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雛祭りの話
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)松竹梅湯島掛額《シヨウチクバイユシマノカケガク》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其|由緒《ユカリ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)大宮之※[#「口+羊」、第3水準1-15-1]《オホミヤノメ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)遠い/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一 淡島様

黙阿弥の脚本の「松竹梅湯島掛額《シヨウチクバイユシマノカケガク》」は八百屋お七をしくんだものであるが、其お七の言葉に、内裏びな[#「内裏びな」に傍線]を羨んで、男を住吉様《スミヨシサマ》女を淡島様《アハシマサマ》といふ条《クダ》りが出てくる。お雛様を祭る婦人方にも、存外、淡島様とお雛様との関係を、知らぬ人が多いことゝ思ふ。
古くは願人《グワンニン》といふ乞食房主があつて、諸国を廻りめぐつて、婦人たちに淡島様の信仰を授けまはつたのである。そして、婦人たちからは、衣類を淡島様に奉納させたのであつた。
其|由緒《ユカリ》はかうである。昔住吉明神の后にあはしま[#「あはしま」に傍線]といふお方があつて、其が白血《シラチ》・長血《ナガチ》の病気におなりになつた。それで住吉明神が其をお嫌ひになり、住吉の社の門扉にのせて、海に流したのである。かうして、其板船は紀州の加太の淡島に漂ひついた。其を里人が祀つたのが、加太の淡島明神だといふのである。此方は、自分が婦人病から不為合せな目を見られたので、不運な人々の為に悲願を立てられ、婦人の病気は此神に願をかければよい、といふ事になつてゐるのである。処々に、淡島の本山らしいものが残つてゐるが、加太の方がもとであらうと思ふ。
東京の近くで物色すると、三浦半島の淡島があり、中国では出雲の粟島、九州に入ると平戸の粟島などが有名である。凡そ、祭神は、すくなひこなの命[#「すくなひこなの命」に傍線]といふ事になつてゐる。特に、出雲のは、此すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]が粟幹に弾かれて渡られたのだ、といふのである。すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]は其程小さい神様なのである。国学者の中でも、粟島即、すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]説を離さぬ人がある。
処が古事記・日本紀などを覗いた方には、直ぐ判ることだが、すくなひこなの命[#「すくなひこなの命」に傍線]以外にちやん[#「ちやん」に傍点]と淡島神があつて、あの住吉明神の后同様に、海に流されてゐるのである。即、天照大神などを始め、とてつ[#「とてつ」に傍点]もない程沢山の神々の親神であるいざなぎのみこと[#「いざなぎのみこと」に傍線]・いざなみのみこと[#「いざなみのみこと」に傍線]の最初にお生みになつたのが、此淡島神で、次が有名な蛭子神であつた。
遠い/\記・紀の昔から、既に、近世の粟島伝説の芽が育まれてゐたことが訣る。一体、此すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]は、常世の国から、おほくにぬしの命[#「おほくにぬしの命」に傍線]の処へ渡つて来た神であり、而も、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]と共に、医薬の神になつてゐるし、粟に引かれて来た粟といふ聯関もあり、かた/″\淡島神とごつちや[#「ごつちや」に傍点]にされる原因に乏しくないのである。でも、其は後世の合理的な見解に過ぎないので、もつと色々な方面から、お雛様の信仰と結び附いたのであつた。
此淡島様の祭日は三月三日であつて、淡島を祈れば、婦人病にかゝらず、丈夫な子を持つ、と信ぜられてゐたのである。此は、三日には女が海辺へ出かけて、病気払ひの祓除《ミソギハラヘ》をした遺風が底に流れてゐるらしい。一方、三月三日を祓除の日とする事は、日本ばかりではなく、支那にもあつた事で、寧、大部分支那から移された風と見ることが出来る。
唯、単に春やよひの季節のかはる頃、海に出て、穢れを洗ふといふのは、古くからあつたと見られる。支那では、古く三月の初の巳の日、即、上巳の日に、水辺に出て祓除をし、宴飲をした。其が形式化して曲水《ゴクスヰ》の宴ともなつたので、通常伝へる処では、魏《ギ》の後、上巳をやめて三日を用ゐる様になつたが、名前は依然、上巳で通つてゐるのだといふ。同じ例は端午の節供に見出される。始め、五月最初の午の日であつたものが、五日に決められても、やはり、端《ハジ》めの午なのである。
かうして支那の信仰が、日本在来の宗教上の儀礼と結合して、上巳の祓へといふものが盛大に行はれるに至つたのであつた。唯、必しも女ばかりが、此日に祓除した訣ではなかつたらうが、ともかく、女の重要行事であつた事だけは認められるであらう。

     二 雛人形と女神と

此までの学者の説明では、其時に穢れを移して、水に流す筈の紙人形が流されずに、子供・女の玩び物になつたのが、雛祭りの雛だ、といふことになつてゐる様である。穢れを移す人形とは即、撫《ナ》で物《モノ》・形代《カタシロ》・天児《アマガツ》などの名によつて呼ばれるものである。なる程、かう説明すると、上巳の節供と雛人形との関係、延いては淡島との聯絡もつかう。が、も少し考へて見る必要がないであらうか。
従来の我が国の好事家肌の学者の研究では、人形の歴史といふものが、比較的、時代の新しい処に限られてゐる様である。殆ど此撫で物[#「撫で物」に傍線]位が人形の起原をなすもの位に考へられてゐるが、なか/\そんな短い歴史ではかたづけられないのである。
もとはやはり、信仰上の対象として、生れたものに違ひはないが、祭りの中心行事に人形の与ることは、平安朝あたりから近世までは証拠がある。こんな人形は主に、さいのを[#「さいのを」に傍線]又はせいのう[#「せいのう」に傍線]と呼ばれてゐた。此を直に御神体と見立てたといふ程の、古代の形は見あたらぬが、万葉集あたりに採録された、民謡の中には、古事記・日本紀に洩れた昔物語であつて、極めて素樸な身振り芝居、或は偶人劇の舞踊であつたらしいものが、相応に見つけられるのである。万葉巻十三其他に見えてゐる劇的の脚色を持つた長歌の類には、其を演ずる人或は人形を予期することなしには、独立して存在出来ぬ様なものがあるのである。何かしら身振りが入らなければ、文句だけでは足りないのである。
さうした神事に使はれる偶人が、次第に遊戯化して来る道程には、きつと、此神事演劇が梯渡しをしてゐるに違ひない。
勿論、平安朝頃の上流の女たちの玩び物には撫《ナ》で物《モノ》・形代《カタシロ》・天児《アマガツ》などいふ名で呼ばれた人形はあつたのであらうが、祓除の穢れを移す人形を、其儘、玩具にしたとはいへない。形が同じである処から、同様な名前を附けたと見ることも出来るし、殊に、天児《アマガツ》などは祓除以外の神事の人形であることを見せてゐるものらしい。更に更級日記に見えてゐるをみな[#「をみな」に傍線]神なども、単なる形代ではなかつたであらうと思はれる。
厳粛な宮中の祭祀の中で、一種ひようきん[#「ひようきん」に傍点]な趣きを見せてゐたものに、大宮之※[#「口+羊」、第3水準1-15-1]《オホミヤノメ》祭りがある。東国風を多量に取り込んで、其儀礼は野趣横溢、文字通りなものであつた。此には名高い大宮之※[#「口+羊」、第3水準1-15-1]祭りの祭文があつて、其が誦まれる対象は、宮中の八神殿といふよりも、寧、其折臨時に拵へる竹の柄につけられた華蓋《キヌガサ》、其に結び下げた男女三対、並びに一人の従者の人形にあつたらしい。つまり、其が祀られたらしいのである。此が宮中では、古くひゝな[#「ひゝな」に傍線]といはれてゐた様である。
大宮之※[#「口+羊」、第3水準1-15-1]祭りとは十二月の初午の日に行はれたもので、後世の二月の初午の稲荷《イナリ》祭りの源流だ、と考へられてゐる。此祭りの目的には、悪事災難を除却するといふ意味はあつたのであるが、其ひゝな[#「ひゝな」に傍線]たちを必しも、撫で物[#「撫で物」に傍線]其他の如く、人間の穢れを脊負つて往つてくれるものとも決められない。通常は此を以て、大宮之※[#「口+羊」、第3水準1-15-1]以下の神々の象徴と見てゐたらしいのである。
ひゝな[#「ひゝな」に傍線]といふ言葉は、古く長音符の用法を発明しなかつた時代に、長音を表すのに同音を重ねたものであらう。鶯《ウグヒス》をほゝき鳥[#「ほゝき鳥」に傍線]、帚《ハウキ》をはゝき[#「はゝき」に傍線]、蕗をふゝき[#「ふゝき」に傍線]など言ふ風に表すことが多かつた。此ひゝな[#「ひゝな」に傍線]も其一例である。であるから、ひゝな[#「ひゝな」に傍線]が約まつて、ひな[#「ひな」に傍線]になつたといふ様なことは、万が一にもないことで、ひな[#「ひな」に傍線]を長音化して用ゐることが多かつた為でなければならぬ。
想像すれば、ひな[#「ひな」に傍線]は一対のものといふ程の意味を持つてゐたらしく考へられるが、暫く其危険を避けても、鳥の雛の如く可憐なもの、又は形代の意味の人間のひながた[#「ひながた」に傍線]といふ様な語から、出たものでないことは明言出来る。
前にもいつた「女神」があるからには「男神」もあつたのであらう。其を合せて、ひゝな神[#「ひゝな神」に傍線]と言うたことも、略推定出来るのである。

     三 奥州のおしらさま[#「おしらさま」に傍線]

此処まで述べて来ると、ひらりと私の頭をよぎるものがある。此には何らの関係もないことかも知れぬ。或は、切り離せないものであるかも訣らない。ともかく、おもしろい類似を持つてゐるのは、奥州地方から北海道にかけて行はれてゐる、養蚕・狩猟の神と考へられて来たおしら様[#「おしら様」に傍線]といふ、人形式の御神体のあることである。
おしら様[#「おしら様」に傍線]には馬などの動物の頭のもあるが、大体に於て、男女一対のものが多い様である。而も、しら[#「しら」に傍線]・ひな[#「ひな」に傍線]は音韻の関係が、頗、密接であるから、万更、没交渉のものと思はれぬ。
さすれば、ひな[#「ひな」に傍線]は男神・女神の揃つたもので、祓除の形代《カタシロ》以前からあつたものと思うてもよからう。それが三月三日に祭日を定めることになつたのは、大宮之※[#「口+羊」、第3水準1-15-1]祭りと同様此偶神を対象として、この日の儀礼を行うた家々の民間祭祀から、出てゐるものではなからうか。
さうとすれば、其処に、淡島風の形代信仰と一致融合すべき点が出来てくる訣である。尤、淡島様の配流は、撫で物[#「撫で物」に傍線]の水に捨てられる形が、人格化せられて、事実の如く考へられて来たものであらうかと思ふ。
茲に、一つ断つておきたいことがある。崇神天皇の巻に見えた、山城のひら坂[#「ひら坂」に傍線]の上で、腰裳の少女が童謡《ワザウタ》を歌ふ、あの句の中に「ひめなすびすも」と出てくることである。「姫の遊びすることよ」の意で、雛人形を玩ぶ後世の雛祭りの古い形だといふ様な考へは、撫で物[#「撫で物」に傍線]にせおはせて海上遠く放ちやつてよからうではないか。



底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第二」大岡山書店
   1930(昭和5)年6月20日発行
初出:「愛国婦人 第四七九号」
   1922(大正11)年3月
※底本の題名の下に書かれている「大正十一年三月「愛国婦人」第四七九号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年1月28日作成
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