夏祭りは、実は一等遅れて起つたものであつた。次に、新しいと言ふのも、其久しい時間に対しては叶はないほど、古く岐れた祭りがある。秋祭りである。此も農村では、本祭りと言つた考へで執行せられる。
此秋祭りの分れ出た元は、冬の祭りであつた。だが、冬祭りに二通りあつて、秋祭りと関係深い冬祭りは、寧、やつぱり秋祭りと言つてよいものであつた。真のふゆ[#「ふゆ」に傍線]の語原である冬祭りは、年の窮つた時に行はれたものである。さうして、最古い形になると、春祭りと背なか合せに接してゐた行事らしいのである。だから冬祭りは、春祭りの前提として行はれた儀式が、独立したものと言うてよい。でも時には、秋祭りの意義の冬祭りと、春祭りの条件なる冬祭りとが、一続きの儀礼らしくも見える。さうすると、秋祭りの直後に冬祭りがあり、冬祭りにひき続いて春祭りがあつて、其が、段々間隔を持つ様になつた。其為、祭儀が交錯し、複雑になつて行つたもの、と言へる。
秋祭りを主とする田舎の村々でも、夏祭りを疎かにする処はなかつた。だが、農村の祭りでは、夏は参詣が本位とせられてゐる様で、家族又は一人々々でぼつり/″\と参るのだ。此祭りに、つき物になつてゐるものがある。即、神輿又は長い棒を中心とする鉾・幣或は偶人である。此も秋祭りと入り紊れてゐるが、順序正しく言へば、夏のものである。
祇園の鉾は、山鉾と一口に言ふが、大別してやま[#「やま」に傍線]とほこ[#「ほこ」に傍線]との二つの系統がある。そして山の方は、寧、秋祭りに曳くべき物であつた。祇園会成立に深く絡んだ御霊会《ゴリヤウヱ》の立て物に、宮廷の大嘗の曳き物「標山」の形をとりこんだのであつた。
平安朝の初頭から見える事実は、まつり[#「まつり」に傍線]の用語例に、奏楽・演舞を条件に加へて来てゐるのである。其程、祭礼と楽舞との関係が離されなくなつた。だから後には、まつる[#「まつる」に傍線]とあそぶ[#「あそぶ」に傍線]とが同じ意義に使はれる事もあつた。とにかく、夏祭りのまつり[#「まつり」に傍線]と言はれる様になつたのは、夏神楽の発達から来てゐる。尚一面、祇園会が祭りの一つの型と見られる様になつた事実も一つの原因である。
神楽は、鎮魂祭のつき物で、古い形を考へると、大祓式の一部でもあつた。其が、冬を本義とする処から、夏演奏する神楽と言ふ意を見せて、新しい発生なる事を示したのである。祓へや禊ぎは、鎮魂の前提と見るべきであつた。夏祓へは冬祓へから岐れて、遅れて発生した為、冬祓への条件を具へなかつた。ところが、冬祓へを形式視して、夏祓へを主とする事が時代を逐うて甚しくなつた。冬の祓へに行はれた神楽が、別の季の神事に分裂して行く。其と共に、神楽の一方の起原になつてゐる石清水八幡の仲秋の行事の楽舞を、夏祓へにとり越して、学んだ形があるのだ。
八月十五日に行ふ男山の放生会《ハウジヤウヱ》は、禊ぎの式の習合せられたものであつた。其神楽を、夙くから行はれてゐた夏祓への行事にとりこむのは、自然な行き方である。まつり[#「まつり」に傍線]と神遊び・神楽との関係から、夏祓へは夏祭りと称せられる様になつた。陰陽道の勢力が、さうした形に信仰を移したのである。奈良末から平安初めに亘つて荒れた五所の御霊を、抑へるものとして、行疫・凶荒の神と謂はれるすさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]を憑《タノ》むやうになり、而も此に、本縁づける為、天部神の梵名を称へる事にして、牛頭天王、地方によつては、武塔(答。本字)天神などゝ言うた。
日本の陰陽道の、殊に、地方の方術者は、学問としては、此を仏典として修めた傾向があつて、特に、経典の中にも、天部に関する物、即、仏教の意義での「神道」の知識を拾ひ集めた形がある。日本の神道が、天部名になる外に、漢名を称した事もあつたはずである。世界最上の書たる仏乗に出た本名の威力は、どんな御霊でも、服従させる事が出来た。だから、祇園神の中央出現は、御霊・五所より遅れてゐる。障神・八衢彦・媛の祭りと、御霊信仰とが一つになつて、御霊会が出来、盛んに媚び仕へを行うて、退散を乞うた。其勢力が、牛頭天王に移つて、讃歎の様式に改つて行つたのが、祇園会である。形こそ替れ、事実から見れば、夏祭りの疫病と蝗害とを祓へ去らうとしてゐる事は一つであり、又一つの祭礼が、主神を換へて行はれた形にもなつてゐる。蝗の害と流行病とを一続きに見てゐた平安時代の農民信仰が「花を鎮む」と書く鎮花祭によく似てゐる。
鎮花祭は、三月末の行事だが、此は夏祭りの部類に入るものである。やすらひ祭り[#「やすらひ祭り」に傍線]とも言ふのは、其踊り歌の聯毎の末に、囃し詞「やすらへ。花や」をくり返すからだと言ふ。昔は、木の花を稲の花の象徴として、其早く散るのを、今年の稲の花の実にいる物の尠い兆と見たのだ。歌の文句も「ゆつくりせよ。花よ」と言ふ義で、桜に寄せて、稲を予祝するのである。其が、耕田の呪文と考へられて、蝗を生ぜしめまいとの用途を考へ出させた。田の稲虫から、又、其家主等の疫病を、直に聯想して、奈良以来、春・夏交叉期の疫病送りの踏歌類似のものと見做される様になつたのだ。此亦、祇園会成立後は、段々、意義を失ふ様になつて行つた。
かうした邪霊悪神に媚び仕へる行事も、稍古くからまつり[#「まつり」に傍線]と言はれてゐる。其は神霊に服従する義で、まつろふ[#「まつろふ」に傍線]の用語例に近いものであつた。夏の祭りは、要するに、禊ぎの作法から出たもので、祭礼と認められ出したのは、平安朝以前には溯らない、新しいものなのである。御輿のお渡り[#「お渡り」に傍線]が行はれたのは、夏祭りの中心であつて、水辺の、禊ぎに適した地に臨まれるのである。
広く行はれる御輿洗ひの式は、他の祭礼作法の混乱であるが、神試みて後、人各其瀬に禊ぐ信仰に基いたのであらう。鉾は祓へ串を捧げて、海川に棄てる行事の儀式化したものである。だから、尾張津島の祇園祭りの船渡りなども、祓へ串を水上のある地点まで搬ぶ形であつたのだ。此禊ぎから出た祭りに対して、勢力のあつた田植ゑの神事があるが、此は春祭りの側に言ふ。
二
秋の祭りは、誰もが直ぐ考へる通り、刈り上げの犒ひ祭りである。だが、実際の刈り上げ祭りは、正しくは、仲冬に這入つてから行はれるので、近代までもさうせられてゐる。秋祭りを今一つ狭めて言へば、先人たちも言うた通り、新嘗祭りであるが、此には、前提すべき条件が忘れられてゐる。伊勢両宮の、神自身、神としてきこしめす新嘗に限つた行事の延長なのである。諸国の荷前《ノサキ》の早稲の初穂は、九月上旬には納まつて了ひ、中旬になつて、まづ伊勢に献られ、両宮及び斎宮の喰べはじめられる行事となる。此地方化で、神嘗祭りの為に献つた荷前の残りの初穂を、地方の社々の神も試み喰べられたのが、秋祭りの起りである。早稲の新嘗を享ける神と、家々の新嘗に臨んで、家あるじと共に、おきつ・み・とし[#「おきつ・み・とし」に傍線]の初穂の饗を享ける神とは、別殊のものと考へられて居たのではなからうか。越えてふた月、十一月中旬はじめて、当今主上近親の陵墓に、荷前《ノサキ》[#(ノ)]使を遣し、初穂を捧げられる。此と殆ど同時に、天子の新嘗が行はれる。
奈良以前の東国では、新嘗が年に一度であつたと見られる。さうして、早稲を炊いで進めたらしい。家中の人は、家の巫女なる処女《ヲトメ》――処女の生活をある期間してゐた主婦又は氏女――を残して、別屋――新嘗屋となつた――又は屋敷の庭に出てゐる。かうして迎へられた神は、一夜を其巫女と共にする。遊女の古語だ、と謂はれた一夜づま[#「一夜づま」に傍線]は、かうした神秘の夜の神として来る神人及び家の処女との間に言ふ語《ことば》であつたのだ。
宮廷の神嘗祭りは、諸国の走りの穂を召した風が固定して、早稲を以てする事になつたので、古くは一度きりであつたのかも知れぬ。だが、文献で考へられる範囲では、早稲は神の為で、神嘗用であり、おきつ・み・とし[#「おきつ・み・とし」に傍線]の初穂は、祈年祭・月次祭りに与る社々・皇親の尊長者の霊にも御料の外を頒たれる事になつてゐた。神嘗祭りの原義は、今年の稲作の前兆たる「ほ」を得て、祝福する穂祭りの変形であつて、刈り上げ祭りよりも早くからあつたものとは言はれない。此穂祭りが神社に盛んに行はれ、刈り上げ祭りは、一家の冬の行事となつたのであるらしい。
秋祭りの太鼓をめあてに、細道を行くと、落し水は堰路《ヰデ》にたぶついて、稲子《イナゴ》は雨の降る様に胸・腰・裾に飛びつく。はざ[#「はざ」に傍線]はまだな処もあり、既に組み立られた田の畔もある。だがまだ、近い温泉町へ出かける相談などは、出来て居ないらしい。おちついた様で、ひと山、前に控へた小昼休みとでも言つた、安気になりきれない顔色の年よりが、うろついてゐる。若い男は、も一つ実の入る様に、ひと囃しくれべいとでも考へてか、ぶち[#「ぶち」に傍線]も折れよと、太鼓を打つてゐる。よく/\県下の社でも特殊神事とせられてゐるのでなければ、冬も霜月・師走に入つて、刈り上げ祭りらしいものを行うてはゐない。若しあつても「お火焼《ホタケ》」や「夜神楽」「師走祓へ」の様な外見に包まれてゐる。
堂々たる祝詞や、卜ひを伴ふ宮廷風の穂祭りは、神社の行事になり、村の昔の、もつと古くから続いた刈り上げの新嘗は、家々の内々の行事となつて行つた。早稲を試食した後だから、別の方法をとる村々もあつた。餅・粢《シトギ》・握り飯・餡流し飯・小豆米、色々と村の供物の伝承は、分れて行つた。正月に餅つかぬ家や村などがあり、歳晩の一夜を眠らぬ風も行はれた。皆、刈り上げ祭りの夜の供物や物忌みの行はれた痕跡である。大歳の夜の事になつてゐるのは、実際謂はれのある事で、刈り上げ祭りが、春待つ夜に行はれた事をも見せて居るのだ。だが、祭りの時間が長びき、又一続きの儀式の部分に、大切な意義を考へる様になると、段々日を別けてする様になるのは、当りまへであつた。
新嘗祭りの十一月には、古くて秘密の多かつたらしい鎮魂の神遊びが続いてある。十二月になつて、清暑堂の御神楽があり、おしつまつて大祓へ・節折《ヨヲ》りが行はれる。其夜ひき続いて、直日神の祭りから、四方拝とある外にも、今日では定めて行はれてゐない儀式が他にもあつたらしい。後には、元旦ではなくなつたが、歳旦の朝まつりごと[#「朝まつりごと」に傍線]として、まづ行はせられるはずの儀式が、拝賀であつた。
拝賀は臣下のする事で、天子は其に先だつて、元旦の詔旨を宣《ノ》り降されるのであつた。此時の天子の御資格が、神自身である事を忘れて、祭主と考へられ出したのは、奈良・藤原よりも、もつと古いことであらう。併し、天子は、此時遠くより来たまれびと神[#「まれびと神」に傍線]であり、高天原の神でもあつたのだ。さうして、現実の神の詔旨伝達者《ミコトモチ》の資格を脱却せられてゐる。元旦の詔旨を唱へられると共に、神自身になられるのである。其唱誦の為に上られる高座が、天上の至上神としての資格の来り附いた事を示すので、此が高御座であつた。そして、段々、大嘗祭りに限つた玉座の様に考へられて行つたのである。
大嘗祭りは、御世始めの新嘗祭りである。同時に、大嘗祭りの詔旨・即位式の詔旨が一つものであつた事を示してゐる。即位から次の初春迄は、天子物忌みの期間であつて、所謂まどこ・おふすま[#「まどこ・おふすま」に傍線]を被つて、籠られるのである。春の前夜になつて、新しい日の御子誕生して、禊ぎをして後、宮廷に入る。さうして、まれびと[#「まれびと」に傍線]としてのあるじ[#「あるじ」に傍線]を、神なる自分が、神主なる自身から享けられる。此が、大祓へでもあり、鎮魂でもあり、大嘗・新嘗でもある。さうして、高天原の神のみこともち[#「みこともち」に傍線]たる時と、神自身となられる時との二様があるので、伝承の呪詞と御座とが、其を分けるのである。
即位元年は、実は、次の春であるべきであつた。大殿祭・祓への節折《ヨヲ》りに接して大嘗祭り、此に続いて鎮魂式、尚もひき続いて直日呪詞、夜が明けると共に、高御座ののりと[#「のりと」に傍線]が行はれる。此皆、天子自身の行事であつたのを、次第に忘れ、省き、天子のみこともち[#「みこともち」に傍線]に委ねられる様になつた。四方拝、実は、高御座の詔旨唱誦であつたのだ。かうして、神自身であり、神の代理者であることが定まる。
此が御代の始めであつた。此呪詞は、毎年、初春毎にくり返された事は、令の規定を見ても知れるのである。此詔旨を宣り降される事は、年を始めに返し、人の齢も、殿の建て物もすべてを、去年のまゝに戻し、一転して最初の物にして了ふ。此までのゆきがゝりは、すべて無かつた昔になる。即位式が、先帝崩御と共に行はれる様になり、大・新嘗祭りは、仲冬の刈り上げ直後の行事と変り、日の御子甦生の産湯なる禊ぎは道教化して、意義を転じ、元旦の拝賀は詔旨よりも、賀を受ける方を主とせられる様になつて行つた。でも、暦は幾度改つても、大晦日までを冬と考へ、元旦を初春とする言ひ方・思ひ方は続いてゐて「年のうちに、春は来にけり」など言ふ、たわいもない様な興味が古今集の巻頭に据ゑられる文学動機となつたのも、此によるのだ。又、世直しの為、正月が盆から再はじまり、徳政が宣せられたりもした。後世の因明論理や儒者の常識を超越した社会現象は、皆、此即位又は元旦の詔旨(のりと[#「のりと」に傍線]の本体)の宣《ノ》り直《ナホ》す、と言ふ威力の信仰に基いてゐるのだ。
秋と言へば、七・八・九の三月中とする考へが、暦法採用以後、段々、養はれて来たが、十一月の新嘗の初穂を、頒けて上げようと言ふ風神との約束に「今年の秋《アキ》[#(ノ)]祭《マツ》りに奉らむ……」と言つた用例を残してゐる。此祝詞は、奈良朝製作の部分が、まだ多く壊れないでゐるものと思へる。すると、秋祭りは刈り上げの祭りと言ふことになる。六月(月次祭)でも、九月(神嘗祭り)でも当らないから、此あき[#「あき」に傍線]は、暦利用以前の秋に違ひなく、田為事の終る時期を斥す語であらう。新嘗・市・交易・饗宴、かうした事実が、此語を中心にして聯絡を持つてゐるのは、あき[#「あき」に傍線]が刈り上げの祭りの期間を表すこともあつたらしく思はせる。私は、仮説として、条件つきの立願をねぐ[#「ねぐ」に傍線]、願果しをあく[#「あく」に傍線]と言うたのではないかと考へてゐる。「秋祭りに奉らむ……」とあるのは「刈り上げの折のまつり」と言ふだけの事で、今の秋祭りに対しては、稍自由である。そして、こゝのまつり[#「まつり」に傍線]と言ふ語も、唯の祭典の義ではないらしい。
祭りの用語例は、二つあげたが、此は亦違つて、献上するの義である。たてまつる[#「たてまつる」に傍線]・おきまつる[#「おきまつる」に傍線](奠)などのまつる[#「まつる」に傍線]で、神・霊に食物・着物其他をさしあげる事を表してゐる。先師三矢重松博士は、此「献《マツ》る」を「祭る」の語原とする説を強められた。まづ今までゞのまつり[#「まつり」に傍線]の語原論では、最上位のものである。師説を牾《モド》く様で、気術ないが、私はも少し先がある、と考へてゐる。
三
新嘗の意味の秋祭りの外に、秋に多い信仰行事は、相撲であり、水神祭りであり、魂祭りである。秋の初めから、九月の末に祭りを行ふ様な処までも、社々で、童相撲・若衆相撲などを催す。それは、宮廷の相撲|節会《セチヱ》が七月だから、其を民間で模倣したと言ふことも出来ぬ。此を農村どうしの年占或は、作物競争と見る人もあらう。だが其よりも、不思議に、水神に関係してゐる事である。野見宿禰を必、先、説く相撲は、「腰折れ田」の伝説から見ても、田の水に絡んでゐる。もつと古く溯ると、隼人の俳優《ワザヲギ》・相撲などの起原を説く海幸彦・山幸彦の争ひなどもさうで、水神と地霊との力比べを説く呪詞の、叙事詩化した物から出てゐるのである。水神に相撲の絡んでゐるのは、諏訪と鹿島両明神の力比べもさうであつて、海を越えて来た――天鳥船神が伴うてゐる――神を鹿島とし、地霊を諏訪として、神話化したのである。
河童が相撲を好んで、人を見れば挑みかけるとしてゐる伝承も、基く所は古いのであつて、九州方の角力行事なども、妖怪化した水の侏儒河童を対象にした川祭り[#「川祭り」に傍線]が、大きな助勢をした様である。そして、春祭りに行うた筈のが、五月の田遊びにも、七月の水神祭りにも、処々の勝手で、行ひ改められたのであらう。然るに、大凡、海から来る神の、川を溯つて、村々に臨む時期が、段々、きまつて来た。「夏と秋とゆきあひの早稲のほの/″\と」目につく頃である。
かうして、年一度来る筈の、海の彼方のまれびと神[#「まれびと神」に傍線]が、度々来ねばならなくなり、中元を境にして、年を二つに分けて考へ、七月以後は春夏のくり返しと言ふ風の信仰が出て来た。此は、夏の禊ぎが盛んになつた為でゞもあつた。禊ぎには、まれびと神[#「まれびと神」に傍線]の来臨が伴ふものとしてゐた信仰からは、夏から秋への転化を、新しい年のはじまりと考へないでは居られなかつたのだ。
この時期は、仏家でも、盂蘭盆会を修する時である。歳の果から初春にかけて、海の彼方のまれびと[#「まれびと」に傍線]が出て来、眷属となつてゐる数多の精霊も、其に随うて、村へ集る。村人の成年戒を受けて後死んだ者の魂は、皆、海の彼方の国――常世の国――に行つてゐて、それらが来るのである。で、年を元に戻し、春を齎す呪詞の神の来る行事が、夏の終りにも再、行はれる様になると、常世の精霊たちも、秋のはじめに今一度、人間の村を訪れる事になる。其が、盂蘭盆と一つに考へられると、秋の魂祭りとなる。此中元に来るまれびと[#「まれびと」に傍線]の考へは、海邑から移つた山野の村の勢力の殖えた時代に、既に出てゐた。従つて、海に続いた川を遥かに溯つて来るもの、とせられる様になつた。
海岸に神を迎へた時代にも、地方によつては、此まれびと[#「まれびと」に傍線]の為、一人、村から離れ住んで、海波の上に造り架けた様な、さずき[#「さずき」に傍線]ともたな[#「たな」に傍線]とも謂はれた仮屋の中で、機を織つてゐる巫女があつた。板挙《タナ》に設けた機屋の中に居る処女と言ふので、此を棚機《タナバタ》つ女《メ》と言うた。又弟たなばた[#「弟たなばた」に傍線]とも言ふのは、神主の妹分であり、時としては、最高位の巫女の候補者である為でゞもあつた。此棚機つ女の生活は、早く、忘れられる時代が来た。でも、伝説化して、今までも残つてゐる。したてる媛[#「したてる媛」に傍線]の歌と言ふ大歌|夷曲《ヒナブリ》の「天《アメ》なるや弟たなばたの領《ウナ》がせる珠のみすまる……」(神代紀)など言ふ句の伝つたのも、水神の巫女の盛装した姿の記憶が出てゐるのだ。これが初秋であり、川水に関係がある上に、機織る女性にまづ迎へられる男性と言ふ、輪廓の大体合うた処から、七夕の織女・牽牛二星を奠《マツ》る行事といふ風に、殆ど完全に、習合せられて了うた。
七夕の供へ物・立て物などを川へ流す外、川に棚や縄を懸けて、盆棚同様の供物をする処もある。又、害虫や睡魔を払ひ棄てる風俗さへ添うてゐる。此から見ると、水神祭りの形が、不自然な点の残らぬほど、星祭りに変つて行つても、やつぱりどこかに、古代の影は残つてゐたのだ。此水神祭りは、元々、夏祓へと同じものであつて、村や家に迎へる方は、盂蘭盆会に任せて了うて、水神迎へと禊ぎとの痕跡だけを、七夕の乞巧奠に止めた。さうして、新しく水神祭りを始めて、灌漑の用水から、水死の防止などまでをも、委托する事になつたのである。
盂蘭盆会も、仏法種よりも、寧、古代信仰が多く残つてゐる様だ。飛鳥朝の末などの盂蘭盆の記録などの、異国臭いのと比べると、後代のは、よつぽど和臭を露骨にしてゐる。盆棚なども、仏家の式と言ふより、陰陽道を経て移つて行つた形なる事を見せてゐる。還つて来る精霊にも、尊者と従者或は無縁の霊などを分けてゐる。地方によつては、歳の夜から正月へかけて、戻つて来る聖霊の一群のあることを信じてゐて、其と歳棚へ来る歳徳神との間に区別を立てゝも居ない。「つれ/″\草」には、東国の魂祭りの、大晦日の夜に行はれた印象を書いてゐる。だから、盆に戻る聖霊は、水神祭りの対象でもあり、夏祓へに臨むまれびと[#「まれびと」に傍線]の一群でゞもあつたのだ。
夏にも鎮魂の式は忘れられてゐなかつた。飛鳥朝宮廷にも既に行うた記録のある元旦拝賀の儀の中の、諸氏の奏寿は、鎮魂祭の分裂したものであり、室町あたりから書き物に見える七夕の翌日から盆の前日にまで亘つた、生御魂《イキミタマ》の「おめでた言《ゴト》」と一つ事であつた。親や親方・烏帽子親を拝みに行く式である。宮廷では、主上自身、上皇・皇太后を拝みに、朝覲行幸《テウキンギヤウカウ》を行はせられた。縁女・奉公人の藪入りも、上元・中元をめど[#「めど」に傍線]とした親拝みの古風である。即、鎮魂の一様式でもあつた。
かうして見ると、秋祭りには、穂祭り・神嘗祭りの意義のものが多く、真の秋祭りとも言ふべき新嘗祭りは、段々、消えて行つた。さうして其上に、夏祭りと同根の、夏祓への分化した様式が、七夕節供や水神供となり、又祭りの余興としか考へられなくなつた相撲があり、すつかり見え[#「見え」に傍点]の変つて了うたのが、盂蘭盆であり、何ともつかぬ年中行事となつたのが、盆礼の「おめでたごと」であつた。
かう言ふ夏祓へと、穂祭りとを合体させたものが、住吉の宝の市の神輿渡御であつた。桝を売るから、桝市とも言ふ。此方から見れば、秋祭りであるが、神輿洗ひや童相撲などから見ると、祓へであり、水神祭りでもある。而も、其数日後の九月尽に、神有月に参加せられるのを見送るのだと言ふが、此は恐らく、秋から冬への季の移り目の祓への考への上に、田の神上げの行事がとりこまれてゐるのらしい。秋の終りに、田の神を上げると言ふ考へは、田の行事は秋きりとした考へが、事実の上にまだ秋果てぬ十月でも、田の神は還るものと、言語の上だけで信じた為もある。穂祭りの秋祭りも、さうした秋冬に対する伝承上の限界が事実を規定して、新嘗のおとりこし[#「おとりこし」に傍線]など言ふ考へさへ添うて来たのかも知れない。
冬の行事の、秋にとりこされる様な風習のあつた痕は段々見える。中には、冬の行事なるが故に、一月以前にくりあげて行ふ、と言ふ風までも出来たらしい。門徒宗では親鸞忌の報恩講を、一月くりあげて、十月に修して、此をおとりこし[#「おとりこし」に傍線]と言うてゐる。十一月の冬至を冬の果と見る様な考へも、この風を助成したであらう。が、新嘗や鎮魂祭が冬の極み、と言ふ考へも伝つてゐた為、十二月にあるべき事を十一月にとり越してゐる。月次祭りの変形らしい。京辺の大社の冬祭りは、大抵十一月の行事になつてゐた。除夜から元旦へかけての、春祭りであるはずの条件を備へた、春日若宮のおん祭り[#「おん祭り」に傍線]は、十一月の末に、田遊びや作物の祝言を執り行ふ。お火焼《ホタ》きの神事は、正月十四日の左義長や、除夜にあつた祇園の柱焼きの年占などを兼ねた意味のものであつて、初春を意味する日の前日にするはずのものだ。だから、上元の前日や、節分の日や、大晦日の夜に行ふべきのが、十一月中の神事ときまつてゐた。
四
市はもと、冬に立つたもので、此日が山の神祭りであつた。山の神女が市神であつた。此が、何時からか、えびす神[#「えびす神」に傍線]に替つて来、さうして、山の神に仕へる神女、即山の神と見なされたり、山姥と言ふ妖怪風の者と考へられたりしたのである。だから、年の暮れ、山の神が刈り上げ祭りに臨む日が、古式の市日であつた。此意味で、天満宮節分の鷽替《ウソカ》へ神事などは、大晦日の市と同じ形を存してゐるのだ。其山の神祭りも、市神祭りの夷講も、十月にとり越されて居る。而も、冬祓への変形らしい誓文払ひは、夷講に附随してゐる。正月の十日夷も十四日或は除夜の転化した祭日で、富みを与へる外に、祓へてくれるものであつたので、此も、春待つ夜の行事であつた。其が、市神・山の神の祭りと共に、繰り上げられて、十月の内に行はれる様になつた。山の神の祠の火焼《ホタケ》は、やはり、十一月のお火焼き神事と一つものであつた。
海から来る常世のまれびと[#「まれびと」に傍線]が、やはり海の夷神に還元するまでは、山の神が代つて祓へをとり行うた。これは宮廷の大殿祭《オホトノホガヒ》や大祓へに、山人と認定出来る者の参加する事から知れる。山人は、山の神人であり、山の巫女が山姥となつて、市日には、市に出て舞うた。此が山姥舞である。
大和磯城郡穴師山は、水に縁なく見えるが、長谷川の一源頭で、水に関係が深かつた。穴師|兵主《ヒヤウズ》神は、あちこちに分布したが、皆水に交渉が深い。山人の携へて来るものが、山づと[#「山づと」に傍線]と呼ばれて、市日に里人と交易せられた。山蘰《ヤマカヅラ》として、祓へのしるしになる寄生木《ホヨ》・栢《カヘ》・ひかげ・裏白の葉などがあり、採り物として、けづり花[#「けづり花」に傍線](鶯や粟穂・稗穂・けづりかけ[#「けづりかけ」に傍線]となる)・杖などがあつた。柳田先生の考へによれば、採り物のひさご[#「ひさご」に傍線]も、山人のは、杓子であつた。
山人といふ語は、仙と言ふ漢字を訓じた頃から、混乱が激しくなる。大体、其以前から、山人は山の神其ものか、里の若者が仮装したのか、わからなかつた。平安の宮廷・大社に来る山人は、下級神人の姿をやつしたものと言ふ事が知れてゐた。
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あしびきの 山に行きけむやまびとの心も知らず。やまびとや、誰(舎人親王――万葉巻二十)
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この歌では、元正天皇がやまびと[#「やまびと」に傍線]であり、同時に山郷山|村《フレ》(添上郡)の住民が、奈良宮廷の祭りに来るやまびと[#「やまびと」に傍線]であつた。この二つの異義同音の語に興味を持つたのだ。仙はやまびと[#「やまびと」に傍線]とも訓ずるが、「いろは字類抄」にはいきぼとけ[#「いきぼとけ」に傍線]とも訓んでゐる。いきぼとけ[#「いきぼとけ」に傍線]の方が上皇で、山の神人の方が、山村の山の神であり、山人でもある村人であつた。
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あしびきの山村《ヤマ》行きしかば、山人の我に得しめし山づとぞ。これ(太上天皇――万葉巻二十)
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此が、本の歌になつた天皇の作である。これにも、語の幻の重りあうたのを喜んで居られるのが見える。山人を仙人にとりなして「命を延べてくれるやまびと[#「やまびと」に傍線]の住む山村へ行つた時に、やまびと[#「やまびと」に傍線]が出て来て、おれに授けた、山の贈り物だ。これが」と言ひ出された興味は、今でも訣る。
高市・磯城の野に都のあつた間は、穴師山の神人が来、奈良へ遷つてからは、山村から来る事になつたらしい。この山人が、次第に空想化して、山の神・山の精霊・山の怪物と感じられる様にもなつたのだ。穴師の神人は山人でありながら、諸国に布教して歩いた。それを見ると、里と交通の絶えた者どもでもなかつたのである。唯、市日と、宮廷・豪家の祓へに臨む時だけは、山蘰を捲き、恐らく、からだ中も、山の草木で掩うてゐた事があるのだらう。
山城京になると、山人は、日吉から来たのらしい。三輪を圧へる穴師が、三輪山の上にあつた様に、加茂を制する為の山の神は、高く聳える日吉の神でなければならなかつた。だから、はじめは、山人も比叡の神人の役であつたらう。而も、此が媚び仕へることによつて、神慮を柔げるものとしたのだ。加茂にも、平野にも、山人が祭りに出たのは、媚び仕への形である。松尾が日吉と同じ神とせられてゐるのは、平野が大倭神であり、加茂が三輪系統のあぢすきたかひこねの命[#「あぢすきたかひこねの命」に傍線]としての伝へもあつたからであらう。日吉の神人は、松尾の社に近く住んで居たらしく、桂の里との関係も、考へられぬではない。
加茂祭りの両蘰《モロカヅラ》は、葵と桂とであつた。だから、平安京の山人は、簡単な姿をしてゐたのであらう。そして、其祓へがすんで、神のかげ[#「かげ」に傍線]を受けるものゝしるし[#「しるし」に傍線]として、山づとの両蘰をくばつて歩いたのであらう。神になつた扮装の、極度に形式化したものが、蘰で頭を捲いたのだ。其が更に、物忌みの徽章化したのが両蘰の類で、標《シ》め縄・標め串と違はぬ物になつたのである。
冬の祭りは、まづ鎮魂であり、又、禊ぎから出たものである。春祭りのとりこし[#「とりこし」に傍線]もあるが、冬の月次祭出のものもあり、新室ほかひ[#「新室ほかひ」に傍線]に属するものもある。第一にきめてかゝらねばならぬのは「ふゆ」といふ語の古い意義である。「秋」が古くは、刈り上げ前後の、短い楽しい時間を言うたらしかつたと同様に、ふゆ[#「ふゆ」に傍線]も極めて僅かな時間を言うてゐたらしいのである。先輩もふゆ[#「ふゆ」に傍線]は「殖ゆ」だと言ひ、鎮魂即みたまふり[#「みたまふり」に傍線]のふる[#「ふる」に傍線]と同じ語だとして、御魂が殖えるのだとし、威霊の信頼すべき力をみたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]と言ふのだとしてゐる。即、威霊の増殖と解してゐるのである。触るか、殖ゆか、栄《ハ》ゆか。古い文献にも、既に、知れなかつたに違ひない。
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誉田の日の皇子 大雀《オホサヽギ》 おほさゝぎ、佩かせる太刀。本つるぎ 末《スヱ》ふゆ。冬木のす 枯《カラ》が下樹《シタキ》の さや/\(応神記)
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たゞ、此|国栖《クズ》歌で見ると、所謂国栖[#(ノ)]奏の意義が知れる。此は、国栖人のする奏寿で、鎮魂の一方式なのだ。此太刀は常用の物でなく、鎮魂の為の神宝なので、石[#(ノ)]上の鎮魂の秘器なる布留の御霊の様に、幾叉にも尖が岐れて居た。劔と言うたのは、両刃《モロハ》を示すので、太刀の総名であり、根本は両刃の劔の形である。尖の方では、分岐して幾つにもなつてゐる。かう言つて来て、祓へに使ふ採り物の木の方に移るのだ。
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枯野《カラヌ》を塩に焼き、其《シ》があまり琴に作り、かきひくや 由良の門《ト》の門中《トナカ》の岩礁《イクリ》に ふれたつ なづの木の。さや/\(仁徳記)
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と言ふのも、実は国栖歌の同類である。恐らくは、謡ひ納《ヲサ》めの末歌ではなからうか。
ふゆき[#「ふゆき」に傍線]と言ふのは、冬木ではなく、寄生《ホヨ》と言はれるやどり木[#「やどり木」に傍線]の事であらう。「寄生木《フユキ》のよ。其」と言ひつゞけて、本末から幹《カラ》の聯想をして「其やどつた木の岐れの太枝《カラ》の陰の(寄生)木のよ。うちふるふ音のさや/\とする、この通り、御身・御命の、さつぱりとすこやかにましまさう」と言ひつゞけて、からがしたき[#「からがしたき」に傍線]からからぬ[#「からぬ」に傍線]を起して、しまひに、採り物のなづの木[#「なづの木」に傍線]の音のさや/\に落して行つたのだ。枯野を舟の名とする古伝承は疑はしい。
此「なづの木よ。いづれのなづぞ。」かう言ふ風な言ひ方で「幹《カラ》ぬよ。其木の幹を海渚に持ち出で焼き、禊ぎさせる今。此弾く琴も、其幹のづぬけた部分で作り、かう掻きひくところの、音のゆら/\でないが、由良の海峡《セト》の迫門中《トナカ》のよ。其岩礁に物が触れるではないが、御身に触れ撫でようと設けた此なづの木の、御衣にふれる音よ。そのさや/\と栄えましまさう。」かう言つた風に、天子の呪力から、自分の採り物として頭にかざした寄生木に寄せ、又撫で物として節折りに用ゐたなづの木[#「なづの木」に傍線]――恐らくなすの木[#「なすの木」に傍線]で、聖木つげ[#「つげ」に傍線]の類のいすの木[#「いすの木」に傍線](ひよん[#「ひよん」に傍線]ともいふ)――に寄せて行く間に、建て物の祝言として、き(木)を繰り返し、鎮魂関係の縁語ふゆ・さや/\・潮水《シホ》・琴・ゆら・ふる・なづなどを、無意識ながらとりこんでゐるのである。
寄生木は、外国でもさうである如く、我国でも、神聖な植物としてゐた。
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あしびきの山の木末《コヌレ》のほよ[#「ほよ」に傍線]とりて、かざしつらくは、千年|祝《ホ》ぐとぞ(万葉巻十八)
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家持の歌である。此木を鈿《ウズ》に挿して、正月の祝福をしたのであつた。此は、山人のするやまかげ[#「やまかげ」に傍線]・やまかづら[#「やまかづら」に傍線]の一つだつたのである。ほよ[#「ほよ」に傍線]ともふゆ[#「ふゆ」に傍線]とも言うたからの懸け詞で、なづ[#「なづ」に傍線]と撫づ[#「撫づ」に傍線]とをかけたと等しい。ふゆ[#「ふゆ」に傍線]に、殖ゆ[#「殖ゆ」に傍線]は勿論触る[#「触る」に傍線]を兼ねて、密着《フル》の意をも持つてゐるのだ。鎮魂式には、外来の威霊が新しい力で、身につき直すと考へた。其が、展開して、幾つに分裂《フヤ》しても本の威力は減少せない、と言ふ信仰が出来た。
鎮魂式に先だつ祓への後に、旧霊魂の穢れをうつした衣を、祓への人々に与へられた。此風から出て、此衣についたものを穢れと見ないで、分裂した魂と考へる様になつた。だから、平安朝には、歳暮に衣配《キヌクバ》りの風が行はれた。春衣を与へると言ふのは、後の理会で、魂を頒ち与へるつもりだつたのである。即みたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]の信仰である。この場合のふゆ[#「ふゆ」に傍線]は殖ゆなどの動詞ではなく、語根体言であつて、「分裂物」などの意であるが、かうした言語の成立は、類例が少い。語頭に来る語根体言はあつても、語尾に来るものは珍らしい。
此は、此語が極めて長く、呪詞・叙事詩の上に伝承せられてゐた事を示してゐるのだ。霊の分裂を持つことは、後代の考へ方では、本霊の持ち主の護りを受ける事になる。其で、恩賚など言ふ字をみたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]と読むやうになり、加護から更に、眷顧を意味する事にもなつた。給ふ・賜はる・みたまたまふ[#「みたまたまふ」に傍線]など言ふ語さへも、霊の分裂の信仰から生れた。みたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]と言ふ語は、鎮魂の呪詞から出たものであらうが、其用途は次第に分岐して行つたらしい。数主並叙法とも言ふべき発想法をしてゐる。
家の祝言が、同時に、家あるじの生命・健康の祝福であり、同時にまた、家財増殖を願ふ事にも当る。時としては、新婚の夫婦の仲の遂げる様、子の生み殖える様に、との希望を予祝する目的にも叶ふのであつた。此みたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]の現れる鎮魂の期間が、ふゆまつり[#「ふゆまつり」に傍線]と考へられたのであらう。そして、ふゆ[#「ふゆ」に傍線]だけが分離して、刈り上げの後から春までの間を言ふ様になり、刈り上げと鎮魂・大晦日との関係が、次第に薄くなつて行つて、間隔が出来た為、冬の観念の基礎が替つて行つた。そして暦の示す三个月の冬季を、あまり長過ぎるとも感じなくなつたと見える。
五
私はもう春まつりの事に、多少触れて来た。こゝらでまつり[#「まつり」に傍線]の原義を説いて、此文章を結びたいと思ふ。霊魂の分裂信仰よりも、早く性格移入を信じてゐた古代人は、呪詞を威力化する呪詞神の霊力が、呪詞を唱誦する人に移入して、呪詞神其ものとする、とした事は言うた。神の希望は、人間には命令であり、規定であつた。此神意を宣《ノ》る呪詞を具体化するのは、唯伝達し、執行するだけであつた。神の呪力は、人を待たずとも、効果を表すが、併し、其伝誦を誤ると、大事である。だから、御言伝宣者《ミコトモチ》は、選ばれなくてはならなかつた。まつる[#「まつる」に傍線]の語根まつ[#「まつ」に傍線]は、期待の義に多く用ゐられるが、もつと強く期する心である。焦心を示す義すらあつた。神慮の表現せられる事が「守《マ》つ」であつた。卜象をまち[#「まち」に傍線]と言ふのも、其為である。神慮・神命の現れるまでの心をまつ[#「まつ」に傍線]と言ふまち酒[#「まち酒」に傍線]などは、それである。単なる待酒・兆酒ではなかつた。
まつ[#「まつ」に傍線]を原義のまゝで、語根として変化させると、まつる[#「まつる」に傍線]・またす[#「またす」に傍線]と言ふ二つの語が出来た。まつる[#「まつる」に傍線]は神意を宣る事である。そして、神自身宣するのでなく、伝宣する意義であつたらしい。「少御神《スクナミカミ》の、神寿《カムホ》きほきくるほし、豊寿《トヨホ》きほき旋廻《モトホ》し、麻都理許斯御酒《マツリコシミキ》ぞ」(仲哀記)とあるのを見ると、少彦名神が、呪詞神の酒ほかひの詞を、神寿き豊寿きに、ほき乱舞し、ほき旋転あそばされて、宣《マツ》りつゞけて出来た御酒ぞと言ふのか、少彦名のはじめた呪詞を、神人がほき宣《マツ》り続けて、作られた御酒ぞ、ともとれる。どちらにしても、こゝのまつる[#「まつる」に傍線]は、少彦名自身が、自分の呪詞を自ら宣《マツ》られたり、献り来られた御酒だとは言へない。併し、まつる[#「まつる」に傍線]に呪詞を唱へると言ふ義のあることは知れる。またす[#「またす」に傍線]は、伝宣せしめるので、神の側の事である。神意を伝宣し、具象せしめにやることである。其が広く遣・使などに当る用語例に拡がつた。
だから、第一義のまつり[#「まつり」に傍線]は、呪詞・詔旨を唱誦する儀式であつたことになる。第二義は、神意を具象する為に、呪詞の意を体して奉仕することである。更に転じては、神意の現実化した事を覆奏する義にもなつた。此意義のものが、古いまつり[#「まつり」に傍線]には多かつた。前の方殊に第二は、まつりごと[#「まつりごと」に傍線]と言ふ側になつて来る。其が偏つて行つて、神の食国《ヲスクニ》のまつりごと[#「まつりごと」に傍線]の完全になつた事を言ふ覆奏《マツリ》が盛んになつた。此は神嘗祭りである。
其以下のまつり[#「まつり」に傍線]は、既に説いて了うた。かうして、春まつり[#「春まつり」に傍線]から冬まつり[#「冬まつり」に傍線]が岐れ、冬まつり[#「冬まつり」に傍線]の前提が秋まつり[#「秋まつり」に傍線]を分岐した。更に、陰陽道が神道を習合しきつて後は、冬祓へ[#「冬祓へ」に傍線]より夏祓へ[#「夏祓へ」に傍線]が盛んになり、其から夏まつり[#「夏まつり」に傍線]が発生した。さうして、近代最盛んな夏祭りは、実は、すべての祭りの前提として行はれた祓への、変形に過ぎなかつたのである。
此が、祭りについての大づかみな話である。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
1929(昭和4)年4月10日
※底本の題名の下に書かれている「昭和二年六月頃草稿」は省きました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
※平仮名のルビは校訂者がつけたものである旨が、底本の凡例に記載されています。
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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