青空文庫アーカイブ
愛護若
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)読本《ヨミホン》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|稚《ワカ》とも
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+畏」、第3水準1-87-57]《ヤ》き栗
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)愛護《アイゴ》[#(ノ)]若《ワカ》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
若の字、又|稚《ワカ》とも書く。此伝説は、五説経の一つ(この浄瑠璃を入れぬ数へ方もある)として喧伝せられてから、義太夫・脚本・読本《ヨミホン》の類に取り込まれた為に、名高くなつたものであらうが、あまりに末拡がりにすぎて、素朴な形は考へ難くなつてゐる。併し、最流行の先がけをした説経節の伝へてゐるものが、一番原始に近い形と見て差支へなからう。
何故ならば、説経太夫の受領は、江州高観音|近松寺《ごんしようじ》から出され、四の宮明神の祭礼には、近国の説経師が、関の清水に集つた(近江輿地誌略)と言ふから、唐崎の松を中心に、日吉・膳所を取り入れた語り物の、此等の人々の為に綴られた物と言ふ想像は、さのみ無理ではあるまい。今其伝本が極めて乏しいから、此処には、わりあひに委しい梗概を書く。
嵯峨天皇の御代に、二条の蔵人前の左大臣清平といふ人があつた。御台所は、一条の関白宗嗣の女で、二人の仲には、子が無かつた。重代の重宝に、刃《ヤイバ》の大刀《タチ》・唐鞍《カラクラ》(家のゆづり、やいばの大刀。からくら。天よりふりたる宝にて)の二つがあつた。第六天の魔王の祟りで、女院御悩があつたが、天子自ら二才の馬に唐鞍を置き、刃の大刀を佩いて、紫宸殿に行幸せられると、魔王は、霊宝の威徳によつて、即座に退散して、御悩|忽《たちまち》平癒した。天子御感深く、その他の家々にも名宝があらうと思はれて、宝比べを催されたところ、六条判官行重は上覧に供へるべき宝が無くて、面皮をかいて居たのを、清平が辱しめて、退座を強ひる。
判官には、五人の男子があつて、嫡子をよしなが[#「よしなが」に傍線]といふ。家に戻つて今日の恥辱の模様を話すと、よしなが[#「よしなが」に傍線]が父に讐討ちの法を教へる。其は、子はどんな宝も及ばない宝である。幸、二条蔵人には子が無いから、奏上して、子比べをして、恥をかゝせようと言ふのである。子福者の行重は、非常な面目を施した。御感のあまりよしなが[#「よしなが」に傍線]に、越後守を受領せしめられた。
清平は、今度は、あべこべに辱しめられて、家に帰つて、御台所と相談して、初瀬《ハセ》寺の観音に、申し子を乞ふ事になる。七日の満願の日に、夫婦の夢に、菩薩が現れて、子の無い宿因があるのだから、授ける事は出来ない。断念して帰れ、と告げさせられる。夫婦は、さらに三日の祈願を籠めて、一向《ひたすら》納受を願ふと、一子は授けてやるが、三つになつた年に、父母のどちらかゞ死なゝければならぬと言ふのである(一段目)。
六条判官は、尚恨が霽れぬ上、相手が初瀬寺に参籠して、何か密事を祈願して居ると言ふ事を聞いて、家来竹田の太郎及びよしなが[#「よしなが」に傍線]と共に、桂川に邀へ撃たうとする。二条家には、荒木左衛門といふ家来がある。主人夫婦に従うて、初瀬寺からの帰り途、桂川で現れた伏せ勢と争うて居る処へ、南都のとつかう[#「とつかう」に傍線](東光か)坊が通りかゝつて、仲裁する(二段目)。
北の方は玉の様な愛護《アイゴ》[#(ノ)]若《ワカ》を生む。誓約の三年は過ぎて、若十三歳になる。約束の期は夙に過ぎた。命を召されぬ事を思ふと、神仏にも偽りがある。だから、人間たるおまへも其心して、嘘をつくべき時には、つく必要があるといふやうな事を訓へる。初瀬観音聞しめして、怒つて御台所の命をとる為に、やまふのみさき[#「やまふのみさき」に傍線]の綱を切つて遣はされたので、若はとう/\、母を失ふことゝなつた。
左衛門並びに親類の者が、蔵人の独身を憂へて、八条殿の姫宮雲井[#(ノ)]前を後添ひとした。愛護は、父の再婚の由を聞いて、持仏堂に籠つて、母の霊を慰めてゐる。あまり気が鬱するので、庭の花園山に登つて、手飼の猿、手白(てじろ)を相手に慰んでゐる姿を隙見した継母は、自分の子とも知らず、恋に陥る。侍女|月小夜《ツキサヨ》を語らうて、一日に七度迄も、懸想文を送る。若は果は困じて、簾中に隠れてしまふ。
二人の女は、愛護が父蔵人に此由を告げはすまいかといふ懸念から、逆に若を陥れる謀を用ゐる事になる。それは、重宝の鞍・刀を盗み出して、月小夜の夫に手渡し、都も都、桜の門で呼び売りさせて、清平の目につく様にして、若が盗んで売らせるのだ、と言はせようといふ魂胆である。此謀が早速成就して、怒つた清平は、若を高手小手に縛つて、桜の木に吊り上げて置く。若は苦しさのあまりに、血を吐いて悶えてゐると、手白の猿が主人を救はうとして、木に上るが、縄を解く事が出来ぬ(三段目)。
処が一転して、地獄の閻魔王の庁では、若の母が出て、若の命乞ひをして、自身出向いて救ひたいと願ふ。魂を仮托する死骸はないかと、鬼に見させると、娑婆では今日、人には死んだ者はないが、鼬が一匹斃れたといふ。母は早速、鼬の身に魂を托して、桜の下に現れ、若の縄を食ひ切つて助けると、手白が下で抱き止めて、怪我なく助つた。鼬は、母が仮りに姿を現したのだと告げて、かうしてゐては、終には命も危いから、叡山西塔の北谷にゐる、若の叔父|帥《ソチ》[#(ノ)]阿闍梨の処へ逃げて行くやうに、と諭して姿を消す。若は家を抜け出る日を待つて居る(四段目)。
暗く雨降る夜、家を出て四条河原にかゝると、南に火の漏れる茅屋がある。細工の賤民の住む処である。近寄つて戸を敲くと、盗賊かと思つて、薙刀を持つて来る。愛護一部始終を語ると、敬ひ畏んで、臼の上に小板を敷き、荒菰を敷いて、米を賀茂の流れで七度清めて、土器に容れて献る。此から神の前に荒菰を敷く風が出来たと説いてゐる。夜が明けて、細工に送られて、叡山へ志す。処が、中途まで来ると、三枚の禁札が立つてゐる。一枚目のには女人禁制、二枚目にはさんひ(?)やうじや[#「さんひ(?)やうじや」に傍線]、三枚目には細工の禁制が、書かれてゐる。細工が帰らうとすると、愛護が、強ひて叔父の処まで送つてくれと言ふ。「仰せ尤にて候へども、賤しき者にて候へば、只御暇」と言うて、引つ返した。
愛護一人で、帥[#(ノ)]阿闍梨を訪れた処、叔父は、甥若の訪問に驚いて、其車馬の数を見させた処が、稚児一人立つてゐたので、此はきつと、北谷の大天狗が我行力を試る為に来たのだと思うて、そんな甥はないと言うて、大勢に打擲せしめた。若は山を下りようとして、三日山路に迷うた末、三日目の暮れ方に、志賀の峠に達した。其処で疲れて休んで居ると、都へまんぞう[#「まんぞう」に傍線](万僧)公事に上る粟津の荘のたはたの介[#「たはたの介」に傍線]兄弟が来会うた。終始を聞いていとほしがり、柏の葉に粟の飯を分けてあたへた。「其御代より、志は木の葉に包め、と申すなる」と説明してゐる。
情を喜び、苗字を問ふと、弟せんちよ[#「せんちよ」に傍線]が「之はきよすのはん[#「きよすのはん」に傍線]と申すなる」と言ふ。お伴はしたいが、都へ出ねばならぬから、と別れて上つた。扨て其後、
[#ここから2字下げ]
岩ほの小松をとり持ちて、志賀の峠に植ゑ給ひ、おひ(松に?)せみやう(宣命)を含め給ふ。愛護世に出てめでたくば、枝に枝さき唐崎の千本松と呼ばれよや。愛護空しくなるならば、松も一本《イツポン》葉も一つ、志賀唐崎の一つ松と呼ばれよと、涙と共に穴生《アナホ》の里に出で給ふ。頃は卯月の末つ方、垣根はさもゝ[#「さもゝ」に傍線]の盛となりけるが、若君御覧じて、一つ寵愛なされける。
[#ここで字下げ終わり]
処へ、其家の姥が現れて、れいじやの杖[#「れいじやの杖」に傍線]を振り挙げて打たうとした。若は、打たれるのを恥辱に思うて、麻畑に隠れた処が時ならぬ風が吹いて、隠れ処も顕に見えたので「桃のにこう[#「桃のにこう」に傍線]が之を見て、桃をとるだに腹立つに」麻まで蹂み躪つたとて、打擲した。
[#ここから2字下げ]
若君は、穴生の里に桃成るな。麻は播《マ》くとも苧《ヲ》になるな。嵐ふくな、と申し置かれしより、花は咲けども桃ならず。麻は播けども苧にならず。
[#ここで字下げ終わり]
穴生の里は、後世まで呪はれたのである。
それからきりうが滝[#「きりうが滝」に傍線]へ来ると、桜が散つて、愛護の袂に這入る。見ればまだ、蕾の花である。そこで、落ちた花は已に死んだ母上、咲いて居る花は父上、蕾ながら散るものは、此愛護の身の上であると考へて「恨み言書きたしとて、ゆんでのこゆびくひきり、岩の間《ハザマ》に血を溜め」恨み言を書きとめる。
[#ここから2字下げ]
かみくらやきりうが滝[#「きりうが滝」に傍線]へ身を投げる。語り伝へよ。松のむら立ち
[#ここで字下げ終わり]
とう/\若は、身を投げた。其時十五歳とある(五段目)。
滝のほとりにかゝつてゐる小袖を見つけた山法師等が、山の稚児の身投げと誤解して、中堂へ上つて、太鼓の合図で稚児の人数しらべをする。ところが小袖の紋で、若なる事が訣つた。実否を確める為に、二条へ使が行く。さて父・叔父などが集つてしらべると、下褄に恨み言が発見せられ、其末に「四条河原の細工夫婦が志、たはたの介[#「たはたの介」に傍線]兄弟が情のほど、如何で忘れ申すべき。まんそうくち[#「まんそうくち」に傍線](公事)を許してたべ」とあつた。
そこで、雲井[#(ノ)]前は簀巻にして川に沈め、月小夜は引き廻しの末、いなせが淵[#「いなせが淵」に傍線]に投げ込んだ。かの滝に来て見ると、浮んで居た骸が沈んで見えない。祈りをあげると黒雲が北方に降りて、十六丈の大蛇が、愛護の死骸を背に乗せて現れた。清平が池に入ると、阿闍梨も、弟子共も、皆続いて身を投げる。穴生の姥も後悔して、身を投げる。たはたの介[#「たはたの介」に傍線]・手じろの猿[#「手じろの猿」に傍線]も、すべて空しくなつてしまふ。細工夫婦は、唐崎の松を愛護の形見《カタミ》として、其処から湖水に這入つた。其時死んだ者、上下百八人とある。
大僧正が聞いて、愛護を山王権現と斎うた。四月に申の日が二つあれば後の申、三つあれば中の申の日に、叡山から三千坊、三井寺から三千坊、中下坂本・へいつち[#「へいつち」に傍線](比叡辻か)村をはじめ、二十一个村の氏子たちが、船祭りをする(六段目)と言ふのである。
表紙の題簽に、
[#ここから5字下げ、枠囲み]
ひよしさんわうまつり 天満
あいごの若
からさきのひとつ松のゆらい 八太夫
[#ここで字下げ、枠囲み終わり]
とあつて、宝永五年正月の、大伝馬町鱗形屋の出版である。説経が江戸に大いに行はれて、八太夫座の勢力が張つて後の発刊である。此古浄瑠璃には、必若干の脚色と誇張とが、伝説の上に加へられてゐる事は期せなければならぬ。
二
近江輿地誌略巻十七に数へた愛護[#(ノ)]若伝説の重要な点は、
[#ここから1字下げ]
継母の讒言(い)。若の出奔(ろ)。革細工の小次郎の情(は)。大道寺田畑之助の粟の飯(に)。帥[#(ノ)]阿闍梨に会ふ(ほ)。桃及び麻の件(へ)。手白の猿(と)。霧降の滝の身投げ(ち)。小次郎は唐崎、田畑は膳所田畑の社、若は日吉の大宮と現じた(り)。
[#ここで字下げ終わり]
と言ふ個処である。其中説経には(は)を唯細工としてゐるだけで名は伝へぬ。(に)の大道寺の姓も見えぬ。(ほ)の帥[#(ノ)]阿闍梨の件は、会ひに行つた、といふ処を略した言ひ方と見るべきである。(ち)の霧降はきりう即飛龍の滝の事である。(り)の小次郎・田畑之助の転生一件はない。
尤、革細工を細工と言うたのは、説経以前の有無は疑はしい。或は皆人知り悉した伝説である為、名を略した事、田畑之助の姓を脱したのと同じだ、との説明も出来ぬではない。而も輿地誌略には、小次郎、若に男色の語らひをした様に書いてゐる。「女筆始」には、若に思ひを寄せた男を関寺半内として、其妻が計らうて、若に事情を訴へて、盃を貰ひ受ける事になつてゐる。或は説経は此点を落したのかも知れぬ。
但、小次郎の名は、助六狂言の影響から、京の小次郎(曾我兄弟の異父名)などの名をとり入れたのではないかと疑はれる。其は、順序は此と逆ではあるが、月小夜《ツキサヨ》といふ名が、曾我狂言に入つたと同じ径路を持つたものと考へられる。(に)の大道寺の姓も「花館愛護桜」の絵、並びに其以後の愛護物語には、大抵見えて居るので、説経以後突然出来たものとも思はれぬ。(り)の転生説は説経にも、細工夫婦を故らに唐崎で死なせてゐるから、痕形もなかつた事ではなく、説経の手落ちと見る方がよさ相である。
即、此説経は、前半は極めて緻密な作意を立てたのであるが、若出奔以後は、衆人周知の事を言ふので、極の梗概を語るに止めたものらしい。穴生の姥の事を叙べて「もゝのにこう[#「もゝのにこう」に傍線]が之を見て」など言うたのも、其間の消息を洩してゐるのであらう。だから後半は、殆ど伝説其儘で、前半は創作と迄言へずとも、古浄瑠璃の型を追うて書いたものだ、と言ひきつて差支へないであらう。
愛護若伝説を輿地誌略の作者の友人は「秋の夜の長物語」の飜案と考へて居たらしく、志田義秀氏は長物語から糸を引いた、隅田川伝説の一つと考へられたらしい(郷土研究一の三)。長物語と此民譚とに通じる点は、
[#ここから1字下げ]
梅若(長物語)愛護二人ながら、公家の子である点(い)。叡山に関係ある点(ろ)。桂海律師と細工と(は)。叡山なる人に逢ふ為、住家を出ること(に)。唐崎の松が、主要な背景になつてゐること(ほ)。入水(へ)。衣掛け(と)
[#ここで字下げ終わり]
の数ヶ処で、似て居ない点もある。其は、
[#ここから1字下げ]
肝腎な「松のうけひ」と「桃・麻の呪ひ」が、此にはあつて、彼には見えぬ事(ち)。同性の愛が中心問題になつてゐるのと、ゐぬのと(り)。継子虐待の有無(ぬ)。此は本地物で、彼は発心物語の一種とも言ふべきこと(る)。彼は山門・寺門の交渉を背景としてゐるのに、此は三井寺には無関係なこと(を)
[#ここで字下げ終わり]
などである。長物語は全く、智証門徒なる南谷の慶祚と、西谷の座主良真との関係(厳神抄)に、脚色を加へたものであらう。其上、隅田川の梅若と比べると(い)(へ)(と)並びにさすらひ[#「さすらひ」に傍線](わ)の四点は類似して居り、細工と人買ひとが、幾分同じ傾向の役廻りに在る事を感ぜしめるに過ぎぬ。
此伝説は、鎌倉の初めから室町に到つて完成した継子虐待物語――落窪物語は疑ひもなく鎌倉初期の作――(ぬ)と、室町から江戸の初め迄勢力のあつた本地物語(る)との上に、やはり室町に芽ざして、江戸に入つて多様な発達を遂げた殉死、寧心中物語(を)と、室町に著しくなつた若干の児物語(か)とを加へて経としてゐるから、此伝説の主要部は、徳川初期には既に、出来上つてゐたもの、と見てよからう。処が「長物語」の様な創作に比べると、却つて非常に古い種を蔵してゐるのも、不思議である。
其は、大宮権現の由緒と融合したうけひ[#「うけひ」に傍線](ち)と、貴人流離(か)の二つの形式が見える事である。日吉大宮の鎮座次第は、沢山の書物が繁簡の差こそあれ、皆口を揃へて、同じ筋を語つてゐるが、其中で「厳神抄」の伝へが、愛護民譚の一部に最よく似てゐる。
此神、天智の御代に、坂本へ影向せられたが、大津の八柳で疲れて、徒《カチ》あるきもむつかしくなつた。其で、大津西浦の田中[#(ノ)]恒世の釣り舟に便乗して、志賀[#(ノ)]唐崎に着かれた。船の中で恒世が、自分用意の粟の飯を捧げた。唐崎の琴[#(ノ)]御館[#(ノ)]宇志丸の家で、我は神明だ、と名のられたが、しるし[#「しるし」に傍線]を見せ給へと言はれたので、御船の儘で松の梢に上られた(ち)。
恒世は田中[#(ノ)]明神、宇志丸は山末[#(ノ)]明神となつた(耀天記・山王利生記参照)とある外、耀天記には、神の杖が化生した(ち′[#「ち′」は縦中横])と言ふ形を伝へて居る。(ち)と(ち′[#「ち′」は縦中横])とは合体して、一つのうけひ[#「うけひ」に傍線]の形式になつてくるのであるが、(か)は唐崎着岸までの苦労が其に当る。
尚此(ち)と(か)を備へた同種の民譚の中、一番形式の単純なと思はれるのは、浄見原天皇の流離譚であらう。天皇は吉野を出て宇治の奥、田原[#(ノ)]里で、里人の情の※[#「火+畏」、第3水準1-87-57]《ヤ》き栗・ゆで栗を傍《カタ》山の岨《そへ》に埋めて、わが身栄ゆるものならば、此栗生え出る様に、とうけひ[#「うけひ」に傍線]給うたら、栗が生え出した。朝廷へ献る田原の栗は、即其なごりで、其時の痕が微かに残つて居る。天皇は其から志摩に出、美濃に奔られて、墨股《スノマタ》川で、不破明神の化身なる布洗ひ女に救はれ給うた(宇治拾遺)。
日吉山王の舟祭りに、膳所に渡御なると、粟の飯を献ることは名高い話であるが、其由来を此民譚では、若に粟飯を与へた田畑之助が、粟津の人であつた為、其が為来《シキタ》りになつたのだとも言ふ。処が、此が今《モ》一つ、田中明神なる恒世の話の変形である上に、此膳所田中[#(ノ)]社は、一名田畑の社として、田畑之助を祀つた(輿地誌略)ものと言ひ、又天武流離の節同様に、粟津の里人が献つたのだ(輿地誌略)との伝へもある。
思ふに、山城綴喜郡も田原迄入り込むと、近江の栗太郡に接してゐるから、田原栗の伝説が、瀬田川を溯つて近江へ入つたものか、又、田原(粟津)志摩とさすらひ[#「さすらひ」に傍線]の道筋の譚として説いて居たのか、いづれかであらう。田原栗の話が愛護民譚に関係の深いことは、貴人さすらひ[#「貴人さすらひ」に傍線]以外に、うけひ[#「うけひ」に傍線]の一条を、若の方では松のうけひ[#「松のうけひ」に傍線]・桃麻の呪ひ[#「桃麻の呪ひ」に傍線]の両方に分けてゐると言ふ点だけでなく、全体此話の主要人物なる左衛門・田畑之助の姓の荒木・大道寺と言ふのが、偶然に出来た名前とは思はれぬ事である。天武に栗を献つた人が、田畑之助と言ふ名であつたと仮定しても、大道寺は依然決着せぬ。
此処に伊勢新九郎長氏の種姓《スジヤウ》調べが、一道の光明を与へる。長氏の本貫は、大和とも宇治とも言ふ。其祖盛継は「天性細工に妙を得。其頃大坪道禅弟子として、鞍鐙の妙工を相伝す。伊勢守の家、是より此細工を専らとす」るやうになつたのであるが、長氏浪人の後、東国下向に伴うた腹心の者に、山中・多田・荒川・佐竹及び荒木兵庫頭・大道寺太郎の六浪士が(北条五代記)ある。而も荒木・大道寺共に、田原郷の地名である。
天武流離譚が、田原から江州へ推し出した事は想像出来る上に、此地名から見ても、宇治の田原を本貫に持つたとも考へられる後北条氏が、馬具細工の家筋であつたと言ふ事は、愛護民譚の細工小次郎が譬ひ琴[#(ノ)]御館[#(ノ)]宇志丸の変形であつたとしても、余りに突発的だつた此人物の融和点を示すと共に、田原栗民譚が、愛護民譚に歩み寄つた痕を見せるものと考へる。
三
説経の表面から見ても、山王祭りにえたの干与する事を暗示して居るやうであるが、古くは、京の河原辺の部落ではなく、瀬田川下の村が与つて居たのではあるまいか。此民譚直接間接に深い交渉を持つてゐぬとも言へまい。
細工が臼の上に若の座を設けたと言ふ形は、浅草観音宮戸川出現の条に似てゐるが、ともかく、祭りに賤民が重要な役目を務めた事を示したのは疑ひがない。尚細工を古くから馬具細工の意に解して居た証拠は「名歌勝鬨」には、細工小次郎に宛てゝ、鞍作杢作及び其娘お為と言ふのを設けて居るのでも知れる。
田畑之助と言ふ名は、変な名であるが、室町から江戸にかけて、助の字のつく名には、妙なのが、物語・芝居の類には殊に多い。葛の恨之介・稲荷之助・女之介など、其であるが、膳所での山王祭りの頭人《トウニン》の名は、近江之介・粟津之介など言ふ。かうした方面の聯想も、幾分働いて居るのであらう。
田畑之助を祀つたと言ふ田中山王社一名田畑[#(ノ)]宮は、疑ひもなく同じ粟の話のある恒世[#(ノ)]社である。膳所の近辺中庄村瓦浜に在るが、古くは其地の亀屋といふ家の界内に在つた。其家は堀池氏で、堀池は佐々木氏の一族だ(誌略)といふが、亀屋の主人が祭りの頭人となる時の名が、田畑之助だつたかも知れぬ。
山門・寺門の関係と、大友|村主《スグリ》の本貫であると言ふ辺から、山王を天武、新羅明神を大友[#(ノ)]皇子と考へた時期も、あつたらしく思はれる。所謂桃のにこう[#「桃のにこう」に傍線](尼公か)の件は、石芋民譚(土俗と伝説一の一、田村氏報告参照)の形式で、穴生とも言ふ賀名生に脂桃の話のあるのは、暗合でなく何かの脈絡のありさうな気がする。
大体石芋民譚は、宗教家の伝記に伴ふものが多い様だが、古くは慳貪と慈悲とを対照にした富士・筑波式の話であつた。其善い片方を落したのが石芋民譚で、対照的にならずに、善い方だけの離れたのもある。宗教家は精霊を使ふ者と考へられて居た為に、精霊の復讐と言ふ風の考へが、一転して石芋民譚となるのであらう。古く言語精霊《コトダマ》の活動と考へられたのろひ[#「のろひ」に傍線]が、役霊の考へに移つたのは、大部分陰陽家の職神・仏家の護法天童・護法童子の思想の助勢がある様である。役霊・護法の活動は、使役者には都合はよいが、他人には迷惑を与へる事が多い。使役者の嫉妬・邪視が役霊の活動を促す。護法童子に名をつけたのが、乙護法である。伝教大師にも、性空上人にも、同名の護法があつた。性空から其甥比叡の皇慶に移つたのを乙若とも言うて居る。三井寺の尼護法は鬼子母神ともなつて居る。女の護法神だから言ふのだが、或は「乙」と同じく、其名であつたのかも知れぬ。若の名の「愛」と言ふのも、護法の名で、護或は若は其護法なることを示してゐると考へられぬでもない。愛護[#(ノ)]若を護法童子の変形とすれば、桃・麻の呪ひの意味は、徹底する様である。
此呪ひを志田義秀氏は叡山の不実柿《ミナラガキ》と関係あるものと観察して居られるやうだ。皇慶|甫《はじ》めて叡山に登つた時、水飲《ミヅノミ》・不実柿《ミナラガキ》などの地で「実のなるのにみなら柿とは如何。湯を呑むのに水飲とは如何」と言ふませた、併し子供らしいへりくつ[#「へりくつ」に傍線]問答を試みた、と言ふ話のある地で、皇慶の呪ひによつて、不実柿になつたとは見えぬ。
併し乙若が性空の手から移つて来た話を思ふと、数度の変形として、或は、愛護・皇慶の関係は、成り立つかも知れぬ。川村杳樹氏(実は柳田国男先生)が提供せられた沢山の難題問答(郷土研究四の七)の例の中、陸前赤沼長老阪で、西行に舌を捲かした松下童子が、山王権現の化身であつたと言ふ話も、多少根本の山王に痕跡のあつたものとすれば、まへの関係は一層深くなるのだが、数点の類似だけでは、愛護・皇慶の交渉はむつかしい。
継母雲居[#(ノ)]前は、合邦个辻の玉手御前の性格を既に胚胎してゐるので「女筆始」其他の様な純然たる悪玉でなく、寧、薄雪物語の様な艶書を書くあはれ知る女となつてゐる。中将姫・しんとく丸[#「しんとく丸」に傍線]の継母とは、類型を異にして、恋の遺恨といふ、新しい創造がまじつてゐる様である。
手白の猿は、後の創作類では、かなり重要な位置に居るけれども、説経には極めて軽い役に使はれてゐる。動物報恩説話の外には、山王のつかはしめ[#「つかはしめ」に傍線]となつた理由を見せたに止まつてゐる様である。かういふ動物が、此民譚に現れたのは、勿論日吉の猿部屋に関係があるので、手首ばかり白い猿を、神猿とするなどいふ信仰もあつたと思はれるのである。山姥狂言の中にも、手白の猿を出した物があつた。今日さう言ふ芝居絵を見ても、別に手に特徴はない。結局別に語原を持つものに違ひない。
古代に手代部といふ部曲のあつたのも、後世の神社に於ける手長職と同じもので、神の手其物として働く部曲だつたらしい。てしろ[#「てしろ」に傍線]の語《ことば》ばかりが残つて、実の忘れられた時代に、山王のつかはしめ[#「つかはしめ」に傍線]なる猿を手白と感じ、特別に又、さうした霊妙な一類があることも考へてゐたのだらう。が、今いふ、信仰もあつたかと思はれるのである。前述の山姥狂言の中に出る手白の猿も愛護若の物語とは関係なく、山姥の狂言の中に、手白の猿の姿を描いた、江戸の芝居絵を見たことがあるだけで、他には、何の材料も見あたらぬ。
鼬の骸を仮つて、地獄の幽霊が復帰して来るのは、因果物語であるが、説経としての特徴を止めたものである。尚、桜の木に愛護を吊るのは、説教節通有の拷問をこんなところにも割り込ましたのだが、神仏の身代りで、脱出する其常型は破つてゐる。
細工が禁札の為に、途中から引つ返す条、叔父帥[#(ノ)]阿闍梨が疑うて逢はぬと言ふ、はる/″\来た者を還す件は、同じ説経の石童丸の母と父との物語に通じてゐる。但、阿闍梨が、天狗の障碍と疑うた点だけは、長物語に幾分か似通つてゐるが、其は他人のそら似であつて、肝腎の山伏も石室も現れないのである。其よりももつと注意の値打ちのあるのは、苅萱のやうに故意でなく、齟齬が原因で、空しく山を下る点である。
一体児物語は必、妻争ひ民譚の一種、美女自殺の結末の筋を引いて来るので、競争者のない時でも、円満な解決を見ぬのが常になつて居て、入水して自殺するのが多い。児入水譚は、高野其他大寺には、つき物の様である。江[#(ノ)]島の児个淵伝説は相手方の僧も後を追ふ事になつてゐるが、大体は、能動側の男は発心、又は堅固に出家を遂げる、と言ふ発心物語となつて居る。細工夫婦の死も、後追ひの死とは考へられぬ。寧、前に言つた多人数殉死・殉死者転生の物語となつてゐる。
其外、宝比べ・申し子などいふ形式は、愛護民譚に限つた事でないから、茲には言ふまい。若の挿した松の枝が、唐崎の一つ松に化生したといふのは「女筆始」のついて来た松が枝の杖をさしたと言ふ方が、古い形を詳しく伝へたのもので、琴御館家の祖先が、日吉の神の残された杖を立てたのが、化生したと言ふ(耀天記)伝へと直接関係があり、又、北野の一夜松原・息[#(ノ)]松原などの系をも加へてゐる。
四
此説経節の筋が、中心になつてゐる浄瑠璃・脚本・小説の類を調べて見る。わたしの読んで見、又名前だけを聞き知つてゐる物は、
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愛護若(角太夫の正本) 辛崎一本松(加賀門人富松薩摩正本) 愛護若都富士(元禄六年正月竹本座興行。辰松幸助作) 愛護若塒箱(紀海音) あいごのわか[#「あいごのわか」に白丸傍点](宝永五年正月・天満八太夫正本) 花館愛護桜(又、花館泰平愛護だともいふ。正徳三年四月。山村座) 愛護若名歌勝鬨[#「愛護若名歌勝鬨」に白丸傍点](宝暦三年五月。竹本座。半二・松洛等作) 信田小太郎世継鑑(宝暦三年七月。中村座助六狂言。評判記で愛護の糾ひまぜてあつた由が伺はれる) ※[#「子+盡」、309-1]《コダカラ》愛護曾我(宝暦五年正月。堀越二三治作か) 愛護若女筆始[#「愛護若女筆始」に白丸傍点](享保廿年正月。八文字舎本) 愛護若一代記[#「愛護若一代記」に白丸傍点](女筆始と同書。再刻。但、年月づけも、元のまゝ) あいごの若(享保廿年正月。金平本) 初冠愛子若(同七月―八月。大阪沢村長十郎座) 曾我|※[#「しめすへん+我」、309-3]《モヤウ》愛護若松(明和六年三月。増山金八作か) 神※[#「けものへん+爰」、第3水準1-87-78]伝[#「神※[#「けものへん+爰」、第3水準1-87-78]伝」に白丸傍点](文化五年。小枝繁作。読本)
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此外助六狂言の天明以前の物は、大抵愛護若が這入つて居るものと思はれる。また尚一種「○○○[#「○○○」に「?」の注記]愛護稚松」と言ふ、助六とは別種の芝居があつたと記憶して居る。圈点を附けた五種の外は、まだ見る事が出来ぬ。但、角太夫の正本と、薩摩太夫の辛崎一本松とは、後に出た説経の「あいごのわか」と大同小異のものであらうし、時代も亦説経節が後れて出たとは言はれぬ。譬ひ八太夫の正本は、成立こそ遅れたとは言へ、愛護浄瑠璃の魁をした物と想像する理由がある。
天満八太夫が江戸に来て繁昌する以前の、上方説経節としての愛護[#(ノ)]若が、正本成立以前に、既に角太夫や薩摩太夫に採り入れられてゐたらう、と考へるのは無理ではない。かの正本に、聴衆先刻御存知と言つた風の書きぶりが見えるのは、八太夫以前に拡つた愛護民譚と八太夫の浄瑠璃との距離を思はせるのであるが、尚他の浄瑠璃と比べては、原始的の匂ひを止めてゐたであらう。況して「都富士」や「塒箱」などは、説経現在本よりは、幾分か作意の進んでゐたもの、と考へられる。
江戸の助六狂言は、記録を信じる事が出来れば、一番初まりから愛護[#(ノ)]若をとり入れて居た。江戸の助六狂言の起原が、大阪の揚巻・助六心中にある事は明らかであるが、最初の「愛護桜」から和事専門でなく、今の物の様に荒事本位の喧嘩師助六だつた、と考へるのは誤りで、享保以前に出来たものと鑑定せられる、上野図書館本「揚巻助六狂言の記」と仮表題した黒本風の書物に見えた筋が、上方の揚巻・助六心中に近いだけ、助六狂言の本筋を伝へたものらしい。
此江戸助六狂言の根元の筋は訣らず、出場人物にも異論はあるが、揚巻・助六・白酒売新兵衛の出た事だけは、確からしい。「金《キン》の揮配《サイハイ》」に残つた鳥居画で見ると、たはたの介後に介六、白酒売新兵衛のちに荒木左衛門とあり、図面は屋根じあひ[#「じあひ」に傍点]の場で、軒に、江戸町いづみや・三丁目つたやなど言ふ高張提灯の見える処から考へても、場面は吉原である。介六と新兵衛とは、白酒荷の朸《あふご》と見える物に為込んだ刀の両端を引きあうてゐる。此は両人とも立役で、敵役の別にあるのを殺さう、と先を争ふ処か、或は一人がはやり、一人が制する処とも見られる。両人いづれも敵持ちでないことは、介六役者が団十郎で、白酒売りを生島新五郎が勤めたのでも知れる。両立役心を合せて、敵を討たうとするものと見れば、直ちに後の「由縁江戸桜」の五郎・十郎に変つて行く径路は頷かれる。
尤、第二回目の助六なる「式例和曾我」以下の物は、助六に、曾我なり、愛護なりが這入つて居るので、多くの場合、三つの筋が一つに絡んで居た様である。思ふに二回・三回頃のものは、曾我を含んで来たのが、段々元の愛護をも呼び戻して、雑居することになつたのであらう。「愛護桜」に、何で縁もゆかりもない愛護が割り込んで来たか。わたしは、正徳三年が江戸の山王日枝神社の記念とすべき年であつた、といふ様な理由があるのだらう、と想像せられる。
此狂言、伝へられた如く、仇討ち物とすれば、敵は誰を殺したのか。二条蔵人か。愛護か。後の※[#「子+盡」、311-1]愛護《コダカラアイゴ》の評判記の画で見ると、工藤とやはたの介――八幡三郎と田畑[#(ノ)]介と綟つたものか。工藤足軽八幡之介、実は、鬼王とある――が、愛護の君を桜木に吊り上げて、拷問して居る処がある。子役の持ち役として、愛護は、割合に閑却せられてゐたのかも知れぬ。或は愛護を殺した者を、梅若殺しの、忍の惣太風の細工[#(ノ)]小次郎として、後に髯[#(ノ)]意休|即《すなはち》えたと言ふ様な趣向で、臭い/\と言ふ助六の喝破の源流をなしたものかも知れぬ。
後の五郎の助六が、常に問題としてゐる友切丸は「愛護桜」では、刃《ヤイバ》の大刀《タチ》であつたものか。大阪出の古手屋八郎兵衛・紙屋治兵衛を銀猫おつま[#「おつま」に傍線]や、佃島心中などに捏ね上げ、其から逆に、古八・紙治迄も、江戸にも別に存在してゐた様に説く、通人考証家の多かつた江戸であるから、助六・意休などの類名のもでる[#「もでる」に傍線]実在説は、一切眉唾物である。
名歌勝鬨では、二条蔵人・古曾部庄司両家の確執、両家の宝を奪うて栄達を望む高階弾正、それに使はれる端敵、御嶽悪五郎があり、二条家の忠臣として田畑早苗之助、古曾部家の旧臣荒木左衛門がある。其外愛護の恋人古曾部の娘があり、其兄で同時に、妹の恋人なる人と二組のろめお[#「ろめお」に傍線]・ぢゆりえつと[#「ぢゆりえつと」に傍線]がある。
愛護の家に仕へる女に、大津坂本猿堂守りの娘、穴生生れの猿の扱ひ方を知つた常夜《トコヨ》と云ふ早苗之助の女房になる女がある。刃の大刀は二条家の宝物で、天の唐鞍は、古曾部家の重宝と、両家に分けてゐる。其外鞍打杢作などいふ人物もある。幾分細工の穴を示す者であらう。
常夜の親里穴生に、早苗之助・常夜が住んで、早苗が帥[#(ノ)]阿闍梨を訪ねて叡山に登つた後に、愛護が桃を盗んだとて追うて来るのが、小兵衛・九助といふ百姓になつて居る。常夜は、此を助ける為に、狐憑きの身ぶりで、
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指もさゝば怨み葛の葉、今にしのだに怨みの言葉。小兵衛聞け。麻は蒔くとも苧《ヲ》になるな。穴生の里の九助怨し。……桃故命捨つるかや。我は死すとも、此桃の花は咲くとも、実はなるな。穴生の里のあらむ限りは、と怨み喞ちし言の葉の木にも心のあるならむ。
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とある。其外、手白の猿を、恋人から若に贈る件、辛崎の松で、愛護が危難を救はれる件などが、原型を引いてゐる様である。
「愛護曾我」は、前者よりは、恐らく古いものらしい。名の示す如く、愛護桜から由縁江戸桜の方に踏み込んだものと思はれる。享保廿年正月に、同時に三種の愛護の物語が出て居るが、金平本の愛護は、恐らくもつと以前の刊行を、早稲田図書館の書目作りが思ひ違へたのではあるまいか。一代記の方は、全く八文字舎本の飜刻で、年号は享保廿年正月とはなつて居るが、恐らくずつと遅れたものであらう。
「女筆始」は「鳴雷不動桜」などを出した、八文字舎のことだから、愛護の脚本・小説類の綜合・飜案の痕を露に見せてゐる。其序に
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衆人愛護若の噂、昔から世挙つて引三味線の調子に乗つて来る馬に唐鞍箱に納る刃の大刀に血ぬらずして、悪人追退伝る家の内柱は、ずつしり据《スワ》つて動かぬ一つ松。志賀のよい花園昔を今に語り伝へて五説経の其一を取つて、新に狂言を五冊に綴め云々。
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と見えて居るが、説経節以後の形式をも混へた上の作り物である。而も江戸の助六の影響のあるなしは、俄に判断し難い。但、田畑之助が、大道寺の姓を持つてゐるのは、或は愛護桜に、暗示を得てゐるのかも知れない。
此書は後の愛護民譚に変化を与へる榜示となつてゐる様であるから、少しく詳しく説いて見る。二条家の宝物は、刃の大刀・降天の唐鞍の外に、真の鞭といふのがある。后の御悩が、嵯峨帝の御不例といふ事になつてゐる。継母は桜井御前といふ名で、藤原仲成の妹、二条家には再縁で、流離の際に人に托した小松姫といふ子がある。家来には、家老として荒木左衛門尉、執権職を罷めて、江州穴生に居る大道寺田畑之助及び其妻のふぢ[#「ふぢ」に傍線]、二人の間に生れた長子手白の猿、継母の腹心|太岳《ミタケ》悪五郎、旧臣の遺孤おふで[#「おふで」に傍線]などの人物がある。おふで[#「おふで」に傍線]が、お家の危急を知つて自ら小松姫と名のつて、二条家に入り込んで、愛護を助け、二つの宝を悪人の手に渡さなかつた、といふ話は、遠からずして表れた「ひらがな盛衰記」の烈婦おふで[#「おふで」に傍線]の導火である。
田畑之助は若君に、お家の危急を知らせる為に、女房をして、長子の手白を舞はせるが、名歌勝鬨第一段松枝・常夜の猿使ひの段の敷き写しである。又、柴屋町の揚げ屋で、荒木左衛門と巡り会うて争ふのは、或は「愛護桜」の影響ではあるまいか。遊女花園が秘蔵する真の鞭は、おもふに、四の宮の祭りに、一の鳥居に建てる「真の榊」の変形であらう。愛護が家を逃れる場合に、縄を喰ひ切りに出る鼬は、説経の母の霊を持つて来たのである。穴生の乳母は熊手婆で、盲目娘の実は、小松姫と共に住んでゐる。愛護が其家の桃を喰うて、麻畑に隠れる件も其儘である。
愛護が辛崎の浜でついて来た松の枝を挿す件は、説経を乗り越えて、直ちに、日吉の縁起に迫つてゐる。其時の「うけひ言」には
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松も一本、葉も一つ、都の方へ根もさゝず、志賀辛崎の一つ松、愛護がしるしとなし給へ。
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とある。そして、其松の木に小袖を掛けて、湖水に身を投げる。細工[#(ノ)]小次郎に当るものは、此には、関寺半内となつてゐる。愛護を追うて、身投げするのは、説経の百八人の代表である。
「神※[#「けものへん+爰」、第3水準1-87-78]伝」は、非常に読本臭くなる。桜井御前が愛護に懸想する事は、説経の儘である。手白と愛護との接触が、鷲にさらはれる猿を救うたときから始まつて、猿の親子揃うて人間に化けて、若に恩返しをする。「女筆始」の田畑之助の役は、仲麻呂・桜井御前の子を守る秦[#(ノ)]黒道と言ふのになつて居る。鞍・大刀は、綾丸の大刀・遠山の鏡と名が変つて、烈婦小松が志賀六(黒道)を殺して、奪ひとつて、二条家に献じた宝と言ふ事になつてゐる。
右の中「名歌勝鬨」は、かなり名高い浄瑠璃で、役[#(ノ)]行者・弘法大師の母並びに、苅萱を採り入れた「山の段」だけは、いまでも稀には、語られる。瑠璃天狗にも道行きと此段とが、註釈せられてゐるのを見ても、愚作の割には、喜ばれてゐたのである。芝居の鬘にあいご[#「あいご」に傍線]と言ふのがあるのは、此辺から出たものと思はれるが「※[#「子+盡」、314-14]愛護曾我」の評判記の挿し画の愛護は、所謂あいご[#「あいご」に傍線]の児輪《チゴワ》(歌舞妓事始)に結うてゐるが、説経正本・一代記・神※[#「けものへん+爰」、第3水準1-87-78]伝、皆児茶筅である。
近江輿地誌略の出来た時分の愛護民譚は、説経以前の古い形式をも存してゐたと共に、其後に作意・脚色を加へられた物語をも、雑多にとり込んでゐたに違ひなく、其だけ錯綜を極めた物語から、一筋の通りのよい物語を抽き出さうとするのは、困難であつたらう。其為「長物語」以前と以後のあまたの要素を顧みず、一向、野人の信仰の淫雑なことを嗟《なげ》いたが、寒川氏の想像したよりも、かなり古く、而も若い物語なのだ。
不遇の生を終へた愛護は、怨み言を書き残すだけの執念もありながら、現に転生した。本地物語の出現は、御霊信仰の稍《やや》力を失ひはじめた頃からの事である。貴種流離民譚が、児个淵民譚と結びつき、其に、山王祭りのくさ/″\の由緒をとり込んで、一つの民譚に固成したのは、継子虐待物語・児物語・本地物語の地盤が定つて、何拾人・何百人の追ひ腹を家門の誉れと考へた時代のことであらう。
百八人の殉死が、あいご[#「あいご」に傍線]民譚の固定の時代だけは、尠くとも「長物語」よりも新しいことを示してゐるのである。一人の美少を中心にして、近間《チカマ》に肩を並べた、二つの大寺の間に、闘諍事件が起つて、何百人の侍法師《サムラヒボフシ》の屍を晒した物語は、外にも、其例がある。長物語の梅若は、多人数の犠牲を拵へたのであるが、若の方では、百八人の殉死と言ふ特殊の意味を持つた犠牲と言ふことに変つて来てゐる。此は必、山門・寺門の長い争ひの歴史が、此恋愛問題に関係のない、美少の物語の上に、多人数が仏果を得る物語と、姿を換へて復活したのである。酸鼻な物語が、光明ある功徳譚と変つた点に、長物語との関係があると言へば、あると考へる余地もある訣であるが、此だけでは、単に傍証となるばかりで、愛護・梅若は、尚姑らく胤一つの兄弟なることを言立《コトタ》てる訣には行かぬ。
穴生は穴太[#(ノ)]臣・穴生村主の旧貫である。穴太部又は、穴穂(安康)天皇との関係が考へられるかも知れぬ。さすれば、穴穂天皇を従父とした億計《オケ》・弘計《ヲケ》王の流離譚が都から西へとなつて伝へられてゐるとしても、尚、蒲生郡の蚊屋野が、二王子のさすらひに大きな関係のある処から見ると、穴穂天皇(二王子)蚊屋野を通して、此穴生の地が、貴人流離譚と無関係の土地でもなさゝうな気がする。
右の想像と似た今一つの想像が、古い語りの姿を髣髴せしめる。其は穴太部の語りが、果実を呪咀した貴人の物語を語り伝へてゐたのではなからうか、といふことである。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「土俗と伝説 第一巻第一―三号」
1918(大正7年)8月〜10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では訓点送り仮名は本文中に小書き右寄せになっています。
※底本の題名の下に書かれている「大正七年八―十月「土俗と伝説」第一巻第一―三号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※底本の凡例には、「校訂者のつけた振り仮名は平仮名を用いた」との記載がある。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2004年1月22日作成
2004年1月24日修正
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