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半七捕物帳
地蔵は踊る
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)几董《きとう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小石川|茗荷谷《みょうがたに》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日+向」、第3水準1-85-25]
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     一

 ある時、半七老人をたずねると、老人は私に訊いた。
「あなたに伺ったら判るだろうと思うのですが、几董《きとう》という俳諧師はどんな人ですね」
 時は日清戦争後で、ホトトギス一派その他の新俳句勃興の時代であたから、わたしもいささかその心得はある。几董を訊かれて、わたしはすぐに答えた。彼は蕪村《ぶそん》の高弟で、三代目夜半亭を継いだ知名の俳人であると説明すると、老人はうなずいた。
「そうですか。実はこのあいだ或る所へ行きましたら、そこへ書画屋が来ていて、几董の短冊というのを見せていました。わたくしは俳諧の事なぞはぼんくらで、いっさい判らないのですが、その短冊の句だけは覚えています」
「なんという句でした」
「ええと……、誰《た》が願《がん》ぞ地蔵縛りし藤の花……。そんな句がありますかえ」
「あります。たしかに几董の句で、井華《せいか》集にも出ています。おもしろい句ですね」
「わたくしのような素人にも面白いと思われました」と、老人はほほえんだ。「縛られ地蔵を詠んだ句でしょうが、俳諧だから風流に藤の花と云ったので、藤蔓で縛るなぞはめったに無い。みんな荒縄で幾重にも厳重に引っくくるのだから、地蔵さまも遣り切れません。なにかの願掛けをするものは、その地蔵さまを縛って置いて、願が叶えば縄を解くというわけですから、繁昌する地蔵さまは年百年じゅう縛られていなければなりません。それが仏の利生方便《りしょうほうべん》、まことに有難いところだと申します」
「どの地蔵さまを縛ってもいいんですか」
「いや、そうは行かない。むやみに地蔵さまを縛ったりしては罰《ばち》があたる。縛られる地蔵さまは『縛られ地蔵』に限っているのです。縛られ地蔵は諸国にあるようですが、江戸にも二、三カ所ありました。中でも、世間に知られていたのは小石川|茗荷谷《みょうがたに》の林泉寺で、林泉寺、深光寺、良念寺、徳雲寺と四軒の寺々が門をならべて小高い丘の上にありましたが、その林泉寺の門の外に地蔵堂がある。それを茗荷谷の縛られ地蔵といって、江戸時代には随分信仰する者がありました。地蔵さまの尊像は高さ三尺ばかりで、三間四方ぐらいのお堂のなかに納まっていましたから、雨かぜに晒されるようなことは無かったのですが、荒縄で年中ぐいぐいと引っくくられるせいでしょう、石像も自然に摺れ損じて、江戸末期の頃には地蔵さまのお顔もはっきりとは拝めないくらいに磨滅していました。林泉寺には門前|町《ちょう》もあって、ここらではちょっと繁昌の所でしたが……」
 何事をか思い泛かべるように、半七老人は薄く眼を瞑《と》じた。それが老人の癖であると共に、なにかの追憶でもあることを私はよく知っていた。わたしは懐中の手帳をさぐり出して膝の上に置くと、その途端に老人は眼をあいた。
「あなたも気が早い。もう閻魔帳を取り出しましたな。あなたに出逢うと、こっちが縛られ地蔵になってしまいそうで。あはははは」
 地蔵縛りし藤の花――几董の句のおかげで、きょうも私は一つの話を聞き出した。
「そのお話というのは、まあ斯《こ》うです」と、老人は語り始めた。「林泉寺は茗荷谷ですが、それから遠くない第六天|町《ちょう》に高源寺という浄土の寺がありました。高源寺か高厳寺か、ちょっと忘れてしまいましたが、まあ高源寺としてお話を致しましょう。これも可なりの寺でしたが、この寺の門前にも縛られ地蔵というものが出現しました。林泉寺に比べると、ずっと新らしいもので、なんでも安政の大地震後に出来たものだそうです」
「そういう地蔵を新規に拵えたんですか」
「まあ、拵えたと云えば云うのですが……。高源寺の住職の夢に地蔵尊があらわれて、我れは寺内の墓地の隅にあって、土中に埋めらるること二百余年、今や結縁《けちえん》の時節到来して人間に出現することとなった。我れを縛って祈願するものは、諸願成就うたがい無からん。夜が明ければ、墓地の北の隅にある大銀杏の根を掘ってみよ、云々《うんぬん》というお告げがあったので、その翌朝すぐに掘ってみると、果たして大銀杏の下から三尺あまりの石地蔵があらわれ出たというわけで……。嘘か本当か、昔はしばしばこんな話がありました。そこで、高源寺でもその地蔵さまを門前に祀《まつ》って、やはり小さいお堂をこしらえて、林泉寺同様の縛られ地蔵を拝ませる事になりました。場所が近いだけに、なんとなく競争の形です。
 いつの代でもそうかも知れませんが、昔は神仏に流行《はや》り廃《すた》りがありまして、はやり神はたいへんに繁昌するが、やがて廃れる。そこで、流行らず廃らずが本当の神仏だなぞと云ったものですが、新らしきを好むが人情とみえて、新らしく出来た神さまや仏さまは一時繁昌するのが習いで、高源寺の縛られ地蔵も当座はたいそう繁昌、お線香やお賽銭がおびただしいものであったと云います。どうで縛るならば、繁昌の地蔵さまを縛った方が御利益《ごりやく》があるだろうと云うわけでしょう。
 その御利益があったか無かったか知りませんが、前にも申す通り、流行りものはすたれる道理で、一時繁昌の縛られ地蔵も三、四年の後にはだんだんに寂れて、参詣の足はふたたび本家の林泉寺にむかうようになりました。これからのお話は安政六年七月以後の事と御承知ください。去年の安政五年は例の大《おお》コロリで、江戸じゅうは火の消えたような有様でしたから、ことしの夏は再びそんな事の無いようにと、誰も彼もびくびくしていると、六月の末頃からコロリのような病人が、又ぼつぼつとあらわれて来ました。もちろん去年ほどの大流行ではありませんが、吐くやら瀉《もど》すやらで死ぬ者が相当にあるので、世間がおだやかではありません。なにしろ去年の大コロリにおびえ切っているので、寄ればさわればその噂でした。又その最中に不思議な噂が立ちました。高源寺の縛られ地蔵が踊るという……」
「地蔵が踊る……」
「笑っちゃいけない。そこが古今の人情の相違です。地蔵が踊るといえば、あなたはすぐに笑うけれども、昔の人はまじめに不思議がったものです。たとい昔でも、料簡《りょうけん》のある人達はあなたと同様に笑ったでしょうが、世間一般の町人職人はまじめに不思議がって、その噂がそれからそれへと広がりました。もとより石の地蔵さまですから、普通の人間のように、コリャコリャと手を叩いて踊り出すのじゃあない。右へ寄ったり、左へ寄ったり、前へ屈《かが》んだり、後へ反《そ》ったり、前後左右にがたがた揺れるのが、踊っているように見えると云うわけです。昼間から踊るのではなく、日が暮れる頃から踊りはじめる。いくら七月でも、地蔵さままでが盆踊りじゃああるまいと思っていると、誰が云い出したのか、又こんな噂が立ちました。この踊りを見たものは、今年のコロリに執り着かれないと云うのです」
「地蔵は始終踊っているんですか」と、わたしは訊いた。
「日が暮れてから踊り出すのですが、夜なかまで休み無しに踊っているのじゃあない。時々に踊って又やめる。それを拝もうとするには、どうしても気長に半※[#「日+向」、第3水準1-85-25]《はんとき》ぐらいは待っていなければならない。それには丁度いい時候ですから、夕涼みながらに山の手は勿論、下町からも続々参詣に来る。そのなかには面白半分の弥次馬もありましたろうが、コロリ除《よ》けのおまじないのように心得て、わざわざ拝みに来る者も多い。そんなわけで、高源寺の縛られ地蔵はまた繁昌しました。
 それが寺社方の耳にはいって、役人が念のため出張すると、なるほど跡方の無いことでもなく、地蔵は時々に踊るのです。そこで役人も一旦は無事に引き揚げたのですが、妖言妄説の取締りを厳重にする時節柄、こういうことを黙許していて善いか悪いか、次第によっては地蔵堂の扉を閉じさせて、参詣を一時さし止めなければなるまいという意見も出ましたが、それがいずれとも決着しないうちに、七月も過ぎて八月になると、その十二日から十三日にかけて大風雨《おおあらし》、七月の二十五日にも風雨がありましたが、今度の風雨はいっそう強い方で、屋根をめくられたのも、塀を倒されたのもあり、近在には水の出た所もありました。
 その風雨も十三日の夕方から止んで、十四日はからりとした快晴、陽気もめっきりと涼しくなりました。日が暮れると例の如く、高源寺には大勢の参詣人が詰めかけて、お線香を供えるのもあり、お賽銭をあげるのもあり、いずれも念仏合掌して、今か今かと待ち受けていましたが、どういうわけか、今夜に限って地蔵さまは身動きもしない。待てど暮らせど、いっこうに踊り出さないのです」
「不思議ですね」
「不思議です。みんなも不思議だと云いながら、四ツ(午後十時)頃までは待っていたのですが、地蔵さまは冷たい顔をしてびくとも身動きもしないので、とうとう根負けがしてぞろぞろと引き揚げました。八月十四日で、今夜はいい月でした。明くる晩は月見ですから、参詣人も少ない。それから、十六、十七、十八、十九の四日間、地蔵さまはちっとも踊らないので、みんな的《あて》がはずれました。
 陽気も涼しくなって、コロリもおいおい下火《したび》になったので、地蔵さまも踊らなくなったのだと云い触らす者もありましたが、ともかくも地蔵さまはもう踊らないという噂が立ったので、参詣人もぱったりと絶えてしまいました。すると、ここに又ひとつの事件が出来《しゅったい》しました」
「どんな事件が……。やはり高源寺に起こったんですか」
「そうですよ」と、老人はうなずいた。「八月二十四日の朝、小石川|御箪笥町《おたんすまち》に屋敷を持っている、今井善吉郎という小旗本の中間《ちゅうげん》武助が何かの用で七ツ半(午後五時)頃に、この高源寺門前を通りながら、何心なく地蔵堂をのぞくと、薄暗いなかに人らしい姿が見える。近寄ってよく見ると、ひとりの女が縛られている。女は荒縄で厳重に縛られているのです」
「縛られ地蔵に女が縛られている……。面白いですね」
「面白いどころじゃない。女はもう死んでいるらしいので、武助もおどろきました。しかし自分は先きを急ぐので、そんな事にかかり合ってはいられない。丁度に表の戸を明けかかった近所の酒屋の若い者にそれを教えて、自分はそこを立ち去りました。さあ大騒ぎになって、近所の人達が駈けあつまると、女は十九か二十歳《はたち》ぐらい、色白の小綺麗な娘ですが、見るからに野暮な田舎娘のこしらえで、引っ詰めに結った銀杏返《いちょうがえ》しがむごたらしく頽《くず》れかかっていました。まったくあなたの云う通り、縛られ地蔵に女が縛られていて、しかもそれが死んでいると云うのですから、普通の変死以上にみんなが騒ぎ立てるのも無理はありませんでした」

     二

 寺門前の出来事であるから、高源寺から寺社方へ訴え出て、係り役人の検視を受けたのは云うまでもない。女は縊《くび》られて死んだのである。その死体は石地蔵をうしろにして、両足を前に投げ出し、あたかも地蔵を背負ったような形で、荒縄を幾重にも捲き付けてあった。その縄が彼女の首にもかかっていたが、それで絞め殺されたのではなく、すでに絞め殺した死体を運んで来て、縛られ地蔵に縛り付けたものであることは、検視の役人にも推定された。
 この場合、女の身もと詮議が第一であるが、高源寺ではそんな女をいっさい知らないと答えた。近所の者もそれらしい女の姿を見かけた事はないと申し立てた。その風俗をみても、江戸の者でないらしい事は判っていた。女は木綿の巾着《きんちゃく》にちっとばかり小銭《こぜに》を入れているだけで、ほかに証拠となるような品物を身に着けていなかった。死体はひとまず高源寺に預けられて、心あたりの者の申し出を待つほかは無かった。
 しかしそれが他殺である以上、唯そのままに捨て置くわけには行かない。八丁堀同心の高見源四郎は半七を呼び付けた。
「高源寺の一件はおめえも薄々聞いているだろうが、寺社の頼みだ。一つ働いてくれ」
「女が殺されたそうですね」と、半七は眉をよせた。
「うむ。寺社がそもそも手ぬるいからよ。地蔵が踊るなんてばかばかしい。早く差し止めてしまえばいいのだ」
「わたしは見ませんが、子分の亀吉は話の種に、地蔵の踊るのを見に行ったそうですから、あいつと相談して何とか致しましょう」
 半七は請け合って帰った。彼はすぐに亀吉を呼んで相談にかかった。
「その地蔵の踊りをおめえは見たのだな」
「見ましたよ」と、亀吉は笑いながら云った。「世間にゃあどうして盲《めくら》が多いのかと、わっしも実に呆れましたね。地蔵が踊るのじゃあねえ、踊らせるのですよ」
「そうだろうな」
「あの寺はね、林泉寺の向うを張って、縛られ地蔵を流行らせたが、長いことは続かねえ。そこで今度はその地蔵を踊らせて、それを拝んだ者はコロリに執り着かれねえなんて、いい加減なことを云い触らして、つまりはお賽銭かせぎの山仕事ですよ。なにしろ寺でやる仕事で、町方《まちかた》が迂闊に立ち入るわけにも行かねえから、わっしも指をくわえて見物していましたが、今に何事か出来《しゅったい》するだろうと内々睨んでいると、案の通り、こんな事になりました。こうなったら遠慮はねえ、山師坊主を片っぱしから引き挙げて泥を吐かせましょうか」
「そう手っ取り早くも行かねえ」と、半七はすこし考えていた。「まあひと通りは順序を踏んで、こっちでも調べるだけの事は調べて置かなけりゃあならねえ。相手に悪強情を張られると面倒だ。そこで、その地蔵が十四日から踊らなくなったと云う……。おめえは其の訳を知っているか」
「コロリもだんだん下火《したび》になったのと、寺社の方から何だか忌《いや》なことを云われそうにもなって来たので、ここらがもう見切り時だと諦めて、踊らせないことにしたのでしょう」
「そうかな」と、半七は又かんがえた。「それにしても、殺された女が高源寺に係り合いがあるかどうだか、そこはまだ確かに判らねえ。地蔵を踊らせたのは坊主どもの機関《からくり》にしても、女の死体は誰が運んで来たのか判らねえ。寺の坊主が殺したのなら、わざわざ人の眼に付くように、地蔵に縛り付けて置く筈はあるめえと思うが……」
「山師坊主め、それを種にして又なにか云い触らすつもりじゃあありませんかね」
「そんな事がねえとも云えず、あるとも云えねえ。ともかくも念のために、小石川へ踏み出してみよう。現場を見届けてからの分別だ」
 半七が子分と二人づれで、神田三河町の家を出たのは、二十四日の七ツ(午後四時)過ぎであったが、日が詰まったと云っても八月である。足の早い二人が江戸川端をつたって小石川へ登った頃にも、秋の夕日はまだ紅く残っていた。高源寺は相当に広い寺で、花盛りの頃には定めし見事であったろうと思われる百日紅《さるすべり》の大樹が門を掩《おお》っていた。
 往来の人や近所の者が五、六人たたずんで内を覗いていたが、寺中はひっそりと鎮まっていた。門前の左手にある地蔵堂は、寺社方の注意か、寺の遠慮か、板戸や葭簀《よしず》のような物を入口に立て廻して、堂内に立ち入ること無用の札を立ててあった。二人は立ち寄って戸の隙間《すきま》から覗くと、石の地蔵はやはり薄暗いなかに立っていて、その足もとにはこおろぎの声が切れ切れにきこえた。
「はいって見ましょうか」と、亀吉は云った。
「ことわらねえでも構わねえ。はいってみよう。おめえは外に見張っていろ」
 亀吉に張り番させて、半七はそこらを見まわすと、形《かた》ばかりに立て廻してある葭簀のあいだには、くぐり込むだけの隙間が容易に見いだされたので、彼は体を小さくして堂内に忍び込むと、こおろぎは俄かに啼き止んだ。試みに石像を揺すってみると、像は三尺あまりの高さではあるが、それには石の台座も付いているので、手軽にぐらぐら動きそうもなかった。半七は更に身をかがめて足もとの土を見まわした。
「おい、亀、手を貸してくれ」
「あい、あい」
 亀吉も這い込んで来た。
「この地蔵を動かすのだ。これでも台石が付いているから、一人じゃあ自由にならねえ」と、半七は云った。
 二人は力をあわせて石像を揺り動かした。それから少しくもたげて、その位置を右へ移すと、その下は穴になっていた。周囲の土の崩れ落ちないように、穴の壁には大きい石ころや古い石塔が横たえてあった。
「そんなことだろうと思った」
 半七はその穴へ降りてみると、深さは五、六尺、それが奥にむかって横穴の抜け道を作っている。その抜け道は幅も高さも三尺に過ぎないので、大の男は這って行くのほかは無かった。半七は土竜《もぐら》のように這い込むと、まだ三間とは進まないうちに、道は塞がって行く手をさえぎられた。彼はよんどころなく後退《あとずさ》りをして戻った。
「行かれませんかえ」と、亀吉は訊いた。
「抜け裏じゃあねえ」と、半七は体の泥を払いながら笑った。「途中で行き止まりだ。だが、もう判った。あいつ等は抜け道から土台下へ這い込んで、地蔵をぐらぐら踊らせていたに相違ねえ。へん、子供だましのような事をしやあがる。これで手妻《てづま》の種は判ったが、さてその女がこの一件に係り合いがあるかねえか、その判断がむずかしいな」
 小声で云いながら、二人は葭簀をかき分けて出ると、そこには一人の女が窺うように立っていたので、物に慣れている彼等も少しくぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。女は十六、七で、顔に薄い疱瘡《ほうそう》の痕をぱらぱらと残しているのを瑕《きず》にして、色の小白い、容貌《きりょう》の悪くない娘であった。
「お前はどこの子だえ」と、半七は訊いた。
「はい。そこの……」と、娘は門内を指さした。
 門をはいると左側に花屋がある。彼女はその花屋の娘であるらしい。半七はかさねて訊いた。
「今朝《けさ》はここに女が死んでいたと云うじゃあねえか」
「ええ」と、娘はあいまいに答えた。
「その後に誰か死骸をたずねに来たかえ」
「いいえ」
「死骸は奥に置いてあるのかえ」
「ええ」と、彼女は再びあいまいに答えた。
 とかくにあいまいの返事をつづけているのが、半七らの注意をひいた。亀吉はやや嚇すように訊いた。
「おめえに両親はあるのか。おめえの名はなんと云うのだ」
 母のお金は先年病死した。父の定吉は花屋を商売にしている他《ほか》に、この寺内が広いので、寺男の手伝いをして草取りや水撒きなどもしている。自分の名はお住《すみ》、年は十七であると彼女は答えた。
「おめえ達は門のそばに住んでいながら、ゆうべから今朝にかけて、ここへ死骸を持ち込んだことをなんにも知らなかったのかえ」と、半七は入れ代って訊いた。
「なんにも知りませんでした」
 この時、ひとりの若い僧が門内から出て来た。まだ灯を入れていないが、手には高源寺としるした提灯を持って、彼は足早に通りかかったが、半七らのすがたを見て俄かに立ちどまった。彼は仔細らしく二人を眺めていた。
 半七もすぐに眼をつけた。
「もし、お前さんはこのお寺さんですかえ」
「そうです」と、若い僧はしずかに答えた。
「実はこれからお寺へ行こうと思っているのですが、今朝このお堂で死んでいた女は、まだ其のままですかえ」
「いや、それに就いて唯今お訴えに参るところで……。女の死骸が見えなくなりました」
「死骸が見えなくなった……」と、半七と亀吉は顔をみあわせた。「誰かが持って行ったのですか。それとも生き返って逃げたのですか」
「さあ。何者にか盗み出されたのか、本人が蘇生して逃げ去ったのか。それは一向にわかりません」
「夜でもあることか、真っ昼間お預かりの死骸を紛失させるとは、飛んだことですね」と、半七は詰問するように云った。
「納所《なっしょ》の了哲に番をさせて置いたのですが……」と、僧も面目ないように云った。「その了哲がちょっとほかへ行った隙に……。どうも不思議でなりません」
 死骸のことに就いて、お住がとかくにあいまいの返事をしていたのも、死骸紛失の為であると察せられた。女の死骸紛失を発見したのは八ツ(午後二時)過ぎのことで、一応は墓地その他を詮索するやら、寺僧が集まって評議をするやら、うろたえ騒いで時刻を移した末に、所詮《しょせん》どうにも仕様がないから、何かのお咎めを受ける覚悟で寺社方へ訴え出ることに決着した。若い僧はその難儀な使に出て行くところで、眼鼻立ちの清らかな顔を蒼白くしていた。彼は二十一歳で、名は俊乗であると云った。

     三

 俊乗に別れて、半七らは寺にはいった。高源寺住職の祥慶は六十余歳で、見るから気品の高そうな白髪《しらが》まじりの眉の長い老僧であった。祥慶は二人を書院に案内させて、丁寧に挨拶した。
「どなたもお役目御苦労に存じます。思いもよらぬ椿事|出来《しゅったい》、その上に寺中の者共の不調法、なんとも申し訳がござりません」
 地蔵を踊らせて賽銭稼ぎをするような山師坊主と、多寡をくくっていた半七らは、すこしく予想がはずれた。年配といい、態度といい、なんだか有難そうな老僧の前に、二人は丁寧に頭を下げた。
「こちらのお寺はお幾人《いくたり》でございます」と、半七は訊いた。
「わたしのほかに俊乗、まだ若年《じゃくねん》でござりますが、これに役僧を勤めさせて居ります」と、祥慶は答えた。「ほかは納所の了哲と小坊主の智心、寺男の源右衛門、あわせて五人でござります」
「寺男の源右衛門というのは幾つで、どこの生まれですか」
「源右衛門は二十五歳、秩父の大宮在の生まれでござります」
「これも若いのですね」
「源右衛門は門内の花屋定吉の甥で、叔父をたよって出府《しゅっぷ》いたした者でござりますが、そのころ丁度寺男に不自由して居りましたので、定吉の口入れで一昨年から勤めさせて居りました」
「その源右衛門は無事に勤めて居りますか」
「それが……」と、老僧はその長い眉をひそめた。「十日《とおか》以前から戻りませんので……」
「駈け落ちをしたのですか」
「御承知の通り、十二、十三の両日は強い風雨《あらし》で、十四日は境内の掃除がなかなか忙がしゅうござりました。花屋の定吉、納所の了哲も手伝いまして、朝から掃除にかかって居りましたが、その日の夕方、ちょっとそこまで行って来ると云って出ましたままで、再び姿を見せません。叔父の定吉も心配して、心あたりを探して居りますが、いまだに在所が知れないそうで……。本人所持の品々はみな残って居りまして、着がえ一枚持ち出した様子もないのを見ますと、駈け落ちとも思われず、また駈け落ちをするような仔細も無し、いずれも不思議がって居るのでござります」
「御門前の地蔵さまが踊ったと云うのは、ほんとうでございますか」
「踊ったと云うのかどうか知りませんが、地蔵尊の動いたのは本当で、わたくしも眼のあたりに拝みました」
「それを拝めばコロリよけのお呪《まじな》いになると云うことでしたね」
「いや、それは世間の人が勝手に云い触らしたことで、仏の御心《みこころ》はわかりません。果たしてコロリ除けのお呪いになるかどうか、わたくし共にも判りません」
 この場合、住職としては斯う答えるのほかはあるまいと、半七も推量した。更に二、三の問答を終って二人は庫裏《くり》の方へまわって見ると、納所の了哲と小坊主の智心があき地へ出て、焚き物にするらしい枯れ枝をたばねていた。
「女の死骸はどこへ置いたのですか」と、半七は訊いた。
「日にさらしても置かれませんので、庫裏の土間に寝かして置きました」と、了哲は指さした。そこの土間には荒筵《あらむしろ》が敷かれてあった。
 俊乗の云った通り、死骸の紛失は八ツ過ぎで、自分が便所へ立った留守の間であると、了哲は更に説明した。わずかの間に女が蘇生して逃げ去ったとは思われない。恐らく何者かがうしろの山伝いに忍び込んで、自分の立った隙をみて死骸を担ぎ去ったのであろうと云うのである。
 成程この寺のうしろには山がある。土地では山と呼んでいるが、実は小高い丘に過ぎない。それでも古木や雑草がおい茂って、人を化かすような古狢《ふるむじな》が棲んでいるなどという噂もある。その山を越えると、大きな旗本屋敷が三、四軒つづいている横町へ出る。平生《へいぜい》は往来も少なく、昼でも寂しい場所であるから、この方面から忍び込んで死骸をかつぎ出すようなことが無いとは云えない。
 それにしても、その死骸を担ぎ去るほどならば、縛られ地蔵に縛り付けて置く必要もあるまい。一旦その死骸をさらして見せて、再びそれを奪って行ったのは、何かの仔細が無ければなるまい。暮れかかる森のこずえを仰ぎながら、半七はしばらく思案に耽っていると、その知恵の無いのを嘲《あざけ》るように、ゆう鴉が一羽啼いて通った。
 引っ返して庫裏へはいって、半七らは土間をひと通り見まわしたが、何かの手がかりになるような物も見いだされなかった。いつの間にか日も落ちて、あたりはだんだんに薄暗くなって来たので、きょうの詮索はこれまでとして、二人は寺を出た。門を出るときに見かえると、花屋の前にはかのお住が立っていた。奥の暗い行燈の下で夕飯を食っている五十前後の男が、お住の父の定吉であるらしかった。
「親分。どうですね」と、小半丁もあるき出した時に亀吉は訊いた。
「あの住職め、いやに殊勝《しゅしょう》らしく構えているので、なんだか番狂わせのような気もしたが、あいつはやっぱり狸坊主だな」と、半七は笑った。「源右衛門という寺男は駈け落ちをしたと云うが、可哀そうに、もう此の世にはいねえだろう」
「坊主共が殺《や》ったのかね」
「手をおろした訳でもあるめえが、どうも生きちゃあいねえらしい。そこで、亀。おれはこれから真っ直ぐに帰るから、おめえは門前町をうろ付いて、あの寺の奴らについて何か聞き込みはねえかどうだか探ってくれ。それから、小坊主、智心とか云ったな。あいつの事を調べてくれ」
「小坊主……。初めから仕舞いまで黙って突っ立っていた奴でしょう」
「そうだ。どうもあいつの眼つきが気に入らねえ。黙ってぼんやり突っ立っているように見せかけて、あいつの眼はなかなか働いていた。あいつ、まだ十六、七らしいが、唯者じゃあねえ。そのつもりで、あいつの身許や行状を洗ってくれ」
 幾らかの小遣いを亀吉に握らせて、半七は別れた。神田へ帰る途中で、半七は地蔵堂の抜け道について考えた。寺男の源右衛門はこの抜け道のなかで命を果たしたのであろうと想像された。女は蘇生して身を隠したのか、死骸を運び去られたのか、その謎は容易に解かれなかった。
 暁《あ》け方に大雨が降って、あくる朝は綺麗に晴れた。やがて亀吉は顔を出したが、彼はあまり元気が好くなかった。
「あれから引っ返して寺門前へ行って、食いたくもねえ蕎麦屋へはいったり、飲みたくもねえ小料理屋へはいったりして、出来るだけ手を伸ばして見ましたが、思わしい掘出し物もありませんでした」
「そこで、大体どんなことだ」と、半七は訊いた。「あいつらも利口だから、近所へは尻尾《しっぽ》を出さねえかも知れねえ」
「まあ、聞き出したのはこれだけの事です」と、亀吉は話し出した。「住職の祥慶というのは京都の大きい寺で修行したこともあって、なかなか学問も出来るし、字なんぞも能く書くそうです。檀家の気受けも好し、別に悪い評判も無いと云います。俊乗という坊主は男がいいので、門前町の若い女なんぞに騒がれているそうですが、これも今までに悪い噂を立てられた事はないと云います。これじゃあみんな好い事ずくめで、どうにもなりません。近所じゃあ山師坊主だなんて云うものは一人もありませんよ」
「小坊主はどうだ」
「小坊主は十六で年の割には体も大きく、見かけは頑丈そうですが、ふだんから薄ぼんやりした奴で、別にこうと云うほどのこともないそうです。それから了哲という納所坊主、こいつも少し足りねえ奴で、悪いこともしねえが酒を飲む。まあ、こんな事ですね」
「花屋の親子は……」
「花屋の定吉、これも近所で評判の正直者ですが、可哀そうにひどい吃で、満足に口が利けねえ位だそうです。娘のお住はなかなか親孝行で、人間も馬鹿じゃあねえと云います」
 こう列べてみると、正直か薄馬鹿か、揃いも揃った好人物で、一人も怪しい者はない。亀吉が詰まらなそうに報告するのも無理はなかった。それでも半七は根よく詮議した。
「そこで、寺男はどうだ」
「源右衛門ですか。こいつは善いか悪いか、どんな人間だか能くわからねえ。なにしろ恐ろしい偏人で、あしかけ三年、丸二年もあの寺の飯を食っていながら、近所の者と碌々に口を利いた事がねえという位で……」
「ふうむ」と、半七も首をかしげた。「仕様のねえ奴だな」
「まったく仕様のねえ奴らで、どうにも斯うにも手の着けようがありませんよ」と、云いかけて亀吉は思い出したように声を低めた。「唯ひとつ、こんな事を小耳に挟《はさ》んだのですが……。なんでもひと月ほど前の事だそうで、門前町のはずれに住んでいる塩煎餅屋のおかみさんが、茗荷谷の方へ用達しに出ると、その途中で花星のお住を見かけたのですが、お住は二十歳《はたち》ぐらいの小綺麗な田舎娘と一緒に歩いていたそうです」
「その田舎娘というのは縛られていた女か」と、半七はあわただしく訊き返した。
「さあ、それが確かに判らねえので……」と、亀吉は小鬢《こびん》をかいた。「煎餅屋のかみさんは例の一件を聞いた時、そんなものを見るのも忌《いや》だと云って、近所でありながら覗きにも行かなかったので、同じ女かどうだか判らねえと云うのですよ。もし同じ人間なら面白いのですが……」
「同じ人間だろう。いや、同じ人間に相違ねえ」
「そうでしょうか。かみさんの話じゃあ、お住は薄あばたこそあれ、容貌《きりょう》は悪くねえ。連れの娘はあばたも無し、容貌もいい、顔立ちが肖《に》ているので、ちょいと見た時には姉妹《きょうだい》かと思った……」
「おい、亀。しっかりしてくれ」と、半七は笑い出した。「おめえにも似合わねえ。それだけ種が挙がっているなら、なぜもうひと息踏ん張らねえ。よし、よし。おれがもう一度出かけよう」
「出かけますかえ」
「むむ。一緒に来てくれ」
 五ツ半(午前九時)頃に二人は再び小石川へ出向いた。その途中で何かの打ち合わせをして、高源寺の門前に行き着くと、地蔵堂はきのうの通りに鎖《とざ》されていた、門内にはいると、花屋の定吉と納所の了哲が鋤《すき》や鍬《くわ》を持って何か働いていた。
「なにを働いているのです」と、半七は近寄って声をかけた。
 二人は不意に驚かされたように顔を見合わせていた。殊に定吉は吃であるから、こういう場合、すぐに返事は出ないらしい。了哲も渋りながら答えた。
「けさの雨で、ここらの土が窪《くぼ》みましたので……」
「ははあ、土が窪んだので、埋めていなさるのか」
 云いながら眼を着けると、土はところどころ落ちくぼんで、それがひと筋の道をなしているように見られた。更に眼をやると、その道は墓場につづいて、ある墓の前に止まっているらしい。古い墓の石塔は倒れていた。
「もし、この墓は無縁ですかえ」
「そうです」と、了哲はうなずいた。
 半七は引っ返して花屋の前に来ると、お住は奥から不安らしい眼をして覗いていた。
「おい、姐《ねえ》さん。ちょいと顔を貸してくれ」
 お住を誘い出して、半七は墓場のまん中へ行った。そこには大きい桐の木が立っていた。

     四

「おい、お住。おめえの姉さんは何処にいる」と、半七はだしぬけに訊いた。
 お住は黙っていた。
「隠しちゃあいけねえ。ひと月ほど前に、おめえが姉さんと一緒に茗荷谷を歩いていたのを、おれはちゃんと見ていたのだ。その姉さんは何処にいるよ」
 お住はやはり黙っていた。
「姉さんは殺されて、地蔵さまに縛り付けられていたのだろう」
 お住ははっ[#「はっ」に傍点]としたように相手の顔を見上げたが、また俄に眼を伏せた。
「その下手人《げしゅにん》をおめえは知っているのだろう。おれが仇を取ってやるから正直に云え」
 お住は強情に黙っていた。
「あの無縁の石塔を引っくり返して、その下から抜け道をこしらえて、地蔵を踊らせたのは誰だ。おめえの姉さんも係り合いがあるだろう。姉さんの色男は誰だ。あの俊乗という坊主か」
 お住はまだ俯向いていた。
「俊乗が姉さんを絞めたのか。一体おめえの姉さんは生きているのか、死んだのか」と、半七は畳みかけて訊いた。「おめえはふだんから親孝行だそうだが、正直に云わねえとお父《とっ》さんを縛るぞ」
 お住は泣きそうになったが、それでも口をあかなかった。
「おめえと従兄弟《いとこ》同士の源右衛門はどうした。駈け落ちをしたと云うのは嘘で、あの抜け道のなかに埋《うま》って死んだのだろう。その死骸はどこへ隠した」
 お住は飽くまで黙っていたが、嘘だとも云わず、知らないとも云わない以上、無言のうちに、それらの事実を認めているように思われたので、半七は肚《はら》のなかで笑った。
「これほど云っても黙っているなら仕方がねえ。ここでいつまで調べちゃあいられねえ。親父もおめえも連れて行って、調べる所で厳重に調べるからそう思え。さあ、来い」
 幾らかの嚇しもまじって、半七はお住を手あらく引っ立てようとする時、ふと気がついて見かえると、うしろの大きい石塔の蔭から小坊主の智心が不意にあらわれた。彼は薪割《まきわ》り用の鉈《なた》をふるって、半七に撃ってかかった。半七は油断なく身をかわして、その利き腕を引っとらえ、まずその得物《えもの》を奪い取ろうとすると、年の割に力の強い彼は必死に争った。
 そればかりでなく、今までおとなしかったお住も猛然として半七にむかって来た。彼女はそこらに落ちている枯れ枝を拾って叩き付けた。苔《こけ》まじりの土をつかんで投げつけた。眼つぶしを食って半七も少しく持て余しているところへ、それを遠目に見た亀吉が駈けて来た。彼は先ずお住を突き倒して、さらに智心の襟首をつかんだ。御用聞き二人に押さえられて、智心は大きい眼をむき出しながら捻じ伏せられた。
「飛んでもねえ奴だ。縛りましょうか」と、亀吉は云った。
「そんな奴は何をするか判らねえ。一旦は縄をかけて置け」
 智心は捕縄をかけられた。二人はお住と智心を追い立てて、もとの所へ戻って来たが、もう猶予は出来ないので、さらに了哲を追い立てて本堂へむかうと、本堂の仏前には住職の祥慶が経を読んでいた。半七らの踏み込んで来たのを見て、彼はしずかに向き直った。
「昨日《さくじつ》といい、今日《こんにち》といい、御役の方々、御苦労に存じます。大かた斯うであろうと察しまして、今朝《こんちょう》は読経して、皆さま方のお出でをお待ち申して居りました」
 案外に覚悟がいいので、半七らも形をあらためた。
「詳しいことは後にして、ここでざっと調べますが、まず第一に地蔵さまの一件、それはお住持も勿論御承知のことでしょうね」と、半七は先ず訊いた。
「承知して居ります」と、祥慶は悪びれずに答えた。「わたくしは十四年前から当寺の住職に直りました。この高源寺は慶安年中の開基で、相当の由緒もある寺でござりますが、先代からの借財がよほど残って居ります上に、大きい檀家がだんだん絶えてしまいました。火災にも一度|罹《かか》りまして、その再建《さいこん》にもずいぶん苦労いたしました。左様の次第で、寺の維持にも困難して居ります折り柄、役僧の延光から縛られ地蔵を勧められました。林泉寺の縛られ地蔵は昔から繁昌している。当寺でもそれに倣《なら》って、縛られ地蔵を始めてはどうかと云うのでござります。こころよからぬ事とは存じながら、何分にも手もと不如意《ふにょい》の苦しさに、万事を延光に任せました。さりとて今まで有りもしなかった地蔵尊を俄かに据え置くのも異《い》なものであり、且は世間の信仰もあるまいという延光の意見で、深川寺の石屋松兵衛という者に頼みまして、一体の地蔵尊を作らせ、二年あまりも墓地の大銀杏《おおいちょう》の根もとに埋めて置きまして、夢枕|云々《うんぬん》と申し触らして掘り出すことに致しました。それが幸いに図にあたりまして、三、四年のあいだはなかなかの繁昌で、賽銭そのほか収入《みいり》もござりました」
「その延光という役僧はどうしました」
「あるいは仏罰でもござりましょうか。昨年の二月、延光は流行《はやり》かぜから傷寒《しょうかん》になりまして、三日ばかりで世を去りました。延光が歿しましたので、唯今の俊乗がそのあとを継いで役僧を勤め居ります」
「縛られ地蔵もだんだんに流行らなくなったので、今度は地蔵を踊らせる事にしたのですね。それはお前さんの工夫ですかえ」
「いえ、わたくしではありません」
「俊乗ですか」
「俊乗でもありません。石屋の松蔵……松兵衛のせがれでござります。松兵衛は悪い者ではありませんが、伜の松蔵は博奕に耽って、いわばごろつき風の良くない人間でござります。それが縛られ地蔵の噂を聞き込みまして、当寺へ強請《ゆすり》がましい事を云いかけて参りました。あの地蔵は自分の家《うち》で新らしく作ったもので、墓地の土中から掘り出したなどというのは拵え事である。自分の口からその秘密を洩らせば、世間の信仰が一時にすたるばかりか、当寺でも定めし迷惑するであろうと云うのでござります。飛んだ奴に頼んだと今さら後悔しても致し方がありません。何分こちらにも弱味がありますので、延光の取り計らいで幾らかずつの金をやって居りました。松蔵のような悪い奴に魅《み》こまれましたのも、やはり仏罰であろうかと思われます」
 祥慶は数珠《じゅず》を爪繰りながら暫く瞑目した。うしろの山では鵙《もず》の声が高くきこえた。
「そのうちに延光は歿しました。そのあとに俊乗が直りますと、今度は俊乗を相手にして、松蔵は時々に押し掛けてまいります。俊乗は年も若し、根が正直者でござりますから、松蔵のような奴に責められて、ひどく難儀して居るようでござります。わたくしも可哀そうに思いましたが、どうすることも出来ません。そこへ又ひとり、悪い奴があらわれまして、いよいよ困り果てました」
「その悪い奴は女ですかえ」と、半七は、喙《くち》を容れた。
「はい。お歌と申す女で……」と、老僧はうなずいた。
 お歌は花屋の定吉の姉娘であった。父の定吉も妹娘のお住も正直者であるのに引き換えて、お歌は肩揚げのおりないうちから親のもとを飛び出して、武州、上州、上総《かずさ》、下総《しもうさ》の近国を流れ渡っていた。彼女は若粧《わかづく》りを得意として、実際はもう二十四、五であるにも拘らず、十八、九か精々|二十歳《はたち》ぐらいの若い女に見せかけて、殊更に野暮らしい田舎娘に扮していた。男に油断させる手段であることは云うまでも無い。
 彼女は、去年の暮ごろに江戸へ帰って、十余年ぶりで高源寺をたずねて来たが、物堅い定吉は寄せ付けないで、すぐに門端《かどばた》から逐い出そうとすると、お歌は門前の地蔵を指さした。わたしの口一つで、多年御恩になったお住持さまは勿論、お前にも迷惑がかからないとは云えまいと、彼女は笑った。それを聞いて、定吉はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。
 どうしてお歌が地蔵の秘密を知っているのかと、定吉は驚きかつ恐れて、だんだんその仔細を詮議すると、お歌はこの頃かの松蔵と心安くしていると云うのであった。定吉はいよいよ驚いたが、こうなっては強いことも云えない。よんどころなくお歌を呼び入れて、その望みのままに俊乗に引き合わせると、彼もまた驚いた。迷惑ながら幾らかの口留め料をやって、無事に彼女を追い返そうとすると、お歌は案外に金は要らないと言った。お寺の迷惑にもなり、親たちの迷惑にもなることであるから自分は決して口外しない。その代りに、時々のお出入りを許してくれと云った。
 おとなしいような云い分ではあるが、こんな女にしばしば出入りされては困るので、祥慶は直きじきにお歌に面会して、寺へたずねて来るのは月に一度、それも近所の人に目立たないように、なるべく夜分に忍び込んで来てくれということに相談を決めた。月に一度でも親や妹の顔が見られれば結構でござりますと、お歌は殊勝《しゅしょう》らしく答えた。
「それがやはり思惑のあることで……」と、祥慶は溜め息まじりに語りつづけた。「金は一文も要らない、決して無心がましいことは云わないと申して居りましたが、お歌は慾心でなく、色情で……。お歌はどうしてか俊乗に恋慕して居ったのでござります」
「お歌は松蔵とも係り合いがあったのでしょうね」
「さあ、本人は唯の知り合いだと申して居りましたが、あんな人間同士のことですから、どういう因縁になっているか判りません」
「松蔵は相変らず出入りをしているのですか」
「はい、時々に参ります」
 お歌は色、松蔵は慾、双方から責め立てられる俊乗の難儀は思いやられた。

     五

「月に一度という約束でありながら、お歌は二度も三度もまいりました」と、祥慶は又云った。「俊乗がやがて堕落することは眼にみえて居りましたが、わたくしにはそれを遮《さえ》ぎる力がありません。お歌もさすがに昼間はまいりませんので、幸いに近所の眼には立ちませんでしたが、仕舞いには俊乗をどこへか連れ出すようになりました。可哀そうなのは俊乗で、縛られ地蔵のことも本人の発意《ほつい》では無し、いわば師匠のわたくしを救うが為に、こんな難儀をして居るのでござります。ある時、本人がわたくしの前に手をついて、涙を流して自分の堕落を白状いたしました時には、わたくしも思わず泣かされました。お歌のような悪魔に付きまとわれて、それを振り払うことの出来なかったのは、俊乗の罪ではなく、師匠のわたくしの罪でござります。
 その罪の恐ろしさを知りながら、いやが上にも罪をかさねましたのは、地蔵の踊りでござります。松蔵が執念深く、無心にまいりますので、俊乗も断わりました。地蔵尊の参詣人もこの頃はだんだんに遠ざかって、賽銭その他も昔とは大きな相違であるから、毎々の無心は肯《き》かれないと申し聞かせますと、それならばいい工夫がある……と云うのが地蔵の踊りで、コロリ除《よ》けと云い触らせば、きっと繁昌すると云うのでござります。忌《いや》だと云えば、縛られ地蔵の秘密をあばくと云う。俊乗も気が弱く、わたくしも気が弱く、どうで地獄へ堕《お》ちる以上、毒食わば皿と云ったような、出家にあるまじき度胸を据えて……。いや、よんどころなく度胸を据えることになりまして……」
 松蔵は石屋であるから、地蔵を動かす仕掛けは彼が引き受けた。墓地にある無縁の石塔を倒して、その下から門前の地蔵堂へかよう横穴の抜け道を作った。その穴掘り役は寺男の源右衛門と納所の了哲に云い付けられたが、寺男も納所も愚直一方の人間であるので、師匠と俊乗の指図を素直に引き受けた。その設計はとどこおりなく成就して、地面の下の抜け道を松蔵が最初にくぐって見た。
「穴熊がうまく行ったと、本人は申して居りました」と、祥慶は云った。
「むむ。穴熊か」と、半七は思わずほほえんだ。
 穴熊というのは、いかさま博突などをする場合、その同類が床下に忍んで、細い針を畳越しに突きあげ、むしろの上に投げられた賽を自由に踊らせるのである。松蔵は穴熊の手だてを応用して、土の下から地蔵を踊らせようとしたのてある。
 最初の試みに成功したので、地蔵を踊らせるのは源右衛門の役になった。小坊主の智心も時時は面白半分に手伝った。それが又、図にあたって、一旦は繁昌したが、地蔵が踊るなどは奇怪であるというので、寺社方から何かの沙汰がありそうな噂もきこえた。その詮議がむずかしくなっては面倒であるから、もうそろそろ見切りを付けようかと云っている時、八月十二日から十三日にかけて大風雨《おおあらし》がつづいた。
 十四日はぬぐったような快晴であったので、月の昇る頃から源右衛門はいつものように抜け道へくぐり込んだ。しかも地蔵は踊らないで、今夜の参詣人を失望させた。源右衛門も再び出て来なかった。不思議に思って、智心をくぐらせてやると、抜け道は途中で行き止まりになっていた。二日つづきの風雨に地面の土がゆるんで、あたかも源右衛門の上に落ちかかったらしく、彼はそのまま生き埋めの最期《さいご》を遂げたのであった。
 その報告におどろかされて、寺中の者共は駈け付けた。了哲と定吉が手伝って、ともかくも源右衛門を穴から引き出したが、彼はもう窒息していた。もちろん表向きにすべき事ではないので、世間へは駈け落ちと披露して、その死骸は墓地の奥に埋葬した。さなきだに見切り時と思っているところへ、こんな椿事が出来《しゅったい》したのであるから、地蔵は再び踊らなくなった。
 抜け道は何とか始末しなければならないと思いながら、まだそのままになっていると、けさの大雨で地面の土がまたもや崩れ落ちた。今度はその道筋のところどころに窪みを生じて、あたかも抜け道の通路を示すように見えて来たので、もう打ち捨てて置かれなくなった。他人に覚られては大事であると、了哲らがその穴埋めに取りかかっている処へ、半七と亀吉が再び乗り込んで来たのであった。
 これで地蔵の問題はひと通り解決したが、お歌の一件がまだ残っている。半七は更に訊いた。
「地蔵さまに縛られていた女はお歌で、その下手人をお前さんは御承知なのでしょうね」
「こうなれば何もかも包まずに申し上げます。お歌を絞め殺したのは智心でござります」と、祥慶は説明した。「智心は孤児《みなしご》で十歳《とお》のときから当寺に養われて居りますが、生まれつきの鈍根で、経文なども能く覚えません。それでも正直に働きます。殊に俊乗によく懐《なつ》いて居りました。そこで智心は平生からかのお歌を憎んで居りまして、あの女は悪魔だ。俊乗さんを堕落させる夜叉羅刹《やしゃらせつ》だなどと申して居りました」
「お歌を殺したのはいつの事です」
「二十三日の晩でござります。お歌が俊乗を裏山へ誘い出して行く。その様子がいつもと違っているので、智心もそっと後を尾けて行きますと、お歌は俊乗を森のなかへ連れ込みまして、お前がこの寺にいては思うように逢うことが出来ないから、いっそ還俗《げんぞく》するつもりで私と一緒に逃げてくれと云う。勿論、俊乗は得心《とくしん》いたしません。かれこれと云い争っているうちに、お歌はだんだんに言葉があらくなりまして、お前がどうしても云うことを肯かなければ、わたしにも料簡がある。縛られ地蔵の一件を口外すれば、おまえ達は死罪か遠島だなどと云って嚇かすのでござります。毎度のことながら、この嚇かしには俊乗も困って居りますと、お歌はいよいよ図に乗って、これからすぐに訴えにでも行くような気色を見せます。それを先刻から窺っていた智心はもう我慢が出来なくなって、不意に飛びかかって、お歌の喉《のど》を絞めました。智心は年の割に力のある奴、それが一生懸命に両手で絞め付けたので、お歌はそのままがっくり倒れてしまいました」
「成程、そんなわけでしたか」
 智心の眼つきの穏かでない仔細はそれで判った。しかもお歌の死骸をなぜ地蔵堂へ運び込んだのか、その仔細はまだ判らなかった。祥慶は重ねて説明した。
「俊乗はお歌に迫られて、余儀なく関係をつづけて居ったので……。現に今夜もお歌に苦しめられて居ったのですが、元来は気の弱い、心の優しい人間ですから、眼の前にお歌が倒れたのを見ますと、急に悲しくなって泣き出しました。といって、医者を呼ぶわけにも行きません。俊乗は女の死骸をかかえて、暫くは泣いていました。智心は唯ぼんやりと眺めていました。やがて俊乗は叱るように智心にむかって、お前はなぜこんな事をしたのだ、この女を殺してはならない、これから私と一緒に地蔵堂へ運んで行けと云ったそうです」
「それはどういう訳ですね」
「あとで俊乗自身の申すところによりますと、その時は少しくのぼせていたのかも知れません。地蔵を縛って祈っても、自分の願《がん》が叶うのであるから、まして本人を縛って祈れば、きっと叶うに相違ないと、こう一途《いちず》に思いつめて、智心と二人でお歌の死骸を門前の地蔵堂へ運び込んで、地蔵尊にしっかりと縛り付けて、どうぞ再び蘇生するようにと、ふた※[#「日+向」、第3水準1-85-25]《とき》あまりも一心不乱に祈っていたと申します」
「それで生き返りましたか」と、半七は一種の好奇心に駆られて訊いた。
「生き返りました」と、祥慶はやや厳《おごそ》かに云った。「すぐには生きませんでしたが、とうとう蘇生しました。俊乗は夜明け前にいったん自分の部屋に帰りましたが、宵からの疲れで、ついうとうとしているうちに、武家の中間が早朝に門前を通りかかりまして、お歌の死該を見付けられてしまいました。こうなっては隠すことも出来ませんから形《かた》のごとく訴え出て、当寺ではいっさい知らない女だと云うことにして、ひと先ず死骸を預かりました。
 そこで、検視も済み、役人衆も引き揚げて、死骸を庫裏《くり》の土間へ運び込みますと、それから半※[#「日+向」、第3水準1-85-25]も経たないうちに、お歌は自然に息を吹き返しましたので、わたくし共もおどろきました。俊乗は又もや泣いて喜びました。有り合わせの薬を飲ませて介抱して、ともかくも奥へ連れ込みまして、表向きは死骸紛失ということにお届けを致させました」
「お歌はそれからどうしました」
「日が暮れてから気分も快《よ》くなったと申しますので、裏山づたいに帰してやりました。本人は素直に帰ろうと申しませんでしたが、わたくしからいろいろに説得しまして、今度は俊乗にも自由に逢わせてやると約束して、無理になだめてともかくも帰しましたが、所詮このままに済もうとは思われません。また出直して何かの面倒を云い込んで来ることと覚悟して居りました。そこへお前さん方が再びお乗り込みになりましたので万事の破滅と、わたくしもいよいよ覚悟を決めました。智心がお手向いを致しましたのは、お歌を殺した一件で、我が身にうしろ暗いところがある為でござりましょう。しかしお歌は確かに生きて居ります」
 ここまで話して来た時に、了哲が顔の色をかえて駈け込んだ。
「俊乗さんが死にました」
「どうして死んだ」と、半七は膝を浮かせながら訊いた。
「裏山の桜の木に首をくくって……」
 縊《くび》られたお歌は生きて、さらに俊乗が縊れたのであった。

     六

「お話は先ずここらでお仕舞いでしょう」と、半七老人はひと息ついた。「事件はちょいと面白いのですが、わたくし共の捕物の方から云えば、たいして面倒な事もありませんでした」
「これに幾らかの潤色を加えると、まったく面白い小説になりそうですね」と、私は云った。
「なにぶん実録は、小説のように都合よく行きませんからね。こうすれば面白くなるだろうと云って、まさかに嘘をまぜる訳にも行かず、まあ其のつもりで聴いて頂くよりほかありません」と、老人は笑った。「いや、まだ少し云い残したことがあります。かのお歌の一件について……」
「わたしもそれを訊《き》こうと思っていたんです。お歌はそれからどうしました」
「さあ、お歌がそれからひと働きしてくれると、小説にも芝居にもなるのですが、そこが今申す通りの実録で……。お歌はその後しばらく姿を見せませんでしたが、その翌年の五月、詰まらない小ゆすりで挙げられて、それからいろいろの旧悪があらわれて遠島になりました。わたくしが捕ったので無いので詳しいことは知りませんが、お歌はふところに俊乗の数珠を持っていたと云いますから、よっぽど俊乗のことを思っていたに相違ありません。
 遠島といえば、高源寺の住職も遠島、他は追放、これでこの一件も落着《らくぢゃく》しました。住職も弟子たちもみんな悪い人間ではなかったのですが、いったん悪い方へ踏み込むと、もう抜き差しが出来なくなって、だんだん深淵《ふかみ》に落ちて行く。取り分けて俊乗などは、いい寺にいたらば相当の出世が出来たのかも知れません。それを思うと可哀そうでもあります」
「石屋の松蔵はどうなりました」
「高源寺の噂を聞くと、こいつはすぐに影を隠しました。草鞋を穿いて追っかけるほどの兇状でもないので、まあ其のままに捨て置きましたが、あとで聞くと木更津《きさらづ》の方で変死したそうです。同職の石屋を頼って行って、そこで働いているうちに、その石屋で大きい石地蔵をこしらえる時、どうしたわけか其の地蔵が不意に倒れて、松蔵は頭を打たれて死んだと云うのです。なんだか因縁話のようで、嘘か本当かよく判りませんが、まあそんな噂でした。
 高源寺はその後、廃寺になってしまって、今では跡方もなくなりましたが、一方の林泉寺の縛られ地蔵は昔のままに残っています。明治以後は堂を取り払って、雨曝《あまざら》しのようになっていますが、相変らずお花やお線香は絶えないようです」



底本:「時代推理小説 半七捕物帳(六)」光文社文庫、光文社
   1986(昭和61)年12月20日初版1刷発行
入力:tatsuki
校正:瀬戸さえ子
2001年3月30日公開
2004年3月1日修正
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