青空文庫アーカイブ
半七捕物帳
石燈籠
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)書役《しょやく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)七、八人|乃至《ないし》十人
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)三人はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と
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一
半七老人は或るとき彼のむかしの身分について詳しい話をしてくれた。江戸時代の探偵物語を読む人々の便宜のために、わたしも少しばかりここにその受け売りをして置きたい。
「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引らの報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役《しょやく》が取りあえずこれに書き留めて置くんです。その帳面を捕物帳といっていました」と、半七は先ず説明した。「それから私どものことを世間では御用聞きとか岡っ引とか手先とか勝手にいろいろの名を付けているようですが、御用聞きというのは一種の敬語で、他からこっちをあがめて云う時か、又はこっちが他を嚇《おど》かすときに用いることばで、表向きの呼び名は小者《こもの》というんです。小者じゃ幅が利かないから、御用聞きとか目明《めあか》しとかいうんですが、世間では一般に岡っ引といっていました。で、与力には同心が四、五人ぐらいずつ付いている、同心の下には岡っ引が二、三人付いている、その岡っ引の下には又四、五人の手先が付いているという順序で、岡っ引も少し好い顔になると、一人で七、八人|乃至《ないし》十人ぐらいの手先を使っていました。町奉行から小者即ち岡っ引に渡してくれる給料は一カ月に一分二朱というのが上の部で、悪いのになると一分ぐらいでした。いくら諸式の廉《やす》い時代でも一カ月に一分や一分二朱じゃあやり切れません。おまけに五人も十人も手先を抱えていて、その手先の給料はどこからも一文だって出るんじゃありませんから、親分の岡っ引が何とか面倒を見てやらなけりゃあならない。つまり初めから十露盤《そろばん》が取れないような無理な仕組みに出来あがっているんですから、自然そこにいろいろの弊害が起って来て、岡っ引とか手先とかいうと、とかく世間から蝮《まむし》扱いにされるようなことになってしまったんです。しかし大抵の岡っ引は何か別に商売をやっていました。女房の名前で湯屋をやったり小料理をやったりしていましたよ」
そういうわけで、町奉行所から公然認められているのは少数の小者即ち岡っ引だけで、多数の手先は読んで字のごとく、岡っ引の手先となって働くに過ぎない。従って岡っ引と手先とは、自然親分子分の関係をなして、手先は岡っ引の台所の飯を食っているのであった。勿論、手先の中にもなかなか立派な男があって、好い手先をもっていなければ親分の岡っ引も好い顔にはなれなかった。
半七は岡っ引の子ではなかった。日本橋の木綿店《もめんだな》の通い番頭のせがれに生まれて、彼が十三、妹のお粂《くめ》が五つのときに、父の半兵衛に死に別れた。母のお民は後家《ごけ》を立てて二人の子供を無事に育てあげ、兄の半七には父のあとを継《つ》がせて、もとのお店に奉公させようという望みであったが、道楽肌の半七は堅気の奉公を好まなかった。
「わたくしも不孝者で、若い時には阿母《おふくろ》をさんざん泣かせましたよ」
それが半七の懺悔《ざんげ》であった。肩揚げの下りないうちから道楽の味をおぼえた彼は、とうとう自分の家を飛び出して、神田の吉五郎という岡っ引の子分になった。吉五郎は酒癖のよくない男であったが、子分たちに対しては親切に面倒を見てくれた。半七は一年ばかりその手先を働いているうちに、彼の初陣《ういじん》の功名をあらわすべき時節が来た。
「忘れもしない天保|丑《うし》年の十二月で、わたくしが十九の年の暮でした」
半七老人の功名話はこうであった。
天保十二年の暦《こよみ》ももう終りに近づいた十二月はじめの陰《くも》った日であった。半七が日本橋の大通りをぶらぶらあるいていると、白木の横町から蒼い顔をした若い男が、苦労ありそうにとぼとぼと出て来た。男はこの横町の菊村という古い小間物屋の番頭であった。半七もこの近所で生まれたので、子供の時から彼を識《し》っていた。
「清さん、どこへ……」
声をかけられて清次郎は黙って会釈《えしゃく》した。若い番頭の顔色はきょうの冬空よりも陰っているのがいよいよ半七の眼についた。
「かぜでも引きなすったかえ、顔色がひどく悪いようだが……」
「いえ、なに、別に」
云おうか云うまいか清次郎の心は迷っているらしかったが、やがて近寄って来てささやくように云った。
「実はお菊さんのゆくえが知れないので……」
「お菊さんが……。一体どうしたんです」
「きのうのお午《ひる》すぎに仲働きのお竹どんを連れて、浅草の観音様へお詣りに行ったんですが、途中でお菊さんにはぐれてしまって、お竹どんだけがぼんやり帰って来たんです」
「きのうの午過ぎ……」と、半七も顔をしかめた。「そうして、きょうまで姿を見せないんですね。おふくろさんもさぞ心配していなさるだろう。まるで心当りはないんですかえ。そいつはちっと変だね」
菊村の店でも無論手分けをして、ゆうべから今朝《けさ》まで心当りを隈《くま》なく詮索しているが、ちっとも手がかりがないと清次郎は云った。彼はゆうべ碌々に睡《ねむ》らなかったらしく、紅《あか》くうるんだ眼の奥に疲れた瞳《ひとみ》ばかりが鋭く光っていた。
「番頭さん。冗談じゃない。おまえさんが連れ出して何処へか隠してあるんじゃないかえ」と、半七は相手の肩を叩いて笑った。
「いえ、飛んでもないことを……」と、清次郎は蒼い顔をすこし染めた。
娘と清次郎とがただの主従関係でないことは、半七も薄々|睨《にら》んでいた。しかし正直者の清次郎が娘をそそのかして家出させる程の悪法を書こうとも思われなかった。菊村の遠縁の親類が本郷にあるので、所詮無駄とは思いながらも、一応は念晴らしにこれから其処へも聞き合わせに行くつもりだと、清次郎は頼りなげに云った。彼のそそけた鬢《びん》の毛は師走の寒い風にさびしく戦慄《おのの》いていた。
「じゃあ、まあ試《ため》しに行って御覧なさい。わっしもせいぜい気をつけますから」
「なにぶん願います」
清次郎に別れて、半七はすぐに菊村の店へたずねて行った。菊村の店は四間半の間口で、一方の狭い抜け裏の左側に格子戸の出入り口があった。奥行きの深い家で、奥の八畳が主人の居間らしく、その前の十坪ばかりの北向きの小庭があることを、半七はかねて知っていた。
菊村の主人は五年ほど前に死んで、今は女あるじのお寅が一家の締めくくりをしていた。お菊は夫が形見の一粒種で今年十八の美しい娘であった。店では重蔵という大番頭のほかに、清次郎と藤吉の若い番頭が二人、まだほかに四人の小僧が奉公していた。奥はお寅親子と仲働きのお竹と、ほかに台所を働く女中が二人いることも、半七はことごとく記憶していた。
半七は女主人のお寅にも逢った。大番頭の重蔵にも逢った。仲働きのお竹にも逢った。しかしみんな薄暗いゆがんだ顔をして溜息をついているばかりで、娘のありかを探索することに就いて何の暗示をも半七に与えてくれなかった。
帰るときに半七はお竹を格子の外へ呼び出してささやいた。
「お竹どん。おめえはお菊さんのお供をして行った人間だから、今度の一件にはどうしても係り合いは逃がれねえぜ。内そとによく気をつけて、なにか心当りのことがあったら、きっとわっしに知らしてくんねえ。いいかえ。隠すと為にならねえぜ」
年の若いお竹は灰のような顔色をしてふるえていた。その嚇しが利いたとみえて、半七があくる朝ふたたび出直してゆくと、格子の前を寒そうに掃いていたお竹は待ち兼ねたように駈けて来た。
「あのね、半七さん。お菊さんがゆうべ帰って来たんですよ」
「帰って来た。そりゃあよかった」
「ところが、又すぐに何処へか姿を隠してしまったんですよ」
「そりゃあ変だね」
「変ですとも。……そうして、それきり又見えなくなってしまったんですもの」
「帰って来たのを誰も知らなかったのかね」
「いいえ、わたしも知っていますし、おかみさんも確かに見たんですけれども、それが又いつの間にか……」
聴く人よりも話す人の方が、いかにも腑に落ちないような顔をしていた。
二
「きのうの夕方、石町《こくちょう》の暮れ六ツが丁度きこえる頃でしたろう」と、お竹はなにか怖い物でも見たように声をひそめて話した。「この格子ががらりと明いたと思うと、お菊さんが黙って、すうっとはいって来たんですよ。ほかの女中達はみんな台所でお夜食の支度をしている最中でしたから、そこにいたのはわたしだけでした。わたしが『お菊さん』と思わず声をかけると、お菊さんはこっちをちょいと振り向いたばかりで、奥の居間の方へずんずん行ってしまいました。そのうちに奥で『おや、お菊かえ』というおかみさんの声がしたかと思うと、おかみさんが奥から出て来て『お菊はそこらに居ないか』と訊くんでしょう。わたしが『いいえ、存じません』と云うと、おかみさんは変な顔をして『だって、今そこへ来たじゃあないか。探して御覧』と云う。わたしも、おかみさんと一緒になって家中《うちじゅう》を探して見たんですけれども、お菊さんの影も形も見えないんです。店には番頭さん達もみんないましたし、台所には女中達もいたんですけれども、誰もお菊さんの出はいりを見た者はないと云うんでしょう。庭から出たかと思うんですけれども、木戸は内からちゃんと閉め切ってあるままで、ここから出たらしい様子もないんです。まだ不思議なことは、初めにはいって来た格子のなかに、お菊さんの下駄が脱いだままになって残っているじゃありませんか。今度は跣足《はだし》で出て行ったんでしょうか。それが第一わかりませんわ」
「お菊さんはその時にどんな服装《なり》をしていたね」と、半七はかんがえながら訊いた。
「おとといこの家を出たときの通りでした。黄八丈《きはちじょう》の着物をきて藤色の頭巾《ずきん》をかぶって……」
白子屋のお熊が引廻しの馬の上に黄八丈のあわれな姿をさらしてこのかた、若い娘の黄八丈は一時まったくすたれたが、このごろは又だんだんはやり出して、出世前のむすめも芝居で見るお駒を真似るのがちらほらと眼について来た。襟付の黄八丈に緋鹿子《ひかのこ》の帯をしめた可愛らしい下町《したまち》の娘すがたを、半七は頭のなかに描き出した。
「お菊さんは家を出るときには頭巾をかぶっていたのかね」
「ええ、藤色|縮緬《ちりめん》の……」
この返事は半七を少し失望させた。それから何か紛失物でもあったのかと訊くと、お竹は別にそんなことも無いようだと云った。なにしろ、ほんの僅《わず》かの間で、おかみさんが奥の八畳の居間に坐っていると、襖が細目に明いたらしいので、何ごころなく振り向くと、かの黄八丈の綿入れに藤色の頭巾をかぶった娘の姿がちらりと見えた。驚きと喜びとで思わず声をかけると、襖はふたたび音もなしに閉じられた。娘はどこかへ消えてしまったのである。もしや何処かで非業《ひごう》の最期《さいご》を遂げて、その魂が自分の生まれた家へ迷って帰ったのかとも思われるが、彼女は確かに格子をあけてはいって来た。しかも生きている者の証拠として、泥の付いた下駄を格子のなかへ遺《のこ》して行った。
「一昨日《おととい》浅草へ行った時に、娘はどこかで清さんに逢やあしなかったか」と、半七はまた訊いた。
「いいえ」
「隠しちゃあいけねえ。おめえの顔にちゃんと書いてある。娘と番頭は前から打ち合わせがしてあって、奥山の茶屋か何かで逢ったろう。どうだ」
お竹は隠し切れないでとうとう白状した。お菊は若い番頭の清次郎と疾《と》うから情交《わけ》があって、ときどき外で忍び逢っている。おとといの観音詣りも無論そのためで、待ち合わせていた清次郎と一緒にお菊は奥山の或る茶屋へはいった。取り持ち役のお竹はその場をはずして、観音の境内を半時《はんとき》ばかりも遊びあるいていた。それから再び茶屋へ帰ってくると、二人はもう見えなかった。茶屋の女の話によると、男は一と足先に帰って、娘はやがて後から出た。茶代は娘が払って行った。
「それからわたしもそこらを探して歩いたんですけれども、お菊さんはどうしても見えないんです。もしや先へ帰ったのかと思って、わたしも急いで家《うち》へ帰ってくると、家へもやっぱり帰っていないんでしょう。内所《ないしょ》で清さんに訊いて見たんですけれども、あの人も一と足先へ帰ったあとで、なんにも知らないと云うんです。でも、おかみさんにほんとうのことは云えませんから、途中ではぐれたことにしてあるんですが、清さんもわたしも、おとといから内々どんなに心配しているか知れないんです。ゆうべ帰って来て、やれ嬉しやと思うとすぐにまた消えてしまって……。一体どうしたんだか、まるで見当が付きません」
おろおろ声でお竹がささやくのを、半七は黙って聴いていた。
「なに、今に判るだろう。おかみさんにも、番頭さんにも、あまり心配しねえように云って置くがいい。きょうはこれで帰るから」
半七は神田へ帰って親分にこの話をすると、吉五郎は首をかしげて、その番頭が怪しいぜと云った。しかし半七は正直な清次郎を疑う気にはなれなかった。
「いくら正直だって、主人のむすめと不埒を働くような野郎だもの、何をするか判るもんか。あした行ったらその番頭を引っぱたいてみろ」と、吉五郎は云った。
その明くる朝の四ツ(十時)頃に半七が重ねて菊村の店へ見廻りにゆくと、店の前には大勢の人が立っていた。大勢は何かひそひそ囁《ささや》きながら好奇と不安の眼をけわしくして内を覗《のぞ》き込んでいた。近所の犬までが大勢の足の下をくぐって仔細ありげにうろついていた。裏へまわって格子をあけると、狭い沓脱《くつぬぎ》は草履や下駄で埋められていた。お竹は泣き顔をしてすぐ出て来た。
「おい。何かあったのかい」
「おかみさんが殺されて……」
お竹は声を立てて泣き出した。半七もさすがに呆気《あっけ》に取られた。
「誰に殺されたんだ」
返事もしないでお竹はまた泣き出した。賺《すか》して嚇《おど》してその仔細をきくと、女あるじのお寅はゆうべ何者にか殺されたのである。表向きは何者か判らないと云っているが、実は娘のお菊が手をくだしたのである。お竹はたしかにそれを見たと云った。お竹ばかりでなく、女中のお豊もお勝も、おなじくお菊の姿を見たとのことであった。
果たしてそれが偽りでなければ、お菊は云うまでもなく親殺しの罪人である。事件は非常に重大なものとなって半七の前にあらわれた。今まではさのみ珍らしくもない町家の娘と奉公人の色事と多寡《たか》をくくっていた半七は、この重大事件にぶつかって少し面喰らった。
「だが、こういう時に腕を見せなけりゃあいけねえ」と、年の若い彼は努めて勇気をふるい興した。
娘はさきおととい行くえ不明となった。それがおとといの晩、ふらりと帰って来て、すぐに又その姿を隠してしまった。そうしてゆうべまた帰って来たかと思うと、今度は母を殺して逃げた。これには余程こみいった事情がまつわっていなければならないと想像された。
「そうして、娘はどうした」
「どうしたか判らないんです」と、お竹はまた泣いた。
かれが泣きながら訴えるのを聞くと、ゆうべも前夜とおなじ燈《ひ》ともし頃に、お菊はわが家へおなじ形を現わした。今度はどこからはいって来たか判らなかったが、奥でおかみさんが突然に「おや、お菊……」と叫んだ。つづいておかみさんが悲鳴をあげた。お竹とほかの女中二人がおどろいて駈けつけた時に、縁側へするりと抜け出してゆくお菊のうしろ姿が見えた。お菊はやはり黄八丈を着て、藤色の頭巾をかぶっていた。
三人はお菊を取押えるよりも、まずおかみさんの方に眼を向けなければならなかった。お寅は左の乳の下を刺されて虫の息で倒れていた。畳の上には一面に紅い泉が流れていた。三人はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫んで立ちすくんでしまった。店の人達もこの声におどろいてみんな駈け付けて来た。
「お菊が……お菊が……」
お寅は微かにこう云ったらしいが、その以上のことは誰の耳にも聴き取れなかった。彼女は大勢が唯うろたえているうちに息を引き取ってしまった。町《ちょう》役人連名で訴えて出ると、すぐに検視の役人が来た。お寅の傷口は鋭い匕首《あいくち》のようなもので深くえぐられていることが発見された。
家内の者はみな調べられた。うっかりしたことを口外して店の暖簾《のれん》に疵を付けてはならないという遠慮から、誰も下手人《げしゅにん》を知らないと答えた。しかし娘のお菊が居合わせないということが役人たちの注意をひいたらしい。お菊と情交《わけ》のあることを発見された清次郎は、その場からすぐに引っ立てられて行った。お竹にはまだ何の沙汰《さた》もないが、いずれ町内預けになるだろうと、彼女は生きている空もないように恐れおののいていた。
「飛んだことになったもんだ」と、半七は思わず溜息をついた。
「わたしはどうなるでしょう」と、お竹はまきぞえの罪がどれほどに重いかをひたすらに恐れているらしかった。そうして「わたし、もういっそ死んでしまいたい」などと狂女のように泣き悲しんでいた。
「馬鹿云っちゃあいけねえ。おめえは大事の証人じゃねえか」と、半七は叱るように云った。
「いずれ御用聞きが一緒に来たろうが、誰が来た」
「なんでも源太郎さんとかいう人だそうです」
「むむ、そうか。瀬戸物町か」
源太郎は瀬戸物町に住んでいる古顔の岡っ引で、好い子分も大勢もっている。一番こいつの鼻をあかして俺の親分に手柄をさしてやりたいと、半七の胸には強い競争の念が火のように燃え上がった。併しどこから手を着けていいのか、彼もすぐには見当が付かなかった。
「ゆうべも娘は頭巾をかぶっていたんだね」
「ええ。やっぱりいつもの藤色でした」
「さっきの話じゃあ、娘はどさくさまぎれに縁側へ抜け出して、それから行くえが知れねえんだね。おい、木戸をあけておいらを庭口へ廻らしてくれねえか」と、半七は云った。
お竹が奥へ取次いだとみえて、大番頭の重蔵が眼をくぼませて出て来た。
「どうも御苦労様でございます。どうぞ直ぐにこちらへ……」
「飛んだこってしたね。お取り込みの中へずかずかはいるのも良くねえから、すぐに庭口へ廻ろうと思ったんですが、それじゃあ御免を蒙ります」
半七は奥へ案内されて、お寅の血のあとがまだ乾かない八畳の居間へ通った。彼がかねて知っている通り、縁側は北に向っていて、前には十坪ばかりの小庭があった。庭には綺麗に手入れが行きとどいていて、雪釣りの松や霜除けの芭蕉が冬らしい庭の色を作っていた。
「縁側の雨戸は開《あ》いていたんですか」と、半七は訊いた。
「雨戸はみんな閉めてあったんですが、その手水鉢《ちょうずばち》の前だけが、いつも一枚細目にあけてありますので……」と、案内して来た重蔵は説明した。「勿論それは宵の内だけで、寝る時分にはぴったり閉めてしまいます」
半七は無言で高い松の梢《こずえ》をみあげた。闖入者はこの松を伝って来たものらしくも思われなかった。忍び返しの竹にも損所はなかった。
「ずいぶん高い塀ですね」
「はい、ゆうべもお役人衆が御覧になって、この高い塀を乗り越して来るのは容易でない。と云って、梯子《はしご》をかけた様子もなし、松を伝って来たらしくも思われない。これは庭口から忍び込んだのではあるまいと仰しゃいました。併しどこからはいったにしましても、出る時はこの庭口から出たに相違ないように思われますが、木戸の錠《じょう》は内から固くおろしたままになっていますので、何処をどうして出て行ったかさっぱり判りません」と、重蔵は陰《くも》った眼をいよいよ陰らせて、無意味にそこらを見廻していた。
「左様さ。忍び返しにも疵をつけず、松の枝にもさわらずに、この高塀を乗り越すというのは生優《なまやさ》しいことじゃあねえ」
どう考えても、これは町家の娘などに出来そうな芸ではなかった。曲者はよほど経験に富んだ奴に相違ないと半七は鑑定した。併しその場へ駈けつけた三人の女は、たしかにお菊のうしろ姿を見たという。それには何かの錯誤《あやまり》がなければならないと彼は又かんがえた。
彼は更に念のために、庭下駄を穿《は》いて狭い庭の隅々を見まわると、庭の東の隅には大きい石燈籠が立っていた。よほど時代が経っていると見えて、笠も台石も蒼黒い苔《こけ》のころもに隙き間なく包まれていた。一種の湿気《しっけ》を帯びた苔の匂いが、この老舗《しにせ》の古い歴史を語るようにも見えた。
「好い石燈籠だ。近頃にこれをいじりましたか」と、半七は何げなく訊いた。
「いいえ、昔から誰も手を着けたことはありません。こんなに見事に苔が付いているから、滅多《めった》にさわっちゃいけないと、お内儀《かみ》さんからもやかましく云われていますので……」
「そうですか」
滅多にさわることを禁じられているという古い石燈籠の笠の上に、人の足あとが微かに残っていることを、半七はふと見つけ出したのであった。あつい青苔の表は小さい爪先の跡だけ軽く踏みにじられていた。
三
苔に残っている爪先の跡はちいさかった。男ならば少年でなければならない。半七はどうも女の足跡らしいと認めた。この曲者はよほど経験に富んだ奴と想像していた半七の鑑定は外《はず》れたらしい。女とすればやはりお菊であろうか。たとい石燈籠を足がかりにしても、町育ちの若い娘がこの高塀を自由自在に昇り降りすることは、とても出来そうには思われなかった。
半七はなにを考えたか、すぐに菊村の店を出て、現代の浅草公園第六区を更に不秩序に、更に幾倍も混雑させたような両国の広小路に向った。
もうかれこれ午《ひる》頃で、広小路の芝居や寄席も、向う両国の見世物小屋も、これからそろそろ囃《はや》し立てようとする時刻であった。むしろを垂れた小屋のまえには、弱々しい冬の日が塵埃《ほこり》にまみれた絵看板を白っぽく照らして、色のさめた幟《のぼり》が寒い川風にふるえていた。列《なら》び茶屋の門《かど》の柳が骨ばかりに痩せているのも、今年の冬が日ごとに暮れてゆく暗い霜枯れの心持を見せていた。それでも場所柄だけに、どこからか寄せて来る人の波は次第に大きくなって来るらしい。その混雑の中をくぐりぬけて、半七は列び茶屋の一軒にはいった。
「どうだい。相変らず繁昌かね」
「親分、いらっしゃい」と、色の白い娘がすぐに茶を汲《く》んで来た。
「おい、姐さん。早速だが少し聞きてえことがあるんだ。あの小屋に出ている春風|小柳《こりゅう》という女の軽業師《かるわざし》、あいつの亭主は何といったっけね」
「ほほほほほ。あの人はまだ亭主持ちじゃありませんわ」
「亭主でも情夫《いろ》でも兄弟でも構わねえ。あの女に付いている男は誰だっけね」
「金さんのこってすか」と、娘は笑いながら云った。
「そう、そう。金次といったっけ。あいつの家は向う両国だね。小柳も一緒にいるんだろう」
「ほほ、どうですか」
「金次は相変らず遊んでいるだろう」
「なんでも元は大きい呉服屋に奉公していたんだそうですが、小柳さんのところへ反物を持って行ったのが縁になって……。小柳さんよりずっと年の若い、おとなしそうな人ですよ」
「ありがてえ。それだけ判りゃあ好いんだ」
半七はそこを出て、すぐそばの見世物小屋にはいった。この小屋は軽業師の一座で、舞台では春風小柳という女が綱渡りや宙乗りのきわどい曲芸を演じていた。小柳は白い仮面《めん》をかぶったような厚化粧をして、せいぜい若々しく見せているが、ほんとうの年齢《とし》はもう三十に近いかも知れない。墨で描いたらしい濃い眉と、紅を眼縁《まぶた》にぼかしたらしい美しい眼とを絶えず働かせながら、演技中にも多数の見物にむかって頻りに卑しい媚《こび》を売っている。それがたまらなく面白いもののように、見物は口をあいてみとれていた。半七はしばらく舞台を見つめていたが、やがて又ここを出て向う両国へ渡った。
駒止《こまとめ》橋の獣肉屋《ももんじいや》に近い路地のなかに、金次の家のあることを探しあてて、半七は格子の外から二、三度声をかけたが、中では返事をする者もなかった。よんどころなしに隣りの家へ行って訊くと、金次は家を明けっ放しにして近所の銭湯《せんとう》へ行ったらしいとのことであった。
「わたしは山の手からわざわざ訪ねて来た者ですが、そんなら帰るまで入口に待っています」
隣りのおかみさんに一応ことわって、半七は格子の中へはいった。上がり框《かまち》に腰をかけて煙草を一服すっているうちに、かれはふと思い付いて、そっと入口の障子を細目にあけた。内は六畳と四畳半の二間で、入口の六畳には長火鉢が据えてあった。次の四畳半には炬燵《こたつ》が切ってあるらしく、掛け蒲団[#「蒲団」は底本では「薄団」]の紅い裾がぞんざいに閉めた襖の間からこぼれ出していた。
半七は上がり框から少し伸びあがって窺うと、四畳半の壁には黄八丈の女物が掛かっているらしかった。彼は草履をぬいでそっと内へ這《は》い込んだ。四畳半の襖の間からよく視ると、壁にかかっている女の着物は確かに黄八丈で、袖のあたりがまだ湿《ぬ》れているらしいのは、おそらく血の痕を洗って此処にほしてあるものと想像された。半七はうなずいて元の入口に返った。
その途端に溝板《どぶいた》を踏むあしおとが近づいて、隣りのおかみさんに挨拶する男の声がきこえた。
「留守に誰か来ている。ああ、そうですか」
金次が帰って来たなと思ううちに、格子ががらりとあいて、半七とおなじ年頃の若い小粋な男がぬれ手拭をさげてはいって来た。金次はこのごろ小|博奕《ばくち》などを打ち覚えて、ぶらぶら遊んでいる男で、半七とはまんざら識らない顔でもなかった。
「やあ、神田の大哥《あにい》ですか。お珍らしゅうございますね。まあお上がんなさい」
相手がただの人と違うので、金次は愛想よく半七を招じ入れて長火鉢の前に坐らせた。そうして、時候の挨拶などをしている間にも、なんとなく落ち着かない彼の素振りが半七の眼にはありありと読まれた。
「おい、金次。俺あ初めにおめえにあやまって置くことがあるんだ」
「なんですね、大哥。改まってそんなことを……」
「いや、そうでねえ。いくら俺が御用を勤める身の上でも、ひとの家へ留守に上がり込んで、奥を覗いたのは悪かった。どうかまあ、堪忍してくんねえ」
火鉢に炭をついでいた金次はたちまち顔色を変えて、唖《おし》のように黙ってしまった。彼の手に持っている火箸は、かちかちと鳴るほどにふるえた。
「あの黄八丈は小柳のかい。いくら芸人でもひどく派手な柄を着るじゃあねえか。尤《もっと》もおめえのような若い亭主をもっていちゃあ、女はよっぽど若作りにしにゃあなるめえが……。ははははは。おい、金次、なぜ黙っているんだ。愛嬌のねえ野郎だな。受け賃に何かおごって、小柳の惚気《のろけ》でも聞かせねえか。おい、おい、なんとか返事をしろ。おめえも年上の女に可愛がられて、なにから何まで世話になっている以上は、たとい自分の気に済まねえことでも、女がこうと云やあ、よんどころなしに片棒かつぐというような苦しい破目《はめ》がねえとも限らねえ。そりゃあ俺も万々察しているから、出来るだけのお慈悲は願ってやる。どうだ、何もかも正直に云ってしまえ」
くちびるまで真っ蒼になってふるえていた金次は、圧《お》し潰《つぶ》されたように畳に手を突いた。
「大哥《あにい》、なにもかも申し上げます」
「神妙によく云った。あの黄八丈は菊村の娘のだろうな。てめえ一体あの娘をどこから連れて来た」
「わたしが連れて来たんじゃないんです」と、金次は哀れみを乞うような悲しい眼をして、相手の顔をそっと見上げた。「実はさきおとといの午《ひる》まえに、小柳と二人で浅草へ遊びに行ったんです。酔うとあいつの癖で、きょうはもう商売を休むというのを、無理になだめて帰ろうとしても、あいつがなかなか承知しないんです。もっともあんな派手な稼業はしていても、銭遣いがあらいのと、私がこのごろ景気が悪いんで、方々に無理な借金はできる。この歳の暮は大御難《おおごなん》で、あいつも少し自棄《やけ》になっているようですから、仕方なしにお守《もり》をしながら午過ぎまで奥山あたりをうろついていると、或る茶屋から若い番頭が出てくる。つづいて小綺麗な娘が出て来ました。それを小柳が見て、あれは日本橋の菊村の娘だ。おとなしいような顔をしていながら、こんなところで番頭と出会いをしていやあがる。あいつを一番食い物にしてやろうと……」
「小柳はどうして菊村の娘ということを知っていたんだ」と、半七は喙《くち》をいれた。
「そりゃあ時々に紅や白粉を買いに行くからです。菊村は古い店ですからね。そこで私はすぐに駕籠を呼びに行きました。そのあいだ何と云って誘って来たのか知りませんが、とうとう其の娘を馬道《うまみち》の方へ引っ張り出して来たんです。駕籠は二挺で、小柳と娘が駕籠に乗って先へ行って、わたしは後からあるいて帰りました。帰ってみると、娘は泣いている。近所へきこえると面倒だから、猿轡《さるぐつわ》を嵌《は》めて戸棚のなかへ押し込んでおけと小柳が云うんです。あんまり可哀そうだとは思いましたが、ええ意気地のねえ、何をぐずぐずしているんだねと、あいつが無暗《むやみ》に剣突《けんつく》を食わせるもんですから、わたしも手伝って奥の戸棚へ押し込んでしまいました」
「小柳という奴は、よくねえ女だということは、おれも前から聞いていたが、まるで一つ家のばばあだな。それからどうした」
「その晩すぐ近所の山女衒《やまぜげん》を呼んで来て、潮来《いたこ》へ年一杯四十両ということに話がきまりました。安いもんだが仕方がないというんで、あくる朝、駕籠に乗せて女衒と一緒に出してやりましたが、その女衒の帰らないうちは一文もこっちの手にはいらない。なにしろもう十二月の声を聞いてからは、毎日のようにいろいろの鬼が押し寄せてくる。苦しまぎれに小柳は又こんなことを考え出したのです。娘を潮来へやるときに、売物には花とかいうんで、着ていた黄八丈を引っぱがして、小柳のよそ行きと着換えさせてやったもんですから、娘の着物はそっくりこっちに残っている」
「むむ。その黄八丈の着物と藤色の頭巾で、小柳が娘に化けて菊村へ忍び込んだな。やっぱり金を取るつもりか」
「そうです」と、金次はうなずいた。「金は手箱に入れておふくろの居間にしまってあるということは、娘をおどして聞いて置いたんです」
「それじゃあ始めからその積りだったんだろう」
「どうだか判りませんが、小柳は苦しまぎれによんどころなく斯《こ》んなことをするんだと云っていました。だが、おとといの晩は巧く行かないで、すごすご帰って来ました。今夜こそはきっと巧くやって来ると云って、ゆうべも夕方から出て行きましたが……。やっぱり手ぶらで帰って来て、『今夜もまたやり損じた。おまけに嬶《かかあ》が大きな声を出しゃあがったから、自棄《やけ》になって土手っ腹をえぐって来た』と、こう云うんです。大哥の前ですが、わたしはふるえて、しばらくは口が利けませんでしたよ。袖に血が付いているのを見ると嘘じゃあない。飛んでもないことをしてくれたと思っていますと、それでも当人は澄ましたもので『なあに、大丈夫さ。この頭巾と着物が証拠で、世間じゃあ娘が殺したと思っているに相違ない』と云っているんです。そうして、着物の血を洗って、あすこへほして、きょうも相変らず小屋へ出て行きました」
「いい度胸だな。おめえの情婦《いろ》にゃあ過ぎ物だ」と、半七は苦笑いをした。「だが、正直に何もかもよく云ってくれた。おめえも飛んだ女に可愛がられたのが運の尽きだ。小柳はどうで獄門だが、おめえの方は云い取り次第で、首だけは繋がるに相違ねえ。まあ、安心していろ」
「どうぞ御慈悲を願います。わたしは全く意気地のない人間なんで、ゆうべもおちおち寝られませんでした。大哥の顔を一と目見た時に、こりゃあもういけねえと往生してしまいました。あの女には義理が悪いようですけれども、私のような者はこうして何もかもすっかり白状してしまった方が、胸が軽くなって却って好うございますよ」
「じゃあ気の毒だが、すぐに神田の親分の所まで一緒に来てくれ。どの道、当分は娑婆《しゃば》は見られめえから、まあ、ゆっくり支度をして行くがいいや」
「ありがとうございます」
「真っ昼間だ。近所の手前もあるだろう。縄は勘弁してやるぜ」と、半七は優しく云った。
「ありがとうございます」
金次は重ねて礼を云った。かれの眼は意気地なくうるんでいた。
おたがいに若い身体だ。こう思うと半七は、自分のとりことなって牽《ひ》かれて行くこの弱々しい若い男がいじらしくてならなかった。
四
半七の報告を聴いて、親分の吉五郎は金杉の浜で鯨をつかまえたほどに驚いた。
「犬もあるけば棒にあたると云うが、手前もうろうろしているうちに、ど偉いことをしやがったな。まだ駈け出しだと思っていたら油断のならねえ奴だ。いい、いい、なにしろ大出来だ、てめえの骨を盗むような俺じゃあねえ。てめえの働きはみんな旦那方に申し立ててやるからそう思え。それにしても、その小柳という奴を早く引き挙げてしまわなけりゃならねえ。女でも生けっぷてえ奴だ。なにをするか知れねえから、誰か行って半七を助《す》けてやれ」
物馴れた手先ふたりが半七を先に立てて再び両国へむかったのは、短い冬の日ももう暮れかかって、見世物小屋がちょうど閉《は》ねる頃であった。二人は外に待っていて、半七だけが小屋へはいると、小柳は楽屋で着物を着替えていた。
「わたしは神田の吉五郎のところから来たが、親分がなにか用があると云うから、御苦労だがちょっと来てくんねえ」と、半七は何げなしに云った。
小柳の顔には暗い影が翳《さ》した。しかし案外おちついた態度で寂しく笑った。
「親分が……。なんだか忌《いや》ですわねえ。なんの御用でしょう」
「あんまりおめえの評判が好いもんだから、親分も乙な気になったのかも知れねえ」
「あら、冗談は措《お》いて、ほんとうに何でしょう。お前さん、大抵知っているんでしょう」
衣装|葛籠《つづら》にしなやかな身体をもたせながら、小柳は蛇のような眼をして半七の顔を窺っていた。
「いや、おいらはほんの使い奴《やっこ》だ。なんにも知らねえ。なにしろ大して手間を取らせることじゃあるめえから、世話を焼かせねえで素直に来てくんねえ」
「そりゃあ参りますとも……。御用とおっしゃりゃあ逃げ隠れは出来ませんからね」と、小柳は煙草入れを取り出してしずかに一服すった。
隣りのおででこ芝居では打出しの太鼓がきこえた。ほかの芸人たちも一種の不安に襲われたらしく、息を殺して遠くから二人の問答に耳を澄ましていた。狭い楽屋の隅々は暗くなった。
「日が短けえ。親分も気が短けえ。ぐずぐずしていると俺まで叱られるぜ。早くしてくんねえ」
と、半七は焦《じ》れったそうに催促した。
「はい、はい。すぐにお供します」
ようやく楽屋を出て来た小柳は、そこの暗いかげにも二人の手先が立っているのを見て、くやしそうに半七の方をじろりと睨《にら》んだ。
「おお、寒い。日が暮れると急に寒くなりますね」と、彼女は両袖を掻《か》きあわせた。
「だから、早く行きねえよ」
「なんの御用か存じませんが、もし直きに帰して頂けないと困りますから、家《うち》へちょいと寄らして下さるわけには参りますまいか」
「家へ帰ったって、金次はいねえぞ」と、半七は冷やかに云った。
小柳は眼を瞑《と》じて立ち止まった。やがて再び眼をあくと、長い睫毛《まつげ》には白い露が光っているらしかった。
「金さんは居りませんか。それでもあたしは女のことですから、少々支度をして参りとうございますから」
三人に囲まれて、小柳は両国橋を渡った。彼女はときどきに肩をふるわせて、遣《や》る瀬《せ》ないように啜《すす》り泣きをしていた。
「金次がそんなに恋しいか」
「あい」
「おめえのような女にも似合わねえな」
「察してください」
長い橋の中ほどまで来た頃には、河岸《かし》の家々には黄いろい灯のかげが疎《まば》らにきらめきはじめた。大川の水の上には鼠色の煙りが浮かび出して、遠い川下が水明かりで薄白いのも寒そうに見えた。橋番の小屋でも行燈に微かな蝋燭の灯を入れた。今夜の霜を予想するように、御船蔵《おふなぐら》の上を雁の群れが啼いて通った。
「もしあたしに悪いことでもあるとしたら、金さんはどうなるでしょうね」
「そりゃあ当人の云い取り次第さ」
小柳は黙って眼を拭いていた。と思うと、彼女はだしぬけに叫んだ。
「金さん、堪忍しておくれよ」
そばにいる半七を力まかせに突き退けて、小柳は燕《つばめ》のように身をひるがえして駈け出した。さすがは軽業師だけにその捷業《はやわざ》は眼にも止まらない程であった。彼女は欄干に手をかけたかと見る間もなく、身体はもうまっさかさまに大川の水底に呑まれていた。
「畜生!」と、半七は歯を噛んだ。
水の音を聞いて橋番も出て来た。御用という名で、すぐに近所の船頭から舟を出させたが、小柳は再び浮き上がらなかった。あくる日になって向う河岸の百本杭に、女の髪がその昔の浅草|海苔《のり》のように黒くからみついているのを発見した。引き揚げて見ると、その髪の持ち主は小柳であったので、凍った死体は河岸の朝霜に晒《さら》されて検視を受けた。女の軽業師はとうとう命の綱を踏み外してしまった。それが江戸中の評判となって、半七の名もまた高くなった。
菊村ではすぐ人をやって、まだ目見得《めみえ》中のお菊を無事に潮来から取り戻した。
「今考えると、あの時はまるで夢のようでございました。清次郎は一と足先に帰ってしまって、わたくしはなんだか寂しくなったものですから、お竹の帰ってくるのを待ち兼ねて、なんの気なしに表へ出ますと、大きい樹の下に前から顔を識っている軽業師の小柳が立っていて、清さんが今そこで急病で倒れたからすぐに来てくれと云うのでございます。わたくしはびっくりして一緒に行きますと、清さんは駕籠でお医者の家へかつぎ込まれたから、お前さんも後から駕籠で行ってくれと無理やりに駕籠に乗せられて、やがて何処だか判らない薄暗い家へ連れ込まれてしまったのでございます。そうすると、小柳の様子が急に変って、もう一人の若い男と一緒に、わたくしを散々ひどい目に逢わせまして、それから又遠いところへ送りました。わたくしはもう半分は死んだ者のように茫《ぼう》となってしまいまして、なにをどうしようという知恵も分別《ふんべつ》も出ませんでした」と、お菊は江戸へ帰ってから係り役人の取り調べに答えた。
番頭の清次郎は単に「叱り置く」というだけで赦《ゆる》された。
小柳は自滅して仕置を免かれたが、その死に首はやはり小塚ッ原に梟《か》けられた。金次は同罪ともなるべきものを格別の御慈悲を以て遠島申し付けられて、この一件は落着《らくちゃく》した。
「これがまあ私の売出す始めでした」と、半七老人は云った。「それから三、四年も経つうちに、親分の吉五郎は霍乱《かくらん》で死にました。その死にぎわに娘のお仙と跡式一切をわたくしに譲って、どうか跡《あと》を立ててくれろという遺言があったもんですから、子分たちもとうとうわたくしを担《かつ》ぎ上げて二代目の親分ということにしてしまいました。わたくしが一人前の岡っ引になったのはこの時からです。
その時にどうして小柳に目串《めぐし》を差したかと云うんですか。そりゃあ先刻《さっき》もお話し申した通り、石燈籠の足跡からです。苔に残っている爪先がどうしても女の足らしい。と云って、大抵の女があの高塀を無雑作《むぞうさ》に昇り降りすることが出来るもんじゃあない。よほど身体の軽い奴でなけりゃあならないと思っているうちに、ふいと軽業師ということを思い付いたんです。女の軽業師は江戸にもたくさんありません。そのなかでも両国の小屋に出ている春風小柳という奴はふだんから評判のよくない女で、自分よりも年の若い男に入れ揚げているということを聞いていましたから、多分こいつだろうとだんだん手繰って行くと、案外に早く埒が明いてしまったんです。金次という奴は伊豆の島へやられたんですが、その後なんでも赦《しゃ》に逢って無事に帰って来たという噂を聞きました。
菊村の店では番頭の清次郎を娘の聟にして、相変らず商売をしていましたが、いくら老舗《しにせ》でも一旦ケチが付くとどうもいけないものと見えて、それから後は商売も思わしくないようで、江戸の末に芝の方へ引っ越してしまいましたが、今はどうなったか知りません。
どっちにしても助からない人間じゃあありますけれども、小柳を大川へ飛び込ましたのは残念でしたよ。つまりこっちの油断ですね。つかまえるまでは気が張っていますけれども、もう捕まえてしまうと誰でも気がゆるむものですから、油断して縄抜けなんぞを食うことが時々あります。
まだ面白い話はないかと云うんですか。自分の手柄話ならば幾らもありますよ。はははは。その内にまた遊びにいらっしゃい」
「ぜひ又話して貰いに来ますよ」
わたしは半七老人と約束して別れた。
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(一)」光文社文庫、光文社
1985(昭和60)年11月20日初版1刷発行
1997(平成9)年3月25日20刷発行
※誤植の疑われる「薄団」は、「半七捕物帳 巻の一」筑摩書房、1998(平成10)年6月25日初版第1刷発行、1998(平成10)年10月15日初版第2刷発行、「半七捕物帳【続】」大衆文学館、講談社、1997(平成9)年3月20日第1刷発行がともに「蒲団」としていることを確認しました。
入力:砂場清隆
校正:大野晋
2002年5月15日作成
2004年2月29日修正
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