青空文庫アーカイブ
小熊秀雄全集-14
童話集
小熊秀雄
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●収録作品
自画像/焼かれた魚/青い小父さんと魚/お嫁さんの自画像/たばこの好きな漁師/親不孝なイソクソキ/珠を失くした牛/お月さまと馬賊/三人の騎士/或る手品師の話/或る夫婦牛の話/トロちやんと爪切鋏/豚と青大将/白い鰈の話/緋牡丹姫/狼と樫の木/マナイタの化けた話/タマネギになつたお話/鶏のお婆さん
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[表記について]
●ルビは「《ルビ》」の形式で処理した。
●ルビのない熟語(漢字)にルビのある熟語(漢字)が続く場合は、「|」の区切り線を入れた。
●[#]は、入力者注を示す。
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自画像
(一)
此所にトムさんと言ふ至つてお人好しの農夫がをりました、この村の人達は余りお[#「人」が脱落か?]好しの事をトムさんのやうだとよく言ひますが、全くトムさんはお人好しでした。随分よく働きます。それに無口で大力で正直で何ひとつも欠点がありませんでしたが、唯そのお人好しがあんまり過ぎるので困りました。
トムさんは三人ものお嫁さんを貰ひましたが、ふしぎに二三日たつと三人ともみな逃げ帰つてしまつたのでした、それには色々のわけがあるのです。最初のお嫁さんを貰つた時でした。トムさんは大変お嫁さんを可愛がつて一粒の豆でも仲善く半分頒[#「頒」に「ママ」の注記]合つて食べる程でしたから、お嫁さんも大変満足して居たのでした。
処が丁度、お嫁さんをもらつて三日目の真夜中頃ミシリ/\と屋根で音がしたと思ふと、天井の空窓から太い繩を下して三人の泥棒がトムさんの家へ忍びこんだのです。三人の泥棒はグウグウ高鼾で寝込んでゐるトムの枕元に立つて不意に枕を足で蹴飛ばしましたので、トムさんは吃驚《びつくり》して眼を覚しました、トムさんは自分の眼の前に背のヒョロ高い顔の真黒い鬚だらけの泥棒がによつきり突き立つてゐるので、トムさんは驚くまいことか、一時は腰を抜かさんばかりに吃驚《びつくり》しました。然しお人善しのトムさんはやがて泥棒に向つて「お前さん方は商売とはいゝ乍らこの真夜中に御苦労さまの事です、まあご一服唯今お茶を差しあげます、然し皆様私は昨夜戸締りもあんなにしつかりしてをいたのにどこから入つて来ました」かう尋ねました。
(二)
泥棒達はお互に眼を白黒させて居りましたが、その内の一人が「俺達はこの空窓から飛び込んだのさ」と答へました。トムさんは之を聞いて「それはあぶない所から這入つて来ましたね、一寸表戸をトントン叩いて下されば直ぐ開けるのでしたのに」と云ひました。泥棒達はまご/\して居て隣近所に騒がれては大変とトムさんの家の真ん中へ持つてきた一反風呂敷を各々ひろげまして棚の物やら何やら片つ端から入れはじめました。これをじつとみてゐたトムさんは何と思つたのか、自分も向う鉢巻をして泥棒達と一緒に自分の家の品物を「これもあげる」「あすこにも有る」と大汗でドンドン拠[#「拠」にママの注記]り出したのでトムさんのお嫁さん始め泥棒達何が何やら訳がわかりません。
さて泥棒達は風呂敷に包めるだけ品物を包んでしまふとさつさと出て行かうと致しました。するとトムさん何と思つたのか泥棒を呼びとめて「お前さん達は案外欲の無い人達ばかりですね、まだ室の中にこんなに品物が残つてゐるではありませんか」といひました。
すると泥棒達は振り向いて、
「君の親切は有難いが何分俺達は之以上もてないので残念だが、お前さんにお返ししてをくよ」といひました。トムさんは「それはいけない私があげようとする物をもつて行かぬといふ失礼な事が有るものですか……あゝよい事がある私の家の馬車を貸してあげませう」といひ、裏の馬小屋から馬車を引出して之に品物を全部積んで渡しました。然し泥棒達は馬を追ふ事を知りませんでしたから、トムさんは三人の泥棒を馬車に乗せ自分が馬を追つて場末にある泥棒の家まで送りとゞけました。その上馬車を呉れて来て了ひました。
お嫁さんはトムさんの余りのお人善しにあきれはてゝ、早速実家へ逃帰つてしまひました。トムさんは家へ帰つてみてお嫁さんの逃げ帰つた事を知り大変に一時は悲観致しました。
それから二年程たつて、又ある人の世話で二番目のお嫁さんを貰ひましたトムさんは、今度もまた一粒の豆を半分宛分け合つて食べる様に仲善くいたしましたので、お嫁さんも大変満足して居りました所が、丁度三日目の事トムさんは用事があつてあるお寺の近所を通りました、するとそこのお寺の椽の下の暗闇に十二、三人の乞食共が荒莚を敷いてごろごろ芋虫の様に寒さうに寝てをりました。
(三)
トムさんはこの前に不思議さうに突立つて居りましたが、やがて乞食に向つて「お前さん達はこの寒空にこんなお寺の椽の下に寝むらずに、何処かの宿へでも泊つたら良いではありませんか」といひました。すると乞食は之を聞いて「あなたも面白いことをいふ人だ、あつたかい布団へ寝たり泊つたりするお銭があれば乞食などしませんよ」と笑ひました。トムさんは「成程な」と同情しまして「それぢや私の家へお出でなさい、この椽の下にねるより余程ましですよ」といひましたので乞食達は大変喜んでトムさんの後へぞろぞろついて行きました。
トムさんのお嫁さんは汚ならしい乞食が十二、三人もぞろ/\やつてきて、お座敷へ上りこんだので吃驚して其晩の内に実家へ逃げ帰りました。
トムさんは之は失敗したと思ひ乞食達に向つて、お嫁さん[#「が」が脱落か?]逃帰つたわけを色々と話して、また元のお寺の椽の下へ帰つて下さいとお願ひしました。それをきいて乞食達は之は気の毒だと素直に出ていつて呉れました。
トムさんは早速お嫁さんの実家へテク/\出掛けていつて「乞食たちを全部帰してしまひましたから、お嫁さんを是非家へ帰してください」と頼みましたがお嫁さんは、それつ切り帰りませんでした。トムさんは大変悲観して、それからはもうお嫁さんを貰ふまいと心で決めました。村の人たちもトムさんのお人善しには呆れてそれぎりお嫁さんの世話をしてくれませんでした。
それに村の人達はトムさんが近頃野良へ出ても怠けてゐて少しも仕事をしないぞと噂をするやうになりました。
それはトムさんが近頃色々空想をする事を覚えたからです。今日もトムさんは一鍬土を起してじつと鍬の柄に凭れポカンと口をあけて、空想にふけつて居りました、思い出しては一鍬土をたがやし、またぼんやりと案山子のやうに突立つて色々空想をいたしました。やがて羽音高くトムさんの頭の上の青空を一群の白鳥が南の湖の方へとんで行きました、トムさんは、「やあ綺麗な白鳥だな……あのたつたのが白鳥の王様だな、すらつと一際首の長いのが王妃さまだな、そのあとの一番色の白いのがお姫さまだな、あゝ、もう私の処へお嫁さんが来ないかしら、もしくるならあの白鳥のお姫さまでも我慢するがな、然し私の家は年中焚火ばかりしてゐるから、あの雪のやうに白い白鳥のお嫁さんのお衣裳が汚く煤けては可愛さうだな」こんな事を思つて居りますと、一羽の鳥が「トムさんの馬鹿」と怒鳴つてトムさんのつい鼻先へ白い糞をおとしたので吃驚《びつくり》してまた一鍬土をたがやしました。
(四)
トムさんは今度は森陰の白い王城を眺めました。
「ああ、私は一生の内たつた一度でも良いからあの様な王城に暮してみたいものだ、純金の王冠をかぶり、黄金づくりの太刀を佩き白い毛の馬に跨り、何千人の兵士を指揮してみたいものだなア、然しこの国の王様のやうに白い立派な長い髭が私にはないがよしよしその時には付髭を夜店で買つてきてやらう、それからお金蔵のお金を全部出して臣民に呉れてしまひ、自分は応接間に紫天鵞絨の安楽椅子に心持悠つたりと反身に腰掛け、一本十円五十銭の葉巻きをくゆらし臣民に一人宛逢つて手のちぎれる程堅い握手をしてやるぞ、それから臣民の頬ぺたをなめてやつたつてかまはないさ」
こんな有様ですから一日かゝつてもやうやう一畦位より出来ませんでした。
その晩は近年にない大暴風でした、トムさんの家の屋根は今にも飛ばされさうな激しさでした。トムさんは余りの物凄さに部屋の炉ばたの焚き火によつて小さくふるへて居りました。するとこの激しい暴風雨の中に、トムさんの家にはこの一、二年この方、猫の子一匹訪ねてきたことがないのに、トントンと表戸を叩くものがあるではありませんか、トムさんは大変不思議に思ひまして、兎に角表戸をそつと開きますとドッと吹き入る雨風と一緒に一人の若い女が室の中に転りこみました。
トムさんは吃驚してよく/\見ますと、それは羽鳥の羽で出来た黒いマントを着た、それは/\美しい女でした。トムさんは眼玉をくるくるやりました。トムさんはその女の濡れた着物を干してやつたり色々親切に介抱をいたしました。そしてその女に今ごろこの暴風雨にこゝへきた事情をたづねました。女は南の国のお姫さんでした、たくさんの家来を連れて旅行をいたしましたが丁度この土地へ来かゝつた時暴風雨に襲はれて、家来とはちりぢりになつて了つたのです……と答へました。
その翌日すつかり暴風雨が収まつたのですが、そのお姫さんはトムさんの家を去らうとは致しませんでした。その翌日もその翌日も何時まで経つても帰る風は見えませんでした。
(五)
トムさんは朝鍬を担いで野良に出掛けましたが、二時間もたゝぬうちに畑から帰つてきてしまひました。それはトムさんが畑へ働きにいつてもお留守居のお嫁さんが心配で心配で、もしや鼠にでもひかれはしないかと思ふと仕事などは手につきませんので飛ぶやうに家に帰つてくるのでした。
お嫁さんは或る日、あまりその事を不思議に思ひましてその訳をトムさんに聞きました。
トムさんはそのわけをお嫁さんに打明けました。お嫁さんは之を聞いて大変笑ひました。そしてしばらく考へて居りましたが、ふとよい事を思ひだしたと見えて、お嫁さんは鏡台を持出しました、そして鏡に自分の顔を映してその通り画きはじめました、お嫁さんはやがて自分の顔と寸分違はぬ自画像が出来上りますと、之を四尺位の竹の棒の先に張りつけて之をトムさんに手渡しました。
「さあ、これを持つて畑へいらつしやい、そして耕して行く一番向うの畦の端れにこの竹を立てゝ、その画を眺めながら耕してやつてごらんなさい。そしてその画のところまで耕していつたら、今度は反対の端に立てゝ耕すのです」と教へてくれました。
トムさんは翌日、早速言はれた通り、お嫁さんの絵姿を向うの畦の端れに立てゝ、これを眺めつ、くらし、せつせと耕し始めました。
成る程、この画を眺めてゐると本物のお嫁さんと少しも違はぬ程上手に描かれてあるので、本物のお嫁さんの顔と少しも違ひません。それに仕事の捗どることは驚く程で他の人が十日で耕す畑を三日で耕してしまひましたので、村の人達は「おやおや」と眼を円くいたしました。
ある日トムさんは相変らず一生懸命お嫁さんの自画像をめがけてたがやしてをりますと、どつと強い風が吹いて来て、竹の先のお嫁さんの画を吹き飛ばしてしまひました。トムさんは周章てゝ画を拾はうと致しますと、画はひらひらと風に舞つて飛んでいくではありませんか、しまひに低く空を舞ひ上つて森の方へ飛んで行きます、トムさんは畑どころではありません。これは大変と尚更あわてゝ「お嫁さん……待てい」「お嫁さん……待つてくれい」
と死に物狂ひにその後を追ひかけましたが、とうとう画は森陰にある国の王城[#「の」が脱落か?]厳めしい高壁を越えてその中に這入つてしまひました。トムさんはもうがつかりしてぽろ/\涙を流しながら家へすごすご帰りました。
お嫁さんはトムさんの悲観した顔をみてその訳をたづねました、トムさんは眼から大きな涙をぽろ/\流して
「実はお前を吹き飛ばしてしまつたのだ、アーン、アーン」と泣きながら今までの事をくはしく話しました。
お嫁さんはそれを聞いて笑ひながら「あんな画は何枚だつて描いてあげますから諦めて了ひなさい」となぐさめました。
こゝに大変な事が持ち上りました。
(六)
お城の堀の中に這入つたお嫁さんの自画像を兵士が拾ひましてこれを王様に差上げました。
王様はこの画を一眼御覧になつてあまりの美しさにお驚きになりました。わがまゝな王様はまだお妃がなかつたのですから、この画の女を国中を探して是非連れて参れと、一同の兵士に厳重に申しました。城中の兵士が総出で探したあげくこの画の女がトムさんのお嫁さんだとわかりました、王様はそこでトムさんに向つて、「余の妃に差出すやうに」と命令いたしました。そして万一命令をきかなければトムさんの首を切りかねない権幕なのでトムさんは青くなつて泣きだしました。
トムさんは三日三晩といふものはおーん、おーんと泣きつゞけました。(欠1行)つたといふ話です。お嫁さんはこれを見て、
「さあ泣いてはいけません、私達に運が向いてゐるのです。私は之から王様の妃になります。然し心配してはいけません。私はあなたの永久のお嫁さんです。私が王様の御殿へいつてから近いうちにお城の大門が開れる日が御座います。その時に見物人の中にまぢつて、一番目立つた汚ないぼろぼろ服をきて一番先頭に立つて門の開かれるを待つてゐて下さい」
とかういつてトムさんのお嫁さんは今日王様の家来に連れられていつてしまひました。
昔からこの国では三年に一日だけ城門を全部押し開いて臣民に城の内部をみせることになつて居るのです。いつもその当日には遠い所からまで臣民がやつて来て、街中はお祭のやうな賑はひとなるのです。その日は王様を始め千といふ家来達がふさふさの赤い帽子を冠つたり、金の鎧を着たり色々盛装して門の中の床に腰を掛けるのです。臣民たちは門の中に入ることは出来ないので門のわきの処で立ちよつて中を見ることが出来るのでした。そして午後の六時になると重い鉄の扉がガラガラと閉ぢてしまふのでした。
ところが果してトムさんのお嫁さんがお城にいつてから何月何日に城門ひらきだといふおフレが伝へられました。
愈々当日になりますと、トムさんは乞食より尚汚いボロ/\の服をきて、顔には泥を塗り、杖をつき腰をかゞめてお嫁さんに言はれた通り見物人の一番前に出しやばつてお城の門のひらかれるのを待つてをりました。
やがて時間がきて城門は大きな響きを立てゝガラ/\と開かれました。みると王様は今日を晴といふりつぱな金の冠にピカピカの着物をきて、ゆつたりと腰を掛けてゐます。そしてその傍にはトムさんの夢にも忘れることの出来ない可愛いゝトムさんのお嫁さんが、今ではもう王様のお妃となつて、全部白鳥の羽で出来た真白いキラ/\の上衣をきて座つてゐるではありませんか。トムさんは王様が憎らしくて、また一方では悲しいやら情ないやら嬉しいやらで涙を一杯ためてじつとお嫁さんをみつめてをりました。するとお嫁さんもトムさんの顔をみてにつこりと美しく笑ひました。
王様はびつくりするほど喜びました。それはこのお妃が御殿にきてから一ぺんも笑つたことがないからでした。
「これ妃そなたは笑つたではないか、何を見て笑つた、さあ今一度笑つてみせてくれ」と妃に向つていひました。
するとお嫁さんはトムさんを指して「王様あれを御覧下さい、あすこに大変滑稽な姿をした乞食が居るではありませんか、私はあの男を見て笑つたのです……もし王様があの男の着物をきてあの男の代りにあそこに立つたらさぞおかしい事で御座いませう」と申しあげました。
王様は今一度妃の笑顔をみたいものですから、トムさんを御前に呼び出して王様のりつぱな着物をきせてお嫁さんの傍へ座らせ、ご自分はトムさんの着てゐたボロの服を(六字欠)城門の外の見物の中にお立ちになりました。
しかし、いつまで立つてもお嫁さんはニッコリとも笑ひませんでした。王様は今か今かとお嫁さんの笑ふのを待つてをりました。しかし、お嫁さんは笑ひません。
その内に午後六時になりましたので城門はガラ/\と閉ぢてしまひました。
此処で王様はまんまと城外に追出されてトムさんは王様と早変りしてしまひました。城の兵士達も王様のわがまゝを憎んでをりましたから誰もみなかへつて喜びました。
不思議なお嫁さんは実は白鳥のお姫さんでした。トムさんは何だか背中がくすぐつたいやうな、着なれない王様の衣裳を着て、自分の思つてゐた通りのお金蔵のお金を全部街の人々に分けてやつてしまひました。そして白鳥のお嫁さんと仲善く王宮に暮しました。何でも王様のトムさんは街の人々全部を御殿に招待して一人宛に握手をし頬ぺたをなめたといふ話です。(大正12年1月23日〜旭川新聞)
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焼かれた魚《さかな》
白い皿の上にのつた焼かれた秋刀魚《さんま》は、たまらなく海が恋しくなりました。
あのひろびろと拡がつた水面に、たくさんの同類たちと、さまざまの愉快なあそびをしたことを思ひ出しました、いつか水底の海草のしげみに発見《みつけ》てをいた、それはきれいな紅色の珊瑚は、あの頃は小さかつたけれども、いまではかなり伸びてゐるだらう、それとも誰か他の魚に発見《みつ》けられてしまつたかもしれない、などと焼かれた秋刀魚は、なつかしい海の生活を思ひ出して、皿の上でさめざめと泣いて居りました。
ことに秋刀魚にとつて忘れることの出来ないのは、なつかしい両親と仲の善かつた兄妹達のことでした、秋刀魚が水から漁師に釣りあげられて、その時一緒に釣られた秋刀魚達と石油箱にぎつしりとつめられたまゝ、長い長い汽車の旅行をやりました、そしてやつとの思ひでうすぐらい箱の中から、あかるい都会の魚屋の店先にならばされました。
そこには海の生活と同じやうに、同じ仲間の秋刀魚や鯛や鰈《かれい》や鰊《にしん》や蛸《たこ》や、其他海でついぞ見かけたことのないやうな、珍らしい魚たちまで賑やかにならべられてゐましたので、この秋刀魚は少しも寂しいことはなかつたのでしたが、魚達は泳ぎ廻ることも、話しあふことも出来ず、みな白らちやけた瞳をして、人形のやうに、病気のやうに、じつと身動きの出来ない退屈な悲しい境遇にゐなければなりませんでした。
それから幾日か経つて、この家《や》の奧さまに秋刀魚は買はれました、そしていま焼かれました。やがて会社から旦那さまが帰つて来るでせう、さうしたなら食べられてしまはなければなりません。
焼かれた魚は、
『ああ、海が恋しくなつた、青い水が見たくなつた、白い帆前船《ほまへせん》をながめたい。』
ときちがひのやうになつて皿の上で動かうとしましたが、体のまんなかに細い鉄の串がさしてありましたし、それに、焼かれた体が、妙に軽るくなつてゐて、なにほど尾鰭《おひれ》を動かさうとしても、すこしも動きませんでした。
それで魚は皿の上であばれることを断念してしまひました。しかしどうかしていま一度あの広々とした海に行つて、なつかしい親兄妹に逢ひたいといふ気持でいつぱいでした。
『ミケちやんよ、なにをさうわたしの顔ばかり、じろじろながめてゐるの、海を恋しいわたしの心をすこしは察して下さいよ』
と魚は、この家《や》の飼猫のミケちやんにむかつて、言ひました。
それは猫がさき程から、横眼でしきりに、焼かれた秋刀魚をながめてばかりゐましたからです。
飼猫のミケちやんは、
『実はあまり、秋刀魚さんが美味《おい》しさうなものだからですよ。』
と猫はごろごろ咽喉《のど》を鳴らしながら、秋刀魚の傍に歩るいて来て、しきりに鼻をぴく/\させました。
魚はいろいろ身上話をして、自分を海まで連れていつて貰ふわけにはいくまいかと、飼猫にむかつて相談をいたしました、猫はしばらく考へてゐましたが
『それぢや、私が海まで連れていつてあげませう、そのかはり何かお礼をいたゞかなければね。』
と言ひました、そこで秋刀魚は、報酬として猫に一番美味しい頬の肉をやることを約束して、海まで連れていつて貰ふことにしました。
焼かれた魚は、海へ帰れると思ふと、涙のでるほど嬉しく思ひました。
そこで猫は焼いた魚を口に啣《くは》へて、奥様や女中さんの知らないまに、そつと裏口から脱けだしました、そしてどんどんと駈け出しました、ちやうど街|端《はづ》れの橋の上まできましたときに猫は魚にむかつて
『秋刀魚さん、腹が減つてとても我慢ができない、これぢやああの遠い海まで行けさうもない。』
と弱音を吐きだしました。魚は海へ行けなければ大変と思ひましたので
『それでは、約束のわたしの頬の肉をおあがりよ、そして元気をつけてください』
と言ひました。
猫は魚の頬の肉を喰べて了ふと、どん/\後もみずに逃げてしまひました。
魚はたいへん橋の上で悲しみました、そして誰か親切なものが通つたなら、海まで連れて行つて貰はうと思ひましたが、さびしい街|端《はづ》れの橋の上はなかなか通りませんでした、そしてその日は暮れてしまひました。
翌朝《あくるあさ》幸ひ早起きの若い溝鼠《どぶねずみ》が通りましたので、魚はこのことを頼んで見ました。
溝鼠は
『それはわけのない話だ、しかし道程《みちのり》もかなりあるし、私もまだ朝飯前だから』
と言ひましたので、魚は自分の片側の肉を喰べさして、そのかはりに海まで運んで貰ふ約束をいたしました。
溝鼠は魚の片側の肉を喰べてしまひました、それから魚の胴に長い尻尾を巻いて引きだしました、その日の夕方にひろい野原につきましたが、溝鼠は
『とても私の力では、あなたを海まで運べさうもありませんから。』
と言つて、魚を野原に捨てて、どんどん逃げて行つてしまひました。
魚はたいへん悲しみました。
その翌朝《よくあさ》、いつぴきの痩せこけた野良犬が野原を通りましたので、魚は海まで運んでくださいと頼みました。
野良犬は意地悪るさうに、じろりと魚をながめながら
『ふつかも喰べ物をたべない野良犬さまが、から身で歩るいても、ひよろひよろするのに、お前さんなどを遠い海までなど運べるものか、しかし相談によつては、運んでやつてもよいさ』
と言ひました、魚はそれで溝鼠に喰べられて残つた片側の肉を、この野良犬にやつて、海まで運んで貰ふことにしました。
野良犬は、秋刀魚の片側の肉を美味しさうに喰べ終へると、魚の頭のところを啣《くは》へて、どんどん海の方角へ馳け出しました。
野良犬は足も細くて馳けることが、なかなか上手でしたから、路は思つたよりもはかどりました、しかし野良犬は、こんもりと茂つた杉の森まできたときに、魚を放りだして逃げてしまひました。
秋刀魚はたいへん悲しみました。それに魚の頬の肉は猫にやり、両側の肉は溝鼠と野良犬にやつてしまつたので、肉がきれいに喰べられて魚の骸骨になつてゐましたので、こんどは何が通つても、お礼として肉を喰べさして海まで運んで貰ふことが出来なくなりました。その日は森のなかにねむりました、夜なかに雨が降つてまゐりました、骨ばかりになつた秋刀魚はしみじみとその冷たさが身にしみました。
その翌日一羽の烏が通りましたので、魚は呼び止めました。
『烏さん、お願ひですからわたしを海まで連れて行つてくれませんか。』
と頼みましたが、烏はあまりよい返事をいたしませんでした。
それで魚は背筋のところに、すこし許り残つた肉をあげますからと言ひました。
『そればかりの肉ぢや駄目だよ』
と烏は言ひましたので、
『わたしのだいじな眼玉をあげませう、もうこれだけより残つてゐないのですもの』
と魚が悲しさうに言ひました、それで烏は魚の眼玉を嘴《くちばし》で突いてふたつ取りだしました。しかし魚の眼玉は、からからに乾からびてとても喰べられませんでしたが、烏は首飾りにでもしようと考へましたから、これを貰つてぽけつとにしまひこみました、それから背筋の肉やら、体ぢゆうの肉と云ふ肉を探して、きれいに喰べてしまひました。
けれども皆が喰べた後ですから、烏にはいくらも肉のお礼をやることができませんでした。
烏は魚の骨をたくましい手で掴んで、どんどんと海にむかつて空を飛びました。
だいぶ来たと思ふころ、烏は不意に魚を掴んでゐた手を離して一目散に逃げてしまひました、幸ひ魚の落ちたところが柔らかい青草の丘の上でしたから怪我をしませんでしたが、魚はたいへん悲しみました。
『あゝ、海が恋しくなつた、青い水が見たくなつた。白い帆前船をながめたい』
と、この丘の上で秋刀魚は口癖のやうに言ひました、ふと何心なく耳を傾けますと、この丘の下のあたりで、どうどうといふ岸をうつ波の音が聞えるではありませんか、なつかしいなつかしい波の音が、そして遠くのあたりからは賑やかな潮騒がだんだんと近くの方へひびいてきます。
烏に眼玉をやつてしまつた魚は、盲目《めくら》になつてしまつたので、そのなつかしい波の音を聴くばかりで、青い水も白い帆前船もながめ見ることが出来ませんでした、そして海風のかんばしい匂ひにまぢつた海草の香などを嗅ぐと、秋刀魚はたまらなくなつて、この青草の丘の上でさめざめと泣き悲しみました。
魚はまい日まい日丘の上で、海鳴りを聴く苦しい生活をしました。
或る日のこと、魚のゐる近くにお城をもつてゐる蟻の王様の行列が、魚のつい近くを長々と通りましたので、魚は行列の最後の方の一匹の蟻の兵隊さんにむかつて、自分の身の上を話して海まで連れて行つて欲しいと頼んでみました。蟻の兵隊さんはこのことを王様に申し上げました、蟻の王様はたいへん秋刀魚の身の上に同情をしてくださいました。そして早速承知をして、家来の蟻に海まで運ぶやうに下知《げち》をいたしました。
蟻は工兵やら、砲兵やら、輜重兵《しちやうへい》やら、何千となくやつてきて魚を運びだしました、烏や野良犬や溝鼠のやうに運ぶのに早くはありませんが、それでも親切で熱心に運んでくれましたから、幾日かのち、丘続きの崖のところまで運んでくれました。
この崖の下はすぐまつ青な海になつてゐました、魚は海に帰れると思ふと嬉しさで涙がとめどなく流れました、親切な蟻の兵隊さんになんべんも厚くお礼を言つて、魚は崖の上から海に落ちました。
魚はきちがひのやうに水のなかを泳ぎ廻りました。前はこんなことがなかつたのですが、ともすれば体が重たく水底に沈んでゆきさうになりますので、慌ててさかんに泳ぎ廻りました、それに水が冷めたく痛いほどで動くたびに水の塩が、ぴりぴりと激しく体にしみて苦しみました。
その上すこしも眼が見えませんので、どこといふあてもなくさまよひ歩るきました。
それから幾日かたつて、魚は岸にうちあげられました、そして白い砂がからだの上に、重たく沢山しだいにかさなり、やがて魚の骨は砂の中に埋《うづ》もれてしまひました。
さいしよは魚は頭上に波の響きを聴くことができましたが、砂はだんだんと重なり、やがてそのなつかしい波の音も、聴くことができなくなりました。(大13・8愛国婦人)
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青い小父さんと魚《うを》
あたゝかい南の国の、きれいに水が澄んだ沼の、静かな岩かげの深みに、黄色い上着に黒い棒縞のチョッキを着た、小さな魚の一族が暮らしてゐました。
なかでいちばん赤いズボンをはいたのが父親で、母親は赤い肩掛をしてゐました。
娘たちは淡桃色《うすもゝもいろ》のひだ飾りのついた、それは大きなリボンを結んで居りました。
いちばんの姉《あね》さんの魚は、たいへん活溌で、ことにダンスがそれは上手でした。
夕暮れになつて、お日さまはだん/\と森陰に沈みかけます。そして、
『沼の愛らしい魚達よ、左様なら。』
とはるかな夕焼けの空から、金色のあいさつを沼の水面に投げかけるころ。
姉さんの魚はきまつて何時《いつ》も、水面に浮んでまゐりました。
そしてこの金色《こんじき》のさゞ波にくるまつて、それは上手に踊るのでした。すると夕暮れの風は、急にはしやぎ出しますし、沼の周囲《まはり》の草木もさかんに拍手をいたします。
この姉娘の一家はむろんのこと、沼中の魚がみな、水底で夕飯がすむと、水面にうかんできてこの娘さんの、上手なダンスをながめるのでした。
姉娘は、きれいな金色の波にくるまつて、すい/\と水面に、できるだけたかく跳びあがりました。親達はまたたいへん姉娘の踊り上手をじまんにして居りました。
いちばん末の妹娘の魚は内気な性分でしたから、あまりダンスなどを好みませんでした。それでたつたひとりぼつちに、水のつめたいゆるやかな水底の砂地に坐つて、水草で赤と青のショールをあんだり、細かな七色の石をあつめて首飾りをつくつたり、ときどき誰もゐない水面にうかんで、小さな声で歌を唄つたりして遊ぶことが好きでした。
或る日妹娘が、いつものやうに、水面に小さな可愛らしい口を、ぽつかりと出して独唱をやつて居りますと、ふいに沼岸の草原にがさ/\と音がしました。
それは妹娘のいまゝで一度も見たことのないやうな、奇妙なかたちのものでした。
青いきら/\と光つた服《きもの》をきて、絶えずからだをゆすぶりながら歩るきます。その不思議なものは沼岸のところまでやつてきて、ぴんと頭をあげながらなれ/\しく、
『淡桃色《うすもゝいろ》のリボンをつけたお嬢さんよ、なんといふ、美しい声をおもちでせう。水の中にすんでゐる鶯のやうだ。』
かう魚に言葉をかけました。
魚はあまり不思議な姿をしてゐるものですから、
『貴方は、水の魚、それとも陸《をか》の魚、青い小父さんはなあに。』
とたづねました。
『青い小父さんは、水の魚だよ、あまり退屈なものだから、かうして土の上を散歩をしてゐるのさ、』と青い小父さんは答へました。
魚はびつくりしてしまひました。それは水に住む魚が、陸《をか》の上を散歩をするなどゝは、いまがいまゝで知らなかつたからです。
『水の魚が土の上を歩るかれるのかしら。』
魚はあまり不審なものですから、つい独語《ひとりごと》のやうに言ひました。
『そりや、いくらでも土の上を歩るけるさ、水の中を歩るくやうな、楽なことはないがね、それでも柔らかい青草の寝床もあつたり、まつかな果物が実つてゐたり、小羊といつしよに広つぱにあそんだり、小鳥の家《うち》に招待されてごちそうに、なつたりしてゐると、少し位の疲れたのは忘れてしまふよ。』
かう青い小父さんは話しました。
それから陸の上の景色は、水の中の景色よりずつと美しいことから、花園にすむ蝶々のはなし、人間の街と馬に乗つた兵隊さんのはなし、楽器の巧みな昆虫達のはなし、その他さま/゛\のおもしろいことを、青い小父さんはゝなしてくださいました。
魚はちよつと散歩をして見たいやうな気持になりました。
青い小父さんは、最後に魚に散歩をして見よう。案内は私がしてあげませうと、盛んにすゝめました。
青い小父さんは、自分が水の魚であるといふことを証明するために、水の中にはひつてさかんに泳ぎ廻りました、そのまた泳ぎ方が非常に上手で、どんなに姉さんが巧みに踊りながら泳いでも、とてもこの青い小父さんの足もとにも追《おひ》つかないほど、しなやかな体をして泳ぎました。
妹の魚はふと青い小父さんの体のどこにも、魚のもつてゐる鰭のないことに気がつきました。
妹娘は急に怖くなつたので、いつさんに自分の家に逃げ帰りました。
『あゝ怖かつた、わたしは魔法使の魚にあつたの。』
かう言つて家に帰つた妹娘の魚は眼をまんまるにしながら、くはしく様子を物語りました。
『まあなんといふ不思議な魚なんだらうね。』
母親の魚は言ひました。
『このとしになるが、ついぞ見たことのない魚だなあ……。』
父親の魚はしきりに頭を傾けて考へました。姉娘はたいへんはしやいで、明日は沼の岸に行つて、是非この美しい青い小父さんに逢つて、お友達になつていたゞかなければならない、ことにダンスが上手だといふのなら、わたしと青い小父さんと、どちらが上手か踊りくらべて見なければならないと言ひました。妹は姉にむかつて、その青い魚はきつと悪魔か、魔法使にちがひないからとしきりにとめましたが、姉娘はきゝませんでした。
その翌日、姉娘の魚は沼の岸に行つて、さかんに踊りながら、青い小父さんの来るのをまつて居りました。
『淡桃色《うすもゝいろ》のリボンをつけたお嬢さんよ、なんといふ踊りの巧みなことでせう。水の中にすんでゐる、蝶々のやうだ。』
かう言つて沼岸のしげみから出てきましたのは、妹のいつた青い小父さんでした。
姉娘の魚は、すつかりこの青い小父さんと仲善しになつてしまひました。姉娘はじつと青い小父さんのダンスを見て居りました。
なんといふしなやかな体でせう。
青い小父さんは、つまさきで立つて、空にむかつて棒のやうな体にしたり、からだをくる/\と石ころのやうに小さくして[#底本は「小さくて」]しまつたり、沼岸の柳の枝にからだを巻つけたり、それはさまざまな舞踊やら曲芸やらをやりました。
しまひには姉娘の魚と手をとりあつて、水の上でダンスをやりました。
青い小父さんの鱗《うろこ》は、それはこまかで、お日さまの光をうけてきら/\と青く輝きました。それから、かなり暫く青い小父さんと魚とは、きちがひの様になつて、水の上でダンスをやつてゐました。
それから五六日も経つたけれども、姉娘は沼底の家に帰つてきませんでした。
両親や兄妹たちはたいへん心配して沼の中を探しましたがみあたりません。妹娘の魚は魔法使の青い小父さんにきつと、姉さんは連れて行かれたに、ちがひないと信じました。
それから五日程して、よく沼岸の砂地にあそびにくる、尻尾《しつぽ》の短い赤い小鳥が姉さんの居処をしらしてくれました。
『この沼から十間程はなれた、青い草の寝床によくねむつてゐましたよ。』
赤い小鳥はいひました。
『まあ、あの子は何処へでもよく歩るき廻る子でね。』
母親は姉娘の居処が知れましたのでうれしさうに小鳥にむかつて言ひました。
それから五六日して、沼岸に赤い小鳥があそびにきましたので、
『あの子は、まだねむつてゐるでせうか。』
父親はかう小鳥にむかつてたづねました。
『よくねむつてゐますよ、黄色い上着もなにもぬいでしまつて、まつ白い体をしてね。』
小鳥はいひました。
『風邪をひいては困るのにね。』
母親はちよつと心配さうな顔をして言ひました。
それから五六日経つて、沼岸に赤い小鳥が来ましたので親達はまた、
『姉娘はまだねむつてゐるでせうか。』
と質《たづ》ねました。赤い小鳥は、
『ずいぶんよくねむつてゐますよ。眼玉がとけて了ふほどね。』
と答えました。
『まあ、なんといふ呑気《のんき》な、幸福な子だらうね。』
黄色い魚の一家のものは、みな安心したといふ風に、沼の水底の家に帰つて行きました。しかし妹娘の魚だけは、なにかしら悲しい気持がこみあげてきましたので、さめ/゛\と沼岸にいつまでも泣いて居りました。
いまでも姉娘の魚は青草の上にねむつてゐるといふことです。そして青い小父さんが、なんといふ名前の魚であるか、黄色い魚の一家はいまでも不思議に思つてゐるといふことです。(大14・1愛国婦人)
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お嫁さんの自画像
トムさんのことを村の人達は、馬鹿な詩人と、言つてをりました。
トムさんは、無口で、大力で、正直で、それにたいへん働きました、たゞひとつ困つたことには、畠に出て仕事の最中に、いろいろなことを空想し、それからそれと空想し、しまひには、まとまりがつかなくなつて、べたりと地べたに坐り込んで、頭を抱へたきり動きません。村の人達は、これを見て『ああまた馬鹿な詩人が何か考へてゐるな。』と笑つて通りすぎます。
トムさんは、いままでにお嫁さんを三人も貰ひましたが、トムさんがこんな具合に、畠に出て行つては、考へこんでばかりゐて、仕事が他の農夫の半分も、はかどらない始末に呆れ果て、みな逃げ帰つてしまひました。
それでトムさんも、もうお嫁さんは貰ふまいと決心してゐました。
村の人も、またトムさんのところへならお嫁さんにやらないと言ひました。
或る日、トムさんが畠に出て、一鍬土を耕して、じつと鍬の柄に凭《もた》れ、ぽかんと口をあけて空想にふけりました。
あの芋の種が、青い芽を出して、その芽が葉を出して、その葉がだんだん横にひろがつて、しまひには、村中の屋根も道路も、私の芋の葉に、くるまれてしまひ、その茎のいたるところから根がついて、果ては海も山も、世界中が、芋の葉のために、お日さまが見えなくなつてしまふ、そこで世界各国の王様が協議を開いて、かうだんだんと芋が繁つてくるといふのは、何処かに、すばらしく大きな芋の王様が住んでゐて、その親根《おやね》からかうたくさん殖えてくるにちがひない、さつそくその芋の王様を探しだせと、数百万の兵隊を繰り出す、しかし其の頃は地の底は、芋の根だらけで、まさかこのトムさんの畠に、芋の親根があるとは気づかない。
世界の王様が困りはててゐるところに、トムさんは『私は芋の王様です。』と名乗りをあげる。そこで世界の王様は、『これは/\芋の王様、かう日増《ひまし》に芋の葉が繁つていつては、しまひには、私達の呼吸《いき》がつまつてしまひます、いつこくも早く、世界中の芋の葉を、枯らしていただきたい。』と頼みこむ、そこで私は家《うち》へ帰つて、畠の親芋を掘りだしてしまふ、すると世界中の芋の葉がみな赤く枯れてしまふ。わたしはこの功労によつて、世界の王となる、トムさんはこんな具合に、つぎからつぎと、いろいろな空想を描くのでした。
そのときトムさんの頭の上の青空を一群の白鳥が、南の湖の方へとんで行きました。
トムさんはこれをみつけて、『やあ綺麗な白鳥達だな……あの太つたのが白鳥の王様だな。すらつとひときは首の長いのが王妃さまだな、まんなかの一番色の白いのがお姫さまだな、あーあもう私のところには、お嫁さんが来ないかしら、もし来られるなら、あの白鳥のお姫さまでも我慢をするがなあ。然し私の家は年中焚火ばかりしてゐるから、あの雪のやうに白い、白鳥のお嫁さんのお衣装が、汚なく煤けては可哀さうだな。』こんなことを考へて居りますと一羽の鳥[#底本の「烏」を変更]が『トムさんの馬鹿。』と吐鳴《どな》つて、トムさんのつい鼻先へ石ころを、落したので吃驚《びつくり》して、思ひ出したやうに、またひと鍬土を耕しました。
トムさんは今度は、森蔭の白い王城をながめました。
『私は一生のうちに、たつた一日で良いから、あの王城に暮らす身分になつて見たいものだ、純金の王冠をかむり黄金《こがね》づくりの太刀を佩《は》き、白い毛の馬に跨り、何千人もの兵士を指揮して見たいものだな、しかし私には、この国の王様のやうに、白い立派な長い髭がないぞ、よしよしその時は夜店で買つてきてやらう。』こんなありさまですから一日かかつても、やつと一畦《ひとうね》くらゐよりできませんでした。
その夜近年にない大暴風で、トムさんの家の屋根は、いまにも吹き飛ばされさうな、激しさでした。
トムさんはあまりの物凄さに、炉の焚火によつて、小さくふるへて居りました、するとこの激しい暴風雨の中にトントンと表戸を叩くものがありました、トムさんは不審に思ひながら、そつと戸を開きますと、雨風といつしよに一人の若い女が室《へや》の中に転げこみました。
女は白い羽で出来た長いマントを着た、それは美しいひとでした、女は南の国のある王のお姫さまで、たくさんの家来をつれて旅行をいたしましたが、丁度この土地へきかかつた時、暴風雨に襲はれて、家来とちりぢりになつてしまつたのですと、トムさんに語りました。
その翌日、すつかり暴風雨が収まつたのですが、お姫さまは出発しようとはしません、その翌日も、そのまた翌日も帰らうとはしません。
或る日お姫さまはトムさんにむかつて『何卒、わたしを、あなたのお嫁さんにして下さい』
と頼みました、トムさんは大喜びで早速承知をいたしました。
村の人達は馬鹿な詩人の美しいお嫁さんを見て吃驚《びつくり》しました、しかし心のうちでは、あのお嫁さんも、三日経たぬ内に逃げだしてしまふわいと思ひました。
お嫁さんはたいへんよく働きました。その手が柔らかくお上品にできて居りましたから、畑を耕したり、荒仕事ができません、そのかはり針仕事をしたりお料理をしたりすることが、たいへん上手でした、トムさんはまた、一粒の豆でも半分に分けて喰べるやうに、仲善くしましたので、お嫁さんも満足をいたしました。
ところがトムさんが働きに出かけますが、ものの一時間も経たぬうちに、さつさと仕事を止《よ》して帰つてきてしまひます。
それはもしも、トムさんの不在に、たいせつなお嫁さんが、鼠にひいてゆかれたり、犬にくはえてゆかれたりしては大変だと、心配になつて仕事が手につかないからです。
トムさんは、このことをお嫁さんに話しますと、お嫁さんは、それではよいことをしてあげようと言つて、鏡をもつてきました。
この鏡に自分の顔をうつして、これを見ながら一枚の紙に自分の顔を描きました。
この自画像がまた、それは上手にかかれて、生きてゐるやうに見えました。一本の竹きれをもつてきて、この先をちよつと割つて、このお嫁さんの自画像をはさみました。
トムさんは、お嫁さんに言はれたとほり、この竹の棒を、畠の畦の、いちばん向うの土に立て、こつちの方からこの画をながめながら、耕しはじめました。
お嫁さんの自画像は、いつもにこにこ笑つてゐました。
お嫁さんの自画像のところまで耕してくるとこんどはこの自画像を第二の畦の、反対の向うはじに立てて、こちらからせつせと耕してゆきます、ですからその仕事のはかどることと言つたらたいへんです。
村の人はちかごろのトムさんの働きぶりに眼をまるくしてゐました。
ある日大風がふいてきて、このお嫁さんの自画像を吹きとばしてしまひました。
自画像は、ひらひらと風に舞ひあがつて、どこまでも飛んでゆきます。
トムさんは、はんぶん泣きながら、『お嫁さん待つてくれ。やーい。』『お嫁さん。やーい。』と叫びながら、どこまでも追ひかけました。
とうとうお嫁さんの自画像は、王城の塀《かべ》の中に落ちてしまひました。トムさんは泣く泣く家に帰りました、そしてその訳をお嫁さんに話しました、お嫁さんは『あんな絵はいくらでもかいてあげませう。』とトムさんをなだめました。
お城の塀《かべ》の中に落ちた自画像は、兵士が拾つてこれを王様に差上げました。
王様はこの画をひとめ御覧になつて、あまりの美しさにお驚きになりました。
いたつてわがままな王様は、まだお妃《きさき》がありませんでしたから、この画《ゑ》の女を、是非探し出して連れて参れと、一同の兵士に厳重に命令いたしました。
城中の兵士が総出で探したあげく、この画の主はトムさんのお嫁さんとわかりました。
王様はトムさんに『余の妃に差出すやうに。』と命令いたしました。
万一命令をきかなければ、トムさんの首を切りかねない権幕なので、トムさんは悲しくなつて泣き出しました。
お嫁さんは『さあ泣いてはいけません、私達に運が向いてきたのです。私はこれから王様の妃になります、しかし心配をしてはいけません、私はあなたの永久のお嫁さんです。私が王様の御殿へいつてから、近いうちに、お城の門が開かれる日が御座います。その時に一番目立つた汚ないぼろぼろの服をきて、城門のまぢかに、見物にまぢつて、立つてゐてください。』かう云つてお嫁さんは、王様の家来に連れて行かれました。
昔からこの国では、三年に一日だけ大きな城門を全部押しひらいて、臣民に城の内部をみせる習慣になつてゐるのです。
その日は王様を始め何千といふ家来達が、ふさふさの赤い帽子をかむつたり、金の鎧を着たり、色々な盛装して[#「色々に盛装して」または「色々な盛装をして」と思われる]門の中の床几に、腰をかけるのです、人民たちは門の中には入ることが、出来ませんが、城門の傍《そば》まで立ちよつて中を見ることが出来るのでした、そして午後の五時になると、重い鉄の扉がガラガラと閉ぢてしまふのです。
果してトムさんのお嫁さんの言つたやうに、城門開きの、おふれが人民に伝はりました。愈々当日になりますとトムさんは、乞食のやうな、汚ないボロ/\の服を着て、顔には泥を塗つて杖をつき、腰をかがめて、お嫁さんに言はれたとほり、見物人の一番前に出しやばつて、お城の門のひらかれるのを待つて居りました。
やがて時間が来て、城門は大きな響きをたてゝ、がらがらと開かれました。
みると王様は、けふを晴れと、りつぱな金の冠に、ぴか/\の着物を着飾つて、ゆつたりと床几に腰をかけてゐます。その傍にはトムさんの夢にも忘れることの出来ない可愛ゆいお嫁さんが、今ではりつぱなお妃となつてみな白鳥でできた、純白の上衣《うはぎ》をきて、坐つてゐるではありませんか。トムさんは悲しいやら、情ないやら、王様が憎らしいやらで、胸がいつぱいになり、涙をためた眼で、じつとお嫁さんをながめました。するとお嫁さんもトムさんの顔を見て、につこり美しく笑ひました。
王様はたいへん喜びました。それはトムさんのお嫁さんが、妃になつてから、いちども笑つたことがないのに、いま笑つたのを見たからです。
『これ妃そなたはいま笑つたではないか、何を見て笑つたのか、さあいま一度笑つてみせて呉れ。』と言ひました。
お妃はトムさんを指さして『王様あれを御覧なさい、なんといふ滑稽な姿の乞食でせう。もし王様があの男の着物をきて、あの男のかはりにあそこへお立ちになつたら、どんなにお可笑いことで御座いませう。』と申しました。
王様はいま一度妃の笑顔をみたいばつかりに、トムさんを御前に呼び出して、王様のりつぱな着物を着せて、お妃の傍へ坐らせ、自分はトムさんの着てゐた、ボロボロの服をきて、杖を握つて、城門の外の、見物の中にお立ちになりました。
しかしいつまでたつても、トムさんのお嫁さんのお妃は、すこしも笑ひませんでした。
王様はお妃の笑ふのを、いまかいまかと待つてをりました。しかしお妃は笑ひません。
そのうちに門を閉ぢる時刻の、午後五時がきて城門は閉ぢて了ひました。
そこで王様はまんまと城外に追ひ出され、馬鹿な詩人のトムさんが、王様と早変りをしてしまひました、城の兵士たちも、王様のわがままを憎んでをりましたので、誰もみな喜んだくらゐです。
不思議なお嫁さんは、いつかトムさんが空を仰いでながめた白鳥のお姫さまでした。(大14・4愛国婦人)
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たばこの好きな漁師
一
南の暖かい国の海岸に、茂作《もさく》といふ若い漁師が住んでをりました。
茂作はたいへん力が強く、乱暴者でそれに村でも有名な、なまけ者でありましたので、誰も村の人達は、対手《あひて》にいたしませんでした。村の人達は、茂作のことを、けむり[#「けむり」に傍点]の茂作と呼んでをりました。
それは遠くの方から茂作をながめると、茂作がけむりに包まれてゐるやうに、見えるからでした。
それほどに茂作は、煙草が大好物で朝から晩まで、一日中、ぷかり/\と煙草を吸つてをりました。
村の人達が、夜になつて、それぞれ元気に艪拍子《ろびようし》をあはせて、えつさ/\と沖の方に烏賊《いか》つりにでかけました。
茂作は、みなの者が夜釣りにでかけるのに、そのころには、早くから寝床の中にもぐりこんで家中を、もやのやうに、煙草の煙でとぢこめて、その煙のなかに、茂作は大あぐらを組んで、煙草を吸ふことに懸命でした。
ときどき思ひ出したやうに、仲間の漁師達と烏賊釣りにでかけることがありました。そんなときは、茂作は烏賊を釣りあげるよりも、長いきせる[#「きせる」に傍点]に煙草をつめて、吸つてゐる方が多かつたものですから、他の漁師達の半分も烏賊を釣ることができませんでした。
すると、こんなときには、茂作は自分のなまけてゐることを棚にあげて、漁の少ないことに腹をたてて、船をむかうの船に、わざと打ちつけてみたり水面を掻き廻したり、それはさんざんに、邪魔をいたしますので、誰ひとりとして村の人達は、茂作を憎まない者がありませんでした。
茂作は、それほど怠け者で、あばれ者でありました。
或る日、茂作は村の人達が漁にでかけてゐるのに、自分は家の中で、寝床から半身を乗り出して、いかにもなまけ者らしい顔をしながらおいしさうに長いきせる[#「きせる」に傍点]でのんきに煙草を吸つてをりました。
すると不意に、茂作の家の屋根のあたりでそれは/\大きな声で、つづけさまに、二つ三つ嚏《くさめ》をするものがありました。
茂作はあまりだしぬけでありましたのでびつくりいたしました。
『これは大変だ』
かう言つて茂作は、むつくりと飛び起きて戸外にでてみました。それは茂作は、きつと風邪をひいた泥棒が、屋根の上に忍んでゐると思つたからでありました。
しかし屋根の上には、嚏の主はをりませんでした。あたりをぐるぐると見廻しましたが、静かな寝しづまつた夜でありました。
それは美しい月夜でありました。とほくの沖合には、ずらりと列をつくつた、烏賊釣舟の燈《ひ》が、ちやうど電気玉をならべたやうにみえ、そして、茂作の屋根の上のあたりの空には、きれいな金色の尾をひいた箒星《はうきぼし》がひとつ、きらきらと光つてをりました。
茂作は、ぶつぶつと不平を言ひながら家の中にはひつて、またごろりと横になつて、煙草を吸ひました。
すると翌晩また大きな声で、茂作の家のうへで、つづけさまに嚏をする者がありました。
茂作は、自分の家の屋根を念入りにながめましたが、やはりその声の主の影も姿も見えません。
そして前夜のやうに美しい月夜で、とほくの沖合には烏賊釣の燈がならびきれいな金色の尾をひいた箒星がひとつ、茂作の家の空に、きらきらと光つてゐるばかりでした。
その翌晩も、翌晩も夜になると茂作の家の屋根のうへで、続けさまに、大きな大きな嚏がきこえましたがその声の主は見えませんでした。
『なんといふ不思議なことだ』
茂作は少々うす気味が悪るくなつてきました。
二
しかし大胆な男でしたから、どうかしてこの不思議な嚏の主をみつけてやらうと考へましたので四日目の晩から屋根の上に布団をしいて、徹宵《よどほし》張り番をしながら寝ることにきめました。
ちやうど七日目の夜のことでした。
茂作が屋根の上の寝床でとろりと、まどろんだと思ふころ、ふいに頭の上で、つづけさまに嚏をする者がありました。けふこそはと待ち構へてゐた茂作は、ぱつと大きな眼をひらきました。
とたんに茂作は、あやふく屋根の上から転げ落ちるほどにびつくりいたしました。
茂作のつい頭の上に、白い雲にのつた美しい天女がうすもの[#「うすもの」に傍点]の袖を風にひるがへしながら、大きな大きな嚏をつづけさまにしてゐるではありませんか。
『これは、これは美しい箒星のお姫さま』
茂作は思はず、雲の上の天女をみあげながら叫びました。
それはその美しい天女がふさ/\とした金の毛の三|間柄《げんえ》もあるやうな長い箒をもつてゐましたので、すぐに箒星のお姫さまと思つたのでありました。
茂作の思つたやうに、天女は箒星であつたのです。
箒星は、屋根の上の茂作の声に、びつくりして雲にのつて、たかく空にのぼりながら、
『わたしは、煙草の匂ひが嫌ひです。』
かう言つて、雲の上でつづけさまに大きな嚏をいたしました。
そして長い柄の金の箒を、上手に使ひながら夜の空を、きれいに掃き清めだんだんと、遠くの空に行つてしまひました。
箒星の天女の美しさに、茂作はしばらくは、魂のぬけた人のやうに、ぼんやりと屋根のうへに立つてをりました。
その翌晩、茂作は背中に大きな模様のある大漁祝に、村の人から貰つた、新しい浴衣《ゆかた》を着て屋根のうへにあがりました。
『箒星のお姫さま、どうぞ茂作のお嫁さんになつて下さい。』
茂作は、大きな掌を空にささげながら、箒星の通るときかう言つて、お願ひをいたしました。すると箒星は
『わたしは、煙草の匂ひが嫌ひです』
と言ひながら、つづけさまに大きな嚏をしながら、夜の空を掃き清め、だんだんと遠くの空に行つてしまひました。
翌朝茂作は裏の竹林から、長さ二間ほどの太い竹を伐つてまゐりました。
その竹の節をぬいて長いきせる[#「きせる」に傍点]をつくりました。
茂作は箒星が自分のお嫁さんになつてくれなかつたので腹をたてたのでした。そして箒星を煙ぜめにして下界に落し金の箒をうばひとつて、その金の箒を古道具屋に売つてお金持にならうと思つたのでした。
その夜茂作は、長い竹のきせる[#「きせる」に傍点]に、どつさりと刻煙草《きざみたばこ》をつめこんで、箒星のお姫さまの通るのをまち構へました。
箒星の通りかかつたとき、茂作は用意の竹のきせる[#「きせる」に傍点]で一生懸命になつて、煙を空にふきかけました。
箒星のお姫さまは、つづけさまに二三十も雲の上で嚏をいたしましたが、苦しまぎれに、自分の乗つてゐた白い雲の上から足を踏みはずして、あつと言ふまに海のまん中に、ざんぶとおちてしまひました。
三
『しめたぞ、箒星が海に墜ちた。』
茂作は、こをどりして喜びました。
さつそく小舟にのつて、茂作は海へ乗りだしました。そして箒星のをちたと思ふあたりに錨《いかり》ををろして、すつ裸になつて、海の中にもぐりました。
茂作は、深い海の底を、あつちこつちと泳ぎながら探し廻りましたが、金の箒はみつかりませんでした。
みつからないのも道理です、箒星の天女だけは、まつさかさまに、海の中におちましたが、天女の手にもつてゐた金の箒は雲の上に残つてゐて、雲は箒をのせたまま、とほくの空に流れて行つてしまつたのでした。
さうとも知らず茂作は、海の底を、血眼《ちまなこ》になりながら金の箒を探してをりますと、ふいにあつちこつちの海草のなかから、星のかたちをした赤い色の魚とも虫ともつかないものがたくさん現れてまゐりました。
そして海の中の星のやうに、きらきらと光りながら、
『恨めしい茂作さん、わたしを天から墜《おと》したね。』
かう言つて泣きながら、その星のやうなものは、茂作の背中にぴつたりと吸ひつきました。
茂作はびつくりして水面にうかびあがり、船にのつて逃げ帰りました。
*
村の人達は、その夜いつものやうに艪拍子も賑やかに、沖の釣場にむかつて漕ぎだしました。
かがり火を昼のやうにあかるく、船腹をづらりとならべて、鼻歌をうたひながら釣針を海に投げました。
すると油のやうに静かな海の面《おもて》が、急にざわざわと、さわがしくなつてまゐりました。
そして、それは数知れないほど、たくさんの、漁師達が、ついぞ見かけたことのないやうな、名もしれぬ不思議なものが、水面で星のやうにきらきらと光りました。
そしてこの星のやうな形のものは、漁師の投げた烏賊釣針に、われさきに争つて喰ひついてあがりました。
『恨めしい茂作さん、わたしを天から落したね。』
かう言つて、その星のやうなものは釣りあげられた船の板子の上で、身を悶えてころがりながら、さめざめと泣きました。
漁師は吃驚《びつくり》して尻餅をつきました。
『わしは茂作ぢやない、茂作は陸《をか》にゐるよ』
『これは大変だ、人違ひだ、茂作ぢやない』
と漁師達は、釣竿を海に投げすてて陸《をか》に逃げかへりました。
そのことがあつてから、漁師達の釣針に喰ひつくものは、この星の形をした赤い気味の悪い海星《ひとで》ばかりとなつていつぴきの烏賊も釣れなくなりましたので、村はみるかげもなくさびれてしまひました。(大14・11愛国婦人)
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親不孝なイソクソキ
けだもの達も、鳥達も、大昔は、たつた一人の母親に、養はれて居りました。
母親はたいへん皆を優しく、同じやうに可愛がつて居りました。
ある日、小川の流れた野原に、たくさんの鳥達が集つて、さかんにお化粧をはじめました。烏はせつせと藁で、自分の体をこすつて、黒くつや/\と磨きますし、山鳩は小川の浅瀬で、しきりに体を洗つてゐました。
其のほか鴨や、山鳥や、シギや、岩燕《いはつばめ》や、鴎や、あらゆる鳥達が、小川の岸に集つて、口の周囲《まはり》を染めたり、羽を洗つたり、白粉をつけたり、紅をつけたり、手をそめたり、熱心に化粧をしてゐるのですから、その賑やかなことといつたら、ちやうど海水浴場へ行つたやうな賑やかさでした。
かうした騒ぎの最中に、一羽の鳶の子が、転げるやうに飛んできて
『みなさん。大変ですよ、母さんが急にお腹《なか》をやみだして、悪いんですよ』と告げました。
鳥達は母親の危篤と聞いて吃驚《びつくり》して、あわてて川からあがるものや、化粧道具を片づけるものや、それはたいへな騒ぎとなりました。
なかでもふだんから、いちばん親孝行な、アマム・エチカッポ(雀のこと)は、いま小さな壺をもつて、口をそめてゐた最中に、この知らせを聞いたものですから、
『わたしお化粧どこぢやないわ』と言つて墨のはひつた、いれものをぽんと後に投りました。
そしてたいへん慌てながら、傍《わき》に化粧をしてゐた、おめかし屋のイソクソキ(啄木鳥《きつつき》のこと)にむかつて、
『さあ、母さんの病気です。いそいで参りませう』と言ひました、するとイソクソキは
『お腹の痛いくらいなら、大丈夫よ、わたしお化粧が、いますこしで終へるんですもの。』
かう言つて動かうとはしませんでした。
アマム・エチカッポは、イソクソキにはかまはずに、母親のところへ、どの鳥よりもまつさきに馳けつけましたが、親不孝なイソクソキは、どの鳥よりも、いちばん後《おく》れて来ました。
皆の馳けつけた頃には、母親の腹痛は、だいぶよくなつて居りました。
母親はアマム・エチカッポが、誰よりもまづ先に飛んできて呉れたので、たいへん喜びました。
いまでも雀の嘴《せ》のあたりの黒いのはこのとき墨の容物《いれもの》を投げた、墨が垂れてついたもので、羽にぽつ/\と、黒い斑点のあるのは、墨の散つてついたのだといふことです。
母親はアマム・エチカッポの孝行に感じて
『お前は、一生のうち、アマム(米又は粟)[#底本の『米又は粟』から変更]を喰べて暮らしなさい。』と言ひました。
そして親不孝のイソクソキには
『お前の不孝者には[#「お前のような不孝者は」か?]、一生涯腐つた木を突ついて、虫をお喰べなさい。』と言ひました。
それからと言ふものは、雀は清浄《きれい》な米や粟を、啄木鳥は、腐れた木から虫を探して喰べるやうになりました。
今でも愛奴《あいぬ》達は、余り家のちかくの樹に、イソクソキが来て、虫を探すことを喜びません、そして灰をまいてこの不浄な鳥のちかよつたことを、清める習慣があります。(大14・11愛国婦人)
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珠を失くした牛
一
森の中の生活は、たいへん静かでおだやかでした。誰もむだ口をきいたり喧嘩をしたりするものがありませんでしたから、ながいあひだ平和な日がつづきました。
すると或る日のことです。どこからか一匹の野牛《のうし》が、この森の中にやつてきました、そして誰にことはりもなく、どしりと大きな体を草の上に横にして草をなぎ倒し、かつてに棲家をつくつてしまつたのでした。
『ほつほホ、あなたは何処から、やつてきましたか』
森の支配人をしてゐる、白い鳩は、かう優しく杉の木の枝の上から、この野牛にたづねかけますと、野牛は大きな首をふいにあげて
『なんだ、小癪なチビ鳩め、どこからやつて来てもいゝぢやないか。けふから俺様が森の支配人だ』
とそれは雷のやうな、大きな声でどなりつけ、火のやうな鼻呼吸《はないき》を、ふーつと鳩にふきかけましたので、
『ほつほホ、これはたいへんなお客さんが森へやつてきたゾ、ほつほホ』
かう驚ろいて、鳩は逃げてしまひました。
ところが、この野牛はたいへんな、あばれ者で、二言めには、熱い/\鼻呼吸をふきかけて、とがつた角をふり廻しますので、森のけものや鳥や虫達は、怖ろしがつて、誰も交際をしないのでした。
そのうへ、それはおしやべりで、あることないこと、を言ひふらしますので、誰もみなめいわくをいたしました。
野牛は、みなの者が、自分を怖ろしがつてゐることを、よいことにして、毎日のやうに森の中をあばれまはりました。
それで、森の者達は会議を開いて、この乱暴者を追ひだす方法を、いろいろと考へてみましたが、対手《あひて》の野牛は力も強く、角も刃物のやうに、とがつてゐるので、とうてい自分達の力の及ばないことがわかりました。
そこでこの森でいちばん智恵者である人間のところにでかけて行き、色々と相談をいたしました。
森の中に住む人間といふのは、親子の樵夫《きこり》でしたが、これをきいて、
『それは困つたことですね、あの強力者《がうりきもの》を、この森から追ひ出す方法はありませんよ、それでみんなが、あの野牛に対手にならなければ、しまひには、この森にもあきて、どこかに行つてしまふでせうから』
と言ひました。
二
野牛は、大威張りで森を荒しまはりましたが、たつたひとつ野牛が、いまいましくて、たまらないことがありました。
それは、けものや、鳥や、虫などはすつかり自分の家来にしてしまひましたが、樵夫の親子だけは、どうしても征服をしてしまふことができなかつたからでした。
いつか折があつたら、この親子の人間も、自分の家来にしてやらうと考へてをりました。
或る日、森の中の日あたりのよいところで、樵夫の父親が、二抱へもあるやうな、大きな杉の樹を、ごしり/\とひいてをりました。
すると其処へ野牛がやつてきました、そしていかにも自慢さうに、ながながと自分の身の上話をはじめました。樵夫は、たいへん仕事の邪魔になつてこまりましたが、のこぎりを引く手を止めずに、ごしり/\と樹を伐りながらその話をきいて、すこしも対手になりませんでした。
野牛は、なが/\としやべつてをりましたが、大きな杉の樹の根もとが、七分どほり伐つたころに、不意に力いつぱい、両方の角で押しましたので、あつと言ふまに、杉の大木は樵夫の方に倒れかかつて、かはいさうに、樵夫の父親は、ぺつちやんこに、樹の下になつてつぶれてしまひました。
『モーモー、この森は、おれの天下だ。おれは野牛大王だ』
悪い野牛は、後肢《あとあし》で土《どろ》を蹴りながら、大喜びで逃げてしまひました。
森の小鳥が、この出来事をさつそく山小屋に留守居をして居りました、樵夫の子供に知らせましたので、子供はびつくりして馳けつけました、子供はどんなに悲しんだことでせう。
けだものや、鳥達も、みな寄り集つてかなしんでくれました、そして悪い野牛を憎まないものは、ありませんでした。
その日、樵夫の子供は、かたばかりのお葬式《とむらい》をして、父親を、森の小高いところの土《どろ》を掘つて埋めました。
この父親を埋めた土《どろ》のちかくに棲んでをりました一匹のこほろぎが、たいへん樵夫の子供に同情をして、きつと私が仇討《あだうち》をしてあげますからと親切になぐさめてくれたのです。
その翌日《あくるひ》、森の中で盛大なお話の会がひらかれて、いちばんお話の上手なものを森の王様にしようといふ相談をしました、これをきいた野牛は、まつ赤になつて怒りながら、会場にかけつけて
『この俺を、のけ者にして相談をするとはけしからん、誰がなんと云つても俺は大王さまだ』
と叫びました。
支配人の白い鳩は、まあまあと野牛をなだめつけて、
『それでは、これからお話の競技会を始めます。』
と一同の者に、開会の言葉を申しました。野牛は、けふこそ、得意のおしやべりで、みなのものを負かして、王さまの位についてやらうと考へました。
三
四十雀《しじゆうから》、蛙、カナリヤ、梟、山鳩、木鼠《もづ》、虻やら、甲虫、蚊など、どれも得意の話ぶりでしたが、おしやべり上手の野牛には、どうしてもかなひません。それで野牛はますます得意になつて、しやべりだしました。
すると何処からともなく、
『さあ老ぼれ野牛、こんどは俺さまがお相手だ』
とさんざん野牛にむかつて悪口を言ふものがありました。
みるとこの悪口の主《ぬし》は、それはちいさな、一匹のこほろぎでありました。
そのこほろぎは、野牛に殺された樵夫の父親が、杉の大木を半分伐りかけて、やめてしまつた、樹の切り口の奧の方にはひつて、さかんに野牛の悪口を言つてゐるのでした。野牛は烈火のやうに怒りました。
『ぢやあ、チビこほろぎから始めろ』
『よしきた、老ぼれ野牛、さあ俺さまから始めるぞ。昔々あるところに、お爺さんとお婆さんとが住んでゐたのだ。お爺さんがあるとき山へ柴刈りに行つた、どつさりと柴を刈つてさて山のてつぺんで、お昼のお弁当をひらいた。おばあさんの、心づくしの海苔巻《のりまき》の握り飯を、頬ばらうとすると、どうしたはずみか握り飯を手から落した。握り飯は、ころころと転げた、ころころころ/\ところげた、山のてつぺんからふもとをさして、いつさんに、ころころころころころころ/\ころころ』
『ころころころころ、ころころころ』
さあその『ころころ、』の長いことがたいへんです、こほろぎは、それは美しい調子をつけて、いつまでも/\、『ころころ』と鳴きだした。
『おい/\こほろぎ奴《め》、まだその握飯がころげてゐるのかい』
『まだまだだ、握飯はいまやつと、丘を越えたばかりだ、お爺さんは、一生懸命その後を追ひかけてゐる、握飯はころころころころころころころころ』
その日は、夜《よ》をとほして、こほろぎは、ころころと話し続けました。その翌日《あくるひ》も、その翌日も、いつになつたらその話を止《や》めるか、わかりませんでした。
野牛は、とうとう腹をたててしまひました、こほろぎを、その角で、ただ一突きに突き殺してやらうと思ひましたが、樹の切り口の奧のところに、こほろぎがゐましたので、それもできませんでした。野牛はますます腹をたててこんどは、切り口に、長い舌をぺろりといれて、こほろぎを捕《つかま》へようといたしました。
そのとき、傍にゐました、樵夫の子供は『占《しめ》た』と、切り口にさしいれてあつた楔を手早く抜きましたので、野牛は切口に舌をはさまれてしまつたのです。
森のみんなは手を拍つて笑ひました。
野牛のとがつた角は後《うしろ》の方にまがり爪がふたつに割れるほど、あばれてみましたが、舌はぬけませんでした、はては大きな声で泣きながら、
『モーモー、おしやべりをしませんから。モーモー悪いことをしませんから』
とあやまりましたので、樵夫の子は野牛の口のなかから、おしやべりの珠をぬきとつて、とほくの草原になげてしまつてから野牛をゆるしてやりました。
野牛は、泣く泣く森を逃げだしました。
あの真珠のやうな、小さな言葉の珠を失くしてしまつてから、牛はもう言葉を忘れてしまひました。
『たしかこの辺だつたと思つたがなあ』
牛は野原の草の間を、失くした珠を探して、さまよひました。
『モーモー、おしやべりをいたしません、モーモー』
牛はそれから、こんきよく野原の青草を口にいれて、ていねいに噛みながら、失くした珠を探しました。(大15・2愛国婦人)
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お月さまと馬賊
一
ある山奥の、岩窟《いはや》の中に、大勢の馬賊が住んでをりました。ある日、馬賊達は、山のふもとの町へ押しかけて、さんざん荒しまはつた揚句、さまざまの品物を、どつさり馬に積んで引揚げてまゐりました。
馬賊達は、山塞《さんさい》でさつそく、お祝ひの酒盛りを夜更《よふ》けまで賑やかにやりました。歌つたり騒いだりして、馬賊達はすつかり酔つぱらつて、やがて部屋の中の、あつちにも、こつちにも、ごろりごろりと、魚のやうに転ろげてねむりました。馬賊の大将も、たいへんいゝ気持になりました、そしてあまりお酒を飲んだので、顔が火のやうにほてつて、苦しくてたまらなかつたので、冷めたい夜の風にでも冷やしたなら、きつと気持がよくなるだらう、と考へましたので、山塞の扉《と》をひらいて戸外《そと》にでてみました。
戸外《そと》は、ひやひやとした風がふいてをりました、それにその夜《よ》は、それは美しいお盆のやうな銀のお月さまが、空にかかつてゐたものですから、地上が昼のやうにあかるかつたのです。
『なんといふ、きれいなお月さんだらうな』
馬賊の大将は、お月さまの、すべすべとなめらかな顔と、自分の頤髯のもぢやもぢやと、蓬《よもぎ》のやうに生えた顔とをくらべて考へてみました。
それから馬賊の大将は、裏手の厩《うまや》の中から大将の愛馬をひきだしてきて、それにまたがりました。そのへんは山の上でも、平らな青い草地になつてをりましたので、馬賊の大将は、どこといふあてもなしに、馬にのつたまま、ぶらり/\と散歩をしました。
『けふは、お前の勝手なところにでかけるよ。』
大将はかういつて、馬の長い頸を優しく平手でたたきました。
馬はいつもならば、荒々しく土煙をあげて、街中を狂気のやうに馳け廻らなければなりませんのですが、その夜《よ》は主人のおゆるしがでましたので、気ままに、柔らかい草のあるところばかりを選んで、足にまかせて歩るき廻りました。
大将は草の上に夜露がたまつて、それが青いお月さまの光に、南京玉のやうに、きらきらとてらされてゐる、あたりの景色にすつかり感心をしてしまつて、どこといふあてもなしに歩るきまはりましたが、やがて飲んだお酒がだいぶ利いてまゐりますと、とろりとろりと馬の上で、ゐねむりを始めました。とうとう馬賊の大将は、鼻の穴から大きな提灯をぶらさげて馬の頸にしがみついたまま、すつかり寝込んでしまひました。
二
ふと大将が眼をさましてみますと、自分は馬の背から、いまにも落つこちさうになつて眠つてをりました、
『おやおや、月に浮かれて、とんだところまで散歩をしてしまつた。』
かう言つて、大将はぐるぐるあたりを見廻しますとそこは、やはり広々とした青草の野原で、あひかはらずお月さまは、鏡のやうにまんまるく下界を照らしてをりました。
しかし山塞と、だいぶ離れたところまで、きてをりましたので、馬の首をくるりと廻して帰らうといたしました、そして何心なく下をみると、そこは崖の上になつてゐて、つい眼したに街の灯がきらきらと美しく見えるではありませんか。
すると馬賊の大将は、急に荒々しい気持に返つてしまつたのです。
そして大胆にも自分ひとりで、この街を襲つてやらうと考へたのです、馬の手綱をぐい/\と引きますと、いままで呑気に草を喰べてゐた馬も、両眼を火のやうに、かつと輝やかして竿のやうに、二三度棒立ちになつてから、一気に夜更《よふ》けの寝静まつた街にむかつて、崖を馳けをりました。
そして馬賊の大将は、街の一本路を、続けさまに馬上で二三十発鉄砲をうちながら、馳け廻りました。それはかうたくさんの鉄砲をうつていかにも、大勢の馬賊が押しかけてきたやうに街の人々に思はせるためでした。
はたして街の人々は、大慌てに、そらまた馬賊が襲つてきたと、皆ふるへながら、押入れの中やら、地下室やらに逃げこんで小さくなつてをりました。
大将は家来もつれず、たつた一人の襲撃ですから、あまり深入りをして失敗をしてはいけないと考へましたので、鉄砲をうつて、街の人々をおどかしてをいてから街の場末の二三十軒だけに押し入つて、いろいろの宝物を革の袋に三つだけ集めました。それを馬の鞍に二つ結びつけ、自分の腰に一つつけて、さつそく引き揚げようといたしました。
ところが一番最後に押し入つた家《うち》は、一軒の酒場でありましたが、酒場の家の人達は、大将が押し入つてきましたので、驚ろいて奧の方に逃げこんでしまひました。
馬賊の大将は、がらんとして誰もゐない酒場に、仁王だちになつて、髯を針金のやうにぴんぴん動かしながら
『さあ、みんなお金も宝物《はうもつ》も出してしまへ。』
と叫びましたが、酒場の中はしーんとして返事をする者もありません。
ふと棚の上をみますと、そこには、青や赤や紫や、さまざまの色の酒の甕がづらりとならんで、ぷん/\とそれはよい匂ひを大将の鼻の穴にをくつてきましたので、大将は『これはたまらん』と、この大好物を窓際のテイブルの上に、もちだして、ちびりちびり飲みながら、窓からお月さまをながめて、ひとやすみいたしました。
三
馬は窓際に立たしてをきました、それは、もしも大将を捕へようと、街の兵隊が押しよせてきたときには、大将はひらりと窓をのり越えて、馬の背にまたがつて、雲を霞と逃げてしまふ用意であつたのです。ところが酒場の人の知らせで街の馬に乗つた兵隊が百人ほど、一度にどつと酒場に押しよせてきたときには、大将はひらりと、得意の馬術で、逃げだすどころか、あまりお酒をのみすぎて、上機嫌で月をながめてゐましたので、それは苦もなく兵隊にしばられてしまひました。
そして馬賊の大将は、首を切られてしまひました。
一方馬賊の山塞では、いくら待つてゐても、大将が山塞に帰つてきませんので、家来達はたいへん心配をいたしました、さつそく四方八方へ手別《てわ》けをして、大将をさがしましたが、その行衛《ゆくゑ》がわかりませんでした。
一人の大将の家来が、或る街の処刑場《しをきば》の獄門の下を通りかかるとおい/\と家来を呼び止《とめ》るものがありました。ふと獄門の上を見あげますと、獄門の横木の上に、行衛《ゆくゑ》不明の馬賊の大将の首がのつてゐるではありませんか。
『おや、これは大将、なんといふ高いところに、家来共は夜《よ》の眼も寝ずに、あなたさまの行衛《ゆくゑ》を探してを[#底本の「お」を「を」に変更]りましたのに。』かう言つて獄門の首を、家来は見あげました、すると大将の首は、たいへん不機嫌な顔をしながら『つくづくと、わしは馬賊の職業《しやうばい》がいやになつた。山塞に帰つて、みなの者に言つてくれ、大将は、たいへんたつしやで、毎日陽気に月見をしてゐるから、心配をしないでくれ。たまには人間らしい風流な気持になつて、この大将を見ならつて、酒でものんで月でもながめる気はないかとね。』
大将は、獄門のうへで、二日酔のまつ赤な顔をしながら、かう言ひました、そして陽気に月をながめながら歌をうたひました。
切られた大将の首は、酒場でたらふくお酒をのみましたので、なかなか酔がさめませんでした、そして毎日のやうに、月をながめながら歌をうたひました。
すると或る日、獄門の横木の大将の首のつい隣りのところに、新らしく切られた首がひとつのつかりました、そして大将の首に話しかけるではありませんか。それは馬賊の家来の首であつたのです。
『わたしも、すつかり悪心を洗ひ清めて、月をながめるやうな、風流な男になりましたから』
かういつて、ぺこりと家来の首はお低頭《じぎ》をいたしました。
大将の首も、喜んで、そこで二人が合唱をやりました。
するとまたその翌日新らしい馬賊の首が一つ獄門の横木にならびました、そして、それから十日と経たないうちに、山塞の馬賊の首がづらり[#底本「ずらり」を修正]とならんでしまつたのです。
それは人を殺したり、お金を盗つたりする悪い心が、みなお月さんをながめるやうな、風流や優しい心になつたからです。そして一人一人山奥から街の酒場にやつてきては、お酒をのんで兵隊に首を切られたからでした。
そこで大将の首は、家来の首のづらり[#底本「ずらり」を修正]とならんだ、まんなかで、長い頤髯をぴんぴんと動かして拍子をとつて、にぎやかに合唱をはじめました。
どれもどれも、いずれ劣らぬお酒に酔つた、まつ赤な顔をして、大きな声を張りあげて、浮かれて歌をうたふものですから、その賑やかなことと言つたらたいへんでした。
街の人達は、夜どほし馬賊の首達が合唱をいたしますので、やかましく眠ることができませんので、兵隊に、あの沢山の首をなんとか、始末をしてくれなければ困りますと申し出ました。
そこで兵隊は、あまりたくさん獄門に首がならんで、後から切つた罪人の首の、のせ場もなくなつたものですから、処刑場《しをきば》の広場のまん中に、大きな穴を掘つて、その中に首を投りこんで、上からどつさり土をかけてしまひました。
それからのち、馬賊の首達は、月見の宴《えん》をやることもできなくなり、酒の酔もだんだんとさめてきたので、たいへんさびしかつたといふことです。(大15・6愛国婦人)
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三人の騎士
一
三人の若い騎士が、揃つて旅をいたしました。筋肉のたくましい、見るからに元気な騎士は黒い甲冑を着てをりました。背のひよろ/\と高い騎士は白い甲冑を、いちばん痩せこけて小さい騎士は青い甲冑を着てをりました。
この三人の騎士は、目的地である王城のある街へ、せつせと旅をつゞけてをりましたが、三人の住んでゐた街から、王城までは、かなりの里程《みちのり》がありましたし、それに広々とした野を横切らなければなりませんでした。
騎士達の住んでゐた街の、いたるところの街角に奇妙な木の札《ふだ》が建てられたのは、ついこの間のことでありました。
それはこの国でいちばん勇ましい騎士に王様が、たつた一人よりない可愛い王女をくれるといふ、立字《たてじ》が書き綴られてあつたのです。
もと/\この国の王様には、王子のないことを臣民は知つてをりました。
それで若い騎士達は、争つて王城をさして押しかけました。美しい王女さまを貰つた上に、この国の王様の世継となつて、やがてはおびたゞしい土地と、人民を統御することを想つては、若い騎士達はじつとしてゐることができませんでした。
そしてぞく/\と押しかけた騎士達は、王宮の前庭にたくさん集りました。
たゞ騎士達は、この多数の自分達の仲間から、たつた一人の幸福な候補者を王様はどんな方法で、お選びになるかといふことが、だれにもわかりませんでした。
王様の御前で、勇ましい真剣勝負をするのか、または闘牛の技競《うでくら》べをするのやら、馬術をおめにかけるのやら、さつぱりわかりませんでした。
この三人の騎士達も、この思ひもかけない幸福にめぐり合ふとして旅をつゞけてゐる若者でありました。
三人の騎士達が、野原のまん中までやつてきたときに、とつぷりと日が暮れてしまひました。
黒い騎士は、こんなに日が暮れては路《みち》がわからないから野宿をしようと、二人の騎士にむかつて言ひました。
ところが後の二人の白い騎士と、青い騎士とは、明るいうちは、それは強さうなことを言つてをりましたが、とつぷりと日がくれてしまつては、急に怖気《おぢけ》がついて一歩も馬の足をすゝめることができなくなりました。
それにこんな野原のまんなかに野宿などをしては、さびしくて堪らないと考へましたので、黒い騎士に反対をしてとにかく、行けるところまで馬を進めようと言ひました。
しかたなく黒い騎士は、二人の言ふ通りに、夜どほし歩くことにいたしました。
白い騎士と、青い騎士は、頭上をとぶ名も知れない怪鳥の叫び声にも、しまひにはふるへる程の臆病の本性を現はしてしまひました。
黒い騎士は、臆病な、二人を追ひ立てるやうにはげまし、はげまし路を急いでまゐりますと、ふいに三人の馬の鼻先で、それは大きな法螺の貝の響がいたしましたので、白い騎士と青い騎士とは、驚ろいてきやつと言ふなり棒立ちになつた馬から落つこちましたが、大胆な黒い騎士はさつそく、半弓をもの音のあたりに、ひやうと射放しました。しかし不思議な物音はそれきりきこえませんでした。
二人の騎士はます/\怖気がついて、果ては一歩もあるくことができなくなりました。
ところが、ちやうど幸ひなことには、はるか遠くに人家のあかりがひとつ見えましたので、三人はたいへん元気づいて馬をすゝめました。
二
広い野原のまんなかに建つた、大きなお寺の、高い窓から、光がもれてくるのでありましたが、そのお寺は久しい間人が住んでゐなかつたと見え、壁は崩れかけて、いかにも古めかしい建物でありました。
たどりついた三人の騎士は、とんとんと朽ちかけた扉をたゝきましたが、なかゝらは何の返事もありませんでした。
短気な黒い騎士は、力いつぱい扉をひきましたが、扉はなんの戸締りもなかつたので、それは苦もなくやす/\とひらかれました。
そこは天井の高い第一の部屋になつてをりましたが、そこの土間には、三つの秣桶《まぐさをけ》と三つの水桶と、三つの毛ブラシと、がちやんと置かれてありました。
ちやうど、三人の騎手[#「手」に「ママ」の注]の乗つた三頭の馬がやつてくるために、用意をしてあるかのやうでありました。
黒い騎士はたいへん喜んで、さつそく乗つてきた馬に、水桶の水をやり、秣をやり、ブラシで毛なみをきれいに撫でゝやりましたが、他の二人の騎士達は、あまりのうす気味の悪るさに、たゞ呆然と突立つてをりました。
それよりも不思議なことには、次の第二の部屋には、一人の女がきちんと膝を組んで坐つてをりました。
顔色は凄みを帯びたほどに白く、髪を長く後に垂れ、青い上着をきたこの女は、人形のやうに、唖のやうに、坐つてをりました。
『旅の三人の騎士です一夜のお宿をおねがひしたい。』
かう黒い騎士は、女にむかつて言ひましたが、女は冷めたい大理石のやうに坐つたまゝ、一言の返事もいたしませんでした。青い騎士と白い騎士は、がた/\と震へだしました。
三
つゞいてまた不思議な事を発見されました、それは次の第三の部屋には、大きな丸テイブルが据ゑられて、その上には三人前の料理と、三本の葡萄酒とがのつてあり、それに三脚の腰掛の用意まで、ちやんとしてあるではありませんか、大胆な黒い騎士は、
『なんといふ気の利いたホテルだらう。』
などと平気で無駄口をきゝながら、たらふく料理を喰べましたが、臆病な他の騎士は喰物が咽喉にはひるどころではありません、ます/\震へるばかりでありました。
次にまた不思議なことには、第四の部屋には、三人分の寝台が用意されてあることでした。
黒い騎士は平気で、この寝台のふつくらとした羽布団にくるまれてねむりましたが、白い騎士と青い騎士は、寝台の中に小さくなつてをりました。
すると真夜中頃、とほくからだんだんと騎士の室の方に、ちかよつてくる足音が聞えましたが、やがて、ぱたりと室の前で足音はやみ、音もなく扉が開かれました。
二人の騎士は怖々そつと頭をもたげて見ますと、それは第二の部屋に、石のやうに坐つてゐた女でありました。
女は黒い騎士の寝台にちかよつて、小さな聞きとれないやうな声で
『もし/\、太陽の申し児のやうな、たくましい旅の若者。わたしが一生のお願ひがございます。もし/\。』
かう言つて、なんべんも冷めたい手で黒い騎士の首筋を撫で廻してをりましたが、黒い騎士は昼の疲れで大鼾で眠つてゐるので、女はこんどは白い騎士と青い騎士の寝台のところに近よつてまゐりました。
四
夜が明けるのを待ちかねて、青い騎士と白い騎士は、黒い騎士をゆり起して、早々にこの怪しい古い寺院を出発いたしました。
そして三人は旅を続けましたが、寺院から一里もきたと思ふころ二人の騎士は、前夜の出来事を始めて黒い騎士に物語りました。
黒い騎士は、前夜の出来事を聞いてたいへん残念がりました、そしてこれから今一度引返して、奇怪な女の正体を見極めてくると、言ひ出しました。
青い騎士と、白い騎士はそのことにたいへん反対いたしましたが、黒い騎士はどうしてもきゝいれませんでした。しかたなく二人の騎士は、そこで黒い騎士と別れて、一足先に王城にむかつて出発いたしました。
大胆な黒い騎士は、その日の夕方、野の中の古い寺院に引返してまゐりました。
扉はなんの苦もなく、ひらかれました。
第一の部屋には、騎士がたつた一人で引返してくることを、ちやんと知つてゐるかのやうに、土間には、一つの秣桶と、一つの水桶と、が用意され、第二の部屋には、一人分の食事と、第三の部屋には、ものを言はぬ女が坐つてゐて、第四の部屋には一人分の寝台とが用意されてをりました。
黒い騎士も、さすがに不思議に思ひながら寝床の中にもぐりこんで眠りました。
果して真夜中頃遠くから足音がしてやがて、その足音は、騎士の室《へや》に忍びこみました。
騎士は寝息を殺して、じつと様子をうかゞつてをりますと、前夜のやうに
『もし/\、太陽の申し児のやうな、たくましい旅の若者。わたしが、一生のお願ひがございます。』
と女が小声で言ひました。
騎士は、やにはに、がばと飛び起きて、しつかりと女の袖を、捕へました。しかし女は少しも逃げようとはせず、窓から戸外をながめながら遠くを指さします、そしていかにも案内をするやうに、自分が先にたつて歩るきだしましたので、騎士は狐につまゝれたやうに、その後について行きました。
すると女は野原の暗がりを十丁程も先に立つて歩るきましたが、女の着いたところは小高い丘になつてゐました、そしてそこの草の茂みの中に二三十の石碑《せきひ》がならんでをりました。
女と騎士は墓場にやつてきたのでした。女はその石碑のうちの小さいのを指さして、唖のやうに無言に、土を掘れと手似《てまね》をするので、大胆な黒い騎士は、度胸をきめて土を掘りました。
なかゝらは、まだなま/\しい赤児の死骸が出てまゐりました。
女はこれをながめて、にや/\と笑ひました。
五
女は不意に、赤児の腕をぽきりと折つたと思ふ間に、むしや/\と喰べ始めました。
さすがの黒い騎士も、からだに水を浴びたやうに、恐ろしく思ひました。
しかしこゝで弱味を見せてはならないと心に思ひましたので、女が次の腕をもぎとつて喰べだしたとき、だまつて手を差しだしました。
騎士は赤児の腕を喰べようとするのです。女はこれをみて声をあげて、笑ひました。そして赤児の頭をもぎとつて、騎士の手に渡しました。
騎士はその赤児の頭をうけとると、眼をつむつて、夢中になつて噛りつきました。
赤児の頭は案外柔らかく、そしてぼろ/\と乾いた餅のやうに欠け落ちるのです。その味はなんだか、蜜のやうに甘いやうに騎士には思はれました。
騎士は頭を喰べおへると、また手を出して赤児の足をくれと女に言ひました。騎士は何が何やら、わけがわからなくなつてしまつたのでした。
そして騎士は、まつ暗な墓場のなかで、赤児の死骸をぺろりと平らげてしまひました。
そのとき何処《どこ》からともなく、法螺貝の音が聞えました、つゞいて人馬のひゞきが起りました。騎士は暗がりの中からあらはれた、たくさんの手のために、其場に押し倒され、頭からすつぽりと袋のやうなものをかぶされてしまひました。
そして騎士は、馬の背にのせられて、どことも知らず運んでゆかれました。
*
なんといふ明るさでせう、騎士が馬から、おろされたところは、まつくらな墓場とは、似ても似つかない、昼のやうにあかるく七色の花提灯《はなちようちん》をつるされた、大理石の宮殿の中でありました。
黒い騎士が旅の目的地であつた、王城の中に立つてゐたのでした。
やがて正面の扉がひらかれて、白い長い髯を垂れた王さまが、にこ/\と笑ひながら出てまゐりました。
それよりも驚ろいたことには、野原の中の古ぼけた寺院の怪しい女が、見ちがへるほどに美しい服装をして、これもにこ/\しながら現れました。
『旅の騎士、太陽の申し児のやうな勇ましい若者。あなたの不審はもつともです。』
かう口をきつて王さまが物語るには王さまが国中でいちばん勇ましい王子を選むためにぜひ、騎士達の通らなければならない野原の寺院に、王女を住はせました。そして路には、家来の者を隠してをいて、いち/\通る騎士の数を、法螺の貝をふいて合図をして知らせました。
王女はその合図によつて食事やら寝台やら秣桶、毛ブラシなどの用意をいたしました。
そして王女はその夜泊つた騎士のうちから、いちばん勇ましい騎士を選んだのでした。
ではあのまつ暗な墓地で喰べた赤児はどうしたのでせう。
みなさん、その赤児といふのはほんとに馬鹿らしい程、お可笑なものです。それはお砂糖でこしらへた、赤児のお人形さんであつたのです。
黒い騎士はその日、りつぱな式があつてめでたく王子の位についたのでした。(大15・9愛国婦人)
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或る手品師の話
老人の手品師が、河幅の広い流れのある街に、いりこんで来たのは、四五日程前でした。
手品師は、連れもなくたつた一人で手品をやりました。
――はい、はい、坊ちやん。嬢ちやん。唯今この爺《ぢ》いが、眼球《めだま》を抜きとつて御覧にいれます。
手品師は、両手で右の眼を押へて、痛い痛い、と言つて泣きました。
それから手品師は、はつと気合をかけて、眼から手を離すと、驚いたことには、手品師の眼は抜きとられて、右の掌《てのひら》の上に、眼の球がぎらぎらと、お日さまに光つてゐました。
――やあ、眼球《めだま》だなあ。
――驚ろいたなあ、本当の眼球《めだま》だ。
見物の子供達は、驚ろいてしまひました、ところが、手品師の掌の上の、眼球をだんだんとよく凝視《みつめ》てゐると、これはほんものの眼球ではなく、ラムネの玉ではありませんか、見物人が呆れてぽかんとしてゐると、老人の手品師は、
――あははは、みなさん左様なら。
かう言つて、そのラムネの玉やら、赤い手拭やら、鬚の長い綿でつくつた人形やら、剣やら、様々の手品の種のはいつた、大きなヅックの袋を、やつこらさと背中に担いで、さつさと次の街角に行つて了ひました。
手品師は、街角から、街角に、歩るき廻つて手品をやり、夕方疲れて宿に帰るときには、この街の街端《まちはづ》れを流れる河岸に、かならずやつて来ました。そしてこの河岸の草の上に、足を伸ばして、一日の疲れを河風に吹れました。
手品師の宿といふのは、それは汚ならしい小さな家で、小さな室《へや》に、六人も七人ものお客さんがあつて、重なり合つて眠らなければならない始末ですから、それよりもかうした奇麗な水の流れを見て、涼しい河風に吹れて休んで居た方がいゝと思つたのでした。
*
ある日、この老人は、ごほん、ごほん、と続けさまに、たいへん咳が出て手品の口上も述べることも出来ないほどでした。
それに体がだるくて、手足がみんなほごれてしまふのではないかと、思ふほどに疲れを感じましたので、手品を早くきりあげて、いつもの河岸の河風に吹かれたなら、少しは気分が治るであらうと、河岸にやつて来ました。
そして、手品の種のはひつた袋を、枕にして寝ころび、青空をながめました。
するとその日にかぎつて、ついぞ思ひ出しもしなかつた、友達の事やら、若いときに死に別れをした妻のことやら、天然痘で死んだ可愛い子供の事やら、これまで旅をしてきた数限りない街の景色の事やらが、つぎつぎと頭に浮んできました。
――わしの一生にやつてきたことをみんな思ひ出さうとするんぢやないかな。
手品師は、急にさびしくなつてきたので、かう独語《ひとりごと》をしてむつくり起きあがりました。
そのとき河の上流から、それは細長い格好のよい、青い青いペンキ塗りの船が一艘、静かにくだつて来ました。
――おーい、青い船待つてくれ、わしも乗せて行つてくれ、やーい。
と呼びとめました。
手品師は、急にこの街が嫌になつたのです、それで、この青い船にのつて河下の街に行つて見たくなつたのでした。
青い船の船頭は、河岸に船をよせてくれましたので、手品師は船に乗りました。船には一人のお客さんもなく、がらんとしてゐました。
――船頭さん、わしはこの日あたりのよい、甲板《かんぱん》に居ることにするよ。
かう手品師が言ふと船頭は
――お客さん、其処に坐つてゐては駄目だよ。いまにお客さんで満員になるんだから。
とかう言ふので手品師は、鉄の梯子《はしご》を、とんとんと船底に下りて行きましたが、船底にも、一人のお客もありませんでした。
*
青い船が、下流の街について、手品師が船底から甲板にあがつて見ると、船頭の言つたやうに、なるほど甲板の上は、船客でいつぱいになつてをりました。
この街は、手品師がかつて見たことのないやうな、美しいハイカラの建物の揃つた街でした。
地面はみなコンクリートで固めてあつて、見あげるやうな、高い青塗りの建物が、不思議なことには、その建物には、窓も出入口もなんにもない家ばかりであるのに、街には人出で賑はつてゐました。
手品師は、きよろきよろ街を見物しながら、街の中央ごろの、広い橋の上にやつてきて、そこの人通りの多いところで、職業《しやうばい》の手品にとりかかりました。
――さあ、さあ、皆さんお集《あつま》り下さい。運命の糸をたぐれば踊りだす。
赤いシャッポの人形。
旅にやつれた機械《からくり》人形。
とかう歌つて、手品師がたくさんの人を集めて、さて手品にとりかからうとすると、手品師は、たいへんなことが出来あがつたと思ひました。それは大切《だいじ》な大切《だいじ》な、職業《しやうばい》道具のはひつた、手品の種の袋を船の中に置き忘れてきてしまつたのです。
手品師は上陸するときには、青い船が岸を離れて、下流に辷つて行つたことを知つてゐます。
手品師は、見物人の前でしばらく思案をいたしました。
――さあ、手品師、手際《てぎは》の鮮やかなところを見せておくれよ。
――へい、そんな事は容易《たやす》いことで、わたしは、子供の時からこの歳《とし》まで三十年間も、手品師で飯を喰つてまゐりました。
――それでは七面鳥に化てごらん。
――へい、そんな事は容易《たやす》いことで。
――手品師、蟇に化けてごらん。
――へい、そんなことは、尚更楽なことで。
――それでは、烏になつてごらん。
――へい、なほ楽なことですよ。
手品師は、手品の種を無くして、途方にくれながらも、かう言ひながらしきりに思案をいたしました。
――手品師、お前は手品の種を、なくしたんだらう。
かう見物人の一人が言ひましたので手品師は
――いかにも、みなさん、わたしは手品の種を失ひましたが、種なしでも上手にやつてのけませう。
と言ひました。
青い街の人々は、一度に声を合せて笑ひました。
手品師は、そこでその橋の欄干の上に、立ちあがつて、水もなんにもない石畳の河底につくまでに、黒い大きな蝶々となつて舞ひあがり、もとの橋に戻つて見せようと、見物人に言ひ、そして橋の上から、ひらりと、眼もくらむやうな深さになる河底めがけてとびをりましたが、手品師は黒い蝶々にもなれずに、一直線に河底に墜ちてゆきました。
*
――やあ、手品師が死んでる。
青草の上に、冷めたくなつた手品師をとり囲んで、河岸で子供達がわいわい騒ぎました。
手品師は、眠つたやうな穏やかな顔をして死んでゐました、手品の種のはひつた袋を枕にして、その袋からは、綿細工の鬚の長い人形が、お道化《どけ》た顔をはみだして、子供たちの顔を見てゐるやうでした。(大15・12愛国婦人)
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或る夫婦牛《めをとうし》の話
……私の書斎に、遠くの村祭の、陽気な太鼓の音がきこえてきましたが、昨日からばつたりと、その音が鳴り止《や》んでしまひました。
……この破れた太鼓のお話をしようと思ひます。
*
――爺さんや、わしは今夜はたいへん胸騒ぎがしてならないよ。急にお前さんと、引き離されてしまふやうな、気がしてならないな。
――ああ、婆《ばあ》さんや、わしも胸が、どきん、どきんするよ、きつと明日《あした》は、何か悪るい出来事があるに違ひないな。
爺さん牛と、婆さん牛とは、小さな牛小舎の中に、こんなことを、しやべりあつてゐました、はては気の弱い婆さん牛は、声をあげて泣きだしました。
爺さん牛も、婆さん牛が、泣くので、つい悲しくなつて、大きな声でいつしよに、泣きました。
――婆さんや、お前は何が悲しくて泣くんだい。
――爺さんよ、わしもわからないが、かなしくなるんだよ。
婆さん牛は、小舎の乾藁《ほしわら》に、眼をすりつけて、わいわい言つて泣きました。
すると小舎の戸があいて、飼主が手に蝋燭をもつて入つてきました、そして大きな声で――こん畜生奴、何を喧ましく、揃つて泣きやがるんだい、おれらは明日の仕事もあるんだから、静かにして寝ろよ。
飼主は、かう言つてどなりました。
牛達はそこで、自分達は、何か夜が明けると、悲しい出来事が、身に降りかかつて来るやうな気がして、ならないから泣くのです。と飼主に訴へますと、飼主も急に悲しさうな顔になつて
――お前達は、可哀さうだが、夜があけると屠殺場《とさつば》におくつてしまふのだ。
と言ひました。そして特別に柔らかい草を、どつさり抱へてきて、夫婦牛《めをとうし》にやりましたが、牛はさつぱり嬉しくはありませんでした。
――御主人さま、屠殺場といふのはなにをする処でございませう。
――そこは、お前達を、殺《や》つつけてしまふ場所だよ。
――殺《や》つつけるといふことは、どんなことでございませう。
――殺《や》つつけるといふのは、お前達を殺《ころ》してしまふことだよ。
――殺すといふことは、どんなことでございませう。
――さうだな殺すといふことは、死んでしまふことだな。
――死ぬといふことは、どうなることでございませう。
――どうもわからないな、実はな、わしもよく、その死ぬといふことがわからないが、まだいつぺんも死んで見た事がないんでな。
飼主も、かう言つて、小舎の横木に頬杖をして思案をしました。
――まあ、たとへばお前達を、その屠殺場といふ、街端《まちはづ》れの黒い建物の中にひつぱり込んで、額を金槌でぽかりと殴りつけるのだ、すると額からは、血といふ赤いものが流れだして。
すると爺さん牛は、横合から頓狂な声をだして、
――旦那さま。すると旦那さまが、毎朝わし達を牧場に追ひだすときのやうに、鞭で尻つぺたを、殴りつける時のやうにして、
――あんな、生ぬるいもんぢやないよ、力まかせに、精一杯にな、殴りつけるんだ、お前たちが、大きな地響して、ひつくり返つてしまふほどに殴るのさ。
――あ、わかつた、死ぬといふのは、そのひつくり返る事だな。
――ああ、違ひない、そのひつくり返ることだよ。
飼主は、かう言つて逃げるやうにしてどんどん行つてしまひました。
――爺さん、わしは妙に、そのひつくり返ることが嫌になつた、どんな具合に、ひつくり返るんだらう。
――婆さん、わからんな、これまでにも、わしは石につまづいて、なんべんも転んだことがあるんだが。
――こんどのは、あんなもんぢやないんだよきつと、すばらしく大きな音がするんだよ。
爺さんと婆さんは、そこで牛小舎に、大きな音をたてて、かはるがはる、ひつくり返つて見ましたが、死ぬといふことが、わからないうちに、だんだん東の方が白《しら》んでまゐりました。
*
翌朝、早くから二頭の夫婦牛は、小舎から引き出されて、飼主に曳いてゆかれました。
――旦那さま、わし達は、その死ぬといふことが、嫌になりました。
夫婦牛は、足をふんばつて、屠殺場へ行く途中、さんざん駄々をこねて、飼主をたいへん困らせましたが、飼主はいつもより、太い鞭を、ちやんと用意して来てゐて、ぴしぴし続けさまに、尻を打ちましたので、牛は泣く泣く屠殺場へ行かなければなりませんでした。
――かーん。と大きな響がして、その響が秋の空いつぱいに、拡がつたと思ふと、額を金槌で殴られた婆さん牛は、お日様の光をまぶしさうに、二三度頭を左右に振つたと思ふと、大きな地響をして、地面に倒れました。
倒れた婆さん牛は、太い繩のついた、滑り車で吊りあげられましたが、
――やあ婆さん、綺麗な衣装を着たなあ。
と遠くに見てゐた、爺さん牛が、思はず感嘆をしたほどに、婆さん牛の姿は変つてゐました。それは美しい真赤な着物を着てゐました。
その赤い衣装は、ぽたぽたと音して、地面にしたたり、地面に吸はれました。
屠殺場の男が、白い刃物を光らして、婆さん牛の、その赤い衣装をはぎだしましたが、ちやうど官女の十二|単衣《ひとえ》のやうに、何枚も何枚も、赤い着物を重ねてゐました。
――婆さんは、いつの間に、赤い下着をあんなに多くさん着こんでゐたんだらう。
爺さん牛は、これを見て急にお可笑くなつたので、腹を抱へて笑ひだしました。
*
次は爺さん牛の、ひつくり返る番がまゐりましたが、爺さん牛は、なにか知ら体中が急に寒気がしてきて、ひつくり返ることがたいへん嫌なことに思ひましたから、どんどんと逃げだしました。
――やあ、牛が逃げだした。
飼主が、大変驚ろいて、叫びながら後を追ひかけてきましたが、爺さん牛は腹をたてて
――お前さんは、わしの婆さん牛の手足を、材木を片づけるやうにして、何処へ隠してしまつたかい。
と爺さん牛は、飼主の背中を、ひとつ蹴飛しました、すると飼主は、『ぎやあ』と蛙の鳴くやうな声をだして、其の場にひつくり返つてしまひました。飼主は何時《いつ》までたつても、起きあがらうとせず、ぴくりとも身動きをしないので、爺さん牛は、これを見て、急にお可笑くなつたので、腹を抱へて笑ひ出しました。
*
――なあ、婆さんや、お前はわしの右足の不自由なことを、百も承知のくせに、わしの身のまはりの世話もしてくれずに、どこを飛び廻つてゐたのかい、この浮気婆奴が。
――なあ、何処《どこ》まで、お前は出掛けたのさ、赤い綺麗な上着も、どこかに忘れてきて
――お前は、急に小さくなつたなあ、こんな吹きざらしの河原で、ひとり何を考へてゐたのさ。なあ婆さんや。
爺さん牛は、かういひながら、くり返しくり返し、河原の石ころの上に、頭ばかりとなつて捨てられてあつた、婆さん牛にむかつて色々のことを質問をしましたが、婆さん牛は、だまりきつてゐて返事をしませんので、爺さん牛は、さびしく思ひました。
爺さん牛は、お婆さん牛が、よほど遠方に旅行してきて、言葉も忘れてしまひ、手足もすりへつて、無くなつてしまつた程に、歩るき廻つてきたのだと思ひました。
そして、その婆さんの、白い一塊《ひとかたまり》の石のやうになつた頭を、蹴つて見ますと
――カアーン。カアーン。
とそれは澄みきつた音が、秋の空にひびきましたので、二三度続けさまに蹴つて見ますと、今度は急に吃驚《びつくり》する程、醜い不快な音をたてて、婆さん牛の頭は、粉々に砕けてしまひましたので、爺さん牛はお可笑くなつて笑ひだしました。
遠くから、たくさんの人々が口々に、
――人殺し牛を発見《みつけ》た。捕まへろ。
と叫んで爺さん牛の方に、走つてきました、中には鉄砲をもつた人も居りました。
牛はさんざん暴れ廻つて、逃げようとしましたが、とうとう捕まつて、この爺さん牛も、婆さん牛と同じやうに、黒い屠殺場の建物の中で、額を力まかせに金槌で殴りつけられて、ひつくり返されてしまひました。
*
――婆さんや、おや、婆さんや、お前はこんな処に居たのかい、わしはどれ程お前を、うらんでゐたかしれないよ。
――まあ、まあ、爺さん、わしもどれほど逢ひたかつたかしれないよ。
爺さん牛と、婆さん牛は、思ひがけない、めぐりあひに、抱き合つて嬉しなきに泣きました。
――どどん、どん。
――どどんが、どんどん。
赤いお祭り提灯が、ぶらぶら風にゆれ、紅白のだんだら幕の張り廻された杉の森の中では、いま村祭の賑はひの最中でした。
爺さん牛、婆さん牛は、その祭の社殿に、それは大きな大きな太鼓となつて、張られてゐたのです。
村の若衆が、いりかはり、たちかはりこの太鼓を、それは上手に敲きました。
――婆さん、わし達はこんな幸福に逢つたことはないなあ。
――わしは、あの丸い棒がからだに触れると急に陽気になつて、歌ひだしたくなる。
――お前とは、いつもかうして離れることがないし。
――あたりは賑やかだしなあ。わし達の若い時代が、いつぺんに戻つて来たやうだ。さあ婆さん、いつしよに歌つた、歌つた。
――どどん、どん。
――どどんが、どんどん。
夫婦牛の太鼓は、七日の村祭に、それは幸福に鳴りつづきました。
お祭りの最後の七日目の事でした。
ひと雨降つて晴れたと思ふまに、凄まじい大きな、ちやうど獣の咆えるやうな、風鳴りがしました。
すると森の木の葉がいつぺんに散つてしまつたのです。
――やあ、風船玉があがる。
――やあ、大風だ、大風だ。
子供達が手をうつて空を仰ぎました。
風船屋が、慌てて風船を捕まへようとしましたが、糸の切れた赤い数十のゴム風船は、ぐんぐんぐん空高く舞ひ上りました。
陽気に鳴り響いてゐた、夫婦牛の太鼓が急に、大きな音をたてて、破れてしまひました。
――爺さん。わしは急に声が出なくなつた。
――うむ、わしも呼吸《いき》が苦しくなつてきた、ものも言へなくなつてきたよ。
――爺さん、またわし達の、ひつくり返るときが、きつとやつて来たのだよ。
――ああ、さうにちがひない、体が寒むくなつてきたな、婆さん。
――では、またわし達は、別れなければならないのかい。
――さうだよ、ひつくり返るのだよ、婆さんまた何処かで、逢へるだらうから、さうめそめそ泣きだすもんぢやないよ。
一陣の寒い、冷たい風が、太鼓の破れを吹きすぎました。(昭2・3愛国婦人)
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トロちやんと爪切鋏
トロちやんは、可愛らしい嬢ちやんでした。でも、夜眠る前に、トロちやんのお家では、大きな盥《たらひ》を、お台所に持ち出して、子供達は手足をきれいに洗ふことになつて居りましたのに、トロちやんだけは、嫌やだ、嫌やだと言つて、どうしても手足を洗はせません。
これだけは、トロちやんは、悪い子でした。
そこで仕方なく、お母さんは、汚れたトロちやんの手足を、濡らした手拭で拭つてやりました。
トロちやんは、或る日、お兄さん、お姉さんと一緒に、お母さんに連れられて、近くのお地蔵さまの縁日にでかけました。
ずらりと列んだ夜店は、たいへん賑やかでした。
トロちやんは、赤いゴム風船を、買つて貰ひましたが、あまり人混みでありましたので、人に押しつぶされて、パチンと破れてしまひました。
『お母さん、絹の靴下を、買つて頂戴よう。』
トロちやんは、ベソを掻きながら、母さんの袖にぶらさがりました。
『トロちやんは、夜おねんねの時に、お手々を洗ひたがらないし、汚ない足で、絹の靴下など履いたつて駄目ですから。』
かう言つて、お母さんは買つてくれませんでした。お母さんは、金槌やらお鍋やら、帽子掛けやら、たくさんの金物類をならべた、夜店の前に立ち止まりました。そして
『トロちやんには、これを買つてあげませう。』
といつて、赤く塗つた、小さな爪切鋏を手にとりあげました。
『いやだあ、そんなもの、嫌よう。』
トロちやんは頭をふりました。
金物店の主人は、
『お嬢さん、さあさあ、これをお持ちなさい、その鋏はよく切れますよ、子供が爪を長くのばしてをくのは、よくありませんよ。』
と言ひました。お母さんも、
『そうでせう、この子は爪を切りたがりませんから。』
すると、夜店の金物屋さんは、眼を真丸《まんまる》くして、
『それは大変だ、悪魔は爪から出入りするもんですよ。』
と言ひました。トロちやんは、これを聞いて吃驚《びつくり》しました。今まで爪から悪魔が出入りするなどゝは考へなかつたからです。
そこでトロちやんは、その爪切鋏をお母さんに買つていたゞきました。
夜店を歩るき廻つて、みんなはお家《うち》に帰りました。顔や手足は埃だらけになつてゐましたので、何時《いつ》ものやうにお母さんは台所に大きな盥を持ち出して、子供達の手足を洗つてくださいました。
トロちやんは、何時もの通り、いやだ、いやだ、をしました。
ふと、トロちやんは、夜店の金物屋さんが
『悪魔は爪から出入りをしますよ。』
といつたことを思ひ出したのでさつそく、お母さんに爪切鋏できれいに、手足の長く伸びた爪を切つていただき、そして顔や手足を洗つて寝床に入りました。
お母さんは喜んで
『トロちやんは、なかなかお姉さんになりましたね、御褒美に明日は、トロちやんと、ミケとに赤いお座布団をこしらへてあげませう。』
と言ひました。ミケといふのは、トロちやんの大好きで仲善しの飼猫です。
そこでその御褒美を楽しみに、眠りました。
真夜中頃、トロちやんの枕元で、ごそごそと、誰やら歩るき廻るやうでした。ふと眼をさましました。見ると背が三寸位の小さな人間が、行列をつくつて、トロちやんの枕元を、わい/\騒ぎ廻つてゐました。
尖つた帽子をかぶり、痩せた顔で、みなりつぱな長い八字髯を生やしてゐました。
小人《こども》達は、トロちやんの指のあたりを走りながら
『親指にも扉《と》がしまつてる。』
『人さし指にも扉がしまつてる。』
『中指にも扉がしまつてる。』
『くすり指にも扉がしまつてる。』
と歌つてゐました。トロちやんは、さては爪から出入りする悪魔達だな、と思ひました。
『しめたッ、小指の扉が開いてた。』
突然、悪魔の一人が叫びました。悪魔たちは、わつと叫んで、先を争つてトロちやんの手にかけのぼり、いちばん肥つちよの悪魔が、まつ先に、トロちやんの小指の爪に頭を突込みましたが、体が肥えてゐるので、思ふやうに入りません。
トロちやんは、たいへん驚きました。
お母さんがきつと小指の爪を切つて下さるのを忘れたのに違ひない。
かう思ひましたので、ぱつと寝床からとび起きて、絵本の上にのせておいた爪切鋏を、枕元からとつて、あわてゝ小指の爪をチョキンと切りました。
肥つちよの悪魔は、爪を切られて、転げ落ちました。
『さあ、みな扉がしまつた、逃げろ、逃げろ。』
『爪切鋏は怖ろしいぞ。』
悪魔はかう口々に云つて、散々ばらばらに、逃げました。
その逃げる格好は、それは滑稽で、机の足に頭を打ちつけたり、壁に衝突したり、電燈の笠にかけあがつて、辷り落ちたり、それは、それはお可笑なあわてやうでありましたので、トロちやんはお腹を抱へて大笑ひをいたしました。
夜が明けました、トロちやんは、お母さんに、その朝、昨夜《ゆうべ》の悪魔が、爪から入らうとして、トロちやんにチョキンと爪を切られて、逃げだした話をいひました。
お母さんや、お兄さんや、お姉さんは、トロちやんの大まじめの顔での、お話をきいてみな大笑ひをして、トロちやんの勇気をほめてくれました。
『お母さんは、トロちやんの小指の爪を切るのを、忘れたかしら』
かうお母さんが言つて調べてくれました。小指の爪だけ忘れてありました。
お母さんは、そこで爪切鋏で切つてくださいました。そして前日の約束通り夜遅くまでかかり、ちやんと仕立ててあつたトロちやんと、小猫のミケの小さな花模様美しいお座布団を、御褒美にくれました。
トロちやんと、ミケとはそれにならんで座りました。ミケも嬉しさうに、座布団の上に、立ちあがつて、両手両足をながながと伸ばし、トロちやんの顔を見ながら、背伸びをいたしました。
トロちやんは、これを見て驚ろいて、
『ミケ爪を出したら悪魔が入るのよ。』
と叱りつけました。
ミケも驚ろいて、ニャーンと鳴いてくるりと小さく座つて、爪をみんな隠してしまひましたとさ。(昭3・11愛国婦人)
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豚と青大将
田舎で豚飼をしてゐた男が、その豚飼に失敗して、何か仕事を見つけようと、都会にやつて参りました。
この男は正直者でした。ただお酒を飲むとおしやべりになるといふ癖がありました。
ところがお酒を飲まない平素《ふだん》は、たいへん話下手で、それに吃りました。
お酒は、この男にとつて、油のきれた歯車に、油をそゝいだやうなものでした。
都会にやつてきても、この男はお酒をたくさんにのみました。
上機嫌になつて、酒場《バー》の中で、おしやべりを始めだしますと、同じ酒場《バー》のお客さんたちは、
『そろそろ、吃りの男に、油が乗つてきたぞ。』
と、ぽつぽつと、一人去り、二人去つて、しまひには、お客は、豚飼の男たつた一人になつてしまふのでした。
まつたく、その男の話といふのは、馬鹿々々しい、それは、それは退屈な話でありました。
お客さんたちが、腹をたてるのも、無理がありません。或る日もこの男は自分が豚を飼つて失敗をした話を始めました。
最初の間は、お客さんも、親切に、そして熱心に、この男のくどくどと長つたらしい、話をきいてくれました。しまひには、腹を立てました。酒場《バー》の亭主や、酒場《バー》の娘さんは、不機嫌な顔をいたしました。そして
『お酒をやめなければ、あなたは偉い人間にはなれませんよ。』
といふのでした。
さてその男の、馬鹿げた話といふのは、かうなのです。
*
男は、北海道の、それはそれは広い、草ばつかりの丘の上で豚飼をはじめたのでした。
まず最初、三頭のりつぱな種豚《たねぶた》を買ひこみました。この三頭の親豚を資本《もとで》にして、四五年のうちに、五六十頭も子豚を、殖やさうといふのでした。
豚は、玩具《おもちや》のやうな小さな貨物列車にのつて、やつてきました。男はその三頭の種豚を、駅まで出迎へにまゐりました。
豚たちは、いづれも元気でした。長い旅行をしてきたのに、脚一本傷ついてゐなかつたのです。豚はぴんぴん跳ね、そのあたりの草原をころげまはりました。
男もうれしくなつて、道の傍から、一本の棒切れを拾ひ、それで上手に、三頭の豚のお尻をかはるがはる殴りました。そして豚小屋の方に連れてゆきました。
ところが、男は道をまちがへて、とんでもない、河のあるところへ出てしまつたのです。
そこで男は、河の面《おもて》をながめながら、ちよいと小首をかたむけて、思案をしました。
『ちよいと、豚さん冷めたいよ』
かういつて、豚飼の男は、三頭の豚のうちで、いちばん肉づきのよい、重い豚の首筋を押へつけて、河の中にいれました。
その河へ押入れられた豚は
『いやだ、いやだ。』
としきりに首を振りました、男は
『やつこらさ。』
とその豚を手早くひつくり返してしまひました。そしてその豚をお舟にして、一頭を小脇に抱へ、一頭を背負ひ、男は豚のお舟にのりました。そして無事に、男と二頭の豚とは、向うの河岸《かし》に着くことができましたが、可哀さうに、お舟になつた豚は、たらふく水を飲んだので、岸につくといつしよに、ぶくぶく沈んでゆきました。
『これは大変なことが出来たぞ、これを死なしては大損だ。』
男はうろたへて、その豚のお腹を、力まかせに、殴つてみたり、さすつて見たりいたしましたが、とうとう生き返りませんでした。
そこで仕方なく、その死んだ豚は、通りかかつた農夫にやつてしまひ、生き残つた二頭の豚を追ひながら、夕方ちかくになつて、新らしく建てられてゐる豚小屋に着きました。
翌日のことです。
一頭の豚は、男が親切に、とり替へてやつた[#底本の「。」を削除]寝藁《ねわら》を蹴飛ばし、水桶をひつくり返して、小屋中水だらけにして広い除虫菊畑にとびだしました。
その日は、お天気がよかつたので、豚は小屋の中に、居るのが嫌だつたのでせう。
豚は男の大事に手入れをしてゐた、除虫菊畑を歩るきまはつて、花をすつかり踏みにじつたので、男は腹をたてました。
『なんといふ不心得者だらう、勘弁はならない。支那人の料理人《コック》の言つたやうにして、懲《こ》らしてやらなければ。』
豚飼の男のお友達に、支那人の料理人《コック》がをりました。そしてこの料理人《コック》の話では、豚のお尻の肉を、庖丁で削りとつて、その切りとつた痕に、土を塗つてをけば、翌日ちやんと、もとどほり肉があがつてゐるといふことでした。
そこで男は、豚を木柵《もくさく》にしつかりとしばりつけてをいて、肉切庖丁を、一生懸命に磨ぎ始めました。
あまり腹を立てたので、手元がふるへて、庖丁を磨いでゐる最中、小指をちよつとばかり切りました。
『豚奴が、刃物とまで共謀《ぐる》になつて、わしを苦しめようとしてゐるのだらう』
と、そこでますます腹をたてました。
やがて庖丁がギラ/\と研ぎ上ると、種豚を押へつけ、お尻の肥えたところを、掌《てのひら》ほどの大きさだけ、庖丁できりとつて、そのあとに土を塗つてをきました。
その夜は、豚のお尻から削りとつた肉を、鍋で煮て、お酒をのんで、おいしい、おいしいといつて男は眠りました。
翌る日のことです。豚のお尻の創《きず》あとは、ちやんと治つてをりました、以前にもまして脂肪《あぶら》がキラキラと光つてをりました。
『ほう、これは不思議、なかなか便利ぢやわい。』
男は喜んでその日は、前日左の尻の肉を切りとつたので、こんどは右の尻を掌ほどの肉を切りとりました。
その翌日、大変な事が起りました。
何時ものやうに、種豚のお尻の肉を削りとらうとして、尻に庖丁を切りつけました。そのとき、何処からともなく、物の焦《こ》げつく匂ひがしてまゐりました。
つづいて、パチンパチン、と何やら金物の割れる音がしました。
男は鼻を、ピク、ピク、させました。
『これは失敗《しまつ》た、フライパンを、火にかけたまま来てしまつたぞ。』
お台所に、駈けつけてみると果たして肉鍋は、火の上で割れてゐました。今度は豚小屋に引返してみると、豚はお尻に庖丁をさしたまま、高い石垣から転げ落ちたので、胴体が、すぽりと、二つに切れて死んでゐました。
二頭の豚をなくした男は、生き残つたたつた一頭の種豚を大切にいたしました。
『豚小屋を、きれいにするのはお可笑《かし》い。豚小屋は昔から、汚ないところときまつてゐるのに。』
と近所に住むお婆さんに笑はれたほどに、敷藁の取り替《かへ》や、床板のお掃除に、一生懸命になりました。
ところが豚のお腹が、だんだんと、太鼓のやうにふくれてきました。男は豚の赤ちやんの産れる日を、首を長くして待ちました。
男が畑で作物の手入れをしてゐた或る日、急に豚小屋の方が騒がしくなつて、元気のよい、
『一匹産れたピー』
といふ豚の子の口笛がするのを聞きつけました。つづいて
『二匹産れたピー』
といふ、空にもひびくやうな朗らかな声がきこえました。男は『それ豚の子が産れた。』と飛びあがつて喜び、手にもつてゐた鍬《くは》を投りなげてかけつけました。
二匹の可愛らしい子豚は、口を尖らし、口笛をふき、手足をのばしたり、跳ねてみたりして、母豚《おやぶた》の体のまはりを走つてゐました。
ところが、男がよくよく親豚を見ると、親豚は、なにやら青い長いものをのんきさうに、ぴちや、ぴちや、といやしく舌なめずりをしながら、水でもなめるやうな口をして喰べてゐるのでした。それは一匹の青大将でした。その喰べる容子は、たいへん熱心でした。親豚は、これを喰べてしまふまでは、赤ちやんの方は、おかまひなしといつた顔付きをして、叮嚀に噛んでゐるのです。子豚もまた母豚《おやぶた》にはおかまひなしに、
『三匹産れたピー』
『四匹産れたピー』
『五匹産れたピー』
『六匹産れたピー』
と、口笛をふいて、お母さん豚のお腹から、ぴよこ、ぴよこ飛び出し、四方八方へ駈けだしました。母豚が青大将を、尻尾まで、喰べてしまふまでには、子豚が、ピー、ピー、何匹産れたか、この豚飼の男には、おぼえがない程、たくさんに産れました。(昭4・5愛国婦人)
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白い鰈の話
しつきりなしに海底に地震のある国がありました、そのために海はいつも濁つてゐて底もみえず、漁師達はただ釣針を投げこんで手応へのあるとき糸を引きあげて釣つてゐる有様でした。村に一人の利巧ぶつた漁師が住んでゐて、彼は漁から帰つてきてこんなことを話しました。
『近頃、わしの釣る鰈《かれひ》は全部真白だよ、この頃の海の水は非常にきれいになつた、それで鰈の奴も白くなつたのだらう――』と言ふのでした、仲間の漁師は考へた。自分達が漁に出ても、海の水は相変らず濁つてゐるし、だいいち真白になつた鰈などは、釣れたためしがないので、その言葉を怪しみました。
『そんな筈がない、ひとつその君の白い鰈といふのを拝見させて貰はうぢやないか――』
漁師達は打ち揃つて男の家へ行つてみました、男の家の土間には、なるほど真白い鰈が列べられてゐましたが、よく見ると鰈の腹側の白いところを、みんな上向にして列べてあることがわかりました、漁師達は、それをひつくり返して、表の黒いところを出して指さしながらいひました。
『君は妙な男だよ、こないだから大分、暴風波がつづいてゐたが、このたつた二三日、凪があつただけで、すぐ気の変つたことを言ふのは困りものだね、鰈の裏表もわからずに、よくもこれまで漁師をやつて来られたもんだ、大体君といふ男は物の裏表がわからんばかりぢやない、前に言つたことを、手の裏を返すやうに、平気で変へてしまふ、信用のできない、ズルイ男だよ――』
かういつて笑ひながら一同は帰つてゆきました。(昭13・6三十四)
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緋牡丹《ひぼたん》姫
一
唖娘はたつた一人で野原にやつてまゐりました。
そして柔らかい草の上に坐つて、花を摘んであそんでゐました。
さま/゛\の、青や赤の草花の花弁《はなびら》をいちまいいちまい、針で通してつなぎました。この花弁で首輪を作つたり腕輪をつくつたりしてあそびました。
唖娘は花をつみながら、どんなにお友達のないことを悲しんだでせう、唖娘はどんなに泣いたことでせう。唖娘はたいへんほかの娘《こ》よりも、たくさん涙をもつてゐました、そしてほかの娘よりもたくさん泣いたのでした。
しかし唖娘はけつしてお友達の前で泣いたことがありませんでした。
『まあ、ほんとにお可笑《かし》いわね、蛙のやうよ』
お友達は、唖娘の声をたてて、泣くのをかう言つて笑ひました。唖娘は、泣くことがほんとに下手でした、そして声を立てて泣いても、お友達の言ふやうに、ほんとうに蛙のやうに、いやらしい声をたてて泣くのです。
お友達よりも、たくさんの涙をもつてゐましたので、その涙は眼にあふれさうです、しかし皆《みんな》の前で、泣いてはみなに笑はれますので、どんなに悲しい出来事があつても、じつと堪《こら》へてをりました。そして野原の誰もゐない、静かな草の上にきて、せいいつぱい、蛙のやうな、醜い声を張りあげて泣くのでした。
唖娘は、草花の花弁を糸につなぎながら、とき/゛\胸に手ををいて、五日も十日も一月も、二月も、それよりももっと/\以前の悲しい出来事までも思ひだしてはたつた一人で泣きました。しかし悲しい事がまいにち沢山つづきましたので、お友達の誰よりもあふれるやうにもつてゐた唖娘の涙もかれてしまひました。そして、蛙よりもつと醜い、『ひいひい』と馬のやうな声をだして泣くやうになりました。
それに唖娘の涙は、もう頬に流れることがなくなつて、瞼の内側に火のやうに熱くたまつた僅かばかりの涙が顔の中にながれました。
そのとき、はじめて唖娘は涙は海の水のやうに塩からいものだといふことがわかりました。
二
しかしやがて馬のやうに泣くことも、唖娘にはできなくなつてしまひました。
いつも唖娘の泣く声の面白さに、さま/゛\なことを言つて、唖娘を泣かした意地の悪いお友達も、唖娘が泣かなくなつてから、誰も対手《あひて》にしなくなりました。
唖娘には、お父さんもお母さんもありませんでした。
そしてこの憐れな孤児の唖娘は、見も知らぬ不思議な小母さんに養はれてゐました。
それが何時《いつ》の頃から、小母さんの処に来てゐるのか、自分でも知つてゐないほど、小さな時のことでした。
小母さんは、それは/\広々とした花園《くわゑん》を持つてゐて、そこには薔薇の花をたくさん植ゑてゐました。
唖娘はまい朝早く起きて、この花園の土に素足になつて、手には重たい如露《ぢよろ》をさげて、薔薇の間を縫ひながら、花に水をやるのが仕事でした。
その仕事は、けつして辛い仕事だとは思ひませんでしたが、小母さんは、たいへん邪険な人でしたから、唖娘がささいなあやまちをしても、薔薇の棘のある細い鞭を、ぴゆう/\と風のやうに鳴らして、肩のあたりを激しく打ちました。
唖娘は、これをたいへん悲しく思ひました。小母さんは、黄色い長い上着をぞろ/\と、地面にひきずりながら恐ろしいとがつた眼をして、唖娘の後に尾《つ》ついてきながら、それはやかましく指図をしたり、小言をいつたり、いたしました。
小母さんのいちばん機嫌のよいのは薔薇の花に、しつとりと朝露の含んだ頃です、その時だけは、小母さんは晴ればれとした顔をして、花園の中を歩るき廻ります。
『わたしの皮膚の匂ひを、かいでごらんよ、唖娘、なんといゝ匂ひだらうね。なんの花の匂ひをするか言つてごらんよ。』かう言つて小母さんは、唖娘の鼻さきに、自分の痩せた顔をつきだしました。
こんなときには、おばさんの一日のうちで、いちばん機嫌のよいときですから唖娘は、小母さんの機嫌に逆はぬやうに、だまつて薔薇の花を指さします。小母さんは、さも満足のやうに、にこにこいたします、しかし、ほんとうは小母さんの顔はまつくろで、ざらざらと小さな棘の生えてゐるやうに、皮膚が醜く荒れてをりましたし、それに念入りに、こて/\と薔薇の花粉《はなこ》で拵らへた白粉を、まだらに塗つてをりました。
小母さんは、この花粉の白粉で、額の溝のやうに深い、たくさんの皺をかくしてをりましたので、ほんとうの小母さんのとしが何歳《いくつ》であるか、唖娘は知りませんでした。
三
しかし小母さんの機嫌のよいのも、ほんのちよいとの間でした。午後になつて、薔薇の花の露もとけてしまひ、お日さまがぎら/\と照る頃になると、だん/\と小母さんの気があらくなつてまゐります。
そしてはげしく薔薇の鞭をならしました。
唖娘はいち/\、ひとつ残らず薔薇の花に、接吻をして廻らなければなりませんでした、すると不思議なことには、蕾はぱつと開き、元気なくしをれていた花は、いき/\と頭をもたげました。
唖娘は午後から、かうして幾千といふ数かぎりない花園の薔薇に、接吻をさせられましたが、しまひには唖娘の可愛らしい唇は、あれきつてザクロのやうになつてしまひました、そしてふつくらと、ふくらんでゐた頬も棘に引掻れて、憐れに傷ついて、治るひまもないほどでありました。
夜になると、唖娘はまた小さなカンテラをともして、花園にゆかなければなりませんでした、そしてそのカンテラの灯でてらしながら、薔薇のひとつひとつの棘をていねいに磨かなければなりませんでした。
唖娘が、蛙のやうにも、ひい/\と馬のやうにも泣くことができなくなりますと
『この娘は、なんといふちかごろ強情になつたのだらう、少し位打つても泣かない。』
かう小母さんは言ひながら、以前にも増してはげしく鞭を振りました。
唖娘はやがて、まつたく泣くことも笑ふことも忘れてしまつて、石のやうな顔となつてしまひました。
或る日、唖娘がよねんなく、野原で花びらをつないでをりましたところがいつの間にか自分の傍《そば》に、緋の衣装《ころも》をきた少女が坐つてゐて、をなじやうに花びらをつなぎ始め、をりをりにつこりと、優しく唖娘に笑顔をむけましたが、とう/\いつの間にか二人は仲善しになつてしまひました。
しかし唖娘は物を言ふことができなかつたので、どんなに悲しかつたでせう。
四
唖娘が、ある晴れた日、いつものやうに草原に坐つて花をつんでをりました。
すると、どこからともなく、美しい一人の男の子がやつてきました、そしてふところから、それは/\美味しさうに熟した、唖娘には、かつて見たこともないやうな果物をひとつだして、くれました。
しかし唖娘は、頭をふつて、けつしてたべようとはいたしませんでした。
それは、小母さんが、唖娘に毎日の食物として牛乳より他にくれませんでしたし、そのほかのものをけつして食べてはいけないと、かたく禁じられてゐたからです。
すると男の子は
『笑ふことも、泣くことも忘れてしまつたお嬢さま、その実を喰べると声がでる。』
かう言つて、果物を置いたままに行つてしまひました。
唖娘は、小母さんの言つたことも忘れてしまつて、他のお友達のやうに、声をだして笑つたり泣いたりしたいばつかりに、その果物を喰べました。
すると遠くの男の子は、急に大きな鳥になつて、さん/゛\唖娘を、あざ笑つて飛んでしまひました。
意地の悪い鳥に、欺されて唖娘は、果物をたべたので、声がでるどころかいままでしぼみかけた薔薇の花でも、唖娘が接吻をすると、ぱつと元気よくひらいたのが、それもできなくなつたのです。
『唖娘、お前は、けふ野原でけがれた果物を喰べたにちがひないよ、あんなに清い唇が、汚《けが》れてしまつてゐる。』
かう言つて小母さんは、さん/゛\唖娘を鞭で打つたうへ、薔薇の花園を追ひ出してしまつたのです。
唖娘はしかたなく、野と云はず山と云はずどこと言ふあてもなく歩るき廻りました。
するとある日の夕方、大きな白い牡丹の花が、みわたす限り海のやうに咲いてゐる広い花園に着きました。
唖娘はもう悲しくなつて、この牡丹の花のなかにじつと立つて、途方にくれてゐるとそのとき唖娘の傍《そば》に咲いてゐた一本の大きな牡丹の花が
『かあいさうなお嬢さん、土の中に両足を埋めてごらん、きれいな牡丹の花となる。』
とかう言ひました。
唖娘はたいへん喜んで、花園の土の中に両足を埋めてみると翌朝唖娘は、それは美しい緋色の牡丹となつてゐたのです。
五
牡丹の花園の、まつしろな花の中にたつた一本咲いてゐる、唖娘の緋牡丹は、仲間の牡丹達に、それは/\女王さまのやうに、もてはやされました。
その上に、唖娘が野原でお友達になつた緋の衣装《ころも》をきた少女が、この牡丹園の主であつたのです。
牡丹園の少女は、それは優しい心の持主で唖娘の牡丹を『緋牡丹姫《ひぼたんひめ》』と呼んでくれました。緋牡丹姫のいちばん嬉しかつたのは、おたがひ牡丹同志では、自由自在に話をすることができることでした。
緋牡丹姫は、お友達の白い牡丹に、これまでの悲しかつた身の上を物語りますと、みなはたいへん同情をしてくれました。
『わたしは、精いつぱい大きな声で笑つてみたいの……わたしは笑ふことも泣く事も忘れてしまつたのですもの。』
と言ひますと、白い牡丹の花は、眼をまんまるくして
『そんな幸福なことがあるでせうか、私達の花の世界では、笑ふことをかたく禁じられてゐるのです、もしも笑ふことがあれば、その時がいちばん不幸なときとされてゐるのです。』
と言ひました。
『でもわたしは、笑つてみたいんですもの、思ひきつて大きな声でね、どんな恐ろしい不幸がやつてきても』
緋牡丹姫の唖娘はかうしみ/゛\と言ひました。
白い牡丹の花はたいへん緋牡丹姫に同情いたしました。そしてそのうちの頭《かしら》だつた牡丹がみなの牡丹に相談をしてみました。
『哀れな、笑つた事のない緋牡丹姫の為に、私もいつしよに笑ひませう。』
かう言つて、親切な白い花達は、緋牡丹姫のために、恐ろしい不幸がやつてくることを、知りながらも、賛成をしてくれたのでした。
緋牡丹姫は、ほんとうにこころから感謝いたしました。
そして緋牡丹姫は、こころから大きな声で笑ひました、そしてそれに続いて白いたくさんの牡丹達も、崩れるやうに声を合して哀れな緋牡丹姫のために笑つてくれました。
その翌朝、赤い衣装《ころも》を着た少女が悲しさうな顔をして花園に立ちました、そして一夜のうちに散つてしまつた花園の牡丹をながめながら
『こんなに散つてしまふほど、花達はきちがひのやうに笑つたのだろうか。』
と思ひました。(愛国婦人発行年月不明)
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狼と樫の木
村の中に一本の樫《かし》の木が生えてゐました。何時頃からか、この樫の木の根元の大きな洞穴のなかにずる/\べつたりと一匹の大工の狼が住むやうになりました。
樫の木は狼を抱へて風を防いでやり、狼もまた自分の毛の温《あたたか》みで樫の木を暖めてやるかたちになりましたので、狼と樫の木は結婚してしまひました。
この大工の狼は、鼻柱も強く、仕事も自慢でしたが、何分にも貧乏なので、仕事がなくて、自分の腕のよいところを見せる機会がありませんでした。
『なあ、わしの可愛いゝ樫の木や、いまにきつとわしの腕を認めて、王様がわしを雇いにやつてくるから、その間は苦労をしようね』
『ええ、貴方の出世のためなら、妾《わたし》はどんなになつてもいとひません――』と樫の木の妻君は涙を浮べました。
狼と樫の木はお互に暖め合つたり、なぐさめあつたりしてゐるので何の不満もないはずでしたが、近頃になつて、大工の狼の腕の良いことが何時の間にか王様の耳に入つたらしく、今にも大工狼を呼びに王様のお使ひがくるといふ噂が、どこからともなく狼の耳に入つてきました。
とうとう狼と樫の木とは相談の揚句、狼は樫の木を伐り倒して、腕をふるつて高い/\踏台をつくりました、それは大変高く、王様のやぐらの高さとも劣らぬほどの高さでした。
狼はこの高い踏台の上にあがつて、小手をかざして王城の方をみながら、王様からの迎へをいまか/\と待つてゐました。
すると狼は急に慾が出て来て、その附近の大きな桐の木に眼をつけ始めました、そして樫の木の踏台の妻君を捨てゝ桐の木と結婚してしまひました。
樫の木の踏台の妻君は、三日三晩泣きあかしました、そしてムラ/\と嫉妬の気持が起きて、いつかふくしゆうをしてやらうと考へました。
狼は新しい妻君の桐の木を伐り倒して、高いハシゴを作り、その上に昇つて、以前のやうに王様の迎へを今か/\と待つてゐました。するととうとう時が来ました。
王様は自ら馬車に乗つて、大工を迎へにやつて来ました。そして王様のお抱への大工に出世してしまひました。
しかし以前の妻君であつた樫の木が承知しません、また林の樫の木は、その樫の木のことを同情して
『何といふ薄情な狼だらう、住めるだけ樫の木の洞穴に住んでゐて、それから伐り倒して踏台にして、それを捨てゝ他の新しい桐の木と結婚するなんて』
と狼を憎む声がだん/\高くなつて来ました。
村の王様といふのは、珍らしいもの好きな性質がありましたから、憤慨してゐる樫の木がおかしくてなりません、そこで茶目気を出して、踏台をお城に雇ひ入れることにしました、踏台は王様に雇はれると急に大きな声で叫びだし
『悪い狼奴がどうして妾を欺《だ》まして、出世をしたか――』といふ長い文章を書いて王様に進呈しました。
王様はこれを城壁にはつて、村に住んでゐるものゝ意見をきゝましたが、誰一人として狼の味方をするものがありませんでした、みんな樫の木が可哀さうだといふのでした
狼はすつかりしよげてしまつて、長い耳を垂れて耳を塞いで
『世の狼共よ、かしの木と結婚するのは良いが、決して踏台にはするもんではないよ』
といひました。(小熊夫人書き写し)
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マナイタの化けた話
海の水平線に、小さな帆前船が現はれました。見ると船の上には、四五人の人が立つてゐて、手をふりあげて、岸にむかつて助けをもとめてゐました。
アイヌの村に、この奇怪な船があらはれると、アイヌ達は『それやつてきた――』と大騒ぎになります、アイヌ達は家の中に逃げ込んで、戸口をしつかりと押へつけ、そとから開かないやうにしました。
そして恐ろしさにぶる/\ふるへて居りました。アイヌ達の犬も、ふだんは猟に出て熊と格闘をするほど勇気がありましたが、この幽霊船が現はれると、尻尾をまいて、ちゞみあがつて、家の中に逃げ込んでしまふのでした。
沖に現はれた帆船の上からは、小舟がおろされ、見ると子供ではないかと思ふほどの小さな男が短かい手槍を抱へて、ひらりと小舟に飛びをりました、顔が朱のやうに赤い男でした。
小男はたつた一人で小舟にのつて、上手に漕ぎながら、岸にむかつてやつて来るのでした、船が岸に着くと、小男はその村の酋長の家の戸の前にたちました。それから戸を叩きながら『海へ行かう、海へ行かう、海は大変きれいだよ』といふのでした。
するとアイヌの酋長は悲しさうな顔をして戸口にあらはれました。そして酋長はこの不思議な小男に連れられて、沖の船に乗せられてしまひました、酋長はいつまでたつても村に帰つてきませんでした、もし酋長が、『私は海へ行くのは嫌です――』などと言へば、たちまち小男の手槍で突き殺されてしまふのです。アイヌの酋長のうちにも、武勇のすぐれた者もゐましたが、この小男の槍のつかひ方のうまいのにはかなひませんでした、船の上で助けをよんでゐるのは、かうして小男にむりやりに船にのせられた村の酋長たちであつたのです。
それでアイヌ達は村の沖合に、帆前船が現はれるのを大へん怖れてゐるのでした。一度アイヌの村にこの小男の船が現はれると、その村から足の早いアイヌが走り出して隣り村まで駈けてゆきます、村に入るとこのアイヌは村中にひびくやうな大きな声で『フホーイ、フホーイ』と叫ぶのです、これはアイヌ仲間で、何か大きな出来事が起きたときに呼ぶ叫び声でした、すると村中のアイヌが家からとび出して、この隣り村から走つて来た伝令のアイヌのまはりを取りかこむのでした。
『大変です、皆さん、私の村に赤い顔の小男の船がやつて来ました、あすの夕方にきつとあなた達の村にやつてくるでせう――』
かう報告して、そして伝令のアイヌは又自分の村へ走りながら帰つて行きます、すると教へられた村では、そこからもフホホーイの伝令が村から村へと飛びまはるのでした。
或る村に、年若い酋長夫婦が住んで居りました、アイヌ仲間にも大変徳望があつて、村人達は、この酋長を父のやうに崇めてをりました。それでもしも奇怪な小男が、自分達の村の酋長を海に連れて行つてしまふやうな、不幸なことになつては大変だと、村人達は心配しました。そこで夜の海岸にアイヌ達は焚火をして、白い御幣《ごへい》を砂の上にたて、そのまはりを取りまいて、アイヌの神様にむかつて『どうぞ私達の村の酋長を悪い小男が連れて行きませんやうに――』と熱心にお祈りをしました。しかしそれは無駄でした、あるときこの村の海の沖合にも、突然小男の帆前船が現はれたのでした。
酋長夫婦の驚きはもちろんのこと、村人達は悲しみました、酋長の妻はこの突然の出来事をどうして切り抜けて、夫を救はうかと小さな胸をいためました、それは神様にお祈りをして、助けてもらふよりしかたがないと考へましたので、夫のために一生懸命祈りつゞけましたが、その甲斐もなく、海岸にあらはれた小男の姿は、一直線に酋長の家にやつて来ました、そして例のやうに
『海に行かう、海に行かう、海は大変きれいだよ――』
と低い太い声で言ひました。
若い酋長は、小男の槍は神技《かみわざ》のやうに早いことを知つてゐたので、とうてい小男を倒すことは出来ないと、心にあきらめてしまひました。今は小男に連れてゆかれるより仕方があるまいと思ひなほして、そこで妻と別れの言葉をかはしました。
妻はふと思ひついたやうに、奥の部屋に入つて行き、自分の家の宝物にしてゐた立派な短剣を手にして出て来ました、夫にそれを手渡しながら『これは私の記念としておもちになつて下さい――』と言ひました。
そして妻の眼は『もしをりがあつたら、この短剣で、たゞ一突に小男を突殺して、帰つて来て下さい』と、言葉には出さず、心の中をかたる眼つきをしながら、妻は刀を夫に渡しました、酋長はうなづきながら、怪しい小男と連れだつて戸外に出ました。
どれほど相手が強くて悪魔のやうでも、永い間には油断といふものがあるから夫が小男を刺し殺して、無事な姿で村にかへつてくることが出来るかもしれない――と妻ははかない望みをいだきながら、夫の酋長を送り出しましたが、もし一生逢へなかつたら――と思ふと悲しみが一度にこみあげてきました。
それにしても、夫をうばひ取つて、肩をいからし、戸口を出て行くこの小男のなんといふ憎らしさだらう、その何物もをそれぬ大胆不敵の小男の後姿を見ると、たまらなく小男が憎らしくなつて、その場にわつと泣きくづれました。
それから涙にぬれた顔をあげ、夫の酋長を連れて行く小男の後姿にむかつて、べつと唾をはきかけ、それから口から出まかせに『腐れイタダニ奴――』とのゝしりました。
これはアイヌの仲間が相手を悪く云ふときに『腐れ――』と云ふのです、『尻の腐つた奴――』などと云ふのは、一番の悪口です、酋長の妻も小男があまり憎らしかつたので思はずかういひました。
するとどうしたことでせうか、小男は丁度電気にでもうたれたやうに、『あつ――』と小さな叫び声をあげて、もんどりうつてひつくり返りました、それからその場を転げまはつて苦しみはじめました。
あつけにとられてゐる酋長夫婦と村人達の前に、小男は死んでしまひました、そして不思議なことには、足の先からだん/\と氷があたゝめられたやうに、身体がとけ始めました。身体が全部とけてしまつて、地面の上に残つたものは『腐つたイタダニ』でした。イタダニといふのはアイヌ達がお台所で使ふマナイタのことです。
その夜、酋長は寝床に入る前に、神様にむかつて、この謎のやうな出来事のわけをきかせて下さい――とお祈りをしてから、眠りました。すると酋長の夢枕に、赤い着物をきた、『マナイタの神様』の姿があらはれました、そしてマナイタの神様は酋長にむかつて、語り出しました。
何百年も大昔のことでした、アイヌ達の先祖に大変に勇気のある神様がをりました。山から山へ、谷から谷に、たつた一人で分け入つて、熊や狼やさま/゛\の獣の猟をしてゐました、谷底に松の枝で狩小屋を作り、神様はそこで寝起きしました、その小屋を根城にして、朝早く外に出かけ、一日中山を走りまはつて、夕方には背負ひきれないほど獣をたくさん猟をして、山小屋へ帰つて来ました。
それから夕飯の仕度をするのです、魚の乾かしたのを、トン/\と叩いて柔らかにしたり、獣の肉を切つたりするのに、イタダニ(マナイタ)を使ひました、このマナイタはかんたんなもので、木を一尺程の長さに切つてそれをまたたてに割つたカマボコ型をしたマナイタでした。
やがて神様は、辺りの獣も狩りつくして少なくなつたので、山小屋をひきあげて、遠くの山奥に移り住むことになりました、そこでそのマナイタもいらなくなつたので、小屋の中に捨てたまゝ出発してしまひました。
小屋の中に残されたマナイタは、主人をうしなつて、さびしい悲しい思ひをしながら誰一人やつて来ない、谷間の小屋にとり残されて何十年となく暮らしてゐました。
マナイタは今にも神様がひよつこりと山小屋にかへつて来るやうに思はれてなりませんでした、毎日毎日主人のかへりを待ちこがれてゐました、しかし神様はこの捨てたマナイタのことなどは考へてはゐなかつたのです。
それからまた何十年と経ちました、ながい年月の雨と風に、小屋は傾き果て、そのうちに或る日大水が出て小屋は強い水の勢ひで谷川に押しながされてしまひました、マナイタも、ぽかんぽかんと谷川に流され、あちこちの岩にぶつかり、岸に打ち上げられ、また水にさらはれたり、何十年となく谷を下流にむかつて旅をつゞけなければなりませんでした、そしてやうやく海に出たのでした。
その海を流れるマナイタの生活も、それはそれは永い間で、何十年、何百年といふ年月をもう忘れてしまふほど、浮いたり、沈んだり、潮にもまれる、つらい/\生活をつゞけました。
昔は若者であつたマナイタも今はまつたく腐つてしまつて、見るかげもなく醜い老人となつてしまひました。
『にくらしいアイヌの神様、にくらしいアイヌ奴を呪ひ殺してやらう、海へ行かう、海へ行かう、海は美しいとアイヌ達を連れ出して、おれと同じやうな苦しい、さびしい思ひをさせてやらねば、気が済まない――』
腐つたマナイタは、そこで悪魔にかはりました、そのマナイタの精霊はアイヌを呪ふ心にもえて、人間の姿に化けたのでした。
あまりの憎らしさに酋長の妻が罵つた『腐れイタダニ奴――』といふ言葉に、マナイタの精は、その正体を見あらはされて、その神通力を失つて死んでしまつたのです。
またそれが長い間のかなしい海を漂ふ苦しみからはじめてマナイタが救はれたのでした。その魂は清い汚れのないものになつて天に昇つて行つたのです、アイヌ達よ、お前達は山小屋に、自分の使つた刃物や、マナイタや、そのほか何でも、置き忘れて来る様なことがあつてはいけないよ、主人を失つたこれらの品物が、どんなにひとりで淋しく山奥に暮してゐるかと云ふことを考へてやらなければいけない――からマナイタの神様は夢枕でお告げになつたのでした。酋長は夜が明けると、早速村のアイヌ達を呼び集めて、このマナイタの神様のお告げを伝へました。それからアイヌ達は山奥に自分の使つた品物を置き忘れて来るやうなことのないやうにしました。(小熊夫人書き写し)
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タマネギになつたお話
悪魔は、小さな村にやつてきました。誰にも気付かれないやうに、村はづれの一軒の百姓家の、鶏小舎の中にしのび込みました。
この小悪魔は、それはしづかに、しづかに、足音もたてないやうにしのび込んだのでした。しかし耳さとい雄鶏は、早くも小悪魔の姿をみつけたので、大きな声をはりあげました。
『さあ、みんな戸じまりをしつかりして』
と雌鶏たちに注意をいたしました。
そこで雌鶏たちは、悪い卵泥棒がしのびこんだなと思ひましたので、用心をすることにいたしました。
なかにはつむつた眼を、かはるがはる明[#「明」に「ママ」の注記]けて用心をしながら眠つてゐるものもありました。
『お前さんは、なんて人相のわるい男だらうね、耳のかつこうといつたら、俺たちのケヅメそつくりにとがつてゐるし』
雄鶏は、鶏小屋の梁の上に、眼をしよぼ、しよぼ、さしてうづくまつてゐる悪魔を仰ぎながら言ひますと、悪魔は、うるささうにじろり、と見下したきり、それには答へませんでした。鶏たちがゆだんをしてゐたら、そこからとび下りて、喰べてしまはうとしてゐたのでせう。
夜が明けました。悪魔はなかなか早起きでしたから、早起き自慢の鶏たちでさへ、彼にはかなひません。鶏たちが眼をさました頃には、もう梁の上には、その姿がありませんでした。
悪魔が、そんなに朝早くから、どこへ出かけたのか、誰も知つたものがありません、そこで鶏たちは頭をよせて、いろいろと、このあやしい梁の上の悪魔のことを話し合ひました。
『夜中に、ごそごそと音がしたね』
『僕もきいた、あれは背中をかいてゐたのだよ』
『ちがふよ、何かをといでゐるやうな、いやな音だつたけど』
『きつと、爪をといでゐたのだらう』
『みんなは悪魔がなにに化けるか注意してゐなければいけないよ、そしてもしミミヅにでも化けたら、すぐ喰べてしまふんだね』
鶏たちはこんな話をいたしました。
その翌る朝
一羽の雌鶏が、小悪魔がどこへ、まい朝出かけるのか、その後をそつとつけて見ました。
すると悪魔は、ピョン、ピョン、とはねて蛙のやうな足つきをして、村へ入りこみました。そして、一軒ごとに、百姓家の窓に、はひ上つてその窓から首をつきいれて、
『娘さん、お早う』
と娘さんたちに朝のあいさつをして歩るきまはつてゐました。
そして片つぱしから、この村の娘さんのゐる家といふ家を、のこらずあるきまはるのです。
娘さんは、窓から、ちいさな気味のわるい顔がとつぜんあらはれたので、びつくりします。
『まあ、なんて気味のわるいひとなんでせう。とつぜん顔なんか出してさ、挽臼《ひきうす》にいれて粉にしてしまひますよ』
となかには、プンプン怒る娘さんもゐました。娘さんたちは、悪魔の朝の挨拶などは少しも気にもとめず、さつさと身じたくをし、何時《いつ》ものやうに鍬を手にして畑に、働らきにでかけました。
この村に、たいへん美しくそしてまたオシャレな女の子がをりました。悪魔はその女の子の家の、高い窓にいつものやうに、ひらりと飛びあがつて、猫撫で声で、
『娘さん、お早う』
といひました。
女の子は、大きな鏡のまへで、お化粧の真最中でしたが、この声をきいて窓を見あげました。窓の上には、なかなかりつぱな八字鬚のある男が、顔を突出してをりますので、
『お早う、お入りなさいな』
といつて、につこりと笑ひました。すると悪魔は、ひらりと窓から部屋にとびをりて、ふいに娘さんの頭にとびかかり、女の子の髪の毛を、一つかみむしつて、飛ぶやうににげてしまひました。
女の子は、びつくりして、たいへん腹をたてました。
その日の夕方、小悪魔は、たいへん機げんのよい顔をして、鶏小舎へかへつてきました。なにかうれしいことがあるやうでした。その日にかぎつて、鶏たちが問ひもしないのに、悪魔は梁の上から、鶏たちにむかつて、ゆかいさうにべらべらと、しやべりました。
『けふ僕にお友達ができたので、それでこんなに機げんがいいのさ。これが、その女の子との、お友達になつた約束のしるしだよ』
小悪魔は、女の子からむしつてきた、髪の毛を、黒いリボンのやうに、とがつた耳にむすんでみたり、それを、ネクタイのやうに首にむすんでみたりしてうれしがつてゐました。
オシャレの女の子はいつものやうに、身仕度をして、麦をまくための畑に出かけなければならないのですが、ほかの娘さんたちが身なりもあまりかまはないのに、この女の子だけは、オシャレをして出かけるのでしたから、お化粧にひまがかかつて畑にでたころは、お日様も高くあがつて、お昼も間近いころでした。
それでもすぐ土を耕しにかかるのではありません。畑のまんなかに突たつて、二、三時間も、うつら、うつらと、いろいろのことを考へてゐるのです。
そのかんがへることは、麦のことでも、お薯のことでも、秋のとりいれのことでもありません、それはお化粧の事であるとか、着物の柄のこととか、またにぎやかなとほくの都のことでありました。
かうして鍬にもたれて、ぼんやりとかんがへてゐると、いつものやうに、頭がだんだんと石のやうにおもくなつてきました、そして百姓が急に嫌になりました。女の子はそばの木の切株に腰ををろしてしまひます、かうしてゐるのですから、畑は少しも耕されませんでした。
夕方になつて、百姓達は、一日の働きも終へ、そろそろと帰り支度をしました、娘さんはこれをみて、おどろいたやうに、ほんの申しわけのやうに、たつた一鍬だけ、がつくりと土に鍬を打ちこみました。
すると掘りかへされたその中から、ひよつこりと現れたものがあります。
それは女の子にとつては、にくらしい髪をむしつてにげた悪魔でした。
『さあ、わたしの髪の毛を、いますぐに返してちやうだいよ』
女の子は、たいへん大きな声をたてて、恐ろしいけんまくで、悪魔をなじりました。
『喰べてしまつた』
小悪魔は、めんぼくなささうな表情をいたしました、ほんとうは髪の毛はたべてしまつたのではありません、悪魔は、一晩のうちに、髪の毛で、チョッキを編んでしまひ、ちやんと上着のしたに着込んでゐるのでした。
悪魔は、女の子にむかつて、平あやまりにあやまつて
『あれは、お友達になつた約束にもらつたのですから』
と言ひましたが、女の子は承知をしませんでした、そこで悪魔は、
『それでは、かはりにあなたのすきなものを、なんでもさしあげますから、ゆるして下さい』
と言ひました、女の子も機嫌をなほし、さて、慾ばりらしく、あれこれと色々ともらふ物を考へてをりました。
『それでは着物を沢山にほしい』
といひました。
『たいへんおやすい御用です、着物は十枚もいりませうか』
と悪魔がたずねました、
『まあ、なんてケチなんでせう、いくら着ても、着ても、着れないほど、たくさんの着物がほしいんですよ』
といひました。
悪魔は承知して、ごそごそと土の中にもぐり込んでしまひました、女の子は、悪魔がたくさんの美しい着物をもつてくるのを、いまかいまかと、まつてをりました、しかしなかなか現れません、そのうちに女の子は地面をいつまでも見てゐることが退屈になりました。
『ことによつたら、あんな約束をしたのは嘘で、地の底に、にげてしまつたのではないだらうかしら』
女の子は、かううたがひながらも、それでもいつまでも根気よく、悪魔のでてくるのをまつてゐました。
『ああ、いやだ、いやだ、百姓がいやになつた』
かう思ひました、すると女の子の重い頭は、コロリと転げ出して、スポリと地の中にもぐり込んでしまつたのです。
その夜は、とうとう女の子が、畑から家にかへりませんでした、母親はしんぱいして、あくる朝早くに、さがしにでかけました、すると、畑のまんなかに、女の子の鍬がなげだされてあるきりで、女の子のすがたは見えません。
『あの子は、どこへ行つたのだらうね、地面の中へでもかくれたのかしら』
かう言つて母親は、鍬でそのへんの土をほりかへしてみると、土のなかからたくさんのタマネギが、ごろごろところげでました。
母親は、そのタマネギを大きな籠に、うんとこさと入れて小脇にかかへてかへりました。
『まあ、まあ、娘もたいへんしあはせになつて、こんなに沢山衣装を着こんでゐるよ』
かういつて母親は、タマネギの皮を、一枚一枚むき始めましたが、成程むいても、むいても、下着をたくさんに着込んでをりました。(自筆原稿)
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鶏のお婆さん
鶏たちは、鶏小屋の近所の野原にぞろぞろと行列をつくつてやつてきました。
野原には小さな虫がたくさん飛んでゐましたし、きれいな水の流れもありましたから、鶏たちは其処が好きでいつも遊び場所にしてゐました。
なにか不思議な事が起きたり、あやしい者の姿を発見《みつけ》ることは、雄鶏が一番上手でした、雌鶏たちの目もとゞかないやうな、遠くの方の草の中から犬の耳が二つ、ひよつこり出てゐるのでも、雄鶏はたちまち発見しました。
『悪者が居るぞ、みんな用心しろ』
と雄鶏は大きな声で叫びました、それから雄鶏は精いつぱい首を長くのばして、悪い奴がどつちの方角へ歩るきだすかを監視しました、それで雌鶏たちは雄鶏が自分達を守つてくれるので安心をして、餌を拾つたり、遊びまはつたりすることが出来たのです。
その日も、雄鶏が先頭になつて、鶏の一家族は、あちこち遊びまはりました。
野原のまんなかを流れてゐる小川に、一人の百姓の娘が、青菜を水の中でザブ/\と洗つてゐました。丁寧に一枚々々葉を洗ひ、それを藁でしばつて、一掴みほどづつの束にして、自分の傍に積みあげました。
娘は、青菜を洗ひながらも、チロリ、チロリ、と横眼で近づいてくる鶏たちの方を見るのでした。
鶏たちも、また珍らしさうに首を傾げて、一束宛積みあげる、娘さんの忙がしさうな手元をながめてゐました、鶏たちの眼には青菜の白い茎はいかにも、おいしさうに見えました。
『娘さんは、これからあの青菜を町に売りに出かけるのだよ、だから傍へよつてあれを泥足で踏んだり、喰べたりしてはならないよ』
と雄鶏はいひました。すると若い雌鶏は
『菜を洗つてしまつた後には、きつとコボした菜が沢山あるわね』
といひました、鶏たちは、娘さんが菜を洗つてしまふのを待つことにしました、そして、その附近で遊んでゐましたが、そのうち滑稽な出来事がもちあがりました。
娘さんはせつせと洗つた青菜を積みあげてそれが三角型に高くなりました、娘さんは又一つの青菜を積みあげましたが、ところが、その青菜がどうしたはづみか、コロコロと下まで転げをちたのでした。
その青菜の慌てて転げ落ちた様子といつたらそれは/\滑稽でした、鶏たちは、お腹を抱へて笑ひました。
なかでもその年の春に生れた、若い雌鶏などは、ころげまはつて笑ひました。
『わたし、こんなにお可笑しい目にあつたのは生れて始めてだわ』
といひました。
すると傍から『フン』と鼻先で、意地悪さうに、
『青つ葉が転げ落ちたくらいで、そんなにお可笑しいものかね――』
といふものがをりました、それはこの鶏たちの家族の中で、いつも意地悪を言つて嫌はれものの、一羽の雌鶏でした、この雌鶏は、もうたいへん歳をとつて、からだはヨボヨボでしたが、口は若い者に負けませんでした、そしてみんなと散歩にでても、自分から地を掘つたり、草の根を掻きわけたりして、餌を探すやうなことはなく、他の鶏の発見した餌を、横合からやつてきて奪ひとりました、また自分で餌をみつけると、羽をひろげて隠しましたので、鶏たちは誰も相手にしませんでした。
『お婆さんも、もう餌を拾ふのが、面倒になつたのだね』
と或る日、雄鶏がいつたことがありました。
『ああ、さうだよ、わしももうながいこと生きれないよ』
と婆さん鶏は、しんみりとした声でいひましたので、雄鶏もちよつと可哀さうに思ひました、しかしそのくせ婆さん鶏は、長生《ながいき》をいたしました。
百姓の娘さんは、青菜を洗つてしまひ、これを小さな手車にのせて、街の方に行きました、鶏たちはコボレた菜を仲善く拾つて喰べました、
『みんな見給へ、あんな高い処を鴉が飛んでゐる』
雄鶏がいひました、一同は空を仰ぎました。[#底本にはない「。」を補った]なるほど、鴉が一羽高い高い空に、ゆつくりと舞つてゐました、その鴉は病気のやうでもありました、なぜと言つて、それほどに鴉の舞つてゐるところは高かつたからでした。
『病気でなければ、あの鴉が気が狂つたのだらうね』
と誰やらがいひました、すると空の鴉は、急にくるくると風車のやうに、空中でもんどりを打ち、あれ、あれ、と鶏たちが声をあげて騒ぐ間もなしに、一直線に鴉は落ちました。
『たしかに落ちたね、何処へ落ちたらう、森の向うだらうか、それとも森の中へだらうか』
雄鶏はかなしさうな顔をしました、雌鶏たちも、みな不幸な鴉のために同情をして、暗い悲しい顔をして、森の方をながめました。
『鴉がおつこちた位で、そんなに悲しいかね』
と不意にいつたものがありました、それは意地悪の婆さん鶏《どり》でした。
雄鶏は、ちよつと首の毛を逆立てて、婆さん鶏を尻眼にかけながら
『さあ、さあ、みんな鶏小屋に帰りませう。』
といひ、先頭に立つて、ぷんぷん怒つて、一同を連れて小屋の方へ歩るきました。
意地悪の婆さん鶏は、一同の列の、いちばん後に、よぼよぼと尾行《つい》てきました。
小屋に入ると鶏たちは、それぞれ練餌を喰べたり、砂を浴びたり、羽の手入れをしたり、勝手なことをいたしました。
『雄鶏さん、大変ですよ、あの意地悪婆さんが、飛[#「飛」に「ママ」の注記]んでもないものを喰べて、』
一羽の鶏が、雄鶏のところに、あわてて注進にきました。
最初婆さん鶏が、鶏小屋の隅の暗いところで、ひとりで白い丸い物を、むしや、むしや、喰べてゐました、それをみつけたのは若い雌鶏達でした、そして婆さん鶏は、自分だけで喰べようと頬張つて、眼を白黒させました、そこへ若い雌鶏が、飛びついてその白い物を奪ひ取りました、それからが、小屋の中は、上を下への大騒ぎとなつて、この白い物の奪ひ合が始まつたのでした。
雄鶏もやつてきて見て驚ろきました、それは奪ひ合つてゐる白い物は、鶏卵《たまご》の殻であつたからです。
小屋の騒ぎに、鶏飼人がやつてきました。
『やあ、これは大変だ、卵を喰べる悪い癖がついたぞ』
鶏飼人は、鶏たちに卵を食はせまいとして、追つかけ廻し、以前にもました大騒ぎとなり、鶏たちは埃を舞ひあげて、柵の中を逃げ廻りました。
その騒ぎもしづまりました、夕暮がきて、鶏たちの眼も、だんだんぼんやりと見えなくなつてきました。
雄鶏は一家族の数をあらためました、十三羽ちやんと居て、一羽もはぐれてをりません、
『みんな、これから眠りませう、その前にちよつとお話をいたします。今日は神様も、我々家族をお憎みになつて、おいでだらうと思ひます、それといふのは、昼の騒ぎです、もつとも近頃は鶏飼人の不親切で、さつぱり瀬戸物を砕いたのを、我々にくれません、しかし瀬戸物がなかつたなら、私達は小砂利を拾つて喰べればよいのです、けふのやうに、鶏のくせに卵を喰べるやうなことがないやうに、私達は卵を産むのが仕事ですから』
かう一同に言ひました、若い雌鶏達は、こころから悪いことをしたと考へました。
婆さん鶏は、雄鶏をじろりと見て
『いちばん先に、卵を割つたのは、わしだよ。若い者に罪はないさ。鶏が卵を食べられないといふ規則はないからね』
と憎々しくいひました。
雄鶏は、何段にもなつてゐる棲架《とまりぎ》の、いちばん上の段に飛びあがつて元気な声で
『さあ、みんな棲架にとまつたか、子供たちは片脚で止まる練習もしなければ駄目だよ、片脚で立つて片脚を休ませ、かはるがはる疲れたらやるのだよ、卵箱の中に入つて寝るのは、弱虫か、病人だよ、元気なものは、いちばん高い棲架に止まるんだよ。』
とこまごまと注意をしました、鶏たちは、みな素直に雄鶏のいふやうに、なるべく高い横木をえらんで止まり、仲善く肩をすりあはしました。
雄鶏は、高いところから、婆さん鶏に声をかけました。
『婆さん、地べたにうづくまつて居るのは体によくないよ』
婆さん鶏は、暗い片隅の湿つた処に、汚れた羽に頭を突込んでまるくなつて眠つてゐたので、かう親切にいひました。
『わしは何処でもよいよ、元気のよいものはせいぜい高い棲架にとまるがよいさ、わしは片足をあげて眠る元気もないんだからね』
と婆さん鶏はいひました、そこで雄鶏は、地面に寝ては、夜のしめりで体を悪るくすることもあるし、殊に悪いイタチなどが、やつてくることがあるから、棲架にあがりたくなかつたら、せめて糞受板の上へでも、あがつて眠るやうにといひました。
『わしの好き勝手にさして眠らしておくれ、糞受板にあがる元気も、わしにはないんだからね、イタチに喰はれてしまへば本望だよ。』
と、なかなか強情で、棲架に止まらうとはしませんでした。
婆さん鶏は、地べたの上に、他の鶏たちは棲架の上に、棲架の上の鶏たちは、自分の羽に首をいれたり、また隣の鶏の脇の下に、首をいれさして貰つたりして、仲善くそして静かに眠りにをちいりました。
雄鶏は、高い棲架の上から下を見て、みなと一羽離れて、惨めな容子で寝てゐる、強情な婆さん鶏を憎むよりも、なにか哀れな同情の気持になりました。
*
夜が明けました、殊にからりと晴れた好天気で、鶏飼人が戸を開くと、ギラギラするやうな日光が、小屋の中にをどりこみました。
鶏たちは、大喜びで、はしやぎ、柵の中を走りまはつて、わずかの時間まるで気狂ひのやうに嬉しがつて、餌争ひをしました。
雄鶏は、吃驚りして、声をあげました。
『おい、お前たちは、何をそんなに奪ひ合つてはしやいでゐるんだ、それはお婆さんの脚ではないか』
鶏たちは、今更のやうにびつくりして、くはへてゐたものを放しました、雄鶏はそこであたりを見廻しましたが、お婆さん鶏の姿は、そのあたりには見あたりませんでした。(自筆原稿)
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※入力者補注:本文中、差別語に分類される用語が出てくるが、作者の意図と時代背景とを考慮し、そのままとした。
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底本:「新版・小熊秀雄全集第2巻」創樹社
1990(平成2)年12月15日第1刷
入力:浜野智
校正:八巻美恵
1999年3月5日公開
1999年8月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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