青空文庫アーカイブ

綺堂むかし語り
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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目次

※[#ローマ数字1、1-13-21] 思い出草
 思い出草
 島原の夢
 昔の小学生より
 三崎町の原
 御堀端三題
 銀座
 夏季雑題
 雷雨
 鳶
 旧東京の歳晩
 新旧東京雑題
 ゆず湯
※[#ローマ数字2、1-13-22] 旅つれづれ
 昔の従軍記者
 苦力とシナ兵
 満洲の夏
 仙台五色筆
 秋の修善寺
 春の修善寺
 妙義の山霧
 磯部の若葉
 栗の花
 ランス紀行
 旅すずり
 温泉雑記
※[#ローマ数字3、1-13-23] 暮らしの流れ
 素人脚本の歴史
 人形の趣味
 震災の記
 十番雑記
 風呂を買うまで
 郊外生活の一年
 薬前薬後
 私の机
 読書雑感
 回想・半七捕物帳
 歯なしの話
 我が家の園芸
 最後の随筆
[#改丁、ページの左右中央に]

   ※[#ローマ数字1、1-13-21] 思い出草

[#改丁]


思い出草


     赤蜻蛉

 私は麹町《こうじまち》元園町《もとぞのちょう》一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更にとどまって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴れの朝、巷《ちまた》に立って見渡すと、この町も昔とはずいぶん変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
 江戸《えど》時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川《とくがわ》幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、さらに拓《ひら》かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が初めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだ。
 わたしが幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到るところに草原があって、蛇《へび》が出る、狐《きつね》が出る、兎《うざぎ》が出る、私の家のまわりにも秋の草が一面に咲き乱れていて、姉と一緒に笊《ざる》を持って花を摘みに行ったことを微《かす》かに記憶している。その草叢《くさむら》の中には、ところどころに小さい池や溝川《どぶがわ》のようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。
 蟹《かに》や蜻蛉《とんぼ》もたくさんにいた。蝙蝠《こうもり》の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋《わらじ》を提《さ》げて「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴れの日には小さい竹|竿《ざお》を持って往来に出ると、北の方から無数の赤とんぼがいわゆる雲霞《うんか》の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩《たた》き落すと、五分か十分のあいだに忽《たちま》ち数十匹の獲物《えもの》があった。今日《こんにち》の子供は多寡《たか》が二|疋《ひき》三疋の赤蜻蛉を見つけて、珍しそうに五人六人もで追い廻している。
 きょうは例の赤とんぼ日和《びより》であるが、ほとんど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼の先に泛《う》かんで、年ごとに栄えてゆく此の町がだんだんに詰まらなくなって行くようにも感じた。

     茶碗

 O君が来て古い番茶茶碗を呉《く》れた。おてつ牡丹餅《ぼたもち》の茶碗である。
 おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店《かどみせ》で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢《おおぜい》集まって来る。その傍《わき》に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
 おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。眉《まゆ》を落して歯を染めた、小作りの年増《としま》であった。聟《むこ》を貰《もら》ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児《こ》を持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私の稚《おさな》い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手が栽《う》えてあって、その葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口を掃《は》いているのを見た。汁粉《しるこ》と牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余り旨《うま》くはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多《めった》に食いに行ったことはなかった。
 おてつ牡丹餅の跡へは、万屋《よろずや》という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌《はんじょう》している。おてつ親子は麻布《あざぶ》の方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
 わたしの貰《もら》った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父《おとっ》さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意《こんい》にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶《どびん》や茶碗などを知己《しるべ》の人々に分配した。O君の阿父《おとっ》さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
 汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に遣《つか》っている。しかし此《こ》の茶碗には幾人の唇《くちびる》が触れたであろう。
 今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼《しんきろう》のように朦朧《もうろう》と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金《ぶんきん》高島田にや[#「や」に傍点]の字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐《しず》かにはいって来た。娘の長い袂《たもと》は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
 この二人の姿が消えると、芝居で観る久松《ひさまつ》のような丁稚《でっち》がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして縁《えん》に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先《ま》ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を拭《ふ》いて、逃げるようにこそこそ[#「こそこそ」に傍点]と出て行った。
 講武所《こうぶしょ》ふうの髷《まげ》に結《ゆ》って、黒|木綿《もめん》の紋付、小倉《こくら》の馬乗り袴《ばかま》、朱鞘《しゅざや》の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯《ほおば》の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇《てっせん》を持っていた。悠々と蒲団《ふとん》の上にすわって、角《つの》細工の骸骨《がいこつ》を根付《ねつけ》にした煙草《たばこ》入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽《らいさんよう》の詩を吟じた。
 町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿《おはぐろ》を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ上《のぼ》って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河《ひらかわ》の天神さまへも参詣して行こうと云った。
 おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う鬨《とき》の声が揚がった。焙烙《ほうろく》調練が始まったらしい。
 わたしは巻煙草を喫《の》みながら、椅子《いす》に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に唇《くちびる》を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。

     芸妓

 有名なおてつ牡丹餅の店が私の町内の角に存していたころ、その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋《げいしゃや》もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原《よしわら》に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮《やぼ》な町では無かったらしい。
 また、その頃のことで私がよく記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確かに今の方がよい。下町《したまち》は知らず、われわれの住む山の手では、商家でも店でこそランプを用《もち》いたれ、奥の住居《すまい》ではたいてい行燈《あんどう》をとぼしていた。家によっては、店先にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯《ガス》燈もない、電燈もない、軒ランプなども無論なかった。したがって、夜の暗いことはほとんど今の人の想像の及ばないくらいで、湯に行くにも提灯《ちょうちん》を持ってゆく。寄席《よせ》に行くにも提灯を持ってゆく。おまけに路がわるい。雪どけの時などには、夜はうっかり歩けないくらいであった。しかし今日《こんにち》のように追剥《おいは》ぎや出歯亀《でばかめ》の噂《うわさ》などは甚《はなは》だ稀《まれ》であった。
 遊芸の稽古《けいこ》所と云うものもいちじるしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津《ときわづ》の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今ではほとんど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番|唸《うな》ろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿《しんじゅく》へ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第に亡《ほろ》びてゆく。浪花節の寄席が繁昌《はんじょう》する。
 半鐘《はんしょう》の火の見|梯子《ばしご》と云うものは、今は市中に跡を絶ったが、わたしの町内にも高い梯子があった。或る年の秋、大嵐のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌《あく》る朝、私が行ってみると、梯子は根もとから見事に折れて、その隣りの垣を倒していた。その頃には烏瓜《からすうり》が真っ赤に熟して、蔓《つる》や葉が搦《から》み合ったままで、長い梯子と共に横たわっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関《せき》運漕店の旗竿が高く樹《た》っていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。

     西郷星

 かの西南|戦役《せんえき》は、わたしの幼い頃のことで何んにも知らないが、絵草紙屋《えぞうしや》の店にいろいろの戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで、五銭くらい。また、そのころ流行《はや》った唄に、
[#ここから1字下げ]
 ※[#歌記号、1-3-28]紅《あか》い帽子《シャッポ》は兵隊さん、西郷に追われて、
 トッピキピーノピー。
[#ここで字下げ終わり]
 今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半《よなか》に近所の人がみな起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音がきこえる。父は鉄砲の音だと云う。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て、「なんでも竹橋《たけばし》内で騒動が起きたらしい。時どきに流れだまが飛んで来るから戸を閉めて置け。」と云う。わたしは衾《よぎ》をかぶって蚊帳《かや》の中に小さくなっていると、暫《しばらく》くしてパチパチの音も止《や》んだ。これは近衛《このえ》兵の一部が西南|役《えき》の論功行賞《ろんこうこうしょう》に不平を懐《いだ》いて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
 やはり其の年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星《ほうきぼし》が見えた。誰が云い出したか知らないが、これを西郷星《さいごうぼし》と呼んで、さき頃のハレー彗星《すいせい》のような騒ぎであった。しまいには錦絵まで出来て、西郷|桐野《きりの》篠原《しのはら》らが雲の中に現われている図などが多かった。
 また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙《きんがみ》を着けて金モールと見せ、附け髭《ひげ》をして西郷の如く拵《こしら》え、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論《もちろん》、一種の玩具《おもちゃ》に過ぎないのであるが、なにしろ西郷というのが呼び物で、大繁昌であった。私などは母にせがんで幾度も買った。
 そのほかにも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を食っては毒だ。」と叱《しか》られたので、買わずにしまった。

     湯屋

 湯屋《ゆうや》の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗《こぎれい》な姐《ねえ》さんが二、三人居た。
 わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐《やかん》が掛けてあって、そのわきには菓子の箱が列《なら》べてある。のちに思えば例の三馬《さんば》の「浮世風呂」をその儘《まま》で、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
 時はちょうど五月の初めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲《しょうぶ》を花瓶《かびん》に挿《さ》していたのを記憶している。松平紀義《まつだいらのりよし》のお茶《ちゃ》の水《みず》事件で有名な御世梅《ごせめ》お此《この》という女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
 その頃の湯風呂には、旧式の石榴口《ざくろぐち》と云うものがあって、夜などは湯煙《ゆげ》が濛々《もうもう》として内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画《か》いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝《すいこでん》の花和尚《かおしょう》と九紋龍《くもんりゅう》、女湯の石榴口には例の西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
 男湯と女湯とのあいだは硝子《ガラス》戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。

     紙鳶

 春風が吹くと、紙鳶《たこ》を思い出す。暮れの二十四、五日ごろから春の七草《ななくさ》、すなわち小学校の冬季休業のあいだは、元園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国《やすくに》神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばすわれわれ少年軍によってほとんど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐって往来したくらいであった。暮れの二十日頃になると、玩具《おもちゃ》屋駄菓子店などまでがほとんど臨時の紙鳶屋に化けるのみか、元園町の角には市商人《いちあきうど》のような小屋掛けの紙鳶屋が出来た。印半纒《しるしばんてん》を着た威勢のいい若い衆の二、三人が詰めていて、糸目を付けるやら鳴弓《うなり》を張るやら、朝から晩まで休みなしに忙がしい。その店には、少年軍が隊をなして詰め掛けていた。
 紙鳶は種類もいろいろあったが、普通は字紙鳶《じだこ》、絵紙鳶、奴《やっこ》紙鳶で、一枚、二枚、二枚半、最も多いのは二枚半で、四枚六枚となっては子供には手が付けられなかった。二枚半以上の大《おお》紙鳶は、職人か、もしくは大家《たいけ》の書生などが揚げることになっていた。松の内は大供《おおども》小供《こども》入り乱れて、到るところに糸を手繰《たぐ》る。またその間に娘子供は羽根を突く。ぶんぶんという鳴弓の声、かっかっという羽子《はご》の音。これがいわゆる「春の声」であったが、十年以来の春の巷は寂々寥々《せきせきりょうりょう》。往来で迂闊《うかつ》に紙鳶などを揚げていると、巡査が来てすぐに叱られる。
 寒風に吹き晒《さら》されて、両手に胼《ひび》を切らせて、紙鳶に日を暮らした三十年前の子供は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻《えりまき》をして、帽子をかぶって、マントにくるまって懐《ふとこ》ろ手をして、無意味にうろうろ[#「うろうろ」に傍点]している今の子供は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない。

     獅子舞

 獅子《しし》というものも甚だ衰えた。今日《こんにち》でも来るには来るが、いわゆる一文獅子《いちもんじし》というものばかりで、ほんとうの獅子舞はほとんど跡を断った。明治二十年頃までは随分立派な獅子舞いが来た。まず一行数人、笛を吹く者、太鼓を打つ者、鉦《かね》を叩く者、これに獅子舞が二人もしくは三人附き添っている。獅子を舞わすばかりでなく、必ず仮面《めん》をかぶって踊ったもので、中にはすこぶる巧みに踊るのがあった。かれらは門口《かどぐち》で踊るのみか、屋敷内へも呼び入れられて、いろいろの芸を演じた。鞠《まり》を投げて獅子の玉取りなどを演ずるのは、余ほどむずかしい芸だとか聞いていた。
 元園町には竹内《たけうち》さんという宮内省の侍医が住んでいて、新年には必ずこの獅子舞を呼び入れていろいろの芸を演じさせ、この日に限って近所の子供を邸《やしき》へ入れて見物させる。竹内さんに獅子が来たと云うと、子供は雑煮の箸《はし》を投《ほお》り出して皆んな駈け出したものであった。その邸は二十七、八年頃に取り毀《こわ》されて、その跡に数軒の家が建てられた。私が現在住んでいるのは其の一部である。元園町は年毎に栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで子供に見せてやろうなどと云うのんびりした人は、だんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、いちがいに馬鹿だと罵《ののし》られる世の中となった。眉が険《けわ》しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を見るべく余りに怜悧《りこう》になった。
 万歳《まんざい》は維新以後全く衰えたと見えて、わたしの幼い頃にも已《すで》に昔のおもかげはなかった。

     江戸の残党

 明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時頃になると、一人のおでん屋が売りに来た。年は四十五、六でもあろう、頭には昔ながらの小さい髷《まげ》を乗せて、小柄ではあるが色白の小粋《こいき》な男で、手甲脚絆《てっこうきゃはん》のかいがいしい扮装《いでたち》をして、肩にはおでんの荷を担ぎ、手には渋団扇《しぶうちわ》を持って、おでんや/\と呼んで来る。実に佳《い》い声であった。
 元園町でも相当の商売があって、わたしもたびたび買ったことがある。ところが、このおでん屋は私の父に逢うと互いに挨拶《あいさつ》をする。子供心に不思議に思って、だんだん聞いてみると、これは市ヶ谷《いちがや》辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだと云う。あの男も若い時にはなかなか道楽者であったと、父が話した。なるほど何処《どこ》かきりりとして小粋なところが、普通の商人《あきんど》とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。
 これもそれと似寄りの話で、やはり十七年の秋と思う。わたしが、父と一緒に四谷《よつや》へ納涼《すずみ》ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷伝馬町《よつやてんまちょう》の通りには幾軒の露店《よみせ》が出ていた。そのあいだに筵《むしろ》を敷いて大道《だいどう》に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻《しき》りに字を書いていた。今日では大道で字を書いていても、銭《ぜに》を呉れる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許《いくら》かの銭を置いて行ったものである。
 わたしらも其の前に差しかかると、うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視《み》た父は、一|間《けん》ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ遣《や》ったらば直《す》ぐに駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭はちっと多過ぎると思ったが、云わるるままに札《さつ》を掴《つか》んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否《いな》や一散《いっさん》に駈け出した。これに就いては、父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
 この男を見た時に、「霜夜鐘《しものよのかね》」の芝居に出る六浦《むつら》正三郎というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に向って「……茶立虫《ちゃたてむし》」と書いていた。上の文字は記憶していないが、おそらく俳句を書いていたのであろう。今日でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫と書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。

     長唄の師匠

 元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋《きねや》お路久《ろく》という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花《はな》さんと云うのが評判の美人であった。この界隈《かいわい》の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古にかよった。三宅花圃《みやけかほ》女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃のコレラで死んでしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家ことごとく離散して、その跡は今や阪川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳屋、おのずからなる世の変化を示しているのも不思議である。

     お染風

 この春はインフルエンザが流行した。
 日本で初めて此の病いがはやり出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗《しょうけつ》になった。われわれは其の時初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風《そめかぜ》と云っていた。なぜお染という可愛らしい名をかぶらせたかと詮議《せんぎ》すると、江戸時代にもやはりこれによく似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうと、或る老人が説明してくれた。
 そこで、お染という名を与えた昔の人の料簡《りょうけん》は、おそらく恋風と云うような意味で、お染が久松《ひさまつ》に惚れたように、すぐに感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染に限らない。お夏《なつ》でもお俊《しゅん》でも小春《こはる》でも梅川《うめがわ》でもいい訳であるが、お染という名が一番|可憐《かれん》らしくあどけなく聞える。猛烈な流行性をもって往々に人を斃《たお》すような此の怖るべき病いに対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗《すこぶ》るおもしろい対照である、さすがに江戸っ子らしいところがある。しかし、例の大《おお》コレラが流行した時には、江戸っ子もこれには辟易《へきえき》したと見えて、小春とも梅川とも名付け親になる者がなかったらしい。ころり[#「ころり」に傍点]と死ぬからコロリだなどと知恵のない名を付けてしまった。
 すでに其の病いがお染と名乗る以上は、これに※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]《よ》りつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入《ちんにゅう》を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいと云うことになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論《もちろん》、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として、昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽《あお》って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼り付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
 二十四年の二月、私は叔父と一緒に向島《むこうじま》の梅屋敷へ行った。風のない暖い日であった。三囲《みめぐり》の堤下《どてした》を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭《てぬぐい》をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒のそばには白い梅が咲いていた。その風情《ふぜい》は今も眼に残っている。
 その後にもインフルエンザは幾たびも流行を繰り返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。ハイカラの久松に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]《よ》りつくには、やはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。

     どんぐり

 時雨《しぐれ》のふる頃となった。
 この頃の空を見ると、団栗《どんぐり》の実を思い出さずにはいられない。麹町二丁目と三丁目との町ざかいから靖国神社の方へむかう南北の大通りを、一丁ほど北へ行って東へ折れると、ちょうど英国大使館の横手へ出る。この横町が元園町と五番町《ごばんちょう》との境で、大通りの角から横町へ折り廻して、長い黒塀《くろべい》がある。江戸の絵図によると、昔は藤村《ふじむら》なにがしという旗本の屋敷であったらしい。私の幼い頃には麹町区役所になっていた。その後に幾たびか住む人が代って、石本《いしもと》陸軍大臣が住んでいたこともあった。板塀の内には眼隠しとして幾株の古い樫《かし》の木が一列をなして栽《う》えられている。おそらく江戸時代からの遺物であろう。繁った枝や葉は塀を越えて往来の上に青く食《は》み出している。
 この横町は比較的に往来が少ないので、いつも子供の遊び場になっていた。わたしも幼い頃には毎日ここで遊んだ。ここで紙鳶《たこ》をあげた、独楽《こま》を廻した。戦争ごっこをした、縄飛びをした。われわれの跳ねまわる舞台は、いつもかの黒塀と樫の木とが背景になっていた。
 時雨《しぐれ》のふる頃になると、樫の実が熟して来る。それも青いうちは誰も眼をつけないが、熟してだんだんに栗のような色になって来ると、俗にいう団栗なるものが私たちの注意を惹《ひ》くようになる。初めは自然に落ちて来るのをおとなしく拾うのであるが、しまいにはだんだんに大胆になって、竹竿を持ち出して叩き落す、あるいは小石に糸を結んで投げつける。椎《しい》の実よりもやや大きい褐色《かっしょく》の木の実が霰《あられ》のようにはらはら[#「はらはら」に傍点]と降って来るのを、われ先にと駈け集まって拾う。懐ろへ押し込む者もある。紙袋へ詰め込む者もある。たがいに其の分量の多いのを誇って、少年の欲を満足させていた。
 しかし白樫《しらかし》は格別、普通のどんぐりを食うと唖になるとか云い伝えられているので、誰も口へ入れる者はなかった。多くは戦争ごっこの弾薬に用いるのであった。時には細い短い竹を団栗の頭へ挿して小さい独楽を作った。それから弥次郎兵衛《やじろべえ》というものを作った。弥次郎兵衛という玩具《おもちゃ》はもう廃《すた》ったらしいが、その頃には子供たちの間になかなか流行ったもので、どんぐりで作る場合には先ず比較的に拉の大きいのを選んで、その横腹に穴をあけて左右に長い細い竹を斜めに挿し込み、その竹の端《はし》には左右ともに同じく大きい団栗の実を付ける。で、その中心になった団栗を鼻の上に乗せると、左右の団栗の重量が平均してちっとも動かずに立っている。無論、頭をうっかり動かしてはいけない、まるで作りつけの人形のように首を据《す》えている。そうして、多くの場合には二、三人で歩きくらべをする。急げば首が動く。動けば弥次郎兵衛が落ちる。落ちれば負けになるのである。ずいぶん首の痛くなる遊びであった。
 どんぐりはそんな風にいろいろの遊び道具をわれわれに与えてくれた。横町の黒塀の外は、秋から冬にかけて殊《こと》に賑《にぎ》わった。人家の多い町なかに住んでいる私たちに取っては、このどんぐりの木が最も懐かしい友であった。
「早くどんぐりが生《な》ればいいなあ。」
 私たちは夏の頃から青い梢《こずえ》を見上げていた。この横町には赤とんぼも多く来た。秋風が吹いて来ると、私たちは先ず赤とんぼを追う。とんぼの影がだんだんに薄くなると、今度は例のどんぐりに取りかかる。どんぐりの実が漸く肥えて、褐色の光沢《つや》が磨いたように濃くなって来ると、とかくに陰った日がつづく。薄い日が洩《も》れて来たかと思うと、又すぐに陰って来る。そうして、雨が時々にはらはら[#「はらはら」に傍点]と通ってゆく。その時には私たちはあわてて黒塀のわきに隠れる。樫の技や葉は青い傘をひろげて私たちの小さい頭の上を掩《おお》ってくれる。雨が止むと、私たちはすぐに其の恩人にむかって礫《つぶて》を投げる。どんぐりは笑い声を出してからから[#「からから」に傍点]と落ちて来る。湿《ぬ》れた泥と一緒につかんで懐ろに入れる。やがてまた雨が降って来る。私たちは木の蔭へまた逃げ込む。
 そんなことを繰り返しているうちに、着物は湿《ぬ》れる、手足は泥だらけになる。家《うち》へ帰って叱られる。それでも其の面白さは忘れられなかった。その樫の木は今でもある。その頃の友達はどこへ行ってしまったか、近所にはほとんど一人も残っていない。

     大綿

 時雨のふる頃には、もう一つの思い出がある。沼波瓊音《ぬなみけいおん》氏の「乳のぬくみ」を読むと、その中にオボーと云う虫に就いて、作者が幼い頃の思い出が書いてあった。蓮《はす》の実を売る地蔵盆の頃になると、白い綿のような物の着いている小さい羽虫が町を飛ぶのが怖ろしく淋しいものであった。これを捕《とら》える子供らが「オボー三尺|下《さ》ン[#「ン」は小書き]がれよ」という、極めて幽暗な唄を歌ったと記してあった。
 作者もこのオボーの本名を知らないと云っている。わたしも無論知っていない。しかし此の記事を読んでいるうちに、私も何だか悲しくなった。私もこれによく似た思い出がある。それが測らずも此の記事に誘い出されて、幼い昔がそぞろに懐かしくなった。
 名古屋《なごや》の秋風に飛んだ小さい羽虫とほとんど同じような白い虫が東京にもある。瓊音氏も東京で見たと書いてあった。それと同じものであるかどうかは知らないが、私の知っている小さい虫は俗に「大綿《おおわた》」と呼んでいる。その羽虫は裳《もすそ》に白い綿のようなものを着けているので、綿という名をかぶせられたものであろう。江戸時代からそう呼ばれているらしい。秋も老いて、むしろ冬に近い頃から飛んで来る虫で、十一月から十二月頃に最も多い。赤とんぼの影が全く尽きると、入れ替って大綿が飛ぶ。子供らは男も女も声を張りあげて「大綿来い/\飯《まま》食わしょ」と唄った。
 オボーと同じように、これも夕方に多く飛んで来た。殊に陰った日に多かった。時雨を催した冬の日の夕暮れに、白い裳を重そうに垂れた小さい虫は、細かい雪のようにふわふわと迷って来る。飛ぶと云うよりも浮かんでいると云う方が適当かも知れない。彼はどこから何処へ行くともなしに空中に浮かんでいる。子供らがこれを追い捕えるのに、男も女も長い袂《たもと》をあげて打つのが習いであった。
 その頃は男の児も筒袖《つつそで》は極めて少なかった。筒袖を着る者は裏店《うらだな》の子だと卑しまれたので、大抵の男の児は八《や》つ口《くち》の明いた長い袂をもっていた。私も長い袂をあげて白い虫を追った。私の八つ口には赤い切《きれ》が付いていた。
 それでも男の袂は女より短かった。大綿を追う場合にはいつも女の児に勝利を占められた。さりとて棒や箒《ほうき》を持ち出す者もなかった。棒や箒を揮《ふる》うには、相手が余りに小さく、余りに弱々しいためであったろう。
 横町で鮒《ふな》売りの声がきこえる。大通りでは大綿来い/\の唄がきこえる。冬の日は暗く寂しく暮れてゆく。自分が一緒に追っている時はさのみにも思わないが、遠く離れて聞いていると、寒い寂しいような感じが幼い心にも沁《し》み渡った。
 日が暮れかかって大抵の子供はもう皆んな家へ帰ってしまったのに、子守をしている女の児一人はまだ往来にさまよって「大綿来い/\」と寒そうに唄っているなどは、いかにも心細いような悲しいような気分を誘い出すものであった。
 その大綿も次第に絶えた。赤とんぼも昔に較べると非常に減ったが、大綿はほとんど見えなくなったと云ってもよい。二、三年前に靖国神社の裏通りで一度見たことがあったが、そこらにいる子供たちは別に追おうともしていなかった。外套《がいとう》の袖で軽く払うと、白い虫は消えるように地に落ちた。わたしは子供の時の癖が失《う》せなかったのである。[#地付き](明治43・11俳誌「木太刀」、その他)
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島原の夢


「戯場訓蒙図彙《しばいきんもうずい》」や「東都歳事記《とうとさいじき》」や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎《かぶき》の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮《しょせん》は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前からほとんど断えたと云ってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離《わかれ》をつげて、架け橋はまったく断えてしまったらしい。
 おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代が劃《かく》されていた。それは明治の初年から二十七、八年の日清戦争までと、その後の今年までとで、政治経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分かたれていた。
 明治の初期にはいわゆる文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、瓦斯《ガス》燈がひかり、洋服や洋傘傘《こうもりがさ》やトンビが流行しても、詮《せん》ずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道に乗る人、瓦斯燈に照らされる人、洋服を着る人、トンビを着る人、その大多数はやはり江戸時代から食《は》み出して来た人たちである事を記憶しなければならない。わたしは明治になってから初めて此の世の風に吹かれた人間であるが、そういう人たちにはぐくまれ、そういう人たちに教えられて生長した。すなわち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うには聊《いささ》か便りのよい架け橋を渡って来たとも云い得られる。しかし、その遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべき詞《ことば》を知らない。
 しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかに踏《ふ》み渡って来た世界の姿であるならば、たといそれがやはり一場の過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界を明らかに語ることが出来る。老いさらばえた母をみて、おれは曾《かつ》てこの母の乳を飲んだのかと怪しく思うようなことがあっても、その昔の乳の味はやはり忘れ得ないとおなじように、移り変った現在の歌舞伎の世界をみていながらも、わたしはやはり昔の歌舞伎の夢から醒《さ》め得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。
 その夢は、いろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。

 劇場は日本一の新富座《しんとみざ》、グラント将軍が見物したという新富座、はじめて瓦斯燈を用いたという新富座、はじめて夜芝居を興行したという新富座、桟敷《さじき》五人詰|一間《ひとま》の値《あた》い四円五十銭で世間をおどろかした新富座――その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見いだされる。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻《かみよ》りでこしらえた太い鼻緒の草履《ぞうり》をはいている。
 劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占《つじうら》せんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向う側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋も軒には新しい花暖簾《はなのれん》をかけて、さるや[#「さるや」に傍点]とか菊岡《きくおか》とか梅林《ばいりん》とかいう家号を筆太《ふでぶと》にしるした提灯がかけつらねてある。劇場の木戸まえには座主《ざぬし》や俳優《やくしゃ》に贈られたいろいろの幟《のぼり》が文字通りに林立している。その幟のあいだから幾枚の絵看板が見えがくれに仰がれて、木戸の前、茶屋のまえには、幟とおなじ種類の積み物が往来へはみ出すように積みかざられている。
 ここを新富町《しんとみちょう》だの、新富座だのと云うものはない。一般に島原《しまばら》とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
 築地《つきじ》の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青《こんじょう》の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮かべている。河岸《かし》の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣りをしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣《ゆかた》を着て、日よけの頬かむりをして粋《いき》な莨入《たばこい》れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴《あめ》屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨や丹《あか》や藍《あい》で書いた庵《いおり》看板がかけてある。居付きの店で、今川焼を売るものも、稲荷鮓《いなりずし》を売るものも、そこの看板や障子や暖簾には、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細《しさい》に検査したら、そこらをあるいている女のかんざしも扇子も、男の手拭も団扇《うちわ》も、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかも知れない。
 こうして、築地橋から北の大通りにわたるこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、いわゆる芝居町《しばいまち》の空気につつまれている。もちろん電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響をたてて、ここの町の空気をかき乱すものは一切《いっさい》通過しない。たまたま此処《ここ》を過ぎる人力車があっても、それは徐《しず》かに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。その頃の車夫にはなかなか芝居の消息を諳《そら》んじている者もあって、今度の新富チョウは評判がいいとか、猿若マチは景気がよくないとか、車上の客に説明しながら挽《ひ》いてゆくのをしばしば聞いた。
 秋の真昼の日かげはまだ暑いが、少年もその父も帽子をかぶっていない。姉は小さい扇を額《ひたい》にかざしている。かれらは幕のあいだに木戸の外を散歩しているのである。劇場内に運動場を持たないその頃の観客は、窮屈な土間《どま》に行儀好くかしこまっているか、茶屋へ戻って休息するか、往来をあるいているかのほかはないので、天気のよい日にはぞろぞろとつながって往来に出る。帽子をかぶらずに、紙捻りの太い鼻緒の草履をはいているのは、芝居見物の人であることが証明されて、それが彼らの誇りでもあるらしい。少年も芝居へくるたびに必ず買うことに決めているらしい辻占せんべいと八橋《やつはし》との籠《かご》をぶら下げて、きわめて愉快そうに徘徊《はいかい》している。彼らにかぎらず、すべて幕間《まくあい》の遊歩に出ている彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋《きょうばし》区新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、摺《す》れ合い摺れちがって往来のまん中を悠々と散歩しているが、角の交番所を守っている巡査もその交通妨害を咎《とが》めないらしい。土地の人たちも決して彼らを邪魔者とは認めていないらしい。
 やがて舞台の奥で柝《き》の音《ね》がきこえる。それが木戸の外まで冴えてひびき渡ると、遊歩の人々は牧童の笛をきいた小羊の群れのように、皆ぞろぞろと繋《つな》がって帰ってゆく。茶屋の若い者や出方《でかた》のうちでも、如才《じょさい》のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それにうながされて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅の籠を投げ出すように姉に渡して、一番さきに駈け出してゆく。柝の音はつづいて聞えるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とをさえぎる華やかな大きい幕は猶《なお》いつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその柝の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳《おど》らせて正面をみつめている。

 幕があく。「妹背山婦女庭訓《いもせやまおんなていきん》」吉野川《よしのがわ》の場である。岩にせかれて咽《むせ》び落ちる山川を境いにして、上《かみ》の方《かた》の背山にも、下《しも》の方の妹山《いもやま》にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段《ひなだん》が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一緒にさびしくその雛にかしずいている。背山の家には簾《すだれ》がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ文《ぶみ》をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶宇《ちゃう》の袴をつけた美少年が殊勝《しゅしょう》げに経巻《きょうかん》を読誦《どくじゅ》している。高島《たかしま》屋ァとよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川|左団次《さだんじ》の久我之助《こがのすけ》である。
 姫は太宰《だざい》の息女|雛鳥《ひなどり》で、中村|福助《ふくすけ》である。雛鳥が恋びとのすがたを見つけて庭に降りたつと、これには新駒《しんこま》屋ァとよぶ声がしきりに浴びせかけられたが、かれの姫はめずらしくない。左団次が前髪立ちの少年に扮して、しかも水のしたたるように美しいというのが観客の眼を奪ったらしい。少年の父も唸るような吐息を洩らしながら眺めていると、舞台の上の色や形はさまざまの美しい錦絵をひろげてゆく。
 背山の方《かた》は大判司清澄《だいはんじきよずみ》――チョボの太夫の力強い声によび出されて、仮《かり》花道にあらわれたのは織物の※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《かみしも》をきた立派な老人である。これこそほんとうに昔の錦絵から抜け出して来たかと思われるような、いかにも役者らしい彼の顔、いかにも型に嵌《はま》ったような彼の姿、それは中村|芝翫《しかん》である。同時に、本花道からしずかにあゆみ出た切り髪の女は太宰《だざい》の後室《こうしつ》定高《さだか》で、眼の大きい、顔の輪郭のはっきりして、一種の気品をそなえた男まさりの女、それは市川|団十郎《だんじゅうろう》である。大判司に対して、成駒《なりこま》屋ァの声が盛んに湧くと、それを圧倒するように、定高に対して成田《なりた》屋ァ、親玉ァの声が三方からどっと起る。
 大判司と定高は花道で向い合った。ふたりは桜の枝を手に持っている。
「畢竟《ひっきょう》、親の子のと云うは人間の私《わたくし》、ひろき天地より観るときは、おなじ世界に湧いた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはって空うそぶく。
「枝ぶり悪き桜木は、切って接《つ》ぎ木をいたさねば、太宰の家《いえ》が立ちませぬ。」と、定高は凛《りん》とした声で云い放つ。
 観客はみな酔ってしまったらしく、誰ももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。かれは二時間にあまる長い一幕の終るまで身動きもしなかった。

 その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った、かの四人の歌舞伎|俳優《やくしゃ》のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門《うたえもん》だけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。一切の過去は消滅した。
 しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽しみ、ひとり悲しんでいる。かれはおそらく其の一生を終るまで、その夢から醒める時はないのであろう。[#地付き](大正12・11「随筆」)
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昔の小学生より


 十月二十三日、きょうは麹町尋常小学校同窓会の日である。どこの小学校にも同窓会はある。ここにも勿論同窓会を有《ゆう》していたのであるが、何かの事情でしばらく中絶していたのを、震災以後、復興の再築が竣工して、いよいよこの九月から新校舎で授業をはじめることになったので、それを機会に同窓会もまた復興されて、きょうは新しい校内でその第一回を開くことになった。その発起人のうちに私の名も列《つら》なっている。巌谷小波《いわやさざなみ》氏兄弟の名もみえる。そのほかにも軍人、法律家、医師、実業家、種々の階級の人々の名が見いだされた。なにしろ、五十年以上の歴史を有している小学校であるから、それらの発起人以外、種々の方面から老年、中年、青年、少年の人々が参加することであろうと察せられる。
 それにつけて、わたしの小学校時代のむかしが思い出される。わたしは明治五年十月の生まれで、明治十七年の四月に小学を去って、中学に転じたのであるから、わたしの小学校時代は今から四十幾年のむかしである。地方は知らず、東京の小学校が今日のような形を具《そな》えるようになったのは、まず日清戦争以後のことで、その以前、すなわち明治初年の小学校なるものは、建物といい、設備といい、ほとんど今日の少年または青年諸君の想像し得られないような不体裁のものであった。
 ひと口に麹町小学校出身者と云いながら、巌谷小波氏やわたしの如きは実は麹町小学校という学校で教育を受けたのではない。その当時、いわゆる公立の小学校は麹町の元園町に女学校というのがあり、平河町《ひらかわちょう》に平河小学校というのがあって、その附近に住んでいる我々はどちらかの学校へ通学しなければならないのであった。女学校と云っても女の子ばかりではなく、男の生徒をも収容するのであったが、女学校という名が面白くないので、距離はすこし遠かったが私は平河小学校にかよっていた。その二校が後に併合されて、今日の麹町尋常小学校となったのであるから、校舎も又その位置も私たちの通学当時とはまったく変ってしまった。したがって、母校とは云いながら、私たちに取っては縁の薄い方である。
 そのほかに元園町に堀江小学、山元町《やまもとちょう》に中村小学というのがあって、いわゆる代用小学校であるが、その当時は私立小学校と呼ばれていた。この私立の二校は江戸時代の手習指南所《てならいしなんじょ》から明治時代の小学校に変ったものであるから、在来の関係上、商人や職人の子弟は此処《ここ》に通うものが多かった。公立の学校よりも、私立の学校の方が、先生が物柔らかに親切に教えてくれるとかいう噂もあったが、わたしは私立へ行かないで公立へ通わせられた。
 その頃の小学校は尋常と高等とを兼ねたもので、初等科、中等科、高等科の三種にわかれていた。初等科は六級、中等科は六級、高等科は四級で、学年制度でないから、初学の生徒は先ず初等科の第六級に編入され、それから第五級に進み、第四級にすすむという順序で、初等科第一級を終ると中等科第六級に編入される。但《ただ》し高等科は今日の高等小学とおなじようなものであったから、小学校だけで済ませるものは格別、その以上の学校に転じるものは、中等科を終ると共に退学するのが例であった。
 進級試験は一年二回で、春は四月、秋は十月に行なわれた。それを定期試験といい、俗に大試験と呼んでいた。それであるから、級の数はひどく多いが、初等科と中等科をやはり六年間で終了するわけで、そのほかに毎月一回の小試験があった。小試験の成績に因って、その都度に席順が変るのであるが、それは其の月限りのもので、定期試験にはなんの影響もなく、優等賞も及第も落第もすべて定期試験の点数だけによって定まるのであった。免状授与式の日は勿論であるが、定期試験の当日も盛装して出るのが習いで、わたしなども一張羅《いっちょうら》の紋付の羽織を着て、よそ行きの袴をはいて行った。それは試験というものを一種の神聖なるものと認めていたらしい。女の子はその朝に髪を結い、男の子もその前日あるいは二、三日前に髪を刈った。校長や先生は勿論、小使《こづかい》に至るまでも髪を刈り、髭《ひげ》を剃《そ》って、試験中は服装を改《あらた》めていた。
 授業時間や冬季夏季の休暇は、今日《こんにち》と大差はなかった。授業の時間割も先ず一定していたが、その教授の仕方は受持教師の思い思いと云った風で、習字の好きな教師は習字の時間を多くし、読書の好きな教師は読書の時間を多くすると云うような傾きもあった。教え方は大体に厳重で、怠ける生徒や不成績の生徒はあたまから叱り付けられた。時には竹の教鞭《きょうべん》で背中を引っぱたかれた。癇癪《かんしゃく》持ちの教師は平手で横っ面をぴしゃり[#「ぴしゃり」に傍点]と食らわすのもあった。わたしなども授業中に隣席の生徒とおしゃべりをして、教鞭の刑をうけたことも再三あった。
 今日ならば、生徒|虐待《ぎゃくたい》とか云って忽《たちま》ちに問題をひき起すのであろうが、寺子屋の遺風の去らない其の当時にあっては、師匠が弟子を仕込む上に於《お》いて、そのくらいの仕置きを加えるのは当然であると見なされていたので、別に怪しむものも無かった。勿論、怖い先生もあり、優しい先生もあったのであるが、そういうわけであるから怖い先生は生徒間に甚《はなは》だ恐れられた。
 生徒に加える刑罰は、叱ったり殴ったりするばかりでなかった。授業中に騒いだり悪戯《いたずら》をしたりする者は、席から引き出して教壇のうしろに立たされた。さすがに線香を持たせたり水を持たせたりはしなかったが、寺子屋の芝居に見る涎《よだれ》くりを其の儘の姿であった。更に手重いのになると、教授用の大きい算露盤《そろばん》を背負わせて、教師が附き添って各級の教場を一巡し、この子はかくかくの不都合を働いたものであると触れてあるくのである。所詮《しょせん》はむかしの引廻しの格で、他に対する一種の見せしめであろうが、ずいぶん思い切って残酷な刑罰を加えたものである。
 もっとも、今とむかしとを比べると、今日の児童は皆おとなしい。私たちの眼から観ると、おとなしいのを通り越して弱々しいと思われるようなのが多い。それに反して、むかしの児童はみな頑強で乱暴である。また、その中でも所謂《いわゆる》いたずらッ児というものになると、どうにもこうにも手に負えないのがある。父兄が叱ろうが、教師が説諭しようが、なんの利き目もないという持て余し者がずいぶん見いだされた。
 学校でも始末に困って退学を命じると、父兄が泣いてあやまって来るから、再び通学を許すことにする。しかも本人は一向平気で、授業中に騒ぐのは勿論、運動時間にはさんざんに暴れまわって、椅子をぶち毀す、窓硝子を割る、他の生徒を泣かせる、甚だしいのは運動場から石や瓦を投げ出して往来の人を脅《おど》すというのであるから、とても尋常一様の懲戒法では彼らを矯正する見込みはない。したがって、教師の側でも非常手段として、引廻し其の他の厳刑を案出したのかも知れない。
 教師はみな羽織袴または洋服であったが、生徒の服装はまちまちであった。勿論、制帽などは無かったから、思い思いの帽子をかぶったのであるが、帽子をかぶらない生徒が七割であって、大抵は炎天にも頭を晒《さら》してあるいていた。袴をはいている者も少なかった。商家の子どもは前垂れをかけているのもあった。その当時の風習として、筒袖をきるのは裏店《うらだな》の子に限っていたので、男の子も女の子とおなじように、八つ口のあいた袂をつけていて、その袂は女の子に比べてやや短いぐらいの程度であったから、ふざけるたびに袂をつかまれるので、八つ口からほころびる事がしばしばあるので困った。これは今日の筒袖の方が軽快で便利である。屋敷の子は兵児帯《へこおび》をしめていたが、商家の子は大抵|角帯《かくおび》をしめていた。
 靴は勿論すくない、みな草履であったが、強い雨や雪の日には、尻を端折《はしょ》り、あるいは袴の股立《ももだ》ちを取って、はだしで通学する者も随分あった。学校でもそれを咎《とが》めなかった。
 運動場はどこの小学校も狭かった。教室の建物がすでに狭く、それに準じて運動場も狭かった。平河小学校などは比較的に広い方であったが、往来に面したところに低い堤《どて》を作って、大きい樫《かし》の木を栽えつらねてあるだけで、ほかにはなんらの設備もなかった。片隅にブランコが二つ設けてあったが、いっこうに地ならしがしてないので、雨あがりなどには其処《そこ》らは一面の水溜りになってしまって、ブランコの傍《そば》などへはとても寄り付くことは出来なかった。勿論、アスファルトや砂利が敷いてあるでもないから、雨あがりばかりでなく、冬は雪どけや霜どけで路《みち》が悪い。そこで転んだり起《た》ったりするのであるから、着物や袴は毎日泥だらけになるので、わたしなどは家で着る物と学校へ着てゆく物とが区別されていて、学校から帰るとすぐに着物を着かえさせられた。
 運動時間は一時間ごとに十分間、午《ひる》の食後に三十分間であったが、別に一定の遊戯というものも無いから、男の子は縄飛び、相撲、鬼ごっこ、軍《いくさ》ごっこなどをする。女の子も鬼ごっこをするか、鞠《まり》をついたりする。男の子のあそびには相撲が最も行なわれた。そのころの小学校では体操を教えなかったから、生徒の運動といえば唯むやみに暴《あば》れるだけであった。したがって今日のようなおとなしい子供も出来なかったわけであろう。その頃には唱歌も教えなかった。運動会や遠足会もなかった。
 もし運動会に似たようなものを求むれば、土曜日の午後や日曜日に大勢《おおぜい》が隊を組んで、他の学校へ喧嘩《けんか》にゆくことである。相手の学校でも隊を組んで出て来る。その頃は所々に屋敷あとの広い草原などがあったから、そこで石を投げ合ったり、棒切れで叩き合ったりする。中には自分の家から親父《おやじ》の脇差《わきざし》を持ち出して来るような乱暴者もあった。時には往来なかで闘う事もあったが、巡査も別に咎めなかった。学校では喧嘩をしてはならぬと云うことになっていたが、それも表向きだけのことで、若い教師のうちには他の学校に負けるなと云って、内々で種々の軍略を授けてくれるのもあった。それらの事をかんがえると、くどくも云うようであるが、今日の子供たちは実におとなしい。
 その当時は別に保護者会とか父兄会とかいうものも無かったが、むかしの寺子屋の遺風が存していたとみえて、教師と父兄との関係はすこぶる親密であった。父兄や姉も学校に教師をたずねて、子弟のことをいろいろ頼むことがある。教師も学校の帰途に生徒の家をたずねて、父兄にいろいろの注意をあたえることもある。したがって、学校と家庭の連絡は案外によく結び付けられているようであった。その代りに、学校で悪いことをすると、すぐに家へ知れるので、私たちは困った。[#地付き](昭和2・10「時事新報」)
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三崎町の原


 十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田《かんだ》の三崎町《みさきちょう》まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥の方へは震災以後一度も踏み込んだことがなかったので、久し振りでぶらぶらあるいてみると、震災以前もここらは随分混雑しているところであったが、その以後は更に混雑して来た。区画整理が成就した暁には、町の形が又もや変ることであろう。
 市内も開ける、郊外も開ける。その変化に今更おどろくのは甚だ迂闊《うかつ》であるが、わたしは今、三崎町三丁目の混雑の巷《ちまた》に立って、自動車やトラックに脅《おびや》かされてうろうろ[#「うろうろ」に傍点]しながら、周囲の情景のあまりに変化したのに驚かされずにはいられなかった。いわゆる隔世《かくせい》の感というのは、全くこの時の心持であった。
 三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高い堤《どて》で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には首縊《くびくく》りの松などという忌《いや》な名の付いていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人を咬《か》んだ。追剥《おいは》ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町《ふじみちょう》の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊に絞め殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
 わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、すなわち私が十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつはほとんど欠かさずに、この練兵場を通り抜けなければならなかった。その当時はもう練兵をやめてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱の方でも直ぐにはそれを開こうともしないで、唯そのままの草原にして置いたので、普通にそれを三崎町の原と呼んでいた。わたしが毎月一度ずつ必ずその原を通り抜けたのは、本郷《ほんごう》の春木座《はるきざ》へゆくためであった。
 春木座は今日《こんにち》の本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊《とりくま》という男が、大阪から中通《ちゅうどお》りの腕達者な俳優一座を連れて来て、値安興行をはじめた。土間は全部開放して大入り場として、入場料は六銭というのである。しかも半札《はんふだ》を呉れるので、来月はその半札に三銭を添えて出せばいいのであるから、要するに金九銭を以って二度の芝居が観られるというわけである。ともかくも春木座はいわゆる檜《ひのき》舞台の大劇場であるのに、それが二回九銭で見物できるというのであるから、確かに廉《やす》いに相違ない。それが大評判となって、毎月爪も立たないような大入りを占めた。
 芝居狂の一少年がそれを見逃す筈がない。わたしは月初めの日曜毎に春木座へ通うことを怠《おこた》らなかったのである。ただ、困ることは開場が午前七時というのである。なにしろ非常の大入りである上に、日曜日などは殊に混雑するので、午前四時か遅くも五時頃までには劇場の前にゆき着いて、その開場を待っていなければならない。麹町の元園町から徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時頃から家を出てゆく覚悟でなければならない。わたしは午前二時頃に起きて、ゆうべの残りの冷飯を食って、腰弁当をたずさえて、小倉の袴の股立ちを取って、朴歯《ほおば》の下駄をはいて、本郷までゆく途中、どうしても、かの三崎町の原を通り抜けなければならない事になる。勿諭、須田町《すだちょう》の方から廻ってゆく道がないでもないが、それでは非常の迂廻《うかい》であるから、どうしても九段下《くだんした》から三崎町の原をよぎって水道橋へ出ることになる。
 その原は前にいう通りの次第であるから、午前四時五時の頃に人通りなどのあろう筈はない。そこは真っ暗な草原で、野犬の巣窟《そうくつ》、追剥ぎの稼ぎ場である。闇の奥で犬の声がきこえる。狐の声もきこえる。雨のふる時には容赦なく吹っかける。冬のあけ方には霜を吹く風が氷のように冷たい。その原をようように行き抜けて水道橋へ出ても、お茶の水の堤ぎわはやはり真っ暗で、人通りはない。幾らの小遣い銭を持っているでもないから、追剥ぎはさのみに恐れなかったが、犬に吠え付かれるには困った。あるときには五、六匹の大きい犬に取りまかれて、実に弱り切ったことがあった。そういう難儀も廉価の芝居見物には代えられないので、わたしは約四年間を根《こん》よく通いつづけた。その頃の大劇場は、一年に五、六回か三、四回しか開場しないのに、春木座だけは毎月必ず開場したので、わたしは四年間にずいぶん数多くの芝居を見物することが出来た。
 三崎町三丁目は明治二十二、三年頃からだんだんに開けて来たが、それでも、かの小僧殺しのような事件は絶えなかった。二十四年六月には三崎座《みさきざ》が出来た。殊に二十五年一月の神田の大火以来、俄《にわ》かにここらが繁昌して、またたくうちに立派な町になってしまったのである。その当時は、むかしの草原を知っている人もあったろうが、それから三十幾年を経過した今日では、現在その土地に住んでいる人たちでも、昔の草原の茫漠《ぼうばく》たる光景をよく知っている者は少ないかも知れない。武蔵野《むさしの》の原に大江戸の町が開かれたことを思えば、このくらいの変遷は何でも無いことかも知れないが、目前《もくぜん》にその変遷をよく知っている私たちに取っては、一種の感慨がないでもない。殊にわたしなどは、かの春木座がよいの思い出があるので、その感慨がいっそう深い。あの当時、ここらがこんなに開けていたらば、わたしはどんなに楽であったか。まして電車などがあったらば、どんなに助かったか。
 暗い原中をたどってゆく少年の姿――それがまぼろしのようにわたしの眼に浮かんだ。[#地付き](昭和2・1「不同調」)
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御堀端三題


     一 柳のかげ

 海に山に、涼風に浴した思い出もいろいろあるが、最も忘れ得ないのは少年時代の思い出である。今日《こんにち》の人はもちろん知るまいが、麹町の桜田門《さくらだもん》外、地方裁判所の横手、のちに府立第一中学の正門前になった所に、五、六株の大きい柳が繁っていた。
 堀端《ほりばた》の柳は半蔵門《はんぞうもん》から日比谷《ひびや》まで続いているが、此処《ここ》の柳はその反対の側に立っているのである。どういう訳でこれだけの柳が路ばたに取り残されていたのか知らないが、往来のまん中よりもやや南寄りに青い蔭を作っていた。その当時の堀端はすこぶる狭く、路幅はほとんど今日の三分の一にも過ぎなかったであろう。その狭い往来に五、六株の大樹が繁っているのであるから、邪魔といえば邪魔であるが、電車も自動車もない時代にはさのみの邪魔とも思われないばかりか、長い堀端を徒歩する人々にとっては、その地帯が一種のオアシスとなっていたのである。
 冬はともあれ、夏の日盛りになると、往来の人々はこの柳のかげに立ち寄って、大抵はひと休みをする。片肌ぬいで汗を拭いている男もある。蝙蝠傘《こうもりがさ》を杖《つえ》にして小さい扇を使っている女もある。それらの人々を当て込みに甘酒屋が荷をおろしている。小さい氷屋の車屋台《くるまやたい》が出ている。今日ではまったく見られない堀端の一風景であった。
 それにつづく日比谷公園は長州《ちょうしゅう》屋敷の跡で、俗に長州ヶ原と呼ばれ、一面の広い草原となって取り残されていた。三宅坂《みやけざか》の方面から参謀本部の下に沿って流れ落ちる大溝《おおどぶ》は、裁判所の横手から長州ヶ原の外部に続いていて、むかしは河獺《かわうそ》が出るとか云われたそうであるが、その古い溝の石垣のあいだから鰻《うなぎ》が釣れるので、うなぎ屋の印半纏を着た男が小さい岡持《おかもち》をたずさえて穴釣りをしているのをしばしば見受けた。その穴釣りの鰻屋も、この柳のかげに寄って来て甘酒などを飲んでいることもあった。岡持にはかなり大きい鰻が四、五本ぐらい蜿《のた》くっているのを、私は見た。
 そのほかには一種の軽子《かるこ》、いわゆる立ちン[#「ン」は小書き]坊も四、五人ぐらいは常に集まっていた。下町から麹町四谷方面の山の手へ登るには、ここらから道路が爪先あがりになる。殊に眼の前には三宅坂がある。この坂も今よりは嶮《けわ》しかった。そこで、下町から重い荷車を挽《ひ》いて来た者は、ここから後押《あとお》しを頼むことになる。立ちン[#「ン」は小書き]坊はその後押しを目あてに稼ぎに出ているのであるが、距離の遠近によって二銭三銭、あるいは四銭五銭、それを一日に数回も往復するので、その当時の彼らとしては優に生活が出来たらしい。その立ちン[#「ン」は小書き]坊もここで氷水を飲み、あま酒を飲んでいた。
 立ちン[#「ン」は小書き]坊といっても、毎日おなじ顔が出ているのである。直ぐ傍《わき》には桜田門外の派出所もある。したがって、彼らは他の人々に対して、無作法や不穏の言動を試みることはない。ここに休んでいる人々を相手に、いつも愉快に談笑しているのである。私もこの立ちン[#「ン」は小書き]坊君を相手にして、しばしば語ったことがある。
 私が最も多くこの柳の蔭に休息して、堀端の涼風の恩恵にあずかったのは、明治二十年から二十二年の頃、すなわち私の十六歳から十八歳に至る頃であった。その当時、府立の一中は築地の河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この堀端を往来しなければならなかった。朝は登校を急ぐのと、まだそれ程に暑くもないので、この柳を横眼に見るだけで通り過ぎたが、帰り道は午後の日盛りになるので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附《すきやばしみつけ》をはいって有楽町《ゆうらくちょう》を通り抜けて来ると、ここらが丁度休み場所である。
 日蔭のない堀端の一本道を通って、例のうなぎ釣りなぞを覗《のぞ》きながら、この柳の下にたどり着くと、そこにはいつでも三、四人、多い時には七、八人が休んでいる。立ちン[#「ン」は小書き]坊もまじっている。氷水も甘酒も一杯八|厘《りん》、その一杯が実に甘露の味であった。
 長い往来は強い日に白く光っている。堀端の柳には蝉《せみ》の声がきこえる。重い革包《カバン》を柳の下枝にかけて、帽子をぬいで、洋服のボタンをはずして、額の汗をふきながら一杯八厘の甘露をすすっている時、どこから吹いて来るのか知らないが、一陣の涼風が青い影をゆるがして颯《さっ》と通る。まったく文字通りに、涼味骨に透るのであった。
「涼しいなあ。」と、私たちは思わず声をあげて喜んだ。時には跳《おど》りあがって喜んで、周囲の人々に笑われた。私たちばかりでなく、この柳のかげに立ち寄って、この涼風に救われた人々は、毎日何十人、あるいは何百人の多きにのぼったであろう。幾人の立ちン[#「ン」は小書き]坊もここを稼ぎ場とし、氷屋も甘酒屋もここで一日の生計を立てていたのである。いかに鬱蒼《うっそう》というべき大樹であっても、わずかに五株か六株の柳の蔭がこれほどの功徳《くどく》を施していようとは、交通機関の発達した現代の東京人には思いも及ばぬことであるに相違ない。その昔の江戸時代には、ほかにもこういうオアシスがたくさん見いだされたのであろう。
 少年時代を通り過ぎて、わたしは銀座《ぎんざ》辺の新聞社に勤めるようになっても、やはり此の堀端を毎日往復した。しかも日が暮れてから帰宅するので、この柳のかげに休息して涼風に浴するの機会がなく、年ごとに繁ってゆく青い蔭をながめて、昔年《せきねん》の涼味を偲《しの》ぶに過ぎなかったが、わが国に帝国議会というものが初めて開かれても、ここの柳は伐られなかった。日清戦争が始まっても、ここの柳は伐られなかった。人は昔と違っているであろうが、氷屋や甘酒屋の店も依然として出ていた。立ちン[#「ン」は小書き]坊も立っていた。
 その懐かしい少年時代の夢を破る時が遂に来たった。かの長州ヶ原がいよいよ日比谷公園と改名する時代が近づいて、まず其の周囲の整理が行なわれることになった。鰻の釣れる溝《どぶ》の石垣が先ず破壊された。つづいてかの柳の大樹が次から次へと伐り倒された。それは明治三十四年の秋である。涼しい風が薄寒い秋風に変って、ここの柳の葉もそろそろ散り始める頃、むざんの斧《おの》や鋸《のこ》がこの古木に祟《たた》って、浄瑠璃《じょうるり》に聞き慣れている「丗三間堂棟由来《さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい》」の悲劇をここに演出した。立ちン[#「ン」は小書き]坊もどこへか巣を換えた。氷屋も甘酒屋も影をかくした。
 それから三年目の夏に日比谷公園は開かれた。その冬には半蔵門から数寄屋橋に至る市内電車が開通して、ここらの光景は一変した。その後幾たびの変遷を経て、今日は昔に三倍するの大道となった。街路樹も見ごとに植えられた。昔の涼風は今もその街路樹の梢におとずれているのであろうが、私に涼味を思い起させるのは、やはり昔の柳の風である。[#地付き](昭和12・8「文藝春秋」)

     二 怪談

 お堀端の夜歩きについて、ここに一種の怪談をかく。但し本当の怪談ではないらしい。いや、本当でないに決まっている。
 わたしが二十歳《はたち》の九月はじめである。夜の九時ごろに銀座から麹町の自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷にも昔の見附《みつけ》の跡があって、今日の公園は一面の草原であった。電車などはもちろん往来していない時代であるから、このあたりに灯の影の見えるのは桜田門外の派出所だけで、他は真っ暗である。夜に入っては往来も少ない。ときどきに人力車の提灯が人魂《ひとだま》のように飛んで行くくらいである。
 しかも其の時は二百十日前後の天候不穏、風まじりの細雨《こさめ》の飛ぶ暗い夜であるから、午後七、八時を過ぎるとほとんど人通りがない。わたしは重い雨傘をかたむけて、有楽町から日比谷見附を過ぎて堀端へ来かかると、俄《にわ》かにうしろから足音が聞えた。足駄《あしだ》の音ではなく、草履《ぞうり》か草鞋《わらじ》であるらしい。その頃は草鞋もめずらしくないので、わたしも別に気に留めなかったが、それが余りに私のうしろに接近して来るので、わたしは何ごころなく振り返ると、直ぐうしろから一人の女があるいて来る。
 傘を傾けているので、女の顔は見えないが、白地に桔梗《ききょう》を染め出した中形《ちゅうがた》の単衣《ひとえもの》を着ているのが暗いなかにもはっきりと見えたので、私は実にぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。右にも左にも灯のひかりの無い堀端で、女の着物の染め模様などが判ろう筈がない。幽霊か妖怪か、いずれ唯者《ただもの》ではあるまいと私は思った。暗い中で姿の見えるものは妖怪であるという古来の伝説が、わたしを強くおびやかしたのである。
 まさかにきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫んで逃げる程でもなかったが、わたしは再び振り返る勇気もなく、ただ真っ直ぐに足を早めてゆくと、女もわたしを追うように付いて来る。女の癖になかなか足がはやい。そうなると、私はいよいよ気味が悪くなった。江戸時代には三宅坂下の堀に河獺《かわうそ》が棲んでいて、往来の人を嚇《おど》したなどという伝説がある。そんなことも今更に思い出されて、わたしはひどく臆病になった。
 この場合、唯一《ゆいいつ》の救いは桜田門外の派出所である。そこまで行き着けば灯の光があるから、私のあとを付けて来る怪しい女の正体も、ありありと照らし出されるに相違ない。私はいよいよ急いで派出所の前までたどり着いた。ここで大胆に再び振り返ると、女の顔は傘にかくされてやはり見えないが、その着物は確かに白地で、桔梗の中形にも見誤まりはなかった。彼女は痩形《やせがた》の若い女であるらしかった。
 正体は見届けたが、不安はまだ消えない。私は黙って歩き出すと、女はやはり付いて来た。わたしは気味の悪い道連れ(?)をうしろに背負いながら、とうとう三宅坂下までたどり着いたが、女は河獺にもならなかった。坂上の道はふた筋に分かれて、隼町《はやぶさちょう》の大通りと半蔵門方面とに通じている。今夜の私は、灯の多い隼町の方角へ、女は半蔵門の方角へ、ここで初めて分かれわかれになった。
 まずほっ[#「ほっ」に傍点]として歩きながら、さらに考え直すと、女は何者か知れないが、暗い夜道のひとり歩きがさびしいので、おそらく私のあとに付いて来たのであろう。足の早いのが少し不思議だが、私にはぐれまいとして、若い女が一生懸命に急いで来たのであろう。さらに不思議なのは、彼女は雨の夜に足駄を穿かないで、素足に竹の皮の草履をはいていた事である。しかも着物の裾《すそ》をも引き揚げないで、湿《ぬ》れるがままにびちゃびちゃと歩いていた。誰かと喧嘩して、台所からでも飛び出して来たのかも知れない。
 もう一つの問題は、女の着物が暗い中ではっきりと見えたことであるが、これは私の眼のせいかも知れない。幻覚や錯覚と違って、本当の姿がそのままに見えたのであるから、私の頭が怪しいという理窟になる。わたしは女を怪しむよりも、自分を怪しまなければならない事になった。
 それを友達に話すと、若は精神病者になるなぞと嚇《おど》された。しかもそんな例はあとにも先にもただ一度で、爾来《じらい》四十余年、幸いに蘆原《あしわら》将軍の部下にも編入されずにいる。[#地付き](昭和11・8「モダン日本」)

     三 三宅坂

 次は怪談ではなく、一種の遭難談である。読者には余り面白くないかも知れない。
 話はかなりに遠い昔、明治三十年五月一日、わたしが二十六歳の初夏の出来事である。その日の午前九時ごろ、わたしは人力車に乗って、半蔵門外の堀端を通った。去年の秋、京橋に住む知人の家に男の児が生まれて、この五月は初《はつ》の節句であると云うので、私は祝い物の人形をとどけに行くのであった。わたしは金太郎の人形と飾り馬との二箱を風呂敷につつんで抱えていた。
 わたしの車の前を一台の車が走って行く。それには陸軍の軍医が乗っていた。今日《こんにち》の人はあまり気の付かないことであるが、人力車の多い時代には、客を乗せた車夫がとかくに自分の前をゆく車のあとに付いて走る習慣があった。前の車のあとに付いてゆけば、前方の危険を避ける心配が無いからである。しかもそれがために、却って危険を招く虞《おそ》れがある。わたしの車なども其の一例であった。
 前は軍医、あとは私、二台の車が前後して走るうちに、三宅坂上の陸軍|衛戍《えいじゅ》病院の前に来かかった時、前の車夫は突然に梶棒《かじぼう》を右へ向けた。軍医は病院の門に入るのである。今日と違って、その当時の衛戍病院の入口は、往来よりも少しく高い所にあって、さしたる勾配《こうばい》でもないが一種の坂路をなしていた。
 その坂路にかかって、車夫が梶棒を急転した為に、車はずるり[#「ずるり」に傍点]と後戻りをして、そのあとに付いて来た私の車の右側に衝突すると、はずみは怖ろしいもので、双方の車はたちまち顛覆《てんぷく》した。軍医殿も私も路上に投げ出された。
 ぞっ[#「ぞっ」に傍点]としたのは、その一刹那である。単に投げ出されただけならば、まだしも災難が軽いのであるが、私の車のまたあとから外国人を乗せた二頭立ての馬車が走って来たのである。軍医殿は幸いに反対の方へ落ちたが、私は路上に落ちると共に、その馬車が乗りかかって来た。私ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。それを見た往来の人たちも思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。私のからだは完全に馬車の下敷きになったのである。
 馬車に乗っていたのは若い外国婦人で、これも帛《きぬ》を裂くような声をあげた。私を轢《ひ》いたと思ったからである。私も無論に轢かれるものと覚悟した。馬車の馬丁《ばてい》もあわてて手綱をひき留めようとしたが、走りつづけて来た二頭の馬は急に止まることが出来ないで、私の上をズルズルと通り過ぎてしまった。馬車がようよう止まると、馬丁は馭者《ぎょしゃ》台から飛び降りて来た。外国婦人も降りて来た。私たちの車夫も駈け寄った。往来の人もあつまって来た。
 誰の考えにも、私は轢かれたと思ったのであろう。しかも天佑というのか、好運というのか、私は無事に起き上がったので、人々はまたおどろいた。私は馬にも踏まれず、車輪にも触れず、身には微傷だも負わなかったのである。その仔細は、私のからだが縦《たて》に倒れたからで、もし横に倒れたならば、首か胸か足かを車輪に轢かれたに相違なかった。私が縦に倒れた上を馬車が真っ直ぐに通過したのみならず、馬の蹄《ひづめ》も私を踏まずに飛び越えたので、何事も無しに済んだのである。奇蹟的という程ではないかも知れないが、私は我れながら不思議に感じた。他の人々も、「運が好かったなあ。」と口々に云った。
 この当時のことを追想すると、私は今でもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とする。このごろの新聞紙上で交通事故の多いのを知るごとに、私は三十数年前の出来事を想いおこさずにはいられない。シナにこんな話がある。大勢の集まったところで虎の話が始まると、その中の一人がひどく顔の色を変えた。聞いてみると、その人はかつて虎に出逢って危うくも逃れた経験を有していたのである。私も馬車に轢かれそうになった経験があるので、交通事故には人一倍のショックを感じられてならない。
 そのとき私のからだは無事であったが、抱えていた五月人形の箱は無論投げ出されて、金太郎も飾り馬もメチャメチャに毀れた。よんどころなく銀座へ行って、再び同じような物を買って持参したが、先方へ行っては途中の出来事を話さなかった。初の節句の祝い物が途中で毀れたなどと云っては、先方の人たちが心持を悪くするかも知れないと思ったからである。その男の児は成人に到らずして死んだ。[#地付き](昭和10・8「文藝春秋」)
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銀座


 わたしは明治二十五年から二十八年まで満三年間、正しく云えば京橋区|三十間堀《さんじっけんぼり》一丁目三番地、俗にいえば銀座の東仲《ひがしなか》通りに住んでいたので、その当時の銀座の事ならば先ずひと通りは心得ている。すなわち今から四十余年前の銀座である。その記憶を一々ならべ立ててもいられないから、ここでは歳末年始の風景その他を語ることにする。
 由来、銀座の大通りに夜店の出るのは、夏の七月、八月、冬の十二月、この三ヵ月に限られていて、その以外の月には夜店を出さないのが其の当時の習わしであったから、初秋の夜風が氷屋の暖簾《のれん》に訪ずれる頃になると、さすがの大通りも宵から寂寥《せきりょう》、勿論そぞろ歩きの人影は見えず、所用ある人々が足早に通りすぎるに過ぎない。商店は電燈をつけてはいたが、今から思えば夜と昼との相違で、名物の柳の木蔭などは薄暗かった。裏通りはほとんどみな住宅で、どこの家でもランプを用いていたから、往来はいっそう暗かった。
 その薄暗い銀座も十二月に入ると、急に明るくなる。大通りの東側は勿論、西側にも露店がいっぱいに列ぶこと、今日の歳末と同様である。尾張町《おわりちょう》の角や、京橋の際《きわ》には、歳《とし》の市《いち》商人の小屋も掛けられ、その他の角々にも紙鳶《たこ》や羽子板などを売る店も出た。この一ヵ月間は実に繁昌で、いわゆる押すな押すなの混雑である。二十日《はつか》過ぎからはいよいよ混雑で、二十七、八日ごろからは、夜の十時、十一時ごろまで露店の灯が消えない。大晦日《おおみそか》は十二時過ぎるまで賑わっていた。
 但しその賑わいは大晦日かぎりで、一夜明ければ元の寂寥にかえる。さすがに新年早々はどこの店でも門松《かどまつ》を立て、国旗をかかげ、回礼者の往来もしげく、鉄道馬車は満員の客を乗せて走る。いかにも春の銀座らしい風景ではあるが、その銀座の歩道で、追い羽根をしている娘たちがある。小さい紙鳶をあげている子供がある。それを咎める者もなく、さのみ往来の妨害にもならなかったのを考えると、新年の混雑も今日とは全然比較にならない事がよく判るであろう。大通りでさえ其の通りであるから、裏通りや河岸通りは追い羽根と紙鳶の遊び場所で、そのあいだを万歳《まんざい》や獅子舞がしばしば通る。その当時の銀座界隈には、まだ江戸の春のおもかげが残っていた。
 新年の賑わいは昼間だけのことで、日が暮れると寂しくなる。露店も元日以後は一軒も出ない。商店も早く戸を閉める。年始帰りの酔っ払いがふらふら迷い歩いている位のもので、午後七、八時を過ぎると、大通りは暗い街《まち》になって、その暗いなかに鉄道馬車の音がひびくだけである。
 今日と違って、その頃は年賀郵便などと云うものもなく、大抵は正直に年始まわりに出歩いたのであるから、正月も十日過ぎまでは大通りに回礼者の影を絶たず、昼は毎日賑わっていたが、日が暮れると前に云った通りの寂寥、露店も出なければ散歩の人も出ず、寒い夜風のなかに暗い町の灯が沈んで見える。今日では郊外の新開地へ行っても、こんなに暗い寂しい新年の宵の風景は見いだされまい。東京の繁華の中心という銀座通りが此の始末であるから、他は察すべしである。
 その頃、銀座通りの飲食店といえば、東側に松田という料理屋がある。それを筆頭として天ぷら屋の大新、同じく天虎、藪蕎麦《やぶそば》、牛肉屋の古川、鳥屋の大黒屋ぐらいに過ぎず、西側では料理屋の千歳、そば屋の福寿庵、横町へはいって例の天金、西洋料埋の清新軒。まずザッとこんなものであるから、今日のカフェーのように遊び半分にはいるという店は皆無で、まじめに飲むか食うかのほかはない。吉川のおますさんという娘が評判で、それが幾らか若い客を呼んだという位のことで、他に色っぽい噂はなかった。したがって、どこの飲食店も春は多少賑わうと云う以外に、春らしい気分も漂っていなかった。こう云うと、甚だ荒涼寂寥たるものであるが、飲食店の姐《ねえ》さん達も春は小綺麗な着物に新しい襷《たすき》でも掛けている。それを眺めて、その当時の人々は春だと思っていたのである。
 その正月も過ぎ、二月も過ぎ、三月も過ぎ、大通りの柳は日ましに青くなって、世間は四月の春になっても、銀座の町の灯は依然として生暖かい靄の底に沈んでいるばかりで、夜はそぞろ歩きの人もない。ただ賑わうのは毎月三回、出世地蔵の縁日の宵だけであるが、それとても交通不便の時代、遠方から来る人もなく、往来のまん中で犬ころが遊んでいた。
 今日の銀座が突然ダーク・チェンジになって、四十余年前の銀座を現出したら、銀ブラ党は定めて驚くことであろう。[#地付き](昭和11・1「文藝春秋」)
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夏季雑題


     市中の夏

 市中に生まれて市中に暮らして来た私たちは、繁華熱鬧《はんかねつとう》のあいだにもおのずからなる涼味を見いだすことに多年馴らされている。したがって、盛夏の市中生活も遠い山村水郷は勿論、近い郊外に住んでいる人々が想像するほどに苦しいものではないのである。
 地方の都市は知らず、東京の市中では朝早くから朝顔《あさがお》売りや草花売りが来る。郊外にも売りに来るが、朝顔売りなどはやはり市中のもので、ほとんど一坪の庭をも持たないような家つづきの狭い町々を背景として、かれらが売り物とする幾鉢かの白や紅やむらさきの花の色が初めてあざやかに浮き出して来るのである。郊外の朝顔売りは絵にならない。夏のあかつきの薄い靄《もや》がようやく剥《は》げて、一町内の家々が大戸《おおど》をあける。店を飾り付ける。水をまく。そうして、きょう一日の活動に取りかかろうとする時、かの朝顔売りや草花売りが早くも車いっぱいの花を運んで来る。花も葉もまだ朝の露が乾かない。それを見て一味《いちみ》の涼を感じないであろうか。
 売りに来るものもあれば、無論、買う者もある。買われたひと鉢あるいはふた鉢は、店の主人または娘などに手入れをされて、それから幾日、長ければひと月ふた月のあいだも彼らの店先を飾って、朝夕の涼味を漂わしている。近ごろは店の前の街路樹を利用して、この周囲に小さい花壇を作って、そこに白粉《おしろい》や朝鮮朝顔や鳳仙花《ほうせんか》のたぐいを栽えているのもある。
 釣荵《つりしのぶ》は風流に似て俗であるが、東京の夏の景物として詩趣と画趣と涼味とを多分に併せ持っているのは、かの虎耳草《ゆきのした》であることを記憶しなければならない。村園にあれば勿論、たとい市中にあってもそれが人家の庭園に叢生《そうせい》する場合には、格別の値いあるものとして観賞されないらしいが、ひとたび鮑《あわび》の貝に養われて人家の軒にかけられた時、俄かに風趣を添うること幾層倍である。鮑の貝と虎耳草、富貴の家にはほとんど縁のないもので、いわゆる裏店《うらだな》に於いてのみそれを見るようであるが、その裏長屋の古い軒先に吊るされて、苔《こけ》の生えそうな古い鮑の貝から長い蔓は垂れ、白い花はこぼれかかっているのを仰ぎ視れば、誰でも涼しいという心持を誘い出されるに相違ない。周囲が穢《きた》なければ穢ないほど、花の涼しげなのがいよいよ眼立ってみえる。いつの頃に誰がかんがえ出したのか知らないが、おそらく遠い江戸の昔、うら長屋の奥にも無名の詩人が住んでいて、かかる風流を諸人に教え伝えたのであろう。
 虫の声、それを村園や郊外の庭に聴く時、たしかに幽寂《ゆうじゃく》の感をひくが、それが一つならず、二つならず、無数の秋虫一度にみだれ咽《むせ》んで、いわゆる「虫声満[#レ]地」とか「虫声如[#レ]雨」とかいう境《きょう》に至ると、身にしみるような涼しさは掻き消されてしまう憾みがある。むしろ白日炎天に汗をふきながら下町の横町を通った時、どこかの窓の虫籠できりぎりすの声がひと声、ふた声、土用《どよう》のうちの日盛りにも秋をおぼえしめるのは、まさにこの声ではあるまいか。
 秋虫一度にみだれ鳴くのは却って涼味を消すものであると、私は前に云った。しかもその騒がしい虫の声を市中の虫売りの家台《やたい》のうちに聴く場合には、まったくその趣を異《こと》にするのである。夜涼をたずねる市中の人は、往来の少ない幽暗の地を選ばないで、却って燈火のあかるい雑沓《ざっとう》の巷へ迷ってゆく。そこにはさまざまの露店が押し合って列んでいる。人もまた押し合って通る。その混雑のあいだに一軒の虫売りが市松障子《いちまつしょうじ》の家台をおろしている。松虫、鈴虫、草雲雀《くさひばり》のたぐいが掛行燈《かけあんどう》の下に声をそろえて鳴く。ガチャガチャ虫がひときわ高く鳴き立てている。周囲がそうぞうしい為であるかも知れないが、この時この声はちっとも騒がしくないばかりか、昼のように明るい夜の町のまんなかで俄かに武蔵野の秋を見いだしたかのようにも感じられて、思わずその店先に足を停めるものは子供ばかりではあるまい。楊誠斎《ようせいさい》の詩に「時に微涼あり、是れ風ならず。」とあるのは、こういう場合にも適応されると思う。
 夏の夜店で見るから涼しげなものは西瓜《すいか》の截《た》ち売りである。衛生上の見地からは別に説明する人があろう。私たちは子供のときから何十たびか夜店の西瓜を買って食ったが、幸いに赤痢《せきり》にもチブスにもならないで、この年まで生きて来た。夜の灯に照らされた西瓜の色は、物の色の涼しげなる標本と云ってもよい。唐蜀黍《とうもろこし》の付け焼きも夏の夜店にふさわしいものである。強い火に焼いて売るのであるから、本来は暑苦しそうな筈であるが、街路樹などの葉蔭に小さい店を出して唐もろこしを焼いているのを見れば、決して暑い感じは起らない。却ってこれも秋らしい感じをあたえるものである。
 金魚も肩にかついで売りあるくよりも、夜店に金魚|桶《おけ》をならべて見るべきものであろう。幾つもの桶をならべて、緋鯉《ひごい》、金魚、目高のたぐいがそれぞれの桶のなかに群がり遊んでいるのを、夜の灯にみると一層涼しく美しい。一緒に大きい亀の子などを売っていれば、更におもしろい。
 こんなことを一々かぞえたてていたら際限がない。
 心頭《しんとう》を滅却すれば火もおのずから涼し。――そんなむずかしい悟《さと》りを開くまでもなく、誰でもおのずから暑中の涼味を見いだすことを知っている。とりわけて市中に住むものは、山によらず、水に依らずして、到るところに涼味を見いだすことを最もよく知っているのである。
 わたしは滅多に避暑旅行などをしたことは無い。

     夏の食いもの

 ひろく夏の食いものと云えば格別、それを食卓の上にのみ限る場合には、その範囲がよほど狭くなるようである。
 勿論、コールドビーフやハムサラダでビールを一杯飲むのもいい。日本流の洗肉《あらい》や水貝《みずがい》も悪くない。果物にパンぐらいで、あっさりと冷やし紅茶を飲むのもいい。
 その人の趣味や生活状態によって、食い物などはいろいろの相違のあるものであるから、もちろん一概には云えないことであるが、旧東京に生長した私たちは、やはり昔風の食い物の方が何だか夏らしく感じられる。とりわけて、夏の暑い時節にはその感が多いようである。
 今日の衛生論から云うと余り感心しないものであろうが、かの冷奴《ひややっこ》なるものは夏の食い物の大関である。奴豆腐を冷たい水にひたして、どんぶりに盛る。氷のぶっ掻きでも入れれば猶さら贅沢《ぜいたく》である。別に一種の薬味として青紫蘇《あおじそ》か茗荷《みょうが》の子を細かに刻んだのを用意して置いて、鰹節《かつおぶし》をたくさんにかき込んで生醤油《きじょうゆ》にそれを混ぜて、冷え切った豆腐に付けて食う。しょせんは湯豆腐を冷たくしたものに過ぎないが、冬の湯豆腐よりも夏の冷奴の方が感じがいい。湯豆腐から受取る温か味よりも、冷奴から受取る涼し味の方が遥《はる》かに多い。樋口一葉《ひぐちいちよう》女史の「にごり江」のうちにも、源七《げんしち》の家の夏のゆう飯に、冷奴に紫蘇の香たかく盛り出すという件《くだ》りが書いてあって、その場の情景が浮き出していたように記憶している。
「夕顔や一丁残る夏豆腐」許六《きょろく》の句である。
 ある人は洒落《しゃれ》て「水貝」などと呼んでいるが、もとより上等の食いものではない。しかもほんとうの水貝に比較すれば、その価が廉《やす》くて、夏向きで、いかにも民衆的であるところが此の「水貝」の生命で、いつの時代に誰が考え出したのか知らないが、江戸以来何百年のあいだ、ほとんど無数の民衆が夏の一日の汗を行水《ぎょうずい》に洗い流した後、ゆう飯の膳《ぜん》の上にならべられた冷奴の白い肌に一味《いちみ》の清涼を感じたであろうことを思う時、今日ラッパを吹いて来る豆腐屋の声にも一種のなつかしさを感ぜずにはいられない。現にわたしなども、この「水貝」で育てられて来たのである。但し近年は胃腸を弱くしているので、冬の湯豆腐に箸を付けることはあっても、夏の「水貝」の方は残念ながら遠慮している。
 冷奴の平民的なるに対して、貴族的なるは鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》である。前者《ぜんしゃ》の甚だ淡泊なるに対して、後者《こうしゃ》は甚だ濃厚なるものであるが、いずれも夏向きの食い物の両大関である。むかしは鰻を食うのと駕籠《かご》に乗るのとを平民の贅沢と称していたという。今はさすがにそれほどでもないが、鰻を食ったり自動車に乗ったりするのは、懐中の冷たい時にはやはりむずかしい。国学者の斎藤彦麿《さいとうひこまろ》翁はその著「神代余波」のうちに、盛んに蒲焼の美味を説いて、「一天四海に比類あるべからず」と云い、「われ六、七歳のころより好みくひて、八十歳まで無病なるはこの霊薬の効験にして、草根木皮《そうこんぼくひ》のおよぶ所にあらず」とも云っている。今日でも彦麿翁の流れを汲んで、長生きの霊薬として鰻を食う人があるらしい。それほどの霊薬かどうかは知らないが、「一天四海に比類あるべからず」だけは私も同感である。しかもそれは昔のことで、江戸前ようやくに亡び絶えて、旅うなぎや養魚場生まれの鰻公《まんこう》が到るところにのたくる当世と相成っては、「比類あるべからず」も余ほど割引きをしなければならないことになった。
 次に瓜《うり》である。夏の野菜はたくさんあるが、そのうちでも代表的なのは瓜と枝豆であろう。青々した枝豆の塩ゆでも悪くない。しかも見るから夏らしい感じをあたえるものは、胡瓜《きゅうり》と白瓜である。胡瓜は漬け物のほかに、胡瓜|揉《も》みという夏向きの旨い調理法がむかしから工夫されていて、かの冷奴と共に夏季の食膳の上には欠くべからざる民衆的の食い物となっている。白瓜は漬け物のほかに使い道はないようであるが、それだけでも十分にその役目を果たしているではないか。そのほかに茄子《なす》や生姜《しょうが》のたぐいがあるとしても、夏の漬け物はやはり瓜である。茄子の濃《こ》むらさき、生姜の薄くれない、皆それぞれに美しい色彩に富んでいるが、青く白く、見るから清々《すがすが》しいのは瓜の色におよぶものはない。味はすこしく茄子に劣るが、その淡い味がいかにも夏のものである。
 百人一首の一人、中納言|朝忠《あさただ》卿は干瓜を山のごとくに積んで、水漬けの飯をしたたかに食って人をおどろかしたと云うが、その干瓜というのは、かの雷干《かみなりぼし》のたぐいかも知れない。白瓜を割《さ》いて炎天に干すのを雷干という。食ってはさのみ旨いものでもないが、一種の俳味のあるもので、誰が云い出したか雷干とは面白い名をつけたものだと思う。

     花火

 俳諧《はいかい》では花火を秋の季に組み入れているが、どうもこれは夏のものらしい。少なくとも東京では夏の宵の景物《けいぶつ》である。
 哀えたと云っても、両国の川開きに江戸以来の花火のおもかげは幾分か残っている。しかし私は川開き式の大花火をあまり好まない。由来、どこの土地でも大仕掛けの花火を誇りとする傾きがあるらしいが、いたずらに大仕掛けを競うものには、どうも風趣が乏しいようである。花火はむしろ子供たちがもてあそぶ細い筒の火にかぎるように私は思う。
 わたしの子供の頃には、花火をあげて遊ぶ子供たちが多かった。夏の長い日もようやく暮れて、家々の水撒《みずま》きもひと通り済んで、町の灯がまばらに燦《きら》めいてくると、子供たちは細い筒の花火を持ち出して往来に出る。そこらの涼み台では団扇《うちわ》の音や話し声がきこえる。子供たちは往来のまん中に出るのもある、うす暗い立木のかげにあつまるものもある。そうして、思い思いに花火をうち揚げる。もとより細い筒であるから、火は高くあがらない。せいぜいが二階家の屋根を越えるくらいで、ぽん[#「ぽん」に傍点]と揚がるかと思うと、すぐに開いて直ぐに落ちる。まことに単純な、まことに呆気《あっけ》ないものではあるが、うす暗い町で其処《そこ》にも此処《ここ》にもこの小さい火の飛ぶ影をみるのは、一種の涼しげな気分を誘い出すものであった。
 白地の浴衣《ゆかた》を着た若い娘が虫籠をさげて夜の町をゆく。子供の小さい花火は、その行く手を照らすかのように低く飛んでいる。――こう書くと、それは絵であるというかも知れない。しかし私たちの子供のときには、こういう絵のような風情はめずらしくなかった。絵としてはもちろん月並《つきなみ》の画題でもあろうが、さて実際にそういう風情をみせられると、決して悪くは感じない。まわり燈籠、組みあげ燈籠、虫籠、蚊いぶしの煙り、西瓜の截ち売り、こうしたものが都会の夏の夜らしい気分を作り出すとすれば、子供たちの打ち揚げる小さい花火もたしかにその一部を担任していなければならない。
 花火は普通の打ち揚げのほかに、鼠花火、線香花火のあることは説明するまでもあるまい。鼠花火はいたずら者が人を嚇《おど》してよろこぶのである。線香花火は小さい児や女の児をよろこばせるのである。そのほかに幽霊花火というのもあった。これはお化け花火とも云って、鬼火のような青い火がただトロトロと燃えて落ちるだけであるが、いたずら者は暗い板塀や土蔵の白壁のかげにかくれて、蚊に食われながらその鬼火を燃やして、臆病者の通りかかるのを待っているのであった。
 学校の暑中休暇中の仕事は、勉強するのでもない、避暑旅行に出るのでもない、活動写真にゆくのでもない。昼は泳ぎにゆくか、蝉やとんぼを追いまわしに出る。そうして、夜はきっと花火をあげに出る。いわゆる悪戯《いたずら》っ子《こ》として育てられた自分たちの少年時代を追懐して、わたしは決してそれを悔《くや》もうとは思わない。
 その時代にくらべると、今は世の中がまったく変ってしまった。大通りには電車が通る。横町にも自動車や自転車が駆け込んでくる。警察官は道路の取締りにいそがしい。春の紙鳶も、夏の花火も、秋の独楽《こま》も、だんだんに子供の手から奪われてしまった。今でも場末のさびしい薄暗い町を通ると、ときどきに昔なつかしい子供の花火をみることもある。神経の尖《とが》った現代の子供たちはおそらくこの花火に対して、その昔の私たちほどの興味を持っていないであろうと思われる。「花火間もなき光かな」などと云って、むかしから花火は果敢《はか》ないものに謳《うた》われているが、その果敢ないものの果敢ない運命もやがては全くほろび尽くして、花火といえば両国《りょうごく》式の大仕掛けの物ばかりであると思われるような時代が来るであろう。どんなに精巧な螺旋《ぜんまい》仕掛けのおもちゃが出来ても、あの粗末な細い竹筒が割れて、あかい火の光がぽん[#「ぽん」に傍点]とあがるのを眺めていた昔の子供たちの愉快と幸福とを想像することは出来まい。
 花火は夏のものであると私は云った。しかし、秋の宵の花火もまた一種の風趣がないでもない。鉢の朝顔の蔓がだんだんに伸びて、あさ夕はもう涼風が単衣《ひとえもの》の襟にしみる頃、まだ今年の夏を忘れ得ない子供たちが夜露のおりた町に出て、未練らしく花火をあげているのもある。勿論、その火の数は夏の頃ほどに多くない。秋の蛍――そうした寂しさを思わせるような火の光がところどころに揚がっていると、暗い空から弱い稲妻がときどきに落ちて来て、その光を奪いながら共に消えてゆく。子供心にも云い知れない淡い哀愁を誘い出されるのは、こういう秋の宵であった。[#地付き](大正14・5「週刊朝日」)
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雷雨


 夏季に入っていつも感じるのは、夕立《ゆうだち》と雷鳴の少なくなったことである。私たちの少年時代から青年時代にかけては、夕立と雷鳴がずいぶん多く、いわゆる雷嫌いをおびやかしたものであるが、明治末期から次第に減じた。時平公《しへいこう》の子孫万歳である。
 地方は知らず、都会は周囲が開けて来る関係上、気圧や気流にも変化を生じたとみえて、東京などは近年たしかに雷雨が少なくなった。第一に夕立の降り方までが違って来た。むかしの夕立は、今までカンカン天気であったかと思うと、俄かに蝉の声がやむ、頭の上が暗くなる。おやッと思う間に、一朶《いちだ》の黒雲が青空に拡がって、文字通りの驟雨沛然《しゅううはいぜん》、水けむりを立てて瀧のように降って来る。
 往来の人々はあわてて逃げる。家々では慌《あわ》てて雨戸をしめる、干物《ほしもの》を片付ける。周章狼狽《しゅうしょうろうばい》、いやもう乱痴気騒ぎであるが、その夕立も一時間とはつづかず、せいぜい二十分か三十分でカラリと晴れて、夕日が赫《かっ》と照る、蝉がまた啼き出すという始末。急がずば湿《ぬ》れざらましを旅人の、あとより晴るる野路の村雨《むらさめ》――太田道灌《おおたどうかん》よく詠んだとは、まったく此の事であった。近年こんな夕立はめったにない。
 空がだんだんに曇って来て、今に降るかと用意していても、この頃の雷雨は待機の姿勢を取って容易に動かない。三、四十分ないし一時間の余裕をあたえて、それからポツポツ降り出して来るという順序で、昔のような不意撃ちを食わせない。いわんや青天《せいてん》の霹靂《へきれき》などは絶無である。その代りに揚がりぎわもよくない。雷も遠くなり、雨もやむかと見えながら、まだ思い切りの悪いようにビショビショと降っている。むかしの夕立の男性的なるに引きかえて、このごろの夕立は女性的である。雷雨一過の後も爽《さわや》かな涼気を感ずる場合が少なく、いつまでもジメジメして、蒸し暑く、陰鬱で、こんな夕立ならば降らないほうが優《ま》しだと思うことがしばしばある。
 こう云うと、ひどく江戸っ子で威勢がいいようであるが、正直をいえば私はあまり雷を好まない。いわゆる雷嫌いという程でもないが、聞かずに済むならば聞きたくない方で、電光がピカリピカリ、雷鳴がゴロゴロなどは、どうも愉快に感じられない。しかも夕立には雷電を伴うのが普通であるから、自然に夕立をも好まないようになる。殊に近年の夕立のように、雨後の気分がよくないならば、降ってくれない方が仕合せである。雷ばかりでなく、わたしは風も嫌いである。夏の雷、冬の風、いずれも私の平和を破ること少なくない。
 むかしの子供は雷を呼んでゴロゴロ様とか、かみなり様とか云っていたが、わたしが初めてかみなり様とお近付き(?)になったのは、六歳の七月、日は記憶しないが、途方もなく暑い日であった。わたしの家は麹町の元園町にあったが、その頃の麹町辺は今日《こんにち》の旧郊外よりもさびしく、どこの家も庭が広くて、家の周囲にも空地《あきち》が多かった。
 わたしの家と西隣りの家とのあいだにも、五、六間の空地があって、隣りの家には枸杞《くこ》の生垣《いけがき》が青々と結いまわしてあった。わたしはその枸杞の実を食べたこともあった。その生垣の外にひと株の大きい柳が立っている。それが自然の野生であるか、あるいは隣りの家の所有であるか、そんなこともよく判らなかったが、ともかくも相当の大木で、夏から秋にかけては油蝉やミンミンやカナカナや、あらん限りの蝉が来てそうぞうしく啼いた。柳の近所にはモチ竿や紙袋を持った子供のすがたが絶えなかった。前にいう七月のある日、なんでも午後の三時頃であったらしい。大夕立の真っ最中、その柳に落雷したのである。
 雷雨を恐れて、わたしの家では雨戸をことごとく閉じていたので、落雷当時のありさまは知らない。唯《ただ》すさまじい雷鳴と共に、家内が俄かに明るくなったように感じただけであったが、雨が晴れてから出てみると、かの柳は真っ黒に焦《こ》げて、大木の幹が半分ほども裂けていた。わたしは子供心に戦慄《せんりつ》した。その以来、わたしはかみなり様が嫌いになった。
 それでも幸いに、ひどい雷嫌いにもならなかったが、さりとて平然と落着いているような勇士にはなれなかった。雷鳴を不愉快に感ずることは、昔も今も変りがない。その私が暴雷におびやかされた例が三回ある。
 その一は、明治三十七年の九月八日か九日の夜とおぼえている。わたしは東京日日新聞の従軍記者として満洲の戦地にあって、遼陽《りょうよう》陥落の後、半月ほどは南門外の迎陽子という村落の民家に止宿していたが、そのあいだの事である。これは夕立というのではなく、午後二時頃からシトシトと降り出した雨が、暮るると共に烈《はげ》しく降りしきって、九時を過ぎる頃から大雷雨となった。
 雷光は青く、白く、あるいは紅《あか》く、あるいは紫に、みだれて裂けて、乱れて飛んで、暗い村落をいろいろに照らしている。雨はごうごう[#「ごうごう」に傍点]と降っている。雷はすさまじく鳴りはためいて、地震のような大きい地ひびきがする。それが夜の白らむまで、八、九時間も小歇《こや》みなしに続いたのであるから、実に驚いた。大袈裟《おおげさ》にいえば、最後の審判の日が来たのかと思われる程であった。もちろん眠られる筈もない。わたしは頭から毛布を引っかぶって、小さくなって一夜をあかした。
「毎日大砲の音を聞き慣れている者が、雷なんぞを恐れるものか。」
 こんなことを云って強がっていた連中も、仕舞いにはみんな降参したらしく、夜の明けるまで安眠した者は一人もなかった。夜が明けて、雨が晴れて、ほっ[#「ほっ」に傍点]とすると共にがっかりした。
 その二は、明治四十一年の七月である。午後八時を過ぎる頃、わたしは雨を衝《つ》いて根岸《ねぎし》方面から麹町へ帰った。普通は池《いけ》の端《はた》から本郷台へ昇ってゆくのであるが、今夜の車夫は上野《うえの》の広小路《ひろこうじ》から電車線路をまっすぐに神田にむかって走った。御成《おなり》街道へさしかかる頃から、雷鳴と電光が強くなって来たので、臆病な私は用心して眼鏡《めがね》をはずした。
 もう神田区へ踏み込んだと思う頃には、雷雨はいよいよ強くなった。まだ宵ながら往来も途絶えて、時どきに電車が通るだけである。眼の先もみえないように降りしきるので、車夫も思うようには進まれない。ようように五軒町《ごけんちょう》附近まで来かかった時、ゆく先がぱっ[#「ぱっ」に傍点]と明るくなって、がん[#「がん」に傍点]というような霹靂一声、車夫はたちまちに膝を突いた。車は幌《ほろ》のままで横に倒れた。わたしも一緒に投げ出された。幌が深いので、車外へは転げ出さなかったが、ともかくもはっ[#「はっ」に傍点]と思う間にわたしの体は横倒しになっていた。二、三丁さきの旅籠町《はたごちょう》辺の往来のまんなかに落雷したのである。
 わたしは別に怪我《けが》もなかった。車夫も膝がしらを少し擦り剥《む》いたぐらいで、さしたる怪我もなかった。落雷が大地にひびいて、思わず膝を折ってしまったと、車夫は話した。しかし大難が小難で済んだわけで、もし私の車がもう一、二丁も南へ進んでいたら、どんな禍《わざわ》いを蒙《こうむ》ったか判らない。二人はたがいに無事を祝して、豪雨のなかをまた急いだ。
 その三は、大正二年の九月、仙台《せんだい》の塩竃《しおがま》から金華山《きんかざん》参詣の小蒸汽船に乗って行って、島内の社務所に一泊した夜である。午後十時頃から山もくずれるような大雷雨となった。
「なに、直ぐに晴れます。」
 社務所の人は慰めてくれたが、なにしろ場所が場所である。孤島の雷雨はいよいよ凄愴《せいそう》の感が深い。あたまの上の山からは瀧のように水が落ちて来る、海はどうどう[#「どうどう」に傍点]と鳴っている。雷は縦横無尽に駈けめぐってガラガラとひびいている。文字通りの天地震動である。こんなありさまで、あしたは無事に帰られるかと危ぶまれた。天候の悪いときには幾日も帰られないこともあるが、社務所の倉には十分の食料がたくわえてあるから、決して心配には及ばないと云い聞かされて、心細いなかにも少しく意を強うした。
 社務所の人の話に嘘はなかった。さすがの雷雨も十二時を過ぎる頃からだんだんに衰えて、枕もとの時計が一時を知らせる頃には、山のあたりで鹿の鳴く声がきこえた。喜んで窓をあけて見ると、空は拭《ぬぐ》ったように晴れ渡って、旧暦八月の月が昼のように明るく照らしていた。私はあしたの天気を楽しみながら、窓に倚《よ》って徐《しず》かに鹿の声を聞いた。その爽《さわや》かな心持は今も忘れないが、その夜の雷雨のおそろしさも、おなじく忘れ得ない。
 白柳秀湖《しらやなぎしゅうこ》氏の研究によると、東京で最も雷雨の多いのは杉並《すぎなみ》のあたりであると云う。わたしの知る限りでも、東京で雷雨の多いのは北|多摩《たま》郡の武蔵野町から杉並区の荻窪《おぎくぼ》、阿佐ヶ谷《あさがや》のあたりであるらしい。甲信《こうしん》盆地で発生した雷雲が武蔵野の空を通過して、房総《ぼうそう》の沖へ流れ去る。その通路があたかも杉並辺の上空にあたり、下町方面へ進行するにしたがって雷雲も次第に稀薄になるように思われる。但し俗に「北鳴り」と称して、日光《にっこう》方面から押し込んで来る雷雲は別物である。[#地付き](昭和11・7「サンデー毎日」)
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 去年の十月頃の新聞を見た人々は記憶しているであろう。日本橋蠣殻町《にほんばしかきがらちょう》のある商家の物干へ一羽の大きい鳶《とび》が舞い降りたのを店員大勢が捕獲して、警察署へ届け出たというのである。ある新聞には、その鳶の写真まで掲げてあった。
 そのとき私が感じたのは、鳶という鳥がそれほど世間から珍しがられるようになった事である。今から三、四十年前であったら、鳶なぞがそこらに舞っていても、降りていても、誰も見返る者もあるまい。云わば鴉《からす》や雀《すずめ》も同様で、それを捕獲して警察署へ届け出る者もあるまい。鳶は現在保護鳥の一種になっているから、それで届け出たのかも知れないが、昔なら恐らくそれを捕獲しようと考える者もあるまい。それほどに鳶は普通平凡の鳥類と見なされていたのである。
 私は山の手の麹町に生長したせいか、子供の時から鳶なぞは毎日のように見ている。天気晴朗の日には一羽や二羽はかならず大空に舞っていた。トロトロトロと云うような鳴き声も常に聞き慣れていた。鳶が鳴くから天気がよくなるだろうなぞと云った。
 鳶に油揚《あぶらげ》を攫《さら》われると云うのは嘘ではない。子供が豆腐屋へ使いに行って笊《ざる》や味噌《みそ》こしに油揚を入れて帰ると、その途中で鳶に攫って行かれる事はしばしばあった。油揚ばかりでなく、魚屋《さかなや》が人家の前に盤台《はんだい》をおろして魚をこしらえている処へ、鳶が突然にサッと舞いくだって来て、その盤台の魚や魚の腸《はらわた》なぞを引っ掴んで、あれ[#「あれ」に傍点]という間に虚空《こくう》遥かに飛び去ることも珍しくなかった。鷲《わし》が子供を攫って行くのも恐らく斯《こ》うであろうかと、私たちも小さい魂《きも》をおびやかされたが、それも幾たびか見慣れると、やあまた攫われたなぞと面白がって眺めているようになった。往来で白昼掻っ払いを働く奴を東京では「昼とんび」と云った。
 小石川《こいしかわ》に富坂町《とみざかまち》というのがある。富坂はトビ坂から転じたので、昔はここらの森にたくさんの鳶が棲んでいた為であるという。してみると、江戸時代には更にたくさんの鳶が飛んでいたに相違ない。鳶ばかりでなく、鶴《つる》も飛んでいたのである。明治以後、鶴を見たことはないが、鳶は前に云う通り、毎日のように東京の空を飛び廻っていたのである。
 鳶も鷲と同様に、いわゆる鷙鳥《しちょう》とか猛禽《もうきん》とか云うものにかぞえられ、前に云ったような悪《わる》いたずらをも働くのであるが、鷲のように人間から憎まれ恐れられていないのは、平生から人家に近く棲んでいるのと、鷲ほどの兇暴を敢《あえ》てしない為であろう。子供の飛ばす凧《たこ》は鳶から思い付いたもので、日本ではトンビ凧といい、漢字では紙鳶と書く。英語でも凧をカイトという。すなわち鳶と同じことである。それを見ても、遠い昔から人間と鳶とは余ほどの親しみを持っていたらしいが、文明の進むに連れて、人間と鳶との縁がだんだんに遠くなった。
 日露戦争前と記憶している。麹町の英国大使館の旗竿に一羽の大きい鳶が止まっているのを見付けて、英国人の館員や留学生が嬉《うれ》しがって眺めていた。留学生の一人が私に云った。
「鳶は男らしくていい鳥です。しかし、ロンドン附近ではもう見られません。」
 まだ其の頃の東京には鳶のすがたが相当に見られたので、英国人はそんなに鳶を珍しがったり、嬉しがったりするのかと、私は心ひそかに可笑《おか》しく思った位であったが、その鳶もいつか保護鳥になった。東京人もロンドン人と同じように、鳶を珍しがる時代が来たのである。もちろん鳶に限ったことではなく、大都会に近いところでは、鳥類、虫類、魚類が年々に亡びて行く。それは余儀なき自然の運命であるから、特に鳶に対して感傷的の詠嘆を洩らすにも及ばないが、初春の空にかのトンビ凧を飛ばしたり、大きな口をあいて「トンビ、トロロ」と歌った少年時代を追懐すると、鳶の衰滅に対して一種の悲哀を感ぜずにはいられない。
 むかしは矢羽根に雉《きじ》または山鳥の羽《はね》を用いたが、それらは多く得られないので、下等の矢には鳶の羽を用いた。その鳶の羽すらも払底《ふってい》になった頃には、矢はすたれて鉄砲となった。そこにも需要と供給の変遷が見られる。
 私はこのごろ上目黒《かみめぐろ》に住んでいるが、ここらにはまだ鳶が棲んでいて、晴れた日には大きい翼をひろげて悠々と舞っている。雨のふる日でもトロトロと鳴いている。私は旧友に逢ったような懐かしい心持で、その鳶が輪を作って飛ぶ影をみあげている。鳶はわが巣を人に見せないという俗説があるが、私の家のあたりへ飛んで来る鳶は近所の西郷山に巣を作っているらしい。その西郷山もおいおいに拓《ひら》かれて分譲地となりつつあるから、やがてはここらにも鳶の棲家を失うことになるかも知れない。いかに保護されても、鳶は次第に大東京から追いやらるるのほかはあるまい。
 私はよく知らないが、金鵄《きんし》勲章の鵄は鳶のたぐいであると云う。然らば、たとい鳶がいずこの果てへ追いやられても、あるいはその種族が絶滅に瀕《ひん》しても、その雄姿は燦《さん》として永久に輝いているのである。鳶よ、憂うる勿《なか》れ、悲しむ勿れと云いたくもなる。
 きょうも暮春の晴れた空に、二羽の鳶が舞っている。折りから一台の飛行機が飛んで来たが、かれらはそれに驚かされたような気色《けしき》も見せないで、やはり悠々として大きい翼を空中に浮かべていた。[#地付き](昭和11・5「政界往来」)
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旧東京の歳晩


 昔と云っても、遠い江戸時代のことはわたしも知らない。ここでいう昔は、わたし自身が目撃した明治十年ごろから三十年頃にわたる昔のことである。そのつもりで読んで貰いたい。
 その頃のむかしに比べると、最近の東京がいちじるしく膨脹《ぼうちょう》し、いちじるしく繁昌して来たことは云うまでもない。その繁昌につれて、東京というものの色彩もまたいちじるしく華やかになった。家の作り方、ことに商店の看牌《かんばん》や店飾りのたぐいが、今と昔とはほとんど比較にならないほどに華やかになった。勿論、一歩あやまって俗悪に陥ったような点もみえるが、いずれにしても賑やかになったのは素晴らしいものである。今から思うと、その昔の商店などは何商売にかかわらず、いずれも甚だ質素な陰気なもので、大きな店ほど何だか薄暗いような、陰気な店構えをしているのが多かった。大通りの町々と云っても、平日《へいじつ》は寂しいもので――その当時は相当に賑やかいと思っていたのであるが――人通りもまた少なかった。
 それが年末から春初にかけては、俄かに景気づいて繁昌する。平日がさびしいだけに、その繁昌がひどく眼に立って、いかにも歳の暮れらしい、忙がしい気分や、または正月らしい浮いた気分を誘い出すのであった。今日《こんにち》のように平日から絶えず賑わっていると、歳の暮れも正月も余りいちじるしい相違はみえないが、くどくも云う通り、ふだんが寝入っているだけに、暮れの十五、六日頃から正月の十五、六日まで約一ヵ月のあいだは、まったく世界が眼ざめて来たように感じられたものである。
 今日のように各町内連合の年末大売出しなどというものはない。楽隊で囃《はやし》し立てるようなこともない。大福引きで箪笥や座蒲団をくれたり、商品券をくれたりするようなこともない。しかし二十日《はつか》過ぎになると、各商店では思い思いに商品を店いっぱいに列べたり、往来まで食《は》み出すように積みかさねたりする。景気づけにほおずき提灯をかけるのもある。福引きのような大当りはないが、大抵の店では買物相当のお景物をくれることになっているので、その景品をこれ見よとばかりに積み飾って置く。それがまた馬鹿に景気のいいもので、それに惹《ひ》かされると云うわけでもあるまいが、買手がぞろぞろと繋がってはいる。その混雑は実におびただしいものであった。
 それらの商店のうちでも、絵草紙屋――これが最も東京の歳晩を彩《いろど》るもので、東京に育った私たちに取っては生涯忘れ得ない思い出の一つである。絵草紙屋は歳の暮れにかぎられた商売ではないが、どうしても歳の暮れに無くてはならない商売である事を知らなければならない。錦絵の板元《はんもと》では正月を当て込みにいろいろの新版を刷り出して、小売りの絵草紙屋の店先を美しく飾るのが習いで、一枚絵もある、二枚つづきもある、三枚つづきもある。各劇場の春狂言が早くきまっている時には、先廻りをして三枚つづきの似顔絵を出すこともある。そのほかにいろいろの双六《すごろく》も絵草紙屋の店先にかけられる。そのなかには年々歳々おなじ版をかさねているような、例のいろは短歌や道中|双六《すごろく》のたぐいもあるが、何か工夫して新しいものを作り出すことになっているので、武者絵《むしゃえ》双六、名所双六、お化け双六、歌舞伎双六のたぐい、主題はおなじでも画面の違ったものを撰んで作る。ことに歌舞伎双六は羽子板とおなじように、大抵はその年の当り狂言を撰むことになっていて、人物はすべて俳優《やくしゃ》の似顔であること勿論である。その双六だけでも十種、二十種の多きに達して、それらが上に下に右に左に掛け連ねられて、師走の風に軽くそよいでいる。しかもみな彩色《さいしき》の新版であるから、いわゆる千紫万紅《せんしばんこう》の絢爛《けんらん》をきわめたもので、眼も綾《あや》というのはまったく此の事であった。
 女子供は勿論、大抵の男でもよくよくの忙がしい人でないかぎりは、おのずとそれに吸い寄せられて、店先に足を停めるのも無理はなかった。絵草紙屋では歌がるたも売る、十六むさしも売る、福笑いも売る、正月の室内の遊び道具はほとんどみなここに備わっていると云うわけであるから、子供のある人にかぎらず、歳晩年始の贈り物を求めるために絵草紙屋の前に立つ人は、朝から晩まで絶え間がなかった。わたしは子供の時に、麹町から神田、日本橋、京橋、それからそれへと絵草紙屋を見てあるいて、とうとう芝《しば》まで行ったことがあった。
 歳《とし》の市《いち》を観ないでも、餅搗《もちつ》きや煤掃《すすは》きの音を聞かないでも、ふところ手をして絵草紙屋の前に立ちさえすれば、春の来るらしい気分は十分に味わうことが出来たのである。江戸以来の名物たる錦絵がほろびたと云うのは惜しむべきことに相違ないが、わたしは歳晩の巷《ちまた》を行くたびに特にその感を深うするもので、いかに連合大売出しが旗や提灯で飾り立てても、楽隊や蓄音器で囃し立てても、わたしをして一種寂寥の感を覚えしめるのは、東京市中にかの絵草紙屋の店を見いだし得ないためであるらしい。
 歳晩の寄席――これにも思い出がある。いつの頃から絶えたか知らないが、昔は所々の寄席に大景物《だいけいぶつ》ということがあった。十二月の下席《しもせき》は大抵休業で、上《かみ》十五日もあまりよい芸人は出席しなかったらしい。そこで、第二流どころの芸人の出席する寄席では、客を寄せる手段として景物を出すのである。
 中入りになった時に、いろいろの景品を高座に持ち出し、前座の芸人が客席をまわって、めいめいに籤《くじ》を引かせてあるく。そうして、その籤の番号によって景品をくれるのであるが、そのなかには空くじもたくさんある。中《あた》ったものには、安物の羽子板や、紙鳶や、羽根や、菓子の袋などをくれる。箒や擂《す》りこ木や、鉄瓶や、提灯や、小桶や、薪や、炭俵や、火鉢などもある。安物があたった時は仔細ないが、すこしいい物をひき当てた場合には、空くじの連中が妬《ねた》み半分に声をそろえて、「やってしまえ、やってしまえ。」と呶鳴《どな》る。自分がそれを持ち帰らずに、高座の芸人にやってしまえと云うのである。そう云われて躊躇《ちゅうちょ》していると、芸人たちの方では如才なくお辞儀をして、「どうもありがとうございます。」と、早々にその景品を片付けてしまうので、折角いい籤をひき当てても結局有名無実に終ることが多い。それを見越して、たくさんの景品のうちにはいかさま[#「いかさま」に傍点]物もならべてある。羊羹《ようかん》とみせかけて、実は拍子木を紙につつんだたぐいの物が幾らもあるなどと云うが、まさかそうでもなかったらしい。
 わたしも十一の歳のくれに、麹町の万よしという寄席で紙鳶をひき当てたことを覚えている。それは二枚半で、龍という字凧であった。わたしは喜んで高座の前へ受取りにゆくと、客席のなかで例の「やってしまえ。」を呶鳴るものが五、六人ある。わたしも負けない気になって、「子供が紙鳶を取って、やってしまう奴があるものか。」と、大きな声で呶鳴りかえすと、大勢の客が一度に笑い出した。高座の芸人たちも笑った。ともかくも無事に、その紙鳶を受取って元の席に戻ってくると、なぜそんな詰まらないことを云うのだと、一緒に行っていた母や姉に叱られた。その紙鳶はよくよく私に縁が無かったとみえて、あくる年の正月二日に初めてそれを揚げに出ると、たちまちに糸が切れて飛んでしまった。
 近年は春秋二季の大掃除というものがあるので――これは明治三十二年の秋から始まったように記憶している。――特に煤掃《すすは》きをする家は稀であるらしいが、その頃はどこの家でも十二月にはいって煤掃きをする。手廻しのいい家は月初めに片付けてしまうが、もう数《かぞ》え日《び》という二十日過ぎになってトントンバタバタと埃《ほこり》を掃き立てている家がたくさんある。商店などは昼間の商売が忙がしいので、日がくれてから提灯をつけて煤掃きに取りかかるのもある。なにしろ戸々《ここ》で思い思いに掃き立てるのであるから、その都度《つど》に近所となりの迷惑は思いやられるが、お互いのことと諦《あきら》めて別に苦情もなかったらしい。
 江戸時代には十二月十三日と大抵きまっていたのを、維新後にはその慣例が頽《くず》れてしまったので、お互いに迷惑しなければならないなどと、老人たちは呟《つぶや》いていた。
 もう一つの近所迷惑は、かの餅搗きであった。米屋や菓子屋で餅を搗くのは商売として已《や》むを得ないが、そのころには俗にひきずり餅というのが行なわれた。搗屋が臼《うす》や釜《かま》の諸道具を車につんで来て、家々の門内や店先で餅を搗くのである。これは依頼者の方であらかじめ糯米《もちごめ》を買い込んでおくので、米屋や菓子屋にあつらえるよりも経済であると云うのと、また一面には世間に対する一種の見栄もあったらしい。又なんという理窟もなしに、代々の習慣でかならず自分の家で搗かせることにしているのもあったらしい。勿諭、この搗屋も大勢あったには相違ないが、それでも幾人か一組になって、一日に幾ヵ所も掛いて廻るのであるから、夜のあけないうちから押し掛けて来る。そうして、幾臼かの餅を搗いて、祝儀を貰って、それからそれへと移ってゆくので、遅いところへ来るのは夜更《よふ》けにもなる。なにしろ大勢がわいわい云って餅を搗き立てるのであるから、近所となりに取っては安眠妨害である。殊に釜の火を熾《さか》んに焚《た》くので、風のふく夜などは危険でもある。しかしこれに就《つ》いても近所から苦情が出たという噂も聞かなかった。
 運が悪いと、ゆうべは夜ふけまで隣りの杵《きね》の音にさわがされ、今朝は暗いうちから向うの杵の音に又おどろかされると云うようなこともあるが、これも一年一度の歳の暮れだから仕方がないと覚悟していたらしい。現にわたしなども霜夜の枕にひびく餅の音を聴きながら、やがて来る春のたのしみを夢みたもので――有明《ありあけ》は晦日《みそか》に近し餅の音――こうした俳句のおもむきは到るところに残っていた。
 冬至《とうじ》の柚湯《ゆずゆ》――これは今も絶えないが、そのころは物価が廉《やす》いので、風呂のなかには柚がたくさんに浮かんでいるばかりか、心安い人々には別に二つ三つぐらいの新しい柚の実をくれたくらいである。それを切って酒にひたして、ひび薬にすると云って、みんなが喜んで貰って帰った。なんと云っても、むかしは万事が鷹揚《おうよう》であったから、今日のように柚湯とは名ばかりで、風呂じゅうをさがし廻って僅《わず》かに三つか四つの柚を見つけ出すのとは雲泥《うんでい》の相違であった。
 冬至の日から獅子舞が来る。その囃子の音を聴きながら柚湯のなかに浸っているのも、歳の暮れの忙《せわ》しいあいだに何となく春らしい暢《のび》やかな気分を誘い出すものであった。
 わたしはこういう悠長な時代に生まれて、悠長な時代に育って来たのである。今日の劇《はげ》しい、目まぐるしい世のなかに堪えられないのも無理はない。[#地付き](大正13・12「女性」)
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新旧東京雑題


     祭礼

 東京でいちじるしく廃《すた》れたものは祭礼《まつり》である。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王《さんのう》、神田の明神《みょうじん》、深川《ふかがわ》の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その祭礼はむかしの姿をとどめないほどに衰えてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では、ほんとうの祭礼らしいものを見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。
 震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼を行なわないでもなかったが、それは文字通りの「型ばかり」で、軒提灯に花山車《はなだし》ぐらいにとどまっていた。その花山車も各町内から曳《ひ》き出すというわけではなく、氏子《うじこ》の町々も大体においてひっそり閑としていて、いわゆる天下祭りなどという素晴らしい威勢はどこにも見いだされなかった。
 わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残《なご》りで、その時には祭礼番附が出来た。その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨《おおあらし》があって、東京府下だけでも丸|潰《つぶ》れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後も隔年の大祭を怠らなかったが、その繁昌は遂に十七年度の昔をくり返すに至らず、いつとはなしに型ばかりのものになってしまった。
 山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のときから麹町に育って、氏子の一人であったために、この祭礼を最もよく知っているが、これは明治二十年六月の大祭を名残りとして、その後はいちじるしく衰えた。近年は神田よりも寂しいくらいである。
 深川の八幡はわたしの家から遠いので、詳しいことを知らないが、これも明治二十五年の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼が賑やかに出来たという噂を聞かないようである。ここは山車や踊り屋台よりも各町内の神輿《みこし》が名物で、俗に神輿祭りと呼ばれ、いろいろの由緒つきの神輿が江戸の昔からたくさんに保存されていたのであるが、先年の震災で大かた焼亡《しょうもう》したことと察せられる。
 そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における型ばかりの祭礼を見たのでは、とても昔日《せきじつ》の壮観を想像することは出来ない。京の祇園会《ぎおんえ》や大阪《おおさか》の天満《てんま》祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。

     湯屋

 湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬《さんば》の作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯《せんとう》とか湯屋《ゆうや》とかいうのが普通で、元禄《げんろく》のむかしは知らず、文化文政《ぶんかぶんせい》から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
 湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
 五月節句の菖蒲《しょうぶ》湯、土用のうちの桃《もも》湯、冬至の柚《ゆず》湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないとか云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしに止《や》められてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。
 むかしは菖蒲湯または柚湯の日には、湯屋の番台に三方《さんぼう》が据えてあって、客の方では「お拈《ひね》り」と唱え、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取っては菖蒲や柚代だけが全然損失に帰《き》するわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。こんな殺風景なことをする程ならば、いっそ桃湯同様に廃止した方がよさそうである。
 朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年の十月から一斉に廃止となった。早朝から風呂を焚いては湯屋の経済が立たないと云うのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それは極めて少数で、大体においては午後一時ごろに行ってもまだ本当に沸いていないというのが通例になってしまった。
 江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどと云う説もあるが、これも実行されそうもない。

     そば屋

 そば屋は昔よりもいちじるしく綺麗になった。どういうわけか知らないが、湯屋と蕎麦《そば》屋とその歩調をおなじくするもので、湯銭があがれば蕎麦の代もあがり、蕎麦の代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対して蕎麦の盛《もり》・掛《かけ》は十銭という倍額になった。もっとも、湯屋の方は公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値あげを許可しないのである。
 私たちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみな汚《きたな》いものであった。綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へゆけと昔から云い伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった。まことに古人われを欺《あざむ》かずである。山路愛山《やまじあいざん》氏が何かの雑誌に蕎麦のことを書いて、われわれの子供などは蕎麦は庖丁《ほうちょう》で切るものであると云うことを知らず、機械で切るものと心得て食っているとか云ったが、確かに機械切りの蕎麦は旨くないようである。そば切り庖丁などという詞《ことば》はいつか消滅するであろう。
 人間が贅沢になって来たせいか、近年はそば屋で種物《たねもの》を食う人が非常に多くなった。それに応じて種物の種類もすこぶる殖《ふ》えた。カレー南蛮などという不思議なものさえ現われた。ほんとうの蕎麦を味わうものは盛か掛を食うのが普通で、種物などを喜んで食うのは女子供であると云うことになっていたが、近年はそれが一変して、銭《ぜに》のない人間が盛・掛を食うと云うことになったらしい。種物では本当のそばの味はわからない。そば屋が蕎麦を吟味しなくなったのも当然である。
 地方の人が多くなった証拠として、饂飩《うどん》を食う客が多くなった。蕎麦屋は蕎麦を売るのが商売で、そば屋へ行って饂飩をくれなどと云うと、田舎者として笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみな饂飩を売る。阿亀《おかめ》とか天ぷらとかいって注文すると、おそばでございますか、饂飩台でございますかと聞き返される場合が多い。黙っていれば蕎麦にきまっていると思うが、それでも念のために饂飩であるかないかを確かめる必要がある程に、饂飩を食う客が多くなったのである。
 かの鍋焼うどんなども江戸以来の売り物ではない。上方《かみがた》では昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴《ふうりん》そばとか夜鷹《よたか》そばとか呼んでいたのである。鍋焼うどんが東京に入り込んで来たのは明治以後のことで、黙阿弥《もくあみ》の「嶋鵆月白浪《しまちどりつきのしらなみ》」は明治十四年の作であるが、その招魂社《しょうこんしゃ》鳥居前の場で、堀の内まいりの男が夜そばを食いながら、以前とちがって夜鷹そばは売り手が少なくなって、その代りに鍋焼うどんが一年増しに多くなった、と話しているのを見ても知られる。その夜そば売りも今ではみな鍋焼うどんに変ってしまった。中にはシュウマイ屋に化けたのもある。
 そば屋では大正五、六年頃から天どんや親子どんぶりまでも売りはじめた。そば屋がうどんを売り、さらに飯までも売ることになったのである。こうなると、蕎麦のうまいまずいなどはいよいよ論じていられなくなる。[#地付き](昭和2・4「サンデー毎日」)
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ゆず湯


     一


 本日ゆず湯というビラを見ながら、わたしは急に春に近づいたような気分になって、いつもの湯屋の格子をくぐると、出あいがしらに建具屋のおじいさんが濡手拭《ぬれてぬぐい》で額《ひたい》をふきながら出て来た。
「旦那、徳《とく》がとうとう死にましたよ。」
「徳さん……。左官屋の徳さんが……。」
「ええ、けさ死んだそうで、今あの書生さんから聞きましたから、これからすぐに行ってやろうと思っているんです。なにしろ、別に親類というようなものも無いんですから、みんなが寄りあつまって何とか始末してやらなけりゃあなりますまいよ。運のわるい男でしてね。」
 こんなことを云いながら、気の短いおじいさんは下駄を突っかけて、そそくさと出て行ってしまった。午後二時頃の銭湯は広々と明るかった。狭い庭には縁日で買って来たらしい大きい鉢の梅が、硝子戸《ガラスど》越しに白く見えた。
 着物をぬいで風呂場へゆくと、流しの板は白く乾いていて、あかるい風呂の隅には一人の若い男の頭がうしろ向きに浮いているだけであった。すき透るような新しい湯は風呂いっぱいに漲《みなぎ》って、輪切りの柚《ゆず》があたたかい波にゆらゆらと流れていた。窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、陽炎《かげろう》のように立ち迷う湯気のなかに、黄いろい木実《このみ》の強い匂いが籠《こも》っているのも快《こころよ》かった。わたしはいい心持になって先ずからだを湿《しめ》していると、隅の方に浮いていた黒い頭がやがてくるりと振り向いた。
「今日《こんにち》は。」
「押し詰まってお天気で結構です。」と、私も挨拶した。
 彼は近所の山口《やまぐち》という医師の薬局生であった。わたしと別に懇意でもないが、湯屋なじみで普通の挨拶だけはするのであった。建具屋のおじいさんが書生さんと云ったのはこの男で、左官屋の徳さんはおそらく山口医師の診察を受けていたのであろうと私は推量した。
「左官屋の徳さんが死んだそうですね。」と、わたしもやがて風呂にはいって、少し熱い湯に顔をしかめながら訊《き》いた。
「ええ、けさ七時頃に……。」
「あなたのところの先生に療治して貰っていたんですか。」
「そうです。慢性の腎臓炎でした。わたしのところへ診察を受けに来たのは先月からでしたが、何でもよっぽど前から悪かったらしいんですね。先生も最初からむずかしいと云っていたんですが、おととい頃から急に悪くなりました。」
「そうですか。気の毒でしたね。」
「なにしろ、気の毒でしたよ。」
 鸚鵡《おうむ》返しにこんな挨拶をしながら、薬局生はうずたかい柚を掻きわけて流し場へ出た。それから水船《みずぶね》のそばへたくさんの小桶をならべて、真赤《まっか》に茹《ゆで》られた胸や手足を石鹸の白い泡に埋めていた。それを見るともなしに眺めながら、わたしはまだ風呂のなかに浸《ひた》っていた。
 表には師走《しわす》の町らしい人の足音が忙がしそうにきこえた。冬至《とうじ》の獅子舞の囃子の音も遠くひびいた。ふと眼をあげて硝子窓の外をうかがうと、細い路地を隔てた隣りの土蔵の白壁のうえに冬の空は青々と高く晴れて、下界のいそがしい世の中を知らないように鳶が一羽ゆるく舞っているのが見えた。こういう場合、わたしはいつものんびりした心持になって、何だかぼんやりと薄ら眠くなるのが習いであったが、きょうはなぜか落ちついた気分になれなかった。徳さんの死ということが、私の頭をいろいろに動かしているのであった。
「それにしても、お玉さんはどうしているだろう。」
 わたしは徳さんの死から惹《ひ》いて、その妹のお玉さんの悲しい身の上をも考えさせられた。
 お玉さんは親代々の江戸っ児で、阿父《おとっ》さんは立派な左官の棟梁《とうりょう》株であったと聞いている。昔はどこに住んでいたか知らないが、わたしが麹町の元園町に引っ越して来た時には、お玉さんは町内のあまり広くもない路地の角に住んでいた。わたしの父はその路地の奥のあき地に平家《ひらや》を新築して移った。お玉さんの家は二階家で、東の往来にむかった格子作りであった。あらい格子の中は広い土間になっていて、そこには漆喰《しっくい》の俵や土舟《つちぶね》などが横たわっていた。住居の窓は路地のなかの南にむかっていて、住居につづく台所のまえは南から西へ折りまわした板塀に囲まれていた。塀のうちには小さい物置と四、五坪の狭い庭があって、庭には柿や桃や八つ手のたぐいが押しかぶさるように繁り合っていた。いずれも庭不相当の大木であった。二階はどうなっているか知らないが、わたしの記憶しているところでは、一度も東向きの窓を明けたことはなかった。北隣りには雇い人の口入屋《くちいれや》があった。どういうわけか、お玉さんの家《うち》とその口入屋とはひどく仲が悪くって、いつも喧嘩が絶えなかった。
 わたしが引っ越して来た頃には、お玉さんの阿父さんという人はもう生きていなかった。阿母《おっか》さんと兄の徳さんとお玉さんと、水入らずの三人暮らしであった。
 阿母さんの名は知らないが、年の頃は五十ぐらいで、色の白い、痩形で背のたかい、若いときには先ず美《い》い女の部であったらしく思われる人であった。徳さんは二十四、五で、顔付きもからだの格好も阿母さんに生き写しであったが、男としては少し小柄の方であった。それに引きかえて妹のお玉さんは、眼鼻立ちこそ兄さんに肖《に》ているが、むしろ兄さんよりも大柄の女で、平べったい顔と厚ぼったい肉とをもっていた。年は二十歳《はたち》ぐらいで、いつも銀杏がえしに髪を結って、うすく白粉《おしろい》をつけていた。
 となりの口入屋ばかりでなく、近所の人はすべてお玉さん一家に対してあまりいい感情をもっていないらしかった。お玉さん親子の方でも努めて近所との交際《つきあい》を避け、孤立の生活に甘んじているらしかった。阿母さんは非常に口やかましい人で、私たち子供仲間から左官屋の鬼婆と綽名《あだな》されていた。
 お玉さんの家の格子のまえには古風の天水桶があった。私たちがもしその天水桶のまわりに集まって、夏はぼうふらを探し、冬は氷をいじったりすると、阿母さんはたちまちに格子をあけて、「誰だい、いたずらするのは……」と、かみ付くように呶鳴りつけた。雨のふる日に路地をぬける人の傘が、お玉さんの家の羽目か塀にがさりとでも障《さわ》る音がすると、阿母さんはすぐに例の「誰だい」を浴びせかけた。わたしも学校のゆきかえりに、たびたびこの阿母さんから「誰だい」と叱られた。
 徳さんは若い職人に似合わず、無口で陰気な男であった。見かけは小粋な若い衆であったが、町内の祭りなどにも一切《いっさい》かかりあったことはなかった。その癖、内で一杯飲むと、阿母さんやお玉さんの三味線で清元や端唄《はうた》を歌ったりしていた。お玉さんが家《うち》じゅうで一番陽気な質《たち》らしく、近所の人をみればいつもにこにこ笑って挨拶していた。しかし阿母さんや兄さんがこういう風変りであるので、娘盛りのお玉さんにも親しい友達はなかったらしく、麹町通りの夜店をひやかしにゆくにも、平河天神の縁日に参詣するにも、お玉さんはいつも阿母さんと一緒に出あるいていた。時どきに阿母さんと連れ立って芝居や寄席へ行くこともあるらしかった。
 この一家は揃《そろ》って綺麗好きであった。阿母さんは日に幾たびも格子のまえを掃いていた。お玉さんも毎日かいがいしく洗濯や張り物などをしていた。それで決して髪を乱していたこともなく、毎晩かならず近所の湯に行った。徳さんは朝と晩とに一日二度ずつ湯にはいった。
 徳さん自身は棟梁株ではなかったが、一人前の職人としては相当の腕をもっているので、別に生活に困るような風はみせなかった。お玉さんもいつも小綺麗な装《なり》をしていた。近所の噂によると、お玉さんは一度よそへ縁付いて子供まで生んだが、なぜだか不縁になって帰って来たのだと云うことであった。そのせいか、私がお玉さんを知ってからもう三、四年も経っても、嫁にゆくような様子は見えなかった。お玉さんもだんだんに盛りを通り過ぎて、からだの幅のいよいよ広くなってくるのばかりが眼についた。
 そのうちに誰が云い出したのか知らないが、お玉さんには旦那があるという噂が立った。もちろん旦那らしい人の出入りする姿を見かけた者はなかった。お玉さんの方から泊まりにゆくのだと、ほんとうらしく吹聴《ふいちょう》する者もあった。その旦那は異人さんだなどと云う者もあった。しかしそれには、どれも確かな証拠はなかった。この怪《け》しからぬ噂がお玉さん一家の耳にも響いたらしく、その後のお玉さんの様子はがらりと変って、買物にでも出るほかには、滅多にその姿を世間へ見せないようになった。近所の人たちに逢っても情《すげ》なく顔をそむけて、今までのようなにこにこした笑い顔を見せなくなった。三味線の音もちっとも聞かせなくなった。
 なんでもその明くる年のことと記憶している。日枝《ひえ》神社の本祭りで、この町内では踊り屋台を出した。しかし町内には踊る子が揃わないので、誰かの発議でそのころ牛込《うしごめ》の赤城下《あかぎした》にあった赤城座という小芝居の俳優《やくしゃ》を雇うことになった。俳優はみんな十五、六の子供で、嵯峨《さが》や御室《おむろ》の花盛り……の光国と瀧夜叉《たきやしゃ》と御注進の三人が引抜いてどんつく[#「どんつく」に傍点]の踊りになるのであった。この年の夏は陽気がおくれて、六月なかばでも若い衆たちの中形《ちゅうがた》のお揃い着がうすら寒そうにみえた。宵宮《よみや》の十四日には夕方から霧のような細かい雨が花笠の上にしとしと[#「しとしと」に傍点]と降って来た。
 踊り屋台は湿れながら町内を練り廻った。囃子の音が浮いてきこえた。屋台の軒にも牡丹《ぼたん》のような紅い提灯がゆらめいて、「それおぼえてか君様《きみさま》の、袴も春のおぼろ染……」瀧夜叉がしどけない細紐《しごき》をしゃんと結んで少しく胸をそらしたときに、往来を真黒《まっくろ》にうずめている見物の雨傘が一度にゆらいだ。
「うまいねえ。」
「上手だねえ。」
「そりゃほんとの役者だもの。」
 こんな褒《ほ》め詞《ことば》がそこにもここにも囁《ささや》かれた。
 お玉さんの家の人たちも格子のまえに立って、同じくこの踊り屋台を見物していたが、お玉さんの阿母さんはさも情けないと云うように顔をしかめて、誰に云うともなしに舌打ちしながら小声で罵った。
「なんだろう、こんな小穢《こぎたな》いものを……。芸は下手でも上手でも、お祭りには町内の娘さん達が踊るもんだ。こんな乞食芝居みたいなものを何処《どっ》からか引っ張って来やあがって、お祭りも無いもんだ。ああ、忌《いや》だ、忌だ。長生きはしたくない。」
 こう云って阿母さんは内へつい[#「つい」に傍点]と引っ込んでしまった。お玉さんも徳さんもつづいてはいってしまった。
「鬼婆ァめ、お株を云ってやあがる。長生きがしたくなければ、早くくたばってしまえ。」と、花笠をかぶった一人が罵った。
 それが讖《しん》をなしたわけでもあるまいが、阿母さんはその年の秋からどっと寝付いた。その頃には庭の大きい柿の実もだんだん紅《あか》らんで、近所のいたずら小僧が塀越しに竹竿を突っ込むこともあったが、阿母さんは例の「誰だい」を呶鳴る元気もなかった。そうして、十一月の初めにはもう白木の棺にはいってしまった。さすがに見ぬ顔もできないので、葬式には近所の人が五、六人見送った。おなじ仲間の職人も十人ばかり来た。寺は四谷の小さい寺であったが、葬儀の案外立派であったのには、みんなもおどろかされた。当日の会葬者一同には白強飯《しろこわめし》と煮染《にしめ》の弁当が出た。三十五日には見事な米饅頭《よねまんじゅう》と麦饅頭との蒸物《むしもの》に茶を添えて近所に配った。
 万事が案外によく行きとどいているので、近所の人たちも少し気の毒になったのと、もう一つは口やかましい阿母さんがいなくなったと云うのが動機になって、以前よりは打ち解けて附き合おうとする人も出来たが、なぜかそれも長くつづかなかった。三月《みつき》半年と経つうちに、近所の人はだんだんに遠退《とおの》いてしまって、お玉さんの兄妹《きょうだい》は再び元のさびしい孤立のすがたに立ち帰った。
 それでも或る世話好きの人がお玉さんに嫁入りさきを媒妁しようと、わざわざ親切に相談にゆくと、お玉さんは切り口上でことわった。
「どうせ異人の妾《めかけ》だなんて云われた者を、どこでも貰って下さる方はありますまい。」
 その人も取り付く島がないので引き退がった。これに懲《こ》りて誰もその後は縁談などを云い込む人はなかった。
 詳しく調べたならば、その当時まだほかにもいろいろの出来事があったかも知れないが、学校時代のわたしは斯《こ》うした問題に就いてあまり多くの興味をもっていなかったので、別に穿索《せんさく》もしなかった。むかしのお玉さん一家に関して、わたしの幼い記憶に残っているのは先ずこのくらいのことに過ぎなかった。
 こんなことをそれからそれへと手繰り出して考えながら、わたしはいつの間にか流し場へ出て、半分は浮わの空で顔や手足を洗っていた。石鹸の泡が眼にしみたのに驚いて、わたしは水で顔を洗った。それから風呂へはいって、再び柚湯に浸っていると、薬局生もあとからはいって来た。そうして、又こんなことを話しかけた。
「あの徳さんという人は、まあ行き倒れのように死んだんですね。」
「行き倒れ……。」と、わたしは又おどろいた。
「病気が重くなっても、相変らず自分の方から診察を受けにかよって来ていたんです。そこで今朝も家を出て、薬罐《やかん》をさげてよろよろと歩いてくると、床屋《とこや》の角の電信柱の前でもう歩けなくなったんでしょう、電信柱に寄り掛かってしばらく休んでいたかと思ううちに、急にぐたぐたと頽《くず》れるように倒れてしまったんです。床屋でもおどろいて、すぐに店へかかえ込んで、それから私の家《うち》へ知らせて来たんですが、先生の行った頃にはもういけなくなっていたんです。」
 こんな話を聴かされて、私はいよいよ情けなくなって来た。折角の柚湯にもいい心持に浸っていることは出来なくなった。私はからだをなま拭きにして早々に揚がってしまった。

     二

 家へ帰ってからも、徳さんとお玉さんのことが私の頭にまつわって離れなかった。殊にきょうの柚湯については一つの思い出があった。
 わたしは肩揚げが取れてから下町《したまち》へ出ていて、山の手の実家へは七、八年帰らなかった。それが或る都合で再び帰って住むようになった時には、私ももう昔の子供ではなかった。十二月のある晩に遅く湯に行った。今では代が変っているが、湯屋はやはりおなじ湯屋であった。わたしは夜の湯は嫌いであるが、その日は某所の宴会へ行ったために帰宅が自然遅くなって、よんどころなく夜の十一時頃に湯に行くことになった。その晩も冬至の柚湯で仕舞湯《しまいゆ》に近い濁った湯風呂の隅には、さんざん煮くたれた柚の白い実が腐った綿のように穢《きたな》らしく浮いていた。わたしは気味悪そうにからだを縮めてはいっていた。もやもやした白い湯気が瓦斯のひかりを陰らせて、夜ふけの風呂のなかは薄暗かった。
 ※[#歌記号、1-3-28]常から主《ぬし》の仇《あだ》な気を、知っていながら女房に、なって見たいの慾が出て、神や仏をたのまずに、義理もへちまの皮羽織……
 少し錆《さび》のある声で清元《きよもと》を唄っている人があった。音曲《おんぎょく》に就いてはまんざらのつんぼうでもない私は、その節廻しの巧いのに驚かされた。じっと耳をかたむけながら其の声の主を湯気のなかに透かしてみると、それはかの徳さんであった。徳さんが唄うことは私も子供のときから知っていたが、こんなにいい喉《のど》をもっていようとは思いも付かなかった。琵琶《びわ》歌や浪花節が無遠慮に方々の湯屋を掻きまわしている世のなかに、清元の神田祭――しかもそれを偏人のように思っていた徳さんの喉から聞こうとは、まったく思いがけないことであった。
 私のほかには商家の小僧らしいのが二人はいっているきりであった。徳さんはいい心持そうに続けて唄っていた。しみじみと聴いているうちに、私はなんだか寂しいような暗い気分になって来た。お玉さんの兄妹《きょうだい》が今の元園町に孤立しているのも、無理がないようにも思われて来た。
「どうもおやかましゅうございました。」
 徳さんはいい加減に唄ってしまうと、誰に云うとも無しに挨拶して、流し場の方へすたすた出て行ってしまった。そうして、手早くからだを拭いて揚がって行った。私もやがてあとから出た。路地へさしかかった時には、徳さんの家はもう雨戸を閉めて燈火《あかり》のかげも洩れていなかった。霜曇りとも云いそうな夜の空で、弱々しい薄月のひかりが庭の八つ手の葉を寒そうに照らしていた。
 わたしは毎日、大抵明るいうちに湯にゆくので、その柚湯の晩ぎりで再び徳さんの唄を聴く機会がなかった。それから半年以上も過ぎた或る夏の晩に又こんなことがあった。わたしが夜の九時頃に涼みから帰ってくると、徳さんの家のなかから劈《つんざ》くような女の声がひびいた。格子の外には通りがかりの人や近所の子供がのぞいていた。
「なんでえ、畜生。ざまあ見やがれ、うぬらのような百姓に判るもんか。」
 それはお玉さんの声らしいので、私はびっくりした。なにか兄妹喧嘩でも始めたのかとも思った。店先に涼んでいる八百屋のおかみさんに聞くと、おかみさんは珍しくもないという顔をして笑っていた。
「ええ、気ちがいがまたあばれ出したんですよ。急に暑くなったんで逆上《のぼ》せたんでしょう。」
「お玉さんですか。」
「もう五、六年まえから可怪《おかし》いんですよ。」
 わたしは思わず戦慄した。わたしにはそれが初耳であった。お玉さんはわたしが下町へ行っているあいだに、いつか気ちがいになっていたのであった。私が八百屋のおかみさんと話しているうちにも、お玉さんはなにかしきりに呶鳴っていた。息もつかずに「べらぼう、畜生」などと罵っていた。徳さんの声はちっとも聞こえなかった。
 家《うち》へ帰って其の話をすると、家の者もみんな知っていた。お玉さんの気ちがいと云うことは町内に隠れもない事実であったが、その原因は誰にも判らなかった。しかし別に乱暴を働くと云うのでもなく、夏も冬も長火鉢の前に坐って、死んだように鬱《ふさ》いでいるかと思うと、時々だしぬけに破《わ》れるような大きい声を出して、誰を相手にするとも無しに「なんでえ、畜生、べらぼう、百姓」などと罵りはじめるのであった。兄の徳さんも近頃は馴れたとみえて、別に取り鎮めようともしない。気のおかしい妹一人に留守番をさせて、平気で仕事に出てゆく。近所でも初めは不安に思ったが、これもしまいには馴れてしまって別に気に止める者もなくなった。
 お玉さんは自分で髪を結う、行水《ぎょうずい》をつかう、気分のよい時には針仕事などもしている。そんな時にはなんにも変ったことはないのであるが、ひと月かふた月に一遍ぐらい急にむらむらとなって例の「畜生、べらぼう」を呶鳴り始める。それが済むと、狐が落ちたようにけろり[#「けろり」に傍点]としているのであった。気ちがいというほどのことではない、一種のヒステリーだろうと私は思っていた。気ちがいにしても、ヒステリーにしても、一人の妹があの始末ではさぞ困ることだろうと、わたしは徳さんに同情した。ゆず湯で清元を聴かされて以来、わたしは徳さんの一家を掩《おお》っている暗い影を、悼《いた》ましく眺めるようになって来た。
「畜生……べらぼう」
 お玉さんはなにを罵っているのであろう、誰を呪《のろ》っているのであろう。進んでゆく世間と懸けはなれて、自分たちの周囲に対して無意味の反抗をつづけながら、自然にほろびてゆく、いわゆる江戸っ児の運命をわたしは悲しく思いやった。お祭りの乞食芝居を痛罵《つうば》した阿母さんは、鬼ばばァと謳《うた》われながら死んだ。清元の上手な徳さんもお玉さんも、不幸な母と同じ路をあゆんでゆくらしく思われた。取り分けてお玉さんは可哀そうでならなかった。母は鬼婆、娘は狂女、よくよく呪われている母子《おやこ》だと思った。
 お玉さんは一人も友達をもっていなかったが、私の知っているところでは徳さんには三人の友達があった。一人は地主の長左衛門《ちょうざえもん》さんで、もう七十に近い老人であった。格別に親しく往来をする様子もなかったが、徳さんもお玉さんもこの地主さまにはいつも丁寧に頭をさげていた。長左衛門さんの方でもこの兄妹の顔をみれば打ち解けて話などをしていた。
 もう一人は上田《うえだ》屋という貸本屋の主人であった。上田屋は江戸時代からの貸本屋で、番町《ばんちょう》一円の屋敷町を得意にして、昔はなかなか繁昌したものだと伝えられている。わたしが知ってからでも、土蔵付きの大きい角店で、見るからに基礎のしっかりとしているらしい家構えであった。わたしの家でも此処《ここ》からいろいろの小説などを借りたことがあった。わたしが初めて読んだ里見八犬伝もここの本であった。活版本がだんだんに行なわれるに付けて、むかしの貸本屋もだんだんに亡びてしまうので、上田屋もとうとう見切りをつけて、日清戦争前後に店をやめてしまった。しかしほかにも家作《かさく》などをもっているので、店は他人にゆずって、自分たちは近所でしもた家[#「しもた家」に傍点]暮らしをすることになった。ここの主人ももう六十を越えていた。徳さんの兄妹は時々ここへ遊びに行くらしかった。もう一人はさっき湯で逢った建具屋のおじいさんであった。この建具屋の店にも徳さんが腰をかけている姿を折りおりに見た。
 こう列べて見渡したところで、徳さんの友達には一人も若い人はなかった。地主の長左衛門さんも、上田屋の主人も、徳さんとほとんど親子ほども歳が違っていた。建具屋の親方も十五、六の歳上であった。したがって、これらの老いたる友達は、頼りない徳さんをだんだんに振り捨てて、別の世界へ行ってしまった。上田屋の主人が一番さきに死んだ。長左衛門さんも死んだ。今生き残っているのは建具屋のおじいさん一人であった。

     三

 わたしの家《うち》では父が死んだのちに、おなじ路地のなかで南側の二階家にひき移って、わたしの家の水口《みずぐち》がお玉さんの庭の板塀と丁度むかい合いになった。わたしの家の者が徳さんと顔を見合せる機会が多くなった。それでも両方ながら別に挨拶もしなかった。その時はわたしが徳さんの清元を聴いてからもう四、五年も過ぎていた。
 その年の秋に強い風雨《あらし》があって、わたしの家の壁に雨漏りの汚点《しみ》が出た。たいした仕事でもないから近所の人に頼もうと云うことになって、早速徳さんを呼びにやると、徳さんは快《こころよ》く来てくれた。多年近所に住んでいながら、わたしの家で徳さんに仕事を頼むのはこれが初めてであった。わたしはこの時はじめて徳さんと正面にむき合って、親しく彼と会話を交換《かわ》したのであった。
 徳さんはもう四十を三つ四つ越えているらしかった。髪の毛の薄い、色の蒼黒い、眼の嶮《けわ》しい、頤《あご》の尖《とが》った、見るから神経質らしい男で、手足は職人に不似合いなくらいに繊細《かぼそ》くみえた。紺の匂いの新しい印半纏をきて、彼は行儀よくかしこまっていた。私から繕《つくろ》いの注文をいちいち聞いて、徳さんは丁寧に、はきはきと答えた。
「あんな人がなぜ近所と折合いが悪いんだろう。」
 徳さんの帰ったあとで、家内の者はみんな不思議がっていた。あくる日は朝早くから仕事に来て、徳さんは一日黙って働いていた。その働き振りのいかにも親切なのが嬉しかった。今どきの職人にはめずらしいと家内の評判はますますよかった。多寡が壁の繕いであったから、仕事は三日ばかりで済んでしまった。
 徳さんは勘定を受取りにくる時に、庭の青柿の枝をたくさん切って来てくれて、「渋くってとても食べられません、花活けへでもお挿しください。」と云った。
 なるほど粒は大きいが渋くって食えなかった。わたしは床の間の花瓶に挿した。
「妹はこの頃どんな塩梅《あんばい》ですね。」と、そのとき私はふいと訊《き》いてみた。
「お蔭さまでこの頃はだいぶ落ちついているようですが、あいつのこってすから何時あばれ出すか知れやあしません。しかしあいつも我儘《わがまま》者ですから、なまじっかの所へ嫁なんぞに行って苦労するよりも、ああやって家で精いっぱい威張り散らして終る方が、仕合せかも知れませんよ。」と、徳さんは寂しく笑った。「おふくろも丁度あんな人間ですから、みんな血を引いているんでしょうよ。」
 それからだんだんに話してみると、徳さんは妹のことをさのみ苦労にしてもいないらしかった。気のおかしくなるのは当り前だぐらいに思っているらしかった。時どきに大きな声などを出して呶鳴ったり騒いだりしても、近所に対して気の毒だとも思っていないらしかった。しかし徳さんが妹を可愛がっていることは私にもよく判った。かれは妹が可哀そうだから、自分もこの歳まで独身でいると云った。その代りに少しは道楽もしましたと笑っていた。
 これが縁になって、徳さんは私たちとも口を利くようになった。途中で会っても彼は丁寧に時候の挨拶などをした。わたしの家へ仕事に来てから半月ばかりも後のことであったろう、私がある日の夕方銀座から帰ってくると、町内の酒屋の角で徳さんに逢った。
 徳さんも仕事の帰りであるらしく、印半纏を着て手には薄《すすき》のひと束を持っていた。十月の日はめっきり詰まって、酒屋の軒ランプにはもう灯《ひ》がはいっていた。徳さんの持っている薄の穂が夕闇のなかに仄白《ほのじろ》くみえた。
「今夜は十三夜ですか。」と、私はふと思い出して云った。
「へえ、片月見になるのも忌《いや》ですから。」
 徳さんは笑いながら薄をみせた。二人は云い合わしたように暗い空をみあげた。後《のち》の月《つき》は雨に隠れそうな雲の色であった。私はさびしい心持で徳さんと並んであるいた。袷《あわせ》でももう薄ら寒いような心細い秋風が、すすきの白い穂をそよそよと吹いていた。
 路地の入口へ来ると、あかりもまだつけない家の奥で、お玉さんの尖った声がひびいた。
「なんでえ、なに云ってやあがるんでえ。畜生。馬鹿野郎。」
 お玉さんがまた狂い出したかと思うと、私はいよいよ寂しい心持になった。もう珍しくもないので、薄暗い表には誰も覗いている者もなかった。徳さんは黙って私に会釈《えしゃく》して格子をあけてはいった。格子のあく音がきこえると同時に、南向きの窓が内からがらりと明いた。前にも云った通り、窓は南に向いているので、路地を通っている私は丁度その窓から出た女の顔と斜めに向き合った。女の歯の白いのがまず眼について物凄《ものすご》かった。
 わたしは毎朝家を出て、夕方でなければ帰って来ない。お玉さんは滅多《めった》に外へ出たことはない。お玉さんがこのごろ幽霊のように窶《やつ》れているということは、家の者の話には聞いていたが、わたしは直接にその変った姿をみる機会がなくて過ぎた。それを今夜初めて見たのである。お玉さんの平べったい顔は削られたように痩せて尖って、櫛巻《くしまき》にしているらしい髪の毛は一本も乱さずに掻き上げられていた。その顔の色は気味の悪いほどに白かった。
「旦那、旦那。」と、お玉さんはひどく若々しい声で呼んだ。
 私も呼ばれて立ちどまった。
「あなたは洋服を着ているんですか。」
 その時、私は和服を着ていたので、わたしは黙って蝙蝠のように両|袖《そで》をひろげて見せた。お玉さんはかの白い歯をむき出してにやにやと笑った。
「洋服を着て通りゃあがると、あたまから水をぶっ掛けるぞ。気をつけやあがれ。」
 窓はぴっしゃり閉められた。お玉さんの顔は消えてしまった。私は物に魘《おそ》われたような心持で早々に家へ帰った。その当時、わたしは毎日出勤するのに、和服を着て出ることもあれば、洋服を着て出ることもあった。お玉さんから恐ろしい宣告を受けて以来、わたしは洋服を着るのを一時見合せたが、そうばかりもゆかない事情があるので、よんどころなく洋服を着て出る場合には、なるべく足音をぬすんでお玉さんの窓の下をそっと通り抜けるようにしていた。
 それからひと月ばかり経って、寒い雨の降る日であった。わたしは雨傘をかたむけてお玉さんの窓ぎわを通ると、さながら待ち設けていたかのように、窓が不意に明いたかと思うと、柄杓《ひしゃく》の水がわたしの傘の上にざぶりと降って来た。幸いに傘をかたむけていたので、さしたることも無かったが、その時わたしは和服を着ていたにも拘《かかわ》らず、こういう不意討ちの難に出会ったのであった。その以来、自分はもちろん、家内の者にも注意して、お玉さんの窓の下はいつも忍び足で通ることにしていた。それでも時どきに内から鋭い声で叱り付けられた。
「馬鹿野郎。百姓。水をぶっかけるぞ。しっかりしろ。」
 口で云うばかりでない、実際に水の降って来ることがたびたびあった。酒屋の小さい御用聞きなどは寒中に頭から水を浴びせられて泣いて逃げた。近所の子供などは口惜《くや》しがって、窓へ石を投げ込むのもあった。お玉さんも負けずに何か罵りながら、内から頻りに水を振りまいた。石と水との闘いが時どきにこの狭い路地のなかで演ぜられた。
 そのうちにお玉さんの家は路地のそばを三尺通り切り縮められることになった。それは路地の奥の土蔵付きの家へ新しく越して来た某実業家の妾が、人力車の自由に出入りのできるだけに路地の幅をひろげて貰いたいと地主に交渉の結果、路地の入口にあるお玉さんの家をどうしても三尺ほどそぎ取らなければならないことになったのである。こういう手前勝手の要求を提出した人は、地主に対しても無論に高い地代を払うことになったに相違なかった。お玉さんの家の修繕費用も先方で全部負担すると云った。
「長左衛門さんがおいでなら、わたくしも申すこともありますが、今はもう仕様がありません。」と、徳さんは若い地主からその相談を受けた時に、存外素直に承知した。しかし修繕の費用などは一銭も要らないと、きっぱり撥《は》ね付けた。
 それからひと月の後に路地は広くなった。お玉さんの家はそれだけ痩せてしまった。その年の夏も暑かったが、お玉さんの家の窓は夜も昼も雨戸を閉めたままであった。お玉さんの乱暴があまり激しくなったので、徳さんは妹が窓から危険な物を投げ出さない用心に、路地にむかった窓の雨戸を釘付けにしてしまったのであった。お玉さんは内から窓をたたいて何か呶鳴っていた。
 暑さが募るにつれて、お玉さんの病気もいよいよ募って来たらしかった。この頃では家のなかで鉄瓶や土瓶を投げ出すような音もきこえた。ときどきには跣足《はだし》で表へ飛び出すこともあった。建具屋のおじいさんももう見ていられなくなって、無理に徳さんをすすめて妹を巣鴨《すがも》の病院へ入れさせることにした。今の徳さんには入院料を支弁する力もない。さりとて仮りにも一|戸《こ》を持っている者の家族には施療《せりょう》を許されない規定になっているので、徳さんはとうとうその家を売ることになった。そうして、建具屋のおじいさんの尽力で、お玉さんはいよいよ巣鴨へ送られた。それは九月はじめの陰った日で、お玉さんはこの家を出ることを非常に拒《こば》んだ。ようように宥《なだ》めて人力車に乗せると、お玉さんは幌《ほろ》をかけることを嫌った。
「畜生。べらぼう。百姓。ざまあ見やがれ。」
 お玉さんは町じゅうの人を呪うように大きな声で叫びつづけながら、傲然《ごうぜん》として人力車にゆられて行った。わたしは路地の口に立って見送った。建具屋のおじいさんと徳さんとは人力車のあとに付いて行った。
「妹もながなが御厄介になりました。」
 巣鴨から帰って来て、徳さんは近所へいちいち挨拶にまわった。そうして、その晩のうちに世帯をたたんで、元の貸本屋の上田屋の二階に同居した。そのあとへは更に手入れをして質屋の隠居さんが越して来た。近所ではあるが町内が違うので、わたしはその後徳さんの姿を見かけることはほとんど無かった。

 それからまた二年過ぎた。そうして、柚湯の日に徳さんの死を突然きいたのである。徳さんの末路は悲惨であった。しかし徳さんもお玉さんもあくまで周囲の人間を土百姓と罵って、自分たちだけがほんとうの江戸っ児であると誇りつつ、長い一生を強情に押し通して行ったかと思うと、単に悲惨というよりも、むしろ悲壮の感がないでもない。
 そのあくる日の午後にわたしは再び建具屋のおじいさんに湯屋で逢った。おじいさんは徳さんの葬式から今帰ったところだと云った。
「徳の野郎、あいつは不思議な奴ですよ。なんだか貧乏しているようでしたけれど、いよいよ死んでから其の葛籠《つづら》をあらためると、小新しい双子《ふたこ》の綿入れが三枚と羽織が三枚、銘仙の着物と羽織の揃ったのが一組、帯が三本、印半纏が四枚、ほかに浴衣が五枚と、それから現金が七十円ほどありましたよ。ところが、今までめったに寄り付いたことのねえ奴らが、やれ姪《めい》だの従弟《いとこ》だのと云って方々からあつまって来て、片っ端からみんな持って行ってしまいましたよ。世の中は薄情に出来てますね。なるほど徳の野郎が今の奴らと附き合わなかった筈ですよ。」
 わたしは黙って聴いていた。そうして、お玉さんは此の頃どうしているかと訊いた。
「お玉は病院へ行ってから、からだはますます丈夫になって、まるで大道|臼《うす》のように肥ってしまいましたよ。」
「病気の方はどうなんです。」
「いけませんね。もうどうしても癒らないでしょうよ。まあ、あすこで一生を終るんですね。」と、おじいさんは溜息をついた。「だが、当人としたら其の方が仕合せかも知れませんよ。」
「そうかも知れませんね。」
 二人はそれぎり黙って風呂へはいった。[#地付き](掲載誌不詳、『十番随筆』所収)
[#改丁、ページの左右中央に]

   ※[#ローマ数字2、1-13-22] 旅つれづれ

[#改丁]


昔の従軍記者


     *

 ××さん。
 仰せの通り、今回の事変(支那事変)について、北支方面に、上海《シャンハイ》方面に、従軍記者諸君や写真班諸君の活動は実にめざましいもので、毎日の新聞を見るたびに、他人事《ひとごと》とは思われないように胸を打たれます。取分けて私などは自分の経験があるだけに、人一倍にその労苦が思いやられます。
 その折柄、あたかもあなたから「昔の従軍記者」に就《つ》いておたずねがありましたので、自分が記憶しているだけの事を左にお答え申します。御承知の通り、日露戦争の当時、わたしは東京日日新聞社に籍を置いていて、従軍新聞記者として満洲《まんしゅう》の戦地に派遣されましたので、なんと云っても其の当時のことが最も多く記憶に残っていますが、お話の順序として、まず日清戦争当時のことから申上げましょう。
 日清戦争当時は初めての対外戦争であり、従軍記者というものの待遇や取締りについても、一定の規律はありませんでした。朝鮮に東学党の乱が起って、清《しん》国がまず出兵する、日本でも出兵して、二十七年六月十二日には第五師団の混成旅団が仁川《じんせん》に上陸する。こうなると、鶏林《けいりん》(朝鮮の異称)の風雲おだやかならずと云うので、東京大阪の新聞社からも記者を派遣することになりましたが、まだ其の時は従軍記者というわけではなく、各社から思い思いに通信員を送り出したというに過ぎないので、直接には軍隊とは何の関係もありませんでした。
 そのうちに事態いよいよ危急に迫って、七月二十九日には成歓牙山《せいかんがさん》のシナ兵を撃ち攘《はら》うことになる。この前後から朝鮮にある各新聞記者は我が軍隊に附属して、初めて従軍記者ということになりました。戦局がますます拡大するに従って、内地の本社からは第二第三の従軍記者を送って来る。これらはみな陸軍省の許可を受けて、最初から従軍新聞記者と名乗って渡航したのでした。
 これらの従軍記者は宇品《うじな》から御用船に乗り込んで、朝鮮の釜山《ふざん》または仁川に送られたのですが、前にもいう通り、何分にも初めての事で、従軍記者に対する規律というものが無いので、その扮装《ふんそう》も思い思いでした。どの人もみな洋服を着ていましたが、腰に白|木綿《もめん》の上帯を締めて、長い日本刀を携えているのがある。槍《やり》を持っているのがある。仕込杖《しこみづえ》をたずさえているのがある。今から思えば嘘《うそ》のようですが、その当時の従軍記者としては、戦地へ渡った暁《あかつき》に軍隊がどの程度まで保護してくれるか判らない。万一負け軍《いくさ》とでもなった場合には、自衛行動をも執らなければならない。非戦闘員とて油断は出来ない。まかり間違えばシナ兵と一騎討ちをするくらいの覚悟が無ければならないので、いずれも厳重に武装して出かけたわけです。実際、その当時はシナ兵ばかりでなく、朝鮮人だって油断は出来ないのですから、この位の威容を示す必要もあったのです。軍隊の方でも別にそれを咎《とが》めませんでした。

     *

 前にもいう通り、従軍新聞記者に対する待遇や規定がハッキリしていないので、その配属部隊の待遇がまちまちで、非常に優遇するのもあれば、邪魔物扱いにするのもある。記者の方にも、おれは軍人でないから軍隊の拘束を受けない、と云ったような心持があって、めいめいが自由行動を執るという風がある。軍隊の方でも余りやかましく云うわけにも行かない。それがために、軍隊側にも困ることがあり、記者側にも困ることがあり、陣中におけるいろいろの挿話が生み出されたようでした。
 明治三十三年の北清事件当時にも、各新聞社から従軍記者を派出しましたが、これは戦争というほどの事でもないので、やはり日清戦争当時と同様、特に規律とか規定とか云うようなものも設けられませんでした。
 次は三十七、八年の日露戦争で、この時から従軍新聞記者に対する待遇その他が一定されました。従軍記者は大尉相当の待遇を受ける。その代りに軍人と同様、軍隊の規律にいっさい服従すべしと云うことになりました。もう一つ、従軍記者は一社一人に限るというのです。こうなると、画家も写真班も同行することを許されないわけです。
 これには新聞社も困りました。画家や写真班はともあれ、記者一人ではどうにもなりません。軍の方では第一軍、第二軍、第三軍、第四軍を編成して、それが別々の方面へ向って出動するのに、一人の記者が掛持《かけもち》をすることは出来ません。そこで、まず自分の社から一人の従軍願いを出して置いて、さらに他の新聞社の名儀を借りるという方法を案出しました。
 京阪は勿論《もちろん》、地方でも有力の新聞社はみな従軍願いを出していますが、地方の小さい新聞社では従軍記者を出さないのがある。その新聞社の名儀で出願すれば、一社一人は許されるので、東京の新聞社は争って地方の新聞社に交渉することになりました。東京日日新聞社からは黒田《くろだ》甲子郎君がすでに従軍願いを出して、第一軍配属と決定しているので、わたしは東京通信社の名をもって許可を受けました。
 東京通信社などはいい方で、そんな新聞があるか無いか判らないような、遠い地方の新聞社員と称して、従軍願いを出す者が続々あらわれる。陸軍省でその新聞社の所在地を訊《き》かれても、御本人はハッキリと答えることが出来ないと云うような滑稽《こっけい》もありました。陸軍側でもその魂胆を承知していたでしょうが、一社一人の規定に触れない限りは、いずれも許可してくれました。それで東京の各新聞社も少なきは二、三人、多きは五、六人の従軍記者を送り出すことが出来たのでした。
 勿論、それは内地を出発するまでのことで、戦地へ行き着くと皆それぞれに正体をあらわして、自分は朝日だとか日日だとか名乗って通る。配属部隊の方でも怪しみませんでした。しかし袖印《そでじるし》だけは届け出での社名を用いることになっていて、わたしもカーキー服の左の腕に東京通信社と紅《あか》く縫った帛《きれ》を巻いていました。日清戦争当時と違って、槍や刀などを携帯することはいっさい許されません。武器はピストルだけを許されていたので、私たちは腰にピストルを着けていました。

     *

 従軍記者の携帯品は、ピストルのほかに雨具、雑嚢《ざつのう》または背嚢《はいのう》、飯盒《はんごう》、水筒、望遠鏡で、通信用具は雑嚢か背嚢に入れるだけですから、たくさんに用意して行くことが出来ないので困りました。万年筆はまだ汎《ひろ》く行なわれない時代で、万年筆を持っている者は一人もありませんでした。鉛筆は折れ易くて不便であるので、どの人も小さい毛筆を用いていました。従って、矢立《やたて》を持つ者もあり、小さい硯《すずり》と墨を使っている者もあり、今から思えばずいぶん不便でした。
 しかしまた、一利一害の道理で、われわれは机にむかって通信を書く場合はほとんど無い。シナ家屋のアンペラの上に俯伏《うつぶ》して書くか、或いは地面に腹|這《ば》いながら書くのですから、ペンや鉛筆では却《かえ》って不便で、むしろ柔かい毛筆を用いた方が便利だと云う場合もありました。紙は原稿紙などを用いず、巻紙に細かく書きつづけるのが普通でした。
 宿舎は隊の方から指定してくれた所に宿泊することになっていて、妄《みだ》りに宿所を更《か》えることは出来ません。大抵は村落の農家でした。しかし戦闘継続中は隊の方でもそんな世話を焼いていられないので、私たちは勝手に宿所を探さなければなりません。空家へはいったり、古廟《こびょう》に泊まったり、時には野宿することもありました。草原や畑に野宿していると、夜半から寒い雨がビショビショ降り出して来て、あわてて雨具をかぶって寝る。こうなると、少々心細くなります。鬼が出るという古廟に泊まると、その夜なかに寝相《ねぞう》の悪い一人が関羽《かんう》の木像を蹴倒《けたお》して、みんなを驚かせましたが、ほかには怪しい事もありませんでした。鬼が出るなどと云い触らして、土地のごろつきどもの賭場《とば》になっていたらしいのです。
 食事は監理部へ貰《もら》いに行って、米は一人について一日分が六合、ほかに罐詰などの副食物をくれるのですが、時には生きた鷄《とり》や生《なま》の野菜をくれることがある。米は焚《た》かなければならず、鷄や野菜は調理しなければならず、三度の食事の世話もなかなか面倒でした。私たちは七人が一組で、二人の苦力《クーリー》を雇っていましたが、シナの苦力は日本の料理法を知らないので、七人の中から一人の炊事当番をこしらえて、毎日交代で食事の監督をしていました。煮物をするにはシナの塩を用い、或いは醤油エキスを水に溶かして用いました。砂糖は監理部で呉れることもあり、私たちが町のある所へ行って買うこともありました。
 苦力の日給は五十銭でしたが、みな喜んで忠実に働いてくれました。一人は高秀庭《こうしゅうてい》、一人は丁禹良《ていうりょう》というのでしたが、そんなむずかしい名を一々呼ぶのは面倒なので、わたしの考案で一人を十郎《じゅうろう》、他を五郎《ごろう》という事にしました。この二人が「新聞記者雇苦力、十郎、五郎」と大きく書いた白布を胸に縫い付けているので、誰の眼にも着き易く、往来の兵士らが面白半分に「十郎、五郎」と呼ぶので、二人もいちいちその返事をするのに困っているようでした。苦力の曾我《そが》兄弟はまったく珍しかったかも知れません。
 東京へ帰ってから聞きますと、伊井蓉峰《いいようほう》の新派一座が中洲《なかず》の真砂座《まさござ》で日露戦争の狂言を上演、曾我兄弟が苦力に姿をやつして満洲の戦地へ乗り込み、父の仇《かたき》の露国将校を討ち取るという筋であったそうで、苦力の五郎十郎が暗合《あんごう》しているには驚きました。但《ただ》し私たちの五郎十郎は正真正銘の苦力で、かたき討などという芝居はありませんでした。

     *

「なにか旨《うま》い物が食いたいなあ。」
 そんな贅沢《ぜいたく》を云っているのは、駐屯無事の時で、ひとたび戦闘が開始すると、飯どころの騒ぎでなく、時には唐蜀黍《とうもろこし》を焼いて食ったり、時には生玉子二個で一日の命を繋《つな》いだこともありました。沙河《しゃか》会戦中には、農家へはいって一椀の水を貰《もら》ったきりで、朝から晩まで飲まず食わずの日もありました。不眠不休の上に飲まず食わずで、よくも達者に駈け廻られたものだと思いますが、非常の場合にはおのずから非常の勇気が出るものです。そんな場合でも露西亜兵《ロシアへい》携帯の黒パンはどうしても喉《のど》に通りませんでした。シナ人が常食の高梁《コーリャン》も再三試食したことがありますが、これは食えない事もありませんでした。戦闘が始まると、シナ人はみな避難してしまうので、その高梁飯も戦闘中には求めることが出来ず、空腹をかかえて駈けまわることになるのです。
 燈火は蝋燭《ろうそく》か火縄で、物をかく時は蝋燭を用い、暗夜に外出する時には火縄を用いるのですが、この火縄を振るのが案外にむずかしく、緩《ゆる》く振れば消えてしまい、強く振れば振り消すと云うわけで、五段目の勘平《かんぺい》のような器用なお芝居は出来ません。今日《こんにち》ならば懐中電燈もあるのですが、不便なことの多い時代、殊《こと》に戦地ですから已《や》むを得ないのです。火縄を振るのは路《みち》を照らす為ばかりでなく、野犬を防ぐためです。満洲の野原には獰猛《どうもう》な野犬の群れが出没するので困りました。殊にその野犬は戦場の血を嘗《な》めているので、ますます獰猛、ほとんど狼にひとしいので、我々を恐れさせました。そのほかには、蝎《さそり》、南京《ナンキン》虫、虱《しらみ》など、いずれも夜となく、昼となく、我々を悩ませました。蝎に螫《さ》されると命を失うと云うので、虱や南京虫に無神経の苦力らも、蝎と聞くと顔の色を変えました。
「新聞記者に危険はありませんか。」
 これはしばしばたずねられますが、決して危険がないとは云えません。従軍記者も安全の場所にばかり引き籠っていては、新しい報告も得られず、生きた材料も得られませんから、危険を冒《おか》して奔走しなければなりません。文字通りに、砲烟弾雨《ほうえんだんう》の中をくぐることもしばしばあります。日清戦争には二六新報の遠藤《えんどう》君が威海衛《いかいえい》で戦死しました。日露戦争には松本日報の川島《かわしま》君が沙河で戦死しました。川島君は砲弾の破片に撃たれたのです。私もその時、小銃弾に帽子を撃ち落されましたが、幸いに無事でした。その弾丸がもう一寸《いっすん》と下がっていたら、唯今《ただいま》こんなお話をしてはいられますまい。私のほかにも、こういう危険に遭遇して、危く免れた人々は幾らもあります。殊に今日《こんにち》は空爆ということもありますから、いよいよ油断はなりません。
 今度の事変にも、北支に、上海に、もう幾人かの死傷者を出したようです。この事変がどこまで拡大するか知れませんが、従軍記者諸君のあいだに此の以上の犠牲者を出さないようにと、心から祈って居ります。[#地付き](昭和12・8稿・『思ひ出草』所収)
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苦力とシナ兵


     一

 昨今は到るところで満洲の話が出るので、わたしも在満当時のむかしが思い出されて、いわゆる今昔《こんじゃく》の感が無いでもない。それは文字通りの今昔で、今から約三十年の昔、私は東京日日新聞の従軍記者として、日露戦争当時の満洲を奔走していたのである。
 それについての思い出話を新聞紙上にも書いたが、それからそれへと繰り出して考えると、まだ云い残したことが随分《ずいぶん》ある。そのなかで苦力《クーリー》のことを少しばかり書いてみる。
 シナの苦力は世界的に有名なもので、それがどんなものであるかは誰でも知っているのであるから、今あらためてその生活などに就いて語ろうとするのではない。ただ、ひと口に苦力といえば、最も下等な人間で、横着で、狡猾《こうかつ》で、吝嗇《りんしょく》で、不潔で、ほとんど始末の付かない者のように認められているらしいが、必ずしもそんな人間ばかりで無いと云うことを、私の実験によって語りたいと思うのである。
 私が戦地にある間に、前後三人の苦力を雇った。最初は王福《おうふく》、次は高秀庭《こうしゅうてい》、次は丁禹良《ていうりょう》というのであった。
 最初の王福は一番若かった。彼は二十歳で、金州《きんしゅう》の生まれであると云った。戦時であるから、かれらも用心しているのかも知れないが、極めて柔順で、よく働いた。一日の賃銀は五十銭であったが、彼は朝から晩まで実によく働いて、われわれ一行七人の炊事から洗濯その他の雑用を、何から何まで彼一人で取《とり》り賄《まかな》ってくれた。
 彼は煙草《たばこ》をのむので、私があるとき菊世界という巻莨《まきたばこ》一袋をやると、彼は拝して受取ったが、それを喫《の》まなかった。自分の兄は日本軍の管理部に雇われているから、あしたの朝これを持って行ってやりたいと云うのである。われわれの宿所から管理部までは十町ほども距《はな》れている。彼は翌朝、忙がしい用事の隙《すき》をみて、その莨を管理部の兄のところへ届けに行った。
 それから二、三日の後、私が近所を散歩していると、彼は他の苦力と二人づれで、路《みち》ばたの露店の饅頭《まんとう》を食っていたが、私の姿をみると直《す》ぐに駈けて来た。連れの苦力は彼の兄であった。兄は私にむかって、丁寧に先日の莨の礼を述べた。いかに相手が苦力でも、一袋の莨のために兄弟から代るがわるに礼を云われて、私はいささか極まりが悪かった。
 その後、注意して見ると、彼は時どきに兄をたずねて、二人が連れ立って何か食いに行くらしい。どちらが金を払うのか知らないが、兄弟仲のいいことは明らかに認められた。私は兄の顔をみると、莨をやることにしていたが、二、三回の後に兄はことわった。
 大人《たいじん》の莨の乏しいことは私たちも知っていると、彼は云うのである。実際、戦地では莨に不自由している。彼はさらに片言《かたこと》の日本語で、こんな意味のことを云った。
「管理部の人、みな莨に困っています。この莨、わたくしに呉れるよりも、管理部の人にやってください。」
 私は無言でその顔をながめた。勿論、多少のお世辞もまじっているであろうが、苦力の口から斯《こ》ういう言葉を聞こうとは思わなかったのである。これまでとかくに彼らを侮《あなど》っていたことを、私は心ひそかに恥じた。
 金州の母が病気だという知らせを聞いて、王の兄弟は暇《ひま》を取って郷里に帰った。帰る時に、兄も暇乞《いとまご》いに来たが、兄は特に私にむかって、大人はからだが弱そうであるから、秋になったらば用心しろと注意して別れた。
 王福の次に雇われて来たのが、高秀庭である。高は苦力の本場の山東《さんとう》省の生まれであるが、年は二十二歳、これまで上海《シャンハイ》に働いていたそうで、ブロークンながらも少しく英語を話すので調法であった。これも極めて柔順で、すこぶる怜悧《れいり》な人間であった。
 高を雇い入れてから半月ほどの後に、遼陽《りょうよう》攻撃戦が始まったので、私たちは自分の身に着けられるだけの荷物を身に着けた。残る荷物はふた包みにして、高が天秤《てんびん》棒で肩にかついだ。そうして、軍の移動と共に前進していたのであるが、この戦争が始まると、雨は毎日降りつづいた。満洲の秋は寒い。八月の末でも、夜は焚火がほしい位である。その寒い雨に夜も昼も濡《ぬ》れていた為に、一行のうちに風邪をひく者が多かった。私もその一人で、鞍山店《あんざんてん》附近にさしかかった時には九度二分の熱になってしまった。
 他の人々も私の病気を心配して、このままで雨に晒《さら》されているのは良くあるまいというので、苦力の高を添えて私を途中にとどめ、他の人々は前進することになった。鞍山店は相当に繁昌している土地らしいが、ここらの村落の農家はみな何処《どこ》へか避難して、どの家にも人の影はみえない。高は雨の中を奔走して、比較的に綺麗な一軒のあき家を見つけて来てくれた。そこへ私を連れ込んで、彼は直ぐに高梁《コーリャン》を焚いて湯を沸かした。珈琲《コーヒー》に砂糖を入れて飲ませてくれた。前方では大砲や小銃の音が絶え間なしにきこえる。雨はいよいよ降りしきる。こうして半日を寝て暮らすうちに、その日もいつか夜になった。高は蝋燭をとぼして、夕飯の支度にかかった。
 日が暮れると共に、わたしは一種の不安を感じ始めた。以前の王福の正直は私もよく知っていたが、今度の高秀庭の性質はまだ本当にわからない。私の荷物は勿論、一行諸君の荷物もひと纏めにして、彼がみな預かっているのである。私が病人であるのを幸いに、夜なかに持ち逃げでもされては大変である。九度以上の熱があろうが、苦しかろうが、今夜は迂濶《うかつ》に眠られないと、私は思った。
 そうは思いながらも、高の煮てくれた粥《かゆ》を食って、用意の薬を飲むと、なんだかうとうと[#「うとうと」に傍点]と眠くなって来た。ふと気が付くと、枕もとの蝋燭が消えている。マッチを擦って時計をみると、今夜はもう九時半を過ぎている、高の姿はみえない。はっ[#「はっ」に傍点]と思って、私は直ぐに飛び起きた。
 しかし荷物の包みはそのままになっている。調べてみると、品物には異状はないらしい。それでやや安心したが、それにしても彼はどこへ行ったのであろう。二、三度呼んでみたが返事もない。台所の土間にも姿はみえない。この雨の夜にどこへも行くはずはない、あるいは何かの事情で私を置き去りにして行ったのかとも思った。なにしろ、これだけの荷物がある以上、油断してはいられないと思ったので、私は毛布を着て起き直った。砲声はやや衰えたが、雨の音は止まない。夜の寒さは身にしみて来た。
 それから二時間ほどの後である。高は濡《ぬ》れて帰って来た。彼は一枚の毛布を油紙のようなものに包んで抱えていた。
 これで事情は判明した。彼は昼間から私の容体を案じていたのであるが、日が暮れていよいよ寒くなって来たので、彼は私のために更に一枚の毛布を工面《くめん》に行ったのである。われわれの食物その他はすべて管理部で支給されるのであるから、彼は管理部をたずねて行った。戦闘開始中は管理部も後方に引き下がっているのであるから、彼は暗い寒い雨の夜に一里余の路を引返して、ようように管理部のありかを探し当てたが、管理部でも毛布までは支給されないという。第一、余分の毛布もないのである。それでも彼はいろいろに事情を訴えて、一枚の古毛布を借りて来て、病める岡大人――岡本の一字を略して云う――に着せてくれる事になったのである。
 私は感謝を通り越して、なんだか悲しいような心持になった。前にもいう通り、私たちはとかくに苦力らを侮蔑する心持がある。その誤りをさきに王福の兄弟に教えられ、今はまた、高秀庭に教えられた。いたずらに皮相を観て其の人を侮蔑する――自分はそんな卑しい、浅はかな心の所有者であるかと思うと、私は涙ぐましくなった。その涙は感激の涙でなく、一種の自責の涙であった。
 私は高のなさけに因《よ》って、その夜は二枚の毛布をかさねて眠った。あくる朝は一度ほども熱が下がったのと、前方の戦闘がいよいよ激烈になって来たのとで、私は病いを努《つと》めて前進することにした。高は彼《か》の古毛布を斜めに背負って、天秤の荷物をかついで、私のあとに続いて来た。雨はまだやまなかった。
 最後の丁禹良はやや魯鈍《ろどん》に近い人間で、特に取立てて語るほどの事もなかったが、いわゆる馬鹿正直のたぐいで、これも忠実勤勉であった。それでも「わたしも今に高のようになりたい」などと云っていた。高秀庭はその勤勉が管理部の眼にもとまり、私たちの方でも推薦して苦力頭の一人に採用されたからである。苦力頭は軍隊使用の苦力らの取締役のようなもので、胸には徽章《きしょう》をつけ、手には紫の総《ふさ》の付いている鞭《むち》を持っている。丁のような人の眼にも、それが羨《うらや》ましく見えたのであろう。
 彼らに就いては、まだ語ることもあるが、余り長くなるからこの位にとどめて置く。いずれにしても、私たちの周囲にいた苦力らは前に云ったような次第で、ことごとく忠実善良の人間ばかりであった。私たちの運がよかったのかも知れないが、あながちにそうばかりとも思われない。
 多数のなかには、横着な者も狡猾な者もいるには相違ないが、苦力といえば一概に劣等の人間と決めてしまうのは、正しい観察ではないと思われる。それと反対に、私は苦力という言葉を聞くと、王福の兄弟や、高秀庭や、丁禹良らの姿が眼に浮かんで、苦力はみな善良の人間のように思われてならない。これも勿論、正しい観察ではあるまいが――。

     二

 今度は少しくシナの兵士について語りたい。
 シナの兵隊も苦力と共に甚だ評判の悪いものである。シナ兵は怯懦《きょうだ》である、曰《いわ》く何、曰く何、一つとしてよいことは無いように云われている。しかも彼らの無規律であり怯懦であるのは、根本の軍隊組織や制度が悪いためであって、彼らの罪ではない。
 現在のシナのような、軍隊組織や制度の下《もと》にあっては、いかなる兵でも恐らく勇敢には戦い得まいと思う。個人としてのシナ兵が弱いのではなく、根本の制度が悪いのである。新たに建設された満洲国はどんな兵制を設けるか知らないが、在来の制度や組織を変革して、よく教えよく戦わしむれば、十分に国防の任務を果たし得る筈である。
 それよりも更に変革しなければならないのは、軍隊に対する一般国民の観念である。由来、文を重んずるはシナの国風であるが、それが余りに偏重し過ぎていて、文を重んずると反対に武を嫌い、武を憎むように慣らされている。シナの人民が兵を軽蔑し憎悪することは、実に我々の想像以上である。
「好漢|不当兵《へいにあたらず》」とは昔から云うことであるが、いやしくも兵と名が付けば、好漢どころか、悪漢、無頼漢を通り越して、ほとんど盗賊類似のように考えられている。そういう国民のあいだから忠勇の兵士を生み出すことの出来ないのは判り切っている。
 私は遼陽城外の劉《りゅう》という家《うち》に二十日余り滞在していたことがある。農であるが、先ずここらでは相当の大家《たいけ》であるらしく、男の雇人が十数人も働いていた。そのなかに二十五、六の若い男があって、やはり他の雇人と同じ服装をして同じように働いているが、その人柄がどこやら他の朋輩《ほうばい》と違っていて、私たちに対しても特に丁寧に挨拶する。私たちのそばへ寄って来て特に親しく話しかけたりする。すべてが人を恋しがるような風が見えて、時には何となく可哀そうなように感じられることがある。早く云えば、継子《ままこ》が他人を慕うというような風である。
 これには何か仔細《しさい》があるかと思って、あるとき他の雇人に訊いてみると、果たして仔細がある。彼はこの家の次男で、本来ならば相当の土地を分配されて、相当の嫁を貰って、立派に一家の旦那様で世を送られる身の上であるが、若気《わかげ》の誤まり――と、他の雇人は云った。――十五、六歳の頃から棒を習った。それまではまだ好《よ》いのであるが、それから更に進んで兵となって、奉天《ほうてん》歩隊に編入された。所詮《しょせん》、両親も兄も許す筈はないから、彼は無断で実家を飛び出して行ったのである。
 それから二、三年の後、彼は伍長か何かに昇進して、軍服をつけて、赤い毛を垂れた軍帽をかぶって、久しぶりで実家をおとずれると、両親も兄も逢わなかった。雇人らに命じて、彼を門外へ追い出させた。さらに転じて近所の親類をたずねると、どこの家でも門を閉じて入れなかった。彼はすごすご[#「すごすご」に傍点]と立ち去った。
 それからまた二、三年、前後五、六年の軍隊生活を送った後に、彼は兵に倦《あ》きたか、故郷が恋しくなったか、軍服をぬいで実家へ帰って来たが、実家では入れなかった。親類も相手にしなかった。それでも土地の二、三人が彼を憫《あわ》れんで、彼のために実家や親類に嘆願して、今後は必ず改心するという誓言の下《もと》に、両親や兄のもとに復帰することを許された。先ず勘当が赦《ゆる》されたという形である。
 しかも彼は直ちに劉家の次男たる待遇を受けることを許されなかった。帰参は叶《かな》ったというものの、当分は他の雇人と同格の待遇で、雇人同様に立ち働かなければならなかった。彼はその命令に服従して、朝から晩まで泥だらけになって働いているのである。当分と云っても、もう二年以上になるが、彼はまだ本当の赦免に逢わない。彼は今年二十六歳であるが、恐らく三十歳になるまではそのままであろうという。
 その話を聞かされて、私はいよいよ可哀そうになった。いかに国風とは云いながら、兵になったと云うことがそれ程の罪であろうか。それに伴って、何か他に悪事でも働いたというならば格別、単に軍服を身に纏ったと云うだけのことで、これほどの仕置を加えるのは余りに残酷であると思った。彼が肩身を狭くして、一種の継子のような風をして、他国人の私たちを恋しがるのも無理はない。その以来、私は努めて彼に対して親しい態度を執るようにすると、彼もよろこんで私に接近して来た。
 ある日、私が城内へ買物にゆくと、その帰り途で彼に逢った。彼も何か買物にやられたとみえて、大きい包みをかついでいた。それでも直ぐに私のそばへ駈け寄って来て、私の荷物を持ってくれた。一緒に帰る途中、私は彼にむかって「お前も骨が折れるだろう。」と慰めるように云うと、彼は「私が悪いのだ。」と答えた。彼自身も飛んだ心得違いをしたように後悔しているらしかった。
 これはほんの一例に過ぎないが、良家の子が兵となれば、結局こんなことになるのである。入営の送迎に旗を立ててゆく我が国風とは、あまりに相違しているではないか。いかなる名将勇士でも、国民の後援がなければ思うようの働きは出来ない。その国民がこの如くに兵を嫌い兵を憎むようでは、士気の振わないのも当然であるばかりか、まじめな人間は兵にならない。兵の素質の劣悪もまた当然であると云うことを、私はつくづく感じた。
 平和を愛するのはいい。しかしこれほどに武を憎む国民は世界の優勝国民になり得ない。シナはあまりに文弱であり過ぎる。これと反対の一例を私が実験しているだけに、この際いよいよその感を深うしたのである。
 劉家へ来るひと月ほど以前に、私は海城《かいじょう》北方の李家屯《りかとん》という所に四日ばかり滞在したことがある。これも相当の大家であったが、私が宿泊の第一日には家人は全く姿をみせず、老年の雇人ひとりが来て形式的の挨拶をしただけで、万事の待遇が甚だ冷淡であった。
 その第二日に、その家の息子らしい十二、三歳の少年が私の居室の前に遊んでいた。彼は私の持っている扇をみて、しきりに欲しそうな顔をしているので、私はその白扇に漢詩の絶句をかいてやると、彼はよろこんで貰って行った。すると、一時間あまりの後に、その家の長男という二十二、三歳の青年が衣服をあらためて挨拶に来て、先刻の扇の礼を云った。青年は相当の教育を受けているらしく、自由に筆談が出来るので、だんだん話し合ってみると、この一家の人々は私がカーキー服を来て半武装をしているのを見て、やはり軍人であると思っていたらしい。しかも白扇の題詩を見るに及んで、私が軍人でないことを知ったというのである。日本の軍人に漢詩を作る人はたくさんあるが、シナにはないと見える。
 ともかくも私が文字の人であることを知ると共に、一家内の待遇が一変した。長男が去ると、やがてまた入れ代って主人が挨拶に来た。日が暮れる頃には酒と肉を贈って来た。他の雇人らも私をみるといちいち丁寧に挨拶するようになった。長男の青年は毎朝かならず挨拶に来て、何か御用は無いかと云った。私がいよいよ出発する時には、主人や息子たちは衣服をあらためて門前まで送って来た。他の雇人らも総出で私に敬礼した。
 敬意を表されて腹の立つ者はない。私もその当時は内々得意であったが、後に遼陽城外の劉家に来て、かの奉天歩隊の勘当息子をみるに及んで、彼らが余りに文を重んじ、武を軽んずるの甚しきを憐《あわ》れむような心持にもなって来た。これではシナの兵は弱い筈である。
 多年の因習、一朝《いっちょう》に一洗することは不可能であるとしても、新興国の当路者がここに意を致すことなくんば、富国はともあれ、強兵の実は遂に挙がるまいと思われる。[#地付き](昭和8・1「文藝春秋」)
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満洲の夏


     池

 この頃は満洲の噂がしきりに出るので、私も一種今昔の感に堪えない。わたしの思い出は可なり古い。日露戦争の従軍記者として、満洲に夏や冬を送った当時のことである。
 満洲の夏――それを語るごとに、いつも先ず思い出されるのは得利寺《とくりじ》の池である。得利寺は地名で、今ではここに満鉄の停車場がある。わたしは八月の初めにここを通過したが、朝から晴れた日で、午後の日盛りはいよいよ暑い。文字通り、雨のような汗が顔から一面に流れ落ちて来た。
「やあ、池がある!」
 沙漠でオアシスを見いだしたように、私たちはその池をさして駈けてゆくと、池はさのみ広くもないが、岸には大きい幾株の柳がすずしい蔭を作って、水には紅白の荷花《はすばな》が美しく咲いていた。
 汗をふきながら池の花をながめて、満洲にもこんな涼味に富んだ所があるかと思った。池のほとりには小さい塾のようなものがあって、先生は半裸体で子どもに三字経を教えていた。わたしはこの先生に一椀の水を貰って、その返礼に宝丹一個を贈って別れた。
 その池、その荷花――今はどうなっているであろう。

     龍

 蓋平《がいへい》に一宿した時である。ここらの八月はじめは日が長い。晴れた日がほんとうに暮れ切るのは、午後十時頃である。
 その午後六時半頃から約四十分ほど薄暗くなったかと思うと、また再び明るくなった。海の方面に大雨が降ったらしいという。やがて七時半に近い頃である。あたりの土着民が俄《にわ》かに騒ぎ出した。
「龍《ロン》! 龍《ロン》!」
 みな口々に叫んで表へかけ出すので、私も好奇心に駆られて出てみると、西の方角――おそらく海であろうと思われる方角にあたって、大空に真黒《まっくろ》な雲が長く大きく動いている。その黒雲のあいだを縫って、金色の光るものが切れぎれに長くみえる。勿論、その頭らしい物は見えないが、金龍の胴とも思われるものが見えつ隠れつ輝いているのである。
 雲は墨よりも黒く、金色は燦《さん》として輝いている。太陽の光線がどういう反射作用をするのか知らないが、見るところ、まさに描ける龍である。
 龍を信ずる満洲人が「龍!」と叫ぶのも無理はないと、私は思った。

     蝎

 南京虫は日本にもたくさん輸入されているから、改めて紹介するまでもないが、満洲の夏において最も我々をおびやかしたものは蝎《さそり》であった。南京虫を恐れない満洲の民も、蝎と聞けば恐れて逃げる。
 蝎も南京虫とおなじく、人家の壁の崩れや、柱の割れ目などに潜《ひそ》んでいる。時には枯草などをたばねた中にも隠れている。しかも南京虫とは違って、その毒は生命に関する。私はある騎兵が右手の小指を蝎に螫《さ》されて、すぐに剣をぬいてその小指を切断したのを見た。
 蝎の毒は蝮《まむし》に比すべきものである。殊に困るのは、その形が甚だ小さく、しかも人家の内に棲息《せいそく》していることである。蝎の年を経たものは大きさ琵琶《びわ》の如しなどと、シナの書物にも出ているが、そんなのは滅多にあるまい。私の見たのは、いずれもこおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]ぐらいであった。
 土地の人は格別、日本人が蝎に襲われたという噂を、近来あまり聞かないのは幸いである。満洲開発と共に、こういう毒虫は絶滅させなければなるまい。
 蝎は敵に囲まれた時は自殺する。おのが尻尾《しっぽ》の剣先をおのが首に突き刺して仆《たお》れるのである。動物にして自殺するのは、恐らく蝎のほかにあるまい。蝎もまた一種の勇者である。

     水

 満洲の水は悪いというので、軍隊が基地点へゆき着くと、軍医部では直ぐにそこらの井戸の水を検査して「飲ムベシ」とか「飲ムベカラズ」とか云う札《ふだ》を立てることになっていた。
 私が海城村落の農家へ泊まりに行くと、あたかも軍医部員が検査に来て、家の前の井戸に木札を立てて行くところであった。見ると、その札に曰く「人馬飲ムベカラズ」
 人間は勿論、馬にも飲ませるなと云うのである。これは大変だと思って、呼びとめて訊くと、「あんな水は絶対に飲んではいけません」という返事である。この暑いのに、眼の前の水を飲むことが出来なくては困ると、わたしはすこぶる悲観していると、それを聞いて宿の主人は声をあげて笑い出した。
「はは、途方もない。わたしの家はここに五代も住んでいます。私も子供のときから、この井戸の水を飲んで育って来たのですよ。」
 今更ではないが「慣れ」ほど怖ろしいものは無いと、わたしはつくづく感じさせられた。しかも満洲の水も「人馬飲ムベカラズ」ばかりではない。わたしが普蘭店《ふらんてん》で飲んだ噴き井戸の水などは清冽《せいれつ》珠《たま》のごとく、日本にもこんな清水は少なかろうと思うくらいであった。

     蛇

 海城の北門外に十日ほど滞留していた時である。八月は満洲の雨季であるので、わが国の梅雨季のように、とかくに細かい雨がじめじめ[#「じめじめ」に傍点]と降りつづく。
 わたしたちの宿舎のとなりに老子《ろうし》の廟があって、滞留の間にあたかもその祭日に逢った。雨も幸いに小歇《こや》みになったので、泥濘《でいねい》の路を踏んで香を献《ささ》げに来る者も多い。縁日商人も店を列《なら》べている。大道芸人の笙《しょう》を吹くもの、蛇皮線《じゃびせん》をひく者、四《よ》つ竹《だけ》を鳴らす者なども集まっている。
 その群れのうちに蛇人《だにん》――蛇つかいの二人連れがまじっていた。おそらく兄弟であろう、兄は二十歳前後、弟は十五、六であるが、いずれも俳優かとも思われるような白面《はくめん》の青年と少年で、服装も他の芸人に比べるとすこぶる瀟洒《しょうしゃ》たる姿であった。
 兄は首にかけている箱から二匹の黒と青との蛇を取出して、手掌《てのひら》の上に乗せると、弟は一種の小さい笛を吹く。兄は何か歌いながら、その蛇を踊らせるのである。踊ると云っても、二匹が絡み合って立つぐらいに過ぎないのであるが、何という楽器か知らないが悲しい笛の音、何という節か知らないが悲しい歌の声、わたしは云い知れない凄愴《せいそう》の感に打たれて、この蛇つかいの兄弟は蛇の化身ではないかと思った。

     雨

 満洲は雨季以外には雨が少ないと云われているが、わたしが満洲に在るあいだは、大戦中のせいか、ずいぶん雨が多かった。
 夏季は夕立めいた雨にもしばしば出逢った。俄雨《にわかあめ》が大いに降ると、思いもよらない処に臨時の河が出来るので、交通に不便を来たすことが往々ある。臨時の河であるから知れたものだと、多寡《たか》をくくって徒渉《としょう》を試みると、案外に水が深く、流れが早く、あやうく押し流されそうになったことも再三あった。何が捕れるか知らないが、その臨時の河に網を入れている者もある。
 遼陽の南門外に宿っている時、宵《よい》から大雨、しかも激しい雷鳴が伴って、大地震のような地響きがするばかりか、真青《まっさお》な電光が昼のように天地を照らすので、戦争に慣れている私たちも少なからず脅《おびや》かされた。

     東京陵

 遼陽の城外に東京陵《トンキンりょう》という古陵がある。昔ここに都していた遼《りょう》(契丹《きったん》)代の陵墓で、周囲には古木がおいしげって、野草のあいだには石馬や石羊の横たわっているのが見いだされる。
 伝えていう、月夜雨夜にここを過ぎると、凄麗の宮女《きゅうじょ》に逢うことがある。宮女は笛を吹いている。その笛の音《ね》にひかれて、宮女のあとを慕って行くものは再び帰って来ないという。シナの小説にでもありそうな怪談である。
 わたしはそれを宿舎の主人に聞きただすと、その宮女は夜ばかりでなく、昼でも陰った日には姿をあらわすことがあると云う。ほんとうに再び帰って来ないのかと念を押すと、そう云って置く方が若い人たちの為であろうと、主人は意味ありげに笑った。
 その笑い顔をみて、わたしも覚った。そんな怖ろしい宮女ならば尋ねに行くのは止めようと云うと、
「好的《ハオデー》」と、主人はまた笑った。[#地付き](昭和7・6「都新聞」)
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仙台五色筆


 仙台《せんだい》の名産のうちに五色筆《ごしきふで》というのがある。宮城野《みやぎの》の萩、末の松山《まつやま》の松、実方《さねかた》中将の墓に生《お》うる片葉の薄《すすき》、野田《のだ》の玉川《たまがわ》の葭《よし》、名取《なと》りの蓼《たで》、この五種を軸としたもので、今では一年の産額十万円に達していると云う。わたしも松島《まつしま》記念大会に招かれて、仙台、塩竈《しおがま》、松島、金華山《きんかざん》などを四日間巡回した旅行中の見聞を、手当り次第に書きなぐるにあたって、この五色筆の名をちょっと借用することにした。
 わたしは初めて仙台の地を踏んだのではない。したがって、この地普通の名所や故蹟《こせき》に対しては少しく神経がにぶっているから、初めて見物した人が書くように、地理や風景を面白く叙述するわけには行かない。ただ自分が感じたままを何でもまっすぐに書く。印象記だか感想録だか見聞録だか、何だか判《わか》らない。

     三人の墓

 仙台の土にも昔から大勢《おおぜい》の人が埋められている。その無数の白骨の中には勿論、隠れたる詩人や、無名の英雄も潜《ひそ》んでいるであろうが、とにかく世にきこえたる人物の名をかぞえると、わたしがお辞儀しても口惜《くや》しくないと思う人は三人ある。曰《いわ》く、伊達政宗《だてまさむね》。曰く、林子平《はやししへい》。曰く、支倉六右衛門《はせくらろくえもん》。今度もこの三人の墓を拝した。
 政宗の姓はダテと読まずに、イダテと読むのが本当らしい。その証拠には、ローマに残っている古文書《こもんじょ》にはすべてイダテマサムネと書いてあると云う。ローマ人には日本字が読めそうもないから、こっちで云う通りをそのまま筆記したのであろう。なるほど文字の上から見てもイダテと読みそうである。伊達という地名は政宗以前から世に伝えられている。藤原秀衡《ふじわらのひでひら》の子供にも錦戸太郎《にしきどたろう》、伊達次郎というのがある。もっとも、これは西木戸太郎、館《たて》次郎が本当だとも云う。太平記にも南部太郎、伊達次郎などと云う名が見えるが、これもイダテ次郎と読むのが本当かも知れない。どのみち、昔はイダテと唱えたのを、後に至ってダテと読ませたに相違あるまい。
 いや、こんな詮議はどうでもいい。イダテにしても、ダテにしても、政宗はやはり偉いのである。独眼龍《どくがんりゅう》などという水滸伝《すいこでん》式の渾名《あだな》を付けないでも、偉いことはたしかに判っている。その偉い人の骨は瑞鳳殿《ずいほうでん》というのに斂《おさ》められている。さきごろの出水に頽《くず》された広瀬《ひろせ》川の堤《どて》を越えて、昼もくらい杉並木の奥深くはいると、高い不規則な石段の上に、小規模の日光廟が厳然《げんぜん》とそびえている。
 わたしは今この瑞鳳殿の前に立った。丈《たけ》抜群の大きい黒犬は、あたかも政宗が敵にむかう如き勢いで吠えかかって来た。大きな犬は瑞鳳殿の向う側にある小さな家から出て来たのである。一人の男が犬を叱りながら続いて出て来た。
 彼は五十以上であろう。色のやや蒼《あお》い、痩形《やさがた》の男で、短く苅った鬢《びん》のあたりは斑《まだら》に白く、鼻の下の髭《ひげ》にも既に薄い霜がおりかかっていた。紺がすりの単衣《ひとえもの》に小倉《こくら》の袴《はかま》を着けて、白|足袋《たび》に麻裏の草履《ぞうり》を穿《は》いていた。伊達家の旧臣で、ただ一人この墳墓を守っているのだと云う。
 わたしはこの男の案内によって、靴をぬいで草履に替え、しずかに石段を登った。瑞鳳殿と記《しる》した白字の額を仰ぎながら、さらに折り曲がった廻廊を渡ってゆくと、かかる場所へはいるたびにいつも感ずるような一種の冷たい空気が、流るる水のように面《おもて》を掠《かす》めて来た。わたしは無言で歩いた。男も無言でさきに立って行った。うしろの山の杉木立では、秋の蝉《せみ》が破《や》れた笛を吹くように咽《むせ》んでいた。
 さらに奥深く進んで、衣冠を着けたる一個の偶像を見た。この瞬間に、わたしもまた一種の英雄崇拝者であると云うことをつくづく感じた。わたしは偶像の前に頭《こうべ》をたれた。男もまた粛然として頭をたれた。わたしはやがて頭をあげて見返ると、男はまだ身動きもせずに、うやうやしく礼拝《らいはい》していた。
 私の眼からは涙がこぼれた。
 この男は伊達家の臣下として、昔はいかなる身分の人であったか知らぬ。また知るべき必要もあるまい。彼はただ白髪の遺臣として長く先君の墓所を守っているのである。維新前の伊達家は数千人の家来をもっていた。その多数のうちには官吏や軍人になった者もあろう、あるいは商業を営んでいる者もあろう。あるいは農業に従事している者もあろう。栄枯浮沈、その人々の運命に因っていろいろに変化しているであろうが、とにもかくにも皆それぞれに何らかの希望をもって生きているに相違ない。この男には何の希望がある。無論、名誉はない。おそらく利益もあるまい。彼は洗い晒《ざら》しの着物を着て、木綿の袴を穿いて、人間の一生を暗い冷たい墓所の番人にささげているのである。
 土の下にいる政宗が、この男に声をかけてくれるであろうか。彼はわが命の終るまで、一度も物を云ってくれぬ主君に仕えているのである。彼は経ヶ峯《きょうがみね》の雪を払って、冬の暁に墓所の門を浄《きよ》めるのであろう。彼は広瀬川の水を汲んで、夏の日に霊前の花を供えるのであろう。こうして一生を送るのである。彼に取ってはこれが人間一生の務めである。名誉もいらぬ、利益もいらぬ、これが臣下の務めと心得ているのである。わたしは伊達家の人々に代って、この無名の忠臣に感謝せねばならない。
 こんなことを考えながら門を出ると、犬はふたたび吠えて来た。

 林子平の墓は仙台市の西北、伊達堂山の下にある、槿《むくげ》の花の多い田舎道をたどってゆくと、路の角に「伊達堂下、此奥に林子平の墓あり」という木札を掛けている。寺は龍雲院というのである。
 黒い門柱がぬっと立ったままで、扉《とびら》は見えない。左右は竹垣に囲まれている。門をはいると右側には百日紅《さるすべり》の大木が真紅《まっか》に咲いていた。狭い本堂にむかって左側の平地に小さな石碑がある。碑のおもては荒れてよく見えないが、六無斎《ろくむさい》友直居士の墓とおぼろげに読まれる。竹の花筒には紫苑《しおん》や野菊がこぼれ出すほどにいっぱい生けてあった。そばには二個の大きな碑が建てられて、一方は太政《だじょう》大臣|三条実美《さんじょうさねとみ》篆額《てんがく》、斎藤竹堂《さいとうちくどう》撰文、一方は陸奥守《むつのかみ》藤原慶邦《ふじわらよしくに》篆額、大槻磐渓《おおつきばんけい》撰文とある。いずれも林子平の伝記や功績を記したもので、立派な瓦家根の家の中に相対して屹立《きつりつ》している。なにさま堂々たるものである。
 林子平はどんなに偉くっても一個の士分の男に過ぎない。三条公や旧藩主は身分の尊い人々である。一個の武士を葬った墓は、雨叩きになっても頽《くず》れても誰も苦情は云うまい。身分の尊い人々の建てられた石碑は、粗末にしては甚だ恐れ多い。二個の石碑が斯くの如く注意を加えて、立派に丁寧に保護されているのは、むしろ当然のことかも知れない。仙台人はまことに理智の人である。
 わが六無斎居士の墓石は風雨多年の後には頽れるかも知れない。いや、現にもう頽れんとしつつある。他の二個の堂々たる石碑は、おそらく百年の後までも朽ちまい。わたしは仙台人の聡明に感ずると同時に、この両面の対照に就いていろいろのことを考えさせられた。

 ローマに使いした支倉六右衛門の墓は、青葉神社に隣りする光明院の内にある。ここも長い不規則の石段を登って行く。本堂らしいものは正面にある。前の龍雲院に比べるとやや広いが、これもどちらかと云えば荒廃に近い。
 案内を乞うと、白地の単衣《ひとえもの》を着た束髪《そくはつ》の若い女が出て来た。本堂の右に沿うて、折り曲がった細い坂路をだらだらと降りると、片側は竹藪《たけやぶ》に仕切られて、片側には杉の木立の間から桑畑が一面に見える。坂を降り尽くすと、広い墓地に出た。
 墓地を左に折れると、石の柵《さく》をめぐらした広い土の真んなかに、小さい五|輪《りん》の塔が立っている。支倉の家はその子の代に一旦亡びたので、墓の在所《ありか》も久しく不分明であったが、明治二十七年に至って再び発見された。草深い土の中から掘り起したもので、五輪の塔とは云うけれども、地・水・火の三輪をとどむるだけで、風《ふう》・空《くう》の二輪は見当らなかったと云う。今ここに立っているのは其の三個の古い石である。
 この墓は発見されてから約二十年になる。その間にはいろいろの人が来て、清い水も供えたであろう、美しい花も捧げたであろう。わたしの手にはなんにも携えていなかった。あいにく四辺《あたり》に何の花もなかったので、わたしは名も知れない雑草のひと束を引き抜いて来て、謹《つつし》んで墓の前に供えた。
 秋風は桑の裏葉を白くひるがえして、畑は一面の虫の声に占領されていた。

     三人の女

 仙台や塩竈《しおがま》や松島で、いろいろの女の話を聞いた。その中で三人の女の話を書いてみる。もとより代表的婦人を選んだという訳でもない、また格別に偉い人間を見いだしたというのでもない、むしろ平凡な人々の身の上を、平凡な筆に因って伝うるに過ぎないのかも知れない。
 塩竈街道の燕沢、いわゆる「蒙古の碑」の付近に比丘尼《びくに》坂というのがある。坂の中途に比丘尼塚の碑がある。無名の塚にも何らかの因縁を付けようとするのが世の習いで、この一片の碑にも何かの由来が無くてはならない。
 伝えて云う。天慶《てんぎょう》の昔、平将門《たいらのまさかど》が亡びた時に、彼は十六歳の美しい娘を後に残して、田原藤太《たわらとうた》の矢先にかかった。娘は陸奥《みちのく》に落ちて来て、尼となった。ここに草の庵《いおり》を結んで、謀叛《むほん》人と呼ばれた父の菩提《ぼだい》を弔《とむら》いながら、往き来の旅人《たびびと》に甘酒を施していた。比丘尼塚の主《ぬし》はこの尼であると。
 わたしは今ここで、将門に娘があったか無かったかを問いたくない。将門の遺族が相馬《そうま》へはなぜ隠れないで、わざわざこんな処へ落ちて来たかを論じたくない。わたしは唯、平親王《へいしんのう》将門の忘れ形見という系図を持った若い美しい一人の尼僧が、陸奥《むつ》の秋風に法衣《ころも》の袖を吹かせながら、この坂の中程に立っていたと云うことを想像したい。
 鎌倉《かまくら》の東慶《とうけい》寺には、豊臣秀頼《とよとみひでより》の忘れ形見という天秀尼《てんしゅうに》の墓がある。かれとこれとは同じような運命を荷《にな》って生まれたとも見られる。芝居や浄瑠璃で伝えられる将門の娘|瀧夜叉姫《たきやしゃひめ》よりも、この尼の生涯の方が詩趣もある、哀れも深い。
 尼は清い童貞の一生を送ったと伝えられる。が、わたしはそれを讃美するほどに残酷でありたくない。塩竈の町は遠い昔から色の港で、出船入り船を迎うる女郎山の古い名が今も残っている。春もたけなわなる朧《おぼろ》月夜に、塩竈通いのそそり節が生暖い風に送られて近くきこえた時、若い尼は無念無想で経を読んでいられたであろうか。秋の露の寒い夕暮れに、陸奥へくだる都の優しい商人《あきうど》が、ここの軒にたたずんで草鞋《わらじ》の緒を結び直した時、若い尼は甘い酒のほかに何物をも与えたくはなかったであろうか。かれは由《よし》なき仏門に入ったことを悔まなかったであろうか。しかも世を阻《せば》められた謀叛《むほん》人の娘は、これよりほかに行くべき道は無かったのである。かれは一門滅亡の恨みよりも、若い女として此の恨みに堪えなかったのではあるまいか。
 かれは甘い酒を人に施したが、人からは甘い情けを受けずに終った。死んだ後には「清い尼」として立派な碑を建てられた。かれは実に清い女であった。しかし将門の娘は不幸なる「清い尼」では無かったろうか。
「塩竈街道に白菊植えて」と、若い男が唄って通った。尼も塩竈街道に植えられて、さびしく咲いて、寂しく萎《しぼ》んだ白菊であった。

 これは比較的に有名な話で、今さら紹介するまでも無いかも知れないが、将門の娘と同じような運命の女だと云うことが、わたしの心を惹いた。
 松島の観音堂のほとりに「軒場《のきば》の梅」という古木がある。紅蓮尼《こうれんに》という若い女は、この梅の樹のもとに一生を送ったのである。紅蓮尼は西行《さいぎょう》法師が「桜は浪に埋もれて」と歌に詠んだ出羽国象潟《でわのくにきさがた》の町に生まれた、商人《あきうど》の娘であった。父という人は三十三ヵ所の観音|詣《もう》でを思い立って、一人で遠い旅へ迷い出ると、陸奥《むつ》松島の掃部《かもん》という男と道中で路連れになった。掃部も観音詣での一人旅であった。二人は仲睦まじく諸国を巡礼し、つつがなく故郷へ帰ることになって、白河の関で袂《たもと》を分かった。関には昔ながらの秋風が吹いていたであろう。
 その時に、象潟の商人は尽きぬ名残《なごり》を惜しむままに、こういう事を約束した。私には一人の娘がある、お前にも一人の息子があるそうだ。どうか此の二人を結び合わせて、末長く睦《むつ》み暮らそうではないか。
 掃部も喜んで承諾した。松島の家へ帰り着いてみると、息子の小太郎《こたろう》は我が不在《るす》の間に病んで死んだのであった。夢かとばかり驚き歎いていると、象潟からは約束の通りに美しい娘を送って来たので、掃部はいよいよ驚いた。わが子の果敢《はか》なくなったことを語って、娘を象潟へ送り還そうとしたが、娘はどうしても肯《き》かなかった。たとい夫たるべき人に一度も対面したことも無く、又その人が已《すで》に此の世にあらずとも、いったん親と親とが約束したからには、わたしは此の家の嫁である、決して再び故郷へは戻らぬと、涙ながらに云い張った。
 哀れとも無残とも云いようがない。私はこんな話を聞くと、身震いするほどに怖ろしく感じられてならない。わたしは決してこの娘を非難《ひなん》しようとは思わない。むしろ世間の人並に健気《けなげ》な娘だと褒めてやりたい。しかもこの可憐の娘を駆っていわゆる「健気な娘」たらしめた其の時代の教えというものが怖ろしい。
 子をうしなった掃部夫婦もやはり其の時代の人であった。つまりは其の願いに任せて、夫の無い嫁を我が家にとどめておいたが、これに婿を迎えるという考えもなかったらしい。こうして夫婦は死んだ。娘は尼になった。
 観音堂のほとりには、小太郎が幼い頃に手ずから植えたという一本の梅がある。紅蓮尼はここに庵《いおり》を結んだ。
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さけかしな今はあるじと眺むべし
     軒端の梅のあらむかぎりは
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 嘘か本当か知らぬが、尼の詠み歌として世に伝えられている。尼はまた、折りおりの手すさびに煎餅を作り出したので、のちの人が尼の名を負わせて、これを「紅蓮」と呼んだと云う。
 比丘尼坂でも甘酒を売っている。松島でも紅蓮を売っている。甘酒を飲んで煎餅をかじって、不運な女二人を弔うと云うのも、下戸《げこ》のわたしに取ってはまことにふさわしいことであった。

 最後には「先代萩」で名高い政岡《まさおか》を挙げる。私はいわゆる伊達騒動というものに就いて多くの知識を持っていない。仙台で出版された案内記や絵葉書によると、院本《まるほん》で名高い局《つぼね》政岡とは三沢初子《みさわはつこ》のことだそうで、その墓は榴《つつじ》ヶ岡下の孝勝寺にある。墓は鉄柵をめぐらして頗る荘重に見える。
 初子は四十八歳で死んだ。かれは伊達|綱宗《つなむね》の側室《そばめ》で、その子の亀千代《かめちよ》(綱村《つなむら》)が二歳で封《ほう》をつぐや、例のお家騒動が出来《しゅったい》したのである。私はその裏面の消息を詳しく知らないが、とにかく反対派が種々の陰謀をめぐらした間に、初子は伊達|安芸《あき》らと心をあわせて、陰に陽に我が子の亀千代を保護した。その事蹟が誤まって、かの政岡の忠節として世に伝えられたのだと、仙台人は語っている。あるいは云う、政岡は浅岡《あさおか》で、初子とは別人であると。あるいは云う、当面の女主人公は初子で、老女浅岡が陰に助力したのであると。
 こんな疑問は大槻博士にでも訊いたら、忽《たちま》ちに解決することであろうが、私は仙台人一般の説に従って、初子をいわゆる政岡として評したい。忠義の乳母《めのと》ももとより結構ではあるが、真実の母としてかの政岡をみた方がさらに一層の自然を感じはしまいか。事実のいかんは別問題として、封建時代に生まれた院本作者が、女主人公を忠義の乳母と定めたのは当然のことである。もし其の作者が現代に生まれて筆を執ったらば、おそらく女主人公を慈愛心の深い真実の母と定めたであろう。とにかく嘘でも本当でも構わない、わたしは「伽羅先代萩《めいぼくせんだいはぎ》」でおなじみの局政岡をこの初子という女に決めてしまった。決めてしまっても差支えがない。
 仙台市の町はずれには、到るところに杉の木立と槿《むくげ》の籬《まがき》とが見られる。寺も人家も村落もすべて杉と槿とを背景にしていると云ってもいい。伊達騒動当時の陰謀や暗殺は、すべてこの背景を有する舞台の上に演じられたのであろう。

     塩竈神社の神楽

 わたしが塩竈の町へ入り込んだのは、松島経営記念大会の第一日であった。碧《あお》暗い海の潮を呑んでいる此の町の家々は彩紙《いろがみ》で造った花紅葉《はなもみじ》を軒にかざって、岸につないだ小船も、水に浮かんだ大船も、ことごとく一種の満艦飾を施していた。帆柱には赤、青、黄、紫、その他いろいろの彩紙が一面に懸け渡されて、秋の朝風に飛ぶようにひらめいている。これを七夕《たなばた》の笹のようだと形容しても、どうも不十分のように思われる。解り易く云えば、子供のもてあそぶ千代紙の何百枚を細かく引き裂いて、四方八方へ一度に吹き散らしたという形であった。
「松島行きの乗合船は今出ます。」と、頻《しき》りに呼んでいる男がある。呼ばれて値を付けている人も大勢あった。
 その混雑の中をくぐって、塩竈神社の石段を登った。ここの名物という塩竈や貝多羅葉樹《ばいたらようじゅ》や、泉の三郎の鉄燈籠《かなどうろう》や、いずれも昔から同じもので、再遊のわたしには格別の興味を与えなかったが、本社を拝して横手の広場に出ると、大きな神楽《かぐら》堂には笛と太鼓の音が乱れてきこえた。
「面白そうだ。行って見よう。」
 同行の麗水《れいすい》・秋皐《しゅうこう》両君と一緒に、見物人を掻き分けて臆面もなしに前へ出ると、神楽は今や最中《さなか》であった。果たして神楽というのか、舞楽《ぶがく》というのか、わたしにはその区別もよく判らなかったが、とにかくに生まれてから初めてこんなものを見た。
 囃子は笛二人、太鼓二人、踊る者は四人で、いずれも鍾馗《しょうき》のような、烏天狗《からすてんぐ》のような、一種不可思議の面《おもて》を着けていた。袴は普通のもので、めいめいの単衣《ひとえもの》を袒《はだ》ぬぎにして腰に垂れ、浅黄または紅《あか》で染められた唐草模様の襦袢《じゅばん》(?)の上に、舞楽の衣装のようなものを襲《かさ》ねていた。頭には黒または唐黍《もろこし》色の毛をかぶっていた。腰には一本の塗り鞘《ざや》の刀を佩《さ》していた。
 この四人が野蛮人の舞踊のように、円陣を作って踊るのである。笛と太鼓はほとんど休みなしに囃《はや》しつづける。踊り手も休み無しにぐるぐる廻っている。しまいには刀を抜いて、飛び違い、行き違いながら烈しく踊る。単に踊ると云っては、詞《ことば》が不十分であるかも知れない。その手振り足振りは頗《すこぶ》る複雑なもので、尋常一様のお神楽のたぐいではない。しかも其の一挙手一投足がちっとも狂わないで、常に楽器と同一の調子を合わせて進行しているのは、よほど練習を積んだものと見える。服装と云い、踊りと云い、普通とは変って頗る古雅《こが》なものであった。
 かたわらにいる土地の人に訊くと、あれは飯野川《いいのがわ》の踊りだと云う。飯野川というのは此の附近の村の名である。要するに舞楽を土台にして、これに神楽と盆踊りとを加味したようなものか。わたしは塩竈へ来て、こんな珍しいものを観たのを誇りたい。
 私は口をあいて一時間も見物していた。踊り手もまた息もつかずに踊っていた。笛吹けども踊らぬ者に見せてやりたいと私は思った。

     孔雀船の舟唄

 塩竈から松島へむかう東京の人々は、鳳凰《ほうおう》丸と孔雀《くじゃく》丸とに乗せられた。われわれの一行は孔雀丸に乗った。
 伝え聞く、伊達政宗は松島の風景を愛賞して、船遊びのために二|艘《そう》の御座船《ござぶね》を造らせた。鳳凰丸と孔雀丸とが即《すなわ》ちそれである。風流の仙台|太守《たいしゅ》は更に二十余章の舟唄を作らせた。そのうちには自作もあると云う。爾来、代々の藩侯も同じ雛型《ひながた》に因って同じ船を作らせ、同じ海に浮かんで同じ舟唄を歌わせた。
 われわれが今度乗せられた新しい二艘の船も、むかしの雛型に寸分たがわずに造らせたものだそうで、ただ出来《しゅったい》を急いだ為に船べりに黒漆《こくしつ》を施すの暇がなかったと云う。船には七人の老人が羽織袴で行儀よく坐っていた。わたしも初めはこの人々を何者とも知らなかった、また別に何の注意をも払わなかった。
 船が松の青い島々をめぐって行くうちに、同船の森《もり》知事が起《た》って、かの老人たちを紹介した。今日《こんにち》この孔雀丸を浮かべるに就いて、旧藩時代の御座船の船頭を探し求めたが、その多数は既に死に絶えて、僅かに生き残っているのは此の数人に過ぎない。どうか此の人々の口から政宗公以来伝わって来た舟唄の一節《ひとふし》を聴いて貰いたいとのことであった。
 素朴の老人たちは袴の膝に手を置いて、粛然と坐っていた。私はこれまでにも多くの人に接した、今後もまた多くの人に接するであろうが、かくの如き敬虔《けいけん》の態度を取る人々はしばしば見られるものではあるまいと思った。わたしも覚えず襟を正しゆうして向き直った。この人々の顔は赭《あか》かった、頭の髪は白かった。いずれも白扇を取り直して、やや伏目になって一斉に歌い始めた。唄は「鎧口説《よろいくど》き」と云うので、藩祖政宗が最も愛賞したものだとか伝えられている。
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※[#歌記号、1-3-28]やら目出たやな。初春の好き日をとしの着長《きせなが》は、えい、小桜をどしとなりにける。えい、さて又夏は卯の花の、えい、垣根の水にあらひ革。秋になりての其色は、いつも軍《いくさ》に勝色《かついろ》の、えい、紅葉にまがふ錦革。冬は雪げの空晴れて、えい、冑《かぶと》の星の菊の座も、えい、華やかにこそ威毛《おどしげ》の、思ふ仇《かたき》を打ち取りて、えい、わが名を高くあげまくも、えい、剣《つるぎ》は箱に納め置く、弓矢ふくろを出さずして、えい、富貴の国とぞなりにける。やんら……。
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 わたしらはこの歌の全部を聴き取るほどの耳をもたなかった。勿論、その巧拙などの判ろう筈はない。塩竈神社の神楽を観た時と同じような感じを以って、ただ一種の古雅なるものとして耳を傾けたに過ぎなかった。しかしその唄の節よりも、文句よりも、いちじるしく私の心を動かしたのは、歌う人々の態度であったことを繰り返して云いたい。
 政宗以来、孔雀丸は松島の海に浮かべられた。この老人たちも封建時代の最後の藩侯に仕えて、御座船の御用を勤めたに相違ない。孔雀丸のまんなかには藩侯が乗っていた。その左右には美しい小姓どもが控えていた。末座には大勢の家来どもが居列んでいた。船には竹に雀の紋をつけた幔幕《まんまく》が張り廻されていた。海の波は畳のように平らかであった。この老人たちは艫《ろ》をあやつりながら、声を揃えてかの舟唄を歌った。
 それから幾十年の後に、この人々はふたたび孔雀丸に乗った。老いたるかれらはみずから艫擢《ろかい》を把《と》らなかったが、旧主君の前にあると同一の態度を以って謹んで歌った。かれらの眼の前には裃《かみしも》も見えなかった、大小も見えなかった。異人のかぶった山高帽子や、フロックコートがたくさんに列んでいた。この老人たちは恐らくこの奇異なる対照と変化とを意識しないであろう、また意識する必要も認めまい。かれらは幾十年前の旧《ふる》い美しい夢を頭に描きながら、幾十年前の旧い唄を歌っているのである。かれらの老いたる眼に映るものは、裃である、大小である、竹に雀の御紋である。山高帽やフロックコートなどは眼にはいろう筈がない。
 私はこの老人たちに対して、一種尊敬の念の湧くを禁じ得なかった。勿論その尊敬は、悲壮と云うような観念から惹き起される一種の尊敬心で、例えば頽廃《たいはい》した古廟に白髪の伶人《れいじん》が端坐して簫《ふえ》の秘曲を奏している、それとこれと同じような感があった。わたしは巻煙草をくわえながら此の唄を聴くに忍びなかった。
 この唄は、この老人たちの生命《いのち》と共に、次第に亡びて行くのであろう。松島の海の上でこの唄の声を聴くのは、あるいはこれが終りの日であるかも知れない。わたしはそぞろに悲しくなった。
 しかし仙台の国歌とも云うべき「さんさ時雨」が、芸妓の生鈍《なまぬる》い肉声に歌われて、いわゆる緑酒《りょくしゅ》紅燈の濁った空気の中に、何の威厳もなく、何の情趣も無しに迷っているのに較べると、この唄はむしろこの人々と共に亡びてしまう方が優《まし》かも知れない。この人々のうちの最年長者は、七十五歳であると聞いた。

     金華山の一夜

 金華山《きんかざん》は登り二十余町、さのみ嶮峻《けんしゅん》な山ではない、むしろ美しい青い山である。しかも茫々たる大海のうちに屹立《きつりつ》しているので、その眼界はすこぶる闊《ひろ》い、眺望雄大と云ってよい。わたしが九月二十四日の午後この山に登った時には、麓《ふもと》の霧は山腹の細雨《こさめ》となって、頂上へ来ると西の空に大きな虹が横たわっていた。
 海中の孤島、黄金山神社のほかには、人家も無い。参詣の者はみな社務所に宿を借るのである。わたしも泊まった。夜が更けると、雨が瀧のように降って来た。山を震わすように雷《らい》が鳴った。稲妻が飛んだ。
「この天気では、あしたの船が出るか知ら。」と、わたしは寝ながら考えた。
 これを案じているのは私ばかりではあるまい。今夜この社務所には百五十余人の参詣者が泊まっているという。この人々も同じ思いでこの雨を聴いているのであろうと思った。しかも今日では種々の準備が整っている。海が幾日も暴《あ》れて、山中の食料がつきた場合には、対岸の牡鹿《おじか》半島にむかって合図の鐘を撞《つ》くと、半島の南端、鮎川《あゆかわ》村の忠実なる漁民は、いかなる暴風雨の日でも約二十八丁の山雉《やまどり》の渡しを乗っ切って、必ず救助の船を寄せることになっている。
 こう決まっているから、たとい幾日この島に閉じ籠められても、別に心配することも無い。わたしは平気で寝ていられるのだ。が、昔はどうであったろう。この社《やしろ》の創建は遠い上代《じょうだい》のことで、その年時も明らかでないと云う。尤《もっと》もその頃は牡鹿半島と陸続きであったろうと思われるが、とにかく斯《こ》ういう場所を撰んで、神を勧請《かんじょう》したという昔の人の聡明に驚かざるを得ない。ここには限らず、古来著名の神社仏閣が多くは風光|明媚《めいび》の地、もしくは山谷嶮峻の地を相《そう》して建てられていると云う意味を、今更のようにつくづく感じた。これと同時に、古来人間の信仰の力というものを怖ろしいほどに思い知った。海陸ともに交通不便の昔から年々幾千万の人間は木《こ》の葉のような小さい舟に生命を托して、この絶島《はなれじま》に信仰の歩みを運んで来たのである。ある場合には十日も二十日も風浪に阻《はば》められて、ほとんど流人《るにん》同様の艱難《かんなん》を嘗《な》めたこともあったろう。ある場合には破船して、千尋《ちひろ》の浪の底に葬られたこともあったろう。昔の人はちっともそんなことを怖れなかった。
 今の信仰の薄い人――少なくとも今のわたしは、ほとんど保険付きともいうべき大きな汽船に乗って来て、しかも食料欠乏の憂いは決して無いという確信を持っていながら、一夜の雷雨にたちまち不安の念をきざすのである。こんなことで、どうして世の中に生きていられるだろう。考えると、何だか悲しくなって来た。
 雷雨は漸《ようや》くやんだ。山の方では鹿の声が遠くきこえた。あわれな無信仰者は初めて平和の眠りに就いた。枕もとの時計はもう一時を過ぎていた。[#地付き](大正2・10「やまと新聞」)
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秋の修善寺


     (一)

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(明治四十一年)九月の末におくればせの暑中休暇を得て、伊豆《いず》の修善寺《しゅうぜんじ》温泉に浴し、養気館の新井《あらい》方にとどまる。所作為《しょざい》のないままに、毎日こんなことを書く。
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 二十六日。きのうは雨にふり暮らされて、宵から早く寝床にはいったせいか、今朝は五時というのにもう眼が醒めた。よんどころなく煙草をくゆらしながら、襖《ふすま》にかいた墨絵の雁《かり》と相対すること約半時間。おちこちに鶏《とり》が勇ましく啼《な》いて、庭の流れに家鴨《あひる》も啼いている。水の音はひびくが雨の音はきこえない。
 六時、入浴。その途中に裏二階から見おろすと、台所口とも思われる流れの末に長さ三|尺《じゃく》ほどの蓮根《れんこん》をひたしてあるのが眼についた。湯は菖蒲の湯で、伝説にいう、源三位頼政《げんざんみよりまさ》の室|菖蒲《あやめ》の前《まえ》は豆州長岡《ずしゅうながおか》に生まれたので、頼政滅亡の後、かれは故郷に帰って河内《かわうち》村の禅長寺に身をよせていた。そのあいだに折りおりここへ来て入浴したので、遂にその湯もあやめの名を呼ばれる事になったのであると。もし果たしてそうであるならば、猪早太《いのはやた》ほどにもない雑兵葉武者《ぞうひょうはむしゃ》のわれわれ風情が、遠慮なしに頭からざぶざぶ浴びるなどは、遠つ昔の上臈《じょうろう》の手前、いささか恐れ多き次第だとも思った。おいおいに朝湯の客がはいって来て、「好《よ》い天気になって結構です。」と口々に云う。なにさま外は晴れて水は澄んでいる。硝子戸《ガラスど》越しに水中の魚の遊ぶのがあざやかにみえた。
 朝飯をすました後、例の範頼《のりより》の墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六丁、小山というところにある。稲田や芋《いも》畑のあいだを縫いながら、雨後のぬかるみを右へ幾曲がりして登ってゆくと、その間には紅い彼岸花《ひがんばな》がおびただしく咲いていた。墓は思うにもまして哀れなものであった。片手でも押し倒せそうな小さい仮家で、柊《ひいらぎ》や柘植《つげ》などの下枝に掩《おお》われながら、南向きに寂しく立っていた。秋の虫は墓にのぼって頻《しき》りに鳴いていた。
 この時、この場合、何人《なんぴと》も恍《こう》として鎌倉時代の人となるであろう。これを雨月物語《うげつものがたり》式につづれば、範頼の亡霊がここへ現われて、「汝《なんじ》、見よ。源氏《げんじ》の運も久しからじ。」などと、恐ろしい呪《のろ》いの声を放つところであろう。思いなしか、晴れた朝がまた陰って来た。
 拝し終って墓畔の茶屋に休むと、おかみさんは大いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情として土地自慢は無理もないことである。とこうするあいだに空はふたたび晴れた。きのうまではフランネルに袷《あわせ》羽織を着るほどであったが、晴れると俄《にわ》かにまた暑くなる。芭蕉《ばしょう》翁は「木曾《きそ》殿と背中あはせの寒さ哉《かな》」と云ったそうだが、わたしは蒲《かば》殿と背中あわせの暑さにおどろいて、羽織をぬぎに宿に帰ると、あたかも午前十時。
 午後、東京へ送る書信二、三通をしたためて、また入浴。欄干《らんかん》に倚《よ》って見あげると、東南につらなる塔《とう》の峰《みね》や観音山などが、きょうは俄かに押し寄せたように近く迫って、秋の青空がいっそう高く仰がれた。庭の柿の実はやや黄ばんで来た。真向うの下座敷では義太夫の三味線がきこえた。
 宿の主人が来て語る。主人は頗る劇通であった。午後三時ふたたび出て修禅寺《しゅぜんじ》に参詣した。名刺を通じて古宝物《こほうもつ》の一覧を請うと、宝物は火災をおそれて倉庫に秘めてあるから容易に取出すことは出来ない。しかも、ここ両三日は法要で取込んでいるから、どうぞその後にお越し下されたいと慇懃《いんぎん》に断わられた。
 去って日枝《ひえ》神社に詣でると、境内に老杉多く、あわれ幾百年を経たかと見えるのもあった。石段の下に修善寺駐在所がある。範頼が火を放って自害した真光院というのは、今の駐在所のあたりにあったと云い伝えられている。して見ると、この老いたる杉のうちには、ほろびてゆく源氏の運命を眼のあたりに見たのもあろう。いわゆる故国は喬木あるの謂《いい》にあらずと、唐土の賢人は云ったそうだが、やはり故国の喬木はなつかしい。
 挽物《ひきもの》細工の玩具などを買って帰ろうとすると、町の中ほどで赤い旗をたてた楽隊に行きあった。活動写真の広告である。山のふところに抱かれた町は早く暮れかかって、桂《かつら》川の水のうえには薄い靄《もや》が這っている。
 修善寺がよいの乗合馬車は、いそがしそうに鈴を鳴らして川下の方から駆《か》けて来た。
 夜は机にむかって原稿などをかく、今夜は大湯《おおゆ》換えに付き入浴八時かぎりと触れ渡された。

     (二)

 二十七日。六時に起きて入浴。きょうも晴れつづいたので、浴客はみな元気がよく、桂川の下流へ釣に行こうというのもあって、風呂場はすこぶる賑わっている。ひとりの西洋人が悠然としてはいって来たが、湯の熱いのに少しおどろいた体《てい》であった。
 朝飯まえに散歩した。路は変らぬ河岸であるが、岩に堰《せ》かれ、旭日《あさひ》にかがやいて、むせび落つる水のやや浅いところに家鴨《あひる》数十羽が群れ遊んでいて、川に近い家々から湯の烟《けむ》りがほの白くあがっているなど、おのずからなる秋の朝の風情を見せていた。岸のところどころに芒《すすき》が生えている。近づいて見ると「この草取るべからず」という制札を立ててあって、後《のち》の月見《つきみ》の材料にと貯えて置くものと察せられた。宿に帰って朝飯の膳にむかうと、鉢にうず高く盛った松茸に秋の香が高い。東京の新聞二、三種をよんだ後、頼家《よりいえ》の墓へ参詣に行った。
 桂橋を渡り、旅館のあいだを過ぎ、的場《まとば》の前などをぬけて、塔の峰の麓に出た。ところどころに石段はあるが、路は極めて平坦で、雑木《ぞうき》が茂っているあいだに高い竹藪がある。槿《むくげ》の花の咲いている竹籬《たけがき》に沿うて左に曲がると、正面に釈迦堂がある。頼家の仏果《ぶっか》円満を願うがために、母|政子《まさこ》の尼が建立《こんりゅう》したものであると云う。鎌倉《かまくら》の覇業を永久に維持する大いなる目的の前には、あるに甲斐《かい》なき我が子を捨て殺しにしたものの、さすがに子は可愛いものであったろうと推し量ると、ふだんは虫の好かない傲慢《ごうまん》の尼将軍その人に対しても、一種同情の感をとどめ得なかった。
 さらに左に折れて小高い丘にのぼると、高さ五尺にあまる楕円形の大石に征夷大将軍|源左金吾《げんさきんご》頼家尊霊と刻み、煤《すす》びた堂の軒には笹龍胆《ささりんどう》の紋を打った古い幕が張ってある。堂の広さはわずかに二坪ぐらいで、修善寺町の方を見おろして立っている。あたりには杉や楓《かえで》など枝をかわして生い茂って、どこかで鴉《からす》が啼《な》いている。
 すさまじいありさまだとは思ったが、これに較べると、範頼の墓は更に甚だしく荒れまさっている。叔父御よりも甥《おい》の殿の方がまだしもの果報があると思いながら、香を手向《たむ》けて去ろうとすると、入れ違いに来て磬《けい》を打つ参詣者があった。
 帰り路で、ある店に立ってゆで栗を買うと実に廉《やす》い。わたしばかりでなく、東京の客はみな驚くだろうと思われた。宿に帰って読書、障子の紙が二ヵ所ばかり裂けている。眼に立つほどの破れではないが、それにささやく風の音がややもすれば耳について、秋は寂しいものだとしみじみ思わせるうちに、宿の男が来て貼りかえてくれた。向う座敷は障子をあけ放して、その縁側に若い女客が長い洗い髪を日に乾かしているのが、榎《えのき》の大樹を隔ててみえた。
 午後は読書に倦《う》んで肱枕《ひじまくら》を極《き》めているところへ宿の主人が来た。主人はよく語るので、おかげで退屈を忘れた。
 きょうも水の音に暮れてしまったので、電燈の下《もと》で夕飯をすませて、散歩がてら理髪店へゆく。大仁《おおひと》理髪組合の掲示をみると、理髪料十二銭、またそのわきに附記して、「但し角刈とハイカラは二銭増しの事」とある。いわゆるハイカラなるものは、どこへ廻っても余計に金の要ることと察せられた。店先に張子の大きい達磨《ダルマ》を置いて、その片眼を白くしてあるのは、なにか願《がん》掛けでもしたのかと訊《き》いたが、主人も職人も笑って答えなかった。楽隊の声が遠くきこえる。また例の活動写真の広告らしい。
 理髪店を出ると、もう八時をすぎていた。露の多い夜気は冷やびやと肌にしみて、水に落ちる家々の灯かげは白くながれている。空には小さい星が降るかと思うばかりに一面にきらめいていた。
 宿に帰って入浴、九時を合図に寝床にはいると、廊下で、「按摩《あんま》は如何《いかが》さま」という声がきこえた。

     (三)

 二十八日。例に依って六時入浴。今朝は湯加減が殊によろしいように思われて身神爽快。天気もまたよい。朝飯もすみ、新聞もよみ終って、ふらりと宿を出た。
 月末に近づいたせいか、この頃は帰る人が一日増しに多くなった。大仁《おおひと》行きの馬車は家々の客を運んでゆく。赤とんぼが乱れ飛んで、冷たい秋の風は馬のたてがみを吹き、人の袂を吹いている。宿の女どもは門《かど》に立ち、または途中まで見送って、「御機嫌よろしゅう……来年もどうぞ」などと口々に云っている。歌によむ草枕、かりそめの旅とはいえど半月ひと月と居馴染《いなじ》めば、これもまた一種の別れである。涙もろい女客などは、朝夕親しんだ宿の女どもと云い知れぬ名残《なごり》の惜しまれて、馬車の窓から幾たびか見返りつつ揺られて行くのもあった。
 修禅寺に詣でると、二十七日より高祖忌執行の立札があった。宝物一覧を断わられたのも、これが為であるとうなずかれた。
 転じて新井別邸の前、寄席のまえを過ぎて、見晴らし山というのに登った。半腹の茶店に休むと、今来た町の家々は眼の下につらなって、修禅寺の甍《いらか》はさすがに一角をぬいて聳《そび》えていた。
 この茶店には運動場があって、二十歳《はたち》ばかりの束髪の娘がブランコに乗っていた。もちろん土地の人ではないらしい。山の頂上は俗に見晴らし富士と呼んで、富士を望むのによろしいと聞いたので、細い山路をたどってゆくと、裳《すそ》にまつわる萩や芒《すすき》がおどろに乱れて、露の多いのに堪えられなかった。登るにしたがって勾配がようやく険《けわ》しく、駒下駄ではとかく滑ろうとするのを、剛情にふみこたえて、まずは頂上と思われるあたりまで登りつくと、なるほど富士は西の空にはっきりと見えた。秋天片雲無きの口にここへ来たのは没怪《もっけ》の幸いであった。帰りは下り坂を面白半分に駈け降りると、あぶなく滑って転びそうになること両三度、降りてしまったら汗が流れた。
 山を降りると田圃路《たんぼみち》で、田の畔《くろ》には葉鶏頭の真紅《まっか》なのが眼に立った。もとの路を還らずに、人家のつづく方を北にゆくと、桜ヶ岡《さくらがおか》の麓を過ぎて、いつの間にか向う岸へ廻ったとみえて、図《はか》らずも頼家の墓の前に出た。きのう来て、今日もまた偶然に来た。おのずからなる因縁浅からぬように思われて、ふたたび墓に香をささげた。
 頼家の墓所は単に塔の峰の麓とのみ記憶していたが、今また聞けば、ここを指月ヶ岡《しげつがおか》と云うそうである。頼家が討たれた後に、母の尼が来たり弔って、空ゆく月を打ち仰ぎつつ「月は変らぬものを、変り果てたるは我が子の上よ。」と月を指さして泣いたので、人々も同じ涙にくれ、爾来ここを呼んで指月ヶ岡と云うことになったとか。蕭条《しょうじょう》たる寒村の秋のゆうべ、不幸なる我が子の墓前に立って、一代の女将軍が月下に泣いた姿を想いやると、これもまた画くべく歌うべき悲劇であるように思われた。かれが斯くまでに涙を呑んで経営した覇業も、源氏より北条《ほうじょう》に移って、北条もまた亡びた。これにくらべると、秀頼《ひでより》と相抱いて城と倶《とも》にほろびた淀君《よどぎみ》の方が、人の母としては却って幸いであったかもしれない。
 帰り路に虎渓橋《こけいきょう》の上でカーキ色の軍服を着た廃兵に逢った。その袖には赤十字の徽章をつけていた。宿に帰って主人から借りた修善寺案内記を読み、午後には東京へ送る書信二通をかいた。二時ごろ退屈して入浴。わたしの宿には当時七、八十人の滞在客がある筈であるが、日中のせいか広い風呂場には一人もみえなかった。菖蒲の湯を買い切りにした料簡《りょうけん》になって、全身を湯にひたしながら、天然の岩を枕にして大の字に寝ころんでいると、いい心持を通り越して、すこし茫となった気味である。気つけに温泉二、三杯を飲んだ。
 主人はきょうも来て、いろいろの面白い話をしてくれた。主人の去った後は読書。絶え間なしに流れてゆく水の音に夜昼の別《わか》ちはないが、昼はやがて夜となった。
 食後散歩に出ると、行くともなしに、またもや頼家の方へ足が向く。なんだか執《と》り着かれたような気もするのであった。墓の下の三洲園という蒲焼屋では三味線の音《ね》が騒がしくきこえる。頼家尊霊も今夜は定めて陽気に過させ給うであろうと思いやると、われわれが問い慰めるまでもないと理窟をつけて、墓へはまいらずに帰ることにした。あやなき闇のなかに湯の匂いのする町家へたどってゆくと、夜はようやく寒くなって、そこらの垣に機織虫《はたおりむし》が鳴いていた。
 わたしの宿のうしろに寄席があって、これも同じ主人の所有である。草履ばきの浴客が二、三人はいってゆく。私も続いてはいろうかと思ったが、ビラをみると、一流うかれ節三河屋何某一座、これには少しく恐れをなして躊躇していると、雨がはらはらと降って来た。仰げば塔の峰の頂上から、蝦蟆《がま》のような黒雲が這い出している。いよいよ恐れて早々に宿に逃げ帰った。
 帰って机にむかえば、下の離れ座敷でもまたもや義太夫が始まった。近所の宿でも三味線の音がきこえる。今夜はひどく賑やかな晩である。
 十時入浴して座敷に帰ると、桂川も溢《あふ》れるかと思うような大雨となった。[#地付き](掲載誌不詳、『十番随筆』所収)
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春の修善寺


 十年ぶりで三島《みしま》駅から大仁《おおひと》行きの汽車に乗り換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場《だいば》駅附近を過ぎると、此処《ここ》らももう院線の工事に着手しているらしく、路ばたの空地《あきち》に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに顫《ふる》えている小さい竹藪は、折りからの強い西風にふき煽《あお》られて、今にも折れるかとばかりに撓《たわ》みながら鳴っている。広い桑畑には時どき小さい旋風をまき起して、黄龍のような砂の渦が汽車を目がけてまっしぐらに襲って来る。
 このいかにも暗い、寒い、すさまじい景色を窓から眺めながら運ばれてゆく私は、とても南の国へむかって旅をしているという、のびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかに沼津《ぬまづ》の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸《あしたかまる》が駿河《するが》湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
 沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田《しもだ》に潜伏していたが、ある時なにかの動機から翻然悔悟《ほんぜんかいご》した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいと云う。かれはすぐに下田の警察へ駆け込んで過去の罪を自首したが、それはもう時効《じこう》を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞き合せると、当時の被害者はとうに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
 元来、彼は沼津の生まれではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立《こんりゅう》して、自分の安心《あんじん》を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、幾らかの金を作った。彼はその金をふところにしてかの愛鷹丸に乗り込むと、駿河の海は怒って暴《あ》れて、かれを乗せた愛鷹丸はヨナ(旧約聖書の中の予言者)を乗せた船のように、ゆれて傾いた。しかも、罪ある人ばかりでなく、乗組みの大勢をも併せて海のなかへ投げ落してしまった。彼は悪魚の腹にも葬られずに、数時間の後に引揚げられたが、彼はその金を懐ろにしたままで凍え死んでいた。
 これを話した人は、彼の死はその罪業《ざいごう》の天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりであった。天はそれほどに酷《むご》いものであろうか――わたしは暗い心持でこの話を聴いていた。
 南条《なんじょう》駅を過ぎる頃から、畑にも山にも寒そうな日の影すらも消えてしまって、ところどころにかの砂烟《すなけむ》りが巻きあがっている。その黄いろい渦が今は仄白《ほのじろ》くみえるので、あたりがだんだんに薄暗くなって来たことが知られた。汽車の天井には旧式な灯の影がおぼつかなげに揺れている。この話が済むと、その人は外套《がいとう》の袖をかきあわせて、肩をすくめて黙ってしまった。私も黙っていた。
 三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い佗《わび》しい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。寒い風はまだ吹きやまないで、旅館の出迎えの男どもが振り照らす提灯の灯《ひ》のかげに、乗合馬車の馬のたてがみの顫《ふる》えて乱れているのが見えた。わたしは風を恐れて自動車に乗った。

 修善寺の宿につくと、あくる日はすぐに指月ヶ岡にのぼって、頼家の墓に参詣した。わたしの戯曲「修禅寺物語」は、十年前の秋、この古い墓のまえに額《ぬか》づいた時に私の頭に湧き出した産物である。この墓と会津《あいづ》の白虎隊の墓とは、わたしに取って思い出が多い。その後、私はどう変ったか自分にはよく判らないが、頼家公の墓はよほど変っていた。
 その当時の日記によると、丘の裾には鰻屋《うなぎや》が一軒あったばかりで、丘の周囲にはほとんど人家がみえなかった。墓は小さい堂のなかに祀《まつ》られて、堂の軒には笹龍胆《ささりんどう》の紋を染めた紫の古びた幕が張り渡されていて、その紫の褪《さ》めかかった色がいかにも品のよい、しかも寂しい、さながら源氏の若い将軍の運命を象徴するかのように見えたのが、今もありありと私の眼に残っている。ところが、今度かさねて来てみると、堂はいつの間にか取払われてしまって、懐かしい紫の色はもう尋《たず》ねるよすがもなかった。なんの掩《おお》いをも持たない古い墓は、新しい大きい石の柱に囲まれていた。いろいろの新しい建物が丘の中腹までひしひしと押しつめて来て、そのなかには遊芸稽古所などという看板も見えた。
 頼家公の墳墓の領域がだんだんに狭《せば》まってゆくのは、町がだんだんに繁昌してゆくしるしである。むらさきの古い色を懐かしがる私は、町の運命になんの交渉ももたない、一個の旅人《たびびと》に過ぎない。十年前にくらべると、町はいちじるしく賑やかになった。多くの旅館は新築をしたのもある。建て増しをしたのもある。温泉|倶楽部《クラブ》も出来た、劇場も出来た。こうして年毎に発展してゆく此の町のまん中にさまよって、むかしの紫を偲《しの》んでいる一個の貧しい旅びとであることを、町の人たちは決して眼にも留めないであろう。わたしは冷たい墓と向い合ってしばらく黙って立っていた。
 それでも墓のまえには三束の線香が供えられて、その消えかかった灰が霜柱のあつい土の上に薄白くこぼれていた。日あたりが悪いので、黒い落葉がそこらに凍り着いていた。墓を拝して帰ろうとして不図《ふと》見かえると、入口の太い柱のそばに一つの箱が立っていた。箱の正面には「将軍源頼家おみくじ」と書いてあった。その傍の小さい穴の口には「一銭銅貨を入れると出ます」と書き添えてあった。
 源氏の将軍が預言者であったか、売卜《うらない》者であったか、わたしは知らない。しかし此の町の人たちは、果たして頼家公に霊あるものとして斯《こ》ういうものを設けたのであろうか、あるいは湯治客の一種の慰みとして設けたのであろうか。わたしは試みに一銭銅貨を入れてみると、カラカラという音がして、下の口から小さく封じた活版刷のお神籤《みくじ》が出た。あけて見ると、第五番凶とあった。わたしはそれが当然だと思った。将軍にもし霊あらば、どのお神籤にもみんな凶が出るに相違ないと思った。
 修禅寺はいつ詣《まい》っても感じのよいお寺である。寺といえばとかくに薄暗い湿っぽい感じがするものであるが、このお寺ばかりは高いところに在って、東南の日を一面にうけて、いかにも明るい爽《さわや》かな感じをあたえるのが却って雄大荘厳の趣を示している。衆生《しゅじょう》をじめじめした暗い穴へ引き摺ってゆくので無くて、赫灼《かくやく》たる光明を高く仰がしめると云うような趣がいかにも尊げにみえる。
 きょうも明るい日が大きい甍《いらか》を一面に照らして、堂の家根《やね》に立っている幾匹の唐獅子《からじし》の眼を光らせている。脚絆を穿いたお婆さんが正面の階段の下に腰をかけて、藍《あい》のように晴れ渡った空を仰いでいる。玩具《おもちゃ》の刀をさげた小児《こども》がお百度石に倚りかかっている。大きい桜の木の肌がつやつやと光っている。丘の下には桂川の水の音がきこえる。わたしは桜の咲く四月の頃にここへ来たいと思った。
 避寒の客が相当にあるとは云っても、正月ももう末に近いこの頃は修善寺の町も静かで、宿の二階に坐っていると、聞えるものは桂川の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回撞く。時刻をしらせるのではない、寺の勤行《ごんぎょう》の知らせらしい。ほかの時はわたしもいちいち記憶していないが、夕方の五時だけは確かにおぼえている。それは修禅寺で五時の鐘をつき出すのを合図のように、町の電燈が一度に明るくなるからである。
 春の日もこの頃はまだ短い。四時をすこし過ぎると、山につつまれた町の上にはもう夕闇がおりて来て、桂川の水にも鼠色の靄《もや》がながれて薄暗くなる。河原に遊んでいる家鴨《あひる》の群れの白い羽もおぼろになる。川沿いの旅館の二階の欄干にほしてある紅い夜具がだんだんに取り込まれる。この時に、修禅寺の鐘の声が水にひびいて高くきこえると、旅館にも郵便局にも銀行にも商店にも、一度に電燈の花が明るく咲いて、町は俄かに夜のけしきを作って来る。旅館はひとしきり忙《せわ》しくなる。大仁から客を運び込んでくる自動車や馬車や人力車の音がつづいて聞える。それが済むとまたひっそりと鎮まって、夜の町は水の音に占領されてしまう。二階の障子をあけて見渡すと、近い山々はみな一面の黒いかげになって、町の上には家々の湯けむりが白く迷っているばかりである。
 修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。
 それに注意するのはおそらく一山の僧たちだけで、町の人々の上にはなんの交渉もないらしい。しかし湯治客のうちにも、町の人のうちにも、いろいろの思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう。現にわたしが今泊まっている此の部屋だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客が泊まって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、いろいろの人がいろいろの思いでこの鐘を聴いたであろう。わたしが今無心に掻きまわしている古い灰の上にも、遣瀬《やるせ》ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。温泉場に来ているからと云って、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にもいろいろの苦しい悲しい人間の魂が籠《こも》っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。
 修禅寺の夜の鐘は春の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底から何物をか呼び出すかも知れない。宵っ張りの私もここへ来てからは、九時の鐘を聴かないうちに寝ることにした。[#地付き](大正7・3「読売新聞」)
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妙義の山霧


     (上)

 妙義町《みょうぎまち》の菱屋《ひしや》の門口《かどぐち》で草鞋《わらじ》を穿いていると、宿の女が菅笠《すげがさ》をかぶった四十五、六の案内者を呼んで来てくれました。ゆうべの雷《かみなり》は幸いにやみましたが、きょうも雨を運びそうな薄黒い雲が低くまよって、山も麓も一面の霧に包まれています。案内者とわたしは笠をならべて、霧のなかを爪さき上がりに登って行きました。
 私は初めてこの山に登る者です。案内者は当然の順序として、まずわたしを白雲山《はくうんざん》の妙義神社に導きました。社殿は高い石段の上にそびえていて、小さい日光《にっこう》とも云うべき建物です。こういう場所には必ずあるべきはずの杉の大樹が、天と地とを繋ぎ合せるように高く高く生い茂って、社前にぬかずく参拝者の頭《こうべ》の上をこんもりと暗くしています。私たちはその暗い木の下蔭をたどって、山の頂きへと急ぎました。
 杉の林は尽きて、さらに雑木《ぞうき》の林となりました。路のはたには秋の花が咲き乱れて、芒《すすき》の青い葉は旅人《たびびと》の袖にからんで引き止めようとします。どこやらでは鶯《うぐいす》が鳴いています。相も変らぬ爪さき上がりに少しく倦《う》んで来たわたしは、小さい岩に腰を下ろして巻煙草をすいはじめました。霧が深いのでマッチがすぐに消えます。案内者も立ち停まって同じく煙管《きせる》を取り出しました。
 案内者は正直そうな男で、煙草のけむりを吹く合い間にいろいろの話をして聞かせました。妙義登山者は年々|殖《ふ》える方であるが暑中は比較的にすくない、一年じゅうで最も登山者の多いのは十月の紅葉の時節で、一日に二百人以上も登ることがある。しかし昔にくらべると、妙義の町はたいそう衰えたそうで、二十年前までは二百戸以上をかぞえた人家が今では僅かに三十二戸に減ってしまったと云います。
「なにしろ貸座敷が無くなったので、すっかり寂《さび》れてしまいましたよ。」
「そうかねえ。」
 わたしは巻煙草の吸殻《すいがら》を捨てて起つと、案内者もつづいて歩き出しました。山霧は深い谷の底から音も無しに動いて来ました。
 案内者は振り返りながらまた話しました。上州《じょうしゅう》一円に廃娼を実行したのは明治二十三年の春で、その当時妙義の町には八戸の妓楼《ぎろう》と四十七人の娼妓があった。妓楼の多くは取り毀されて桑畑となってしまった。磯部《いそべ》や松井田《まついだ》からかよって来る若い人々のそそり唄も聞えなくなった。秋になると桑畑には一面に虫が鳴く。こうして妙義の町は年毎に衰えてゆく。
 谷川の音が俄かに高くなったので、話し声はここで一旦消されてしまいました。頂上の方からむせび落ちて来る水が岩や樹の根に堰《せ》かれて、狭い山路を横ぎって乱れて飛ぶので、草鞋《わらじ》を湿《ぬ》らさずに過ぎる訳には行きませんでした。案内者は小さい石の上をひょいひょいと飛び越えて行きます。わたしもおぼつかない足取りで其の後を追いましたが、草鞋はぬれていい加減に重くなりました。
 水の音をうしろに聞きながら、案内者はまた話し出しました。維新前の妙義町は更に繁昌したものだそうで、普通の中仙道は松井田から坂本《さかもと》、軽井沢《かるいざわ》、沓掛《くつかけ》の宿々《しゅくじゅく》を経て追分《おいわけ》にかかるのが順路ですが、そのあいだには横川《よこかわ》の番所があり、碓氷《うすい》の関所があるので、旅人の或る者はそれらの面倒を避けて妙義の町から山伝いに信州の追分へ出る。つまり此の町が関の裏路になっていたのです。山ふところの夕暮れに歩み疲れた若い旅人が青黒い杉の木立《こだち》のあいだから、妓楼の赤い格子を仰ぎ視た時には、沙漠でオアシスを見いだしたように、かれらは忙《いそ》がわしくその軒下に駈け込んで、色の白い山の女に草鞋の紐《ひも》を解かせたでしょう。
「その頃は町もたいそう賑やかだったと、年寄りが云いますよ。」
「つまり筑波《つくば》の町のような工合だね。」
「まあ、そうでしょうよ。」
 霧はいよいよ深くなって、路をさえぎる立木の梢《こずえ》から冷たい雫《しずく》がばらばらと笠の上に降って来ました。草鞋はだんだんに重くなりました。
「旦那、気をおつけなさい。こういう陰った日には山蛭《やまびる》が出ます。」
「蛭が出る。」
 わたしは慌てて自分の手足を見廻すと、たった今、ひやりとしたのは樹のしずくばかりではありませんでした。普通よりはやや大きいかと思われる山蛭が、足袋と脚絆との間を狙って、左の足首にしっかりと吸い付いていました。吸い付いたが最後、容易に離れまいとするのを無理に引きちぎって投げ捨てると、三角に裂けた疵口《きずぐち》から真紅《まっか》な血が止め度もなしにぽとぽと[#「ぽとぽと」に傍点]と流れて出ます。
「いつの間にか、やられた。」
 こう云いながらふと気が付くと、左の腕もむずむずするようです。袖をまくって覗いて見ると、どこから這い込んだのか二の腕にも黒いのがまた一匹。慌てて取って捨てましたが、ここからも血が湧いて出ます。案内者の話によると、蛭の出るのは夏季の陰った日に限るので、晴れた日には決して姿を見せない。丁度きょうのような陰ってしめった日に出るのだそうで、わたしはまことに有難い日に来合せたのでした。
 なにしろ血が止まらないのには困りました。見ているうちに左の手はぬらぬらして真紅になります。もう少しの御辛抱ですと云いながら案内者は足を早めて登って行きます。わたしもつづいて急ぎました。
 路はやがて下《くだ》りになったようですが、わたしはその「もう少し」というところを目的《めあて》に、ただ夢中で足を早めて行きましたからよくは記憶していません。それから愛宕《あたご》神社の鳥居というのが眼にはいりました。ここらから路は二筋に分かれているのを、私たちは右へ取って登りました。路はだんだんに嶮《けわ》しくなって来て、岩の多いのが眼につきました。
 妙義|葡萄酒《ぶどうしゅ》醸造所というのに辿《たど》り着いて、ふたりは縁台に腰をかけました。家のうしろには葡萄園があるそうですが、表構えは茶店のような作り方で、ここでは登山者に無代《ただ》で梅酒というのを飲ませます。喉《のど》が渇いているので、わたしは舌鼓を打って遠慮なしに二、三杯飲みました。そのあいだに案内者は家内から藁《わら》を二、三本貰って来て、藁の節を蛭の吸い口に当てて堅く縛ってくれました。これはどこでもやることで、蛭の吸い口から流れる血はこうして止めるよりほかは無いのです。血が止まって、わたしも先ずほっ[#「ほっ」に傍点]としました。
 それにしても手足に付いた血の痕《あと》を始末しなければなりません。足の方はさのみでもありませんでしたが、手の方はべっとり紅くなっています。水を貰って洗おうとすると、ただ洗っても取れるものではない、一旦は水を口にふくんで、いわゆる啣《ふく》み水《みず》にして手拭《てぬぐい》か紙に湿《しめ》し、しずかに拭き取るのが一番よろしいと、案内者が教えてくれました。その通りにしてハンカチーフで拭き取ると、なるほど綺麗に消えてしまいました。
「むかしは蛭に吸われた旅の人は、妙義の女郎の啣み水で洗って貰ったもんです。」
 案内者は煙草を吸いながら笑いました。わたしもさっきの話を思い出さずにはいられませんでした。
 信州路から上州へ越えてゆく旅人が、この山蛭に吸われた腕の血を妙義の女に洗って貰ったのは、昔からたくさんあったに相違ありません。うす暗い座敷で行燈《あんどう》の火が山風にゆれています。江戸絵を貼った屏風《びょうぶ》をうしろにして、若い旅人が白い腕をまくっていると、若い遊女が紅さした口に水をふくんで、これを三栖紙《みすがみ》にひたして男の腕を拭いています。窓のそとでは谷川の音がきこえます。こんな舞台が私の眼の前に夢のように開かれました。
 しかも其の美しい夢はたちまちに破られました。案内者は笠を持って起《た》ち上がりました。
「さあ、旦那、ちっと急ぎましょう。霧がだんだんに深くなって来ます。」
 旅人と遊女の舞台は霧に隠されてしまいました。わたしも草鞋の紐を結び直して起ちました。足もとには岩が多くなって来ました。頭の上には樹がいよいよ繁って来ました。わたしは山蛭を恐れながら進みました。谷に近い森の奥では懸巣《かけす》が頻《しき》りに鳴いています。鸚鵡《おうむ》のように人の口真似をする鳥だとは聞いていましたが、見るのは初めてです。枝から枝へ飛び移るのを見ると、形は鳩《はと》のようで、腹のうす赤い、羽のうす黒い鳥でした。小鳥を捕って食う悪鳥だと云うことです。ジィジィという鳴く音を立てて、なんだか寂しい声です。
 岩が尽きると、また冷たい土の路になりました。ひと足踏むごとに、土の底からにじみ出すようなうるおいが草鞋に深く浸み透って来ます。狭い路の両側には芒《すすき》や野菊のたぐいが見果てもなく繁り合って、長く長く続いています。ここらの山吹《やまぶき》は一重が多いと見えて、みんな黒い実を着けていました。
 よくは判りませんが、一旦くだってから更に半里ぐらいも登ったでしょう。坂路はよほど急になって、仰げば高い窟《いわや》の上に一本の大きな杉の木が見えました。これが中《なか》の嶽《たけ》の一本杉と云うので、われわれは既に第二の金洞山《きんとうざん》に踏み入っていたのです。金洞山は普通に中の嶽と云うそうです。ここから第三の金※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]山《きんけいざん》は真正面に見えるのだそうですが、この時に霧はいよいよ深くなって来て、正面の山どころか、自分が今立っている所の一本杉の大樹さえも、半分から上は消えるように隠れてしまって、枝をひろげた梢は雲に駕《の》る妖怪のように、不思議な形をしてただ朦朧《もうろう》と宙に泛《う》かんでいるばかりです。峰も谷も森も、もうなんにも見えなくなってしまいました。「山あひの霧はさながら海に似て」という古人の歌に嘘はありません。しかも浪かと誤まる松風の声は聞えませんでした。山の中は気味の悪いほどに静まり返って、ただ遠い谷底で水の音がひびくばかりです。ここでも鶯の声をときどきに聞きました。

     (下)

 一本杉の下《もと》には金洞舎という家があります。この山の所有者の住居で、かたわら登山者の休憩所に充ててあるのです。二人はここの縁台を仮りて弁当をつかいました。弁当は菱屋で拵《こしら》えてくれたもので、山女《やまめ》の塩辛く煮たのと、玉子焼と蓮根《れんこん》と奈良漬の胡瓜《きゅうり》とを菜《さい》にして、腹のすいているわたしは、折詰の飯をひと粒も残さずに食ってしまいました。わたしはここで絵葉書を買って記念のスタンプを捺《お》して貰いました。東京の友達にその絵葉書を送ろうと思って、衣兜《かくし》から万年筆を取り出して書きはじめると、あたかもそれを覗き込むように、冷たい霧は黙ってすう[#「すう」に傍点]と近寄って来て、わたしの足から膝へ、膝から胸へと、だんだんに這い上がって来ます。葉書の表は見るみる湿《ぬ》れて、インキはそばから流れてしまいます。わたしは癇癪をおこして書くのをやめました。そうして、自分も案内者もこの家も、あわせて押し流して行きそうな山霧の波に向き合って立ちました。
 わたしは日露戦役の当時、玄海灘《げんかいなだ》でおそろしい濃霧に逢ったことを思い出しました。海の霧は山よりも深く、甲板の上で一尺さきに立っている人の顔もよく見えない程でした。それから見ると、今日の霧などはほとんど比べ物にならない位ですが、その時と今とはこっちの覚悟が違います。戦時のように緊張した気分をもっていない今のわたしは、この山霧に対しても甚だしく悩まされました。
 二人がここを出ようとすると、下の方から七人連れの若い人が来ました。磯部の鉱泉宿でゆうべ一緒になった日本橋辺の人たちです。これも無論に案内者を雇っていましたが、行く路は一つですからこっちも一緒になって登りました。途中に菅公|硯《すずり》の水というのがあります。菅原道真《すがわらみちざね》は七歳の時までこの麓に住んでいたのだそうで、麓には今も菅原村の名が残っていると云います。案内者は正直な男で、「まあ、ともかくも、そういう伝説《いいつたえ》になっています。」と、余り勿体《もったい》ぶらずに説明してくれました。
「さあ、来たぞ。」
 前の方で大きな声をする人があるので、わたしも気がついて見あげると、名に負う第一の石門《せきもん》は蹄鉄《ていてつ》のような形をして、霧の間から屹《きっ》と聳《そび》えていました。高さ十|丈《じょう》に近いとか云います。見聞の狭いわたしは、はじめてこういう自然の威力の前に立ったのですから、唯あっ[#「あっ」に傍点]と云ったばかりで、ちょっと適当な形容詞を考え出すのに苦しんでいるうちに、かの七人連れも案内者も先に立ってずんずん行き過ぎてしまいます。私もおくれまいと足を早めました。案内者をあわせて十人の人間は、鯨《くじら》に呑まれる鰯《いわし》の群れのように、石門の大きな口へだんだんに吸い込まれてしまいました。第一の石門を出る頃から、岩の多い路はいちじるしく屈曲して、あるいは高く、あるいは低く、さらに半月形をなした第二の石門をくぐると、蟹《かに》の横這いとか、釣瓶《つるべ》さがりとか、片手繰りとか、いろいろの名が付いた難所に差しかかるのです。なにしろ碌々《ろくろく》に足がかりも無いような高いなめらかな岩の間を、長い鉄のくさりにすがって降りるのですから、余り楽ではありません。案内者はこんなことを云って嚇《おど》しました。
「いまは草や木が茂っていて、遠い谷底が見えないからまだ楽です。山が骨ばかりになってしまって、下の方が遠く幽《かす》かに見えた日には、大抵な人は足がすくみますよ。」
 成程そうかも知れません。第二第三の石門をくぐり抜ける間は、わたしも少しく不安に思いました。みんなも黙って歩きました。もし誤まってひと足踏みはずせば、わたしもこの紀行を書くの自由を失ってしまわなければなりません。第四の石門まで登り詰めて、武尊岩《ぶそんいわ》の前に立った時には、人も我れも汗びっしょりになっていました。日本武尊《やまとたけるのみこと》もこの岩まで登って来て引っ返されたと云うので、武尊岩の名が残っているのだそうです。そのそばには天狗の花畑というのがあります。いずこの深山《みやま》にもある習いで、四季ともに花が絶えないので此の名が伝わったのでしょう。今は米躑躅《こめつつじ》の細かい花が咲いていました。
 日本武尊にならって、わたしもここから引っ返しました。当人がしいて行きたいと望めば格別、さもなければ妄《みだ》りにこれから先へは案内するなと、警察から案内者に云い渡してあるのだそうです。
 下山《げざん》の途中は比較的に楽でした。来た時とは全く別の方向を取って、水の多い谷底の方へ暫《しばら》く降って行きますと、さらに草や木の多い普通の山路に出ました。どんなに陰った日でも、正午前後には一旦明るくなるのだそうですが、今日はあいにくに霧が晴れませんでした。面白そうに何か騒いでいる、かの七人連れをあとに残して、案内者と私とは霧の中を急いで降りました。足の方が少しく楽になったので、わたしはまた例のおしゃべりを始めますと、案内者もこころよく相手になって、帰途《かえり》にもいろいろの話をしてくれました。その中にこんな悲劇がありました。
「旦那は妙義神社の前に田沼《たぬま》神官の碑というのが建っているのをご覧でしたろう。あの人は可哀そうに斬《き》り殺されたんです。明治三十一年の一月二十一日に……。」
「どうして斬られたんだね。」
「相手はまあ狂人ですね。神官のほかに六人も斬ったんですもの。それは大変な騒ぎでしたよ。」
 妙義町ひらけて以来の椿事《ちんじ》だと案内者は云いました。その日は大雪の降った日で、正午を過ぎる頃に神社の外で何か大きな声を出して叫ぶ者がありました。神官の田沼|万次郎《まんじろう》が怪しんで、折柄そこに居合せた宿屋の番頭に行って見て来いと云い付けました。番頭が行って見ると、ひとりの若い男が袒《はだ》ぬぎになって雪の中に立っているのです。その様子がどうも可怪《おかし》いので、お前は誰だと声をかけると、その男はいきなりに刀を引き抜いて番頭を目がけて斬ってかかりました。番頭は驚いて逃げたので幸いに無事でしたが、その騒ぎを聞いて社務所から駈け付けて来た山伏の何某《なにがし》は、出合いがしらに一と太刀斬られて倒れました。これが第一の犠牲でした。
 男はそれから血刀を振りかざして、まっしぐらに社務所へ飛び込みました。そうして、不意に驚く人々を片端から追い詰めて、あたるに任せて斬りまくったのです。田沼神官と下女とは庭に倒れました。神官の兄と弟は敵を捕えようとして内と庭とで斬られました。またそのほかにも二人の負傷者ができました。庭から門前の雪は一面に紅くひたされて、見るからに物すごい光景を現じました。血に狂った男はまだ鎮まらないで、相手嫌わずに雪の中を追い廻すのですから、町の騒ぎは大変でした。
 半鐘が鳴る。消防夫が駈け付ける。町の者は思い思いの武器を持って集まる。四方八方から大勢が取り囲んで攻め立てたのですが、相手は死に物狂いで容易に手に負えません。そのうちに一人の撃ったピストルが男の足にあたって思わず小膝を折ったところへ、他の一人の槍がその脇腹にむかって突いて来ました。もうこれ迄《まで》です。男の血は槍や鳶口《とびぐち》や棒や鋤《すき》や鍬《くわ》を染めて、からだは雪に埋められました。検視の来る頃には男はもう死んでいました。
 神官と山伏と下女とは即死です。ほかの四人は重傷ながら幸いに命をつなぎ止めました。わたしの案内者も負傷者を病院へ運んだ一人だそうです。
「そこで、その男は何者だね。」
 わたしは縁台に腰をかけながら訊きました。くだりの路も途中からはもと来た路と一つになって、私たちはふたたび一本杉の金洞舎の前に出たのです。案内者も腰をおろして、茶を飲みながらまた話しました。
 磯部から妙義へ登る途中に、西横野《にしよこの》という村があります。かの惨劇の主人公はこの村の生まれで、前年の冬に習志野《ならしの》の聯隊から除隊になって戻って来た男です。この男の兄というのは去年から行くえ不明になっているので、母もたいそう心配していました。すると、前に云った二十一日の朝、彼は突然に母にむかって、これから妙義へ登ると云い出したのです。この大雪にどうしたのかと母が不思議がりますと、実はゆうべ兄《にい》さんに逢ったと云うのです。ゆうべの夢に、妙義の奥の箱淵《はこぶち》という所へ行くと、黒い淵の底から兄さんが出て来て、おれに逢いたければ明日《あした》ここへ尋ねて来て、淵にむかって大きな声でおれを呼べ、きっと姿を見せてやろうと云う。そんなら行こうと堅く約束したのだから、どうしても行かなければならないと云い張って、母が止めるのも肯《き》かずにとうとう出て行ったのです。それからどうしたのかよく判りません。人を斬った刀は駐在所の巡査の剣を盗み出したのだと云います。
 しかし其の箱淵へ尋ねて行く途中であったのか、あるいは淵に臨んで幾たびか兄を呼んでも答えられずに、むなしく帰る途中であったのか、それらのことはやはり判りません。とにかくに意趣《いしゅ》も遺恨もない人間を七人までも斬ったと云うのは、考えてもおそろしい事です。気が狂ったに相違ありますまい。しかも大雪のふる日に妙義の奥に分け登って、底の知れない淵にむかって、恋しい兄の名を呼ぼうとした弟の心を思いやれば、なんだか悲しい悼《いた》ましい気もします。殺された人々は無論気の毒です。殺した人も可哀そうです。その箱淵という所へ行って見たいような気もしましたが、ずっと遠い山奥だと聞きましたからやめました。
 帰途《かえり》にも葡萄酒醸造所に寄って、ふたたび梅酒の御馳走になりました。アルコールがはいっていないのですから、わたしには口当りがたいそう好《よ》いのです。少々ばかりのお茶代を差し置いてここを出る頃には、霧も雨に変って来たようですから、いよいよ急いで宿へ帰り着いたのは丁度午後三時でした。登山したのは午前九時頃でしたから、かれこれ六時間ほどを山めぐりに費した勘定です。
 菱屋で暫く休息して、わたしは日の暮れないうちに磯部へ戻ることにしました。案内者に別れて、菱屋の門《かど》を出ると、笠の上にはポツポツという音がきこえます。蛭ではありません。雨の音です。山の上からは冷たい風が吹きおろして来ました。貸座敷の跡だと云うあたりには、桑の葉がぬれて戦《そよ》いでいました。[#地付き](大正3・9「木太刀」)
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磯部の若葉


 きょうもまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部《いそべ》の若葉を音もなしに湿《ぬ》らしている。家々の湯の烟りも低く迷っている。疲れた人のような五月の空は、時どきに薄く眼をあいて夏らしい光りを微かに洩らすかと思うと、又すぐに睡《ねむ》そうにどんよりと暗くなる。鶏が勇ましく歌っても、雀がやかましく囀《さえず》っても、上州《じょうしゅう》の空は容易に夢から醒めそうもない。
「どうも困ったお天気でございます。」
 人の顔さえ見れば先ず斯《こ》ういうのが此の頃の挨拶になってしまった。廊下や風呂場で出逢う逗留《とうりゅう》の客も、三度の膳を運んで来る旅館の女中たちも、毎日この同じ挨拶を繰り返している。わたしも無論その一人である。東京から一つの仕事を抱えて来て、此処《ここ》で毎日原稿紙にペンを走らしている私は、ほかの湯治客ほどに雨の日のつれづれに苦しまないのであるが、それでも人の口真似をして「どうも困ります」などと云っていた。
 実際、湯治とか保養とかいう人たちは別問題として、上州のここらは今が一年じゅうで最も忙がしい養蚕《ようさん》季節で、なるべく湿《ぬ》れた桑の葉をお蚕《こ》さまに食わせたくないと念じている。それを考えると「どうも困ります」も、決して通り一遍の挨拶ではない。ここらの村や町の人たちに取っては重大の意味をもっていることになる。土地の人たちに出逢った場合には、わたしも真面目に「どうも困ります」と云うことにした。
 どう考えても、きょうも晴れそうもない。傘をさして散歩に出ると、到る処の桑畑は青い波のように雨に烟っている。妙義《みょうぎ》の山も西に見えない。赤城《あかぎ》、榛名《はるな》も東北に陰っている。蓑笠《みのかさ》の人が桑を荷《にな》って忙がしそうに通る、馬が桑を重そうに積んでゆく。その桑は莚《むしろ》につつんであるが、柔らかそうな青い葉は茹《ゆ》でられたようにぐったりと湿れている。私はいよいよ痛切に「どうも困ります」を感じずにはいられなくなった。そうして、鉛のような雨雲を無限に送り出して来る、いわゆる「上毛《じょうもう》の三名山」なるものを呪わしく思うようになった。

 磯部には桜が多い。磯部桜といえば上州の一つの名所になっていて、春は長野《ながの》や高崎《たかさき》、前橋《まえばし》から見物に来る人が多いと、土地の人は誇っている。なるほど停車場に着くと直ぐに桜の多いのが誰の眼にもはいる。路ばたにも人家の庭にも、公園にも丘にも、桜の古木が枝をかわして繁っている。磯部の若葉はすべて桜若葉であると云ってもいい。雪で作ったような向い翅《ばね》の鳩の群れがたくさんに飛んで来ると、湯の町を一ぱいに掩っている若葉の光りが生きたように青く輝いて来る。ごむほおずきを吹くような蛙《かわず》の声が四方に起ると、若葉の色が愁《うれ》うるように青黒く陰って来る。
 晴れの使いとして鳩の群れが桜の若葉をくぐって飛んで来る日には、例の「どうも困ります」が、暫く取り払われるのである。その使いも今日は見えない。宿の二階から見あげると、妙義みちにつづく南の高い崖みちは薄黒い若葉に埋められている。
 旅館の庭には桜のほかに青梧《あおぎり》と槐《えんじゅ》とを多く栽《う》えてある。痩せた梧の青い葉はまだ大きい手を拡げないが、古い槐の新しい葉は枝もたわわに伸びて、軽い風にも驚いたように顫《ふる》えている。そのほかに梅と楓と躑躅《つつじ》と、これらが寄り集まって夏の色を緑に染めているが、これは幾分の人工を加えたもので、門《かど》を一歩出ると、自然はこの町の初夏を桜若葉で彩《いろど》ろうとしていることが直ぐにうなずかれる。
 雨が小歇《こや》みになると、町の子供や旅館の男が箒《ほうき》と松明《たいまつ》とを持って桜の毛虫を燔《や》いている。この桜若葉を背景にして、自転車が通る。桑を積んだ馬が行く。方々の旅館で畳替えを始める。逗留客が散歩に出る。芸妓《げいしゃ》が湯にゆく。白い鳩が餌《えさ》をあさる。黒い燕《つばめ》が往来なかで宙返りを打つ。夜になると、蛙が鳴く、梟《ふくろう》が鳴く。門付《かどづ》けの芸人が来る。碓氷川《うすいがわ》の河鹿《かじか》はまだ鳴かない。

 おととしの夏ここへ来たときに下磯部の松岸寺《しょうがんじ》へ参詣したが、今年も散歩ながら重ねて行った。それは「どうも困ります」の陰った日で、桑畑を吹いて来るしめった風は、宿の浴衣《ゆかた》の上にフランネルをかさねた私の肌に冷やびやと沁《し》みる夕方であった。
 寺は安中《あんなか》みちを東に切れた所で、ここら一面の桑畑が寺内まで余ほど侵入しているらしく見えた。しかし、由緒ある古刹《こさつ》であることは、立派な本堂と広大な墓地とで容易に証明されていた。この寺は佐々木盛綱《ささきもりつな》と大野九郎兵衛《おおのくろべえ》との墓を所有しているので名高い。佐々木は建久《けんきゅう》のむかし此の磯部に城を構えて、今も停車場の南に城山の古蹟を残している位であるから、苔《こけ》の蒼い墓石は五輪塔のような形式でほとんど完全に保存されている。これに列《なら》んで其の妻の墓もある。その傍には明治時代に新しく作られたという大きい石碑もある。
 しかし私に取っては、大野九郎兵衛の墓の方が注意を惹《ひ》いた。墓は大きい台石の上に高さ五尺ほどの楕円形の石を据えてあって、石の表には慈望遊謙《じぼうゆうけん》墓、右に寛延《かんえん》○年と彫ってあるが、磨滅しているので何年かよく読めない。墓のありかは本堂の横手で、大きい杉の古木をうしろにして、南にむかって立っている。その傍にはまた高い桜の木が聳えていて、枝はあたかも墓の上を掩うように大きく差し出ている。周囲にはたくさんの古い墓がある。杉の立木は昼を暗くする程に繁っている。「仮名手本忠臣蔵」の作者|竹田出雲《たけだいずも》に斧九太夫《おのくだゆう》という名を与えられて以来、ほとんど人非人のモデルであるように、あまねく世間に伝えられている大野九郎兵衛という一個の元禄《げんろく》武士は、ここを永久の住み家と定めているのである。
 一昨年初めて参詣した時には、墓のありかが知れないので寺僧に頼んで案内してもらった。彼は品のよい若僧《にゃくそう》で、いろいろ詳しく話してくれた。その話に拠《よ》ると、その当時のこの磯部には浅野《あさの》家所領の飛び地が約三百石ほどあった。その縁故に因って、大野は浅野家滅亡の後ここに来て身を落ちつけたらしい。そうして、大野とも云わず、九郎兵衛とも名乗らず、単に遊謙《ゆうけん》と称する一個の僧となって、小さい草堂《そうどう》を作って朝夕に経を読み、かたわらには村の子供たちを集めて読み書きを指南していた。彼が直筆《じきひつ》の手本というものが今も村に残っている。磯部に於ける彼は決して不人望ではなかった。弟子たちにも親切に教えた、いろいろの慈善をも施した、碓氷川の堤防も自費で修理した。墓碑に寛延の年号を刻んであるのを見ると、よほど長命であったらしい。独身の彼は弟子たちの手に因って其の亡骸《なきがら》をここに葬られた。
「これだけ立派な墓が建てられているのを見ると、村の人にはよほど敬慕されていたんでしょうね。」と、わたしは云った。
「そうかも知れません。」
 僧は彼に同情するような柔らかい口振りであった。たとえ不忠者にもせよ、不義者にもあれ、縁あって我が寺内に骨を埋めたからは、平等の慈悲を加えたいという宗教家の温かい心か、あるいは別に何らかの主張があるのか、若い僧の心持は私には判らなかった。油蝉の暑苦しく鳴いている木の下で、わたしは厚く礼を云って僧と別れた。僧の痩せた姿は大きな芭蕉《ばしょう》の葉のかげへ隠れて行った。
 自己の功名の犠牲として、罪のない藤戸《ふじと》の漁民を惨殺した佐々木盛綱は、忠勇なる鎌倉武士の一人として歴史家に讃美されている。復讐《ふくしゅう》の同盟に加わることを避けて、先君の追福と陰徳とに余生を送った大野九郎兵衛は、不忠なる元禄武士の一人として浄瑠璃《じょうるり》の作者にまで筆誅されてしまった。私はもう一度かの僧を呼び止めて、元禄武士に対する彼の詐《いつわ》らざる意見を問い糺《ただ》して見ようかと思ったが、彼の迷惑を察してやめた。
 今度行ってみると、佐々木の墓も大野の墓も旧《もと》のままで、大野の墓の花筒には白いつつじが生けてあった。かの若い僧が供えたのではあるまいか。わたしは僧を訪わずに帰ったが、彼の居間らしい所には障子が閉じられて、低い四つ目垣の裾《すそ》に芍薬《しゃくやく》が紅《あか》く咲いていた。

 旅館の門を出て右の小道をはいると、丸い石を列べた七、八段の石段がある。登り降りは余り便利でない。それを登り尽くした丘の上に、大きい薬師堂が東にむかって立っていて、紅白の長い紐を垂れた鰐口《わにぐち》が懸かっている。木連《きつれ》格子の前には奉納の絵馬もたくさんに懸かっている。め[#「め」に傍点]の字を書いた額も見える。千社札《せんじゃふだ》も貼ってある。右には桜若葉の小高い崖《がけ》をめぐらしているが、境内はさのみ広くもないので、堂の前の一段低いところにある家々の軒は、すぐ眼の下に連なって見える。わたしは時にここへ散歩に行ったが、いつも朝が早いので、参詣らしい人の影を認めたことはなかった。
 それでもたった一度若い娘が拝んでいるのを見たことがある。娘は十七、八らしい。髪は油気の薄い銀杏《いちょう》がえしに結って、紺飛白《こんがすり》の単衣《ひとえもの》に紅い帯を締めていた。その風体はこの丘の下にある鉱泉会社のサイダー製造にかよっている女工らしく思われた。色は少し黒いが容貌《きりょう》は決して醜《みにく》い方ではなかった。娘は湿れた番傘を小脇に抱えたままで、堂の前に久しくひざまずいていた。細かい雨は頭の上の若葉から漏れて、娘のそそけた鬢《びん》に白い雫《しずく》を宿しているのも何だか酷《むご》たらしい姿であった。わたしは暫く立っていたが、娘は容易に動きそうもなかった。
 堂と真向いの家はもう起きていた。家の軒には桑籠《くわかご》がたくさん積まれて、若い女房が蚕棚《かいこだな》の前に襷《たすき》がけで働いていた。若い娘は何を祈っているのか知らない。若い人妻は生活に忙がしそうであった。
 どこかで蛙が鳴き出したかと思うと、雨はさアさアと降って来た。娘はまだ一心に拝んでいた。女房は慌てて軒下の桑籠を片付け始めた。[#地付き](大正5・6「木太刀」)
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栗の花


 栗《くり》の花、柿の花、日本でも初夏の景物にはかぞえられていますが、俳味に乏しい我々は、栗も柿もすべて秋の梢にのみ眼をつけて、夏のさびしい花にはあまり多くの注意を払っていませんでした。秋の木の実を見るまでは、それらはほとんど雑木《ぞうき》に等《ひと》しいもののように見なしていましたが、その軽蔑《けいべつ》の眼は欧洲大陸へ渡ってから余ほど変って来ました。この頃の私は決して栗の木を軽蔑しようとは思いません。必ず立ちどまって、その梢をしばらく瞰《み》あげるようになりました。
 ひと口に栗と云っても、ここらの国々に多い栗の木は、普通にホース・チェストナットと呼ばれて、その実を食うことは出来ないと云います。日本でいうどんぐり[#「どんぐり」に傍点]のたぐいであるらしく思われる。しかしその木には実に見事な大きいのがたくさんあって、花は白と薄紅との二種あります。倫敦《ロンドン》市中にも無論に多く見られるのですが、わたしが先ず軽蔑の眼を拭《ぬぐ》わせられたのは、キウ・ガーデンをたずねた時でした。
 五月中旬からロンドンも急に夏らしくなって、日曜日の新聞を見ると、ピカデリー・サーカスにゆらめく青いパラソルの影、チャーリング・クロスに光る白い麦藁《むぎわら》帽の色、ロンドンももう夏のシーズンに入ったと云うような記事がみえました。その朝に高田商会のT君がわざわざ誘いに来てくれて、きょうはキウ・ガーデンへ案内してやろうと云う。
 早速に支度をして、ベーカーストリートの停車場から運ばれてゆくと、ガーデンの門前にゆき着いて、先ずわたしの眼をひいたのは、かのホース・チェストナットの並木でした。日本の栗の木のいたずらにひょろひょろしているのとは違って、こんもりと生い茂った木振《きぶ》りといい、葉の色といい、それが五月の明るい日の光にかがやいて、真昼の風に青く揺らめいているのはいかにも絵にでもありそうな姿で、私はしばらく立ち停まってうっかりと眺めていました。
 その日は帰りにハンプトン・コートへも案内されました。コートに接続して、プッシー・パークと云うのがあります。この公園で更に驚かされたのは、何百年を経たかと思われるような栗の大木が大きな輪を作って列《なら》んでいることでした。見れば見るほど立派なもので、私はその青い下蔭に小さくたたずんで、再びうっかりと眺めていました。ハンプトン・コートには楡《にれ》の立派な立木もありますが、到底この栗の林には及びませんでした。
 あくる日、近所の理髪店へ行って、きのうはキウ・ガーデンからハンプトン・コートを廻って来たという話をすると、亭主はあの立派なチェストナットを見て来たかと云いました。ここらでもその栗の木は名物になっているとみえます。その以来、わたしも栗の木に少なからぬ注意を払うようになって、公園へ行っても、路ばたを歩いても、いろいろの木立《こだち》のなかで先ず栗の木に眼をつけるようになりました。
 それから一週間ほどたって、私は例のストラッドフォード・オン・アヴォンに沙翁《さおう》の故郷をたずねることになりました。そうして、ここでアーヴィングが「スケッチ・ブック」の一節を書いたとか伝えられているレッド・ホース・ホテルという宿屋に泊まりました。日のくれる頃、案内者のM君O君と一緒にアヴォンの河のほとりを散歩すると、日本の卯《う》の花に似たようなメー・トリーの白い花がそこらの田舎家の垣からこぼれ出して、うす明るいトワイライトの下《もと》にむら消えの雪を浮かばせているのも、まことに初夏のたそがれらしい静寂な気分を誘い出されましたが、更にわたしの眼を惹《ひ》いたのはやはり例の栗の立木でした。河のバンクには栗と柳の立木がつづいています。
 ここらの栗もプッシー・パークに劣らない大木で、この大きい葉のあいだから白い花がぼんやりと青い水の上に映って見えます。その水の上には白鳥が悠々と浮かんでいて、それに似たような白い服を着た若い女が二人でボートを漕《こ》いでいます。M君の動議で小船を一時間借りることになって、栗の木の下にある貸船屋に交渉すると、亭主はすぐに承知して、そこに繋《つな》いである一艘の小船を貸してくれて、河下の方へあまり遠く行くなと注意してくれました。承知して、三人は船に乗り込みましたが、私は漕ぐことを知らないので、櫂《かい》の方は両君にお任せ申して、船のなかへ仰向けに寝転んでしまいました。
 もう八時頃であろうかと思われましたが、英国の夏の日はなかなか暮れ切りません。蒼白い空にはうす紅い雲がところどころに流れています。両君の櫂もあまり上手ではないらしいのですが、流れが非常に緩いので、船は静かに河下へくだって行きます。云い知れないのんびりした気分になって、私は寝転びながら岸の上をながめていると、大きい栗の梢を隔てて沙翁紀念劇場の高い塔が丁度かの薄紅い雲のしたに聳えています。その塔には薄むらさきの藤の花がからみ付いていることを、私は昼のうちに見て置きました。
 船はいい加減のところまで下ったので、さらに方向を転じて上流の方へ遡《さかのぼ》ることになりました。灯の少ないここらの町はだんだんに薄暗く暮れて来て、栗の立木も唯ひと固まりの暗い影を作るようになりましたが、空と水とはまだ暮れそうな気色《けしき》もみえないので、水明かりのする船端《ふなばた》には名も知れない羽虫の群れが飛び違っています。白鳥はどこの巣へ帰ったのか、もう見えなくなりました。起き直って、巻莨《まきたばこ》を一本すって、その喫殻《すいがら》を水に投げ込むと、あたかもそれを追うように一つの白い花がゆらゆらと流れ下って来ました。透かしてみると、それは栗の花でした。

  栗の花アヴォンの河を流れけり

 句の善悪はさておいて、これは実景です。わたしは幾たびか其の句を口のうちで繰り返しているあいだに、船は元の岸へ戻って来ました。両君は櫂を措《お》いて出ると、私もつづいて出ました。貸船屋の奥には黄いろい蝋燭が点《とも》っています。亭主が出て来て、大きい手の上に船賃を受けとって、グードナイトとただ一言、ぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に云いました。
 岸へあがって五、六|間《けん》ゆき過ぎてから振り返ると、低い貸船屋も大きい栗の木もみな宵闇のなかに沈んで、河の上がただうす白く見えるばかりでした。どこかで笛の声が遠くきこえました。ホテルへ帰ると、われわれの部屋にも蝋燭がともしてありました。
 ホテルの庭にも大きい栗の木があります。いつの間に空模様が変ったのか、夜なかになると雨の音がきこえました。枕もとの蝋燭を再びともして、カーテンの間から窓の外をのぞくと、雨の雫《しずく》は栗の葉をすべって、白い花が暗いなかにほろほろ[#「ほろほろ」に傍点]と落ちていました。
 夜の雨、栗の花、蝋燭の灯、アーヴィングの宿った家――わたしは日本を出発してから曾《かつ》て経験したことのないような、しんみりとした安らかな気分になって、沙翁の故郷にこの一夜を明かしました。明くる朝起きてみると、庭には栗の花が一面に白く散っていました。[#地付き](大正八年五月、倫敦にて――大正8・7「読売新聞」)
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ランス紀行


 六月七日、午前六時頃にベッドを這《は》い降りて寒暖計をみると八十度。きょうの暑さも思いやられたが、ぐずぐずしてはいられない。同宿のI君をよび起して、早々に顔を洗って、紅茶とパンをのみ込んで、ブルヴァー・ド・クリシーの宿を飛び出したのは七時十五分前であった。
 How to See the battlefields――抜目のないトーマス・クックの巴里《パリ》支店では、この四月からこういう計画を立てて、仏蘭西《フランス》戦場の団体見物を勧誘している。われわれもその団体に加入して、きょうこのランスの戦場見物に行こうと思い立ったのである。切符はきのうのうちに買ってあるので、今朝はまっすぐにガル・ド・レストの停車場へ急いでゆく。
 宿からはさのみ遠くもないのであるが、パリへ着いてまだ一週間を過ぎない我々には、停車場の方角がよく知れない。おまけに電車はストライキの最中で、一台も運転していない。その影響で、タキシーも容易に見付からない。地図で見当をつけながら、ともかくもガル・ド・レストへゆき着いたのは、七時十五分頃であった。七時二十分までに停車場へ集合するという約束であったが、クックの帽子をかぶった人間は一人もみえない。停車場は無暗《むやみ》に混雑している。おぼつかないフランス語でクックの出張所をたずねたが、はっきりと教えてくれる人がない。そこらをまごまごしているうちに、七時三十分頃であろう、クックの帽子をかぶった大きい男をようよう見付け出して、あの汽車に乗るのだと教えてもらった。
 混雑のなかをくぐりぬけて、自分たちの乗るべき線路のプラットホームに立って、先ずほっとした時に、倫敦《ロンドン》で知己《ちき》になったO君とZ君とが写真機械携帯で足早にはいって来た。
「やあ、あなたもですか。」
「これはいい道連れが出来ました。」
 これできょうの一行中に四人の日本人を見いだしたわけである。たがいに懐かしそうな顔をして、しばらく立ち話をしていると、クックの案内者が他の人々を案内して来て、レザーヴしてある列車の席をそれぞれに割りあてる。日本人はすべて一室に入れられて、そのほかに一人の英国紳士が乗り込む。紳士はもう六十に近い人であろう、容貌といい、服装といい、いかにも代表的のイングリッシュ・ゼントルマンらしい風采《ふうさい》の人物で、丁寧に会釈《えしゃく》して我々の向うに席を占めた。O君があわてて喫《す》いかけた巻莨《まきたばこ》の火を消そうとすると、紳士は笑いながら徐《しず》かに云った。
「どうぞお構いなく……。わたしも喫います。」
 七時五十三分に出る筈の列車がなかなか出ない。一行三十余人はことごとく乗り込んでしまっても、列車は動かない。八時を過ぎて、ようように汽笛は鳴り出したが、速力はすこぶる鈍《にぶ》い。一時間ほども走ると、途中で不意に停車する。それからまた少し動き出したかと思うと、十分ぐらいでまた停車する。英国紳士はクックの案内者をつかまえて其の理由を質問していたが、案内者も困った顔をして笑っているばかりで、詳しい説明をあたえない。こういう始末で、一進一止、捗《はかど》らないことおびただしく、われわれももううんざり[#「うんざり」に傍点]して来た。きょうの一行に加わって来た米国の兵士五、六人は、列車が停止するたびに車外に飛び出して路ばたの草花などを折っている。気の早い連中には実際我慢が出来ないであろうと思いやられた。
 窓をあけて見渡すと、何というところか知らないが、青い水が線路を斜めに横ぎって緩く流れている。その岸には二、三本の大きい柳の枝が眠そうに靡《なび》いている。線路に近いところには低い堤が蜿《のたく》ってつづいて、紅い雛芥子《ひなげし》と紫のブリュー・ベルとが一面に咲きみだれている。薄《すすき》のような青い葉も伸びている。米国の兵士はその青い葉をまいて笛のように吹いている。一丁も距《はな》れた畑のあいだに、三、四軒の人家の赤煉瓦が朝の日に暑そうに照らされている。
「八十五、六度だろう。」と、I君は云った。汽車が停まるとすこぶる暑い。われわれが暑がって顔の汗を拭いているのを、英国紳士は笑いながら眺めている。そうして、「このくらいならば歩いた方が早いかも知れません。」と云った。われわれも至極《しごく》同感で、口を揃えてイエス・サアと答えた。
 英国紳士は相変らずにやにや笑っているが、我々はもう笑ってはいられない。
「どうかして呉れないかなあ。」
 気休めのように列車は少し動き出すかと思うと、又すぐに停まってしまう。どの人もあきあきしたらしく、列車が停まるとみんな車外に出てぶらぶらしていると、それを車内へ追い込むように夏の日光はいよいよ強く照り付けてくる。眼鏡をかけている私もまぶしい位で、早々に元の席へ逃げて帰ると、列車はまた思い出したように動きはじめる。こんな生鈍《なまぬる》い汽車でよく戦争が出来たものだと云う人もある。なにか故障が出来たのだろうと弁護する人もある。戦争中にあまり激しく使われたので、汽車も疲れたのだろうと云う人もある。午前十一時までに目的地のランスに到着する筈の列車が二時間も延着して、午後一時を過ぎる頃にようようその停車場にゆき着いたので、待ち兼ねていた人々は一度にどやどやと降りてゆく。よく見ると、女は四、五人、ほかはみな男ばかりで、いずれも他国の人たちであろう、クックの案内者二人はすべて英語を用いていた。
 大きい栗の下をくぐって停車場を出て、一丁ほども白い土の上をたどってゆくと、レストラン・コスモスという新しい料理店のまえに出た。仮普請同様の新築で、裏手の方ではまだ職人が忙がしそうに働いている。一行はここの二階へ案内されて、思い思いにテーブルに着くと、すぐに午餐《ごさん》の皿を運んで来た。空腹のせいか、料理はまずくない。片端から胃の腑へ送り込んで、ミネラルウォーターを飲んでいると、自動車の用意が出来たと知らせてくる。又どやどやと二階を降りると、特別に註文したらしい人たちは普通の自動車に二、三人ずつ乗り込む。われわれ十五、六人は大きい自動車へ一緒に詰め込まれて、ほこりの多い町を通りぬけてゆく。案内者は車の真先《まっさき》に乗っていて、時どきに起立して説明する。
 ランスという町について、わたしはなんの知識も有《も》たない。今度の戦争で、一度は敵に占領されたのを、さらにフランスの軍隊が回復したということのほかには、なんにも知らない。したがって、その破壊以前のおもかげを偲ぶことは出来ないが、今見るところでは可なりに美しい繁華な市街であったらしい。それを先ず敵の砲撃で破壊された。味方も退却の際には必要に応じて破壊したに相違ない。そうして、いったん敵に占領された。それを取返そうとして、味方が再び砲撃した。敵が退却の際にまた破壊した。こういう事情で、幾たびかの破壊を繰り返されたランスの町は禍《わざわい》である。市街はほとんど全滅と云ってもよい。ただ僅かに大通りに面した一部分が疎《まば》らに生き残っているばかりで、その他の建物は片端から破壊されてしまった。大火事か大地震のあとでも恐らく斯《こ》うはなるまい、大火事ならば寧《むし》ろ綺麗に灰にしてしまうかも知れない。
 滅茶滅茶に叩き毀された無残の形骸《けいがい》をなまじいに留めているだけに痛々しい。無論、砲火に焼かれた場所もあるに相違ないが、なぜその火が更に大きく燃え拡がって、不幸な町の亡骸《なきがら》を火葬にしてしまわなかったか。形見《かたみ》こそ今は仇《あだ》なれ、ランスの町の人たちもおそらく私と同感であろうと思われる。
 勿論、町民の大部分はどこへか立ち退いてしまって、破壊された亡骸の跡始末をする者もないらしい。跡始末には巨額の費用を要する仕事であるから、去年の休戦以来、半年以上の時間をあだに過して、いたずらに雨や風や日光のもとにその惨状を晒しているのであろう。敵国から償金を受取って一生懸命に仕事を急いでも、その回復は容易であるまい。
 地理を知らない私は――ちっとぐらい知っていても、この場合にはとうてい見当は付くまいと思われるが――自動車の行くままに運ばれて行くばかりで、どこがどうなったのかちっとも判らないが、ヴェスルとか、アシドリュウとか、アノウとかいう町々が、その惨状を最も多く描き出しているらしく見えた。大抵の家は四方の隅々だけを残して、建物全体がくずれ落ちている。なかには傾きかかったままで、破れた壁が辛《から》くも支えられているのもある。家の大部分が黒く焦げながら、不思議にその看板だけが綺麗に焼け残っているのは、却って悲しい思いを誘い出された。
 ここらには人も見えない、犬も見えない。骸骨《がいこつ》のように白っぽい破壊のあとが真昼の日のもとにいよいよ白く横たわっているばかりである。この頽《くず》れた建物の下には、おじいさんが先祖伝来と誇っていた古い掛時計も埋められているかも知れない。若い娘の美しい嫁入衣裳も埋められているかも知れない。子供が大切にしていた可愛らしい人形も埋められているかも知れない。それらに魂はありながら、みんな声さえも立てないで、静かに救い出される日を待っているのかも知れない。
 乗合いの人たちも黙っている。わたしも黙っている。案内者はもう馴れ切ったような口調で高々と説明しながら行く。幌《ほろ》のない自動車の上には暑い日が一面に照りつけて、眉のあたりには汗が滲《にじ》んでくる。死んだ町には風すらも死んでいると見えて、きょうはそより[#「そより」に傍点]とも吹かない。散らばっている石や煉瓦を避《よ》けながら、狭い路を走ってゆく自動車の前後には白い砂けむりが舞いあがるので、どの人の帽子も肩のあたりも白く塗られてしまった。
 市役所も劇場もその前づらだけを残して、内部はことごとく頽れ落ちている。大きい寺も伽藍堂《がらんどう》になってしまって、正面の塔に据え付けてあるクリストの像が欠けて傾いている。こうした古い寺には有名な壁画などもたくさん保存されていたのであろうが、今はどうなったか判るまい。一羽の白い鳩がその旧蹟を守るように寺の門前に寂しくうずくまっているのを、みんなが珍しそうに指さしていた。
 町を通りぬけて郊外らしいところへ出ると、路の両側はフランス特有のブルヴァーになって、大きい栗の木の並木がどこまでも続いている。栗の花はもう散り尽くして、その青い葉が白い土のうえに黒い影を落している。木の下には雛芥子《ひなげし》の紅い小さい花がしおらしく咲いている。ここらへ来ると、時どきは人通りがあって、青白い夏服をきた十四、五の少女が並木の下を俯向《うつむ》きながら歩いてゆく。かれは自動車の音におどろいたように顔をあげると、車上の人たちは帽子を振る。少女は嬉しそうに微笑《ほほえ》みながら、これも頻《しき》りにハンカチーフを振る。砂煙が舞い上がって、少女の姿がおぼろになった頃に、自動車も広い野原のようなところに出た。
 戦争前には畑になっていたらしいが、今では茫々たる野原である。原には大きい塹壕《ざんごう》のあとが幾重にも残っていて、ところどころには鉄条網も絡み合ったままで光っている。立木はほとんどみえない。眼のとどく限りは雛芥子の花に占領されて、血を流したように一面に紅い。原に沿うた長い路をゆき抜けると、路はだんだんに登り坂になって、石の多い丘の裾についた。案内者はここが百八高地というのであると教えてくれた。
 自動車から卸《おろ》されて、思い思いに丘の方へ登ってゆくと、そこには絵葉書や果物などを売る店が出ている。ここへ来る見物人を相手の商売らしい。同情も幾分か手伝って、どの人も余り廉《やす》くない絵葉書や果物を買った。
 丘の上にも塹壕がおびただしく続いていて、そこらにも鉄条網や砲弾の破片が見いだされた。丘の上にも立木はない。石の間にはやはり雛芥子が一面に咲いている。戦争が始まってから四年の間、芥子の花は夏ごとに紅く咲いていたのであろう。敵も味方もこの花を友として、苦しい塹壕生活をつづけていたのであろう。そうして、この優しい花を見て故郷の妻子を思い出したのもあろう。この花よりも紅い血を流して死んだのもあろう。ある者は生き、ある者はほろび、ある者は勝ち、ある者は敗れても、花は知らぬ顔をして今年の夏も咲いている。
 これに対して、ある者を傷《いた》み、ある者を呪うべきではない。勿論、商船の無制限撃沈を試みたり、都市の空中攻撃を企てたりした責任者はある。しかしながら戦争そのものは自然の勢いである。欧洲の大勢《たいせい》が行くべき道を歩んで、ゆくべき所へゆき着いたのである。その大勢に押し流された人間は、敵も味方も悲惨である。野に咲く百合を見て、ソロモンの栄華を果敢《はか》なしと説いた神の子は、この芥子の花に対して何と考えるであろう。
 坂を登るのでいよいよ汗になった我々は、干枯《ひから》びたオレンジで渇《かつ》を癒《いや》していると、汽車の時間が追っているから早く自動車に乗れと催促される。二時間も延着した祟《たた》りで、ゆっくり落着いてはいられないと案内者が気の毒そうに云うのも無理はないので、どの人もおとなしく自動車に乗り込むと、車は待ちかねたように走り出したが、途中から方向をかえて、前に来た路とはまた違った町筋をめぐってゆく。路は変っても、やはり同じ破壊の跡である。プレース・ド・レパプリクの噴水池は涸《か》れ果てて、まんなかに飾られた女神の像の生白い片腕がもがれている。
 停車場へ戻って自動車を降りると、町の入口には露店をならべて、絵葉書や果物のたぐいを売っている男や女が五、六人見えた。砲弾の破片で作られた巻莨の灰皿や、独逸《ドイツ》兵のヘルメットを摸したインキ壷なども売っている。そのヘルメットは剣を突き刺したり、斧《おの》を打ち込んだりしてあるのが眼についた。摸造品ばかりでなく、ほん物のドイツ将校や兵卒のヘルメットを売っているのもある。おそらく戦場で拾ったものであろう。その値をきいたら九十フランだと云った。勿論、云い値で買う人はない。ある人は五十フランに値切って二つ買ったとか話していた。
「なにしろ暑い。」
 異口同音に叫びながら、停車場のカフェーへ駈け込んで、一息にレモン水を二杯のんで、顔の汗とほこりを忙がしそうに拭いていると、四時三十分の汽車がもう出るという。あわてて車内に転がり込むと、それがまた延着して、八時を過ぎる頃にようようパリに送り還された。[#地付き](大正8・9「新小説」)

 この紀行は大正八年の夏、パリの客舎で書いたものである。その当時、かのランスの戦場のような、むしろそれ以上のおそろしい大破壊を四年後の東京のまん中で見せ付けられようとは、思いも及ばないことであった。よそ事のように眺めて来た大破壊のあとが、今やありありと我が眼のまえに拡げられているではないか。わたしはまだ異国の夢が醒めないのではないかと、時どきに自分を疑うことがある。[#地付き](大正十二年十月追記『十番随筆』所収)
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旅すずり


     (一)心太

 川越《かわごえ》の喜多院《きたいん》に桜を観る。ひとえはもう盛りを過ぎた。紫衣《しい》の僧は落花の雪を袖に払いつつ行く。境内《けいだい》の掛茶屋にはいって休む。なにか食うものはないかと婆さんにきくと、心太《ところてん》ばかりだと云う。試みに一皿を買えば、あたい八厘。
 花をさそう風は梢をさわがして、茶店の軒も葭簀《よしず》も一面に白い。わたしは悠然として心太を啜《すす》る。天海《てんかい》僧正の墓のまえで、わたしは少年の昔にかえった。[#地付き](明治32・4)

     (二)天狗

 広島《ひろしま》の街《まち》をゆく。冬の日は陰って寒い。
 忽《たちま》ちに横町から天狗があらわれた。足駄《あしだ》を穿いて、矛《ほこ》をついて、どこへゆくでもなし、迷うが如くに徘徊《はいかい》している。一人ならず、そこからも此処《ここ》からも現われた。みな十二、三歳の子供である。
 宿に帰って聞けば、きょうは亥子《いのこ》の祭りだという。あまたの小天狗はそれがために出現したらしい。空はやがて時雨《しぐれ》となった。神通力《じんつうりき》のない天狗どもは、雨のなかを右往左往に逃げてゆく。その父か叔父であろう。四十前後の大男は、ひとりの天狗を小脇に抱えて駈け出した。[#地付き](明治37・11)

     (三)鼓子花

 午後三時頃、白河《しらかわ》停車場前の茶店に休む。隣りの床几《しょうぎ》には二十四、五の小粋な女が腰をかけていた。女は茶店の男にむかって、黒磯《くろいそ》へゆく近路を訊いている。あるいてゆく積りらしい。
 まあ、ともかくも行ってみようかと独り言を云いながら、女は十銭の茶代を置いて出た。
 茶屋女らしいねと私が云えば、どうせ食詰者《くいつめもの》でしょうよと、店の男は笑いながら云った。
 夏の日は暑い。垣の鼓子花《ひるがお》は凋《しお》れていた。[#地付き](明治39・8)

     (四)唐辛

 日光の秋八月、中禅寺《ちゅうぜんじ》をさして旧道をたどる。
 紅い鳥が、青い樹間《このま》から不意に飛び出した。形は山鳩に似て、翼《つばさ》も口嘴《くちばし》もみな深紅《しんく》である。案内者に問えば、それは俗に唐辛《とうがらし》といい、鳴けば必ず雨がふるという。
 鳥はたちまち隠れてみえず、谷を隔ててふた声、三声。われわれは恐れて路を急いだ。
 仲の茶屋へ着く頃には、山も崩るるばかりの大雨《おおあめ》となった。[#地付き](明治43・8)

     (五)夜泊の船

 船は門司《もじ》に泊《かか》る。小春の海は浪おどろかず、風も寒くない。
 酒を売る船、菓子を売る船、うろうろと漕ぎまわる。石炭をつむ女の手拭が白い。
 対岸の下関《しものせき》はもう暮れた。寿永《じゅえい》のみささぎはどの辺であろう。
 なにを呼ぶか、人の声が水に響いて遠近《おちこち》にきこえる。四面のかかり船は追いおいに灯を掲げた。すべて源氏の船ではあるまいか。わたしは敵に囲まれたように感じた。[#地付き](明治39・11)

     (六)蟹

 遼陽城外、すべて緑楊《りょくよう》の村である。秋雨《あきさめ》の晴れたゆうべに宿舎の門《かど》を出ると、斜陽は城楼の壁に一抹《いちまつ》の余紅《よこう》をとどめ、水のごとき雲は喇嘛《ラマ》塔を掠《かす》めて流れてゆく。
 南門外は一面の畑で、馬も隠るるばかりの高梁《コウリャン》が、俯しつ仰ぎつ秋風に乱れている。
 村落には石の井《いど》があって、その辺は殊に楊《やなぎ》が多い。楊の下には清《しん》国人が籃《かご》をひらいて蟹《かに》を売っている。蟹の大なるは尺を越えたのもある。
「半江紅樹売[#二]鱸魚[#一]」は王漁洋《おうぎょよう》の詩である。夕陽村落、楊の深いところに蟹を売っているのも、一種の詩料になりそうな画趣で、今も忘れない。[#地付き](明治37・10)

     (七)三条大橋

 京は三条のほとりに宿った。六月はじめのあさ日は鴨川《かもがわ》の流れに落ちて、雨後の東山《ひがしやま》は青いというよりも黒く眠っている。
 このあたりで名物という大津《おおつ》の牛が柴車《しばぐるま》を牽《ひ》いて、今や大橋を渡って来る。その柴の上には、誰《た》が風流ぞ、むらさきの露のしたたる菖蒲の花が挟んである。
 紅い日傘をさした舞妓《まいこ》が橋を渡って来て、あたかも柴車とすれ違ってゆく。
 所は三条大橋、前には東山、見るものは大津牛、柴車、花菖蒲、舞妓と絵日傘――京の景物はすべてここに集まった。[#地付き](明治42・6)

     (八)木蓼

 信濃《しなの》の奥にふみ迷って、おぼつかなくも山路をたどる夏のゆうぐれに、路ばたの草木の深いあいだに白点々、さながら梅の花の如きを見た。
 後に聞けば、それは木蓼《またたび》の花だという。猫にまたたびの諺《ことわざ》はかねて聞いていたが、その花を見るのは今が初めであった。
 天地|蒼茫《そうぼう》として暮れんとする夏の山路に、蕭然《しょうぜん》として白く咲いているこの花をみた時に、わたしは云い知れない寂しさをおぼえた。[#地付き](大正3・8)

     (九)鶏

 秋雨《あきさめ》を衝《つ》いて箱根《はこね》の旧道を下《くだ》る。笈《おい》の平《たいら》の茶店に休むと、神崎与五郎《かんざきよごろう》が博労《ばくろう》の丑五郎《うしごろう》に詫《わび》証文をかいた故蹟という立て札がみえる。
 五、六日まえに修学旅行の学生の一隊がそこに休んで、一羽の飼い鶏をぬすんで行ったと、店のおかみさんが甘酒を汲みながら口惜《くや》しそうに語った。
「あいつ泥坊だ。」と、三つばかりの男の児が母のあとに付いて、まわらぬ舌で罵《ののし》った。この児に初めて泥坊という詞《ことば》を教えた学生らは、今頃どこの学校で勉強しているであろう。[#地付き](大正10・10)

     (十)山蛭

 妙義の山をめぐるあいだに、わたしは山蛭《やまびる》に足を吸われた。いくら洗っても血のあとが消えない。ただ洗っても消えるものでない。水を口にふくんで、所謂《いわゆる》ふくみ水にして、それを手拭か紙に湿《しめ》して拭き取るのが一番いいと、案内者が教えてくれた。
 蛭に吸われた旅の人は、妙義の女郎のふくみ水で洗って貰ったのですと、かれは昔を偲び顔にまた云った。上州一円は明治二十三年から廃娼を実行されているのである。
 雨のように冷たい山霧は妙義の町を掩って、そこが女郎屋の跡だというあたりには、桑の葉が一面に暗くそよいでいた。[#地付き](大正3・8)
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温泉雑記


     一

 ことしの梅雨も明けて、温泉場繁昌の時節が来た。この頃では人の顔をみれば、この夏はどちらへお出《い》でになりますかと尋《たず》ねたり、尋ねられたりするのが普通の挨拶になったようであるが、私たちの若い時――今から三、四十年前までは決してそんなことは無かった。
 勿論《もちろん》、むかしから湯治にゆく人があればこそ、どこの温泉場も繁昌していたのであるが、その繁昌の程度が今と昔とはまったく相違していた。各地の温泉場が近年いちじるしく繁昌するようになったのは、何と云っても交通の便が開けたからである。
 江戸時代には箱根の温泉まで行くにしても、第一日は早朝に品川《しながわ》を発《た》って程ヶ谷《ほどがや》か戸塚《とつか》に泊まる、第二日は小田原《おだわら》に泊まる。そうして、第三日にはじめて箱根の湯本《ゆもと》に着く。但しそれは足の達者な人たちの旅で、病人や女や老人の足の弱い連れでは、第一日が神奈川《かながわ》泊まり、第二日が藤沢《ふじさわ》、第三日が小田原、第四日に至って初めて箱根に入り込むというのであるから、往復だけでも七、八日はかかる。それに滞在の日数を加えると、どうしても半月以上に達するのであるから、金と暇とのある人びとでなければ、湯治場《とうじば》めぐりなどは容易に出来るものではなかった。
 江戸時代ばかりでなく、明治時代になって東海道線の汽車が開通するようになっても、まず箱根まで行くには国府津《こうづ》で汽車に別れる。それから乗合いのガタ馬車にゆられて、小田原を経て湯本に着く。そこで、湯本泊まりならば格別、さらに山の上へ登ろうとすれば、人力車か山駕籠に乗るのほかはない。小田原電鉄が出来て、その不便がやや救われたが、それとても国府津、湯本間だけの交通にとどまって、湯本以上の登山電車が開通するようになったのは、大正のなかば頃からである。そんなわけであるから、一泊でもかなりに気忙《きぜわ》しい。いわんや日帰りに於いてをやである。
 それが今日《こんにち》では、一泊はおろか、日帰りでも悠々と箱根や熱海《あたみ》に遊んで来ることが出来るようになったのであるから、鉄道省その他の宣伝と相俟《あいま》って、そこらへ浴客が続々吸収せらるるのも無理はない。それと同時に、浴客の心持も旅館の設備なども全く昔とは変ってしまった。
 いつの世にも、温泉場に来るものは病人と限ったわけでは無い。健康な人間も遊山《ゆさん》がてらに来浴するのではあるが、原則としては温泉は病いを養うところと認められ、大体において病人の浴客が多かった。それであるから、入浴に来る以上、一泊や二泊で帰る客は先ず少ない。短くても一週間、長ければ十五日、二十日、あるいはひと月以上も滞在するのは珍しくない。私たちの若い時には、江戸以来の習慣で、一週間をひと回《まわ》りといい、二週間をふた回りといい、既に温泉場へゆく以上は少なくともひと回りは滞在して来なければ、何のために行ったのだか判らないということになる。ふた回りか三回り入浴して来なければ、温泉の効《き》き目はないものと決められていた。
 たとい健康の人間でも、往復の長い時間をかんがえると、一泊や二泊で引揚げて来ては、わざわざ行った甲斐が無いということにもなるから、少なくも四、五日や一週間は滞在するのが普通であった。

     二

 温泉宿へ一旦踏み込んだ以上、客もすぐには帰らない。宿屋の方でも直ぐには帰らないものと認めているから、双方ともに落着いた心持で、そこにおのずから暢《のび》やかな気分が作られていた。
 座敷へ案内されて、まず自分の居どころが決まると、携帯の荷物をかたづけて、型のごとくに入浴する。そこでひと息ついた後、宿の女中にむかって両隣りの客はどんな人々であるかを訊《き》く。病人であるか、女づれであるか、子供がいるかを詮議した上で、両隣りへ一応の挨拶にゆく。
「今日からお隣りへ参りましたから、よろしく願います。」
 宿の浴衣を着たままで行く人もあるが、行儀のいい人は衣服をあらためて行く。単に言葉の挨拶ばかりでなく、なにかの土産《みやげ》を持参するのもある。前にも云う通り滞在期間が長いから、大抵の客は甘納豆《あまなっとう》とか金米糖《こんぺいとう》とかいうたぐいの干菓子《ひがし》をたずさえて来るので、それを半紙に乗せて盆の上に置き、ご退屈でございましょうからと云って、土産のしるしに差出すのである。
 貰った方でもそのままには済まされないから、返礼のしるしとして自分が携帯の菓子類を贈る。携帯品のない場合には、その土地の羊羹《ようかん》か煎餅《せんべい》のたぐいを買って贈る。それが初対面の時ばかりでなく、日を経ていよいよ懇意になるにしたがって、ときどきに鮓《すし》や果物などの遣り取りをすることもある。
 わたしが若いときに箱根に滞在していると、両隣りともに東京の下町《したまち》の家族づれで、ほとんど毎日のようにいろいろの物をくれるので、すこぶる有難迷惑に感じたことがある。交際好きの人になると、自分の両隣りばかりでなく、他の座敷の客といつの間にか懇意になって、そことも交際しているのがある。温泉場で懇意になったのが縁となって、帰京の後にも交際をつづけ、果ては縁組みをして親類になったなどというのもある。
 両隣りに挨拶するのも、土産ものを贈るのも、ここに長く滞在すると思えばこそで、一泊や二泊で立ち去ると思えば、たがいに面倒な挨拶もしないわけである。こんな挨拶や交際は、一面からいえば面倒に相違ないが、又その代りに、浴客同士のあいだに一種の親しみを生じて、風呂場で出逢っても、廊下で出逢っても、互いに打ち解けて挨拶をする。病人などに対しては容体をきく。要するに、一つ宿に滞在する客はみな友達であるという風で、なんとなく安らかな心持で昼夜を送ることが出来る。こうした湯治場気分は今日《こんにち》は求め得られない。
 浴客同士のあいだに親しみがあると共に、また相当の遠慮も生じて来て、となり座敷には病人がいるとか、隣りの客は勉強しているとか思えば、あまりに酒を飲んで騒いだり、夜ふけまで碁《ご》を打ったりすることは先ず遠慮するようにもなる。おたがいの遠慮――この美徳はたしかに昔の人に多かったが、殊に前に云ったような事情から、むかしの浴客同士のあいだには遠慮が多く、今日のような傍若無人《ぼうじゃくぶじん》の客は少なかった。

     三

 しかしまた一方から考えると、今日《こんにち》の一般浴客が無遠慮になるというのも、所詮《しょせん》は一夜泊まりのたぐいが多く、浴客同士のあいだに何の親しみもないからであろう。殊に東京近傍の温泉場は一泊または日帰りの客が多く、大きい革包《カバン》や行李《こうり》をさげて乗り込んでくるから、せめて三日や四日は滞在するのかと思うと、きょう来て明日《あした》はもう立ち去るのが幾らもある。こうなると、温泉宿も普通の旅館と同様で、文字通りの温泉旅館であるから、それに対して昔の湯治場気分などを求めるのは、頭から間違っているかも知れない。
 それにしても、今日の温泉旅館に宿泊する人たちは思い切ってサバサバしたものである。洗面所で逢っても、廊下で逢っても、風呂場で逢っても、お早うございますの挨拶さえもする人は少ない。こちらで声をかけると、迷惑そうに、あるいは不思議そうな顔をして、しぶしぶながら返事をする人が多い。男は勿論、女でさえも洗面所で顔をあわせて、お早うはおろか、黙礼さえもしないのがたくさんある。こういう人たちは外国のホテルに泊まって、見識らぬ人たちからグード・モーニングなどを浴びせかけられたら、びっくりして宿換えをするかも知れない。そんなことを考えて、私はときどきに可笑《おかし》くなることもある。
 客の心持が変ると共に、温泉宿の姿も昔とはまったく変った。むかしの名所|図絵《ずえ》や風景画を見た人はみな承知であろうが、大抵の温泉宿は茅葺《かやぶ》き屋根であった。明治以後は次第にその建築もあらたまって、東京近傍にはさすがに茅葺きのあとを絶ったが、明治三十年頃までの温泉宿は、今から思えば実に粗末なものであった。
 勿論、その時代には温泉宿にかぎらず、すべての宿屋が大抵古風なお粗末なもので、今日の下宿屋と大差なきものが多かったのであるが、その土地一流の温泉宿として世間にその名を知られている家でも、次の間つきの座敷を持っているのは極めて少ない。そんな座敷があったとしても、それは僅かに二間《ふたま》か三間《みま》で、特別の客を入れる用心に過ぎず、普通はみな八畳か六畳か四畳半の一室で、甚《はなは》だしきは三畳などという狭い部屋もある。
 いい座敷には床の間、ちがい棚は設けてあるが、チャブ台もなければ、机もない。茶箪笥《ちゃだんす》や茶道具なども備えつけていないのが多い。近来はどこの温泉旅館にも机、硯《すずり》、書翰箋《しょかんせん》、封筒、電報用紙のたぐいは備えつけてあるが、そんなものはいっさい無い。
 それであるから、こういう所へ来て私たちの最も困ったのは、机のないことであった。宿に頼んで何か机を貸してくれというと、大抵の家では迷惑そうな顔をする。やがて女中が運んでくるのは、物置の隅からでも引摺り出して来たような古机で、抽斗《ひきだし》の毀れているのがある、脚の折れかかっているのがあるという始末。読むにも書くにも実に不便不愉快であるが、仕方がないから先ずそれで我慢するのほかは無い。したがって、筆や硯にも碌なものはない。それでも型ばかりの硯箱を違い棚に置いてある家はいいが、その都度《つど》に女中に頼んで硯箱を借りるような家もある。その用心のために、古風の矢立《やたて》などを持参してゆく人もあった。わたしなども小さい硯や墨や筆をたずさえて行った。もちろん、万年筆などは無い時代である。
 こういう不便が多々ある代りに、むかしの温泉宿は病いを養うに足るような、安らかな暢《のび》やかな気分に富んでいた。今の温泉宿は万事が便利である代りに、なんとなくがさ[#「がさ」に傍点]ついて落着きのない、一夜どまりの旅館式になってしまった。
 一利一害、まことに已《や》むを得ないのであろう。

     四

 万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬらする。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟《ひっきょう》、浴客の少なかった為でもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗《すこぶ》る窮屈であった。
 電燈のない時代は勿論、その設備が出来てからでも、地方の電燈は電力が十分でないと見えて、夜の風呂場などは濛々《もうもう》たる湯烟《ゆげ》にとざされて、人の顔さえもよく見えないくらいである。まして電燈のない温泉場で、うす暗いランプのひかりをたよりに、夜ふけの風呂などに入っていると、山風の声、谷川の音、なんだか薄気味の悪いように感じられることもあった。今日でも地方の山奥の温泉場などへ行けば、こんなところが無いでもないが、以前は東京近傍の温泉場も皆こんな有様であったのであるから、現在の繁華に比較して実に隔世の感に堪えない。したがって、昔から温泉場には怪談が多い。そのなかでやや異色のものを左に一つ紹介する。
 柳里恭《りゅうりきょう》の「雲萍雑志《うんぴょうざつし》」のうちに、こんな話がある。
「有馬に湯あみせし時、日くれて湯桁《ゆげた》のうちに、耳目鼻のなき痩法師の、ひとりほと[#「ほと」に傍点]/\と入りたるを見て、余は大いに驚き、物かげよりうかゞふうち、早々湯あみして出でゆく姿、骸骨の絵にたがふところなし。狐狸《こり》どもの我をたぶらかすにやと、その夜は湯にもいらで臥《ふ》しぬ。夜あけて、この事を家あるじに語りければ、それこそ折ふしは来り給ふ人なり。かの女尼は大坂の唐物商人伏見屋てふ家のむすめにて、しかも美人の聞えありけれども、姑《しゅうと》の病みておはせし時、隣より失火ありて、火の早く病床にせまりしかど、助け出さん人もなければ、かの尼とびいりて抱へ出しまゐらせしなり。そのとき焼けたゞれたる傷にて、目は豆粒ばかりに明きて物見え、口は五分ほどあれど食ふに事足り、今年はや七十歳ばかりと聞けりといへるに、いと有難き人とおもひて、後も折ふしは人に語りいでぬ。」
 これは怪談どころか、一種の美談であるが、その事情をなんにも知らないで、暗い風呂場で突然こんな人物に出逢っては、さすがの柳沢権太夫《やなぎさわごんだゆう》もぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたに相違ない。元来、温泉は病人の入浴するところで、そのなかには右のごとき畸形や異形《いぎょう》の人もまじっていたであろうから、それを誤り伝えて種々の怪談を生み出した例も少なくないであろう。

     五

 次に記《しる》すのは、ほんとうの怪談らしい話である。
 安政《あんせい》三年の初夏である。江戸|番町《ばんちょう》の御厩谷《おんまやだに》に屋敷を持っている二百石の旗本|根津民次郎《ねづたみじろう》は箱根へ湯治に行った。根津はその前年十月二日の夜、本所《ほんじょ》の知人の屋敷を訪問している際に、かのおそろしい大地震に出逢って、幸いに一命に別条はなかったが、左の背から右の腰へかけて打撲傷を負った。
 その当時はさしたることでも無いように思っていたが、翌年の春になっても痛みが本当に去らない。それが打ち身のようになって、暑さ寒さに祟《たた》られては困るというので、支配|頭《がしら》の許可を得て、箱根の温泉で一ヵ月ばかり療養することになったのである。旗本と云っても小身《しょうしん》であるから、伊助《いすけ》という中間《ちゅうげん》ひとりを連れて出た。
 道中は別に変ったこともなく、根津の主従は箱根の湯本、塔の沢を通り過ぎて、山の中のある温泉宿に草鞋《わらじ》をぬいだ。その宿の名はわかっているが、今も引きつづいて立派に営業を継続しているから、ここには秘して置く。
 宿は大きい家で、ほかにも五、六組の逗留客があった。根津は身体に痛み所があるので下座敷のひと間を借りていた。着いて四日目の晩である。入梅に近いこの頃の空は曇り勝ちで、きょうも宵から細雨《こさめ》が降っていた。夜も四つ(午後十時)に近くなって、根津もそろそろ寝床にはいろうかと思っていると、何か奥の方がさわがしいので、伊助に様子を見せにやると、やがて彼は帰って来て、こんなことを報告した。
「便所に化け物が出たそうです。」
「化け物が出た……。」と、根津は笑った。「どんな物が出た。」
「その姿は見えないのですが……。」
「一体どうしたというのだ。」
 その頃の宿屋には二階の便所はないので、逗留客はみな下の奥の便所へ行くことになっている。今夜も二階の女の客がその便所へかよって、そとから第一の便所の戸を開《あ》けようとしたが、開かない。さらに第二の便所の戸を開けようとしたが、これも開かない。そればかりでなく、うちからは戸をコツコツと軽く叩いて、うちには人がいると知らせるのである。そこで、しばらく待っているうちに、ほかの客も二、三人来あわせた。いつまで待っても出て来ないので、その一人が待ちかねて戸を開けようとすると、やはり開かない。前とおなじように、うちからは戸を軽く叩くのである。しかも二つの便所とも同様であるので、人々はすこしく不思議を感じて来た。
 かまわないから開けてみろと云うので、男二、三人が協力して無理に第一の戸をこじ開けると、内には誰もいなかった。第二の戸をあけた結果も同様であった。その騒ぎを聞きつけて、ほかの客もあつまって来た。宿の者も出て来た。
「なにぶん山の中でございますから、折りおりにこんなことがございます。」
 宿の者はこう云っただけで、その以上の説明を加えなかった。伊助の報告もそれで終った。
 その以来、逗留客は奥の客便所へゆくことを嫌って、宿の者の便所へかようことにしたが、根津は血気盛りといい、且《かつ》は武士という身分の手前、自分だけは相変らず奥の便所へ通っていると、それから二日目の晩にまたもやその戸が開かなくなった。
「畜生、おぼえていろ。」
 根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。彼は片手に脇差をぬき持って、片手で戸を引きあけると、第一の戸も第二の戸も仔細なしにするり[#「するり」に傍点]と開いた。
「畜生、弱い奴だ。」と根津は笑った。
 根津が箱根における化け物話は、それからそれへと伝わった。本人も自慢らしく吹聴《ふいちょう》していたので、友達らは皆その話を知っていた。
 それから十二年の後である。明治元年の七月、越後《えちご》の長岡城が西軍のために落された時、根津も江戸を脱走して城方《しろかた》に加わっていた。落城の前日、彼は一緒に脱走して来た友達に語った。
「ゆうべは不思議な夢をみたよ。君たちも知っている通り、大地震の翌年に僕は箱根へ湯治に行って宿屋で怪しいことに出逢ったが、ゆうべはそれと同じ夢をみた。場所も同じく、すべてがその通りであったが、ただ変っているのは……僕が思い切ってその便所の戸をあけると、中には人間の首が転がっていた。首は一つで、男の首であった。」
「その首はどんな顔をしていた。」と、友達のひとりが訊いた。
 根津はだまって答えなかった。その翌日、彼は城外で戦死した。

     六

 昔はめったに無かったように聞いているが、温泉場に近年流行するのは心中沙汰《しんじゅうざた》である。とりわけて、東京近傍の温泉場は交通便利の関係から、ここに二人の死に場所を選ぶのが多くなった。旅館の迷惑はいうに及ばず、警察もその取締りに苦心しているようであるが、容易にそれを予防し得ない。
 心中もその宿を出て、近所の海岸から入水《じゅすい》するか、山や森へ入り込んで劇薬自殺を企てるたぐいは、旅館に迷惑をあたえる程度も比較的に軽いが、自分たちの座敷を舞台に使用されると、旅館は少なからぬ迷惑を蒙《こうむ》ることになる。
 地名も旅館の名もしばらく秘して置くが、わたしが曾《かつ》てある温泉旅館に投宿した時、すこし書き物をするのであるから、なるべく静かな座敷を貸してくれというと、二階の奥まった座敷へ案内され、となりへは当分お客を入れない筈であるから、ここは確かに閑静であるという。成程それは好都合であると喜んでいると、三、四日の後、町の挽地物《ひきぢもの》屋へ買物に立ち寄った時、偶然にあることを聞き出した。ひと月ほど以前、わたしの旅館には若い男女の劇薬心中があって、それは二階の何番の座敷であると云うことがわかった。
 その何番は私の隣室で、当分お客を入れないといったのも無理はない。そこは幽霊(?)に貸切りになっているらしい。宿へ帰ると、私はすぐに隣り座敷をのぞきに行った。夏のことであるが、人のいない座敷の障子は閉めてある。その障子をあけて窺《うかが》ったが、別に眼につくような異状もなかった。
 その日もやがて夜となって、夏の温泉場は大抵寝鎮まった午後十二時頃になると、隣りの座敷で女の軽い咳《せき》の声がきこえる。勿論、気のせいだとは思いながらも、私は起きてのぞきに行った。何事もないのを見さだめて帰って来ると、やがて又その咳の声がきこえる。どうも気になるので、また行ってみた。三度目には座敷のまんなかへ通って、暗い所にしばらく坐っていたが、やはり何事もなかった。
 わたしが隣り座敷へ夜中に再三出入りしたことを、どうしてか宿の者に覚られたらしい。その翌日は座敷の畳換えをするという口実のもとに、わたしはここと全く没交渉の下座敷へ移されてしまった。何か詰まらないことを云い触らされては困ると思ったのであろう。しかし女中たちは私にむかって何んにも云わなかった。私も云わなかった。
 これは私の若い時のことである。それから三、四年の後に、「金色夜叉《こんじきやしゃ》」の塩原《しおばら》温泉の件《くだ》りが読売新聞紙上に掲げられた。それを読みながら、私はかんがえた。私がもし一ヵ月以前にかの旅館に投宿して、間貫一《はざまかんいち》とおなじように、隣り座敷の心中の相談をぬすみ聴いたとしたならば、私はどんな処置を取ったであろうか。貫一のように何千円の金を無雑作に投げ出す力がないとすれば、所詮は宿の者に密告して、ひとまず彼らの命をつなぐというような月並の手段を取るのほかはあるまい。貫一のような金持でなければ、ああいう立派な解決は付けられそうもない。
「金色夜叉」はやはり小説であると、わたしは思った。[#地付き](昭和6・7「朝日新聞」)
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   ※[#ローマ数字3、1-13-23] 暮らしの流れ

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素人脚本の歴史


 雑誌の人が来て、何か脚本の話を書けという。ともかくも安請合いに受け合ったものの、さて何を書いてよいか判らない。現在日本の演劇《しばい》をどう書いてよいのか、自分も実は宇宙に迷って行き悩んでいるのであるから、とてもここで大きい声で脚本の書き方などを講釈するわけには行かない。何か偉そうなことをうっかり喋《しゃ》べってしまって、その議論が自分自身でも明日はすっかり変ってしまうようなことが無いとも限らない。で、そんな危《あぶ》ないことには手を着けないことにして、ここでは自分がこれまで書いた七、八十種の脚本に就いて、一種の経験談のようなものを書き列《なら》べて見ようかとも思ったが、それも長くなるのでやめた。ここではただ、素人《しろうと》の書いた脚本がどうして世に出るようになったかという歴史を少しばかり書く。
 わたしはここで自分の自叙伝を書こうとするのではない。しかし自分の関係したことを主題にして何か語ろうという以上、自然に多く自分を説くことになるかも知れない。それはあらかじめお含み置きを願っておきたい。

 わたしが脚本というものに筆を染めた処女作は「紫宸殿《ししんでん》」という一幕物で、頼政《よりまさ》の鵺《ぬえ》退治を主題にした史劇であった。後に訂正して、明治二十九年九月の歌舞伎新報に掲載されたが、勿論《もちろん》、どこの劇場でも採用される筈《はず》はなかった。その翌年の二月、條野採菊《じょうのさいぎく》翁が伊井蓉峰《いいようほう》君に頼まれて「茲江戸子《ここがえどっこ》」という六幕物を書くことになった。故|榎本武揚《えのもとたけあき》子爵の五稜郭《ごりょうかく》戦争を主題《テーマ》にしたものである。採菊翁は多忙だということで、榎本|虎彦《とらひこ》君と私とが更に翁の依頼をうけて二幕ずつを分担して執筆することになった。筋は無論、翁から割当てられたもので、自分たち二人はほとんどその口授のままを補綴《ほてい》したに過ぎなかった。劇場は後の宮戸座《みやとざ》であった。
 それが三月の舞台に上《のぼ》ったのを観ると、わたしは失望した。私が書いた部分はほとんど跡形もないほど変っていた。私はそれを榎本君に話すと、榎本君は笑いながら「それだから僕は観に行かないよ」と云った。榎本君は福地桜痴《ふくちおうち》先生に従って、楽屋の空気にもう馴れている人である。榎本君の眼には、年の若い私の無経験がむしろ可笑《おかし》く思われたかも知れなかった。採菊翁自身が執筆の部分はどうだか知れないが、榎本君が担当の部分にも余程の大鉈《おおなた》を加えられていたらしかった。勿論、この時代にはそれがむしろ普通のことで、素人《しろうと》――榎本君は素人ではないが、その当時はまだ其の伎倆《ぎりょう》を認められていなかった――が寄り集まって書いた脚本が、こういう風に鉈を加えられたり、鱠《なます》にされたりするのは、あらかじめ覚悟してかからなければならないのであった。わたしが榎本君に対して不平らしい口吻《こうふん》を洩らしたのは、要するに演劇《しばい》の事情というものに就《つ》いて私の盲目を証拠立てているのであった。
「素人の書いたものは演劇にならない。」
 それが此の時代に於いては動かすべからざる格言《モットー》として何人《なんぴと》にも信ぜられていた。劇場内部のいわゆる玄人《くろうと》は勿論のこと、外部の素人もみんなそう信じていた。今日《こんにち》の眼から観れば、みずから侮《あなど》ること甚《はなは》だしいようにも思われるかも知れないが、なんと理窟を云っても劇場当事者の方で受付けてくれないのであるから、外部の素人は田作《ごまめ》の歯ぎしりでどうにもならない。たとい鉈でぶっかかれても鱠にきざまれても、採用されれば非常の仕合せで、鉈にも鱠にも最初から問題にされてはいないのであった。もっとも福地先生はこういうことを云っていられた。
「いくら楽屋の者が威張っても仕方がない。今のままでいれば、やがて素人の世界になるよ。」
 しかし、この世界がいつ自分たちの眼の前に開かれるか。ほとんど見当が付かなかった。福地先生は外部から脚本を容れることを拒《こば》むような人ではなかった。むしろ大抵の場合には「結構です」と云って推薦するのを例としていた。しかも推薦されるような脚本はちっとも提供されなかった。それには二種の原因があった。第一には、たとい福地先生は何と云おうとも、劇場全体に素人を侮蔑《ぶべつ》する空気が充満していて、外部から輸入される一切の脚本は先ず敬して遠ざけるという方針が暗々のうちに成立っていたのである。第二には、どんな鉈を受けても、鱠にされても、何でもかでも上場されればいいと云って提出されるような脚本は、実際に於いて其の品質が劣っていた。また、ある程度まで其の品質に見るべきものがあるような脚本を書き得る人は、鉈や鱠の拷問《ごうもん》に堪えられなかった。
 以上の理由で、どの道、外部から新しい脚本を求めるということは不可能の状態にあった。劇場当事者の方でも強《し》いて求めようとはしなかった。いわゆる玄人と素人との間には大いなる溝《みぞ》があった。
 もう一つには、団菊左《だんきくさ》と云うような諸名優が舞台を踏まえていて、たとい脚本そのものはどうであろうとも、これらの技芸に対する世間の信仰が相当の観客を引き寄せるに何らの不便を感ぜしめなかったからである。こういう種々の原因が絡《から》み合って、内部と外部との中間には、袖萩《そではぎ》が取りつくろっている小柴垣《こしばがき》よりも大きい関が据えられて、戸を叩くにも叩かれぬ鉄《くろがね》の門が高く鎖《と》ざされていたのであった。
「どうぞお慈悲にただ一言《ひとこと》……。」
 お君《きみ》の袖乞いことばを真似るのが忌《いや》な者は、黙って門の外に立っているよりほかはなかった。

 ところが、やがて其の厳しい門を押し破って、和田《わだ》合戦の板額《はんがく》のように闖入《ちんにゅう》した勇者があらわれた。その闖入者は松居松葉《まついしょうよう》君であった。この門破りが今日の人の想像するような、決して容易なものではない。松葉君の悪戦は実に想像するに余りある位で、彼はブラツデーネスになったに相違ない。そうして明治三十二年の秋に、明治座で史劇「悪源太《あくげんた》」を上場することになった。俳優は初代の左団次《さだんじ》一座であった。続いて三十四年の秋に、同じく明治座で「源三位《げんざんみ》」を書いた。つづいて「後藤又兵衛《ごとうまたべえ》」や「敵国降伏」や「ヱルナニー」が出た。
「素人の書いたものでも商売になる。」
 こういう理屈がいくらか劇場内部の人たちにも理解されるようになって来た。わたしは松葉君よりも足かけ四年おくれて、明治三十五年の歌舞伎座一月興行に「金鯱噂高浪《こがねのしゃちうわさのたかなみ》」という四幕物を上場することになった。これに就《つ》いては岡鬼太郎《おかおにたろう》君が大いに力がある。その春興行には五世|菊五郎《きくごろう》が出勤する筈であったが、病気で急に欠勤することになって、一座は芝翫《しかん》(後の歌右衛門《うたえもん》)、梅幸《ばいこう》、八百蔵《やおぞう》(後の中車《ちゅうしゃ》)、松助《まつすけ》、家橘《かきつ》(後の羽左衛門《うざえもん》)、染五郎《そめごろう》(後の幸四郎《こうしろう》)というような顔触れで、二番目は円朝《えんちょう》物の「荻江《おぎえ》の一節《ひとふし》」と内定していたのであるが、それも余り思わしくないと云うので、当時の歌舞伎座専務の井上竹二郎《いのうえたけじろう》氏から何か新しいものはあるまいかと鬼太郎君に相談をかけると、鬼太郎君は引受けた。かねて條野採菊翁と私の三人合作で書いてみようと云っていた「金鯱」というものがあるので、鬼太郎君は其の筋立てをすぐに話すと、井上氏はそれを書いて見せてくれと云った。
 それはかの柿《かき》の木金助《ききんすけ》が紙鳶《たこ》に乗って、名古屋の城の金の鯱鉾《しゃちほこ》を盗むという事実を仕組んだもので、鬼太郎君は序幕と三幕目を書いた。三幕目は金助が鯱鉾を盗むところで、家橘の金助が常磐津《ときわづ》を遣《つか》って奴凧《やっこだこ》の浄瑠璃めいた空中の振事《ふりごと》を見せるのであった。わたしは二幕目の金助の家を書いた。ここはチョボ入りの世話場《せわば》であった。採菊翁は最後の四幕目を書く筈であったが、半途で病気のために筆を執ることが出来なくなったので、私が年末の急稿でそのあとを綴《と》じ合せた。
 この脚本を上演するに就いては、内部では相当に苦情があったらしく聞いている。俳優側からも種々の訂正が持ち出されたらしい。しかし井上氏は頑《がん》として受付けなかった。この二番目の脚本にはいっさい手を着けてはならないと云い渡した。そうして、とうとうそれを押し通してしまった。
 井上氏はその当時にあって、実に偉い人であったと思う。
 その演劇《しばい》は正月の八日が初日であったように記憶している。その前年の暮れに、私が途中で榎本君に逢うと、彼は笑いながら「君、怒っちゃいけないよ」と云った。果たして稽古の際に楽屋へ行くと、我々の不愉快を誘い出すようなことが少なくなかった。手を着けてはならないと井上氏が宣告して置いたにも拘《かかわ》らず、俳優《やくしゃ》や座付作者たちから種々の訂正を命ぜられた。我々もよんどころなく承諾した。三幕目の常磐津は座の都合で長唄に変更することになったのは我々もかねて承知していたが、狂言作者の一人は脚本を持って来て「これをどうぞ長唄にすぐ書き直してください」と、皮肉らしく云った。つまりお前たちに常磐津と長唄とが書き分けられるかと云う肚《はら》であったらしい。我々も意地になって承知した。その場で鬼太郎君が筆を執って、私も多少の助言をして、二十分ばかりでともかくも其の唄の件《くだり》だけを全部書き直して渡した。すると、つづいて番附のカタリをすぐに書いてくれと云った。そうして「これは立作者《たてつくり》の役ですから」と、おなじく皮肉らしく云った。我々はすぐにカタリを書いて渡した。すると、先に渡した唄をまた持って来て一、二ヵ所の訂正を求めた。
「こんなべらぼうな文句じゃ踊れないと橘屋《たちばなや》が云いますから」と、その作者はべらぼう[#「べらぼう」に傍点]という詞《ことば》に力を入れて云った。
 金助を勤める家橘が果たしてそう云ったかどうだか知らないが、ともかくも其の作者は家橘がそう云った事として我々に取次いだ。べらぼう[#「べらぼう」に傍点]と云われて、我々もさすがにむっ[#「むっ」に傍点]とした。榎本君に注意されたのはここだなと私は思った。いっそ脚本を取り返して帰ろうかと二人は相談したが、その時は鬼太郎君よりも私は軟派であった。もう一つには、榎本君の注意が頭に泌みているせいでもあろう。結局、鬼太郎君を宥《なだ》めてべらぼうの屈辱を甘んじて受けることになった。そうして、先方の註文通りに再び訂正することになった。
 それは暮れの二十七日で、二人が歌舞伎座を出たのは夜の八時過ぎであった。晴れた晩で、銀座の町は人が押し合うように賑わっていたが、わたしは何だか心寂しかった。銀座で鬼太郎君に別れた。その頃はまだ電車が無いので、私は暗い寒い堀端《ほりばた》を徒歩で麹町《こうじまち》へ帰った。前に云った宮戸座の時は、ほんの助手に過ぎないのであって、曲がりなりにも自分たちが本当に書いたものを上場されるのは今度が初めてである。私は嬉《うれ》しい筈であった。嬉しいと感じるのが当り前だと思った。しかし私はなんだか寂しかった。いっそ脚本を撤回してしまえばよかったなどとも考えた。
「もう脚本は書くまい。」
 わたしはお堀の暗い水の上で啼いている雁《がん》の声を聴きながら、そう思った。
 正月になって、歌舞伎座がいよいよ開場すると、我々の二番目もさのみ不評ではなかった。勿論、こんにちから観れば冷汗が出るほどに、俗受けを狙った甘いものであるから、ひどい間違いはなかったらしい。評判が悪くないので、わたしはお堀の雁の声をもう忘れてしまって、つづけて何か書こうかなどと鬼太郎君とも相談したことがあった。しかし、そうは問屋で卸《おろ》さなかった。鉄の門は再び閉められてしまった。我々は再びもとの袖萩になってしまった。なんでも我々の脚本を上場したと云うことが作者部屋の問題になって、外部の素人の作を上場するほどなら、自分たちの作も続々上場して貰いたいとか云う要求を提出されて、井上氏もその鎮圧に苦しんだとか聞いている。そんな事情で、われら素人の脚本はもう歌舞伎座で上演される見込みは絶えてしまった。
 その当時に帝国劇場はなかった。新富座はたしか芝鶴《しかく》が持主で、又五郎《またごろう》などの一座で興行をつづけていて、ここではとても新しい脚本などを受付けそうもなかった。
「差当り芝居を書く見込みはない。」
 わたしは一旦あきらめた。その頃は雑誌でも脚本を歓迎してくれなかった。いよいよ上演と決まった脚本でなければ掲載してくれなかった。どっちを向いても、脚本を書くなどと云うことは無駄な努力であるらしく思われた。私も脚本を断念して、小説を書こうと思い立った。
 明治三十六年に菊五郎と団十郎とが年を同じゅうして死んだ。これで劇界は少しく動揺するだろうと窺っていると、内部はともあれ、表面にはやはりいちじるしい波紋を起さなかった。私はいよいよ失望した。三十七年には日露戦争が始まった。その四月に歌舞伎座で森鴎外《もりおうがい》博士の「日蓮辻説法《にちれんつじせっぽう》」が上場された。恐らくそれは舎弟の三木竹二《みきたけじ》君の斡旋《あっせん》に因《よ》るものであろうが、劇界では破天荒の問題として世間の注目を惹《ひ》いた。戦争中にも拘らず、それが一つの呼物になったのは事実であった。
 その頃から私は従軍記者として満洲へ出張していたので、内地の劇界の消息に就いてはなんにも耳にする機会がなかった。その年の八月に左団次の死んだことを新聞紙上で僅《わず》かに知ったに過ぎなかった。実際、軍国の劇壇には余りいちじるしい出来事も無かったらしかった。

 明治三十八年五月、わたしが戦地から帰った後に、各新聞社の演劇担当記者らが集まって、若葉会という文士劇を催した。今日では別に珍しい事件でも何でもないが、その当時にあっては、これは相当に世間の注目を惹《ひ》くべき出来事であった。第一回は歌舞伎座で開かれて、わたしが第一の史劇「天目山《てんもくさん》」二幕を書いた。そのほかには、かの「日蓮辻説法」も上演された。これが私の劇作の舞台に上《のぼ》せられた第二回目で、作者自身が武田勝頼《たけだかつより》に扮するつもりであったが、その当時わたしは東京日日新聞社に籍を置いていたので、社内からは種々の苦情が出たのに辟易《へきえき》して、急に鬼太郎君に代って貰《もら》うことにした。
 山崎紫紅《やまざきしこう》君の「上杉謙信《うえすぎけんしん》」が世に出たのも此の年であったと記憶している。舞台は真砂座《まさござ》で伊井蓉峰君が謙信に扮したのである。これが好評で、紫紅君は明くる三十九年の秋に『七つ桔梗《ききょう》』という史劇集を公《おおや》けにした。松葉君はこの年の四月、演劇研究のために洋行した。文芸協会はこの年の十一月、歌舞伎座で坪内逍遥《つぼうちしょうよう》博士の「桐一葉《きりひとは》」を上演した。
 若葉会は更に東京毎日新聞社演劇会と変って、同じ年の十二月、明治座で第一回を開演することになったので、私は史劇「新羅三郎《しんらさぶろう》」二幕を書いた。つづいて翌四十年七月の第二回(新富座)には「阿新丸《くまわかまる》」二幕を書いた。同年十月の第三回(東京座)には「十津川《とつかわ》戦記」三幕を書いた。同時に紫紅君の「甕破柴田《かめわりしばた》」一幕を上場した。勿論、これらはいずれも一種の素人芝居に過ぎないので、普通の劇場とは没交渉のものであったが、それでもたび重なるに連れて、いわゆる素人の書いた演劇というものが玄人の眼にも、だんだんに泌みて来たと見えて、その年の十二月、紫紅君は新派の河合武雄《かわいたけお》君に頼まれて史劇「みだれ笹」一幕(市村座)を書いた。山岸荷葉《やまぎしかよう》君もこの年、小団次《こだんじ》君らのために「ハムレット」の翻訳史劇(明治座)を書いた。
 翌四十一年の正月、左団次君が洋行帰りの第一回興行を明治座で開演して、松葉君が史劇「袈裟《けさ》と盛遠《もりとお》」二幕を書いた。三月の第二回興行には紫紅君の「歌舞伎物語」四幕が上場された。その年の七月、かの川上音二郎《かわかみおとじろう》君が私をたずねて来て、新たに革新興行の旗揚げをするに就いて、維新当時の史劇を書いてくれと云った。私は承知してすぐに「維新前後」(奇兵隊と白虎隊)六幕を書いた。前の奇兵隊の方は現存の関係者が多いので、すこぶる執筆の自由を妨げられたが、後の白虎隊の方は勝手に書くことが出来た。それは九月の明治座で上演された。
 もう此の後は新しいことであるから、くだくだしく云うまでもない。要するに茲《ここ》らが先ずひとくぎりで、四十二年以来は素人の脚本を上場することが別に何らの問題にもならなくなった。鉄の扉もだんだんに弛《ゆる》んで、いつとは無しに開かれて来た。勿論、全然開放とまでは行かないが、潜《くぐ》り門ぐらいはどうやらこうやら押せば明くようになって来た。
 普通の劇場は一般の観客を相手の営利事業であるから、芸術本位の脚本を容れると云うまでにはまだ相当の時間を要するに相違ないが、ともかくも商売になりそうな脚本ならば、それが誰の作であろうとも、あまり躊躇《ちゅうちょ》しないで受取るようになったのは事実である。一方には文芸協会その他の新劇団が簇出《そうしゅつ》して、競って新脚本を上演して、外部から彼らを刺戟《しげき》したのも無論あずかって力がある。又それに連れて、この数年来、幾多の新しい劇作家があらわれたのは誰しも知っているところである。
 新進気鋭の演劇研究者の眼から観たらば、わが劇壇の進歩は実に遅々《ちち》たるもので、実際歯がゆいに相違ない。しかし公平に観たところを云えば、成程それは兎の如くに歩んではいないが、確実に亀の如くには歩んでいると思われる。亀の歩みも焦《じれ》ったいには相違ないが、それでも一つ処に停止していないのは事実である。十六年前に、わたしがお堀端で雁の声を聴いた時にくらべると、表面はともあれ、内部は驚かれるほどに変っている。更に十年の後には、どんなに変るかも知れないと思っている。その当時、自分がひどく悲観した経験があるだけに、現在の状態もあながちに悲観するには及ばない。たとい亀の歩みでも、牛の歩みでも、歩一歩ずつ進んでいるには相違ないと云うことだけは信じている。ただ、焦ったい。しかしそれも已《や》むを得ない。
 これまで書いて来たことは、専《もっぱ》ら歌舞伎劇の方面を主にして語ったものである。新派の方は当座の必要上、昔から新作のみを上場していたのは云うまでもない。しかし、その新派の方に却ってこの頃は鉄の扉が閉じられて来たらしく、いつもいつも同じような物を繰り返しているようになって来た。今のありさまで押して行くと、歌舞伎の門の方が早く開放されるらしい。私はその時節の来るのを待っている。[#地付き](大正7・11「新演芸」)
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人形の趣味


 ××さん。
 どこでお聞きになったのか知りませんが、わたしに何か人形の話をしろという御註文でしたが、実のところ、わたしは何も専門的に玩具《おもちゃ》や人形を研究したり蒐集《しゅうしゅう》したりしているわけではないのです。しかし私がおもちゃを好み、ことに人形を可愛がっているのは事実です。
 勿論、人に吹聴《ふいちょう》するような珍しいものもないせいでもありますが、わたしはこれまで自分が人形を可愛がると云うようなことを、あまり吹聴したことはありません。竹田出雲《たけだいずも》は机のうえに人形をならべて浄瑠璃をかいたと伝えられています。イプセンのデスクの傍《わき》にも、熊が踊ったり、猫がオルガンを弾いたりしている人形が控えていたと云います。そんな先例が幾らもあるだけに、わたしも何んだかそれらの大家《たいか》の真似をしているように思われるのも忌《いや》ですから、なるべく人にも吹聴しないようにしていたのですが、書棚などの上にいっぱい列《なら》べてある人形が自然に人の眼について、二、三の雑誌にも玩具の話を書かされたことがあります。しかしそんなわけですから、わたしは単に人形の愛好者というだけのことで、人形の研究者や蒐集家でないことを最初にくれぐれもお断わり申して置きます。したがって、人形や玩具などに就いてなにかの通《つう》をならべるような資格はありません。
 人形に限らず、わたしもすべて玩具のたぐいが子供のときから大好きで、縁日などへゆくと択《よ》り取りの二銭八厘の玩具をむやみに買いあつめて来たものでした。二銭八厘――なんだか奇妙な勘定ですが、わたしの子供の頃、明治十八、九年頃までは、どういう勘定から割り出して来たものか、縁日などで売っている安い玩具は、大抵二銭八厘と相場が決まっていたものでした。更に廉《やす》いのは一銭というのもありました。勿論、それより高価のもありましたが、われわれは大抵二銭八厘から五銭ぐらいの安物をよろこんで買いあつめました。今の子供たちにくらべると、これがほんとうの「幼稚《ようち》」と云うのかも知れません。しかし其の頃のおもちゃは大方すたれてしまって、たまたま縁日の夜店の前などに立っても、もう少年時代のむかしを偲《しの》ぶよすがはありません。とにかく子供のときからそんな習慣が付いているので、わたしは幾つになっても玩具や人形のたぐいに親しみをもっていて、十九《つづ》や二十歳《はたち》の大供《おおども》になってもやはり玩具屋を覗《のぞ》く癖が失《う》せませんでした。
 そんな関係から、原稿などをかく場合にも、机の上に人形をならべるという習慣が自然に付きはじめたので、別に深い理屈があるわけでもなかったのです。しかし習慣というものは怖ろしいもので、それがだんだんに年を経るにしたがって、机の上に人形がないと何んだか物足らないような気分で、ひどく心さびしく感じられるようになってしまいました。それも二つや三つ列べるならばまだいいのですが、どうもそれでは物足らない。少なくも七つ八つ、十五か十六も雑然と陳列させるのですから、机の上の混雑はお話になりません。最初の頃は、脚本などをかく場合には、半紙の上に粗末な舞台面の図をかいて、俳優《やくしゃ》の代りにその人形をならべて、その位置や出入りなどを考えながら書いたものですが、今ではそんなことをしません。しかし何かしら人形が控えていないと、なんだか極《き》まりが付かないようで、どうも落ちついた気分になれません。小説をかく場合でもそうです。脚本にしろ、小説にしろ、なにかの原稿を書いていて、ひどく行き詰まったような場合には、棚から手あたり次第に人形をおろして来て、机の上に一面ならべます。自分の書いている原稿紙の上にまでごたごたと陳列します。そうすると、不思議にどうにかこうにか「窮すれば通ず」というようなことになりますから、どうしてもお人形さんに対して敬意を表さなければならないことになるのです。旅行をする場合でも、出先で仕事をすると判っている時にはかならず相当の人形を鞄《かばん》に入れて同道して行きます。
 人形とわたしとの関係はそういうわけでありますから、仮りにも人形と名のつくものならば何んでもいいので、別に故事来歴《こじらいれき》などを詮議しているのではありません。要するに店仕舞いのおもちゃ屋という格で、二足三文の瓦楽多《がらくた》がただ雑然と押し合っているだけのことですから、何かおめずらしい人形がありますかなどと訊かれると、早速返事に困ります。それでたびたび赤面したことがあります。おもちゃ箱を引っくり返したようだというのは、全くわたしの書棚で、初めて来た人に、「お子供衆が余程たくさんおありですか」などと訊かれて、いよいよ赤面することがあります。
 その瓦楽多のなかでも、わたしが一番可愛がっているのは、シナのあやつり人形の首で、これはちょっと面白いものです。先年三越呉服店で開かれた「劇に関する展覧会」にも出品したことがありました。この人形の首をはじめて見たのは、わたしが日露戦争に従軍した時、満洲の海城《かいじょう》の城外に老子《ろうし》の廟《びょう》があって、その祭日に人形をまわしに来たシナの芸人の箱のなかでした。わたしは例の癖がむらむらと起ったので、そのシナ人に談判して、五つ六つある首のなかから二つだけを無理に売って貰いました。なにしろ土焼きですから、よほど丁寧に保管していたのですが、戦場ではなかなか保護が届かないので、とうとう二つながら毀《こわ》れてしまいました。がっかりしたが仕方がないので、そのまま東京へ帰って来ますと、それから二年ほどたって、「木太刀」の星野麦人《ほしのばくじん》君の手を経て、神戸の堀江《ほりえ》君という未見の人からシナの操り人形の首を十二個送られました。これも三つばかりは毀れていましたが、南京《ナンキン》で買ったのだとか云うことで、わたしが満洲で見たものとちっとも変りませんでした。わたしは一旦紛失したお家《いえ》の宝物《ほうもつ》を再びたずね出したように喜んで、もろもろの瓦楽多のなかでも上坐に押し据えて、今でも最も敬意を表しています。殊にそのなかの孫悟空《そんごくう》は、わたしが申歳《さるどし》の生まれである因縁から、取分けて寵愛《ちょうあい》しているわけです。
 そのほかの人形は――京《きょう》、伏見《ふしみ》、奈良《なら》、博多《はかた》、伊勢《いせ》、秋田《あきた》、山形《やまがた》など、どなたも御存知のものばかりで、例の今戸焼《いまどやき》もたくさんあります。シナ、シャム、インド、イギリス、フランスなども少しばかりあります。人形ではやはり伏見が面白いと思うのですが、近年は彩色などがだんだんに悪くなって来たようです。伏見の饅頭《まんじゅう》人形などは取分けて面白いと思います。伊勢の生子《うぶこ》人形も古風で雅味があります。庄内《しょうない》の小芥子《こけし》人形は遠い土地だけに余り世間に知られていないようですが、木製の至極粗末な人形で、赤ん坊のおしゃぶりのようなものですが、その裳《すそ》の方を持って肩をたたくと、その人形の首が丁度いい工合に肩の骨にコツコツとあたります。勿論、非常に小さいものもありますから、肩を叩くのが本来の目的ではありますまいが、その地方では大人でも湯治などに出かける時には持ってゆくと云います。こんなたぐいを穿索《せんさく》したら、各地方にいろいろの面白いものがありましょう。
 広東《カントン》製の竹彫りの人形にもなかなか精巧に出来たのがあります。一つの竹の根でいろいろのものを彫り出すのですから、ずいぶん面倒なものであろうかと思いやられますが、わたしの持っているなかでは、蝦蟆《がま》仙人が最も器用に出来ています。先年外国へ行った時にも、なにか面白いものはないかと方々探しあるきましたが、どうもこれはと云うほどのものを見当りませんでした。戦争のために玩具の製造などはほとんど中止されてしまって、どこのおもちゃ屋にも日本製品が跋扈《ばっこ》しているというありさまで、うっかりすると外国からわざわざ日本製を買い込んで来ることになるので、わたしもひどく失望しました。フランスでちっとばかり買って来ましたけれど、取り立てて申し上げるほどのものではありません。
 なにか特別の理由があって、一つの人形を大切にする人、または家重代《いえじゅうだい》というようなわけで古い人形を保存する人、一種の骨董《こっとう》趣味で古い人形をあつめる人、ただ何が無しに人形というものに趣味をもって、新古を問わずにあつめる人、かぞえたらばいろいろの種類があることでしょうが、わたしは勿論、その最後の種類に属すべきものです。で、甚だ我田引水《がでんいんすい》のようですが、特別の知識をもって秩序的に研究する人は格別、単にその年代が古いとか、世間にめずらしい品であるとか云うので、特殊の人形を珍重する人はほんとうの人形好きとは云われまいかと思われます。そういう意味で人形を愛するのは、単に一種の骨董癖に過ぎないので、古い硯《すずり》を愛するのも、古い徳利《とっくり》を愛するのも、所詮《しょせん》は同じことになってしまいます。人形はやはりどこまでも人形として可愛がってやらなければなりません。その意味に於いて、人形の新古や、値の高下《こうげ》や、そんなことを論ずるのはそもそも末で、どんな粗製の今戸焼でもどこかに可愛らしいとか面白いとかいう点を発見したならば、連れて帰って可愛がってやることです。
 舞楽《ぶがく》の面を毎日眺めていて、とうとう有名な人相見になったとかいう話を聴いていますが、実際いろいろの人形をながめていると、人間というものに就いてなにか悟《さと》るところがあるようにも思われます。少なくも美しい人形や、可愛らしい人形を眺めていると、こっちの心もおのずとやわらげられるのは事実です。わたしは何か気分がむしゃくしゃするような時には、伏見人形の鬼《おに》や、今戸焼の狸《たぬき》などを机のうえに列べます。そうして、その鬼や狸の滑稽《こっけい》な顔をつくづく眺めていると、自然に頭がくつろいで来るように思われます。
 くどくも云う通り、人形といえば相当に年代の古いものとか、精巧に出来ているものとか、値段の高いものとか、いちいちそういうむずかしい註文を持出すから面倒になるので、わたしから云えばそれらは真の人形好きではありません。勿論、わたしのように瓦楽多をむやみに陳列するには及びませんが、たとい二つ三つでも自分の気に入った人形を机や書棚のうえに飾って、朝夕に愛玩するのは決して悪いことではないと思います。人形を愛するの心は、すなわち人を愛するの心であります。品の新しいとか古いとか、値の高いとか廉《やす》いとかいうことは問題ではありません。なんでも自分の気に入ったものでさえあればいいのです。廉いものを飾って置いては見っともないなどと云っているようでは、倶《とも》に人形の趣味を語るに足らないと思います。廉い人形でよろしい、せいぜい三十銭か五十銭のものでよろしい、その数《かず》も二つか三つでもよろしい。それを坐右に飾って朝夕に愛玩することを、わたしは皆さんにお勧め申したいと思います。
 不良少年を感化するために、園芸に従事させて花卉《かき》に親しませるという方法が近年行なわれて来たようです。わたしは非常によいことだと思います。それとおなじ意味で、世間一般の少年少女にも努めて人形を愛玩させる習慣を作らせたいと思っています。単に不良少女ばかりでなく、大人の方たちにもこれをお勧め申したいと思っています。なんの木偶《でく》の坊《ぼう》――とひと口に云ってしまえばそれ迄《まで》ですが、生きた人間にも木偶の坊に劣ったのがないとは云えません。魂のない木偶の坊から、われわれは却って生きた魂を伝えられることがないとも限りません。
 我田引水と云われるのを承知の上で、私はここに人形趣味を大いに鼓吹《こすい》するのであります。[#地付き](大正9・10「新家庭」)
 この稿をかいたのは、足かけ四年の昔で、それら幾百の人形は大正十二年九月一日をなごりに私と長い別れを告げてしまった。かれらは焼けて砕けて、もとの土に帰ったのである。九月八日、焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つの焦げた人形を掘り出して来てくれた。
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わびしさや袖の焦げたる秋の雛《ひな》
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[#地付き](『十番随筆』所収)
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震災の記


 なんだか頭がまだほんとうに落着かないので、まとまったことは書けそうもない。
 去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳《とお》の年に日本橋で安政《あんせい》の大《おお》地震に出逢ったそうで、子供の時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみ込んだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事が出来ない。少し強い地震があると、又そのあとにゆり返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはりどうも落着いていられない。
 わたしが今まで経験したなかで、最も強い地震としていつまでも記憶に残っているのは、明治二十七年六月二十日の強震である。晴れた日の午後一時頃と記憶しているが、これも随分《ずいぶん》ひどい揺れ方で、市内に潰《つぶ》れ家もたくさんあった。百六、七十人の死傷者もあった。それに伴って二、三ヵ所にボヤも起ったが、一軒焼けか二軒焼けぐらいで皆消し止めて、ほとんど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後には鎮まった。三年まえの尾濃《びのう》震災におびやかされている東京市内の人々は、一時ぎょうさんにおどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちにそれもおのずと鎮まった。勿論、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものであったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生まれてから初めてこれほどの強震に出逢ったので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰って来た。そうして、しきりに地震の惨害を吹聴《ふいちょう》したのであった。その以来、わたしに取って地震というものが、一層おそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになった。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
 こういう私がなんの予覚もなしに大正十二年九月一日を迎えたのであった。この朝は誰も知っている通り、二百十日前後にありがちの何となく穏かならない空模様で、驟雨《しゅうう》が折りおりに見舞って来た。広くもない家のなかはいやに蒸し暑かった。二階の書斎には雨まじりの風が吹き込んで、硝子戸をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸を閉め切って下座敷の八畳に降りて、二、三日まえから取りかかっている週刊朝日の原稿を書きつづけていた。庭の垣根から棚のうえに這いあがった朝顔と糸瓜《へちま》の長い蔓《つる》や大きい葉がもつれ合って、雨風にざわざわと乱れてそよいでいるのも、やがて襲ってくる暴風雨《あらし》を予報するように見えて、わたしの心はなんだか落ちつかなかった。
 勉強して書きつづけて、もう三、四枚で完結するかと思うところへ、国民図書刊行会の広谷君が雨を冒して来て、一時間ほど話して帰った。広谷君は私の家から遠くもない麹町|山元町《やまもとちょう》に住んでいるのである。広谷君の帰る頃には雨もやんで、うす暗い雲の影は溶けるように消えて行った。茶の間で早い午飯《ひるめし》を食っているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさし込んで来た。どこかで蝉《せみ》も鳴き出した。
 わたしは箸《はし》を措《お》いて起《た》った。天気が直ったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先へ出てまぶしい日を仰いだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている階子段《はしごだん》を半分以上も昇りかけると、突然に大きい鳥が羽搏《はばた》きをするような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端にわたしの踏んでいる階子がみりみりと鳴って動き出した。壁も襖《ふすま》も硝子窓も皆それぞれの音を立てて揺れはじめた。
 勿論、わたしはすぐに引っ返して階子をかけ降りた。玄関の電燈は今にも振り落されそうに揺れている。天井から降ってくるらしい一種のほこりが私の眼鼻にしみた。
「地震だ。ひどい地震だ。早く逃げろ。」
 妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、沓脱《くつぬぎ》から硝子戸の外へ飛び出すと、碧桐《あおぎり》の枯葉がばさばさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。女中も裏口から出て来た。震動はまだやまない。私たちはまっすぐに立っているに堪えられないで、門柱に身を寄せて取りすがっていると、向うのA氏の家からも細君や娘さんや女中たちが逃げ出して来た。わたしの家の門構えは比較的堅固に出来ている上に、門の家根が大きくて瓦の墜落を避ける便宜があるので、A氏の家族は皆わたしの門前に集まって来た。となりのM氏の家族も来た。大勢《おおぜい》が門柱にすがって揺られているうちに、第一回の震動がようやくに鎮まった。ほっと一息ついて、わたしはともかくも内へ引っ返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで、十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって窺うと、棚いっぱいに飾ってある人形はみな無難であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王《やしゃおう》がうつ向きに倒れて、その首が悼《いた》ましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。
 と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起ったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取りすがった。それがやむと、少しの間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。A氏の家根瓦がばらばらと揺れ落された。横町の角にある玉突場の高い家根からつづいて震い落される瓦の黒い影が鴉《からす》の飛ぶようにみだれて見えた。
 こうして震動をくり返すからは、おそらく第一回以上の烈震はあるまいという安心と、我れも人も幾らか震動に馴れて来たのと、震動がだんだんに長い間隔を置いて来たのとで、近所の人たちも少しく落着いたらしく、思い思いに椅子《いす》や床几《しょうぎ》や花筵《はなむしろ》などを持ち出して来て、門のまえに一時の避難所を作った。わたしの家でも床几を持ち出した。その時には、赤坂の方面に黒い煙りがむくむくとうずまき※[#「風+昜」、第3水準1-94-7]《あが》っていた。三番町の方角にも煙りがみえた。取分けて下町《したまち》方面の青空に大きい入道雲のようなものが真っ白にあがっているのが私の注意をひいた。雲か煙りか、晴天にこの一種の怪物の出現を仰ぎみた時に、わたしは云い知れない恐怖を感じた。
 そのうちに見舞の人たちがだんだんに駈けつけて来てくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その火先が今や帝劇を襲おうとしていることも聞いた。
「しかしここらは無難で仕合せでした。ほとんど被害がないと云ってもいいくらいです。」と、どの人も云った。まったくわたしの附近では、家根瓦をふるい落された家があるくらいのことで、いちじるしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見いだされなかった。番町方面の煙りはまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上《かざかみ》に位しているのとで、誰もさほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々に分かれているのは心さびしいので、近所の人たちは私の門前を中心として、椅子や床几や花むしろを一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持ち出して来た。ビールやサイダーの壜《びん》を運び出すのもあった。わたしの家からも梨《なし》を持ち出した。一種の路上茶話会がここに開かれて、諸家の見舞人が続々もたらしてくる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動は幾たびか繰り返された。わたしば花むしろのうえに坐って、「地震|加藤《かとう》」の舞台を考えたりしていた。
 こうしているうちに、日はまったく暮れ切って、電燈のつかない町は暗くなった。あたりがだんだんに暗くなるに連れて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧して来た。各方面の夜の空が真紅《まっか》にあぶられているのが鮮やかにみえて、時どきに凄《すさ》まじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへと続いて、ただ一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかに剰《あま》すところは西口の四谷方面だけで、私たちの三方は猛火に囲まれているのである。茶話会の群れのうちから若い人はひとり起《た》ち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの人の報告も火先が東にむかっているから、南の方の元園町方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
 最後の見舞に来てくれたのは演芸画報社の市村《いちむら》君で、その住居は土手《どて》三番町であるが、火先がほかへそれたので幸いに難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ることが出来ないとのことであった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の火勢はすこし弱ったと伝えられた。
 十二時半頃になると、近所が又さわがしくなって来て、火の手が再び熾《さか》んになったという。それでも、まだまだと油断して、わたしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車みちは押し返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る。荷車を押してくる。荷物をかついでくる。馬が駆ける。提灯が飛ぶ。いろいろのいでたちをした男や女が気ちがい眼《まなこ》でかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵《ちどりがふち》公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、さらに一方口の四谷方面にその逃げ路を求めようとするらしく、人なだれを打って押し寄せてくる。
 うっかりしていると、突き倒され、踏みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引っ返して、さらに町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂《ごみざか》上の三井《みつい》邸のうしろに迫って、怒涛《どとう》のように暴れ狂う焔《ほのお》のなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白くみえた。
 迂回《うかい》してゆけば格別、さし渡しにすれば私の家から一町あまりに過ぎない。風上であるの、風向きが違うのと、今まで多寡《たか》をくくっていたのは油断であった。――こう思いながら私は無意識にそこにある長床几に腰をかけた。床几のまわりには酒屋の店の者や近所の人たちが大勢寄りあつまって、いずれも一心に火をながめていた。
「三井さんが焼け落ちれば、もういけない。」
 あの高い建物が焼け落ちれば、火の粉はここまでかぶってくるに相違ない。わたしは床几をたちあがると、その眼のまえには広い青い草原が横たわっているのを見た。それは明治十年前後の元園町の姿であった。そこには疎《まば》らに人家が立っていた。わたしが今立っている酒屋のところには、おてつ牡丹餅の店があった。そこらには茶畑もあった。草原にはところどころに小さい水が流れていた。五つ六つの男の児が肩もかくれるような夏草をかき分けて、しきりにばった[#「ばった」に傍点]を探していた。そういう少年時代の思い出がそれからそれへと活動写真のようにわたしの眼の前にあらわれた。
「旦那。もうあぶのうございますぜ。」
 誰が云ったのか知らないが、その声に気がついて、わたしはすぐに自分の家へ駈けて帰ると、横町の人たちももう危険の迫って来たのを覚ったらしく、路上の茶話会はいつか解散して、どこの家でも俄《にわ》かに荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗いなかにも一本の蝋燭《ろうそく》の火が微《かす》かにゆれて、妻と女中と手伝いの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
 万一の場合には紀尾井町《きおいちょう》の小林蹴月《こばやししゅうげつ》君のところへ立ち退くことに決めてあるので、私たちは差しあたりゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら欲張ったところでどうにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは週刊朝日の原稿をふところに捻《ね》じ込んで、バスケットと旅行用の鞄とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。
「火の粉が来るよう。」
 どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこおろぎの声がさびしく聞えた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。
 わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。小林君の家へゆき着いてから、わたしは宇治拾遺《うじしゅうい》物語にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足を以って、わが家の焼けるのを笑いながちながめていたと云うことである。わたしはその烟りさえも見ようとはしなかった。[#地付き](大正12・10「婦人公論」)
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十番雑記


 昭和十二年八月三十一日、火曜日。午前は陰、午後は晴れて暑い。
 虫干しながらの書庫の整理も、連日の秋暑に疲れ勝ちでとかくに捗取《はかど》らない。いよいよ晦日《みそか》であるから、思い切って今日じゅうに片付けてしまおうと、汗をふきながら整理をつづけていると、手文庫の中から書きさしの原稿類を相当に見いだした。いずれも書き捨ての反古《ほご》同様のものであったが、その中に「十番雑記」というのがある。私は大正十二年の震災に麹町の家を焼かれて、その十月から翌年の三月まで麻布の十番に仮寓《かぐう》していた。唯今見いだしたのは、その当時の雑記である。
 わたしは麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『猫柳《ねこやなぎ》』という随筆集を出した。しかも「十番雑記」の一文はどれにも編入されていない。傾きかかった古家の薄暗い窓のもとで、師走の夜の寒さにすくみながら、当時の所懐と所見とを書き捨てたままで別にそれを発表しようとも思わず、文庫の底に押込んでしまったのであろう。自分も今まで全く忘れていたのを、十四年後のきょう偶然発見して、いわゆる懐旧の情に堪えなかった。それと同時に、今更のように思い浮かんだのは震災十四周年の当日である。
「あしたは九月一日だ。」
 その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでも無いように思われて、なんだか捨て難い気にもなったので、その夜の灯のもとで再読、この随筆集に挿入することにした。

     仮住居

 十月十二日の時雨《しぐれ》ふる朝に、私たちは目白《めじろ》の額田六福《ぬかだろっぷく》方を立ち退いて、麻布|宮村町《みやむらちょう》へ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。裏は高い崖《がけ》になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。
 崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢を云っている場合でない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多《めった》に空家のあろう筈はなく、さんざんに探し抜いた揚句の果てに、河野義博《こうのよしひろ》君の紹介でようよう此処《ここ》に落着くことになったのは、まだしもの幸いであると云わなければなるまい。これでともかくも一時の居どころは定まったが、心はまだ本当に定まらない。文字通りに、箸一つ持たない丸焼けの一家族であるから、たとい仮住居にしても一戸を持つとなれば、何かと面倒なことが多い。ふだんでも冬の設けに忙がしい時節であるのに、新世帯もちの我々はいよいよ心ぜわしい日を送らねばならなかった。
 今度の家は元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖《ふすま》も傷《いた》んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。移転の日に若い人たちがあつまって、庭の草はどうにか綺麗に刈り取ってくれた。壁の崩れたところも一部分は貼ってくれた。襖だけは家主から経師屋《きょうじや》の職人をよこして応急の修繕をしてくれたが、それも一度ぎりで姿をみせないので、家内総がかりで貼り残しの壁を貼ることにした。幸いに女中が器用なので、まず日本紙で下貼りをして、その上を新聞紙で貼りつめて、さらに壁紙で上貼りをして、これもどうにか斯《こ》うにか見苦しくないようになった。そのあくる日には障子も貼りかえた。
 その傍らに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買いあるいた。妻や女中は火鉢や盥《たらい》やバケツや七輪《しちりん》のたぐいを毎日買いあるいた。これで先ず不完全ながらも文房具や世帯道具がひと通り整うと、今度は冬の近いのに脅《おびや》かされなければならなかった。一枚の冬着さえ持たない我々は、どんな粗末なものでも好《よ》いから寒さを防ぐ準備をしなければならない。夜具の類は出来合いを買って間にあわせることにしたが、一家内の者の羽織や綿入れや襦袢《じゅばん》や、その針仕事に女たちはまた忙がしく追い使われた。
 目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとが代るがわるに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統がいろいろに変更して、以前ならば一直線にゆかれたところも、今では飛んでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分でゆかれたところも、三十分五十分を要することになる。勿論どの電車も満員で容易に乗ることは出来ない。市内の電車がこのありさまであるから、それに連れて省線の電車がまた未曾有《みぞう》の混雑を来たしている。それらの不便のために、一日いらいら[#「いらいら」に傍点]ながら駈けあるいても、わずかに二軒か三軒しか廻り切れないような時もある。又そのあいだには旧宅の焼け跡の整理もしなければならない。震災に因って生じたもろもろの事件の始末も付けなければならない。こうして私も妻も女中らも無暗《むやみ》にあわただしい日を送っているうちに、大正十二年も暮れて行くのである。
「こんな年は早く過ぎてしまう方がいい。」
 まあ、こんなことでも云うよりほかはない。なにしろ余ほどの老人でない限りは、生まれて初めてこんな目に出逢ったのであるから、狼狽混乱、どうにも仕様のないのが当りまえであるかも知れないが、罹災《りさい》以来そのあと始末に四ヵ月を費して、まだほんとうに落着かないのは、まったく困ったことである。年が改《あらた》まったと云って、すぐに世のなかが改まるわけでないのは判り切っているが、それでも年があらたまったらば、心持だけでも何とか新しくなり得るかと思うが故に、こんな不祥《ふしょう》な年は早く送ってしまいたいと云うのも普通の人情かも知れない。
 今はまだ十二年の末であるから、新しい十三年がどんな年で現われてくるか判らない。元旦も晴か雨か、風か雪か、それすらもまだ判らない位であるから、今から何も云うことは出来ないが、いずれにしても私はこの仮住居で新しい年を迎えなければならない。それでもバラックに住む人たちのことを思えば何でもない。たとい家を焼かれても、家財と蔵書いっさいをうしなっても、わたしの一家は他に比較してまだまだ幸福であると云わなければならない。わたしは今までにも奢侈《おごり》の生活を送っていなかったのであるから、今後も特に節約をしようとも思わない。しかし今度の震災のために直接間接に多大の損害をうけているから、その幾分を回復するべく大いに働かなければならない。まず第一に書庫の復興を計らなければならない。
 父祖の代から伝わっている刊本写本五十余種、その大部分は回収の見込みはない。父が晩年の日記十二冊、わたし自身が十七歳の春から書きはじめた日記三十五冊、これらは勿論あきらめるよりほかはない。そのほかにも私が随時に記入していた雑記帳、随筆、書抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としてはすこぶる大切なものであるが、今さら悔むのは愚痴である。せめてはその他の刊本写本だけでもだんだんに買い戻したいと念じているが、その三分の一も容易に回収は覚束なそうである。この頃になって書棚の寂しいのがひどく眼についてならない。諸君が汲々《きゅうきゅう》として帝都復興の策を講じているあいだに、わたしも勉強して書庫の復興を計らなければならない。それがやはりなんらかの意義、なんらかの形式に於いて、帝都復興の上にも貢献するところがあろうと信じている。
 わたしの家では、これまでも余り正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変ったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対して全然無沙汰で打ち過ぎるのも何だか心苦しいので、震災後まだほんとうに一身一家の安定を得ないので歳末年始の礼を欠くことを葉書にしたためて、年内に発送することにした。そのほかには、春に対する準備もない。
 わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常に美事な花をつけると云うことであるが、元日までには恐らく咲くまい。[#地付き](大正十二年十二月二十日)

     箙《えびら》の梅

  狸坂くらやみ坂や秋の暮

 これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。
 坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬき[#「たぬき」に傍点]と云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟《そうくつ》であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
 しかし私の横町にも人家が軒なみに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみ出せば、麻布第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前に拡がっている。ここらは震災の被害も少なく、もちろん火災にも逢わなかったのであるから、この頃は私たちのような避難者がおびただしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましている。殊に歳の暮れに押し詰まって、ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列《なら》んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢《ひ》かれるか、路ばたの大溝《おおどぶ》へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。
「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。
 そうは云っても、買物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、何かしら買って帰るのである。震災に懲りたのと、経済上の都合とで、無用の品物はいっさい買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければ済まないような必要品が次から次へと現われて来て、いつまで経っても果てしが無いように思われる。ひと口に瓦楽多《がらくた》というが、その瓦楽多道具をよほどたくさんに貯えなければ、人間の家一戸を支えて行かれないものであると云うことを、この頃になってつくづく悟《さと》った。私たちばかりでなく、すべての罹災者は皆どこかで此の失費と面倒とを繰り返しているのであろう。どう考えても、怖るべき禍いであった。
 その鬱憤《うっぷん》をここに洩らすわけではないが、十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘《ぬかるみ》で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る、買物の人も出る。売る人も、買う人も、足もとの悪いなどには頓着していられないのであろうが、私のような気の弱い者はその泥濘におびやかされて、途中から空《むな》しく引っ返して来ることがしばしばある。
 しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを踏み、その混雑を冒して、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套の袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、さきごろの天長《てんちょう》祝日に町内の青年団から避難者に対して戸毎に菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んで置くに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店先で徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
 庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走《しわす》もだんだんに数《かぞ》え日《び》に迫ったので、混雑もまた予想以上である。そのあいだをどうにか斯《こ》うにか潜りぬけて、夜店の切花屋で梅と寒菊とを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのがすこぶる困難であった。甲の男のかかえて来るチャブ台に突き当るやら、乙の女の提げてくる風呂敷づつみに擦れ合うやら、ようようのことで安田銀行支店の角まで帰り着いて、人通りのやや少ないところで袖の下からかの花を把《と》り出して、電燈のひかりに照らしてみると、寒菊はまず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花も蕾《つぼみ》もかなりに傷められて、梶原源太《かじわらげんた》が「箙《えびら》の梅」という形になっていた。
「こんなことなら、あしたの朝にすればよかった。」
 この源太は二度の駆けをする勇気もないので、寒菊の無難をせめてもの幸いに、箙の梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中嶋俊雄《なかじまとしお》が来て待っていた。
「渋谷《しぶや》の道玄坂《どうげんざか》辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ。」と、彼は云った。
「なんと云っても、焼けない土地は仕合せだな。」
 こう云いながら、わたしは梅と寒菊とを書斎の花瓶にさした。底冷えのする宵である。[#地付き](十二月二十三日)

     明治座

 この二、三日は馬鹿に寒い。けさは手水鉢《ちょうずばち》に厚い氷を見た。
 午前八時頃に十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人が忙がしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名会社の手で開場し、左団次一座が出演することになったので、俄かに修繕工事に取りかかったのである。今までは繁華の町のまんなかに、死んだ物のように寂寞《せきばく》として横たわっていた建物が、急に生き返って動き出したかとも見えて、あたりが明るくなったように活気を生じた。焚火《たきび》の烟《けむ》りが威勢よく舞いあがっている前に、ゆうべは夜明かしであったと笑いながら話している職人もある。立ち停まって珍しそうにそれを眺めている人たちもある。
 足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の口上看板がもう揚がっている。二部興行で、昼の部は忠信《ただのぶ》の道行《みちゆき》、躄《いざり》の仇討、鳥辺山《とりべやま》心中、夜の部は信長記《しんちょうき》、浪華《なにわ》の春雨《はるさめ》、双面《ふたおもて》という番組も大きく貼り出してある。
 左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しにたたずんでいるのである。
 私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組のことも、わたしは疾《と》うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲《みなぎ》るのを覚えた。
 わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回にのぼっているのと、もう一つには私自身の性格の然らしむるところとで、わたしは従来自分の作物《さくぶつ》の上演ということに就いては余りに敏感でない方である。勿論、不愉快なことではないが、又さのみに愉快とも感じていないのであった。それが今日にかぎって一種の昂奮を感じるように覚えるのは、単にその上演目録のうちに鳥辺山心中と、信長記と、浪華の春雨と、わたしの作物が三種までも加わっていると云うばかりでなく、震災のために自分の物いっさいを失ったように感じていた私に取って、自分はやはり何物をか失わずにいたと云うことを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えている暇《ひま》はない。わたしは焼け跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……。」と、そこらに群がっている人の口から、一種の待つある如きさざめきが伝えられている。
 わたしは愉快にそれを聴いた。私もそれを待っているのである。少年時代のむかしに復《かえ》って、春を待つという若やいだ心が私の胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物である。

「いや、まだほかにもある。」
 こう気がついて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ滑りそうに凍っているその細い路を、わたしの下駄はカチカチと踏んで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取り出した。
 震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立ち退くというまぎわに、書斎の戸棚の片隅に押し込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を丁寧に調べてみる気も起らなかったが、麻布にひとまず落着いて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切り抜いて保存して置いたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
 それだけでも掴み出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊に纏めてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまで其の儘《まま》になっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きをいちいちにひろげて読みかえした。
 わたしは今まで随分たくさんの雑文をかいている。その全部のなかから撰み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来たのであるから、なかには書き捨ての反古《ほご》同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨て難い形見のようにも思われるので、なんでもかまわずに掻きあつめることにした。
 こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、一向に仕事は捗取らず、どうにか斯《こ》うにか片付いたのは夜の九時頃である。それでも門前には往来の足音が忙がしそうに聞える。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業《よなべ》をしているのであろうなどとも思った。
 さて纏まったこの雑文集の名をなんと云っていいか判らない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにして置いた。これもまた記念の意味にほかならない。[#地付き](昭和12・10刊『思い出草』所収)
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風呂を買うまで


 わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草千束町《あさくさせんぞくまち》辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて、山の手から遠くそれを羨《うらや》んでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。
 わたしが多年ゆき馴れた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつも真っさきに立って運動する一人であるという噂を聞いて、どうもよくない男だとわたしは自分勝手に彼を呪《のろ》っていたのであるが、呪われた彼も、呪ったわたしも、時をおなじゅうして震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白に一旦立ち退いて、雑司ヶ谷《ぞうしがや》の鬼子母神《きしもじん》附近の湯屋にゆくことになった。震災後どこの湯屋も一週間ないし十日間休業したが、各組合で申し合せでもしたのか知れない、再び開業するときには大抵その初日と二日目とを無料入浴デーにしたのが多い。わたしも雑司ヶ谷の御園湯《みそのゆ》という湯屋でその二日間無料の恩恵を蒙った。恩恵に浴すとはまったく此の事であろう。それから十月の初めまで私は毎日この湯にかよっていた。九月二十五日は旧暦の十五夜で、わたしはこの湯屋の前で薄《すすき》を持っている若い婦人に出逢った。その婦人もこの近所に避難している人であることを予《かね》て知っているので、薄《うす》ら寒い秋風に靡《なび》いているその薄の葉摺れが、わたしの暗いこころをひとしお寂しくさせたことを記憶している。
 わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓《ざっとう》で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越《こし》の湯《ゆ》と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚《ゆず》湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲《しょうぶ》湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。

  宿無しも今日はゆず湯の男哉

 二十二日は寒い雨が降った。二十三日は日曜日で晴れていた。どの日もわたしは早く行ったので、風呂のなかはさのみに混雑していなかったが、ゆず湯というのは名ばかりで、湯に浮かんでいる柚の数のあまりに少ないのにやや失望させられた。それでも新しい湯にほんのりと匂う柚の香は、この頃とかくに尖《とが》り勝ちなわたしの神経を不思議にやわらげて、震災以来初めてほんとうに入浴したような、安らかな爽《さわや》かな気分になった。
 麻布で今年の正月をむかえたわたしは、その十五日に再びかなりの強震に逢った。去年の大震で傷んでいる家屋が更に破損して、長く住むには堪えられなくなった。家主も建て直したいというので、いよいよ三月なかばにここを立ち退いて、さらに現在の大久保百人町《おおくぼひゃくにんまち》に移転することになった。いわゆる東移西転、どこにどう落着くか判らない不安をいだきながら、ともかくもここを仮りの宿りと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらの躑躅《つつじ》の咲きほこる五月となった。その四日と五日は菖蒲湯である。ここでは都湯というのに毎日かよっていたが、麻布のゆず湯とは違って、ここの菖蒲は風呂いっぱいに青い葉をうかべているのが見るから快《こころよ》かった。大かた子供たちの仕事であろうが、青々とぬれた菖蒲の幾束が小桶に挿してあったのも、なんとなく田舎めいて面白かった。四日も五日もあいにくに陰っていたが、これで湯あがりに仰ぎ視る大空も青々と晴れていたら、さらに爽快であろうと思われた。
 湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることが出来た。日盛りに行っては往復がなにぶんにも暑い。ここらは勤め人が多いので、夕方から夜にかけては湯屋がひどく混雑する。
 わたしの家に湯殿はあるが、据風呂がないので内湯を焚くわけに行かない。幸いに井戸の水は良いので、七月から湯殿で行水《ぎょうずい》を使うことにした。大盥《おおだらい》に湯をなみなみと湛《たた》えさせて、遠慮なしにざぶざぶ浴びてみたが、どうも思うように行かない。行水――これも一種の俳味を帯びているものには相違ないので、わたしは行水にちなんだ古人の俳句をそれからそれへと繰り出して、努《つと》めて俳味をよび起そうとした。わたしの家の畑には唐もろこしもある、小さい夕顔棚もある、虫の声もきこえる。月並ながらも行水というものに相当した季題の道具立てはまずひと通り揃っているのであるが、どうも一向に俳味も俳趣も泛《う》かび出さない。
 行水をつかって、唐もろこしの青い葉が夕風にほの白くみだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満洲で野天風呂を浴びたことを思い出した。海城、遼陽その他の城内にシナ人の湯屋があるが、城から遠い村落に湯屋というものはない。幸いに大抵の民家には大きい甕《かめ》が一つ二つは据えてあるので、その甕を畑のなかへ持ち出して、高梁《コウリャン》を焚いて湯を沸かした。満洲の空は高い、月は鏡のように澄んでいる。畑には西瓜《すいか》や唐茄子《とうなす》が蔓を這わせて転がっている。そのなかで甕から首を出して鼻唄を歌っていると、まるで狐に化かされたような形であるが、それも陣中の一興《いっきょう》として、その愉快は今でも忘れない。甕は焼き物であるから、湯があまりに沸き過ぎた時、うかつにその縁《ふち》などに手足を触れると、火傷《やけど》をしそうな熱さで思わず飛びあがることもあった。
 しかしそれは二十年のむかしである。今のわたしは野天風呂で鼻唄をうたっている勇気はない。行水も思ったほどに風流でない。狭くても窮屈でも、やはり据風呂を買おうかと思っている。そこでまた宿無しが一句うかんだ。

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宿無しが風呂桶を買ふ暑さ哉
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[#地付き](大正13・7「読売新聞」)
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郊外生活の一年


 震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九ヵ月で、月並の文句ではあるが光陰流水の感に堪えない。大久保へ流れ込んで来たのは十三年の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、あるいは春秋の天気のよい日に散歩にでも出かける所であると思っていた者が、測《はか》らずも郊外生活一年の経験を積むことを得たのは、これも震災の賜物《たまもの》と云っていいかも知れない。勿論、その賜物に対してかなりの高価を支払ってはいるが……。
 はじめてここへ移って来たのは、三月の春寒《はるさむ》がまだ去りやらない頃で、その月末の二十五、二十六、二十七の三日間は毎日つづいて寒い雨が降った。二十八日も朝から陰って、ときどきに雪を飛ばした。わたしの家の裏庭から北に見渡される戸山ヶ原には、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州《びしゅう》侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情も無しに大きい枯れ枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦《あかれんが》の建築と、東洋製菓会社の工場に聳えている大煙突と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙りと、これだけの道具を列べただけでも大抵は想像が付くであろう。実に荒涼|索莫《さくばく》、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満洲の冬を思い出して、今年の春の寒さがひとしお身にしみるように感じた。
「郊外はいやですね。」と、市内に住み馴れている家内の女たちは云った。
「むむ。どうも思ったほどによくないな。」と、わたしも少しく顔をしかめた。
 省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。陸軍の射的場《しゃてきば》のひびきも随分騒がしかった。戸山ヶ原で夜間演習のときは、小銃を乱射するにも驚かされた。湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、いちいち数え立てたらいろいろあるので、わたしも此処《ここ》まで引っ込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣《いけがき》を越えて往来へ高く突き出しているので、外から遠く見あげると、その花の下かげに小さく横たわっている私の家は絵のようにみえた。戸山ヶ原にも春の草が萌《も》え出して、その青々とした原の上に、市内ではこのごろ滅多に見られない大きい鳶《とんび》が悠々と高く舞っていた。
「郊外も悪くないな。」と、わたしはまた思い直した。
 五月になると、大久保名物の躑躅《つつじ》の色がここら一円を俄かに明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりをとどめて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を付けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色《かばいろ》の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗《のぞ》きあるいた。
 庭の広いのと空地《あきち》の多いのとを利用して、わたしも近所の人真似に花壇や畑を作った。花壇には和洋の草花の種をめちゃくちゃにまいた。畑には唐蜀黍《とうもろこし》や夏大根の種をまき、茄子《なす》や瓜《うり》の苗を植えた。ゆうがおの種も播《ま》き、へちまの棚も作った。不精者《ぶしょうもの》のわたしに取っては、それらの世話がなかなかの面倒であったが、いやしくも郊外に住む以上、それが当然の仕事のようにも思われて、わたしは朝晩の泥いじりを厭《いと》わなかった。六月の梅雨のころになると、花壇や畑には茎《くき》や蔓《つる》がのび、葉や枝がひろがって、庭一面に濡れていた。
 夏になって、わたしを少しく失望させたのは、蛙《かわず》の一向に鳴かないことであった。筋向うの家の土手下の溝《どぶ》で、二、三度その鳴き声を聴いたことがあったが、そのほかにはほとんど聞えなかった。麹町辺でも震災前には随分その声を聴いたものであるが、郊外のここらでどうして鳴かないのかと、わたしは案外に思った。蛍《ほたる》も飛ばなかった。よそから貰った蛍を庭に放したが、そのひかりはひと晩ぎりで皆どこへか消え失せてしまった。さみだれの夜に、しずかに蛙を聴き、ほたるを眺めようとしていた私の期待は裏切られた。その代りに犬は多い。飼い犬と野良犬がしきりに吠えている。
 幾月か住んでいるうちに、買物の不便にも馴れた。電車や鉄砲の音にも驚かなくなった。湯屋が遠いので、自宅で風呂を焚くことにした。風呂の話は別に書いたが、ゆうぐれの涼しい風にみだれる唐蜀黍の花や葉をながめながら、小さい風呂にゆっくりと浸っているのも、いわゆる郊外気分というのであろうと、暢気《のんき》に悟るようにもなった。しかもそう暢気に構えてばかりもいられない時が来た。八月になると旱《ひでり》つづきで、さなきだに水に乏しいここら一帯の居住者は、水を憂いずにはいられなくなった。どこの家でも井戸の底を覗くようになって、わたしの家主の親類の家などでは、駅を越えた遠方から私の井戸の水を貰いに来た。この井戸は水の質も良く、水の量も比較的に多いので、覿面《てきめん》に苦しむほどのことはなかったが、一日のうちで二時間ないし三時間は汲めないような日もあった。庭の撒水《まきみず》を倹約する日もあった。折角の風呂も休まなければならないような日もあった。わたしも一日に一度ずつは井戸をのぞきに行った。夏ばかりでなく、冬でも少し照りつづくと、ここらは水切れに脅《おびや》かされるのであると、土地の人は話した。
 蛙や蛍とおなじように、ここでは虫の声もあまり多く聞かれなかった。全然鳴かないと云うのではないが、思ったほどには鳴かなかった。麹町にいた時には、秋の初めになると機織虫《はたおりむし》などが無暗《むやみ》に飛び込んで来たものであるが、ここではその鳴く声さえも聴いたことはなかった。庭も広く、草も深いのに、秋の虫が多く聴かれないのは、わたしの心を寂しくさせた。虫が少ないと共に、藪蚊《やぶか》も案外に少なかった。わたしの家で蚊やりを焚いたのは、前後ふた月に過ぎなかったように記憶している。
 秋になっては、コスモスと紫苑《しおん》がわたしの庭を賑わした。夏の日ざかりに向日葵《ひまわり》が軒を越えるほど高く大きく咲いたのも愉快であったが、紫苑が枝や葉をひろげて高く咲き誇ったのも私をよろこばせた。紫苑といえば、いかにも秋らしい弱々しい姿をのみ描かれているが、それが十分に生長して、五株六株あるいは十株も叢《むら》をなしているときは、かの向日葵などと一様に、むしろ男性的の雄大な趣を示すものである。薄むらさきの小さい花が一つにかたまって、青い大きい葉の蔭から雲のようにたなびき出ているのを遠く眺めると、さながら松のあいだから桜を望むようにも感じられる。世間一般からは余りに高く評価されない花ではあるが、ここへ来てから私はこの紫苑がひどく好きになった。どこへ行っても、わたしは紫苑を栽《う》えたいと思っている。
 唐蜀黍もよく熟したが、その当時わたしは胃腸を害していたので、それを焼く煙りを唯ながめているばかりであった。糸瓜《へちま》も大きいのが七、八本ぶらさがって、そのなかには二尺を越えたのもあった。
 郊外の冬はあわれである。山里は冬ぞ寂しさまさりける――まさかにそれほどでもないが、庭の枯れ芒《すすき》が木枯らしを恐れるようになると、再びかの荒涼索莫がくり返されて、宵々ごとに一種の霜気《そうき》が圧して来る。朝々ごとに庭の霜柱が深くなる。晴れた日にも珍しい小鳥がさえずって来ない。戸山ヶ原は青い衣をはがれて、古木もその葉をふるい落すと、わずかに生き残った枯れ草が北風と砂煙りに悼《いた》ましくむせんで、かの科学研究所の煉瓦や製菓会社の煙突が再び眼立って来る。夜は火の廻りの柝《き》の音が絶えずきこえて、霜に吠える家々の犬の声がけわしくなる。朝夕の寒気は市内よりも確かに強いので、感冒にかかり易いわたしは大いに用心しなければならなかった。
 郊外に盗難の多いのはしばしば聞くことであるが、ここらも用心のよい方ではない。わたしの横町にも二、三回の被害があって、その賊は密行の刑事巡査に捕えられたが、それから間もなく、わたしの家でも窃盗《せっとう》に見舞われた。夜が明けてから発見したのであるが、賊はなぜか一物《いちもつ》をも奪い取らないで、新しいメリンスの覆面頭巾を残して立ち去った。一応それを届けて置くと、警察からは幾人の刑事巡査が来て丁寧に現場を調べて行ったが、賊は不良青年の群れで、その後に中野《なかの》の町で捕われたように聞いた。わたしの家の女中のひとりが午後十時ごろに外から帰って来る途中、横町の暗いところで例の痴漢に襲われかかったが、折りよく巡査が巡回して来たので救われた。とかくにこの種の痴漢が出没するから婦人の夜間外出は注意しろと、町内の組合からも謄写版《とうしゃばん》の通知書をまわして来たことがある。わたしの住んでいる百人町には幸いに火災はないが、淀橋辺には頻繁の火事沙汰がある。こうした事件は冬の初めが最も多い。
「郊外と市内と、どちらが好《よ》うございます。」
 私はたびたびこう訊かれることがある。それに対して、どちらも同じことですねと私は答えている。郊外生活と市内生活と、所詮《しょせん》は一長一短で、公平に云えば、どちらも住みにくいと云うのほかはない。その住みにくいのを忍ぶとすれば、郊外か市内か、おのおのその好むところに従えばよいのである。[#地付き](大正14・4「読売新聞」)
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薬前薬後


     草花と果物

 盂蘭盆《うらぼん》の迎い火を焚くという七月十三日のゆう方に、わたしは突然に強い差込みに襲われて仆《たお》れた。急性の胃痙攣《いけいれん》である。医師の応急手当てで痙攣の苦痛は比較的に早く救われたが、元来胃腸を害しているというので、それから引きつづいて薬を飲む、粥《かゆ》を啜《すす》る、おなじような養生法を半月以上も繰り返して、八月の一日からともかくも病床をぬけ出すことになった。病人によい時季と云うのもあるまいが、暑中の病人は一層難儀である。わたしはかなりに疲労してしまった。今でも机にむかって、まだ本当に物を書くほどの気力がない。
 病臥中、はじめの一週間ほどは努《つと》めて安静を守っていたが、日がだんだんに経つにつれて、気分のよい日の朝晩には縁側へ出て小さい庭をながめることもある。わたしが現在住んでいるのは半蔵門に近いバラック建の二階家で、家も小さいが庭は更に小さく、わずかに八坪余りのところへ一面に草花を栽えている。
 若い書生が勤勉に手入れをしてくれるので、わたしの病臥中にも花壇はちっとも狼藉《ろうぜき》たる姿をみせていない。夏の花、秋の草、みな恙《つつが》なく生長している。これほどの狭い庭に幾種の草花類が栽えられてあるかと試みにかぞえてみると、ダリヤ、カンナ、コスモス、百合、撫子《なでしこ》、石竹《せきちく》、桔梗、矢車草、風露草《ふうろそう》、金魚草、月見草、おいらん草、孔雀《くじゃく》草、黄蜀葵《おうしょつき》、女郎花《おみなえし》、男郎花《おとこえし》、秋海棠《しゅうかいどう》、水引、鶏頭、葉鶏頭、白粉《おしろい》、鳳仙花、紫苑、萩、芒《すすき》、日まわり、姫日まわり、夏菊と秋の菊数種、ほかに朝顔十四鉢――まずザッとこんなもので、一種が一株というわけではなく、一種で十余株の多きに上《のぼ》っているのもあるから、いかによく整理されていたところで、その枝や葉や花がそれからそれへと掩《おお》い重なって、歌によむ「八重葎《やえむぐら》しげれる宿」と云いそうな姿である。
 そのほかにも桐や松や、柿や、椿、木犀《もくせい》、山茶花《さざんか》、八つ手、躑躅《つつじ》、山吹のたぐいも雑然と栽えてあるので草木繁茂、枝や葉をかき分けなければ歩くことは出来ない。
「狭いところへよくも栽え込んだものだな。」と、わたしは自分ながら感心した。
 狭い庭を藪にして、好んで藪蚊の棲み家を作っている自分の物好きを笑うよりも、こうして僅かに無趣味と殺風景から救われようと努めているバラック生活の寂しさを、今更のように考えさせられた。
 わたしの家ばかりでなく、近所の住居といわず、商店といわず、バラックの家々ではみな草花を栽えている。二尺か三尺の空地にもダリヤ、コスモス、白まわり、白粉のたぐいが必ず栽えてあるのは、震災以前にかつて見なかったことである。われわれは斯うして救われるのほかはないのであろうか。
 わたしの現在の住宅は、麹町通りの電車道に平行した北側の裏通りに面しているので、朝は五時頃から割引きの電車がひびく。夜は十二時半頃まで各方面からのぼって来る終電車の音がきこえる。それも勿論そうぞうしいには相違ないが、私の枕を最も強くゆすぶるものは貨物自動車と馬力《ばりき》である。これらの車は電車通りの比較的に狭いのを避けて、いずれもわたしの家の前の裏通りを通り抜けることにしているので、昼間はともあれ、夜はその車輪の音が枕の上にいっそう強く響いて来るのである。
 病中不眠勝ちのわたしは此の頃その響きをいよいよ強く感じるようになった。夜も宵のあいだはまだよい。終電車もみな通り過ぎてしまって、世間が初めてひっそりと鎮まって、いわゆる草木も眠るという午前二時三時の頃に、ガタガタといい、ガラガラという響きを立てて、ほとんど絶え間も無しに通り過ぎるトラックと馬力の音、殊に馬力は速力が遅く、且《かつ》は幾台もつながって通るので、枕にひびいている時間が長い。
 病中わたしに取って更に不幸というべきは、この夜半の馬力が暑いあいだ最も多く通行することである。なんでも多摩川のあたりから水蜜桃《すいみつとう》や梨などの果物の籠を満載して、神田の青物市場へ送って行くので、この時刻に積荷を運び込むと、あたかも朝市《あさいち》に間に合うのだそうである。その馬力が五台、七台、ないし十余台もつながって行くのは、途中で奪われない用心であると云う。いずれにしても、それが此の頃のわたしを悩ますことはひと通りでない。
「これほどに私を苦しめて行くあの果物が、どこの食卓を賑わして、誰の口にはいるか。」
 私は寝ながらそんなことを考えた。それに付けて思い出されるのは、わたしが巴里《パリ》に滞在していた頃、夏のあかつきの深い靄《もや》が一面にとざしている大きい並木の街《まち》に、馬の鈴の音《ね》がシャンシャン聞える。靄に隠されて、馬も人も車もみえない。ただ鈴の音が遠く近くきこえるばかりである。それは近在から野菜や果物を送って来る車で、このごろは桜ん坊が最も多いということであった。その以来わたしは桜ん坊を食うたびに、並木の靄のうちに聞える鈴の音を思い出して、一種の詩情の湧いて来るのを禁じることが出来ない。
 おなじ果物を運びながらも、東京の馬力では詩趣も無い、詩情も起らない。いたずらに人の神経を苛立《いらだ》たせるばかりである。

     雁と蝙蝠

 七月二十四日。きのうの雷雨のせいか、きょうは土用《どよう》に入ってから最も涼しい日であった。昼のうちは陰っていたが、宵には薄月《うすづき》のひかりが洩れて、涼しい夜風がすだれ越しにそよそよ[#「そよそよ」に傍点]と枕元へ流れ込んで来る。
 病気から例の神経衰弱を誘い出したのと、連日の暑気と、朝から晩まで寝て暮らしているのとで、毎晩どうも安らかに眠られない。今夜は涼しいから眠られるかと、十時頃から蚊帳《かや》を釣らせることにしたが、窓をしめ、雨戸をしめると、やはり蒸し暑い。十一時を過ぎ、十二時を過ぎて、電車の響きもやや絶えだえになった頃から少しうとうと[#「うとうと」に傍点]して、やがて再び眼をさますと、襟首には気味のわるい汗がにじんでいる。その汗を拭いて、床の上に起き直って団扇《うちわ》を使っていると、トタン葺《ぶ》きの家根に雨の音がはらはら[#「はらはら」に傍点]と聞える。そのあいだに鳥の声が近くきこえた。
 それは雁《がん》の鳴く声で、お堀の水の上から聞えて来ることを私はすぐに知った。お堀に雁の群れが降りて来るのは珍しくないが、それには時候が早い。土用に入ってまだ幾日も過ぎないのに、雁の来るのはめずらしい。群れに離れた孤雁《こがん》が何かの途惑いをして迷って来たのかも知れないと思っていると、雁は雨のなかにふた声三声つづけて叫んだ。
 しずかにそれを聴いているうちに、私の眼のさきには昔の麹町のすがたが泛《う》かび出した。そこには勿論、自動車などは通らなかった。電車も通らなかった。スレート葺きやトタン葺きの家根も見えなかった。家根といえば瓦葺きか板葺きである。その家々の家根の上を秋風が高く吹いて、ゆう日のひかりが漸《ようや》く薄れて来るころに、幾羽の雁の群れが列をなして大空を高く低く渡ってゆく。巷《ちまた》に遊んでいる子供たちはそれを仰いで口々に呼ぶのである。
「あとの雁が先になったら、笄《こうがい》取らしょ。」
 わたしも大きい口をあいて呼んだ。雁の行《つら》は正しいものであるが、時にはその声々に誘われたように後列の雁が翼を振って前列を追いぬけることがある。あるいは野に伏兵《ふくへい》ありとでも思うのか、前列後列が俄かに行を乱して翔《かけ》りゆく時がある。空飛ぶ鳥が地上の人の号令を聞いたかのように感じられた時、子供たちは手を拍《う》って愉快を叫んだ。そうして、その鳥の群れが遠くなるまで見送りながら立ち尽くしていると、秋のゆうぐれの寒さが襟にしみて来る。
 秋になると、毎年それをくり返していたので、私に取っては忘れがたい少年時代の思い出の一つとなっているが、この頃では秋になっても東京の空を渡る雁の影も稀《まれ》になった。まして往来のまんなかに突っ立って、「笄取らしょ。」などと声を嗄《か》らして叫んでいるような子供は一人もないらしい。
 雁で思い出したが、蝙蝠《こうもり》も夏の宵の景物の一つであった。
 江戸時代の錦絵には、柳の下に蝙蝠の飛んでいるさまを描いてあるのをしばしば見る。粋な芸妓などが柳橋あたりの河岸《かし》をあるいている、その背景には柳と蝙蝠を描くのがほとんど紋切り型のようにもなっている。実際、むかしの江戸市中にはたくさん棲んでいたそうで、外国やシナの話にもあるように、化け物屋敷という空家を探険してみたらば、そこに年|古《ふ》る蝙蝠が棲んでいるのを発見したというような実話が幾らも伝えられている。大きい奴になると、不意に飛びかかって人の生き血を吸うのであるから、一種の吸血鬼と云ってもよい。相馬《そうま》の古御所《ふるごしょ》の破れた翠簾《すいれん》の外に大きい蝙蝠が飛んでいたなどは、確かに一段の鬼気を添えるもので、昔の画家の働きである。
 しかし市中に飛んでいる小さい蝙蝠は、鬼気や妖気の問題を離れて、夏柳の下をゆく美人の影を追うにふさわしいものと見なされている。私たちも子供のときには蝙蝠を追いまわした。
 夏のゆうぐれ、うす暗い家の奥からは蚊やりの煙りが仄白《ほのじろ》く流れ出て、家の前には涼み台が持ち出される頃、どこからとも知らず、一匹か二匹の小さい蝙蝠が迷って来て、あるいは街《まち》を横切り、あるいは軒端《のきば》を伝って飛ぶ。蚊喰い鳥という異名《いみょう》の通り、かれらは蚊を追っているのであろう。それをまた追いながら、子供たちは口々に叫ぶのである。
「こうもり、こうもり、山椒《さんしょ》食わしょ。」
 前の雁とは違って、これは手のとどきそうな低いところを舞いあるいているから、何とかして捕えようというのが人情で、ある者は竹竿を持ち出して来るが、相手はひらひらと軽く飛び去って、容易に打ち落すことは出来ない。蝙蝠を捕えるには泥草鞋《どろわらじ》を投げるがよいと云うことになっているので、往来に落ちている草鞋や馬の沓《くつ》を拾って来て、「こうもり来い。」と呼びながら投げ付ける。うまくあたって地に落ちて来ることもあるが、又すぐに飛び揚がってしまって、十《とお》に一つも子供たちの手には捕えられない。たとい捕え得たところで、どうなるものでもないのであるが、それでも夢中になって追いあるく。
 その泥草鞋があやまって、往来の人に打ちあたる場合も少なくない。白地の帷子《かたびら》を着た紳士の胸や、白粉《おしろい》をつけた娘の横面《よこづら》などへ泥草鞋がぽん[#「ぽん」に傍点]と飛んで行っても、相手が子供であるから腹も立てない。今日ならば明らかに交通妨害として、警官に叱られるところであろうが、昔のいわゆるお巡《まわ》りさんは別にそれを咎《とが》めなかったので、私たちは泥草鞋をふりまわして夏のゆうぐれの町を騒がしてあるいた。
 街路樹に柳を栽えている町はあるが、その青い蔭にも今は蝙蝠の飛ぶを見ない。勿論、泥草鞋や馬の沓などを振りまわしているような馬鹿な子供はいない。
 こんなことを考えているうちに、例の馬力が魔の車とでも云いそうな響きを立てて、深夜の町を軋《きし》って来た。その昔、京の町を過ぎたという片輪車《かたわぐるま》の怪談を、私は思い出した。

     停車場の趣味

 以前は人形や玩具《おもちゃ》に趣味をもって、新古東西の瓦楽多《がらくた》をかなりに蒐集していたが、震災にその全部を灰にしてしまってから、再び蒐集するほどの元気もなくなった。殊に人形や玩具については、これまで新聞雑誌に再三書いたこともあるから、今度は更に他の方面について少しく語りたい。
 これは果たして趣味というべきものかどうだか判らないが、とにかく私は汽車の停車場というものに就いてすこぶる興味をもっている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それがすこぶるおもしろい。尊い寺は門から知れると云うが、ある意味に於いて停車場は土地そのものの象徴と云ってよい。
 そんな理窟はしばらく措《お》いて、停車場として最もわたしの興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どちら付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊におもしろいのは、ひと列車に二、三人か五、六人ぐらいしか乗り降りのないような、寂しい地方の小さい停車場である。そういう停車場はすぐに人家のある町や村へつづいていない所もある。降りても人力車《くるま》一台も無いようなところもある。停車場の建物も勿論小さい。しかもそこには案外に大きい桜や桃の木などがあって、春は一面に咲きみだれている。小さい建物、大きい桜、その上を越えて遠い近い山々が青く霞《かす》んでみえる。停車場のわきには粗末な竹垣などが結ってあって、汽車のひびきに馴れている鶏が平気で垣をくぐって出たりはいったりしている。駅員が慰み半分に作っているらしい小さい菜畑なども見える。
 夏から秋にかけては、こういう停車場には大きい百日紅《さるすべり》や大きい桐や柳などが眼につくことがある。真紅《まっか》に咲いた百日紅のかげに小さい休み茶屋の見えるのもある。芒《すすき》の乱れているのもコスモスの繁っているのも、停車場というものを中心にして皆それぞれの画趣を作っている。駅の附近に草原や畑などが続いていて、停車している汽車の窓にも虫の声々が近く流れ込んで来ることもある。東海道五十三次をかいた広重《ひろしげ》が今生きていたらば、こうした駅々の停車場の姿をいちいち写生して、おそらく好個の風景画を作り出すであろう。
 停車場はその土地の象徴であると、わたしは前に云ったが、直接にはその駅長や駅員らの趣味もうかがわれる。ある駅ではその設備や風致《ふうち》にすこぶる注意を払っているらしいのもあるが、その注意があまりに人工的になって、わざとらしく曲がりくねった松を栽えたり、檜葉《ひば》をまん丸く刈り込んだりしてあるのは、折角ながら却っておもしろくない。やはり周囲の野趣《やしゅ》をそのまま取り入れて、あくまでも自然に作った方がおもしろい。長い汽車旅行に疲れた乗客の眼もそれに因っていかに慰められるか判らない。汽車そのものが文明的の交通機関であるからと云って、停車場の風致までを生半可《なまはんか》な東京風などに作ろうとするのは考えものである。
 大きい停車場は車窓から眺めるよりも、自分が構内の人となった方がよい。勿論、そこには地方の小停車場に見るような詩趣も画趣も見いだせないのであるが、なんとなく一種の雄大な感が湧く。そうして、そこには単なる混雑以外に一種の活気が見いだされる。汽車に乗る人、降りる人、かならずしも活気のある人たちばかりでもあるまい。親や友達の死を聞いて帰る人もあろう。自分の病いのために帰郷する人もあろう。地方で失敗して都会へ職業を求めに来た人もあろう。千差万別、もとより一概には云えないのであるが、その人たちが大きい停車場の混雑した空気につつまれた時、たれもかれも一種の活気を帯びた人のように見られる。単に、あわただしいと云ってしまえばそれ迄であるが、わたしはその間に生き生きした気分を感じて、いつも愉快に思う。
 汽車の出たあとの静けさ、殊に夜汽車の汽笛のひびきが遠く消えて、見送りの人々などが静かに帰ってゆく。その寂しいような心持もまたわるくない。
 わたしは麹町に長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場へ出て行く。この停車場は大でもなく小でもなく、わたしには余り面白くない中くらいのところであるが、それでも汽車の出たあとの静かな気分を味わうことが出来る。堤《どて》の松の大樹の上に冴えた月のかかっている夜などは殊によい。若いときは格別、近年は甚だ出不精になって、旅行する機会もだんだんに少なくなったが、停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞えるのである。[#地付き](大正15・8「時事新報」)
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私の机


 ある雑誌社から「あなたの机は」という問合せが来たので、こんな返事をかいて送る。
 天神机――今はあと方もなくなってしまいましたが、私が子供の時代には、まだそれが一般に行なわれていて、手習いをする子は皆それに向かったものです。わたしもその一人でした。今でも「寺子屋」の芝居をみると、何だか昔がなつかしいように思われます。
 これも今はあまり流行《はや》らないようですが、以前は普通に用いる机は桐材が一番よいと云う事になっていました。木肌《きはだ》が柔らかなので、倚りかかる場合その他にも手当りが柔らかでよいと云うのでした。その代りに疵《きず》が付き易い。文鎮をおとしてもすぐに疵が付くというわけですから、少し不注意に取扱うと疵だらけになる。それが桐材の欠点で、自然にすたれて来たのでしょう。それから一閑張《いっかんば》りの机が一時は流行しました。それも柔らかでよいのと、軽くてよいのと、値段が割合に高くないのとで、一時は非常に持て囃《はや》されましたが、何分にも紙を貼ったものであるから傷み易い。水などを零《こぼ》すと、すぐにぶくぶくと膨《ふく》れる。そんな欠点があるので、これもやがて廃《すた》れました。それでもまだ小机やチャブ台用としては幾分か残っているようです。
 わたしは十五のときに一円五十銭で買った桐の机を多年使用していました。下宿屋を二、三度持ちあるいたり、三、四度も転居したりしたので、ほとんど完膚《かんぷ》なしと云うほどに疵だらけになっていましたが、それが使い馴れていて工合《ぐあい》がよいので、ついそのままに使いつづけていました。しかし十五の時に買った机ですから少し小さいのが何分不便で、大きな本など拡げる場合には、机の上をいちいち片付けてかからなければならない。とうとう我慢が出来なくなって、大正十二年の春、近所の家具屋に註文して大きい机を作らせました。木材はなんでもよいと云ったら、※[#「土へん+專」、第3水準1-15-59]《せん》で作って来たので、非常に重い上に実用専一のすこぶる殺風景なものが出来あがりました。その代り、机の上が俄かに広くなったので、仕事をするときに参考書などを幾冊も拡げて置くには便利になった。
 さりとて、三十七、八年も親しんでいた古机を古道具屋の手にわたすにも忍びないので、そのまま戸棚の奥に押し込んで置くと、その年の九月が例の震災で、新旧の机とも灰となってしまいました。新の方に未練はなかったが、旧の方は久しい友達で、若いときからその机の上でいろいろのものを書いた思い出――誰でもそうであろうが、取り分けわれわれのような者は机というものに対していろいろの思い出が多いので、それが灰になってしまったと云うことは、かなりに私のこころを寂しくさせました。
 震災の後、目白の額田六福の家に立ち退いているあいだは、そこの小机を借りて使っていましたが、十月になって麻布へ移転する時、何を措《お》いても机はすぐに入用であるので、高田の四つ家|町《まち》へ行って家具屋をあさり歩きました。勿論、その当時のことであるから択り好みは云っていられない。なんでも机の形をしていれば好《よ》いぐらいの考えで、十二円五十銭の机を買って来た。これも材質は※[#「土へん+專」、第3水準1-15-59]で、それにラックスを塗ったもので、すこぶる頑丈に出来ているのです。もう少し体裁のよいのもあったのですが、私は背が高いので机の脚も高くなければ困る。そういう都合で、脚の高いのを取得《とりえ》に先ずそれを買い込んで、そのまま今日まで使っているわけです。その後にいくらか優《ま》しの机を見つけないでもありませんが、震災以来、三度も居所を変えて、いまだに仮越しの不安定の生活をつづけているのですから、震災記念の安机が丁度相当かとも思って、現にこの原稿もその机の上で書いているような次第です。
 わたしは近眼のせいもありましょうが、机は明るいところに据えなければ、読むことも書くことも出来ません。光線の強いのを嫌う人もありますが、わたしは薄暗いようなところでは何だか頼りないような気がして落着かれません。それですから、一日のうちに幾度も机の位置をかえることがあります。したがって、余りに重い机は持ち運ぶに困るのですが、机にむかった感じを云えば、どうも重くて大きい方がドッシリとして落着かれるようです。チャブ台の上などで原稿をかく人がありますが、私には全然できません。それがために、旅行などをして困ることがあります。
 もう一つ、これは年来の習慣でしょうが、わたしは自宅にいる場合、飯を食うときのほかは机の前を離れたことはほとんどありません。読書するとか原稿を書くとか云うのでなく、ただぼんやりとしているときでも必ず机の前に坐っています。鳥で云えば一種の止まり木とでも云うのでしょう。机の前を離れると、なんだかぐら[#「ぐら」に傍点]付いているようで、自分のからだを持て余してしまうのです。妙な習慣が付いたものです。[#地付き](大正14・9「婦人公論」)
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読書雑感


 なんと云っても此の頃は読書子に取っては恵まれた時代である。円本は勿論、改造文庫、岩波文庫、春陽堂文庫のたぐい、二十銭か三十銭で自分の読みたい本が自由に読まれるというのは、どう考えても有難いことである。
 趣味から云えば、廉価版の安っぽい書物は感じが悪いという。それも一応は尤《もっと》もであるが、読書趣味の普及された時代、本を読みたくても金が無いという人々に取っては、廉価版は確かに必要である。また、著者としても、豪華版を作って少数の人に読まれるよりも、廉価版を作って多数の人に読まれた方がよい。五百人六百人に読まれるよりも、一万人二万人に読まれた方が、著者としては本懐でなければならない。
 それに付けても、わたしたちの若い時代に比べると、当世の若い人たちは確かに恵まれていると思う。わたしは明治五年の生まれで、十七、八歳すなわち明治二十一、二年頃から、三十歳前後すなわち明治三十四、五年頃までが、最も多くの書を読んだ時代であったが、その頃にはもちろん廉価版などというものは無い。第一に古書の翻刻が甚だ少ない。
 したがって、古書を読もうとするには江戸時代の原本を尋《たず》ねなければならない。
 その原本は少ない上に、価《あたい》も廉《やす》くない。わたしは神田の三久(三河屋久兵衛《みかわやきゅうべえ》)という古本屋へしばしばひやかしに行ったが、貧乏書生の悲しさ、読みたい本を見付けても容易に買うことが出来ないのであった。金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。
 私にかぎらず、原本は容易に獲《え》られず、その価もまた廉くない関係から、その時代には書物の借覧ということが行なわれた。蔵書家に就いてその蔵書を借り出して来るのである。ところが、蔵書家には門外不出を標榜《ひょうぼう》している人が多く、自宅へ来て読むというならば読ませてやるが、貸出しはいっさい断わるというのである。そうなると、その家を訪問して読ませて貰うのほかは無い。
 日曜日のほかに余暇のないわたしは、それからそれへと紹介を求めて諸家を訪問することになったが、それが随分難儀な仕事であった。由来、蔵書家というような人たちは、東京のまん中に余り多く住んでいない。大抵は場末の不便なところに住んでいる。電車の便などのない時代に、本郷小石川や本所深川辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を費《ついや》してしまうので、肝腎の読書の時間が案外に少ないことになるにはすこぶる困った。
 なにしろ馴染《なじ》みの浅い家へ行って、悠々と坐り込んで書物を読んでいるのは心苦しいことである。蔵書家と云っても、広い家に住んでいるとは限らないから、時には玄関の二畳ぐらいの処に坐って読まされる。時にはまた、立派な座敷へ通されて恐縮することもある。腰弁当で出かけても、碌々《ろくろく》に茶も飲ませてくれない家がある。そうかと思うと、茶や菓子を出して、おまけに鰻飯などを食わせてくれる家がある。その待遇は千差万別で、冷遇はいささか不平であるが、優待もあまりに気の毒でたびたび出かけるのを遠慮するようにもなる。冷遇も困るが、優待も困る。そこの加減がどうもむずかしいのであった。
 そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書家をたずねる必要が生ずるので、わたしは前に云うような冷遇と優待を受けながら、根《こん》よく方々をたずね廻った。ただ読んでいるばかりでは済まない。時には抜書きをすることもある。万年筆などの無い時代であるから、矢立《やたて》と罫紙《けいし》を持参で出かける。そうした思い出のある抜書き類も、先年の震災でみな灰となってしまった。
 そういう時代に、博文館から日本文字全書、温知《おんち》叢書、帝国文庫などの翻刻物を出してくれたのは、われわれに取って一種の福音《ふくいん》であった。勿論、ありふれた物ばかりで、別に珍奇の書は見いだされなかったが、それらの書物を自分の座右に備え付けて置かれるというだけでも、確かに有難いことであった。
 その後、古書の翻刻も続々行なわれ、わたしの懐ろにも幾分の余裕が出来て、買いたい本はどうにか買えるようにもなったが、その昔の読書の苦しみは身にしみて覚えている。わたしはその経験があるだけに、書物の装幀《そうてい》などには余り重きを置かない。なんでも廉く買えて、それを自分の手もとに置くことの出来るのを第一義としている。
 前にもいう通り、わたしが矢立と罫紙を持って、風雨を冒して郊外の蔵書家を訪問して、一生懸命に筆写して来た書物が、今日《こんにち》では何々文庫として二十銭か三十銭で容易に手に入れることが出来るのは、読書子に取って実に幸福であると云わなければならない。廉価版が善いの悪いのと贅沢をいうべきでは無い。
 博文館以外にも、その当時に古書を翻刻してくれた人々は、その目的が那辺《なへん》にあろうとも、われわれに取ってはみな忘れ難い恩人であった。その人々も今は大かた此の世にいないであろう。その書物も次第に堙滅《いんめつ》して、今は古本屋の店頭にもその形をとどめなくなった。私もその翻刻書類を随分蒐集していたが、それもみな震災の犠牲になってしまったのは残り惜しい。
 わたしは比較的に好運の人間で、これまでに余りひどい目に逢ったことも無かったが、震災のために、多年の日記、雑記帳、原稿のたぐいから蔵書一切を焼き失ったのは、一生一度の償《つぐな》い難き災禍であった。この恨みは綿々として尽きない。[#地付き](昭和8・3「書物展望」)
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回想・半七捕物帳


     捕物帳の成り立ち

 初めて「半七捕物帳」を書こうと思い付いたのは、大正五年の四月頃とおぼえています。その頃わたしはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを飛びとびに読んでいたが、全部を通読したことが無いので、丸善へ行ったついでに、シャーロック・ホームズのアドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて三冊を読み終えると、探偵物語に対する興味が油然《ゆうぜん》と湧《わ》き起って、自分もなにか探偵物語を書いてみようという気になったのです。勿論《もちろん》、その前にもヒュームなどの作も読んでいましたが、わたしを刺戟したのはやはりドイルの作です。
 しかしまだ直ぐには取りかかれないので、さらにドイルの作を獲《あさ》って、かのラスト・ギャリーや、グリーン・フラダや、爐畔《ろはん》物語や、それらの短篇集を片っ端から読み始めました。しかし一方に自分の仕事があって、その頃は時事新報の連載小説の準備もしなければならなかったので、読書もなかなか捗取《はかど》らず、最初からでは約ひと月を費《ついや》して、五月下旬にようやく以上の諸作を読み終りました。
 そこで、いざ書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものが無い。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新たに探偵を主としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語を書くと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞《おそ》れがあるので、いっそ純江戸式に書いたならば一種の変った味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引などの生活に就いても、ひと通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。
 その年の六月三日から、まず「お文《ふみ》の魂《たましい》」四十三枚をかき、それから「石燈籠」四十枚をかき、更に「勘平の死」四十一枚を書くと、八月から国民新聞の連載小説を引き受けなければならない事になりました。時事と国民、この二つの新聞小説を同時に書いているので、捕物帳はしばらく中止の形になっていると、そのころ文芸倶楽部の編集主任をしていた森|暁紅《ぎょうこう》君から何か連載物を寄稿しろという注文があったので、「半七捕物帳」という題名の下《もと》にまず前記の三種を提出し、それが大正六年の新年号から掲載され始めたので、引きつづいてその一月から「湯屋の二階」「お化《ばけ》師匠」「半鐘の怪」「奥女中」を書きつづけました。雑誌の上では新年号から七月号にわたって連載されたのです。
 そういうわけで、探偵物語の創作はこれが序開きであるので、自分ながら覚束ない手探りの形でしたが、どうやら人気になったと云うので、更に森君から続篇をかけと注文され、翌年の一月から六月にわたって又もや六回の捕物帳を書きました。その後も諸雑誌や新聞の注文をうけて、それからそれへと書きつづけたので、捕物帳も案外多量の物となって、今まで発表した物話は四十数篇あります。
 半七老人は実在の人か――それに就いてしばしば問い合せを受けます。勿論、多少のモデルが無いでもありませんが、大体に於いて架空の人物であると御承知ください。おれは半七を知っているとか、半七のせがれは歯医者であるとか、或いは時計屋であるとか、甚《はなは》だしいのはおれが半七であると自称している人もあるそうですが、それは恐らく、同名異人で、わたしの捕物帳の半七老人とは全然無関係であることを断わっておきます。
 前にも云った通り、捕物帳が初めて文芸倶楽部に掲載されたのは大正六年の一月で、今から振り返ると十年余りになります。その文芸倶楽部の誌上に思い出話を書くにつけて、今更のように月日の早いのに驚かされます。[#地付き](昭和2・8「文芸倶楽部」)

     半七招介状

 明治二十四年四月第二日曜日、若い新聞記者が浅草公園弁天山の惣菜《そうざい》(岡田)へ午飯《ひるめし》を食いにはいった。花盛りの日曜日であるから、混雑は云うまでも無い。客と客とが押し合うほどに混み合っていた。
 その記者の隣りに膳をならべているのは、六十前後の、見るから元気のよい老人であった。なにしろ客が立て込んでいるので、女中が時どきにお待遠《まちどお》さまの挨拶をして行くだけで、注文の料理はなかなか運ばれて来《こ》ない。記者は酒を飲まない。隣りの老人は一本の徳利《とくり》を前に置いているが、これも深くは飲まないとみえて、退屈しのぎに猪口《ちょこ》をなめている形である。
 花どきであるから他のお客様はみな景気がいい。酔っている男、笑っている女、賑やかを通り越して騒々《そうぞう》しい位であるが、そのなかで酒も飲まず、しかも独りぼっちの若い記者は唯ぼんやりと坐っているのである。隣りの老人にも連れはない。注文の料理を待っているあいだに、老人は記者に話しかけた。
「どうも賑やかですね。」
「賑やかです。きょうは日曜で天気もよし、花も盛りですから。」と、記者は答えた。
「あなたは酒を飲みませんか。」
「飲みません。」
「わたくしも若いときには少し飲みましたが、年を取っては一向《いっこう》いけません。この徳利《とっくり》も退屈しのぎに列《なら》べてあるだけで……。」
「ふだんはともあれ、花見の時に下戸《げこ》はいけませんね。」
「そうかも知れません。」と、老人は笑った。
「だが、芝居でも御覧なさい。花見の場で酔っ払っているような奴は、大抵お腰元なんぞに嫌われる敵役《かたきやく》で、白塗りの色男はみんな素面《しらふ》ですよ。あなたなんぞも二枚目だから、顔を赤くしていないんでしょう。あははははは。」
 こんなことから話はほぐれて、隣り同士が心安くなった。老人がむかしの浅草の話などを始めた。老人は痩《や》せぎすの中背《ちゅうぜい》で、小粋な風采といい、流暢な江戸弁といい、紛《まぎ》れもない下町の人種である。その頃には、こういう老人がしばしば見受けられた。
「お住居は下町ですか。」と、記者は訊《き》いた。
「いえ、新宿の先で……。以前は神田に住んでいましたが、十四五年前から山の手の場末へ引っ込んでしまいまして……。馬子唄で幕を明けるようになっちゃあ、江戸っ子も型なしです。」と、老人はまた笑った。
 だんだん話しているうちに、この老人は文政《ぶんせい》六年|未年《ひつじどし》の生まれで、ことし六十九歳であるというのを知って、記者はその若いのに驚かされた。
「いえ、若くもありませんよ。」と、老人は云った。「なにしろ若い時分から体《からだ》に無理をしているので、年を取るとがっくり弱ります。もう意気地はありません。でも、まあ仕合せに、口と足だけは達者で、杖も突かずに山の手から観音さままで御参詣に出て来られます。などと云うと、観音さまの罰《ばち》が中《あた》る。御参詣は附けたりで、実はわたくしもお花見の方ですからね。」
 話しながら飯を食って、ふたりは一緒にここを出ると、老人はうららかな空をみあげた。
「ああ、いい天気だ。こんな花見|日和《びより》は珍らしい。わたくしはこれから向島《むこうじま》へ廻ろうと思うのですが、御迷惑でなければ一緒にお出でになりませんか。たまには年寄りのお附合いもするものですよ。」
「はあ、お供しましょう。」
 二人は吾妻橋《あづまばし》を渡って向島へゆくと、ここもおびただしい人出である。その混雑をくぐって、二人は話しながら歩いた。自分はたんとも食わないのであるが、若い道連れに奢《おご》ってくれる積りらしく、老人は言問団子《ことといだんご》に休んで茶を飲んだ。この老人はまったく足が達者で、記者はとうとう梅若《うめわか》まで連れて行かれた。
「どうです、くたびれましたか。年寄りのお供は余計にくたびれるもので、わたしも若いときに覚えがありますよ。」
 長い堤《つつみ》を引返して、二人は元の浅草へ出ると、老人は辞退する道連れを誘って、奴《やっこ》うなぎの二階へあがった。蒲焼で夕飯を食ってここを出ると、広小路の春の灯は薄い靄《もや》のなかに沈んでいた。
「さあ、入相《いりあい》がボーンと来る。これからがあなたがたの世界でしょう。年寄りはここでお別れ申します。」
「いいえ、わたしも真直《まっす》ぐに帰ります。」
 老人の家は新宿のはずれである。記者の家も麹町である。同じ方角へ帰る二人は、門跡前《もんぜきまえ》から相乗りの人力車に乗った。車の上でも話しながら帰って、記者は半蔵門のあたりで老人に別れた。
 言問では団子の馳走になり、奴では鰻の馳走になり、帰りの車代も老人に払わせたのであるから、若い記者はそのままでは済まされないと思って、次の日曜に心ばかりの手みやげを持って老人をたずねた。その家のありかは、新宿といってもやがて淀橋に近いところで、その頃はまったくの田舎であった。先日聞いておいた番地をたよりに、尋ねたずねて行き着くと、庭は相当に広いが、四間《よま》ばかりの小さな家に、老人は老婢《ばあや》と二人で閑静に暮らしているのであった。
「やあ、よくおいでなすった。こんな処は堀の内のお祖師《そし》さまへでも行く時のほかは、あんまり用のない所で……。」と、老人は喜んで記者を迎えてくれた。
 それが縁となって、記者はしばしばこの老人の家を尋ねることになった。老人は若い記者にむかって、いろいろのむかし話を語った。老人は江戸以来、神田に久しく住んでいたが、女房に死に別れてからここに引込んだのであるという。養子が横浜で売込商のようなことをやっているので、その仕送りで気楽に暮らしているらしい。江戸時代には建具屋を商売にしていたと、自分では説明していたが、その過去に就いては多く語らなかった。
 老人の友達のうちに町奉行所の捕方《とりかた》すなわち岡っ引の一人があったので、それからいろいろの捕物の話を聞かされたと云うのである。
「これは受け売りですよ。」
 こう断わって、老人は「半七捕物帳」の材料を幾つも話して聞かせた。若い記者はいちいちそれを手帳に書き留めた。――ここまで語れば大抵判るであろうが、その記者はわたしである。但し、老人の本名は半七ではない。
 老人の話が果たして受け売りか、あるいは他人に托して自己を語っているのか、おそらく後者であるらしく想像されたが、彼はあくまでも受け売りを主張していた。老人は八十二歳の長命で、明治三十七年の秋に世を去った。その当時、わたしは日露戦争の従軍新聞記者として満洲に出征していたので、帰京の後にその訃《ふ》を知ったのは残念であった。
「半七捕物帳」の半七老人は実在の人物であるか無いかという質問に、わたしはしばしば出逢うのであるが、有るとも無いとも判然《はっきり》と答え得ないのは右の事情に因るのである。前にも云う通り、かの老人の話が果たして受け売りであれば、半七のモデルは他にある筈である。もし彼が本人であるならば、半七は実在の人物であるとも云い得る。いずれにしても、わたしはかの老人をモデルにして半七を書いている。住所その他は私の都合で勝手に変更した。
 但し「捕物帳」のストーリー全部が、かの老人の口から語られたのではない。他の人々から聞かされた話もまじっている。その話し手をいちいち紹介してはいられないから、ここでは半七のモデルとなった老人を紹介するにとどめて置く。[#地付き](昭和11・8「サンデー毎日」)
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歯なしの話


 七月四日、アメリカ合衆国の独立記念日、それとは何の関係もなしに、左の上の奥歯二枚が俄かに痛み出した。歯の悪いのは年来のことであるが、今度もかなりに痛む。おまけに六日は三十四度という大暑、それやこれやに悩まされて、ひどく弱った。
 九日は帝国芸術院会員が初度の顔合せというので、私も文相からの案内を受けて、一旦は出席の返事を出しておきながら、更にそれを取消して、当夜はついに失礼することになった。歯はいよいよ痛んで、ゆるぎ出して、十一日には二枚ながら抜けてしまった。
 わたしの母は歯が丈夫で、七十七歳で世を終るまで一枚も欠損せず、硬い煎餅でも何でもバリバリと齧《かじ》った。それと反対に、父は歯が悪かった。ややもすれば歯痛に苦しめられて、上下に幾枚の義歯を嵌《は》め込んでいた。その義歯は柘植《つげ》の木で作られていたように記憶している。私は父の系統をひいて、子供の時から齲歯《むしば》の患者であった。
 思えば六十余年の間、私はむし歯のために如何ばかり苦しめられたかわからない。むし歯は自然に抜けたのもあり、医師の手によって抜かれたのもあり、年々に脱落して、現在あます所は上歯二枚と下歯六枚、他はことごとく入歯である。その上歯二枚が一度に抜けたのであるから、上頤《うわあご》は完全に歯なしとなって、総入歯のほかはない。
 世に総入歯の人はいくらもある。現にわたしの親戚知人のうちにも幾人かを見いだすのであるが、たとい一枚でも二枚でも自分の生歯があって、それに義歯を取付けているうちは、いささか気丈夫であるが、それがことごとく失われたとなると、一種の寂寥《せきりょう》を覚えずにはいられない。大きくいえば、部下全滅の将軍と同様の感がある。
 馬琴《ばきん》も歯が悪かった。「里見八犬伝」の終りに記されたのによると、「逆上《のぼぜ》口痛の患ひ起りしより、年五十に至りては、歯はみな年々にぬけて一枚もあらずなりぬ」とある。馬琴はその原因を読書執筆の過労に帰しているが、単に過労のためばかりでなく、生来が歯質の弱い人であったものと察せられる。五十にして総入歯になった江戸時代の文豪にくらべれば、私などはまだ仕合せの方であるかも知れないと、心ひそかに慰めるのほかはない。殊に江戸時代と違って、歯科の技術も大いに進歩している今日に生まれ合せたのは、更に仕合せであると思わなければならない。それにしても、前にいう通り、一種の寂寥の感は消えない。
 私をさんざん苦しめた後に、だんだんに私を見捨てて行く上歯と下歯の数《かず》かず、その脱落の歴史については、また数かずの思い出がある。それをいちいち語ってもいられず、聞いてくれる人もあるまいが、そのなかで最も深く私の記憶に残っているのは、奥歯の上一枚と下一枚の抜け落ちた時である。いずれも右であった。
 北支事変の風雲急なる折柄、殊にその記憶がまざまざと甦《よみがえ》って来るのである。
 明治三十七年、日露戦争の当時、わたしは従軍新聞記者として満洲の戦地へ派遣されていた。遼陽陥落の後、私たちの一行六人は北門外の大紙房《ターシーファン》という村に移って、劉という家の一室に止宿していたが、一室といっても別棟の広い建物で、満洲普通の農家ではあるが、比較的清浄に出来ているので、私たちは喜んでそこにひと月ほどを送った。
 先年の震災で当時の陣中日記を焼失してしまったので、正確にその日を云い得ないが、なんでも九月二十日前後とおぼえている。四十歳ぐらいの主人がにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながらはいって来て、今夜は中秋《ちゅうしゅう》であるから皆さんを招待したいという。私たちは勿論承知して、今夜の宴に招かれることになった。
 山中ばかりでなく、陣中にも暦日《れきじつ》がない。まして陰暦の中秋などは我々の関知する所でなかったが、二、三日前から宿の雇人らが遼陽城内へしばしば買物に出てゆく。それが中秋の月を祭る用意であることを知って、もう十五夜が来るのかと私たちも初めて気がついた。それがいよいよ今夜となって、私たちはその御馳走に呼ばれたのである。ここの家は家族五人のほかに雇人六人も使っていて、まず相当の農家であるらしいので、今夜は定めて御馳走があるだろうなどと、私たちはすこぶる嬉しがって、日の暮れるのを持ち構えていた。
 きょうは朝から快晴で、満洲の空は高く澄んでいる。まことに申し分のない中秋である。午後六時を過ぎた頃に、明月が東の空に大きく昇った。ここらの月は銀色でなく、銅色である。それは大陸の空気が澄んでいるためであると説明する人もあったが、うそか本当か判らない。いずれにしても、銀盤とか玉盤とか形容するよりも、銅盤とか銅鏡とかいう方が当っているらしい。それが高く闊《ひろ》い碧空に大きく輝いているのである。
 この家の主人夫婦、男の児、女の児、主人の弟、そのほかに幾人の雇人らが袖をつらねて門前に出た。彼らは形を正して、その月を拝していた。それから私たちを母屋《おもや》へ招じ入れて、中秋の宴を開くことになったが、案の如くに種々の御馳走が出た。豚、羊、鶏、魚、野菜のたぐい、あわせて十種ほどの鉢や皿が順々に運び出されて、私たちは大いに満腹した。そうしてお世辞半分に「好々的《ホーホーデー》」などと叫んだ。
 宴会は八時半頃に終って、私たちは愉快にこの席を辞して去った。中には酩酊して、自分たちの室《へや》へ帰ると直ぐに高鼾《たかいびき》で寝てしまった者もあった。あるいは満腹だから少し散歩して来るという者もあった。私も容易に眠られなかった。それは満腹のためばかりでなく、右の奥の下歯が俄かに痛み出したのである。久し振りで種々の御馳走にあずかって、いわゆる餓虎《がこ》の肉を争うが如く、遠慮もお辞儀もなしに貪《むさぼ》り食らった祟《たた》りが忽ちにあらわれ来たったものと知られたが、軍医部は少し離れているので、薬をもらいに行くことも出来ない。持ち合せの宝丹を塗ったぐらいでは間に合わない。私はアンペラの敷物の上にころがって苦しんだ。
 歯はいよいよ痛む。いっそ夜風に吹かれたらよいかも知れないと思って、私はよほど腫《は》れて来たらしい右の頬をおさえながら、どこを的《あて》ともなしに門外まで迷い出ると、月の色はますますあかるく、門前の小川の水はきらきらと輝いて、堤の柳の葉は霜をおびたように白く光っていた。
 わたしは夜なかまでそこらを歩きまわって、二度も歩哨の兵士にとがめられた。宿へ帰って、午前三時頃から疲れて眠って、あくる朝の六時頃、洗面器を裏手の畑へ持ち出して、寝足らない顔を洗っていると、昨夜来わたしを苦しめていた下歯一枚がぽろり[#「ぽろり」に傍点]と抜け落ちた。私は直ぐにそれをつまんで白菜《パイサイ》の畑のなかに投げ込んだ。そうして、ほっ[#「ほっ」に傍点]としたように見あげると、今朝の空も紺青《こんじょう》に高く晴れていた。

 もう一つの思い出は、右の奥の上歯一枚である。
 大正八年八月、わたしが欧洲から帰航の途中、三日ばかりは例のモンスーンに悩まされて、かなり難儀の航海をつづけた後、風雨もすっかり収まって、明日はインドのコロンボに着くという日の午後である。
 私はモンスーン以来痛みつづけていた右の奥歯のことを忘れたように、熱海丸の甲板を愉快に歩いていた。船医の治療を受けて、きょうの午《ひる》頃から歯の痛みも全く去ったからである。食堂の午飯《ひるめし》も今日は旨く食べられた。暑いのは印度洋であるから仕方がない。それでも空は青々と晴れて、海の風がそよそよ[#「そよそよ」に傍点]と吹いて来る。暑さにゆだって昼寝でもしているのか、甲板に散歩の人影も多くない。
 モンスーンが去ったのと歯の痛みが去ったのと、あしたはインドへ着くという楽しみとで、私は何か大きい声で歌いたいような心持で、甲板をしばらく横行闊歩していると、偶然に右の奥の上歯が揺らぐように感じた。今朝まで痛みつづけた歯である。指でつまんで軽く揺すってみると、案外に安々と抜けた。
 なぜか知らないが、その時の私はひどく感傷的になった。何十年の間、甘い物も食った。まずい物も食った。八百善の料理も食った。家台店のおでんも食った。そのいろいろの思い出がこの歯一枚をめぐって、廻り燈籠のように私の頭のなかに閃《ひらめ》いて通った。
 私はその歯を把《と》って海へ投げ込んだ時、あたかも二|尾《ひき》の大きい鱶《ふか》が蒼黒い背をあらわして、船を追うように近づいて来た。私の歯はこの魚腹に葬られるかと見ていると、鱶はこんな物を呑むべく余りに大きい口をあいて、厨《くりや》から投げあたえる食い残りの魚肉を猟《あさ》っていた。私の歯はそのまま千尋《ちひろ》の底へ沈んで行ったらしい。わたしはまだ暮れ切らない大洋の浪のうねりを眺めながら、暫くそこに立ち尽くしていた。
 前の下歯と後の上歯と、いずれもそれが異郷の出来事であった為に、記憶に深く刻まれているのであろうが、こういう思い出はとかくにさびしい。残る下歯六枚については、余り多くの思い出を作りたくないものである。[#地付き](昭和12・7「報知新聞」)
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我が家の園芸


 上目黒へ移ってから三年目の夏が来るので、彼岸《ひがん》過ぎから花壇の種蒔《たねま》きをはじめた。旧市外であるだけに、草花類の生育は悪くない。種をまいて相当の肥料をあたえて置けば、まず普通の花は咲くので、われわれのような素人でも苦労はないわけである。
 そこで、毎年欲張って二十種ないし三十種の種をまいて、庭一面を藪《やぶ》のようにしているのであるが、それでは藪蚊の棲み家を作るおそれがあるので、今年はあまり多くを蒔かないことにした。それでも糸瓜《へちま》と百日草だけは必ず栽えようと思っている。
 わたしは昔の人間であるせいか、西洋種の草花はあまり好まない。チューリップ、カンナ、ダリアのたぐいも多少は栽えるが、それに広い地面を分譲しようとは思わない。日本の草花でも優しげな、なよなよ[#「なよなよ」に傍点]したものは面白くない。桔梗《ききょう》や女郎花《おみなえし》のたぐいは余り愛らしくない。わたしの最も愛するのは、糸瓜と百日草と薄《すすき》、それに次いでは日まわりと鶏頭《けいとう》である。
 こう列べたら、大抵の園芸家は大きな声で笑い出すであろう。岡本綺堂という奴はよくよくの素人で、とてもお話にはならないと相場を決められてしまうに相違ない。わたしもそれは万々《ばんばん》承知しているが、心にもない嘘をつくわけには行かないから、正直に告白するのである。まあ、笑わないで聴いて貰いたい。
 まず第一には糸瓜である。私はむかしから糸瓜をおもしろいものとして眺めていたが、自分の庭に栽えるようになったのは十年以来のことで、震災以後、大久保百人町に仮住居《かりずまい》をしている当時、庭のあき地を利用して、唐蜀黍《とうもろこし》の畑を作り、糸瓜の棚を作った。その棚はわたし自身が書生を相手にこしらえたもので、素人の作った棚が無事に保《も》つかといささか不安を感じていたところが、棚はその秋の強い風雨にも恙《つつが》なく、糸瓜の蔓も葉も思うさま伸びて拡がって、大きい実が十五、六もぶらりと下がったので、私たちは子供のように手をたたいて嬉しがった。
 その翌年の夏、銀座の天金の主人から、暑中見舞いとして式亭三馬《しきていさんば》自画讃の大色紙の複製を貰った。それは糸瓜でなく、夕顔の棚の下に農家の夫婦が涼んでいる図で、いわゆる夕顔棚の下涼みであろう。それに三馬自筆の狂歌が書き添えてある。
[#ここから3字下げ]
なりひさご、なりにかまはず、すゞむべい
        風のふくべの木蔭たづねて
[#ここで字下げ終わり]
 これを見て、わたしは再び糸瓜の棚が恋しくなったが、その頃はもう麹町の旧宅地へ戻っていたので、市内の庭には糸瓜を栽えるほどの余地をあたえられなかった。そのまま幾年を送るうちに、一昨年から上目黒へ移り住むことになったので、今度は本職の植木屋に頼んで相当の棚を作らせると、果たして其の年の成績はよかった。昨年の出来もよかった。
 わたしの家ばかりでなく、ここらには同好の人々が多いとみえて、所々に糸瓜を栽えている。棚を作っているのもあり、あるいは大木にからませているのもあり、軒から家根へ這わせているのもあるから、皆それぞれにおもしろい。由来、糸瓜というものはぶらり[#「ぶらり」に傍点]と下がっている姿が、なんとなく間が抜けて見えるので、とかくに軽蔑される傾きがあって、人を罵る場合にも「へちま[#「へちま」に傍点]野郎」などと云うが、そのぶらり[#「ぶらり」に傍点]としたところに一種の俳味があり、一種の野趣があることを知らなければならない。その実ばかりでなく、大きい葉にも、黄いろい花にも野趣|横溢《おういつ》、静かにそれを眺めていると、まったく都会の塵《ちり》の浮世を忘れるの感がある。糸瓜を軽蔑する人々こそ却って俗人ではあるまいかと思う。
 次は百日草で、これも野趣に富むがために、一部の人々からは安っぽく見られ易いものである。梅雨のあける頃から花をつけて、十一月の末まで咲きつづけるのであるから、実に百日以上である上に、紅、黄、白などの花が続々と咲き出すのは、なんとなく爽快の感がある。元来が強い草であるから、蒔きさえすれば生える、生えれば伸びる、伸びれば咲く。花壇などには及ばない、垣根の隅でも裏手の空地でも簇々《そうそう》として発生する。あまりに強く、あまりに多いために、ややもすれば軽蔑され勝ちの運命にあることは、かの鳳仙花《ほうせんか》などと同様であるが、わたしは彼を愛すること甚だ深い。
 炎天の日盛りに、彼を見るのもいいが、秋の露がようやく繁く、こおろぎの声がいよいよ多くなる時、花もますますその色を増して、明るい日光の下《もと》に咲き誇っているのは、いかにも鮮《あざや》かである。しょせんは野人の籬落《まがき》に見るべき花で、富貴の庭に見るべきものではあるまいが、われわれの荒庭には欠くべからざる草花の一種である。
 その次は薄《すすき》で、これには幾多の種類があるが、普通に見られるのは糸すすき、縞すすき、鷹の羽すすきに過ぎない。しかも私の最も愛好するのは、そこらに野生の薄である。これは宿根《しゅっこん》の多年草であるが、もとより種まきの世話もなく、年々歳々生い茂って行くばかりである。野生のすすきは到るところに繁茂しているので、ひと口にカヤと呼ばれてほとんど園芸家には顧みられず、人家の庭に栽えるものでは無いとさえも云われているが、絵画や俳句ではなかなか重要の題材と見なされている。

  十郎の簑《みの》にや編まん青薄

 これは角田竹冷《すみたちくれい》翁の句であるが、まったく初夏の青すすきには優しい風情がある。それが夏を過ぎ、秋に入ると、ほとんど傍若無人ともいうべき勢いで生い拡がってゆく有様、これも一種の爽快を感ぜずにはいられない。殊に尾花がようやく開いて、朝風の前になびき、夕月の下《もと》にみだれている姿は、あらゆる草花のうちで他にたぐいなき眺めである。
 すすきは夏もよし、秋もよいが、冬の霜を帯びた枯れすすきも、十分の画趣と詩趣をそなえている。枯れかかると直ぐに刈り取って風呂の下に投げ込むような徒《やから》は倶《とも》に語るに足らない。しかも商売人の植木屋とて油断はならない。現に去年の冬の初めにも、池のほとりの枯れすすきを危うく刈り取られようとするのを発見して、わたしがあわてて制止したことがある。彼らもこの愛すべき薄を無名の雑草なみに取扱っているらしい。
 市内の狭い庭園は薄を栽えるに適しないので、わたしは箱根や湯河原《ゆがわら》などから持ち来たって移植したが、いずれも年々に痩せて行くばかりであった。上目黒に移ってから、近所の山や草原や川端をあさって、野生の大きい幾株を引き抜いて来た。誰も知っていることであろうが、薄の根を掘るのはなかなかの骨折り仕事で、書生もわたしもがっかりしたが、それでもどうにか引き摺って来て、池のほとり、垣根の隅、到るところに栽え込むと、ここらはさすがに旧郊外だけに、その生長はめざましく、あるものは七、八尺の高きに達して、それが白馬の尾髪をふり乱したような尾花をなびかせている姿は、わが家の庭に武蔵野の秋を見る心地《ここち》である。あるものは小さい池の岸を掩って、水に浮かぶ鯉《こい》の影をかくしている。あるものは四つ目垣に乗りかかって、その下草を圧している。生きる力のこれほどに強大なのを眺めていると、自分までがおのずと心強いようにも感じられて来るではないか。
 すすきに次いで雄姿堂々たる草花は、鶏頭《けいとう》と向日葵《ひまわり》である。いずれも野生的であり、男性的であること云うまでも無い。ひまわりも震災直後はバラックの周囲に多く栽えられて一種の壮観を呈していたが、区画整理のおいおい進捗《しんちょく》すると共に、その姿を東京市内から消してしまって、わずかに場末の破《や》れた垣根のあたりに、二、三本ぐらいずつ栽え残されているに過ぎなくなった。しかも盛夏の赫々《かっかく》たる烈日のもとに、他の草花の凋《しお》れ返っているのをよそに見て、悠然とその大きい花輪をひろげているのを眺めると、暑い暑いなどと弱ってはいられないような気がする。
 鶏頭も美しいものである。これにも種々あるらしいが、やはり普通の深紅《しんく》色がよい。オレンジ色も美しい。これも初霜の洗礼を受けて、その濃い色を秋の日にかがやかしながら、見あぐるばかりに枝や葉を高く大きくひろげた姿は、まさに目ざましいと礼讃《らいさん》するほかは無い。わたしの庭ばかりでなく、近所の籬《まがき》には皆これを栽えているので、秋日散歩の節には諸方の庭をのぞいて歩く。それが私の一つの楽しみである。葉鶏頭は鶏頭に比してやや雄大のおもむきを欠くが、天然の錦を染め出した葉の色の美しさは、なんとも譬《たと》えようがない。しかも私の庭の葉鶏頭は、どういうわけか年々の成績がよろしくない。他からいい種を貰って来ても、余り立派な生長を遂げない。私はこれのみを遺憾《いかん》に思っている。
 わたしの庭の草花は勿論これにとどまらないが、わたしの最も愛するものは以上の数種で、いずれも花壇に栽えられているものでは無い。それにつけても、考えられるのは自然の心である。自然は人の労力を費すこと少なく、物資を費すこと少なきものを択《えら》んで、最も面白く、最も美しく作っている。それは人間にあたえられる自然の恩恵である。人間はその恩恵にそむいて、無用の労力を費し、無用の時間を費し、無用の金銭を費して、他の変り種のような草花の栽培にうき身をやつしているのである。そうして、自然の恩恵を無条件に受け入れて楽しむものを、あるいは素人と云い、あるいは俗物と嘲《あざけ》っているのである。こう云うのはあながちに私の負け惜しみではあるまい。[#地付き](昭10・3「サンデー毎日」)
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最後の随筆


     目黒の寺

 住み馴れた麹町を去って、目黒に移住してから足かけ六年になる。そのあいだに「目黒町誌」をたよりにして、区内の旧蹟や名所などを尋ね廻っているが、目黒もなかなか広い。殊に新市域に編入されてからは、碑衾町《ひぶすまちょう》をも包含することになったので、私のような出不精の者には容易に廻り切れない。
 ほかの土地はともあれ、せめて自分の居住する区内の地理だけでもひと通りは心得て置くべきであると思いながら、いまだに果たし得ないのは甚だお恥かしい次第である。その罪ほろぼしと云うわけでもないが、目黒の寺々について少しばかり思い付いたことを書いてみる。

 目黒には有名な寺が多い。まず第一には目黒不動として知られている下目黒の瀧泉寺、祐天上人開山として知られている中目黒の祐天《ゆうてん》寺、政岡の墓の所在地として知られている上目黒の正覚寺などを始めとして、大小十六の寺院がある。私はまだその半分ぐらいしか尋《たず》ねていないので、詳しいことを語るわけには行かないが、いずれも由緒の古い寺々で、旧市内の寺院とはおのずから其の趣を異にし、雑沓《ざっとう》を嫌う私たちにはよい散歩区域である。ただ、どこの寺でも鐘を撞《つ》かないのがさびしい。

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目黒には寺々あれど鐘鳴らず
   鐘は鳴らねど秋の日暮るる
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 前にいった瀧泉寺門前の料理屋|角伊勢《かどいせ》の庭内に、例の権八《ごんぱち》小紫《こむらさき》の比翼塚《ひよくづか》が残っていることは、江戸以来あまりにも有名である。近頃はここに花柳界も新しく開けたので、比翼塚に線香を供える者がますます多くなったらしい。さびしい目黒村の古塚の下に、久しく眠っていた恋人らの魂も、このごろの新市内の繁昌には少しく驚かされているかも知れない。
 正覚寺にある政岡の墓地には、比翼塚ほどの参詣人を見ないようであるが、近年その寺内に裲襠《うちかけ》姿の大きい銅像が建立《こんりゅう》されて、人の注意を惹くようになった。云うまでもなく、政岡というのは芝居の仮名《かめい》で、本名は三沢初子である。初子の墓は仙台にもあるが、ここが本当の墳墓であるという。いずれにしても、小紫といい、政岡といい、芝居で有名の女たちの墓地が、さのみ遠からざる所に列んでいるのも、私にはなつかしく思われた。

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草青み目黒は政岡小むらさき
   芝居の女のおくつき所
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 寺を語れば、行人坂《ぎょうにんざか》の大円寺をも語らなければならない。行人坂は下目黒にあって、寛永《かんえい》の頃、ここに湯殿山《ゆどのさん》行人派の寺が開かれた為に、坂の名を行人と呼ぶことになったという。そんな考証はしばらく措《お》いて、目黒行人坂の名が江戸人にあまねく知られるようになったのは、明和《めいわ》年間の大火、いわゆる行人坂の火事以来である。
 行人坂の大円寺に、通称|長五郎《ちょうごろう》坊主という悪僧があった。彼は放蕩破戒《ほうとうはかい》のために、住職や檀家に憎まれたのを恨んで、明和九年二月二十八日の正午頃、わが住む寺に放火した。折りから西南の風が強かったので、その火は白金《しろかね》、麻布《あざぶ》方面から江戸へ燃えひろがり、下町全部と丸《まる》の内《うち》を焼いた。江戸開府以来の大火は、明暦《めいれき》の振袖火事と明和の行人坂火事で、相撲《すもう》でいえば両横綱の格であるから、行人坂の名が江戸人の頭脳に深く刻み込まれたのも無理はなかった。
 そういう歴史も現代の東京人に忘れられて、坂の名のみが昔ながらに残っている。

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かぐつちは目黒の寺に祟《たた》りして
   長五郎坊主江戸を焼きけり
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 瀧泉寺には比翼塚以外に有名の墓があるが、これは比較的に知られていない。遊女の艶話《つやばなし》は一般に喧伝《けんでん》され易く、学者の功績はとかく忘却され易いのも、世の習いであろう。それはいわゆる甘藷《かんしょ》先生の青木昆陽《あおきこんよう》の墓である。もっとも、境内の丘上と丘下に二つの碑が建てられていて、その一は明治三十五年中に、芝・麻布・赤坂三区内の焼芋商らが建立したもの、他は明治四十四年中に、都下の名士、学者、甘藷商らによって建立されたものである。
 こういうわけで、甘藷先生が薩摩芋移植の功労者であることは、学者や一部の人々のあいだには長く記憶されているが、一般の人はなんにも知らず、不動参詣の女たちも全く無頓着で通り過ぎてしまうのは、残念であると云わなければなるまい。

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芋食ひの美少女《うましおとめ》ら知るや如何《いか》に
   目黒に甘藷先生の墓
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[#地付き](昭和13・10「短歌研究」)

     燈籠流し

 病後静養のために箱根に転地、強羅《ごうら》の一福《いちふく》旅館に滞在。七月下旬のある日、散歩ながら強羅停車場へ出てゆくと三十一日午後七時から蘆《あし》の湖《こ》で燈籠《とうろう》流しを催すという掲示があって、雨天順延と註されていた。
 けさの諸新聞の神奈川《かながわ》版にも同様の記事が掲げられていたのを、私は思い出した。宿へ帰って訊《き》いてみると、蘆の湖の燈籠流しは年々の行事で、八月一日は箱根神社の大祭、その宵宮《よみや》に催されるものであるという。
 さらに案内記を調べると、今より一千一百余年前の天平勝宝《てんぴょうしょうほう》年間に満巻上人という高僧が箱根権現の社《やしろ》に留《とど》まっていた。湖水の西の淵《ふち》には九つの頭を有する悪龍が棲んでいて、土地の少女を其の生贄《いけにえ》として取り啖《くら》っていたが、満巻上人の神呪《しんじゅ》によってさすがの悪龍も永く蟄伏《ちっぷく》し、少女の生贄に代えて赤飯《せきはん》を供えることになった。それが一種の神事となって今も廃《すた》れず、大祭当日には赤飯を入れた白木の唐櫃《からびつ》を舟にのせて湖心に漕ぎ出で、神官が祝詞《のりと》を唱えてそれを水中に沈めるのを例とし、その前夜に燈籠流しを行なうことは前に云った通りである。
 流燈の由来はそれで判った。ともかくも一度は見て置こうかと思っていると、三十日の夜に額田六福《ぬかだろっぷく》が熱海から廻って来た。額田も私の話を聴かされて、あしたの晩は一緒に行こうという。しかも三十一日の当日は朝のうちに俄雨、午後は曇天で霧が深い。元箱根までわざわざ登って行って、雨天順延では困ると、二人はすこしく躊躇していたが、恐らく雨にはなるまいと土地の人たちが云うのに励まされて、七時頃から二人は自動車に乗って出た。
 箱根遊船会社が拓《ひら》いたという専用道路をのぼって行くと、一路平坦、殊に先刻から懸念していた山霧は次第に晴れて、陰暦五日の月があらわれたので、まず安心とよろこんでいると、湖尻《うみじり》に着いた頃から燈籠の光がちらちら見えはじめた。元箱根に行き着くと、町はなかなか賑わっている。大祭を当込みの露店商人が両側に店をならべて、土地の人々と遊覧の人々の往来しげく、山の上とは思えないような雑沓である。昔も相当に繁昌したのではあろうが、所詮《しょせん》は蕭条《しょうじょう》たる山上の孤駅、その繁昌は今日の十分の一にも及ばなかったに相違ない。
 満巻上人のむかしは勿論、曾我五郎の箱王丸《はこおうまる》が箱根権現に勤めていたのも遠い昔であるから、それらの時代の回顧はしばらく措《お》いて近世の江戸時代になっても、箱根の関守《せきもり》たちはどの程度の繁昌をこの夜に見出したであろうか。第一に湖畔の居住者が少ない。遊覧客も少ない。今日では流燈の数およそ一千箇と称せられているが、その燈籠の光も昔はさびしいものであったろうと察せられる。
 往来ばかりでなく、湖畔の旅館はみな満員である。私たちは車を降りて、空《す》いていそうな旅館にはいると、ここもやはり満員、広い食堂に椅子をならべて見物席にあててあるが、飲みながら観る者、食いながら観るもの、隅から隅まで押合うような混雑で、芸妓らもまじって騒いでいる。東宝映画の一行もここに陣取って、しきりに撮影の最中であった。
 燈籠は五色で、たなばたの色紙のようなもので貼られてある。それが大きい湖水の上に星のごとく乱れているのであるから、いかにも一種の壮観と云い得る。燈籠を流す舟のほかに、囃子の舟もまじっていて、太鼓の音が水にひびいて遠く近くきこえる。またそのあいだを幾艘の大きい遊覧船が満艦飾というように燈籠をかけつらね遊覧客を乗せて漕ぎ廻っている。まずは両国《りょうごく》の川開きともいうべき、華やかな夜の光景である。
 満巻上人に祈り伏せられた悪龍は、その後ふたたび姿をみせないが、九頭龍《くずりゅう》明神と呼ばれて、今も蘆の湖の神と仰がれている。大祭の前夜に行なわれる燈籠流しも、この九頭龍明神を祭るが為であるという。湖水の底に棲む龍神は、今夜の繁昌をいかに眺めているであろうか。神も恐らく今昔の感に堪《た》えないであろう。
 燈籠流しは九時半ごろに終った。今まで湖上を照らしていた沢山《たくさん》の燈籠の火が一つ消え、二つ消えて、水は次第に暗くなった。舟の囃子もやんで、いつの間にか月も隠れた。見物の人々もおいおいに散って、岸の灯かげも薄くなった。私は云い知れない寂寥をおぼえて、闇の色の深くなり行く湖上を暫く眺めていた。
 夜ふけに強羅まで戻るのも億劫《おっくう》であるので、私たちはここに一泊、ほかの座敷にはほとんど徹夜で騒いでいる客もあった。夜があけると、昨夜の流燈はことごとく片付けられて、湖上には全くその影を見せなかった。誰が拾って来たのか、燈籠の一つが食堂のテーブルの上に置かれてあったので、私は手に取って眺めていると、拭《ぬぐ》ったような湖面は俄かに暗くなって、例の驟雨《しゅうう》がさっと降り出して来た。その雨のなかを何処《どこ》かで日ぐらしが啼いていた。[#地付き](昭和13・10「文藝春秋」)



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2004年1月11日修正
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