青空文庫アーカイブ

人外魔境
有尾人《ホモ・コウダッス》
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大|旅行隊《キャラヴァン》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]
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   大魔境「悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]」

 フランスの自動車会社シトロエンの探検隊――。これは、米国地理学協会ほどの大規模なものではないが、とにかく一営利会社としてはなかなかの仕事をしている。最初は、アフリカのサハラ沙漠を牽引車《トラクター》で突破し、続いて、ペルシア、中央アジアを経てペキンまで、無限軌道《キャタピラー》をうごかしていった大|旅行隊《キャラヴァン》をさえだしている。
 さて、その三回目の計画であるが、すでに選定もすみ雨期あけを待つばかりだそうである。それも、これまでのような自動車旅行ではなく、謎と臆測《おくそく》と暗黒のうちにうずもれている、前人未踏の神秘境を指しているのだ。
 では、どこか? そんな土地がまだこの地球上にあるのかと、読者諸君は不審がるだろうが、あるとも大有りである。
「未踏地帯《テラ・インコグニタ》」と、精密な地図にさえ白圏のままに残された個所が、まだ四、五か所はある。それらの土地は、なにか踏みいれば驚天動地的なものがあるだろうと、聴くだに探奇心をそそりたてる神秘境なのである。
 そこでまず、選定会議にのぼった候補地をあげることにしよう。そうして、シトロエンの探検隊がこれからゆこうという場所が、いかにそれらさえも凌《しの》ぐ超絶的な地位にあるかということを、読者諸君にはっきりと知って貰《もら》おう。
[#ここから1字下げ、一つの行が複数行に渡る場合は2行目から2字下げ]
一、南米アマゾン河奥地の、“Rio Folls de Dios《リオ・フォルス・デ・ディオス》”の一帯。
二、北極にちかい、グリーンランドの中央部八千尺の氷河地帯にあるといわれる、“Ser‐mik‐Suah《セルミク・シュアー》”の冥路《よみじ》の国。
三、支那《しな》青海省の“Puspamada《プシパマーダ》”いわゆる金沙河ヒマラヤの巴顔喀喇《パイアンカラ》山脈中の理想郷。
四、?
[#ここで字下げ終わり]
 第一のアマゾン河奥地というのは「神々の狂人」と訳される。ここへは、米国コロンビア大学の薬学部長ラマビー博士一行が探検したが、ついに瘴癘湿熱《しょうれいしつねつ》の腐朽霧気《ガス》地帯から撃退されている。ただ、白骨をのせた巨蓮《ヴィクトリア・レギア》の食肉種が、河面《かわも》を覆うているのが望遠レンズに映ったそうである。
 第二の神秘境は、エスキモー[#底本では「エキスモー」と誤植]土人が狂気のように橇《そり》を駆ってゆくという、グリーンランドの中央部にある邪霊《シュアー》の棲所《すみか》である。そこは、極光《オーロラ》にかがやく八千尺の氷河の峰々。そこには、ピアリーやノルデンスキョルド男でさえもさすがゆきかねたというほどの――氷の奥からふしぎな力を感ずる場所だ。
 第三は、梵語《ぼんご》で花酔境と訳される。そこは、遠くからみれば大乳海を呈し、はいれば、たちこめる花香のなかで生きながら涅槃《ねはん》に入るという、ラマ僧があこがれる理想郷《ユートピア》である。彼らは、そこを「蓮中の宝芯《マニ・バードメ》[#ルビは「蓮中の宝芯」にかかる]」と呼んで登攀《とうはん》をあせるけれど、まだ誰一人として行き着いたものはない。そのうえ、古くは山海経《せんがいきょう》でいう一臂人《いっぴじん》の棲所《すみか》。新しくは、映画の「失われた地平線」の素材の出所とにらむことのできる――まさに西北|辺疆《へんきょう》支那の大秘境といえるのである。
 しかし、以上の三未踏地でさえ足もとにも及ばぬという場所がいったい何処《どこ》にあってなにが隠れているのか、さぞ読者諸君はうずうずとなってくるにちがいない。それは赤道中央アフリカのコンゴ北東部にある。すなわち、コンゴ・バンツウ語でいう“M'lambuwezi《ムラムブウェジ》”訳して「悪魔の尿溜《にょうだめ》」といわれる地帯だ。そこには、まだ人類が一人として見たことのない、巨獣の終焉地《しゅうえんち》「知られざる森の墓場《セブルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる]」が、あると伝えられている。
 ではここで、この謎の地域がけっして私のような、伝奇作者のでたらめでないという証拠に、英航空専門誌“Flight《フライト》”に載った講演記事を抜粋してみよう。講演者は、ナイロビ、ムワンザ間のウイルスン航空会社《エアウェーズ》のファーギュスンという操縦士だ。

 私も、悪魔の尿溜攻撃は、数回にわたって試みましたが、結局空からも征服は不可能という惨めな結論を得たばかりです。
 飛行機万能の現代では、航空機の前に未踏地はなし――とまでいわれるのに、なぜ悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]だけには敗退したか? 悪気流か? それも一因でしょう。
 だいたい、悪魔の尿溜の北側は大絶壁になっております。そのうえがゼルズラと呼ばれる流沙地帯なのですが、そこは、上空の空気が非常に稀薄《きはく》で、よく沙漠地方におこる熱真空《ヒート・ヴァキューム》ができるのです。
 そこへ来ると飛行機はもうよろよろと蹌踉《よろめ》きます。しかし、絶壁下にひろがる悪魔の尿溜の湿林は濃稠《のうちょう》な蒸気に覆われてまったく見通しが利きません。その靄《もや》か、沼気《しょうき》か、しらぬ灰色の海に、ときどき異様な斑点があらわれるのです。
 私は思い切って、最後の飛行の時ぐっと下降してみました。ところが、いままで、濃霧《ガス》か沼気かと思っていたのが驚いたことに雲のように群れている微細な昆虫だったのです。横三十マイルにもひろがる悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の上空をぎっしりと埋めて、おそろしい蚊蚋《かぶゆ》の大群が群れているのです。マラリア、デング熱の病原蚊、睡眠病の蠅、毒蚋、ナイフのような吻《くち》の大馬蠅の Tufwao《チュファ》 ああ、その大集雲!
 悪魔の尿溜に、よしんば金鉱が隠されてあろうとダイヤモンドが転がっていようと、あるいは珍奇獣虫がいようと原人がいようとも、この永劫《えいごう》霽《は》れようとも思われない毒の羽虫の雲を除くには、恐らくガスマスクをつけ防虫完備の工兵が、優に一師団をもってしても数年はかかろうかと思われます。

 これが飛行家の観察した悪魔の尿溜だが、つぎに、その奥にあるといわれる巨獣の墓場のことである。おそらく読者諸君も、ゴリラや黒猩々《チンパンジー》などの類人猿や、野象にかぎって死体をみせぬのをご承知であろう。してみると、どこか到底人間には行けぬ密林の奥にでも、彼らの死場所がなければならない。悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]がこの条件にぴったりと嵌《はま》っているわけだが、これも作者の創作と思われては困るから、歴然としたパラッフィン・ヤング卿の赤道アフリカ紀行、「コンゴからナイル河水源《カブト・ニリ》[#ルビは「ナイル河水源」にかかる]へ」のなかの一記事を引用しよう。

 晴天だと、ルウエンゾリ山が好箇の目標になるのだが……、降りだして雨霧《もや》に覆われてからは、ただ足にまかせて密林のなかを彷徨《さまよ》いはじめた。泥濘《ぬかるみ》は、荊棘《とげいばら》、蔦葛《つたかずら》とともに、次第に深くなり、絶えず踊るような足取りで蟻《あり》を避けながら、腰までももぐる野象の足跡に落ちこむ。
 すると、前方約百ヤードほどのあたりに、ぴしぴし枝を折りながらドス赭《あか》いものが動いてゆく。ゴリラだ! 私はこのコンゴの奥ふかくにくるまで、ゴリラには一度も逢わなかったのだ。そこで、ほとんど衝動的に連発銃《ウィンチェスター》をとりあげようとした。すると、土人が一人飛びついて銃をおさえ、
「旦那、あのゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]は恩人でがす。殺すなんて、英人《レコア》の旦那らしくもねえでがすぞ」
 土人は、ゴリラのことを“Soko《ソコ》”という愛称で呼んでいる。私は声を荒らげるよりも呆気《あっけ》にとられて、
「なぜいかんのだ。ゴリラが獲《と》れるなんて千載に一遇ではないか」
「それがです。旦那は、野象《ぞう》の穴へ落ちたとき、磁針《ほうみ》をお壊しなすったので、儂《わし》らは、どっちへどう出たらこの森を抜けられるか、いま途方に暮れているでがす。そこへ、あのゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]が教えてくれたでがすよ。つまり、おらが歩んでゆく先が北に当るぞちゅうて……」
「そんなことが、お前にどうして分るね?」
「あのゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]は、いま森の墓場へ死ににゆこうとしているのだ。それが、わしらにはゆけねえ悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]にあるちゅうだ。ゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]はな、雨が降るとあんなには歩きましねえ。ぼんやりと、手を頭にのせてじっと蹲《しゃが》んでおりますだ。わしらは、幼《ちっ》けなときからゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]をみてるだが、雨んなかを、死神にひかれて歩かせられてゆくような、ゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]にかぎって北へゆかねえものはねえでがす」
 私にはその悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の一言がぴいんと頭へきた。事によったら、いまいる我々の位置が途方もなく深いのではないか。そういえば、密林のはずれにあるマヌイエマの部落で、“Kungo《クンゴー》”といっている蚊蚋《かぶゆ》の大群が、まさに霧《クンゴー》のごとく濛々《もうもう》と立ちこめている。私は、そう分るとぞっと寒気だち、あのゴリラがいなければ死んだかもしれぬと思うと、いま頭に手を置いてのそりのそりと歩いてゆく、墓場への旅人に冥福《めいふく》の十字をきったのである。

 ヤング卿はこうして倉皇《そうこう》と逃げかえって、危く一命を完了した。なまじ進めば、北は瞬時に人を呑《の》む危険な流沙地域。他の三方は、王蛇《ボア》でさえくぐれぬような気根寄生木《きこんやどりぎ》の密生、いわゆる「類人猿棲息地帯《ゴリラスツォーネ》」の大密林。だが、読者諸君、そこへ踏みいって無残にも死に、奇蹟的《きせきてき》にも大記録を残すことのできたわが日本人の医師がいるのだ。その踏破録を、シトロエン文化部の発表に先だって、これから物語風に書き綴《つづ》ろうとするのである。

   有尾人ドドの出現

 葡《ポルトガル》領東アフリカの首都モザンビイクは、いま雨期のまっ盛りにある。
 人が腐る、黒人《くろんぼ》の膚からは白髪のような菌がでる――そういう、雨期特有のおそろしい湿熱が、いまモザンビイクをむんむんと覆いつつんでいる。雨、きょうもこの島町は湯滝のような雨だ。
 毒蠅のマブンガを避けて閉めきっている室のなか、座間の研究所の一室に、アッコルティ先生がいる。イタリア・メドナ大学の有名な動物学の、この先生はなにものを待っているのだろう?![#「?!」は一字] 焦《じ》れきって顎髭《あごひげ》からはポタリポタリと汗をたらし、この※[#「※」は「榲」の「きへん」に代えて「酉」、第3水準1-92-88、11-10]気《うんき》に犬のように喘《あえ》いでいる。
「座間君、カークが僕になにを見せようというのだね。僕が、アッと魂消《たまげ》るようなものというから船を下りたんだが……」
「秘中の秘です。なんとでも、先生のご想像にお任せしましょう」
「じゃ、オカピ[#底本では「オカビ」と誤記]か、ゴリラかね」
「はっはっはっは、そんな月並みなものなら、お引き止めはしませんよ」
 座間はただ、さも思わせぶったようににたりにたりと微笑《ほほえ》んでいる。彼は、三十をでたばかりの青年学徒、小柄で、巨《おお》きな顔で、やさしそうな目をしている。しかし、一目肌をみればそれと分るように、座間は純粋の日本人ではない。三分混血児《テルティオ》――アデンの雑貨商だった日本人の父、黒白混血のイタリア人を母とした三つの血が、医専を日本で終えても故国にはとどまらず、はるばる熱地性精神病研究にモザンビイクへきたのであった。
 といるわいるわ、女には舞踏病の静止不能症《ラマーナヤーナ》、男には、マダガスカル特有の“Sarimbavy《サリムバヴィ》”や“Koro《コロ》”そこへ、モザンビイク一の富豪アマーロ・メンドーサの援助があり、ついに研究所をひらき土着の決心をした。そうして、座間は黒人の神となった。生涯を、熱地の狂人にささげ、藪草《やぶくさ》にうずもれようとも、あわれな憑依妄想《ひょういもうそう》から黒人を救いだそうとする――座間は人道主義《ヒューマニズム》の戦士だった。そうして、六年あまりもモザンビイクで暮すうちに、彼はカークという密猟者と親しくなった。次いで、よくカークをつれて奥地へゆく、アッコルティ先生とも知りあいになったわけである。しかしいま、ちょっと南|阿《アフリカ》から寄港した先生を、なぜ座間が引きとめているのか。たしかに、なにかの驚くべきものをアッコルティ先生に、みせようとしているのは事実であるが、一体なんであろう?![#「?!」は一字]
 折からそこへ、扉があいて若い男が姿を現わした。一見、黒白混血児とわかる浅黒い肌、きりっとひき締った精悍《せいかん》そうな面《つら》がまえ、ことに、肢体《したい》の溌剌《はつらつ》さは羚羊《かもしか》のような感じがする。
 ジョジアス・カーク――国籍《せき》は合衆国《アメリカ》だが有名なコンゴ荒し――禁獣を狩っては各地へ売る、白領コンゴのお尋ねものの一人だ。
 カークはお待ち遠さまと微笑んで見せて、右手を扉のそとにだしたまま閾《しきい》から入ってこない。やがて、彼の手にひかれてこの室内へ、まったく予期以上とばかりアッコルティ先生が目をみはる、世にも不思議な生物がはいってきたのだ。まったく、そのときの先生の驚きようといったらなかった。一眼鏡《モノクル》の、目をあけたままポカンと口をあけ、やっと経《た》ってから正気がついたように、
「おう、有尾人《ホモ・コウダッス》!」と唸《うな》るように呟《つぶや》いた。
 それは、全身を覆う暗褐色の毛、丈は四フィートあるかなしかで子供のようであり、さらに一尺ほどの尾が薦骨《せんこつ》のあたりからでている。といって、骨格からみれば人間というほかはないのだ。しかし、頭の鉢が低く斜めに殺《そ》げ、さらに眉のある上眼窩弓《じょうがんかきゅう》がたかい。鼻は扁平で鼻孔は大、それに下顎骨《かがっこつ》が異常な発達をしている。仔細《しさい》に見るまでもなく男性なのである。
 それはまあいいとして、この有尾人からは、山羊《やぎ》くさいといわれる黒人の臭《にお》いの、おそらく数倍かと思われるような堪《たま》らない体臭が、むんむん湿熱にむれて発散されてくる。アッコルティ先生は、ハンカチで鼻を覆いながらじっと目を据《す》えた。
「ふむ、温和《おとな》しいらしい。ときに、君らには懐《なつ》いているかね」
「ええ、そりゃよく」とカークが煙草の輪を吐きながら答えた。
「すると、これを獲《と》ってから大分になるんだね」
「いいえ、此処《ここ》へきてまだ七日ばかりですよ。第一ドドが、僕の手に落ちてから二週間とはなりません」
「ドドとは……」
「僕らがつけた、この紳士の名前です」
「はっはっはっは、じゃ、有尾人ドド氏というわけだね」
 とアッコルティ先生が笑っているなかにも、なにやら解《げ》せぬような色が瞳のなかにうごいている。野生のもの、しかも智能のたかい猿人的獣類が、わずか十日か二週間でこうも懐《なつ》くはずがあるだろうか。
「ときに、君はこのドド氏をどこで獲ったのだね」
「場所ですか」とカークは思わせぶったようにすぐには答えず、まず、ドドを捕まえるにいたった一仍《いちぶ》始終を語りはじめた。
「とにかく、ドドが懐いたというのは、最初の出がよかったからですよ。僕は先生のお説の、ゴリラ定期鬱狂説を利用して、今度こそ六尺もある成獣を捕えてやろうと思って出かけたのです」
 アッコルティ先生は、前年度の学会にゴリラ定期鬱狂説を発表して、斯界《しかい》に大センセーションをまき起した。
 ゴリラには、憂鬱病《メランコリー》と恐怖症《ホビー》が周期的にきて、その時期がいちばん狂暴になりやすいという。そして苦悶《くもん》が募《つの》って来て堪《た》えられなくなると“Hyraceum《ヒラセウム》”を甜《な》めにきて緩和するというのだ。ヒラセウムとは、岩狸《ハイラックス》が尿所へする尿の水分が、蒸発した残りのねばねばした粘液で、カークはこのヒラセウムのある樹洞《ほら》のまえに、陥穽《わな》を仕掛けようとしたのであった。
「僕は陥穽《わな》をにらんで四昼夜も頑張っていました。すると、五日目の昼になってとうとうやって来ました。それが、なん歳ぐらいのものか藪の密生で分りませんが、とにかく、ぴしぴし枝を折りながら樹洞《ほら》のほうへやってくる。やがて、えらい音がしてどっと土煙があがりました。しめた、生きたゴリラなら十万ドルもんだと、さっと土人と一緒に勢いよく飛びだすと……どうでしょう、たしかに落ちたはずのゴリラの真正面に向きあってしまったのです。しかし、すぐ相手は四足で逃げ出しましたがね」
「ほほ、陥穽《わな》に落ちたのがそのゴリラでないとすると……ドドかね」
「そうなんです、しかし、覗《のぞ》きこんだときはさすが驚きましたよ」
「そうだろう。君みたいな……、コンゴ野獣の親戚《しんせき》でも、これには驚くだろう。しかし、最初のうちは抵抗しただろうが」
「それがしないのです。じつに、ひどい苺果痘《フラムベジア》にかかっていたのです。僕は、なにより可愛想になってきて、さっそく皮膚に水銀|膏《こう》をなすってやると、大分落ちついてきました。もう以前のように幹へからだを擦《こす》ったり、泥を手につけて掻《か》きむしるようなことはしません。ただ、目をほそめて僕の手にある、水銀膏の罐《かん》をものほしそうにながめているのです。それで僕はこいつは物になると思って、その罐を囮《おとり》に手近かの部落まで、とうとうドドをなにもせずにひっ張ってきたのです」
「なるほど、さすがはジャングルの名人芸だね」
 思わずアッコルティ先生は感嘆の声を洩《も》らした。
「それから、ドドの苺果痘《フラムベジア》のほうは座間君の手ですっかり癒《なお》りました。ですから、僕と座間君にはむろんのこと、この研究所の出資者メンドーサ氏の令嬢、マヌエラさんにも非常に懐《なつ》いているんです」
 ちょうどそこへ、扉がわずかに開いて、うつくしい顔がのぞいた。今も今とて噂《うわさ》したマヌエラ嬢だった。彼女は、真白な洗いたての敷布《シーツ》のようにどこからどこまで清潔な感じのする娘だ。座間とは婚約の仲、また人道愛の仕事の上でもかたく結びついている。
「先生が、どういう風にドドを観察なさるか、伺いにあがりましたわ」
 マヌエラの明るい声の調子が、アッコルティ先生の気分を爽《さわ》やかにしたとみえて、先生はさっそく観察の発表をはじめた。
 はじめに尾をさして、いわゆる薦骨奇形の軟尾体《ワイシェ・シュワンツ》だといった。つぎに、全身を覆う密毛がしらべられ、その一本立ての三本くらいを、黒猩々《チンパンジー》特有の排列と説明する。さらに、ドドの後頭部が大部薄くなっているのが、「黒猩々的禿頭《アントロボビテークス・カルヴス》」そっくりながら……耳も、円形の黒猩々耳《チンパンジー・オーレン》。つぎに、眉がある部分の上眼窩弓がたかいのも、黒猩々特有のものだと先生はいう。そうなって、次第にドドは人間黒猩々間の、雑交児ということに証明されそうになってきた。
 すると、先生が俄然《がぜん》言葉を改め、ドドの頭上に片手を置いていったのである。
「これがね、いわゆる小頭《ミクロケファレン》というやつだ。つまり、頭骨の発達がなく脳量がない。したがって、智能の度が低いという原人骨同様だ」
 原人という言葉にどっと部屋中が騒がしくなった。誰よりも、マヌエラがまっ先に質問をした。
「じゃ、ドドが原人なんでございますね。とうに、数百万年もまえに死滅しているはずの……」
「とにかく、人間黒猩々の雑交児という説に、これはむろん並行していえると思うね。いや、わしは断言しよう。古来、いかなる蛮人にもこれほど下等な頭骨はない――と」
 生きている原人、血肉をもった原始人骨――まさに自然界の一大驚異といわなければならない。
 では、ドドはどうして生まれ、どこから来……、また純粋の人間とすればどうして数百万年も、固有のかたちが変えられずに伝わったのだろうか。
 でまず、ドドを人獣の児として考えてみよう。そうすると、なぜ群居をはなれて彷徨《さまよ》っていたのだろうか。捨てられたか……追放されたか……? あるいは、ずうっと幼少時から孤独でいたとすれば野獣や、王蛇《ボア》が横行する密林でぬけぬけ生きられるわけはない。また、故郷のジャングルをしたう郷愁といったものも、ドドには気振《けぶ》りにさえもみえないのだ。
 郷愁を感じない、野生動物がどこにあるだろうか。つかまって、環境がちがったときはどんな生物でも、食物をとらなかったりして郷愁をあらわすものだが、それがドドには不思議にもないのだった。
 すると、カークをふり向いてアッコルティ先生がいった。
「まだ捕獲した場所を聴いてなかったね。いったい、このドドをどこで見つけたんだ?」
「それが、ほぼ東経二十八度北緯四度のあたりです。英《イギリス》領スーダンと白《ベルギー》領コンゴの境、……イツーリの類人猿棲息地帯《ゴリラスツォーネ》から北東へ百キロ、『悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]』の魔所へは三十マイル程度でしょう」
 悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]――それを聴くと同時に、一座はしいんとなってしまった。ただ、屋根をうつ大雨の音だけが轟《とどろ》いている。
「そうか、悪魔の尿溜のそばか――」
 アッコルティ先生もここまで来ると、あっさり断念《あきら》めたように投げやりな口調になった。ドドを、悪魔の尿溜と組合せることは、もう科学者の領域ではなかったからである。
 それから先生は、ドドのために急遽《きゅうきょ》帰国する決意をし、あたふたと時計をみながら帰っていった。そのあと、座間とカークが疲れたような目で、ぼんやりと屋並みをながめている。
 砂糖菓子のような回教寺院《モスク》の屋根も港の檣群《しょうぐん》も、ゆらゆら雨脚のむこうでいびつな鏡のようにゆれている。そのとき、仏マダガスカル航空《フレンチ・マダガスカルサービス》[#ルビは「仏マダガスカル航空」にかかる]の郵便機が、雨靄《もや》をくぐりくぐり低空をとおってゆく気配。座間は、むっくり体をおこして言った。
「君、あれなんだがね」
「あれって? 飛行機がどうしたというんだね」
「つまり、ドドのことなんだ。ドドは、飛行機をみてもけっして恐がらないのだぜ。かえって、嬉しそうな目付きで、奇声さえあげる。そうかといって、『悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]』の近傍に航空路はないよ。英帝国航空《インペリアル・エアウェーズ》も、フランスの亜弗利加航空《エール・アフリカ》も、それぞれ地図のうえで半度以上も隔っている。奇怪だ。猿人、原人といわれるドドが飛行機に驚かない。それでいて、王蛇《ボア》や豹をみるとひどく恐がる」
「きっと『悪魔の尿溜』探検の飛行機でもみたんだろうよ。しかし、五度や六度で、馴れるとは思われないな」
 太古以前の、原始生活をしていたはずのドドが飛行機に驚かない――これはまさに不思議以上だ。やはりこれはアッコルティ先生が一度疑ったように、ドドは一種の作りものではないのか。そう思ってながめると、とうてい想像もできないようなおそろしい秘密が、ドドの肉体に隠されているように思われて、しみじみそら恐しくさえなる。
 暗くなってきた。すると、雨靄《もや》のむこうから、ボーッと汽笛がひびいてくる。E・D・S《エルダー・デムスター》[#ルビは「E・D・S」にかかる]の沿岸船ベンガジ丸が、いまモザンビイクにはいってきたのだ。しかしその船は、やがて悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]へ一同を駆《か》りやろうとする、運命の使者を乗りこませていたのである。

   善玉悪玉嬢《ミス・ジキル・ハイド》

 ベンガジ丸には、ヤン・ベデーツというベルギー青年が乗りこんでいた。
 これは、マヌエラの父の旧友の息子で、マヌエラとは筒井筒《つついづつ》の仲だが、うま[#「うま」に傍点]があわぬというのか、マヌエラは非常に彼を嫌っていた。それに、どこへいっても腰の落ちつかぬ男で、先ごろまで、エジプトのミスル航空会社で副操縦士《コ・パイロット》をしていたが、そこでも、喧嘩をしたらしくモザンビイクに帰ってきたのである。マヌエラの父が親代りで、ヤンの父の遺産を保管しているからだった。
 ところがヤン・ベデーツがくると、研究所の空気がきゅうに乱れてきた。それはヤンが患者を汚ながったり虐待《ぎゃくたい》するばかりか、座間やカークには、この混血児めと蔑視的な態度を見せるからだった。
「なにか、ありましたんでしょう?」
 今日も今日とて案じ顔に、座間の胸のボタンをいじりながらマヌエラが、やさしい上目使いをして訊ねた。
「さっき、ヤンがたいへんな目をして、ハアハアいいながら水を飲んでいましたよ。それからカークさんは、拳固のへんに辛子膏をなすっていらっしゃるんですの」
「じゃ、やったんでしょう。カークは、いつかやってやると言ってましたからね。ジャングルの主が野牛を殴りとばすような勢いでやったんじゃ、ヤン君もさぞ痛かったでしょう。しかし、ヤン君の身にもなれば……」
「え? なんのことですの」
 マヌエラは聞き咎《とが》めた。
「つまり、三年ぶりでここに帰ってくると、あなたには思いがけない僕という人間ができている。八つ当りしたくなるのも無理はないでしょうよ」
 しかし、マヌエラはかなしそうな目をして、
「あの人がじぶん勝手な僻《ひが》みでどういう考え方をしようと、それにあたしたちまでひき摺《ず》られるわけはありません。ねえ、ヤンはヤン、こっちはこっちですわ」
 と、香りのいい髪を嗅《か》がすように、座間の胸のなかへ頬をうずめる。
「あたしは、あなたの日本の血を尊敬してますわ」
 まるで素直な子供のような言い方であった。座間には、それが弱い電気のように、快よく響いてくる。すると、マヌエラがふと話題を変え、
「そうそう、この週の報告をしなきァなりませんわ。でも、ドドは相変らずですの」
 と、引き受けたドド馴育《じゅんいく》の結果を話しだした。
「火がわかったのが三週まえでしたね。手工はどうでしょう?」
「まだ、そんなにお急《せ》きになったって……。でも、先生から言いつけられたことは、ちゃんちゃんとしてますわ。ちかごろは、いったいドドがどんな機嫌でいるか――つまり、ドドの感情表出も見ています」
「はあ、それがわかりますかね」
「ええ、第一ドドは笑われるのを嫌います。それに、色も知っているし記憶力もたしかです。また、相当な学習能力もあります。それで、いつもあたしが使っている水仙《すいせん》色の封筒ね、あれを、構内のポストに入れるのを昨日あたりから覚えましたの」
「ほう、そりゃお手柄だ、それから、先生がいわれた餌料《じりょう》による実験は?」
 それによって、ドドが原人か人獣児であるか、その点がはっきりと分るはずだった。
 もちろん、これはアッコルティ先生の指図で、難しく言えば「皮膚色素の移行」の研究である。たとえば、果実を主食とする黒人にたいし、その量を減らすと皮膚の色が淡くなる。また淡黒色のホッテントットに常食の乳を減らすと、その色がしだいに濃くなってくる。ことに、その変化がはやいのが類人猿で、つまり、ドドがたべる生果の量を減らして、その効果をいち早くみようというのだった。
 マヌエラは、餌料のことを聞くと、かるく口を尖《とが》らせて、
「いけませんわ。ドドは人間ですわ。科学ってなんて残酷なんでしょう。やれ、ドドに蛋白《たんぱく》を与えろ、もし黒猩々《チンパンジー》の血があればてきめんに衰弱するとか、食べものを減らして皮膚の色をみろとか……、そんなこと、それは動物にすることだと思いますわ。ドドはあくまで人間で、あたくしの友だちです」
 ふかい、同情の念とかたい信念とで、マヌエラがきっぱりと言い切った。彼女の、骨にまで浸みたカトリックの教育は、よくこうした場合、一歩も退かせないのだ。座間は浄《きよ》らかな百合《ゆり》の花をみるように、しばしマヌエラの顔を恍惚《こうこつ》とながめていた。
 まったく、ドドはマヌエラのそばを一瞬の間もはなれようとしない。いないと、いまも聴えるように悲しそうな叫び声をたてる。
 お嬢さん、いまに魅入られますよ――と、カークは冗談に言ったけれど、まったく二人の親密さにはそう言いたくなる。
 ところが、その夜不思議な出来事がおこった。
 夜になると、温度はいくぶん下がるけれど、その倦怠《けんたい》さと発汗の気味わるさ。湿気の暈《かさ》が電灯の灯をとりまいている。
 こういう時には、ドドの唸《うな》り声さえもちがってくる。じつに、誰でも平常でなくなるような、蒸し暑い、いやな晩であった。
 その夕、座間はヤンと激論を戦わした。それは、ドドを売れば十万やそこらにはなるだろうから、それにヤンの資産をくわえて研究所を拡張し、名実兼ねた総合病院にしようというのだった。つまり、座間がしている社会施設を、ヤンが営利化しようというのである。
 しかし、これには、なによりマヌエラが真向から反対した。それでも、ヤンは嘲笑《せせらわら》って、なアにお父さんを説き伏せて晩にきますよと、洒々《しゃあしゃあ》と自信ありげに帰っていったのである。そうして、研究所に一つの危機がくることになった。
 と、その夜、座間が寝つかれないので、書斎へゆこうとしたとき、ドドの部屋のまえをとおると、鍵がおりてない。そこへ、患者面会人がやすむ部屋のほうで、微かにごそりごそりと音がする。まさか、ドドが逃げるわけはないがと、そっとその部屋の扉をひらいたときだった。思わず、あッと叫びそうなのを辛《から》くも抑えたほど、座間ははげしい駭《おどろ》きにうたれた。
 そこにいたのは……ドドではない。さっきの憎しみを忘れたように、ヤンとマヌエラが抱かんばかりに向き合っている。座間はまず、じぶんの目を疑った。続いて、耳までも疑わねばならぬような会話を聞いた。
「あたしを愛してくれますか」
 ちょっと、漁色にすさんだヤンでもふるえた声で言うと、
「ええ、あたしも愛してくれますか」とマヌエラも切なそうに呼吸《いき》をする。
 あのマヌエラ、昼間のマヌエラがなんという変りかた?![#「?!」は一字]
 丁度このとき、おおきな伸びをしながらカークが降りてきた。すると、ヤンはいきなりマヌエラを突きはなし、手をふりながら向うの扉から消えてしまった。座間は、この世界がまっ暗になったような気持で、ただその場に茫然《ぼうぜん》と立ち竦《すく》んでいた。
 と、ヤンの姿が消えたと思ったとき、またも座間をあっと言わせるようなことが起った。
 それは、清浄|無垢《むく》なマヌエラとも思われない……、また淑女たらずとも普通の町家の女でも、よもや口にはしまいと思われるような醜猥《しゅうわい》な事柄を、まるでじぶん自身に言いきかすかのように、マヌエラがべらべらと喋《しゃべ》りはじめたからだ。
 マヌエラ! 断じて幽霊ではない、真実のマヌエラだ。昼間の、灼かれようとも挫《くじ》けない人道主義《ヒューマニズム》の天使が、夜は、想像もされない別貌をしてあらわれたのだ。どっちだ? どっちが本当のマヌエラかと、座間は白痴のように頭を振り振り廊下へでていった。
 と出会いがしらに、ドドの手を引いてカークがやってきた。
「君、馴育《じゅんいく》掛りのお嬢さんへようくいわなきァ駄目だぜ。鍵を忘れたもんだから勝手にでちまって、それに、此奴《こいつ》までがえらく亢奮《こうふん》している」
「どこにいたんだ?」
「患者面会人室の廊下の羽目際だ。なにか、こいつが亢奮《こうふん》するようなことがあったらしい」
 なるほど、これまでのドドには決してみられなかった、一種異様な激情のさまを呈している。犬歯を歯齦《はぐき》まで鉤《かぎ》のようにむきだして、瞳は充血で金色にひかっている。そして、ひくい唸り声を絶《き》れ絶《ぎ》れにたてながら、今にもかくれた野性がむんずと起きそうな、カークでさえハッと手をひくような有様だった。
 それからドドをいれて扉に鍵をおろすと、座間はカークを促《うな》がしながら戸外へ出ていった。やがて本土とのあいだが二町ばかりにせまっている、有名なマラガシュの入江に出た。
 湯のような雨……くらい潮が……ぽうっと燐光にひかる波頭をよせてくる。そして砂上の、ひいたあとは星月夜のようにうつくしい。だが座間は、どうしてカークとこんなところへ来たのかじぶんでも分らなかった。
「どうしたい、いやに悄《しょ》んぼりして……。まさか、猫の死骸に念仏をいいにきたんじゃないだろうが」
 カークは、いつもとちがって底気味悪さを湛《たた》えている座間を景気づけるように言った。すると、座間はいきなりふり向いて、
「おい、僕にドドを売っちゃくれまいか」
「えッ、ドドを売れって?![#「?!」は一字]」カークも少からず驚いて、
「なんのためだ。僕の手から買ってどうするつもりだ」
 思わず見上げる座間の眉宇間《びうかん》には、サッと一閃の殺伐の気がかすめてゆく。殺してやる! マヌエラがあの魔性のものに魅込まれたのでなければ、ああも奇怪な二重人格をあらわすわけはない。と、知らず識らず、この入江の腐肉の気にさそわれてきた座間である。
 カークは早くも、それを悟ったと見え改まったような調子で、
「じゃ、その話を真剣にとるがね。すると、まず、売る売らないに先だって、決めておきたいことがある。それは、ドドが獣か人間かということだ。売っていい動物か、売ってはならない人か……サア座間君どっちだろう」
 言われて、座間の咽喉《のど》がぐびっと鳴った。しかし、ちょっと顫《ふる》えただけでなにも言えなかった。
「人身売買……奴隷売買を……いまこの現代に口にする奴があるかね。それとも、ドドを人獣の児として――その場合を君はどう考える? 混血だ、おなじことだよ。ドドが黒猩々《チンパンジー》と人のまざりなら僕は、半黒《ミュラート》、君は三分混血児《テルティオ》だ。僕らが白人以下のものとして蔑視されるのも、君が、半分の獣血をみとめて、ドドを売れというのも……」
 そのカークの言葉を身に滲《し》むように聴きながら、座間はくらい海の滅入るような潮騒《しおさい》とともに、ひそかに咽《むせ》びはじめていたのだ。

       *

 その一夜は寝床のなかで転々としながら、ついにまんじりともしなかった。マヌエラと、ドドの奇怪な行動を考えあぐめばあぐむほど、ますます頭が冴《さ》えて眠れるどころではなかった。
 マヌエラのあれは、「ジキル博士とハイド氏」のように二重人格なのか――と、ますます糸のもつれが深まるなかで、座間は追及の鬼のようになっていた。それとも、ドドに同情を深めすぎた結果か? といって淑女を涜《けが》すような想像はしなかったが、もしやあるかも知れないドドの魔性が、恋情とともにマヌエラに絡《から》みついたのではなかろうか。
 あのときドドは羽目を隔てていたが、それを透して、なかのマヌエラを遠くから動かす――そんなことは、土人の魔法医者《ウィッチ・ドクター》なら朝飯まえの仕事だ。まして、飛行機をみても驚かぬようなドドには、なにか底しれぬものがある。
 マヌエラ自身の素質か、ドドの魔性かと、廻り燈籠のような疑問が考え疲れたあげくふと消えて、座間は思いがけもしなかった大きな穴が、じぶんの足下に口を開いているのに気がついた。ああ、二重人格でもなければ、ドドの魔性でもない。たんなるマヌエラの裏切りなのだ。ヤンがきてその純白の肌を見、振返って座間の黒々とした皮膚をみたとき、マヌエラは一途に座間が嫌いになったのだ。売女《ばいた》、売女め! とかきむしるような言葉を、寝床のなかで座間は咆《ほ》えたてていた。やがて夜があけた。雨が暁の微光に油のように光りはじめてきた。
 その翌夜、カークを書斎に呼びいれて、座間は気負ったように話しはじめた。
「君、僕は旅行しようと思う」
「よかろう、君はきのうの晩ちょっと変だったが、きっと、過労のせいだと思う。どこへゆくね? スイスかウィーンかね」
「いや、この大陸のずうっと内核《なか》へゆきたいんだ。コンゴのイツーリからずうっと北へ――僕は、未踏地帯《テラ・インコグニタ》にゆく」
「え?」
「ぼくは『悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]』へゆくんだ!」

   ナイルの水源閉塞者

 カークは唖然《あぜん》として座間を見詰めていたが、やがて、
「よし、聴こう。しかし、命がけの観光なんてないからね。むろん、目的もあり見込みもあってのことだろう」
「そうだ。ときにカーク、君はコンゴへいり込んで禁獣を狩る。それで、いちばん金になったときはどのくらいなもんだ」
「マア、五万ドルかね。オカピを獲ったときは、そのくらいになったが」
「ゴリラは?」
「あれは獲れん。あいつは、遅鈍《のそ》ついているようだがそりゃ狡猾《こうかつ》で、おまけに残忍ときてるんだから始末がわるいよ。いっそ、猩々《オラン・ウータン》のような教授《プロフェッサー》然としたやつか、黒猩々《チンパンジー》みたいな社交家ならいいがね、どうも、厭世主義者《ペシミスト》とか懐疑主義者というやつは、猟師にはいちばん扱いにくいんだよ。しかし、射殺しただけでも二、三万にはなるだろう」
「じゃ、そのゴリラが……、無数と、死体をならべている渓谷があったとしたら……。ざっと、世界の大学を六百とみて、それに、骨格一つずつ売ったにしても、千万長者にはなれる。だが、それは君の仕事だ。僕の目的は別のほうにある」
「冗談いうな」カークはからからと嗤《わら》いはじめた。
「本気で聴いてりゃいい気になって、そんなとこが、もしあるなら俺が逃すもんか」
「あるとも」座間は自信気たっぷりにいう。
「僕は、友情にかけ君の勇気を信じていう。ところで、君は、ヘロドトスという歴史家を知っているかね」
「むろん、みたことはないが名だけは知っている。ギリシアに、昔いたという博識《ものしり》だろう」
「そうだ。ところが、そのヘロドトスが書いたなかに、ナイル河の水源についてこういうことがある」
 ヘロドトスが、ナイルの水源について次のような話を、エジプトサイスの長官からミネルバで聴いたことがある。
 ナイルの水源《カブト・ニリ》[#ルビは「ナイルの水源」にかかる]は、クロフィス及びメンフィスという、シェーネとエレファンティス間にある二つの山巓――呼んで半月の山脈《モンス・ルーヌラ》[#ルビは「半月の山脈」にかかる]という渓谷の奥にある。その半月の山脈には“Colc《コルク》”という湖があり、バメティクス王が、綱を数千“ogye《オギエ》”も垂れたが底に届かずとある。つまり、ナイルの水源は、その奥にあるというのだ。
 さらにそこには、「盤根の沼《パルス・ラディコスス》[#ルビは「盤根の沼」にかかる]」「知られざる森の墓場《セプルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる][#底本7-10、63-13、69-6ではセブルクルムと表記。ここ30-10での表記は誤りか]」があり、矮人《ピクミエン》が棲み有尾人《ホモ・コウダッス》がいる。そしてそれが、場所というのが悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]で、棲んでいる矮小有尾人がすなわちドドとなる――座間がこう結論したのである。
「なるほど、しかしその、むずかしいラテン語を説明してもらおうじゃないか」
「それはね、『盤根の沼《パルス・ラディコスス》[#ルビは「盤根の沼」にかかる]』というのは、錯綜《さくそう》たる根の沼だ。沼が盤根錯綜たる、叢林のしたにあるという意味だ。それから『知られざる森の墓場《セプルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる][#底本7-10、63-13、69-6ではセブルクルムと表記。ここ30-15での表記は誤りか]』というのは、巨獣の終焉地《しゅうえんち》だ。死体をみせぬ象や類人猿がそこにきて眠るという。ねえカーク、どっちにしても、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]じゃないか。しかも、有尾人ドドの故郷だ」
 そういえば、カークもそれに似たような土人の伝説を聴いたことがある。ヌグンベという、ドド発見地の近傍の部落だが、そこから悪魔の尿溜の方向にあたる北西かたの山腹に、“Leo《レオ》”という奥しれぬ洞窟があるのだ。――そこが、人類発祥の地だという。つまり、太古のとき動物とともに、彼らの祖先がその洞から出てきたというのだ。
 まったく、そういえば数えきれぬほどあるではないか。こういう、無稽な伝説が探検によって裏書きされ、また、そういうものがしばしば因となって、探検欲をうごかし大発見をさせたことが!
 ここに……、いまその洞窟のかなたには悪魔の尿溜がある。しかもそこが、半獣児ドドの発生地に目されている。
「どうだ君、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]なら何億年も処女でいられるよ。そこでは、動物も、植物も原始地球のままだ。獣交も、殺戮《さつりく》も自然律にすぎない。そこで僕は、アッコルティ先生の説をもう一歩すすめるよ。つまり……ドドは、そこにいる原始人と親和的な、黒猩々との雑交児だろうということだ。第一、親を有尾人とするのには、尾がある。それ以外は、外見、智能といいそっくりの黒猩々《チンパンジー》だ」
 カークは、すっかり圧倒されてしょんぼりと瞬いている。座間の、ちがった人のような不思議な情熱を、どこに、こんな静かな男にこんなものがあったのだろうと……、相手の唇を呆然とながめていたのである。
「それから」と座間はすべるように続けてゆく。
「なぜドドが郷愁を感じないかということが、僕にはやっと分ったような気がするよ。それはね、苺果痘《フラムベジア》をわずらって死期を知ったのだ。そして、死ぬために森の墓場へいった。そうなると、もうじぶんは帰れない……、これから、知らない世界へゆかねばならぬということが、彼らには本能的にわかる。そこへ、ドドは道をちがえたのだ。そして、森の墓場へはゆけず、君の手に落ちた……。だから君にも抵抗をしない……。こんな人里へきても郷愁を感じない……。ねえカーク、僕はその墓場へ、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]へゆきたいんだよ」
 原人、類人猿、象もそうだろう? 彼らが、死期をさとって森の墓場へゆこうとするときは、まったく本能的に帰郷の意志がなくなるという――座間の明快な推測であった。
 しかし、そういう座間が、淋《さび》しそうに微笑んでいる。恋の空骸《むくろ》が、死をもとめるかわりに未踏地をえらんだのだろう。やがて、カークとのあいだにかたい盟約が成りたった。
 ところが、そのことをマヌエラに話すと、意外にも彼女が一緒にゆこうと言いだしたのだ。犠牲が、ねがう幸福のほうに、マヌエラを向けようとするとき、意外にも、それを蹴って敢然とゆくという。座間はすっかり分らなくなってしまった。
 間もなく、マヌエラのあとを蛇のように追う、ヤンを加えドドを連れて、まずさいしょの根拠地となるコンデロガへ発ったのである。
「ちかごろ、七郎はどうしちまったのよ」
 話があると、マスカの実が地上に垂れさがっている陰へ、マヌエラが座間を呼びこんだ。雨期あけの灼《い》りつけるような直射のしたは、影はすべてうす紫に、日向《ひなた》の赭土は絵具のように生々しい。それがコンデロガを発つ探検第一日の前日だった。
 マヌエラは、胸に飛びこみたい衝動を抑えているように、ぱちぱちと伏目で瞬いている。
「どうもしませんよ。僕は、相変らずの僕ですが」
「いいえ、ちがっています。まえは、そんな冷ややかな七郎ではありませんでした。女は、そんな点にはいちばん敏感ですのよ。ねえ、なにか、お気に障《さわ》るようなことがあって?」
 すると、座間がまた迷うのである。それまでは、ヤンとあの夜の狂態はなんだと、彼はマヌエラに瞋恚《しんい》の念を燃やしていた。それが、こうして見ている、初々しさ……たどたどしさ。なんだかじぶんのほうが思い過しのような、座間にはそんな感じさえしてくる。
 あれ以後、ヤンとマヌエラのあいだは非常に外々《よそよそ》しいものだった。少なくとも、ああしたことは一度だけらしく、翌日は、ヤンが根城にしようとした総合病院化を、父にすがって一蹴してしまったのである。これにはヤンも座間と同様おどろいたことだろう。しかし、彼は一夜の甘味をけっして忘れるような男ではない。どんなに白眼視され相手にされなくても、またのチャンスを狙いながら探検隊をはなれなかったのである。
 まったくマヌエラには、座間もヤンもおなじ考えにちがいない。不思議な女だ、二重人格かドドの所業かと……、ヤンが、鉄面皮を発揮して探検隊に加われば、座間はあれこれと非常に迷いながらも頑固な壁をマヌエラに立てつづけているのだった。
 ところで、この探検の費用はマヌエラの父がだし、それも座間が疲労を癒《いや》す物見遊山としか考えていない。
 カークも、大湿林の咆吼《ほうこう》をよぶ狂風を感じはするが……、死を賭《と》して、不侵地悪魔の尿溜をきわめようなどとは、夢にもさらさら思わないことだった。そしてまた、マヌエラも、おなじように考えていた。ただ、しばらく仕事から離れればと……、ちかごろ座間の様子がじつに変であるだけに、どうかこの旅行で静養してくれと、じっさい悪魔の尿溜のことなど最初から頭になかった。しかも、座間とてもおなじように変ってきている。
 それは、さいしょカークと二人だけと思ったところへ、意外にもマヌエラが加わるし、ヤンが追ってくる。そうして、絶えずマヌエラの美しさをみていると、この探検は、じつに悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]攻撃にあるのではなく、ヤンを除く、天与のまたとない機会のように思われてきた。密林、鰐《わに》のいる河、野獣、毒蛇。ここでは、下手人に代ってくれるあらゆるものが豊富だ。
 と、その考えが、やはりヤンにもあるらしい。そうして、二人は胸に敵意をひめながら、どうやらさいしょの意図とはちがってしまった探検隊が、数日後はコンデロガを発ったのである。
 ところで、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]攻撃の進路であるが、それは、西方、南方の境界部はコンゴの「類人猿棲息地帯《ゴリラスツォーネ》」、北は、危険な流沙地域である大絶壁にかこまれ、わずか東のほうに密林帯が横たわっている。ところが、これまでの数回の探検隊とも、そこへはいると同時に消息を絶ってしまうのだ。まったく、木乃伊《ミイラ》取りが木乃伊というあの言葉のように、あとからあとからと続いても一人の生還者もない。しかし一同は、ともかくその道をゆくことにした。
 二百の荷担ぎ――それに、車や家畜をふくめた長蛇の列が、イギリス駐屯軍の軍用電線にそうて、蟻塚《ありづか》がならぶ広漠たる原野を横ぎってゆく。土の反射と、直射で灼《い》りつくような熱気には、騾《らば》の幌車《ほろぐるま》にいてもマヌエラは眠ってしまう。やがてゆくと、白蟻が草を噛《か》みきったあとがある。兵隊蟻の、襲撃を避けるため不毛の地にしてしまう。白蟻がちかければ沢がちかいのだ。気のせいか、草の丈がだんだんに伸びてゆく。間もなく、第一日の夜営地になる、うつくしい沢地があらわれたのだった。
 水際には、蜀葵《たてあおい》やひるがお[#「ひるがお」に傍点]のあいだにアカシヤがたっている。水は、一面に瑠璃《るり》色の百合をうかべ肉色のペリカンが喧《やか》ましい声で群れている。マヌエラは、こんな楽園が荒野のなかにあるのかと、いそいそと水際を飛びあるきはじめた。そこへ、カークが記憶があるといいだした。
「その沢から、あの藪地《ブッシュ》を越えて、ほぼ十マイルもいったところが、ドドの発見地なんだ。おいドド久しぶりで故郷《くに》へかえろうぜ」
 しかしドドは、マヌエラのうごきを貪るように追っている。まっ白な脛《すね》、花を摘んで伸びたときのうつくしい均斉。
 それを追いもとめる目には通じない意志に、悶《もだ》えるようなかなしそうな色がうかんでいる。
 またドドは、ここへ来てから何ものかの呼び声をうけている。ときどき、段状にかさなってゆく中央山脈の、一染の、樹海と思われるあたりをおそろしい目でながめていたり、なにより、葉|摺《ず》れの音にもびくっとなるし、あらゆる野性のものが呼び醒《さ》まされようとしている。それには、座間もカークもとっくから気がついていたのだ。
「ドドは、森の墓場へゆき損って人の手に落ちた。しかし今に、そのとき失った野性が強くなるか、それともマヌエラに惹かれて人の世にとどまるか――いずれはどちらかになると思うよ。しかし、注意は充分しなきァならんね」
 探検隊がドドを連れてきたには目的があったのである。それは、さいしょカークと逢ったその場所へゆけば、おそらく故郷を思いだして先頭にたつのではないか。そうして隊が、その跡に続けば人にはわからない、悪魔の尿溜への極秘の道をゆけるのではないか――と。しかし、その試みは失敗に終ってしまった。ドドは、はじめて覚えたマヌエラの魅力に、帰郷の意志などはとっくに失ってしまっている。
 その夜、はじめて夜明けまえにライオンの咆吼《ほうこう》を聴いた。藪地のなかで、豹にやられるらしい小野豚《センズ》の声もした。やがて、危険な角蛇《ホーンド・ヴァイパー》[#底本では「ホーンド・ヴァイバー」と誤記]のいる藪地を越えたとき、はや隊のうえにおそろしい不幸が舞い落ちてきた。
 それは、抵抗のつよい騾《らば》をのぞくほか、いそいで河中に追いこんだ水牛六頭以外は、野牛も駱駝《らくだ》も馬も羊も、みな毒蠅のツェツェに斃《たお》されたのだ。それからが、文字どおりの難行であった。荷担ぎ《バガジス》[#ルビは「荷担ぎ」にかかる]は、荷が嵩《かさ》んだので値増しを騒ぎだし、土はあかく焼けて亀裂が這《は》い、まさに地の果か地獄のような気がする。灌木《かんぼく》も、その荒野にはところどころにしかない。たまに、喬木《きょうぼく》があっても枯れていて、わずか数発の弾でぼろりと倒れてしまうのである。
 しかし、もうそこは山地にちかい。左には、連嶺をぬいて雪冠をいただいている、コンゴのルウェンゾリがみえる。そのしたの、風化した花崗石《グラナイト》のまっ赭《か》な絶壁。そこから、白雲と山陰に刻まれはるばるとひろがっているのが、悪魔の尿溜につづく大樹海なのである。
 翌暁、赭《あか》い泥河《でいが》のそばで河馬《かば》の声を聴いた。その、楽器にあるテューバのような音に、マヌエラは里が恋しくなってしまった。
 しかしまだ、ここは暗黒アフリカの戸端口《とばくち》にすぎない。きのう見た、藪地のおそろしい棘草《きょくそう》、その密生の間を縫う大毒蜘蛛《タランツラ・マグヌス》――。しかし今日は、いよいよ草は巨《おお》きく樹間はせまり、奥熱地の相が一歩ごとに濃くなってゆくのだ。そして、この三日の行程が四十マイル弱。最後の根拠地となるマコンデ部落にはいったのが、翌日の午《ひる》過ぎだった。
 ここから、想定距離二十マイルの山陰に、悪魔の尿溜の東端をみるはずなのである。そしていよいよ、これまで経てきた平穏な旅はおわり、百年の道にも匹敵するその二十マイルへ、悪魔の尿溜攻撃がはじまるのだった。
「とんでもねえ。荷担ぎ《バガジス》[#ルビは「荷担ぎ」にかかる]にゆきァ、死にに往《ゆ》くようなものさァ」
 酋長がぐいぐい棕櫚酒《ポムピ》をあおったり印度大麻《ムトクワーネ》を喫ったり、すこぶる上機嫌のなかでもこれだけは聴かなかった。
「マア、論より証拠というだで、ちょっと見てもらいますべえ」
 外にでると、連嶺のしたは一面の樹海だ。樹海のはての遠いかなたに、ゆらゆら煙霧のようなものが揺ぎあがっているのがみえる。すると、そばの土人がおそろしそうな声でさけんだ。
「ほうれ、煙が鳴るだよ」
 気のせいか、その煙霧がブウンと鳴っているような気がする。やがて、陽が落ちかかると硫黄《いおう》色にかがやいて、すでにそのときは塊雲のように濃くなっていた。煙が鳴る――人煙皆無の大樹海のかなたに、毎日、日暮れちかくになるとこの霧が湧くという。そしてそれ以来、この部落を通過して悪魔の尿溜を衝こうとする、探検隊が一人も帰ってこないのだ。しかし、往《ゆ》けるところまでというとやっと承知して、あくる日、荷担ぎ《バガジス》[#ルビは「荷担ぎ」にかかる]とともに密林をわけはじめたのである。
 そこは、虎でもくぐれそうもない蔦葛《つたかずら》の密生で、空気は、マラリヤをふくんでどろっと湿《し》っけている。大蟻、蠍《さそり》、土亀の襲撃を避け猿群を追いながら……、よくマヌエラがゆけたと思うほどの、難行五時間後にやっと視野がひらけた。
 その地峡で、軍用電線が鍵の手にまがっている。すなわちその線を前方に伸ばせないものが、あらたに迫っている密林の向うにあるのだろう。案の定、荷担ぎどもは動かなくなってしまった。ゆけ、金をやるぞとあまり語気がつよいと、おう、お嬶ァ《ヤ・ムグリ・ワンゲ》[#ルビは「おう、お嬶ァ」にかかる]――と、なかには泣きだすものが出てくる。
 じっさい、ここで一同は戻ろうとしたのだった。探検の熱意は、もう誰にもなく、ただカークの指揮でここまで来ただけでも、一同にとれば大成功といえよう。すると、座間一人がなんと思ったのか、強くゆくことを主張したのである。
 殺意が……、この静かな男の面上を覆《おお》い包んでいるのを、そのとき誰も気が付くものはなかった。この機会、最後の密林のなかでヤンを殺《や》ろう。と、身丈ほどもある気根寄生木の障壁、そのしたに溜っているどろりとした朽葉の水。それが、燈火へ飛びこむ蛾の運命となるのも知らず、ともかく、荷担ぎを待たして前方に足をすすめたのである。
 そのとき、地峡をとおる蛇を追うために、カークが野火をはなった。その煙りが、娑婆《しゃば》をうつすいちばん最後のものになったのが、隊のなかの誰と誰だろうか。そうして、最後の密林行がはじまったのである。
 すると間もなく、樹間がきらきらと光りはじめてきた。森がつきる――とそのとき、どこに潜んでいたのか十四、五人のものが、一同をぐるりと取り囲んでしまった。見なれぬ土人だ。しかも、頭《かしら》だった一人は短いパンツをつけている。
「やあ、今日は《ナマ・サンガ》[#ルビは「やあ、今日は」にかかる]」
 カークが進みでて愛想よく挨拶をした。しかし、練達な彼がぐっとつかえ、語尾が消えるように嗄《かす》れてしまったのだ。拳銃が……無気味[#底本では「無意味」と誤植]な銃口をむけている。やがて、顎《あご》でぐいぐい引かれて森をでると、したは、広漠《こうばく》たる盆地になっている。草|葺《ぶ》きが、固まっているなかに、倉庫体のものさえある。
「ここは、どこだね」
 カークが一同を怯《おび》えさせまいとするように、言った。すると、その男の口から意外にも、未探地帯《ウンベカント・クライス》――とドイツ語が洩れた。アッと、顔をみると鼻筋《はなすじ》の正しい、色こそ熱射に焼けているが、まぎれもない白人だ。
「驚いたろう。俺は、ここに二十年あまりもいる。万一有事のとき、ナイルの水源を閉塞《へいそく》するためにかくれている。俺はドイツ人でバイエルタールという男だ」
 こうして、想像を絶する悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の怪奇のなかへと、運命の手が四人のものを招きよせてゆくのだった。

   「猿酒郷《シュシャア・タール》」の一夜

 一行の導かれた盆地は谿谷の底といった感じで、赭《あか》い砂岩の絶壁をジグザグにきざみ、遥か下まで石階《いしばし》が続いている。それが、盆地の四方に一か所ずつあって、それ以外の場所は野猿にも登れそうもない。しかし、五人のものは、なんの危害もうけなかった。かえって、怪人バイエルタールは上々のご機嫌だった。
「ここで、白人諸君に会おうとはまったく夢のようだ。どうだ、“Shushah《シュシャア》”という珍しいものを飲《や》らんかね」
 といって、怪人は椰子《やし》の殻にどろりとしたものを注いで、
「ねえ君らも、子供の時に猿酒の話を聴いたろう。それが、ここへきてみると、立派に『猿酒《アクワ・シミェ》』といえるものがあるんだよ。これは黒猩々がこっそり作っている。野|葡萄《ぶどう》や、無花果《いちじく》の類を樹洞《ほら》で醗酵させ、それを飲るもんだからああいう浮かれ野郎になっちまうんだ、はっはっはっはっは、それでここを『猿酒郷《シュシャア・タール》』と名付けることにしたんだがね」
 そういって尻ごみをする一同にはカッサバ澱粉のパンをすすめ、じぶんは「猿酒《シュシャア》」を呷《あお》り“Dagga《ダッガ》”という、インド大麻に似た麻酔性の葉を煙草代りに喫っている。その両方の酔いがもう大分まわったらしく、バイエルタールはだんだん懆《あや》しくなってきた。半白の髪の様子ではもう五十にちかいだろう。ただ剛気そうな目が、恍《うっと》りとした快酔中にもぎらついている。
 やがて、問われるままに、ここへ来た話をしはじめた。
「俺はもと、ドイツ領東アフリカ駐屯軍の一曹長だったが、一九一六年の三月にタンガンイカ湖で敗れた。そのとき俺たちの隊が退路にまよい、北へ北へといってヴィクトア・ニールにでた。それはもう話にならぬような悲惨な旅で、一人減り、二人減りで百人もいた隊が、しまいには六、七人になってしまった。みんな熱病にかかったり、毒蛇にやられてしまった。
 それで、とうとうここまで逃げのびると、さすがにイギリス軍もやってこなくなった。きっと、悪魔の尿溜ちかくで斃《や》られちまったと、奴らは考えたにちがいない。しかし俺たちは生きのびていた。まるで、ロビンソン・クルーソーのような生活をして、大戦がいつ終ったかも知らないし、おまけに子まで出来た。はッはッはッは、むろんお袋は土人の女だがね」
 こう言ってバイエルタールは、妙にぎらぎらする瞳でマヌエラを見|据《す》えた。魔烟《まえん》のために、大分|呂律《ろれつ》が怪しくなっているし、調子も、うきうきと薄気味悪いほどである。
「ところで、つい一昨年のこと、ここへマコンデから宣教師がふらふらと迷い込んできた。みるとドイツ人なんだ。話がはずんだ。大戦が終ったということもそのとき聴いたし、故国《くに》も変ってしまってナチスという、反共の天下になった事も初めて知った。だが、外地へゆく宣教師には特別の使命がある。スパイもやれば宣伝もやる。彼はそういう種類の男だったのだ。それで、ともかく部落は全滅したということにして、あることないこと大嘘をこき混ぜて、マコンデの部落へいい触れさした。つまり、ここが行ってはならない危険な場所になったということを、帰りしなに触れさしたわけだよ。しかし、俺とその男のあいだには、かたい約束ができていた。いいか、俺はどんな蛮地にいようとも、立派なドイツ国民として行動して見せるのだ」
 この今様ロビンソン・クルーソーがなにを言いだすのだろうと、一同は興味深く顔をのぞき込んだが、斉《ひと》しくのっぴきならぬ危険が起りそうな予感を覚えた。バイエルタールは、そしらぬ顔つきでお喋りを続ける。
「それはね、万一事ある場合、たとえば英仏相手の戦いがおこった場合、まず青《ブルー》と黒《ブラック》ニールの水源をエチオピアでとめてしまう。それから、俺は白《ホワイト》ニールにでて上流を閉塞する。と、どうなる?![#「?!」は一字] エジプトの心臓ナイル河の水が、底をみせて涸々《からから》に乾《ひ》あがるだろう。むろん灌漑水《かんがいすい》が不足して飢饉《ききん》がおこる。舟行が駄目になるから交通は杜絶する。そうなって、澎湃《ほうはい》とおこってくる反乱の勢いを、ミスルの財閥や英軍がどうふせぐだろうか」
 折から天空低く爆音が聞えた。毎夕、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]からくる昆虫群をふせぐために、石鹸石《ソープストーン》、その他の粉霧を上空から撒《ま》くのだという。それがマコンデからみえる「鳴る霧」の正体だったのだ。ドドが飛行機をみても驚かぬわけは、おそらくここの近くにいたために、機影を知っていたせいであろうと察せられた。
 それから、その飛行機のことをバイエルタールに訊《たず》ねると……英領ケニアの守備隊で同僚を殺し、偵察機一台をさらってここへ逃げこんできた英人飛行士で、その後、縦断鉄道測量隊をヤンブレで襲い、当分防虫剤やガソリンには不自由しないと、バイエルタールは鼻高々の説明だった。
 その間も彼の目は、寝ているドドの背に置かれたマヌエラの手のうえを、まるで甜《な》め廻すように這《は》いずっているのだが、どうやらそれも、ただの酔いのせいではなさそうに思われてきた。と突然、彼は割れるような哄笑《こうしょう》をはじめた。
「分ったろう、俺はナイルの閉塞者なんだ。はっはっはっはっは、君らは妙な顔をして、俺を島流しの狂人とでも思ってるだろうが、それもよかろう。しかし、ここには武器もあり爆薬もある! それに、月に一度は連絡機がくる。サヴォイア・マルケッティの大輸送機が、北アフリカ航空《ノルド・アフリカ・アヴィアチオーネ》[#ルビは「北アフリカ航空」にかかる]の線から飛んでくる。倉庫もある、飛行場もあれば格納庫もある。全部、巧妙な迷彩で上空からわからんようになっている」
 探検の一同は、聴いているまにだんだんと蒼《あお》ざめてきた。今宵にも、命がなくなるかもしれぬおそろしい危機が、いま次第に切迫しつつあるのを知ったのである。おそらく、これまでの探検隊に生還者がなかったのも、ここでバイエルタールに殺されたからにちがいない。かほどの、国の興廃にもかかわる大機密を明して、無事に帰すはずはない。カークをはじめ一人も声がなく、喪《ほう》けて死人のようになってしまった。
 ところが、座間一人だけはさすが精神医だけに、ほかの人たちとは観察がちがっていた。バイエルタールの言葉を聞いていると、ときどき他のことを急にいいだすような、意想|奔逸《ほんいつ》とみられるところが少なくない。これは精神病者特有の一徴候なのだ。
 普通の人間でもこんな隔絶境に半月もいたら少々の嘘にも判別《みわけ》がつかなくなるだろう。それが、バイエルタールのは二十と数年――宣教師のでたらめをまことと信ずるのも無理はない。そのうえ、彼はインド大麻で頭脳を痺《しび》らせているのだ。
 けれど今となっては、それがじぶんたちには狂人《きちがい》の刃物も同様。もう、どうあがこうにも……、彼の狂気の犠牲となるより他はなさそうに思われる。
 防虫組織や飛行機などは、いかにも神秘境と背中合せの近代文明という感じだが、ナイルの閉塞、イタリア機の連絡とは、じつに華やかながら実体のない、狂人バイエルタールの極光《オーロラ》のような幻想だ。いやいま、この猿酒宮殿《シュシャア・パラスト》に倨然《きょぜん》といる彼は、そのじつ、悪魔のような牧師の舌上におどらされている、あわれなお人よしの痴愚者なんだと、座間だけはそう信じていたのである。
 やがてドドをまじえた一行五人は小屋に押しこめられた。もっとも、番人もつけられず鍵もおろされない。武器も弾薬も依然として手にある。これはバイエルタールの手抜かりというわけではなく、四か所の石階《いしばし》に厳重な守りがあるからだ。
 アフリカ奥地の夜、山地の冷気が絶望とともに濃くなってゆく。蟇《がま》と蟋蟀《こおろぎ》が鳴くもの憂いなかで、ときどき鬣狗《ハイエナ》がとおい森で吠《ほ》えている。その、森閑の夜がこの世の最後かと思うと、誰一人口をきくものもない。ときどき君が言いだしたばかりにこんな目に逢ったのだと、ヤンが座間を恨めしげに見るだけであった。
 と時が経って暁がたがちかいころ、座間にとっては思いがけぬ事件が降って湧《わ》いた。一見大して奇もないようだったが、重大な意味があった。それはとつぜん、マヌエラが気懶《けだる》そうな声で、なにやら独《ひと》り言のようなものをドイツ語で言いはじめたのであった。
「明日、牝《めす》をのぞいた残りを全部|殺《や》るというんだ。人道的な方法というからには、アカスガの毒を使うだろう」
 驚いたことに、男のような言葉だ。調子も、抑揚がなく朗読のようである。そして、これがなかでもいちばん奇怪なことだが、いまマヌエラが喋《しゃべ》っているドイツ語を、当の本人が少しも知らないのである。知らない外国語を流暢《りゅうちょう》に喋る――そんなことがと、一時は耳を疑いながらまえへ廻って、座間はマヌエラをじっと見つめはじめた。
「マヌエラ、どうしたんだ、確《しっ》かりおし!」
 しかしマヌエラの目は、狂わしげなものを映してぎょろりと据《すわ》っている。ひょっとすると心痛のあまり気が可怪《おか》しくなったのかもしれない。その間も、なおも譫言《うわごと》は続いてゆく。
「逃げやしないかな」
「大丈夫、武器は取りあげてないから、まさかと思っているだろう。第一、石階《いしばし》には番人がいるし……そこを逃げても、マコンデ方面は網目のようだからな」
 こうした気味の悪い独語が杜絶えると、闇の鬼気が、死の刻がせまるなかでマヌエラだけをつつんでしまう。彼女は、ちょっと間を置くとまたはじめた。
「水牛小屋の地下道は分りっこねえんだ。何時だ? 三時だとすりゃ、あと二時間だが」
 一体マヌエラは誰の言葉を真似ているのだろう? 座間は微動だもせず冷静な目で、じっとマヌエラをながめていたが、思わず……この時首をふった。すると、おなじようにマヌエラも首を振る。ハッとした座間が今度は試みに唇をとがらした。とまた、マヌエラがおなじ動作を繰りかえす。とたんに、座間はわッとマヌエラを抱きしめた。やがて、むせび泣きとともに二人の頬の合せ目を、涙が小滝のようにながれてゆくのだった。
「ああ君?![#「?!」は一字]」
 カークはじぶんとともに冷静だった座間が、近づく死の刻に取乱してしまったのだと思った。しかし座間はすこしも腕をゆるめずに、まるで恋情のありったけを吐きだしてしまうように、泣いたり笑ったりもう手のつけようもない狂乱振りだった。が、座間は狂ったのではなかった。彼は、悦びと悲しみの大渦巻きのなかで、こんなことを絶《き》れ絶《ぎ》れに叫んでいた。
(“Latah《ラター》”だ。マヌエラにはマレー女の血がある“Latah《ラター》”は、マレー女特有の遺伝病、発作的神経病だ。ああ、いますべてが分ったぞ。あの夜の、ヤンとのあの狂態の因《もと》も……、いま、マヌエラの発作が偶然われわれを救ってくれることも……)
“Latah《ラター》”は、さいしょ軽微な発作が生理的異状期におこる。そのときは、じぶんがなにをしているかが明白《はっきり》と分っていながら、どうにも目のまえの人間の言葉を真似たくなり、またその人の動作をそのまま繰りかえす――つまり、反響言語《エヒョーラリー》、返響運動《エヒョーキネジー》というのがおこる。してみると、いつかのあの夜も、と――座間には次々へと浮んでくるのだ。
 あのとき……、ヤンが、あたしを愛してくれますか――と小声で言うと、ちょうど、それそっくりの言葉をマヌエラが繰りかえした。また、抱こうと腕をかけると彼女もおなじ動作をした。それから淑女らしくもない醜猥なひとり言も、思えば醜言症《コプロラリー》という症状の一つなのだ。ああ、マヌエラにはマレーの血があるのだ。おそらく、マレー人系統のマダガスカル人の血が、何代かまえに混入したのであろう。そしていま、それがいく代か経ってマヌエラにあらわれたのだ。
 血の禍《わざわ》い、やはりマヌエラも純粋の白人ではない。しかし、いま一人もものを言わないこの小屋のなかで、どうして知りもせぬドイツ語で喋ったのだろう。それが、反響言語《エヒョーラリー》のじつに奇怪なところである。遠くて、普通の耳には聴えぬような音も、異常に鋭くなった発作時の、聴覚には響いてくるのである。
 今しも、バイエルタールの部下二人が靴音《くつおと》立てて、小屋のまえを通り過ぎていったところを見ると、マヌエラは、彼らの会話を口真似したに違いない。それでは水牛小屋の地下道というのこそ、唯一のまぎれのない逃げ道だ。
 こうして、マヌエラをめぐるあらゆる疑惑が解けた。まるでハイド氏のような二重人格も、怪奇をおもわせたドドの魅魍《みもう》も、さらに、いま五人のものが浮びあがろうとすることも、畢竟《ひっきょう》マヌエラに可憐な狂気があるからだった。座間は、息をふきかえした愛情のはげしさに泣きながら、もう一刻も猶予《ゆうよ》できないことに気がついた。
「諸君、助かるかもしれん。とにかくすぐに水牛小屋へゆこう」
 まず、醜言症を聴かせぬためマヌエラには猿轡《さるぐつわ》をし、ドドを連れて、そっと一同が小屋を忍びでたのである。そこには、地下からうねうねと上へのびて東方の絶壁上へでる、やっと這ってゆけるほどの地下道があった。一同はこうして、猿酒郷《シュシャア・タール》を命からがら抜けでたのである。
 やがて樹海の線に暁がはじまったころ、おそらく追手のかかるマコンデとは反対に、いよいよ、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]へと近付く密林のなかへ、心ならずも逃げこんで行くのだった。

   雪崩《なだ》れる大地

 密林はいよいよふかく暗くなって行った。大懶獣草《メガテリウム・グラス》の犢《こうし》ほどの葉や、スパイクのような棘《とげ》をつけた大|蔦葛《つたかずら》の密生が、鬱蒼《うっそう》と天日をへだてる樹葉の辺りまで伸びている。また、その葉陰《はかげ》に倨然《きょぜん》とわだかまっている、大|蛸《だこ》のような巨木の根。そのうえ、無数に垂れさがっている気根寄生木は、柵のようにからまり、瘤《こぶ》のように結ばれて、まさに自然界の驚異ともいう大障壁をなしているのだった。しかも、下はどろどろの沢地、脛《すね》までもぐるなかには角毒蛇《ホーンド・ヴァイパー》がいる。
 蜈蚣《むかで》の、腕ほどもあるのがバサリと落ちて来たり、絶えず傘《かさ》にあたる雨のような音をたてて山|蛭《ひる》が血を吸おうと襲ってくる。まったくバイエルタールの魔手をのがれたのは一時だけのことで、またあらたな絶望が一同を苦しめはじめた。
「殺してよ、座間」
 マヌエラが、しまいにはそんなことを言いだした。そして、虚《うつ》ろな、笑いをげらげらとやってみたり、ときどき嫌いなヤンへにッと流眄《ながしめ》を送ったりする。彼女もだんだん、正気を失いはじめてきたのだ。
 さすがにカークだけは、絶えず斧《おの》をふるって道をひらいてゆく。しかし、蛮煙瘴雨《ばんえんしょうう》に馴れたこの自然児も、わずか十ヤードほどゆくのに二、三時間も死闘を続けるのでは、もうへとへとに疲れてしまった。一本の、馬蔓の根がとおい四、五町先にあって、切るとずうんずうんと密林がうめきだし、しばらくカサコソと何者かが追ってくるような無気味な音をたてている。カークも全精力がつき、ぐたりと樹にもたれた。
「どうする? なにか、こうしたらというような見込みでもあるかね」
「どうするって?![#「?!」は一字] 一体どうなりゃいいんだ」ヤンが、ぎょろっと血ばしった目でふり向いた。
「われわれは、いっそバイエルタールに殺されちまやよかったんだ」
 とおく、一つ、鉛筆のような陽の縞《しま》が落ちている。そのほかは、闇にちかいこの密林のなかは、沢地の蒸気をうずめる塵雲《じんうん》のような昆虫だ。それを、蚊帳《かや》ヴェールで避ければ布目にたかってくる。もう、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]へはいくばくもないのだろう。
 ところが、そういう筆舌につくせぬ難行のなかで、一人ドドだけは非常に元気だった。マヌエラを背負い、ときどき樹にのぼっては木の実をとってくる。いま密林に抱かれ大自然に囁《ささや》かれ、野性が沸然《ふつぜん》と蘇《よみがえ》って来たのである。それをヤンが見て嘲《あざけ》るようにいった。
「こいつのためだ。こいつを、わざわざ故郷へ送りとどけるために、四人の人間がくたばろうとするんだ。おい獣、貴様、マヌエラさんというお嫁さんがいて嬉《うれ》しいだろうぜ」
 こうしてどこという当てもなく彷徨《さまよ》い続けるうちに、やがて日も暮れて第一夜を迎えた。カークは、危険な地上を避けて手頃な樹を選ぼうと思い、ひょいと頭上をみると、枝を結《ゆ》いつけたのが目に入った。ゴリラの巣だ。しかしゴリラは、一日いるだけでまたほかへ巣を作る習性がある。してみるとこのうえもない宿である。
 第二日――。
 一行全部ひどい下痢と不眠のなかで明けていった。湿林の瘴気《しょうき》がコレラのような症状を起させ、一夜の衰弱で目はくぼみ、四人はひょろひょろと抜け殻のように歩いてゆく。
 全身泥まみれで髭《ひげ》はのび、マヌエラまで噎《む》っとなるような異臭がする。そしてこの辺から、巨樹は死に絶え、寄生木《やどりぎ》だけの世界になってきた。これが、パナマ、スマトラと中央アフリカにしかない、ジャングルの大奇景なのである。
 つまり、寄生木や無花果《いちじく》属の匍匐《ほふく》性のものが、巨樹にまつわりついて枯らしてしまうのだ。そのあとは、みかけは天を摩《ま》す巨木でありながら、まるで綿でもつめた蛇籠《じゃかご》のように軽く、押せば他愛もなくぐらぐらっと揺れるのである。森が揺れる。一本のうごきが蔦蔓《つたかずら》につたわって、やがて数百の幹がざわめくところは、くらい海底の真昆布の林のようである。四人とも、それには幻を見るような気持だった。
 ちょうど正午ごろに、大きな野象らしい足跡にぶつかった。つぶれた棘茎《きょくけい》や葉が泥水に腐り、その池のような溜りが珈琲《コーヒー》色をしている。しかし、そこから先は倒木もあって、わずかながら道がひらけた。しかしそれは、ただ真西へと悪魔の尿溜のほうへ……まさに地獄への一本道である。
 疲労と絶望とで、男たちはだんだん野獣のようになってきた。ヤンがマヌエラ共有を主張してカークに殴《なぐ》られた。しかしカークでさえ、妙にせまった呼吸《いき》をし、血ばしった眼でマヌエラをみる、顔は醜い限りだった。
 第三日――。
 ヤンが、その日から肺炎のような症状になった。漂徨《ひょうこう》と泥と瘴気《しょうき》とおそろしい疲労が、まずこの男のうえに死の手をのべてきたのだ。ひどい熱に浮かされながら、幹にすがり、座間の肩をかりて蹌踉《そうろう》とゆくうちに、あたりの風物がまた一変してしまった。
 大きな哺乳類はまったく姿を消し、体重はあっても動きのしずかな、王蛇《ボア》や角喇蜴《イグアナ》などの爬虫《はちゅう》だけの世界になってきた。植物も樹相が全然ちがって、てんで見たこともない根を逆だてたような、気根が下へ垂れるのではなくて垂直に上へむかう、奇妙な巨木が多くなった。それに、絶えず微震でもあるのか足もとの地がゆれている。
 してみると、土の性質が軟弱になったのか、それとも、地|辷《すべ》りの危険でもあるのだろうか? この辺をさかいに巨獣が消えたのと思い合わせて、これがたんなる杞憂《きゆう》ではなさそうに考えられて来た。いまにも足もとの土がざあっと崩《くず》れるのではないか――踏む一足一足にも力を抜くようになる。しかしここで、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の片影をとらえたようでも、森はいよいよ暗く涯《はて》もなく深いのだ。
 すると熱の高下の谷のようなところで、ヤンがマヌエラをそっと葉陰に連れこんだ。
「あなたは、モザンビイクに帰りたいとは思いませんか」
 突然のことに、マヌエラはきょとんと目をみはった。蚊帳ヴェールを透いて、なんでこの期になって思いださせようとするのかと、涙さえ恨めしげにひかっている。
「どうしました? なぜ、黙っているんです」
「疲れたんですわ。あたし、なにか言おうにも、言い表せないんです」
「いや、モザンビイクへ帰れる確実な方法が唯一つあるんです。それは、バイエルタールのところへまた引っ返すことだ。ねえ、あの男は白人の女を欲している」
 そういって、ヤンは蜥蜴《とかげ》のような目をよせてくる。足がふらついて、病苦に痩《や》せさらばえた顔は生きながらの骸骨だ。マヌエラはぞっと気味わるくなってきた。おまけに、座間とカークは泥亀を獲りにいっていない。
「僕とあなたがゆきァ、バイエルタールがなんで殺しましょう。そうして観念してあすこにいるうちにゃ、いつか抜けだす機会がきっとくると思うんです。ねえ、あなたの分別一つでモザンビイクへ帰れる。それとも、奴らに義理をたてて、ここで野垂死《のたれじ》にしますかね」
「でもあたし、あなたのいう意味がすこしも分りませんけど」
「それがいかん。あいつら二人は、僕が今夜のうちにきっと片付けてみせます。熱がさがったとき、不寝番になるはずですからね」
 と言いながら、ヤンはじりじりマヌエラにせまってくる。しかしそれは、どうせ死ぬものなら行きがけの駄賃と、まるで泥で煮つめたような絶望の底の、不逞不逞《ふてぶて》しさとしかマヌエラには思われなかった。熱くさい呼吸、それを避けようともがけばぐらぐらっと地がゆれる。とその瞬間……、意外にもヤンがわっと悲鳴をあげたのである。
 ドドだ。犬歯を牙のようにむきだして、もの凄い唸《うな》り声をたて、唇はヤンを噛《か》んだ血でまっ赤に染っている。憤怒のために、ドドは野性に立ち帰ったのである。切羽《せっぱ》つまったヤンが拳銃《ピストル》をだそうとすると、その手にまたパッと跳《と》びついた。それなり二人は、ひっ組んだまま地上を転がりはじめたのだ。
 大柄な獣さえこない禁断の地響きに、とつぜん、足もとがごうと地鳴りを始めた。
 と見る……ああ、なんという大凄観! とつぜん、目前一帯の地がずずっと陥《お》ちはじめたのである。マヌエラは足もとを掬《すく》われてずでんと倒れたが、夢中で蔦《つた》にすがりつきほっと上をみると、今しも森が沈んでゆくのだ。梢《こずえ》が、一分一寸とじりじりと下るあいだから、まるで夢のなかのような褪《あ》せた鈍《にぶ》い外光が、ながい縞目《しまめ》をなしてさっと差しこんできたのである。森がしずむ! マヌエラは二人の格闘もわすれ、呆然とながめていた。
 大地の亀裂が蜈蚣《むかで》のような罅《ひび》からだんだんに拡がるあいだから、吹きだした地下水がざあっと傾《かし》いだ方へながれてゆく。しかし、そうして崩《くず》れてゆく地層のうえにある樹々は、どうしたことか直立したままである。攀縁性の蔓《つる》植物の緊密なしばりで、おそらく倒れずにそのまま辷《すべ》るのだろう――と考えたが、それも瞬時に裏切られた。
 水の噴出がみるみる土をあらって幹根があらわれる。やがて、数尺下の支根が露《む》きでても……、まるで根ごと地上に浮きでて昇ってゆくような、奇怪な錯覚さえ感じてくるのだ。なんという樹か。その地底までも届くようなおそろしい根を、マヌエラは怪物のようにながめていた。この時耳もとで座間の声がした。
「おう、深井の根《プティ・ラディックス》[#ルビは「深井の根」にかかる]!」
 それが、旧根樹《ニティルダ・アンティクス》という絶滅種ではないのか。根を二十身長も地下に張るというこのアフリカ種は、とうに黒奴《こくど》時代の初期に滅びつつあったはずである。
 と、見る見る視野がひらけた。
 思いがけぬ崩壊が風をおこして、地上の濛気《もうき》が裂けたのである。とたんに、三人がはっと息を窒《つ》めた。それまで、濛気に遮《さえぎ》られてずっと続いていると思われた密林が、ここで陥没地に切り折れている。
 悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]――。
 と三人は眩くような亢奮に我を忘れた。陥没と、大湿林の天険がいかなる探検隊もよせつけぬといわれる、この大秘境の墻《かき》の端まできたのだ。と思うと、眼下にひろがる大|摺鉢地《クレーター》のなかを、なにか見えはせぬかと瞳を凝らしはじめる。
 しかしそこは依然として、濛気と昆虫霧が渦まく灰色の海で、絶壁の数かぎりない罅《ひび》も中途で消えてしまい、いったいどこが果でどこが底か――この大秘境を測ることさえ許されない。ただ枯れた幹をおとした旧根樹《ニティルダ・アンティクス》の、錯綜《さくそう》の根がゆらぐ間にみえるのだ。強靱《きょうじん》な、ピラミッド型の根が幹を支えているうちに、幹は枯れ、地上に落ちたその残骸は、まるで谿《たに》いっぱいにもつれた蜘蛛《くも》糸をみるようであった。やがてその枯色も、鎖ざしはじめた昆虫霧にうっすらと霞んでしまったのである。――大秘境「悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]」はちらりと裾《すそ》をみせ、それなり千古の神秘を人にみせることをしなかった。
 三人はしばらく感慨ぶかげに立っていた。しかし気がつくと、その格闘のまま、ヤンとドドの姿が消えてしまっているのだ。たぶん、ひっ組んだまま陥没地に落ちたのだろうと、マヌエラは気もそぞろであったが、やがて紅い蔓花で花環を編んで、じぶんを救おうとして死んで故郷へもどったドドのために、接吻とともに底しれぬ墓へ投げこんだ。
 そうして、歯がぬけたような淋しさが来たが、また陥没がはじまりそうなので此処を引きあげねばならなかった。しかし三人は、その日一日は酔ったような気持でいた。前人未踏の、この東端まできて悪魔の尿溜をのぞいたのは、おそらく有史以来この三人だけかと思うと、自然の尊位と威力を踏みにじった気にもなるが、なによりここを出て人里に帰ることが、いまのところいちばんの問題になっている。
 といって、南へゆけばコンゴの「類人猿棲息地帯《ゴリラスツォーネ》」、そこではこの惨苦を繰りかえすにすぎない。してみると、北端にあたる大絶壁へ――いまアメリカ地学協会の探検があるはずだが……。
 と、協議がまとまって進むことになったが……、これまでどおり、巨草|荊棘《けいきょく》を切りひらいてゆくのではいく月かかるかも知れない。そのあいだ、この衰弱ではとうてい保つまいし、なによりこの二、三日来|王蛇《ボア》に狙われどおしである。
「ずいぶん、考えりゃ保つもんですわね」
 マヌエラが、ボロボロの斧をながめてふうっと吐息をし、なにやら、座間に言えというような目配せをした。すると、座間が胸の迫ったような声で、
「じつはカーク、いまマヌエラとも相談したことだがね。ここで、君一人に自由行動をとってもらいたいのだ」
「なぜだ」
 とカークはびっくりして目をみはって、
「あんまり、唐突《だしぬけ》な話で訳がわからんが」
「それは、こういう訳だ。君ならここを抜けだして人里へゆけるだろう。なまじ、僕ら二人という足手まといがあるばかりに、せっかく、ある命を君が失うことになる。お願いだ。明日、僕らにかまわずここを発《た》ってくれないか」
「そうか」
 としばらくカークは呆《あき》れたように相手をみていたが、
「なるほど、君らを捨ててゆくのはいと容易《やす》いが、しかし、ここに残ってどうするつもりだ」
「悪魔の尿溜へ、僕とマヌエラが踏みいるつもりなんだ」
「なに」
 と、カークもさすがに驚いて、
「じゃ君らは、あの大|陥没地《クレーター》へ身を投げるつもりか……」
「そうだ、初志を貫く。だいたいこれが、僕の因循姑息《いんじゅんこそく》からはじまったことだから、むろん、じぶんが蒔《ま》いた種はじぶんで苅《か》るつもりだよ。マヌエラも、僕と一緒によろこんで死んでくれる。ただ、君だけは友情としても、どうにも僕らの巻添えにはしたくないんだ」
 カークはマヌエラを振り向いた。彼女の目は断念《あきら》めきったあとの澄んだ恍惚さを湛《たた》えて、にんまりと座間をみている。おそらく全人類中のたった二人として、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の底を踏んだときの二人の目はあの、ペンも想像も絶するおどろくべき怪奇と、また、恋の墓場としてのうつくしい夢をみるだろう。カークは、言葉を絶ってしばらく考えていた。
 密林は、死んだような黄昏《たそがれ》の闇のなかを、ときどき王蛇《ボア》がとおるゴウッという響きがする。と、とつぜん、カークがポンと膝《ひざ》をうって言った。
「座間、名案があるぞ。僕にそんな莫迦気《ばかげ》たことを、いわないでもすむようになるぞ」
「えっ、なにがあるんだ?」
「それは、この蔦葛のうえを“Kintefwetefwe《キンテフェテフェ》”に利用するんだ」
「…………」
「つまり、コンゴの土語でいう『自然草の橋』という意味だ。ああ、これまでなぜ気がつかなかったんだろう」
 リビングストーンのマヌイエマ探検の部に、その“Kintefwetefwe《キンテフェテフェ》”のことがくわしく記されてある。
 ――マヌイエマ近傍では、川を覆うて生草の橋ができる場合がある。つまり、両岸からの蔓が緊密にからみ合って、それがひろい川だと河床ちかくまで垂れてくる。踏むとふかふかとした蒲団《ふとん》のような感じで、足を雪から出すように抜きあげながら進む。

 それがここでは、人間の身長の倍以上のたかさで、蔦や大蔓が砦《とりで》のようにかためている。
 その自然の架橋を、いよいよ生気を復した三人がゆくことになり、やがて、マヌエラを押しあげてそのうえに立ったのである。この大湿林を、まさか上方からながめようとは思わなかったが、さすがその大眺望にはしばらく足を停めたほどだ。地平線は、樹海ではじまり樹海でおわっている。一色のふかい緑は空より濃く、まさに目のゆくかぎりを遮るものも、またこの単色をやぶる一物さえもないのだ。そうしてついに、この大湿林を抜けることができたのである。
 楽々と、それまできた十倍以上を踏破し、北側の傾斜からまわって、絶壁のうえへ出ることができた。
 見おろすと、眼下の悪魔の尿溜はいちめんの灰色の海だ。その涯がうつくしい残陽に燃え、ルウェンゾリの、絶嶺が孤島のようにうかんでいる。しかし、瘴癘《しょうれい》の湿地からのがれてほっとしたかと思えば、ここは一草だにない焦熱の野である。
 赤い、地獄のような土がぼろぼろに焼けて、たまに草地があると思えばおそろしい流沙であった。そしてそこから、雨期には川になる砂川《サンド・リヴァ》が現われ、絶壁のちかくで地中に消えている。
「有難うカーク、どれほど君のために助かったことだろう」
「ほんとうですわ」
 座間とマヌエラが真底から感謝した。それは、きて以来一滴も口にしない、おそろしい飢渇《きかつ》から救われたからだ。カークが砂川《サンド・リヴァ》の下の粘土層のうえが、地下流だというのをやっと思いだしたからである。ほかにも、ここへくると大枝をもってきて、ささやかながら小屋も建てられた。そうして、熱射も避け、水も手に入れ、ときどき鳥をうっては腹をみたす。が、なにより困ったのは青果類の欠乏で、そろそろ壊血病の危険が気遣《きづか》われるようになってきた。
 すると、ちょうど六日目の午後に、一台の飛行機が上空に飛んできた。待ちに待ったアメリカ地学協会のものらしい。三人が飛びだして上着をふっていると、その飛行機からすうっと通信筒が落ちて来た。駆けよって、ひらいてみると、明日午後に――と書いてある。ながい惨苦ののちにやっとモザンビイクに帰れる。マヌエラは、感きわまって子供のように泣きはじめた。
 しかしそのとき、その衝撃《ショック》が因でまたラターがおこった。今度は、カークのまえなので隠すこともできず、座間はその晩ねむれるどころではなかった。
(可哀そうな、かなしいマヌエラ。ここで、よしんば助かるにしろ、先々はどうなろう。治るまい、おそらく真の狂人《きちがい》に移ってゆくだろう)
 暗中に、目を据えて焚火《たきび》を見つめながら、座間は痩《や》せ細るような思いだった。いまに、醜猥《しゅうわい》な言葉をわめき散らすようになれば、美しいマヌエラは死に、ただ見るものの好色をそそるだけになる。よしんば助かっても空骸がのこる。恥と醜汚のなかでマヌエラの肉体が生きるだけ……。
 するとその時、座間の目のまえへ幻となって、一匹の野牛の顔があらわれた。
 それは、コンデロガを発って間もなく、曠原《こうげん》の灌木帯で野牛を狩った時のこと、砂煙をたてて、牝の指揮者のもとに整然と行動する、その一群へ散弾をぶちこんだ。すると、腹をうたれたらしい一匹がもがいていると、他が危険をおかしてそれに躍《おど》りかかり、滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に角で突いて殺してしまったのである。どうせ、駄目なものは苦しませぬようにと、野獣にも友愛の殺戮《さつりく》がある。医師にも、陰微な愛として安死術がある。
 焚火のむこうで鬣狗《ハイエナ》が嗤《わら》うようにうずくまっている。とたんに、怪しい幽霊がじぶんをみているような気がした。やがて、夢も幻もないまっ暗な眠りがはじまったとき、座間は胸にかたい決意を秘めたのであった。
 翌朝、もう数時間後にはここを去ろうというとき、マヌエラは絶壁の縁にたっていた。悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の大景観を紙にとどめようとして、彼女がしきりとスケッチをとっている。そこへ、座間が背後からしのび寄ってきた。陽炎《かげろう》が、まるで焔《ほのお》のようにマヌエラを包んでいる。頭が熱し、瞼《まぶた》が焼けて、じぶんは地獄に墜《お》ちてもマヌエラを天に送ろうと、座間は目を瞑《つぶ》り絶叫に似た叫びをあげていた。
 しかも、マヌエラをみるとまた決意が鈍ってくる。大きな愛だと心をはげまし近寄ってゆくうちに知らず知らず、座間は砂川《サンド・リヴァ》へはいってしまった。そこには殺すものが死に、殺されるものが生きる一つの偶然が潜んでいたのだ。彼は、水はなくとも砂が動くことは知らなかった。徐々に、彼のからだが前方にはこばれてゆき、やがて、あっという間もなく地上から消えてしまったのである。
 それなり、座間の姿はけっして現われてこなかった。ただわずかな間に消えてしまったことが、まるで秘境「悪魔の尿溜」の呪《のろい》のように、マヌエラさえ思うよりほかになかった。

   遂に「悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]」敗る

 座間は死に、残る二人は助けられた。
 マヌエラは、疲労と悲嘆のあげく床についてしまったが、それから一月後に一通の手紙が舞いこんできた。上封は、ヌヤングウェ駐在英軍測量部とあり、ひらくとなかにはもう一通の封書がある。それは、泥によごれ血にまみれてはいたが、目を疑うほどの驚きは、愛《いと》しいマヌエラへ、シチロウ、ザマより――とあるのだ。マヌエラは指先を震わせて封を切った。

 マヌエラよ、天罰が私にくだった。あなたを、このうえ“Latah《ラター》”で苦しませるのは忍びぬと思いそっとあの断崖からつき落そうとしたとき……私は、砂流《サンド・リヴァ》に運ばれて地中に落ちこんだ。それは地中より湧《わ》きいで地中に消える暗黒河であった。
 なん時間後か、なん日後か、とにかく私は闇のなかで目をさました。おそろしい冷気、冥路《よみじ》というのはこれかなと思ったほどだ。そしてどこかに、滝があるような水流の轟《とどろ》きがする。しかし、まだ私が死んでないということは、やがてからだを動かそうとしたときはっきりと分った。節々が灼けるように疼《うず》くのだ。私は、それでもやっと起きあがった。手さぐりで、からだを探ってみると雑嚢《ざつのう》がある。なかには、ライターもあり固形アルコールもある。――ああ、この、短い鉛筆でくわしくは書けない。
 そこで、服地をすこし破いて固形アルコールで燃すと、ぐるりがぼんやり分ってきた。何処もかもが真白にみえる。目を疑った。すると、天井から雪のようなものが落ちてきた。甜《な》めて見ると唇につうんと辛味を感じた。それでやっと分った。私は砂川《サンド・リヴァ》から岩塩の層に落ちこんだのだ。地下水が岩塩を溶かしてつくる塩の洞窟だ。マヌエラ、あなたには想像もできまい。まるで月世界の山脈か砂丘のような起伏、石筍《せきじゅん》、天井からの無数の乳房、それが、光をうけるとパッと雪のようにかがやく。浄《きよ》らかな……まったくこんな中で死ねれば有難いと思った。
 畝《うね》もある。なかには氷罅《クレヴァス》もある。ときどき、雹《ひょう》のようなのがばらばらっと降ったり、粉塩を小滝のように浴びることがある。と、ふとそばの壁をみたとき、思わず私ははっと呼吸《いき》をとめた。そこには巨《おお》きな粗毛だらけのまっ黒な手が、私を掴《つか》もうとするようにぬうっと突きでている。
 マヌエラ、これが悪魔の尿溜の神秘「知られざる森の墓場《セブルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる]」だ。
 類人猿が、じぶんを埋葬にくる悲愁の終焉地《しゅうえんち》だと思うと、私はその壁を無性にかき崩《くず》した。すると、その響きにつれてどっと雪崩《なだ》れる。ああマヌエラ、塩を雪のようにかぶって起きあがったとき、一つ二つ、臨終そのままの姿であるいは立ち、あるいは蹲《うずく》まり、あるいは腕を曲げ、ゴリラや黒猩々が浮き彫りのように現われてくる。まったく絶えざる水蝕でかわるこの洞窟の中では、これが数百年あるいはなん千年まえのものか。ともかく、塩にうずまってすこしも腐らずに、今日まで原形を保ってきたのだ。ああ、私は悪魔の尿溜に入りこんで、最奥の神秘をみた全人類中のたった一人の男だ。
 そうして、間もなく死ぬだろうじぶんさえも忘れ、ただ人間が自然に対してした最大の反逆を、歓喜のなかで溶けるように味わっていたのだ。
 それから、滝は地底へと落ちている。それを知って、私は非常に落胆した。なぜなら、もしその地下水が絶壁へでていれば、そこから、悪魔の尿溜の大観を窺《うかが》うことができるし、また位置が低ければあるいは出ることもできよう。しかし駄目だ。私は底から盛りあがってくる暗黒の咆哮《ほうこう》に、いよいよ出口がなく、いま岩塩の壁で密閉されていることを悟った。事実も、絶えず洞窟の形が水蝕で変っているらしい。
 すると私は、ここの低温度がひじょうに気になってきた。獣類ならともかく人間は、うかうかすると凍死する危険がある。まったく、アフリカ奥地の夏に凍え死ぬなんて、ここが地下数十尺の場所とはいえ皮肉なもんだと思った。
 すると、そこへ一つの考えがうかんできた。それはいうのもじつに厭なことだが、いま暖をとるものといえばそれ以外にはない。私は、類人猿の死骸に目をつけた。
 それからのことは、婦人であるあなたには詳述を避ける。とにかく、ここへ死にに来て相当の期間生きていたものには、体内にほとんど脂肪の層がない。ともあれ……やつらを燃やしてみることにした。
 さいしょ、口腔《くち》に固形|酒精《アルコール》をいれて、それに火をつけた。まもなく火が脳のほうへまわって眼球が燃えだした。ごうっと、二つの窩《あな》がオレンジ色の火を吹きはじめた。洞内が、なんともいえない美しさに染《にじ》んでゆくのだ。裂け目や条痕の影が一時に浮きあがり、そこに氷河裂罅《クレヴァス》のような微妙な青い色がよどんでいる。淡紅色《ときいろ》の胎内……、そこを這《は》いずる無数の青|蚯蚓《みみず》。しかし、死骸は枯れきっていてなんの腥《なまぐさ》さもない。
 私は、そうして暖まり、肉も喰った。しかし肉は、枯痩《こそう》のせいか革を噛むように不味《まず》かった。マヌエラ、私がなにをしようと許してくれるだろうね。
 ところが、三つほど燃やして四つ目をひきだそうとしたとき、ふいに天井が岩盤のように墜落した。雪崩れが、洞内の各所におこって濛《ぼう》っと暗くなった。それが薄らぐと崩壊場所の奥のほうがぼうっと明るんでいる――穴だ。それから、紆余曲折《うよきょくせつ》をたどって入口のへんにまで出た。そこには、最近のものらしい四、五匹が死んでいる。マヌエラ、私は洞をでてはじめて外の空気を吸った。いよいよ私は悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]のなかにでたのだ。
 夜だった。空には、濛気《もうき》の濃い層をとおして赭《あか》色にみえる月が、すばらしく、大きな暈《かさ》をつけてどんよりとかかっている。私はいまだに、これほど超自然な不思議な光輝をみたことはない。中天にぼやっとした散光をにじませ、その光はあっても地上はまっ暗なのだ。
 すると、この森閑とした死の境域へ、どこか遠くでしている咆哮《ほうこう》が聴えてきた。それが、近くもならず遠くもならず、じつにもの悲しげにいつまでも続いている。と、それから間もなくのこと、ようやく、暁ちかい光がはじまろうとするところ、ふいに私の目のまえにまっ黒なものが現われた。ぎょっとして、それを見つめながら、じりじりと後退《あとじさ》っていった。
 マヌエラ、なんだと思うね。カークほどの身の丈で、お父さんより肥っていて、片手を頭にのせてずしりずしりと歩いてくる。時には、両肢《りょうあし》をかがめその長い手で、地上を掃《は》きながら疾風のようにはしる――ゴリラだ。私は、それと分るとぞっと寒気がし、顎《あご》ががくがくとなり、膝がくずれそうになった。私は懸命に洞の中へ飛びこみ、最前の穴らしい窪みをみつけて隠れた。が、その洞穴《ほらあな》は、浅くゆき詰っている。なお悪いことに、そのゴリラが穴のまえで蹲《うずくま》ったのだ。やがて、夜が明けたとき、視線が打衝《ぶつか》った。私は、あの傀偉《かいい》な手の一撃でつぶされただろうか。
 マヌエラ、私は暫《しばら》くしてから嗤《わら》いはじめたのだよ。じぶんながら、なんという迂闊《うかつ》ものだろうと思った。なんのために、そのゴリラが森の墓場へきたか忘れていたのだ。ゴリラはさいしょ、私をみたとき低く唸ったが、ただ見るだけで、なんの手だしもしない。
 七尺あまり、頭はほとんど白髪でよほどの齢らしい。つまり、老衰で森の墓場へきたのだと、私はやっとそう思った。野獣がここへくるときは闘争心は失せ、なにより彼らを狂暴にする恐怖心を感じぬらしい。そして食物もとらず餓えながら、静かに死の道にむかってゆくのだ。マヌエラ、ここで私は冥路《よみじ》の友を得たのだ。
 Soko《ソコ》――と、やがてそのゴリラをそっと呼んでみた。この“Soko《ソコ》”というのはコンゴの土語で、むしろ彼らにたいする愛称だ。それから、Wakhe《ワケ》,Wakhe《ワケ》――と、檻《おり》のゴリラへする呼声をいっても、その老獣はふり向きもしなかった。
 ただ遠くで、家族らしい悲しげな咆哮が聴えると――ほとんどそれが、四昼夜もひっきりなく続いたのだが――そのときは惹《ひ》かれたようにちょっと耳をたて、しかもそれも、ただ所作だけでなんの表情にもならない。そうして、私とゴリラと二人の生活が、十数日間にわたって無言のまま続いた。私は、同棲者になんの関心も示さない、こんな素っ気ない男をいまだにみたことはない。
 さて、もう鉛筆もほとんど尽きようとしている。あとは、簡略にして終りまで書こうと思う。
 それから、私は精神医としていかにゴリラを観察したか、特にアッコルティ先生に伝えて欲しいと思う。それからも、毎日ゴリラはその場所を動かず、ただ懶《だる》そうに私をみるだけだった。衰弱のために、もう動くのさえどうにもならぬらしい。私が脈を見てもぼんやりと委せているだけだ。しかし、これは森の墓場へきたという本能だけではなく、先天的にゴリラというやつは体質性の憂鬱症《メランコリア》なのである。つまり、「沈鬱になり易い異常的傾向《アブノルメ・テンデンツ・デプレショネン》[#ルビは「沈鬱になり易い異常的傾向」にかかる]」がある。ああ、また鉛筆の芯《しん》が折れた。もう私は、これを書いてはいられない。
 ここで早く、あなたへの愛とカークへの友情と、やがて私が死ぬだろうということを書かねばならない。私は、ながらく肉食ばかりしたため壊血病にかかった。いまは、歯齦《はぐき》の出血が、日増しにひどくなってゆく。そうだ! 病の因となった青果類はむろんのこと、この悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]には一点の緑すらもないのだ。昆虫霧で、日中さえ薄暮のように暗い。その下は、ただ鹹沢《しおざわ》の結晶が瘡《かさ》のようにみえるだけで、旧根樹《ニティルダ・アンティクス》の枯根がぼうぼうと覆うている。
 その根をゴリラのように伝わることが出来ればいいが、人間で、おまけに今の私にはそんな体力はない。まったくのところ、どこかの一隅に有尾人がいるかもしれない。またどこかに、象の腐屍がごろごろ転っていて、それを食う群虫がその昆虫霧かもしれない。しかし、この一局部にいてはなにも分らないのだ。ただ、ここが森の墓場であり、荒廃と天地万物が死を囁《ささや》いてくる、場所であることだけは知っている。
 私はきょうめずらしく鵜※[#「※」は「古+月+鳥」、68-7]《がらんちょう》をつかまえた。よくあなたがドドを馴らして、木のポストに入れさせていた封筒のことを思い出したのだ。私はそれで、この手紙を書いてその封筒にいれ、鵜※[#「※」は「古+月+鳥」、68-9]《がらんちょう》に結びつけて放そうと思う。運よく……、そんな機会は万一にもあるまいが、もし、あなたの手に入ればそれは愛の力だ。
 私は、この墓場に埋まる最初の人間として……悪魔の尿溜にいり込んだはじめての男として……また、ゴリラと親和した唯一の人として……ことに、あなたへの献身をいちばん誇りとする……。
 いま、午後だが大雷雨になってきた。もう一日、この手紙を続けて、鵜※[#「※」は「古+月+鳥」、68-14]《がらんちょう》を放すのを延ばそう。
 マヌエラ、この一日延ばしたことがたいへんな禍《わざわい》となった。といって、いま私が死のうとしているのではない。私が、いままで心を向けていたあらゆるものの価値が、まるで、どうしたことか感ぜられなくなってしまったのだ。あなたのことも、カークのこともこの悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]征服も、いっさい過去のものが塵《ちり》のように些細《ささい》にみえてきた。
 どうしたことだろう。じぶんでそうであってはならないと心を励ましても、その力がまるで咒縛《じゅばく》されているように、すうっと抜けてしまうのだ。きっとマヌエラ、これは魂を悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]に奪われたのだろう。人間という動物であるものが森の墓場へきて、恋人をおもったり娑婆《しゃば》を恋しがったりすることが、そもそも悪魔の尿溜の神さまにはお気に召さないのかもしれない。戒律《タブー》だ。それを破った私は当然罰せられる。それで今日から、「知られざる森の墓場《セブルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる]」の掟《おきて》に従うことになった。いや、おそろしい力に従わせられたのだ。
 今朝、ゴリラがちょうど二週間目に死んだ。
 私は、鹹沢《しおざわ》のへりにいて洞窟にいなかったが、そこへ妙な、聴きなれない音が絶《き》れ絶《ぎ》れにひびいてくる。それが、洞窟のほうなのでさっそく戻ると、ゴリラがまさに死のうとする手でじぶんの胸をうち、かたわらの石をうっては異様な拍子を奏でているのだ。私もゴリラに音楽があるという噂は聴いていたけれど、その音は、「いま遠い、遠いところへゆく」と叫んでいるようなもの悲しげなものだった。私は、とたんに哀憐の情にたまらなくなってきて、ゴリラの最期を見護《みと》ろうと膝に抱えたとき、意外な、軽さにすうっと抱きあげてしまった。
 まったく、力のあまりというのが、その時のことだろう。ながい、絶食と塩分の枯痩《こそう》とで、そのゴリラは骨と皮になっていた。それにしても、この私とてもおなじように痩《や》せ、まして、壊血病になやみながらこの老巨獣を、抱きあげられたことはなんといっても不思議であった。私は、ここにいる間に森の人になったのではないか。痩せても二百ポンド以上のものを軽々とのせ、その両手をみたときは泥のような酔心地だった。
 ゴリラを抱いた。と、すべて人間社会にあるものが微細にみえてきた。個人も功績も恋愛などというものも、すべて吹けば飛ぶ塵のようにしか考えられなくなった。マヌエラ、これが悪魔の尿溜の墓の掟なのだ。獣は野性をうしない、人は人性をわすれる――私も死にゆく巨獣となんのちがいがあろう。
 こうして、私は、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]を征服し、そうして征服されたのだ。だがマヌエラ、まだ私はさようならだけはいえるよ。

 座間の手記は、ここで終っていた。悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の妖気《ようき》に、森の掟に従わされ、よしんば生きていても遠い他界の人だ。不思議とマヌエラには一滴の涙もでなかった。
 彼女はなかに、もう一通同封されている英軍測量部の手紙をとりあげた。

 敬愛するお嬢さま――同封の書信を、お送りするについて、一|奇譚《きたん》を申しあげねばなりません。それは、この発信地のヌヤングウェのポスト下には、同封の書信を握りしめた異様な骸骨が横たわっていたのです。それは、丈が四フィートばかりで、人間とも、類人猿ともつかぬ不思議なものでありました。当地は、おそろしい蟻の繁殖地で、朝の死体は夕には、肉はおろか骨の髄まで食われてしまうのです。ただ、その骸骨が不思議なものであっただけに、その旨を御興がてらに申し添えて置きます。

 ドドだ! マヌエラは、大声でさけんだ。
 ドドは、ヤンと一緒に陥没地へ落ちたが、やはり生きていたのだ。そうして、座間が放った鵜※[#「※」は「古+月+鳥」、71-5]《がらんちょう》をとらえ、肢に結びつけてある封筒をみたとき、急にあの訓練を思いだしてヌヤングウェのポストへいったのだ。そしてそのあいだの、百マイルの道に精も根もつき、やっと辿《たど》りついて昏倒《こんとう》したところを残忍な蟻どもに喰われたのだろう。
 彼女は、草原の熱風に吹きさらされる骨を思い、座間の怪奇を絶した異常経験には、一滴も、流さなかった涙をすうと滴らした。
 それから、ドドの血がついた封筒に唇をあて、人間よりも、高貴な純真なドドのために、心からの親しさでそっと十字を印したのである。



底本:「人外魔境」角川ホラー文庫、角川書店
   1995(平成7)年1月10日初版発行
底本の親本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
   1978(昭和53)年6月10日発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:藤真新一
校正:鈴木厚司
2001年7月20日公開
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