青空文庫アーカイブ

両国の秋
岡本綺堂

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「ころもへん+上」、255-3]
-------------------------------------------------------

     一

「ことしの残暑は随分ひどいね」
 お絹は楽屋へはいって水色の※[#「※」は「ころもへん+上」、読みは「かみ」、255-3]※[#「※」は「ころもへん+下」、読みは「しも」、255-3]をぬいだ。八月なかばの夕日は孤城を囲んだ大軍のように筵張りの小屋のうしろまでひた寄せに押し寄せて、すこしの隙もあらば攻め入ろうと狙っているらしく、破れた荒筵のあいだから黄金の火箭のような強い光りを幾すじも射込んだ。その箭をふせぐ楯のように、古ぼけた金巾のビラや、小ぎたない脱ぎ捨ての衣服などがだらしなく掛かっているのも、狭い楽屋の空気をいよいよ暑苦しく感じさせたが、一座のかしらのお絹が今あわただしく脱いだ舞台の衣裳は、袂の長い薄むらさきの紋付きの帷子で、これは見るからに涼しそうであった。
 白い肌襦袢一枚の肌もあらわになって、お絹はがっかりしたようにそこに坐ると、附き添いの小女が大きい団扇を持って来てうしろからばさばさ[#「ばさばさ」に傍点]と煽いだ。白い仮面を着けたように白粉をあつく塗り立てたお絹のひたいぎわから首筋にかけて、白い汗が幾すじかの糸をひいてはじくように流れ落ちるのを、彼女は四角に畳んだ濡れ手拭で幾たびか煩さそうに叩きつけると、高い島田の根が抜けそうにぐらぐらと揺らいで、紅い薬玉のかんざしに銀の長い総がひらひらと乱れてそよいだ。見たところはせいぜい十七、八のあどけない若粧りであるが、彼女がまことの暦は二十歳をもう二つも越えていた。
「ほんとうにお暑うござんすね」と、小女のお君は団扇の手を働かせながら相槌を打った。
「暑いせいか、木戸も閑なようですね」
「あたりまえさ。この暑さじゃあ、大抵の者はうだってしまわあね。どうでこんな時に口をあいて見ているのは、田舎者か、勤番者か陸尺ぐらいの者さ」
 手拭で目のふちを拭いてしまって、お絹は更に小さいふところ鏡をとり出して、まだらに剥げかかった白粉の顔を照らして視ていた。
「中入りが済むと、もう一度いつもの芸当をごらんに入れるか、忌だ、いやだ。からだが悪いとでもいって、お若のように二、三日休んでやろうかしら」
「あら、姐さんが休んだら大変ですわ」と、お君はびっくりしたように眼を丸くした。
「お若さんが休んでいるのはまだいいけれど、姐さんに引かれちゃあ、まったく大変だわ」と、茶碗に水を汲んで来た他の若い女が言った。「あたし達は、ほんの前芸ですもの」
「前芸でたくさんだよ、この頃は……。ほんとうの芸当はもう少し涼風が立って来てからのことさ。この二、三日の暑さにあたったせいか、あたしは全くからだが変なんだよ」
「そりゃあ陽気のせいじゃありますまい」と、地弾きらしい年増の女が隅の方から忌に笑いながら口を出した。「向柳原はどうしたのか、この二、三日見えないようですね」
「二、三日どころか、八月にはいってからは、碌に寄り付きゃあしないのさ、畜生、憶えているがいい」
 お絹は眼にみえない相手を罵るように呟いた。金地に紅い大きい花を毒々しく描いてある舞台持ちの扇で、彼女は傍にある箱を焦れったそうにとんとん[#「とんとん」に傍点]と叩くと、箱の小さい穴から青い頭の蛇がぬるぬると首を出した。
「畜生、お前の出る幕じゃあないんだよ」
 扇で頭を一つ叩かれて、蛇はおとなしく首をすくめて、もとの穴に隠れてしまった。
「八つあたりね、可哀そうに……。ずいぶん邪慳だこと」と、若い女が笑った。
「あたしは邪慳さ。おまけにこの頃は癇が起ってじりじり[#「じりじり」に傍点]しているから、たれかれの遠慮はないんだよ」と、お絹は扇で又もやその箱を強く叩いたが、蛇はもう懲りたと見えて、今度は首を出さなかった。
「お察し申しますよ」と、年増はすこし阿諛るようにしみじみ言った。「向柳原はほんとうにどうしたんでしょう。まったく不実ですね。そんな義理じゃないでしょうが……」
「義理なんか知っている人間かい」と、お絹はさも憎いもののように扇を投げ捨てた。「今に見るがいい。どんな目に逢わせるか」
 お君は左の手のひらにひと掴みの米をのせて来て、右の指さきで一粒ずつ摘みながら箱の穴のなかへ丁寧におとしてやると、青い蛇の頭が又あらわれた。ことし十五のお君ももう馴れているとみえて、別に気味の悪そうな顔もしていなかった。
 舞台の方でかちかち[#「かちかち」に傍点]という拍子木の音がきこえると、お絹はそこにある茶碗の水をひと息にぐっと飲みほして、だるそうに立ちあがった。お君はうしろに廻って再び彼女に別の衣裳を着せかえた。
 今度は前と違って、吉原の花魁の裲襠を見るような派手なけばけばしい扮装で、真っ紅な友禅模様の長い裾が暑苦しそうに彼女の白い脛にからみついた。お絹は緋縮緬の細紐をゆるく締めながら年増の方を見かえった。
「おばさん。きょうは三味線がのろかったぜ。もう少し早間にね。いいかい」
「はい、はい」
 鬢をもう一度掻きあげて、お絹は悠々と楽屋を出ると、お君は蛇の箱をかかえてその後について行った。年増も三味線をかかえて起った。
 あとに残った若い女はほっ[#「ほっ」に傍点]としたような顔をして、お絹が脱ぎ捨ての※[#「※」は「ころもへん+上」、読みは「かみ」、258-10]※[#「※」は「ころもへん+下」、読みは「しも」、258-10]や帷子を畳み付けていると、今まで隅の方に黙って煙草をすっていた五十ぐらいの薄あばたのある男が、さっきの蛇のように頭をもたげて這い出して来て、若い女に話しかけた。
「お花さん。姐さんはひどくお冠が曲がっているね」
「おお曲がり。毎日みんなが呶鳴られ通しさ。やり切れない」と、お花は舌打ちした。
「だが、無理じゃあねえ。向柳原が近来の仕向け方というのも、ちっと宜しくねえからね」
「まったく豊さんの言う通りさ。けれども、姐さんもずいぶん無理をいってあの人をいじめるんだからね。いくら相手がおとなしくっても、あれじゃあ我慢がつづくまいよ」
「それもそうだが……」と、豊という五十男はどっちに同情していいか判らないような顔をしてまた黙ってしまった。
 この一座の姐さんと呼ばれている蛇つかいのお絹には、仁科林之助という男があった。林之助は御直参の中でも身分のあまりよくない何某組の御家人の次男で、ふとしたはずみからこのお絹と親しくなって、それがために実家をとうとう勘当されてしまった。低い家柄に生まれた江戸の侍としては、林之助はちっとも木綿摺れのしないおとなしやかな男であった。相当に読み書きもできた。殊にお家流を達者に書いた。
 勘当された若い侍はすぐにお絹の家に引き取られた。お絹が可愛がっているものは、林之助と蛇とであった。こうして一年ほども仲よく暮らしているうちに、男はある人の世話で御納戸衆六百五十石の旗本杉浦中務の屋敷へ中小姓として住み付くことになった。窮屈な武家奉公などしないでも、お前さん一人ぐらいはあたしが立派にすごしてみせると、お絹はしきりにさえぎって止めたが、すなおな林之助もこの時ばかりは無理に振り切って出て行った。杉浦の屋敷は向柳原で、この両国と余り遠くもなかった。それはお絹が可愛がっている三匹の青い蛇がだんだん寒さに弱ってゆく去年の冬の初めであった。
 旗本屋敷の中小姓がおもな勤めは、諸家への使番と祐筆代理とであった。人品がよくてお家流を達者にかく林之助は、こうした奉公の人に生まれ付いていたので、屋敷内の気受けも悪くなかった。屋敷へはいってからも、林之助は用の間をみてお絹にたびたび逢いに来た。東両国の観世物小屋の楽屋へも時どき遊びに来た。それが今年の川開き頃からしだいに足が遠くなって、お絹の家にも楽屋にも林之助の白い顔が見えなくなった。焼けるような真夏の暑さにむかって青い蛇は生き生きした鱗の色をよみがえらせたが、蛇つかいの顔には暗い影が始終まつわっていた。
「どう考えても向柳原の仕打ちが其でねえようだ」と、豊は最後の判決をくだした。「ちっとぐれえ姐さんが無理をいったところで、そりゃあ柳に受けているだけの義理もあろうというもんだ。なにしろ、かれこれ一年の余もああして世話になった以上は……。おいらっちのようなこんな人間でも、人の世話になったことは覚えている。まして痩せても枯れても二本差しているんじゃねえか。堀川のお俊を悪く気取って、世話しられても恩に被ぬは、あんまり義理が悪かろうと思うが……。ねえ、どんなもんだろう」
「そりゃあこっちでばかり言うことで、男の方の身になったら又どんな理屈があるかも知れないからね」と、若いお花は冷やかに言って、扇で胸をあおいでいた。
「お花さんはとかくに男の方の贔屓ばかりするが、こりゃあちっとおかしいぜ」
「そうかも知れない」と、お花はつんと澄ましていた。「向柳原はいい男だからね」
「姐さんより年下だろう」
「ふたつ違いだから二十歳さ」
「色男盛りだな」と、豊は羨ましそうに言った。
「世間に惚れ手もたくさんあらあね。姐さんばかりが女でもあるまい」
「悟ったもんだね」
「悟らなくって、こんな稼業ができるもんかね。姐さんはまだ悟りが開けないんだよ」
「そうかしら。だって、蛇は執念深いというぜ」
「蛇と人間と一緒にされて堪まるもんかね」
「よう、よう。浮気者」と、豊は反り返って手をうった。
「静かにおしよ。舞台へきこえらあね」
 二人はだまって耳を澄ますと、舞台では見物の興をそそり立てるような、三味線の撥音が調子づいて賑やかにきこえた。
「姐さんはまったくこの頃は顔色がよくないね」と、豊は又ささやいた。
「癇が昂ぶって焦れ切っているんだもの。あれじゃあからだにも障るだろうよ。あんなにも男が恋しいものかね」
「浮気者にゃあ判らねえことさ」
「知らないよ。禿あたま、畜生、ももんじい[#「ももんじい」に傍点]」と、お花は扇を投げつけて笑ったが、また急に子細らしく顔をしかめて舞台の方を見かえった。
 舞台の三味線の音は吹き消したように鎮まっていた。
「おや、どうしたんだろう」
 見物のざわめく声が俄かにきこえた。舞台の上をあわてて駈けてゆく足音もみだれて響いた。一種の不安に襲われた二人は、思わず腰を浮かせて舞台の様子を窺おうとするときに、小女のお君が顔色を変えて楽屋へ駈け込んで来た。
「大変。姐さんが舞台で倒れて……」
 ふたりも飛び上がって舞台へ駈け出した。

     二

 向う両国の観世物小屋でこんな不意の出来事が人を驚かしたのは、文化三年の江戸の秋ももう一日でちょうど最中の月を観ようという八月十四日の昼の七つ(四時)下がりであった。座がしらのお絹が舞台で突然に倒れたので、見物も楽屋の者も一時は驚いたが、お絹はすぐに楽屋へ担ぎ込まれた。あとは前芸のお花がすこし繋いでいて、それから太夫病気の口上を述べて、いつもより早目に打ち出した。
 お絹がほんとうに人心地の付いたのはそれから半※[#「※」は「日へん+向」、読みは「とき」、262-8]ばかりの後で、医者はやはり暑気あたりだといった。しかし、さのみに心配するほどのことはない、こうして静かに寝かして置けば自然におちつくに相違ないと気つけの薬をくれて行った。はじめは非常に驚かされた木戸の者も楽屋の者もこれで漸くおちついて、見舞の口上などをいってだんだんに帰った。
 お絹はもう目をあいていたが、それでもすぐに起きる元気はなかった。枕もとには前芸のお花と小女のお君のほかに地弾きのお辰と楽屋番の豊吉とが残っていた。楽屋にはほかにもう一人お若という前芸の女がいるが、これも暑気あたりで二、三日前から休んでいた。その上にお絹がまた病気引きということになれば、この小屋はあしたから休むよりほかはないと、関係の者はすぐにあしたの糧を気づかったが、こうなるとみんなも生き返ったような気になった。
「まあ、まあ、なにしろよかった。この二、三日はあんまり残暑がひどいからさ。おまけにこの楽屋はちっとも風がはいらないんだからね」
 お辰は病める太夫の枕もとをそっと離れて、楽屋のうしろに垂れている荒筵を少し押し分けると、夕日の光りはもう山の手の高台に隠れて、下町の空は薄い浅黄色に暮れかかっていた。上流から一艘の屋根船がしずかに下って来て、大川の秋の水は冷やかに流れていた。近所の小屋もみな打ち出したとみえて、世間は洪水のあとのようにひっそりして、川向うの柳橋の桟橋で人を呼ぶ甲走った女の声が水にひびいて遠く聞えるばかりであった。
「それでも日が落ちると、ずっと秋らしくなるね」と、お辰はもとの枕もとへかえって来た。そうして、お絹の青ざめた頬に団扇の風を軽く送りながら、その力のないひとみを覗き込むようにして訊いた。
「気分はどうですえ。もういいの」
 お絹はうなずくように眼をかすかに動かした。今お辰に声をかけられるまで、彼女の魂は夢とうつつの境にさまよいながら、男と自分との楽しい過去や、切ない現在や、悲しい未来や、さまざまの恋の姿を胸の奥に描いていたのであった。
 林之助が杉浦の屋敷へ住み付くときに、お前は再び侍になってこのわたしをどうしてくれると念を押したら、それは決して心配するな、時節が来ればきっと夫婦になる。蛇つかいの足を洗って相当の仮親をこしらえて、仁科林之助の御新造さまと呼ばせてみせると、男は重い口で自分に誓った。しかしそれは一時の気休めで、自分が武家の女房になれようとは思えなかった。自分でもなりたいとは思わなかった。ここで一旦手を放せば、自分がつかんでいる男は鳥のように逃げてしまって、おそらく再び自分の手へは戻るまい。しょせん男と自分との縁は無いものだと、お絹は止めても止まらない男を出してやるときに、心の底では悲しく諦めていた。
 しかし男はその後もたびたび逢いに来てくれた。そうして、時節を待ってくれ、きっと夫婦になると繰り返して言った。いくら嬉しいと思っても、お絹は窮屈な武家の女房にはなりたくはなかった。それでも男がそれほどに自分を思っていてくれるということに就いて、彼女は言い知れない楽しみと誇りをおさえることは出来なかった。彼女は諦めながらもやはり林之助に憬れぬいていた。男がこの頃ちっとも寄り付かないのを、彼女は病気になるほど怨んでいた。
 上の御用が忙がしいので屋敷が抜けられない。そういう余儀ない事情があるのを知りながら、男を怨むほどの初心でもない、わからずやでもないと、お絹は自分で自分の値踏みをしていた。しかし、林之助が姿をみせないのはほかに理由があるらしい。その疑いが彼女の胸に強い根を張って、もしそれが果たして事実ならば、男を執り殺してやりたいほどに口惜しく思いつめていた。
 うたがいの相手はやはりこの両国の列び茶屋のお里という娘で、その店へときどきに林之助が入り込んでいるという噂が、お辰やお花の口から彼女の耳にもささやかれた。勿論、茶屋へ行って茶を飲んだからといって不思議はないが、このごろ自分のところへちっとも寄り付かないという事実に照らしあわせると、それが深い意味をもっているように疑われないでもなかった。お絹の疑いは一日増しに根強くなって、もうこの頃ではどうしてもそうなければならないと思われるようになってきた。
「今に証拠を見つけてやる」と、彼女は心のうちで叫んでいた。お辰やお花にも鼻薬をやって、お里の店の様子を絶えず探らせようとしていた。
 今も夢うつつでその事ばかりを考えていた。もう少し涼しくなると、彼女は鱗形の銀紙を貼り付けた紅い振袖を着て、芝居で見る清姫のような姿になって、舞台で蛇を使うことがある。自分が丁度その姿で男を追い掛けてゆくと、両国の川が日高川になって、自分が蛇になって泳いでゆく。そんな姿がまぼろしのように彼女の眼の前に現われた。と思うと、自分の可愛がっている青い蛇が忽ち一丈あまりの大蛇になって、林之助とお里の二人を巻き殺そうとしている。男と女は悲鳴をあげて苦しみもがいている。そんなおそろしい景色が覗きからくり[#「からくり」に傍点]の絵のように彼女の眼の前に展開された。そのからくりの絵はまた変って、林之助と自分とが日傘をさして、のどかな春の日の両国橋を睦まじそうに手をひかれて渡ってゆく……。
 それが悲しいか、怖ろしいか、気味がいいか、嬉しいか、お絹もそれをはっきりと意識するには、頭が余りにぼんやりしていた。
「もう一度お茶を飲みませんか」と、お君が声をかけた。
 お絹は又もや微かにうなずいた。薬を飲まされて、あたりが少し明かるくなったように思われた。彼女は肱をついて試みに起き直ったが、もう眩暈がするようなことはなかった。さっきは舞台で蛇を頸に巻いていると、その蛇がだんだんに強く絞め付けて来るように思われて、しだいに眼がくらんで気が遠くなった。それから楽屋へ運び込まれるまで、彼女はなんにも知らなかったのである。多年可愛がって使い馴らしている蛇が自分を絞める筈がない。まったく暑気あたりで眼が眩んだものだと、お絹はその当時のありさまをおぼろげな記憶の中から呼び出した。
「もう何ともありませんか」と、お花も摺り寄って訊いた。
「もう大丈夫、みんなもびっくりしたろうね。堪忍しておくれよ」と、お絹は案外にはきはきした声で言った。
「歩いて帰れますか。駕籠でも呼んでもらいましょうか」と、お花はまた訊いた。
「そうねえ」
 お絹は鳩尾をかかえるように俯向きながら考えていたが、ふと何物かがその眼先きをひらめいて過ぎたように、きっと顔をあげた。
「なに、もういいだろう。あたし、あるいて帰るよ。すぐそこだもの」
 酔いざめの人のように、まだ何となくふらふら[#「ふらふら」に傍点]する足元を踏みしめて、お絹は花魁のような紅い衣裳をぬぐと、肌襦袢は気味の悪いほどに冷たい汗にひたされていた。お君にからだを拭かせて、島田を解いて結び髪にして、銅盥の水で顔を洗って、彼女は自分の浴衣に着かえた。ほかの者もみな帰り支度をした。あと片付けをしている豊吉だけを楽屋に残して、女たち四人は初めて外の風に吹かれた。
 残暑は日の中のひとしきりで、暮れつくすと大川端には涼しい夕風が行く水と共に流れていた。高く澄んだ空には美しい玉のような星の光りが、二つ三つぱっちりとかがやいて、十四日の月を孕んでいる本所の東の空は、ぼかしたように薄明かるかった。川向うの列び茶屋ではもう軒提灯に火を入れて、その限りない蝋燭の火影が水に流れて黄色くゆらめいているのも、水辺の夜らしい秋の気分を見せていた。
「じゃあ、お大事に……。あしたまた……」
 お辰とお花はお絹に挨拶して別れた。お花は帰りに深川のお若の家へ寄って、病気の様子をみて来ると言った。
「そうしておくれよ。あたしだって又なんどき倒れるか知れないから」
 お絹はお君に蛇の箱を持たせて本所の方へ行きかけたが、すぐに立ち停まって明るい広小路の方を頤で指し示した。そうして、両国橋の方へ引っ返すと、お君も素直に黙って付いて行った。外の涼しい風に吹かれてお絹は拭ったようにさわやかな気分になったが、それでも足元はまだ何となくふら付いているので、時どきに橋の欄干によりかかって、なにを見るともなしに川のおもてを見おろしていた。一体どこまで行くつもりか、お君にはちょっと見当が付かなかった。
 橋を渡り尽くしてお君も初めてさとった。お絹は列び茶屋の不二屋を目指しているらしく、軒提灯の涼しい灯のあいだを横切って通った。まだ宵ながらそこらには男や女の笑い声がきこえて、麦湯の匂いが香ばしかった。不二屋の軒提灯をみると、お絹は火に吸い寄せられた灯取虫のように、一直線にその店へはいって行った。ふたりは床几に腰をかけると、若い女が茶を汲んで来た。それが娘のお里でないことはお絹も知っているので、さらに身をねじ向けて店のなかを窺うと、お里はほかの客となにか笑いながら話をしていた。
 お里はことし十八で、とかくにいろいろの浮いた噂を立てられ易いここらの茶屋娘のなかでも、初心でおとなしい女という評判を取っていることは、お絹もかねて聞いていた。林之助は今年二十歳になるけれども、まるで生息子のようなおとなしい男であった。おとなしい男とおとなしい女――お絹は林之助とお里とを結びつけて考えなければならなかった。彼女は黙って茶を飲みながら、絶えず後目づかいをして、お里の髪形から物言いや立ち振舞いをぬすみ見ていた。
「たいへんに涼しくなりましたねえ」と、お君はわれ知らずに口から出たように言った。
 ことしは残暑が強いので、お絹もお君もまわりの人たちもみな白地を着ていた。その白い影がなんとなく薄ら寂しく見えるほどに、今夜の風は俄かに秋らしくなった。

     三

 お絹は茶代を置いて床几を立った。
「もうちっとそこらをぶら付いて見ようじゃないか」と、彼女はお君を見返った。「それにしてもお腹がすいたね。家へ帰っても仕様がないから、そこらで鰻でも食べようか。つまらないことを考えていると人間は痩せるばかりだ。ちっと脂っこい物でも食べて肥ろうじゃないか」
「あら、姐さん肥りたいの」と、お君は暗いなかで驚いた顔をしているらしかった。
「お前も肥るほうがいいよ。あたしのように痩せっぽちだと、さっきのように直きにぶっ倒れるよ」
 こう言ううちにもお絹の眼には、小肥りに肥ってやや括れ頤になっている若いお里の丸顔がありありと映った。地蔵眉の下に鈴のような眼をかがやかしている人形のような顔――それがお絹には堪まらなく可愛く思われると同時に、堪まらなく憎いものにも思われた。
「何だってあたしは、あいつの顔をわざわざ見に行ったんだろう」
 ひょっとすると、そこに林之助を見つけ出すかも知れないと思わないでもなかったが、お絹はそれよりもまずなんとなくお里の様子が見たかったのであった。見てどうするということもない。まさかに喧嘩を売るわけにもいかない。大儀な足を引き摺って長い橋を渡って、飲みたくもない茶を飲みに来たのは、自分ながら馬鹿ばかしいようにも思われた。お絹は列び茶屋や夜店の前を通りぬけて、広小路最寄りの小さい鰻屋の二階へあがった。
「もう気分はすっかりいいんですか」と、お君はまた訊いた。
「ああ、もう大丈夫だよ」
 お君に酌をさせて、お絹は酒を飲んだ。酒は舌に苦いようで味がなかった。やっぱりからだがよくないのかしら――こう思うと、彼女はそぞろに寂しくなった。女が二十二にもなって、ほとんど人まじりも出来ないような、こんな稼業をしていて、末はどう成り行くことであろう。去年の冬、林之助と別れてから、お絹はめっきりと肉の衰えを感じるようになった。さっきのようなことがたびたび続いたら――と、彼女はうしろの壁に映る自分の痩せた影法師を思わず見返らねばならなかった。
 燭台の蝋は音もせずに流れた。あしたの十五夜の用意であろう、小さい床の間にはひとたばの薄が生けてあって、そのほの白い花のかげには悲しい秋が忍んでいるように思われた。お絹はいよいよ寂しくなった。
「君ちゃん。なんだか陰気だから、そこの窓をおあけよ」
 お君があけた肱掛け窓から秋の夜風は水のように流れ込んだ。となりの露地口の土蔵の白壁は今夜の月に明かるく照らされて、屋根の瓦には露のようなものが白く光っていた。お絹は林之助が発句を作ることをふと思い出した。あしたの晩は月を観て「名月や」などと頻りに首をひねることだろうと可笑しいようにも思われた。それとなくお里と約束して、どこへか月見にでも行くだろうかと、急に腹立たしくもなった。
 こんな子供を相手にしても仕方がないと思いながらも、お絹はおみくじを探るような気でお君に訊いてみた。
「お前、林さんが不二屋へ行くと思うかい。そうして、あのお里さんと仲よくしていると思うかい」
「そんなこと知りませんわ」と、お君は食べかけた鰻のしっぽを口から出したり入れたりしながら答えた。「だけれども、そんなことはないでしょう。誰だって本当に見た人はないんですもの。お花さんは誰のことでもそう言うんですから」
 お花にそんな癖のあることは事実であった。男と女とが少し馴れなれしく詞をかわしていると、お花は必ずこれを意味ありげに解釈しなければ気が済まなかった。林之助とお里との名を結びつけて、お絹の前に黒い影を投げ出したのもお花が第一の口切りであった。しかしお花が自分に対してそんな無責任な嘘をつこうとは、お絹もさすがに信じられなかった。
「嘘ですよ。きっと嘘ですよ」と、お君は鰻をのみ込んでしまってまた言った。
 子供は正直である。正直なお君の口からこういう保証の詞をきかされて、お絹は頼りないなかにも何だか心強いようにも感じた。
 苦い酒も無理に飲んでいるうちに幾らか酔いがまわってきて、自分ひとりでくよくよ考えていても詰まらないというような浮いた気も起った。このあいだから自分の小屋へ足ちかく見物にくる若旦那ふうの男があって、それは浅草の質屋の息子だとお花が話したことも思い出された。その男もまんざらの男振りではないなどとも考えた。自分が舞台から情のこもった眼を投げれば、かれを捕虜にすることはさのみむずかしくもないというような、一種の誇り心も起った。そうは思っても、やはり林之助が恋しかった。
 お絹とお君が夜露にぬれて一つ目の家へ帰り着いたのは、その夜の五つごろ(午後八時)であった。家には毎日留守番をたのむ隣りのお婆さんが眠そうな眼をして待っていた。お婆さんはお土産の折を貰って喜んで帰った。
「君ちゃん。戸をお閉めよ。もうすぐに寝ようじゃないか」
「はい」
 お君は素直に格子を閉めにいった。お君は近所の大工の娘で、家の都合がよくないのと、現在の母は生みの親でないのとで、去年からお絹の家へ弟子とも奉公人とも付かずに預けられているのであった。継しい母の手に育てられただけに、年の割には何かとよく気が付くので、お絹も彼女を可愛がっていた。
「お寝みなさい」
 眠い盛りのお君は床にはいると直ぐに又たたき起された。寝ぼけまなこを擦りながら格子をあけて出ると、外には若い男が忍ぶように立っていた。隣りと隣りとの庇合いから落ち込んでくる月のひかりを浴びて、彼の横顔は露を帯びたように白く見えた。
「あら、林さん」
「たいへんに早寝だね」と、林之助は笑っていた。「姐さんはもう寝たのか」
 お君にあとを閉めさせ、林之助はずっと奥の六畳へ通ると、お絹はもう寝床から脱け出していた。
 林之助は主人の使いで割下水まで来たので、その帰りにちょっと寄ってみたのだと言った。お君が火消し壺からまだ消えない火種を拾い出して来ると、林之助はとりあえず一服すった。
「どうしたい。顔の色が悪いじゃないか」
「きょうは舞台で倒れたの」
「そりゃあいけない。どうしたんだ」
「なに、すぐに癒ったの。やっぱり暑気あたりだってお医者がそう言って……」
「なにしろ、大事にするがいいぜ。悪いようならば無理をしないで、二、三日休んで養生した方がいいだろう」
「いいえ、それほどでもなかろうと思っているの。いっそひと思いに死んだ方がいいかも知れない」
 こんな問答をしているうちにも、お絹は眼にみえない何物をか相手の顔色から見いだそうと努めているように、絶えずその顔をじっと見つめていると、男は女のひとみを恐れるように行燈の暗い方へ眼をそむけていた。
 女はこの頃の無沙汰について正面から男を責めようともしなかった。男も言いそそくれたようなふうで、自分からはなんにも言い出さなかった。お絹は長い煙管でしずかに煙草をすっていた。
「あたし、考えると、さっきあのままで死んでしまった方が仕合せだったかも知れない。生きていたところで、あんまり面白い世の中でもなし、ひと思いに死んでしまった方が未練が残らなくっていい」
 ふた口目には死にたいと繰り返して言うお絹の料簡を、林之助も大抵は察していた。そんなことを言って自分の気を引いて見るのだということは能く判っていた。ここでうっかりした返事をすると、それを言いがかりに執念深く絡みついて来るお絹のいつもの癖を知っている彼は、なるべく逆らわないように避けているのを唯一の楯と心得ているので、今夜もおとなしく黙って聞いていた。
「君ちゃん。お酒は無いかい」と、お絹は次の間へ声をかけた。
「いや、そうしちゃあいられない。もうすぐに帰らなけりゃあならないんだ。あんまり無沙汰をしているから、唯ちょいと寄って見たのさ。もう五つ過ぎだ。早く帰らなけりゃならない。御用人がなかなかやかましいから」と、林之助は煙草をそろそろ仕舞いかかった。
「それだから屋敷者は忌さ。あたしがあんなに止めたのに、お前さんなぜ行ったの。御用人に叱られたって構わない。屋敷をしくじるように、あたしはふだんから祈っているんだから」
「冗談じゃあねえ」と、林之助は仕方なしに笑った。「いつも言う通り、おれも侍の子だ。いつまでもお前の厄介になって唯ぶらぶらしているのもあんまり口惜しい、どうにかまあ自分だけの身じんまく[#「じんまく」に傍点]は自分でしなけりゃあならないと思って、窮屈な屋敷奉公も我慢しているんだ。おれの料簡も今にわかる。まあ、お互いにもう少しの辛抱だ」
「へん、久しいものさ」
 お絹は煙管を取って又すい始めた。そうして、横眼で男の顔をじろじろ[#「じろじろ」に傍点]眺めていた。その蛇のような眼が男にはおそろしかった。
 お絹は色の青白い細面で、長い眉と美しい眼とをもっていた。林之助も昔はその妖艶なひとみの力に魅せられたのであった。しかもだんだんと深く馴染むに連れて、殊に一つの屋根の下に朝夕一緒に暮らすようになってから、彼女の妖艶な眼の底に言い知れぬ一種のおそろしい光りの忍んでいることを林之助は漸く発見した。自然の生まれ付きか、あるいは多年もてあそんでいる蛇の感化か、いずれにしてもお絹が蛇のような悽愴い眼をもっていることは争われなかった。お絹が天明五年巳年の生まれであるということも思いあわされて、林之助は迷信的にいよいよ怖ろしくなった。彼がふたたび窮屈の武家生活に立ち戻ろうと思い立ったのも、実はこの怖ろしい眼から逃がれようとするのが第一の目的であった。
 しかし林之助は、彼女の怪しい眼を恐れると同時に、彼女のあたたかい情けを忘れるほどの不人情者ではなかった。彼はお絹を振り放そうとは思わなかった。さりとて余りに接近するのも不安であった。つづめて言えば、不即不離というような甚だあいまいな態度で、二人の関係を相変らず繋ぎ合わせて行こうと考えているのであった。恋に対してこうした不徹底な態度を取るということは、決して相手を満足させる方法ではなかった。お絹の胸にいろいろの疑いや妬みの芽をふくのも無理ではなかった。
 今夜もそのおそろしい眼と向き合っている。
 林之助が努めて相手の視線の外に逃がれ出ようと顔をそむけているのも、彼としてはまことによんどころない事情であった。それが久し振りで逢ったお絹にはなんだか物足りないような、疑わしいもののように思われてならなかった。
 二人は又しばらく黙っていた。縁の下では虫の声がきこえた。

     四

「林さん。お前さん、お互いにこうしていては詰まらないとお思いでないかえ」
 お絹はしずかに煙管をはたきながら、またしても男のこころを探るような疑いぶかい眼をして訊いた。林之助もまともに向き直らないわけにいかなくなった。
「つまる、つまらないの論じゃない。いつも言う通り、今がお互いの辛抱どきだ。そりゃあこうして離れていれば、おれだって寂しいこともある。お前だってああ詰まらないと思うこともあるだろう。しかしそこが辛抱だよ。おれだっていつまでこうしちゃあいない。そのうちにはだんだん出世して給人か用人になれまいものでもない。そのあかつきにはお前を引き取るとも、又おまえが窮屈でいやだと言うならばそっと何処へか囲って置くとも、そりゃあ又どうにでも仕様があろうというものじゃあねえか」
 林之助の言うことは大道うらないの講釈のように嘘で固めていた。彼の奉公している杉浦中務の屋敷は六百五十石で、旗本のうちでもまず歴々の分に数えられているので、用人や給人はすべて譜代である。渡り奉公の中小姓などが並大抵のことでその後釜に据われる訳のものではない。林之助も無論それを知らない筈はなかったが、この場合、まずこんなことでも言って女の手前をつくろって置くよりほかはなかった。
 そうした気休めはもう幾たびか聞き慣れているので、お絹も身に沁みて聞こうとはしなかった。しかしそんな見え透いた嘘をついてまでも、自分の機嫌を取るように努めているらしい男の心は、やはり憎くなかった。
「だけど、お前さん。歴々のお旗本の御用人さまが両国の橋向うの蛇つかいを御新造にする。そんなことが出来ると思っているの」
「表向きは無論できねえ理屈さ。だが、一旦綺麗に足を洗って置いて、それから担当の仮親を拵えりゃあ又どうにか故事つけられるというものだ。又それが小面倒だとすれば、今も言う通りどこへか囲っておく。つまり二人が末長く添い通せりゃあ、それで別に理屈はねえ筈だ」
 これも去年の冬から何度繰り返しているか判らない。お絹も何度聞いているか判らない。二人が顔を突きあわせれば、いつもこの同じような問題を中心にして、男は的になりそうもないことを言い、女も的にならないことを知りながら渋々納得している。その間には言い知れない悩みと寂しさとを感じていながらも、お絹は切るに切れない糸に引き摺られていた。
 今夜のお絹には、まだほかに言いたいことがあった。列び茶屋のお里のことが胸いっぱいにつかえていながらも、確かな手証を見とどけていない悲しさには、さすがに正面から切り出すのを差し控えていなければならなかった。それでも、何とかしてこの新しい問題を解決した上でなければ、男を今夜このままに帰したくないので、彼女はだまって俯向きながら、林之助を無理にひきとめる手だてをいろいろに工夫していた。
 男も立端を失ったように、一度しまいかかった袂落しの煙草入れを又あけて、細い銀煙管から薄いけむりを吹かせていたが、その吸い殻をぽん[#「ぽん」に傍点]と叩くのをきっかけに、今度は思い切って起ちあがった。
「まあ、からだを大事にするがいい。又近いうちに来るから」
「列び茶屋へばかり行かないでね、ちっとこっちへも来てくださいよ」
 思い余ったお絹の口から忌味らしいひと言がわれ知らずすべり出ると、林之助は少し顔をしかめて立ち停まった。
「列び茶屋へ行く……。誰が」
「お前さんがさ。みんな知っているよ」
 乗りかかった船で、お絹もこう言った。
「へん、つまらねえことを言うな」
 問題にならないというような顔をして、男はすたすた[#「すたすた」に傍点]出て行こうとした。
 そのうしろ姿をじっと見つめているうちに、お絹は物に憑かれたように俄かにむらむら[#「むらむら」に傍点]と気が昂って来た。彼女は不意に起ちあがって長火鉢の角につまずきながら、よろけかかって男の肩にしがみついた。
「林さん。おまえさん、ずいぶん薄情だね」
 だしぬけに鋭いヒステリックの声を浴びせられて、気でも違いはしないかというように、林之助は呆気にとられた顔をしてお絹をみると、彼女のものすごい眼は上吊っていた。その声はもう嗄れていた。
「お前さん、あたしというものをどうして呉れるつもりなの。おまえさんを屋敷へやった以上は、どうで二人のあいだに長い正月のないことはあたしも大抵あきらめていたけれども、目と鼻の広小路へ来て列び茶屋の娘とふざけ散らしている。そんなことをされて、おとなしく見物しているあたしだと思っているのかえ」と、お絹は早口に言った。「いつもいう通り、蛇は執念ぶかいんだから、そう思っておいでなさいよ」
「列び茶屋の娘……。そりゃあ思いもつかねえ濡衣だ。なるほど友達のつきあいで、列び茶屋の不二屋へ此中ちょいちょい遊びに行ったこともあるが、なにも乙に絡んだことを言われるような覚えはねえ。こう見えてもおれは大川の水、あっさりと清いものだ」
「悪くお洒落でないよ」と、お絹は男の肩を一つ小突いた。「お前さんが不二屋のお里とトチ狂っていることは両国でみんな知っているんだよ。さあ、これからあたしと一緒に不二屋へ行って、あたしの眼の前でお里と手を切っておくれ」
 林之助はいよいよ煙にまかれた。彼が友達と一緒にこのごろ列び茶屋へ入り込むことは事実であった。不二屋のお里とも馴染みであった。しかしどう考えてもお絹からこんな難題を持ち掛けられるような疚しい覚えはなかった。
「馬鹿だな。誰かにしゃく[#「しゃく」に傍点]られたと見える」と、林之助はなまじ言い訳をしない方が却って自分の潔白を証明するかのように、ただ軽く笑っていた。
 それでもお絹はどうしても肯かなかった。彼女はまったく気でも違ったように男にむかって遮二無二食ってかかって、邪が非でもこれから不二屋へ一緒に行けと言った。彼女の蛇のような眼はいよいよものすごくなって、眼尻には薄紅い血がにじんで来たように見えた。言い訳するよりも、なだめるよりも、林之助は一刻も早くこの怖ろしい眼から逃がれなければならなかった。彼は挨拶もそこそこにして、おびえた心をかかえながら格子の外へ逃げるように出て行ってしまった。
「あれ、姐さん」
 跣足で追って出ようとするとお絹を、お君はころげるように駈けて来て抱き止めた。
「姐さん、お待ちなさいよ。林さんはもう遠くへ行ってしまったわ」
 お絹は燃えるような息をついて土間に突っ立っていた。
「姐さん、嘘よ、嘘よ。お花さんの言うことはみんな嘘よ。林さんはなんにも知りゃあしないのよ。列び茶屋の娘なんて皆んな嘘よ。きっと嘘に相違ないのよ」
 嘘という字を幾つも列べて、お君はおどおど[#「おどおど」に傍点]しながらも一生懸命にお絹をなだめようとすると、お絹は解けかかった水色の細紐を長く曳きながら、上がり框へくずれるように腰をおとした。
「寝衣のまんまでこんなところにいると悪いわ。早く内へおはいんなさいよ」
 台所から雑巾を持って来て、お君はお絹の足を綺麗に拭いてやって、六畳の寝所の方へいたわりながら連れ込んだ。お絹は枕を抱えるようにして蒲団の上に俯伏したが、その痩せた肩に大きい波を打っているのを、お君は不安らしく眺めていた。
「さっきのお薬をあげましょうか」
「いいよ、いいよ。あたしに構わずに寝ておしまいよ」と、お絹はうるさそうに俯向きながら言った。
 お君は起って格子を閉めに行ったが、やがて引っ返して来てお絹の枕もとに坐った。縁の下でじいじい[#「じいじい」に傍点]と刻んでゆくような虫の声が又もや耳についた。どこかの隙き間から忍び込んで来る夜の冷たい風に、行燈のうす紅い灯が微かにちろちろ[#「ちろちろ」に傍点]と揺らめいて、痩せおとろえた秋の蚊がその火影に迷っていた。
「もうお前、お寝よ。あしたの朝、眠いから」
「あたし、今夜は起きていますわ」
「あたしはもういいんだよ」
「でも、こんなに癇がたっていて、どんなことがあるかも知れませんもの。姐さん、ほんとうにからだを大事にしてくださいよ」
「いいよ、判っているよ」と、お絹は邪慳に叱りつけた。
 叱られてもお君はまだそこにしょんぼりと坐っていた。露地のなかで犬の声がきこえたので、もしや林之助がまた引っ返して来たのではないかと、お君はそっと起って行って雨戸の外に耳を澄ましたが、犬の声はしだいに遠くなって、溝板の上には誰も忍んでいるような気配もきこえなかった。
「誰か来たの」と、お絹は急に顔をあげた。
「いいえ」と、お君は枕もとへそろそろとまた戻って来た。
「お前、いい加減にしてお寝よ」
「ええ」と、お君はまだ渋っていた。
「言うことを聞かないと承知しないよ」
 枕をつかんで叩き付けそうな権幕をみせても、お君はまだ強情に動かなかった。黙って坐っている彼女の小さい眼からは白いしずくがほろほろ[#「ほろほろ」に傍点]と流れていた。それを見ると、お絹は急に堪まらなくなったように、蒲団の上から滑り出してお君のからだを横抱きにしっかりと抱えた。
「君ちゃん、堪忍しておくれよ。あたし、この頃は時どきに癇が起るんだからね。もうなんにも叱りゃあしないよ。ね、ね、いいだろう。これからはいつまでも仲よくしようね」
 お君の濡れた顔をじっと見つめながら、お絹は自分も子供のようにしくしくと泣き出した。なんとも言い知れない悲しさが胸の底から滲み出して、お君も抱かれながらに啜り泣きをやめなかった。

     五

 お絹のおそろしい眼から逃れた林之助は、大川端まで来て初めてほっとした。十四日の大きい月はなかぞらに真ん丸く浮き上がって、その影をひたしている大川の波は銀を溶かしたように白くかがやきながら流れていた。長い橋の上には、雪駄の音もしないほどに夜露がしっとり[#「しっとり」に傍点]と冷たく降りていた。林之助はそのしめった夜露を踏んで急ぎ足に橋を渡って行った。
「門番のじじいにまた忌な顔をされるのか」
 そんなことを考えながら林之助は広小路へ出ると、列び茶屋でももう提灯をおろし始めたとみえて、どこの店でも床几を片づけていた。玉蜀黍や西瓜や枝豆の殻が散らかっているなかを野良犬がうろうろさまよっていた。
「今晩は。今お帰りでございますか」
 自分の前をゆく若い女がふと振りむいて丁寧に挨拶したので、林之助も足を停めてよく見ると、女は不二屋のお里であった。
「やあ、今晩は。里ちゃんの家はこっちへ行くの」
「ええ、外神田で……」
 向柳原へ帰る男と外神田へ帰る女とは、途中まで肩をならべて歩いた。お絹から思いもよらない疑いを受けている林之助は、こうして夜ふけにお里と繋がって歩いていることが何だか疚しいように思われてならなかった。しかし先方から馴れなれしく近寄って来るものを、まさかに置き去りにして逃げて行くほどの野暮にもなれなかった。二人は軽い冗談などを言いながら連れ立って歩いた。
「いいお月さまですことね」と、お里は明るい月をさも神々しいもののように仰いで見た。
「ほんとうにいい月だ。あしたのお月見はどこも賑やかいだろう。里ちゃんも船か高台か、いずれお約束があるだろうね」
「いいえ、家がやかましゅうござんすから」
 家がやかましいのか、本人の生まれ付きか、とにかくにお里が物堅い初心な娘であることは林之助も認めていた。彼はお絹の妖艶な顔と、お里の人形のような顔とを比較して考えた。執念ぶかそうな蛇の眼と、無邪気らしい鈴のような眼とを比較して考えた。そうして、なんにも知らずに人から呪われているお里が気の毒にも思われた。
 お絹は今夜自分を不二屋へ引き摺って行って、彼女の見る前でお里と手を切らせると言った。勿論、それは一時の言い懸りではあろうが、もし果たしてその通りに二人が不二屋へ押し掛けて行ったら、お里は一体どうするであろう。それを考えると、林之助はおかしくもあり、また気の毒でもあった。そのお里はなんにも知らずに自分と一緒にあるいている。人目には妬ましく見えそうなこの姿を、お絹が見たらなんと思うであろう。林之助は自分のうしろから蛇の眼がじっと覗いているようにおののかれて、俄かにあたりを見まわすと、明るい月は頭の上から二人をみおろして、露の沁み込んだ大道の上に二つの影絵を描いていた。夜ももう更けているらしかった。
「いつも一人で帰るの」
「いいえ」
 列び茶屋の或る家に奉公しているお久という女がやはりお里の近所に住んでいるので、毎晩誘いあわせて一緒に帰ることにしていたが、きょうはその女が店を休んだので、お里は連れを失って寂しく帰る途中であった。彼女が顔馴染みの林之助に声をかけたのも、ひっきょうは帰り途のさびしいためであった。この頃、柳原の堤に辻斬りが出るという物騒な噂があるので、お里はそんなことを言い出して足がすくむほど顫えていた。しかしそれは闇夜のことで、昼のように明るい月夜に辻斬りなどがめったに出るものではないと、林之助は力をつけるように言い聞かせた。向柳原へ帰る彼は、堤の中途から横に切れて、神田川を渡らなければならなかった。
「わたしはあっちへいくんだから、ここでお別れだ。まあ気を付けて……」
「はい。ありがとうございます」と、お里は頼りないような声で挨拶した。
 それが何となしに哀れを誘って、林之助はいっそ彼女の家まで一緒に送って行ってやろうかとも思ったが、自分も屋敷の門限を気遣っているので、このうえ道草を食っているわけにはいかなかった。そのままお里に別れて橋を渡り過ぎながらふと見かえると、堤の柳は夜風に白くなびいて、稲荷のやしろの大きい銀杏のこずえに月夜鴉が啼いていた。白地の浴衣を着て俯向き勝ちに歩いてゆくお里のうしろ姿が、その柳の葉がくれに小さく見えた。
 五、六間もゆき過ぎたかと思うと、あずま下駄のあわただしい音が、うしろから林之助を追って来た。振り向いてみると、それはお里であった。彼女は林之助にわかれると急に寂しく心細くなったので、ちっとぐらい廻り路をしてもいいから、自分も柳原堤をまっすぐに行かずに、林之助と一緒に向柳原へまわって、それから外神田へ出ようというのであった。ふたりはまた一緒にあるき出した。
「しかし、向柳原まで来ちゃあ余程の廻り路になる。じゃあ、いっそわたしがお前の家まで送ってあげよう」と、林之助も見かねて言い出した。
 お里も初めは辞退していたが、しまいには男の言うことをきいて、外神田の家まで送って貰うことになった。月はいよいよ冴え渡って、人通りの少ない夜の町をさまよっているたった二人の若い男と若い女をあざやかに照らした。ふたりの肌と肌は夜露にぬれて、冷たいままに寄り添ってあるいた。あるく道々で、お里は自分の身の上などを少しばかり話し出した。
 お里は不二屋の娘ではなかった。不二屋の株を持っている婆さんはもう隠居して、日本橋の或る女が揚げ銭で店を借りている。お里はその女の遠縁に当るので、おととしの夏場から手伝いに頼まれて、外神田の自宅から毎晩かよっているが、内気の彼女は余りそんな稼業を好まない。自宅にはお徳という母があって、これも娘に浮いた稼業をさせることを好まないのであるが、幾らか稼いで貰わなければならない暮らしむきの都合もあるので、仕方がなしに娘を両国へ通わせている。七年前に死んだ惣領の息子が今まで達者でいたらとは、母が明け暮れに繰り返す愚痴であった。
「よけいなお世話だが、早くしっかりした婿でも貰ったらよさそうなもんだが……」と、林之助は慰めるように言った。
「なんにも株家督があるじゃなし、なんでわたくしどものような貧乏人のところへ婿や養子に来る者があるもんですか」と、お里はさびしく笑った。「自分ひとりならば、いっそ堅気の御奉公にでも出ますけれど、母を見送らないうちはそうもまいりません」
 お里の声は湿んできこえたので、林之助はそっと横顔を覗いてみると、彼女は月の光りから顔をそむけて袖のさきで眼がしらを拭いているらしかった。おとなしい林之助の眼にはそれがいじらしく悲しく見えた。そうして、こういう哀れな娘を呪っているお絹の狂人染みた妬みが腹立たしいようにも思われて来た。
 不二屋へ毎晩はいり込む客の八分通りは皆んなこのお里を的にしているのであるが、彼女がこうした悲しい寂しい思いに沈んでいることは恐らく夢にも知るまい。現に自分を誘ってゆく諸屋敷の若侍たちも「どうだ、いい旦那を世話してやろうか」などと時どきからかっている。自分も毒にならない程度の冗談をいっている。お里は丸い顔に可愛らしいえくぼをみせて、いい加減に相手になっている。
 それは茶屋女の習いと林之助も今まで何の注意も払わずにいたが、今夜は彼女の身の上話をしみじみと聞かされて、もううっかりと詰まらない冗談も言えないような気になって、林之助もおのずと真面目な話し相手にならなければならなくなった。
 二人の話し声はだんだんに沈んでいった。問われるに従ってお里はいろいろのことを打ち明けた。七年前に死んだ兄のほかには、ほとんど頼もしい身寄りもないと言った。不二屋のおかみさんも遠縁とはいえ、立ち入って面倒を見てくれるほどの親身の仲でもないと言った。母は賃仕事などをしていたが、それも病身で近頃はやめていると言った。お里の話は気の弱い林之助の胸に沁みるような悲しい頼りないことばかりであった。
 林之助は自分とならんでゆくお里の姿を今更のように見返った。紅いきれをかけた大きい島田髷が重そうに彼女の頭をおさえて、ふさふさした前髪にはさまれた鼈甲の櫛やかんざしが夜露に白く光っていた。白地の浴衣に、この頃はやる麻の葉絞りの紅い帯は、十八の娘をいよいよ初々しく見せた。林之助はもう一度お絹とくらべて考えた。お里はとかく俯向き勝ちに歩いているので、その白い横顔を覗くだけでは何となく物足らないように思われた。
「どうもありがとうございました。さぞ御迷惑でございましたろう」
 外神田まで送り付けて、路の角で別れるときにお里は繰り返して礼をいった。自分の家はこの横町の酒屋の裏だから、雨の降る日にでも遊びに来てくれと言った。それがひと通りのお世辞ばかりでもないように林之助の耳に甘くささやかれた。まんざらの野暮でもない林之助は阿母に好きなものでも買ってやれといって、いくらかの金を渡して別れた。お里は貰った金を帯に挟んで、幾たびか見かえりながら月の下をたどって行った。
 お里に別れて林之助は肌寒くなった。夜もおいおいに更けて来るので、彼は向柳原へ急いで帰った。帰る途中でも、お絹とお里の顔がごっちゃになって彼の眼のさきにひらめいていた。
「お絹に済まない」
 お絹の眼を恐れている林之助は、お絹の心を憎もうとは思わなかった。彼は義理を知っていた。彼はお絹の濃やかな情を忘れることは出来なかった。お絹はとかく苛いらして、ややもすると途方もない気違い染みた真似をするのも去年の冬以来のことで、はっきり自分が彼女の家を立ち退いてからの煩らいである。現にきょうも舞台で倒れたという。林之助は近頃彼女のところへちっとも寄り付かなかった自分の不実らしい仕向けかたを悔まずにはいられなかった。無論、屋敷の御用も忙がしかった。友達のつきあいもあった。しかし無理に遣り繰ればどうにか間のぬすめないこともなかった。
 ひとにむかって何と上手に言い訳をしようとも、自分の心にむかっては立派に言い訳することができないような、うしろ暗い自分の行ないを林之助は自分で咎めた。
 誰に水をさされたのか知らないが、お絹が飛んでもない疑いや妬みに心を狂わせるというのも、つまりは自分が無沙汰をかさねた結果である。世間には病気の女房をもっている夫もある。大あばたの女と仲よくしている男もある。うす気味の悪い蛇の眼を自分ばかりが恐れて嫌うのは間違っている。これからはまず自分の心を持ち直して、お絹のみだれ心を鎮める工夫をしなければならない。自分と、お絹と、蛇と、この三つは引き離すことの出来ない因果であると悟らなければならない。そうは思いきわめながらも、林之助がまつげの塵ともいうべきは、かのお里の初々しいおとなしやかな顔かたちであった。それがなんとなしに彼の目さきを暗くして、お絹一人を一心に見つめていようとする彼のひとみの邪魔をした。
 屋敷の門前へ来て再び空を仰ぐと、月は遠い火の見櫓の上にかかって、その裾をひと刷毛なすったような白い雲の影が薄く流れていた。こういう景色はよく絵にあると林之助は思った。

     六

 十五夜のあくる日は雨になって、残暑は大川の水に押し流されたように消えてしまった。二十九日は打ちどめの花火というので、柳橋の茶屋や船宿では二十日頃からもうその準備に忙がしそうであったが、五月の陽気な川開きとは違って、秋の花火はおのずと暗い心持ちが含まれて、前景気がいつも引き立たなかった。江戸名物の一つに数えられる大川筋の賑わいも、ことしはこれが終りかと思うと、心なく流れてゆく水の色にも冷たい秋の姿が浮かんで、うろうろ船の灯のかずが宵々ごとに減ってゆくのも寂しかった。
 両国の秋――お絹はその秋の哀れを最も悲しく感じている一人であった。十四日の夜以来、林之助は思い出したように足近くたずねて来た。しかし、いつもそわそわ[#「そわそわ」に傍点]して忙がしそうに帰って行った。十日のあいだに四日も訪ねて来たが、しみじみと話をする間もないように急いで帰ってしまった。
「人焦らしな。いっそ来てくれない方がいい」と、お絹は物足らないような愚痴をいうこともあった。
「来なければ来ないで恨みをいう、来れば来るで愚痴をいう。困ったお嬢さまだ」と、林之助は笑っていた。
 まったく林之助の言う通り、どっちにしてもお絹には不足があった。男が屋敷奉公をやめて、再び自分の手許へ戻って来ない限りは、ほんとうに胸の休まる筈はないと自分でも思っていた。男を引き戻したい。お絹は明けても暮れても唯そればかりを念じていた。そんなら去年なぜ出してやったかと自分のこころに訊いてみても、確かな返事をうけ取ることが出来なかった。去年は悲しくあきらめて離れた――しかも、いよいよ離れてみると恋い死ぬほどに懐かしくなって来た――お絹は去年おめおめ[#「おめおめ」に傍点]と男を出してやった自分の愚かな心を、笞うちたいほどに罵り悔まずにいられなかった。
「お菓子はいかがです」
 五十を二つ三つも越したらしい女が駄菓子の箱をさげて楽屋へそっとはいって来た。あさってが花火という二十六日のひる過ぎで、お絹が例の水色の※[#「※」は「ころもへん+上」、読みは「かみ」、290-10]※[#「※」は「ころもへん+下」、読みは「しも」、290-10]をぬいで、中入りに一服すっているところであった。
「相変らずお市か捻鉄だろうね」と、前芸のお若が蒼い顔を突き出した。お若は病気が癒って五、六日前からようよう舞台へ出るようになったのであった。
「お前さん、ずいぶん意地が綺麗だね。まだお医者の薬を飲んでいる癖に……」と、そばからお花も摺り寄って来た。そうして、「姐さん、いかが」と、笑いながらお絹にきいた。
「たくさん」と、お絹は重そうに頭をふった。「だけども、みんなが食べるならお食べよ。代は一緒に払ってあげるから、君ちゃん、お前もたんとお食べ」
「どうも御馳走さま」
 みんなが一度に挨拶して、お若もお花もお君も、地弾きのお辰も、楽屋番の豊吉も、麩にあつまって来る鯉のように四方から菓子の箱を取りまいた。菓子売りはここらの観世物小屋の楽屋の者や列び茶屋の客などを相手に、毎日諸方へ入り込んでいるお此という女であった。姐さんの奢りというので、みんながここを先途と色気なしに、むしゃむしゃ食っているのを、お絹は箱に倚りかかりながら黙って離れて眺めていた。
「おまえさん、列び茶屋へも行くんだね」と、お花は菓子を食ったあとの指をなめながらお此に訊いた。
「はい。まいります」
「不二屋へも行くだろう」
「はい」
 お花はお絹に眼くばせをしながら、なに食わぬ顔でお此にまた訊いた。
「おまえさん、あの不二屋の里ちゃんという子を知っているだろう」
「おとなしい姐さんでございますね」
「あの子に、このごろ情人が出来たってね」
「さあ、そんなことは存じませんが……」と、お此は笑っていた。
「向柳原のほうのお屋敷さんだっていうじゃあないか」と、お花も笑いながらカマを掛けた。「おまえさん、毎日行くんだもの、知っているだろう」
 お此の返事はあいまいであった。単に向柳原の屋敷者といえば大勢あるが、お絹の男も向柳原にいることをお此はかねて知っていた。その男がその不二屋へ遊びにゆくこともお此はやはり知っていた。ここでうっかりしたことをしゃべって、どんな当り障りがないとも限らない。諸方へ出入りする自分の商売上、なるべくこんな問題には係り合わない方が利口だと思ったらしく、お此は巧みにお花の問いを避けて、あさっての花火の噂などを始めた。
 さっきから少しく眼の色の変っていたお絹は、もう焦れったくて堪まらないという気色で、倚りかかっていた箱をかかえながら衝と立って、お此の膝の前に詰め寄るように坐った。
「お此さん」
 その権幕が激しいので、相手はうろたえた。
「は、はい」
「向柳原といえば大抵判っているだろう。あたしのとこの林さんのことさ。あの人がこの頃むやみに不二屋へ行く。きのうもおとといも、さきおとといも、はいり込んでいたというが本当かえ。そうして、あのお里という子とおかしいというのも本当だろうね」
 お此は返事に困ったような顔をしていた。しかし果たして林之助とお里とのあいだに情交があるかないか、そんなことは彼女にも鑑定は付かないらしかった。お此はまったくなんにも知らないと正直そうに答えた。
 林之助とお里との問題については、お花は初めから情交ありげに吹聴している一人であった。現にきょうも楽屋へ来て、林之助がこのごろ毎日のように不二屋へはいり込むという新しい事実を誇張的にお絹に報告した。その矢先きへ丁度お此が来あわせたのであるから、並大抵の言い訳ではお絹はどうしても承知しなかった。
「お此さん。おまえさんも強情を張らないで、知っているだけのことは言っておしまいよ」と、お花もそばから口を出して責めた。
「だって、お前さん。あたしがその本人じゃあるまいし、人のことがどうして判るもんですかね。そんな無理なことを……」
 半分言うか言わないうちに、お絹は黙ってお此の腕をつかんだ。
「あ、姐さん。どうなさるんです。ひどいことを……」
 振り放そうともがくお此の痩せ腕を、お絹は挫ぐるばかりに片手でしっかり掴みながら、片手で箱をとんとん[#「とんとん」に傍点]と叩くと、穴の中から青い蛇が長い首を出した。お絹はその鎌首をつかんでずるずると引き出して、お此の鼻の先へ突きつけた。
「さあ、言わないか」
 お此は真っ蒼になって口もきけなかった。彼女は死んだ者のようになって唯ぼんやりしていると、お絹はものすごい眼をしてあざ笑った。
「じゃあ、隠さずに言うかえ。なんでもいいからお前さんの知っているだけのことを言っておしまいよ」
 世にもおそろしい蛇責めに逢っては、お此もしょせん逃がれる術はないと観念したらしい。自分の知っているだけのことは何でも言うから、ともかくもその蛇をしまってくれと顫えながら頼んだ。
「お前さん、知らない筈がないじゃあないか。お前さんがお里の家のすぐ近所にいるということも、あたしはちゃんと知っているんだよ」と、お絹は嚇すように睨んだ。蛇をつかんでいる手はまだ袂の下に隠していた。
 お絹が根ほり葉ほりの詮議に対して、お此も知っているだけのことを何でも答えた。しかし十四日の月を踏んでお里が林之助に送られて帰ったことは、二人のほかに知る者はなかった。お此もむろん知っていなかった。
 お絹がお此を残酷にさいなんで、ようよう聞き出した新しい事実は、以前よりもこの頃はお里の店へ林之助が足近く通って来るというだけのことに過ぎなかったが、それだけのことでもお絹の胸の火をあおるには十分であった。
「お此さん、ありがとうよ」と、お絹はわざと落ち着いたような声で言った。「もうそのほかにお前さんの知っていることはなんにもないんだね」
 林之助がどんな着物を着ていたとか、どんな菓子を買って食ったとか、お里にどんな冗談を言ったとか、茶代は幾らぐらい置いたらしいとか、そんなことまで残らずしゃべり尽くしてしまったお此は、もうこの上はおそろしい蛇を頸に巻き付けられても、なんにも口から吐き出す材料はなかった。
「後生ですからもう堪忍して下さい。まったく何んにも知らないんですから」と、お此は手を合わせないばかりにして、自分に詐りのないことを訴えた。
「もういいでしょうよ。姐さん」
 お花も見かねて取りなし顔に言った。自分が先き立ちになってお此を責めたのではあるが、蛇責めのむごい拷問には彼女もさすがに驚かされた。
 罪のないお此をそれほどに窘めるのも可哀そうだと思ったので、お花も仕舞いには却ってお絹をなだめる役にまわったのである。
「あんまり窘めて済まなかったね。こりゃあお菓子の代だよ」
 二朱の銀をお絹から貰って、お此は又おどろいた。お絹は剰銭はいらないと言った。
「その代りにお前さんにことづけを頼みたいんだがね。不二屋のお里に逢ったらば、これから林さんをいっさい寄せ付けないようにしてくれと、そう言っておくれ。いいかい。よく忘れないようにお里に言っておくれよ。もしこののちも相変らず不二屋に林さんの姿を見掛けるようなことがあると……」
 青い蛇の首がお絹の袂の下から出た。
「あたしはこれを持ってお里のところへお礼に行くからね」
「姐さんばかりじゃない。あたし達も加勢に行くよ」と、お花も一緒になって嚇した。
 嚇されてお此はまた縮みあがった。
「冗談じゃあない、本当にこれでお里の頸を絞めてやるから」と、お絹の白い手のさきには蛇の頭が気味悪くうごめいていた。
 お此は二朱の銀を頂いて早々に逃げて帰った。

     七

「まあ、誰から来たんだろうね」
 大きい鮓の皿を取りまいて、楽屋じゅうの者が眼を見あわせていた。お此が嚇されて帰ったあとへ、木戸番の又蔵が鮓屋の出前持ちと一緒に楽屋へはいって来て、お絹さんへといってその鮓の皿を置いて行った。
「誰が呉れたの」と、お花が訊いた。
「あとで判りやす」
 又蔵は笑いながら行ってしまった。お遣い物の主は結局判らなかった。しかし、こんなことはさのみ珍しくもないので、みんなは今まで駄菓子をさんざん噛った口へ、さらに鮪やこはだ[#「こはだ」に傍点]や海苔巻を遠慮なしに押し込んだ。お絹も無理に勧められて海苔巻を一つ食った。
「きょうは御馳走のある日だったね」と、地弾きのお辰は海苔の付いたくちびるを拭きながら、鉄漿の黒い歯をむき出して笑った。
「みんな姐さんのお蔭さ」と、お若も茶を飲みながら相槌を打った。
 飲み食いの時にばかり我れ勝ちに寄って来ても、まさかの時には本当の力になってくれる者は一人もあるまい。お絹はその軽薄を憎むよりも、そうした境遇に沈んでいる自分の今の身が悲しく果敢なまれた。小さいときに死に別れた両親や妹が急に恋しくなった。
 それに付けても林之助がいよいよ恋しくなった。自分が取りすがってゆく人は林之助のほかにはない。もうこれからは決して無理も言うまい。我儘も言うまい。どこまでもおとなしくあの人の機嫌を取って、見捨てられないようにする工夫が専一だと、いつにない、弱い心持ちにもなった。しかしお里のことを考え出すと、彼女はまた急に苛々して来た。林之助の見ている前で、お里の島田髷を邪慳に引っつかんで、さっきお此を苦しめたようにその鼻づらへ青い蛇をこすりつけてやりたいとも思った。林之助への面あてに、新しい男を見つけ出して面白く遊んでみようかとも思った。
「又ちゃん。なに……」
 又蔵によび出されて、お花は楽屋口へ起って行った。二人は何かしばらくささやき合っていたが、やがてお花はにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながら戻って来た。その時にはお絹はもう舞台に出ていた。
「お花さん。鮓の相手は知れたかね」と、楽屋番の豊吉が食いあらした鮓の皿を片付けながら訊いた。
 お花は黙ってうなずいた。
「当ててみようか。浅草の五二屋さん。どうだい、お手の筋だろう」
「楽屋番さんにして置くのは惜しいね」
「売卜者になっても見料五十文は確かに取れる」と、豊吉はいつもの癖でそり返って笑った。
「浅草の大将、だんだんに欺を出して来るね。又公が今来てお前に耳打ちをしていた秘密の段々、これも真正面から図星を指してみようか。お花さんにまず幾らか握らせて、向島あたりへ姐さんをおびき出して、ちょうど浅草寺の入相がぼうん[#「ぼうん」に傍点]、向う河岸で紙砧の音、裏田圃で秋の蛙、この合方よろしくあって幕という寸法だろう。どうだ、どうだ」
「見料五十文は惜しくない」と、お花は澄まして笑っていた。
「だが、罪だな」と、豊吉は勿体らしく首をひねった。「なぜと言いねえ。取り巻きのおめえ達はそれでよかろうが、姐さんはいい人身御供だ。そんなことが向柳原へひびいてみねえ。決して姐さんの為にゃなるめえぜ」
「姐さんもちっとは浮気をするがいいのさ」
「などと傍から水を向けるんだからおそろしい。悪党に逢っちゃあ敵わねえな」
「人聞きの悪いことをお言いでないよ」
 豊吉の推測はことごとく外れなかった。小屋が閉場ってから、お花はどう説き付けたかお絹を誘い出して向島へ駕籠で行った。豊吉のいった通り、浅草寺の入相の鐘が秋の雲に高くひびいて、紫という筑波山の姿も、暮れかかった川上の遠い空に、薄黒く沈んでみえた。堤下の田圃には秋の蛙が枯れがれに鳴いていた。
 二挺の駕籠が木母寺の近所におろされたときには、料理茶屋の軒行燈に新しい灯のかげが黄色く映っていた。風雅な屋根付きの門のなかには、芙蓉のほの白く咲いているのが夕闇の底から浮いているように見えた。お絹とお花はその茶屋の門をくぐって奥の小座敷へ通されると、林之助と丁度同い年ぐらいの町人ふうの若い男が、女中を相手に杯をとっていた。
「どうも遅くなりました」と、お花は丁寧に挨拶した。
 お絹は燭台の灯に顔をそむけて坐った。
 女中はなんにも言わずに二人をじろじろ[#「じろじろ」に傍点]見ながらつん[#「つん」に傍点]と立って行った。その素振りがなんだか自分たちを軽蔑んでいるらしくも見えたので、お絹はまず勃然とした。
「それでもよく出て来てくれたね」
 男がさした杯をお絹はだまって受取って、お花に酌をさせてひと口飲んだ。お花が取持ち顔に何かいろいろの話を仕向けると、男も軽い口で受けた。
 男は浅草の和泉屋という質屋の忰で、千次郎という道楽者であった。吉原や深川の酒の味ももう嘗め飽きて、この頃は新しい歓楽の世界をどこにか見いだそうとあさっている彼の眼に、ふと映ったのは両国のお絹であった。彼は自分の物好きに自分で興味をもって、この美しい蛇つかいの女に接近しようと努めた。楽屋への遣い物、木戸番への鼻薬、それらもとどこおりなく行き渡って、今夜ここでお絹と膝を突きあわせるまで手順よく運んだのである。彼はかなりに飲める口とみえて、二人の女を向うへまわして頻りに杯をはやらせていた。
 男振りもまんざらではない、道楽者だけに容子も野暮ではない。お花が頻りに褒めちぎっているのも、あながちに欲心からばかりでもないことをお絹も承知していた。彼女が今夜ここへ呼ばれて来たのも幾分か浮いた心も伴っていないでもなかった。どうで林之助とは添い通せる仲ではない。殊に男は不二屋のお里の方へとかく引き付けられるようになっている。自分だけが人知れずに苦労しているよりは、ちっとは面白く浮かれて見るもいいと、自棄も手伝った気まぐれから、今夜すなおにお花に誘い出されたのであった。しかし来てみると、やはり面白くないことが多かった。
 第一には、この家の女中たちの素振りが面白くなかった。かれらは自分の素姓を薄々知っているらしく、口へ出してこそ何とも言わないが、蛇つかいの女をさげすむような、忌み嫌うような気色をありありと見せていた。自分の商売の立派なものでないことは、お絹自身もむろん承知しているので、彼女も人にむかって、おのれの身分を誇ろうとは思っていなかった。しかし、かれらからさげすむような素振りを眼のあたりに見せつけられると、お絹は堪忍ができなかった。かれらとても大名高家のお姫さまではない。多寡が茶屋小屋の女中ではないか。その女中風情に卑しめられるのは如何にも口惜しいと、彼女の癇癪はむらむら[#「むらむら」に傍点]と起った。
 それから更に面白くないのは千次郎の態度であった。なるほど道楽者だけに話も面白い。すべての取りまわしも野暮ではない。しかしその野暮でないのをひけらかすような処に、お絹には堪まらないほど不快の点が多かった。しょせん彼の胸には、色の恋のと名づけられるような可愛らしいものを持っているのではない。単に一種の変り物を賞翫するような心持ちで自分をもてあそぼうというに過ぎないことも、お絹にはよく見透かされた。
 女中たちに対する不平と、千次郎に対する不快と、この二つがお絹を駆ってしたたかに酒を飲ませた。彼女は大蛇のように息もつかずに飲んだ。そばに観ているお花は、だんだんに蒼ざめてゆく彼女の顔色に少しく不安を懐いて来た。
「あの、お前さん。あんまり飲むと毒ですよ」
「いくら飲んだっていいよ。あたしが飲むんじゃないから」と、眼付きのいよいよ悽愴くなって来たお絹は、左の手には杯を持ちながら、右の手で袂をいじっていた。
 それを見てお花はいよいよ不安に思った。
 もしやさっきのお此の二の舞をここで演るつもりではあるまいかと、彼女は少しいざり出てお絹の楯になった。よもやここまで蛇を連れて来る筈もあるまいと思いながら、彼女はそっとお絹の袂を探ろうとすると、お絹は眼をひからせてその手を強く叩きのけた。
「なにをするんだよ。人の袂へ手をやって……。おまえ巾着切かえ」
「なんだ、なんだ。袂に大事の一巻でも忍ばせてあるのか」と、千次郎は笑った。
「ええ、大事なものよ。おまえさんに見せて上げましょうか。あたしの袂に忍ばせてあるのは商売道具の青大将よ」
 そばにいた女中たちはきゃっ[#「きゃっ」に傍点]といって飛び上がった。まだその正体を見とどけないうちに、千次郎も顔色を変えて起ち上がった。お絹はあざ笑いながら両方の袂を軽く振ってみせた。
「ほら、ご覧なさい。大丈夫。だが、和泉屋の若旦那。おまえさんは随分たのもしくないのね。あたしの商売がなんだということを今初めて知ったんじゃありますまい。それを承知の上でここまで呼び出して置きながら、蛇と聞くと直ぐに悚毛をふるって逃げ腰になるようじゃあ、とても末長くおつきあいは出来ませんね。ねえ、花ちゃん。それを思うと、向柳原はやっぱり可愛いところがあるね。なにしろ蛇とあたしと一緒に小一年も仲よく暮らしたんだからねえ」
 お絹はもう行儀よく坐っていられないほどに酔いくずれていた。彼女は片手を畳に突いて、ぐったりと疲れた人のように、痩せた肩で大きい息をついていた。
「ねえ、花ちゃん。向柳原はまったく頼もしいね。家を勘当されても、浪人しても、蛇とあたしと一緒に暮らしていたいと言うんだからね。あたしも今夜という今夜つくづく悟ったよ。女がほんとうに可愛いと思う男は、一生にたった一人しか見付からないもんだね。どう考えても浮気はできない。花ちゃん。お前、なんだってあたしをこんな所へ連れて来たんだえ。ええ、くやしい」
 彼女はお花の膝にしがみ付いたかと思うと、更にその胸倉をつかんで無暗に小突きまわした。相手が酔っているので、お花はどうすることも出来なかった。女中たちはおどろいて燭台を片寄せた。
「手に負えねえ女だ」と、千次郎は持てあましたように苦笑いをしていた。
「姐さん。あやまった、あやまった。堪忍、堪忍……」
 お花は小突かれながら頻りにあやまると、お絹は相手を突き放してすっくと起ちあがった。乱れた髪は黒い幕のように彼女の蒼い顔をとざして、そのあいだから物凄い二つの眼ばかりが草隠れの蛇のように光っていた。
「あたし、もう帰りますよ。誰がこんな所にいるもんか。駕籠を呼んでくださいよ」

     八

 向島を出たお絹の駕籠は四つ(午後十時)頃に、向柳原の杉浦家の門前におろされた。垂簾をあげて這い出したお絹は、よろけながら下駄を突っかけて立った。提灯の灯かげにぼんやりと照らされた彼女の顔はまだ蒼かった。暗い夜で、雨気を含んだ低い雲の間に、うすい天の河が微かに流れていた。
 駕籠屋にはなんにも言わないで、お絹はよろよろ[#「よろよろ」に傍点]と潜り門の前へあるいて行った。門にはもう錠がおろされていて、闇に白い彼女の拳が幾たびかその扉に触れると、そばの出窓から門番のおやじが首を出した。
「どなた……」
 門番は大きく呼んだ。
「あたしですよ」と、お絹は答えた。「仁科林之助さんに逢わしてください」
「門限をご存じないか」
「それでも急用なんですよ。早く明けてください。後生ですから」
 その媚いた口ぶりに門番も不審を打ったらしい。やがて行燈を持ち出して来て、窓のあいだから表の人の立ち姿を子細らしく照らして見た。
「急用でも夜はいけない。あしたまた出直して来さっしゃい」
「焦れったい人だね。用があるというのに……」
「おまえは一体だれだ。どこの者だ」と、門番は声をとがらせた。
「林之助の女房ですよ」
「林之助の女房……」
「だから、早く逢わしてください」
「では、待たっしゃい」
 門番は不承ぶしょうに奥へはいった。お絹は古い門柱へ倒れるように倚りかかって、熱い息をふいていると、真っ暗な屋敷の奥では火の廻りの柝の音がきざむように遠く響いて、どこかの草の中からがちゃがちゃ虫の声もきこえた。
 やがて潜り門の錠をあける音がからめいて、暗い中から林之助の白い姿が浮き出した。林之助は白地の寝衣を着ていた。
「林さん」
 声をかけて寄ろうとするお絹を、男は押し戻すようにして門の外へ出た。ふたりは長屋の窓下を流れている小さい溝のふちに立った。溝の石垣のなかに、こおろぎがさびしく鳴いていた。
「おい、どうしたんだ。今時分こんなところへやって来て……」と、林之助は小声で叱るように言った。
「お前さんに逢いたくって……」
「馬鹿」と、林之助はまた叱った。
 武家奉公の林之助が両国の蛇つかいに馴染みがあるなどということは、もちろん秘密にしなければならない。どんなことがあっても屋敷へ訪ねて来てはならないと、かねて固く言い含めてあるのに、夜中だしぬけに御門を叩いて自分をよび出しに来るとは、あんまり遠慮がなさ過ぎると、林之助は呆れて腹が立った。
「どうで馬鹿ですから堪忍してください。あたし、今夜はどうしてもお前さんに逢いたくって、逢いたくって……」
 その酒臭い息と、もつれた舌とで、女がひどく酔っているのを林之助は早くも覚った。なまじいここでぐずぐず言っているよりも、だまして早く追い返した方が無事らしいと気がついて、彼はそこに待っている駕籠屋を呼んだ。
「おい、おい。この女はだいぶ酔っているようだ。気をつけて送ってくれ。お絹、いずれあした逢って詳しい話を聞くから、今夜はおとなしく帰ってくれ」
「あい」
「それとも何か急に用でも出来たのか」
 返事に困ってお絹はぼんやりと黙っていた。
 ふとした浮気からお花に誘い出されたが、さて行って見ると面白くないことだらけで、胸のむしゃくしゃに堪えないお絹は、その反動で林之助が遮二無二恋しくなった。飛び立つほどに逢いたくなった。殊に酒にはしたたかに酔っているので、彼女は前後の考えもなしに自分の駕籠をこの屋敷まで送らせたのであったが、来てみると別に用はない。彼女は林之助の顔を見ると、張りつめた気が急にゆるんで、狐の落ちた人のようにぼんやりしてしまった。
 それでも直ぐにおとなしく帰ろうとはしなかった。
「おまえさん、今夜出られないの」
「どこへ行くんだ」
「あたしの家へ……」
 もう一度「馬鹿」と言いたいのを林之助は喉へのみ込んで、今夜これから出るわけにはいかない。あしたはこっちからきっと訪ねて行くから待っていろと、賺すように言い聞かせて、無理に女の手をとって駕籠に乗せようとすると、お絹は男の腕へぶら[#「ぶら」に傍点]下がるようにして処女のようなあどけない甘えた声で言った。
「林さん。あたし、これからは何でもお前さんのいうことを素直に聞きますからね。不二屋へ行っちゃあいやよ。え、よくって」
「承知、承知」
 銀河はいつか消えて、うす白い空の光りはどこにも見えなかった。お絹を乗せてゆく駕籠の端を、影の痩せた稲妻が弱く照らした。袖をかきあわせて立っている林之助の寝衣の襟に、秋の夜露が冷びやと沁みて来た。
「遅く門をあけさせて、気の毒だったな」
 門番に挨拶して林之助は自分の部屋へ帰った。
 寝入りばなを起された彼は、目が冴えて再び眠られなかった。お絹は今夜なにしに来たのであろう。おそらく酒に酔った勢いで唯なにが無しにここへ押し掛けて来たものと解釈するよりほかはなかった。この頃だんだんに狂女染みて来るお絹の乱れ心を林之助は悲しく浅ましく思った。これがいよいよ嵩じて来たら何を仕いだすかも判らない。真っ昼間、ここの玄関へ乗り込んで来るかも知れない。その暁には自分の身はなんとなる。林之助は去年のわびしい浪人生活を思い出さずにはいられなかった。お絹のものすごい眼に絶えず見つめられている怖ろしさと苦しさとを恐れずにはいられなかった。
 お絹は自分を本所の家へ再び引き戻そうと念じている。冗談ではあろうが、屋敷をしくじるように祈っていると言ったこともある。あるいは今夜を手始めに、これからたびたびここへ押し掛けて来て、所詮この屋敷にはいたたまれないように仕掛けるのではあるまいかと、林之助はまた疑った。時節を待てとあれほど言って聞かせてあるのに、まだ判らないのかと林之助は腹立たしくもなった。彼は又もやお絹とお里とをくらべて考えた。お絹と深く馴染む前に、なぜ早くお里を見付け出さなかったのであろうと今更のように悔まれた。そうして、ふた口目には不二屋のことを言って、執念ぶかく絡みかかるお絹の妬みがうるさくなった。おれはどうしても蛇の眼から逃がれることが出来ないのであろうか。これも因果と諦めてしまわなければならないのであろうか。おれは忌らしい蛇の縛めを解いて、ほんとうの女と人間らしい恋をすることは出来ないのであろうか。
「執り殺すなら、殺してみろ」
 こういう口の下から、彼は言い知れぬ恐怖に囚われて、とてもお絹の呪いに堪えられないような不安をも感じた。これまでの義理も捨てられなかった。うるさいとは思いながらも、その情けのこまかい味わいを忘れることはできなかった。考え疲れた彼のあかつきの夢は、胸へ這いあがって来る青い蛇にうなされた。
 あくる朝はなんだか気分が快くなかった。ゆうべよく眠れなかったのと、寝衣で夜露に打たれたのとで、からだが鈍いようにも思われた。お絹をたずねる約束をはっきり記憶していながらも、林之助は早朝から屋敷を出てゆく元気もなかった。そのうちに主人の使いで牛込まで行かなければならないことになったので、彼はとうとう両国橋を渡る機会を失ってしまった。
「留守にまた押し掛けて来やあしまいか」
 あやぶみながら帰って来たが、お絹はきょうは姿を見せなかったらしい。誰もたずねて来なかったという門番の話を聴いて林之助はまずほっとした。その日は一日陰っていて、夕方から霧のような雨がしとしと[#「しとしと」に傍点]と降って来た。急に袷が欲しいほどに涼しくなって、疝気もちの用人はもう温石を買いにやったなどといって、蔭で若侍たちに笑われていた。
 雨はその晩から明くる日まで降り通した。きょうの花火はお流れであろうと、林之助は雨の音をわびしく聞いた。そうして、雨の降る日にでも遊びに来てくれと、このあいだの晩お里にささやかれたことを思い出した。しかし彼はどうしてもお絹の方へ行かなければならないと思い直した。きょうも午さがりでなければ出られなかったので、八つ(午後二時)少し前に屋敷を出て、冷たい雨のなかを両国へ急いだ。
 打ちどめの花火を雨に流された両国の界隈は、みじめなほどに寂れていて、列び茶屋も大抵は床几を積みあげてあった。野天商人もみな休みで、ここの名物になっている鰯の天麩羅や鰊の蒲焼の匂いもかぐことはできなかった。秋の深くなるのを早く悲しむ川岸の柳は、毛のぬけた女のように薄い髪を振りみだして雨に泣いていた。荷足船の影さえ見えない大川の水はうす暗く流れていた。
 林之助も暗い心持ちで長い橋を渡った。

     九

 今頃自宅へ行っても居ないことを知っているので、林之助はお絹を東両国の小屋にたずねると、お絹もお君も見えなかった。お絹はきのうの朝から気分が悪いのを、無理に押して楽屋へはいったが、どうしても中途で我慢ができなくなった。このあいだのように舞台で倒れるようなことがあっては大変だとみんなも心配して、中入り前に家へ送って帰したが、それから続いて気分もすぐれないで、きょうもとうとう休むことになった。折角の書入れ日に雨は降る、姐さんには休まれる、いやいや散々ですと、楽屋番の豊吉がこぼし抜いていた。
「まあ、一服おあがんなさいまし」
 豊吉に煙草盆を出され、林之助も直ぐには起たれなかった。殊に楽屋じゅうの者ともみんな顔を識り合っているので、彼はしめっぽい座蒲団の上に片膝をおろして、煙草をすいながら二言三言つまらないことを話していた。豊吉を除いて、ほかの女たちはさすがにそれぞれ小綺麗な単衣を着ていたが、それでもめっきり涼しくなったと寂しそうに言うかれらの顔の上には、だんだんに冬に近づくのを悲しむような薄暗い色が浮かんでいた。昼でも楽屋の隅には痩せた蚊が唸っていた。
「ごめんなさい」と、お花は林之助に会釈して舞台へ出て行った。出るときに豊吉を見返って、火鉢の大薬罐を頤でさした。
「あたしの引っ込んで来るまでに、よく沸かして置いて頂戴よ。からだを拭くんだから」
「あい、あい」
「姐さんがいないと思って乙う幅を利かすね」と、お若はお花のうしろ姿を見送って言った。
「へん、馬鹿にしていやあがる」と、豊吉は罵るように言った。「からだが拭きたけりゃ大川へでもぽんぽん[#「ぽんぽん」に傍点]飛び込むがいいや」
「でも、きょうは姐さんの代りを勤めているんだから、仕方がないさ」と、お若は妬ましそうに言った。
「姐さんはよっぽど悪いのかね」
 林之助に訊かれて、お若はすぐにうなずいた。
「そりゃまったく悪いらしいんですよ。なんでもおとといの晩は大変にお酒を飲んで、夜風に吹かれてそこらを夜なかまでうろうろ[#「うろうろ」に傍点]していたんで、風邪を引いたらしいですよ」
「おとといの晩……」と、林之助はすこし考えた。「一体どこでそんなに飲んだんだろう」
 ふだんからお花とは余り仲のよくないらしいお若は、この問いに対して無遠慮にべらべら[#「べらべら」に傍点]しゃべった。なんでもおとといの晩、姐さんはお花に誘い出されて向島のある料理茶屋へ行った。そこで無暗に飲んで来たらしいと言った。
「お花が奢ったのかしら」
「どうですかねえ」と、お若は意味ありげに笑っていた。
 お花がそんな所へ連れ出して奢る筈がない。客に連れられて行ったに相違ないということは、林之助にもすぐに判った。
「花ちゃんは悪い人よ」
 こう言ったお若は、豊吉と眼を見あわせて急に口をつぐんだ。
 林之助は面白くなかった。これには何か深い意味が忍んでいるらしく思われた。しかしこの上に根問いしても、どうで正直のことは白状しまいと思ったので、彼はいい加減に話を切りあげて起った。
 外へ出ると雨はまだびしょびしょと降っていた。林之助は傘をかついで往来にぼんやり突っ立っていた。病気と聞いたらばなおさら急いでお絹を見舞うべきであるのに、彼はなんだか足が向かなかった。今の話の様子では、お花の取持ちで或る客と向島へ行ったらしい。しかもそれが普通の客ではないらしく思われてならなかった。自分のところへ押し掛けて来たのはその帰り途に相違ない。当てつけらしく自分をからかいに来たのか、それとも後悔してあやまりに来たのか。いずれにしても、林之助はいい心持ちでその話を聞くことは出来なかった。
「しかし折角ここまで来たもんだ。行ってみよう」
 林之助はまっすぐに本所へ行った。傘をかたむけて狭い路地へはいると、路地のかどの店にはもう焼芋のけむりが流れていた。お絹の家は昼でも表の戸が閉めてあったが、叩くとお君がすぐに出て来た。
「おそろしく用心がいいね」
「ここらは下駄を取られますから。格子に錠がないんですもの」と、お君は言い訳をしながら濡れた傘を受取った。
 奥に寝ていたお絹はすぐに起き直ったらしい。林之助が足駄をぬぐのを待ちかねたように声をかけた。
「お前さん。きのうなぜ来てくれなかったの」
「きのうは御用で牛込へ行った」
 枕もとに坐った林之助の顔を、お絹は黙ってじっと眺めているので、彼は堪えられなくなって眼をそむけた。
「下手な捕人のように、ふた口目には御用、御用……。屋敷者はほんとうに都合がいいね」
「屋敷者も楽じゃあねえ」
「楽じゃあねえ屋敷者を好んでする人もあるのさ。誰も頼みもしないのに……」と、お絹は口で笑いながら睨んだ。
「一体どこが悪いんだ。飲み過ぎたんだというじゃあねえか」
「両国の方へ寄ったの。お花に逢って……」
「むむ。みんなに逢った」
 お絹はしばらく黙って俯向いて、油の匂う枕をうっとりと見つめていた。もう枯れかかった朝顔の鉢を一つ列べてある低い窓の外には、雨の音がむせぶように聞えた。
「林さん」と、お絹はだしぬけに言った。「あたし、お前さんにあやまることがあるの。実はおとといの晩、お花にうっかり誘い出されて、向島の料理茶屋へ行ったと思ってください。石を抱くまでもない、あたしは何もかも正直に白状しますよ。そのお客というのは何日も来る浅草の質屋の息子で、あたしもちっとは面白いかと思って行ってみると、まるで大違い。あんまり癪にさわったから、自棄になって無暗に飲んで、喧嘩づらでそこをふい[#「ふい」に傍点]と出てしまって、それからお前さんの屋敷へ押し掛けて行ったの。ね、判ったでしょう。お花がなにを言ったか知らないが、ほんとうの話はそれだけですからね。必ず悪くとっちゃあ困りますよ。それにしても、あたしが悪いんだから謝まります。堪忍してください」
「それだけのことなら何もあやまる筋でもあるめえ。おらあもっと悪いことをしたのかと思った」と、林之助は少し皮肉らしく笑った。
「なんとでも言うがいいのさ」と、お絹も寂しく笑っていた。
 お君が羊羹を切って菓子皿に盛って来た。それはけさ両国の小屋主から見舞いによこしたのだと言った。羊羹をつまみながら林之助は枕もとの古い屏風をながめた。林之助がまだここにいる頃に粗相で一カ所破いたので、なにか切貼りをするものはないかと、彼は近所の絵草紙屋へ行って探した末に、鬼の念仏の一枚絵を買って来て貼り付けた。夜泣きの呪いじゃあるまいしと、お絹は思わず噴き出したことがあった。
 その一枚の絵は煤びたままで今も屏風に貼り付けてある。林之助に取ってはこれも懐かしい思い出の一つであった。
 彼はここへ身を寄せてからの小一年のあいだの出来事を、それからそれへと思いうかべた。そうして、自分の眼の前に悩ましげに坐っているお絹の衰えた姿を悼ましく眺めた。その妖艶のおもかげはきのうに変らないが、僅か見ないうちに小鼻の肉が落ちて、頬が痩せて、水のような色をしている顔の寂しさが眼に立った。それと同時に、まぶたのやや窪んだ例の眼がいよいよ物凄く見えるのも林之助をおびやかした。
「お前さん。まだあたしを疑っているの」と、お絹は蒲団に片手を突きながら訊いた。
「なに、なんとも思うものか」
 差しあたっては林之助はこう言うよりほかはなかった。彼はこの上に向島の一件を詮議するわけにもいかなかった。お絹もきょうはお里のことはひと言もいわなかった。ふたりは秋の雨を聞きながら静かに世間話などをしていた。二人がこれほどむつまじく打解けて話し合っているのは近頃に珍らしいことで、次の間で聞いているお君もなんとなく嬉しかった。
 しかし、こうして打解けているのは表向きで、二人の魂はかえってしだいに遠ざかっていくのではないか、というような寂しい思いが林之助の胸に湧いた。口では何とも思っていないと言うものの、向島の一件はまだ自分の胸の奥にわだかまっている。お絹もお里のことを忘れたのではあるまい。たがいの胸に思うことを抱いていながら、それを押し隠して美しく附き合っている、それがすでに他人行儀ではあるまいか。たがいの思うことを遠慮なく言い合って、泣いたり笑ったりした昔の方が林之助はいっそ懐かしいように偲ばれた。打解けていながらだんだん離れてゆくような寂しい心持ち、それを林之助は我ながらどうすることも出来なかった。どうしてこんな心持ちになったのか、それも自分には判らなかった。
 お絹の胸にも不安のかたまりが鉛のように重く沈んでいる。おとといの晩の気まぐれは自分でも深く後悔している。自分の男は林之助のほかにないという事がつくづく思い沁みた。殊にきのうの煩らいから、彼女は急に気が弱くなった。
 医者にも大事にしろと言われたが、けさから身体に悪寒がして、胸のあたりが痛んでならなかった。咳をするたびに、あばら[#「あばら」に傍点]へ強くひびいて切なかった。彼女はからだの悩みの重なるに連れて、いよいよ林之助が恋しくなった。
 それにつけても、向島の一件を林之助が案外手軽く聞き流しているのが不安であった。お花やお若のおしゃべりが何を言ったか知れたものではない。それを林之助はどう聞いたか、なんと思っているのか、なまじ、何も言わずに打解けた様子を見せているだけに、心の奥底が知れなかった。
 お絹も林之助もこうした別々の心をもちながら、日の暮れる頃まで仲よく話した。あまり長く起きていては悪かろうと、お絹を寝かして林之助はそっと帰った。
「姐さんに気をつけておくれよ」と、林之助はお君に頼んで路地を出た。
 暗い雨の音が、傘をたたいて、本所七不思議の狸でも化けて出そうな夕暮れであった。薄ら寂しくなった林之助は、これから屋敷へ帰って余りうまくもない惣菜を食うよりも、途中でなにかあったかいものでも食って行こうかと思った。お絹が起きていれば無論いっしょに食うつもりであったが、病人の枕もとに坐って自分ひとりで食う気にもなれないので、彼はそのまま出て来たのであった。お絹の家にいる時にたびたび食いに行ったことがあるので、林之助は近所の軍鶏屋へはいった。
 彼は一人でちびりちびりと酒を飲んだ。

     十

 その晩の四つ(十時)過ぎに、林之助は屋敷へ帰った。
「どうも遅くなって済まないね」
 門番のおやじに挨拶して、彼は自分の部屋にはいった。うすら寒い雨の夜をあるいて来て、内へはいると急に酒の酔いが発したらしく、彼はかっか[#「かっか」に傍点]とほてる頬をおさえて自分の小さい机の上にしばらく俯伏していた。それからしずかに起ちあがって、戸棚から蒲団と衾をひき出した。彼は蒲団の上に坐り直して今夜のことを考えた。

 彼は両国の軍鶏屋で一人さびしく飲んでいた。しだいに酔いがまわって来るに連れて、彼はお里のことをふと思い出した。雨の降る日にでも遊びに来てくれとささやかれた甘い言葉を、又しても思い出した。きょうの雨で花火はお流れになって、列び茶屋も大抵休んでいることを彼はさっき見て知っているので、お里は家にいるに相違ないと思った。
「これから行って見ようかしら」
 林之助はふらふら[#「ふらふら」に傍点]とそんな気にもなった。お絹の影が彼の頭から消されたのではなかったが、酔っている彼は、なに、かまうものかと大胆に構えた。単にお里の家へ寄って来るだけのことならば、別に子細もない筈だと彼は自分で理屈をこしらえてしまった。勘定をすませて表へ出ると、秋の日はもう暮れ切って、雨戸を半分ひき寄せてある町屋の灯の影が暗い往来を淡く照らしていた。雨は相変らず、むせぶようにびしょびしょと降っていた。彼は傘をかたむけて外神田まで濡れて行った。
 このあいだの晩お里に教えられた通りに、横町の酒屋の狭い裏へはいると、右側に小さい二階家があって、格子と台所とが列んでいた。林之助はそっと格子をあけると、内では鈴の付いた鋏を置く音がきこえて、入口の障子がさらりとあいた。うす暗い行燈の灯の影をうしろにしているので、出て来た人の顔はこっちによく見えなかったが、「あら」と可愛らしい女の声が彼女であることを林之助はすぐ覚った。お里はいそいそとして、この若い侍を内へ招じ入れた。二階家といっても、俗にいう行燈建で、上下ともにひと間ずつしかないらしく、階下の六畳には古いながらもよく拭き込んだ長火鉢を据えて、茶箪笥が行儀よく列んでいた。小さい神棚には燈明の灯が微かにゆらめいていた。
「こんな穢いところで……」と、お里は恥かしそうに言い訳をしながら、綴じくっていた小切れを片付けて薄い座蒲団を出した。林之助は長火鉢の前に坐らせられた。お里は茶をいれて、振出しの箱のなかから金平糖などを出した。
「それでもよくいらして下さいましたね」
 お里は嬉しそうに言った。おふくろは近所に百万遍があって、あかりが点くとすぐに出て行ったから、四つ過ぎでなければ帰るまいとのことであった。
 相手が迷惑そうな顔を見せないので、林之助も腰を落ち着けてゆっくりと話しはじめた。しかしこういう家へふらりと遊びに来て、先方の茶や菓子を食って唯べらべら[#「べらべら」に傍点]としゃべっているほどの野暮でもないので、林之助は鮓でも取ろうと言った。ついでに酒を買って貰いたいといって、幾らかの銀を出した。
「降るのに気の毒だね」
「なに、隣りの子に頼みますから」
 隣りの女の子に使いをたのんで、お里は鉄瓶の下に炭をついだ。小降りにはなったらしいが、雨はまだしょぼしょぼと降っていた。百万遍の鉦らしいのが雨の中にきれぎれに聞えた。
「秋の雨はなんだか陰気で寂しゅうございます」と、お里は錦絵の花魁を貼ったうしろの壁を見かえりながら言った。
 自分はいったい陰気な質であるが、こういう日にはなんだか引き入れられるように気が滅入って、自然に悲しくなるなどと話した。きょうの花火がお流れになって、お前ばかりでない、みんなも陰気な顔をしているだろうなどと、林之助も言った。話はだんだんに暗い方へ糸を引かれて行って、このあいだの晩の続き話のように、お里は自分の頼りない身の上を語り出した。親ひとり子ひとりでほかには力になってくれる身寄りもないと、彼女は訴えるように言った。殊に母は病身であるから、いつどんな悲しいことが落ちかかって来るかも知れないなどと、心細いように言った。
 話はいよいよ沈んで行った。
 うす暗い心持ちでお絹の家を出た林之助は、ここで又こんな滅入った話を聞かされるのは辛かった。彼は陽気に冗談の一つも言って見たかった。店にいる時もおとなしいという評判の娘ではあるが、自分と二人ぎりの場合はいよいよおとなしい、むしろ陰気なくらいに沈んでいるのが、林之助にはなんだか物足らなかった。しかし、いかにおとなしいと言っても、もともとが水茶屋の女である以上、ひと通りのお世辞や冗談ぐらいが言えないのではない。それが自分に対してはいつもまじめ過ぎるほど堅気らしく附き合っているのは、さすがに通り一遍の客とも思っていないのであろうかというような、一種のうぬぼれも林之助をそそのかした。又そればかりでなく、心の弱い彼としては、こうした涙の多い話はうわの空で聞き流していることは出来なかった。彼は次第にその話の底の方まで引き入れられて、おのずと涙を誘い出された。
 そのうちに鮓が来た。お里はすぐに燗の支度をした。自分はちっとも飲めないと言ったが、それでも無理に二、三度は猪口を受取った。林之助も飲んだ。酒の酔いが若い二人を誘って、だんだんに明るい華やかな方へ連れ出した。林之助も軽い冗談をいった。お里も袂を口に掩いながら笑った。彼女はもう酔ったといって、夢見る人のようにうっとりとしていたが、雨の音がざっとまた強くなったので、お里は縁側へ出て、まばらに閉めてあった雨戸をばたばた[#「ばたばた」に傍点]と閉め切ってしまった。林之助も起って手伝ってやった。
「どうも済みません」
「なあに、ここの家へお婿に来たんだから」と、林之助はお里の肩を軽くゆすって笑った。
 どこかで雨漏りがするらしく、天井の裏でときどきにしずくの落ちる音がほとほと[#「ほとほと」に傍点]と聞えるのも寂しかった。紙のすすけた行燈の灯は陰ったようにぼんやりと暗かった。二人はしばらく黙って火鉢の前にむき合っていた。
 四つ少し前に林之助は帰ったが、阿母はそれまで帰って来なかった。今夜も林之助は幾らか包んで置いて帰った。

 林之助は蒲団の上で、これだけのことをそれからそれへと繰り返して考えた。お里と自分とは、もう切り放すことのできない羇絆が結び付けられたことを観念すると同時に、彼は言い知れぬ悔みと悩みとにひしひしと責めつけられた。こういう場合に大抵の人が試みるように、彼もそれを酒の科にかずけて、自分の重荷を軽くしようと努めた。しかしそんな卑怯なことで、自分の胸が安まろうとはさすがに思われなかった。
「おれは意気地がないな」と、彼は枕をつかんで自分をあざけった。
 自分のふるい友達のなかには三人五人の堅気の女をだまして振り捨てた者もあった。吉原の女郎を欺して住み替えさせて、その金で芸者と駈落ちをした者もあった。しかし、自分はゆく先きざきで恋をあさって歩くような人間ではなかった。あとにもさきにもたった一度お絹と恋に落ちて、その罠から抜け出すことができないで、今ももがいているではないか。それがまた別の新しい罠にかかって、更に首を絞められてどうするのか。彼はつくづく今夜のおのれを悔まずにはいられなかった。そうして、あまりに正直に生まれ過ぎたおのれを歯がゆく思わずにはいられなかった。宵に軍鶏屋を出たときの勇気と大胆とは、今の林之助の頭からは吹き消したように消え失せていた。
「こうなればお絹を捨てるか、お里にそむくか」
 二つに一つに決めてしまわなければ、彼は一日も安心していられないように思われた。両手に桃桜などという洒落れた詞は、林之助にはいっさい不通用であった。彼は桃か桜か、そのひと枝を大事に守っていなければ気が済まなかった。ものすごい蛇の眼を恐れていながらも、まったくお絹を見捨て得なかったのも、こうした正直な心のわずらいであった。世間普通の人の眼から見たらば、多寡が蛇つかいの女と水茶屋の女と、そんな女の二人や三人がなんだと言うかも知れない。それができないのを林之助はくやしく思った。腑甲斐なく思った。意気地なしだとも思った。彼はそこに自分の美しい魂を見いだし得ないで、かえって自分の馬鹿正直さが情けないようにも思われてならなかった。
 それでも彼はやはりその美しい魂に支配されていた。どちらかの女に対して自分の罪を詫びて、あきらかに一人を捨てて一人を取ろうと決心した。しかも、これまでの行きがかりから言うと、彼はどうしてもお絹を裏切ることはできなかった。お絹の呪いも怖ろしかった。
「なぜ今夜お里を訪ねたろう」
 どう思い直しても、彼は今夜のおのれを悔まずにはいられなかった。彼の涙は枕の上にはらはら[#「はらはら」に傍点]とこぼれた。
 彼はまぼろしのように眼の前にあらわれて来たお里のおとなしやかな顔にむかって、手をあわせて幾たびか詫びた。
 彼を安らかに眠らすまいとするように、雨は大きい屋根の瓦を夜通し流れて、軒の大樋に溢れるような音を立てていた。

     十一

 それから三日ばかりは御用繁多で、林之助は屋敷を出られなかった。九月にはいって晴れた空がつづいた。きょうは夕方から深川に発句の運座があるので、まずお絹の病気を見舞って、それから深川へまわろうと、彼は午さがりに屋敷をぬけ出した。
 往来の人はみな袷を着ていた。林之助も新しい袷を着た。澄み切った青い空に秋の風が高く吹いて、屋敷町には赤とんぼの群れが目まぐるしいほどに飛び違っていた。鷹匠が鷹を据えて通るのも、やがて冬の近づくのを思わせた。町へ出ると、草鞋を吊るした木戸番小屋で鰯を買っているのが見えた。
 柳橋の袂で林之助は友達に逢った。彼はやはり浅草の或る旗本屋敷の中小姓を勤めている男で、これも今夜の発句の会へ出る一人であった。彼は梶田弥太郎といって、林之助よりも三つばかり年長であった。
「やあ。どこへ」と、二人は立ち停まった。今夜の発句の話なども出た。弥太郎はこれから両国へ遊びに行こうと言った。ゆくさきは列び茶屋に決まっているので、林之助はすこし躊躇した。お里に逢うのはなんだか気が咎めるようであった。
「え、お里の顔でも見に行こうじゃないか」と、弥太郎は言った。「それとも、御用かい」
 着流しの林之助は御用に行くとも言われなかった。彼は断わり切れないで一緒に引き摺られてゆくと、不二屋の軒提灯は秋風にゆらめいていた。二人はずっと店へはいって床几に腰をかけると、これも顔なじみのお染という若い女が愛想よく茶を汲んで来たが、茶釜の前にもお里のすがたは見えないので、林之助は一種の失望を感じた。
「きょうはどうしたい、お里は……」と、弥太郎も的がはずれたような顔をして訊いた。
「里ちゃんはもう少しさっきまでいたんですけれど、おっかさんが急病だといって、家から迎いが来たもんですから、びっくりして帰ったんですよ」
「おふくろが急病……」と、林之助も驚いた。「さっきまでここにいたくらいじゃあ、ほんとうの急病なんだね」
「ええ。けさまで何ともなかったんだそうですがね。どうしたんでしょう。迎いの人の口ぶりじゃあもういけないらしいんですよ」と、お染も顔をしかめて言った。「その話を聞くと、可哀そうに里ちゃんはわあっ[#「わあっ」に傍点]と泣き出して……。あの子ふだんから親孝行なんですからね。いよいよいけないとなったら、さぞがっかりするでしょう」
「そりゃあ気の毒だね」
 弥太郎もさすがに顔の色を陰らせた。林之助は茶碗を持っている手さきがふるえた。病身とはかねて聞いていたが、現に先月末の花火の晩には近所の百万遍の数珠を繰りに行ったお里の母が、きょう俄かに死にそうな大病に取りつかれるとは、あんまり果敢ないように思われた。その母の枕もとに親孝行のお里が取り乱して泣いている、いじらしい姿もすぐに彼の眼にうかんだ。
「虫が知らすとでも言うんですかしら。里ちゃんはこの二、三日なんだかぼんやりしていて、唯うっとりとうしろの川の水を眺めていたりして、人が声をかけても返事をしないこともあるんですよ。今思うと、やはりこんなことがある前兆だったのかも知れませんね」と、お染はまた言った。
 お里がこの二、三日物思わしげに暮らしたのは、母に別れる前兆であったろうか。なんにも知らないお染が一途にそう解釈するのは無理もなかった。しかし林之助は、もっと深い意味でこれを考えさせられた。あの以来、ぼんやりするほど思いつめているお里を、自分はどう処分しようと考えているのか。彼は我ながらぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするほどに自分の酷たらしい心を恐れた。
「里ちゃんの家は都合がいいのかね」と、彼は知れ切ったようなことを訊いてみた。
 お染も知れ切った事をいうような顔をして、すぐ打ち消すように答えた。
「どうでこういうところへ来ているくらいですもの、都合のいいことがあるもんですか。ほかに頼りになるほどの親類もないそうですから。阿母さんの病気が長引くようなら勿論のこと、今すぐに死なれても第一にお葬式にも困るくらいでしょうと思うんですよ。ここのおかみさんも幾らか面倒をみてくれるでしょうし、あたし達もまあ、ちっとでも何とかしてやりたいと思っているんです」
 聞けば聞くほど林之助の胸は痛くなった。彼は飲んだ茶を吐き出したくなった。
 弥太郎もよほど気の毒になったのと、一つはお染に対する見得もまじっているらしく、幾らかの銀を紙に包んで、お前の行くついでにこれをお里にやってくれと出した。林之助も見ていられなくなって、彼も紙に包んだものをお染の手へ渡した。
 しかし、この位のことでは済むまい。自分はなんとか特別の算段をしてやらなければなるまいと、彼は胸のなかでその銀の工面を考えた。それにしても、ここに唯ぶらぶらしていてはどうにもならなかった。
 彼はいい加減の口実を作って、弥太郎にわかれてひとまず不二屋を出た。
「どこへ行こう」
 少なくも一両の金がほしいと彼は思った。その工面が付かなければ二歩でも三歩でもいいが、旗本屋敷の中小姓ではその取り分も知れている上に、暇さえあれば遊びあるいて無駄な小遣い銭をつかい尽くしている今の彼は、食うにこそ不自由はないが、百文でも余分のたくわえなどのあろう筈はなかった。しかもその小遣いの多くはお絹の貢物であった。彼もこの場合には、お絹のところへ無心に行きたくなかった。用人や給人にももう幾許ずつか借りているので、この上に頼むわけにはいかない。質屋を口説くにしたところで、金目になりそうなものを持っていない。さりとて大小を質に置くわけにもいかない。林之助もこれには行きづまった。それでも彼はどうしても幾らかの金が欲しかった。無理な工面をしても直ぐに外神田へ飛んで行って、泣き腫らしているお里の眼の前へ、その金をずらりと投げ出してやりたかった。
「こういう時に人間は悪気を起すのだ。出来るものなら俺も定九郎でも極めたい」
 彼はこんな途方もないことまで考えた。そうして、自分でぎょっとしてあとさきを見まわした。彼の足は行くともなしに両国橋を渡りかけていた。橋番の小屋で放し鰻を買って、大川へ流してやっている人があった。林之助はその財布を引ったくって逃げたかった。
 焦れてもあせってももう仕様がない。ひとの物に眼をかけるよりも、いっそお絹に借りた方が無事である。ほかに使う金と違って、これをお絹から借り出すのは何分にも心苦しく思われてならなかったが、今の林之助としてはこれが最もたやすい方法であった。お絹も病気で寝ている。そこへ押し掛けて金の無心をいうのはあまり無面目の仕方だとは思いながらも、まさか泥坊もできない以上は、このくらいのことは我慢するよりほかはないと、彼は思い切って橋を渡った。
「やあ、旦那」
 楽屋番の豊吉に不意に声をかけられて、林之助はびっくりしたように立ち停まった。豊吉は楽屋の合い間を見て、お絹さんの家へちょっと見舞いに行って来たと言った。
「お絹さんはどうもよくありませんぜ。なんだかここがひどく切ないと言ってね」と、彼はあばらのあたりを叩いてみせた。
「困ったね」
「あなたもいずれお見舞いでしょうが、まあ、いたわっておあげなせえましよ。お絹さんも可哀そうですよ。そう言っちゃ何ですけれども、楽屋の者なんてみんな不人情ですからね。本気になって世話をしているのは、あのちっぽけなお君という子だけでさあね」
 林之助はだまって突っ立っていた。観世物小屋のそうぞうしい鳴物の音も、彼の耳へは響かなかった。豊吉はまたささやいた。
「それから、旦那。まあ当分、不二屋へはいり込むのをお止しなせえましよ。お絹さんはそればかりを苦にしているんですから。ここであんまり心配させると猶なおからだの毒ですぜ」
「なに、この頃はちっとも行きゃあしねえんだ。お辰やお花のおしゃべりが詰まらねえことを言うんだろう」と、林之助はいい加減にごまかしていた。
「ほんとうですぜ。あたしが先きへ死ねば、きっと林さんを迎いに行くって、お絹さんがそう言っていましたぜ」
 豊吉は嚇すように言った。林之助はさびしく笑っていた。
「まあ、行っていらっしゃい」
 楽屋へはいってゆく豊吉のうしろ影を見送って、林之助の足はまた重くなった。お絹に金を借りるのはどうしても義理が悪いように思われた。このまま引っ返そうかとも考えたが、お絹がそれほどの容体ならば直ぐに見舞ってやらねばなるまい。ここまで来てから引っ返すという法はない。金の話は別として、ともかくも顔をみせて来なければ人情がないと思い直して、彼は又まっすぐに路を急いだ。
 路地をはいって格子をあけると、お君が出て来た。
「あら、豊さんが引っ返して来たのかと思ったら……。さあ、どうぞ」
 お君は急ににこにこ[#「にこにこ」に傍点]して林之助をお絹の枕許へ導いた。お絹は半分死んだようになってうとうとと眠っていた。その寝顔には、このあいだ見たよりも更にげっそりと痩せが見えて、こめかみ[#「こめかみ」に傍点]の骨があらわになっているのも悼ましい病苦の姿をまざまざと描いているので、林之助は思わずほろり[#「ほろり」に傍点]となった。彼はお君にむかって病人の容体をきくと、やはり豊吉の話の通りであった。お絹はときどきに熱が昇って肋骨が痛む、それがひどく切なさそうだとのことであった。
「君ちゃん」
 林之助は小声で彼女を呼んで、次の間の長火鉢の前へ行った。
「それで、お医者はなんと言っているね」
「お医者さまはよっぽど大事にしなけりゃいけないと言っているんです」と、お君は眼をうるませていた。
「そうかい」
 林之助は指さきで眼がしらを撫でると、お君はもうしくしく[#「しくしく」に傍点]と泣いていた。
「楽屋の者も看病に来てくれるかい。お花もお若も……」
 みんな出掛けに一度ずつは見舞いに来てくれるが、親身に看病してゆく者もないと、お君は頼りなげに言った。それでも豊吉はゆうべ来て、四つ少し前までいてくれたと話した。世間にはうわべばかりの親切が多いと、林之助はつくづく思った。しかし振り返ってみると、自分もその仲間ではないかとも危ぶまれた。彼は自分で自分の不人情を責めた。
「わたしは主人持ちで、思うように看病にも来ていられないからね。気の毒だけれども、姐さんの世話はお前ひとりに頼むよ。もし急に模様でも変るようなことがあったら、豊吉にたのんで私のところへ報せをよこしておくれ。豊吉はわたしの屋敷を知っているから」と、林之助はお君にささやいた。
 お君は目を拭きながらうなずいた。そうして、姐さんを起しましょうかと訊いた。
「いや、折角よく寝ているものを無理に起さない方がいい」
 二人は黙って火鉢の前に坐っていた。
 そのうちにお君は薬鍋を持ち出して来て、火鉢の上で煎じはじめた。林之助は黙って煙草をのみながら、渋団扇で火を煽いでいるお君の小さい手さきを唯ぼんやりと眺めていた。やがて鍋の蓋がごとごと[#「ごとごと」に傍点]おどると、強い匂いを含んだ薬のけむりが靡くように林之助の袖に白く流れた。お里の家にもこんな匂いが漂っているか、それとも線香のけむりが舞っているかと思うと、どっちを向いても涙を誘われることが多かった。
 林之助はことしの秋のわびしさに堪えられなかった。

     十二

 薬が煎じつまったので、お君はお絹を起しに行った。そっと揺り起されて、お絹は眼をとじたままで訊いた。
「林さん。まだそこにいるの」
 林之助はぎょっとして見返った。
「あたし、何だかうつつのように林さんが枕もとにいると思ったけれども、夢だったかしら」と、お絹は言った。
 林さんはさっきから来ているとお君が言うと、お絹は初めて眼をあいた。林之助も起って枕もとへ行った。
「やっぱり来ていたのね。どうもそうらしいと思った」と、お絹はさびしくほほえんだ。「もうお前さん、来てくれやしまいと思ったのに……」
「冗談いっちゃいけない。いつも言うようだが、屋敷の方にも御用が多いので、夜でも昼でも勝手に出るという訳には行かねえからね。このあいだ来た時からきょう初めて外へ出たんだ。誰にきいても判る。そりゃ嘘じゃあねえ。なにしろいつまでも悪くっちゃ困ったものだ。精出して養生しねえよ」
「お前さん、たいへんやさしくなったね」と、お絹はまた笑った。「どうでもう長いことはないんだから、少しはいたわってくれるのもいいのさ」
「病いは気からというぜ。しっかりしてくれ」
 林之助はお絹を抱き起すようにして薬を飲ませてやった。そうして、まだ若いからだだから、どんな病気でも養生次第で癒らないことはない。気を弱く持たないで、ゆっくりと療治をしてくれと、子供をすかすように言って聞かせると、お絹も素直に聞いていた。
 しかし今度の病気ばかりは容易に癒りそうにも思われない。お前さんにほんとうの親切があるならば、屋敷から幾日かの暇を貰うか、それとも一生の暇を取るか、どっちにしても当分はからだをあけて、あたしの枕許へ来ていてくれ。その上でお前さんの看病がとどいて癒れば重畳、万一これぎりに死んでも思い残すことはない。あたしはどうかしてお前さんをもう一度自分の手許へ引き戻そうと念じているうちに、とうとうこんな病気になってしまった。せめて死にぎわにはお前さんの手から一杯の水でも飲ませて貰いたいと、お絹はしみじみ言った。
「林さん。いやかい」
 まぶたは押しつぶしたように落ち窪んでいても、餌を狙うような蛇の眼が底の方に光っていた。今のやせ衰えたお絹の顔にはそれが一層ものすごく見えたので、林之助は今更のように身がすくんだ。彼はどうしても忌とは言われなくなった。あとはともあれ、この場では一応承知したと言わなければならないように思われた。
「よし、よし、判った。しかし武家奉公というものは面倒なもので、親のかたきを探しに出るからといって、きょうが今日すぐに暇をくれるわけのものじゃあねえ。長の暇を貰うにしても今すぐという訳にはいかねえから、屋敷にいる間はなんとか都合して毎日見舞いに来る。さっきもお君に頼んで置いたんだが、急な用ができたら直ぐに豊吉を迎いによこしてくれ。いつでも直ぐに飛んで来るから。ね、それでいいだろう」
「欺すんじゃあるまいね」と、念を押してお絹は納得した。
 彼女はお君に、もう何どきだと訊いた。さっき八幡鐘の七つを聞いたとお君が言うと、それでは林さんの好きな蒲焼でもあつらえろとお絹は寝ながら指図した。なに、そうはしていられないと林之助は言ったが、さすがに振り切って起ちかねていると、お君はすぐ近所の鰻屋へ駈けて行った。
「林さん、新しい袷なんぞ着て粧しているんだね」と、お絹は仰向いて男の姿をながめた。
「むむ、これか」と、林之助は袷の膝をなでた。「そら、いつか話したことがあるだろう。この四月に新しく拵えて、一度も手を通さねえで蔵入りにした奴さ。秋風が立っちゃあ遣り切れねえから、御用人を口説いて二歩借りて、これと一緒に羽織や冬物を受けて来た」
「不二屋へ運ぶのが忙がしいから、身のまわりなんぞには手が届かねえのさ」と、お絹は笑った。「御用人さんに二歩借りて、それをどうして返すの」
「都合のいい時に返すのさ。まさか利も取るめえ」と、林之助も笑った。
「おまえさんにも都合のいい時があるのかしら。ちょいと、お前さん。この蒲団の左の下から紙入れを出して頂戴な」
 言われた通りに林之助は紙入れを取って渡すと、お絹はそのなかから二歩を出した。
「暇を貰おうという矢先きに、借りなんぞあっちゃ拙いから、よくお礼をいって、御用人に早く返しておしまいなさいよ」
「だが、こっちも病気で物入りの多いところだろう」と、林之助は手を出しかねて、もじもじ[#「もじもじ」に傍点]していた。
「なに、こっちは又どうにかなるから」
 二歩の銀を手に握って、林之助は気の毒でもあり、嬉しくもあった。きょうは幾らかの無心をいうつもりで来たのであったが、このありさまではとても言い出せないと彼は諦めていると、その銀が偶然手に入って、彼は拾い物をしたように嬉しかった。
 屋敷の用人から二歩借りて、袷や冬物の質請けをしたのは嘘ではなかったが、それは今すぐに返さないでもいい。この二歩があれば、お里の家へも顔出しができる。こう思うと、彼は今直ぐにもここを飛び出したくなった。今まではおちついて腰を据えていた彼も、銀をつかんで急に気が変った。お里のことも急に気にかかって、彼はなんだかそわそわして来た。しかしお君はまだ帰らない、あつらえ物もまだ来ない。殊に銀を貰ってすぐに逃げて帰るのも気が咎めるので、彼はおちつかない心持ちを無理に押し付けて、質に取られた人のようにおとなしく坐っていた。
 やがてお君は帰って来た。どうしてかきょうは注文が立て込んでいるので、鰻の出前はすこし手間が取れると言った。林之助はそれをいいしおに、自分は日が暮れるまでに屋敷へ帰らなければならないから、手間が取れるならばいっそ断わって来てくれと言った。
「飛ぶ鳥はあとを濁すなということもある。屋敷にいるあいだは几帳面に勤めて置かなければいけねえ」
「それもそうかも知れない」
 お絹も別に忌な顔をしなかったので、お君は引っ返して鰻屋へ断わりに行った。その帰るのを待ちかねて林之助も帰り支度をした。
「じゃあ、あしたまた来るぜ。君ちゃん、いいかい。頼むよ」
 路地を出ると、日はもう暮れかかっていた。お君は路地の口まで送って来て、姐さんの容体がどうもよくないから、あしたもきっと来てくれと縋るように言った。その涙ぐんでいる顔が林之助にはいじらしく見えた。彼はきっと来ると約束して別れた。
 橋の袂へ来ると、芝居小屋では打出しの太鼓がきこえた。早く閉まった観世物小屋では、表の幟を取り卸しているのもあった。焼いたとうもろこしを横ぐわえにして、なにか大きな声で唄いながら通る中間もあった。まだすっかりは暮れ切らないのに、真っ白な白粉の顔を手拭にかくして石置場の方へ忍んでゆく若い女の群れもあった。そのあとを追っかけて、中間たちが又なにか呶鳴っていた。
 こうしたみだらな夕暮れの混雑に眼なれている林之助は、右も左も見向きもしないで、急ぎ足に橋を渡った。川面には薄い靄が流れて、列び茶屋にはもうちらちら[#「ちらちら」に傍点]と提灯の火が揺らめいて見えた。その華やかな灯のなかに、今夜はお里を見いだすことが出来ないのだと思うと、彼の足は神田の方へむかってますます急がれた。
 酒屋の路地へはいって、格子の前に立つと、入口の障子は半ば開かれて、線香の匂いが狭い沓脱にまで溢れていた。ここはもう薬の匂いではなかったので、林之助は急に暗い心持ちになった。
 案内を乞うと、女の児が出て来た。それはこの間の晩に使いを頼んだ隣りの娘らしかった。
 内へあがると、やはり近所の人らしいおかみさんや娘が四、五人ごたごた[#「ごたごた」に傍点]坐っていて、逆さに立てまわした古い屏風のかげからは線香の煙りがうず巻いて流れていた。その屏風のそばに蒼い顔のお里がしょんぼりと坐っていたが、彼女は島田をほどいて銀杏返しに結い替えているので、林之助はちょっとその顔が判らないほどに寂しく見えた。
 ひる前には隣りのおかみさんが話しに来た。その時までは阿母も別に変った様子もなかった。胸が少しせつないようだと言っていたが、やはりいつものように火鉢の前で襤褸とじくりなどをしていた。ひる飯を食ってしまって、台所へ茶碗小鉢を洗いに出ると、彼女はだしぬけに倒れた。その物音に驚かされて駈けつけて来た時には、彼女はもう生きている人ではなかった。それからすぐに両国へ使いをやって、お里はころげるように駈けて帰ったが、とても間に合う筈はなかった。そんな話をして、お里は声を立てて泣いた。
 林之助はかの二歩を紙につつんで出した。もっとどうにかしたいのだが思うように行かないから、差しあたりはこれで堪忍してくれといった。お里は頂いて、それを隣りのおかみさんに渡した。おかみさんが葬式万端の世話を焼いているらしかった。おかみさんは受取ってすぐに仏前に供えたが、二歩の重みは彼女の注意を惹いたらしく、今更のように林之助とお里の顔をじろじろと見くらべていた。こうした家へ大小をさした人が悔みに来るのは、すこし不似合いであると見えて、ほかの女たちもみな林之助に眼をあつめて、今までべちゃべちゃしゃべっていた者も一度に口を結んでしまった。
 ここに長くいてはみんなの邪魔になると、林之助もさとった。どうで周囲に大勢の人がいては、お里と打解けて話をする機会もあるまい。かたがた今日は早く帰る方がいいと思って、彼は早々に暇乞いをしてここを出た。
 路地の出口で菓子売りのお此に逢った。お此もこの近所に住んでいるので、これからお里の家へ悔みに行くのだと言っていた。
「旦那さまもお里さんのところへいらしったんですか」と、お此は子細らしく訊いた。
 隠すこともできないので、林之助も正直に答えると、お此は危ぶむようにささやいた。
「あなた、お里さんのところへ行くのはお止しなさいましよ。飛んだことが出来ますよ」
 このあいだ両国の楽屋で蛇責めに逢ったことを、お此は身ぶるいしながら話した。
「あの時のことを考えると今でもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とします。わたしはもうそれぎりあの楽屋へは商いにまいりません。お絹さんは、もしこの後も相変らず不二屋にあなたの姿を見掛けるようなことがあると、この蛇を持ってお里のところへお礼に行くと、こう言うんです。それですもの、もしあなたがここの家へ来たなんていうことが知れたら、そりゃあどんな騒ぎが起るか知れませんよ。第一お里さんが可哀そうですからね。蛇なんぞ持って来られた日にゃあ、あの子は目をまわして死んでしまいましょう」
 林之助も息をつめて聞いていた。

     十三

「困った奴だ」
 林之助は口のうちで幾たびか罵った。
 お此と別れて屋敷へ帰る途中で、彼はお絹を憎むの念が胸いっぱいに溢れ切っていた。彼はお絹があまりに執念ぶかいので憎くなった。罪もないお里をそれほどに苦しめようとするお絹の妬み深い心には、どう考えても同情することが出来なくなった。一種の意地と、一種の江戸っ子かたぎとが彼をあおって、彼は弱いお里をあくまでも庇ってやらなければならない、それが男の役目であるというようにも考えはじめた。
 先月までの林之助はともあれ、今の彼はお絹に対してあまり立派な口をきけた義理でもないのであるが、彼はもうそんなことを考えている余裕がなかった。お此を蛇責めにして、さらにお里を蛇責めにしようとするお絹の残酷な復讐手段に対して、彼の胸には強い反抗心が渦巻いて起った。彼はいっそお絹を殺してしまいたいほどに腹が立った。
 また一方から考えても、自分はもうお里を振り捨てることの出来ない破目になって来た。今朝まではなんとかして、お里に詫びて、いっそ綺麗に手を切ろうかとも考えていたのであるが、そのお里の母は死んで、彼女はかねて口癖のように果敢なんでいる悲しい頼りない身の上にいよいよ沈んでしまった。それを今さら無慈悲に突き放すことが出来るだろうか、お里が素直に承知するだろうか。おとなしい彼女は泣く泣く承知するかも知れないが、そんな弱い者いじめをして仁科林之助、江戸っ子でござると威張っていられるだろうか。林之助は眼にみえないきずながお絹の蛇以上に自分を絞め付けていることをつくづく覚った。
 そんなことを思い悩んで、林之助は今夜も眠られなかった。夜があけると、今朝も拭ったような秋晴れで、となり屋敷の大銀杏の葉が朝日の前に金色にかがやいていた。高い空には無数の渡り鳥が群れて通った。その青空をみあげているうちに、林之助の頭はまた新しくなった。
 ゆうべは一途にお絹を憎んでいたが、罪はやはり自分にある。こうした関係をいつまでも繋いでいたら、お絹もお里も自分もますます深い苦しみの底へ沈んでゆくばかりである。気を弱く持っていては果てしがない。どうしてもここでお里に因果をふくめて赤の他人になるよりほかはない。無慈悲のようでもいっそ一日も早い方がいい、一寸逃がれに日を延ばしてゆくほどいよいよ二進も三進もいかないことになる。
 彼女はお里の母の初七日でも済んだ頃にもう一度その家へたずねて行って、おだやかに別れ話をきめようと思った。自分はそれほど無慈悲な男でもないが、こうなったらどうも仕方がないと、林之助は悲しく諦めた。こうした諦めを付けるまでには、彼の眼からは男らしくもない涙が幾たびかにじんだ。
 その日は御用があって、林之助はどこへも出られなかった。きょうもきっと来てくれとお君に口説かれたことを思いながらも、彼はどうすることも出来なかった。彼はお絹の怨みを恐れながらも、とうとう両国橋を渡る機会がなかった。あくる日もまた忙がしかった。彼は白金や渋谷の果てまで使いにやられた。この頃は意地の悪いように屋敷の用があるので、彼はすこし焦れったくなって来た。なるほどお絹のいう通り、屋敷奉公をやめた方が気楽かも知れないと思うこともあった。
 しかし林之助は大小を捨てて町人になろうとは思わなかった。お絹の縁に引かれながらも、手ぶらでいつまでも彼女の厄介になっていたくもなかった。屋敷をやめれば忌でも応でもお絹のふところへ戻らなければならない。朝晩におそろしい蛇の眼と睨み合っていなければならない。林之助は第一にそれを恐れていた。やはり今のように遠く懸け離れていて、そうして時どきに逢っているのが一番無事であると信じていた。
 九月八日の午前に、林之助はちょっとの隙きを見て両国へ行った。あしたは重陽の節句で主人も登城しなければならない。その前日の忙がしい中をくぐりぬけ、彼はもう堪まらなくなって、屋敷を飛び出したのであった。
 両国の秋はいよいよ深くなって、路傍には栗を焼く匂いが香ばしく流れていた。しかしここの名物の観世物小屋の野天商人が商売をはじめるのは午過ぎからで、午まえの広小路は青物の世界であった。夜明けから午までは青物市がここに開かれるので、西両国には荒筵を一面に敷きつめて、近在の秋のすがたを江戸のまん中にひろげていた。
 霜に染められたかと思う川越芋の紅いのに隣り合って、秋茄子の美しい紫が眼についた。どこの店にも枝豆がたくさん積んであるので、やがて十三夜の近づくのが知られた。これから神明の市の売物になろうという生姜の青い葉や紅い根には、白い露と柔かい泥とが一緒にぬれてこぼれていた。江戸じゅうの混雑を一つに集めたかと思われるような両国にも、暮れゆく秋の色と匂いとが漲っているように見えるのが、このごろの薄寒い朝の景色であった。その青物の露を蹈んで、林之助は橋を渡った。
「あら、いらっしゃい」
 格子をあけると、お君はすぐに駈け出して来た。うす暗いお絹の枕もとには楽屋番の豊吉も坐っていた。前芸のお若もしょんぼりと坐っていた。いつも留守番を頼むという隣りのお婆さんもぼんやりと屈んでいた。どことなしに薬のけむりがしめって匂っていた。
「おや、いらっしゃい」と、豊吉は振り返ってまず声をかけた。そうして、すぐに入口へ起って来た。
「旦那。いけませんぜ。あれほど私が言って置いたのに……。あなたはどうも不実ですぜ。きょうはよっぽどお迎いに出ようと思っていたんですが……」と、彼は林之助をたしなめるように言った。
「いや、なにしろ御用が忙がしいんでどうもこうもならねえ。あしたは節句という忙がしいなかを、きょうはようよう抜け出して来たくらいなんだから、まあそう叱って貰いたくない」と、林之助は苦笑いをした。「そうして、どうだね、病人の容体は……」
 豊吉は顔をしかめて首を振った。
「悪くなるばかり」
「困ったもんだ。医者もあぶないと言っているかね」
「はっきりとは言わねえが、もう匙を投げているらしいんですよ。なにしろ咳が出て、胸から肋骨が痛んで熱が出て……。どうもこの秋は越せまいと思うんです。わたくしも長らくお世話になった姐さんですが……」
 もう今にも死ぬもののように豊吉は溜め息をついていた。こうなったらいっそお絹が死んでくれればいいというような考えが、林之助の頭を稲妻のように掠めて通った。
 彼はだまって内へはいると、お若もお君もお婆さんもみな眼を赤くしていた。林之助は自分の不人情が急に恥かしくなって、肩身が狭いような心持ちで病人の枕もとにそっと坐ると、お絹はもう正体がなかった。もう誰の見境いもないらしかった。時どきに苦しそうに胸をかかえながら、彼女は髪を振り乱して、衾を跳ねのけて、夢中で床の上に起き直ろうとしてまた倒れた。と思うと、溺れた人が何物をか掴んですがろうとするように、彼女は痩せた手をのばして寝床の上を這いまわった。それが傷ついた蛇ののたくっているようにも見えて、林之助にはものすごかった。
 彼はいよいよ気が咎めてならないので、まわりの人たちにむかって頻りに自分の無沙汰の言い訳をした。屋敷の御用の忙がしいことを話した。主人が節句の登城の前日に、たとい半※[#「※」は「日へん+向」、読みは「とき」、341-3]でも屋敷をぬけてこうして見舞いに来たことが、彼の不実でないという十分の証拠にはならないらしく、どの人も彼に対して冷たいような眼を向けていた。
「なにしろ、わたしも主人持ちだから、毎日見舞いに来るわけにもいかない。まあ、皆さん、なにぶん願いますよ」と、林之助はみんなにくれぐれも頼んでいた。
 まったくきょうは忙がしいからだであるので、ゆっくりとここに坐り込んでいることを許されなかった。彼は小半※[#「※」は「日へん+向」、読みは「とき」、341-9]ばかりで病人の枕もとを起った。
 帰るときに豊吉が格子の外まで送って出た。
「旦那、ようござんすかえ。姐さんは九死一生という場合なんですぜ。お屋敷の御用は仕方がありませんが、ほかの何事をおいてもここへ来なけりゃあ義理が済みませんぜ。どうで死ぬもんだからなんて薄情なことはしっこなしですぜ」
 林之助はだまってうなずいた。
「不二屋のお里のおふくろが死んだそうですね」と、豊吉はまた言った。
 どこか急所をえぐられたように、林之助ははっ[#「はっ」に傍点]と顔色を変えて、すぐには返事が出来なかった。

     十四

 林之助が帰ると、やがて午が近づいた。青物市ももうそろそろ引ける時刻になったので、観世物小屋に用のある人たちは一度に起った。豊吉とお若は連れ立って帰った。お絹はもがき疲れてしばらく昏々と睡っていた。隣りのお婆さんもこの間に家の用を片付けて来たいといって帰った。
 お絹の枕もとにはお君が一人さびしそうに坐っていたが、ことし十五で外の恋しい彼女は、やがて病人の寝息をうかがって、音のしないように格子をあけて、そこから半身を出して何を見るともなしに表を覗くと、長い往来は露地の幅だけに明るく見えて、そこにはいろいろの秋の姿をした人が廻り燈籠のように通った。※[#「※」は「魚へん+是」、読みは「しこ」、342-9]を売る声もきこえた。赤とんぼを追いまわる子供の黐竿も見えた。お君はうっとりとそれを眺めていると、内からお絹の弱い声が聞えた。
「君ちゃん、君ちゃん。いないの」
「はい」
 はっきりと返事をして、お君はあたふたと内へ駈け込むと、お絹はいつか眼を醒ましていて、薬をのませてくれと言った。まだ少し早いと思ったが、お君はすぐに薬鍋を温めにかかった。粥をたべるかと訊いたら、お絹は黙って首を振った。
 托鉢の坊主が門に立って鉦を叩いたので、お君は出て行って一文やった。薬が煮つまって枕もとへ持ってゆくと、お絹は苦しそうにひと口すすったが、それはほんの喉を湿すに過ぎないらしかった。
「君ちゃん。あたし少しお前に言って置きたいこともあり、頼んで置きたいこともあるんだよ」と、お絹は案外はっきり言った。
 これほどしっかりと口が利けるようならば、姐さんも少しよくなったのかしらと、お君はなんだか頼もしいようにも思われた。
「君ちゃん、お前にはいろいろ世話になったけれども、今度はあたしももういけないよ。あたしも覚悟しているよ」
 お君は涙ぐんで聞いていた。
「そこで、あたしが頼むことというのは、お前も大抵察しているだろうけれど……。向柳原の林さん、あの人はずいぶん薄情だと思うよ」
「あら、林さんはもう少しさっきまで来ていましたよ」と、お君は慌てて打ち消すように言った。
「そう」と、お絹はさびしく笑った。「そりゃあよんどころなしの義理づくさ。あたし、どう考えてもあの人は人情がないと思う」
 一体、ここの家を逃げ出したというのがすでに頼もしくない。この夏頃からあたしに隠して列び茶屋へ遊びにゆく、それがまた憎らしい。たしかな証拠を握っていないけれど、どうもお里と林之助はひと通りの馴染みではないらしく思われる。証拠がないので今まで堪忍していたが、いよいよこうと見極めが付いたら、あたしは不二屋へ蛇を持って行って、いつかお此を責めたように、お里をむごたらしく責めてやりたい。お里の頸へ蛇をまき付けて、子供が野良犬をひきまわすように両国じゅうを引き摺って歩いてやりたいと思っていた。しかしそれももう出来ない。就いてはあたしの死んだのを幸いに、二人がいい気になって仲よくするようなことがあったら、どうぞあたしに成り代って仇を取ってくれと、彼女はしみじみと言った。
 お君はやはり涙ぐんで聞いていた。
「お前は子供でも蛇という味方があるんだからね。大人だって怖いことはないよ。あたしの魂も蛇に乗りうつって、きっとお前の加勢をしてあげるからね。いいかい」
 もし林之助に見せたら気絶するかも知れないと思われるほどに、お絹のくぼんだ眼はいよいよ物すごく光った。糸のように痩せ細った顔と、この物すごい眼をじっと見つめていると、お絹が蛇か、蛇がお絹か、お君にも判らないほどに怖ろしかった。お絹は枕もとへ蛇の箱を持って来いと言った。
「君ちゃん。神棚の御神酒と、それからお米を持って来ておくれ」
 箱はお絹の枕もとに運び出された。彼女はお君にかかえられて蒲団の上に起き直って、自分の尖った膝の上にその箱をのせて貰った。いつものように箱をとんとん[#「とんとん」に傍点]と軽く叩くと、一匹の青い蛇の頭が箱の穴からぬるぬると現われた。お絹は小さい土器に神酒徳利のしずくをそそいで、その口さきへ押しやると、蛇は蜜をなめるように旨そうになめ尽くした。お絹は更に自分の手のひらに米をのせて出すと、蛇はさとい眼で左右を見まわしながら、ひと粒も残さずにのみ込んでしまった。
「お前、あたしを忘れちゃいけないよ。もういいからお帰り」
 お絹に頭を撫でられて、蛇はおとなしく首を引っ込めた。彼女が再び箱をたたくと、待ちかねていたように第二の青い蛇が穴から首を出した。お絹はかれにも神酒と米をあたえた。そうして、同じようにあたしを忘れるなと言って聞かせた。かれが穴に隠れると更に第三の青い蛇が頭をあらわして、これもお絹の手から神酒と米とを授けられて、嬉しそうに首を垂れていた。彼女はその蛇の首をつかんで穴からずるずるとひき出すと、蛇は二つに裂けた紅い舌を火焔のようにへらへら[#「へらへら」に傍点]と吐き出しながら、お絹の痩せた手首へたわむれるように絡みついた。
 ※[#「※」は「歌記号」、345-8]銚子出るときゃ涙で出たが……
 小声で唄いながら、お絹は片手で膝をたたいて拍子を取ると、蛇はなめらかな膚に菱形の尖った鱗を立てて、まぶたのない眼を眠るようにとじた。しかしかれはいつまでも安らけくその音楽を聞いていることを許されなかった。
 ※[#「※」は「歌記号」、345-12]今じゃ銚子の風もいや……
 唄の声がふるえながら消えると同時に、彼女は尾の先きをつかんで、ずるずると手首から引きほどかれた。
「君ちゃん。お前、知っているだろう。こうして、こうするんだよ」
 尾をつかまれた蛇は縄をわがねたように円を描いて、空を二つ三つ舞ったかと思うと、その持ち主の細い頸にくるくるとまき付いた。お絹はお君を見返ってにやりと笑った。お君は身を固くしてじっと見つめていた。
「さあ、いいからお帰り」
 第三の蛇もお絹の頸を離れて、もとの箱の穴へ追いやられた。
「あたしが死んだらば、お前もやっぱりこの商売になるかえ」と、お絹は訊いた。
「あたし、巳年でないから駄目ですわ」
「そうとも限らない。お若だって巳年じゃないけれど……」と、お絹は考えていた。「だが、まあ、止した方がよかろうよ。こんな商売するもんじゃない。あたしだって、こんな商売でなけりゃあ男に愛想をつかされなかったかも知れない。だけれども、あたしがいなくなると、おまえは家へ帰らなけりゃなるまい。可哀そうだね」
 お君は両袖で顔を掩いながら啜り泣きをはじめた。
「おっかさんが違っているんだからね。あたしももう少し達者でいれば、お前の面倒を見てあげられたんだけど……。おたがいに運が悪いんだから仕様がない」
 お絹は崩れるように蒲団の上に俯伏すと、お君は声を立てて泣き出した。
「姐さん。後生ですから死なずにくださいよ。姐さんが死ねば……あたしも死んでしまいます」と、お君は又しゃくり上げた。
「そりゃああたしだって死にたかあないけど……。あたし、ほんとうに死に切れないけど……。いいかい。今のことはお前に頼んだよ。あたしの着物でも簪でもみんなお前にあげるから。なに、お葬いぐらいは小屋の方でどうにかして呉れるだろうよ。だがね、この蛇は人にうっかり渡しちゃいけないよ。これだけ飼い馴らしてあれば売ってもいい値になる代物だし、また何かの役にも立つかも知れないから。誰がなんと言っても渡しちゃいけないよ」
「はい」と、お君は泣きながらうなずいた。
 きょうは風のぐあいか、東両国の観世物小屋の囃子の音が手に取るように聞えた。お絹はさっきから自分でも不思議だと思うくらいに気分もはっきりして、舌も自由に働いたのであるが、言うだけのことを言ってしまうと、急にがっかりと気がゆるんで、目がくらみそうに頭がほてって来た。彼女は俯伏したままでまた正体もなく昏睡に陥ったので、お君はそっと寄って上から衾をきせてやった。縁の下では昼でもこおろぎが鳴いていた。
 日が暮れると、豊吉をさきに立てて、お若やお花やお辰がぞろぞろと見舞いに来た。お花とお辰はさきへ帰った。豊吉とお若はあとに残って、お君と三人で薄暗い行燈のもとに黙って坐っていた。
 さっきから幾たびも風鈴そば屋の声を聞くので、この頃の夜もだんだんに長くなったのが思われた。綿入れの節句もあしたに迫って、その夜寒をよび出すような雁の声が御船蔵の屋根のあたりで遠くきこえた。
「さびしいね」と、お若は襟をかき合わせた。
「さびしいなあ」と、豊吉も腕を組んだ。
 大川の水の音もここまで聞えるほどに静かな夜であった。お絹は急に夢から醒めたようにもがいて、再び蛇ののたくるように蒲団の上を這いまわった。彼女は林之助の名を二度呼びつづけた。三度目にお里の名を呼んだ。

     十五

 豊吉が向柳原の屋敷へあわただしく駈け付けたのは、その夜の五つ半(午後九時)ごろであった。
「お絹さんはとうとういけませんでした」
「ふむ。いつ頃……」と、林之助もさすがに顔色を変えた。
「たった今です。ともかくもすぐ来ておくんなさい。みんなも待っていますから」
 林之助は行かれないと気の毒そうに言った。なにぶんにも主人はあした早朝の登城であるから、自分がこれから屋敷を明けるわけにはいかないと断わった。豊吉は不平らしくぐずぐず言っていたが、林之助はまったくどうしても行くことが出来ないのであった。彼はいろいろに訳をいって、ようように豊吉をなだめて帰した。
「薄情ですねえ。お絹さんが化けて出ますぜ」と、豊吉は忌味をいって帰った。
 なんと言われても林之助は仕方がなかった。豊吉ばかりでなく、きびしい屋敷の掟を知らない者どもは、みんな自分を薄情とか不実とか非難しているであろうと、林之助は心苦しく思った。そうして、お絹の死に目に会わなかったことが残り惜しくも思われた。自分にも罪があるように思われて何だか気が咎めてならなかった。それと同時に、自分のからだをくくられていた縄が自然に解けたような軽い気にもなった。
「おれがお絹を殺したわけではない」と、彼は自分で自分を弁護した。死に目に会えなかったのも自分の罪ではない、今夜行かないのも自分の薄情からではないと、彼はいろいろの理屈をかんがえて努めて自分を弁護しようと試みた。それでも何だか自分にうしろ暗い点があるように危ぶまれた。
 彼は今にもここへお絹のおそろしい眼が現われて来はしまいかと恐れられた。お絹に別れたことも悲しかった。うるさいとか執念ぶかいとか思いながらも、彼女と自分とのあいだには切ることのできない絆がしっかりと結び付けられていたのであった。自分も無理にそれを振り切ろうとはしなかった。その絆が自然に切り放されて、自分は今初めて自由の身となった。彼は思わずほっ[#「ほっ」に傍点]とすると同時に、又なんとなく心淋しくなった。お絹が急に恋しく懐かしくも思われた。
 お経の文句は何も知らない彼も、今夜は仏壇代りの机にお絹の俗名をかいた紙片を飾って、それにむかって一心に南無阿弥陀仏と念じた。ときどきに部屋の障子に女の髪の毛がさらさら[#「さらさら」に傍点]とさわるような音が耳について、彼は総身に水を浴びせられたように感じた。
 屋敷を出られない彼は今夜はここで通夜をするつもりで、明けの鴉のきこえるまで行儀よく机の前に坐っていると、初めてお絹と馴染んだ時のことや、本所の家に一緒に暮らしていた時のことや、自分がここへ来てから後のことや、いろいろの思い出がそれからそれへと湧き出して、彼の眼は絶え間なしにうるんだ。お絹はやはり生かして置きたかった。憂しと見し世ぞ今は恋しきとはよく言ったものだと、彼は今更のように感じた。
 明くる日は主人が登城の当日で、林之助は何を考えている間もなかった。彼は用人に叱られないようにかいがいしく働いた。登城もとどこおりなく済んで、主人が屋敷へもどって来ると、彼もまず荷を卸したように思った。お絹の葬いはきょうの暮れ方と聞いているので、たとい途中の見送りは出来ないまでも、せめて門送りだけでもしたいと思って、彼は早々に屋敷を出た。出るさきになって気がついたのは、お里の母の死を聞いた時とおなじように、彼は幾らかの銀を用意して行かなければならない事である。いつもの場合と違って、彼は空手でお絹の家の格子をくぐるわけにはいかなかった。
 このあいだの二歩がまだ返してないので、林之助は又もや用人に頼むことも出来なかった。屋敷じゅうにはほかに融通の付きそうな人物は見付けられなかった。彼は苦しまぎれに門番の老爺を口説いた。門番は内職をして小金を溜めているということを知っているからであった。
 門番は素直に貸してくれないのを林之助はいろいろに頼んだ。それでも彼は肯かなかった[#「肯かなかった」は底本では「肯かなった」と誤記]。門番は林之助が蛇つかいの小屋や列び茶屋へ足近く入り込むことを知っているので、彼の銀の入り途を疑って、そういう不信用の人間に大事の金を貸されないというような口ぶりで、あくまでも頭を振り通した。
 林之助も根負けがして、仕方がなしに屋敷を出たが、どう考えても空手では行かれなかった。彼は友達の梶田弥太郎のところへ行って頼もうと思ったが、これから訪ねて行っても果たして家に居るかどうだか判らなかった。居たところできっとその銀が出来るかどうかも疑問であった。そんなことに暇取っているうちに、葬いが出てしまっては何にもならないと、林之助はむやみに気が急いた。
「ええ、もう仕方がない」
 彼は思い切って馴染みの質屋へかけ込んで、大小を投げだして銀を借りた。武士の大小であるから片時も離すことはできない。今夜じゅうにはきっと請け出すと番頭を口説いて、彼は二両二歩を借り出した。それを懐ろにして本所へ一散にかけ付けると、お絹の棺は小屋の者や近所の人たちに寂しく送られて、今かつぎ出されようとするところであった。林之助は棺のまえへ坐って線香を供えた。美しい水色の※[#「※」は「ころもへん+上」、読みは「かみ」、351-6]※[#「※」は「ころもへん+下」、読みは「しも」、351-6]もそこには見えなかった。けばけばしい華魁の衣裳もみえなかった。ただ白木の棺桶が荒縄で十文字にくくられているだけであった。
 あまりの果敢なさに林之助は胸がつまるようになって、涙が止めどなしにほろほろ[#「ほろほろ」に傍点]と流れた。彼は取りあえず一両の金を包んで、きょうの葬式万端を取りまかなっているという小屋主に渡した。
 八幡鐘が夕六つを撞き出すころに、棺はいよいよ送り出された。お若もお君も目を泣き腫らして棺のそばに付いて行った。林之助も家の外まで送って出ると、ゆうぐれの町には秋の霧が薄く迷って、豊吉とほかの二、三人が振り照らしてゆく提灯の灯の影は、その霧隠れにぼんやりとゆれて行った。それをいつまでも見送って立つ林之助の眼には涙のあとが乾かなかった。
 引っ返して内へはいると、隣りのおばあさんが留守番役にひとり坐っていた。林之助は彼女からお絹の臨終の有様などを詳しく聞いた。お絹が最後にお里の名を呼んだのを知って、彼はまたぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
 寺は深川で、見送りの人たちも四つ(十時)前にはみな帰って来た。なぜか知らないが、みな林之助に対して無愛想で、彼に悔みの口上をいう者は一人もいなかった。豊吉やお若もわきを向いていてほとんど挨拶もしないばかりか、豊吉は時どき当てこすりらしい毒口さえ放った。それも畢竟は屋敷の物堅い掟を知らないで、いちずに自分を不人情の人間と恨んでいるせいであろうと林之助も察していたが、今となってはいちいちその言い訳をするのも面倒であった。武士が大小まで手放して来たほどの切ない心はお前たちには判るまい。おれの心は仏がよく知っている筈だと、彼は肚のなかでかれらの無智をあざけっていた。
 そのうちに小屋主は気がついて林之助に注意した。
「失礼でございますが、旦那様、お腰の物は……。こんな混雑の時でございますから、もし間違いでもありますといけません」
 林之助ははっ[#「はっ」に傍点]と赤面した。まさか大勢の前で大小を質に入れて来たとは言えなかった。返事に困っておどおど[#「おどおど」に傍点]していると、豊吉は薄あばたの顔に三角の眼をひからせた。
「なるほど旦那は丸腰で……。へえ、もうきょうかぎりお屋敷の方はおやめになったんでごぜえますかえ。ははあ、それじゃあここの姐さんがいなくなったんで、おおびらでお里の方へ引き取られるようなことで……。なんでもお里のおふくろの死んだ時にゃあ大層に肩を入れてお世話をなすってやったそうで……。へえ、みんな知っていますぜ」
 彼は憎々しくせせら笑った。丸腰を見とがめられて赤面しているところへ、又もやこんな忌味を言われて、林之助はむっ[#「むっ」に傍点]とした。
「お里のおふくろが死んだ時に顔を出したのがなんで悪い。顔を出そうと出すまいと俺の勝手だ。貴様たちにおれの料簡がわかるか」
 豊吉も負けずに何か言おうとするのを小屋主がおさえた。ほかの者もなだめた。ともかくも武士の林之助を相手にして喧嘩をしては面倒だと思ったらしい。
 それはそれで済んだが、四方八方から意地のわるい眼で睨まれているようで、林之助はなにぶんにも居ごこちが悪いので、ろくろく挨拶もせずにふい[#「ふい」に傍点]と表へ出てしまった。彼の腰のまわりは寂しかった。そのうしろ姿を見送って、内ではくすくす笑う声も洩れきこえた。
「けしからん奴らだ」
 林之助は腹が立って堪まらなかった。彼はふところにまだ一両二歩の銀が残っているので、近所の軍鶏屋へ又はいった。悲しみと怒りとがもつれ合って、麻のように乱れている胸の苦しみを救うために、彼はたんとも飲めない酒を無暗に飲んだ。
「このあいだもここで飲んで、それからお里の家へ行ったのだ。今夜はどこへ行こう」
 彼は丸腰で屋敷の門をくぐれないことを考えた。もう今頃からどこへ行っても、大小をうけ出す銀の才覚もできそうもない。さりとてお絹の家へ引っ返す気にもなれないので、林之助は行くさきに迷った。酔いも手伝って彼はもう自棄になった。今夜もこれからお里の家へ行こうと思った。お絹はもう死んでいる、お里のおふくろも死んでいる、だれにも遠慮気兼ねもいらないと思った。軍鶏屋を出ると、彼の足は外神田へむかった。
 めずらしく霧の深い夜で、林之助は暗い海の底を泳いでゆくように感じた。

 十三夜も過ぎた。十五日は神田祭りで賑わった。
 林之助はお里と一緒に祭りを見物した。彼の大小はお里の着物や帯と入れ替えにして、無事に質屋の庫から請け出されていた。お里の顔には母をうしなった悲しみの色がもうぬぐわれていた。林之助の胸には、お絹をうしなった愁いの雲が吹きやられていた。二人に取っては楽しい祭りの夜であった。
 祭りに騒ぎ疲れた人たちは、さらに新しい騒ぎの種を発見して驚き騒いだ。
 祭りのあくる朝、お里の家がいつまでも戸をあけないのを不思議に思って、近所の者が戸をこじあけて窺うと、お里の寝すがたは階下の六畳に見えなかった。彼女は二階に若い男と枕をならべたままで死んでいた。ふたりの頸には青い蛇が絞め付けるように固くまき付いていた。
 それと同じ日に、両国の秋の水にお君の小さい死骸が浮きあがった。彼女もふところに一匹の青い蛇を抱いていた。



底本:「江戸情話集」光文社時代小説文庫、光文社
   1993(平成5)年12月20日初版1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:かとうかおり
2000年6月16日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

前のページに戻る 青空文庫アーカイブ