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老妓抄
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)素人《しろうと》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)自分の年|恰好《かっこう》から

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しもたや[#「しもたや」に傍点]風の
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 平出園子というのが老妓の本名だが、これは歌舞伎俳優の戸籍名のように当人の感じになずまないところがある。そうかといって職業上の名の小そのとだけでは、だんだん素人《しろうと》の素朴な気持ちに還ろうとしている今日の彼女の気品にそぐわない。
 ここではただ何となく老妓といって置く方がよかろうと思う。
 人々は真昼の百貨店でよく彼女を見かける。
 目立たない洋髪に結び、市楽《いちらく》の着物を堅気風につけ、小女一人連れて、憂鬱な顔をして店内を歩き廻る。恰幅《かっぷく》のよい長身に両手をだらりと垂らし、投出して行くような足取りで、一つところを何度も廻り返す。そうかと思うと、紙凧《かみだこ》の糸のようにすっとのして行って、思いがけないような遠い売場に佇《たたず》む。彼女は真昼の寂しさ以外、何も意識していない。
 こうやって自分を真昼の寂しさに憩《いこ》わしている、そのことさえも意識していない。ひょっと目星《めぼし》い品が視野から彼女を呼び覚すと、彼女の青みがかった横長の眼がゆったりと開いて、対象の品物を夢のなかの牡丹《ぼたん》のように眺める。唇が娘時代のように捲《まく》れ気味に、片隅へ寄ると其処に微笑が泛《うか》ぶ。また憂鬱に返る。
 だが、彼女は職業の場所に出て、好敵手が見つかると、はじめはちょっと呆《ほう》けたような表情をしたあとから、いくらでも快活に喋舌《しゃべ》り出す。
 新喜楽のまえの女将《おかみ》の生きていた時分に、この女将と彼女と、もう一人新橋のひさごあたりが一つ席に落合って、雑談でも始めると、この社会人の耳には典型的と思われる、機知と飛躍に富んだ会話が展開された。相当な年配の芸妓たちまで「話し振りを習おう」といって、客を捨てて老女たちの周囲に集った。
 彼女一人のときでも、気に入った若い同業の女のためには、経験談をよく話した。
 何も知らない雛妓《おしゃく》時代に、座敷の客と先輩の間に交される露骨な話に笑い過ぎて畳の上に粗相をしてしまい、座が立てなくなって泣き出してしまったことから始めて、囲いもの時代に、情人と逃げ出して、旦那におふくろを人質にとられた話や、もはや抱妓《かかえっこ》の二人三人も置くような看板ぬしになってからも、内実の苦しみは、五円の現金を借りるために、横浜往復十二円の月末払いの俥に乗って行ったことや、彼女は相手の若い妓たちを笑いでへとへとに疲らせずには措《お》かないまで、話の筋は同じでも、趣向は変えて、その迫り方は彼女に物《もの》の怪《け》がつき、われ知らずに魅惑の爪を相手の女に突き立てて行くように見える。若さを嫉妬《しっと》して、老いが狡猾《こうかつ》な方法で巧みに責め苛《さいな》んでいるようにさえ見える。
 若い芸妓たちは、とうとう髪を振り乱して、両脇腹を押え喘《あえ》いでいうのだった。
「姐《ねえ》さん、頼むからもう止してよ。この上笑わせられたら死んでしまう」
 老妓は、生きてる人のことは決して語らないが、故人で馴染《なじみ》のあった人については一皮|剥《む》いた彼女独特の観察を語った。それ等の人の中には思いがけない素人や芸人もあった。
 中国の名優の梅蘭芳《メイランファン》が帝国劇場に出演しに来たとき、その肝煎《きもい》りをした某富豪に向って、老妓は「費用はいくらかかっても関《かま》いませんから、一度のおりをつくって欲しい」と頼み込んで、その富豪に宥《なだ》め返されたという話が、嘘か本当か、彼女の逸話の一つになっている。
 笑い苦しめられた芸妓の一人が、その復讐のつもりもあって
「姐さんは、そのとき、銀行の通帳を帯揚げから出して、お金ならこれだけありますと、その方に見せたというが、ほんとうですか」と訊《き》く。
 すると、彼女は
「ばかばかしい。子供じゃあるまいし、帯揚げのなんのって……」
 こどものようになって、ぷんぷん怒るのである。その真偽はとにかく、彼女からこういううぶな態度を見たいためにも、若い女たちはしばしば訊いた。
「だがね。おまえさんたち」と小そのは総《すべ》てを語ったのちにいう、「何人男を代えてもつづまるところ、たった一人の男を求めているに過ぎないのだね。いまこうやって思い出して見て、この男、あの男と部分々々に牽《ひ》かれるものの残っているところは、その求めている男の一部一部の切れはしなのだよ。だから、どれもこれも一人では永くは続かなかったのさ」
「そして、その求めている男というのは」と若い芸妓たちは訊き返すと
「それがはっきり判れば、苦労なんかしやしないやね」それは初恋の男のようでもあり、また、この先、見つかって来る男かも知れないのだと、彼女は日常生活の場合の憂鬱な美しさを生地で出して云《い》った。
「そこへ行くと、堅気さんの女は羨《うらやま》しいねえ。親がきめてくれる、生涯ひとりの男を持って、何も迷わずに子供を儲《もう》けて、その子供の世話になって死んで行く」
 ここまで聴くと、若い芸妓たちは、姐《ねえ》さんの話もいいがあとが人をくさらしていけないと評するのであった。

 小そのが永年の辛苦で一通りの財産も出来、座敷の勤めも自由な選択が許されるようになった十年ほど前から、何となく健康で常識的な生活を望むようになった。芸者屋をしている表店と彼女の住っている裏の蔵附の座敷とは隔離してしまって、しもたや[#「しもたや」に傍点]風の出入口を別に露地から表通りへつけるように造作したのも、その現われの一つであるし、遠縁の子供を貰って、養女にして女学校へ通わせたのもその現われの一つである。彼女の稽古事が新時代的のものや知識的のものに移って行ったのも、或はまたその現われの一つと云えるかも知れない。この物語を書き記す作者のもとへは、下町のある知人の紹介で和歌を学びに来たのであるが、そのとき彼女はこういう意味のことを云った。
 芸者というものは、調法ナイフのようなもので、これと云って特別によく利《き》くこともいらないが、大概なことに間に合うものだけは持っていなければならない。どうかその程度に教えて頂きたい。この頃は自分の年|恰好《かっこう》から、自然上品向きのお客さんのお相手をすることが多くなったから。
 作者は一年ほどこの母ほども年上の老女の技能を試みたが、和歌は無い素質ではなかったが、むしろ俳句に適する性格を持っているのが判ったので、やがて女流俳人の某女に紹介した。老妓はそれまでの指導の礼だといって、出入りの職人を作者の家へ寄越して、中庭に下町風の小さな池と噴水を作ってくれた。
 彼女が自分の母屋《おもや》を和洋折衷風に改築して、電化装置にしたのは、彼女が職業先の料亭のそれを見て来て、負けず嫌いからの思い立ちに違いないが、設備して見て、彼女はこの文明の利器が現す働きには、健康的で神秘なものを感ずるのだった。
 水を口から注ぎ込むとたちまち湯になって栓口から出るギザーや、煙管《きせる》の先で圧《お》すと、すぐ種火が点じて煙草に燃えつく電気|莨盆《たばこぼん》や、それらを使いながら、彼女の心は新鮮に慄《ふる》えるのだった。
「まるで生きものだね、ふーム、物事は万事こういかなくっちゃ……」
 その感じから想像に生れて来る、端的で速力的な世界は、彼女に自分のして来た生涯を顧みさせた。
「あたしたちのして来たことは、まるで行燈《あんどん》をつけては消し、消してはつけるようなまどろい生涯だった」
 彼女はメートルの費用の嵩《かさ》むのに少なからず辟易《へきえき》しながら、電気装置をいじるのを楽しみに、しばらくは毎朝こどものように早起した。
 電気の仕掛けはよく損じた。近所の蒔田《まきた》という電気器具商の主人が来て修繕した。彼女はその修繕するところに附纏《つきまと》って、珍らしそうに見ているうちに、彼女にいくらかの電気の知識が摂《と》り入れられた。
「陰の電気と陽の電気が合体すると、そこにいろいろの働きを起して来る。ふーむ、こりゃ人間の相性とそっくりだねえ」
 彼女の文化に対する驚異は一層深くなった。
 女だけの家では男手の欲しい出来事がしばしばあった。それで、この方面の支弁も兼ねて蒔田が出入していたが、あるとき、蒔田は一人の青年を伴って来て、これから電気の方のことはこの男にやらせると云った。名前は柚木《ゆき》といった。快活で事もなげな青年で、家の中を見廻しながら「芸者屋にしちゃあ、三味線がないなあ」などと云った。度々来ているうち、その事もなげな様子と、それから人の気先を[#底本は「気先は」と誤植]撥《は》ね返す颯爽《さっそう》とした若い気分が、いつの間にか老妓の手頃な言葉|仇《がたき》となった。
「柚木君の仕事はチャチだね。一週間と保《も》った試しはないぜ」彼女はこんな言葉を使うようになった。
「そりゃそうさ、こんなつまらない仕事は。パッションが起らないからねえ」
「パッションって何だい」
「パッションかい。ははは、そうさなあ、君たちの社会の言葉でいうなら、うん、そうだ、いろ気が起らないということだ」
 ふと、老妓は自分の生涯に憐《あわれ》みの心が起った。パッションとやらが起らずに、ほとんど生涯勤めて来た座敷の数々、相手の数々が思い泛《うか》べられた。
「ふむ。そうかい。じゃ、君、どういう仕事ならいろ気が起るんだい」
 青年は発明をして、専売特許を取って、金を儲けることだといった。
「なら、早くそれをやればいいじゃないか」
 柚木は老妓の顔を見上げたが
「やればいいじゃないかって、そう事が簡単に……(柚木はここで舌打をした)だから君たちは遊び女といわれるんだ」
「いやそうでないね。こう云い出したからには、こっちに相談に乗ろうという腹があるからだよ。食べる方は引受けるから、君、思う存分にやってみちゃどうだね」
 こうして、柚木は蒔田の店から、小そのが持っている家作の一つに移った。老妓は柚木のいうままに家の一部を工房に仕替え、多少の研究の機械類も買ってやった。

 小さい時から苦学をしてやっと電気学校を卒業はしたが、目的のある柚木は、体を縛られる勤人になるのは避けて、ほとんど日傭取《ひようと》り同様の臨時雇いになり、市中の電気器具店廻りをしていたが、ふと蒔田が同郷の中学の先輩で、その上世話好きの男なのに絆《ほだ》され、しばらくその店務を手伝うことになって住み込んだ。だが蒔田の家には子供が多いし、こまこました仕事は次から次とあるし、辟易《へきえき》していた矢先だったのですぐに老妓の後援を受け入れた。しかし、彼はたいして有難いとは思わなかった。散々あぶく銭を男たちから絞って、好き放題なことをした商売女が、年老いて良心への償いのため、誰でもこんなことはしたいのだろう。こっちから恩恵を施してやるのだという太々しい考は持たないまでも、老妓の好意を負担には感じられなかった。生れて始めて、日々の糧《かて》の心配なく、専心に書物の中のことと、実験室の成績と突き合せながら、使える部分を自分の工夫の中へ鞣《なめ》し取って、世の中にないものを創《つく》り出して行こうとする静かで足取りの確かな生活は幸福だった。柚木は自分ながら壮躯と思われる身体に、麻布のブルーズを着て、頭を鏝《こて》で縮らし、椅子に斜に倚《よ》って、煙草を燻《く》ゆらしている自分の姿を、柱かけの鏡の中に見て、前とは別人のように思い、また若き発明家に相応《ふさ》わしいものに自分ながら思った。工房の外は廻り縁になっていて、矩形《くけい》の細長い庭には植木も少しはあった。彼は仕事に疲れると、この縁へ出て仰向けに寝転び、都会の少し淀《よど》んだ青空を眺めながら、いろいろの空想をまどろみの夢に移し入れた。
 小そのは四五日目毎に見舞って来た。ずらりと家の中を見廻して、暮しに不自由そうな部分を憶《おぼ》えて置いて、あとで自宅のものの誰かに運ばせた。
「あんたは若い人にしちゃ世話のかからない人だね。いつも家の中はきちんとしているし、よごれ物一つ溜《た》めてないね」
「そりゃそうさ。母親が早く亡くなっちゃったから、あかんぼのうちから襁褓《おむつ》を自分で洗濯して、自分で当てがった」
 老妓は「まさか」と笑ったが、悲しい顔付きになって、こう云った。
「でも、男があんまり細かいことに気のつくのは偉くなれない性分じゃないのかい」
「僕だって、根からこんな性分でもなさそうだが、自然と慣らされてしまったのだね。ちっとでも自分にだらしがないところが眼につくと、自分で不安なのだ」
「何だか知らないが、欲しいものがあったら、遠慮なくいくらでもそうお云いよ」
 初午《はつうま》の日には稲荷鮨《いなりずし》など取寄せて、母子のような寛《くつろ》ぎ方で食べたりした。
 養女のみち子の方は気紛れであった。来はじめると毎日のように来て、柚木を遊び相手にしようとした。小さい時分から情事を商品のように取扱いつけているこの社会に育って、いくら養母が遮断《しゃだん》したつもりでも、商品的の情事が心情に染《し》みないわけはなかった。早くからマセて仕舞って、しかも、それを形式だけに覚えてしまった。青春などは素通りしてしまって、心はこどものまま固って、その上皮にほんの一重大人の分別がついてしまった。柚木は遊び事には気が乗らなかった。興味が弾まないままみち子は来るのが途絶えて、久しくしてからまたのっそりと来る。自分の家で世話をしている人間に若い男が一人いる、遊びに行かなくちゃ損だというくらいの気持ちだった。老母が縁もゆかりもない人間を拾って来て、不服らしいところもあった。
 みち子は柚木の膝の上へ無造作に腰をかけた。様式だけは完全な流眄《ながしめ》をして
「どのくらい目方があるかを量ってみてよ」
 柚木は二三度膝を上げ下げしたが
「結婚適齢期にしちゃあ、情操のカンカンが足りないね」
「そんなことはなくってよ、学校で操行点はAだったわよ」
 みち子は柚木のいう情操という言葉の意味をわざと違えて取ったのか、本当に取り違えたものか――
 柚木は衣服の上から娘の体格を探って行った。それは栄養不良の子供が一人前の女の嬌態《きょうたい》をする正体を発見したような、おかしみがあったので、彼はつい失笑した。
「ずいぶん失礼ね」
「どうせあなたは偉いのよ」みち子は怒って立上った。
「まあ、せいぜい運動でもして、おっかさん位な体格になるんだね」
 みち子はそれ以後何故とも知らず、しきりに柚木に憎《にくし》みを持った。

 半年ほどの間、柚木の幸福感は続いた。しかし、それから先、彼は何となくぼんやりして来た。目的の発明が空想されているうちは、確に素晴らしく思ったが、実地に調べたり、研究する段になると、自分と同種の考案はすでにいくつも特許されていてたとえ自分の工夫の方がずっと進んでいるにしても、既許のものとの牴触《ていしょく》を避けるため、かなり模様を変えねばならなくなった。その上こういう発明器が果して社会に需要されるものやらどうかも疑われて来た。実際専門家から見ればいいものなのだが、一向社会に行われない結構な発明があるかと思えば、ちょっとした思付きのもので、非常に当ることもある。発明にはスペキュレーションを伴うということも、柚木は兼ね兼ね承知していることではあったが、その運びがこれほど思いどおり素直に行かないものだとは、実際にやり出してはじめて痛感するのだった。
 しかし、それよりも柚木にこの生活への熱意を失わしめた原因は、自分自身の気持ちに在った。前に人に使われて働いていた時分は、生活の心配を離れて、専心に工夫に没頭したら、さぞ快いだろうという、その憧憬から日々の雑役も忍べていたのだがその通りに朝夕を送れることになってみると、単調で苦渋なものだった。ときどきあまり静で、その上全く誰にも相談せず、自分一人だけの考を突き進めている状態は、何だか見当違いなことをしているため、とんでもない方向へ外《そ》れていて、社会から自分一人が取り残されたのではないかという脅えさえ屡々《しばしば》起った。
 金儲けということについても疑問が起った。この頃のように暮しに心配がなくなりほんの気晴らしに外へ出るにしても、映画を見て、酒場へ寄って、微酔を帯びて、円タクに乗って帰るぐらいのことで充分すむ。その上その位な費用なら、そう云えば老妓は快くくれた。そしてそれだけで自分の慰楽は充分満足だった。柚木は二三度職業仲間に誘われて、女道楽をしたこともあるが、売もの、買いもの以上に求める気は起らず、それより、早く気儘《きまま》の出来る自分の家へ帰って、のびのびと自分の好みの床に寝たい気がしきりに起った。彼は遊びに行っても外泊は一度もしなかった。彼は寝具だけは身分不相応のものを作っていて、羽根蒲団など、自分で鳥屋から羽根を買って来て器用に拵《こしら》えていた。
 いくら探してみてもこれ以上の慾が自分に起りそうもない、妙に中和されてしまった自分を発見して柚木は心寒くなった。
 これは、自分等の年頃の青年にしては変態になったのではないかしらんとも考えた。
 それに引きかえ、あの老妓は何という女だろう。憂鬱な顔をしながら、根に判らない逞《たく》ましいものがあって、稽古ごと一つだって、次から次へと、未知のものを貪《むさぼ》り食って行こうとしている。常に満足と不満が交《かわ》る交る彼女を押し進めている。
 小そのがまた見廻りに来たときに、柚木はこんなことから訊《き》く話を持ち出した。
「フランスレビュウの大立者の女優で、ミスタンゲットというのがあるがね」
「ああそんなら知ってるよ。レコードで……あの節廻しはたいしたもんだね」
「あのお婆さんは体中の皺《しわ》を足の裏へ、括《くく》って溜めているという評判だが、あんたなんかまだその必要はなさそうだなあ」
 老妓の眼はぎろりと光ったが、すぐ微笑して
「あたしかい、さあ、もうだいぶ年越の豆の数も殖《ふ》えたから、前のようには行くまいが、まあ試しに」といって、老妓は左の腕の袖口を捲って柚木の前に突き出した。
「あんたがだね。ここの腕の皮を親指と人差指で力一ぱい抓《つね》って圧《おさ》えててご覧」
 柚木はいう通りにしてみた。柚木にそうさせて置いてから、老妓はその反対側の腕の皮膚を自分の右の二本の指で抓って引くと、柚木の指に挾《はさ》まっていた皮膚はじいわり滑り抜けて、もとの腕の形に納まるのである。もう一度柚木は力を籠《こ》めて試してみたが、老妓にひかれると滑り去って抓り止めていられなかった。鰻《うなぎ》の腹のような靱《つよ》い滑かさと、羊皮紙のような神秘な白い色とが、柚木の感覚にいつまでも残った。
「気持ちの悪い……。だが驚いたなあ」
 老妓は腕に指痕の血の気がさしたのを、縮緬《ちりめん》の襦袢《じゅばん》の袖で擦《こす》り散らしてから、腕を納めていった。
「小さいときから、打ったり叩《たた》かれたりして踊りで鍛えられたお蔭だよ」
 だが、彼女はその幼年時代の苦労を思い起して、暗澹《あんたん》とした顔つきになった。
「おまえさんは、この頃、どうかおしかえ」
 と老妓はしばらく柚木をじろじろ見ながらいった。
「いいえさ、勉強しろとか、早く成功しろとか、そんなことをいうんじゃないよ。まあ、魚にしたら、いきが悪くなったように思えるんだが、どうかね。自分のことだけだって考え剰《あま》っている筈の若い年頃の男が、年寄の女に向って年齢のことを気遣うのなども、もう皮肉に気持ちがこずんで来た証拠だね」
 柚木は洞察の鋭さに舌を巻きながら、正直に白状した。
「駄目だな、僕は、何も世の中にいろ気がなくなったよ。いや、ひょっとしたら始めからない生れつきだったかも知れない」
「そんなこともなかろうが、しかし、もしそうだったら困ったものだね。君は見違えるほど体など肥って来たようだがね」
 事実、柚木はもとよりいい体格の青年が、ふーっと膨《ふく》れるように脂肪がついて、坊ちゃんらしくなり、茶色の瞳の眼の上瞼《うわまぶた》の腫《は》れ具合や、顎《あご》が二重に括《くび》れて来たところに艶《つや》めいたいろさえつけていた。
「うん、体はとてもいい状態で、ただこうやっているだけで、とろとろしたいい気持ちで、よっぽど気を張り詰めていないと、気にかけなくちゃならないことも直ぐ忘れているんだ。それだけ、また、ふだん、いつも不安なのだよ。生れてこんなこと始めてだ」
「麦とろ[#「とろ」に傍点]の食べ過ぎかね」老妓は柚木がよく近所の麦飯ととろろ[#「とろろ」に傍点]を看板にしている店から、それを取寄せて食べるのを知っているものだから、こうまぜっかえしたが、すぐ真面目になり「そんなときは、何でもいいから苦労の種を見付けるんだね。苦労もほどほどの分量にゃ持ち合せているもんだよ」

 それから二三日経って、老妓は柚木を外出に誘った。連れにはみち子と老妓の家の抱えでない柚木の見知らぬ若い芸妓が二人いた。若い芸妓たちは、ちょっとした盛装をしていて、老妓に
「姐さん、今日はありがとう」と丁寧に礼を云った。
 老妓は柚木に
「今日は君の退屈の慰労会をするつもりで、これ等の芸妓たちにも、ちゃんと遠出の費用を払ってあるのだ」と云った。「だから、君は旦那になったつもりで、遠慮なく愉快をすればいい」
 なるほど、二人の若い芸妓たちは、よく働いた。竹屋の渡しを渡船に乗るときには年下の方が柚木に「おにいさん、ちょっと手を取って下さいな」と云った。そして船の中へ移るとき、わざとよろけて柚木の背を抱えるようにして掴《つかま》った。柚木の鼻に香油の匂いがして、胸の前に後|襟《えり》の赤い裏から肥った白い首がむっくり抜き出て、ぼんの窪《くぼ》の髪の生え際が、青く霞めるところまで、突きつけたように見せた。顔は少し横向きになっていたので、厚く白粉《おしろい》をつけて、白いエナメルほど照りを持つ頬から中高の鼻が彫刻のようにはっきり見えた。
 老妓は船の中の仕切りに腰かけていて、帯の間から煙草入れとライターを取出しかけながら
「いい景色だね」と云った。
 円タクに乗ったり、歩いたりして、一行は荒川放水路の水に近い初夏の景色を見て廻った。工場が殖え、会社の社宅が建ち並んだが、むかしの鐘《かね》ヶ淵《ふち》や、綾瀬《あやせ》の面かげは石炭殻の地面の間に、ほんの切れ端になってところどころに残っていた。綾瀬川の名物の合歓《ねむ》の木は少しばかり残り、対岸の蘆洲《あしず》の上に船大工だけ今もいた。
「あたしが向島の寮に囲われていた時分、旦那がとても嫉妬家《やきもちやき》でね、この界隈《かいわい》から外へは決して出してくれない。それであたしはこの辺を散歩すると云って寮を出るし、男はまた鯉釣りに化けて、この土手下の合歓の並木の陰に船を繋《もや》って、そこでいまいうランデブウをしたものさね」
 夕方になって合歓の花がつぼみかかり、船大工の槌《つち》の音がいつの間にか消えると、青白い河|靄《もや》がうっすり漂う。
「私たちは一度心中の相談をしたことがあったのさ。なにしろ舷《ふなばた》一つ跨《また》げば事が済むことなのだから、ちょっと危かった」
「どうしてそれを思い止ったのか」と柚木はせまい船のなかをのしのし歩きながら訊いた。
「いつ死のうかと逢う度毎に相談しながら、のびのびになっているうちに、ある日川の向うに心中|態《てい》の土左衛門が流れて来たのだよ。人だかりの間から熟々《つくづく》眺めて来て男は云ったのさ。心中ってものも、あれはざま[#「ざま」に傍点]の悪いものだ。やめようって」
「あたしは死んでしまったら、この男にはよかろうが、あとに残る旦那が可哀想だという気がして来てね。どんな身の毛のよだつような男にしろ、嫉妬をあれほど妬《や》かれるとあとに心が残るものさ」
 若い芸妓たちは「姐さんの時代ののんきな話を聴いていると、私たちきょう日の働き方が熟々《つくづく》がつがつにおもえて、いやんなっちゃう」と云った。
 すると老妓は「いや、そうでないねえ」と手を振った。「この頃はこの頃でいいところがあるよ。それにこの頃は何でも話が手取り早くて、まるで電気のようでさ、そしていろいろの手があって面白いじゃないか」
 そういう言葉に執成《とりな》されたあとで、年下の芸妓を主に年上の芸妓が介添になって、頻《しき》りに艶《なま》めかしく柚木を取持った。
 みち子はというと何か非常に動揺させられているように見えた。
 はじめは軽蔑《けいべつ》した超然とした態度で、一人離れて、携帯のライカで景色など撮《うつ》していたが、にわかに柚木に慣れ慣れしくして、柚木の歓心を得ることにかけて、芸妓たちに勝越そうとする態度を露骨に見せたりした。
 そういう場合、未成熟《なま》の娘の心身から、利かん気を僅かに絞り出す、病鶏のささ身ほどの肉感的な匂いが、柚木には妙に感覚にこたえて、思わず肺の底へ息を吸わした。だが、それは刹那《せつな》的のものだった。心に打ち込むものはなかった。
 若い芸妓たちは、娘の挑戦を快くは思わなかったらしいが、大姐さんの養女のことではあり、自分達は職業的に来ているのだから、無理な骨折りを避けて、娘が努めるときは媚《こ》びを差控え、娘の手が緩むと、またサービスする。みち子にはそれが自分の菓子の上にたかる蠅《はえ》のようにうるさかった。
 何となくその不満の気持ちを晴らすらしく、みち子は老妓に当ったりした。
 老妓はすべてを大して気にかけず、悠々と土手でカナリヤの餌《え》のはこべを摘んだり菖蒲園《しょうぶえん》できぬかつぎを肴《さかな》にビールを飲んだりした。
 夕暮になって、一行が水神《すいじん》の八百松へ晩餐《ばんさん》をとりに入ろうとすると、みち子は、柚木をじろりと眺めて
「あたし、和食のごはんたくさん、一人で家に帰る」と云い出した。芸妓たちが驚いて、では送ろうというと、老妓は笑って
「自動車に乗せてやれば、何でもないよ」といって通りがかりの車を呼び止めた。
 自動車の後姿を見て老妓は云った。
「あの子も、おつな真似をすることを、ちょんぼり覚えたね」

 柚木にはだんだん老妓のすることが判らなくなった。むかしの男たちへの罪滅しのために若いものの世話でもして気を取直すつもりかと思っていたが、そうでもない。近頃この界隈《かいわい》に噂が立ちかけて来た、老妓の若い燕《つばめ》というそんな気配はもちろん、老妓は自分に対して現わさない。
 何で一人前の男をこんな放胆な飼い方をするのだろう。柚木は近頃工房へは少しも入らず、発明の工夫も断念した形になっている。そして、そのことを老妓はとくに知っている癖に、それに就《つ》いては一言も云わないだけに、いよいよパトロンの目的が疑われて来た。縁側に向いている硝子《ガラス》窓から、工房の中が見えるのを、なるべく眼を外らして、縁側に出て仰向けに寝転ぶ。夏近くなって庭の古木は青葉を一せいにつけ、池を埋めた渚《なぎさ》の残り石から、いちはつ[#「いちはつ」に傍点]やつつじの花が虻《あぶ》を呼んでいる。空は凝《こご》って青く澄み、大陸のような雲が少し雨気で色を濁しながらゆるゆる移って行く。隣の乾物《ほしもの》の陰に桐の花が咲いている。
 柚木は過去にいろいろの家に仕事のために出入りして、醤油樽の黴《かび》臭い戸棚の隅に首を突込んで窮屈な仕事をしたことや、主婦や女中に昼の煮物を分けて貰って弁当を使ったことや、その頃は嫌《いや》だった事が今ではむしろなつかしく想い出される。蒔田の狭い二階で、注文先からの設計の予算表を造っていると、子供が代る代る来て、頸《くび》筋が赤く腫《は》れるほど取りついた。小さい口から嘗《な》めかけの飴《あめ》玉を取出して、涎《よだれ》の糸をひいたまま自分の口に押し込んだりした。
 彼は自分は発明なんて大それたことより、普通の生活が欲しいのではないかと考え始めたりした。ふと、みち子のことが頭に上った。老妓は高いところから何も知らない顔をして、鷹揚《おうよう》に見ているが、実は出来ることなら自分をみち子の婿《むこ》にでもして、ゆくゆく老後の面倒でも見て貰おうとの腹であるのかも知れない。だがまたそうとばかり判断も仕切れない。あの気嵩《きがさ》な老妓がそんなしみったれた計画で、ひと[#「ひと」に傍点]に好意をするのではないことも判る。
 みち子を考える時、形式だけは十二分に整っていて、中身は実が入らずじまいになった娘、柚木はみなし茹《ゆ》で栗の水っぽくぺちゃぺちゃな中身を聯想《れんそう》して苦笑したが、この頃みち子が自分に憎《にくし》みのようなものや、反感を持ちながら、妙に粘って来る態度が心にとまった。
 彼女のこの頃の来方は気紛れでなく、一日か二日置き位な定期的なものになった。
 みち子は裏口から入って来た。彼女は茶の間の四畳半と工房が座敷の中に仕切って拵《こしら》えてある十二畳の客座敷との襖《ふすま》を開けると、そこの敷居の上に立った。片手を柱に凭《もた》せ体を少し捻《ひね》って嬌態を見せ、片手を拡げた袖の下に入れて、写真を撮《と》るときのようなポーズを作った。俯向《うつむ》き加減に眼を不機嫌らしく額越しに覗かして
「あたし来てよ」と云った。
 縁側に寝ている柚木はただ「うん」と云っただけだった。
 みち子はもう一度同じことを云って見たが、同じような返事だったので、本当に腹を立て
「何て不精たらしい返事なんだろう、もう二度と来てやらないから」と云った。
「仕様のない我儘《わがまま》娘だな」と云って、柚木は上体を起上らせつつ、足を胡座《あぐら》に組みながら
「ほほう、今日は日本髪か」とじろじろ眺めた。
「知らない」といって、みち子はくるりと後向きになって着物の背筋に拗《す》ねた線を作った。柚木は、華やかな帯の結び目の上はすぐ、突襟《つきえり》のうしろ口になり、頸の附根を真っ白く富士山形に覗かせて誇張した媚態《びたい》を示す物々しさに較べて、帯の下の腰つきから裾は、一本花のように急に削《そ》げていて味もそっけもない少女のままなのを異様に眺めながら、この娘が自分の妻になって、何事も自分に気を許し、何事も自分に頼りながら、小うるさく世話を焼く間柄になった場合を想像した。それでは自分の一生も案外小ぢんまりした平凡に規定されてしまう寂寞《せきばく》の感じはあったが、しかし、また何かそうなってみての上のことでなければ判らない不明な珍らしい未来の想像が、現在の自分の心情を牽《ひ》きつけた。
 柚木は額を小さく見せるまでたわわに前髪や鬢《びん》を張り出した中に整い過ぎたほど型通りの美しい娘に化粧したみち子の小さい顔に、もっと自分を夢中にさせる魅力を見出したくなった。
「もう一ぺんこっちを向いてご覧よ、とても似合うから」
 みち子は右肩を一つ揺ったが、すぐくるりと向き直って、ちょっと手を胸と鬢へやって掻《か》い繕った。「うるさいのね、さあ、これでいいの」彼女は柚木が本気に自分を見入っているのに満足しながら、薬玉《くすだま》の簪《かんざし》の垂れをピラピラさせて云った。
「ご馳走を持って来てやったのよ。当ててご覧なさい」
 柚木はこんな小娘に嬲《なぶ》られる甘さが自分に見透かされたのかと、心外に思いながら
「当てるの面倒臭い。持って来たのなら、早く出し給え」と云った。
 みち子は柚木の権柄《けんぺい》ずくにたちまち反抗心を起して「人が親切に持って来てやったのを、そんなに威張るのなら、もうやらないわよ」と横向きになった。
「出せ」と云って柚木は立上った。彼は自分でも、自分が今、しかかる素振りに驚きつつ、彼は権威者のように「出せと云ったら、出さないか」と体を嵩張らせて、のそのそとみち子に向って行った。
 自分の一生を小さい陥穽《かんせい》に嵌《は》め込んでしまう危険と、何か不明の牽引力の為めに、危険と判り切ったものへ好んで身を挺《てい》して行く絶体絶命の気持ちとが、生れて始めての極度の緊張感を彼から抽《ひ》き出した。自己|嫌悪《けんお》に打負かされまいと思って、彼の額から脂汗《あぶらあせ》がたらたらと流れた。
 みち子はその行動をまだ彼の冗談半分の権柄ずくの続きかと思って、ふざけて軽蔑《けいべつ》するように眺めていたが、だいぶ模様が違うので途中から急に恐ろしくなった。
 彼女はやや茶の間の方へ退《すさ》りながら
「誰が出すもんか」と小さく呟《つぶや》いていたが、柚木が彼女の眼を火の出るように見詰めながら、徐々に懐中から一つずつ手を出して彼女の肩にかけると、恐怖のあまり「あっ」と二度ほど小さく叫び、彼女の何の修装もない生地の顔が感情を露出して、眼鼻や口がばらばらに配置された。「出し給え」「早く出せ」その言葉の意味は空虚で、柚木の腕から太い戦慄《せんりつ》が伝って来た。柚木の大きい咽喉《のど》仏がゆっくり生唾を飲むのが感じられた。
 彼女は眼を裂けるように見開いて「ご免なさい」と泣声になって云ったが、柚木はまるで感電者のように、顔を痴呆にして、鈍く蒼《あお》ざめ、眼をもとのように据えたままただ戦慄だけをいよいよ激しく両手からみち子の体に伝えていた。
 みち子はついに何ものかを柚木から読み取った。普段「男は案外臆病なものだ」と養母の言った言葉がふと思い出された。
 立派な一人前の男が、そんなことで臆病と戦っているのかと思うと、彼女は柚木が人のよい大きい家畜のように可愛ゆく思えて来た。
 彼女はばらばらになった顔の道具をたちまちまとめて、愛嬌したたるような媚《こ》びの笑顔に造り直した。
「ばか、そんなにしないだって、ご馳走あげるわよ」
 柚木の額の汗を掌でしゅっ[#「しゅっ」に傍点]と払い捨ててやり
「こっちにあるから、いらっしゃいよ。さあね」
 ふと鳴って通った庭樹の青嵐を振返ってから、柚木のがっしりした腕を把《と》った。
 さみだれが煙るように降る夕方、老妓は傘をさして、玄関横の柴折戸《しおりど》から庭へ入って来た。渋い座敷着を着て、座敷へ上ってから、褄《つま》を下ろして坐った。
「お座敷の出がけだが、ちょっとあんたに云《い》っとくことがあるので寄ったんだがね」
 莨入《たばこい》れを出して、煙管《きせる》で煙草盆代りの西洋皿を引寄せて
「この頃、うちのみち子がしょっちゅう来るようだが、なに、それについて、とやかく云うんじゃないがね」
 若い者同志のことだから、もしやということも彼女は云った。
「そのもしやもだね」
 本当に性が合って、心の底から惚《ほ》れ合うというのなら、それは自分も大賛成なのである。
「けれども、もし、お互いが切れっぱしだけの惚れ合い方で、ただ何かの拍子で出来合うということでもあるなら、そんなことは世間にいくらもあるし、つまらない。必ずしもみち子を相手取るにも当るまい。私自身も永い一生そんなことばかりで苦労して来た。それなら何度やっても同じことなのだ」
 仕事であれ、男女の間柄であれ、混り気のない没頭した一途《いちず》な姿を見たいと思う。
 私はそういうものを身近に見て、素直に死にたいと思う。
「何も急いだり、焦《あせ》ったりすることはいらないから、仕事なり恋なり、無駄をせず、一揆《いっき》で心残りないものを射止めて欲しい」と云った。
 柚木は「そんな純粋なことは今どき出来もしなけりゃ、在るものでもない」と磊落《らいらく》に笑った。老妓も笑って
「いつの時代だって、心懸けなきゃ滅多にないさ。だから、ゆっくり構えて、まあ、好きなら麦とろでも食べて、運の籤《くじ》の性質をよく見定めなさいというのさ。幸い体がいいからね。根気も続きそうだ」
 車が迎えに来て、老妓は出て行った。

 柚木はその晩ふらふらと旅に出た。
 老妓の意志はかなり判って来た。それは彼女に出来なかったことを自分にさせようとしているのだ。しかし、彼女が彼女に出来なくて自分にさせようとしていることなぞは、彼女とて自分とて、またいかに運の籤のよきものを抽《ひ》いた人間とて、現実では出来ない相談のものなのではあるまいか。現実というものは、切れ端は与えるが、全部はいつも眼の前にちらつかせて次々と人間を釣って行くものではなかろうか。
 自分はいつでも、そのことについては諦《あきら》めることが出来る。しかし彼女は諦めということを知らない。その点彼女に不敏なところがあるようだ。だがある場合には不敏なものの方に強味がある。
 たいへんな老女がいたものだ、と柚木は驚いた。何だか甲羅を経て化けかかっているようにも思われた。悲壮な感じにも衝《う》たれたが、また、自分が無謀なその企てに捲《ま》き込まれる嫌な気持ちもあった。出来ることなら老女が自分を乗せかけている果しも知らぬエスカレーターから免れて、つんもりした手製の羽根蒲団のような生活の中に潜《もぐ》り込みたいものだと思った。彼はそういう考えを裁くために、東京から汽車で二時間ほどで行ける海岸の旅館へ来た。そこは蒔田の兄が経営している旅館で、蒔田に頼まれて電気装置を見廻りに来てやったことがある。広い海を控え雲の往来の絶え間ない山があった。こういう自然の間に静思して考えを纏《まと》めようということなど、彼には今までについぞなかったことだ。
 体のよいためか、ここへ来ると、新鮮な魚はうまく、潮を浴びることは快かった。しきりに哄笑《こうしょう》が内部から湧き上って来た。
 第一にそういう無限な憧憬にひかれている老女がそれを意識しないで、刻々のちまちました生活をしているのがおかしかった。それからある種の動物は、ただその周囲の地上に圏の筋をひかれただけで、それを越し得ないというそれのように、柚木はここへ来ても老妓の雰囲気から脱し得られない自分がおかしかった。その中に籠《こ》められているときは重苦しく退屈だが、離れるとなると寂しくなる。それ故に、自然と探し出して貰いたい底心の上に、判り易い旅先を選んで脱走の形式を採っている自分の現状がおかしかった。
 みち子との関係もおかしかった。何が何やら判らないで、一度稲妻のように掠《かす》れ合った。
 滞在一週間ほどすると、電気器具店の蒔田が、老妓から頼まれて、金を持って迎えに来た。蒔田は「面白くないこともあるだろう。早く収入の道を講じて独立するんだね」と云った。
 柚木は連れられて帰った。しかし、彼はこの後、たびたび出奔癖がついた。

「おっかさんまた柚木さんが逃げ出してよ」
 運動服を着た養女のみち子が、蔵の入口に立ってそう云った。自分の感情はそっちのけに、養母が動揺するのを気味よしとする皮肉なところがあった。「ゆんべもおとといの晩も自分の家へ帰って来ませんとさ」
 新日本音楽の先生の帰ったあと、稽古場にしている土蔵の中の畳敷の小ぢんまりした部屋になおひとり残って、復習《さらい》直しをしていた老妓は、三味線をすぐ下に置くと、内心|口惜《くや》しさが漲《みなぎ》りかけるのを気にも見せず、けろりとした顔を養女に向けた。
「あの男。また、お決まりの癖が出たね」
 長煙管《ながぎせる》で煙草を一ぷく喫《す》って、左の手で袖口を掴《つか》み展《ひら》き、着ている大島の男縞が似合うか似合わないか検《ため》してみる様子をしたのち
「うっちゃってお置き、そうそうはこっちも甘くなってはいられないんだから」
 そして膝の灰をぽんぽんぽんと叩いて、楽譜をゆっくりしまいかけた。いきり立ちでもするかと思った期待を外された養母の態度にみち子はつまらないという顔をして、ラケットを持って近所のコートへ出かけて行った。すぐそのあとで老妓は電気器具屋に電話をかけ、いつもの通り蒔田に柚木の探索を依頼した。遠慮のない相手に向って放つその声には自分が世話をしている青年の手前勝手を詰《なじ》る激しい鋭さが、発声口から聴話器を握っている自分の手に伝わるまでに響いたが、彼女の心の中は不安な脅えがやや情緒的に醗酵《はっこう》して寂しさの微醺《ほろよい》のようなものになって、精神を活溌にしていた。電話器から離れると彼女は
「やっぱり若い者は元気があるね。そうなくちゃ」呟《つぶや》きながら眼がしらにちょっと袖口を当てた。彼女は柚木が逃げる度に、柚木に尊敬の念を持って来た。だがまた彼女は、柚木がもし帰って来なくなったらと想像すると、毎度のことながら取り返しのつかない気がするのである。
 真夏の頃、すでに某女に紹介して俳句を習っている筈の老妓からこの物語の作者に珍らしく、和歌の添削の詠草が届いた。作者はそのとき偶然老妓が以前、和歌の指導の礼に作者に拵《こしら》えてくれた中庭の池の噴水を眺める縁側で食後の涼を納《い》れていたので、そこで取次ぎから詠草を受取って、池の水音を聴きながら、非常な好奇心をもって久しぶりの老妓の詠草を調べてみた。その中に最近の老妓の心境が窺《うかが》える一首があるので紹介する。もっとも原作に多少の改削を加えたのは、師弟の作法というより、読む人への意味の疏通《そつう》をより良くするために外ならない。それは僅に修辞上の箇所にとどまって、内容は原作を傷《きずつ》けないことを保証する。
   年々にわが悲しみは深くして
     いよよ華やぐいのちなりけり



底本:「老妓抄」新潮文庫、新潮社
   1950(昭和25)年4月30日発行
   1968(昭和43)年3月20日17刷改版
   1998(平成10)年1月15日52刷
入力:佐藤律子
校正:大野晋
1999年5月5日公開
2001年7月13日修正
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